灰色のむこうがわ 08 その二

  男とはつねに飢えたケダモノ。どれだけ心穏やかな人相、人格者であろうと、その裏にはいつだって煮え[[rb:滾 > たぎ]]るような情欲が隠れているものだ。

  [[rb:鰐 > わに]]獣人、ガレッツォもそれは例外じゃない。ただ表面的にわかりやすく表れているか、そうでないかの違いでしかないだろう。むしろわかりやすく危険だと判別できるならば、これほど優しいものもない。わざわざ懐に潜り込んでまで欲を掻き立てる暴挙、いたとすれば、それはきっと物好きの類だ。触れぬ神にたたりなし、というやつである。

  「ああ……たまらねえ。ゾクゾクしてきやがる」

  極上のエサが目の前にぶら下げられれば、たちまち男は捕食者の顔つきへと[[rb:変貌 > へんぼう]]する。ニヤつくなというのが無理な話だ、[[rb:加虐心 > かぎゃくしん]]が煽られたとあらば心が[[rb:躍 > おど]]らずにいられない。ゴクリと喉を鳴らしつつ、エサから漂う色香に導かれるように、そっと唇をつけた。

  柔らかく弾力のあるその触感を、唇でなぞるように楽しむ。まだ、口には運ばない。魅力的だからと思うままに[[rb:嚙 > か]]みついてしまうのはむしろ早計、なさけないにもほどがある。暴れ狂う欲望に飲まれず、エサの状態を五感をもって愉しんでこそ、真の男だ。

  唇越しでも伝わってくる[[rb:瑞々 > みずみず]]しさ。鼻をくすぐる、仄かな甘い香り。その肉は歯を突き立てればいともたやすく食い込んでいき、そのまま男をケダモノへと堕落させるだろう。だが、まだ落ちるわけにはいかない。今はまだ想像に止めるだけ。[[rb:初心 > うぶ]]な少女のように胸を高鳴らせながら、じっくりと味わわなければ。お愉しみはこれから、なのだから。

  「ハァ……どうしてこう、そそらせるもんかね。なあ、ニック?」

  「……知るかよ」

  つれない奴だ。内心では喜びに打ち震えているだろうに、それをおくびにすら出さないとは。冷ややかな態度でこちらを見向きもしないと来た。

  そんな顔をしていられるのも、今のうちだぜ? ──漂ってくる甘い香りを胸いっぱいに吸い込みながら、ガレッツォはその笑みを深くした。

  そういう狼のストイックなことが、ガレッツォは大好きだ。誰にもなびかない、気高い風格。それがどのように崩され、ドロドロに溶けていき、欲に忠実になるか。想像するだけでも楽しくなって仕方ない。それが腕の中で、つぶさに見続けられるものならば最高じゃないだろうか。

  きりりと澄ました男がケダモノに落ちる瞬間を、優しく大事に、そして余すことなく胸に収めてしまいたい。そんな欲求に駆られるのは、果たしておかしいことだろうか。

  まるで背中を優しく撫でられているかのようだ。やんわりと襲い掛かってくる甘美な誘惑に、加虐心を[[rb:煽 > あお]]られながらも、ガレッツォは唇を離す。そして口を大きく開けると、その柔らかな肉にためらうことなく牙を突き立てた。

  ゆっくりと[[rb:顎 > あご]]に力を入れれば、それは想像よりもたやすく喰いこんでいく。まるで歯が溶けていってるかのように。喰いこませた牙から滴る甘い汁が、もっと深く、もっと[[rb:獰猛 > どうもう]]にと[[rb:囃 > はや]]し立ててくる。

  胸がどくりと高鳴った。ああ、俺が見初めただけはある。それでこそ極上のエサを食らっているというもの。そう急かされてしまったならば、黙っているわけにはいかない。

  しゃぶりつき、[[rb:溢 > あふ]]れ出る汁を余さず[[rb:啜 > すす]]り、ゴクリと喉を潤す。散々焦らしてきたのだ、荒々しく捕食しなければ男として[[rb:廃 > すた]]廃るというもの。[[rb:昂 > たかぶ]]りをすべてぶつけてしまえば、あとは落ちるところまで沈んでいくだけ。

  ああ、最高だ。至福のひと時と言っても過言じゃない。

  「ほんッと……

  生の果物は食いごたえがあるよなあ!!」

  果実を余すことなく[[rb:堪能 > たんのう]]し、芯だけが残ったそれをポイと投げ捨てる。口からこぼれた汁を親指でぐいと拭うと、ガレッツォは次なる獲物を求め屋台を物色しだした。

  そんな彼の様子を隣で見ながら、狼は短く溜息を吐く。

  なぜ、俺はこいつに付き合わなければならないのか。わざわざ出店を回りに来たのなら一人でも十分よかっただろうに。なぜ訳ありげに通行人を引っかけようなどと思ったのか。そしてなぜ、それに引っかかってしまったのか。

  「ほら、お前も食ってみろよ。甘くて柔らかい、オマケにジューシーときた。肉食獣がこんなもの見せられたら黙っていられないだろ?」

  「いやこれ肉は肉でも果肉だから。お前の口から垂れているのは血じゃなくて果汁だから」

  「金の心配なんてすんな、立て替えといてやっからよ」

  「遠慮してるんじゃねーけど??」

  目の前に突き出された果物をひったくり、狼は[[rb:齧 > かぶ]]り付く。……決して、決してこの鰐に同調するわけでもないが、悔しいほどうまい。喉を潤すこの甘美は、めったに味わえるものじゃない。「な?」と顔を覗き込み同意を求める鰐さえいなければ、喜んで[[rb:舌鼓 > したつづみ]]を打っていたことだろう。

  相も変わらずこの男は自身のペースに乗せてこようとする。何が『聞いているから離さない』だ。隣に引きずり込むための口実だったのではないか。

  「やっぱ祭りってのはこうでないと。目で楽しむ、腹を満たす、んでもって[[rb:奇麗 > きれい]]どころを侍らせれば文句なしよ」

  「別に俺でなくてよかったろ、奇麗どころ」

  「おいおい、俺のお眼鏡に叶う[[rb:逸材 > いつざい]]だぞ? んなもん適当にほっつき歩いて出会えるわけねーだろが」

  「遠回しに迷惑って言ってんだが」

  粗暴な男のお眼鏡に叶ったところで、狼にとっては嬉しくもなんともない。そも、大の男を引き合いに奇麗どころというのも無理がある。比較対象の鰐が軍人、それも現役だからこそ女々しく映るだけで、狼だってそれなりの身体はしている。少々、発育不良ではあるが。

  だがそんな文句、言ったところでガレッツォは動じないだろう。今もがっちりと腰を抱き、上機嫌で屋台の店主に注文している。男同士であることに不満なんてない、むしろ見せびらかしてしかるべきだと言いたげに。ああ、その調子に乗った鼻先、根本からへし折ってやりたい。

  「おっと」

  

  そんな風に狼が[[rb:悶々 > もんもん]]と[[rb:思慮 > しりょ]]を巡らせていると、通りすがりの獣人と肩がぶつかる。一瞬コチラを見ると、その獣人はわかりやすく[[rb:畏縮 > いしゅく]]する。

  無理もない話だ。男同士、それも片方は暴力が服を着て歩いているようなものだ。 面食らいもすれば怯えもするだろう。現にガレッツォにギロリと睨まれ、すくみ上っているではないか。

  「わ、わりぃな[[rb:嬢 > じょう]]ちゃん。……じゃ」

  案の定、というべきか。ぶつかった獣人は自分が悪いでもないに平謝りし、そそくさとその場を去っていった。

  (……嬢ちゃん?)

  聞き間違いか、あるいは見間違いか。去り際に言い放たれたのは、本来女性へとむけられるもの。ガレッツォを指して言うはずがない。だとすれば該当者は一人だけ。

  「……プッ」

  狼は即座に鰐の[[rb:脛 > すね]]目掛け[[rb:踵蹴 > かかとげ]]りを見舞わせる。だが読まれていたのだろう、さっとガレッツォは[[rb:躱 > かわ]]してのけた。

  「ぷっくくく。嬢ちゃん、だってよ。見る目あんなアイツ」

  「ふざけんな死ね」

  「まあこんなじゃじゃ馬? 俺くらいじゃないと乗りこなせねーし。英断だったよなあ?」

  「いい気になってんなよクソワニ」

  女性に間違われる、だと? どこを見て判断した、あの通りすがりは。

  狼は自身の身体をまじまじと観察する。どこをどう見ても、どこを取ったって節ばった身体だ。女らしさなど[[rb:微塵 > みじん]]も感じない。[[rb:中肉中背 > ちゅうにくちゅうぜい]]、貧相ともいえる。

  「あー、お前自分の魅力っての、知らねーのか」

  「知ってどうする。どっかの腐れバカは見目麗しいなんてほざきやがるがよ」

  「そそ。だからよ、こうして骨格隠すように身を寄せてやるとだな……」

  そういうや否や、ガレッツォは狼の腰を引き、体をこれでもかと密着させる。

  「おい、近いっての」

  「そんなツンケンすんなって。ほら」

  心音が近い。互いの体温が嫌というほどわかる。ガレッツォのほうが低く感じられるのは、もとは川辺に住む生き物だからだろうか。鋭く身を貫いてくる眼光も、空いた隙間から覗く歯も、その恐ろしさを際立たせている。それらすべてを注がれている狼が、痛いと感じるほどに。

  クツリ。喉のなるその音が、いやに生々しい。絶対的強者という姿勢。何事にも動じず、どんな状況においても態度を崩さない。頂点という頂を思うがままにする。

  それが、肉食獣としての、鰐としての彼の風格なのだろう。

  「こんなやせっぽっち、女として見られても不思議じゃない。だろ?」

  そんな屈強な男が隣にいるのだ。その身体で狼を包み込んでしまえば、整った外見が女性として見せても不思議じゃない。……つまり。

  「おい」

  「あー?」

  「お前、全部わかっててくっついてるだろ……!」

  「だから言っただろ。極上が釣れた、ってな」

  あっけらかんと、今更かとガレッツォが返した。

  よくよく考えればそうだった。奇麗どころを侍らせたい。何ならそれは男、というより好ましい人物なら誰だってよかったのだ。

  頭のなかで血管がぷつりと切れたのを、狼は聞いた気がした。ハラワタがふつふつと煮えくり返る。今にも衝動にかられ、ぶちまけてしまいそうだ。

  何をこいつに期待していたのだろうか。何かを期待でもしていたのだろうか。相手は自分の欲求を満たすがために利用していただけだというのに。そんなことすら、見抜けなかったなんて。

  「ばっかバカしい! からかって遊んでるだけじゃねえか! ふざけんなってのチンカス!!」

  「うっわ怒り心頭」

  「大体、征服欲満たしたいから連れまわしてるとかどこぞのガキかっての! 便所一人でいけない小便たれかよ、糞でもたらしてろっての! あーアホくさ」

  自身が思いつく限りの罵声を浴びせる。腹の底から、遠慮なく、全力で。

  本当、自分が情けなくなりそうだ。無理やり引きずりまわされ、かき乱され、そんな状況に身を委ねることに[[rb:安堵 > あんど]]でもしていたのだろうか。馬鹿馬鹿しい。この男にそんな思惑、あるはずがないというのに。

  気が付けば、怒りに震わせ、息も絶え絶えだった。ああ、本当に情けない。いつもの調子はどこに行った。いつも冷静で、落ち着いている俺は、いったい。

  切れた息を整える。ふと狼が顔を上げると、そこには余裕ぶった鰐の姿。

  「……なにスカしてやがる」

  「ん? だいぶ発散したなって」

  「はあ?」

  意味が分からない。いや、意味なんて考えるだけ無駄なのだろう。思わせぶりな発言をして、いい気になりたいだけ。最初からそうして遊びたいだけなのだ、この鰐は。

  「ほらほら、食が進んでねーぞ? まだ俺たちの食い倒れツアーは始まったばかりなんだからよ」

  「もういい。参加してねーんだよそのツアー。

  ……っておい! 引っ張んな! いい加減離せ阿呆!!」

  「なんだ調子いいじゃねーの。アガってきた」

  「ふざけんなってのぉ!!!」

  *

  「はぁ……満腹。これ以上ないって位食らい尽くしたわ」

  「……そうかよカス」

  そうして連れまわされ数十分後。出店を荒らしつくしたガレッツォ一行は、食休みとしゃれこんでいた。

  「やっぱ解せねーんだが」

  「あー? なにが」

  「連れまわされた理由。一人でも十分楽しめたろ、お前」

  連れまわされている間、終始抵抗し続けたのだろう。ゲッソリとしながら狼は問う。

  「……」

  「黙りこくってんじゃねえよ」

  「楽しかったろ、今日」

  「は?」

  ぽつりと、そっけなく。ガレッツォは腹を撫でながらそう答えた。

  「あーやべ、腹キッツ。調子こきすぎたか? こりゃ」

  「いや答えろっての」

  「なんだ聞きたがりじゃん。あれか~? 俺の豊満なボデーにメロメロアタックしたくなったか?」

  「ほざけ」

  「いいぞ突っ込んで来い! お前の愛情、俺にぶつけろよ」

  「その肥大した腹にか」

  

  やはりというか、この男は真面目に話す気はないようだ。相手を手玉に取るというより、刺激して出方を楽しむかのよう。ある意味で意地の悪い話し方。

  腹に[[rb:肘鉄 > ひじてつ]]でもくらわせてやろうか。眉間にしわを寄せる狼だったが、生憎と彼にそんな体力は残されていない。代わりにと鰐に背中を預け、けだるげに溜息を吐くことで、ささやかな抵抗を示すのだった。

  「お前あれだ、いつもレーションかっぱらっていくだろ」

  「何の話だ」

  「理由。そんなお前なら軍食がどういうものか、生がどれだけ美味いかわかるだろうに」

  「は? 腹なんて膨れればいいだろ。贅沢いいすぎ」

  寄っかかってきた狼の毛をかき分け、毛ずくろいのまねごとをしながらガレッツォは言う。

  食事は人生におけるささやかな幸福だ。手っ取り早く満たされ、分かりやすく満足できる。ただ残念なことに、狼にとって食事とはただ腹を満たせれば十分な行為なわけで。

  崩壊したセカイでは、贅沢は敵。そも彼は贅沢というものをしたことがない。贅沢をする、[[rb:豪遊 > ごうゆう]]する、そういったことで満たされるというのは、彼にとって理解の及ばないもの。そんなもので満たされるなど、[[rb:眉唾 > まゆつば]]程度のものだった。

  「つか理由になってねーよ。結局なんだってんだ」

  「だから楽しかったろって。気づいてねーのお前」

  「何に」

  「うわ自覚なし子ちゃんかよ。さすがにないわー」

  その物言いに何となく腹が立った狼は、とりあえずねちっこく触ってくる手を払いのけた。

  ああ、どうにも寝心地が悪い。枕として最悪の品質だ。散々振り回しておいて枕の役目すら果たせないとは、どこまでもふざけた野郎である。物見遊山で覗きに来ただけだったのに、ここまで疲労困憊にさせられてしまうとは。いささか今日は厄日なのではないか。あたりは最高の日だと騒ぎ立てているというのに。

  (……あ)

  そういえば、と狼は思い出す。

  連れまわされすぎて忘れていたが、宿泊する宿を探していやしなかったか。ここでダラダラとしている暇、本来ないのでは。

  気づいてしまったなら最後、狼に留まっているという選択肢はない。直ちに行動に移そうと身を起こし、立ち去ろうとする。

  「……ん、どこ行こうってんだ」

  ……が、やはりというべきか。ガレッツォに腕をつかまれ阻まれてしまう。

  「お前に関係ないだろ」

  「いやある。今日一日俺のものなんだから、勝手にどっかいかれたら困るだろうが」

  「それはお前の都合。こっちにはこっちの都合があんだっての」

  「……ははぁ? さてはお前……なるほど、へぇ?」

  「何を察した。いや、ナニを勘違いしやがった」

  何かを納得したガレッツォは勢いよく立ち上がると、ぐいとつかんでいた腕を引いた。

  まずい。これは、非常にまずい。何となくだが、いやな予感がする。それも、特大の厄介ごと。このにやけ顔は間違いなくよからぬことを企てている顔だ。また都合よく振り回し、自身の思うがままにされるに違いない。

  「っ! いいかげんにしろっ! お前の都合に合わせる暇ねえんだっての!」

  「はっはっは、全く気の早い男だよなあボブは」

  「どんな勘違いだ! つかボブじゃねえよ馬鹿野郎!」

  狼を懐にすっぽりと収めたガレッツォは、そのまま人込みを横断し路地へと向かっていく。抗う気力が残されていない狼は、引きずられるようについていくほかなかった。

  [newpage]

  式典会場から離れ、二人は連れ添うように路地を歩いていく。人気が次第に遠ざかり、あたりには静けさが立ち込めている。先程とは打って変わった雰囲気だ。物々しいといえば少し大げさな、どこか[[rb:寂 > さみ]]し気な空気に、置いていかれてしまうかのような錯覚すら覚える。

  「ホント、どこに連れ込む気だよ……」

  そんな雰囲気に囚われそうになりながら、いぶかしげに狼が問いかけた。人だかりから遠ざかる、というよりは怪しげな通りへと連れ込まれているかのように感じたからだ。

  いや、気のせいではない。間違いなくガレッツォはそういう道を選んでいる。現に外装の[[rb:剥 > は]]剥げた建物が次第に増え、明らかに目がイッてしまっている獣人が増えていっているではないか。

  「ん~? イイトコ、だが」

  そうガレッツォは答えるものの、あまりにも信用ならない。この場所がどういったところなのか、知らない狼でもないからだ。

  復興都市は内側へ向かえば向かうほど、裕福な街並みをしている。逆に外側へ向かえば、今度は手つかずのボロ屋が顔を覗かせてくる。

  通称、未開発区域。都市開発の折に[[rb:廃棄 > はいき]]された資材が、ここには立ち並ぶ。孤児院が建っている場所はまだ人が住めるような環境だが、ここは全く違う。いうなれば廃屋ばかりの、外とさして変わらない外観が広がっている。[[rb:往来 > おうらい]]する獣人たちも、薬物に[[rb:溺 > おぼ]]溺れたものなんかが多い。ガレッツォの言うイイトコなど、あるはずがなかった。

  そんな疑念を抱く狼をよそに、ガレッツォは悠々と歩みを進めていく。まるで己のホームグラウンド、庭でも散歩しているかのようだ。

  「ほら、ついた」

  「……は?」

  そうしてついたと指し示された先にあったのは、掘っ立て小屋。材質が所々違う上、大分年季が入っていそうな建物だ。悪く言えばゴミ屋敷。かろうじて建物だと認識できる、建っているのも不思議なくらいの小屋だった。

  

  「……どこがイイトコ、だって?」

  「はあ!? お前解っちゃねえな。このディテール、このシンプル感! こいつを建てるのにどんだけ苦労したことか」

  「え、セルフビルド?」

  「おうよ。やっぱ男たるもの自分の城の一つや二つ、建てて然るべきだろ」

  「いやいや然らねえよ。普通は建てねえよこんな居住空間モドキ」

  ガレッツォの城をもつなんて発想、安全で恵まれた環境だからこそ出てくるもの。都市の外で定住など以ての外だ。狼に賛同を求めたところで首を縦に振るなんてありえない。

  当然言い返そうとガレッツォは口を開こうとした。だが一歩遅れてそのことに気づいたのか、そのまま口を閉ざし、軽く唸る。気を取り直してドアに手をかけると、狼を中に入るよう促した。

  「どうぞ、俺の[[rb:アコンプリス > 共犯者]]。[[rb:手狭 > てぜま]]じゃあるがしっかり歓迎すんぜ?」

  「誰が共犯者だっての。勝手に悪人にすんな」

  「秘匿性あり。誰の目にもつかず、腰を据えて語らうには丁度いい場所だ。互いにとって都合がいい、だろ?」

  「……まあ」

  確かに落ち着きたいとは思っていた。できれば人の目がつかない場所に逃避したい、とも。

  ただそれは語らい合いたいだとかそういう理由では決してない。あくまで雨風をしのげればそれでいい。雑魚寝して夜を明かせれば問題なかったのだ。この男と親密を深めたいなどと[[rb:微塵 > みじん]]も思っちゃいない。

  「悪いが俺はここまで──」

  「はい一名様ごあんなーい!」

  「っておい」

  鰐の口実に乗る必要などない。そう判断した狼は踵を返し、さっさと立ち去ろうとする。しかし悲しいかな、そうはいかないとガレッツォが無理やり背中を押す。無駄な抵抗虚しく、あれよあれよという間に、狼はガレッツォの根城へと足を踏み入れた。

  *

  「意外と内装はしっかりしてんのな」

  粗雑な外装とは裏腹に、内装はいたってシンプルだ。作業台に簡易ベッド、防腐のためだろうか、荷物が置いてあるだろう場所にはブルーシートがしっかりと掛けられている。薄汚れた室内を想像していた狼も、これにはさすがに感嘆の声を上げる。

  「だろう? なんたって俺自慢の秘密基地、だからな」

  「さっき、城だとか言ってなかったか……?」

  狼の関心を引くことができ、気が良くなったのだろう、ガレッツォが鼻高々に自慢する。

  ほめたつもりは微塵もないのだが。あまり調子に乗ったコイツに絡まれたくないと、物色がてら狼は鰐から距離を取った。

  このブルーシートの裏には何が置いてあるのだろう。興味がてら、狼はそっとシートをめくる。

  「なあ」

  「ん、どした」

  「なんでこんなとこに銃なんか保管してんだ」

  シートの裏側には、銃が納められているだろうケースの山。軍人である彼が所持しているのは不思議ではない。が、個人でこうして保管しているというのは疑問である。普通こういったものは軍で厳重に保管しているものではないだろうか。

  「そりゃそうだろ。俺と歴戦を潜り抜けてきた相棒達だぜ? 自分でしっかり面倒見てなんぼだろ」

  「だからってこんなとこに保管しなくても。持ち出しとか不便だろ、ここじゃ」

  「こんなところだから、さ。命預けてんだ、信用ならないやつらなんかに面倒見せられるかっての」

  ガレッツォが作業台に近づくと、ぽつんと置いてある飛行機の模型を手に取った。先端のプロペラを指先でくるくると回し、動力を送る。

  「この城だってそうだ。俺の城だ、誰にも手出しなんかさせない。くだらない[[rb:屑 > くず]]共の吹き溜まりならなおさら、な」

  そして指を離すと、それは勢いよく空を飛んで行く。狭い空間だ、しばし滑空したそれはすぐに壁へ激突すると、あっけなく[[rb:墜落 > ついらく]]する。

  「信用……なあ」

  「ほら、俺って愛と独占欲にあふれた男だし? 愛情の深さなら引けを取らねえってワケよ」

  「ぬかせ尻軽。奇麗どころなら誰だっていいくせに」

  「逆だ逆。奇麗どころじゃないと食指動かねーのよ」

  そういうや否や、ガレッツォは狼の首根っこを掴むとベッドへと押し倒した。目にもとまらぬ早業。[[rb:咄嗟 > とっさ]]の出来事に避けるという判断すら、狼にはできなかった。

  「何なら、試してみるか?」迫る鰐の挑発的な態度。気づけば狼は両手を頭の上に組み伏せられ、抵抗する手段すら奪われていた。さすがは軍人、本気で無力化させたなら狼には手も足も出せない。

  「どけよ。俺は男に抱かれる趣味なんてねーっての」ただ。そんな状況に陥っても、狼は涼し気に鰐を挑発し返した。

  「じゃあ金を積まれればどうよ。ここにゃわんさかいるぜ、そういうの」

  「それでなびく様ならわざわざこんなとこに連れ込んでないだろ、お前」

  労働とは幸福。ヒトに奉仕し、またそうするのは幸せなこと。金を稼ぐ手段を持たないものでも、体なら売ることができる。人の役に立ち、食いっぱぐれずにすむ。ガレッツォが言っているのはそういうことだ。

  間違えている。そう否定するだけなら簡単だ。倫理に反していると、口にしてしまえばいい。けれど、それで飢えることなく生きていける獣人がいるのも、また事実だ。狼の恩人、ナターシャがそうだったように。

  そして。そういうものがガレッツォにとって一番嫌いなものであることも、狼は熟知している。

  「……はっ、完全に本調子でねーの」

  「は? 何言ってんだお前」

  「んー、俺の[[rb:戯言 > たわごと]]? ってやつ。気にすることでもねーよ」

  ガレッツォはやる気をなくしたのか、あっけもなく狼の拘束を解く。さっと身を引き、落ちてしまった模型を拾うと、もとの場所に戻した。

  最初からやる気なんてなかったのだろう。未練などなさそうなのが、その証拠だ。おそらくは思い付きで、抱く気など全くなく押し倒した。狼を試すように。

  「べっつにいいんだけどな。そのほうが俺も落とし甲斐があるし」

  「さっきから何の話だ。まるで俺が可笑しかったみたいに」

  「いやいや、いつも通りだよお前は。俺の愛しいアコンプリスさ、なあ?」

  「きっもちわる。つか違えっての」

  もしかして見抜かれていたのだろうか。虎を殺し、気が動転していたことを。

  ……まさか。ことこの男に限ってそんなことはあり得ない。手間をかけて調子を取り戻させようなど、そんなことこの鰐がするはずがない。そんなことをして何の得があるというのか。

  抑えられていた手首をさすりながら、狼は身を起こす。そんな本当に冗談めいた事を考えるなんて、いよいよ焼きが回ってしまったか。そう鼻で笑いながら。

  「まあ、確かにお前の言う通りさ。幸せがどうたらって都合つけてなびいている奴が心底気持ち悪い。言葉覚えたての[[rb:稚児 >ちご ]]ですら、もっとマシなことしゃべるだろうよ」

  ヒトは生まれた環境でしか物事を測れない。それはガレッツォも狼も同じことである。

  ガレッツォにとって幸福であれと掲げるこの都市は[[rb:窮屈 > きゅうくつ]]なものだった。あらかじめ決められた人生設計。そのレールを正しく走るようなものだ。それも、周りの皆が同じように、正しいものだと信じて疑わない。踏み外すということをしないのだ。規則正しく生きるといえば聞こえはいいが、皆一様に同じ人生を寸分違わず歩んでいるとなれば、これほど気持ち悪いことなどない。

  「アイツらほんと気に食わねえ。へらへらと同じことばっか。頭使うってことを知らねえ連中さ」

  「……それがこの都市の政策なんだろ」

  「政策ぅ? 自分の思い通りにしたいだけだろ、あの糞市長は。

  昔っから限界だったさ。イラつく連中片っ端からぶん殴りもした。そしたらあいつらどうしたと思う? 『怒りは心の[[rb:疾患 > しっかん]]だ。負の感情はすべからく不幸を招くものだ』なんて言うんだぜ?

  阿呆かっての! 不満を漏らすことすら認められないのか、この都市は!」

  ガレッツォが心底気に食わないと、怒りを吐き捨てる。

  悲しい出来事、憤りをぶつけること、それらすべては不幸の象徴。心が抱く生まれついての疾患。都市に住む獣人たちはそれらすべてを忌み嫌う。それを表に出すということは、不幸を招くと信じて疑わない。その感情を抱き続ける者こそ、この都市の疫病神なのだ。排除することで、見て見ぬふりをすることで、幸せになることを許される。

  「悪いことでは……ないだろ。幸せを望むってのは」

  「いーや悪いね。ここに生きてる全員すべからく屑だっての」

  「でも」その言葉の続きを、けれど狼は紡げなかった。

  ガレッツォが[[rb:神妙 > しんみょう]]な面持ちで狼を見ていた。今まで見せたこともないような、そんな雰囲気を漂わせながら。

  「じゃあお前は。お前は、幸福のためなら人が死んでもいいって、そう言い切れるか?」

  真綿で喉を締め上げられたかのようだった。先程とは違う、恨みのこもった態度。普段全く見せてこない鰐の雰囲気に、狼も思わず動転してしまう。

  普段ならば『そんなわけないだろ』と言い返せたはずだ。なのに、口から[[rb:漏 > も]]れるのはひゅうというか細い音のみ。

  「……んなわけ、ないだろ」

  なんとか絞り出すように狼は答えた。目をそらしてしまったのは、きっと虎の、フリッドのことが頭をかすめたから。殺して楽にしてやろうと、そうしたことを責められているような気に、なってしまったからだ。

  「俺が何をしているか、知ってて口利いてるよな?」

  「……」

  「これから何をするのか、ぜーんぶ熟知してる。そうだろ?」

  狼は何も答えない。ただ鰐を、悲痛な面持ちで見つめ返すだけだった。

  「栄誉市民、だったか。よくもまあそんな制度考えたもんだ。この都市一番の幸せ者だって? よくもまあそんな呑気なこと言えたよなあ?」

  ゲラゲラと、この場にいない愚か者を見下すように、ガレッツォが笑う。

  栄誉都民授賞式。幸福な民を称え、永劫の園へ[[rb:赴 > おもむ]]く権利を与える式典。表向きには、そう認知されている。

  そもこの式典自体が建前なのである。この都市で幸せな者といえば、日々の労働をこなし、男女で結ばれ、子をもうけたことがある者たちだ。いわゆる、ヒトとしての模範的な人生を歩んできた者たち。

  ──老い先短い、未来のない者たちだ。

  「自営軍はそもそもヒトを守るために組織されたもんじゃねえ。都市を守るために作られたもんだ」

  「……だから、守るためにヒトを殺す」

  「イかれてるだろ?! アホらしい! 誰かの命を捧げなきゃ訪れねえ幸福なんてよお!!」

  いくら幸せになろうとも、死んでしまえばそれまでだ。幸せになることに価値を見出せなくなってしまう。だからこそ、栄誉都民が選ばれる。

  選ばれしものを秘密裏に殺害、永劫の園へと導かれたと周囲には伝える。残された者たちは悲しむことなく、むしろ選ばれることこそ誉なのだと錯覚することだろう。これが、ヒトを生かすため、ヒトらしさを求めた都市の末路。そしてその実態だ。

  「どいつもこいつも、最後まで信じて疑わねえでやんの。ドラなんとかっつーいけ好かない鷹野郎の言葉をうのみにしてな」

  「仕方、ないだろ。誰も疑問にすら思わない。そういう教育を施されてんだから」

  「教育って名の洗脳ってか? 考えるのを辞めた弱者ってだけだろうに」

  ハン、ガレッツォが鼻で笑う。手の施しようがない。そう両手を広げておどけて見せながら。

  彼がどのように生きてきたのか、狼には知る由もない。所詮互いに益があるからと利用する間柄だ、深く詮索するのも野暮である。

  けれど。破天荒で自由気ままに生きているイメージの彼は、その実周囲を激しく疎んでいる。それくらいは、狼にも察せられた。だからといって彼に何かをするでもない。非難することも、賛同することも、決してしない。

  「外に出れば、なんてちっさい頃は思い描いてた。あの壁の向こうに、ここよりももっと広いセカイが待ってるって。結局どこも地獄だったけどな」

  「それでも。ここよりは、随分ましだ」

  「……違いねえな」

  ガレッツォが都市の外を知ったとき、どれだけの衝撃が彼を襲ったのだろう。夢想したセカイを打ち砕かれ、どれだけ失望しただろうか。狼は瞼を閉じ、彼の当時を思い浮かべる。

  エメラルドの都は、偽りの都。願いをかなえる魔法は、この世のどこにもありはしない。狼だって、昔はあると信じていた。願いをかなえてくれる、理想郷を。胸の中に確かにあって、この荒廃したセカイが緑あふれる大地に生まれ変わる。そんな夢を、いつかたどり着いた誰かが叶えてくれる。そんな、夢を。

  ないというのは、初めから知っていた。夢見る子供でい続けるほど、狼も馬鹿ではない。

  けれど。夢見ては、居たかった。それが、どれ程馬鹿げていても。

  「まあ、今になっちゃどうでもいい。あの糞鷹がこの鳥の巣でどんなに粋がろうが知ったこっちゃない。気に食わない連中を片っ端から、それも合法でぶっ殺せるなら、それもいい」

  のろのろと尾を引きずりながら、ガレッツォは作業台の丸椅子を引き寄せる。深いため息を一つだけはくと、身を任せるようにドカリと座り込む。

  「……それが、あの市長の思惑通りだったとしても、か」

  「アイツだって不死身じゃないだろ。だから──」

  「いつか殺してやる。あの澄ました男を。

  目の前でいろんなモンを台無しにしながら、じわじわいたぶってやる……!」