最初、それがなんなのか、何が起こったのか、誰も分からなかった。地震、台風、爆弾の投下。様々な憶測は立てられたものの、実際に何が起こった、原因はなんだったのかは判明していない。ただ無秩序に、なす術もなく建物は崩れ、壊れていった。
気が付けばセカイはあっというまに終わっていた。ヒトが築き上げてきたものが、砂の城を崩すように更地へと姿を変えてしまった。
『きっと助けが来る、だからそれまで生き延びよう』
誰もが信じて疑わなかった。元の、豊かで安全だった生活に戻れると。当たり前のように口々に述べ、互いを励ましあっていた。
つらいのはほんの少しの間だけ。『あのころは大変だったね』と、思い出話に花を咲かせる日が来ると、そんなささやかな日常がやって来ることを誰もが待ち望んでいた。
この現実がずっと続くことになるなど、想像すらしていなかった。
ヒトは生活[[rb:圏 > けん]]を追われることになった。どこからともなくやってきた、異形の者たちの進行によって。
どこかで悲鳴が上がる。助けを求める為、精一杯に手を伸ばす。その手を取ろうとあがくもの、[[rb:勇敢 > ゆうかん]]な誰か。そんな誰かほど、無残にも[[rb:蹂躙 > じゅうりん]]されていった。残されたものはただ身を震わせ、見捨てるかのごとく去ることしか許されなかった。
日が経てば経つほどに状況は悪化していく一方。希望的観測など何の役にも立たない。求められたのは生存本能。生きて、生きて、ただいきる。ヒトとしての[[rb:矜恃 > きょうじ]]、プライドを捨て去れる者のみが長生きできる。そんな環境になってしまった。
もう元の生活に戻ることなんかできっこない。そう誰もが悟りだしたころ、一つの声が上がる。
『このままじゃ、こんな風にくじけちゃいけない。僕たちは希望を──そうだ、希望を捨てちゃいけない。忘れてはいけないんだ。
誰だって幸せになる権利がある。こんなひどい状況でも、こんな有様なセカイだからこそ、僕たちは幸せになることを諦めちゃいけないんだ』
それは小さな光だった。暗がりの中で揺らめく[[rb:灯火 > ともしび]]。絶望的なセカイだからこそ響き渡る、[[rb:幽 > かす]]かな叫び声。
それに感化されたのだろう。一人、また一人と、自然と集まっていく。それは救いを求めた故か、失って空っぽになったものを埋める為か。
『壁を作ろう。住処をつくろう。
誰も[[rb:哀 > かな]]しむ必要が無いように。誰も苦しむ必要がないように。
幸せを作ろう。ヒトとしての当り前を、かつてそうだった僕たちを、ここで思い出せるようにしよう』
それはヒトを失いかけたケモノの国。
心を取り戻そうとした復興都市。
幸せは、きっと誰しもがなれる永久不変のもの。
──疑ってはいけない。それは貧しさの証。転落したが最後、ずっと[[rb:蝕 > むしば]]み続ける病理なのだから。
:::
復興都市、商業地区。
都市内部は住宅区、労働区など区域ごとに分けられており、ここ商業区は露天商で大変にぎわっている。ヒトが多い、つまりはそれだけ成功をつかむチャンスが転がっている、ということで。そういうこともあってか客引きの声も結構大きい。
通りかかる獣人の心を奪い、ときめかせる手段にたけているのならいい資金調達になるだろう。あくまで上手くできれば、の話になるが。
(そうそう上手くできりゃ苦労はしないんだけどな)
露店のテントから少し外れ、レンガの壁にもたれかかるように座りながら狼がぼんやりと往来する獣人たちを眺める。セカイの崩壊前に比べたら生活の質は落ちているだろうに、皆一様に明るく、幸せそうにふるまっている。
外の現状を知る狼にとってはあまりにも異常な光景。まるで一人だけはるか遠い異国の国からやってきたようだ。
実際彼らは知らない。知ることをあきらめた。
外のセカイは荒れ果てていて、ヒトが住めるような場所などわずかだということ。絶望的な状況から目をそらし、壁の内側で救援を求める事もなく、ただ平穏に暮らすことを彼らは選んだのだ。
(平和ボケ……いや、違うか。こうすることでしか精神を正常に保つことが出来なかった、ってだけ。つらい事しかない現実にふたをして、顔をそむけているうちにそれが当たり前になっただけ、か)
それがよい事か、それとも悪い事なのか。それが出来ないくらい彼らは[[rb:疲弊 > ひへい]]してしまった。誰も責める事なんてしない。身を守る最低限の手段がこうだった、というだけ。
ただ。外のセカイを知ってしまっている狼にとってはこのありさまがどうしても受け入れられない。留まり続けているとヒトに酔ってしまいそうだ。
本当は今見ているこの姿が、この都市の様相こそが正しい現実。セカイは滅んですらいなくて、ただそんな悪夢を好き好んでみているだけ。ありふれたものを受けいれる事が出来ず、さながら反抗期の反応を取っているだけではないのか。
(……だとしたら、どんなによかったことか)
息をするのがつらい。平穏で活気あふれるこの空気が、狼の取り巻く環境を否定しているようで。肺に取り込もうとするのを無意識にでも拒否しているのだろうか。
「ねえ、貴方。だいじょうぶ?」
注視して気分が悪くなった狼を心配したのか、通りすがりの女性が具合を確かめてくる。
「……ええ、平気ですよ。少し人気にあてられた程度ですので。お心遣いありがとうございます、マダム」
「あら。……ふふっ、お上手なのね」
何とか気を持ち直し、こなれた営業スマイルで彼女に返答する。
相手はシャム猫。顔と耳、手足がほんのりと黒く、それ以外は真っ白という毛並みの持ち主。歳は若く見積もっても二十代後半。派手な色を好まないのか、随分とおとなしい着こなしをしている。
「一応これでも商売を営んでいますから。あの露店に交じって営業をする、というのは少々はばかられますけれど」
「ごめんなさい、そういう意味で言ったわけではないの」
「……でも、ちょっとは思いました?」
「……ほんのちょっぴりは」
対して狼。カッターシャツにジーンズという、貧相とまでは言わずとも質素な装い。
これでも彼なりに無難なファッションを狙っている。人前に出るのだ、いつもの毛布をかぶったスタイルでいるのも無理がある。
ただ、彼の容姿は細身の割にかなり整っている部類。『もっといい着こなしがあるだろう』という感想を抱かせるくらいには、似合っていない。
とはいえ上等な衣類など持ち合わせていない。持っていたところで手持ち無沙汰になるだけ、そもそも手入れが大変だ。いくら似合わないといわれようが関係ない。身丈にはあっているのだから。
「あまり[[rb:洒落 > しゃれ]]ている、というのも返って話しかけづらいでしょう? 接客をする以上身なりを整えることは大事なことですが、道端に咲く花に微笑みかけるくらいの度量も大事なことなのですよ」
「へぇ? そうなの。でも、それって重要なことかしら。誰も見ない花なんて」
「だからこそ、です。そんな花だからこそ見過ごさない、むしろ[[rb:可憐 > かれん]]に魅せることが俺の……そう、責務なんです」
シャム猫の彼女が不思議そうに首をかしげる。対応に困っている、ともいうべきか。
見ず知らずの男性に善意で話しかけた結果面倒くさいからまれ方をされれば、誰もがそういう態度になるだろう。
けれど狼も引くわけにはいかない。一応とはいえ商売人なのだ。
ここは慎重、かつ軽快に。せっかく舞い込んできたチャンスだ、道化を演じてでも掴み取らなければ。
「俺、実はここでこういうのを営んでおりまして」
そう言って狼は地面に置いていた立札をシャム猫の彼女の前に掲げる。
『靴、磨きます』シンプルにそう書かれた立札。無骨さを[[rb:醸 >かも]]し出しながらも見栄え良く書こうとしたのだろう、彼自身の生真面目さがにじみ出ている。
靴磨き。路上営業の中で割とメジャーな[[rb:生業 > なりわい]]。ほかにもタバコや造花を売る販売、演奏やパフォーマンスでチップを恵んでもらう、など探せば多岐にわたる。ここ復興都市でもそういったものを生業とし、日々の生活を[[rb:賄 > まかな]]っているヒトは少なくない。
「靴磨き?」
「はい。……マダム、美しさとは一体どういったものか、何を以てヒトを美しくさせるのか、答えられますか?」
「そうね……自信、かしら。己に対する確固たる信念。それが自然と立ち振る舞いを綺麗にみせるんじゃないかしら」
「なるほど、確かに。そういう方はふと視線を傾けたくなりますよね」
「そうそう! 私もああなれたら、なんて」
ほんのりと声を弾ませてうらやむ彼女は、さながら夢見る少女のよう。それと同時にそうはなれないというあきらめも感じさせる。
確かに彼女はお世辞にも見目麗しい女性とは言えない。人ごみに紛れてしまえば他と変わりようのない、ごくごく普通の女性だ。本人の自身の無さも拍車をかけてしまっているのかもしれない。
「俺はこう思うのです。ヒトの美しさ、それは足元にも気を使える方のことを指すのだと。たとえみすぼらしかろうが、[[rb:貴賤 > きせん]]上下関係なく接することができる……そう、丁度貴女のようなヒトを」
「え……まあ、そんなこと。ふふ、私はただ声をかけただけ。具合が悪そうだったら誰だってそうするでしょう?」
「そんなことはありませんよ。当たり前のことを当然のようにやってのけるのは至難の業。どうか誇ってください、俺は貴女のような素敵な女性に出会えて大変うれしい」
「素敵だなんて、もぅ。……でもありがとう。男の方にそう褒められるのなんて久方ぶりだわ」
「そんなまさか! これだけ麗しいのに……」
「ふふ、大げさよ?」
反応は上々、といったところだろうか。商売とはいえ、狼自身こうもすらすらと女性を口説けて大変驚いている。久しぶりの接客だからなおのことだ。
(そもそもこんな露骨に褒めたりしねーよ、男ってのは。どんだけ気があったとしても欲求が先行する生き物だし)
べつにシャム猫の彼女とどうこうなりたいなどと狼は思っていない。[[rb:所詮 > しょせん]]はリップサービス、相手の気をよくさせたいだけだ。
ただ。本音を述べるのなら、悲しいところだ。誰も内面の美しさを重視していない。それどころか[[rb:普遍 > ふへん]]のものとして片づけられている。
まるで小さな花のようだ。足元で誰にも気づかれることなく咲く、小さな花。
その色も名前も、誰も知らない。ただひっそりと咲く、意味のない花。
「そしておしゃれなヒトほど足元、つまりは靴にも気を使うのだとか。どうでしょう、異性に己の物品を触られるのは気持ち[[rb:憚 > はばか]]られるかと思いますが、俺に任せていただけませんか?」
「ええと……そう、ねえ」
頬に手を当て、何とも悩ましげに返答するシャム猫の彼女を見て、狼はほんのりと手ごたえを感じる。
気持ちとしてはもう一押し、といったところだろうか。女性客を引き込めるのはそれだけで商売として強い。いい仕事をしてリピーターになってもらえれば客が増える可能性大、だ。
(あせんなよ、俺。せっかく舞い込んできた将来の金ヅル、やすやす見逃すなよ)
自然と狼の喉が渇いてくる。胸の奥の何かがひりついて、高鳴っていくのが感じ取れる。
これは勝負だ。相手に善意で勧めていると信じ込ませ、こちらの邪推を匂わせることなくその手をつかませる。一方的で、けれど獣の狩りとは違う、理性的なゲームそのもの。
他者に[[rb:媚 > こび]]を売るのは狼の趣味ではないし、[[rb:癪 > しゃく]]だとすら感じている。が、勝負事としてなら話は別。焦る気持ちを抑えながら、次の一手を打とうとする。
「それに……ですね? ただあなたに綺麗になって注目させたいから勧めているわけじゃあ、ないんですよ」
「え? それは、どういう意味かしら」
狼が数ある商売の中から靴磨きを選んだ理由。それにはちょっとした訳がある。
恩人に勧められたから、商売としてキナ臭くないから──それも、もちろんある。
けれど、もっと大切なもの。誰にも譲ることのできない、一番の理由としては、
「それはですね、願いを叶えてほしいから……靴というものは、願いを叶えるためにも必要不可欠なものだと思うのです」
そんな、子供じみたものだったりする。
「願いを、叶えるため?」
「そうです、マダム。願いというものは勝手に叶うものではなく、ましてや誰かが叶えてくれるものでもありません。
己の足で、歩みを止めなかったもの。そんなヒトに明るい未来というものはやって来る……俺は、そう信じているんです」
狼は目を閉じ、そっと自身の胸に手を当てる。耳の奥で、聞きなれたあのオルゴール音がなっている気がして、自然と頬が緩んだ。
それはただのおとぎ話だ。不思議なセカイに迷い込んだ少女が、個性豊かな仲間たちと出会いながら、魔法使いが住むという都へと向かう冒険譚。
幼い頃の狼にとって、その話はとても魅力的だった。いつまでもキラキラ輝いていて、思い出すたびに『ああ、こんなとこで[[rb:燻 > くすぶ]]っていられないな』と希望を抱かせてくれる。そんな話だ。
結局のところ魔法使いは偽物で、願いを叶えてくれるわけではなかった。けれど、彼らはそれ以上のものを得たのだと、狼は今でもそう思う。
「どうでしょうか。お時間を少々いただくことになりますが、俺に、貴方を素敵な未来へと歩ませる……そのお手伝いをさせてはいただけませんでしょうか……?」
誰もがきっと銀色の靴を履いている。あの少女が履いていた、あの靴を。最初から望むものを得る手段が己にあって、そうとは知らずボロボロにしているのだろう。
なら、その靴を[[rb:修繕 > しゅうぜん]]しよう。再びピカピカになるまで磨いて、またちゃんと歩むことができるようにしよう。
きっとそれは、こんなセカイで失われてしまったものだ。思い出すべきものだ。
だから狼は靴を磨く。再び、取り戻してもらうために。
「素敵な考えね。でも……やっぱり、ごめんなさい」
シャム猫の彼女が心底申し訳なさそうに目を伏せる。これは、やりすぎただろうか。商売だからとはいえ、通りすがりの女性相手に熱弁し過ぎたか。
「いえ、こちらこそ。今回は機会に恵まれなかった、ということにしておきます」
「あまり気落ちなさらないで? 貴方とお話しするの、とても楽しかったわ。本当よ?」
「ハハ……お気遣いありがとうございます」
控えめに手を振って、彼女はそそくさとその場を後にする。その姿を見えなくなるまで見送ると、誰にも気づかれないよう小さく狼はため息を吐いた。
(……あー、やっちまった。せっかくのチャンスをよう? なーに棒に振ってんだか。空振り三振、マジだせえ)
心の中で焦るなと自身で[[rb:叱咤 > しった]]していたくせに、態度として出ていたのだろう。あれだけ気を付けようとしてたくせにだらしない。久しぶりの接客とはいえ、これでは及第点にも満たない。無理やりな押し売りほど最低なものはないだろうに。
とはいえ後悔は後にも先にも立たない。落ち込み、ふさぎ込んでいたところでいつも誰かが手を差し伸べてくれるわけではないのだから。
緩く頭を振りかぶり、改めてシャム猫の彼女が消えて行った方を見る。種族こそ多種多様にいるが、皆一様に似たような衣服を身にまとい、おおよそ違いというものが見受けられない。そしてどこか幸せそうな表情を浮かべている。
(幸せ、か。外の惨状も知らずに[[rb:呑気 > のんき]]なこって。
……でも、コレがこいつらの望んだ幸福。幸せであることを徹底された……理想郷のカタチ)
誰もが幸福になれる──この都市では誰もが幸せになりたいと願い、そうあるために日々を過ごしている。その[[rb:弊害 > へいがい]]なのか、行きかう獣人全員に個性というものが感じ取れない。
ただの気のせい、考え過ぎだといえばそうなのかもしれない。ただ、狼の主観はこの街の獣人たちをそうとらえている。
(……あ、)
くらり、狼の頭が揺れた。とっさに言い放った冗談のつもりだったが、本当によってしまったかもしれない。
あまり意識をそちらへと向けてはいけない。重々承知していたはずなのに。こうして気になってしまっては余計に考えてしまうのは悪い癖だ。習慣、性質、替えられるはずもないが、狼の人生においてだいぶ損をする性分だろう。
気分を切り替えよう。嫌なことは早急に隅へと追いやってしまった方がいい。そう思い狼はほとんど無意識にポケットへと手を差しこんだ。
かさり、指先に紙の感触。そういえばワニの男に紙飛行機を手渡されていたのだと思い出す。なんもかも嫌になったら飛ばしてみろ、なんて本人は言っていたものの。商いの真っ最中に飛ばすのはさすがにどうかしている。
というか、なぜ紙飛行機を渡したのだろう。追って飛ばしてみろと進めるだけでよかったのではないか? その場では何も思わなかったが、渡す行為に何かあるのかもしれない。
なんとなしに紙を取り出し、広げてみる。と、そこには、
『愛してんぜベイベー!』
(いや何書いてんだアイツ)
狼がしまうときには一ミリも気づくことがなかった。何時の間に、そも気づかれることを前提として書いていたのだろうか。その場で気づこうものなら狼は即座に付き返していた。白い目を浴びせながら。
「……フ、クフフ」
ただそうならなかった、という結果はこうしてやってきたわけで。これをワニの男、ガレッツォが狙ってやったか、それは定かではない。ただ彼の行為は束の間だが狼の気を紛らわすことが出来た。知らず知らずの功労者、というわけだ。狼本人は感謝などしないだろうが、ほんの少しは気が楽になれただろう。
「おや、何か良い事でもあったのかい?」
そうこうしていると、客がやってきた。あわてて狼は紙をポケットへとしまう。
いけないいけない、あっけにとられてしまった。色々と言い返したいことが出来てしまったが、今は客に集中しなければ。
「ああ、いえいえ。ちょっとくだらないことがあっただ、け……」
「くだらない事、か。それは少し興味をそそられるね?」
「……」
「……ジャービス、さん」
穏やかな瞳を携えた、初老の犬獣人がにっこりとほほ笑む。おおらかで、上品な印象を与えるその笑みは、
「おや? 憶えていてくれたのかい? うれしいねぇ。[[rb:贔屓 > ひいき]]にさせてもらっているかいがあるというものだよ」
辺りの[[rb:喧騒 > けんそう]]すら置き去りにして、どこか遠くへと連れ去られそうな感覚を狼に与えるのだった。
[newpage]
「いやあ随分と探し回ったものだ。キミほど丁寧に仕事をしてくれる者はそういないからね」
「……そんなことはありませんよ。どこの靴磨きもそう変わりありません」
商業区を離れ、居住区へと続く路地を二人が歩く。目的地は彼の住まい。修繕してほしい靴がある、けれどその靴が大量にあるとの事だ。
先導するたれ耳の温厚そうなマウンテンドッグ、ジャービスは今にも歌いだしそうなくらい浮き足立っている。対して狼は数歩後ろ。その態度に、なのか、気おくれながら後をついていた。
「いやいや、そんなことはない。私の目に狂いはないさ。
対価を得るために仕事をこなす、それ以上のものがキミにはある。一目見たその瞬間はっとしたよ。『この少年は他の者とは一線を画している』とね」
「はは、まさか。俺はどこにでもいる、しがない靴磨きですよ」
「ああ、この胸の内がキミに届いていないなんて! 私はね、キミに心底惚れ込んでいるんだ、[[rb:卑下 > ひげ]]することは私に見る目がない、そういっているようなものだよ?」
「その様なつもりは毛頭なかったのですが……不快にさせてしまったのなら申し訳ありません」
「そんな不快だなんて! 誤解しないでほしい、私はキミのことをかっているんだ。そうしてへりくだった態度をとられてはとても悲しい。どうか、私に笑顔を見せてくれないか……?」
紺のジャケットにベージュのパンツ、いかにも品のある初老の男性を思わせる彼。狼の発言にかなりオーバー気味に口元を覆う。悲しいということを表現したいのだろうが、あまりにもわざと過ぎる。一々演技がかっていてとても[[rb:胡散 > うさん]]臭い。
不快だ。お得意様とはいえ、表面的にはとても穏やかに接してくるこの犬が。顔色を悟られることの無いよう、あたりさわりのない返答返しをするのに狼は精一杯だ。ふとした瞬間に不満がポロリ、こぼれてしまっても不思議じゃない。
「はぁ、そうですか。俺は基本根無し草、誰かの気を引くような存在ではないと常々思っていたのですが」
「それこそ大いなる誤解さ。キミは誰かに好かれて然るべき獣人だ。現にいるじゃないか、キミを求め、[[rb:慕 > した]]っているものが……ここに、ね?」
自信を指差し、ニコリとジャービスが微笑む。はた目から見れば彼は実に紳士らしい。誰かに問えば狼が疑い深いだけでは? と勘繰られるくらいには。
狼だって何も理由なく嫌っているわけではない。自身の思うように誘導してくるような発言を確認できるから嫌なのだ。
路上営業のほの暗い一面というか、同業者の間には身体を売るものもいる。臓器提供という意味合いではなく、はっきりといえば売春行為。それも男女関係なく。
そんな商売が成立してよいものか。そもそも復興都市は幸福を[[rb:謳 > うた]]う都市だろう?
──その考えは裕福だからできる事。恵まれているからこそ、以上だと唱えられること。
このセカイは一度滅びを迎えたのだ。たとえどんなにヒトが溢れかえっていようと、その事実だけは変えられない。
集団組織というものはどうあがこうが格差、貧困というものが生じるもの。ここ復興都市においてもそれは変わらない。明日すら耐えしのぐことすら危うい、けれど稼ぐ手段が自身にない。ならどうすればいいか。[[rb:物乞 > ものご]]いのように恵んでもらったり、売春行為に手を染めるしかないのだ。正しさだけで生きていけるほど、現実は甘くはない。
でもそれははたして幸福といえるのか。──この都市のヒトからすればその発想こそ間違い。
“幸福である”ではなく、“幸福になれる”というのがこの都市の在り方。他人に奉仕する行為を行うことは幸せになれる行為なのだ。それがどのようなカタチであれ。
「……どうかしたかい? 私、何かおかしなことをいっただろうか」
「いえ。素敵な尊顔ですよ」
彼、ジャービスは何故狼を特別視しているのだろうか。
時に仕事を[[rb:斡旋 > あっせん]]してくれたり、ついでに食事に誘われたり、はたまた『疲れただろう? 少しゆっくりしていくといい』とお風呂まで用意されたり。まさに至れり尽くせり、ちょっとどころかかなり出来過ぎている。
路上営業をしていると、そういう行為をする者だと狙われることがある。容姿がいいとなおさら。
ならば何かしら理由をつけて避けてしまえばいいのではないか。普通の相手ならばそれで対処できただろう。普通ならば。
「さて、ついた。ようこそ、我が家に」
この男は一筋縄ではいかない。なにせこの男、孤児院を経営しているこの都市有数の人格者なのだから。
:::
居住区の端の方にひっそりと建つ孤児院。そこは商業区のにぎやかさに負けず劣らず、子供達の元気な声が響き渡っていた。
「おじちゃんおかえりー!」
「おじちゃんよごれたぁ!」
「おじちゃんヨボヨボー!」
「やあやあただい……いや待ってくれ、私今貶されなかったかい?」
(ヨボヨボー……老いぼれー……ハッスルジジィー……)
ジャービスが戻って来たと知るやパタパタと子供達が駆け寄ってくる。皆何かしらの事情で寄る辺のなくなった者たちだ。悪態をつく子もいるが、ジャービスは救世主のような存在なのだろう。しっかりと彼に懐いているようだ。
「早速だが急用ができてしまったようだ。けれど若人をいつまでも玄関にとどめてしまうのも忍びない。[[rb:不躾 > ぶしつけ]]で大変申し訳ないが、上がって適当に[[rb:寛 > くつろ]]いでいてもらえるかな」
「はぁ……」
「すまないね、せっかくご足労願ったというのに。すぐ済ませるからね、長く待たせないと約束しよう。
……さて、私にわる~い口のきき方をしたのはだれかな~?」
子供たちが「きゃー!」と悲鳴を上げながら散り散りに逃げていく。それをジャービスは焦ることなく、ゆったりとした足取りで孤児院の奥へと追いかけて行った。
(……どっと疲れが出てきた。ったく、ジジイってのはこれだから。自分の好きなようにしかしゃべらねー)
家主が勝手に寛いでくれ、といったのだ。さっさと仕事を済ませたいが、ここはひとつ厚い面を[[rb:晒 > さら]]しながら寛いでやろう。
中に入り、リビングと思わしき広い場所へ[[rb:赴 > おもむ]]くと、荷物をおろしドカリと座る。
辺りは遊びっぱなしで放置された積み木やら人形やらが散乱している。まるで家中が子供部屋そのものだ。今だって遠くの方から誰かの叫び声が聞こえてくる。落ち着ける場所というには程遠い。
(……ここ、年がら年中こういうとこなんだろうな)
床に敷かれたカーペットを撫でながら狼がまぶたを閉じる。商業区のにぎやかさと違い、ここはどうしてだか居心地がいい。
いつもとは違う生活感にあふれた室内。狼にとって現実味のない、けれどありふれた部屋の空気感。騒がしいことのみが難点だが、こういう場所は嫌いではない。ヒトの営みというものを肌で感じ取ることができる。このまま甘えて長居したくなるくらいには、ありもしない懐かしさでいっぱいだ。
けれど。ずっとここにはいられない。己がいるべき場所はここではないと、狼は思う。
『……これから、よろしく。な?』
(……いやそういうんじゃねーから。そういや置いてきたんだなって、思い出しただけだから)
ふとフリッドのことを思い出し、狼は己にあきれ返る。ただ見過ごせないからと手を差し伸べた関係だったが、存外悪いとは感じない。誰かに引き取ってほしいとは常々思ってはいるが。
狼は認めていないが、ヒトと共にいるという状況に彼は久しぶりの安心感を憶えていた。指摘すれば『ただ義理をつらぬいているだけ』と否定するだろう。おそらくは一生気づかない何か、だ。
「あ……」
「ん?」
狼が一人どうでもよい[[rb:葛藤 > かっとう]]と戦っていると、かつりと松葉杖を鳴らし馬の姿をした男の子がやってきた。おそらく元々動かないのだろう、引きずっている片足は不自然にやせ細っている。
「きてたんだ」
「ああ」
おしゃべりが得意ではないのか、それだけ聞くと目をそらして馬の子は押し黙ってしまう。
彼の名はジョン。この孤児院で狼に懐いている……かどうかは分からないが、そばに寄ってくる子供の一人。物静かな印象を抱かせるその子は、同じく言葉数が決して多い方ではない狼のことがなんとなく好ましいのだろう。
寄ってきては数回言葉を交わし、満足したら去っていく。互いに気まずいというわけでもない、ヒトからみればどっちつかずの関係だ。
「マイケルー! どこいったのー!」
「……ウェンディ」
「あ、ジョン。と……靴屋さん!」
「ん。こんにちは」
続けて入ってきたのは狐の少女、ウェンディ。快活で面倒見の良い、絵に描いたみんなのお姉さんといった子だ。ジョンは彼女にニガテ意識があるのか、入ってきた瞬間ほんのりと渋い顔をしながらたじろいだ。
「いらっしゃい! どうしたの? ……あ、わかった。ジャービスさんに無理やり連れてこられたんでしょ。もぅ、口先の勢いだけですーぐ言いくるめようとするんだから!
ごめんね靴屋さん。迷惑かけちゃって。私からきっっつうぅく言っておくから!」
「大丈夫、これでも仕事だからね。心配してくれてありがとう、ウェンディ」
「だーめ! ちゃんと叱っておかないとジャービスさんすぐ調子に乗っちゃうんだから!」
ほぼ常習犯なのか、ウェンディはご立腹だ。気に入ったら手当たり次第家へと連れ込んでくるのだろう。そこで暮らしている側としては迷惑千万、ただの人たらしときた。
被害者である狼がなだめようともそれじゃダメだと異議を唱える。これは確かにジョンが避けたがるのも分かる。ジャービスと違った意味で彼女も圧がすごい。
「……マイケルは」
おかんむりなウェンディにぽつり、ジョンがつぶやく。
「そうマイケル! ねえジョン、マイケルどこに行ったか知らない?」
ウェンディの問いにジョンは首を振って答えた。全く知らない、の意だ。
狼の記憶が正しければ、マイケルはやんちゃ盛りの熊の少年。[[rb:悪戯 > いたずら]]好きでよく年上をからかっては痛い目にあわされる、等身大の男の子である。
「そう……知らないか。んもー、どこに隠れちゃったの? 干してたお洗濯ものぐっしゃぐしゃにしといて! 見つけたら絶対たたむの手伝ってもらうんだから!」
「八つ当たり」
「あ……ごめんなさい靴屋さん。はしたないところ見せちゃって」
「構わないよ。むしろありのままでいられるというのは素敵なものさ」
「そ、そうかな。えへへ……」
しっかりしているようでまだまだ子供なのだろう。狼のリップサービスにウェンディは照れくさそうに頬に手を当てる。
「……って、いけない。早くマイケル見つけなくっちゃ」
「大変だね。俺も何か手伝おうか」
「いいんです、靴屋さんの手を煩わせなくても。きっとすぐ見つかりますから!
アイツ、たぶんそう遠くに隠れていないはずなの。きっとこの部屋のどこかに──」
ガタリ。
「いっ……あ、ヤベ」
「……今の」
結構近くで物音がなった。……あやしい。
ウェンディが人差し指を口に当て、しぃ~とジェスチャーをする。そして物音がたった方へそろりと近づこうとする、と。
「……捕まっかよバーカ!」
「あ、コラ!」
物陰からバッと件の熊の少年、マイケルが飛び出てくる。居場所がばれてしまっては仕方ないと、ウェンディに見つかるすんでのところで部屋から逃げ出していく。
「待ちなさいマイケル! 今日という今日は逃がさないんだから!」
「ハッ! 鈍くそのお前になんか捕まらねーっての。ばっいぶー!」
「むっきぃー!」
逃がしてなるものかとウェンディが続いて部屋を飛び出していく。
と、思いきや。急にパタパタと戻って来て、
「そうそう靴屋さん。ごめんね騒がしくしちゃって。私から言うのも変だけど、ゆっくりしていって。
ジョン、靴屋さんのことよろしくね。くれぐれも粗相の無いように!」
「分かった」
それだけ言い残すとまた少女はパタパタと駆けて行ってしまった。
「……騒がしい」
「元気なのはいいことだ」
ひっそりと文句をこぼすジョンに苦笑しつつ、狼は彼をたしなめた。
まるで嵐のように現れては去って行った二人に、どことなくあの[[rb:虎 > バカ]]とのやり取りが重なる。立ち位置という意味でも、馬の少年とは共通するところがあるのだろう。シンパシーのような、ほっとけない感情を彼に抱いてしまってならない。
狼はあまり子供というものが得意ではない。
何もできない、何もわからないと嘆くだけの出来損ない、という立場に甘んじている者がそもそも駄目だ。それだけでは一生何も解決してくれないし、あの廃墟群では誰も手を貸してなんかくれやしない。
現に虎をまるっと嫌っているのは、そういった部分をみっともなくさらけ出してくるが故だ。目につくだけ[[rb:鬱陶 > うっとう]]しいったらありゃしない。
「……」
ただ。そんな理屈を本物の、ましてや障害をもった子供相手にぶつける気は更々ない。それこそ子供じみている、というよりただの器の小さな[[rb:愚 > おろ]]か者に過ぎない。そのような[[rb:輩 > やから]]になど憧れてなんかいやしないのだから。
「……水、のむ?」
「いや、いい。彼女にそういわれたからと気を張らないでくれ。俺はそんなに偉いヒトなんかじゃないんだから」
「……ん」
馬の少年の申し出にやんわりと狼はお断りする。
基本彼の負担にはなりたくはない。狐の少女には悪いが、気遣われない方がお互いに気が楽というものだ。……馬の少年の足の負担のことも[[rb:鑑 > かんが]]みても。
「ヒィ、ヒィ……はぁ。老体に、おいかけっこと、いうものは……辛いもの、だねぇ」
「……おじさん」
熊と狐の子供たちが去ってから[[rb:暫 > しばら]]く、ジャービスが大きな箱を抱えて部屋へとやって来た。
「ふぅ。やれやれ、まったく。……ん? どうしたんだいジョン。何か困りごとかい?」
ジャービスが優しく問いかける。その問いに馬の少年は首を振って答えた。
かつり。少年の松葉杖が控えめに鳴る。
「そうか。なら、いいんだ」
それに安心したのか、ウンウンとジャービスが[[rb:頷 > うなず]]く。
反面ジョンは居心地が悪そうだ。そわそわしているというか、狼の目には落ち着きがなくなったように思える。
「……」
「おや、どこへ行くんだい?」
「……部屋」
ついに限界になったのか、ぼそりとそう答えるとジョンは振り向くことなく去って行ってしまった。かつん、かつんと松葉杖を鳴らしながら。
「……年頃の子供というものは難しいものだね。キミも、そう思わないかい?」
「さあ……。親になったことがないので何とも」
そも子[[rb:煩悩 > ぼんのう]]に恵まれるような機会などそう巡ってくることはないだろう。そうなるくらいなら今を必死に生きていた方が勝手がいい。
「さてと。じゃあ、気を取り直して」
ジャービスが両手を揉むと、さながら期待する子供のような顔をしながら狼の方へと振り向く。
まあ、このためにここまで足を運んだのだ。待ちわびていた、とは言えないが仕事は仕事。しっかりとこなさなくては。
「この箱に入っている靴、すべての補修を任せたいのだけれど。出来そうかい?」
「これはまた……随分と多いですね」
差し出された箱の中は子供用の小さな靴でいっぱいだ。靴底がすり減っていたり、中敷きがボロボロだったり、縫い目の部分がほつれてめくれあがっていたり。大分と履き潰されている。
「なにせ成長期真っ只中だ。重ねてうちの子達はわんぱくでね。長く使おうともすぐ駄目になってしまう」
「分かりました。できる限りの範囲でやってみましょう」
「よかった、助かるよ。
……それとね、ついでなのだけれど」
「ジャービスさんの靴も、ですよね」
「ああ! いやあ、キミに磨いてもらえるなんて、私はなんてついているのだろう……!」
随分と大げさな態度だ。はなからそのつもりで頼んでいただろうに、何とも白々しい。
「では始めさせて頂きますね」
下ろしていた荷物から道具を一式取り出すと、狼は腕まくりをして気合を入れる。
さて、どれくらい直すことができるだろう。骨の折れる作業になるだろうが、子供用だからと手を抜くつもりはない。真剣に取り掛からせてもらおう。
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「……」
「……ふふっ」
やりずらい。非常に。とても。相当。
「………。あの、ジャービスさん」
「ん? なにかな、狼くん」
「俺の顔に何かついているでしょうか。なんといいますか、熱い視線を感じるのですが」
靴磨きという商売の性質上、客を待たせる必要がある。だから作業とじっと見つめられるのは狼だって慣れてはいるのだ。
が。ジャービスが見ているのは、初老の犬獣人がつぶさに見守っているのは、狼の手元の靴ではない。断言できる。対象は間違いなく、狼そのものだ。
「ははは、申し訳ない。キミの真剣な眼差しを見ているとつい、見惚れてしまってね」
「そうですか」
ジャービスはさらりとそういってのけるが、真意のほどはどうだろう。
好意を抱いている。それ自体は本当のことなのだろう。ただそのカタチはどういったものだろう。発言の態度だけでは狼は[[rb:伺 > うかが]]い知ることができない。
(本心、というのがわかんねぇ。聞こえのいいセリフをあらかじめ用意していて、そこから[[rb:掬 > すく]]い取って喋っているカンジだ)
それが[[rb:鑑賞 > かんしょう]]としての、美しいものに見惚れているからなのか。はたまたそれ以外の感情からのものなのか。発言の中に隠れているはずの欲求とか、目的というものが感じ取れない。
これが頭そのものを使っていなさそうな虎とか、ふざけ散らかしているワニなら全然問題なく狼は聞き流せる。彼、ジャービスの場合、狼にやり過ぎなくらい厚遇を無償で与えているせいか、何もかもが怪しく見えてしまう。
「頑張る若者、何かに真剣に取り組む者というものはそれだけで美しいものさ。すごく良い刺激になる。私も年甲斐なく張り切ってしまいそうだ。
どうだい? この後ディナーを共にする、というのは」
「……お気持ちだけ、頂いておきます」
「そうか。子供達も喜んでくれるかと思って誘ったのだが……。そう返されてしまったのなら、仕方ないか……」
[[rb:大袈裟 > おおげさ]]に肩を落とす老犬の本心はどこにあるのだろう。本当に残念がっているのか、子供を引き合いに出すことでわざと罪悪感を誘っているのか。これが計算ずくなのか、素でやっていることなのか──考えれば考えるだけ、るつぼにはまりそうになる。
一つ言える事。このヒトの口車に乗っかってはいけない。それだけは、狼にもわかる。
「では私の家族になる、というのはどうだろう。うん、やはりこれが一番いい」
「お言葉ですが」
[[rb:怖気 > おじけ]]づいてはいけない。言葉がきつくなるよう、声を張り上げながら狼は否定する。
「何度もそのお誘いを頂いておりますが、俺の返答は変わりません」
ずっとここにいてはいけない。居心地の良さを理由にいびりたってはいけない。誘われるたびにある種の予感が、まるで[[rb:警笛 > けいてき]]が響くように狼の脳裏をよぎっていく。
『残ると決めたが最後、ずるずると追いつめられ、しまいに自由すら奪われてしまう』と。
考え過ぎなのかもしれない。けれど。けれど、恐らくは。
「私は好意でいっているよ。キミのことだから、なおのこと」
今だって、こうして穏やかに話しかけてくるジャービスからそんな不穏さを感じてやまない。絶対に逃さない、そんな意図がどこかにあるような気がするのだ。
背中からぞわりと悪寒がはしり、狼の気が逆立つ。
顧客相手に粗相をするつもりはない。けれど客は神様というわけではないのだ。相手が人格者だろうが、最悪の場合は……。
「キミはなぜか頑なだね。恐れている、ともいえる」
「……何を、でしょうか」
まさか、勘付かれてしまったのだろうか。表情にも、勿論態度にさえ読まれまいと細心の注意を払っているというのに。
だとしたら、きっと。狼が喉の渇きをおぼえる。
……だとしたら、どんな策を狼が練ろうとそれは無意味に終わる。
「『幸せになること』に、だよ」
「……」
その一言に狼は[[rb:唖然 > あぜん]]とする。
幸せ。それはこの都市で一番重要とされる価値観。誰もがそうなりたいと願い、そうなれると信じ毎日を送っている。
では、何を以て幸せと呼ぶのか。それは他者が幸せそうだと[[rb:羨 > うらや]]むことだ。誰もが羨む存在、そうなることで幸せになれる。
疑うことなんてない。なんせ幸せとはそういうものだからだ。
「ハハ、びっくりしました。何を言い出すのかと思いきや、まさか俺が幸せになることを恐れている、だなんて」
「私も冗談が上手いだろう? いるはずがないのにねぇ、幸せを否定する者なんて」
「まったくです。……ふぅ、思わず胆を冷やしてしまいました。脅かされるのかと内心焦りましたよ」
「そんなこと私がするわけないじゃないか。家族になるという、分かりやすい幸福の在り方になりたがらない輩など、いる事の方が可笑しいからね」
家族になる、仲間と共にいる、協力して悪を討ち果たす。幸せとは、カタチとして決まっている。物語におけるハッピーエンドのようなものだ。その道筋をたどっていれば最終的に幸せを迎えることができる。お決まりの、『そして誰もが幸せに暮らしましたとさ』というやつだ。
そう、カタチさえなぞれば誰だってなれてしまうものだ。より良いもの、より良い結末なんて望む必要がない。
そしてそれは分かりやすい不幸を否定する。たとえば“親のいない子供”とか。
「誰だって幸せになる権利がある。それは可哀想だと言われる子供達だってそうだ。親の愛情を知らない彼らはなおのこと幸せになっていいはずだ。そうだろう?」
「……同感です」
子供というものはコマだ。家族を構成するうえでのキーパーソン。男と女がそろい、そこに子供がいればそれは幸せと呼ぶに相応しい。
ジャービスが運営する孤児院は、世間からすれば同情を誘うほど不幸な子供達だ。この都市では[[rb:敬遠 > けいえん]]される者達の収容所でしかない。
彼ら彼女らに罪はない。これは幸せになるに必要なこと。望まれたが故の被害者。
ジャービスは人格者として認知されている。それは、そんな彼らに手を差し伸べ、幸せにしているからだ。そうでなければこの孤児院は潰され、子供たちは路頭に迷い社会に消化されるだろう。
「キミだって幸せになっていいはずなんだ。こんなに頑張っている若者なんだ、バチなんてあたらない。私がそうさせない」
「……ありがとうごさいます。でも、やはり遠慮させていただきます」
老犬の考えはもっともだ。けれど、狼はやはり誘いには答えない。
「俺は子供ではありません。自分で幸せになれる。そのために進むことができるんです」
銀色の靴を踏み鳴らし、理想を追い求める。狼が抱くものがどういったものになるにせよ、立ち止まるということは選ぶことができない。それは許されないことだ。
「……そうかい。でもね、もしも辛くなったら遠慮なく私を頼ってほしい。ここはそういう場所なのだから」
「……はい」
止めてそれっきりになっていた作業を再開する。
きっと、頼ることはないだろう。会話を打ち切るためあえて頷いただけ。それが伝わっていなくとも関係ない。
ここは幸せの都市。崩壊したセカイで守ろうとした、理想の都。
空っぽの中身に幸せの衣を纏った空虚な街並み。誰もが望んだ空想の都。
(これが、理想が現実になるという事なら……俺は)
一抹の不安にかられながら狼は靴を磨く。
この行為にはたして意味があるのだろうか。己が理想は間違えていないか、疑いながら。