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【ファンボ】 家族の絆

  家族の絆

  荒い息遣い。

  足音と掛け声。シューズが床との摩擦で起こす高い音。

  「……ソラ!」

  掛けられた声に、はっとなる。顔を上げれば数メートル先に居る虎の姿。そしてそれをマークする数人の味方。

  ボールが。

  「テンマ!」

  誰かの声が聞こえた。跳んだボールが、テンマと呼ばれたその虎の手に。

  そして。

  宙を舞うように。その名前そのままであるかの様に。虎は高く跳んでは、整った動作でバスケットボールを放った。

  俺の瞳にはスローモーションでボールが弧を描き、そして寸分の狂いもなくゴールへ到達する様が移る。ボールが通り過ぎ、それを通した網が一度ふわりと、

  確かにそこをボールが通ったのだと主張するかの様に真上へと昇った。

  途端、歓声が起こった。

  結局、試合はその時の点数が鍵となって相手チームの勝ちとなった。

  もっとも負けたこちらのチームに悲壮感というものはない。元々、ただの昼休みを利用した短時間の遊びだったから。

  「やっぱテンマが居ると勝てないかぁ、ハンデまでつけたのに」

  なので、試合後はもっぱら本日のMVP選手の下に皆が集まってワイワイやるのがお決まりの流れだ。

  ……俺を除いて。

  薄めたスポーツドリンクをストローでちびちびと飲みながら、俺はちらりと盗み見る。皆に囲まれている、その虎の姿を。

  そこに居るのは、高校二年という年頃でありながら、既に立派な大人の体格となりかけている奴らの中でさえ尚、頭一つ分はでかい虎人の男だった。

  朱通 天馬(しゅどう てんま)。俺の天敵だ。

  といっても、天敵とか、はたまたライバルだとか。そんな風に言える程の実力が俺にある訳じゃない。勝手に俺がテンマをそう見ては、苦手に思っているだけだ。

  「本当にテンマはすげぇな。卒業したら、プロのバスケ選手にでもなんの?」

  「いや、俺はいいよ。皆とバスケするのが好きなだけだし……。別にバスケ部でもないよ?」

  「でも、この間なんかスーツ姿のおっさんから声かけられてなかったっけ?」

  「あれはうちのバスケ部見に来てた人だから。たまたま俺がそこに居ただけだって」

  適当にはぐらかしているテンマの言葉を聞いていると、俺は内心唾を吐きたくなる。その場に居合わせていた俺は、知っていた。バスケ部ではないけれど、

  はっきり言ってテンマはバスケ部の連中よりもバスケが、というかスホーツ全般でそういう奴らより上手くやれるのだ。恵まれた体格に、天性のセンスに、だから

  高校生の内から未来のスターを探しているスカウトマンの目にも留まるのだった。

  そういうテンマの姿を見るのも、一度や二度ではなかった。うちの高校は別に、何々の強豪校とか、そういう奴じゃない。だから結構、あちこちで欠員が

  出たりして、そういう時誰かきてくれないかなんていう話が出る。俺も出た事がある。そしてそういう時、まず第一に指名されるのが、テンマだった。だから、

  バスケ以外の種目でもテンマがやってきては、他校との練習試合の時なんかはふらりとやってくるそういう人達の目に留まるのだった。うちは強くないから、

  そういう時は大体は負ける。でも、テンマの体格と身のこなしを認めて声を掛けてくる。そういう流れだった。

  そしてこれまたムカつく事に、テンマは今自分が口にした様に、仲間と何かをするのが好きなだけだから、そういったスカウトを断っている。元々スポーツ弱小校の

  うちに来たのだって、家から近いからって、それだけの理由らしい。

  そういうテンマのあっけらかんとした所は、同性からは好印象な様だった。うちは最近減ってきた男子校だけど、もし女子まで居たらそれこそテンマの人気は不動の

  ものとなっていたかも知れない。

  そんなことを考えながらテンマとそれを囲む奴らを見つめていると、ふとテンマと目が合う。にこりと牙を見せる様に笑った虎が、手を振った。俺はすぐ視線を

  逸らす。

  目をつけられてしまった。

  「ソラ!」

  放課後。予想通りテンマは俺に話しかけてきた。できるだけテンマに見つからない様にと警戒していたのに、どうしてかテンマは俺を見つけるのが上手い。頭

  一つでかいテンマと比べたら、俺はただの中肉中背のその他一般モブ枠だというのに。

  馴れ馴れしくテンマが俺の名前を。ソラと。俺、青葉野 大空(あおばの そら)の名前を呼ぶ。

  テンマに名前を呼ばれるのは、苦手だった。名前に負けない活躍のできるテンマと比べたら、俺は名前負けしてる気がしてしまうから。

  母さんがつけてくれたこの名前が、嫌だなんて思わないけれど。大空と書いてソラと呼ぶのは、名前負けしてるなと思う。天馬なんて大層な物をつけていて、

  それに恥じない振る舞いをしているテンマと比べたら、尚更だ。

  俺は手を振ってやってきたテンマに特に返事をする事もなく、歩き出す。その内テンマが隣について、二人帰り道を行く。高校一年の終わり頃、くらいだった

  だろうか。気づけばテンマはそうして俺の隣に居た。それまでは、俺にとっては敵意と、そして羨望を向ける相手だった。それはあまりにも一方通行の、一方的な

  ものだったけれど。そうして事あるごとにテンマと張り合い、その度に惨敗に惨敗を次いでは無様な敗残兵となっていた俺を見たテンマは、何をどう考えたのかは

  わからないが。その内に俺へ声を掛けてくるようになった。

  敵愾心と同時に憧れを抱いていた俺はそれが。

  うれしく、なかった。

  こんななんでもできる奴の隣に立つって、半端じゃないくらい肩身の狭い思いをするからだ。だから俺はテンマとそれほど口を利くことをしなかったけれど、

  テンマはいつもフレンドリーに言葉を投げかけてきた。そういう爽やかさも気に入らない。俺にはないものだから。

  とぼとぼと、夕焼けの道を歩く。学校近くではテンマの姿を見てはまた明日と声を掛けてくる奴らもいたけれど、それも次第に疎らになってゆく。そうしながら、

  俺はちらりと隣を歩くテンマを盗み見た。燃えるような鮮やかなオレンジ色の西日が、虎の黄色い毛皮をも燃やすかのようにそこでは輝いていた。夏服の上からでも

  わかる立派な体格に、凛々しく爽やかな顔に。何もかもを持っている奴が、そこに居た。

  輝いていた。その言葉がただ見た目だけではなく、中身も伴っているのだから、テンマは恐ろしかった。そしてその隣を歩くただの犬の俺とは、あまりにも、

  何もかもが違い過ぎるなと改めて痛感させられる。鼠色のこれといった特徴の無い俺だった。鮮やかで煌びやかな服と、無地の服が並んでおいてあるかのようだ。

  正直一緒に歩いていたくない気持ちはあるけれど、かといってそれをテンマに言った事はない。だって、テンマは悪くなかったから。一方的に劣等感を抱いて、

  敬遠をしているのは俺だった。こうして歩いている間も、テンマは今日の授業がどうだったとか、そんな軽口をしながら朗らかに会話をしているばかりだ。俺は

  それに生返事をしながら、時折興味を惹かれた事にだけきちんと言葉を返している。

  「じゃあ、ここで」

  少し早い蝉の鳴き声を背景音楽にしていた帰り道はその内に終わりを告げて、俺は手を振る。テンマの家は、もう少し歩いたところだ。行ったことはない。

  「なあ、ソラ。もうすぐ夏休みだけど……」

  「ん?」

  「……いいや。じゃあ、また」

  「ああ」

  何かを言いかけたテンマに、俺は眉をひそめて。テンマはそれを見て苦笑してから、手を振ってまた明日と背を向けていった。

  それを見送ってから、俺は歩き出してその内に家へと辿り着く。

  「ただいま」

  家の扉を開けて、とりあえず帰宅を告げてみる。わかっていたけれど、中から返事はなかった。小さなアパートの一室であるそこで、俺は母さんと二人で暮らして

  いた。リビングに向かうと、テーブルの上にはスーパーの弁当が入った袋が置かれていて、苦笑いをする。

  母さんがこの時間に家に居る事は滅多にない。母さんは、夜の女だった。お客さんと楽しくお酒を飲んでは、歌って騒ぐ。俺はそれを、別に悪く思っている訳では

  ない。どんな形であれ、母さんが離婚をした後に、自分のできることで俺を養ってくれている事実は変わらなかった。自慢の母さんだった。綺麗な人で、授業参観に

  やってきた時なんかは、他の奴らがうちの母親と全然違うと言っては羨ましがったものだった。そんな母さんのことが、俺は小さな頃から大好きだった。いつも俺に

  いろんな話をしてくれて、家を空けてばかりいた父とは違って。だから二人が離婚すると知った時も、俺はすぐに母さんについていくと決めたし、父さんのことを

  睨んでいた。母さんを傷つけるなと。

  父さんは、ほとんど俺達に言葉をかける事もなく出ていった。それからは、ずっと二人暮らしだ。

  「母さんの味方はあなただけよ。ソラ。いつもありがとう」

  父さんからの仕打ちを口にしながら、涙を流して俺を抱き締める母さんの言葉を今でも忘れない。俺は、優秀な人物になりたいと思った。いろんな事で一位を

  取って、母さんを驚かせたり、喜ばせたり。将来はきちんとした仕事に就いて、母さんが苦労した分、悲しんだ分、楽をさせてあげたかった。

  俺の原動力は、それだった。母さんを守りたい。その一心で、勉強もスポーツも取り組んだ。最初の内、それはすぐに成果を見せて。母さんも喜んでくれた。

  喜ぶ母さんを見て、俄然そうしなければならないと思った。

  一番になりたかった。一番でありたかった。母さんにとっての。

  けれど、すぐに俺は躓き、壁にぶつかることになる。

  小学校の頃はまだよかった。もしかしたら自分はできる奴なのでは、なんて自惚れて居られた。中学に上がってからも、まあそこそこって程度ではあった。

  だけど高校からは大分世界が変わった。まず、勉学で一番になれなくなった。それまではお気楽にやっていた奴も、将来を見据える時期だし、早い奴は高校から

  良い所に行くからもっと早かったかも知れないけれど。そしてスポーツでも、そう上手くいかなかなった。やる事が細分化されてきて、それぞれの分野で上位に

  食い込むのが難しくなってくる。なんでもかんでも手が回る事がなくなってくる。それは専門性を出すに良いのかも知れなかったが、俺はいろんなことができる

  奴でありたかった。

  だけど、できなかった。正確には、俺の手の届かない存在が現れた。

  それは各々の分野で前を走る人たちでもあったけれど、それよりも、何よりも。

  テンマの存在だった。

  高校に入った頃、別のクラスでそんな奴が居ると話に上ったことがあった。スポーツがすごく上手いと。最初は、そんな程度だったと思う。少しできるくらいだと

  思った。俺とそんなに変わらないと。

  程無くしてテンマの実力を目の当たりにすると、俺の自信は木っ端みじんに打ち砕かれた。

  まず、身長からして違っていた。俺が背が低いなんてことはない。ごく普通、だ。でも、テンマはそこから更に頭一つ分はもう大きかったし、高校一年でそれ

  だから、今もすくすく伸びている。そしてスポーツ全般、何をやってもそつなくこなし。いや、違う。スポーツだけじゃないんだ。テンマは。勉強もできた。度の

  入っていない眼鏡をつけて、これをつけると頭良く見える気がする、なんてふざけた事を口にしては笑われているのに、実際にそれで勉学も良い成績を修めていた。

  完全な俺の上位互換。それが、テンマだった。特にスポーツはそれぞれ部活動に入ってはひたすらに勤しむ奴らより上手いとくるもんだから、俺にせよそいつらに

  せよ堪ったものではなかっただろう。実際、その点に関してはテンマは一部の奴から顰蹙を買っている。だけど、俺にせよそいつらにせよ、真っ向からテンマに

  何かを言うことなんてできなかった。部活動の奴らはそれこそテンマを歯痒く思っても、テンマがヘルプで入るから助けられた部分も多い訳で。

  できすぎる。その点を除けば、テンマはいつも朗らかで、誰にでも優しく。自然と人の中心に居るような奴だ。

  だから、誰も、何も言えなかった。

  だって、テンマが悪い訳ではなかったから。誰かが、何かが。悪いのだとあえて言わなければいけなかったのだとしたら。それはただテンマに及ばない自分が

  悪かったと言うしかなかった。仮にそうではなかったとしても、各々がストイックに自分を磨いていたから。実力で負けたからといって、テンマに唾を吐いてより

  惨めになりたがる奴は多くはなかった。

  大体、人気者のテンマにそんなことをしたら周りの顰蹙を買うし。

  何より、テンマの性格を考えるとそれで傷ついてしまうくらいに良い奴なんだって、普段の行いから見てわかってしまっているから。

  だから、俺と似たような思いをテンマに抱いている奴も少なくはないかも知れない。嫌いな訳じゃない。苦手、という訳でもない。

  ただ、眩しかった。眩しすぎた。強い光を受けると、受けた自分の影が大きく長く伸びるように、自分の至らなさに気づかされてしまうのだった。それはある意味

  ではとても苦しい。昨今はネットの発達により、自分より優れた相手を見つけることなんてどんな分野でも容易いというけれど、それだって所詮は画面の向こうで、

  割り切れれば遠くの誰か、本来縁の無かった相手だったと思える。それでも人によっては自信を大きく失い、自分なんてと思う人も中には居るだろう。

  それを目の前でやられると言えば、頷いてくれる人も少しは居るかも知れないなって思う。どうせなら、テンマが嫌な奴だったら良かったのに。自分の才能を

  鼻にかけて、周りを見下しているような奴だったら。完璧そうな奴にも欠点があると、そう思えたのかも知れない。

  優しくてできすぎているところがお前の欠点だ、なんてただのやっかみにしか見えないだろうさ。

  味の濃い弁当を口に突っ込みながら、俺は黙々と教科書に目を落とし読み進めてゆく。塾に行けないのが、もどかしい。そんな余裕はうちにはなかった。そういう

  所でも差はつくのかも知れない。そして、そういう所でもテンマには勝てなかった。テンマは別に、塾だのは行っていないらしい。それどころかうちの高校はバイトも

  支障が出ない限りは許されるので、土日なんかはテンマは社会経験としてバイトもしているらしい。勉強に一杯一杯の俺と、他の事をしながらでも勉学もそれなりで

  スポーツは完璧なテンマ。どうしてこんなに差がついてしまうのか、我ながら情けなく思う。

  けれど、二年になって一緒のクラスになったテンマは、何かと俺に声を掛けてくるようになった。様々な事に手を出す関係で、元々一年の頃からテンマとは顔を

  合わせる機会は多かった。部活動のヘルプは特にそうだ。あの頃が、なんだか懐かしい。こんな奴に負けないと意気込んで飛び出して、負けては次こそはと躍り

  出して、結局テンマにまともに勝てたことなどなかった。得られたものは、ただただ自分の至らなさばかりで。けれどそんな日々でテンマは俺に対して何かしら

  思うことがあったのか、今話しかけてくるようになっている。正直、微妙な感じだ。邪険にする程テンマを嫌ってはいない。いや、勝てない相手としては憎く

  思っていても、俺の理想がテンマの様に文武両道であるからこそ、憧れと、そしてそれと比べてなんと自分の情けない事かと身を裂かれる思いが交差して、

  どうしたらいいのかわからなくなってくるのだった。

  仮に勉強とスポーツで並んだとしたって、見た目だって。

  ……。

  やめよう。もうやめよう。これ以上頭の中にテンマを入れていたくない。また顔を合わせたら、嫌でもこの気持ちを味わわさせられるのだから、今ぐらい。家に

  一人で居る時くらいは、考えるのはやめよう。

  それでも勉強をしていると、それはそれで結局はその存在を意識してしまうのだから悲しいものだった。何をしてもかち合うからテンマは俺を気にして、あるいは

  気に入ったのかも知れなくて。そして俺は何をしてもかち合うテンマの事を苦手だと、天敵だと思ってしまっているのだった。

  そんな事をしている内に、不意に玄関の鍵が開く音がする。母さん、ではない。体調不良などでない限り、まだ帰ってくるには早いはずだ。

  「あ、ソラくんー。おかえりなさい」

  「叔父さん」

  足音の後に、俺の前に姿を現したのは母さんの弟である叔父さんだった。

  「どうしたの?」

  「ああ、いや。そろそろまた部屋が散らかってるかなって。それでね」

  そういってにこやかに叔父さんは微笑む。叔父さんと言っているけれど、まだ三十をどうにか過ぎたくらいでその見た目は若々しいし、筋肉質でもあった。元々

  叔父さんも俺のようにいろんな物事に手を出しては活動的にしていた人らしい。その上で、それほど目が出なかったとか。なんか、血を感じる。背は俺よりも少し

  高く、身体つきもまだ成長途中の俺よりもしっかりしていた。傍までやってきた叔父さんは手を伸ばして俺の頭をぽんぽんと軽く叩いたり、撫でたりしている。

  「その様子だと、今日もまたライバルに負けちゃったのかな?」

  「……そんなところです」

  「そっかぁ。でも、頑張ったよソラくん。いつも自分が沢山頑張っているんだって、忘れないようにね」

  結果が出るかどうかを問わずに、叔父さんは優しい言葉を差し出して。それが嬉しくて、けれど申し訳なくて。だけど心地よかった。小さい頃は、良い成績を

  出したらそれを母さんに知らせては褒めてもらっていた。百点を取った、一位を取った。そんな風に言って、凄いね。頑張ったねって。でも今は、そんな風には

  言えなくなってしまった。そうすると自然に母さんからそうやって褒められる回数も減って。叔父さんは俺と母さんのそんな間柄を見ていたからか、そういう事に

  拘らずに労ってくれる。

  目を閉じて、撫でられる事に集中する。父親って、こんな感じなのだろうか。父さんとは幼い頃に離婚が成立してそれきりだから、優しい掌の力加減には

  不慣れで、俺は思わず睡魔を覚えかける。そんな叔父さんは、独身のままだった。この近くで母さんの両親、俺にとっての祖父母と一緒に住んでは家の管理を

  していて、時折こうして俺達の方にもやってきてくれる。いっそ全員で同じ場所に居た方がと思わないでもないけれど、その辺は母さんは断固拒否しているらしい。

  時々俺が祖父母の下に行って可愛がられる分には何も言ってこないけれど、何かしら見えない軋轢があるのかも知れなかった。

  「おっと。部屋の片づけしなくちゃ」

  しばらくすると手を引いた叔父さんは思い出したように呟いて母さんの部屋へと向かう。

  「また大分散らかってるなぁ」

  「すみません。俺が掃除するのは、嫌みたいで」

  「お仕事用の物もあるから、あんまり若いソラくんには見せたくないのかもね。まあ、僕はよくわからないけどさ」

  そう言って、叔父さんはテキパキと片づけを始めてゆく。大半は床や机の上に散らかったものの中から明確にゴミだと言える物を袋に詰めるだけだったから、

  俺でもできそうだけど。母さんはそういう所は俺にはしなくていいといつも言っている。他の部屋は俺が掃除しても何も言わないけれど。掃除をしてゆく叔父さんの

  手つきは手慣れていて、母さんにこんな風に使われるのに慣れ切っている感がすごかった。別に叔父さんはそれで気を悪くする訳でもないらしいけれど。弟って、

  姉からすると奴隷みたいなもん、というのを以前同級生の奴が口にしていた気がするけれど、あんな感じなんだろうか。少なくとも叔父さんは嫌そうな素振りも

  見せないけれど。

  「また随分飲んだね」

  酒の空き缶や空瓶を片付けながら、苦笑いを叔父さんは零す。

  「……叔父さんはお酒って、飲まないの」

  「えっ。僕? うーん……僕はあんまり。酔った時の事、あんまり憶えてなくてさ。やらかしちゃいそうで、怖いから」

  「そうなんだ」

  お酒って、どんなものなんだろう。当然ながら未成年の俺は味や飲んだ感じを想像するに留まるばかりだ。母さんの部屋にあるから、飲みたいなら飲める訳だけど、

  真面目な成績を求めている俺にとってはとても手が出せたものではなかった。同級生の中でもワルな奴はちょっとした自慢話のように口にしただのなんだの言っている

  時もあるけれど。

  「昔さ、俺がソラくんくらいの頃だったかなぁ。姉さんの悪ふざけでしこたま飲まされてね。あれ以来、ちょっと……うん。あ、未成年なのに飲んでたのは、内緒ね」

  母さん、絡み酒してたのか。確かにそんな経験があって、しかも記憶まで飛んでしまうとあっては叔父さんが酒を忌避する様になっても仕方ないのかも知れない。

  「だから、お祝いの席で一杯仕方なく飲むとか、そんな程度だよ。それくらいならなんとか。ソラくんは姉さんの子供だし、お酒強いかも知れないね」

  父さんは、どうだったんだろうとふと思う。酒を飲んでいるところは、幼い記憶には残っていない。いつも真面目な人、という印象だった。そんな父さんも、

  母さんを泣かせてたのだからよくわからない。内弁慶って奴だったのだろうか。俺には、あんまり話しかけない人だった。気づいたら俺をじっと見つめている様な、

  少し、怖い人だって印象が強かった。

  「さ、こんなもんかな。ついでに明日の朝ごはんも作ってくから、朝になったら食べなよ」

  「いいんですか?」

  「姉さん、夜に疲れて帰ってきてそのまま寝ちゃうし、朝起きるのも遅いでしょ? ソラくんが家事までずっとしてたら、大変だから」

  叔父さんもそんなに暇ではないのでは、と俺は言いかけたけれど、素直に好意を受け取ってお礼を口にする。穏やかな人だった。競争とか、優秀さとか、そういう

  世界とはまた別の所に居る人。人柄の良さで自分の価値を示せる様な。

  ふと、またテンマのことを思い出した。テンマもこんな人柄の良さを。人柄の良さまでもを持っているから。

  少しだけ焦りを覚えた。こんな俺は、優秀さでも穏やかさでも、何か一つくらいはひとり前の物を身に着けられるのだろうかと。

  「お味噌汁も飲む?」

  叔父さんの言葉に、俺は頷いて。しばらく台所から立つ包丁の規則正しい音を聞きながら、勉強を続けた。

  夏休みを終えて、二学期が始まってしばらく経った頃。

  ちなみに夏休みは特に何もなかった。部活のヘルプには運動がてら顔を出したけれど、俺は基本的に帰宅部の方だ。というか、ずっとそういう物に時間を割くのが

  勉強を続ける上でしんどいので、夏休みの間だけとかならまだしも普段は所属をしていなかったのだった。出来が悪いって悲しい。

  一方テンマはといえば、俺の与り知らぬところでまた大活躍をしたとの話を聞いた。夏休みはそれこそ学校の授業がないから、テンマは引っ張りだこであったの

  だろうし、バイトの方でも基本は礼儀正しく笑顔も爽やかなテンマだから、上手く回っていたのだろう。

  そう考えると、自嘲気味な笑みがまたこぼれてしまう。生き生きとした青春をさえ描いてゆけるあの虎と自分とでは、あまりにも距離は遠かった。

  夏休みの間は、テンマとはそれほど顔を合わさなかった。あの時、何か俺に言いかけた事もあったけれど。結局テンマは必要以上に俺への接触をする事もなく、

  そういう意味では夏休みは平穏無事に過ぎていったと言っても良かった。

  「ソラ!」

  そしてまた、夏休みが明ければ元気なあの声が俺を呼ぶ。夏休みの間に大分元気を蓄えたので、その相手も俺は多少の余裕を持っていられた。二年になって、

  同じクラスになってからテンマとの付き合いが始まったので、それに慣れてきたというのもある。

  一学期と同じような日々が、また繰り返される。

  そう思っていた俺の耳に、ある言葉が飛び込んでくる。

  「文化祭、楽しみだなぁ」

  テンマののほほんとしたその言葉。

  俺は内心では、嫌だなと思った。

  別にテンマが居るからという訳ではなく、文化祭に時間を取られて勉強も何もが疎かになるのが嫌だった。

  どうせ大した出し物になんてならないし、どうせ大した思い出にもならない。勉強をサボる口実に使われて、一部の奴だけが盛り上がって、一部の奴だけが、

  テンマみたいな奴だけがまた青春の一ページを、夏休みの自由研究の様に増やすだけの行事だ。日陰者の俺みたいな奴からすれば、あんまり喜ばしくもないし、

  そうでなくてもやっぱりそんなに血道を上げる様な行事でもない。

  「俺、演劇やりたいです!」

  適当に放置していい出し物にして、文化祭当日は校内をぶらつくのが無難。そんな空気だったクラスに、テンマの生き生きとした言葉が響き渡った。聞いた瞬間、

  俺はなんでそんな提案を、とテンマを睨みつけそうになる。テンマ以外が提案したら、多分他の奴もそうしたかも知れない。だけど、テンマがそれを口にする訳だ。

  少しの沈黙の後に、何人かテンマと仲が良い、というか。テンマの明るさを気に入って近くに居る奴らが賛同の声を上げる。ああ、これは。そう思った。そして

  予想に違わず、その後の多数決で惜しくも放置出し物の案を抜き去って、演劇が出し物として決まってしまった。

  出し物は一時間に一回。2チームの交代制。聞いているだけで頭が痛くなってくる。

  そして何をとち狂ったのか、演目は悲恋物のあれに決まった。いや、鉄板なのはわかる。だがここは男子校だ。何故それにしてしまったのか。

  その瞬間から俺は全能力を使って空気になろうと試みた。普段はモブの中のモブで生きている俺にとっては、造作もない。そうだ俺、やるんだ俺。普段の勉学や

  スポーツの時の全力ですら超える、本当の全力でもって空気に徹し、そして町人Aか何か、もしくは小道具係辺りの演劇とはいえ出演しない側に回るんだ。

  「ソラは何にする?」

  そしてそんな俺の特別なスキルですら、あっさりとテンマは打ち破ってしまうのだった。

  とんとん拍子で役が決まってしまう。どういう訳か俺は主役の男役になった。そしてもっと謎なのは、それがテンマではない事であったその上で、テンマは主役の

  女役になった事である。決まった瞬間クラス中が爆笑の渦に包まれたのは言うまでもない。男子の中でも頭一つでかい、スポーツ万能であるが故に体格もがっちりと

  したテンマが、ドレスを着るんだから、これはもう悲劇と悲恋のイメージがつく元ネタを木っ端みじんにする計画なのだろう。

  「ちょっと恥ずかしいな……」

  ただ、テンマもまさか自分がそこに収まるとは思っていなかったのか、さすがに照れ臭そうにしていた。

  端役、衣装係、小道具係、ナレーション、そして俺達とは違うもう一つのチーム。その他諸々があっという間に決まってゆく。特に今回は男子校のそれであるので、

  気の利いた裁縫のできる女子の存在が大分欠けているのでそちらに割く人員は少し多めになっていた。そして気づけばすべてが決まって、放課後になる。俺は茫然と

  した気持ちでとぼとぼと歩いていた。やりたくない。言いたかったが、決まってしまった以上はどうしようもない。もう当日体調不良で欠席してしまおうかとも

  思ったが、それは後が怖かった。

  「ソラ」

  案の定、校門を出たところでテンマに見つかる。というかテンマは校門で他の生徒と文化祭についてあれやこれやと話しながら、俺を待ってたんだろう。俺の姿を

  認めると、周りにいた奴らに別れを告げてそのまま俺と帰路に着く。

  「……なんで演劇なんかやるって言ったんだよ」

  テンマと二人きりになってから、俺は覚えずそう口にしてしまう。テンマはちょっと驚いた顔をしてから、少し困った様になって。

  「えぇっと……なんていうか。文化祭らしいから。って言ったら……怒る?」

  「俺は時間無いんだけど」

  お前と違って出来が悪いから。とはさすがに口にせずに、テンマへと恨めし気に視線を送る。

  「ソラが時間無いのって、勉強してるんだよね?」

  「うん」

  「じゃあ、俺と勉強しようっ!」

  「はぁ?」

  とびっきりのメンチを切ってみるが、テンマはそれ程気にした様子も見せない。むしろ妙案を閃いたとばかりに瞳を輝かせていた。

  「一人でするより、二人でやった方がなんでも楽にできるって」

  「それは……」

  人によるのでは、と思った。でも、俺がテンマの傍で勉強をしてわからないところをすぐに教えてもらえると考えると、これは悪い話ではなかった。

  名選手が必ずしも名監督になる訳ではない、とは言ったものだが、テンマは教わるのも教えるのも上手い奴だった。

  あえて言うのなら、プライドの問題だった。そう考えて、俺は暗い笑みを思わず浮かべてしまう。プライドだけは一人前。

  そういう惨めさが、一番嫌だった。

  「ど、どうかな?」

  そんな俺の考えを知る由もないテンマは、なんとか俺を説得できないかとわたわたと身振り手振りで俺のご機嫌を伺うようにする。一体全体、なんでそんなことを

  するんだろうと思ってしまう。

  運動も勉強もできて、性格も良くて、ルックスも良い。何もかもが揃ったテンマが声をかければ、大抵の奴は喜んで相手をしてくれる。下心の有無でそれが

  決まる訳ですらなかった。それがなくても、テンマみたいな存在に純粋な好意を抱く奴なんて、きっと沢山いる。

  俺はその沢山の内には入れそうにないが。

  「……成績落ちたらお前のせいだからな」

  「が、頑張る」

  しばし考えてから、開き直って俺がその言葉を口にすると、テンマは尻尾を振って喜んでいた。犬か。

  ライバルであり天敵でもある相手に教えを乞うだなんて、と俺とて思わない訳ではなかった。でも、俺の最終的な目標は別にテンマ打倒という訳ではないだろうと

  改めて自分に言い聞かせれば、意外と腑に落ちる様な形で俺はテンマの提案を受け入れる事ができた。

  母さんに、立派だと思ってもらえる事。いつかは俺を育ててくれた母さんに楽をさせてあげる事。

  それが達成できるかどうかが大事なのであって、テンマがどうこうなんていうのはよく考えたらそんなに気にしても仕方がない事だった。

  それに、もう演目も配役も決まってしまったのだ。今更俺がやっぱり嫌ですなんて言って、残りの三年生になるまでの期間を気まずい空気で過ごしたくなかった。

  「ふぅん。それで、ソラは主役をやる事になったんだ」

  「……うん」

  夜。今日は早く帰ってきた母さんと夕食を取りながら、俺は文化祭についての話をする。正直話題にしたくなかったけれど、去年の今頃も文化祭についての話を

  したから、あんまりにも何も言わないのも母さんに心配をかけるかと思ったのだった。

  「でも、勉強もちゃんとやるから」

  「おカタいねぇ、ソラは」

  そう言って、母さんはころころと笑う。季節もあってか薄着の下着に近いような姿をしている母さんの姿は、息子の俺が言うのもなんだけど、綺麗だった。

  同級生の母親と比べると、あまりにも違う。それは俺の贔屓目ばかりではなく、母さんを見た誰かが毎回口にするお約束の様な物だった。いつだって母さんは、

  そうやって綺麗で居る。それは当たり前なのかも知れなかった。仕事をするのだから、その仕事に必要な物を磨く。母さんにとってはそれが容姿であったり、

  話術であったり、時には甘えたりする仕草なんだろう。

  「だって」

  「テンマ君はもっとすごいから?」

  「……うん」

  「まあ、確かにあの子はすごいわよねぇ。話を聞いてるだけでも、こんな子も居るんだなって、あたしも思うわ」

  テンマの存在を、母さんは知っていた。そもそも叔父さんすら知っているのだから、叔父さんよりも俺に近しい存在である母さんが知らないなんてことはなかった。

  だけど母さんの口から、テンマに対する褒め言葉が出てくると、胸がチクりと痛む。その言葉こそが欲しかった俺だから。でも、今の俺は小さい頃の様に、何かで

  一位になった訳でもなく。次第に昔の様に褒められる事も少なくなっていった。

  「……そういう所、お父さんに似てるねぇソラは」

  「え? 父さん?」

  突然父さんについて、母さんが言及するものだから、俺は我に返る。母さんが父さんについて語るなんて、滅多になかった。

  「ソラがそうやっていろんな事に対して頑張っているのを見ているとね。つい思い出しちゃって」

  そう言って、母さんがにやにやと笑う。父さんって、そんな人だったのかな。俺はもっと小さな頃で、父さんに対する記憶も思い出もそんなにないから、わからない

  けれど。どっちかっていうと、父さんは少しやせ型で、おとなしい感じがしてたけれど。実際はもっとアクティブな人だったのだろうか。どっちかっていうと、

  それは叔父さんに近い気もするけれど。似た物同士だったのかな。

  「でも、程々にね。ソラ。そうやって頑張って、頑張りすぎて結局は潰れちゃうものよ」

  それは、父さんがそうだったからなのか。

  口にしようとして、俺は小さく頷くに留めた。普段の母さんは、俺が父さんの話題を少しでも口にすると嫌がるから。こんな風に口にする母さんが珍しかった

  けれど、機嫌を損ねたくなかったから。

  文化祭までの日々は、めまぐるしく過ぎてゆく。

  普段だって勉強に、できそうならスポーツに。てんてこまいだ。それなのに演劇の練習なんて物まで含まれて、加えて勉強が遅れそうな時はテンマの助けも得て。

  「ソラ。あがってー」

  「お邪魔します」

  「あら、ソラくん。いらっしゃいね」

  「いつもすみません。お邪魔してしまって」

  「いいのよ。テンマが友達を連れてくるのって、あんまりないから」

  えっ。それは正直意外なんだが。そんな気持ちで俺がテンマを見つめると、そっぽを向いた虎が恥ずかしそうに耳と尻尾を垂らしていた。

  そんな訳で、勉強に関してテンマの助力を乞う時は、放課後に学校に残るか、テンマの家に寄るかのどちらかだった。毎回は悪いから、そういう時は学校で、

  そんな感じ。俺の家は狭いから、残念ながらその候補地には挙がらなかった。というのは建前だ。母さんに、テンマを見せたくなかった。目の前で母さんがテンマを

  褒める所を、見たくなかった。

  「おまたせ」

  お盆に冷たいラムネが入ったグラスを二つ乗せたテンマが、足で行儀悪く部屋の扉を閉める。俺はそれを見て頷いていた。

  テンマの部屋は、というか家は、中々の大きさだった。中流以上の家庭ってこんな感じなんだろうな。そう考えると、テンマは中々のお坊ちゃんなのかも知れない。

  そういう所でも俺は差を感じてしまう。安アパートに母さんと二人きりの俺とは。

  いや、何を考えているんだ俺は。例えお金がなくたって、母さんが身一つでシングルマザーとして俺を助けてくれているのに。そんな母さんの努力も何もかもを

  否定する様な事、考えちゃいけないのに。

  「今日は何から勉強しよっかー」

  ああ、でも。目の前に居るテンマを見ていると、覚えずそうしてしまうのだった。勉強もスポーツもできては性格も良く。家もそれなりに裕福で、裕福なのに

  バイトをする真面目さもあって。

  それに、俺が帰る頃になるとこの家に戻ってくるテンマの父親が居て。親子三人で幸せそのものを描いたかの様なその姿があって。

  ……。またやってしまった。母さんが居て、嬉しいなって思っているのに。そう考えてしまう。世の中にはもっと辛い人だって沢山居るのに。

  黙々と勉強の時間が過ぎてゆく。夏休みを終えたとはいえ、いまだ少し暑さは残る。エアコンがどうしても必要という程ではなかったけれど、出しっぱなしの

  扇風機は依然として現役のままで、相手を求める向日葵の様に首を振っては風を届ける。カラン、とグラスの中の氷が動いて音を立て、掻いた汗は下へ下へと

  伝ってはコースターへと消えてゆく。そんな中で小さく、ひそめる様に聞こえる息遣いと、紙をめくる音。

  ここは、なんだか不思議な空間だった。別にやっている事はいつも家で一人でしている事と変わらないはずなのに。

  「わからないところあった?」

  「あ……えっと、ここ」

  「これはねー」

  時折テンマが、俺が詰まっているのに気づくとすぐに教えてくれる。そんなことをしているテンマが読んでいるのは、どう見ても半年から一年以上は先に学習する

  内容が書かれた物だった。同じものに取り掛かっていても、俺が前半に手をつけている間テンマは後半をぱらぱらと捲って読んでいる。

  「……なあ、テンマ。お前の勉強の邪魔になってるんじゃ?」

  「え? そんな事ないよ。俺も息抜きになるから。なんかさ、一人で勉強してると、根詰めすぎるっていうか。でもそこで息抜きすると息抜きすぎるからさ、あんまり

  好きじゃないんだよね。それだからってやらない訳にもいかないしさ」

  その気持ちは正直わかる。学ぶことに終わりがないから、適度な息抜きが必要なのに、その息抜きの適切な取り方がまだよくわかっていないというか。やらなさ

  過ぎてから回ったり、やりすぎて結局あんまり進まなかったり。遊ぶにせよ、消耗して翌日辛かったりしてしまうというか。

  「ソラもそうなんだ。まあ、ソラはいっつも勉強頑張ってるしな」

  「……別に。結果に繋がってないし」

  「そんな事ないよ。そんな事」

  それをテンマから言われるのは、正直辛いのだが。俺はまだよかった。テンマがその都度適切な言葉で個別指導してくれるから、下手したら学校の授業よりわかり

  やすい。でもテンマは結局のところ独学になってしまっている。逆のことができないというのは、歯痒かった。

  「そんなに気にしなくてもいいんじゃない? それに、俺だってソラに、演劇ではお世話になってるし」

  「あれは…………お前があんなに大根だったなんて」

  「し、仕方ないじゃん。演技なんて、やったことないんだよ?」

  「じゃあなんで演劇なんて言ったんだよ」

  「文化祭って言ったら、それかなって」

  安直。ていうか前にも聞いた。

  「お前にも苦手なものがあったんだなぁ……」

  「何それ」

  それくらいなんでもできるじゃんか、とまではさすがに言わないでおく。それにしても、演劇がやりたいと口にしたテンマの大根役者ぶりは凄まじかった。まず

  棒読み。悲しいくらいに棒読み。ヒロイン役だからドレス、はまだ間に合っていないのでそれらしい大きいサイズの女物の服を着て、靴はもう用意できないから

  シューズを履いて、そんな状態で裏声に届きそうで届かない声音のまま棒読みをして、図体のデカい逞しいテンマがはかなげな女の子を演じるというのだから、

  笑うなっていう程が無茶だった。一度テンマが演技に入れば、巻き起こる爆笑の渦。俺はすんと心を凍てつかせて、それに愛を囁く男役をしている。俺だって

  努力してるし、少なくとも演技力はそれなりらしい。が、それが仇となる。こんな奇妙奇天烈ヒロイン状態のテンマに、笑うのを堪えて真顔で接する俺の姿は、

  シュールにシュールを重ねた天丼の様な状態となって笑いの渦を発生させている。テンマがなよっとした棒演技をする度、それに俺が気遣う演技をする度、周囲から

  噴き出す音と声が聞こえるのは中々に拷問だった。幸い笑われているのは基本的にはテンマなのだが。でも、皆に悪気がある訳ではない。そもそも演劇を言い出した

  のはテンマなのだから。

  「棒読みって、どうやったら直るかな?」

  切ない程のストレートな言葉で悩みを言ってくるテンマ。大変申し訳ないのだが、俺は確かにテンマよりはマシではあるけれど、今テンマがしてくれている様に

  懇切丁寧に教えるなんて事はできそうにないので、コツコツやっていこうと告げる。

  「……あれ?」

  そんなある日。俺はいつもの様に校門でテンマと待ち合わせをしていた。一応電話番号は交換しているし、アプリで連絡も取れる様にしているけれど、正直

  テンマならそこまでそれが必要な訳ではなかった。テンマと会うのは基本的には放課後だったし、テンマもまた俺と同じように帰宅部だった。何かしら運動部に

  入るのかと思っていたけれど、そうでもないらしい。もっとも夏休みの引っ張りだこ具合を考えると、それくらいが丁度いいのかも知れないが。

  そんな訳で校門へと俺はやってくる訳だけど、いつもならそこで他の生徒とくっちゃべっては俺が来るのを待っているテンマの姿が無かった。思わずスマホを

  開いて連絡が来ていないか確認するけれど、何も無し。何か急な用事が入ったのかも知れなかった。そこまでしてから、俺は苦笑をこぼす。つい数か月前までは

  ライバルだ、天敵だと定めていたテンマと、いつの間にかこうして頻々に接したり、あろうことか俺の方から捜しているだなんて。とはいえ実際、最初から

  わかっていたとはいえ、テンマはきちんと向き合えばやっぱりいい奴だった。そして勉強も教え上手だった。あれから演劇の事もあって、勉強する時間は確実に

  減ったはずなのに、テンマの個人レッスンのおかげで成績は落ちるどころかむしろ良くなっている。俺みたいな本当に頭の良い存在じゃない奴でもそうなのだから、

  確かに地頭ってのを持ってる奴が塾にまで通う昨今を考えれば、俺みたいな奴がどんどんと距離を空けられるのは仕方がないのかも知れなかった。

  そしてそんな俺みたいな奴でさえ、テンマは押し上げてしまう。お手上げだ。

  それに最近、なんだ。その。楽しい。テンマの演劇の腕を上げるために、時々人の居ない川辺辺りで台詞の練習をしたり、感情をこめたり発音を良くしたり喉を

  鍛えるためにカラオケにも行くようになった。歌をある程度歌って、途中の息抜きがてらに台詞の練習を感情をこめながら口にしたり。最初は歌うのも台詞を口に

  するのも、恥ずかしくてお互いにぼそぼそとなりがちだったのに、次第に少しずつ前へと進んでいって、その成長が楽しかった。新しい事に挑戦すると、

  最初は未熟だけどそれが明確に上達してゆく様を感じ取れるのは楽しかったし、なんでも上手くこなせると思っていたテンマもそういう事はさすがに未熟でも

  あったから、安心感もあった。もっとも歌う事に関しては元々肺活量という意味では体格と運動をする関係で図抜けていたテンマだから、その上達も中々に

  早かったけれど。軽く歌う程度で良いなら俺も条件は同じだから、切磋琢磨する感じが良かった。幼い頃に見ていたアニメや、テレビから流れていた歌を披露しては

  あれが好きだった、これは懐かしかった。知らないけれどいい歌だ。そんな事を話すのも。

  人と繋がってゆくというのは、不思議な感覚と悦びを俺に教えてくれる。別に、極端に人見知りの激しいぼっちって訳ではなかったけれど、成績を取るために割く

  時間が大きいが故に、俺には近しい人物というのが欠けていた。運動部の助っ人として呼ばれる事もあったけれど、高校に入ってからはテンマが捕まらない時、

  捕まっても尚人数が足りない時くらいだったし、終われば勉強に戻りたいからとすぐにその場を去ってしまう。そういう意味で、放課後にあちこちに足を運んだり、

  或いは相手の家に行って勉強会をしたりとか、そんなことの一つ一つが俺には新鮮だったのだ。自分の家に呼べないのは、残念だけど。狭いアパートだから、騒ぐ

  事もできないし。どうしても気を使ってしまう。

  ぼんやりとそんな事を考えながらしばらくテンマを待ってみたけれど、特にやってくる気配は無い。スマホも同じ。

  「あれー。ソラ、テンマはー?」

  その内、いつもはテンマと先に話していて、俺がくるとじゃあまた明日と別れる奴らがやってきてはテンマの姿が見えず、代わりに俺が居る事に気づいて声を

  かけてくる。

  「や、知らない」

  「いつも一緒じゃん?」

  心外だ。

  ……とは言ってはいけないのかも知れない。実際最近はかなり一緒に居るので。

  「テンマならさっき、裏口の方で見たけどー? そっちから帰ったんじゃね?」

  そこで、また別の奴が話に割り込んできて教えてくれる。それで、今日もテンマと話そうとしていた奴らはさっさと帰っていった。俺もそれに続こうとして、

  踵を返して校舎裏へと向かう。なんとなく、変な予感がして。そもそも俺を待つ事が多くても、テンマが俺を待たせる事はかなり少ないし、そういう事があった時は

  大抵スマホにメッセージが入っている。普段のやり取りがそれくらいなものだから、履歴がそれで埋まっているくらいだ。だから不測の事態って奴が発生したん

  だろう。俺の杞憂なら、それはそれでよかった。先に帰ったのなら、そのまま俺も帰るだけだし。

  ぶらぶらと歩きながら、俺は校舎裏へと向かう。こっちの方はあんまり人気が無い。一応こちら側から帰ることもできるけれど。正面から出た方が基本的には

  早いし。

  「……テンマ先輩の事が、好きなんです、俺!」

  なんて思いながらテンマを捜していると、素っ頓狂な声でそんな叫びが聞こえてくるもんだから、俺は噴き出しそうになった。どうにか堪えて、それから音のした

  方から死角になる様に建物の陰に咄嗟に隠れる。いや、なんで隠れた。でもこんな一世一代みたいな告白の台詞を叫んでるところ、他の誰かには聞かれたくないよな

  とは思うので間違ってはいないかもしれない。

  そっと物陰から一瞬だけ除くと、そこに捜していたテンマが居た。それから、知らない生徒が一人。テンマを先輩っていうからには、多分一年なんだろうと思う。

  普段クラスや校門の所でテンマが話している時には見ない奴だから、テンマが運動部のヘルプでやってきたのを見ていた奴なんだろうか。

  そこまで確認すると、俺は見つからない様に再び物陰に隠れて。どうしよう。盗み聞きするのは悪いんだけど、でも少し気になる。

  それにしても男同士でかぁ、なんて思う。男子校だから、そういう事も多々ある。女子校でもそういうのあるって聞いた事ある。というか女子の方が凄いって話も

  あるらしい。バレンタインとか。確かに男子校ではそこまで盛り上がらないだろうイベントだ。往々にして、同性しか居ない環境ではそんな風に、友情から発展

  した恋心。もしくはそれと勘違いしたものっていうのがあるらしい。卒業したら大抵そこで終わるらしいけれど。

  「……ごめん。俺の事、好きだって言ってくれるのは嬉しいけれど」

  テンマはどうなんだろう。今テンマに告白してる奴はどうなんだろう。そんな風にぼんやりと考えていると、不意にテンマの返答が耳に飛び込んできて、俺は

  息を呑む。なんだろう。胸がちくりと痛んで、その痛みがどうして起こるのかがわからなかった。もしかしたら俺にもそんな気持ちがあるのかも知れないと思った

  けれど、だったらテンマが断っている今はむしろほっとしてしかるべきなのに。そこまで考えて、いつもは皆の声に応えて優しく振る舞うテンマが、拒否の言葉を

  口にしているのに俺自身が驚いているという事に遅れて気づく。

  テンマも、あんな風に断るんだ。

  いや、優しい断り方ではあるけれど。

  少しすると、足音が聞こえて。その生徒は行ってしまった。ここが通り抜けられる通路で良かったと思う。俺の方に来られたら、見られてた。足音が去ってから、

  テンマの溜め息が聞こえる。さて、どうしよう。俺はここからさっさと逃げるべきなのか。

  「もう出てきていいよ。ソラ」

  バレてました。さっき一瞬覗いた時に。俺は身体を震わせてから気まずい顔をして飛び出す。

  「ごめん。聞くつもりじゃなかったんだけど」

  「ん。いいよ。俺も連絡入れてなかったし……捜しにきてくれたんだよね」

  「まあ、そうだけど。……あれで良かったの?」

  口にしてから、俺は余計なお世話だなと遅れて気づく。テンマは俺の言葉に、なんとも言えない表情をしていた。いつも朗らかな、プラスの表情ばかりが多い

  テンマがそういう顔をすると、別人の様に見える。大柄で、スポーツ万能で、でもおっとりしつつも皆に優しい。それと打って変わった怖さを覚える。

  「ごめん。ちょっと軽率だった。それに、男同士だもんな。女の子ならまだしも」

  最近は結構、そういうのに肯定的な風潮って奴ができてるけれど。だからといって男同士、女同士がそこまで公然と認められているかというとまた別の話だった。

  「もう行こっか」

  「うん」

  「……ソラ」

  俺が背を向けた頃に、テンマが俺を呼ぶ。前に出した足を地面に着けて、俺は振り返る。

  「ソラは……男同士って、どう思う?」

  「……どうって?」

  テンマの狙いを計りかねて、俺は眉をひそめてそう返す。そうすると、テンマは少し俯いていた。

  「ソラは、男と女、どっちが好きなのかなぁって」

  「えー……」

  いつの間にか、俺が気にしていた事をテンマから訊かれていて、俺は少し戸惑う。そう言われてから改めて自分に当てはめようとすると、なんだかしっくりこない。

  もう高校生なんだから、恋の一つや二つしていても不思議じゃないのかも知れないけれど。それは俺以外の話であって、俺が俺に対して期待したりするものでは

  ないなと思う。どうしてそうなのだろうと、そこまで考えて。今は自分の事に精一杯だから。そんな言葉が、しっくりときた。母さんに期待される様に。母さんの

  期待に応えられる様に。成績を良くして、いつかは生活をよくできる様に。俺にとっての日常はそれと、その中でぶつかるテンマや学校の連中の事で一杯だった。

  「……よく、わからない。恋なんてしてる暇、ないからかな」

  「そっか」

  「お前みたいにモテないしな」

  「なんだよ、それ」

  事実だろ、と俺は笑う。別に告白する瞬間に立ち会ったのが初めてというだけであって。テンマは以前からこの学校の、要は同性からの人気が高かったし、単純に

  友達や知り合いの立場でテンマを好きな奴も居れば、それだけじゃなくて恋心を抱く対象としてテンマを好きな奴が何人も居る事だって知っている。そりゃ、これだけ

  優しくて勉強もスポーツもできてルックスも申し分無い存在なんだから、そんなの老若男女問わず、テンマの持つ物が嗜好な奴らだったら放っとくはずもなかった。

  俺が歩き出すと、次第にテンマもやってくる。いつもの様に、二人の帰り道がようやく始まる。

  だけど、テンマは少しだけ気もそぞろというか。いつもなら、もっと積極的に話をしはじめるはずなのに、俺の事をじっと見つめている事が多かった。

  いつもの様でいつもの様ではないその光景は、テンマの家について、テンマの母親に挨拶を告げるまで続いて。

  そしてテンマの部屋で勉強を始める頃には、テンマは元に戻っていたのだった。

  黄色い声と、笑い声が教室内に響き渡る。

  「君の事を、愛しているんだ。――」

  俺は首元がキツくなった服に圧迫感を覚えながらも、どうにか台詞を言い終える。例の、演劇の鉄板物の最後だった。とはいえ時間も限られれば用意できる資材も

  セットも限られているので、最後までなんて到底上映できるはずもなく。ハッピーエンドで物語は終わる。そもそも台詞も割と適当だ。あらすじを途中まで聞いて、

  あとは馬鹿なDKが考えましたみたいなノリを前面に押し出している。

  だってそうだろ。

  「お……俺も。――。愛しているよ」

  こんな台詞ヒロインが吐く訳ないし。

  テンマがその台詞を口にした瞬間、観客から再び笑いと黄色い声がそれぞれに上がった。テンマはラストの台詞ばかりは頑張って練習していたので、その成果も

  ある。

  このラストシーンに到達するまでは、割とおざなりなテンマの演技は人々の笑いを誘った。フリフリなドレスまで着ているゴツい虎男の大根演技なんていうのは

  もはやコメディの域だったけれど、最後の最後でちょっとくらいはいい所を見せようとして、そして締めに渋い声でこんな台詞を口にするものだから、もはやこの

  演劇はどこを目指しているのかわからなかった。ただ、それでも好評だった。そもそも演技云々は抜きにして、テンマがあんな恰好してる時点で大分面白いからだ。

  そして上映後はキャストが去り行く観客を見送る訳だけど、そんな所にもこのゴツいヒラヒラドレスのテンマが居る訳で。写真良いですかと訊かれたら、にこりと

  笑って頷いてくれる。ヒラヒラのドレスだからと、下手くそなカーテシーも決めてくれる。

  いいのかお前、人生の黒歴史量産してるぞ。

  ……なんていうのは寧ろ俺の方かも知れないが。テンマだったら、例え十年後にそんな写真が出てきたって、笑って受け止めていそうだし。

  俺は多分顔を掌で覆って足をバタバタさせながら悶絶してると思う。男役だからそんなに恥ずかしがる必要はないかも知れないが、愛している、なんて台詞を

  口にした事実の方を思い出して多分転がってると思う。

  「じゃ、休憩行ってくるから」

  「ああ。また後でな。……テンマ。頼むから普通の服に着替えてくれ」

  「え゛ッ!?」

  そんな会話をしてから、俺は着替えもせずに歩き出す。恥ずかしいけれど、宣伝も兼ねられるという奴だ。首からは少々大き目のカードを下げて、うちのクラス

  ではこんな事やってます。という主張をしておく。そしてテンマは強制的に着替えさせられた。いや、多分集客力は抜群だと思うんだが、うん。何事も分別が

  必要って奴だ。その上で俺は流石にそんなテンマと一緒に歩きたくなかった。ちっとも落ち着いて文化祭を練り歩けないだろうし、下手したら他所の話題を

  かっさらってしまうので恨まれかねない。

  「文化祭、結構人気なんだな」

  「去年もこんな感じだったよ?」

  「……そうだっけ」

  そういえば去年はバックれた気がする。展示するもので済ませて、図書室辺りで静かに勉強をして、帰りがけにいくつかのクラスの出し物から適当に選んで

  良かったものとして紙に書いて提出して、そんな感じ。

  「満喫しような、ソラ!」

  今年はその手は使えなさそうだった。そもそも交代制で上映してるから、そんなに長時間クラスを空けられる訳ですらない。

  それでも近場のクラスから攻めていって、結構な出し物を回る事ができた。といっても高校生の財力と発想と能力からくるものだし、期間も限られているから

  そこまで力が入ったものは多くなかった。一部異様に力が入ったものもない訳ではなかったけれど。まるで屋台の出店の様に、糸に針をつけたもので魚に見立てた

  紙を釣ったりするような、もう数か月くらい旬過ぎてますよ、なんてものもある。夏祭りには勉強で行かなかったので、丁度良かった。

  「俺、これこの間やったよー」

  テンマは当然ながら夏祭りに友達と行っていたらしい。慣れた手つきで釣り上げて、一つだけ景品をもらうと残りはクラスに返却する。さすがにこういう物を

  同じ学校の奴が根こそぎ奪ってゆくという訳にはいかなかった。

  「はい。お面」

  「景品まで夏祭りか」

  「頑張って作ったんだってさー」

  知ってる。既製品の白いプラスチックのお面を買ってきて、それぞれの生徒が思い思いに模様や絵をお面に描いた奴だ。テンマが貰ってきたのは、夏らしい

  向日葵の絵がいくつも描かれたお面だった。お面と言っていいのかこれは。顔に近づけてみると、油性ペンの匂いが鼻腔を衝く。間近で見る事で、細かな塗り残しが

  見えて、如何にもそれは素人が作ったも同然なお面だという事が伝わってくる。俺はそれを、紐を首に通して後頭部につける。一応マズルのある俺でもつけられる

  様な、顔の上半分を少し覆うだけの奴だったけれど、この演劇のおぼっちゃま衣装にひまわりお面なんていう組み合わせで堂々と歩く勇気は俺には無かった。

  「ん」

  その内俺は射的コーナーを見つけて、適当に打って手に入れた景品をテンマに返す。こちらは白い内輪にこれまた生徒が描いた絵が乗せられている奴だ。油性ペン

  で描くしかなかったのか、雑な配色で大空と太陽が描かれている。別に駄洒落をしたかった訳ではなく、これしか当たらなかった。テンマはそれを嬉しそうに

  受け取って、早速俺を仰いでくれる。なんか違う気がする。そしてまた油性ペンの匂いがする。

  「あっ……」

  程々に文化祭を満喫していて、一年の方へ俺が行こうとするとテンマが思わずといった様子で声を上げる。なんだよ、と言いそうになって。この間後輩からテンマが

  告白を受けていた事を思い出す。確かにバッティングする可能性はある。三年の方に遊びに行っているのなら別だけど。

  「行くの、やめる?」

  「……ううん。行こう」

  俺は別に、どっちでもよかった。残り時間もそんなに残っていないし、また次の休みの時間に行くかどうか悩むのが本番だったし。ただ、戻るにせよ一年の廊下を

  通った方が目新しい物もあるから、そういう意味では今のうちに目星をつけるのも悪くはないかなって。立ちすくむ俺の腕を、テンマが掴んでのしのしと階段を

  下りる。その先に居た一年が、瞬間的に一斉にテンマを見つめる。既に一年にもテンマはそれなりに認知されている人気者なので、そういう風にもなるんだろう。

  「時間ないから、歩くだけだけど。行こ」

  テンマは俺に背を向けたままどんどんと歩き続ける。手、少し痛いんだけど。

  とはいえ、例の後輩の存在とやらを気にする必要はそこまでなかった様だった。生徒の保護者や、その血縁や、文化祭が気になる近所の人や。それなりの人数で

  ごった返しては、その対応にそれそれの生徒は追われている訳で。仮にこんな状態でばったり出会ったとしても、大した物事には発展しない。そもそも俺達も残り

  時間が少ないから急いでいるし。

  加えて俺は、あの時の一年の姿をちょっと見たくらいだから正直誰かわからない。

  テンマは何も言わずに、ずんずんと廊下を進んでゆく。俺はもう何かを言うのも諦めて、一年の出し物を横目で見ていた。後で見に来てもいいかも知れないけれど、

  後で来てもテンマは嫌がるかも知れない。……いや、何考えてるんだか。だったら一人でくればいい訳だ。

  結局、テンマはその後輩を見つける事ができたのだろうか。それすらわからぬまま、あっという間に廊下を抜けると、階段を上がってから俺達は二年の方へと

  戻っていた。

  「テンマ」

  階段を上がっても、テンマはこちらを見ないで。

  「手、痛い」

  「えっ。あ……ごめん」

  俺が軽く腕を引くと、テンマは驚いた顔をして、それから慌てて放してくれる。

  「ごめん。俺」

  「そんなに気になるの。この間の奴のこと」

  「そんなんじゃない」

  振ったけどちょっと気になるのかな、と訊ねてみると、テンマの即答が返ってくる。

  「俺が言うのもなんだけど、テンマ。お前、告白なんていつもの事なんじゃないの」

  「……うん」

  うんって言っちゃったよこいつ。いや、わかってるけどさ。こんな何もかも揃ってる様な奴、周りがほっとく訳ないって。なのに、テンマがこんな風にあからさまに

  態度に出してしまうのは、これが初めてだった。今までは俺の知らないところでそんな告白やら何やらがいくつもあったはずだけど、こんな風になるテンマを

  見るのは。

  「なのに今回はやけに引っかかってるな」

  「違うよ……その……」

  言葉を濁したテンマが、また俺を見つめてくる。何が違うのかはわからないが、今回は違うらしい。

  「まあ、いいや。もう時間ないから、帰るぞ」

  「あ、うん」

  解放された手を撫でようとして、俺はそれを我慢する。なんだか追い打ちをかけてしまう様な気がしたのだった。

  そのままクラスに戻るまで、テンマはおかしなままで。けれどただいまと告げて次の演劇の時間が来る頃には、もう元に戻っていた。

  いつもの、明るいテンマの姿。今だけはそれが、上辺だけの物なのだと痛感する。

  そんな事があるものかと、演劇は俺の方が集中できずに、台詞をよく噛んだ。

  文化祭は、大盛況のまま幕を閉じた。

  クラス投票で一位を取る、なんてミラクルは流石に起こらなかったけれど。いや俺としては起こらなくて良かったけれど。テンマの女装が話題を呼びそれなりに

  票を集めては、それを青春の1ページとして思い出の冊子にしまい込みたい奴にとっては概ね良い結果だと言えただろう。

  俺には関係ないけど。

  テンマにも良い思い出となった様だった。今でも時折、テンマに演劇のあれをやって、みたいなリクエストが飛んできては、持ちネタの様に披露する姿も見かける。

  文化祭を終えてから、俺とテンマの関係は概ね元に戻った。勉強会もカラオケでの練習も、少ない時間で各々に向き合うためのものだったし、文化祭という言い訳が

  消え去れば俺からテンマに話しかける回数は減った上に、テンマの方は特に、また運動部のヘルプに呼ばれる事も多くなった。

  ほんの数週間前までは、あんなに毎日一緒だったのに。なんていう感傷を抱く事もなかった。校門での待ち合わせもなく、ただ俺が帰る時間に、テンマが空いて

  いて、その上でテンマが俺を見つけられた時に帰り道を行くだけの。それはもっと前の、いつも通りの光景だった。

  それも別に、嫌ではなかった。それに、何もかもが元に戻った様で、元に戻らなかった物もある。テンマに教えられた勉強なんかは、特にそうだった。ただ

  教えるのではなく、考え方を根本から変える様にとテンマは熱心に教えてくれた。そのおかけでテンマのサポートがなくなっても、以前よりも成績は良くなっていた。

  やっぱり、頭の出来かいい奴は違うんだな。そう思っては自分に溜め息を吐くことは変わらなかったけれど、以前よりもテンマに対する敵愾心の様な物は大分

  和らいだと思う。演劇に関しては俺がテンマを助けられたからというのも大きかったのかも知れない。そんな助けが本当にテンマに必要だったのかはさておき、

  実際に同じ時間を過ごしてはテンマにアドバイスをして、その演技が改善されて本番では評価されたという事実があるだけで、俺には違っている様に思えた。

  何もかも敵わない。見上げるだけの相手にほんの少しだけでも自分から教えるものがあった。そんなささやかな実績が俺には嬉しかった。

  だけどそれ以外は、やっぱり元に戻って。

  ……。

  そんな中で、一番大切な事が変わってしまって。俺は今途方に暮れている。

  母さんが、出ていった。

  いつもの様に家に帰って、今日も母さんは出かけているなと思った俺は、テーブルの上に置いてあった手紙と、いくらかの現金の存在に気づいた。

  最初は数日留守にするのかと思ってそんな風にされているのかと思った俺は、手紙を手に取り中身を読み進むにつれて、手の震えが、いや、身体の震えが止まら

  なくなった。

  "愛する人ができたので、母さんは出ていきます。ごめんなさい。"

  最初に目に飛び込んできたその一文だけで、それは俺の心を滅茶苦茶にするのに充分な破壊力を持っていた。

  その内容が信じられなくて、思わずスマホを取り出して母さんへ電話を掛ける。繋がらなかった。電源を落としているんだと思う。

  「どうして……?」

  途方に暮れた俺が零した言葉はそれだけだった。気づかぬ内に繋がらぬ旨を繰り返すスマホを落とした。視界が滲んで、座り込んで。

  気づいた時、俺は自分の布団の上で寝そべっていた。夜中、みたい。途中、何をどうしたのかの記憶が無い。ただ、手元にはスマホ、ではなく。母さんの残した

  手紙が握りしめられていた。明かりをつけたまま、混乱して許容量を超えた俺は気絶する様に眠っていたみたいだ。

  また手紙を見つめる。内容は、変わらない。ちょっとでかけてきます。美味しい物を食べて待っててね。

  そんな言葉だったら良かった。そんな言葉じゃなかった。いくら読み返しても、自分が見捨てられたという事実だけを俺に刻み付ける。

  そうして横になったまま、俺は朝になるまでそうして、その日は何もせずに学校も休んだ。連絡をする気もなかった。途中、トイレにだけは起き上がって、だけど

  それ以上は何もする気が湧かなかった。

  次の日も同じようにした。遠くで床に落としたままのスマホが鳴っていた。取らなかった。

  そして、次の日。起き上がって、ふらつく身体を引きずって俺はスマホを手に取った。

  「もしもし。叔父さん? ……母さんが、出ていった」

  電話の向こうの叔父さんは、俺が最初、何を言っているのか理解できなかった様だった。

  「ソラくんっ! 大丈夫かい!?」

  数十分後、扉を叩きつける様に開いた音がして、目を見開いた叔父さんが横になったままの俺を抱き起こした。見る見るうちにその瞳に涙が浮かんで、叔父さんは

  強く俺を抱き締めてくれた。そのまま、自分の姉がした仕打ちを申し訳なく思っているのか、何度も謝りながら泣き続けていた。

  俺はただ、これで母さんの言いつけを守る事ができたと思った。

  "二日経ったら、誰かに電話してください。"

  多分母さんは、足がつかない様にしたかったのだろう。だから俺はそれを守った。二日は秘密にしてほしいという事だから、俺は家から出る事もせずに、ただ

  二日経つのを待って。それから、叔父さんか祖父母のどちらかしか連絡して良い相手がいなかったから、叔父さんに電話をしたのだった。

  瞬く間に景色が変わってゆく。二日間何も食べていなかったとはいえ、高校生の俺の身体を叔父さんは筋肉質な腕で抱き締めて、何度も背中や肩を叩きながら

  部屋から連れ出すと、自分の家へ。叔父さんと祖父母が暮らす家へと連れていってくれた。

  「まさかあの娘が、そんな……。普通の子じゃなかったけど……」

  迎えてくれた祖父母は叔父さんと同じ様に俺に接して、軽い食事の後に俺が横になっていると、そんな事を話す声が聞こえた。

  母さんの事を、悪く言わないでほしい。

  こんな時になっても、そんな事を考えてしまう俺は、きっと重症なんだろうと自分でも思う。だけど俺はそう考えていた。さすがに、口には出せなかったけれど。

  そんな元気も、今はない。

  祖父母から学校に連絡が行ったのか、叔父さんが一緒に持ってきてくれたスマホの通知は一時的に止んだ。ただ、それでも掛けてくる奴も居たけれど。

  母さんがいなくなってから、一週間が過ぎた。

  「もう大丈夫なの? もう少し、休んでいてもいいのよ」

  「大丈夫だよ。ありがとう」

  俺は心配する祖母に礼を言うと、いつもの様に学校へ向かう事にした。祖父母や叔父さんに迷惑を掛けたくなかった。今は、その一心だった。

  だけど、通学路を歩いている内に、一歩一歩と足を踏み出す内に、力が、気力が、抜けてゆくような気分だった。

  なんのために今身体を動かして、向かおうとしているのだろう?

  そんな気持ちが一度溢れると、止まらなくなった。

  母さんのためだ。親権を持った母さんは俺を引き取って、今まで。ほんの少し前まで。俺を女手一つで育ててくれた。そんな母さんの、力になりたい。助けに

  なりたい。俺は、そんなに出来の良い息子じゃないから。きっとお金持ちになって、母さんがしたい事を全部叶えるなんて事はできっこないけれど、それでも

  母さんが今まで苦労した分、辛かった分。俺ができる事を、できる限り母さんに返して。父さんが居なくても、ソラが居れば私は幸せだって、心から頷ける様にして。

  それから。えっと、なんだっけ。なんだったんだっけ? なんでこんな事、してたんだっけ?

  結局俺が何をしたって、こうなる結末なんか何一つ変わらなかったのに。

  そこまで考えが至ってしまうと、もう駄目だった。足が、動かない。どうしよう。俺はどうしたら良いのだろう。どうしたら、良かったのだろう。

  「ソラ!」

  声が聞こえた。きっと今、一番聞きたくない声。明るい声、ではなかった。俺を見つけたその相手が、そんな心中じゃない事くらい知っている。スマホの通知

  画面に、ずっと居た存在。会えたなら、きっとそんな風に声を掛けられるんだろうって想像していたその相手。

  テンマ。

  「ソラ。その……」

  「おはよう。テンマ」

  「あ、うん。……おはよう。…………大丈夫?」

  久しぶりにテンマを見た気がする。テンマの事だから、本当は俺の家にも来ていたのかも知れないけれど。母さんの言いつけを守っていた間は俺は外には

  出なかったし、その後は叔父さんの家に居たから会えなかったのだった。テンマはなんとも言えない表情で、俺を見つめていた。どう声を掛けたらいいのか

  わからない。けれど、俺が居たからつい声を掛けてしまった。そんな感じだった。

  「学校、行くの?」

  「遅れてた分、取り戻さないとな」

  「……そっか」

  そこから、テンマは何も言わずに歩き出す。俺もどうにかそれに合わせる様にして、重い足を前に出してどうにか学校へと辿り着く事ができた。

  けれど、その後の事はやっぱり上の空だった。学校の皆も、どこか余所余所しい。多分、母さんの事がなんとなくだけど伝わっているのだろう。良い意味でも、

  悪い意味でも、母さんはそういう人の噂に出やすい人だった。同じアパートの人なんかは特にそうだった。その上で、叔父さんが血相変えて乗り込んできては俺を

  抱きかかえて出てきたのを目撃した人も居たのだろうし、俺が休んでいる間に叔父さんが何度かアパートに出入りしていたから、それもあるのだろう。

  ただ、誰も本当には詳しい事を知っている訳ではなかった様だ。流石にその辺りの細かい話を祖父母は学校へは通さなかった。俺の体調不良、という事に

  してくれていた。とはいえそれでも一週間も具体的に症状も告げずに休ませたというのは、何かしらの異常があったのだと見られても仕方が無かった。そういう所から

  広がった噂が、火をつけられたそれの様に素早く回っては、同じクラスの奴らにも伝染していた。テンマも多分、それを聞いたのだろう。ただ、誰も俺に直接的に

  何があったのか、なんて訊きに来る事はなかった。優しさ、ではない。きっと今の俺の様子を見て、話しかけられないのだろう。どちらかと言えば鈍感なテンマで

  さえ、俺の傍に居て俺を気遣う事はしても、それ以上は踏み込んでこなかった。

  すべてが上の空で、時間が過ぎてゆく。勉強の遅れを取り戻すんじゃなかったのか。そう自分に問いかけても、頭が働かなかった。何かしようと思い立っては、

  なんのために? その言葉が浮かんで力が抜けてゆく。全部、母さんのためだったんだ。母さんの、幸せのためだったんだ。

  そういう意味では、今俺は母さんの幸せのため、その行動をとれている。母さんの邪魔をしない。母さんの思い描く幸せの絵の中に、俺が要らなくなったから、

  だから母さんの幸せを少しでも応援するために、母さんを捜しにもいかない。

  だけど、その後どうしたらいいのかがわからなかった。母さんの人生に、俺が必要無くなってしまったから。何もしない事をする。それ以外にどうしたらいいの

  かが、俺にはわからなくなってしまった。きっと前向きで、賢い人はすぐに切り替えられるんだと思う。今後は自分の、自分だけの人生を歩めばいいって。俺は

  賢くないから、そんな風に割り切る事もできずに、どうしたら良かったんだろう。どうしたって駄目だっただろう。じゃあこの後どうすればいいのだろう。

  その繰り返しをしながら、通知がようやく落ち着いたスマホを、ぼんやりと眺める事しかできなかった。本当に連絡をしてきてほしい相手が、それを鳴らすのを

  今でも待っていた。その相手こそがきっと鳴らさないのだと。だから俺を捨てていったのだと。理解していても、待っていた。鳴る事すら、もう期待していなかった。

  それでも、待っていたかった。

  母さん。

  口にしようとして、今どこにいるのかを思い出した。口にしてしまったら、そのまま涙が流れてしまいそうだった。逸らした視線、窓の向こうは青々とした、

  抜ける様な空が、どこまでも広がっている。夏を過ぎ、まもなく秋も過ぎては冬になる空は綺麗で。俺と同じ名前で、俺と違って爽やかなそれが、どこまでも

  悲しかった。俺にそぐわない名前。そんな名前とこの身体しか、もう母さんが残してくれた物もなかった。

  気づけば、チャイムが鳴っていた。帰る時間だった。荷物を纏めながら、苦笑する。結局、何も頭に入ってこなかった。先生も、俺の事情をなんとなく察して

  いるのか、何も言わなかった。本当は、何か言われたのかも知れないけれど。上の空である俺の耳には何も入ってこなかった。

  帰ってゆく生徒を見つめながら、俺も歩く。よく見れば、皆笑ってはいるけれど。俺が近くに来ると、俺に気づいたのかそっと道を空けてくれていた。気遣いの

  様な、それとも別の何かの様なそれが、胸に刺さる。皆が、俺が見捨てられた事を知っている様だった。

  一人で校舎裏へと俺は来ていた。正面から、出たくなかった。こんな俺を、皆はどんな気持ちで見つめているのだろう。不幸な奴だと、思っているだろうか。

  けれど、俺は自分が不幸だと、思いたくはなかった。こんな風になっても、俺の頭と心の中には、母さんとの記憶が色濃く残っていた。

  幸せだった。幸せ、だった。捨てられても、そう感じていた事も、そう感じて、幸せだと思っていた事実も、消えてくれなかった。何もかもが引っ繰り返って、

  憎たらしいと思えたのならいっそ幸せだった。思うのは、もっと俺がきちんとした息子だったから少しくらい何かが変わったのかという、至らなさへの自責と、

  そしてどこかで母さんは幸せになったのだろうかと、ぼんやりとした願いばかりだった。この後の自分の人生をどうするのかなんていう気持ちは、微塵も湧いて

  こない。

  もう、終わってしまったのだった。何もかもが、終わってしまった。まだ俺の寿命が残っているだけで。俺の人生の目標は、もう終わってしまった。止まって、

  まだ生きている俺ばかりがそこを過ぎ去ってしまったのだった。まだ生きている俺に時が流れて、目標だったものはどんどんと遠ざかって。

  不意に、どうしようもない気持ちが込み上げてきた。この後の人生を、ずっとそうして生きてゆくのだと思うと、怒りと悲しみが綯い交ぜになった想いが

  溢れてくる。母さんの、手紙。愛する人ができた。なんだよそれ。そんな言い方。はっきり言えよ。俺なんかよりも、いい人を見つけたって。息子の面倒を見る

  よりも、女として見つけた相手を愛している方が大事だって。だから俺が要らなくなったって。もう要らないって。はっきり言ってくれよ。畜生。

  綺麗な母さんの顔ばかりが溢れてくる。手紙もそれと同じだった。冷たい感情は表には出さずに、けれど伝わる様にしては去っていった。

  「ソラ」

  早く帰りたかった。心が、おかしくなってしまった。ぐちゃぐちゃになって、元に戻る気がしなかった。きっと戻れない。母さんのために作られた物が、母さんを

  欠いて元に戻るはずもなかった。そんな俺に、またあの声が掛けられる。どうか見逃してほしかった。

  振り返ると、テンマが居た。テンマは俺を見て、少し目を大きくする。それで俺がどれだけか酷い見た目をしているのか、なんとなく伝わった。なんでも表に

  出してしまうテンマは、俺の心を映す鏡の様だった。俺が悲しい時、苦しい時、いつもその機能は十全に働いて、俺を映し出す。

  誰かの心の機微に、テンマは敏感なのだった。そんなに敏感なら、それを尊重して見ない振りをしてほしかった。

  「なんだよ」

  俺の声は、自分でも驚くくらいに低かった。テンマが身体を震わせていた。俺よりも大きな体格の虎の男が、そんな風にしている様は、なんだか滑稽だった。

  「その……」

  いつものテンマと違って、歯切れが悪い。まあ、理解できるが。もし逆の立場だったとして、じゃあなんて声かけるって考えたら。どう声を掛けたらいいのか

  なんてわからない。

  そもそも俺だったら、きっと声は掛けないだろう。時間が必要かも知れないと思うから。

  「大丈夫、なんだよな……? ソラ……」

  絞りだす様な声で、テンマはどうにかそれだけを吐き出した。そんなの、俺の方が知りたい、聞きたいくらいだ。

  この後どうするのかなんて、まるで答えが出てこない。そのために生きてきた。そのためだけに、生きてきた。そんな物を失くしてしまったら、どうしていったら

  いいのだろう。また新しい物をすぐに見つけられるのだろうか。そんなはずはなかった。俺に残された、たった一つの肉親との絆。他の何かでは替えられない。

  替えられたとしても、捨てられた事実は消えてくれない。

  大丈夫か、だってさ。そんなの俺に訊かれても、困る。

  何も言わず、俺は背を向けようとした。そうする意外、どうしたらいいのかわからなかった。他人から、テンマから。遠ざかりたかった。一人になりたかった。

  肩を掴まれて、振り払う。掴んだ相手を、テンマを、睨みつけた。テンマはただ寂しそうに、俺を見ていた。

  「なんなんだよ、お前」

  「だって」

  「もう放っといてくれ」

  「そんな事、できないよ」

  「お前になんの得もないだろ」

  こんな俺の傍に居ようとする事が、理解できなかった。今の自分が、不安定なんだって、俺自身でもわかってる。自分ではどうしようもない。だけど他人の手を

  借りても、どうしようもない。

  母さんが。

  きっと、母さんだけが、どうにかできる。だけど、その母さんこそが今一番遠かった。遠い、と思い知らされる事実こそがまた、俺の心を苛む。荒れた海の様に

  なる心が、どうしようもなかった。波の様な感情の起伏が、自分ではどうしようもなかった。テンマを見る度、そのテンマが近づく度、荒れる心が痛みを感じた。

  「お前には、なんの関係もない」

  「ソラ……」

  悲しそうな顔を、テンマがする。きっと、痛みを与えているのは俺の方だ。それなのに、また胸が。

  「確かに、ソラの言う通り。俺はなんの関係もないのかも知れない、けど……。俺は、ソラが心配なんだ」

  「なんで?」

  「…………。俺は、ソラが好きだから」

  呟く様なテンマの言葉は、静かに響き渡った。奇しくも一年の生徒にテンマが告白されたこの場所で、今度はテンマが告白している。相手は、誰だろう。あんなに

  色んな奴から想いを向けられているテンマが、好きだと思う相手は。いつもの俺なら、そう思っていたかも知れない。普段から大して余裕がある訳ではないけれど、

  それでもいつもの俺ならそう言って、テンマをからかったかも知れない。

  からかって、あげられたんだろう。

  「はぁ? 気持ち悪いんだよ。死ね」

  口にしてから。いや、口にしながら。それは言葉にしてはいけない物だと俺は思っていた。テンマの瞳が見開かれて、途端に涙が溢れてくる。俺も、驚いてそれを

  見て、見ていられなくなった。自己嫌悪で、吐き気がした。背を向けて走り出す。決して早くはない足取り、テンマなら、すぐ捕まえられる。

  それでも、テンマの足音は聞こえなかった。

  視界がぐちゃぐちゃに歪む、自分の足音と息遣いも、普通じゃなかった。俺の心そのままを映し出す様に。空ばかりが晴れ渡っていて。俺とは違って。俺とは。

  これで終わりだった。ようやく望んだ一人ぼっちになる事ができたのだった。何からも、誰からも距離を取って。距離を取らされて。

  滲んだ視界が、不意にそれでも世界が回る様になった事だけを伝える。まともじゃない俺の心と身体は、もう俺をまっすぐに家に帰らせるという最低限の目的すら

  達成できなかった。強かに全身が硬いコンクリートに叩きつけられる。あと少しで、学校の外へと出られたのに。

  何かから。テンマから。何かから。逃げる様に身体を起こしてまた走り出そうとした。走れずとも、歩こうとした。歩けなかった。痛い。全身が痛かった。全身

  だけでなく、身体の内側も痛かった。たった今吐き出した言葉を反芻する度、それを聞いたテンマの表情を思い出す度、痛かった。

  痛い。痛い。

  どうしてあんな酷い事を、口にしてしまったのだろう。痛いのは俺だけで、良かったのに。俺だけが痛かったのなら、まだ良かったのに。テンマにまでこんな物を

  味わわせて。学校になんか、来なければ良かった。俺だけが辛くて、苦しければ。時折はその痛みに慣れて、母さんは幸せになれたかなと思って少し笑ったり、

  テンマなんていう、お節介で優しい奴も居たな、なんて苦笑いをしていられたのに。

  涙ばかりが溢れてくる。視界に移るのは、硬い床と、校舎の壁と。ゆっくりと顔を上へと向ければ、変わらずに青く、美しい空ばかりが広がっていた。

  大空が、あんなに遠い。俺と同じ名前のはずのそれは、あんなにも遠い。何もかもが、遠かった。半端な距離だったんだと思った。最初からこうだったのなら、

  手が届くと思う事もなく、手を伸ばす事もなく、そこから落ちて痛みを味わう事もなかっただろう。

  誰かが、俺の身体に触れてくる。屈んだそれは、俺の頬に触れてくる。

  「……ソラ」

  声ばかりが、それが誰であるのかを教えてくれた。青い空を背景に、見慣れた黄色と、白と、その上を走る縞模様。学生服。滲んでいても、わかる。

  「テン、マ……」

  そっと、テンマの指先が俺の涙を払う。僅かに良くなった視界で、テンマは大粒の涙を零し続けていた。敵わない思った。学業でも、スポーツでも、性格の良さ

  でも。

  そして心の強さでも。テンマには敵わないと思い知らされる。

  「なんで、そこまで」

  「わかんない。でも……ソラが好きだって気持ちは、変わらないから。俺、ソラに幸せになってほしい。俺が幸せにできるのなら、幸せにしたい。俺じゃ

  駄目なら。……駄目なら」

  テンマの声が震えている。涙がまたぽたぽたと溢れては落ちていた。

  「せめて、ソラが幸せになるのを手伝いたい」

  馬鹿みたいな答えだ。だけどそれは、俺が母さんに抱いていたのとそれ程に変わらない想いで、だけどテンマのそれにはまた少し違った物も含まれていた。子供が

  ある種強制的に持たされる親に対する親愛と縋る様な気持ちとは別の物だ。

  どうして俺なんだろう。

  「なんで、俺なんだ」

  テンマなら、きっと選び放題って奴だ。愛や恋や、下心を差し出されては、いつだってそれを選ぶ側だろう。テンマがそれを差し出して、相手が受け取ってくれる

  かと心臓を跳ね上がらせる事もないはずなのに。

  「ソラと一緒に居るの、楽しかった。きっと今まで生きてきて、一番。この間、ここで一年から告白された時……。いつもと同じだって思った。できるだけ気を

  付けて断って、またいつもの様に戻るしかないって。……でも。ソラに聞かれてるってわかったら。告白してくれた奴には、悪いんだけど……。いつもと、違ってた。

  ソラが俺の事、そんな風に好きだと思っていないんだろうって思っても。ソラには聞かれたくないって、誤解されたくないって思った」

  震える声で、テンマがぽつぽつと言葉を紡いでゆく。

  「ああ、俺、ソラの事が好きなんだな……って。今も、好き。酷い事言われても、悲しくて。怒る気分にもなれなくて。転んだソラの事を見たら、それも全部

  吹っ飛んでて。好きなんだなって。俺の事、嫌いでも。せめてソラがちゃんと元気になれるまでは、俺に何かができるのなら、したいって。そう思った」

  「テンマ……」

  しばらくの間、無言で時間が過ぎる。互いに涙を流しては、時折鼻をすする音ばかりが聞こえる。

  「母さんが、出ていったんだ」

  「うん。……ソラの前では言わないけど、噂になってた」

  そうだろうなと思った。じゃなかったら、あんなに俺を皆が腫れものの様に避けたりはしないだろう。

  「俺、母さんのために立派になりたかった。色んな事、頑張って。……高校に入ってからは、上手くいかなかったけど。勉強も、スポーツも。色んな奴に負けて。

  特に、テンマには勝てなくて」

  「うん」

  「それでも、ほんの少しくらい母さんに良い所見せて、喜ばせたくて、色々やってた」

  「知ってる。……本当に色んなところで、ソラの顔を見ていたから」

  「でも、結局……。駄目だった。他の奴にも、お前にも、勝てなくて」

  「……」

  どうして勝てないんだろう。時々、そう思っていた。他の奴にも、テンマにも。たった一人を愛して頑張る努力が、皆から好かれているだけのこいつにすら負けて

  しまう。悔しくて、自分の実力の無さに腹が立って、いつも焦っていた。

  「お前がっ……」

  お前が居なければ。そう言おうとして、やめた。そうじゃないだろう。そうじゃないんだ。テンマが居なくたって、別の誰かが俺の一番を奪っただろう。学業や

  スポーツの一番を誰かが奪って。

  そして母さんそのものを、誰かが奪って。

  きっと、俺がテンマくらいに出来る奴だったとしても、そうなっただろう。親子は所詮親子だから。親が別の愛を見つけたのなら、親は親のままで居るか、一人の

  自分に戻るかを選んで。今ならわかる。母さんは、俺が例えどんな風であったとしても、俺を選ばなかっただろう。そんな母さんだから、父さんも出ていってしまった

  のかも知れなかった。母さんを大切にしている俺を置いて。

  「ごめん。テンマ。俺……」

  最初から、どうしたって結末は変わらなかっただろう。母さんが母さんでいる限り。胸がじくじくと痛んだ。今までの痛みとは違う。気づかされた痛みが、全身を

  静かに覆ってゆく。荒波が静まって、別の痛みが浸透してゆく様に広がってゆく。

  「最初から、間違ってたんだ。最初から……。間違って。間違って、産まれて……」

  「違う」

  怒りと、悲しみを孕んだテンマの声が響く。身を乗り出したテンマから流れ落ちた涙が、ぽたぽたと俺の顔や胸を濡らす。

  「違うよ、ソラ。……そんなの、違う……」

  首を振りながら、テンマが倒れた俺の胸に顔を押し付けて何度もそう繰り返した。その内に言葉は言葉ではなくなって、嗚咽になった。

  俺は何も言えなかった。もう、言葉を発するのも辛い。泣き喚く力もない。テンマの苦し気な呻きと涙ばかりが、その場に溢れた。

  テンマの身体が、温かい。転げ落ちた俺を追って、同じ様に落ちて。温かくて、けれど涙で濡れた所は冷たかった。

  空が遠かった。俺とテンマを見下ろすそれは、どこまでも、遠かった。

  あの日から。テンマに思いを告げられてから、数週間が過ぎた。

  俺はあの後また少し、体調を崩した。張り詰めていた部分に、限界がきたのだろう。高熱を出して、寝込んでいた。

  ただそれも、一時的な物だ。数日もすれば治まって、また学校へと通える様になった。

  「おはよう。ソラ」

  いつもの様に、通学路でテンマが俺を迎えてくれる。実は以前までは、下校は多かったけど登校が一緒になる事はそれ程多くなかった。

  けれど、あの日以来。テンマは俺の下へと足しげく通ってくれている。叔父さんの家に今は身を預けている事も説明をしたので、俺が高熱で寝込んでいる日には

  お見舞いにも来てくれた。今では叔父さんや祖父母からも、テンマは頼りにされている。叔父さんも、祖父母も、俺の味方である事には変わらない。

  けれど母さんの血縁であるという事実もまた、変わらない。

  皆が俺にどう接するのが正解なのかを模索していた。俺もまた、同じ様だった。

  そんな所に現れた、天真爛漫なテンマの姿は。特に若い世代を孫の様に可愛がり、そして母さんの一件で心労の溜まっていた祖父母からは特にありがたい存在の

  様だった。実の孫である俺を安心して預けられるし、既に事情を知っているテンマからの優しさに、祖父母自身が救われている部分があった。叔父さんとも、

  テンマは徐々に仲良くなっている。元々叔父さんは俺と違って人見知りもしないし、どちらかと言えばテンマ寄りだ。その上で、俺がしていた様に様々な事に

  学生時代取り組んでいたものだから、テンマとも話が合う。今では時折、俺を叔父さんの家まで連れてくる際には、テンマは夕食に誘われたりしている事もある。

  何かが抜けて空いた穴を、テンマが塞ぐかの様だった。

  だけど俺は、そういう訳にはいかなかった。

  「おはよう。テンマ」

  小さな俺の声に、テンマは嬉しそうに、けれど寂しそうに笑った。

  自分で思っていたよりも、俺の胸の傷は大きかった様だ。少しずつ上向いている。少しずつ元気になっている。そう思っていたけれど、気づけばそれまで自分が

  どんな風に振る舞っていたのかさえわからなくなっていた。母さんが居たから、そうしていただけだったのかも知れない。母さんが居なくなって、途端に自分が

  どんな風に、どんな存在であったのかを忘れてしまったかの様に、少なくとも以前とまったく同じようには振る舞えなくなった。

  勉強はテンマが面倒を見てくれてようやく上向いたのが、上手く頭に入らなくなっていたし、スポーツはそれよりも酷かった。身体が、動かない。どうしたら

  いいのかわからない。元々運動がすこぶる得意だった訳じゃないんだ。なんでもできた方が、母さんは喜んだし、褒めてくれたから。だからいつも、運動をする前は

  母さんの事を考えていたから。最初にやる事、がごっそり抜け落ちた今、それをやろうとすると、なんのために? という部分が真っ先に出てきてしまうのだった。

  だけど、それもテンマの存在が少しずつ。氷を解かす様に少しずつ快方へと向かわせてくれた。

  挨拶一つとっても、なんだかぎこちなくなってしまったけれど。それでもショックでまともに口が利けなくなっていた頃よりは随分と改善した。学校でも、また

  友達と話せる様になってきた。テンマが俺の傍に居て、大丈夫だと俺に笑う。友達にも、大丈夫だと笑う。橋渡しの役目を、テンマは学校でも担ってくれた。

  何もかもがテンマのおかげだった。そうされればそうされる程に、俺の中にはまた別の苦しみが生まれてくる。

  こんなに良くしてくれるテンマに、俺は一体何が返せるのだろう?

  今でも時々、あの時の夢を見る。置手紙を取り上げて、そこに書いている内容を読む夢。内容がもっと酷くなった夢。だから捨てる。だから要らない。そんな

  文字が躍る悪夢を見ては、飛び起きて。実際にはそんな事は書いていなかったと確かめて。

  そして結局は捨てられた事実をも再確認してしまうのだった。書き方が違うだけで、手紙の内容が結局その通りであった事も。

  「大丈夫だよ。ソラ。俺が居るから。……俺には、こんな事しかできないけれど……」

  そしてそういう時、テンマは目敏く俺の変化に気づくのだった。人気のないところで、テンマの部屋で、新しい俺の部屋で。テンマは静かに俺を抱き締めて、

  落ち着くまでそうしてくれる。そうされると、なんだか小さい頃に母さんにそうされていた事を俺は思い出す。もっとも感触も匂いも違う。香水と母の匂いに、

  柔らかな胸の感触に。それと比べるとテンマのそれは、汗と、少し気を使った柑橘系の制汗剤の匂いと、表面は柔らかいけれどその中にはしっかりとした筋肉が

  眠っている厚い胸板の感触だった。

  何もかもが違うのに、それは母さんを思い起こさせて。そして俺はその度にまた申し訳なくなった。

  少なくとも今の俺は、きっとテンマを愛している訳じゃない。

  好きだって気持ちは、もう自覚している。だけどこれは、きっと恋愛のそれじゃない。テンマの中にある、テンマが大切にしている気持ちとは違っていた。

  それを知る度、テンマの甲斐甲斐しく俺を支えようとする姿を見る度、胸にまた別の痛みが広がるのだった。それは痛いというよりは、苦しかった。優しくて、

  甘くて、だからこそ苦しかった。申し訳なさばかりが前に立っては、今まで感じていた痛みや苦しみとはまた種類の違う物となって俺を包んだ。

  いつか俺は、テンマの気持ちに向き合える日が来るのだろうか。本音で言えば、そうしたかった。テンマが俺にしてくれた事。俺の周りに居る皆にしてくれた事。

  それらを考えれば、ただ感謝という気持ちだけであってもテンマに全てを預けて。テンマに俺自身を差し出してしまう事になんの躊躇いもなかった。

  だけど、そんな気持ちでは駄目だとも思った。

  「俺じゃ駄目だとしても、ソラに幸せになってほしい。今は、そう思うんだ」

  テンマの言葉が甦る。テンマの幸せは、俺の幸せなのかも知れなかった。そんな俺の幸せは、どこにあるのだろう。今はただ、それはもう過ぎ去ってしまった、

  という答えとしてしか出てこなかった。

  いつか。いつか、少しずつであっても。俺は新たな幸せを見つけたいと思った。今はただ、どうかその中にテンマの存在がある様にと願っている。自分の事なのに、

  随分と勝手な願いだと、わかっている。だけど、きっとそうなる。いや、そうせざるを得ないと思っている。

  「愛する人ができたから。テンマ。お前とはもう、一緒に居られない」

  どうしてそんな言葉が口にできるだろう。どうして、ここまで俺を支えてくれるテンマに。あんな苦しみを味わわせる事ができるだろう。

  スマホのバイブ音でふと目を覚まして、俺は目の前に居るテンマの寝顔を見つめる。手紙の悪夢を見て、抱き締められ。そのまま、眠ってしまっていた。安らかに

  眠るテンマの姿を見て、僅かに安心して。

  ここまでしてくれる人を、裏切るのか。どうしてそんな事ができるんだ。

  母さんに言うように、自分の内に呟いた。

  大丈夫だ。俺は、そんな事はしない。俺は母さんとは違うんだ。

  そう思いながら、俺は震えるスマホを手に取り、画面を見て息を呑む。思わず縋る様にテンマを見つめた。テンマは静かに眠ったままだ。

  俺は母さんの様にはならない。母さんとは、違うんだ。

  ……違う、はずなんだ。

  着信

  母さん

  [newpage]

  ソラの父親は叔父さん

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