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第一章 診断
隔離病棟の白い壁が、蛍光灯の光を無機質に反射している。
「残念ながら、陽性です」
川瀬医師の言葉を聞いた瞬間、僕の手が震えた。三十歳。母と二人暮らし。ギグワークで細々と生計を立てている引きこもりがちな男。それが僕、高橋誠だ。
「種異変性変態症候群……SMTS」川瀬医師は淡々と続ける。「あなたの場合、遺伝子解析の結果、ハイイロギツネへの変態が予測されます。進行は比較的緩やかですが、確実に進みます」
窓の外では、秋の陽が傾き始めていた。2033年。この奇病が初めて報告されてから五年。今では世界中で数百万人が罹患している。人間が動物に変わる。身体だけでなく、精神も。
「どのくらい……時間は」
「個人差がありますが、おそらく六ヶ月から八ヶ月。最終段階まで意識は保たれますが……」川瀬医師は言葉を濁した。「精神面での変容も避けられません。ただし、人間だった頃の記憶は失われません。それが、この病気の特徴であり……残酷さでもあります」
記憶は残る。人間だったことを覚えている。しかし、人間として考えることはできなくなる。
その夜、母に電話で伝えた。電話口で母は泣いた。あの優秀な、東大卒の研究者で、いつも凛としていた母が。僕のような息子のために。
「誠……大丈夫、お母さんが付いてるから」
母の言葉が、胸に刺さった。また母に迷惑をかける。引きこもりで、ろくに働かず、社会に出られなかった僕が、今度は人間ですらなくなる。
第二章 兆候
入院から二週間。最初の変化は尾骨の違和感から始まった。
朝、目覚めると腰の奥、骨盤の最下部に鈍い疼きを感じた。筋肉痛とは違う、骨の内側から押し広げられるような感覚。触診に来た川瀬医師が僕の背中を診る。
「始まっていますね」
その言葉の意味を理解したのは、翌日の朝だった。
鏡の前で下着を下ろすと、尾骨の先端、皮膚がわずかに盛り上がっている。赤く腫れたような、まるで巨大なニキビのような突起。しかし触れると硬い。指で触れると、芯がある。骨だ。尾骨が伸び始めている。
「うっ……」
思わず声が漏れた。痛みではない。存在してはならないものが、そこにあるという違和感。異物感。それが自分の一部として育ち始めているという現実。人間には尻尾はない。それは常識だった。しかし今、僕の体は常識を裏切り始めている。
三日後、突起は明確に尾の形を取り始めた。長さは五センチほど。皮膚の色は周囲より濃く、灰色がかっている。触れると、筋肉の動きを感じる。自分の意思とは無関係に、ぴくりと動く。神経が通っている。血が流れている。生きている組織だ。
「これが……尻尾」
呟いた瞬間、それが左右に揺れた。まるで僕の言葉に反応したかのように。いや、実際に反応したのだ。感情に。
一週間。尻尾は十二センチまで伸びた。根元は太く、親指ほどの太さ。先端に向かって細くなっていく円錐形。表面には産毛のような短い毛が生え始めている。灰色と白が混じった、ハイイロギツネ特有の色合い。
座るたびに、尻尾が邪魔になる。椅子に座ろうとすると、尻尾が圧迫されて鋭い痛みが走る。痛いだけではない。屈辱感がある。人間は椅子に座る。しかし尻尾を持つ僕は、もう普通に座ることができない。仕方なく、尻尾用の穴が開いた特製のズボンを着用するようになった。
そして尻尾は動く。最初は無意識の痙攣だったものが、次第に意図的な制御が可能になっていく。嬉しいことがあると、尻尾が左右に振れる。不安なときは、足の間に挟み込む。キツネの行動パターンだ。
人間としての僕は、それを奇妙に思う。なぜ尻尾が勝手に動くのか。なぜ感情と連動するのか。制御できない。いや、制御したくない。尻尾を動かすことが、自然に感じ始めている。
しかし尻尾を持つ僕は、それが自然に感じる。まるで生まれたときから尻尾があったかのように。
この矛盾が、僕を苦しめた。
第三章 加速する変容
一ヶ月が過ぎた。
尻尾は四十センチを超え、ふさふさとした毛で覆われていた。灰色の毛並みに、白い毛先。根元は太く、中間部はやや細く、先端は再び太く毛が広がっている。まさにハイイロギツネの尾。美しい、と思った。そして、その思考に戸惑った。これは美しいのか?自分の身体の一部を、客観的に美しいと評価することの奇妙さ。
夜、ベッドの中で尻尾を撫でると、不思議な安らぎを感じる。柔らかい毛の感触。神経が伝える繊細な刺激。撫でられている感覚と、撫でている感覚が同時に存在する。これは僕の一部だ。もう異物ではない。
しかし変化は尻尾だけではなかった。
耳が尖り始めた。人間の丸みを帯びた耳介が、上方へと引き伸ばされていく。毎朝、鏡を見るたびに耳の位置が高くなり、形が変わっていく。三角形。獣の耳。そして、それに伴って聴覚が鋭敏になっていく。
廊下の向こうで交わされる看護師たちの会話が、鮮明に聞こえる。「三階の患者さん、進行が早いわね」「可哀想に、まだ若いのに」。僕のことを言っているのだろうか。気になる。いや、気にしすぎだ。でも、耳は勝手に音を拾い続ける。
顔の骨格も変わり始めた。顎が前方へ突出し、鼻が黒ずんで湿り気を帯びる。鏡を見るたびに、人間の顔が遠ざかっていく。歯が痛む。犬歯が伸び、尖っていく。臼歯の形状が変わる。肉を引き裂くための歯。骨を砕くための顎。肉食獣の口腔へと変わっていく。
手足の変化は特に苦痛だった。
指の骨が短くなり、関節の可動域が変わっていく。ペンを持つことが困難になった。スマートフォンの画面をタップすることもままならない。爪が厚く鋭くなっていく。黒く硬い爪。獣の爪。
足の構造が変わり、つま先立ちのような形状になっていく。かかとが持ち上がり、足首の位置が変わる。立つことが辛い。人間は足裏全体で立つ。しかし僕の足は、もうそれを許してくれない。四つ足の動物の後肢へと変わっていく。趾行性。つま先で立つ動物の構造。
そして体毛。
全身から灰色と白の毛が生え始めた。最初は産毛だったものが、日ごとに太く長くなっていく。腕、足、胸、背中。人間の肌が見えなくなっていく。毛皮に覆われていく。触れると、柔らかい。暖かい。自分の体温を保つための毛皮。
川瀬医師が回診に来た。
「順調に進行していますね。体重の減少も予測通り」
僕の体重は六十五キロから四十キロまで落ちていた。骨格が小さくなり、筋肉の質が変わっていく。人間の直立二足歩行用の筋肉から、四足歩行用の筋肉へ。無駄な筋肉が削ぎ落とされ、必要な筋肉が発達していく。
「先生……僕は、どこまで人間でいられますか」
川瀬医師は答えなかった。ただ僕の頭を、毛に覆われ始めた頭を、優しく撫でた。その手の感触が、妙に心地よかった。
第四章 言葉の喪失
二ヶ月目。身体の変化とともに、精神にも明確な変化が現れ始めた。
最初に気づいたのは、言葉への違和感だった。
母が面会に来た。ガラス越しに。感染のリスクがあるため、直接の接触は禁止されている。
「誠、元気?ご飯ちゃんと食べてる?最近寒くなってきたけど、大丈夫?」
母の言葉。音として聞こえる。意味も理解できる。しかし、その理解に至るまでに、以前よりも時間がかかる。脳内で、音声が言語として処理され、意味が抽出され、文脈が解釈される。このプロセスが、遅くなっている。そして、億劫だ。
「うん……食べてる。大丈夫」
短い返答。それ以上、言葉が出てこない。いや、言いたいことはある。「心配かけてごめん」「お母さん、仕事は大丈夫?」「無理しないでね」。頭の中では、そういった言葉が浮かんでいる。しかし、それを声に出すという行為が、途方もなく面倒に感じる。言葉を選び、文法を組み立て、発音器官を制御する。そのすべてが、重い。
代わりに、尻尾が揺れた。ゆっくりと、左右に。母を見て、嬉しい。会えて、嬉しい。安心する。尻尾がそれを表現している。言葉よりも直接的に。言葉よりも正直に。
母は泣いた。しかし、優しく微笑んだ。
「尻尾、動いてるわね。誠の気持ちが伝わってくるわ」
母は理解してくれている。言葉がなくても。
翌日、川瀬医師がタブレットを持ってきた。
「高橋さん、これに今の気持ちを書いてもらえますか?」
画面上のキーボードを見る。たくさんの文字。ひらがな、カタカナ、漢字、アルファベット。どれを選べばいいのか。何を書けばいいのか。
指が、もう人間の形をしていない。短くなり、肉球のような膨らみができている。画面をタップすると、意図しない文字が入力される。
「むzかshい」
打ちたかったのは「難しい」だ。しかし、指が言うことを聞かない。いくつかの文字が抜け、いくつかの文字が誤入力される。
もう一度試す。
「はなsたくない」
「話したくない」と書きたかった。しかしまた間違える。フラストレーションが募る。
「いや、違う」声に出して言う。「話せない、んじゃなくて……めんどくさい、というか」
そう、話せないわけではない。話すことが面倒なのだ。言語という高度に抽象的なシステムを使うことが、負担なのだ。
川瀬医師が頷く。
「わかります。言語中枢の機能が低下しているわけではありません。しかし、言語を使う動機、必要性が減少しているんです。あなたの脳は、言語よりも効率的なコミュニケーション手段を選び始めています」
「尻尾……ですか」
「そうです。ボディランゲージ、表情、音声の調子、匂い。これらは言語よりも原始的ですが、感情を伝えるには十分です。むしろ、言語よりも正直かもしれません」
その言葉に、妙な納得感があった。
人間は言葉で嘘をつける。本心を隠せる。しかし尻尾は嘘をつけない。嬉しければ振れる。怖ければ足の間に隠れる。怒れば毛が逆立つ。正直だ。
数日後、さらに変化が進んだ。
文字が読めなくなった。いや、正確には読めるのだが、意味を抽出することが困難になった。
病室の壁に貼られた注意書き。「面会時間:午後2時〜5時」。文字として認識できる。しかし、それが何を意味するのか、理解するのに時間がかかる。午後、2時、5時。それぞれの概念は理解できる。しかし、それらを統合して「面会できる時間帯」という情報にまとめることが、難しい。
本を読むことは、もう不可能になった。以前は一日に一冊のペースで読書をしていた。小説、エッセイ、ビジネス書。活字を追うことが、唯一の趣味だった。
しかし今、本を開いても、文字が記号にしか見えない。黒いインクの模様。それらが配列されている。しかし、意味が浮かび上がってこない。一文を読み終える前に、最初の単語を忘れている。
そして、それがそれほど苦痛ではない。読書ができないことへの喪失感はあるが、それは薄れつつある。読書の代わりに、別の楽しみを見つけ始めている。
音を聴くこと。
第五章 感覚の変容と思考の単純化
耳が完全にキツネの形になった頃、世界は音で満たされた。
人間の頃は気づかなかった、無数の音。空調システムの低いハム音。配管を流れる水の音。遠くで鳴るエレベーターの到着チャイム。廊下を歩く人々の足音。それぞれの足音が違う。看護師の軽快な足音。医師の重い足音。清掃員のゆっくりとした足音。
そして、声。
人間の声が、こんなにも情報に満ちていたとは知らなかった。言葉の意味ではない。声のトーン、強弱、リズム、呼吸。それらすべてが、話者の感情状態を伝えている。
川瀬医師の声は、いつも穏やかだ。しかし今日は、わずかに緊張している。声のピッチがやや高い。呼吸がやや速い。何か心配事があるのだろうか。
看護師の一人、若い女性の声は、疲れている。声に覇気がない。夜勤明けだろうか。
こういった情報が、言葉を理解するよりも先に、直感的に入ってくる。そして、それで十分だ。言葉の意味を解釈しなくても、相手の状態がわかる。
匂いも、劇的に変わった。
鼻が黒く湿った鼻鏡になり、嗅覚が爆発的に発達した。世界が匂いの層で構成されている。
朝の病院の匂い。消毒液のツンとした匂い。洗剤の化学的な匂い。その下に、人間の体臭。看護師たち、患者たち、清掃員たち。それぞれが異なる匂いを持っている。
川瀬医師の匂いは、石鹸と微かなコーヒーの香り。そして、独特の体臭。もう覚えた。目を閉じていても、医師が部屋に入ってきたことがわかる。
食事の匂いは、特に強烈だ。
給食室から漂う肉の匂い。焼かれた鶏肉。煮込まれた豚肉。生の魚。それぞれの匂いが明確に区別できる。そして、食欲が湧く。いや、食欲というより、本能的な衝動。肉を食べたい。血の匂いがする肉を。
病院食が運ばれてくる。焼き魚、野菜の煮物、ご飯、味噌汁。人間の食事。バランスが取れた、健康的な食事。
しかし、食欲が湧かない。
魚は調理されすぎている。匂いが死んでいる。野菜には興味がない。ご飯も、味噌汁も、どうでもいい。
ある日、川瀬医師が特別な食事を持ってきた。
「高橋さん、これを試してみてください」
金属製のトレイの上に、生の鶏肉。ピンク色の肉塊。血が滲んでいる。
匂いが鼻を突く。新鮮な肉の匂い。血の匂い。生命の匂い。
理性が言う。「これは生肉だ。人間は生肉を食べない。寄生虫のリスクがある。調理されたものを食べるべきだ」
しかし、本能が叫ぶ。「食べろ。これを食べろ。これがお前の食べ物だ」
手が伸びる。いや、もう手ではない。前足。短い指、厚い肉球、鋭い爪。それが肉を掴む。
口に運ぶ。歯で噛み切る。鋭い犬歯が肉に食い込む。臼歯が肉を引き裂く。血が口の中に広がる。鉄の味。生命の味。
美味い。
人間の頃、こんなに美味しいと感じる食事はなかった。どんな高級レストランの料理よりも、この生肉が美味い。身体が求めている。細胞が歓喜している。
夢中で食べた。肉を平らげ、血を舐めた。トレイまで舐めた。
食べ終わって、我に返る。
僕は何をしたのか。生肉を食べた。人間が生肉を食べた。いや、僕はもう人間ではない。少なくとも、身体は。
そして、精神も?
川瀬医師が記録を取っている。
「拒否反応はありませんね。むしろ、喜んで摂取しました」
僕は尻尾を振っていた。満足感。充足感。良い食事をした後の幸福感。尻尾がそれを表現している。
医師が微笑む。
「これからは、あなたに適した食事を用意します。無理に人間の食事を取る必要はありません」
その言葉に、安堵した。もう魚と野菜を食べなくていい。肉を食べられる。生肉を。
しかし同時に、恐怖も感じた。
僕は変わっている。確実に。身体だけではない。精神が、思考が、価値観が。
そして、思考そのものが変わり始めた。
複雑なことを考えられなくなった。
以前は、よく考え込んでいた。社会のこと。政治のこと。経済のこと。自分の人生のこと。将来のこと。過去のこと。哲学的な問い。存在の意味。
しかし今、そういった思考が浮かばない。いや、浮かんでもすぐに消える。抽象的な概念を保持することが難しい。
例えば「将来」という概念。
人間の頃、将来は常に不安の源だった。十年後、自分はどうなっているのか。仕事は?結婚は?母の介護は?老後の資金は?
しかし今、十年後という時間スパンが理解できない。いや、理解できるが、実感できない。遠すぎる。現実感がない。
一年後も難しい。半年後も。
今、実感できるのは、明日までだ。いや、今日だけかもしれない。
「今日の食事は何か」「今日は母が来るか」「今日は天気がいいか」
今日のこと。目の前のこと。それだけが重要だ。
過去も、同じように薄れていく。
人間だった三十年間の記憶は残っている。しかし、それらが色褪せていく。まるで古い写真のように、輪郭がぼやけ、色が褪せていく。
大学時代の記憶。友人たちの顔。講義室の風景。サークル活動。それらは確かにあった。しかし、まるで夢のように遠い。
仕事の記憶。いや、仕事と呼べるものはなかった。ギグワーク。ネットで単発の仕事を受注し、データ入力やアンケート回答で小銭を稼ぐ。それも記憶の彼方に消えつつある。
鮮明に残っているのは、感情を伴った記憶だ。
母との思い出。幼い頃、母に抱かれた温かさ。高校受験に失敗したとき、母が励ましてくれたこと。大学を中退したとき、母が怒らなかったこと。引きこもりになっても、母が見捨てなかったこと。
これらの記憶は色褪せない。感情が、記憶を保存している。
そして今、新しい感情の記憶が形成されている。
川瀬医師の優しい手。頭を撫でられる心地よさ。生肉を食べたときの充足感。母の声を聞いたときの安心感。
シンプルな感情。複雑な思考を伴わない、純粋な感情。
ある日、ふと気づいた。
僕は、幸せかもしれない。
人間の頃、幸せだっただろうか。いつも不安だった。自分は社会に適応できない。母に迷惑をかけている。このまま老いていくのか。孤独だ。
しかし今、そういった不安がない。
今日、食事がある。今日、寝る場所がある。今日、安全だ。今日、川瀬医師が来る。今日、母が来るかもしれない。
それで十分だ。
思考が単純化することは、不幸ではない。むしろ、楽だ。考えすぎることがない。悩むことがない。今を生きる。それだけ。
しかし、時折、恐怖が襲う。
これでいいのか?
人間としての尊厳は?知性は?文化は?
僕は本を読んでいた。音楽を聴いていた。映画を見ていた。芸術を理解し、美を感じ、創造性を持っていた。
それらがすべて失われつつある。
いいのか?
尻尾が揺れる。不安を感じると、尻尾が足の間に隠れる。
川瀬医師が気づく。
「高橋さん、不安ですか?」
言葉にできない。ただ頷く。
医師が椅子に座り、目線を合わせる。
「あなたが失っているものと、得ているものがあります。失っているのは、人間的な複雑性。得ているのは、動物的な純粋性。どちらが優れているということはありません。ただ、違うだけです」
「でも……僕は、僕じゃなくなる」
「あなたは高橋誠です。それは変わりません。ただ、高橋誠の在り方が変わるだけです」
その言葉を、完全には理解できなかった。しかし、医師の声のトーンから、誠実さと思いやりを感じた。それで十分だった。
尻尾が、ゆっくりと動き始めた。
第六章 アイデンティティの揺らぎ
三ヶ月目。僕は鏡を避けるようになっていた。
鏡に映るのは、もう人間ではない。ハイイロギツネ。灰色の毛皮。尖った耳。黒い鼻。黄色い目。細長い顔。そして、長い長い尻尾。
最初は尻尾だけだった。異物だった。しかし今、全身が異物だ。いや、逆だ。人間の意識を持つ僕が、この身体にとって異物なのかもしれない。
ある夜、悪夢を見た。
夢の中で、僕は人間に戻っていた。二本足で立ち、服を着て、街を歩いている。しかし、違和感がある。身体が重い。バランスが取れない。二本足で立つことが、不自然に感じる。
そして、尻尾がない。
尻尾がないことに気づいた瞬間、パニックに陥った。僕の尻尾は?尻尾がなければバランスが取れない。尻尾がなければ感情を表現できない。尻尾がなければ、僕は完全ではない。
目が覚めた。
暗い病室。ベッドの上。四本の足。そして、尻尾。
ああ、ある。尻尾がある。
安堵した。夢でよかった。人間に戻る夢が、悪夢だった。
この認識に、愕然とした。
僕は、人間に戻りたくないのか?
いや、違う。戻りたい。人間に戻りたい。母と普通に話したい。本を読みたい。映画を見たい。
しかし、同時に、この身体が心地よい。四本足で歩くことが自然だ。尻尾があることが当たり前だ。肉を食べることが美味しい。
二つの自己が、僕の中で共存している。いや、戦っている。
人間だった僕と、キツネになりつつある僕。
どちらが本当の僕なのか。
川瀬医師との会話も、変わっていった。
「こんにちは、高橋さん。今日の調子はどうですか?」
言葉が理解できる。しかし、返答を言葉で組み立てることが困難だ。代わりに、鳴いた。
「クーン」
甘えた声。調子がいいことを示す声。医師に会えて嬉しいという感情を含む声。
医師は微笑んで、僕の頭を撫でた。
「言葉じゃなくても大丈夫ですよ。あなたの気持ちは伝わっています」
その手の感触が、心地よい。頭を撫でられることが、こんなにも気持ちいいとは。人間の頃は、頭を撫でられることなど恥ずかしかった。大人が頭を撫でられるなんて、子供扱いされているようで嫌だった。
しかし今は違う。撫でられたい。認められたい。愛されたい。
尻尾が大きく振れた。
医師が何か記録している。僕は医師の足元で座り、次の撫でを待っている。もっと撫でてほしい。
ああ、僕は犬のようだ。いや、キツネだ。でも、飼い慣らされた動物のように振る舞っている。
プライドは?
人間のプライドは、どこに行った?
しかし、撫でられることの心地よさが、プライドよりも勝る。
これが、精神の変容だ。
価値観の転換。優先順位の変化。人間としての尊厳よりも、動物としての本能。
恐ろしい。
しかし、同時に、楽だ。
母の面会が、さらに難しくなった。
「誠、聞こえてる?お母さんよ」
母の声。わかる。母だ。大切な人。愛している人。
しかし、返答ができない。言葉が出ない。喉の構造が変わり、人間の言語音を発することが物理的に不可能になりつつある。
代わりに、鳴いた。
「キャン、キャン」
母に会えて嬉しい。そう伝えようとした。しかし、母には通じただろうか。
母の目に涙。
「誠……お母さんにはわかるわ。嬉しいのね。お母さんも嬉しい」
わかってくれた。母は、いつもわかってくれる。
ガラスに前足をかけた。母に触れたい。抱きしめられたい。しかし、ガラスが邪魔をする。
母も手をガラスに当てた。僕の前足と、母の手が、ガラス越しに重なる。
温かさは伝わらない。しかし、心は通じている。
母が話し続ける。
「誠、お母さんね、いろいろ調べたの。SMTSのこと。変態した人たちの、その後のこと」
僕は耳を立てて聞く。母の声に集中する。言葉の意味を、必死に理解しようとする。
「完全に変態した後も、記憶は残るんですって。人間だったことを覚えているの。だから、誠は誠のまま。お母さんのことも覚えていてくれる」
嬉しい。忘れない。母のことは絶対に忘れない。
「そして、専用の施設ができているの。変態した人たちが安全に暮らせる場所。家族も一緒にいられる場所。お母さん、そこで働けないか聞いてみたの」
母が、僕のために?
「誠の近くにいたい。変わってしまっても、誠は誠。お母さんの大切な息子。ずっと一緒にいたい」
涙が出た。
キツネは泣けるのだろうか。わからない。でも、目が潤んだ。
尻尾が激しく振れた。感情が溢れている。嬉しい、ありがたい、申し訳ない、愛している。言葉にできないすべての感情が、尻尾の動きに現れている。
母が微笑んだ。泣きながら、笑った。
「その尻尾、雄弁ね。誠の気持ちが全部伝わってくるわ」
僕は吠えた。
「アオーン」
長く、高く。感謝の声。愛の声。
人間の言葉では伝えられない。しかし、この声で伝わる。母に伝わる。
それで十分だ。
第七章 新しい繋がり
三ヶ月半。病院の特別区画に移された。
SMTS患者専用の施設。広い空間。自然光が入る大きな窓。
床は柔らかい素材で覆われている。そして、他の患者たち。
犬になった青年。茶色の毛並みの柴犬。尻尾を振りながら僕に近づいてくる。匂いを嗅ぎ合う。挨拶だ。彼の匂いから、友好的な意図を感じる。
猫になった女性。三毛猫。窓辺で日向ぼっこをしている。僕が近づくと、目を細めて鳴いた。「ニャー」。拒絶ではない。認識だ。
ウサギになった少女。白い毛並み。大きな耳。怯えた様子で隅にいる。まだ変態が完了して間もないのだろう。僕は距離を保つ。怖がらせたくない。
そして、ハイイロギツネ。僕と同じ。
二匹いた。
一匹は若い女性だった。変態前は大学生だったと、付き添いの職員が言っていた。もう言葉は話せないが、目に知性の光が残っている。人間だったことを覚えている目。
彼女が僕に近づいてきた。尻尾を高く上げて。これは好奇心の表れ。警戒していない証拠。
鼻を鳴らし、匂いを嗅ぐ。僕の匂いを確認している。僕も彼女の匂いを嗅ぐ。雌のキツネの匂い。そして、その下に、シャンプーの匂い。人間の世界の匂い。
彼女も、人間だった。今もその記憶を持っている。
僕たちは見つめ合った。
言葉はない。しかし、理解し合った気がした。同じ境遇。同じ喪失。同じ受容。
彼女が鳴いた。「クーン」。僕も鳴いた。「クーン」。
仲間だ。
もう一匹のキツネは、中年の男性だった。変態がかなり進行している。ほとんど完全にキツネだ。人間の意識がどれだけ残っているか、わからない。
しかし、目が合うと、何かを伝えようとする意思を感じた。
彼が尻尾を振った。僕も尻尾を振った。
それだけで、何かが通じた気がした。
僕たちは一緒に過ごすようになった。
柴犬の青年、名前は健太だったらしい、が遊びに誘ってきた。ボールを咥えて、僕の前に落とす。遊ぼう、という意味だ。
僕はボールを拾った。咥えて、走った。健太が追いかけてくる。速い。犬は速い。
僕は急カーブを切った。尻尾がバランスを取る。健太を振り切った。得意気に尻尾を振る。
健太が吠えた。「ワン、ワン」。もう一回、という意味だろう。
僕もボールを投げた。いや、投げられない。手がないから。代わりに、口で咥えて、首を振って飛ばした。
健太が追いかける。取ってくる。また遊ぶ。
楽しい。
人間の頃、こんなに純粋に遊んだことがあっただろうか。ゲームはしていた。ネットサーフィンもしていた。しかし、身体を動かして、誰かと一緒に、笑いながら遊ぶこと。いつ以来だろう。
三毛猫の女性、恵子だったらしい、は僕の尻尾に興味を示した。
僕が休んでいると、そっと近づいてきて、尻尾にちょっかいを出す。ぽんぽんと叩く。
くすぐったい。僕は尻尾を動かした。恵子が追いかける。猫の本能だ。動くものを追いかける。
僕は尻尾を左右に振った。恵子が飛びついた。捕まえた。満足そうに鳴く。「ニャー」。
僕も鳴いた。「キャン」。遊んでくれてありがとう、という気持ち。
恵子が喉を鳴らした。ゴロゴロという音。猫の幸福の音。
一緒にいると、安心する。
白ウサギの少女、さくらちゃんは、次第に僕たちに慣れてきた。
最初は怯えていた。変態したばかりで、混乱していたのだろう。しかし、誰も攻撃しないことを理解すると、少しずつ距離を縮めてきた。
ある日、さくらちゃんが僕に近づいてきた。鼻をひくひくさせて、匂いを嗅ぐ。
僕は動かなかった。怖がらせないように。
さくらちゃんが、僕の横に座った。小さな体を僕の体に寄せてくる。
暖かい。柔らかい。
僕は尻尾をさくらちゃんに掛けた。毛布のように。
さくらちゃんが目を閉じた。安心している。
守ってあげたい。そう思った。本能的に。
人間の頃、誰かを守りたいと思ったことがあっただろうか。自分のことで精一杯だった。でも今、この小さなウサギを守りたい。
それは人間の感情か、キツネの本能か。もうわからない。でも、どちらでもいい。
大切な仲間だ。
女性のキツネ、名前は美咲だったと知った。職員が呼んでいるのを聞いて。
美咲と僕は、よく一緒にいるようになった。
同じ種だからか、理解し合いやすい。彼女の尻尾の動きが何を意味するか、直感的にわかる。僕の鳴き声も、彼女には通じる。
ある日、美咲が何かを見つけた。窓の外。鳥だ。
美咲が窓に駆け寄った。前足を窓に掛けて、外を見る。尻尾が興奮で震えている。
僕も駆け寄った。二匹で窓の外を見る。
小さな鳥が、木の枝に止まっている。スズメだろうか。
美咲が小さく鳴いた。「クンクン」。捕まえたい、という気持ちが伝わってくる。
僕も同じ気持ちだった。あの鳥を追いかけたい。捕まえたい。狩りたい。
本能だ。肉食獣の本能。
しかし、窓は閉まっている。外には出られない。
美咲が僕を見た。残念そうな目。
僕も美咲を見た。わかる、その気持ち。
僕たちは見つめ合って、そして、諦めて窓から離れた。
代わりに、じゃれ合って遊んだ。互いの尻尾を追いかけっこした。くるくると回った。転がった。笑った。いや、笑えない。でも、楽しい。
この感覚を何と呼ぶのか、もう言葉では説明できない。でも、心が満たされている。
人間の頃、友人は少なかった。いや、ほとんどいなかった。引きこもりで、人と会うことを避けていた。
でも今、仲間がいる。美咲、健太、恵子、さくらちゃん、そして中年のキツネ。
言葉は通じない。しかし、心は通じる。
これが、友情だろうか。いや、友情以上かもしれない。群れだ。家族だ。
人間の社会では得られなかった、帰属感。
ここに、居場所がある。
第八章 四つ足の自由
四ヶ月目。僕はもう、人間の姿をほとんど留めていなかった。
鏡はもう怖くない。映るのは、ハイイロギツネ。それが僕だ。受け入れた。
灰色と白の毛皮。尖った耳。黒い鼻。黄色い目。細長い顔。そして、ふさふさとした長い尻尾。
尻尾は体長とほぼ同じ長さまで成長していた。七十センチ以上。毛量も増え、まるで羽のように豊かだ。触れると柔らかく、しかし力強い。筋肉が通っている。神経が張り巡らされている。完全に僕の一部だ。
走るとき、尻尾が舵の役割を果たす。曲がるとき、尻尾が遠心力を相殺する。ジャンプするとき、尻尾がバランスを取る。座るとき、尻尾を巻きつけて暖を取る。眠るとき、尻尾を顔に掛けて安心する。
尻尾なしの生活など、もう想像できない。
もう二本足で立つことはできない。骨格が完全に四足歩行用に変わってしまった。
最初は抵抗があった。人間は二本足で立つ。それが誇りだった。直立二足歩行。それが人間を他の動物から区別する特徴の一つだった。
しかし、重力に逆らって立ち続けることが苦痛になり、ある日、自然と四つ足で歩き始めた。
楽だった。
地面に四肢をつけ、身体を低くして歩く。安定している。疲れない。速く走れる。これが自然だ。僕の身体が、そう訴えている。
最初の数歩は、ぎこちなかった。手足の動きを意識して、前足、後足、前足、後足。
しかし、すぐに慣れた。いや、慣れたというより、思い出した。この身体が知っている。遺伝子が知っている。キツネの歩き方を。
今では、無意識に四足で歩く。走る。跳ねる。
施設の外庭に出された日のことは、忘れられない。
扉が開いた。外の空気が流れ込んだ。
草の匂い。土の匂い。木の匂い。太陽の匂い。空の匂い。
五感が歓喜した。
僕は走り出した。四本の足で、全力で走った。
風を切る。尻尾がバランスを取る。筋肉が躍動する。心臓が高鳴る。
生きている。
これが生きるということ。
草の上を駆け、土の感触を足裏に感じ、風を顔に受ける。
人間だった頃、部屋に引きこもり、画面を見つめ、世界から隔絶されていた。外に出ることが怖かった。人と会うことが苦痛だった。太陽の下を歩くことさえ、億劫だった。
孤独だった。不安だった。生きている実感がなかった。
でも今、僕は生きている。
全身で生を感じている。
美咲も外庭に出てきた。彼女も走った。僕たちは追いかけっこをした。
美咲が先を走る。僕が追いかける。美咲の尻尾が風になびく。美しい。
僕は全速力で走った。美咲に追いつく。並走する。目が合う。彼女の目が輝いている。楽しそうだ。
僕も楽しい。
こんなに楽しいことがあるなんて。こんなに幸せな瞬間があるなんて。
人間の頃、幸せだっただろうか。
いや、幸せの形が違うのだ。
人間の幸せは複雑だった。達成感、承認欲求、社会的地位、経済的安定。
でも今、僕の幸せはシンプルだ。
走ること。食べること。眠ること。仲間といること。母に会うこと。太陽を浴びること。
それだけで、満たされている。
第九章 本能と記憶の間で
四ヶ月半。言語能力はほぼ完全に失われた。
川瀬医師が話しかけてくる。言葉の音は聞こえる。しかし、意味を抽出することが困難だ。単語がわかる。「高橋さん」「今日」「調子」「どう」。しかし、それらを文として統合できない。
代わりに、医師の声のトーン、表情、身振りから意味を読み取る。
優しい声。穏やかな表情。リラックスした姿勢。
医師は心配していない。大丈夫だと言っている。
それで十分だ。
僕は鳴いた。「クーン」。大丈夫だよ、と伝えるために。
医師が微笑んで、頭を撫でてくれた。
この瞬間が幸せだ。
しかし、記憶は残っている。
夜、眠る前、ぼんやりと過去を思い出す。
母との思い出。幼い頃、公園で遊んだこと。小学生の頃、一緒に料理をしたこと。中学生の頃、反抗期で喧嘩したこと。高校生の頃、進路に悩んだこと。
大学を中退したとき、母はひどく失望しただろう。しかし、責めなかった。「あなたの人生だから」と言ってくれた。
引きこもりになったとき、母は何度も「大丈夫よ」と言ってくれた。「焦らなくていいから」と。
でも、僕は焦っていた。三十歳でまともな職歴なし。社会経験もなし。友人もいない。将来の展望もない。
母に申し訳なかった。優秀な母の息子なのに、こんな情けない人間で。
でも今、その悩みはない。
将来を考えることができない。社会的地位を気にすることもない。
ただ、母を愛している。その感情だけが、鮮明に残っている。
母は今も面会に来る。毎日。
ガラス越しに話しかけてくれる。言葉の意味は完全には理解できない。でも、母の声を聞くと安心する。母の顔を見ると嬉しい。
僕は尻尾を振る。ガラスに前足をかけて、できるだけ近づく。
母も手をガラスに当てる。
「誠、元気そうね。毛並みがきれいよ」
褒められている。わかる。嬉しい。尻尾がさらに激しく振れる。
「お母さんね、来月からこの施設で働くことになったの。毎日誠に会えるわ」
毎日。母と。会える。
理解できたかどうかわからない。でも、母の声の嬉しそうな調子から、良いニュースだとわかる。
僕は吠えた。「アオーン」。嬉しい。ありがとう。愛してる。
母が泣いた。でも、笑っていた。
「ありがとう、誠。お母さんも愛してるわ」
第十章 完全な変態、そして新しい生
五ヶ月目。変態はほぼ完了した。
体重は三キロ。体長は五十センチ。尻尾の長さは四十五センチ。完全なハイイロギツネの身体。
知能も、ハイイロギツネのレベルまで低下した。
複雑な思考はできない。抽象的な概念は理解できない。文字も読めない。数も数えられない。
でも、記憶は残っている。
僕は誠だった。人間だった。母と暮らしていた。引きこもりだった。SMTSに罹患した。変態した。
その記憶は、まるで遠い夢のように、頭の片隅にある。はっきりとは思い出せない詳細もある。でも、感情は鮮明だ。
母への愛。仲間への親しみ。川瀬医師への信頼。
川瀬医師が部屋に入ってくると、僕は尻尾を振って駆け寄る。医師は僕を撫でてくれる。頭を、背中を、そして尻尾を。気持ちいい。安心する。
母が面会に来ると、ガラスに前足をかけて、できるだけ近づこうとする。いや、もうガラスはない。
母が施設で働き始めてから、直接会えるようになった。
初めて母に触れたとき、涙が出た。キツネも泣けるのだ。
母が僕を抱きしめた。「誠……」
母の匂い。母の暖かさ。母の声。
幸せだった。
こんなに幸せでいいのだろうか。人間でなくなったのに。言葉も話せないのに。でも、幸せだ。
母が毎日来る。一緒に過ごす。僕を撫でる。話しかけてくれる。
言葉の意味は完全には理解できない。でも、愛は伝わる。
他の変態患者たちとの関係も、深まった。
健太、恵子、さくらちゃん、美咲、中年のキツネ。
僕たちは種を超えた家族だ。人間だった記憶を共有する、特別な家族。
ある日、施設のスタッフが特別なイベントを企画した。
患者とその家族、保護者が一緒に過ごす日。
広い外庭に、みんなが集まった。
健太の母親が来た。息子を見て、泣いた。でも、すぐに笑顔になった。健太に抱きついた。健太は尻尾を激しく振った。舌を出して、母親の顔を舐めた。
恵子の父親が来た。娘を撫でた。恵子は喉を鳴らした。ゴロゴロという幸せな音。
さくらちゃんの兄が来た。妹を優しく抱き上げた。さくらちゃんは兄の腕の中で安心した様子だった。
美咲の両親が来た。娘を見て、複雑な表情を浮かべた。でも、美咲が駆け寄ると、両親は笑顔になった。美咲は両親の間で尻尾を振った。
そして、母が僕のところに来た。
「誠、みんなに会ったの?仲良くやってる?」
僕は鳴いた。「キャン」。仲良くやってるよ。友達がいるよ。幸せだよ。
母が僕を抱きしめた。「よかった……本当によかった」
周りを見渡すと、他の家族たちも、変態した家族を受け入れている。抱きしめている。撫でている。話しかけている。
愛が、そこにあった。
形が変わっても、種が変わっても、愛は変わらない。
川瀬医師が遠くから見守っている。微笑んでいる。
医師が僕のところに来た。
「高橋さん、いや、誠くん。幸せそうですね」
僕は尻尾を振った。
「あなたたちは、新しい形の存在です。人間でもなく、動物でもない。両方の要素を持つ、特別な存在。そして、それは悲劇ではありません。新しい可能性です」
医師の言葉。完全には理解できない。でも、肯定的な何かを感じる。
医師が僕の頭を撫でた。
「これからも、支えますよ。あなたも、お母さんも、みんなも」
ありがとう。そう伝えたかった。でも、言葉にできない。
代わりに、医師の手を舐めた。
医師が笑った。
川瀬医師が記録を取っている。
「SMTS患者は、変態後も人間だった頃の記憶と、ある程度の感情を保持します。彼らは野生動物ではありません。人間の心を持った動物です。そして、多くの場合、人間だった頃よりも幸福度が高いことが報告されています」
僕は医師の足元で丸くなり、尻尾を体に巻きつけている。暖かい。安心する。
医師が続ける。
「なぜでしょうか。おそらく、人間社会の複雑さ、ストレス、プレッシャーから解放されるからです。シンプルな欲求。食べる、眠る、遊ぶ、愛される。それだけで満たされる。人間は、複雑すぎたのかもしれません」
その言葉が、なぜかわかった気がした。
人間は、考えすぎる。悩みすぎる。求めすぎる。
でも今、僕はシンプルだ。
そして、幸せだ。
母が面会に来た。今日も。いや、もう面会ではない。母はここで働いている。毎日会える。
「誠、今日もいい子にしてた?」
僕は尻尾を振る。母が笑う。
「お母さんね、思うの。誠は今、本当の自分になれたんじゃないかって」
本当の自分?
母の言葉に、何か深い真実を感じた。
人間の頃、僕は自分を偽っていた。社会に合わせようとして、でもできなくて、苦しんでいた。
でも今、偽る必要がない。
キツネとして、誠として、ただ在る。それでいい。
母が僕を抱きしめた。
「ありがとう、誠。お母さんに、大切なことを教えてくれて」
僕は母の腕の中で、鳴いた。「クーン」。
愛してる。ありがとう。
言葉にできない。でも、伝わっている。
母の目に涙。でも、悲しい涙じゃない。
僕の尻尾が大きく揺れる。
エピローグ
六ヶ月目。僕は完全にハイイロギツネになった。
外見も、中身も。
でも、僕は誠だ。高橋誠。人間だった僕の記憶は、消えない。
施設での生活は、ルーチンになった。
朝、目覚める。朝食。生肉。美味しい。
母が来る。撫でてくれる。話しかけてくれる。幸せ。
仲間と遊ぶ。健太、恵子、さくらちゃん、美咲。楽しい。
昼食。また肉。満足。
昼寝。日向で。暖かい。
母がまた来る。一緒に散歩。外庭を歩く。母の横を歩く。
夕食。肉。そして、たまに母が特別なものを持ってくる。以前好きだった食べ物。もう味はわからない。でも、母の愛は感じる。
夜、眠る。美咲と一緒に。寄り添って。尻尾を絡めて。暖かい。安心。
シンプルな生活。でも、満たされている。
日が暮れる。施設の窓から外を眺める。赤く染まる空。沈んでいく太陽。
僕の尻尾が、ゆっくりと左右に揺れる。
美しい。平和だ。幸せだ。
美咲が隣に来た。一緒に夕日を見る。
二匹のキツネ。かつては人間だった。今はキツネ。でも、記憶は残っている。
美咲が僕に寄り添う。僕も美咲に寄り添う。
言葉はない。でも、理解し合っている。
生きている。それだけで素晴らしい。
母が遠くから僕を見ている。微笑んでいる。
手を振った。僕に向かって。
僕は尻尾を振った。母に向かって。
ありがとう、お母さん。
生んでくれて。育ててくれて。愛してくれて。見捨てないでくれて。
今も、これからも。
人間じゃなくなっても、僕は誠。
母の息子。
そして、幸せなハイイロギツネ。
尻尾が大きく揺れる。
生きている。
愛されている。
それで十分だ。
【終】
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