Ⅱ.赤と青に囚われて

  一度視界に焼きついた赤と青の瞳が、どうしても頭から離れなかった。

  それからというもの、チリは任務の合間を縫っては、取り憑かれたようにユエの住む森へ通い続けていた。

  かつての彼なら、一度や二度そっけない態度を取られれば「次、行こか」と笑って切り替えていただろう。

  けれど、ユエに拒絶されるたび、妙に胸の奥がざわついた。

  あの警戒した目も、鋭い牙も、本当は誰にも見せたくないと思ってしまう。

  「ユエちゃん、今日も来たで。ほら、街で美味しいって評判の焼き菓子、買うて来たんやけど……一口どう?」

  木陰から声をかけるチリに、ユエは樹上の太い枝に座り込んだまま、鋭い視線を向けた。

  黒い耳が不快そうに伏せられている。

  「……帰れって言ってる。人間。」

  「そんなこと言わんといて。チリちゃん、あんたの顔見んと一日が終わらへん体質になってしもたんや。」

  チリはいつもの軽妙な口調で笑うが、その目は一切笑っていない。

  じっとユエを捉えた瞳は、獲物を逃さんとする捕食者のようだった。

  ユエは鼻をひくつかせた。

  チリから漂う混ざった匂いは薄れているが消えてはいなかった。

  理由はわからない。ただ、本能的に拒絶してしまう。

  (……この人間、やっぱり変な匂いがする。)

  チリの服の繊維の奥や、彼自身の肌に刻み込まれたような、幾つもの匂いが混ざり合った残り香。

  それが、ユエにはひどく不潔で、暴力的なものに感じられた。

  (怖い。……こんな匂いがする人間、信用できるわけない。)

  昔、自分を「不吉だ」と笑いながら近づき、石を投げつけた人間たち。

  あの時と同じ匂いがする。

  ユエにとって、匂いは嘘をつかない。

  「あんた……なんで、そんなに色んな匂いがするの。……気持ち悪い。ひとりじゃないから、そんな変な匂いになるんだ。」

  ユエの言葉に、チリは一瞬、心臓を素手で掴まれたような衝撃を受けた。

  今まで軽く笑って流してきた過去が、初めて喉に刺さった気がした。

  「……あー、そうか。やっぱり、まだ匂うか」

  チリは誤魔化すように笑い、自分の袖口へ鼻先を寄せた。

  もう何日も、他の女の影すら踏んでいない。

  それでも、ユエの鼻は彼が積み重ねてきた「不誠実」を見逃してくれなかった。

  「そない嫌そうな顔せんといてや。チリちゃん、今はもうあんたの顔見んと落ち着かへんのに。」

  「信じない。……人間は、みんなそうやって笑って、酷いことするから。」

  ユエの指先から、バチバチと黒い魔力が溢れ出す。

  揺らめく魔力に触れた草木が、じわりと黒く変色していく。

  感情のまま暴れるその力は、あまりにも危うい。

  チリはその光景を見て、恐怖よりも先に、胸の奥が熱を持つのを感じていた。

  (ああ、やっぱり危ないなぁ、ユエちゃんは。……あかん。あんな力、放っとけるわけないやろ)

  「ええよ。今日はこれ、ここに置いとくから。……また明日も来る。あんたが『もうええ』って言うても、チリちゃんは諦めへんで。」

  チリは焼き菓子の包みをそっと岩の上に置くと、名残惜しそうに、けれど潔く背を向けた。

  ユエは木の上から、チリの後ろ姿をじっと見つめ続ける。

  追い払いたいはずなのに、「また明日も来る」と言われると、胸の奥がざわついて落ち着かない。

  森にひとりで生きてきたはずなのに、あの男の気配が消えると、妙に静かすぎる気がした。

  チリは森を抜けながら、ポツリと。

  「……あんなに綺麗な目ぇして威嚇されたら、ますます離したくなくなるやん。ユエちゃん……あんたいつまで逃げられるやろなぁ」

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