【KSC2023】Guardian of Materialism【完全版】
そして、二〇年と少しが経った。
魔女、フィルルイン・フィルリアの騎士として、私は生き続けている。私にはいくつかのものが与えられた。名前、騎士の位、聖剣、勲章――しかし、私の生はそれらのもので変わった訳ではない。名前や位では、誰も、何も変わらない。
我が主、フィルルイン様にしても、あの女はどんなところもミステリアスで素敵だと思うが、それが単なる身内贔屓なのか、私の頭に組み込まれた魔法の区画の一つに過ぎないのかはわからない。そう皮肉るくらいしか、気持ちのやりようがない。私は魔女の威光を見せつけるための、お飾りの騎士だった。
それでもいい。
「アルヴェスタ」
私を呼ぶ我が主の声。アルヴェスタ。[[rb:二 > 丶]][[rb:本 > 丶]][[rb:足 > 丶]]の私。魔女を護る、白狼の騎士。この地、魔法王国フィルリアを管理するものの一つとしての名。
「はい、我が主」
そうであるならば、せめて、よりよいものに。フィルリアの地に生きる者たちに、パンとサーカスを。食べ物と、楽しいことを。そしてそれ以外のすべてを。
名前や位は、ただ変わる準備ができた時、それによって変わったように錯覚しただけだ。したがって、塵芥のようにくだらないこの葛藤は、すべてその象徴である。
おれを支配していた魔法使いは、あどけない感じの、少女と言ってよい人間だった。他の人間から魔法使い様と呼ばれる割に、やつが魔法とかいうものを使うのを見たことがない。
そこでは、決まった時間に飯が来た。おれの気分は考慮されない。
おれは本当に可愛がられた。何に噛みついても、何を落っことしてぶち壊しても、一度も折檻を受けたことがない。
暖かいので人間に擦り寄ると、たいてい勘違いされた。つまり撫でてくる。抱っこをしてくる。うざったくて逃げるのだが、あらあらといった感じで全く堪えない。
いかなる自由も許されない。例えば、おれが気が進まず飯を食わなかったとする。するとやつは騒ぎたて、なにやら別の建物に連れてゆかれる。苦くて甘くて香ばしい香りのする、忌々しい建物。そして針で刺される。なんだか知らないが次の日には無理矢理、元気になっている。飯を喰う気概も戻っている。あれが本当に嫌いだ。体調が悪いのも食欲がないのもおれの勝手だろうが。
逆に、どれだけおれが何か食いたいと思っても、定刻でなければ飯は出ない。やつが部屋にいる間ずっと、頭よおかしくなれと願いながら大声で吠えてみても出てこない。飯は朝と夜に出るだけ。出てこないことはないし、逆に多く出ることもない。
それに、館は暇で暇で仕方ない。暇を潰したければやつに構う必要がある。やつは玉だの骨だのを投げ、おれはそれを捕まえる。それはやつの手が投げるだけの、単調な動きしかしない。うまく獲物を捕らえたところで食えはしないという事実もうんざりする。それは口に入れてみるとなにか頑丈で弾力のある塊にすぎないからだ。極めつけは、じょうずだね~などと言って、やつが頬を摺り寄せてくる。それがいちばん嫌だ。鼓膜を破壊してやろうと懇親の大声を何度もぶつけてやったのだが、効果がありそうではなかった。
まれに、部屋の中を大物の虫が這いまわっているのを見つけて、それを追いかけまわしぶち殺すことには何物にも代えがたい悦楽がある。いつもはそれをたまのおやつに食ってやるのだが――それはシャリシャリもちもちとしていて実に美味なのだが――たまには分けてやってもよかろうと思い、やつの目の前にそれを置いてやったことがある。やつは大喜びしてそれを食うべきだったのだが、実際は金切り声をあげて逃げだした。少ししたら大きな男が数人やってきて、虫を奪っていきやがった。どういう了見なのかと思った。道理が通らない。やつはおれのやつはおれの前にいる時を除いていつも毅然としていた。常に何か紙束の相手をして、代わる代わる人間が訪ねてきて、神妙な顔で話し合ったりもしていた。あのような馬鹿丸出しの顔と声を見せることは決してなかった。
あと、あれが嫌だ。つるつるした部屋へ連れてゆかれて、全身にぬるま湯をぶっかけられ、泡の出る石で毛が真っ白になるまで擦りまくる。理解できない。不届きだ。あんなこと許してはいけない。
とはいえ、ひたすら吠えたり噛みついたりしていると、月日の経つ毎、おれが何を望んでいるのか理解はしてくるようだった。そして気付けば、やつはもう少女ではなく女になっていた。
気分によっては抱かれてやることもある。頭を撫でさせてやったりもする。最近になるほど、やつはおれを愛撫するのがうまい。再三やってきた調教の成果だ。どうにかこうにか、おれはここを自分のすみかに相応しいと言い訳してやっても、まあよいかもしれないと感じてきていた。
ところで所詮、おれを止められるものはなかった。それはおれ自身にも、という意味で。
ある日、おれは逃げることを決めた。理由はわからなかったが、逃げようと決めたら逃げたい理由はいつでもいっぱいあったのだ。
おれは機会がやってくるのを待った。本当はすぐにでも逃げたかったが、一度逃げるのに失敗すると「こいつは逃げようとする」と覚えられてしまう。人間は一度起こったことを防ぐ動きをする生き物だ。であるなら、最も確率の高い時を待ち続けるのがよい。万が一失敗したとしても「逃げようとした訳ではない」という心象があれば尚よい。
残念ながらそこまで頭のいい策を考えつけなかったし、死ぬまでその機会が訪れないこともじゅうぶんに考えられた。しかし、おれの頭の出来の悪さを差し引いても、この部屋でできることというのは殊更限られていると思われた。やつは実際、神経質な女だ。おれがとっ散らかすことに対しおおらかで目くじらこそたてないが、やたらとよく片付いた部屋を好んだ。寝具と本棚があるだけの。
そして、その日がやってきた。それは、おれがここから逃げる決意をして、実に幾百夜もあとのことだった。正直そのあいだに何度かは逃げる気が失せていたりもしたが、結局のところ、逃げようというときにその機会が巡ってきた格好になった。
その日は窓の外に黄色い蝶が近づいてきて、おれはそれを飛び上がってぶち殺そうとしていた。当然、窓に隔てられて叶わない。やつはおれの目当てがなんなのかを知ると、あら~などと言いながら窓を開けた。おれはその瞬間、窓の外へ飛んだ。草の上に着地した。初めての感覚かもしれなかった。そのまま全速力で屋敷から離れた。
やつがおれを呼んでいるのが聞こえた。今まで聞いたことのないような、必死の声だった。おそらく、この声を忘れることはない。あるいはそれは嘘で、すぐに忘れる。
そして逃げおおせた。とっくに屋敷が見えなくなってからも、ずいぶん長いこと走っていたような気がするのだが、疲れはなかった。こんなにもうまくゆくと思わなかったが、これで気ままに生きてゆけるのだ。この時、おれはオオカミとしてはとっくに老いぼれだった。しかしそれでも、おれは外の空気を吸って空を見上げると、これまでになく力がみなぎるのを感じていた。
魔法使いの影響だろうか。その時から、おれは宙に浮けよと思えば浮くくらいのことはできた。やろうと思えば、途轍もない速さで目の前を駆け抜けてゆく馬車だって力ずくで止められると確信していた。
窓越しじゃない夕焼けを全身に浴びたのは、それが生涯で初めてだったかもしれない。これができただけで、今まで我慢して生きてきたのも多少、報われてやってもいいだろうという、いい気分になった。
何十年か気ままに過ごしていたある日、何やら[[rb:く > 丶]][[rb:ぐ > 丶]][[rb:っ > 丶]][[rb:た > 丶]]感覚がした。膜を突き破って、今までいたところとは違うどこかへ来てしまった感じがした。また、戻ることがそう簡単でないのだろう、ということも直感した。
確かに最近、ちょうど今の寝床に飽きてきて、そろそろこの山もいいかなと思ってはいたが、もう数日はそこで眠ると思っていたので、気分を壊されて憤慨した。手塩にかけて自分の縄張りに育てあげた山をひょいと取り上げられて、キレない動物がいるか? 寝床からしばらく歩くと穴ぼこがあって、そこに棲んでいたリスの家族を、歳をくったやつからぶち殺して食うのが本当に好きだった。期間を空けると同じような数に戻っているのが愉快で仕方なかったものだ。自分で棄てるのはよいが、奪われるのはとんと我慢ならない。おれに[[rb:こ > 丶]][[rb:れ > 丶]]をした何かがいるなら、そいつは絶対に殺して食おうと決めた。
ざっと歩いてみた感じ、嫌な山だった。不躾な捕食者のにおいがいっぱいする。自分以外に血生臭い感じがするのは、気色悪くてクソみたいな気分だ。しかし、旨そうな木の実がいっぱい生えているのは気に入った。それを食って生きている虫たちも丸々と太っていて、どいつもこいつも旨そうだ。
それに、先ほどから力が湧いてくる。あの屋敷から逃げた時のように情緒的なことじゃない。もっと身も蓋もない。今まで自分が生きていたところはきっと空気がとても薄くて、それで体が自由に動かなかったのだろうと、そのような感覚だった。
ずっと歩いていると、妙に好戦的で獰猛なオオカミに遭ったので殺した。ちくりと魔力を感じたので、きっとこいつは何かの手下だったのだろうと食いながら思った。うまかった。雑魚オオカミごときがこんな風に襲ってきてくれるのなら、もうずっとここで寝ていたって、飯が勝手に口に入ってくるのと変わらない。食後、べちゃべちゃになった口まわりから尻尾まで順番に、舌で丁寧にこそぎ取って繕い、毛玉を吐いて綺麗になると、世界の支配者になったように気分がよいので、いつもそうしている。
決めた。この山に棲もう。オオカミを殺したので、ここの親玉にとっておれは縄張りを侵した不届き者である。適当に暮らしていれば、向こうから顔を出すはずだ。ひとまずこうだと欠伸をかまし、その日は寝た。
それから毎日のようにオオカミを殺した。ちょっとおれより大きな体をしている程度のことでいきり散らして、次の息を吸うまでにおれに喉笛を噛み千切られ、呼吸ができず口から間抜けな音と血泡を吐いて死ぬっていうやつを、本当に何度も何度もやった。懲りたらどうなんだと思うが、おれからすれば辟易としても、オオカミどもからすれば毎度はじめての経験なのであって、仕方がないとも言えた。
最初は新鮮だったが、味にも飽きた。命を奪って自分のものにするという営みは、もっと大きな輝きの中で行われるべきだ。このような倦怠の坩堝の中ではなく。そもそも、この山はオオカミが多すぎた。オオカミというのは、こんなにものさばる生き物だっただろうか。土をこねて、はいオオカミできました、と毎日やっている輩がどこかにいるのではないか。
そのようなだらだらとした気分で毛づくろいに取りかかろうとすると、不意に、その辺の白黒の石ころと勘違いしていたものが動き出して礼を言ってきた。セキレイだ。どうもおれが出くわしたオオカミは、直前にこのセキレイを殺そうとしていたようだ。オオカミに殺される鳥なんて間抜けだと思ったが、翼を怪我していた。間抜けに思う理由が変わっただけだ。しかも重ね重ね間抜けなのが、新たな捕食者になりうるおれに弱ったまま話しかけることだ。おれはこいつを助けたわけではないし、鳥が好きだし――ほとんど骨だらけだが、噛み砕いて咀嚼するのは気分がいい――、少なくともオオカミなどより余程ごちそうだ。
それで、口直しになるだろうと大口を開けたら、わあと声をあげて飛び退き、それからおれの視界がなくなった。魔力を使う鳥だ。狼狽えているとセキレイが笑いながら、あなたは今わたしのことを間抜けだと思っていたでしょうと言った。
舐めるな、目で見えないなら鼻で追うだけだと叫んでみたが、セキレイは続いておれをなだめすかした。どうも調子の狂う声だ。どんな気分で盛り上がろうとしても、無理矢理に落ち着いてしまう力があった。逆に、こいつが盛り上がりなさいと囃したてればきっとおれは言われるままに踊り狂うだろうと思うような、魅力的な声だ。
「ずっと見ていたのよ。あなたって言葉が通じるらしいのに、ずっとただのオオカミみたいに暮らすものだから、面白くて」
「オオカミなんだから言葉くらい通じるさ。普通のことだろ」
こいつの言い分を聞くことには、魔力を得ることも、言葉を喋るのも普通ではないということだった。そういえばこの山に来てからというもの、言葉の通じるやつはずいぶん多い。先程のオオカミにしたってそうだ。長ったらしく脅しの言葉を並べ立て、おれを恐怖の色に染めてやろうと頑張っていた。
セキレイは続けた。ただの動物だった頃とは違うものを欲して、そのために生きるようになる者が多いのだという。欲。やりたいこと。この縄張りの親玉もその例に漏れず、支配欲の皮が突っ張りまくった暴君だと説明された。
「どうでもいいことをつらつら並べ立てるな。おれは好きな時に好きな場所で食って寝られればいいんだ。おれはこのあたりが好きで、邪魔なやつは食う。お前は襲ってくるつもりもなくて、食わせてもくれないなら興味ないからどっか行け」
「嫌よ。だってあなたはこのままだと山の主と戦うでしょう。そうしたら、どっちかは死んで、もしかしたらそのどっちかっていうのが主で、あなたが次の主になるかもしれないのよ」
「知らん。そいつが襲ってくるなら殺す。でも主とかいうのはやらないし、ここが飽きたら違うところに行く」
だからあ、そういうわけにはいかないんだってば、とセキレイはわざとらしく呆れてみせた。このセキレイの声が魅力的な程度では我慢ならないくらい、おれはいらいらしてきていた。食後の毛繕いもできないまま喋り始めたので、口周りの血が乾き始めているじゃないか。このまま放っておいたらおれの誇り高い毛並みがガビガビになってしまう。
「責任があるのよ。あなたは力があるし――主と比べてどっちが上かはわからないけど――、それ以外だったらこの山じゃ一番だと思うわ」
「責任だって。その言葉は知ってる。人間がよく口にしてた。でも知るもんかよ。そんなのは人間たちに有益だからある言葉だ。おれには関係ない」
「もうただのオオカミじゃないわ。あなたは[[rb:魔 > 丶]][[rb:物 > 丶]]になっちゃったのよ。人間と同じ言葉を喋って、そんなのがいっぱい住んでるここにいる。そうなったらもう、責任から逃げられなくなっちゃったんですからね」
「うるさい! もううんざりだ。だったらもうこの山から出ていって、魔物だのがいないところを探してやるよ。気に入った場所だったけれど、この際、仕方ないね。お前みたいなのにずっと纏わりつかれるのと比べればまだましだから」
「そんな場所、ここにはないよ。フィルリアの山々はどこも魔物でいっぱいなんだから」
「ふぃる、なんだって?」
「フィルリア王国。魔法使いが治めるこの土地のことよ」
「動物が、場所を名前なんかで呼ぶな!」
「だめよ。そういうのはちょっとずつ勉強していきましょうね。わたしが面倒見てあげるから」
いい加減にしろと怒鳴る寸前のところで、セキレイは口の中からおもむろにホタルを取り出したので面食らった。そいつはセキレイの友達だという。光の具合で意志の疎通を図れるのだと言っていた。
何を言っても無駄だと思ったおれはセキレイを無視して毛繕いを始めた。やっぱりだ。時間を空けてしまったのでいつもより手間取る。そしてセキレイは辛抱強くあやすような言葉遣いで話し続け、とうとうおれは、しばらくして落ち着いてしまった。
そうやって何日か、セキレイと過ごした。セキレイにはいくらか知り合いがいたが、それらはこの山におけるはぐれものだった。つまり、オオカミの支配をいやがり、かといって他に縄張りのあてもなく、そして革命する甲斐性も力もなく、その場その場で抵抗や逃亡を繰り返してどうにかこうにか生きているやつらだ。弱いやつっていうのは同じような生き方をする。
おれがオオカミだから、その内の多くはおれに対して怯えや不信をたたえた。そんな木っ端どもの中にも、印象に残ったやつも何匹かいた。
クズリは三兄弟の末っ子で、上二匹はオオカミに食われたと言っていた。兄たちは二本足化に成功していて、魔法を使いこなし、おれが来る前まではぐれの中でいちばん強かったらしい。おれが二本足でないのを見て舐めくさった態度をとってきたので、いっぱい蹴った。そのまま食ってやろうとしたらセキレイに止められた。
「あんた、いかれてるな」
とクズリは言った。もう一発蹴強く蹴り入れた。クズリはおおげさに吹っ飛んで木の幹にぶつかった。それで虫が何匹か降ってきたので、その場にいた連中で食べた。クズリの口には勝手にみのむしが落ちてきていた。
ヘビも不遜なやつだった。セキレイが言うには、はぐれたちがオオカミに気付かれなくなるおまじないをかけてくれる慈悲深いやつだそうだが、ずるずるとおれの体を這いまわってきていきなり不快だった。気配を覚えるのとおまじないをかけるのとで、こうするのが都合がいいとヘビは言った。誰がおれにおまじないをかけてよいと許可したのだ。殺そうと思った。しかしおれが何かを殺そうとすると、その度におれの視界は奪われるので辟易した。。セキレイがいない時を狙って一匹ずつ数を減らし、最後にセキレイも背後から食ってやろう。
翻って、イノシシはとても利他的だった。セキレイがおれを紹介すると、イノシシは木の実がいっぱい生えている場所を教えてきた。オオカミにも見つかっていない穴場だという。甘い香りがしてきて、胃袋がいっぱいに濡れたのを感じてたまらなくなった。イノシシは、なくなってしまわない程度に少しずつ食べなさいと言った。鼻を鳴らすと、お礼くらい言いなさいとセキレイにひっぱたかれた。この何日かで、すでに百はこれをもらっていたので、おれも最初のうちはいちいち腹を立てていたが、しまいにはなんとも気にならなくなっていた。
木の実を食っていると、ホタルが大きく光ったので面食らった。まだ言葉を操るほどの魔力がないホタルだが、光の具合で意思の疎通を図れるらしい。なるべく凶暴さが伝わるように喉を鳴らして抗議してみたが、オオカミが近づいてきていることを知らせてくれたのだとセキレイが言った。さっきここは見つかっていない場所と言ったばかりなのに、これか。イノシシが、少し待っていなさいと言ってその場を離れ、しばらくすると地面が揺れて大きな音がした。戻ってきたイノシシは血を浴びていたので、オオカミを殺したんだなと思った。そして、ここが見つかっていないのは近づいたオオカミがぜんぶイノシシに殺されちゃうからなのよ、とセキレイが説明した。どうも雑魚との小競り合い程度ならこなせる者もいるようだ。
甘いものの口直しにオオカミの死体をつまむかと思い、血の跡を追うと、岸壁に赤いシミがこびりついていた。こんなにしてしまったら食うところがない。あの体で突っ込まれたら大体はこうなるのだ。情緒がない。
お前らではまったくオオカミに敵わないのかと確認すると、そうなのよ、とセキレイが笑った。続いて、びびっちゃった? と言ってきたので殴ろうとしたら、ホタルが激しく光って目が眩んだ。この野郎と叫ぶと続いて目の前が真っ暗になった。悪かったからもうやめろと言うと、ケラケラ笑っている声が聞こえた。忌々しいが、おれはずっとこんな調子でいいように遊ばれている。セキレイとホタルの悪戯好きには、もうずっとぐったりしていた。
ここにくるまで、おれ以外に魔物というものと出会わなかった。あまり開け広げに言いたいことではないが、人間はオオカミを管理化に置く生き物であり(だからといって媚びへつらったことは一度もないとはいえ)、その位はおれの上にあったという言い方もできる。そして、同じ動物でおれに並ぶものはなかった。しかしここにはそういうのがたくさんいる。戸惑いがずっとある。傍若無人に振る舞いきることのできない環境に、おれはどう適応したものかまだわかっていない。
なので、さっきも述べたようにずっとぐったりしている。なんだか元気が沸かない。自分以外には何もなく、言葉を交わす相手も当然いない。聞くことのある声といえばおれに食われるものの断末魔のみで、それごと血肉を飲み込むと魔王のように気分がよかった。
おれは残虐になにかを殺すのが好きなわけではない。強いて、ならばそれの何が心楽しかったのかということについて、うまく説明はできない。
それが、今はない。[[rb:つ > 丶]][[rb:な > 丶]][[rb:が > 丶]][[rb:り > 丶]]だ。今のおれはたぶん、それの中に置かれつつある。それはこのセキレイによって。
寂しいような、うざったいような、欲求が満たされず不満が溜まってゆくような、そのような状態にも関わらず事象が不躾に次々と降りかかってくるのを、眠ってすべて忘れてしまいたいような、そういう状態にいる。
変化を嫌いはしない。だがそれはいつもおれが変化を起こす側に立っていられたからだ。決して、周囲の激動に流し揉まれることではなく。
あの館に生きていたときのことを思い返してみれば、たしかにおれはその頃、己が何かを変化させる権利に乏しくはあった。しかしもう、ずいぶん昔のことだ。館を出てからの時間の方がずっと長かった。
岸壁の赤いシミを見つめながらそのように呆けていると、セキレイがおれの前に立って見上げてきた。首を傾げ、怒っちゃったの、とわざとらしく声をうわずらせている。ホタルもホタルで、照らす灯りが弱々しかった。なにか殊勝に思うことがあったのかもしれない。うるさい、とおれは答えた。おれはこの「対等」というものについて、もう少し考えを巡らせる必要があったのだ。
セキレイは様々なことをおれに聞かせた。この小さな山々はフィルリア王国の中でも端っこの方で、所謂「お山の大将」の生き方を選んだ木っ端魔物が幅を利かせるしょうもない場所だとか、あまりにも情勢が穏やかでない時は管理者とかいう人間が調整をしにやってくるらしいとか、山の麓には人間が巨大な巣をかまえて秩序立って生活しているとか、そういうことをだ。
セキレイが三回も口を開く頃には、おれはもう眠くなっている。近頃は具合のいい木陰などを見つけるとそこに陣取り、何かお勉強の話をしろとセキレイに強請る。セキレイは子守歌じゃないとおれの顔に翼をぶつけた。そんなことはない、お勉強がしたい、おれに責任の何たるかを教えてくれるのではなかったかと言うと、最後には折れるのである。そしておれはすぐに寝る。セキレイは怒る。翼がぶつけられると丁度愛撫のように心地がいい。
「前の主はさあ、管理者に調伏されちゃったのよね。やりすぎてさ。周りの山から略奪して、この山を豊かにしてたの。でもそんなこと許してたら戦いが大きくなっていって、その内フィルリアの動物ぜんぶが巻き込まれちゃうでしょう」
「調伏っていうのは、何をされるんだ」
「さあ。でもとりあえず、ここからはいなくなっちゃったわね」
それで、今のオオカミが主になったわ。オオカミは先の主の切り込み隊長のようなことをやってたんだけど、それは充実していたみたいね。上手かったからね、なんていうのか、采配っていうのが、先の主はね。でもオオカミは主には向いてなかった。自ら肉を引き裂けない鬱憤を支配欲で満たすようになったんだわ。あのオオカミの悍ましいのは、他の生き物を――おれはこの辺りで寝た。
セキレイがおれのことを気に入らないのは、寝てしまう割には、聞かされたことをきちんと覚えているところだと言った。覚えてないよりはよいはずなのだが、なんだか鼻持ちならない感じでむかつくのだそうだ。ちょうどかわいくない感じの手のかからなさで。
セキレイは、誰かを世話していないと死ぬ生き物なのかもしれない。
「わたし、つてづてに聞いて、気に入ってる言葉があるの。パンとサーカスっていうんだけど」
「パンとサーカス?」
「そう。食べ物と、楽しいこと。パンとサーカスがあれば、みんな納得してくれるって意味らしいわよ。だから、あなたがパンとサーカスをくれる主になってくれたらいいなって」
「主にはならない。でも、確かにそれはいい。おれがやってきたことそのものだ」
パンとサーカスか。食べ物と、楽しいこと。しかし、セキレイの言っていることはなんだか勝手な気がした。これまでセキレイはいろいろな話を聞かせてきたが、それは自分ではない違う何かから奪って手に入れるものなのだ。きっと、セキレイの言うところの先の主だって、そうやってそれを自分の山のものどもへ与えていた。それが、[[rb:も > 丶]][[rb:っ > 丶]][[rb:と > 丶]][[rb:大 > 丶]][[rb:き > 丶]][[rb:な > 丶]][[rb:何 > 丶]][[rb:か > 丶]]にそぐわなかったために、先の主はいなくなってしまったのだ。
セキレイは、おれにそれになれと言っている。勝手気ままな話だとおれが思うのには、これといった矛盾がないはずだった。しかしおれはそういうことを口にはしなかった。子守歌にうんうんと相槌を打つくらいはしても、意見を戦わせる気は微塵もなかったからだ。
パンとサーカス、パンとサーカス……食べ物と、楽しいこと……確かにそれだけあれば何もいらない……しかし、それを自分のみでなく共同体に広げようとすると、やはりそのぶん話は大きく、ややこしくなるのだ。それを得るには、それよりも[[rb:も > 丶]][[rb:っ > 丶]][[rb:と > 丶]][[rb:大 > 丶]][[rb:き > 丶]][[rb:な > 丶]][[rb:何 > 丶]][[rb:か > 丶]]に目を向けなければならない。
それにそもそも、そんなものは誰かからただ与えられるだけのモノじゃない。そうだったとすれば、そいつらはきっとただの腑抜けだ。虚けだ。もし与えられているとすれば、それが与える側にとって得だからそうするのであって、それに気づいていないのは、間抜けだ。
食べ物と、楽しいこと。途端に、皮肉めいた言葉に思えてきた。しかしそれがあればたいてい満足なのも確かだ。要は、食べ物と楽しいこと以外にはどんなことがあるのか、それを誰もが考えるべきだ、ということなのだろう。パンとサーカス。食べ物と、楽しいこと。そしてそれ以外のすべて。
いや、いや。待てよ。セキレイがその程度のことを見落としておれに話すだろうか?
そろそろ、おれのこの怠惰な態度に対してなんらかの策を打つ頃ではないかと思っていた。実際、セキレイはこのようにおれが考えを巡らせることを望んでいるに違いない。自主的な成熟を目論んでいるのだ。思うつぼだ。忌々しい。そのように思って微睡んでいた目を開きセキレイを見ると、きょとんとしていた。
おれは気付かれないよう慎重に、それでいて素早く、尻尾でセキレイを叩いた。セキレイはきゃあと悲鳴をあげて吹っ飛んだ。そのあとずっと怒りまくって、ぴーちくぱーちく鳴いていた。
おれたちがなじりあっているのを、ホタルとヘビが泥濘のような眼差しで見ていた。ホタルは何度か光って、それを見たヘビの方もくすくすと笑っていた。
隣山は隣山で、いけ好かない野郎が牛耳っていたとクズリが愚痴った。曰く、そこでの暮らしが気に入らずこの山に来て、それでもこっちはこっちでオオカミと折り合いがつかず、戦ってみたら身内を殺され、己だけが生き残ったという経緯だったようだ。
しかしその話の続きで、隣山のいけ好かない野郎は最近殺されたと言った。大きなクマが縄張りにやってきて食われたらしい。クマはそのまま山に居着いて、どんなものも食い荒らしているのだ。クズリはそれに関して、口ではざまあみろと言っていたが、どうにもつまらなそうな様子であった。そりゃあ本音を言えば己の手で殺したかろうな。
何故このような話をじっと聞いてやっているのかというと、クズリは大怪我をしていた。オオカミと鉢合わせてしまったが、雑魚だったのでなんとかなった。倒れていたクズリを見かけたセキレイが、イノシシを連れてくるまで見ていろと言うので、おれは律儀に待ってやっている。翼を怪我していて、鳥のくせに走り去ってゆく滑稽を嘲笑うつもりが、見慣れ過ぎてなんとも思わなかった。
正確には、クズリに外傷はなく、ただ憔悴していた。クズリは特製の薬を持っていて、これを塗るとどんな傷でもたちどころに治る。兄弟に逃がされたときもかなりの深手を負ったのだが、その薬のおかげでなんとかなった。しかし失った血や体力まで回復するわけではなく、ぐったりしていた。
「これのおかげで俺はしぶとく生き残ってる……でも生き残ったんじゃなくて、俺はまた死に損なったんじゃないか?」
続けて、セキレイの煩わしさについて語った。ここ最近、おれもなんとなく気付いてはいたが、魔物すべてが秩序だって責任を重視するわけではなく、あの鳥が異常に神経質で面倒見がよいだけだ。
自分ではない別の何者かと意見が一致するという経験が、おれは初めてだった。あのセキレは疎ましいほど機械的に強靭だ。かと思えば悪戯好きで、妙に朗らかで、当たりがよくて、心に付け入るのがうまい。あれのペースに乗せられてしまっているばかりにこの共同体は成立していると言っていい。渋々の、嫌々だ。
お互い、誰かとつるむのが好きではないようだ。違いがあるとすれば、クズリにはかつて兄弟という例外があった。おれは、つるむのが嫌いというのは実のところ的を射てはおらず、単に孤独を好んでいた。
「死ぬなら死ぬで、その時だ。放っといてくれりゃいいんだ。それをまたあいつは、イノシシを呼んで、介抱しようってんだろ。勝手なやつだ。許せない。道理が通らない。俺のやりたいことじゃない」
聞けば、セキレイが怪我をしているのも、信条の違いから言い争った末にクズリがやったというではないか。クズリはセキレイを治そうとしたが、受け入れなかった。そんなことがあったのにセキレイはクズリが倒れているのを見れば助けようとする。有り体にいって、奇特だ。もう理解しようという気がさらさら起きない。
思うに、クズリが言っていることは、ほとんどこれまでおれが感じてきた不満の反復句だった。長い独り言はそこで終わり、クズリはそれきり黙り込んだ。おれが相槌も打たずに聞いていたので、自分だけべらべらと喋っているのが阿呆くさくなったのかもしれない。それでも、おそらくおれがちゃんと聞いていたことくらいは伝わっていただろう。しかしそれはおれにとってありきたりなことではなく、いずれ特別だったと表現してもよいのだが、そこまでをクズリが察したとはさすがに考えられない。
そうやって黙りこくっていると、イノシシを伴ってセキレイが帰ってきた。セキレイは、きちんといい子に、仲良くしていたのかと言って、それが質問ならば答えを待つ間を置くべきなのに、世間話でもすればいいのに退屈な連中ね、とすかさず嘲ってきた。おれとクズリは顔を見合わせて、どちらからともなく鼻を鳴らした。仮に仲良く喋るようなことがあったとしても、それをお前に見せてやる義理はないのだ。我々からの見下し切った目線に、セキレイはからかわれた子供のような調子でもうと怒った。
セキレイが怒りだすと、なんだかひと段落した感じがする。終わりの時間を告げる鐘のように、眠たくなってくるのだ。イノシシがクズリを背負ってのしのしと歩いてゆくのに便乗することにした。背中に揺られていると、もう意識を奪い去ってゆく何か魔の手のものが、風よりも早くおれの頭を覆いつくした。
だんだんと思い出してきた。繋がってきた。
あの女。館で私の世話をさせてやっていた、あの魔法使いの女だ。あれは為政に関わる人間だった。人間を動かし、地域を管理して生きていた。これまでは気付かなかった。虐待のようにさんざっぱら受け続けたセキレイの話が夢にまで出て、ずっと反芻して身に染み込んでいたものだから、唐突に理解できた。
あれは気品だったのかもしれない。優雅と言うべき何かを身に纏っていた。そうか、あれに世話を……いや、おれは飼われていた。そうか。理解すると、意外と悪くない、誇らしい気分になった。[[rb:誇 > 丶]][[rb:ら > 丶]][[rb:し > 丶]][[rb:い > 丶]]。これまで、おれがもっとも誇らしいと感じてきたのは、命をくらって自分のものにするときだった。それはいつも血のにおいがする。かぐわしくて、愛おしい。
おれは戸惑った。いつものように隠し通してすまし顔でいることなどできないほどに。
自分ではない誰かが優れていることを、自分のことのように誇らしく思うだと? この山へ来てからというもの、こんなことがいくつもいくつもある。セキレイはいろんなことをぺらぺらと喋るが、とどのつまりおれにこう思ってほしいのだ。「これはもっとよくならないものか」と。何事に対しても。
そしてもはや、おれがセキレイの話にうんざりするふりもしなくなった頃、セキレイの翼は治った。これでみんなの上に乗って過ごす暮らしも終わりか、と名残惜しそうにしていた。おれの頭にはクズリの顔が浮かんだ。おれではない者の憂い事が、おれの憂い事でもあった。
もっぱらおれの背に乗って、ずっとさえずり続けていたセキレイが飛び去ってゆくのを見て、おれはもっと惜しむ気持ちがあったり、あるいはせいせいしたりすると思ったが、ずいぶん薄情なことに何も感じなかった。しかし、それを白状と感じること自体、以前のおれにはなかったもののはずなのだ。
ホタルも一緒に見ていた。一緒に行かないのかと尋ねると、人間のところで見聞を分けてもらってくるのが、セキレイの日課だったという。そんなことにまでいちいち付き合うことはない。ホタルは段々と力を付けてきて、力のない虫たちと協力したり、多少、大雑把な意思なら相手の心に届けたりすることができるようになっていた。
セキレイがいなくなって感慨はなくともおれの自由な時間が増えたことには変わりがない。というより、しばらくして、あいつの話をずっと聞いていたばかりにこれまで本当に疲れていたのだと気付いた。たまにオオカミが襲ってくるのを惰性で殺してやっていただけで、それ以前に比べて、まったくと言っていいほど歩き回らなくなっていたのだ。
そう自覚すると突然、体がなまりになまっているような感じがした。肉球一つ動かすのも、以前より精度が落ちているような気がした。無論たいがいは気のせいだったが、何しろ野生では刹那の動きが生死を分ける場面が散見された。取り戻さねば。
大げさに運動をしながら山の中をうろつくと、イノシシと、キツネが何匹かいた。キツネは怯えた顔をしたが、おれは知らないふりをした。本当に分別がついてしまったなとうんざりするのだが、はぐれとわかるとおれは食ってはならないという気持ちになる。
「新しい主になってもらおうという方に向かって、そんな態度をとるものじゃありませんよ」
イノシシはキツネたちをたしなめた。それでもキツネたちは少しの間まごまごしていたが、意を決したようにおれの元まで寄ってきて、脚に頭を摺り寄せてきた。
イノシシが、相手をしてやりなさいとでも言うように、首をくいと上げた。おれは思案して、脚でキツネたちの頭を撫でてやった。イノシシは、まあ、と意外そうな声をあげた。おれがキツネたちを蹴っ飛ばすとでも思ったのだろうか? おれには食うつもりもない相手を痛めつける趣味はない。キツネたちは殊の外うれしそうにしていた。
「そこまで丸くなったのですね。セキレイの辛抱強さには参りました。それとも、あなたの元々の気質を見抜いていたのかな」
「何を言ってる。おれは――」
最後まで言い終わる前に、ホタルが激しく明滅した。
覚えている。この光り方の意味は、敵対者の来訪。オオカミたちは気配を消すのがずば抜けてうまいが、ホタルは虫たちと連絡を取り合って、近くで動くものを把握しているので正確な索敵ができるのだ。
そのような逡巡に気を取られているあいだに、イノシシが蹴り飛ばされて吹っ飛ぶ。何をぼさっとしていたのだろう。何をおいても考えごとをする頭に作り変えられてしまったのだろうか?
オオカミは三匹いた。そのうち二匹は二本足の魔物で、オオカミの姿で服らしきものまで纏っていた。イノシシを蹴ったのは女だった。男の方はあと一匹の、一際大きいオオカミを撫でながら、もう片方の手でヘビを握っていた。ヘビは逃げろと叫んだが、その瞬間に頭から食われた。ヘビの叫びと共にキツネたちは逃げた。長い体が、男の手からだらんと垂れ下がって、そこから血がばたばた零れ落ちた。明らかにこいつが親玉だった。
逃げろだと? 逃げろもくそもない。そもそも当初、おれは向こうからやってくるのを待っていた。それをヘビがおまじないをかけたばかりに、こんなことになった。忌々しい。あいつが今あんな死体を晒しているのは自分の行いが回ってきた結果なのだ。愚かだ。おれはそんなことは気にしない。勝手に死んだのだ。おれには関係がないことだ。
「ずいぶん探したよ。このヘビがお前たちの要だったようだな。まったく、こんなものにずっと手間取らされてきたとは」
オオカミの男は、逃げ出したキツネの一匹を目敏く、そして素早くとっつかまえた。それを泥のようにこねると……オオカミになってしまった。ああ、どれだけ殺しても湧いてくる訳だ。仲間を殺された割に憤慨した様子がないのも頷ける。覚えている。いちばん最初に、おれに寄ってきたキツネだ。男が手をかざすと襲ってきたので喉笛を嚙み千切って殺した。血の味が口の中に広がった。いつも食っていたのと変わらない。襲ってきたのだから仕方ない。これまでだって機会がなかっただけで、はぐれの中で襲ってくるやつがいれば殺しただろう。普段と変わらぬ行動に過ぎない。何ら問題を表明していない。おれは、何も、失っていない。
向かい合っていると、イノシシがやってきた。ぴんぴんしていた。猛烈な勢いで女の方へぶつかっていった。雑魚ならそれで木っ端微塵になるはずが、女は雑魚ではなかったようで、イノシシの体を受け止めながらおれのいる場所から離れていった。
「邪魔なんだ。増やしても増やしてもオオカミが減るから、いつまで経っても山の外に意識を向けられない。とはいえ、縄張りにいる身内が歯向かってくるので潰そうというのは、それなりに楽しかったよ」
男が、オオカミを撫でていた方の手をかざすと、オオカミが襲ってきた。男の方も後ろからやってきた。二匹がかりでおれを殺そうというのだろう。
結果だけを言えば、苦戦もせずオオカミは殺せた。食うか食われるか以外のことを考えて命を脅かすのは初めてだったので勝手が分からず、ずいぶん余計な怪我をしたが、万全なら無傷で殺せただろう。それくらい、大したことがなかった。あんな程度のやつにはぐれの連中は手こずって、逃げて、殺されてきたのかと思った。死体を見ながら呆けているとイノシシが這うようにしてやってきた。あちらも済んだようだ。とどめを刺し損ねていることを考えてイノシシが来た方を見にゆくと、ただ血だまりがあるだけだった。いつもながら洒脱でない有様と感じたが、おれは己の殺し方にこだわりがあったのだな、と翻って思った。
戻ってくるとイノシシは倒れていた。駆け寄るとまだ目を開けて息をしていた。
「なんて顔をしてるの」
「顔? どんな顔をしてるっていうんだ」
イノシシは答えなかった。代わりに、疲れたので寝ます、それから、もしよかったら木の実か何かを持ってきておいてくれないかしら、と言ってきた。図々しい。おれが大した怪我をしていないと安心してそんなことを言うのだ。
おれは本当に気が利いた。頼まれもしないのにクズリを呼んで傷を治させた。木の実やらキノコやらも持ってきてやった。クズリは居心地が悪そうにしていた。まさか、自分がいないあいだにぜんぶ終わってしまうとは、どうもならん、背中がスースーするような感じだ、と言って、居心地が悪そうにしていた。戦わなかった分を取り返そうとしているのかと思うくらい、指図した分だけ動いた。
「この死体どもはどうするんだ? 食っちまうのか?」
クズリがそう言い、おれは自然と埋めるつもりでいたので面食らった。クズリにではなく、そんな行為に及ぼうとする自分に。
おれの顔を見てクズリは、なんだよ、死んぢまったらただの肉だろ、と続けた。まったくその通りだと思ったので、二匹で食べてしまうことにした。ヘビとキツネはおれに食わせろと言うと、もちろん飯を選ぶ権利はお前にあるさ、とクズリは答え、素直に譲ってきた。
すべての死体がおれたちの腹に収まったころに、セキレイがホタルを伴って帰ってきた。ホタルはこういうとき、その場にいたって役に立たないので逃げるようにセキレイに言い聞かされていた。セキレイはあたりの地面に染み込んだ黒い血の量を見て、こちらの被害を訪ねた。ヘビとキツネが死んだと伝えると、死体のありかを気にしたので、クズリと一緒に埋めたと咄嗟に答えた。クズリの方を見ると、クズリもおれと同じことを言った。
セキレイがその答えに納得したのかは知ったことではない。ただイノシシが生きていたことは素直に喜んでいた。そのあと、セキレイは一晩じゅう歌っていた。おれにはそれがどういう打たなのかがわかっていた。暴君が[[rb:斃 > たお]]れたことを祝う歌じゃない。鎮魂だ。これまで死んでいった、食われていった、こねられてオオカミにされていった、遊び殺されていった、仲間たちの。
おれがそれに対してどんな気持ちを抱いていたのか、自分でもわからない。山ではそれからしばらく、かつてオオカミだったのだろう崩れた肉のような何かが、何度か落ちていた。おれはオオカミから飯を施されているような胸糞悪い気分になって、今度は本当にそれらを埋めた。彼らはそれで眠ることができたのだろうか。
「お前はこの山のやつらを大切に思ってるんだと思ってた」
おれはセキレイにそう言った。
「え? その通りだけど」
「妙だろう。おれはオオカミと戦って勝った。もう誰もオオカミに殺されない。さっさとそうさせればよかったんじゃないのか」
「ああ、それね」
「ヘビにおまじないをかけられた時に思った。誰がそんなことを頼んだんだって。今も思ってる。あの時とは違う意味で。ヘビは頭から食われて死んだ。キツネはこねられてオオカミにされたから、おれが殺した。おれがお前の話にうんざりしてる間、何匹殺された? あの時なら、何の感慨もなかったはずだ。でも、今は、今は……だから気になったんだ。お前のやってることは矛盾してる。お前は何がしたいんだ」
「別にわたしが勝手にやったんじゃないのよ。みんな、納得したことだった」
「なんだって?」
「だって、そうでしょ。わたしたち、オオカミのことが嫌いで、オオカミにされるのが怖くて、逆らって殺されたくなくて、はぐれなんて呼ばれながらこそこそ生きてたのよ。そりゃあ、突然強いオオカミが来て、そいつを主にぶつけようって言ったやつもいたよ。でも、その後は? そいつがまた同じようなやつだったら? それか、もっとひどいやつだったら? あなたを判断する時間が必要だった」
「それで」
「安心したわ。良いも悪いもない。あなたって、どこまでいっても強いだけのただのオオカミだった。だからみんなで相談して、あなたを言いくるめて変えちゃうことにした。あなたって何にも知らないから、万が一にも悪い方に転んだりしないように。わたしたちの有利になるように」
「ふざけるな! それで、おれはこんな……」
「なによ。いつもみたいに叩いてこないの?」
「ふざけるなよ……」
「わたしだってね、いやだったよ。でも、どうやったって誰かは死ぬんだもの。みんなそれはわかってたよ。だから、誰が死んじゃっても、やっかまないでねって……みんなでね……みんなで……でもみんなみんなって、ほとんどいなくなっちゃった……」
おれたちは二匹して、しおしおとしちゃった。
それから、セキレイは説明した。「えっとね、どうしてもいやなら、新しい主はクズリがやってもいいって言ってるの」
「あいつが?」
「うん。どうする?」
「おれは……」
「うん」
「しばらく、考えさせてくれ」
「そっか。わかったよ」
突き刺すような、うるさい……本当にうるさい星明かりの下だった。クズリが魔法で日を炊いて、魚を焼いた。獲物を生きたまま食らうことに勝る喜びはなくとも、これはこれで心地がいい。
一応、一ヶ月くらいは考えた。どういうつもりなのかクズリに訊いたが、おれがやりたがらないなら仕方がないと言うだけだった。あいつからすると、とくにやることは変わらないのだ。縄張りを主張する。そこにいて害のないやつは放っておく。敵対的なやつがやってきたら殺す。それだけだ。というより、それが普通なのだ。前のオオカミや、さらにその前の主がおかしいのであって、このあたりの山々の最低限の秩序がそれだ。そして、それは元々おれの生き方でもあったはずではないか。
「それか、お前がその気になるまでの[[rb:代 > 丶]][[rb:わ > 丶]][[rb:り > 丶]]って役でも、俺は別に構わない。オオカミを倒したのはお前だ。そのお前がやりたいっていうなら、俺は言うとおりにするよ」
だいぶん殊勝に思われた。ちかごろのクズリの態度は柔らかく受容的だ。しかしセキレイから言わせれば、無理してとんがっていただけで、あれが本来の気質なのだという。クズリは以前、ざまあみろとつまらなそうに言っていたときと同じような顔をしている。おそらくおれにしかわからない点と点。いつも、大事なことは自分のいないところで起こっている、ときっと感じているのだ。
正直になって考えてみても、今さら主になるのが嫌とは思わない。特にクズリがすると考えているようなものであれば猶更。ただ、おれは、自分がどのような主となって山を導いてゆくかということまで考えてしまっている。
しばらく、みんなが魚を食べながら喋っているところを呆けて見ていたが、セキレイがおもむろに立ち上がって、これからの夢を語らないかと言い出した。みんながセキレイの方を見て、何を言っているのかという顔になった。こいつはいつもこの突拍子のなさでおれの体に風穴を空けて、その中に白けた息を通してきた。
セキレイはいつも前向きでいたいだけだ。今は落ち込むままに落ち込んでいようだとか、そういうのがない。空元気を振りまいてまわりの世話をしていれば、そのうち元気になってくると思っている。自分はいつも元気でなければならず、元気でないなら必ず元気を出さねばならないのだと固く信じている。
夢って言ったってどうするんだよ、とみんなは思い思い向き合ってどよめいた。それはそうだろう。今まで必死に生きてきただけだ。夢がなくて悲しいとすら思わない。これまで、そんなものはなくたって平気だったのだ。誰ともなく、それならお前から手本を見せろと声がかかり、みんなが再びセキレイの方を見た。
「わたしはねえ、まずは二本足になって、そしたらお店をやろうかな?」
「おみせ?」
「そう、人間はお店っていうのをやってる。価値のある物同士を交換する場所。わたし、なにか食べ物を売りたい。そして人間が鳥を食べないようにしたい」
すぐに、滑稽なことを言っていると思った。人間は、というより、すべての生き物は、食べられるものが増えたからといって、これまで食べていたものを食べなくなったりはしない。もっと言えば、セキレイはかつて鳥だけが仲間だったのかもしれないが、今はそうじゃない。オオカミもホタルもクズリもヘビもキツネもシカもコウモリも、セキレイにとっては仲間になってしまったはずだ。そしてそのどれも、人間は食べるだろう。中には普段は食べたがらないものもあるかもしれないが、食うに困ればきっと食うだろう。
それらすべてを己の思う通りに変えようというのだろうか? そもそも、食う食われるという営みの中に、所詮はセキレイも組み込まれているのだ。セキレイとて何かを食って生きているではないか。今しがた食っていた魚が喋りだしたら、こいつは食わなくなるのだろうか?
きっと食わなくなるのだろうな。
おれの怪訝などセキレイには筒抜けだったらしい。いや、何もおれだけがそう思っていたわけではあるまい。みんな、大小の差こそあれ同じようなことを思ったはずだ。そんなもの、どうにもならないと思ったはずなのだ。しかし、セキレイはむしろこちらが凝り固まった考えに支配されているのだとばかりに、わざとらしく呆れてみせた。
「いいじゃない。食べるのも食べられるのも仕方ないことだけど、仲間が食べられて悲しいって思うのだって、同じくらい仕方ないことでしょう。わたしなりの抵抗なのよ。せめて仲間くらいは、手の届く範囲くらいは、って。世界には仕方ないことがいっぱいあるけど、仕方ないこと同士が絡み合って矛盾していて、どうしようもないこともいっぱいあるわ。あなたって、わたしを頭でっかちと言って鼻で笑う割には、割り切れないことに対して免疫がなくてすぐに怒り出してしまうわよね」
ホタルは、セキレイの言葉に感じ入ることがあったのか、何度か光って同意を表明した。おれは、そうまで意志が固いなら何も言うまいと思った。
そしてセキレイは、これからしたいことはないのか、あるんじゃないのか、探してみろとみんなに順番に訊いて回った。イノシシはとくにないと言った。このまま、死ぬまでみんなとここを守り暮らせればそれでいいと言った。別に拍子抜けはしない。むしろ清貧で強い言葉だ。クズリやホタル、他の連中もだいたい似たようなことを言った。
「それで、あなたは?」
セキレイは最後に、おれにも同じ質問をした。おれは何がしたいのだろう。昔と違い、今のおれは「なにかを成したい」、「何かをもっと良くしたい」と思っていることは確かだ。
「別に」
「別にって、なんかはあるでしょ、なんかはさあ」
「そういえば」
「え? なあに?」
「前に話してた、パンとサーカスについて。お前はどう思う? [[rb:も > 丶]][[rb:っ > 丶]][[rb:と > 丶]][[rb:大 > 丶]][[rb:き > 丶]][[rb:な > 丶]][[rb:何 > 丶]][[rb:か > 丶]]……あるいは、それ以外のすべてについて」
「全然わからないよ。何を言ってるの?」
「その話を聞いたとき、考えていた。それには……それには、それ以外のすべてがあるはずだ。それはなんだ?」
「えっと……食べ物と、楽しいこと。それだけじゃないの?」
おれが答えずにいると、やがてセキレイは別の話を始めた。そうして、夜は過ぎていった。セキレイが答え合わせを持っていないなら、今のおれの答えはこうだ。それはきっと、みんなが自分の中に、自分の力で考え生きてゆくと固く思っている、その力のことだ。食べることは殺すこと。楽しいことはやりたいこと。この山のやつらは持っていた。持っていたから、はぐれという生き方を選んだ。弱いやつじゃない。みんな、パンとサーカスを持っていた。
おそらく、パンとサーカスという言葉自体、それを与えられるだけの胡乱な生活をなじって使う言葉だったのかもしれない。でも、セキレイは好きだと言っていた。この言葉を。そうであれば、おれも結局、それを与える者になりたいのだ。パンとサーカスという心の生き方を。
とにかく、ここに来てからというもの、色々ありすぎた。しばらくはおとなしく……そうだな、少し孤独でいたい。今は、広がった視界をいかに御するのかということだ。それも、もっと考えれば、もっと大きな何か、答えを見つけられるだろうか?
もういいだろう。いい加減、変わってしまった自分にいちいち戸惑うのはやめにすべきだ。
そういえば、最近イノシシとクズリがいつも一緒にいる。何か深い関係性を築いてゆくような雰囲気だった。きっかけは、イノシシが二本足化に成功したことだ。クズリはその外見が好みで好みで完全にやられてしまい、イノシシも最初は邪険に扱っていたが、段々と満更でもなくなり、今は逆に何とも思っていないように振る舞っている。
二本足になろうとなるまいと、イノシシはイノシシだし、クズリはクズリだ。子は成せまい。ホタルは、そういうの本当に無神経だし控えた方がいいとおれをなじってきた。セキレイと違ってホタルは尻尾で叩いたら死にかねないので、代わりにわざわざセキレイを探してぶっ叩いてやった。セキレイは怒った。おれとホタルは笑った。ホタルは喋れるようになっていた。
「魔物ならそんなの超えられるわよ」
セキレイはそう言った。成せなかったとして、だからなんだよという感じだが、要は愛なのだ。おれは動物の正しさを追求して、悦楽のままに生きてきたと思っていたが、そういえば繁殖に関して無関心だった。仕方ない。惹かれる雌なんて見たことなかったし
イノシシとクズリが一緒にいるのを見ると、こういう営みがたくさん存在して、それがただただ続いてゆくというのが、一番よいことなのかもしれないと思う。これまでそんなふうに考えたことはなかった。考えたことはなかったが、。おれも一度、二本足になってみたい。コツとかないのだろうか? 何故おれは二本足になれないのだろう。
尋ねてみても、いい答えは得られなかった。イノシシは、あなたほど力があって、まだできていないことの方が私からすれば理不尽でなりませんと言った。クズリは質問に答えず、お前がそんなことを言うなんて、変われば変わるもんだなと驚いていた。お前にだけは言われたくない。イノシシの横でデレデレのお前の顔を、お前自身に見せる方法があるならば是非そうしたい。
いちばん弱っちくて期待してなかったホタルが、強く望んでいるかの問題だと言った。今なりたいと思っただけでは、きっと望みのイメージが弱くて形にならないと。そうだとすれば、おれは二本足になるという点において始まりに立ったのだろう。
「まずは、自分がなりたい二本足オオカミの姿をイメージしてみましょうよ。イノシシみたいな、すんごい美形って感じじゃないわよね。わたし的には、体の大きな戦士かな。粗野な感じの」
セキレイが言うのにはほのかに馬鹿にする感じがあったので、もう一度ぶっ叩いた。今度は脚で。腹に当たったので、うめいて倒れた。ホタルは、やれることからやるのは大事だよとフォローを入れた。
やれることをやる。やりたいことのために。やりたいこと。二本足になることが? それも今は含んでやってよい。しかし普段探している考えごととは違う。山の主になること? それはやりたいのか? やりたくないのか? 今はこう思う。やりたいし、やりたくないのだ。そしておそらく、やり始めてしまえば簡単にはやめられない。
おれは為政に携わりたいのだろう。この山を導いてゆくことが、おれのやりたいことなのだ。そして、山に棲む大多数は、おれがそうすることに対して肯定的に思われた。これまで具体的に何が嫌だったのかを考えていたが、それはやはり責任への忌避だったのだろう。
クズリの言うような、手前勝手な縄張りの主張には所詮、責任が伴わない。おれがこまでしてきたこと。しかし、今おれがしたいことはきっと、その責任というものを伴うのだ。自分ではない何かを導く。より良く変えようとする。管理する。その「関係性」という名の渦の中で生きる。
そのように己を律して生きてゆけるだろうか? 無理だろう。対極に生きてきた自分には。おれはそういうことを悩んでいたのだと思う。
「あなた、真面目過ぎよ。実は、それって最初に会った時から。動物なら完璧に動物らしく生きなきゃ気が済まなかったんでしょ。今は、完璧に責任を背負うことに尻込みしてるんでしょ。無駄よ。完璧なんてできっこないんだから」
セキレイはそう言って起き上がりながら、おれの視界を真っ暗にしてきた。おれはホタルに喋っていたのに。いや、そもそもホタルに喋っていたのも昔の名残で、ついうっかりだ。意思疎通ができないから、独り言の延長線だった。それが近頃になって口答えを始めたので、もうやめるべきなのだが、癖が抜けていないというだけだ。
結局その日は一日、何も見えないままだった。陰湿な報復だ。しかし、突然見えなくなるからびっくりするだけで、鼻だけでもさほど支障がないことに途中で気づいた。
そうしていよいよ今日、おれに主を替わってくれとクズリに伝えに行ったら、様子がおかしかった。道中、木がいくつもなぎ倒されて、血だまりが散見された。山犬が死んでいた。知っているやつだった。はぐれの頃はオオカミと同一視されて嫌われていたが、献身的なやつだった。横腹が食い破られている。いつもの溜まり場に着くと、今度はクズリとイノシシが死んでいた。
イノシシは躰が胸から上しか残っていなかった。絶望と呼ぶにも生温いような、断末魔に歪んだ顔をしていた。そこからは、クズリが一撃でやられたときのような美しさの一滴も感じられなかった。断面にはクズリの薬が一杯に塗ってあったが、ひび割れるように血が空しく零れ出していた。クズリはその傍に倒れていた。背中が引き裂かれていた。薬の壺は空だった。意味が分からなかった。あまりに動揺して、少しの間立ち尽くしてしまった。
セキレイとホタルを連れてくると、どちらも悲痛を表明した。それはそうだとうなと思った。おれはイノシシとクズリを土に埋めた。セキレイは、あの傷はクマの爪だろうと言った。クマ。クマがどこから湧いてくるというんだ。
違う。クズリが言っていた。隣山の主がクマに殺されたと。そもそも多分、そいつは食料を求めて隣山へ入ったのだ。隣山も禿山にしてしまったので、今度はここということか。食うか食われるかの営みに、イノシシとクズリは負けてしまったのだ。
そして、今やおれが山の主だ。この山には、縄張りを主張する力を持った魔物など、他に誰もいない。おれがやらねばならない。そして、その最初の仕事。
殺さねばならない。縄張りを侵した不届き者を。
イノシシにはみんなよくしてもらっていた。敵対者をいちばん積極的に排除していたのは彼女だった。悩みがあれば誰のものであれ聞いてやっていたし、餌場を見つけては仲間に教えて回っていた。クズリだって、昔から態度は横柄でも傷を負えばみんながやつを頼っていた。頼られれば、クズリはなんだかんだ言っても必ずそれに応えた、それに最近はずいぶんと丸くなって、誰もあいつを怖がったりはしなくなっていたのだ。曲がりなりにも主をやっていただけのこともある。
そんな仲間の仇を討つことに、山の連中は乗り気だった。力を合わせてやつを殺してやるという炎に燃えた。これまで二つの山を更地同然に変えてしまったやつだ。放っておけばこの山もそうなる。セキレイですら火の手から逃れられはしなかった。
足跡を見たところでは、クマは二本足ではない。また、命からがら逃げおおせたやつらの供述では、口がきけそうな様子はなかったらしい。その程度のやつにイノシシとクズリは負けたのか? その疑問には、クマというだけで人間から惧れをもらいやすく、強いのだとセキレイが応えた。そして大抵の場合、クマはその惧れに耐えられず暴虐な魔物になるとも。
いずれにしても殺す以外の方法をおれは持っていないのだが、それを聞いてしまってはある意味では憐れとも言える。同情の色が覗いたおれの顔を見て、セキレイは狼狽えた。段々、おれの変化に驚くのはおれではない誰かの役になってきたようだ。
みんなにまでこのような気持ちで戦ってもらう必要はない。今は復讐心のままにクマを押しつぶしてしまった方がよいのだ。効率的な面で言っても、それがいい。
しかし、クマの暴れぶりを見て、すぐに考え直した。みんななどというものは、まるで役に立たない。それはそうだ。こいつら全員集まったって、クソザコオオカミにさえ敵わなかった。それの何倍も強いクマの魔物が腕をひとたび振ると、屑が風に吹かれるように誰もが死んでいった。遠巻きに見ていただけのホタルなど、その余波だけで足が何本か千切れ飛んで地面に叩きつけられていた。
クマが威嚇の声をあげると、視界が赤くなって全身を怖気が通った。おれが逃げろと叫ぶまでもなく、復讐に染まっていたはずのみんなの目がみるみる力を失くし、情けない声をあげながら散っていった。誰もいなくなり、おれとクマだけが残った。とはいえクマはそれなりに手傷を負っていた。クズリとイノシシも、成す術なくやられたわけではないらしい。片目から新鮮な血を滴らせている。
少し殺し合うと、そう猶予もないうちにお互い瀕死になった。なんとか相打ちには持ってゆけそうだという事実に、どこか安心のようなものを覚えた。きっと最後まで抵抗したのだろうクズリとイノシシに感謝せねばならないと思っていると、クマがこれまでよりも一段早い動きで猛然と襲いかかってきた。なんと間抜けか。この期に及んで他所事を考えるとは。避けるのが間に合わない。だめだ。死んだ。この山はもう終わりだ。
刹那、生きてきたこれまでの記憶が蘇ってきた。事の起こり。魔法使いの館から逃げようとさえしなければ、今も安穏無事で暮らしていたのだろうか? だが戻りたいとは一度も思わなかった。それは、あの女がいかに鋭く、優れていたのか理解した時も、まさに命を散らそういう今この瞬間ですらも。
自由に生きた。明日の飯のことなど絶対に考えなかった。明日になれば食いたいものは違うかもしれない。飽きればすぐにどんなものでもゴミに変わる。それを空しく思ったこともない。手塩にかけて育てた縄張りを捨てるのも、その生き方の表出にすぎない。
今は何をしている? そんな、これまで捨ててきた縄張りの一つでしかないこの山を、命を懸けて守りたい。いや、山というより、そこに暮らす何某か達をだ。そしてそれを果たせず、無力に死にゆくことに悔恨を覚えている。涙すら、流れた。
しかしおれは死ななかった。クマの腕が明後日の方向に振り下ろされた。セキレイが駆けつけて、クマの視界を奪っていた。セキレイは、非常時にはみんなの避難誘導を最優先に動くよう事前に決めてあった。それが済んだということだ。
そうしてしばらく有利に戦うことができたのだが、やはり持っている力に差があっtなおか、おれの方が先に力尽きた。加えて、クマも段々、視界の奪われた状態に対応してきていた。
今度こそ駄目かと思うと、突如として光が炸裂した。その光に目が眩むより早く、セキレイがおれの視界を奪って守った。そしてクマの狼狽えたような叫び声が聞こえた。
ホタルだった。瀕死の状態だったホタルの全力の発光がクマを怯ませたのだとすぐに理解して、おれは最後の力を振り絞り、クマの眼孔を正確に刺し貫いた。
クマは倒れた。それきりクマは動かなくなった。おれも倒れ込んで目を閉じた。もう二度と起きることはないだろうと思いながら。
「なによ、もう終わってるじゃないの」
知らない声に意識が戻ると、セキレイとホタルがこちらの様子を伺っていた。ホタルは辛うじてまだ息があるようだが、少なくとも意思疎通が可能な状態ではなさそうに見える。片や、五体満足のセキレイは、そのまま干からびるのではないかという程に紅涙を絞っていた。身なりの良さそうな女がクマの前に立っていた。視界が掠れて自信がないが、それはかつてのおれの主であった、あの女のように見えた。
「あなたがやったのね? 見上げた根性だわ。あのクマはいくつも山を終わらせてしまうので、私が出向くことになったの。見どころのある魔物なら騎士にしたいと思ったのに、死んでしまうなんてねえ」
女は近づいてきてそう言った。来るのが遅いと、おれは文句を言った。自分の声が、あまりに息も絶え絶えだったので笑えたが、それすら満足にできなかった。咽ると血を吐いた。喋るごとに命を消費している感覚すらあった。
「ごめんなさい。見たところ、あなたはもうすぐ死ぬわ。お詫びと言ってはなんだけど、あなたを私の騎士にしてあげる。そうすれば助かる」
騎士というのが何か分からず黙っていると、私の下に付いて、働いて生きてゆくのだと女は説明した。冗談じゃない。小間使いじゃないか。山からも離れねばならない。そんなのはごめんだ。このまま死んだ方がいくらかマシだ。
「そう邪険にしたものじゃないわよ。あなたはこの山の主でしょう。私の仕事は地域を管理することなの。その手伝いは、たいへん稀有で代えがたい意義だと思わない?」
山の主。おれは、それを、何も成せなかった。管理。土地を、フィルリアを、もっと良くする。それはおれのやりたいこと。違う。だめだ、考えがまとまらない。当然だ。これから死ぬのだ。今こうしている間にも、血が流れ出て地面に染み込んでゆくのがわかる。
条件――そうだ。条件がある。この山を安全に管理しろ。安穏無事にしろ。死んでいないやつらは全員治せ。それができるなら騎士でもなんでもなってやる。
「命が助かるっていうのに、条件とはね」と、女は笑った。「やっぱりあなたは面白い。まあ、そのくらいならいいでしょう。さあ、少しじっとしてて。略式だけど、あなたに騎士の位と、名前を授けます」
魔女、フィルルイン・フィルリアが銘じる……白狼の騎士……汝の名は……そのようなこと女がぶつぶつ呟くと、全身の痛みが嘘のように楽になった。
「これで私の加護に入ったわ。とりあえずすぐに死ぬことはない。痛みも軽くなったんじゃないかしら? これから私の家に連れてゆくから、もう少しの辛抱よ」
女の魔法によって、おれの体が宙に浮くのを、セキレイが見ていた。どうあれ命が助かるならばと思ったのか、何も言わずおれを見ていた。ただ翼をはためかせた。別れを告げるように。おれは身じろぎすらできなかったが、セキレイの目を見つめ、それが答えになればいいと願って、遠く小さくなってゆくのをずっと見ていた。
女はずっと喋っていた。そろそろ私も部下のひとつくらい持てとずっと言われていたのだとか、騎士となれば通常は元の姿や記憶を失うが、特別に、できる限りそうならないよう調整するだとか、そういうことを。今さらそんなことを言いやがって。そんなもの、死んだのとそう変わりないじゃないか。管理者とやらが約束事にどの程度骨を折ってくれるのかは分からない。山は本当に平和を取り戻すだろうか。おれはこれからどうなるのだろうか。この女の忠実な僕となるのか?
あの館にいたときからこれまで、全く別存在といえるほど変わってきたおれだが、変わらないものもあった。おれは誰の下にもついたことがない。誰の言うことにも、それが本当に気に入らないものであれば従ったことなどない。
いや、本当にそうだろうか? おれは己に対して誰の指図も受けないと自負していたが、館では結局、己の状況に対してある程度の妥協をしていたではないか。館へ連れてこられたのもそうだ。おれをあの館へ連れてきた何かは、結局何者だったのか? いずれにしても、それはおれの意志とは関係なく起きた。おれはそのとき、地団駄を踏んで怒りまくって、それでも結局どうにもならず諦めて、館で生きていたのではなかったか。しかも、おれは生きてきながらもおれはそれらに薄々気づいていたのではないか。
――あなた、真面目過ぎよ。実は、それって最初に会った時から。
セキレイの言葉を思い出して、どうでもよくなった。どうでもいいというのは、心地いいものかもしれない。そして、それに気付くのがあまりにも遅すぎた。
思えばおれはお前に、本当に大事なことはほとんど何も言ってこなかった気がする。お前が最後、おれに何も言わなかったことには納得がある。お前はすでに、おれにたくさんの言葉をくれていたものな。反面おれはどうだろう。言葉を伝える力も残っていなかった。
すまない。これは真面目ではない。ただの悔恨だ。許してほしい。おれはお前を、悪く思っていやしない。お前は気にしちゃいないだろうけれど。
セキレイは、まだ辛うじて見えている。と思う。あまり自信はない。その変の白黒の石ころと勘違いしてしまっているかもしれない。視野の端から順番に、どんどんとボヤけてゆく。
おれは、あの館に戻るのだ。そこできっとフィルリアを管理するものの一つになるのだろう。魔女の騎士に。それは楽しいだろうか。空しいだろうか。しかしせめて、そうなるならば、よりよいものに。この山に棲む者たちに、フィルリアの地に生きる者たちに、パンとサーカス。パンとサーカスを。食べ物と、楽しいことを。そしてそれ以外のすべてを。
セキレイの姿が完全に見えなくなったのと同じ辺りで、体じゅうの力が抜けて思い通りにならなくなるのを感じた。ただ、まどろみの中に消えてゆく己が、次は何に混ざってゆくのだろうかと、疑問を投げかけるのみで、それで、そして――
そして、二〇年と少しが経った。