灰色のむこうがわ 09 その二

  [[rb:急遽 > きゅうきょ]]二人の同居人を迎え入れるハメになったフリッドだったが、やるべきことはそう変わらない。周囲の散策、及び資材確保、である。環境が変わったところで生活圏の安全が保障されることは一生ない。いついかなる時も危機に直面しないよう、対策を施していくしかないのだ。

  「でもなぁ……。少しくらいさ、手伝ってくれたっていいと思うんだよなぁ……」

  静かに雨が降る中、フリッドは一人[[rb:廃墟 > はいきょ]]を散策する。

  人手が増える、つまりは単純に活動の幅が広がるのが普通だろう。だが、老夫婦達は廃墟生活において、フリッドに対しあまり[[rb:貢献 > こうけん]]してくれなかった。本当に、ただ居座るだけの存在だった。

  アライグマの老女、サルビアは雨が降ると節々が痛むらしく、あまり重労働に向いていない。なら彼女の夫はどうかといえば、これまた別行動をとっていて中々姿を現さない。

  適材適所といえば聞こえはいい。一人きりの廃墟暮らしが、他者のお[[rb:蔭 > かげ]]で寂しくなくなる。それはまあ、いいことなのだろう。幸せな、ことなのだろう。

  けれど。けれども、だ。

  「胸がこう、風吹いたみたいに寒いんだよなぁ……」

  どこか寒々しい。ヒトが近くに居るのに、冷たい感じがする。初めて体験する対人関係の冷たさに、フリッドは胸がざわついて仕方なかった。

  「おヤ? ならバ身体がポカポカすルオ薬なんてイカガでショウ?」

  「いやそんな都合がいい薬ある訳ないじゃん」

  「ゴ安心を! チャンとトリ揃えておりマスとも。

  世のタメ人のタメ、生きとし生ける万物ヲ救うタメにあるのガ私の薬なのデス!」

  いやそもそも薬で身体が温まっても意味がないのだか。そう言おうとした所でフリッドははたと気付く。

  ──あれ。俺、いま誰と喋っているんだ? と。

  「さア! 人類ノ英知、その[[rb:真髄 > しんずい]]ヲその身ニ刻むのデス!」

  「出たあああぁぁぁ!!! ロイヤルオバケぇぇぇぇえ?!?!?」

  ※

  「なんデ、驚カレるんですかネ。私達、知った中でショウ?」

  「しれっと会話に混ざろうとするからだろ。あーびっくりした」

  「私とアナタ、一心同体。不思議なコトじゃないでしょうニ、私の[[rb:鼓膜 > こまく]]潰しタイんですカ?」

  「俺の心臓が潰れそうになってんだが」

  「それハいけなイ! すぐサマお薬のジュンビを」

  「あやまれ。薬飲ませる前に、俺にあやまれ」

  

  特になんの悪びれもなく、山羊獣人ゴードンは薬を勧めてくる。今日も今日とて白い毛をこれでもかと伸ばし、その不気味さを助長させている。そうでなくとも怪しさ全開、出会おうものなら卒倒ものだ。その毛を刈るか、精魂込めて謝ってほしい。

  

  「いや、謝る前にさ……なんでいるの?」

  フリッドのその疑問は最もだ。何故自然にそこに居るのが当たり前のように話しかけて来ているのか。拠点を変えた、なんて本人には一切話していないのに。偶然だったとしても怖すぎる。まさか、付いてきたのだろうか。

  

  思わずゾッとしたフリッドは距離をとり身構える。怪しきもの、信じるべからず。ただでさえ素性の怪しい男だ、何をされるか分かったものではない。

  だが、フリッドのそんな疑念知ったもんかとでも言いたげに、ゴードンは理由を告げた。

  「なんデって……迷えル子羊がいタラ手を差し伸べるデショ?」

  「羊なんてドコにもいないけど。え、何。見えないものでも見えてんのあーた?」

  「……言葉のあやっテ、知ってマス?」

  「なにそれ」

  「なんカ、出鼻ヲ[[rb:挫 > くじ]]かれた気分ニさせられマスネ、貴方」

  「鼻? 何ともなってねぇじゃん」

  「oh……」

  頭を押さえ、ゴードンが軽く唸る。

  フリッドは腹立たしくて仕方ない。なんだ、なんなんだ、この反応は。頭が痛いのはこっちだというのに、何でこんな反応を取られなければいけないんだ。

  「マア貴方が残念ナ方であるのハどうでもイイのデス」

  「よくないなー。扱いってのが、よくないなー」

  「大事なのハ投薬ガ必要ってコト、たダ一つ」

  「お、おクスリジャンキーめ……」

  「聞コエが悪イ。ジャンキー違いマス」

  こんなイカれた男に長々と付き合ってはいられない。フリッドは集めた資材を手早くまとめると、ゴードンを置いてその場を立ち去ろうとする。が、ゴードンは見逃す気がないのだろか、足早に歩くフリッドの後をついてくる。

  「いや来なくていいからね? 薬、必要じゃないからな?」

  「いいエ、必要でス! オ薬はこの世のヒトビトを救ウ万能の代物なんでスよ?」

  「やっぱジャンキーじゃねえか」

  「違いまス。オ薬とハ有り難いモノ、中毒と一緒にしなイで頂きタイ」

  対して違いがないだろうとフリッドは反論しそうになったが、そうじゃないと慌てて口を閉ざす。たとえ違いを[[rb:懇切 > こんせつ]]丁寧に説明されようが、理解なんてできないだろうと悟ったからだ。むしろ、聞くだけ無駄なこと。あえて口をはさんで相手するようなことでもない。

  「何故ニ? なにゆエ、苦しイ道を進ミたがるのでス」

  「いや苦しんでないし」

  「この世ハとうニ[[rb:腐敗 > ふはい]]し手もツケられなイ。ヒトの手でハどうしようモないのでス。ヒトは誰カを救えナイのでスよ」

  「……」

  フリッドに無視を決め込まれても、なおもゴードンは話し続ける。高らかに演説するかのようなその姿は、けれど目の前の虎の心を打つことはない。

  けれど。ゴードンの“ヒトは誰かを救えない”という一言に、その足がピクリと止まる。その反応に、ここが好機と言わんばかりにゴードンは言葉を続ける。

  「ヒトは万能じゃアリません。基本、無力なのでス。ヒトは誰かを幸せにしナイし、苦痛ヲ和らげることモ出来なイ」

  「……」

  「独りジャなけれバ、なんテ考えハまやかしニ過ぎません。何故なラ全てを満たすコトなど出来ないカらでス。常ニ不満が出てキテ当然、だっテ万能じゃナイんでスから」

  「だから助け合うんだろ。助け合いたいって、自然とそう……」

  そう言いかけて、しまったなとフリッドは思う。間違えて構ってしまった。こんな問答、どうせ難しいことを並べ立てられて頭がパンクしそうになるのがオチだというのに。

  

  「助けられナイのでスよ、ヒトは。[[rb:縋 > すが]]ることしカ、ヒトはできナイ。

  己が救われてイる。幸せニなってイる。[[rb:溺 > おぼ]]れるようニ心酔し、より深みへト沈んでゆくのでス。

  ──己ヲ誤魔化さなけれバ生きてなんカ行けなイ。嗚呼、ヒトってとてモ不完全。そうでショ?」

  思い当たるフシはあった。あの、アライグマの老女。

  私達は幸せなのだと、まるで取り付く島がない。傍からみれば苦しそうで仕方ないというのに。

  幸せに溺れる。幸せというものに縁遠いフリッドには、あの老夫婦が幸福なのか判断できない。そう言われてしまったら、そうなのだろうと納得するしかない。

  でも。自分を誤魔化している、それならば腑に落ちるのだ。彼らの関係は、まやかしだと。

  「だからクスリに頼るのでス! 理想的なものなんテ自分にしカつくれません。クスリに逃げテ、気持ちよくなっちゃいまショウ! ささ、レッツトライ」

  「いや大人しくなったからって隙をついて飲ませようとしないで?」

  いつの間にか口元まで運ばれていた薬を、その手ごと払いのける。危なかった、もう少しで飲まされる所だった。ぶつくさと口弁を垂れるゴードンに、もう二度と油断しないとフリッドは身構える。

  「クうう……あともう少シだったのニ」

  「いい加減諦めろよ。そんなんでよく薬で救うなんて言えるよな」

  「……わかりましタ。一端ここハ引いてあげまショウ」

  「いったん?」

  「代わりニ有益な情報でも差し上げまショウ。なんたっテあなたはセカイを救う、私と志ヲ共にする方なのでスから」

  「やめてお前と一緒にしないで」

  そもそもセカイを救う気なんて一切ないのに、どうしてそんなことになっている。拒絶心からかゴードンのことを頭ごなしに否定するフリッドだったが、このことについては彼に責任がある。

  初[[rb:遭遇 >そうぐう]]時、彼はセカイを救うと冗談で言ってしまっているのだ。まあそんな冗談間にうける方がどうかしているし、何なら言った本人が完全に忘却の彼方へと放り投げているのだが。

  「近々ここ近辺でマンハントが行われるようでス」

  「マンハント?」

  「知りませんカ? ヒトがヒトを刈る行為、それを指ス言葉なのでスが」

  そんなの初耳だ。そんなおぞましい行為なんて聞いたことがない。気が狂っているにもほどがある。ヒトを刈る、なんてあり得るものか。だって、ヒトは互いに助け合う生き物だろうに。

  「そんなことするわけないだろ。だって、おかしいだろ」

  「まアあなたがソウおっしゃるのも無理はアリません。けれどこれガ現実でスよ」

  ゴードンはすでに諦めたかのように言葉を吐き捨てる。もう彼にとってヒトは手の施しようもないものだとでも言いたげに。彼らを信じるなんて、そんなバカげた行為は無駄なのだと言いたげに。

  ゆるり、首を振りながらゴードンは口を開く。

  「言っているでショウ? 薬こそガこの世を救う。ヒトはもう、行きつくところマデ行ってしまったのでスから」

  :::

  その後、二、三度危ない所こそあったが、フリッドはクスリを飲まされることなく拠点へと戻ることができた。

  「づ……づがれだ……」

  ただ資材集めのために出ていただけでこの体たらく。狼に知られたら、きっと情けないと思われてしまうだろう。『この程度サクッとやれよ、ダストボックス』とか、彼ならいいそうだ。

  でも仕方ないだろう。会うことは二度とないだろうと思っていたゴードンと嫌な再会を果たし、挙句面倒くさい絡まれ方をされたのだから。想定外の事態はいつもよそからやってくるものだ。願ってもいないのにおこるものだから、こればかりはどうしようもない。

  気疲れでクタクタのフリッドには、拠点までの階段ですら難所だ。しかも前科もちだ、尻尾の毛がぶわりと逆立ち膨らんでしまう。足元を滑らせて落ちないように、なるべく細心の注意を払って登っていかなくては。

  (今回は、長いな。結構時間掛かってる気がする)

  ゆっくりと階段を一歩一歩踏みしめながら、フリッドはふと考える。いろいろと気がかりなことは多い。これからの生活も、ゴードンが言うマンハントのことも。でも、一番気がかりなことはやはり狼のことだった。

  体感では、とっくに狼は戻ってきている頃。拠点が変わったから返ってくるのに時間が掛かっているのかもしれない。けれどそれにしては遅い気がする。

  (……やっぱ、嫌われちまった……の、かな)

  だとしたら。それはきっと自分のせいだ。

  [[rb:愚図 > ぐず]]で鈍感で、その上ヒトでなしとくれば、見捨てられても仕方ないだろう。やはり、ヒトは得体のしれない化け物と生活を共にはできないのだろうか。

  拠点の入り口までたどり着いたフリッド。扉は[[rb:依然 > いぜん]]として壊れており、ずっと開け放たれている。入ろうと思えば誰でもできる。けれどフリッドは入ることができず、その場で呆然と立ち尽くす。

  薄々はそうではないかと感じてはいた。だとしたら、もうここにいる必要はないんじゃないか。潮時と言うやつだ。人知れず気づかれずに去るには、今この現状は都合が良い。

  そうだ、そうしよう。淡い期待を抱き続ける必要なんてなかったじゃないか。荷物なんか置いていって、このまま黙って遠くへ──

  「おい」

  「うおっひゃあ!」

  そのまま黙って立ち尽くしていたのがまずかったのだろう。振り向けば、目の[[rb:窪 > くぼ]]んだアライグマの老人が、いつもより深く眉間に皺を寄せていた。

  「どかんか馬鹿者」

  「ご、ごごご、ゴメンなさい」

  「謝罪はもっと分かりやすくしろ。謝ることすら碌にできないのか、貴様は」

  「……ごめんなさい」

  声をかけられて[[rb:漸 > ようや]]く、自分が邪魔になっていたことに気づいた。フリッドがさっと身を引くと、老人は[[rb:睨 > にら]]みをきかせながら横を通っていく。すれ違いざま、老人はフン、とわざと聞こえるように鼻を鳴らして。瞬間、ビクリとフリッドの体が震える。そんなフリッドのことなどお構いなく、老人は奥へと引っ込んでいった。

  去りゆく老人の背を見つめながら、フリッドは疑問に思う。

  あんなに邪険に扱うヒトの、何処がそんなにいいのだろう。妻であるサルビアは、あんな態度をとる夫と何故ずっといられるのだろうか。フリッドから見た老人は、どう見ても最悪極まりない男だ。優しさのかけらすらない。寂しくならないように、なんて言っても限度はあるだろう。離れてしまえば、楽になれるというのに。

  「ホント、なんで……」

  サルビアは、幸せだと言い切れるのだろうか。

  この苦しみが彼女の幸せだとは、到底考えられない。

  「あら、あらあら」

  老人と入れ違いざまに、彼の婦人であるサルビアがフリッドに駆け寄ってくる。

  「おかえりなさい、フリッドちゃん」

  「あ……」

  「ただいま。ただいまっていうのよ。帰ってきたら、待っているヒトに感謝するの。ね?」

  「……た、ただいま」

  彼女の言葉に習うように、フリッドは帰宅を告げた。

  なんだかくすぐったい。恥ずかしいでもないのに、顔全体がカッと燃えるように熱い。実際に焼かれるよりは痛くない。けど、なんだがじっとしていられない。

  

  「随分と濡れて帰ってきちゃって、まあ」

  「途中でパラパラ降ってきちゃって……き、まして」

  「大変だったでしょう? 今拭くものを持ってきますからね」

  そう言うと、サルビアはタオルを取りに戻っていく。

  気付かれてはいないだろうか。顔が火照っていることに。フリッドはどうにもいたたまれないというか、落ち着かないというか、そんな雰囲気にモジモジしながらも素直にサルビアを待つ。

  挨拶なんて普段からしたことがない。狼と暮らしていても「よう」とか「おう」とか、掛け声で済んでしまっている。

  それより前は、そんな気分にすらならなかった。顔を合わせて、なんて声をかければいいのか分からなかった。

  そんなこと、誰も教えてくれなかった。

  「おまたせ。……って、あら?」

  「は、ハイ! なん、なんでございますですか?!」

  「フリッドちゃん元気ないわねって。どうかした?」

  「してない、じゃなくて、してません」

  「嘘おっしゃいな。顔にちゃーんと書かれていますよ」

  「サルビア、だって! 顔にそそそ、そんな、ことことことこと」

  

  顔に文字なんて書かれているはずがない。間違いなくそう言い切れるのだが、元気がないことは事実だ。

  もしかして、本当に文字が浮かんでいるのでは? きっぱり言い切るサルビアに、だとしたら顔なんて見せられないとフリッドはサッと両手で[[rb:覆 > おお]]い隠した。意味なんてないとは思うが、見抜かれているとなると隠さざるおえない。

  「あらら、そんな恥ずかしがらなくてもいいのに」

  「ち、違うよぉ〜? 俺、そんな、ちげーしぃ〜?」

  特別変わったことを、彼女は一切していない。していないのだ。にも関わらず、フリッドはこそばゆい気持ちで一杯になる。

  この感情は一体なんだろう。どうしてこんなにも、普段どおりのことが崩されるのだろう。そんな知らない感情にフリッドが[[rb:悶 > もだ]]えていると、頭にふわりとタオルをかけられる。

  「はひぇ?」

  「はい、フリッドちゃん捕まえた」

  優しく、丁寧に、サルビアはフリッドの濡れた身体を拭いていく。毛先から水分を取り除くように、軽くたたくような拭き方だ。普段ガシガシと擦るように拭いているフリッドだが、彼女の拭き方はどこか気持ちいい。

  

  「ちょっと、屈んでくださる?」

  「ヒャイ! よよよ、よろこぶぶぶ」

  言われた通り、即座にフリッドはその場で屈む。

  フリッドの反応に面白がったのか。サルビアがくすりと笑った。

  

  覆った手の指先から、フリッドはちらりとサルビアを覗く。被せられたタオルの向こう側、手とタオルで[[rb:遮 > さえぎ]]られながらも、彼女はそこにいた。

  穏やかだった。情けない自分を、その瞳に移しているはずなのに、彼女は穏やかにフリッドを見つめている。

  ぐずりと、胸の奥の何かが[[rb:蠢 >うごめ]]く。閉まっていたはずの何か。懐かしいような、何か。

  「……あら?」

  この目を、見たことがある。名前がついているのかも分からない、この視線を。

  気づけば、フリッドはサルビアのその頬に触れていた。触れたくて、懐かしくて、どうしても手に入れたくて。

  「どうしたの? フリッドちゃん」

  「あ、」

  瞳をまばたかせ、なんとも不思議そうにサルビアはフリッドを見つめる。急に、いけないことをしてしまった。そんな気分になったフリッドは、サッと手を引っ込める。

  触れた指先が、まだ温かい。軽い火傷を負ったかのように、ほんのりと痛む。不思議だ。ただ、触れていただけだというのに、今にも後悔で押しつぶされそうだ。

  「フリッドちゃん?」

  「いえ、その……」

  ただ。その後悔の中に、[[rb:僅 > わず]]かながら違うものがある。それは懐かしさだ。二度と取り戻せない憧れ。望郷、とも言い換えられるだろうか。いつかの過去の、救われていた虎の少年の記憶。

  直感的に、取り戻せそうな気がした。触れれば、近づけるような気さえした。

  目の前の老婆は、あの獣人ではないというのに。

  「……もしかして、言い難いことかしら」

  「……」

  「もしよかったら、私に話してくださらない?」

  「それは……」

  「老い先短いしわがれたお婆ちゃんよ? 私。もしかして相手にしたくないかしら」

  「そんなこと……!」

  クスリ、サルビアが微笑んだ。ああ、しまった。フリッドはほんのちょっぴりとだけ後悔する。

  卑怯だ。そんなふうに言われてしまったら、話すしかないじゃないか、と。

  「正直退屈していた所なの。ね、私を助けると思って、付き合わせてくれないかしら」

  「……しょうもない話、だけど」

  「いいじゃない。暇つぶしには丁度いいわ」

  「酷いなあ。暇つぶしなんて」

  「それじゃあもっと重々しくする?」

  「いや、いいや。俺そういうの苦手だし」

  改めてフリッドは座り直し、サルビアに身体を拭かれながら話し出す。

  遠い昔のような、暖かな記憶。奇跡のような、大切な思い出を。

  [newpage]

  フリッドが“フリッド”になる前、彼は自身のことを空っぽだと認識していた。

  空っぽ。中身のない入れ物。本来満たされているはずの、ヒトとして決定的な中身が、彼にはなかった。

  好きなもの。ない。

  嫌いなもの。……ない。

  嬉しいと思うこと。ない。

  悲しいと思うこと。ない。

  ヒトとしての苦楽が、経験が、自分という入れ物には存在しない。彼にはそんなもの、求められていなかった。

  生きていることだけが、存在理由。投薬され、殺され、生き返る。それだけが、求められてきたものだ。

  今まで生きてきたのも、上手く生き返ることができたから。求められたことを、いつも上手くできたから。それができなくなったら、この入れ物にきっと価値はないだろう。

  ──じゃあ。今こうして外にいるのは?

  きっとそれは、手を握られたから。

  空っぽの入れ物を、見つけてくれたから。

  入れ物に、一つの小石を置いてくれた。そんなヒトが、現れたから。

  ※

  「いやー、夜はやっぱ冷えるなっ」

  

  [[rb:焚火 > たきび]]に燃料をくべ、大柄な人影が“空っぽ”に話しかける。空っぽは、足を放り投げ無造作に地べたへと座っていた。言われでもしないと、それが生きているとは到底思えない。生気の宿っていないその目は、赤く揺れる炎のみを映している。

  「お前もそう思うだろ? 無理、してないか?」

  人影が気にかけるように、空っぽに近付く。

  のそり、のそりと確実に地面を踏み鳴らす慎重な足取り。迷彩柄のズボンに黒のタンクトップ。首元にはドッグタグが下がっている。[[rb:亜麻色 > あまいろ]]の体毛は長く、頭の毛を後ろで団子状にし、縛っていた。

  

  彼こそが実験体を、空っぽを外に連れ出したかつての恩人。オランウータンの獣人、フリードリヒその人だ。

  「もっと火の近くに行こう。大丈夫、燃やしたりなんかしないから。な?」

  彼は空っぽの前で屈むと、空っぽに手のひらを差し出す。

  暫く、沈黙が続く。何を思うのだろうか、ただぼんやりと、空っぽはオランウータンの男の手を見つめている。

  「フリッツ。そっち、火起こしたか?」

  

  ひくり。男を呼ぶ声に、空っぽの肩が微かに震えた。

  

  「大丈夫だ。そんなおっかないことは」

  「火、起こしたか?」

  フリードリヒの横から、二つの大きな目玉が浮かび上がる。「え、衛生兵ー!」と叫ぶ彼に、「私がその衛生兵だ」と大きな目玉は返した。

  「まったく。いい加減慣れたらどうだ」

  二つの目玉が閉ざされ、自身を衛生兵だと名乗る男が遠ざかる。フリードリヒと同じズボン、上はシャツをしっかりと[[rb:羽織 > はお]]った有翼人。頭の横に耳のような羽を持つ、ミミズクの獣人。

  「いや音もなく背後に寄られたら誰だってビビるだろ」

  「だったら現役の癖に、簡単に背後取らせるんじゃない」

  「白兵戦はそこまでじゃないんだ。[[rb:凄腕 > すごうで]]の暗殺者あたりとごちゃまぜにしてないか?」

  「それでも注意力散漫じゃないか」

  「信頼の証拠さ。背中を預けられる、いいことじゃないか」

  「物は言いよう」

  「戦士にだって休息は必要」

  互いに良好な関係なのだろう。会話の端々に気のおける相棒のような、そんな印象を彼らは抱かせる。

  「それで、焚火を放っておいて男を口説いた成果は?」

  「まだ……かな。もう少し時間がかかりそうだ」

  

  首をかしげ、ミミズクは空っぽの様子をみる。音もなく空っぽ前に立つと、「失礼」と一つ謝りをいれ、空っぽの腕を取った。

  「……ふむ」

  「ハーヴェイ?」

  「脱水症状を起こしているな」

  「マ?」

  「マ」

  ミミズクの獣人、ハーヴェイの発言に驚いたフリードリヒは、彼に習うように空っぽの顔を覗き込んだ。

  「[[rb:瞳孔 > どうこう]]が開いている。息は浅いし、意識レベルが低い。元からそうだったとはいえ、重症だな」

  「あ……クソっ、俺がついていながら……!」

  「直ちに処置が必要……だが」

  ハーヴェイは[[rb:目蓋 > まぶた]]をほんの少しだけ伏せ、その後に続くであろう言葉を言い淀む。余程言い辛いことなのだろう、翼のような腕で腕組みをし、大きめの手で[[rb:嘴 > くちばし]]を隠している。

  一方、フリードリヒは沈痛な面持ちで空っぽを見つめ続けている。大分重苦しそうに口を開き、「なあ、」と隣にいるハーヴェイに話しかけた。

  「やっぱり、口移しで飲ませなきゃ駄目かな……!」

  「ほう」

  ハーヴェイがまたこれか、という態度で続きを促す。

  オランウータン系猿獣人フリードリヒ。それは、非常に義理堅い男だった。

  

  「だって、こいつが心底辛いときに気付いてやれなかったんだ。最低にもほどがあるだろ!?」

  「そうだな」

  「なんて馬鹿なんだ俺は! ゴメンな、今、水飲ませてやるからな……!」

  「口移しでか」

  「口移しでだ」

  非常に真面目に、これしか方法がないだろと言わんばかりの顔で、フリードリヒは言う。そのまま彼はバックパックから水筒を取り出すと、ぐいと口に含んだ。

  「なあ」

  「んう?(特別翻訳:なんだ?)」

  「吸水率を上げるには普通の水では駄目だ。電解質、つまりは塩分などを摂取できる保水液じゃないといけない」

  「んふふっふんっふふ(翻訳:タブレット持ってる)」

  「……そうか」

  任せてくれ、なんて言わんばかりのハンドサインをハーヴェイに送り、フリードリヒは塩タブレットを口に放り込んだ。

  「なあ」

  「んーふふ(翻訳:どーした)」

  「本当に飲ませる気か。口移しで」

  口の中でモゴモゴと混ぜ合わせながら、フリードリヒはハーヴェイの方を向いた。

  行為こそふざけていそうだか、彼のその眼差しは真剣そのもの。止めないでくれ、これは俺の責任だから──そんな覚悟すら伺える。

  フリードリヒが、空っぽに向かい合う。まだ、幼さの残る虎の青年。過酷な実験から開放された彼は、ただ何も言わずに項垂れている。

  きっと今も、虎の青年は囚われている。フリードリヒには、そんな確信があった。初めて出会った時、うつ伏せに倒れながらも、彼は必死に手を彷徨わせていた。助けて欲しいと、全力で訴えていた。

  だから、絶対に助けてみせる。フリードリヒにとって、彼に尽くす理由はその程度でよかった。

  そっと空っぽの下顎を持ち上げる。ドロリと溶けている、なんて例えが浮かぶ彼の瞳。きっと、そこにはなんの光明すら映らないのだろう。フリードリヒは、そんな彼が痛ましくて、放っておいた自身が許せなくて、涙が[[rb:滲 > にじ]]みそうだった。

  絶対に、救い出してみせる。もう囚われなくていいんだ。そんな覚悟と共にフリードリヒは顔を寄せ、その口元を──

  「なあ」

  「んーふふ!(翻訳:なんだよ!)」

  「感染症のおそれがある」

  「……ん?」

  「口内とは君が思う以上に汚いものだ。加え、目の前の青年は免疫力が非常に低下しているものと思われる。君が救助行為としてそれを行なった場合、最悪二次発症のケースが」

  「そんだけ具体例を挙げて止められるならもっと早く止めろ!!」

  〜〜〜

  ぼんやりと、空っぽは空を眺めていた。

  いつもより、すれはずっとずっと遠い。暗くてよく見えなくて、届きそうにない。

  「点滴があるなら早く言ってくれないか」

  ふと、どこからか音が転がり込んできた。

  「君は言っても止めないだろ」

  また、今度は違う音。なんだろう、こんなに近くで、音がなるものがあったろうか。空っぽは首を横にずらし、その出処を探ろうとする。

  「いーや、お前は止める気がなかったね。なんなら面白がっていただろ」

  「当たり前だ。私を何だと思ってる」

  「偉ぶるな。ったく、外ヅラだけは優等生なクセによ」

  「正直口内で[[rb:撹拌 > かくはん]]を始めた時は引いた」

  「だから止めろ?!」

  赤く揺れるものを囲むように、二つの人影がそこにはいた。

  痛い目に合わされるのだと、空っぽの本能が告げる。空が遠くなろうと、これだけは変わらない。叫ぼうと、嫌がろうと、これだけは変わらない。

  

  寝ても覚めても、痛みは続く。これが終わることは、未来永劫、あり得ない。

  ふと、人影の一つがこちらに気づいた。黄色く大きいその両の丸い球が、空っぽを捉えている。

  「……あ」

  身体中の体毛が、ぶわりと逆立つ。呼吸が、息が、上手くできない。

  その視線の正体を、空っぽは知っている。いつもあの目に、見られていた。何も感じさせない、冷たい眼差し。助けてくれと、止めてくれと頼んでも、聞き届けてはくれない。

  「フリッツ。どうやら起きた」

  「あああ゛あ゛あ゛!」

  「なっ、おいどうした!」

  なんで、ここに。どうして、見つかった。

  空っぽは何とかその目から逃れようと[[rb:藻掻 > もが]]いた。そして自体は、より深刻な方へと駒を進める。

  空っぽが、ある一点に気がついた。腕に、何かが刺さっている。それは管を伸ばしていて、寝転がっている空っぽの頭上まで繋がっていた。そこには、空っぽがよく知ってる、液体の入った袋がある。

  「あ」

  まただ。また、同じ日々。

  幾度となく繰り返され、そして終わることのない毎日。抵抗も、逃げ出すこともできない、出口のない部屋。

  「ゃ、だ。やだやだヤダヤダヤダや゛だや゛だ!!」

  より一層痛々しい悲鳴をあげる空っぽ。腕に刺さった管を掴み、無理矢理引き抜こうとする。

  が、その行為にいち早く気づいたフリードリヒがそれを止めた。

  「っ、待ってくれ、外すな、大丈夫……だから、」

  「ぐぅぅヴゥゥ」

  「このっ、……おい、見てないで手伝ってくれ」

  「何をいうか。私は非力なんだ」

  

  額に汗を滲ませ、フリードリヒは空っぽを抱きしめる。「まるで獣帰りだな」と所感を述べるハーヴェイ。どこまでも呑気な彼を今すぐにでも殴り飛ばしたい衝動に駆られつつも、それをぐっと堪える。

  「っく、おい!」

  空っぽはがむしゃらに暴れ、なんとかフリードリヒの拘束を解こうとする。先程まで無気力で大人しかったというのに、どこからその体力が出てくるのだろう。けれど仮にも相手は軍人、その程度では抜け出せるはずもない。

  「俺を見ろ! 俺は君に危害を加えない! 味方なんだ!」

  「あ゛ぁあ゛ぁあ゛!!!」

  「頼む! お願いだ、俺だけを見てくれ!!」

  フリードリヒの必死の説得が通じたのだろうか。あるいは、体力がなくなって諦めてしまったのか。空っぽの抵抗が、徐々に弱まっていく。

  

  「……ごめんな、苦しい目にあわせて」

  「ふっ……ぐ、ぅう……」

  「もう大丈夫だからな。俺がずっとついているから。ずっと、守り切ってみせるから」

  「そのことなんだが」

  [[rb:熱狂 > ねっきょう]]的な、傍からすればプロポーズにも取れるフリードリヒの宣言。それに、水を指すようにハーヴェイが割って入った。ヒクリ、空っぽが震えた。

  「おい。怯えさせるな」

  「知るか。殆ど本能で怯えられていては私も手の施しようがない」

  背を叩き、子をあやすようにフリードリヒは空っぽの背を叩く。「まるでヒトの親だな」なんてハーヴェイが茶化したが、「正真正銘、ヒトの親だが?」とフリードリヒも返した。

  「この子を連れて行く気か」

  バードンが問うているのは、ただ一つ。[[rb:荒廃 > こうはい]]した過酷な大地に、空っぽを引き連れて行くのか、ということ。

  本来なら、それは悪手だろう。サバイバル経験のない、ましてや弱り切っている青年だ。大人しく静養させるべきだと、ハーヴェイは言いたいのだろう。

  「せめて、ヒトの集まる所に預けるまではな」

  「そういうことじゃない」

  そんなフリードリヒの予想を、ハーヴェイは首を振って否定した。じゃあ何が問題なんだ、そう問い返すと彼は無慈悲にも空っぽの正体を指摘する。

  「その子は、いや……ソレはヒトじゃない」

  ヒトじゃない。そう言い放つハーヴェイは冷酷無比だ。長い付き合いであるフリードリヒですら、耳を疑う。

  

  「い、いや。この子はどう見たって普通の子だろ」

  「君にはそう見えているだけだ。教えただろう? あの研究施設が何をしていたのかを。何を生み出そうとしていたのかを」

  あくまで結果だけを、そのままの真実を、ハーヴェイは包み隠さず話す。

  バードンの言うとおり、フリードリヒは確かに教えられていた。彼が、不死身であるということ。そして、あの研究所が、不老不死を人為的に生み出そうとしていたことを。

  「正直、私も興味がある。不老不死などオカルトな研究を、それこそ真面目にやっているなんて」

  「解剖なんかさせないぞ。この子は、解放されるべきなんだ」

  「私はそれを真っ向から言える君が好きだ」

  「なあっ?!」

  ハーヴェイから急に好きだと言われ、フリードリヒは目を白黒させる。突拍子もない事を彼が言うのはよくあること、一々真に受けてはいけないとフリードリヒは自分に言い聞かせてきた。けれど、直球で好きだと言われてしまうと、さすがに動揺せざるおえない。

  「君がいなければ、今頃私も君が疎むような存在になっていた。こうして対話すらしていなかったことだろう」

  「告白としては重すぎるんだか」

  「何を言ってるんだ、君は。第一、君は既婚者じゃないか。この程度の告白、どうってこともないだろ」

  「まあソウデスネ」

  何時までも初心というものを忘れないな。そう付け加えられてしまうと、フリードリヒもいよいよ持って赤面しだした。

  未だ空っぽを抱きしめつつ、それに顔をうずめるフリードリヒ。傍目からすれば、とても既婚者だとは思えない。面倒見の良さだけは一流だが。

  「けれど」ハーヴェイが改めて空っぽを観察する。見た目は至って普通の虎獣人。けれど、彼は既にヒトではない。バードンは、そう結論づけている。

  「それでもその子はヒトの道を反れている。他者にそうなるよう仕向けられてね」

  「だから俺達が」

  「はっきり言おう。その子の治療、私は無駄だと思った」

  「なっ!」

  「その子は不死身だ。放っておけば勝手に復活する。……違うか?」

  「……っ」

  目の前のフクロウが、一瞬許せないとフリードリヒは思った。こうして虎の青年を抱きしめていなければ、胸倉を掴んで殴り飛ばしていた。

  彼が冗談で言っていないのは、付き合いで分かる。そう長いモノではないが、それでも[[rb:窮地 > きゅうち]]を共にした仲だ。それくらい目を見れば伝わってくる。

  だからこそ、許せない。信じられない。

  頭では理解している。今抱きとめている青年が、死ねない身体であることを。ハーヴェイの言い分が、的外れなものではないと、嫌になるほど分かっている。

  ハーヴェイは合理的だ。治療が必要ないのならば、行わなくていい。物資は無限にあるわけでない。節約出来るのならば、そうしたほうがいい。実に正しい。状況に適応した、模範的な回答だろう。

  「最終的に、結果的に、その子はヒトとして扱われなくなる。衛生兵である私が、既にそうなんだ。ヒトを治療することが仕事の私が、だ」

  「……やめろ」

  「否定するなら構わない。けれど、」

  「止めてくれ!!!」

  きつく、壊れてしまうくらい、空っぽの青年を抱きしめる。喉元から絞り出されるように放たれたフリードリヒのその叫びは、ハーヴェイの言葉を遮るのに十分だった。

  「俺は……お前を嫌いたく、ない」

  「……」

  すべてを察したのだろう。無言のまま、ハーヴェイは二人の元を去っていく。

  彼が何を続けようとしたのか。このときのフリードリヒには、考える事すらできなかった。

  ただ、目の前の空っぽが。ヒトとして扱われなかった彼が、可哀想にしか思えなかった。

  「俺が、絶対守ってやるから。絶対に、見捨てたりなんかしないから」

  その決意が、その約束が、果たされることなどない。ただイタズラに二人を苦しめることになると、その時の彼は知る由もなかった。

  :::

  ヒトとしての扱い。それが、できない。

  当時はぼんやりと聞き流していたが、今ではあの大きな目玉の鳥が言わんとしたこと、なんとなくだがフリッドには理解できるようになった。

  それを悲しいだとか、虚しいだとかは考えない。そうすることが、無駄だと教わったから。

  目の前の他者と、自分が手を取り合う。それは一生訪れない。ましてや、不死身の身体では、なおさら。

  「……フリッドちゃん?」

  「ほひゃ? あ、なんだ?」

  

  サルビアがフリッドの手を握る。相当長い間、呼びかけに答えなかったのだろう。サルビアの眼差しが、どこか不安げな色をたたえている。

  「随分と、心に残る思い出なのね。素敵なヒトに、大切に思われて」

  「あ……」

  「今その方はどうなさっているの? えーと、フリードリヒさん」

  「俺はリッツって、呼んでましたけどね」

  今はもういない、この場にいないヒトの名を呼ぶ。

  大切なヒトがくれた、ここにいていいんだと言ってくれた証。『俺は一杯持ってるからな。お前にお裾分けだ』そう言って、名前をくれた。それほど昔という訳でもないのに、酷く懐かしい。

  そうして今、ここにいる。首に下げたドッグタグと共に。何もなかった空っぽは、“フリッド”として生まれた。

  「リッツは今……多分、空の上にいる」

  「お空の、うえ?」

  「はい。そう言ってたんです。『俺達はいつか、あの灰色の向こう側に行くんだ』って」

  そしてフリッドは思い出す。あのヒト──リッツが言っていた、空の上の話を。

  そこはヒトが最後に辿り着く場所らしい。この世のすべての生き物が等しく行けて、等しく受け入れられる。上も下もなく、全てが平等の場所なんだと。

  「綺麗な所らしいんです。澄み渡ってる? とかも言ってたっけな」

  「……そう」

  「多分、そこにいる。自信はないけど、もし先に行くことがあったら……待って、る……って」

  待っている。だから、安心しろ。そう、リッツは言っていた。

  あのヒトのことだ。律儀に、真面目くさってそこにいるのだろう。そんな妙な確信を持たせてくるのがリッツというやつだ。だから、心配する必要とかはない。

  ポタリ、水滴が落ちる。おかしい。ここには屋根があるのに、雨が降り出すなんて。

  「……フリッドちゃん」

  「あ、えーと、はは。うん」

  ああ、止まらない。止みそうもない。こんなにボロボロと降り出しているのに、どうしても、その場から動けない。

  フリッドは薄々感づいていた。自分には、最後というものがない。だからたとえ待っていてくれてたとしても、また会うことなんて不可能だと。

  あの空の向こうに行きたい。それは叶わない夢で、それでも焦がれる夢。普通であることが羨ましいと、ヒトであることが羨ましいと、焦がれ叶わぬ悲しい悪夢。

  なんで。なんで、連れて行ってくれなかったのだろう。生きる意味なんかとうの昔に無くなって、後はもう朽ちるだけの空っぽを、どうして連れて行ってくれなかったのだろう。

  願った所で、彼はもういない。再会を望むことすらできない。

  「大切な、ヒトなのね。フリッドちゃんにとって、それこそ一番の」

  「じら゛っ、ないでず。ぞんな゛、ごど……」

  サルビアが、濡れた頬の毛をそっと布で拭う。ああ、汚れてしまった。雨水は直に飲むと危険だと、それくらい汚れていると、狼に教わった。それを布で拭うなんて、もっと勿体ない。

  「いいの。止めなくて、いいの。あったものを無理矢理消そうとしなくていいの。

  ……だって、あったのでしょう? 傍にいたいヒトが」

  床のシミが次第に小さな水溜りになっていく。フリッドはただ、感情に流されるがまま、声を上げて鳴き続けた。

  ※

  目がしょぼつく。鼻もツンと痛むし、身体もどこかふらついてしまう。

  あれから数十分。フリッドは湧き上がる感情を出し尽くし、大分落ち着きを取り戻した。その間、サルビアはというと、何も言わずにフリッドの背中を擦っていた。

  「ワリぃ……あ、その、もういいです」

  

  大分立ち直ってきたと、サルビアの介抱をやんわりと断った。多分、酷い顔をしている。次の日には、涙やけができていることだろう。それも、みっともないかんじで。

  「あらそう? 恥ずかしらがらなくていいのに」

  対してサルビアは普段通り、おっとりとした態度でフリッドに接する。「男の人って、なんでこうなのかしら」と続け様にいうが、見ず知らずの他人にどうしてこう、優しくできるのだろうか。

  そもそも、だ。なんでリッツとの出会いを話してしまったのだろう。あのやること成すことオーバーな男の話、色々と勘繰られそうな気がしてならない。抱きしめられたり頭撫でられたり、口と口が触れそうになったり。……よくよく考えれば、他人に話すには憚られる内容じゃないか。

  「素直になればいいのに。好いていたのでしょう? その、リッツさんのこと」

  「ば、ばばば、馬鹿ゆーなし! そのそのそのその、確かにカッコ良かったし凄くいいヤツだったけど、そーゆーのじゃねーからぁ?!」

  「私も好きよ? フリッドちゃんのこと」

  「おっぴゃあ??!!?」

  半分は冗談。サルビアにからかわれているだけだと言うのに、フリッドは[[rb:過剰 > かじょう]]に反応してしまう。そのあまりの狼狽っぷりに、クスリと笑われる始末だ。

  ヒトが悪い、そうフリッドが思うと同時に、くすぐったさもある。どこかで覚えがあった。この、抗いがたい、こそばゆいような感覚。ずっと遠くにあって、この身に受けるには申し訳無いもの。

  (……あ)

  リッツがいた頃と、同じだ。あの時感じたものと、今この瞬間が。

  「そっか。俺、好きだったんだ」

  好きだった。リッツと共にいた、あの頃の自分が。

  好きだった。あの温もりと、くすぐったさが。

  もう取り戻せないあの日々を、取り戻したくて仕方なかった。

  「俺、ずっといたかったんだ。アイツと、一緒に」

  「……そう」

  サルビアに懐かしさを感じたのは当然のことだった。ギュッとドッグタグを握りしめ、胸の底から湧いてくる感情に浸る。また少しだけ涙がにじみそうになる。けど、悪くはない。

  ──そんな感傷に浸るフリッドの意識を奪ったのは、一つの銃声だった。

  「な、なにが」

  「ひっ……」

  サルビアが声を上げそうになるのを必死になって堪えている。恐怖からか、肩はひっきりなしに震えていた。

  一体何が起こったのか、フリッドは状況を理解できない。けれど、サルビアの反応を見る限り、よくないことが起こっているのだろう。

  

  銃声を聞きつけ、老人が慌ててやってきた。どうすればいいのか戸惑っている虎の姿を[[rb:一瞥 > いちべつ]]すると、不機嫌そうに舌打ちした。

  「逃げるぞ。来い」

  「あ、あなた」

  「お前は黙ってろ」

  いまだ震えるサルビアの腕をつかみ、老人は無理やり外へ連れ出そうとする。「ま、まてよ!」とフリッドが止めようとするが、老人は「うるさい! 死にたいのか!」とまるで聞く耳を持たない。

  仕方なく老人の後を追いかける。また一発、甲高い銃声音。

  なんだろう。なんとなくだが、最近同じようなことを経験した気がする。あれは何だったか。老人についていきながら、フリッドは身に感じる既視感の正体を探ろうとした。

  ただ、どう頑張っても思い出せない。[[rb:靄 > もや]]がかかったように、使えない頭がぐるぐると空回りするだけだ。

  

  「ひっ……」前方からサルビアの悲鳴にならない声。何があったのだろう、疑問に思うフリッドは、直後それを目の当たりにする。

  サルビアが腕を引っ張るまで、フリッドはその場を動けずにいた。目の前の光景に、釘付けになっていたからだ。

  男が倒れていた。肩口から、ふくらはぎのあたりから、紅い液体を垂れ流しながら。男の粗い息遣いが聞こえる。まだ、彼は生きている。

  赤いシミが地面に広がっていく。倒れている男が、己の血で真っ赤に染まりながら、こちらへ腕を伸ばしていた。声は聞こえなくても、それは訴えている。助けてくれと、懇願している。

  サルビアに引きずられ、男から遠ざかっていく。何か叫んでいるようだったが、フリッドには何も聞こえない。バクバクと、心臓の鼓動がうるさい。今自分は立っているのだろうか、しゃがみこんでいるのだろうか、はたまた落っこちているのだろうか。それすらも、分からない。男が床に伏せるその瞬間まで、フリッドの目はずっと彼を捉えていた。

  嘘だ。ヒト違いだ。嫌だ。止めてくれ。

  視界から消えてしまっても、フリッドの目には男の姿が焼き付いて離れない。

  ──男は、狼の姿をした獣人だった。