♯1
時々、胸の閊えが取れなくて、困る。君は何故僕を見る?幼馴染の泰樹にそう問われて、あの日、言葉が出て来なかった。好きだからだとは、到底云えなかった。
弟が七五三だった。スーツを着ての記念撮影。同行したものの、それは退屈だった。僕は長男だ。でも、まだまだ子供で居たい。あまりに肩の荷が重いのは、勘弁して欲しいと思った。
写真スタジオからの帰り途、ざあっと通り雨に降られて、僕ら一家四人は、通り掛かりのカフェで、雨宿りをした。ラテを頼んで、一服。弟はまだ幼いのに、あれが食べたいといった類の我儘は決して云わない。それもまた、処世術なのだろう。ざあざあと地面を叩き付ける水飛沫の手前のでんでん虫を眺めながら、まだ小学生だというのに、僕は己の現実と未来とを憂えた。
雨は小一時間で上がった。週末の折、人出は多かった。空はもう眩しいくらいで、季節外れの暑さだった。溜め息をひとつ吐いて、僕は弟たちに続いて、人波に飲まれていった。
♯2
翌る日。同級の修治がつれない。せっかく映画に誘ったのに、金がないと、にべもない返事。仕方なく、僕は給食のソフト麺を頬張りながら、同行する相手をどう工面するか、皮算用をしていた。
麗かな五月の昼休み、皆が思い思いに仲間との談笑に耽る中、僕は決死の表情で泰樹に声を掛けた。こいつが僕の恋煩いの原因だ。可愛いのだが、何処かツンとしている。
“今日の放課後? うん、いいよ。観終わったらウチに来るといいよ。ご飯くらいなら出てくるだろうからさ”
トントン拍子で事が進んだ。やってみるものである。
窓の外に目を遣ると、向かいの家屋に燕が営巣しているのが、校庭を挟んだここからも確認できた。
遠い道程、この子の頭を今掻き抱きたいと、不意に思われてハッとして、牛乳を一気に飲み干して、目を覚ました。修治が立ち上がる。腰を屈めて耳打ちして来た。
“楽しんで来い”
それだけだった。山の稜線で切り取られた空は蒼く、見上げると何処までも高かった。
恋なんて、まだそんな歳ではない、ずっとそう思っていた。でも流石に観念した。今年で十二になる折のこと、もう時はやって来たのだ。
♯3
街まで出た。予約時間の四十分前に劇場入りした。入場まで、ロビーで待機する。これから観る映画は、公開されたばかりの、人気アニメの新作だった。少し大人びた骨のある話だと、容易に想像ができた。絵が綺麗なので、これにした。
思い付きでポップコーンとコーラを買う。その後、列に並び入場する。この時を待っていた。心の中で僕は、ごめん修治、お前じゃなくて本当によかった、そう思っていた。
最前列。脚を投げ出せるので、いいと思った。首が痛くなりそうだが、前の人の頭を眺めるよりは、幾らもマシだ。
二時間が経過して、クライマックスで、僕らは揃って泣いてしまって、どさくさに紛れて僕は、泰樹の手を握った。幸運だったのか残酷な仕打ちだったのか、何れにせよ時間は少しも止まらなかった。程なくしてエンドロール、手は離したが照明が点くまで、正直頭がクラクラしていた。
夕刻、街灯がアスファルトを照らす中、僕らは帰りを急いだ。今日は夕食をともに食べる。泊まってもいいと、後で聞いた。
風が強い。その音は、鳴いているようにも聞こえた。途中、背後から不意にトラックが接近して、泰樹は僕の手を引いてくれた。
日常は奇跡の連続だ。今だって、あと半歩身体が車道側に迫っていたなら、ぶつかっていたかも知れない。危ない橋を擦り抜けるように渡って、それでどうにか生きている。僕らの日常はそんな背筋の凍るような感触と、常にともにあるのだ。
♯4
サーキュレータの回る室内で、僕らはカツカレーにがっついていた。そこでふと眩暈がした。どうしたらいい、そんな疑問が湧き出た。チラ、と泰樹のママさんがこちらを見るので、僕は再びカツカレーに全力投球するのだった。
そこは団地の3LDKだった。築四十年にはなっていたろうか。そういうなりだ。ただ、水色の扉は傷だらけだったが、中は古いなりには綺麗に保たれていた。たぶんママさんのお陰だろう、そう思う。
食卓には、泰樹の姉も同席していた。綺麗な顔立ちで、淡々と食べる人だった。鎖骨が浮き出ていて、屈むと胸の谷間が見えて、どう云ったらいいのか、えずくような感覚に見舞われてしまった。
食べ終わって暫しその人を眺めていると、終いにはそっぽを向かれてしまった。その人は先にお風呂に入ったので、僕らは部屋へと引き取った。
♯5
部屋には小さなテレビがあった。ゲームもできる。僕らは腹ごなしの時間を、ドラクエのミニゲームで潰していた。
ふと、泰樹は立ち上がると、照明を消して、僕の手を握った。ここで、心の中に迷いが生まれた。彼がこんなにも積極的なのは何故だろう、そう思っていた。明らかに、いつもと違う。ドギマギしながら、その掌を取って温めていると、扉が開いて、鎖骨の人がひと言、風呂、そう云った。
僕らは立ち上がると浴室へと向かう。すれ違い様にその人は、近々一家が引っ越す予定であることを告げた。パパさんが歿くなったのだという。
それから、何も話せなくなった。気不味い沈黙が連なって、僕らを引き剥がそうとする。負けるものか、そう思った。でも、気が付くと、泰樹は泣いていたから、シャワーのお湯で目立たないようにして泣いているのを僕は見てしまったから、やっぱり僕の負けだ。
泰樹の一家は、青森にある母方の実家で暮らすこととなるらしい。急な話だったようで、そんな素振りを見せることさえなかったママさんの、その寂しそうな背中を思い出し、僕はただ、大人って凄えんだな、それだけを感心していた。
♯6
それから一週間もせずに、泰樹は僕の前から居なくなった。結局、僕は何も出来ず終いだった。当たり前だ。昨日、最後に見たあの子は、それは別人のように綺麗だと、そう思った。今までも可愛かった。でもそれ以上に、綺麗だと、そして離れ難いと、そんな風にしか思えなくて、僕は結局泰樹には手を振るのが精一杯で、ろくにお別れの挨拶も出来なくて、あの子をまた独りぼっちにさせてしまうと、そんな思いに駆られるばかりで、空回りしてしまっていたのだーー。
それから凡そ七年だったか、色恋沙汰は何もなかった。僕は地元の大学に通い始めていた。静岡大学、親の薦めた国立であるし、通っている間は取り敢えず遊べる。
サークルの仲間と食事をした帰りに、僕はふと昔のことを思い出した。あの子は今どうしているかな、そう思った。
もう身の回りには、小学校からの友達は誰も居なかった。皆んな散り散りになっていた。
風の噂で、あの子がもう歿くなっているとそんな話を耳にして、僕は動揺を隠せなかった。
昔の年賀状を頼りに、僕は現地に赴くことにした。それはもう、居ても立っても居られなかったからだ。
♯7
冬ともなれば雪に閉ざされる青森の僻地。一面が水田に埋め尽くされた景色の中、一台のタクシーに揺られて、僕は彼の地を目指していた。精算し、降りるとインターホンを押す。
応対したのは、鎖骨の人だった。直ぐに解った。“泰樹なら、もう居ないよ。詳しい話は私は知らない”
聞けた話は、それだけだった。敢えて何も云わなかったのだと知ったのは、少し後のこと。静岡までとんぼ返りの道中、空を眺めながら、僕はあの時のえずくような感覚を忘れられずにいた。
静岡の実家に戻ると、僕は昔のアルバムを見返していた。ページを繰る毎に、泰樹は可愛かった。ひと目姿だけでも見られたらとそうも思ったが、望みは断たれてしまっていた。
「ねぇ母さん、桐原泰樹って子、知ってる?」
「あぁ、雪下ろし中に滑って歿くなったそうよ」
呆気なく真相は明らかとなった。その日は結局一日、何も出来なかったーー。
♯8
僕は最近になって、新しい恋を見つけた。相手は、キャンパスで見掛けた、先輩だ。名は康紘、僕のことを何れ“娶る”つもりらしい。単純な性格の無垢な男だったが、芯が太く、そこは実に好ましかった。
康紘はひとり暮らしをしていたから、僕は入り浸っていた。あの人に抱かれて腕枕の中でうとうとしている時に、或る日突如泰樹が枕元に現れたような気がして、薄ら寒くなった。僕は康紘に抱き付いた。それ以来、独りで夜を過ごすことが少し怖くなった。いい大人なのに、情けないことではあった。
夏、青森の墓にひとりでやって来た。鎖骨の人に案内されてだ。天に召される間際のこと、泰樹、苦しかったらしい。それはそうだ。僕は泣けて来た。
彼女は云う。“世の中ってね、あったかお鍋だとか、ほらあんなん馬鹿みたいじゃない? あぁいうことに憧れて成り立っている部分はあるの。よかったら結婚してみない? 私はビアンだけど、弟の分まで親孝行しなきゃいけないから、子供は要るの。子種あるんでしょう? それを少し貸すと思って”
僕は首を縦に振っていた。思いも掛けず、ここで線が繋がった。
♯9
半年後。結婚式は、静岡のホテルでささやかに執り行われた。まだ互いに大学には在学している身の上でのことだった。遠距離ではあった。ただ、恋愛と呼べるかは凡そ解らないままの日々ではあった。
ハネムーンは、銘々が大学を卒業したら、行こうと決めてあった。何でそこまでするのかは僕には解らなかったが、彼女はこだわっていた。ただ、儀式をこなしていく内に本当の家族になれるのだとしたなら、それもいいと思い始めた。
康紘との関係は続いていた。鎖骨の人ーー美樹葉も、ひとり暮らし先の東京で、ビアン大学生としてのキャンパスライフを謳歌していた。そのための費用はすべて借入型の奨学金で賄うのだという。それもいずれは片付けてやらねばなるまい。美樹葉は一足早く卒業をする。年齢は僕よりも、ふたつ上なのだった。
僕には少しバイセクシャルの気があったようで、後年、美樹葉との間には子供がふたり出来た。男の子だった。レビトラのお世話になってのことなのだが、それはこの際やむを得まい。ふたりはそれぞれ昔の僕と泰樹のような面立ちで、その時の僕は、内心で苦笑いをしていた。ま、そうなるか、そうも思って、溜め息を吐いた。
♯10
結婚をしてから、弟とはよく話をするようになった。
「兄さんが結婚すると聞いて、正直意外だった。腹は括った?」
「まだ」
「駄目じゃん」
弟はケラケラとよく笑う。こんなに笑う人だったっけ、そんなことを思いながらも、僕もまた笑うのだった。
「兄さんが結婚しなかったら、俺が腹を括るつもりだった。だからあんまり口を利きたくなかったんだよね。正直悪かったとは思ってる。ただ、世の中って色々と不条理だらけでさ。俺、ゲイなんだよ。兄さん、あんがと!」
その告白を聞いて眩暈がしたのは、たぶん気のせいではなかった。
実家は、地元では名を知られた、中堅企業の創業家だった。倹しい暮らし振りで中学・高校・大学と進学先は悉く公立だったが、内実は貴族的でもあり、僕は無言の圧を常に感じながらの暮らしを余儀なくされていた。悪意なら、或いはあったかも知れない。
それでも、彼らの口から結婚をして欲しいだとは、ひと言も聞いてはいなかった。そんな素振りも見せなかった。これはそういう人たちなのだと得心するまでには、随分と時間が掛かった。同調圧力とは、たぶんこうしたことを指して云うのだろう。
♯11
流れるがままに流されて、自堕落な日々が過ぎて行く。諸行無常、何もかもが儚いと思えた。
大学を卒業すると美樹葉はウチの地元の静岡で専業主婦となった。その年の秋に最初の子供が生まれ、結局ハネムーンの間もなく、あったかお鍋を囲んで、冬。康紘でも泰樹でもなく、美樹葉たちと今、こうして生きている。別に特別でも何でもない暮らし、不満はない。ただひとつ心残りがあるとしたなら、泰樹にも子供たちの姿は見せてやりたかった。
業の雨のような日常の只中にあって、それでも僕は今、確かに不幸ではなかった。ただ、この国の理(ことわり)に取り込まれてみて、子供のひとりくらい作ってみてもよかろうよという胡散臭い人たちの頭の中がチラリと垣間見えた気がして、正直悔しかった。美樹葉のことは今でも、好きなわけではない。思い返すとまたえずく。それでもいい、このままでいい、枕元に立つ泰樹の幻に縋り付きながら、僕は長い夜を今日も乗り越えてゆくーー。
P.S.(後日談)
康紘はずっと待っていてくれた。時々逢って、体を重ねた。他に何も要らない、康紘の側に居たい、そうも思えて、詮ないのだった。
「なぁ、お前、自分のこと不幸だとか思うか?」
「んいや、そんなことはないけど、どうして?」
「いや、ならいい。俺はお前が好きだ。諦めないから覚悟しておけ、な」
康紘は温かくて、いつも少し甘い匂いがした。気付けば子供のことも顧みずに、康紘に夢中だった。美樹葉はそんな僕の前ではいつも、澱んだ空気のようだった。
それから幾星霜、九月の雨に打たれて、僕は美樹葉の元から逃げ出した。深夜、雑踏に紛れながら、康紘の新居を目指してタクシーを捕まえる。僕は卑怯者だった。空模様はまるで己の業を指弾しているようでもあり、僕に迫る美樹葉の顔を思い出しては、胸がまたもえずいた。
実家の支配から逃れて、康紘とは、ともに暮らし出した。僕は転職しており、給料こそ下がったが、やり甲斐のある日々ではあった。だいぶ成長していたこともあってか子供の養育費は求められなかったが、親権は当然の如く手放した。
「お前さんは雌豚だからな、雌同士では気の合わんことも多かったろうよ、よく頑張ったな」
そう云われて、僕ははにかんだ笑みで、康紘に抱き付いた。この人でなければいけない、ずっとそんな風に心の何処かで求めていたから、こんな成り行きでともに居られて、人生捨てたもんじゃあない、そう思えて嬉しかった。
諦めてはいけない、希望はいつか叶う。嘘でもそう思い込ませていた。今、康紘のお嫁さんになれて、僕は胸いっぱいなのだった。身勝手な男だったかも知れない。それでも、悲劇のヒロインを気取るには、僕は我儘が過ぎたーー。
朝靄の中、ひんやりとした空気。旅行先の高原は、まさに別世界だった。一泊でささやかな新婚旅行。いつかまた来よう、ふたりして肩を並べて、そんな幸せを謳歌した。何度転んだっていい、手を取り合って支え合いたい。部屋に戻ると昨晩の続き、重なり合って絆し合う。寝乱れて、それで深まる絆もあるから、だから僕らはいつだって、互いにとっての無二の存在たり得た。
そういえば、あのえずくような感覚は、もうどんなだったかも忘れてしまった。季節は変わって長男の成人式、報せがあって、遠くから覗き見る。もう話すことも叶わないが、それで十分だった。
「ね、康くんは僕のことまだ好き?」
「勿論! お爺ちゃんになるまで側に居てやる!」
男同士、他人には違いない。それでも仮初の家族との時間よりも、ずっと幸せな暮らしだった。美樹葉も、幸せになるといい。今度は友達として、えずかなくて済むような距離感で、いつかまた何処かで、会えたらいいねーー。気紛れなつむじ風は何もかもを攫って行くようで、この温もりだけは手放さないで居るんだと、そんな心持ちで歯を食い縛って、隣の康紘のずんぐりとした掌を握った。大粒の水滴がざんざん降る。これもまた、業の雨だろうか。この重たい空の下でも、最愛の人とともに、父さん、母さん、そして美樹葉とその息子たちよ、今、僕は幸せです。みんな、ありがとう。
了