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舌先で転がる優等生

  重苦しい蒸気と喧騒に包まれた巨獣たちの都市。その一角にそびえ立つ、巨大な貿易企業の漆黒のビル。この世界において、人間は獣人たちの足元で這い回る家畜であり、労働力でしかなかったが、この企業にはひとつだけ、他とは違う「特別な部署」が存在した。

  ビルの最上階、社長室のデスクの後方、巨大な本棚に隠された防音の隠し扉。その奥に、完全に隔離された窓のない一室がある。そこでは、数十人の人間たちが整然と机を並べ、膨大な書類やデータと格闘していた。獣人たちの社会では、人間は肉体労働にしか使われないのが常識だった。

  しかし、この企業の狡猾な社長──優雅で獰猛な黒猫の獣人──は違った。人間の持つ意外な器用さと、単純な事務処理能力の高さに目をつけ、極秘裏に彼らを「デスクワーカー」として利用していたのだ。人間に事務作業を任せているなど、他の獣人たちに知られれば体制への反逆とみなされかねない。そのため、この事実を知るのは社長ただ一人だった。

  「今月の成績トップは、レン。君だ」

  部屋のスピーカーから、社長の艶っぽい、しかしどこか冷徹な声が響く。

  室内が、羨望と歓喜のどよめきに包まれた。呼ばれた青年、レンは、震える手で胸をなでおろした。この部屋の人間たちには、ひとつの「希望」が与えられていた。

  『成績優秀者は、人間用の隔離スペースを出て、獣人社会の上層へと【昇進】できる』

  過酷な環境から抜け出し、豊かな暮らしを手に入れるため、彼らは互いを蹴落とすように必死で働き続けていた。先に「昇進」していった仲間たちの姿を思い出し、レンは誇らしげに立ち上がった。同僚たちは「おめでとう」「俺たちも続くぞ」と、希望に満ちた目を彼に向けている。

  重い隠し扉が開き、レンは生まれて初めて、隔離された部屋の外へと一歩を踏み出した。

  そこは、磨き上げられた大理石が広がる、広大な社長室のフロアだった。ほんの数歩歩いただけで、レンは巨大なデスクに腰掛けていた社長の目の前へと行き着いた。

  「よく来たね、優秀な人間くん」

  部屋の奥、巨大なデスクに腰掛けていたのは、しなやかな漆黒の毛並みを持つ、直立すれば5メートルを超える巨躯の黒猫の獣人──この会社の社長であった。その鋭い琥珀色の瞳が、部屋に入ってきた小さな人間をじっと見つめる。

  「社長、ありがとうございます! 私はこれからも、御社のために──」

  レンが深く頭を下げ、忠誠を誓おうとしたその時だった。

  「ふふ、もういいよ。そんなに熱心に喋らなくて」

  社長は喉をゴロゴロと鳴らし、長い尻尾を気怠げに揺らした。

  「君たちの役目は、あの狭い部屋で、私の代わりに細々とした数字を片付けること。そしてもうひとつ……私に最高の『褒美』をもたらすことだ」

  「え……?」

  レンが顔を上げると、社長はすでにデスクを離れ、音もなく彼の目の前にまで移動していた。見上げるほどの巨体。その圧倒的な威圧感に、レンの身体は硬直した。

  「よく働き、よく肥えてくれて有難う。人間は必死に頭を使わせると、脳も肉も独特の甘みを帯びて美味くなる。……特に、競争を勝ち抜いた一番の優等生はね」

  「昇進」の本当の意味を、レンはその瞬間、理解した。

  「ひっ、あ、あああ……!」

  レンが恐怖のあまり悲鳴を上げ、後ずさりしようとした瞬間、社長の丸太のように太い、しかしビロードのように滑らかな手が動いた。無造作に、まるで床に落ちた小さな紙切れでも拾い上げるように、レンの身体が衣服ごと摘み上げられる。

  「いやだ! 助けてくれ! 僕は、僕は成果を出したんだ……!」

  「ああ、だからこそ褒美として、私の血肉にしてあげるのさ」

  社長の三日月のような瞳が、歓喜に細められた。

  ピンク色の長い舌がペロリと鋭い牙を覗かせると、その巨大な口を開いて彼をぽいと放り込んだ。

  「嫌……嫌だ──」

  レンの悲鳴は、即座に閉じられた漆黒の唇によって遮られた。

  彼を待ち受けていたのは、圧倒的な熱量と粘膜に満ちた暗黒の空間だった。社長はレンを喉の奥へ送ってしまう前に、まるで新しいおもちゃを手に入れた猫のように、口内で執拗に彼を弄び始めた。

  強靭で柔軟な桃色の舌が、レンの全身を容赦なく転がし、押し潰し、ねっとりと舐め上げる。その舌の表面は猫科の獣人特有のザラザラとした棘で覆われており、その舌が動くたび、そのザラザラとした感触がレンの衣服を激しく擦り皮膚を強烈に刺激する。まるでヤスリで撫で回されているかのような痛みに、レンは身をよじって絶叫した。

  レンが窒息しそうになりながら必死に抵抗しても、四方八方から迫る分厚い肉壁の前には無力だった。社長は口を少しだけすぼめ、舌先でレンを飴玉のように転がして味わいながら、時々鋭い牙の裏側に押し当てて口の中の人間が恐怖で震えているのを楽しんでいる。

  「ん……く、ふふ……」

  社長の喉から、低く愉しげな鳴き声が漏れる。口を閉じたまま、頬を交互に不自然に膨らませ、レンをころころと転がして、その味を外側から楽しんでいるのだ。ときおり、ズズ、と唾液を飲み込み、その音がレンの鼓膜を震わせ、彼の恐怖を加速させる。

  暫くした後、口の中のレンの味がなくなったことと、唾液で全身がぐしょ濡れになり、絶望と痛みで動けなくなったことを感じ取ると、社長はようやく満足したように顎を上げた。

  「お願いです……助けてください……何だってするので──」

  ゴクリ。

  太い首が一度だけほんの少しだけ波打った。

  抵抗する力を失っていたレンの身体は、喉の奥の強烈な吸引力によって、一瞬にして底なしの胃袋へと滑り落ちていった。

  「なら、私のこれからの仕事の為の養分になってくれ。」

  「う、うあぁぁっ! 出してくれ!」

  社長の平坦な下腹部の中で、レンは残った力を振り絞って手足をバタつかせ、内側から肉壁を押し返した。しかし、5メートルを超える巨獣の強靭な内臓にとって、人間の抵抗など、小鳥が羽ばたいている程度の微々たる振動に過ぎない。暫くしない内に胃の活動が活発化し、レンの抵抗もむなしく彼の全てが社長の中で溶けていく。

  「……ふぅ。やはり、今月の個体も極上だ。脳を酷使した人間の肉は、適度に引き締まっていて素晴らしい」

  社長は満足げに、喉の奥から深い満足の吐息を漏らした。丸みを帯びた自らの腹部を、鋭い爪を引っ込めた肉球で優しく愛おしげに撫でる。やがて、胃の腑から伝わる微かな蠢きも、そう時間もたたない内に徐々に弱まり、やがて完全に静寂へと帰していった。

  数分後、社長は何事もなかったかのようにデスクへと戻り、手元の内線ボタンを押した。

  「地下の人間たちに伝達だ。先ほど、レンの『昇進手続き』がすべて完了した。彼は今、私のすぐ近くで、この上ない一体感を持って会社に貢献している。君たちも彼を見習って、昇進の為に励みたまえ」

  地下の隔離部屋では、スピーカーから流れたその報を知り、人間たちが一斉に歓声を上げていた。

  「聞いたか! レンは本当に、上の世界へ行ったんだ!」

  「社長のすぐ近くで働いてるんだってよ! 凄いな!」

  「俺たちも負けてられないぞ! もっと書類を片付けて、絶対に昇進してやるんだ!」

  自分たちが目指す「天国」が、冷酷な黒猫の胃袋の底であることも知らず、人間たちは血眼になって、再びペンを走らせ始めるのだった。

  数時間後。地下の隔離部屋では、人間たちが「昇進」という名目で獣人の餌になることも知らず、相変わらず目を血走らせて書類の山に齧りついていた。

  一方、最上階のプレジデント・ルーム。

  満腹感に満たされた社長は、ソファーに深く腰掛け、しなやかな長い脚を組んでいた。その下腹部は、先ほど呑み込んだレンを完全に溶かし尽くし、すでに元の平坦で美しいラインに戻っている。

  「……さて」

  社長は退屈そうに欠伸をすると、デスクの上に視線を向けた。そこには、地下の人間たちが丸一日、十数人がかりで血眼になって処理する予定の、明日以降の膨大な貿易データが映し出された端末があった。

  社長は大きな手を伸ばし、鋭い爪の先で画面を数回、気怠げにタップした。

  流れるように動く十本の指。人間の脳では処理しきれない膨大な桁数の数字と、複雑怪奇な関税の計算式が、社長の圧倒的な演算能力によって、瞬く間に処理されていく。

  人間たちが徹夜を重ね、胃に穴をあける思いで仕上げる精緻な書類。それが、社長にとっては「片手間の暇つぶし」ですらない、単なる指先の運動に過ぎなかった。

  わずか3分。

  人間たちの数日分の労働成果が、完璧なグラフとなって画面に弾き出される。

  そもそも、獣人たちの知的スペックは人間に劣るどころか、遥かに超越していた。社長がわざわざ地下に人間を囲っているのは、事務能力を頼りにしているからでは毛頭ない。自分がやるまでもない、「どうでもいい雑務」を押し付け、必死に知恵を絞らせることで、その肉を最高に美味に仕上げるための「飼育期間」に過ぎなかったのだ。

  「ふふ……本当に、健気で哀れな生き物」

  社長は、地下でカリカリとペンを走らせているであろう「家畜」たちを思い浮かべ、喉を愛おしげにゴロゴロと鳴らした。

  自分たちが獣人より優れていると錯覚し、勝手に希望を抱き、勝手に競い合って、美味しく熟していく極上の果実たち。

  「次の『昇進者』は、誰にしようかしらね……」

  社長はピンク色の舌でペロリと唇を湿らせると、人間には決して追いつけない速度で次の雑務を片付け始めた。その瞳には、次の獲物の味への期待だけが妖しく輝いていた。

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