「瀞」
「ん?」
出撃直前のことだった。これからヘリに乗ろうとした瀞に、空は心配そうに話しかけてきた。
「大丈夫?」
「ああ。さっきは弱音吐いて悪かった。もう大丈夫だ」
瀞が抱く殺人への抵抗。それは、まだ完全に消え去っていない。だが、和虎たちの話を聞いて幾分は楽になったのは事実だ。少なくとも、戦場で支障が出るほどではないと、瀞はそう思っている。
「そう。ならいいの」
「ああ。空は、その、抵抗とかないのか?」
いつもと変わらぬ調子の空に、瀞は恐る恐る聞いてみた。
空は殺人について、どう考えているのだろうか。和虎たちと同様に割り切っているのだろうか。
だが空は心優しく、争いごとは好まないはずだ。接してきた時間はそれなりに長いのだから、それは知っている。そんな空が、キメラではなく人命を奪うことに、抵抗を抱かないとは思えない。
空は視線を反らして少しだけ考え、口を開いた。
「無いって言ったら、嘘になるかな。でも、もうやるって決めたから」
空は笑って言った。しかしその笑顔は、いつもの空の笑顔ではなかった。切なくて、悲しさが隠れていると瀞は思った。
「私にも、守りたいものがあるから。向こうが撃ってきたら、こっちも撃ち返さないと」
「そうか」
「もちろん、不必要な発砲はしないつもりだけど。捕縛できる余裕があるなら」
「そうだな。俺も、峰打ちで全員倒せたらな」
「それが理想ね。だけど、必要な時は迷わないわ」
「でも、判断が難しいな」
「そうね。本当に撃つべきなのか、どうか・・・・・・状況によっては、倒れている相手も撃つことになるかも。酷いことかもしれないけど、私がそういうことをやらなきゃ」
空は肩に掛けているライフルに触れた。
「私が撃つのを躊躇ったら、それはきっと、優しいからじゃない。逃げてるだけだから」
空が初任務で背負う事となった課題、本当の優しさ。
まだ確たる答えは出ていないようだが、空は自分自身で考え答えへと近づいているようだ。
そして空は今、自分の使命を懸命に果たそうとしている。撃ちたくはないが、決して逃げないという覚悟を持つ空を、瀞は尊敬した。
「強いな、空は」
「そんなことないよ。瀞の方がきっと強いわ」
「いや、俺は悩みまくってるから」
「でも、勇気はあるよ。だって、全然怖がってないみたいだし」
「え?」
「私は、初任務の戦闘を思い出しちゃって、怖くなっちゃって。でも、瀞は怖がってるように見えないから」
「怖いわけじゃねえけど」
空に言われて、瀞はようやく気づいた。今の自分は、殺人への恐怖を抱いている一方で、キメラと相対する恐怖をほとんど感じていないことに。
凶悪で禍々しく、高い戦闘能力を有する危険生物。そんな化物の群れと死闘を繰り広げ、多数を仕留め、そして死の淵まで追いやられた。
ようやく悪夢にうなされることもなくなってきた今、再びあの戦場へと足を踏み入れなければならない。
にもかかわらず、それほどの恐怖は無かった。ないことはないが、身が震えるほどでもない。
勇気があるのか、鈍感なだけなのか。それとも、殺人の重圧がキメラの恐怖を塗り消してるのか。
「意外とそっちは大丈夫だな」
「すごいなぁ」
「ある意味やばいけどな。自分より敵の心配してるし」
「何というか、大物みたいね」
「そんなんじゃねえよ。実感ねえのかなぁ?それとも、恐怖を感じない殺戮マシーンになったのか」
「やめてよ、冗談でもそういうこと言うの」
「そうなったら、マジで撃ってもいいからな」
「やめてってば!」
瀞は、自分が殺戮マシーンになったとは思っていない。攻撃性が異様なまでに高まる瞬間や、キメラとの二度目の戦闘に恐怖を抱かなかったことに違和感を感じつつも、自分は怪物などではなくまともな人であると思っている。
だがこの一時は、攻撃性を高め恐怖心を打ち消さなければならない。そんなことを考えながら、瀞は目の前の敵を斬り続けた。
振り下ろされた刃でブラックハンドの頭部を両断。即座に移動し、取り囲んでくるブラックハンドやリッパーから逃れつつ、間合いに入った敵は一太刀で仕留める。
雑な太刀を振るわず一刀に全力を注げと、和虎に言われたことを意識し、一撃に渾身の力を込める。それを続けているうちに、瀞の周囲は戦闘不能になったキメラで溢れていた。
それでも、瀞は一息つくことさえ出来ない。七里のビルからは、ブラックハウンドとリッパーの群れが湯水のごとく溢れて来る。それらは瀞を取り囲み、隙を狙って跳びかかってくる。その波状攻撃に晒されながらも、瀞は常に動き回り、鋭い爪牙の雨から辛うじて逃れていた。
背後からリッパーが迫ると、一歩前に出ながら前方のブラックハウンドを切り捨て、すぐに振り返り逆袈裟でリッパーを仕留める。
左右の前方からリッパーが、背後からブラックハウンドが迫ると、右へ大きく跳んでその場から逃れた。
今度は、前後からリッパーが挟み撃ちを仕掛けてくる。
「おらっ!!」
瀞は前方のリッパーに向かって袈裟懸けをお見舞いする。
刃と爪が衝突し、ガチンと大きな音と火花が散った。
力負けしたのはリッパーだった。体勢を崩し、大きく後退する。
その隙を逃さず、瀞は追撃の唐竹割を脳天に落としてやると、左に跳び背後からの爪から逃れる。
すると、左に口を大きく開けたブラックハウンドが跳びかかって来る。
しゃがんで躱し、そのまま切り上げてブラックハンドの胴体を真っ二つにする。
その、刀を振り上げた瞬間を狙い、4体のリッパーが刃を振り上げ前後左右から接近してきた。
(頼む!!)
瀞の祈りは、一瞬で通じた。
前から来るリッパーの頭部をライフル弾が貫いた。
包囲に空いた一か所の穴から脱出した瀞は、刀を振るって刃から血のりを落とし、自身を囲むキメラたちを睨み返す。
(副隊長がいなかったら、3回くらい死んでるな)
単独でキメラの大群と戦いつつも生存していられる要因は瀞の能力だけではない。高台の公園から放たれる賢士の援護射撃があるからだ。
狙撃ポイントからビルまでの距離は800メートルほど。無風だが夜間であり、観測手がいないため難度は高いはずだ。だが賢士の目は獲物を捕らえ、仲間の危機を逃さなかった。定期的に敵を射貫く狙撃は、危機的状況に陥った際に必ず瀞を助けてくれる。激痛を、重傷を、絶命を覚悟した瞬間の援護は鼓舞の効果もあり、瀞の闘争心は群れを前にしても、消えるどころか一層激しく燃え上がった。
和虎と違い高い技量のみで味方を激励する賢士の存在も、やはり心強いことこの上ない。
だが、援護は賢士の狙撃のみだ。空も風丸も、和虎もこちらに来ない。おそらく、全員が自分と同じ状況なのだろうと瀞は判断した。その上で、自分の戦闘に集中した。
仲間を気遣う余裕は、今の自分にはない。瀞ひたすら、回避と攻撃を繰り返した。
[newpage]
半月の月光が照らす、夜間の山間部。
季節は春真っ盛りだが、夜の高地であるため気温は低く、体を刺すような冷気が周囲に充満していた。
(ほんっと、こんな場所でアンブッシュとか最悪。早くしなさいよ)
そんな環境下で身を震わせながら、心の中で不満をぶちまける女性兵士がいた。
栗原愛里子(くりはらありす)。BAT08部隊の副隊長を務めるエゾリスの獣人である。
現在愛里子は小高い丘の中腹で匍匐の姿勢を取り、小柄な体をギリースーツで包み、サプレッサーが取り付けられたボルトアクション式狙撃銃L96A1を傍らに置き、双眼鏡で下方を眺めていた。
(まだなの・・・・・・もう結構経ったじゃないの)
今回の任務では、仲間たちがキメラをキルゾーンである丘の麓まで追い立ててくれることになっている。今の自分がすべきことは、その瞬間をひたすら待つことだけだ。
最も、麓までキメラがたどり着くかは不明だ。キメラの量と質によっては仲間たちが全滅させてくれるだろう。
(なんにもしないで終わるんならそれでいいけど、無駄足っていうのも、それはそれでムカつくわね。1体くらい撃ちたい)
愛里子は出撃前、俺たちで全滅させてやる、副隊長の出番はないと意気込む仲間たちの顔を思い浮かべ、苦笑した。
(あー、それにしてもさむっ。どうしてキメラってこう、山とかに出るの?町中に出るのもやばいけど、山はよしてよ、山は。寒いんだから。あと、夜もやめてほしいわぁ。寝不足きついんだから。それに、不気味だし。真っ暗なばしょで木が何本も立ってると、不気味だし)
愛里子は心の中で不平不満を吐き捨てた。愚痴が多いせいで部下から“口うるさいおばさん”と言われているのだが、この癖は治りそうにない。
(まぁ、義嵩よりましか。あいつカメレオンだから、寒さは超苦手みたいだし。エゾリスでよかった。冬眠しないリスだから寒さには強いみたいだし。可愛いし。でも、いくらエゾリスでも寒いことは寒いし・・・・・・)
心の中で文句を続ける愛里子。
その背後の闇から突如、1体の獣が音も無く飛び出した。
胴体は大型犬程度の大きさだが、四本の脚が全て1メートルほどもある。縦に長く伸びた筒状の頭部には野球ボールのような大きな目と、丸く開いた口がある。口内にはびっしりと棘のような歯が密集しており、唾液がだらだらと垂れていた。
四本足だが蜘蛛を連想させるキメラは無音で跳躍し、愛里子の背中に張り付き首筋に噛みつこうとした。長い脚に絡みつかれたら脱出は出来ないだろう。
しかし、キメラの前足が愛里子に届く直前、その姿は視界から消え去った。
愛里子がいた場所にキメラが着地する。同時に、左側面からの弾幕がキメラを襲った。
「キィィィィ!」
耳を塞ぎたくなるような金切声を発し、キメラは崩れ落ち動かなくなった。貫通力に優れたアーマーピアシング弾であるため、数発が脳を貫いたのだ。
「あっぶな」
キメラの強襲を左方へ転がって避け、体に乗せていたギリースーツを払いのけ、ライフルを手放し、腰の短機関銃PP2000を取り寝転がったまま発砲しキメラを仕留めた愛里子。月光の元にさらけ出された肉体は小さく、銃が一回り大きく見えてしまう程。エゾリスの獣人なのだから、当然である。
狩猟能力に長けている訳でもなければ、恵まれた体力を身に着けている訳でもない。しかし小柄な愛里子は本物のリスさながらにすばしっこい。また、戦闘に関する知識は豊富で判断力にも優れており、狙撃の腕前も一級品だ。だからこそ、08部隊の副隊長を務めており、キメラが相手でも後れを取ることは無い。
(いやいやいやいや、後ろからってマジで?かなり広範囲に展開してるの?BATの機動隊は何やってんのよ。確かに、山中全域に展開してるかも、って言っていたけど・・・・・・可能性がある、とか、そんな感じの言い方だったじゃない。もっとはっきり言ってよ!全域にいるって言いきってよ!死ぬところだったじゃん!!しかも、こいつ、きもっ!!新種みたいだけど、なにこれ。足長い蜘蛛みたいじゃん。しかも皮膚、黒と深緑の縞々模様だし、ヌメヌメしてるし・・・・・・きっもちわる!!他のもたいがいだけど、こいつ、特にやばくない!?)
不満を口に出したいところだが、それを堪えて心の中で文句を言いながら、愛里子は姿勢を低くして手早くリロードし、周辺を見渡した。PP2000にもサプレッサーは取り付けているが、銃声を完全に消すことは出来ない。近くにキメラがいるならば、この音に気付いただろう。
だが、新たなキメラが近づいてくる気配はない。
(大丈夫、とは言い切れないわね。何体か近くにいるかもしれないし。これじゃ狙撃に集中できないじゃない。合流した方がいいかしら)
想定外の状況だが、愛里子は経験豊富な兵士だ。この程度のことは経験積みだ。
「まったく」
ため息をついて仲間と合流すべきという判断を下した、その直後だった。
(うっ!!)
愛里子の身体が硬直した。ボッという音と共に全身の体毛が逆立ち、特徴的な長い尻尾が倍以上に膨れ上がる。
胸を何かが貫いた。物理的なものではない。不安か、恐怖か、殺気か。兎に角、嫌な予感だ。
過去、何度も味わったことがある。獣人だからこそ、動物的第六感が研ぎ澄まされたのか。それとも、狩られる側のリス特有のものか。いずれにせよ、この予感は大抵当たる。
ただ、いつもと雰囲気が違う。いつもよりも濃厚で重い。発汗や寒気、息苦しさだけでなく、吐き気さえ感じる。過去最大の、嫌な予感だ。
愛里子はPP2000を腰のホルスターに納め、L96に飛びつき、膝射の姿勢で構えて銃口と視線を嫌な予感の発信源、麓の方へと向けた。
スコープには、何も映らない。愛里子はスコープから目を離し、左腰の双眼鏡を取り出した。こちらの方が視野が広く観察しやすい。
双眼鏡で麓を見てみると、視界の隅で何かが揺れた。遥か下方、距離はこの場から900メートルほどの地点、そこの斜面に生えている木が僅かに揺れており、数枚の葉が舞い落ちている。
1秒ほど後、別の木が揺れた。先程よりも、自分に近い位置の木が。
無風であるにもかかわらず、その後も同様の現象は続く。
愛里子は気づいた。何かが木から木へと飛び移りながら傾斜を駆け上がって来る。自分に近づいてくる。
(はやっ!!)
愛里子は双眼鏡を放り、L96を構えた。
400メートルほど離れた場所に生えている木が揺れる。
それは目視できないほど速いが、愛里子の目は僅かに黒い影を捕らえた。
それは木を蹴り、別の木へと再び飛び移る。
(そこっ!!)
愛里子は引き金を引いた。閃光と共に銃口から弾が飛び出す。
弾頭は空気を切り裂きながら飛来し、宙で何かとすれ違った。
「きゃっ!」
発砲の直後、衝撃と痛みが愛里子を襲った。
愛里子に向かってきた物体が、L96に激突したのだ。
高速かつ硬質な物体であっために、ライフルは破壊され飛び散った破片が愛里子の顔面に飛び散った。
顔面の右側が痛むだけでなく、右目が開かない。破片が入ってしまったようだ。
それでも経験豊富な愛里子は怯まなかった。
衝撃を利用して左に転がりつつ、腰のPP2000のグリップを掴む。
そして膝立ちの姿勢を取り、標的へと銃口を向けようとした。
だが。
「うっ」
愛里子のすぐ右を、一陣の風が通過した。
同時に、右腕の付け根に灼熱を感じた。
この熱の正体は、味わったことがある。
鋭利な爪で身を切られたときの・・・・・・。
灼熱の一瞬後に、どさりと何かが右の足元に落ちた。
愛里子はそちらに目を向けた。
そこに落ちていたのは、PP2000と、それを握りしめている自身の右腕だった。
「あああああああああああああ!!!!」
灼熱と激痛が全身を駆け抜け、苦痛と恐怖の悲鳴が上がり、鮮血が噴き出され切り落とされた腕と銃に降りかかった。
右腕を切り落とされた。
それを悟った愛里子だったが、それでも心を立て直し敵へ注意を向けた。
黒い影は、すぐそこまで来ている。
愛里子はPP2000に手を伸ばした。
しかし、未だに右腕は固くグリップを握りしめており、しかも多量の血が降りかかってしまったため滑りやすく、指を解くことが出来ない。
銃を諦めた愛里子は胸の鞘に納めたナイフを左手で抜き取り、身構えた。
黒い影は、眼前まで迫っていた。
[newpage]
四方から襲い来る爪の嵐。
合間を縫うように駆け抜け、正面から飛び込んで来る牙を、刃にて叩き伏せる。
「うっ!」
右足に微かな痛みが走り、瀞は思わず声を上げた。
避けたと思っていたが、リッパーの爪が当たってしまったようだ。
想定外であったために声を上げてしまったが、痛みはさほど大きくない。
かすった程度だと判断し、瀞は傷を無視して目の前のブラックハンドを斬り倒した。
リッパーとブラックハウンドの群れとの戦闘が始まり、既に20分が経過した。しかし、瀞の体感時間はその倍以上だろう。
「ずあっ!!」
リッパーを爪を躱し、反撃の太刀を振るう。
腹部を深く切り裂いたが、リッパーはまだ腕を振り上げ攻撃を仕掛けてきた。
瀞は遠のき、左から来たブラックハウンドへと斬りかかる。
その際に、別のリッパーの爪が左腕を掠めた。
「って!」
徐々にだが、戦場に変化が出始めた。
疲労により瀞の動きが鈍り、被弾が増え一刀で仕留められなくなりつつある。
(くそ!きっつい・・・・・・)
両手足が重く、呼吸の度に胸が焼き付く。それでも瀞は足を止めなかった。動きを止めればたちまち的になるだろう。相手は多数、こちらは単騎。後手に回れば飲み込まれる。常に先手を取るしかない。
きわめて危機的状況なのだが、不思議と絶望感や恐怖心は薄かった。あることはあるが、瀞にとっては思っていたほどのものではない。疲労感に絶えず苦しめられるが、攻撃に意識が向き、痛みが消え、手足に力が籠る。
過酷な訓練や初陣以上の苦痛を味わいながらも、瀞はそれに対応できた。
「だらっ!」
掛け声と共に、ブラックハウンドの横っ面に刃を薙ぎ払い斬り捨てる。
そして、すぐに振り返りつつ背後を狙ってきたリッパーの爪をしゃがんで避け、胴体を狙って再び太刀を水平に振るう。
しかし、振り切られるはずの刃は途中で止まった。
リッパーの肋骨を切り裂きながらも、脊柱に当たった刃は停止してしまった。
疲労により雑な体勢になり、力も籠らず、加えて刃は血のりと刃毀れで切れ味が落ちていたために、このような事態が発生してしまった。
ここぞとばかりに背後からリッパーが接近してくる。しかも、刃が腹に食い込んだままのリッパーも絶命しておらず、必死に腕を振り上げてきた。
刀を抜いている余裕は無く、拳銃で撃退する自信もなかった。
絶体絶命の窮地だが、次の瞬間瀞の肉体から疲労が消え去り、恐怖以上の闘志が燃え上がった。
「っらああ!!」
瀞はリッパーが食い込んだままの刀を、接近してくるリッパーに向けて思い切り振るった。
刃から抜けたリッパーが、接近してきたリッパーにぶつかる。
2体のリッパーが重なった。刹那、瀞はその2体へと駆け出し、今度こそと言わんばかりに全力の一閃を放った。
力強く薙ぎ払われた一刀により、重なった2体のリッパーは、どちらも心臓を断ち切られ絶命した。
強力な一振りだったが、それ故に隙も大きい。
右から別のリッパーが爪を振るってきた。
すぐに左へ跳んだが、爪の切っ先が右腕を掠めた。
痛みを感じる暇もなく、ブラックハンドが足に噛みつこうと来る。
瀞は咄嗟に前方へ大きくジャンプして避けた。
(やっべ!!)
大地から両脚を離した後、瀞は自身の悪手に気付いた。
空中では身動きが取れない。格好の的になる。
案の定、着地点にリッパーが先回りしている。
(この体勢じゃ防御も無理だ!)
瀞は刀を左手に持ち替え、右手で腰の鞘を取り、リッパーへと投げつけた。
不慣れなジャンピングスローだったが、高速で回転しつつ急降下した鞘はリッパーの頭部に直撃した。
たたらを踏んで後退するリッパー。
瀞は着地と同時に怯んだリッパーにトドメを刺そうと、刀を右手に持ち替えようとした。だが。
「ガアッ!!」
ブラックハウンドが大きく飛翔し、牙をむき出して左から向かってきた。
瀞の頭を噛み付けるほど、大きく口を開いて。
「うおっ!」
瀞は咄嗟に刀で防御する。
ガチッという音を立て、狂犬が刀身に噛みついた。
頭蓋骨を噛み砕かれずにはすんだものの、体勢を崩された瀞はブラックハウンドに押し倒される形で背中から地面に落下した。
後頭部をアスファルトに強打し脳が激しく揺れ動くが、柄を握る手は離さない。右手は峰に添えて、ブラックハウンドを必死に押し返す。
ブラックハウンドの鼻先が、瀞の眼前まで迫った。刀身が舌に食い込んでいるらしく、瀞の顔には狂犬の唾液と共に血が滴り落ちてきた。
「グウウウウウウウ!!!」
痛みなど気にせず、ブラックハウンドが唸りながら顔を近づけて来る。
血走った目は、人とも獣とも異なる光を放っていた。
その時、ビキッという音が刀身から聞こえた。
(やばい!やばいやばいやばい!!)
このままでは、刃が折れる。
しかも、鞘を頭に受けたリッパーが回復したらしく、歩み寄って来る。
「おおおおおおおおおお!!!!」
絶体絶命。
その状況下に置かれた瞬間、瀞は無意識に叫んでいた。
恐怖の叫びではない。威嚇の咆哮のようだった。
雄叫びを上げた直後、先ほどまでと同じように、否、それ以上に力が漲ってきた。
(まだいける!!)
右手を峰から離した瀞は、親指をブラックハウンドの左目に押し込んだ。
「ギャイン!!」
生暖かさとともに、グチャっと何かを潰す感覚が親指に走る。
同時に、ブラックハウンドは刀を放して後方へ飛び上がった。
流石に片目を潰された痛みには耐えられなかったようだ。
瀞は刀を右手に戻しつつ起き上がり、こちらに向かってくるリッパーを睨む。
リッパーは既に右腕を大きく振り上げていた。
そして、一歩踏み出しながら爪を振り下ろす。
その、爪が振り下ろされる刹那、瀞は大地を蹴った。
刀を水平に薙ぎ払いつつ、目にも留まらぬ速度でリッパーの左を駆け抜ける。
狙いは、リッパーの細い首だ。
パキン
打ち首成功かと思いきや、いつもとは違う手ごたえが瀞の手に残った。
瀞が右手を見ると、刀身が半ばで折れた刀がそこにあった。
振り返ると、首に折れた刃が食い込んだリッパーが、苦しげな表情で瀞に向き直り、再び右腕を振り上げている。
速度が落ちた爪を難なく躱した瀞は、リッパーの右目に折れた刀を突き出した。
折れてはいても、目を貫き脳に達するには十分な長さだった。
役目を終えた刀を手放し、崩れ落ちるリッパーには気にも留めず、瀞は周囲を見渡した。
「あ?」
その時、瀞は気づいた。立っているのは、自分だけという事に。動いているのは、ついさっき目を潰してやったブラックハウンドだけだった。それ以外のブラックハウンドもリッパーも、全て地面に倒れ伏して動かない。ビルの入り口に目を向けると、既にキメラの排出は止まっていた。
(え、もう終わりか?あいつだけ?)
胸に浮かんだ思いは二つ。
だが、ゆっくりと余韻に浸る暇は無かった。
片目を潰されたブラックハウンドが起き上がり、残った目で瀞を睨みつけて来る。左目と口から血を流しながら、憤怒の感情を瀞に向けて飛ばしている。
手負いだが、否、手負いだからこそ危険かもしれない。
一方瀞は、自分が刀を失っていたことに気付いた。
だが、扱いなれていないナイフも拳銃も、抜く気にはならなかった。
「オオオオオオオッ!!!」
ブラックハウンドが、先程の瀞のように咆哮を上げて向かってきた。
瀞は身を低くして、迎撃の体勢を取った。
二体の犬がぶつかり合い鮮血が舞い上がった。
[newpage]
向かってくるリッパーの胴体に銃撃を撃ち込み、怯んだ隙に踏み込んでハイキックを打ち込み脳を破壊する。
ブラックハウンドが噛みついてくると、サイドステップで躱し、隙だらけの頭を蹴り上げる。
背後から2体のリッパーが寄ってくると、即座に振り返り、フルオート射撃で足止めし、怯んだ隙に飛び蹴りを打ち込む。
もう1体のリッパーは足刀で吹き飛ばし、即座にSG552のマガジンを新しいものに交換した。
「はあっ・・・・・・くっ!!」
空は着地と同時に大きく息を吐き、新たな空気を吸い込んで再び引き金を引いた。
窓からリッパーとブラックハウンドの群れが飛び出してきてから、空もまた休む間もなく戦い続けていた。
基本戦術は、射撃と体術の連携だ。四方八方から敵が接近してくるため、頭部に照準を合わせ発砲する余裕はない。だから狙いやすい胴体に1発撃ち込んで動きを止め、その隙に強力な蹴りで頭部や心臓を破壊し一撃で仕留める。対キメラにおいては、非常に有効な戦い方だ。
幸い、カモシカ獣人の空は脚力と持久力が高い。敵の的にならないよう、更には包囲されないよう、高速かつ軽快なフットワークを維持することが出来た。また、体重の軽さは速度と技のキレで補い、大半のキメラを一蹴りで倒すことも出来た。
それでも、長時間の戦闘は体力を、そして精神力を蝕んでいく。空は疲労と恐怖を打ち消し、戦い続けた。
「ギッ!!」
「あっ!!」
前方のリッパーを前蹴りで噴き飛ばした直後、背後からリッパーが爪を振るってきた。
空の厄介なフットワークを殺そうと、足を狙って薙ぎ払う。
それを避けるため、空は大きくジャンプした。
着地点にブラックハンドが3体、口を開いて待ち構える。
空は手早くリロードし、着地点へフルオートで撃ちまくった。
降りかかる銃弾を受けたブラックハウンドたちが、蜘蛛の子を散らすようにに着地点から離れる。
そのすぐ後に、空は着地した。
着地後の僅かな停止の瞬間を狙い、リッパーが再び切りかかって来る。
しかし空の柔軟な両脚は、着地の衝撃を一瞬で吸収し、即座に動ける状態に戻した。
前方に飛び込んで後方の爪を避けた空は、前転して振り返りながら膝射の姿勢を取り、即座に撃ち込む。
胴体に1発、そしてすぐに2発目を頭部に撃ち込んで仕留めた。
(これで最後・・・・・・)
空は最後のマガジンを取り出し、ライフルに挿入した。
携帯していたライフルのマガジンは6つ。つまり弾は180発あった。極力無駄打ちは避けていたが、危機を脱するためにフルオートで弾幕を張らなければならない機会もあったために、消耗は激しく残ったマガジンは1つだけとなった。
これが尽きてしまえば、拳銃で対抗しなければならない。だが、精度も威力も装弾数も少なく、フルオート射撃も出来ない拳銃では心細い。コンパクトかつ軽量であるため、蹴りは打ちやすくなるが、デメリットの方が大きい。
「ガアアアア!!」
ブラックハウンドが3体、走り寄って来る。
空は右端の一体の頭部に弾を撃ち込んで動きを止めると、左端のブラックハウンドへ向かって地を蹴った。
正面へ向かうと思わせ、噛みつかれかけた瞬間に相手の右側面に回り込み、胴体を蹴り上げる。肋骨が折れて内蔵が潰れる感触が右足に走った。
後続のブラックハウンドが左側面から跳びかかって来るが、力を込めた右廻し蹴りで打ち落とし、地面に転がったところへトドメの銃撃を撃ち込む。
目の前のキメラを倒しても、空は油断せずに周囲を見渡した。しかし、起きている者はいない。あるのは、リッパーとブラックハウンドの死体だけだった。
(いない・・・・・・皆、倒したの?)
ビルの方を見るが、静まり返っている。ビル内にキメラはいないとは言い切れないが、この場のキメラは全て倒したようだ。
「ふう・・・・・・はぁ・・・・・・」
空は銃を下ろし、大きく深呼吸をして呼吸を整えた。
動きを止めず、キメラを蹴り続けた両脚は重く、鈍い痛みが残っている。
(つ、疲れた・・・・・・けど、休んでる場合じゃないわね)
それでも、空は途切れかけた闘志を持ち直した。
(皆もきっと戦ってるはず。行かないと)
戦闘に集中するため、一旦は脳内から排除していた仲間の安否。その思いが、ふつふつと再燃してきた。確かめるまでは休むわけにはいかない。戦闘中ならば、加勢しなければならない。
耳をすませば、キメラの叫び声が聞こえてくる。きっと、自分と同じように仲間たちも戦っているはずだ。
(無線で聞いてみようかな?でも、戦闘中だったら出られないし)
現在、自分はビルの北にいる。行くべき道は、東の瀞か西の和虎か。
(副隊長の援護が受けられない位置にいるけど・・・・・・和虎隊長はきっと大丈夫。瀞を助けないと)
一瞬迷ったが、前回の任務での和虎の動きを思い出した空は、瀞の元へ向かおうとした。
「うっ!!」
足を前に出そうとした直後だった。
全身を悪寒が襲った。氷水を浴びせられたかのような感覚だ。
その感覚の正体を、空は本能的に悟った。
危機が、迫っていると。
空が右を向くと、その正体がそこにいた。
左目のやや上の辺りが大きく腫れあがり、腹部から血を流すリッパーだ。
空の蹴りが甘たっからしく、仕留め切れなかった個体だ。気絶から覚めたそれは、空へ復讐の爪を振るう。
恐怖のあまり、空の体は硬直していた。
両脚は地面に張り付いているかのように、動かせない。
リッパーが爪を振るう。ブン、と風を切る音が鳴った。
「いっ!!」
右腕に鋭い痛みを感じ、空はライフルを落としてしまった。
リッパーの爪が、空の右腕の肉を切り裂き、骨を掠めたのだ。
腫れのせいで左目が塞がっているため、距離感が掴めなかったリッパーの一振りは、胴体までは届かなかった。
次は外さぬと言わんばかりに、ふらつきながらもリッパーは再び腕を振りかぶる。
しかし、痛みにより硬直が溶けた空は二振り目を許さない。
左足で地を踏みしめ、右足刀をリッパーの胸に打ち込む。
発動の速さをを重視したために、威力は低く致命傷は与えられなかったが、リッパーは大きく体勢を崩した。
空は痛みに耐え右腰のP229を抜き、リッパーに標準を合わせた。
その時、空の脳裏に初陣で戦ったゴブリンの姿が浮かんだ。
重症を負って動けなくなったゴブリンに対し、空は発砲を躊躇ってしまった。
目の前にいるリッパーも、あの時のゴブリンと同様に満身創痍だ。
しかし、リッパーは空に近づいてくる。
両脚に力が込めて、加速の準備を整えた。
パン、と、銃声が響きリッパーの体が揺れた。
P229から放たれた40口径弾が、リッパーの腹部に命中したのだ。
リッパーの動きが止まった。しかし、まだ立っている。
右目には、生気が宿っている。
「さっきのは、優しさとは言わん。お前が守ったのは、こいつではなく自分だ」
今度は和虎の言葉が脳裏に浮かんだ。
次に、仲間たちの顔が浮かぶ。
和虎隊長、副隊長、風丸、そして、瀞の顔が。
「次からは躊躇うな。お前のせいで仲間が死ぬことになるぞ」
パン、パン、パンと、一定のリズムで閃光と共に銃声が響く。
銃口から弾頭が飛び出し、スライドが後退して薬室から空の薬莢が飛び出し、傍らに横たわるブラックハウンドの亡骸に落ちていく。
放たれた弾は射手の心を反映したかのように、真っすぐ対象へと突き進んだ。
止まることも、逸れることもなく。
リッパーの体は、血飛沫を上げつつ揺れ続けた。
「お前は既に、撃つべき敵が何か分かっているはずだ。だから、安心して撃て。何発撃とうが、俺たちはお前のことを知っている」
空は撃ち続けた。
マガジンに納めていた12発に加え、予め薬室に入れていた1発を含めた13発の40口径弾。それら全てを手負いのリッパーへと撃ち込んだ。
拳銃弾とはいえ13発。既にダメージを抱えていたリッパーにトドメを刺すには十分な量だ。
リッパーが崩れ落ちる様子を見届けると、空は拳銃をリロードしてホルスターに納め、ライフルを拾い上げ、再び周辺を見渡した。
起き上がるキメラはもちろん、動くキメラもいなかった。
(これで、いい、の・・・・・・)
そう。これでいい。同じ失態は繰り返さなかった。ちゃんと撃てた。それでいい。
そう思った。思うよう心掛けた。
後味の悪さを脳内から追い出すように。
(何でだろう。なんか、嫌だな)
心に残る、微かな不快感。
喉に刺さった魚の小骨のようなそれは、相変わらず空の心を悩ませた。
(まだ、答えが出てないってことかな)
空がそう思った直後だった。
オオオオオオオ・・・・・・
ブラックハウンドの雄たけびが空の耳に刺さった。
発信源は東の方角、瀞が配置されている所だ。
(瀞!まだあっちにはキメラが!?)
空は課題となっている問題を振り払い、東口の方へと駆け出した。
距離はそれほどでもない。全力で走ればすぐにたどり着く。
(瀞!待ってて!今行くから!)
空は疲労を忘れて走った。
大切な仲間を助けるために。
[newpage]
顔に飛沫を浴び、声にならない叫びを聞きながら、抱きしめるように相手を押し倒す。
密着することで、相手の体温が、呼吸が、鼓動が直に伝わってくる。
口内は粘りを帯びた液体で満たされた。
吐き気を催す不快な味に苦しみながらも、口は離さず鼻で息を吸い、更に力を込めて暴れる相手を抑え込み、噛みしめる。
飲み込まなかったために、液体は僅かな隙間から溢れ出て地面に滴り落ちた。
やがて、相手の肉体から徐々に力が抜けていった。
次に温もりが失われていき、呼吸も鼓動も弱々しくなっていく。
猛々しく燃え上がっていた炎が、今まさに消えようとしていた。
ブラックハウンドの心臓が停止したことを確認した瀞は、ようやく顎の力を緩め、ゆっくりと口を開いた。
ブラックハウンドの首に深々と食い込んでいた牙が抜ける。牙の先端から、真っ赤な血が糸のように細く伝った。絶命しているために、噛み傷からは勢いを失った血が弱々しく流れ出てた。
「うっ・・・・・・かっ」
ブラックハウンドに覆いかぶさっていた瀞は上半身を起こし、口内に溜まっていた血を、肺に溜まった臭気と共に吐き捨てた。顔中が返り血まみれで、舌だけでなく鼻も血液に苦しめられた。
しかし、勝利の代償と思えば安いものだ。
刀を失った自分に残された、最も信頼できる武器。それは初陣でも活躍した牙だった。
躊躇なく牙を使うことを選んだ瀞は、ブラックハウンドの首を、頸動脈を狙って噛みついた。
両手で前足を掴み、右膝を胴体に押し付け、体重をかけて抑え込み、相手が絶命するまで牙を離さなかった。
「ふぅ・・・・・・」
勝利の余韻を、無心で味わう瀞。その心には、達成感のみがあった。
「んっ!?」
その余韻に、邪魔が入った。
ピンと立った三角の耳が音を捕らえて震えた。
何かがいる。鼻が血の臭気で麻痺しているため気づけなかった。
瀞は立ち上がり、音が聞こえた方角を睨んで身構えた。
「あっ」
しかし、すぐに構えを解いた。
そこには、ライフルを手にした空の姿が。
「空!よかった、無事だったの・・・・・・」
仲間のもとへ駆け寄ろうとした瀞だったが、その足はすぐに止まった。
差し伸べた自分の手は、血まみれだった。
手だけではない。顔も、牙も。
それもそのはず。ブラックハウンドを噛みつきで仕留めたのだから。
武器を使わず、自身の牙で。
(最悪だ・・・・・・見られた・・・・・・)
まるで失態や非行の瞬間を見られたような感覚だった。キメラを倒し、自身の使命を果たしたというのに、自分は道から外れた行動を取ってしまったと、そう思わずにはいられない。
牙を使った、ただそれだけのことなのに。悪いことなどしていないのに。
「瀞、その傷、平気なの?」
何も言えずに立ち尽くした瀞に、空が駆け寄ってきた。心配そうな顔をして、瀞の身を案ずるように手を伸ばしてくる。
「え、いや、別に、大丈夫、いっ」
そう言いかけた瀞だったが、急に腕に痛みが走った。暴れるブラックハウンドを押さえつける際に腕を引っかかれたらしく、両腕に引っかき傷がある。
しかも、傷は1つだけではなかった。両腕には切り傷も無数にある。両足も同様で、背中や脇腹にも無数の傷があった。気持ちが高ぶっていたためにさほど痛みは感じなかったが、思った以上に傷の数は多い。それら1つ1つが、抑えていた痛みを訴え始めた。
同時に、溜まっていた疲労も全身に圧し掛かる。筋肉と心肺機能が休息を求めて悲鳴を上げた。
瀞は歯を食いしばって激痛と疲労に耐え、座り込みたい気持ちを抑えた。気を抜けば腰が落ちてしまいそうなので、両足に力を込めて立位を保持する。
「大丈夫じゃないでしょ。出血してる傷は保護しないと」
空は瀞の肩に手を置き、座る様に促した。事実、傷口からは血が流れ出ている。興奮状態であったため出血量は少ないが、それでも放っておくことは出来ない。
「あ、ああ、悪いな」
瀞は口の血を拭うと、ゆっくりとその場にしゃがみ込んだ。周りはキメラの死体だらけだが、一刻も早く座りたかった。
空もライフルを肩に掛けて瀞の隣に腰を下ろすと、ポーチから“INABA”と書かれたチューブを取り出した。
「染みるけど、我慢してね」
「ああ」
チューブから出した水色のジェルを、空はそっと傷口に塗り始めた。
そのジェルは、BATの科学者が開発した治療薬である。消毒と止血作用があり、更に空気に触れることで固まるため傷口を保護することにも使える。非常に優秀な薬品だが、成分の関係から人間には効果がなく、獣人専用という欠点がある。その為、一般には流通していない。
開発者の名前から“イナバ”と名付けられたそのジェルは、過去の戦闘で獣人兵士たちの窮地を幾度も救ったという実績がある。故に、任務の際にイナバのを携帯することは全獣人兵士に義務付けられていた。
「つうっ」
「ご、ごめん」
「いや、平気だ」
空の手つきは丁寧で優しい。それでも、傷口に触れられると込み上げる声を止めることは出来なかった。
「塗り終わったら、包帯も巻くから」
「いや、塗るだけでいい。この後、ビルの探索もするだろうしな」
ビル内にまだキメラが残っている可能性も捨てきれない。全てを排除しなければ任務完了とは言えない。
「だったら尚更傷口を守らないと」
「包帯巻いたくらいじゃ、大した保護にならないだろ。動きにくくなるだけだ」
「うん。でも、気を付けてね」
「分かってる」
早く治療が終わってほしいと、瀞はそう思った。
自分は無数の傷を負い、立つことさえ困難なほど消耗してしまった。しかし、空は自分より傷も疲労も少ない。それどころか、キメラを全て倒して自分の元に駆けつけてくれた。その上、治療までしてくれる。
情けない。後れを取った自分に腹が立つ。
ただ、空に対して怒りや妬みは生じなかった。仲間の活躍は誇らしかった。
(しかも、こんなんだしな、俺は)
瀞は口を開いて、牙を舐めて洗った。すると、牙に付着していたブラックハウンドの体毛と肉が舌の上に乗った。
吐き気が込み上げてきて、飲み込むことは出来なかった。瀞は顔を空から背けると、赤く染まった唾液と共に獲物に残骸を地面に吐き捨てた。
空の手が止まった。
「ごめん」
瀞は再び口を拭った。
「ううん、私こそ、ごめん」
「何で謝るんだよ」
「それは、その、ごめん」
止まっていた空の手が動き出した。丁寧で優しい手つきは変わらなかった。
「瀞」
「ん?」
「どんな戦い方でもいいから、生き残ってね。私たちは、ちゃんと瀞の事、知ってるから」
空が瀞に送った言葉は、初陣にて和虎から空に向けられたもの。兵士としての道を説く教えだ。
その一言は瀞の耳に滑り込み、全身へと浸透していった。たった一滴なのに、赤く染まった湖を一瞬で透き通らせてしまうように。
「そう、だな」
空はただ本心を述べただけであり、しかもその言葉は和虎の受け売りである。だが、空は瀞の心情を理解していたからこそ、最適の言葉を送ることが出来た。
「やっぱ空はすげえな」
「そ、そんなことなけど」
「そんなことあるって」
兵士として優秀だけでなく、精神的にも自分より大人だ。
隊長である和虎に抱く羨望とは違う。格上ではなく同世代だからこそ、親しみが込められた尊敬の念を抱く。
「終わったよ」
「ああ、ありがとな」
血の味が残る唾液を飲み込んだ瀞は、力強く立ち上がった。
「空もちょっと傷があるな。塗ろうか?」
「え?いえ、私は自分で届くから」
「でも、俺だけ塗ってもらって、悪いし。それに、背中にもあるんじゃないのか?」
瀞は腰のポーチに手を伸ばし、気付いた。自分の手が血まみれであることに。
「あ・・・・・・」
「違うから!手が血まみれだからじゃなくて!手がジェルでベタベタになるのは一人でいいってことで」
「まぁ、そうだけど」
その時、空にとって救いの手が差し伸べられた。
『こちらナナイチ。状況を報告しろ』
無線から、和虎の声が聞こえてきた。
「俺が取るよ」
「うん、お願い」
瀞は無線機を取った。空はほっと息をついて、自分にジェルを塗り始めた。
「こちらナナヨン。現在、東口にナナサンと一緒にいます。鳥籠から出てきた爪と犬の群れと戦いました。清掃員が一人鳥籠から出てきましたけど、爪に殺されました。ナナサンも・・・・・・同じように爪と犬と戦ってこっちに来ました。どっちも軽症です。以上です」
瀞が報告を終えると、次いで賢士の声が。
『こちらナナニ。現在鳥籠からは何も出てこない。飼育員の包囲を突破した獣もいない』
その報告を聞いて、瀞も空も安心できた。どうやら、周囲に住む民間人に被害は及んでいないようだ。
『分かった。現在南口にてナナゴと一緒にいる。こちらも、鳥籠から出てきた爪と犬と戦った。俺もナナゴも軽症だ』
どうやら、風丸は和虎と一緒にいるようだ。それを聞いて、瀞と空の胸にあった最後の憂いも消え去った。
「ナナイチ、どうしますか?」
『鳥籠内部の捜索を始める。キメラのせん滅し、清掃員の救助する』
清掃員、つまりはBATの職員だ。ビルから大量のキメラが飛び出してきたことを考えれば、彼らが生き残っている確率は低い。だが、僅かな確率でも信じて行かなければならない。
「だったら、すぐに行かないと。助けを待ってるかもしれない」
『ああ。東口に集合し、突入する。飼育員への連絡は俺がする』
「刀の補給もお願いします。あと、ナナサンには弾を」
『分かった』
瀞は無線を戻した。すると、ジェルを塗り終えた空が再び心配そうに話しかけてきた。
「瀞。すぐにでも突入って、大丈夫なの?」
「ああ。今の休憩で楽になった。血も止まったしいつでもいける」
「でも・・・・・・」
「中にはBATの職員とか、キメラとは無関係の社員が生き残ってるかもしれないし、休んでる場合じゃないだろ?俺たちが行かないと」
瀞が言ってることは正しい。だからこそ、空は言い返せなかった。
「うん・・・・・・でも、本当に気を付けてよ」
「分かってるって。そもそも、いつも気を付けてるぜ?」
「いつもより、気を付けてよ。疲れてるし、傷を負ってるんだから、動きは落ちてるだろうから」
「ああ」
瀞は力強く頷いた。牙を使用したことで生じた不快感は、完全に消えたわけではない。しかし兵士としての使命感と、空の一言のお陰で心は大分楽になった。
ビルの中には、キメラが残っているのだろうか。リッパーか、ブラックハンドか、それら以外か。
「別の部隊が来てくれればいいのにね」
「そんな簡単に、他の部隊に応援頼む訳にはいかねえだろ。キメラは場所も時間も関係なく出て来るんだからな」
「そうね。でも・・・・・・」
『07部隊は東口に集合後、待機せよ』
二人の会話を、無線機から発せられた声が中断させた。ビルを包囲する機動隊の隊長の声だ。
「待機って、休憩でもさせるのか?」
「機動隊をもっとビルに近づけるんじゃないの?」
待機命令の意図を予想する二人に、次なる命令が下された。
『数分後にヘリが来る。それに乗り込み、移動しろ。詳しい内容は、ヘリ内で伝える』
命令を聞いた二人は互いに驚愕の表情を向け合った。ビルへ突入しないどころか、移動しろというのだ。あまりに唐突な任務内容の変更を理解できず、聞き間違いかと思ってしまう。
しかし、無線から聞こえてきた次の言葉がその可能性を否定した。
『どういうことだ。この場から移動するのか?』
和虎の声だ。どうやら、移動しろという命令は事実らしい。ビル内部のキメラの有無も、生存者の確認もしていないというのに。
『詳しいことはヘリにて話す』
その言葉を最後に、無線機は途切れた。
「どういうことだ?」
「分からない。何か、起きたみたいだけど」
瀞はビルを見上げた。まだこの戦場での戦いは、終わっていないのだ。しかし、去らねばならない。それが命令だ。
やりかけの事を途中で放棄する際に生じる不快感が心の中で渦巻いた。
「瀞、二人が」
空が南口の方を指さした。そちらに目を向けると、走ってくる風丸と和虎の姿が。先程の無線の通り、二人とも軽症のようだ。
そして東からは、ヘリの音が近づいてきた。
東の空は、徐々に闇を失いつつあった。