誰か、オレの神様を知りませんか。(前編)【ケモホモ】

  自分が普通の人間じゃないんだと気がついたのは、物心つく前だった。

  「大丈夫ですよ。ごく低級の、軽い奴ですから。すぐに祓えます」

  今でも覚えている。

  両親が交通事故で亡くなったあの朝、二人の背中には大きな黒い『影』が渦巻いていた。

  子供ながらにそれは、禍々しく見えて何か不吉な予感がしたんだろう。それを恐れるようにオレは独り家に残って、結果オレ独りだけが生き残ってしまった。

  今でも、二人が「いってくるね」と言って笑って出て行ったあの時の顔を、オレは覚えている。

  小学4年生になって、10歳になったばかりの時の話だった。

  「そ、そうなんですか? こんな写真撮ってしまったから、もう大変なものだと…」

  「はは、そうですね。でも、意外とその辺の雑魚でも写りこんでしまったらこんな風になるもんですよ? 大丈夫、何も心配する必要ありませんから」

  そう言って、目の前の女性の背中に目を向ける。

  この女々しさと粘着質な見た目から、失恋で自殺した浮遊霊だろうか? 目を見たら分かる。自分の事ばかりを考えて、相手の心も気持ちも考えず、自分の都合の言いように何もかもを解釈してきた目だ。

  今までの自分の失敗も、失恋した理由も、自分が死んだ理由さえずっと他人のせいにしてきたのだろう。だから今もこうやって、死んでもなお自分の弱さに気づけていない。

  祓う分には、何も問題ないように思えた。

  「じゃ、もうちゃちゃと始めちゃいますか。大丈夫ですよ、10分位で終わりますから。 そう緊張しなくても大丈夫ですよ…!!」

  これが、オレが見えている世界。

  これが、今オレが生きている世界。

  何一つ望まないまま、持って生まれついてしまった呪われた力だった。

  皆「意外だな」と口をそろえて言う。

  …そりゃそうだ。こんな短髪で図体デカイ黒縁眼鏡の筋肉男、どっかのラグビー部に所属していると言った方が違和感はなさそうだった。

  …きっと、もっと普通の人に生まれついたのなら、もっと違う人生が選べたんだろうな。

  そう思うと、少し胸の中が痛かった。

  (ま、そう言うとあいつに悪い気もするけどさ…)

  それでも目の前にある現実は、何も変わらなかった。

  「じゃ、始めますか」

  オレの手の平が、淡い光に包みこまれていく。

  だけど目の前の彼女には、この光さえも見えないんだろう。

  かつて自分も同じだったはずの「一般人」という概念を想像しながら、もう二度と戻れない過去に胸を焦がしている。

  これが、今オレが生きている『現実』だった。

  『誰か、オレの神様を知りませんか。』

  「はい、これで終了…っと。もう大丈夫ですよ」

  そう言って、目の前の背中に目をやる。なかなか自分でも祓うのが上手くなったもんだと思った。

  少しだけ、体に重みがズッシリとのしかかる。

  いつも祓った後に感じる重さと痛みに、それでもまぁ結局まだまだなんだなと思い知らされた瞬間でもあった。

  「あ、ありがとうございます…!!! もう怖くて不安で、ずっと眠れなかったから…」

  「はは、皆大体同じこと言ってますよ。でも良かった。何もないまま祓えたから、運良いですよ、本当に。何かあってからじゃそれこそ怖いですしね」

  そ、そうですねと言って、目の前の彼女は安心したかのように噴出して笑った。

  こんなやり取りをするのももう見慣れた光景だ。高校を出てからは、こんな風に誰かしらのお祓いとか、占いとか、人生相談に狩り出されては「ありがとうございます」と言われ、そして別の誰かがやってくる。

  一度だけの、一瞬だけの、その場限りの対人関係だった。

  「あ、そうだった。すいません…お礼渡すの忘れていました。これ、良かったら…」

  そういって、少し大きめの茶封筒が手渡される。

  中身が一体何なのか、聞かなくても簡単に想像が出来た。

  「い、いえ!!! 大丈夫ですから!!! あまりこういういの受け取ると悪いですし…」

  「そう言わずに、受け取って下さい。ほんの気持ちですから」

  閑散とした喫茶店の中で、少しだけ重い雰囲気が流れる。

  いつもこの瞬間は、あまり得意じゃなかった。

  頼んでいたアイスコーヒーの氷が解けて、水面下で水とコーヒーとが分離して透明な層が出来てしまっている。

  上っ面の笑顔で固めた、どす黒い心の奥底のようだった。

  (さっさと貰ってよ。何よ…偽善者ぶって。結局これが欲しいんでしょう?)

  頭の中で聞こえてくる、確かな声。

  それを誤魔化すように、最高の笑顔で彼女に向けてこう言った。

  「ありがとうございます…!!! では、有難く頂きます。また、何かあったら連絡して下さいね。いつでも、お力になりますから」

  結局、自分も人のこと言えた口じゃあないな。

  そう独り心の中で呟いた言葉の次に出てきたのは、「何やってんだろう、オレ」という味気ない一言だった。[newpage]2

  「なんだかなぁ…」

  そう吐き出た言葉は、やけに味気なかった。お勤めを終えた喫茶店を後にして、一人いつもの道を歩いている。いつもなら何かしら、いかがわしい物とか変なものがいてもおかしくくないはずなのに。今日は久々に、歩きやすい日だなと思っていた。

  急にドッと溢れ出した疲れが、重く体に圧し掛かっていく。

  「…珍しいな。お前があんな事で落ち込んでいるなんて。そんなにきつかったか? さっきのあの子の言葉」

  ふと、後ろからそう声がかけられる。いつも聞きなれた、渋くて低い、少しドスの効いた声だ。

  それでも所々に感じる丸みを帯びた優しい言い方が、本当にこいつらしいなと思った。

  「…なんだ。あんたも聞いてたのかよ。趣味悪いなぁホントに…」

  「聞いてたも何も、ずっと俺はここに居ただろう…? お前、また俺の事無視して消してただろう」

  そうやって、何だか拗ねたような声が返ってくる。この声色は、いつのも増して本音なんだろうか?

  いつもこのやり取りが、オレは少しだけ好きだった。

  「はいはい、見ればいいんだろう見れば、っと…」

  呆れたようなため息を吐き出しながら、そう言った声は少し笑っていた。

  少しだけ、目を凝らす。というより、自分の中でスイッチを入れるような感覚の方が近かった。

  オレの隣に、薄く人の形をした輪郭が浮き彫りになっていく。

  「お前なぁ…俺だって寂しいんだぞ? もう少し自分の契約神を慕ってくれたっていいと思うんだがなぁ…?」

  そう言って、目の前の青い虎は恨めしそうにこっちを見ている。

  一応こっちの世界の服を着た、図体だけはデカイ青い毛皮をした虎獣人。黒いタンクトップに、履きなれたジーンズ。胸の辺りや腹、脇辺りはは青い虎模様の毛皮じゃなく、白く柔らかな毛皮が体の内側を包んでいる。顔は誰が見ても逃げ出すくらい、怖くて厳つい猛獣そのままの虎の姿だ。だけどオレ達人間界では絶対に見られないし、誰もこんな姿を見ることも出来ない。

  これが、オレのたった一人の親友であり…オレの魂と契約された、たった一人の神様だった。

  「もう十分慕ってるし、頼ってるって。ほら、もうそんな顔すんのもやめろよもうガルド!!!! 今日は大学も入ってないから、家でちゃんと構ってやるから。…な?」

  …これじゃ、どっちが格上なのか分かったもんじゃないな。そう毒づきながらも、内心笑ってしまっているオレがいた。

  もうオレがこいつと出会って、12年の歳月が経とうとしていた。

  オレがこいつと出会ったのは、オレの両親が交通事故で死んだ10歳の時だった。

  というよりこいつに言わせて見れば、オレが生まれた時からこいつはずっとオレの傍にいたらしい。10年目にしてやっとオレがこいつを見れるようになった時は、本当に嬉しかったそうだ。

  「君は、これから神格を上げて、神様になるんだ。そう言うとどこか胡散臭い話にも聞こえるかもしれないが…元々、そういう魂を持って生まれてきたんだよ君は。だから君は人には見えないものが見えるし、俺の姿だって見える。だから俺は君の所に遣わされてきた。君が俺達と同じ神界の住人になるまでの、そのサポートそしてな。そういう決まりなんだよ」

  いきなりそう言われたって、はいそうですかとはあの時素直に頷ける訳がなかった。

  ただ一つだけ言えたのは、生まれつき見えていた影とか気配が、急に幽霊とか妖怪とかそういった形あるものに見え、そして人の心の中の声や内言が聞こえ始めたという事。

  そしてこいつは、そんな恐怖の塊からオレの事を守ってくれたという事だった。[newpage]「実を言うとな…元々俺達契約神は、本当は誰にだって憑いているものなんだよ。そこの郵便配達にも、刑務所の中にいる奴らにも、どっかの国のお偉いさんにも、皆平等にな。でもそいつらは、どんだけ頑張って神格を上げても…その一生じゃあ足りないんだ。また生まれ変わって、もう一度やり直さなきゃならない。…君と違ってな」

  ふいにあいつらに襲われた時も、取り憑かれそうになった時も、こいつは必ずオレの事を守ってくれた。人の心の中が見えて辛いんだと打ち明けたオレに気遣ってくれたのか、こいつだけは、オレに心の中が見えないように壁を作って話してくれる。

  …世界中で、たった一人だけ普通の会話が出来る、たった一人だけ心を開ける相手だった。 それが、当時両親を亡くして孤独だったオレにとって、どれだけ有難かった事か。オレはこいつの心の中は読めないし、こいつもオレの心の中は読まないとそう約束してくれた。だからこうやって、こいつとは自然に話せるし、笑い合う事ができる。人としてごく当たり前な友情は、こいつでしかオレは知らなかった。

  こうやって、隣で肩を並べて歩くのも…これが一体何度目なんだろう?

  いつからオレは、こいつを「神様だ」という概念を完全に捨て去ってしまっていた。

  「まぁ…あまり言いたくない話なんだが、これから君は色んな経験を積んで、魂を磨いていく。そして神格というものを少しずつ上げていくんだ。その為に君はここに生まれてきたと言ってもいい。これが、向こうの住人になるための最終試験だ、と言ってもいいのかもな」

  そう幼かったオレに対して言っていたこいつの顔を、今でもオレは覚えている。

  今よりも寡黙で、不器用で、それでいてがさつな優しい奴だった。

  「だがな…神格がある一定以上高くなってしまったら、君はもう神として向こうに行かなきゃいけないんだ。俺達と同じように、神界の住人として今度は違う神格を上げていくことになる。つまり――」

  結局、人も神様も同じ延長線上にいるものなんだ。

  だから敬う必要もないし、信仰する必要もない。ただ、自分を信じて生きていけばいい。こいつが教えてくれたのは、そんな一番現実的な事だった。

  自分の神様は、自分自身なんだと。ただ、辛かった時には、その時だけは他人本願だけど俺達神様を頼ってくれればいい。

  その為に俺達はいるんだと、そうこいつは教えてくれた。

  「つまりな…君は、その時は死ななくてはいけないんだ。強制的に、この世界には居られなくなる。…それが、君の人生なんだ」

  あの時の顔を、今でもオレは覚えている。

  本当に悲しげな、何度も同じ場面を繰り返してきたような、そんな顔だった。

  「…ホントか。 じゃあ今日はバイオのマーセでCo-opプレイだな」

  そう言って目の前の青い虎は、腕を背伸びさせながらニカっと笑う。

  牙を見せながら笑うエメラルド色の瞳が、どこまでも透き通っているようだった。

  「…すまんガルド、やっぱり夜はレポートをだな…」

  「お、お前…自分の神様がバイオをしたいと言っているんだぞ? そんな罰当たりなことして祟られたらどうする?」

  「…どうするもなんも、そん時は契約解除して新しい契約神を見つけるだけだろ、それ…」

  お、お前なぁ… そんなどこか拗ねたような声が、たった一人しかしない道に木霊する。

  とりあえず冗談だよと言って隣にいる大きな背中を手の平で叩きながら、オレ達は自分たちの家路へと向かった。

  誰も居ない、たった一人の帰り道。

  だけどオレは、隣にこいつがいてくれているんだという事を知っている。

  …離れ離れになるだなんて、一度も想像した事がなかった。[newpage]3

  「なぁ、貴昭」

  「なんだ?」

  「そういや、叔父からの入金は確認したか? 今月の生活費、まだ貰ってないだろう?」

  私服を脱ぎ捨て、洗濯機に放り投げる。

  そんな半裸の状態の脱衣所で、壁の向こうから聞こえてきたのはそんな声だった。

  「あぁ、確認はした。…てか、人の生活費まで口出すってお前だけなんじゃねぇの? 神様ん中で…」

  「何を言う。俺はお前の全てをサポートする為にここにいるんだ。 …悪くないだろう? 生活感溢れる神様、って言うのも」

  「…その言葉、この前宗教の勧誘に来た奴にそっくりそのまま聞かせてやりたいわ。ホントに…」

  きっと、あいつら幻滅するんじゃねぇの?そう想像したら、本当に腹が痛くなる位に可笑しかった。

  きっとこんな発言をする神様、絶対誰も想像できない。

  「あ、そういやガルド。今日夕飯何がいい? お前今日は食べて行くだろう?」

  部屋着に着替えて、そう言いながらリビングへと脚を向ける。

  目の前には図体のデカイ体が、床の上に寝転びながら肘をついてテレビを見ていた。

  時折太くて厚みのある長い尻尾が、うねるようにピクピクと動いている。その虎模様の柔らかな毛皮が、見ただけでも分かるくらいにフカフカでもさもさだ。

  「あぁ。貴昭が食べたい奴でいいが…今日は何が出来る? 簡単なものでいいぞ、いつも通り」

  「そうだなぁ…」

  そういや、神様って普通にメシ食うんだな。

  違和感無さ過ぎて、改めて考えてみると凄い事だなと今更になってそんな事を考えていた。

  そういえば昔、高校を出て独り暮らしをするまでは、こうやってこいつと堂々とメシなんて食っていなかったんだった。

  その間…こいつは一体どうしていたんだろう?

  「鯖の味噌煮とかつお菜のお浸しに豚汁か、オムライスにサラダと野菜のポトフ。どっちがいい?」

  ピクリと、うねっていた尻尾が動きを止めて固まる。

  …やっぱり食らい付いた。

  「…オムライスだな」

  「やっぱりそうなる…?」

  目の前の背中にそう答えた瞬間、尻尾が大きくうねるように動いていった。

  顔は無表情だが、機嫌が最高に良いに越したことは無い。

  「お前さ…ホント好きだよな、オムライス…」

  エプロンをしながら、そう吐き出した声はどこか呆れていた。

  こんなやり取りも、これが一体何度目なんだろう?

  「なぁ、貴昭」

  「…なんだ?」

  「俺が人間界に来て一番嬉しくて感謝した事、何だと思う?」

  そう聞かれると気になった。

  一体何なんだろう?

  「さぁ…オレに出会えた事とか?」

  「いや、違うな」

  「じゃあなんなんだ?」

  「…向こうにはな、オムライスないんだよ」

  「…ちょっとお前少し黙ってろ」

  こんな毎日も、もう随分と長い間を過ごしてきた。

  もちろんこうやって堂々と話せるのは、誰も居ない時に限られる。だけどこいつが「どうせ話せないんだったら、俺の姿は見なくていい。他の奴らがいる時は消えていた方が、何かと気が楽だろう?」と、そう言ってくれたこいつの優しさには、本当に助かっていた。

  見た目は、確かに怖い。

  猛獣そのものだ。下手したらその辺の動物園にいる虎より怖いんじゃないかと思える位だ。

  それでも…なんだろう? 確かに怖いし、あまり感情を表に出すタイプじゃないのかいつも無表情だ。今でこそフランクに話してくれるが、どっちかというとガルドは寡黙なタイプの奴のように思えた。それは確かだと言える。

  なのに…

  「なぁ、貴昭。オムライスだったらデミとケチャップどっちがいいと思う? そうだな…チーズも捨て難いな」

  どっか天然というか、抜けているというか…

  こんな茶目っ気のあるギャップ、どこに需要があるんだ?[newpage]「あのなぁ…さっき簡単なものでいいってあんた自分で言っただろう?」

  「オムライスは別だ」

  「…じゃあ、今日は鯖の味噌煮だな」

  「わ、分かった!!! 簡単な奴でいいから!!!」

  不器用で、がさつで、それでいて凄く優しい。

  口も上手くないし、とてもじゃないけど尊敬できるような大人らしさも、完璧さもない。

  だけどこのどこか抜け目のある寡黙な虎は、静かにじっと落ちつきのある優しさと安らぎとをオレに与えてくれた。

  ずっと一緒に暮らしてきたから分かる。こいつの包容力がハンパないと言う事も、本当は、オレの事を気遣ってあえてフランクに接してくれているんだと言う事も。

  自分の方が格上のはずなのに。いつだってこいつは、オレとは対等に、真正面から向き合ってくれた。

  「俺も手伝おう」

  「あ、いいよガルドは!!! テレビでも見て待ってろよお前は」

  「…いいじゃないか、たまには。こうやってゆっくり話すの、今日が久々だろう?」

  あぁ、そうだった。

  確かに最近はお勤めとレポートのラッシュで、こんなゆっくりとした時間は久々だった。

  そう言われたら、こうやってこいつとゆっくり話すのも久々のような気がする。

  「そ、そうか?」

  「…そうだ。最近構ってくれなかったからな貴昭は。今日はその穴、埋めて貰うぞ」

  …それは、バイオのマーセの事なんだろうか。

  「はいはい、分かったから。じゃ、いつも通りの材料取ってくれ」

  「了解した」

  手際よく、材料を切っていく。いつの間にか自分もエプロンを着け出した青い虎は、その体のデカさのギャップが凄くて何だかどこか可愛かった。

  オレの隣で、丸い耳がヒコヒコ動いている。

  「なぁ、そういえば貴昭」

  「なんだ?」

  「…お前、いつ抜いた?」

  一瞬だけ、包丁が止まった。

  オレの頭の中に、どこか呆れてしまったようなため息が吐き出された。

  「お前なぁ…」

  「最近、ずっと抜いてないだろう? 溜めすぎは良くないぞ」

  「お前が目の前にいるのに、出来る訳ないだろう!? デリカシーを敬えデリカシーを!!」

  「…じゃあ、俺が手伝う…か?」

  「…なぜそうなった?」

  手の平でちょいちょいと指差して、フライパンを指差す。ガルドもその意図を分かってくれたのか、それを取るとオレの方にへと渡してくれた。

  チチチという火花の音と共に、一瞬だけ鼻をつくガスの臭いが辺りに漂う。

  「…お前は、どうなんだよ」

  「…? というと?」

  「だから、お前は抜いたりしないのかよ? お前らだって、溜まるもんは溜まるんだろ?」

  片手で眼鏡を上げながら、そう聞き返した言葉はどこか投げやりだった。

  そういえばこんな生々しい話、オレから振るなんてこれが初めてだ。

  「まぁな。俺はほら、定時連絡で神界に戻ったとき…にだな…」

  「…抜くのか?」

  「お、俺だって雄だ。し、仕方ないだろ…」

  お、久々に恥ずかしがった。今日は珍しいものを見られた気がする。

  だけどこれも、こいつの自業自得だ。

  「はいはい、分かった分かったから。ほら、もう出来たから食うぞ? お前の大好物だろ、これ」

  そう言って、皿に盛られた特大のオムライスを掲げて見せた。

  目の前のエメラルド色をした瞳が、無邪気に輝き出したのがなんとも言えない。

  「あ、あぁ!! すまないな、貴昭。いつも――」

  「いいって。ほら、冷めないうちに食うぞ?」

  出会ってから、こんな風なやり取りを始めてもう12年。

  こんな風な、神様と大学生の同棲というか共同生活を始めて、もうすぐ4年目を迎えようとしていた。[newpage] 4

  「あぁ、そういえば今日、貴昭が寝た後にちょっと向こうに戻る。すぐ帰ってくるから」

  「…寝た後じゃなくても、今から帰ってもいいんだぞ?」

  その方が、独りになれる時間が増えるし。

  そんな事を考えながら、食い終わった汚れた食器をオレ達は台所で洗っていた。

  「…駄目だ。今日は貴昭に構ってもらうと約束したからな。マーセするって、約束してただろう?」

  …くそ!!

  やっぱり覚えていやがったかこの虎は!!!

  「お前なぁ…」

  「それに…俺が居ない間にお前が襲われたらどうする? 確かに独りで祓えるようにはなったが、まだ真正面から面と向かって無傷で済むほど腕を上げた訳じゃないだろう?」

  「う…」

  言葉が、出なかった。

  今日も負ってしまった痛手が、オレの背中で急に疼き出す。

  「まぁお前はまだ人間だからな…仕方ないさ。一応、結界を張ってから向こうに行くから。…いいな?」

  汚れていた皿が、全て綺麗になっていく。

  シンクに響き渡るお湯の音に遮られて聞こえてきたのは、いつもより渋い…真面目な、低い大人の声だった。

  ふと、こいつと初めて会った時の事を思い出す。

  確かあの時も、こんな風な低くて渋い、真面目な声だった。

  「なぁ…ガルド」

  「なんだ?」

  「オレの神格…どこまで上がった?」

  キュッと音を立てて、流れていたお湯が止まる。

  気づけばオレは、オレ達の中でタブーだった話題に触れてしまっていた。

  「お、お前…それは聞かないって約束だっただろう?」

  「分かっている。それは、オレも分かっているって。だけど…オレにだって聞く権利と、知る権利はあるだろう?」

  濡れた手のまま、そう振り返ってこいつの顔を見た。

  目を細めながら、困惑している。そんな風にオレの目からは見えた。

  だけど他の奴らと違って、こいつの心の中だけは…オレの力じゃ、見ることが出来ない。

  「だ、だが――」

  「…もう、近いんだろ? オレの寿命も」

  目を逸らさず、そう単刀直入に核心をついた。

  ふと、エメラルド色した瞳が泳いで、逃げ場を求めて横にそれていった。

  「…馬鹿を言うな。 まだまだだ」

  「そうか?」

  「あぁ…もう、この話は終わりだ。タブーだって、そう約束しただろう?」

  「約束はした。でも…オレにも知る権利位あるだろう!?」

  「貴昭!!!! 」

  「だって…ずるいだろ!! お前だけがオレの寿命知ってるなんて…フェアじゃない!!!」

  思わず、そう声が荒れてしまった。その瞬間に、自分の馬鹿さに気がつく。

  …全部、八つ当たりじゃないか。

  これは。

  「…何があった?」

  「え?」

  「…お前だ。さっきといい、今日の昼といい、お前…一体何があった。お前らしくないじゃないか。何か…悩んでいる事でもあるのか?」

  そう言って、目の前の青い虎はオレの肩に手を乗せてきた。

  柔らかな、重みのある暖かさが、オレのシャツ越しに伝わっていく。

  目を逸らしてしまったのは、オレの方だった。

  「な、なんもねぇよ…ただ――」

  「ただ…?」

  そう言いかけて、言葉に詰まった。

  …言える、訳が無い。

  言えるはずがなかった。

  「い、いや…なんでも無い。さっきは、オレが悪かった。ごめんな、ガルド…」

  胸の中で、チクリと痛みが走る。

  なんでこんな時に限って、こいつはオレの心の中を読んでくれないんだろうなと思った。

  もし、もしこいつが最初からオレの本音を読んでくれていたら…

  オレは――

  「なんでも無い、か…相変わらず嘘が下手だな、貴昭は」

  「…お前だけにはな。周りに対しては、上手く騙せているよ」

  「…そりゃそうだろうな。じゃなきゃ、普通の大学生活なんて送れないだろう?」

  何も答えないまま、目の前のタオルを取って濡れたままだった手の平を拭いた。

  全部、こいつの言うとおりだったからだ。

  「まぁ…何かあったら、俺に相談するんだぞ。些細な事でも、辛いと思ったのならすぐにだ。そういう約束だっただろう?」

  「…あぁ」

  …そうだ。

  そうだったな、確か。

  いつもオレが悩んでいた時には、こいつが相談に乗ってくれて、いつも助けてくれたんだっけな。いつもそんなこいつの優しさに、オレは救われてばかりだった。

  だけど――

  「…分かってる。ありがとうな、ガルド。…サンキュな」

  「…いいんだ。その借りは、今日のマーセで返してもらうからな」

  「お、お前なぁ…レポートしなきゃいけないって、そう言っただろう?」

  いつか、この悩みが相談できる日が来たのなら。

  オレは、こいつにだけは、何も包み隠さずに真正面から打ち明けようと思った。

  だけど今は、その勇気も度胸もない。ただその弱さを、今は許してくれと心の中で謝った。

  乾いた手の平を、握り締める。

  何も掴めないままの手の平は、味気ないくらいに寂しかった。[newpage]5

  「…で?」

  「だから…神格を下げる方法はないかと聞いているんだ。お前なら…何か知っているだろう?」

  俯いたまま、そう目の前の獅子に俺は聞いていた。

  貴昭は、今頃向こうで眠っているはずだ。だけどもう、ここにいられる時間も残りわずかしかない。

  だからだったんだろう。焦りで単刀直入過ぎたその言葉に、俺は自分のミスにまだ気づいていなかった。

  「なんで、そんな事をオレに聞く?」

  「そ、それは…」

  しまった。

  もっと、遠まわしに聞くべきだったんだ、俺は。

  「…ガルド。オレ達の役割はなんだ?」

  目の前の親友は、そう自分の鬣に手をやりながらそう聞いてきた。

  その体も風格も出で立ちも、百獣の王そのものだ。俺と同期と言われなければ、こいつの方が格上だと俺は思っていたかもしれなかった。

  上半身裸の筋肉の凹凸も、体の大きさも、俺と引けを取っていない。確かそれは、こいつも全く同じ事を言っていたような気がした。

  カイアス・ランクフォード。

  この神界で、唯一無二の、俺の親友だった。

  「…人間のサポートか?」

  「違うな。俺達の役割は、人間の神格を上げる事だ。その為に手助けしたり、その為に不幸を負わせる。…全部、あいつらの魂を磨かせる為だ。忘れたのか?」

  忘れた、訳がない。

  そう言いたかった。忘れた事なんて、一度だってなかった。

  俺の胸の中で、苦々しい何かが締め付け始める。

  「…お前は、空しくなったりしないのか?」

  「何がだ?」

  「…俺達の役割だ。ただ神格を上げさせる為だけに人を不幸のどん底に突き落として、希望をちらつかせて、手を差し伸べて…またどん底へと突き落としていく。そして神格が限界まで上がったら…今度は寿命なんだぞ? 強制的に、あいつらは死ななくてはいけないんだぞ…?」

  口の中に、絡みついた唾液がその粘度を増していったような気がした。

  上手く言葉が、吐き出せない。

  「もっと…もっと他に出来ることがあるんじゃないのか俺達には!? 神格だけが全てじゃあ…ない。そうだろう? もっと…もっとあいつらを幸せにする事が俺達には出来るはずだ。なのに――」

  ――なんで、あいつが死ななきゃいけないんだ。

  「…なぁ、ガルド」

  「…なんだ?」

  「…お前、今まで何人看取って来た?」

  唐突に、その言葉で記憶が蘇った。

  その映像を振り切るように、頭の毛皮をガシガシと掻き毟る。だけどあの刹那的な一瞬の映像の数々を、振り払う事が出来なかった。

  「…大勢、だ。…お前と、そう変わらないはずだ」

  「…そうか」

  そう言って、目の前の獅子は俺の隣に腰掛けた。

  すぐ近くに、こいつの体温を感じる。

  「じゃあ…今回が特別という訳か。そういう事なんだろう?」

  何も言う事も、否定する事も出来ない。

  …明らかま過ぎる、親友に対しての肯定の返事だった。

  「…どんな奴なんだ?」

  「…え?」

  「お前の今の契約者だよ。お前が、そこまでなる相手なんだ。聞いてもバチは当たらないだろ?」

  ふと、貴昭の顔が頭に浮かんだ。

  短髪で、黒縁眼鏡をかけた、精悍な顔立ちをした大学生。

  獣人の俺でも、モテる部類の人間なんじゃないかと思った。

  体もそれなりに大きいほうだ。筋肉質で、それでいて無駄のない贅肉。掘りの深い二重の瞳と無精ひげが、俺の中では一番印象的だった。

  笑えば、目に皺が出来て白い歯がニカッと光る。

  …いつの間にか、あいつも大人の男になってしまっていた。

  「今年22の、大学生だ。言葉を交わして、もう12年になる」

  「22、か…まだまだだな。…で、そいつの寿命はいつなんだ? まだ先だろう?お前がそう悩む必要もないんじゃあないのか?」

  そう言う獅子の言葉は、もっともだと思った。

  そうだ。

  俺達が人間に私情を挟むなんて、考えられない。それは規則で決められたご法度だし、決して踏み込んではいけないタブーの領域だった。

  だからこいつが言いたいことは、俺にも分かる。

  だが――

  「…三ヶ月後だ」

  ――そのタブーを、俺は犯してしまっていた。

  「う、嘘だろ…? ありえない!!! お前、さっき22って言っただろう!?」

  「…あぁ。言った」

  「そ、そんな…そんな前例オレは聞いた事がないぞ!? 最少でも確か40を越えていた。何かの…何かの間違いなんじゃあないのか!?」

  目の前の獅子から、本当に意外だったといわんばかりの大声が響き渡る。

  俺はそんなこいつの反応を聞き流しながら、両手で俯くように顔を隠した。

  …苦痛に歪む顔を、こいつにはまだ見せたくなかったからだ。

  「あぁ、そうだな」

  そう、俺は言葉を続けた。

  「俺だって、何かの間違いだと、そう思いたかった。 …そう、思いたかったさ。だけど――」

  現実は、違っていた。

  「あいつは…もう、死んでしまうんだ」

  そう口にした言葉は、情けなく震えていた。

  「俺の計算が正しかったら…あと三ヶ月で、あいつは死ぬ。このままあいつの神格が上がり続けたら、あいつは…もう、死んでしまうんだ」

  目じりの奥が、急にツンと痛み出す。

  この時になって初めて、俺は自分の立場を心の奥底から呪った。[newpage]「…分からないな」

  そうカイアスは言って、その場を立ち上がった。

  「確かに、お前の言う通りだ。そいつは若い。これが最後の余生だったそしても、こっちに来るには…確かに若すぎる。お前の言う通り、オレだって自分たちの役割には空しくなる時だってあるさ。自分には他に出来る事がないんだろうかって、そう悩んでしまう時もあるさ。だがな…オレ達はオレ達、あいつらあいつらだって、そういつも線引きして今までやってきただろう!? 違うか!? なんで、お前がそこまで悩む必要がある?」

  俺の顔を真っ直ぐ見ながら投げかけられた、何も否定する事が出来ない正論だった。その言葉に、俺は顔を歪めながら目を逸らしてしまった。

  …言える、訳がない。 そう思ってしまったからだ。

  いくら、親友でも…これだけは――

  「なぁ、ガルド…お前らしくないじゃないか」

  ふと返ってきたカイアスの弱弱しい声の響きに、ハッとなって俺は顔を見上げた。

  気づけば目の前の獅子の顔が、苦悩の表情で切なそうに歪んでいる。

  「…一体、何があった? いつもオレにだけは、何でも打ち明けてくれたじゃないか。そうだろう? それとも…オレにさえ、言えないことなのか。それは…」

  胸の中を、いきなり鷲掴みにされたような気がした。

  心に、苦々しくも熱いものがドロリと渦巻いていく。

  (言うしか…ないのかッ!? 俺は、もう――)

  この目の前にある友情を、これ以上誤魔化すことは許されないのだろうか…?

  「…誰にも言わないと、そう…約束してくれるか?」

  「あ、当たり前だ!! 親友だろうオレ達は!? 言うわけがない!!」

  「そうか…」

  ゴクリと、生唾を飲み込んだ。

  もう腹を括るしかないと、そう悟ってしまったからだ。

  「…惚れて、しまったんだ」

  一言だけ、そう打ち明けた。

  今まで誰にも打ち明けられなかった、長年の秘密だった。

  「ど、どう言う意味だ…ガルド、それは――」

  困惑したカイアスの声だけが、辺りに木霊する。

  それでも俺は、それ以上言葉を誤魔化すことができなかった。

  「惚れて、しまったんだよ。そいつに…」

  真っ直ぐに瞳を見据えて、そう言葉を続けた。

  「…あいつの事が、好きになってしまったんだ。許されない恋だとは分かっている!! だが――」

  グッと、力任せに拳を握り締めた。

  そうしなきゃ、頭の中がおかしくなってしまいそうだったからだ。

  目の前の獅子は、沈黙を守ったまま…俺の言葉に耳を傾けてくれている。

  「も、もう…どうすることも、できねぇんだ…」

  目の奥に、しみる痛みがジワリと刺さり出す。

  少し水気を帯びてしまった最後の言葉に、暫く二人は黙ったままだった。

  「…減給もんの話だな。それは…」

  「…すまない、カイアス。俺は――」

  「…いい。いいから、もうお前は謝るな。お前の言いたいことは、オレも分かったから…」

  そう言って目の前の獅子は、再び俺の隣にへと腰掛けてくれた。

  悩ましげに、手の平で顔を覆っている。…それもそうだろう。俺は、絶対に許されない領域へと踏み込んでしまったんだ。

  驚かない訳がない。

  「…裏神界書の23章第7項、お前知っているか…?」

  ふと、言葉が投げかけられる。

  長い沈黙を破ったのは、そんなカイアスの言葉だった。

  「い、いや…知らない。それが、どうかしたのか?」

  そう、思わず答えてしまった。

  ずっと顔を覆っていた手の平が、ゆっくりと下へと落ちてく。

  「神格を上げていた段階で、罪を犯してしまった人間の話だ。例えばオレ達が憑いておきながら、地獄に落ちてもおかしくない位の罪を犯してしまった人間がいたとしよう。しかももう少し神格を上げれば、神界の住人になれる厄介な奴だ。地獄に落ちてもおかしくない位のクズに成り下がってしまった人間が、たちまち神界の住人になる。…こんなの、許される話じゃあないだろう?」

  そう淡々と、カイアスは言葉を続けた。

  とても静かな、落ち着いた言葉の響きだった。

  「…方法なら、一つだけある」

  その瞬間、カイアスはオレの瞳を真っ直ぐに合わせて、そう言い放った。

  目と目が合ったその視線の中で、俺の瞳が揺らいでいく。

  「契約者側である人間には、オレ達を選ぶ権利がある。相性が悪かったなら簡単に切り捨ててくれればいいし、他の別の誰かに乗り換えればいい。だけどオレ達には、その権利がない。契約がある以上、オレ達は人間を見放す事は決してできないからだ。だが――」

  そう言い掛けたところで、こいつが言わんとしている事が俺にも分かった。

  唐突に、理解してしまった。[newpage]「…もし、さっき言った事のような事が起きた場合にだ。もうそいつは…見放すしかないんだ。そうしなければ、そいつの神格は上がり続けて…神界の住人になってしまう。そうなってしまった場合だけ、オレ達は契約を残したまま、人間を見捨てて見放す事が許されるんだ。そうすれば神格も上がらないし、契約も残したままだから他の誰かと新しく契約を結ぶ事も出来ない。…罪を償うまで、死ぬことも許されなくなるんだ」

  そうカイアスは言い終わると、俺から目を逸らして唾を飲み込んだ。

  急に俺の頭の中が、真っ白になる。

  「む…無理だ!!! そんな事してしまったら…その後あいつはどうなる!? そこら辺にごろつく殺人者や強姦魔にだって、知らず知らずの内に誰かが憑いているんだぞ…? あいつみたいに神格を上げる為だけに生まれついたような奴じゃない人間にだって、誰かしらはちゃんと憑いている。 そ、そうだろう…? 誰一人契約神が憑いていない人間なんて聞いたことがない!!!」

  「だが…そいつはもう死んでしまうんだろう!? 背に腹を変えられるものはあるか!!! これしか…これしか、方法はないんだ…!! 」

  そう叫んで、カイアスは俺の両肩をグッと、掴んだ。

  説き伏せるような、なだめるような、そんな硬さを持った掴み方だった。

  俺の瞳から、一筋の涙が流れていく。

  「…どっちかを選ぶしかない。残酷なようだが、もうそれしか他に手はないんだ。今までと同じように、お前が惚れてしまったその人間を看取るのか。それとも、誰からも見守られない、誰からも助けられない生涯孤独な人生を、そいつに歩ませるのか。その二つに一つしかないんだ」

  急に、目の前が真っ暗になったような気がした。

  そんなの…そんなの、俺に選べる訳がない。

  いくら神様だと人間たちから言われたとしても、そんな事…俺に出来るわけがなかった。

  「それしか…それしか方法はないってのか…」

  ただ、あいつにはいつまでも笑って貰いたかった。

  孤独で辛い人生だった分、最後だけは幸せになって貰いたかった。

  「それしか…そんな事しか、俺達には出来ねぇってのかッ…!!!! 」

  幼い頃に両親を亡くして、見てはいけないものを見てしまって…そんな、ただ辛い人生を歩ませる事しかできなかったのだろうか、俺は…?

  結局、あいつの両親も守る事も出来なかった。

  規則だからと、分かっていながらも見殺しにする事しか出来なかった。

  その罪悪感に、こいつだけは幸せになって欲しいと、何もかもを俺は捧げた。

  少しでもあいつの孤独と寂しさを拭ってやれたらなと、俺は必死だった。

  なのに…

  なのにまた、俺は同じ事を繰り返さなければならないのだろうか…?

  また、あいつの命を見殺しにして、看取れと…そう言うのか!?

  こんなにも、こんなにも惚れてしまった奴なのに…

  なのに、俺は――

  「…残念だが、それが現実だ。それが…オレ達の、限界なんだ」

  ――自分が惚れた相手にでさえ、こんなちっぽけな事しかできねぇと言うのか…!!!!

  「何が、神様だ…」

  「が、ガルド…?」

  「何が、神様だ…なんなんだよ、契約神って…自分が惚れた相手でさえも、こんな事しか出来ねぇなんて…俺は、俺はただ…あいつに――」

  ――笑って、欲しかったんだ。

  そう最後まで言えぬまま、俺は声を上げて泣いてしまった。

  うずくまった体に、激しい嗚咽で息が出来なくなる。それでも俺は、喉が潰れる位に大声でただ泣き叫んだ。

  …それしか、今の俺には…何も、出来なかった。

  「すまない、ガルド…折角、お前もオレに打ち明けてくれたというのに…本当に、すまない…」

  背中に、カイアスのさする手の平の温もりが伝わる。

  それに促されるように、俺は目の前の獅子に抱きつくと大声を上げて泣きじゃくった。

  あまりにも非力すぎる自分の運命に、俺は何もかもを呪った。

  だけどあいつを救ってやれる、方法すら思いつけない。

  ふと、あいつが笑ってくれた笑顔を思い出す。

  もし俺が神様じゃなくて、同じ人間だったら違う未来はあったのだろうかと、そう滲み出た寂しさの中で叫んだ言葉は、味気なくそこに消えていった。[newpage]6

  「あ、ガルド!!! 帰り遅かったじゃないか…ずっと待ってたんだぞ!?」

  そう不満げな声を、急に現れた大きな背中に押し付けた。

  こいつのせいで、今日は午前中丸まる家に缶詰を強いられたんだ。昨日「すぐ帰ってくるから」と言ったこいつの言葉を、オレは忘れてはいなかった。

  「あ、あぁ…すまなかったな、貴昭。本当に、悪かった。ホントに…」

  おかしい位に味気なく弱弱しい声が、あいつから返ってくる。

  その陰を落とした暗さに、オレは不信になってあいつの背中を覗き込んだ。

  …うなだれて、力を無くした、弱弱しい背中だった。

  だけどここからじゃ、あいつの顔がオレには見えない。

  「…? ガルド…?」

  ゆっくりと、オレは立ち上がってそいつに近づいていった。

  明らかに、様子がおかしかったからだ。こんなガルドの姿、オレは今まで一度も見たことがなかった。

  だからだったんだろう。

  こんな時、どんな声をかけていいのか…情けない位に、検討がつかない。

  「お、おい…ガルド。返事しろよ。ど…どうかしたのか…?」

  そっと、背中に手をやる。

  薄いシャツ越しに、こいつの青い虎模様の毛皮の感触が温かな体温と共に伝わっていく。

  その瞬間微かに震えたこいつの体を、オレは見逃さなかった。

  「な…何でも、ない。大丈夫だ。俺は…大丈夫だから」

  「だ…大丈夫な訳あるか!! なぁ…何か、あったのか? どっからどう見てもおかしいだろ!!! お前――」

  そう言い掛けて、言葉をグッと飲み込んでしまった。

  こいつの顔を、オレは見てしまったからだ。

  …エメラルド色をした大きな瞳が、苦悩に歪んで…揺ら揺らと水気を帯びて、微かに震えている。

  少しでも目を細めたら溢れ出しそうなその水面に、オレは思わず体を強張らせてしまった。

  「が…ガルド…?」

  こんな姿、今まで見たことがなかった。

  こんな姿をしたこいつを、想像すらした事がなかった。

  だってこいつは、神様だ。オレ達とは違う。どんなに背伸びをしたとしても、越えられない壁のようなものをいつもこいつには感じていた。

  なのに――

  「た、たか…あき…」

  ――今にも泣き出しそうな目の前の虎の表情は、人間のものそのままだった。

  「…が、ガルド… 一体、何があった…? 言えないなら、言わなくていい。だけど、お前――」

  「…すまない、たか…あき… 本当に、すまない…」

  「わ、分からないよそれじゃ!!! な、何か…辛いことでもあったのか? 何か、困ったことでもあったのか…?」

  コクコクと、目の前で弱弱しく首が縦に振られる。

  オレはガルドの前に座り込むと、そんなこいつの顔を両手で包み込むように、そっと手の平を添えた。

  柔らかな毛皮と、少し長い髭の感触がオレの手の平をすり抜ける。

  目の前のエメラルド色をした瞳の奥は、まだオレの目を見てくれなかった。

  「な、なぁ…オレ達、親友だろ? 確かにオレには、お前と比べたら何も出来ないかもしれないけどさ…お前は、オレのたった一人の神様なんだ。いつもオレ、お前に助けられてばっかだったじゃないか!!! なぁ…そうだろう? オレにだって…何か出来る事位…何かあるだろう…?」

  その瞬間、ガルドの両目から熱い涙が零れ落ちた。それがオレの手の平を濡らして、床の上へと落ちていく。

  ガルドはオレの手の平をそっと上から重ねると、指を絡め合わせるように握り締めてきた。

  「な、なぁ…たか、あき…」

  「…なんだ?」

  「俺と出会って…お前は、幸せ…だったか?」

  …意味が、分からなかった。

  なんでそんな事を急に言い出すのか、その理由がオレには全く分からなかった。

  「あ…当たり前だろ!!! なんでそんな事聞くんだよ急に…お前らしくねぇだろ!?」

  「…本当か?」

  「ほ…本当だ!! 嘘じゃない!! な、なぁ…ホントに何があったんだよ… お前がそんなになるなんて、よっぽどの事だろう!?」

  背中をさすりながら、抱きかかえるように腕を伸ばして精一杯抱き締めようとした。 なのにこいつの体がでか過ぎて…腕が、思うように回ってくれない。

  その歯がゆさの中で掴めたのは、苦々しい自分の無力さだけだった。

  「なぁ、たかあき…」

  「なんだ?」

  「もし俺が見えないままだったら…あの時、俺とお前が出会ってなくて、お前もこんな変な力も持って生まれてなかったなら…幸せ、だったよな…? 今よりもずっと、楽だった、よな…?」

  「何馬鹿な事言ってんだよお前は!!! そんな事ある訳ないだろう!? おいしっかりしろよガルド!!! オレが今から死ぬ訳でもないのに…そうだろう!?」

  「……!!!!」

  「お、おい…ガルド? ガルド!!!」

  いきなり、オレはガルドに抱きつかれた。

  行き場をなくした俺の腕が、伸びきったまま宙を掴む。嗚咽と荒々しいこいつの呼吸が、熱いくらいにオレの胸の中へと直に伝わってきた。

  オレの胸の中が、急に締め付けられたように苦しくなる。

  …何も出来ない自分の非力さと、こいつの悲しみに…自分でも、言葉を無くしてしまったからだ。

  なのにオレは、この短い腕じゃこいつの体を抱き締めてあげる事も、出来ない。[newpage]「…ずっと、好きだった」

  「…え?」

  「ずっと、お前の事が好きだった。本当に、本当に…!!!」

  「な、それ位オレも分かってるって!!! オレも、お前も好きだ。そうだろう…? なぁ…ガルド。これから、オレがいつもより豪華なオムライス作ってやっからさ。それ食ったあと、思いっきりゲームでもなんでも付き合ってやるからさ。だからさ…もう顔上げて、笑えよ。…な? お前らしくねぇじゃねぇかよ!!! メシ食って、思いっきり遊んで、風呂入ったら…きっと、気分は晴れるから。…な?」

  そう言って、オレはわしゃわしゃとガルドの頭を撫で付けて、笑って見せた。

  いつの間にかこいつの涙に揺れ動かされて泣きそうになってしまった自分の弱さを、必死になって誤魔化したかったからだ。

  目の前のエメラルド色した瞳に反射して、オレの笑顔が映っていく。

  本当に大きな、透き通った、綺麗な目だった。

  「…ちょっと、水取って来るから。何か飲んだら、きっと気分も少しは良くなる。ちょっと待ってろ。今、取ってきてやるから。…な?」

  そう言って、オレは目の前の虎から離れて、台所へと脚を運んだ。

  …未だに、胸の中の痛みが治まらない。

  その痛みに、少し呼吸がしづらいような感覚が後を引いて残っていた。

  片手で冷蔵庫を開けて、冷えたミネラルウォーターのボトルを掴む。

  硬く閉まった蓋を開けながら、手を伸ばして乾いたタオルを掴むとオレはガルドの元へと戻っていった。

  ギシリと、フローリングの床がオレの体重で軋んでいく。

  「ほら、ガルド!!! これで顔拭いて――」

  そう言い掛けて、オレはその場に立ち尽くしてしまった。

  顔を上げた瞬間に、目の前には誰も居なかったからだ。

  …今までそこにいたはずの、大きな体をした青い虎の姿が…どこにも、見当たらない。

  「が、ガルド…?」

  オレの独りきりの声が、だだっ広い部屋の中へと空しく木霊していく。

  その瞬間、オレは全てを悟った。

  何の、気配もない。何の、存在感もない。いくら目を凝らしても、あいつを見ようと思っても、そこにはもう誰もいなかった。

  オレ以外、この部屋には…誰もいない。

  「お、おい…ガルド…い、いるんだろ? なぁふざけてないで出て来いよ!!! おい!!!」

  ガタガタと、体が震え始めた。

  それを誤魔化すように、必死になってオレはあいつの名を叫んでいた。

  …なのに、どこにも…いない。

  どこにも…いないんだ。

  「な、なぁ…頼むから…頼むから出てきてくれよ!!! おい!!! ガルド!!!!」

  オレの手の平から、冷たいペットボトルが力をなくして落ちていく。

  床の上へと倒れていったそれは、冷たくその場所に水溜りを作って静かに床を濡らしていった。

  

  ずっと、こんな毎日が続いていくんだと思っていた。

  明日も、あさっても、ずっとあいつと笑い合う日々が続いていくんだと、そう素直に信じて疑いもしなかった。

  静寂だけが、オレに返事を返してく。

  この部屋に残ったのは、空しいくらいに空っぽの抜け殻になってしまった、ありあまる程の自由だけだった。