三月の昼間、雨が乱れ落ちる。それは都心の一般道。水飛沫が煙る中を、一台の四駆が駆け抜けていった。助手席には少年が眠っている。まだあどけないその顔を視界の端に収めながら、ステアリングを握る老婆は、心持ち苦しそうでもあった。

  五年前に旦那に先立たれて以来、老婆は身寄りのないこの少年と、番町のアパートメントの片隅で、静かに暮らしているのだった。少年とは、ごく僅かに血が繋がっている。老婆には持病があり、日に十何錠も薬を飲んだ。老い先は、長くはないと思われた。

  かかりつけの総合病院に着くと、老婆は少年を連れて、慣れた様子で再来受付のカウンターまで出向いた。手続きを済ませて広い待ち合いのソファに座ると、時折咳き込みながら、天井より吊るされた薄型ディスプレイの番号表示を、穴が開くほど見つめていた。特に意味などないそうした行為の積み重ねが、ひと時、そのテリトリー内に茫洋とした空気を生み出すのだった。

  少年は退屈していた。機械音や人の足音といった細かい音の散らばる待ち合いの中で、少年は脚を投げ出して、時折首を回した。老婆に止められるので、携帯も使えないと解っており、他にこれといってどうすることもままならなかったから、所在がなかった。尤もそれも、いつものことではある。

  この日はふたつの内科系診療科の定期診察が重複しており、その掛け持ちをすることで、老婆は午前中の大半の時間を喰い潰していた。会計まで済むと、一階のカフェで少年とお茶をするのだ。ルーティンである。老婆には資産があり、倹約などしなくとも、日々の暮らしに困ることはなかった。そんなこともあり、背伸びをしてラテを飲む少年は、まだ長閑で甘やかな面立ちをしているのだった。

  誰も居ない、アパートメントの一室。リビングの加湿器が、止まったまま埃を被っている。ごく小さなバルコニーのプランターでは、ノースポールが枯れたまま放置されていた。居間のテーブルに乗った兎の形をした楊枝入れは、僅かにこの空間に彩りを添える。

  外は風が冷たかった。人通りの少ない午後、車のワイパーが断続的に、視界を保つために動き続ける。病院帰りのその車中で、少年は先日起きたばかりの不可解な出来事を、シュガードーナツを食べながら思い返すのだったーー。

  *****

  少年はかつて、親類縁者の下を、たらい回しにされていた。誰からも煙たがられたが、芯の強いところがあり、愚痴もこぼさず、学校にも休まずに通っていた。当時十三になっていた少年は、武道に打ち込んでおり、体躯も大きく、表立って苛められることなどはなかった。

  さて、先日少年の身に起きたことの話をしよう。きっかけは、一通の封書だった。それは少年宛だったが、差出人には、まるで見覚えがない。開けると、一葉のポートレートと、手書きの便箋が入っていた。ポートレートに写っているのは、海辺で猫と戯れる、少年と同い年くらいの女の子。雰囲気は、少年と似ている。便箋の字は拙(つたな)かったが、その話を鵜呑みにするなら、女の子は少年の二卵性双生児、即ち双子の妹なのだという。少年と姓は異なるが、養子縁組をしているとのことだった。この話を何処まで鵜呑みにするべきかは、少年も悩んだ。便箋にはSNSのIDが記されている。結局少年は、賭けに打って出ることにした。

  *****

  外ではざあざあと雨が降り頻る中、少年は自室で、携帯と睨めっこをしていた。メッセージなら送った。リプライを待っているのだ。少年がトイレに立つ。戻ると、携帯にはメッセージが届いていた。

  翌る日、雲ひとつない抜けるような青空が、少年の心を軽くしていた。これから、女の子の住む街まで、遊びにいくのだ。出掛けようとすると、老婆が呼び止めた。

  「これ、何処へいく」

  少年は、大丈夫だからとだけ答えると、そそくさと家を出た。電車を乗り継いで、待ち合わせ場所へと向かう少年。気が急いて、辺りを見回す。時間になっても、女の子は現れない。

  ちぇっと舌打ちをして帰ろうとする少年を、見知らぬ男が呼び止めた。

  「赤坂祐太君だね、初めまして。僕は怪しい者じゃない。メッセージ届いたでしょ。僕はあの子の父親なんだ。あの子の元まで、連れていってあげる」

  まだ小学生に過ぎなかった少年の砂上の楼閣の如き警戒心は、この瞬間に、音を立てて崩れ去ってしまう。少年の名は確かに、赤坂祐太だったからだ。

  男の運転するワンボックスカーの、後部座席に座らされようとする祐太。回転する曇天模様の空、抱きかかえられて、少年は身悶える。隣には、あの女の子が居た。だがその子は手足を縛られた上に猿轡をさせられており、明らかに様子がおかしい。辺りは人通りもなく、叫んだところで誰も来ないように思われた。

  祐太は暴れて、間一髪、自由になった。男の端くれならではの頑強さは、ここで精一杯、示された。追い付かれては万事休す。来た道を辿って、人のたくさん居る方へと、駆け出していく。男は車を出そうとしたが、そうこうしている内に、祐太を見失ってしまった。

  祐太が駅に着くと、そこには何故か、あの老婆が立っていた。隣には、警官も立っている。

  「何処へいく、と声を掛けたろうが! 何をされた、教えてみい」

  胸騒ぎのした老婆は、少年の携帯を盗み見ていた。少年はことの経緯(いきさつ)を、知っているだけ全部、教えた。

  あの男は、老婆の息子だった。老婆には行き先に心当たりがあり、パトカーが直ちに急行した。

  老婆の息子は、留置所で歿くなった。死因は、表向きには不詳とされた。祐太の双子の妹は吉香と云い、あの日以来、祐太とともに老婆の下で育てられることとなった。

  吉香は大人しい少女だったが、祐太との相性は、必ずしも悪くはなかった。同じ学校に通うこととなったふたりは、度々連むようになる。

  「ねぇ祐君、女の子の胸は、大きい方が好き?」

  「うーん、でも歳取ると萎(しお)れるって云うじゃん。そういうのも、あんまりなぁ」

  ふたりは同級同士であり、この日も、何気ない会話を楽しんでいた。祐太には腐れ縁の幼馴染が居り、彼は吉香とも友達になった。彼は学級委員であり、委員長と呼ばれることが多かった。

  吉香には、秘密があった。知り合ったばかりの委員長を好いていたのもそうだが、それだけでもなく、彼女には祐太への負い目もあった。

  遡ること半年。吉香は祐太の存在をはじめて、養父から聞かされた。その養父というのが、先の誘拐事件の折に歿くなった老婆の息子、あの不審者である。彼は小児性愛者で、養父であることを口実に度々吉香を犯していたから、次のターゲットとして祐太を狙いつつあった。相手が男女の何れであるかは、問わない男なのだった。それを察して、吉香は何とかして養父の関心を祐太に向けるべく、必死だったのだ。

  程なくして吉香は、ひと足早く第二次性徴を迎えてしまい、養父の好みからは外れてしまう。家ではそのせいで所在がなく、事態を打開するため、吉香は養父の誘拐計画に一枚噛んだのだ。追い詰められていた。便箋での遣り取りは、吉香の思い付きだった。

  吉香の誤算は、養父の残虐さを見抜けなかったことにある。養父は祐太を犯すその前に、吉香を先に殺めるつもりだったのだ。

  何日か経って、アパートメントの風呂場にて。ともに背中を流し合いながらの会話だ。

  「ねぇ祐君、好きな子は居る?」

  排水口に、回転する湯が吸い込まれてゆく。些か詰まり気味ではあったが、それは誰にも気取られずに、放置されていた。祐太は、どっこらしょと歳に似合わぬ掛け声を上げると、湯船にドブンと収まった。もう隙間などない。祐太は聞き逃しそうな声で、しかし確かに、こう云った。

  「んあ、あぁ。居るよ。内緒だけどな」

  この時には既に、祐太の気持ちが女の子には向いていないことを、吉香は悟っていた。

  吉香は暫し、考えた。祐太は誰が好きなのか。その相手が委員長だとしたなら、自分はどうする?

  ぐるぐると自問自答を繰り返しながら、番町の夜は更けていった。

  吉香は学校で、同級の男子から告白をされた。冴えない娘に過ぎないとの自覚は吉香には既にあったので、当人としてみれば、意外なことではあった。

  告白を受けて、二言、三言会話をする。

  「君は私の何処が好きなの?」

  「たぶん、全部」

  「私は君が思うような綺麗な人間ではないのね、ごめんなさいね」

  そうしたら、別れ際、思いも寄らない言葉がその男子から放たれた。

  「祐太は委員長のことが好きだから、委員長のことは追っても無駄だから、だから駄目だよ!」

  子供とは、我儘なものである。自己犠牲など、思いも寄らない。だから吉香は、場合によっては自分が、祐太の恋路の邪魔立てをしようと、そう考えた。吉香はこの時、修羅の如き内面を抱えて、往生していたのだ。

  吉香はお小遣いで、ペティナイフを買った。いざとなったらその時には、そう思って、持ち歩くこととしたのだ。機会は、すぐに訪れた。祐太が委員長と待ち合わせるのに、同行した時のこと。桜が開花しつつある、麗らかな春の日。こともあろうに、祐太は委員長に、仲良さそうにハグをするのだった。その馴れ馴れしさが、吉香には許せなかった。ペティナイフを取り出して、祐太を刺そうとする吉香。そこに立ち塞がったのが、老婆だ。

  「勝手な真似ばかりしおって! 我が息子と性根が同じとは、いい度胸しとる! 私が祐太の代わりに相手しちゃるから、掛かってこい!」

  吉香は、その場で泣き崩れた。蹲って震える吉香に、老婆はなおも声を浴びせる。

  「今度やったら、施設送りにしちゃる! 覚悟せい!」

  結局、自発的な申し出により、吉香は大阪に住む遠縁に、引き取られることとなった。

  別れ際、誰の見送りもなかった。寂しい背中。背負った業の分だけ、成長するといい、まだ間に合う。そのように老婆は内心では、エールを送ってもいた。

  程なくして、祐太は、委員長と交際を始めた。互いにバイセクシュアルだったが、一途でもあったので、問題はなかった。委員長は眼鏡がよく似合う。最近、眼鏡を新調したらしく、前よりも少しだけ、大人に見えるようにもなった。

  満開の桜並木の下で、祐太と委員長のふたりが、肩を寄せ合う。青春は、まだまだこれから。

  向かい風で、祐太のサンドベージュのステンカラーの綿のコートの裾が、膨れ上がる。薄緑のサテン地の総裏が、子供服としては珍しい趣きを醸すのだった。老婆が仕立てた一着。花冷えの折、風は冷たく、一筋縄ではいかないことを、予感させてもいた。

  祐太は委員長の勧めで、同じ進学塾に通い始めた。互いに切磋琢磨するふたり。祐太の成績は、みるみる伸びていった。

  「祐太、このまま行けば俺等、第一志望にだって受かるかも知れんぞ!頑張ろうな!」

  「よっしゃ、頑張る!」

  祐太には悩みがあった。思春期らしい悩みも、抱えていた。たとえば、性器が小さいだとか。

  「全然気にしなくて良いぞ。俺は寧ろ大好きだ」

  そう云ってハグしてくれるので、祐太はその頬を、紅潮させるばかりなのだった。

  軋轢も、ないではなかった。地元番町の公立中に通うふたりは、先輩に目を付けられていた。

  「男同士、仲良さそうだな! そのことで晒されたくなければ、これからは俺等の云うことを、黙って聞くんだ」

  ふたりは反発した。そして、何処でも手を取り合うようになる。隠す必要など、感じなかった。怖いものなど跳ね除けていけばいい、そう思っていたから、強かった。時代も、変わってきていたからそれも、味方した。

  このふたりには、担任も一目置くようになった。だから、それ以降は再び、苛めとは無縁でいられた。ただ、来る日も来る日も、努力の連続だった。塾での実力テストの結果に一喜一憂する日々、それはそれで、大変だった。

  同じ頃大阪では、吉香が新たな出逢いを得ようとしていた。吉香は、大阪の外れの小さな工務店の夫婦に、引き取られた。夫婦に実子はなく、事務所と住まいがひとつになった、随分と奥行きのある建物の奥の奥が、新たな吉香の領域となるのだった。建物は築年数が経っており、手前の工場から中に入ろうとすると、木の匂いで充満していた。その日は休日で、狭い工場は、人も疎らだった。吉香は奥の応接間に通されたが、そこには何枚もの写真が誇らしげに飾ってあり、皆この工務店の手掛けた作品のようだった。ソファに案内されて腰を掛ける吉香は、夫婦と対面する。出入りの若い衆が、出前の鮨をテーブルに並べた。吉香と、その若い衆の目が合う。瞬間、ふたりは恋に堕ちた。それはまるで、互いを弓で射抜いたかのようだった。若い衆の名は、宗太郎。十八になる、新成人だ。中学卒業と同時に、鳶の職を志して、今に至る。

  夫婦は吉香に、頻りに鮨を進めた。たまたま手を出した鮪の赤身が、乾き切った喉を、辛うじて通り抜ける。堪らなくなってお茶を飲み干すと、夫婦が怪訝そうな顔をするので、吉香は、美味しいです、それだけを口にしておいた。夫婦はその様子に安堵したのか、それから後は饒舌に喋った。陽が傾きかけた頃、話し始めて二時間は経ったか、夫婦は宗太郎に、家の中の案内をさせた。吉香は緊張した面持ちで、後を付いて回った。

  廊下の突き当たりに、吉香の部屋が用意されていた。中に入ると、吉香は宗太郎に、生まれて初めて、ハグをされた。ほんの挨拶程度のことだったが、感無量、ずっと憧れてきたその瞬間が訪れることで、吉香の気難しい心奥の最深部が、ようやく雪解けを迎えるのだった。

  それから、毎日のように、吉香は宗太郎と話をした。宗太郎の境遇は男女の差こそあるものの、吉香と似通った部分もあったので、成り行きから云っても、義理の兄妹に近い雰囲気は、ないでもなかった。ふたりは程なくして親友のようになり、親交を温めた。このふたりは恋人としても芽が出つつあったものの、宗太郎が告白をしないのは、まだ早いと思った、それだけの話。焦ったいと思っていた吉香は、巡り合って一年の後に、自ら想いを吐露した。改めて、告白をしたのだ。

  抱き締められて、キスをして、大切に扱われているという実感が湧いて出てきて、その日吉香に、ようやっと春が訪れた。

  宗太郎は吉香の前では饒舌だったが、仕事の現場では寡黙そのものであり、それも、その背中を大きく見せた。

  宗太郎は嫉妬深かったから、吉香による携帯での遣り取りは全て、くまなくチェックされていた。それでも良かった。吉香は己の全てを、宗太郎に捧げようと、生まれて初めて固く誓った。

  振り返れば吉香と宗太郎は、長く純愛を貫いたのだった。初めは疑心暗鬼だった周囲の男衆も、ふたりの頑なさに、絆されていった。

  それぞれの未来は、決して暗いわけではなかった。銘々、己の信じる道を、頑張って進めばいい。難しいことではない、人として真っ直ぐであれば、結果は自ずと付いてくる、それだけだった。

  あれから五年。祐太と委員長、それに吉香は、十八で新成人となった。宗太郎も交えた四人での交流が、遠距離の中でスタートした。最初は恐る恐るだった四人も、警戒心が解けると、ちゃんと交われた。時間は掛かったが、これからはもう、怯えることは何もない。

  宵の口、四人で料理店に向かう途中、千鳥ヶ淵で、桜のトンネルさながらの道を抜けた。時折鳩が目に付くがらんどうの遠い空は、次第に迫る夕闇に、全てを溶かし込もうとしていた。その手前の桜の花弁の大群が、それに抗おうとする。宗太郎にとっては初めて見る景色、だからとりわけ印象に残った。

  先日、老婆が今生を去った。大往生に近い話であり、持病を考えれば、よく保った。去り際、祐太は病室で確かに、あの子とも仲良くしなさい、そう聞いた。だから交流を再開させたのだ。

  純情だったあの日々は、再会の日も心奥を照らしてくれていて、眩く煌めいていた。少年だったあの日、皆ががむしゃらに夢を追っていた。今、宗太郎の背中を見ながら、吉香もまた、花嫁修行をしている。ようやっと、身体も重ねた。ふたりでなら、夢も叶う。そう信じられたから、この時ふたりは、確かに幸せだった。

  祐太と委員長は、ともに大学でのキャンパスライフを、謳歌していた。サークル活動にも熱を入れる。まだまだ人生は長い。辛いこともままあるだろう。今は、焦らなくていい。

  四人の行く末が限りなく続く未来への轍となるように祈って、このメモの結びとする。皆んな、頑張れ!

  了