BAT07基地、地下2階Eブロック、武道場にて。
全身に防具を身に着けた2人の獣人が、各々得意とする武器を手に試合を行っていた。
「しっ!」
犬獣人の瀞が、踏み込んで竹刀をなぎ払う。
「ふっ!」
猿獣人の志龍は後退して避け、手にしていた棍を振り上げる。
瀞はサイトステップで躱し、竹刀を振り下ろす。
志龍は棍の中心部を持ち、踏み込んで竹刀を防御し、瀞の胴に蹴りを打ち込んだ。防御してから攻撃に転じるまでが速い。
「ぐっ!」
たまらず後退した瀞。志龍は追いかけ、右足を踏み出した。
(右端で打ち込む気か!)
左側頭部への一撃を警戒し、瀞は竹刀を構える。
だが、志龍は棍の左端を瀞の右側頭部へ打ち込んだ。
踏み出した右足はフェイント。そう気づいた時、既に棍は瀞の頭部に直撃していた。防具を付けているとは言え、強い衝撃が脳を揺らし、瀞は尻もちをついた。
「っしゃ!俺の勝ち!」
志龍は拳を振り上げ、勝利を宣言する。
「くっそぉ」
瀞はその姿を、恨めしい気持ちで見上げた。
試合の後、防具を脱いだ二人は武道場の隅で座り込み、休息を取りつつ試合内容を振り返った。
「昨日は、懐に飛び込んで勝てたのにな」
瀞は麦茶で喉を潤し、悔しそうに言う。
「同じ手は食わねぇよ」
志龍は得意げに笑う。
昨日の試合では、瀞は棍を手にした志龍の懐に飛び込み、胴に一撃を入れて勝利した。長い棍は、密着すれば小回りが利かず刀が有利となる。
そこで、今日の志龍は棍の中間を持ち、両端を攻撃に使うスタイルで戦った。間合いは狭まるも小回りが利き、密着してきた瀞の攻撃を上手く防ぐことができ、反撃の一閃を決めて見事勝利を得た。
「あんな戦い方もあるんだな」
「まぁな。人の骨格をしたキメラが、棒状の道具を使ってきたこともあるみたいだし」
「色んな戦法に、対応できるようにならないとな」
「ああ。でないと、実戦には出られねえ」
2人はまだ実戦に出ていない。部隊に入るための訓練生という立場である。
今日も過酷な訓練を終えて疲労が溜まっているが、向上心が強い2人は夕食後もトレーニングをすることが日課になっていた。
「それにしても、今日の樹海の訓練、死ぬほどきつかったな」
今日の訓練を振り返り、瀞は呟いた。
装備品を背負い、銃器と刀剣を持ち、目的地を地図で確認しつつ樹海の中を走り続けた。道中では、森に潜んだ機動隊による激しい攻撃が襲い掛かってきた。訓練用のゴム弾、催涙弾、閃光弾。さらには落とし穴などの罠なども加わり、行軍は熾烈を極めた。しかも途中から豪雨にも襲われ、においによる索敵も出来ず、二人は心身ともに追い詰められていった。無事に目的地にたどり着けたのは、志龍が正確に地図を読むことができたからだ。
「あんなに追い詰めなくてもいいのに。訓練で死ぬかと思ったわ」
「でも必要な訓練だろ。キメラと森の中で戦ってて、味方とはぐれて孤立する可能性だってある。そういう状況では、今日の訓練が役立つ」
同意を求めた瀞だったが、志龍は自身の意見を述べた。
「実戦では、俺たちが想像もできないような地獄を味わうことになると思う。だから、訓練で同じレベルの地獄を味わってないと、耐えられないだろうな。訓練の内容はともかく、死ぬほどきつい状況ってのを、今のうちにたくさん味わってないと」
「そう、か」
志龍は“やる意味”を考えて訓練をやっている。一方自分は、言われたからやっているだけだ。
(俺と同い年なのに、すげえ)
瀞は自分を恥じつつ、志龍の横顔を見た。その真剣な目つきは、将来をしっかりと見据えているような気がした。
「腹減ったし、風呂入って夜食にしようぜ。施設利用届は、俺が書いておく」
志龍は立ち上がり、ロッカールームへ歩きながら言った。
訓練時間終了後に訓練棟を利用する際は、利用届を提出しなければならない。利用者の名前と、施設の利用時間を書くだけの簡素なものだ。
「ちょっと待て!」
瀞は志龍の左腕を掴んで止めた。
「何だよ」
「お前なぁ。また俺の名前で、変なこと書くつもりだろ!この前すっげえ笑われたんだからな!」
「は?何言ってんだ?」
けげんな表情の志龍に、瀞は怒りの言葉をぶつけた。
「この前、お前が提出した利用届、提出者の名前が俺の名前になってたぞ!しかも備考欄に、ふざけたこと書いてたじゃねえか!」
「ふざけたって?」
「うんこしました、臭かったです、って書いてたじゃねえか!ご丁寧に、うんこと、それに集るハエと湯気の絵まで書いて!あの日は受付の人が優しい人だったから良かったけど、もし怖い教官とかがあれを見てたら、俺は死ぬほど説教されてたんだぞ!」
志龍は、にやぁ、と笑った。人を子馬鹿にするいたずらっ子のような笑顔だ。先ほどの真剣な表情とは、似ても似つかない。
「受付の人が、優しい人だから書いたんだよ」
「どのみち俺が恥かいたじゃねえか!志龍が書いたって説明したけど、もしかしたら、信じてねえかも。俺が書いたって勘違いし続けてるかもしれねえし」
「大丈夫だって、訓練がきつすぎて瀞の頭がちょっとおかしくなったって思われただけだ」
「ふざけんな。一緒に説明に行くぞ。ちゃんと俺がやりました、って言え」
「えぇ、だりい」
志龍は麦茶が入ったボトルを瀞に投げた。
「ぶっ」
ボトルが鼻先に当たり、瀞の力が緩む。その隙に、志龍は瀞の腕を払い、駆け出した。
「あ!てめ!待てや!」
瀞は志龍のボトルを拾い、投げつけた。それは一直線に志龍へ向かう。
「ほわちゃあ!」
志龍は振り返りつつ回し蹴りを放つ。獣人の蹴りが直撃したボトルは、中身をぶちまけつつ粉々になる。
迎撃の成功に喜ぶ志龍だったが。
「おごっ!」
腹部に、別のボトルが直撃した。瀞が持っていたボトルだ。防がれることを見越して、瀞は即座に第二の矢を放っていたのだ。
「ざまぁみろ!」
「ぐぐ・・・・・・あたぁ!」
笑う瀞に、志龍はボトルを投げ返した。
さほど早くない。瀞は難なく避けた。
「あちゃあ!」
回避に成功した瀞の目の前に、志龍が迫っていた。ボトルを投げると同時に、瀞へ向かって走っていたのだ。
「ぐっ!」
ボトルを避けた瀞の胸に、志龍の掌底が突き刺さる。
「組手しようぜ。負けた方が、あの書類を書いた奴ってことで」
「分かった」
2人は再び防具を身に着けず、グローブだけを嵌め、戦い始めた。
実戦へ出る日を夢見る2人の獣人は、過酷な訓練に耐え、時に年相応にはしゃぎ、互いに切磋琢磨して心身ともに成長していった。
*************
そして今、それぞれが異なる部隊に配属された2人が、同じ戦場で戦っていた。
「しっ!」
長さを活かし、志龍は遠い間合いから棍をなぎ払う。
バルバトスは巧みに避け、懐に入る機会を伺っていた。
「だっ!」
側面から、刀を拾った瀞が斬りかかる。上段から振り下ろされた一撃を、バルバトスは大きく後退して躱す。
バルバトスはあまり反撃せず、回避を主軸に戦っている。瀞と志龍はバルバトスを逃がさないよう、極力取り囲むよう動いていた。
(絶対に逃がさねえ)
バルバトスは、この場から離脱するように動いている。それを察知した瀞は、させまいと間合いを詰める。
(森に逃げられると厄介だ。他のバルバトスやバールたちと合流されると、逆にこっちが追い込まれる。ここで仕留めないと)
数か月ぶりの再会だが、瀞と志龍は息があった連携でバルバトスを追い詰めた。
「ふっ!」
志龍の突きを避け、バルバトスが後退する。その背中がアパートの壁にぶつかった。
(よし!)
瀞と志龍がバルバトスに迫る。バルバトスはナイフを手に、迎撃の体勢を取った。
「ん!?」
獣のにおいを察知した瀞が顔を上げる。アパートの屋根の上に、バールがいた。
『キィィィ!!』
金切声とともに、バールが屋根から跳びかかってきた。志龍へと向かっていく。
志龍がバールから逃れるため後退する。その隙に、バルバトスは全速力で逃げ出した。
「そいつは頼む!」
瀞はそう言い、バルバトスを追った。
バルバトスは民家と民家の間に逃げ込む。瀞は迷わず追いかけた。
「うっ!」
その時、足に違和感が走る。間違いなく、何かが引っかかった。
(ワイヤートラップ!)
ここは準備が整えられた逃走経路だ。そう気づいた瀞は後方に飛び退く。しかし、既に閃光手榴弾の安全ピンは外れていた。機動隊から盗んだものだ。
爆音と閃光が瀞を襲う。聴覚と視覚、嗅覚を奪われた瀞はその場から逃げた。
(落ち着け!すぐに回復する!それまで耐えろ!)
自身にそう言い聞かせた、直後。瀞は前方に気配を感じた。五感ではなく、第六感が敵の存在を感知した。
(やっべえ!逃げると見せかけて、攻めて来やがった!!)
まだ視界は戻っていないが、瀞は刀を振り上げた。
手ごたえは無い。
「いっ!!」
視界が戻るのと、右の首筋に痛みが走るのは同時だった。
(いてえ・・・・・・)
右を向く。少し離れた場所にバルバトスがいた。手にしたナイフの切っ先は赤い。
左手で首の右側を触る。ぬるりと湿った感触が。
(首、切られたのか?どれくらい深く?血はどれくらい出てる?頸動脈やられた?)
瀞はその場に座り込んでしまった。
重症を負ったことで、恐怖に襲われる。自分が死ぬのではないかという恐怖に。初陣でも傷を負ったが、これほどの恐怖は味わわなかった。
バルバトスが、歩いてくる。
瀞は、どうすべきかを考えた。
治療?逃走?迎撃?
しかし恐怖で思考がまとまらない。
戦意を増幅させた怒りも、死の恐怖には勝てない。
(助けて・・・・・・)
瀞は助けを求めた。最も近くにいる、頼れる存在に。
(志龍・・・・・・)
親友のことを考えることで、親友と過ごした過去の思い出が蘇った。
*************
「いってぇ」
訓練を終え、夕食中のことだった。瀞は左腕の痛みに耐えつつ食事をせねばならなかった。
「大丈夫か?」
向かいに座る志龍が聞く。
「大丈夫だけど、いてえ」
瀞は左腕のギプスを擦った。樹海での訓練中、高所から落下した際に左腕を岩で強打してしまい、骨にひびが入ってしまったのだ。
「まさか骨折してるとはな」
「ひびが入っただけだろ」
「それも骨折だろ。ここまで過酷な訓練やらなきゃいけないとはな」
「そりゃそうだろ。キメラっていう化け物と戦うんだから。戦闘中、骨折することもあるだろ。それでも俺たちは、戦わないといけないんだぜ」
「まぁ、そうだけど」
「骨が折れた、戦いは止めようって言っても、キメラは襲って来るぞ」
「分かってるよ」
「怪我しても戦えるくらい、心も体も強くならねえと」
瀞は志龍の両腕を見た。骨折はしていないが、切り傷だらけだ。痛みを訴え続けることが恥ずかしくなって、瀞は文句を言うことを止めた。
*************
(志龍にかっこ悪い姿は、見せられないな)
友と過ごした一時を思い出した瀞は、刀を握る手に力を込めた。
動かせる。そう判断した瀞は、立ち上がりつつ太刀を振り上げた。
『ギッ!』
力のない一振りだったが、バルバトスは反撃を想定しておらず、切っ先が顔を掠める。
バルバトスは顔を覆い、後退する。瀞は追撃を入れようと、上段の構えを取る。
だが、一瞬早くバルバトスの蹴りが打ち込まれ、瀞は仰向けに倒れる。バルバトスは瀞に馬乗り、ナイフを振り上げた。
「だっ!!」
そこへ、駆け付けた志龍の突きが打ち込まれる。棍の先端は、バルバトスの頭部に命中した。
バルバトスは吹き飛び、後転して起き上がる。
志龍は遠い間合いから、何度も突きを打ち込んだ。頭部、胸部、腹部、さらには脚部にも強烈な一撃が当たり、バルバトスは後退していく。
「しっ!」
防御しようとしたバルバトスの右手にも突きが入る。衝撃で、バルバトスはナイフを落とした。
「しゃっ!」
志龍が棍をなぎ払う。遠心力が乗った先端に頭部を叩かれ、バルバトスは跪いた。
崩れ落ちたバルバトスに棍を向けた志龍は、とどめの突きを打つ。突きは腹部に命中し、深々とめり込み内臓を破壊する。バルバトスの口から、赤黒い血が流れ出た。
だが。
『ギィ!』
バルバトスは棍を掴んだ。
「うっ!?」
志龍は棍を引くも、動かない。
『ギイイイイイイ!!』
バルバトスは威嚇のような雄叫びを上げると、棍を引っ張った。
志龍の判断は早かった。腕力で勝てないと理解し、棍を手放した。
バルバトスが志龍に殴りかかる。
志龍は躱しつつ、カウンターの右拳をバルバトスの腹部に打ち込んだ。
『グッ!』
その一撃は、棍の突きが入った場所に命中する。バルバトスは再び吐血した。
「ぃやぁっ!」
動きが止まったバルバトスの腹部に、志龍は連続で拳を打ち込んだ。洗練された技術による打ち込みが、野性の凶暴さによって放たれる。その衝撃はバルバトスの頑丈な骨と筋肉を貫通し、内臓に痛手を蓄積させていく。
『ガアアアア!!』
それでもバルバトスは、激痛に耐えつつ反撃のパンチを打ち込む。
志龍はガードするも、吹き飛んでしまう。
「このっ!」
首の痛みに耐え、瀞が再びバルバトスへ斬りかかる。上段の構えから刀を振り下ろすも、バルバトスは踏み込んで瀞の手首を掴んで止めた。
だが瀞の攻撃は終わっていない。瀞はバルバトスに倒れ込み右首筋に噛みついた。
『ガッ!!』
瀞はバルバトスにしがみつき、体重をかける。バルバトスは瀞の頭部を掴み引きはがそうとした。
『ギッ!』
志龍はバルバトスの背後に回り込み、膝の裏に下段蹴りを打ち込む。瀞とバルバトスはもろともに倒れた。
志龍は瀞が落とした刀を拾うと、切っ先をバルバトスの口内に入れ、突き落とす。
『ゴッ・・・・・・』
短い悲鳴と共に、バルバトスは絶命した。
「瀞!もう大丈夫だ!こいつは死んだ!」
志龍に声をかけられた瀞は、ゆっくりと口を開き、上半身を起こした。開いたままの口から、唾液が混じった血がねっとりと垂れてゆく。
(やった・・・・・・)
口内に広がる血の味は、初陣で味わったそれと同じだった。酷い不快感で吐き気を催すが、勝利による歓喜と安堵がそれを薄めてくれた。
「瀞、お前・・・・・・」
瀞は、血まみれになった犬の顔を志龍に向けた。志龍は険しい表情でこちらを見ている。
噛みついたことに後悔はないが、仲間から嫌悪の視線を向けられると、辛かった。
だが。
「ナイス」
志龍は拳を瀞に突き出し、親指を立てた。
「ああ」
瀞は同じポーズを返した。
辛さが消え去る。嬉しさのあまり、尻尾が勝手に揺れた。
そして2人は、共に笑った。
『ギィィィィィ!』
和虎に斬られたバールが、断末魔とともに倒れる。刀についた血のりを振り払い、和虎は残ったバールを確認する。
最後の1匹となったバールは、槍を手にした獣人と向かい合っていた。
バールと対峙しているのは、犀の獣人だ。身体は和虎よりも小さいが、瀞よりも一回り大きく、胴体も四肢も太い。硬質な灰色の皮膚は鎧のようで、甲冑を着た兵士のような風格だ。
「らあっ!」
バールが動く。同時に、犀の獣人は鋭い刺突を放つ。その切っ先は、正確にバールの頭部を射抜いた。
「ふぅっ!」
犀はバールの頭部から槍を引き抜いた。
「大丈夫か?」
和虎は犀に声をかけた。
「大丈夫っす!これで、全部片付きましたね」
「ああ」
「すんません。助けにきたのに、倒したのは、ほとんど和虎さんでしたね」
犀は笑いながら、申し訳なさそうに頭を下げた。
「いや、十分助かった。確か、斎藤、だったか」
「はい。03部隊の、斎藤 純心(さいとう じゅんしん)っす」
「氣雷から教わったにしては、器用な槍さばきだな」
和虎は、純心が仕留めたバールを見た。力任せに槍を振り回すのでなく、鋭く正確な刺突で脳を正確に貫いている。
「いやぁ、俺なんか、まだまだっすよ。そういや、氣雷さんと、訓練生時代は、一緒だったんすね」
「ああ」
「任務終わったら、そん時の話、聞かせてくださいよ」
そう言いながら、純心は無線機を取り出した。
初対面の、しかも強面で巨躯な虎獣人に対し、純心はきさくに話しかけてくる。そんな純心の態度に、和虎は感心していた。
(大したコミュニケーション能力だ。見習いたいものだ)
そんなことを考えていた和虎だったが、不意に険しい表情になり、付近にある民家を睨んだ。その様子を見て、純心は無線機をしまい身構える。
「どうしたんすか?」
「血の臭いがする」
「そりゃ、こんだけ死体だらけなら」
「キメラじゃない」
虎も嗅覚は鋭い。だから、和虎は気付いた。
「来い」
古民家の方へ、和虎は歩き出した。
「うっす」
純心も周囲を警戒しつつ進む。
玄関は、木造のドアだ。和虎はドアノブを回した。鍵は開いている。
「んっ」
和虎はドアノブから手を離し、半歩下がると拳銃を抜き、ドアに向かって発砲した。
『ガッ!』
ドアの向こうから、金切り声が。するとドアがわずかに開き、隙間から筒状のものが出てきた。スタングレネードだ。
「下がれ!!」
和虎が叫ぶ。二人は後方に跳んだ。ほぼ同時に、閃光と騒音が二人を襲う。
ドアを吹き飛ばし、バルバトスが飛び出した。和虎は気配を頼りに太刀を振るう。
バルバトスはそれを避け、和虎を無視して純心へ向かった。純心は、まだ視力が完全に戻っていない。
バルバトスはナイフを振り、純心の槍を叩き落とした。そしてトドメの突きを打ち込む。
純心は、左腕で刃を受け止めた。切っ先は深く食い込み骨に達する。
「どぉらぁ!!」
純心は地を蹴り、バルバトスへ突っ込んだ。本物の犀のようなタックルに押され、バルバトスは体勢を崩し後退する。
「しっ!」
そこへ、和虎の横薙ぎが閃く。1秒後、バルバトスの上半身が下半身から落ちた。
「無事か!?」
「無事っす!くそいてぇけど、腕だけっすから!」
純心は傷口を押さえ、痛みに耐え無理に笑った。しかし、すぐに表情は強張った。
「か、和虎さんっ!」
和虎は純心の視線を追い、振り返った。開いたドア、古民家の中を見て和虎は絶句した。
廊下に血まみれの老人が倒れている。確認しなくとも、既に死んでいることが分かるほどに、全身が切り刻まれていた。
「くそったれ!」
純心は悔しさを言葉にして叫んだ。
和虎は黙って無線機を取り出した。その顔は、威嚇する虎のように、凶悪なものとなっていた。
――――――――――
[newpage]
駅前のショッピングモールは、連休中ということもあり、大勢の客で賑わっていた。都会故に人も建物も多く、夏が一足早くやってきたかのような熱気が籠り、人々は汗を拭いつつ、欲しいものと冷気を求めて目的の店に入っていく。
「まだ人多いね」
「ああ。もう2時なんだけどな」
そんな会話をしながら、若い男女のカップルはモール内のレストランを回っていた。男性は、女性用の衣服が入った紙袋を3つも持っている。
「あ、あそこ、並んでない」
彼女が指さした先には、全国チェーンのうどん屋があった。
「いいのか?給料入ったから、もうちょっと高いとこでもいいけど」
「いいの。早く座りたいし。それに、お腹、限界でしょ」
「ああ。ぶっちゃけ、質はいいから早く食いたい」
「じゃあ行こう」
2人は店内に入ると、唯一開いていた窓際の席に座った。
「久しぶりだから、ちょうどいいかも」
「俺も久しぶり。何食おうかな」
「荷物、こっちに置いていいよ」
「ありがとう」
「1個は私が持つって」
「いや、俺が持つ」
「もー。あ、先に決めていい?」
「ああ」
女性は注文に使うタブレット端末を手にした。
男性は、ふと、窓の外を見た。老若男女問わず、大勢の人が歩いている。
親子、カップル、友達グループなど、様々な組み合わせで。
(もし、こんな街中にキメラが現れたら、大変なことになるな。俺らがキメラを逃がしたら、そういうことになるのか)
男性がそんなことを考えていると。
「瀞」
女性に名前を呼ばれた。
「ん?」
「私決めたよ」
「ああ、ごめん」
「外で何かあったの?」
「いや、人多いなって。俺はド田舎出身だから、圧倒された」
瀞はタブレット端末を彼女から受け取った。
「晴美(はるみ)、こんだけで足りるのか?」
彼女が注文したメニューを見て、不安になった瀞は質問した。
「いいの」
「俺はけっこう食うから」
「知ってる」
瀞は注文を終え、タブレットを元の場所に戻した。
「そういえば、給料出たんだね」
「ああ」
「特殊部隊かぁ。いつか、本当に、撃ちあったりするのかな」
「さぁな」
「先輩に、撃ちあいした人いるの?」
「悪いけど、絶対に言えない」
「いいじゃん」
「だめ。それより、晴美は、なんか変わったことないの?」
「変わらないよ。講義とバイトだけ。あ、でも、こないだ友達が失恋して」
恋人である瀬田 晴美(せた はるみ)が語る大学生の日常を、瀞は相槌を打ちつつ聞いた。久々の休暇で、人間の姿に戻り、基地の外に出て彼女との時間を過ごす。一緒にいるだけで、話を聞くだけで、瀞は十分楽しかった。
だが、恋人の話を聞きつつも、瀞は、丈一の話を思い出していた。
*************
「そうですか。犠牲者が」
「ああ」
任務の後、帰還した瀞は大事をとって入院となった。その日の午後に、蛇獣人の姿をした丈一が見舞いに来てくれた。
病室の中で、丈一は任務の顛末を聞いた。
「町の中心部から離れていて、避難各国が間に合わなかった地域に住んでいる高齢者、7名がキメラの犠牲になった。遺族と世間には、フェイク映像も交えて、不発弾の暴発と伝える予定だ」
「俺たちの対応が、遅かったってことですよね」
「仕方がない。こちらの想定よりもバールの数が多く、バルバトスも数体いた。七里ビルから逃げ出したのか、それとも周辺にキメラの保管庫があるのか。それを今後、機動隊が調査することになる」
「機動隊だけで大丈夫ですか?」
「俺たち01部隊も調査に加わる。01部隊は、君たちのようにキメラへの対応でだけではなく、機動隊の付き添いや、BATのお偉いさんの護衛、重要な化学物質の運搬なんかを行う獣人部隊なんだ」
「そんな部隊もあるんですね。俺への説明も、01部隊の任務ですか?」
「いや、これは個人的にやってる」
ずっと真顔だった丈一の顔が、ようやく笑顔になった。しかし瀞の気持ちは晴れない。
「もうちょっと早く、七里ビルのキメラを全滅させて、町に行っていれば、変わったんですかね?」
「仕方がないと言っただろ。その一言で納得するのは難しいが、どうしようもない状況ってのはある」
ベッド脇の椅子に腰かけていた丈一は、瀞のベッドに腰かけた。
「守れた命があることも忘れるなよ。君と風丸は、女の子と、そのペットの子猫を救った。君たちがいなかったら、間違いなく殺されていた」
「そうですね」
「空くんと賢士くんも、逃げ遅れた人たちの命を救った。07部隊全員で助けたんだ。それは絶対に忘れるんじゃない」
丈一の語り方は淡々としていたが、一言一句が瀞の胸に突き刺さった。
「分かりました。それで、助かった人たちは、どうなるんですか?キメラとか、獣人の姿を見ましたけど」
「催眠療法で、今回のことは忘れてもらうよ」
「それ、大丈夫なんですか?」
「多分ね。信じるしかないよ」
苦笑する丈一は、ベッド脇の棚に置いている缶コーヒーを取り、開けて一口飲んだ。瀞はコーラが入った缶を取り、同様に一口飲む。
「長く任務を続けていれば、人の死に直面することもある。きつい言い方だけど、こういう気持ちを味わうことに耐えられなかったら、兵士に向いてないってことだ。辞めた方がいい」
「俺は辞めません」
瀞は強く言い切った。
「覚悟が足りなかったです。ちゃんと反省します。そして、これからも戦い続けます」
「そうか」
「確かに、守れなかった時は辛いけど、それ以上に、許せないですから。こんなことをやりやがる、くそ野郎どもが」
瀞の鼻先に皴が入り、牙が露出する。無意識に怒りが漏れていた。
「落ち込むよりはいいけど、四六時中イライラするのもよくないよ。ストレスコントロールしないと」
「そ、そうですね。平常心で」
瀞はコーラを飲み、心を落ち着かせた。瀞が元の顔に戻ると、丈一は続けた。
「怒りを向けるべき相手だけど、七里ビルにいた人は、みんなキメラに殺されていた。黒沢もね。尋問で情報を吐かせることはできなかった」
「じゃあ、進展は無しですか?」
「いや。七里ビルにキメラが保管されていたことは事実だ。黒沢の近辺を調査する権利を得たってことだ。これから、BATの調査班が操作を始める予定だよ」
「そうですか。何か分かるかもしれませんね」
「ああ。そこで、獣人の部隊にも、新たにやってもらうことができた」
「え?俺たちも調査するんですか?」
「いやいや。今回のように、キメラの数が多い時は、他の部隊の力を借りて戦わないといけないこともある。だから今後は、他の部隊との合同訓練も定期的に行うことにしたんだ」
「それはいいですね。他の部隊の人とか、全然知らないし。今回は、たまたま一緒に訓練した志龍と戦えたけど。他の人とだったら、やりづらかったかもしれません」
「そうだね。合同訓練のスケジュールは、これから周知するつもりだよ」
丈一はコーヒーを飲み干し、少しだけ申し訳なさそうな顔になった。
「あと、少し残念なお知らせもあるんだ」
「え?なんですか?」
「現在、BATは01から07まで、7つの部隊がある。が、今回、08部隊を立ち上げることになったんだ」
「部隊の数が増えることは、いいですね。でも、隊員は足りるんですか?」
「そこなんだけど・・・・・・01部隊の隊員に、育休取ってた人がいるんだ。その人が復帰することになって。彼女が08部隊の隊長になる」
「女性ですか?」
「腕は確かだよ。で、残りの隊員なんだけど。2人目は、訓練を終えた新人。3人目は、引退してたけど復帰した古参兵。で、最後の4人目は、隊員数が多い部隊から引き抜くことになった」
「隊員数が多い部隊って?」
「07部隊だよ。他は4人なのに、07部隊だけ5人いるから」
「え!?じゃあ俺らの部隊から、1人、08部隊に行くんですか?」
「そう。08部隊の副隊長になってもらう」
「じゃ、じゃあ、うちの副隊長が08部隊に?」
「いいや。賢士君が抜けると、07部隊には経験が浅い隊員が3人も残ることになる。それはまずい」
「じゃあ、抜けるのは・・・・・・」
「私が、副隊長ですか?」
07基地地下1階Cブロック、応接室。
高級な調度品や美術品に囲まれた一室にて。ソファーに腰かけた空は、自身に突き付けられた命令が信じられなかった。
「そうだ。たった今からお前は、08部隊の副隊長だ」
空に命令を下した獣人は、冷たく言い放った。
01部隊の副隊長、吉岡 正義(よしおか せいぎ)。鹿獣人の男性である。体躯は和虎より小さいが、言動は堂々としており威圧的で、射貫くような視線を向けてくる。その迫力に押された空は、恐る恐る質問した。
「どうして、瀞や風丸ではなく、私なんですか?」
「訓練の内容や、2度の実戦の結果を考慮してお前が選ばれた。戦闘能力だけでなく、判断力と決断力に優れている」
「でも、私はまだ経験が不足しています。08部隊には、引退したベテラン兵が入るのでしょう?その人ではだめなんですか?」
「そいつは、新たな兵士が育つまでの繋ぎだ。隊長職には就かせられない」
「それでも、私には務まりません」
空が副隊長就任を拒否した途端、正義は空を睨みつけた。
「自分が何を言っているのか、分かっているのか?」
「え?」
「貴様は命令を拒否している。特殊部隊の隊員として、有り得ない行為だ」
正義は立ち上がり、空の壁に掲げられた絵画を眺めつつ歩き始めた。
「最も、正当な理由があって拒否をするのなら話は別だが。拒否する理由を聞こうか」
「私では、力不足です」
「それを決めるのは貴様ではない。貴様より知識が高い面々が話し合って決めたことだ」
「私よりも、相応しい人がいるのではないですか?」
「下らん謙遜はよせ。犬神も知多も、2度の任務で重傷を負った。お前は、どちらも無傷で生還した。結果を見れば明らかだ」
「だからって、2回しか実戦を経験していない兵士が指揮官なんて」
「甘えるな、馬鹿が」
正義は足を止め、1枚の絵を見た。甲冑を着た若い女性兵士が、大衆を扇動している様子が描かれている。
「獣人兵士は、常に人材不足だ。若くして隊長職に就くなど、珍しいことではない」
正義は次の絵に目を向ける。台座の上に山羊が佇んでおり、その周囲を人々が取り囲んで祈りを捧げている。
「副隊長になりたくないなら、さっさと獣人を辞めろ。重責から逃げるような奴はいらない。今後も、重要な局面で命令を拒否されてはたまらんからな」
正義にそう言われた空は、賢士の言葉を思い返した。人を殺す覚悟は、入隊前に持たなければならないということを。
そして痛感した。獣人兵士は殺人以外にも、様々な覚悟を持たなければならないということを。否、覚悟を入隊前に持たなければならなかったことを。
「分かりました」
空は立ち上がった。
「誰かがやらなきゃいけないなら、私が」
正義は、射貫くような視線を空に向け、言った。
「そもそもお前に拒否権はない。力不足と思うなら、これから副隊長に相応しい力を付けろ」
「やっぱり、空ですか」
「ああ。驚かないんだね」
「空は、俺や風丸より、ずっと優秀ですから」
瀞はそう言って、コーラを飲み干した。
「寂しい?」
「はい。でも、仕方がないですから」
「そうだね」
「これからは、空抜きで頑張らないといけないのか。きついな」
「戦略的なことだけじゃなくて。女性がいなくなるから、全体的に部隊の空気が変わるかもしれないよ」
「そうかもしれませんね」
瀞は苦笑したが、表情を引き締めて丈一に聞いた。
「それより、丈一さん。黒沢の近辺を調査すれば、キメラ事件の犯人は、すぐに見つかりますかね?」
「それは調べてみないと分からないよ。組織的なものだろうし、すぐに犯人判明、とはいかない。ただ」
ふと、丈一が身を乗り出した。蛇の頭部が瀞の眼前に迫る。
瀞の体毛が、丈一の鱗に触れた。
「ちょ、ちょっと」
丈一の瞳が、瀞の瞳を覗き込む。縦に黒い裂け目が入った金色の球体が。
「気を抜けない状況が続くことになるな」
消えそうなほど小さな声で、丈一が囁いた。
「黒沢のような奴は、まだいるのかもしれない。意外と、近くに」
「そ、それって、BATの内部に・・・・・・」
戦慄した瀞は、小声で聞き返した。丈一は答えなかったが、目が肯定していた。
「その時が来たら、一緒に戦ってくれ。誰が敵でも」
丈一の言葉を噛み締めた瀞は、小さく頷いた。
その、直後。
「瀞!起きた、か・・・・・・」
病室のドアが開き、志龍が入ってきた。
そして、志龍は見てしまった。唇が触れそうなほどの距離で見つめ合う犬と蛇を。
「う、うわー!大変だ!瀞が丈一さんのキスしようとしてる!」
目撃した光景を叫びつつ、志龍は病室から逃げ出した。
「ち、ちがぁぁぁぁう!!」
瀞の叫びは、親友には届かなかった。
*********
「じゃ、着いたら連絡するからー!」
「ああ、気を付けてな!」
晴美は手を振りながら、駅の改札を超えて人込みに消えていった。それを見送った瀞は、先ほど晴美と交わした抱擁と口づけの感触を反芻した。
(ああ、楽しかった・・・・・・今度はちゃんと一泊したいな。最後にやったの、大分前だしなぁ)
余韻を噛み締めていると、背後から体躯のいい男性がぶつかってきた。
「あ、すいません」
「こちらこそ」
何とか転ばずに済んだ瀞は、駅の裏口に向かって歩き始めた。
(こけかけたな。ちょっとぶつかっただけで)
瀞は前方に人がいないことを確認し、走ってみた。同世代と比較すると、速い。だが、獣人の状態と比べると、当然遅い。荷物には重さを感じるし、ジャンプしても高く跳べない。嗅覚も反射神経も落ちている。
(今、キメラと戦ったら、何も出来ず殺されるな。ライフル持ってても無理だ)
瀞は駅前の公園まで歩いていくと、ベンチに腰かけた。広い芝生スペースを見渡すと、子供たちが走り回っている。
(風丸と一緒に助けた子供も、あれくらいだったな)
瀞は先日の任務のことを振り返った。自分たちがキメラを殺し、人を助けたことを。
そして、思った。
(早く獣人に戻りてえ)
獣人でないと、守れない。
(戦わないと。どんなやり方でも)
歯を食いしばる。牙は無いが、歯と歯が噛みあう。
(相手が誰でも)
キメラでも、人でも。
(獣人の俺たちが、やらなきゃな)
守るべき人々を眺めながら、瀞は獣人として自分がすべきことを考えていた。
(何をやってでも)
瀞の口内に、キメラの血肉の味が蘇る。不快な感覚だが、もう自分は敵に噛みつくことに躊躇はしないだろう。
人が持たない能力を最大限に活かして敵を殺すこと。それが獣人の戦いなのだから。
同刻、BAT007基地。地下2階Cブロック。大浴場にて。
「むぅ・・・・・・」
広い脱衣所では、下着姿の虎が鏡の前で自身の肉体を見つめていた。07部隊隊長の、和虎である。
肉体や精神にかかる負担を考慮して、獣人兵士は定められた日数分、人間の姿に戻り基地の外で過ごすことが義務付けられている。身内がいない和虎は、最低日数分のみ基地の外で過ごすと、長期休暇が終わらぬ内に基地へ戻り、獣人となって訓練に励んでいた。
「ふんっ」
和虎は、素手の状態で剣を振るう仕草をする。初動が見えず、回避や防御が困難な攻撃だ。だが。
(意外と、分かりやすいな)
和虎は虎獣人特有の、縞模様の毛並みに着目していた。動作の直前、縞模様が若干動いたように見えたのだ。
(動作の直前、やはり無意識に、使おうとする筋肉がわずかに動いてしまう。こんな毛並みだと、尚更目立つな。裸では戦えないか)
和虎はそんなことを考えつつ、下着を脱いで棚にしまい、タオルを手に大浴場へ向かう。
その時。
「っ!!!」
和虎は振り返り、後方に跳んだ。猫のような俊敏さと臆病さで。
着地と同時に身構え、脱衣所の入口を睨む。
「ひっ」
入口にいた人物は、短く悲鳴を上げた。
「ど、どうも」
そこにいたのは、中肉中背の若い男性だった。シャツに短パンというラフな格好で、スポーツバッグを肩から下げている。
和虎は、威嚇する虎の表情で男性の顔をよく見てみた。見覚えがある顔だった。
「お前は、機動隊の・・・・・・」
「はい。大野です。どうも」
大野と名乗った男性は頭を下げると、部屋の隅へ行き服を脱ぎ始めた。これから大浴場を利用するらしい。
「な、何か?」
「いや、すまない」
和虎は謝罪し、眉間の皴を消し、露出させていた牙を納め、大浴場へと入っていった。
(いやー、びっくりしたなぁ。まさか獣人がいるなんて。そーいえば、休暇から一足早く隊長さんが戻ってきた、って言われてたっけ。一瞬、戦闘モードに入っちゃったよ)
大野と名乗った男は、和虎を見送った後、自身も服を脱いで大浴場に入った。
広い大浴場を見渡すと、湯船に浸かっている和虎以外に人の姿はない。男は壁際のシャワー台へ行き、備え付けのシャンプーで髪を洗い始めた。
(しっかし、本当に最悪だよな。いや、ある意味、運が良いと言えるけど)
男は、先日自分の身に起きた、不運と幸運を思い返していた。
(まさか黒沢がBATに目を付けられていたなんて。僕が接近している時に、検挙しようとするとか。タイミング悪すぎだろ。もし見つかってたら、終わってたな、僕。マジで最悪だ)
リンスを髪に塗りつつ、男は心の中で愚痴を吐き続けた。
(まぁ、見つからなかったのは、本当に幸運だけど。しかもそのまま、BATの基地に入れるとはなぁ。悪運が強いというか、なんというか。でも、この状況は決して良いとは言えないよ。バレたら一巻の終わりなんだから。ストレス半端ない。早く帰りたい。大人しくしていたいけど、何かしないと、“せっかく敵の基地に入ったのに何もしなかったのか”って怒られそうだし。でも、この状況で、何をすりゃいいのよ)
自身がこれから取るべき行動について考えつつ、男は体を洗い始めたが。
「ん?」
ふと、鏡を見て気づいた。いつの間にか背後に、和虎が立っている。
「あ、ど、どうも」
男は振り返り、和虎を見上げた。和虎は、けげんな表情で男を見下ろしている。
「何か、用ですか?」
「さっきのことだが」
和虎は、聞き取れないほど小さな声で男に話しかけた。
「はい?」
「お前が脱衣所に入ってきた時のことだ」
「えっと。その、さっきは、驚かせてしまって、すみません」
「ああ、驚いたぞ。キメラに背後を取られた時と、似た感覚を味わった」
男は和虎から視線を外した。
「え?気配、的なものですか?」
「ああ。殺気とも言えるな」
「は?いやいやいや、殺気って。僕、あなたを襲おうとかしてないですし」
「本当か?」
「本当です!そもそも、僕は人ですよ。キメラと比べないでくださいよ」
「そうだな」
「ほら、あれですよ。戦場に出た兵士は、ちょっとした物音とか気配に敏感になるって聞いたことがあります。和虎さんも、同じやつなんじゃないですか?」
「そうかもな」
和虎は男に背を向けた。
(あっぶねー、バレるかと思った)
男が安堵のため息をつく。同時に、和虎は男の顔を狙い、尻尾を振るった。
「うおっと!」
視界の端でそれを捕らえた男は、左手でそれを防御した。
「お前・・・・・・」
和虎は男に体を向け、身構えた。
人間には反応できないほどの速度で打ち込んだ尻尾を、男は防御したのだ。
「誰だ?」
男は座ったまま和虎に顔を向けた。顔は紛れもなく人間だが、瞳孔が縦に長いその双眼は、猫のそれに似ていた。
和虎の疑惑は確信に変わった。この男は、人間ではない。
「知ってて声をかけたんだろ。あんた、07部隊の監視員か」
男は小声で和虎に聞いた。声も既に、大野のものではない。
「監視員?何のことだ」
「とぼけるなよ」
「とぼけていない。お前のことも知らない。だから聞いているんだ。お前は誰だ?」
「知らないって・・・・・・あんた、表の獣人か?」
「表?どういう意味だ」
両者の間に、しばし沈黙が流れる。すると、脱衣所の方から声が聞こえてきた。
和虎は舌打ちすると、男に言った。
「風呂から出たら、地下3階のジョイフルに来い。来なかったら、お前のことをBATの人間に話す」
和虎はそう告げると、大浴場を後にした。
残された男は体の泡を流し、湯船に浸かった。既に瞳は、人間のそれに戻っている。
(流姫(りゅうき)に助言を求めたいところだけど、無理だしな。行くしかないか。虎穴に入らずんば虎子を得ず、とも言うし)
やがて、大浴場に他の利用者が数名入ってきた。男は彼らと挨拶を交わし、大浴場から出た。
服を着た男は、真っすぐに地下3階のファミリーレストランに向かった。レストランに入ると、奥の席に和虎の姿が見えた。
男は深呼吸すると、和虎の席に向かった。歩く男の身体は、微かに震えていた。
「お待たせ」
「ああ」
声を忍ばせ、2人は言葉を交わした。
「で、お前は誰だ?大野、ではないだろう」
「まずは何か頼もう」
「話すのが先だ」
「怪しまれるよ」
「ん、分かった」
和虎と男は、それぞれメニューの冊子を広げた。
すると、男が呟いた。
「僕は、黒狐(くろこ)」
和虎は、黒狐と名乗った男を見た。男の目は、再び獣人のそれになっていた。
「BATと戦っている獣人だよ」