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君だけあかん
指先に、確かな手応えがあった。
そこから、じわりじわりと身体中へと、広がってゆく。そうして、身体中を隙間なく巡ってから、また指先へとそれは還って。
指を放す。
持っていたそれから、音が立つ。耳を震わせる。それから、遅れて鈍い音が。前方を見やれば、放った矢は的を外れ、少し横へと吸い込まれていた。
湊(みなと)は軽く息を吐く。
ふと、それから思い出したかのように、少し離れた位置にいる男へと目をやった。視線の先に居る、真っ黒な被毛を持つ、湊よりかは背は低い、それでも自分と同じく弓を
扱っているのだから、決して華奢という訳ではない。しなやかな筋肉を備えているであろう、猫の男を。
全身は黒いのに、その腕から先だけは白い。四足の猫ならいわゆる白い靴下と呼ばれるそれが、印象的だった。まずはその黒い被毛に目を奪われ、漆黒の中から覗く金の瞳に。
四肢の先の雪のような白さに。まるでそうしてくれと言われているかのように、視線は泳ぎ、そしてその指先から今まさにそれが。先程の自分と同じように放たれようとしていた。
音がした。矢が、放たれたのだ。僅かな間を置いて、それは狙い過たず、的へと吸い込まれて。
とん、と静かな音を立てた。
一瞬の内に、静寂に包まれる。周囲には勿論、自分達以外にも学生の姿がある。それでもしばらくの間、一連の動作で起きた音の名残ばかりをおいて、それ以外、何も耳には
入ってこなかった。
ゆっくりとした所作で、猫の男が姿勢を正す。自分の手と、それから弓をじっと見つめている。
じわり、と暑さが身体を包む。一時忘れていた夏の感覚が、戻ってくる。黒い被毛に、かすかな汗の深い色合いの違いを見て取る。
途端に音が戻ってきた。周囲の音も、決してうるさくはないが、それでもわずかな衣擦れ、弦音、矢の音がやってくる。
こちらをゆっくりと見た猫の男が、僅かに笑みを浮かべて。それから軽く顎を動かす。それに、湊は頷いた。
湊は大学生一年生だった。
暑い盛りを過ぎとはいえ、まだ九月も終わりに差し掛かった頃。涼しい教室と違って、暑い弓道場にあるのは精々が生温かい風を送ってくれる扇風機くらいのものだ。とはいえ
それは、大抵のスポーツ競技においても例外ではないのだが。炎天下で走り回るサッカー等と比べたら、増しなのは確かだった。
更衣室で着替えを済ませて、弓道場を後にして大学校舎の廊下を、二人は歩く。既に陽は暮れかけ、周囲には同じように部活動、あるいはサークルに参加をしていた学生達の姿も
あった。帰路に着く者もあれば、或いは夜遊びの計画でもしているのか、笑い声をあげている学生も居る。
「陽が落ちるのははよなったけど、まだまだ暑いなぁ」
「ですね」
「それはそうとミナト君。最近どんどん上手くなっとるな」
「そう……ですか?」
自分の少し前を歩く黒猫から発された言葉に、湊はそう答えた。世辞でもなく、単純に意外に思って返した言葉だった。
「まだ、全然当たらないんですけど」
「そりゃぁ、最初は誰だってそんなもんや。でもな、元々高校でやっとった訳ちゃうやろ? ほんなら充分、健闘しとるって」
湊よりは少し背の低い、安倉 宗矢(あくら そうや)は朗らかに口にしながら、その場でくるくるとステップを踏む。弓道をしている時の澄み切った様子とはかけ離れた所作だった。
初対面の頃は、その落差に戸惑ったのを湊はまだ憶えている。
宗矢は大学二年生だった。喜怒哀楽の激しい性格と、それから関西出身のようで、言葉遣いも関西弁のそれである。地元の大学にそのまま入った湊とは、対照的な存在だった。
「それに、やっぱミナト君は体型がしっかりしとるしな。もう少し色々慣れたら、重い弓も扱えるかもしれへん。かっちょええなぁ」
「そ、そう……ですか」
ハイエナの獣人である湊は、宗矢より二回り以上の体躯を持っていた。幼い頃から大丈夫になると言われていたし、実際その通りになった。ただ。その恵まれた体格から周囲に
怖がられる事も多かった。その気もないのに高校時代は不良に絡まれたり、あるいは一目置かれたりする事もあった。当人は正直なところ、そういった事に興味もなかった。大学に
進学した後は、サークル活動なんてものはまたこの体格のせいもあって過去の憂き目を繰り返すだろうと考え、翻ってスポーツの関係者からは熱い視線を送られていたので、
それならばと弓道の門戸を叩いたのだった。とはいえ高校時代はそういった活動をしていなかったのもあって、ゼロからの出発でもある。
「自分、一年生? やり方わかりそ?」
そんな時に声を掛けてくれたのが、一年先輩でもある宗矢であった。以来、弓道部の活動においてはなにくれとなく宗矢は湊の面倒を見てくれている存在でもある。
「ソウヤ先輩のおかげです。色々と俺の事を助けてくれて」
「だははは、なんやむず痒いわ~。ミナト君が頑張れてるの、俺のおかげって! まあ、それはそうやな~わははは」
冗談なのか本気なのかわからない受け取り方をする宗矢の様子に、湊は思わず笑ってしまう。この先輩は、いつもこうなのだった。相手の領域に、軽はずみに踏み込んでくる。
ただ、それが思いの外不快ではない。そういう稀有なタイプだった。無論、人と人との相性の事だから、宗矢と相性が悪い人物というのも居ない訳ではないのだろうが、少なくとも
湊にとっては右も左もわからない大学生活な上に、経験もない弓道部所属という迷子の様な状態を救ってくれた存在でもあった。また、弓道部でも最近は同学年の知り合いも増えたが、
それもまた宗矢が新入生に対して世話を焼いているところからきている。
「……でも、まぁ。なんかちょっと、似ててな。昔の俺に。俺も、大阪からこっちきて、最初はちぃとばかり心細ぉてなぁ」
「どうしてもこっちに来たかったんですか?」
「んー、まあ。せやな。そんなところ」
湊は、どうして宗矢がここに居るのかは知らなかった。あまり踏み込んでは鬱陶しい後輩と思われるかも知れないし、そんな事でいつも親切丁寧に、その上でユーモアを忘れない
この先輩を失うのは、あまりにも悲しかった。少なくとも朴念仁で、時に粗野と揶揄される事も多い湊にとっては、宗矢のような存在はあまりにもありがたく、また眩しくもあったの
だった。
「先輩は、大学にあがる前から弓道、やってたんですよね。……その、所作が、すごく綺麗で」
「ありがとなぁ。そうそう、俺は高校から弓道やっててな」
「きっかけとか、あったんですか?」
「かっちょええやん!? ファンタジーな感じで!!」
「……そ、そうなんですか」
鼻息荒く力説してくる宗矢の様子に、湊はたじろぐ。てっきりもっと大きな理由でもあのかと思ったが、それを期待するには自分も大し動機で弓道をしている訳でもないのは
確かだった。
「戦う感じ? っていうと、剣道とかの方がそれっぽいですけど」
弓道は正直なところ、どこまでいっても自分との戦いを繰り返してゆく競技でもあった。射場に立っては姿勢を整えるところから、放ち、落ち着くところまで。すべての動作に
おいて精神を統一し、雑念を追いやり、放たれる一本の矢に全身全霊を籠める。その感覚が湊は好きだが、同時に段々と自分が何をやっているのかもわからなくなるような感覚になる。
集中が過ぎて、認識を損なう。そういうものに近かった。
無意識の中でも、完成された形を目指す。ぼんやりとだが、今はそれを目指すようにしている。
「あー、剣道は、ちょっとなぁ……」
弓道について考えていた湊の耳に、そんな言葉が飛び込んでくる。何気なく訊いた言葉だったが、宗矢はなんともいえない表情を示していた。
「まあでも、俺は弓道でええんや。やってると落ち着くしな。ミナト君も弓道のそういうところが好きなんやろ?」
「はい。瞑想とか、それだけやってみるっていうのもいいけれど。ある程度何かしながらの方が」
「わかるわ~。いい結果が出た時も、なんていうんかな……勿論的に当てるんは大事や。せやけど、射場に立つその前から、もう自分を整えとかなあかん。姿勢作るところから
はじめて、終わって姿勢を正すところまでが全部セットで、集中してると案外当たったかどうかなんて気にならんくなる。それだけ自分が目の前の事に集中しとったって、あとで
わかる。そういうの、ええよな。おかけで弓道場で騒がんくて済んどるわ」
「まあ、俺はもうちょっとまず当てられないとですけれど」
「そんなん気にせんと。最初の頃よりずっと動きが綺麗や。やっぱ身体デカい分、そうやって所作を身に着けるとかっこつくわ。羨ましいでほんま」
「俺は、先輩の方がずっと、その……恰好いいと思ってますが」
「なんや、そんな褒めて。ムズ痒いわ。おばちゃんみたいに飴ちゃん持ってへんのやで」
口にする間際、湊はあまり言い過ぎてはよくないとは思いつつも、素直な気持ちを宗矢にぶつけた。実際に、弓道をしている際の宗矢の姿には見惚れていた。いつもの朗らかで、
太陽そのもののような明るさを持つ天真爛漫な様子も、日陰に居るのが当たり前かのような湊には眩しい程だったが、一度射場に立てば明鏡止水を体現したかのようなその
立ち居振舞は、いつ見ても目が離せなくなる。耳の先から尻尾の先まで、集中力が漲り、普段はあまり意識されない筋肉の静かな動き。どこにも、今こうして和気あいあいと話して
いる時に感じているやんちゃなものが残っていない様子。一人の男が、そこに立っている。自分よりもずっと優れた弓の使い手だ。
そういう事実を感じる瞬間も、また湊は好きだった。
「ま、飴ちゃんの代わりって訳やないけど……」
途中にある自動販売機を見つけると、小走りで宗矢が近づいて、二人分の飲み物を買う。
「ん。暑いから、きちんと水分補給してな」
「ありがとうございます。あ、でもお金」
「こういう時は黙って奢られとくもんやで」
「……金ないって言ってなかったでしたっけ?」
「そ、それはそれ。これはこれや……先輩風吹かさせたってや。ほな、またな」
半ば押し付けられた飲み物を受け取ると、そのまま宗矢が手を振って人込みに消えていく。
見えなくなるまで、その愉快な黒猫の様子を湊は見つめていた。
「先輩みたいに、なってみたいな」
宗矢に呟くが聞こえない距離である事を確認してから、湊はそう口にする。
暑さが、少しずつ和らいでくる。
夏休みの間に通い詰めた弓道部も、講義がはじまった今は少し遠い。とはいえ湊はサークルに所属している訳でもなければ、苦学生としてバイトに勤しんでいる訳でもない。その
辺りは、家はおおらかだった。むしろ、体格のせいもありいじられては消極的だった湊が弓道をはじめたいと口にした際には、応援をされる程だった。
その日、湊は大学校舎の三階から、外を眺めていた。
講義が終え、これから部活動、サークル活動が盛んな時間だ。ただ、今日は湊は弓道部を休む予定だった。
「ミナト君、真面目なのはええんやけど、たまには休まんとあかんで? 腱鞘炎なったら、それこそ弓なんて一月は持てへんし。学生なんて普段から勉強にも散々手使っとるんやから、
無理せんと、休まなあかん」
昨日、いつものように部活動に勤しんでいた際に宗矢から告げられたのだった。
弓道自体の経験が浅い湊は、そういった事柄に関しての知識も浅く。身体をセーブするという考えも希薄だった。ただ、確かに夏休みの間に気合をいれていた際にも、やんわりと
宗矢に止められた事があったなと思い出す。
そんな訳で、少しの暇を持て余して。窓から外を眺めていたのだった。窓の外には大学のグラウンドが広がっており、部活動に勤しむ学生達の姿が見える。
それを眺めていると、ふと中学、高校の頃の自分を湊は思い出すのだった。
あの頃は、人との関わりを避けていて。それはいつも遠巻きに眺めているだけだった。今は少し違う。弓道部という、グラウンドに立ちはしないが、それでもあそこで部活動に
励んでいる学生達と何も変わらぬ日々を、自分も送れるようになった。
それも、やはりあの黒猫。宗矢のおかげなのだった。
「先輩みたいになりたいな……」
宗矢もいい加減、大学生である。既に成人を迎え、いつまでも引っ込み時間ではいけないなという気持ちも芽生えはじめていた。年が明け、恙なく進級したとなれば、湊も晴れて
二年生。弓道部に一年が入ってきたら、先輩という事にもなる。たった一年しか違わないのに、どうして自分と宗矢ではこんなに違うのかと、自分が情けなくなる時もあった。
それとは別に、湊は宗矢の弓の使う姿が好きだった。見ていて惚れ惚れするような所作。自分が来年、あんな風になれている自信はない。
もっとも、大学に入るよりも前から弓道に親しんでいた宗矢と自分とでは経験の差がまるで違う。そんなものに拘るのは、できないと駄目だというのは、むしろ宗矢に対する侮辱に
近い考えだということも理解していた。
きっと来年は、二年になった自分が後輩に対してどう接していいか悩んでいる時に、宗矢が笑いながら手を差し出してくれる。嬉しいような、申し訳ないような。
そんな風になるのかも知れないなと、湊は思った。
「なーミナト、何してんの?」
つと声を掛けられて、湊は窓から視線をそちらへと向ける。そこに立っていたのは、灰色の被毛に包まれた狼の男だった。目元が鋭く、一瞥するだけで狼特有の鋭利な印象を
受ける。如何にも青春を謳歌してそうなラフなシャツとパンツ姿が、その鋭さを程よく抑えている。当の湊は、私服に拘りもなく。高校の頃からの私服を使いまわしていたが。
ちなみに宗矢は柄物の派手な物を身に着けている事が多い。何も言わなければ落ち着いて、涼やかな黒猫なので、それはそれでいいギャップだと湊は勝手に思っている。
「目立つ方が見つけてもらいやすいやん?」
と宗矢の言もあり、肯定的だ。なので、今度湊もそれに倣って派手な柄物を買おうと思っていたが、やんわりと宗矢から「ミナト君はそのままがええよ」と言われたので
そのままにしている。
「外、見てた」
「そりゃ見たらわかるわって話」
湊は思考を目の前の狼へと戻す。
「部活動の奴らを見てた。今日は、休みだから。アモウ。お前もそろそろ泳ぎに行くんじゃないのか」
「俺は今日はサボり~」
天羽宏(あもう ひろ)は、湊と同学年の狼だった。水泳部に所属しており、入学当初、湊は天羽から声を掛けられた。
「めっちゃいい身体じゃん。水泳一緒にやらね?」
「いや、いい」
という風に当時の会話は酷く短いものだったが、水泳部に限らず身体の大きな港を勧誘する声は時折あり、天羽もその中の一人といえば一人だった。ただ、湊が弓道部に所属した
事が知れ渡ると声を掛ける者も居なくなりはしたが、天羽は時折声を掛けてきては、軽く話をする。もっとも、それもつい最近の話だ。
「なんか最近、お前変わったよな。いい感じに」
という言葉を皮切りに、天羽が前よりも話しかけてくるようになったのだ。湊にはその理由がよくわからなかったが、これも宗矢と会話をする過程で、少しずつ自分が人付き合いに
慣れてきているから起きた変化なのではないかと考えていた。
「俺もあとで基礎トレしないとなぁ」
隣にやってきた天羽が、走っている学生を見下ろして口にする。
「水泳って、泳ぎ以外の事もするのか」
「するする。スタミナも筋力も必要なんだからな。見ろよこれ」
といって、天羽が腕まくりをして力こぶを作ると、被毛越しでも充分な膨らみが見て取れる。
「……ま、お前に見せてもなんか虚しいけど」
「え?」
「なんでもねー。それよりも、休みなんて珍しいな。何、たまには休めとか言われた?」
「……うん」
「だよなー。お前随分入れ込んでたもんな。俺も水泳はじめたての頃は言われてたわ」
天羽は宗矢と同じく、それなりに部活動に年期が入っているらしく。湊がそう告げるとどことなく懐かしそうに眼を細めて笑う。
「ただ、こういう時やる事がなくて」
「まあ、突然暇になったりすると結構困るもんな。でも、大事だぜ休むって。筋トレだって、筋肉は平気でも関節の疲労はまた別だって言われてるんだ、知ってる? だから筋肉痛が
無くてもたまには関節を労わって、一週間くらい休んだっていいんだぜ。むしろ、ぶっ壊れるまでやり続けるより今は適度に休む方がって感じだし。……そりゃ、それに人生賭けてて、
それ以外の全部は人生のオマケみたいなもんなんだって言い切れるくらいなら、ぶっ通しでやるのもいいかも知れないけどさ」
「そういうものなのか」
「そうだよ。この間も少し話題になってた。無茶しすぎた先輩がそれで、駄目になったって。まあ、先輩にとっちゃ……それくらいに、今がすべてって感じだったのかもだけどさ。
でも、家族だってそんなん納得できないだろうしな」
気づくと、天羽は窓に掌を当てて、遠くの学生達ではなく。窓に映る自分を見つめているように。少し寂しそうな顔をしていた。
「アモウは……どっちなんだ?」
「え?」
ふと、気になって湊は声に出して、訊ねてみる。天羽は困惑したように顔を上げた。
「それくらい。自分の……人生全部を使うくらいの気持ちで、水泳やってるのか」
「まさか。無理無理、嫌だよそんな」
慌てて手を振って、天羽は笑みを浮かべる。一頻りそうしてから、また外を。
「……でもさ、なんか羨ましいかも。それくらい入れ込めるものがあるっていうのさ。大学って今じゃ行って当たり前っていうか……いや、当たり前じゃない奴も居るけどさ。でも、
迷ったらとりあえず行っとけとか。将来の選択肢が増えるから、とか。まあ、言いたい事はわかる。実際そうなんだろうなって。だから俺も、こうして大学生になったけどさ。親が
行けるなら行っていいって言ってくれたし、好きだった水泳も続けられてるしさ。ただ」
「ただ?」
「夢中になってなんかやってるってのとは、ちょっと違うかなって、そう思ってさ。将来が不安だからとりあえず行ってるだけで。そういう時に、その、先輩が無茶した話とか
聞くとさ。ああ、こういう人にとっては、違うんだなって。同じ場所に居ても、温度感? 温度差? とにかく、ここで自分の人生出しきってやる、みたいな熱の入れようって
いうのがあってさ。なんか、時々それが……ちょっと羨ましい。まあ、そんな事しちゃ駄目なのはわかるけど。そんなんやらかしたら親父とお袋からぶっ叩かれるだけじゃ済まないし。
あんた高い学費かかってんのに何やってんのよ! って絶対怒られる」
「そうだな」
最後の天羽の言葉に、覚えず湊は笑ってしまう。多分、湊が同じことをしても、家族はそんな反応をするかも知れない。叩かれる事はないだろうが、おそらくは泣かせてしまって。
それから、心が軽くなっている自分に気づく。理由を探して、すぐに思い当たる。
「ありがとう、天羽。俺、部活を休んでる事に、少し罪悪感もあったみたいだ。先輩が熱心に教えてくれるんだから、早く上達しなきゃって。そう、思ってた」
「ありがち~。無理しなくていいんだぜ別に。それこそ手の抜き方ってもんの方を覚えてくもんだよ。ずっと緊張してると、しんどいだけだからな。ガス抜きの仕方も覚えとくと
いいぜ。ミナト」
「ガス抜きの仕方……」
そう言われて、湊は少し考えこむ。別に、張り詰めた状態かと言われるとそういう訳ではなかったが、現に今余暇が発生してもその扱いに手をこまねいているのは確かだった。無論
学生の本文は勉学なので、その分勉強をするのがもっとも正しいといえばそうなのだろうが、目の前に居る天羽が口にしているガス抜きという言葉の意図するところがそこではない
のは、さすがの湊でも理解していた。
「みんなはこういう時、何をしているんだろう」
「何って……」
天羽が何かを言いかけて、それから笑い声をあげる。
「ミナト。お前、街に出たりとか、してないだろ」
「え? 土日に家族で出かけたりはしてるが」
「それは違う。大分違う。ま、予想ついてたけどさ。……それならさ、来週の土曜。遊びにいかね?」
「遊びに……」
「ああ、夜までは居ないから。どうも箱入りみたいだしな、ミナト」
突然の誘いに、湊は少し考えこむ。正直なところ、目の前に居る天羽との接点はそれほど多くはなかった。今ここで話している会話でも、過去最高に話が弾んだ程度だと言えば、
聞いた者はあまり親しくはないのだなとわかるくらいだ。
「本当に俺でいいのか?」
「よくなかったら声かけねぇだろ」
「それも、そうか……」
別に勉強に勤しんでもいい。ただ、今後も部活を適度に休む必要はあるだろう。そのすべてを勉強に費やすのは今までの学生生活と何も変わらないし、それ以外の手法を知って
おくのは自分にとっては良い方向に働くだろうと、最終的に湊は結論付ける事にする。
「わかった。適度に部活は休めと言われていたし、それでいい」
「よし、それじゃ、来週の……あ、その前に」
天羽が瞬時にポケットからスマートフォンを取り出してくる。
「連絡先、交換しようぜ」
「あ、ああ。えっと……」
その後、スマートフォンの使い方も覚束ない湊に天羽はまた笑い、丁寧に教えを受けながらどうにか連絡先を交換し終えると、二人揃って大学出ては別れの挨拶を交わして、湊は
帰路に着くのだった。
行き交う人々は、誰もかれもが賑々しい様相を呈していた。
そんな中において、一人。湊だけは、それらとはまるで別の世界に居るかのように静かだ。
注意深く見れば、湊の周り。一定の距離には、誰も近づかないのが見て取れただろう。
もっとも、湊にとってそれは別段、気にする程の事でもなかった。いつもの事だ。
「おーい、ミナト」
声が掛けられる。聞きなれた、とは言い難い声。湊が視線を向ければ、こちらに向かって歩いている、大分軟派な男の姿があった。
「アモウ。……アモウ?」
「なんで今疑問形にして言いなおした?」
「服が」
「あー」
大学で会うままの天羽を湊は想像していたが、やってきた天羽の恰好はそうではなかった。奇抜というか、前衛的というか、ガキ大将というか。ゆるい黒のタンクトップに
これまた少し緩いパンツ。靴の上で大分余ったそれが、そういうファッションなのだと言い聞かせても湊の眼には大分奇妙に映った。
「買ったはいいけど今年は部活ばっかで着る機会もなくてさ。まあ、せっかくだし?」
「大学に来てくればいいんじゃないか」
「さすがに大学ではないわ。いくら服装自由でも」
「そうなのか」
湊にはよくわからないが、その辺りは天羽はよくわかっている男のようだった。
「さーて、どこに行くかね」
「決めてないのか?」
「まあ、ぶらぶら目的もなく歩くっていうのも、暇の潰し方なんですよ。ミナト君」
ふざけた様子で天羽は口にするが、言われてみると確かにと思える節もまたあった。目的もなく歩く、という行為自体が、湊にとっても新鮮なのは確かだった。
「ま、それはそれとしてぇ……ミナトの服もなんか見繕いたいな」
「俺の……?」
「なんかお母さんの買ってきたパンツ穿いてそうだしぃ……」
「……」
穿いてる。
とは、さすがの湊も言わなかった。もっとも湊のなんともいえない表情と、そこに足された沈黙の具合で、天羽はなんとなく察してのか、苦笑を浮かべていたが。
「ま、いいや。行こうぜ。こんなところで立っててもいい見世物でしかないし。心配すんなって、高いところは行かないからさ」
手招きを受けて、湊は天羽の隣に向かうとそのまま街中を歩きはじめる。ただでさえ湊一人でも人の波が割れるというのに、そこに不良のような恰好を晒した天羽まで加わる
ものだから、余計に大きく人波が割れてゆく。
「その、アモウ……訊いてもいいか?」
「何を?」
しばし歩いた後に、湊は疑問に思っていた事を口にする。
「多分、お前は友達なんていくらでも居るだろう。俺なんかと一緒で、楽しいのか?」
湊からの問いかけに、どこに行こうかと思案していたらしい天羽は意外そうに眼を見開いて湊へ視線を戻すが、少ししてから薄笑いを浮かべる。
「まあ、ちょっと突然か? でもまあ、いいかなって。元々声かけた時から気にはしてたし」
「俺はつまらない男だと思う」
「自分で言うなって。つまらなかったかどうかは、今日一日で俺が決めればいいし。ミナトの事、そんなに知ってる訳でもないのにこうしたのは俺の方だからさ。だからもし、
今日一日終わって失敗しちゃったなってなっても。ただそんな日もあるさってだけの話だぜ。それよりミナトこそ、いいのかよ。俺とこうして出かけてて」
「友達と出かけてくるって言ったら、家族から心配された」
「さすがに箱入りすぎるわ」
「……でも、俺はそういうの、何も知らない。だから少しくらいは、大学生らしくなりたいなって。そういう意味では、アモウみたいな奴とこうして出かけてる時点で、結構な進歩
だと思う」
「そりゃまた責任重大だ」
たわいない話をしながら、街中を歩いてゆく。家族以外とのこうした時間も、湊にとっては新鮮だった。小さいころから身体の大きさで避けられがちだったし、その上で輪をかけて
湊自身が引っ込み思案だ。ただ、思い返せば中学、高校でも自分に声を掛けてくれる誰かがまったくいなかった、なんて事はなかったと思う。
そう思えて、また今行動に移す事ができたのも。親身になって話を聞いてくれる猫の先輩の影響なのかも知れなかった。
程なくして、湊と天羽は大衆向けのカジュアルな服屋へと足を運ぶ。湊でも知っている。いわゆる庶民の味方の店だ。勿論足を運んだ事もある。ただ、いつも服には頓着せずに。
言われるがまま、渡されるがままだった。
「ま、ここに案内しておいてなんだけど。あと期待してたら悪いんだけど。選択肢はそんなに多くはない」
「そうなのか」
「んー。こう言ったら悪いんだけど。湊は身体がデカすぎる。あ、悪口じゃねぇよ? 俺はそこ、いいと思ってるし。スポーツするのに最適だし、憧れる。ただ、それとこれとは
別なんだわ。ファッションでは。ありていに言って、デカいサイズの服って少ない。凝った物とかまず置いてない。サイズあるだけマシ」
「……なるほど」
「専門店とか行けばあるっちゃあるけど、まあ高いしなー……でもま、しゃーなしだわな。デカい服ってその分在庫はけねぇから儲からねぇし」
「詳しいな」
「バイトちょっとやってたからなー」
店内を迷う様子も見せずに行く天羽の後ろに、どうにか湊はついてゆく。案の定というか、天羽の口にした通り、湊が着られそうな服はそれほど多くはなかったし、多くは無地の
大人しやかなものだった。
「まあ、無地以外は着ても大分……だと思うけど。キャラ物とかはまた別として」
「柄物は駄目なのか」
「えっ。……チェック柄とか? いかにも過ぎだしもうちょっと細い奴が着るもんだけど」
「派手な奴」
「堅気に見えないから、やめよ? 職質数でマウント取りたいんなら別だけど」
「そうか……」
やんわりと宗矢に今のままでいいよと言われた理由を、そこで湊はようやく理解する。実際、それくらいに湊は身体が大きかった。ほとんど2メートルに届くであろうかと思われる
背丈に、がっしりとした肩幅に。あまりにも大きなハイエナだった。それだからこそ、今の今まで一人きりで居る事が多かったのだが。
「おー。悪くないね」
数十分後。湊は天羽に見立ててもらった服に袖を通して、試着室から身体を覗かせた。今まではもう少し子供じみていた服だったが、上下ともに無地で、地味に見えるが
シャツに関しては胸元が少し大きく露出するようになっている。
「隠したい時は上着着てな。ぱっと見だと普通の恰好だけど、ちょっと脱いだらみたいなのがまあ無難だと思うわ。暑さ寒さでも調節できるしな」
「思ったより、地味なんだな」
「まあ、湊は充分目立つしなー。ハイエナの模様もあるし。だったらシャツとパンツは控え目で、上着で調整できるくらいが丁度いいよ。あんまり本腰入れると金も飛ぶし」
何着か軽く見立ててもらい、湊はそれをありがたく受け取り会計を済ませる。
「もう昼時だし、どっか食べてくか。希望ある?」
「……出費があったので、その」
「このヒロ様に任せなさい。奢ったる」
「いいのか?」
「まあ、誘って服買わせてる手前もあるし。高いのは期待すんなよー」
店を出て、次に向かったのはこれまた湊も知っているハンバーガーチェーン店だった。ただ、湊は知ってはいるものの、馴染みはない。家庭的な。とても家庭的な場所で
育った湊にとって、いわゆるファストフード、ジャンクフードの類は知ってはいても親からはあまり与えられる事はなかった。これが友達の居る学生なら、その価格の安さも
あって、あの店に行こうという話にもなりはするが、無論そういう機会にも恵まれてはいなかった。
「不思議な味がする」
「お前ほんっとーに箱入りなんだなぁ……。奢り甲斐あるわ」
チーズバーガーを頬張った湊の放った一言に、笑い声をあげて天羽が笑う。天羽のそういう姿は、その軽薄な服も相まってとても似合っていた。精悍な狼の表情に、水泳で
引き締まった身体に。布面積の少ないタンクトップは惜しげもなくその筋肉を見せつけている。狼の表情自体は凛々しい分、余計にその言動によるコミカルな面は人目を引いたし、
湊自身もこんなにフレンドリーな態度を表すことができるというのは憧憬を抱くものでもあった。そんな天羽の様子の良さに、少し離れた席に座る若い女性客が、天羽を意識して
少し視線を送っているのには、湊でも気づく程だ。
そういった、その場に居て周囲から熱い視線を送られている天羽の様子を見ていると、改めて自分のような地味な奴と一緒でいいのかと湊は考えてしまう。友達の輪の中心に
居るかのような人物だと思うのは、湊の考えすぎでもないだろう。
「で、どうだった? まだ終わっちゃいないけど、楽しめてる?」
「楽しい、というか……新鮮かも知れないな」
「まあ、それはそれで上出来かね。たまには新しい刺激がないとな」
「……よく、家族からも言われる。勉強熱心なのは嬉しいんだけどって」
「そういえばミナト、結構成績いいんだよな……」
成績が良い。
そういう表現を、よくされる。湊自身はそうは思っていなかった。勉強しか碌にしていない。だからそれなりの結果が出せている。ただ、それだけだ。本当に勉強熱心で結果を
出せているような人物と比べると、確実に劣ってもいた。勉強に時間を費やしていても、それはただ勉強しかする事がないと思っているからであって。きっと、熱意のような何かが
足りないのだろうと自分でわかっていた。
「アモウ。アモウは……水泳とか。水泳じゃなくてもいいんだが。本気でやっている事って、あるか」
「ん? この間の話?」
「……ああ、そうか。そういえばこの間も、こんな話してたな」
「なんだ、ミナトもちょっと悩んでるクチかぁ」
湊の言葉に、天羽もまた先程までの朗らかな様子を捨て去って、深く沈み込むように。そうしていると、その軟派に過ぎる格好のギャップがまた目に付いた。明るくて、はつらつで。
天羽の一番の売りはそれではあるが、あるいはその次の売りはそういった思慮深さの面でもあったのだった。
「水泳は、本気でやれてる……と、思う。思ってるだけかも知れないけど。楽しいし、タイムが縮まると、嬉しい。身体がいい感じに締まってくのも、好きだし。でも、なんかな。
夢中で、それだけ見てるって言うのとは、違うかもな。それがないからダメだって、そういいたい訳じゃねぇんだけどさ。なんだろな。上手く、言えない」
「俺もだ。俺は、勉強はよくしていたけれど。別に夢中だった訳ではないかな」
「難しい話だな。なんだろな~。もっと子供の頃だったら、そうだったかも? なんか、何するにももっと夢中だったと思う。今これだけしか考えてません! ってカンジ。わかる
だろ。遊んで気が付いたら日が暮れてるようなの。明日の事なんか、何も考えちゃいなかった。寝る前にほんの少しか、残りは次の日の朝、起きてから考えてた。高校二年くらいから
かな? 就職か進学か、とか。どこの大学に行くかとか。人によっては、もっと早くそれを考えるんだろうけどさ……。目の前にある事だけじゃ、駄目なんだなってなってきて。多分、
その辺りからなんじゃねぇかなぁ。何かに夢中になるのをやめて、それから漠然と将来が不安になって。それから」
そこで言葉を切って、少し天羽が溜め息を吐く。
「……何がしたいのか探す、みたいなの。何がしたいのかわからない、って状態なのがわかるようになったの」
「……」
青い疑問。青い感情だった。年頃の、子供から大人になるにつれて、社会との関わりが増えてゆくにつれて、増えてゆくもの。目の前の事だけを考えていた生活が終わって、何か
起きても親が助けてくれる期間も終わりを告げかけた頃の。一言で言ってしまえば、完全な自己責任が始まる時期だった。
そう言い換えれば、悠長な悩みだと湊は己のことながらも思った。親に頼れない者。親と既に縁が切れている者。そういう奴は、いくらでもいた。きっと彼らは生きるのに夢中で、
あるいは夢中ではなく必死で。だから今湊や天羽が向き合い、困惑しているような感情を抱く余裕なんてないだろう。そういう悩みを抱けるだけ、それは幸福かどうかはさておき、
恵まれている証とも言えた。
「恋でもしてみたら、なんか変わるのかも知れないけどさぁ」
「恋……」
「ミナトはした事あんの?」
「いや……」
少しだけ、話題が柔らかいものへと変じたことで、天羽が薄笑いを浮かべて訊ねてくる。ただ、湊にとってはその話題も、今までしていた話題と同じくらいに未知の、戸惑いの
領域でもあった。そもそもが自らの容姿もあって塞ぎ込んで。今更になって一念発起したという状態だ。ただの触れ合いですらできていない男が、そこから先に位置するはずの
恋愛なんてものに手が届くはずもない。
自分には縁がない物。湊には、そのくらいの認識だった。
「この間妹に、そういう話をされて。した事がないしわからないと言ったら、大分酷い顔をされた」
「可哀想、お互いに」
今思い返しても、湊は苦笑して申し訳ない気持ちになった事を憶えている。湊の妹は中学生で、まさにそういう事に興味が出たり、友達との話題として盛り上がる時期だった。
湊にとっては可愛い妹で、妹は妹で湊にはそれなりに懐いているので、ただ妹は兄がどんな風であるのか。もう大学生なのだから、そういう話に少しくらいは関わりがあるのでは
ないかと期待して聞いたようだったが、あまりにもあんまりな返答をされてしまったので、目を見開いて驚いていた。
「そういうアモウはどうなんだ」
「俺ぇ?」
「モテそうだ」
「モテそう……まあ、そう言われると、そうだけどなぁ」
意外にも、天羽はこの話題を自分で振っておきながら。あまり恋愛に興味が無い様子だった。どちらかと言えば湊に対して、駄目元で訊いてみたといったところだったのだろう。
「なんかなー。俺、それもなー。いやさ、遊ぶのは、好きなんだよね。あっちこっち行くの、好きだし。誰かとそうするのも、好き。でも、なんていうかな……。いつの間にか相手が
本気になり過ぎてて、迫られると、あーなんか違うなーってなっちゃうんだよね。俺は一緒に、何かを遊ぶのが好きなの。でも向こうは俺と一緒に居る方がずっとメインになっちゃって」
「そういうものなのか」
湊にとっては、新鮮な話だった。相手と何かをするかより、相手と一緒に居るのが大切。そう考えると聞こえはいいのだが、当の天羽からすれば、それは不服のようだった。
どちらの気持ちにせよ、湊にはなんだか遠く感じられる。
「だから、付き合うってのはしてねぇかな。一緒に遊んで、相手がなんか俺しか見なくなってきちゃったら、そこでおしまいっていうか。ただの友達って表面上で言えばそうだし。
まあ、そこで関係切ろうとすると告られるのも多いんだけどさ。逆なんだよね。それ。俺がしてほしくない方に行っちゃう」
「じゃあ、俺が今アモウを好きって言ったら。それはよくない事なんだな」
「あー」
天羽の表情の変化は、わかりやすかった。一瞬にして嫌な表情になり、それから悲しそうにしては、最後には苦笑いを見せていて。ほんのわずかな時間でも、その心中に様々な
葛藤がある事が見て取れる。
「やめてくれよ。冗談だってわかってても、ちょっと驚いたわ。つーか男同士じゃん」
「ごめん」
「ま、ミナトはそういうの言いなれてさえいないだろうから、実際なんともないけどな。試しに言ってみ」
「す……す、好きだ、よ。アモウ」
思わずといった様子で天羽が噴き出す。今までこっそりと天羽を見ていた周囲の席の者達が、驚いた顔を見せる。
「はははは! そんなん伝わるもんも伝わらねぇって! ……はぁ、よく笑った。ま、ミナトにしては頑張ったんじゃねぇの。ていうか意外とノリいいねミナト」
「アモウが、よく話してくれるから」
「案外ミナトは聞き上手なのかも知れないな。話遮ったりしないし、相手の話もよく聞いてるし。そういう奴。それはそれで、モテるんだぜ」
「そうなのか」
「ま、告白するにはもう少し気持ち乗せないとだけどな。聞いても笑っちまうだけだわ。……実際はもっと必死な感じに言われるから、どうしようかなってなるな」
「大変なんだな。モテるのって」
「……ミナトじゃなかったら皮肉にしか聞こえなかったなそれ」
「まあ、なんというか。お互いに、恋愛は早いのかもな」
「違いねぇや」
いつの間にか氷が溶けて薄くなったドリンクを無理矢理に飲むと、そこで二人は席を立つ。
「ちょっとトイレに」
「ん。外で待ってるから」
途中、湊は天羽にそう告げて用を足しに。店で少し並んでから無事に済ませると、そのまま外で待っている天羽の元へと向かう。
「……アモウ?」
天羽は予想と変わらず、外に出てすぐの広場で立っていた。丁度ここは交差点のように人々の行き交う中心となっていて、周囲には種々様々な店が立ち並んでいる。そんな一角から、
湊と天羽も出てきたばかりだ。
ただ、湊を待っていたはずの天羽は、ふと何かをじっと見つめていた。
「あ、ああごめん。行こうか」
何を見ているのかと湊は思ったが、天羽はすぐに視線をこちらへと向けると。いつも通りの笑みを浮かべて促してくる。何を見ているのかと思ったが、天羽に促されて次へと。
それから、湊と天羽はあちこちの店を巡った。
「別に買わなくても、見てるだけでも違うもんだぜ。つーか全部買ったら破産するから」
そう言う天羽に連れられて、アパレル関係のみならず、インテリアにまで湊は足を運んだ。普段ならば決して足を踏み入れないような場所だ。最初に湊でも入った事がある店に
天羽が案内してくれたのは、やはりそういう気の利かせ方をしてくれたのだなと実感する。
「家具もさぁ、今は手が出ないけど。将来自立したら、こういうの置いてみるんだーとかさ。考えるだけでも結構楽しいもんだぞ」
「そうなのか。……どうも、俺は実用性で見てしまうかも知れない」
「その辺は難しいところだな。雰囲気重視にするかどうかって感じだし。ほら、ランプなんかは特に」
道すがら、ガラスであつらえたランプが並ぶ店も外から眺めて、天羽は一つ一つを眩しそうに見つめては披露してくれる。
「一つ一つ手作りのものもある。実用性っていうと、ちょっと違うかもだけど……俺は、こういうの好きだな」
「……綺麗だな」
「でもお値段は結構するんだこれが」
試しに一つ、値札に注目してみれば。五万円の値に湊は頭が真っ白になる。
「た、高いな……」
「一つ一つがオリジナルだからな。大量生産してるのとは値段が違うさ。壊したらもう、同じ物が手に入る事もないしな」
「それも服屋でバイトした受け売りか」
「バレたか。そうそうそういう服もあるわけよ」
その後も、一頻り店を散策する。気づけば、陽が傾きはじめていた。その頃になってようやく湊は、そんな風に長い時間が過ぎる程に天羽と一緒になって街を散策していたのだと
気づいたのだった。
「もう、こんな時間なのか」
「そろそろお開きにすっかぁ。夜まで大事な息子さんを預かっちまったら、ご両親になんて挨拶すりゃいいのかだしな」
「同学年の、友達」
「へへへ。……そうだな」
気づけば、二人はまた広場の中心へと戻ってきていた。そこまできて、ふと湊は思い立って、辺りを見渡す。
「どしたん?」
「えっと……」
さっき、天羽が見ていたのは。少し探して、程なく見つける。湊は一人でのしのしと歩き出し、遅れて天羽がやってくる。
天羽が見ていた視線の先。そこにあったのは、なんの変哲さもないカプセルトイ。いわゆるガチャガチャだった。
「これが欲しかったのか?」
「……気づいてたのか」
湊が視線を天羽に向けると、観念したように天羽はやれやれと近くへとやってくる。大の男二人が小さな箱の前で屈んでいる様は、なんともいえないシュールさを漂わせる。
「……これ」
並んでいる箱の中の一つを、天羽が指さす。そこには様々な獣人がディフォルメされたキャラクターとなっているキーホルダーが入ったものがあり、天羽の指先はその中の、
水着姿で浮き輪を持っている狼を指していた。
「アモウみたいだな」
「言うなよ……! そういう事、思っても……!!」
途端に、天羽が恥ずかしそうに尻尾を縮こまらせて顔を覆う。
「……これさ。俺、好きなんだ。昔からある奴で、俺が、そのぅ……。水泳やりはじめたのも、これが好きだったから、なんだ。恥ずかしいから他の奴には言うなよ」
「立派な理由だと思うが」
「やめてこれ以上恥ずかしくさせないで」
「……引かないのか? 欲しいんだろ?」
「俺、くじ運ほんと絶望的でさぁ……。何回か引いたんだけど、全部違うんだよね」
「出るまで引けば100%と聞いた事はある」
「無限の財力やめろ。……それに、ソシャゲと違ってこういうのは有限だし、俺みたいなのが引きまくったらちびっこが困るだろ。あと大量に余らせて持って帰るとそれはそれで
扱いに困る。捨てるのは……可哀想だろ」
「そうだな」
今の発言で、湊はなんとなく天羽を好きになった。目当ての物ではなかったという場合も、上手く捨てられもしない。そういう心根の優しさに触れるのは、快かった。
懐から財布を取り出す。硬貨を数枚取り出して、投入口へと。それから、静かに回してみる。
「ほら」
「すっげ、一発かよ……」
程なくして出てきたカプセルを取り上げた湊は、それを天羽へと差し出す。中には、確かに天羽が欲しがっていた狼のキーホルダーが入っていた。天羽がそれを戸惑いながら、
それでも両手で受け止める。その受け止め方が、本当に子供のそれのようで。覚えず湊は笑ってしまう。
「……ありがと」
「喜んでもらえてよかった。今日はいろんなところに連れていってもらえたし、何かお礼がしたかったんだ」
「そんなの。別に。……俺だって、楽しかった」
大切そうに、天羽はそれを受け取る。尻尾が汚れる事も忘れて振られては、地面に擦れていた。
「……なあ、ミナト」
「なんだ?」
駅までの帰り道。掌に握ったカプセルと、隣を歩く湊へと交互に視線を送りながら、天羽が話を切り出してくる。
「今日、楽しかったか?」
「楽しかった。こんな風に息抜きするっていうのも、あるんだなって思った」
「……じゃあさ、また今度、誘ってもいい?」
「もちろん。でも、時々、時々な」
「そんなには楽しくなかった?」
「楽しかったから、時々なんだよ」
「そっか。そうだなぁ。部活、疎かにしたくないもんな」
へへっと笑って、天羽が笑って手を振って姿を消す。それを見送ってから、湊も自分の家へと足を進めてゆく。
「お兄ちゃん、どこ行ってたの!? やっぱり恋してたんだ!」
「違うな」
家に帰るなり、妹からは熱烈な質問攻めにあうのだが。
天羽と出かけた日から数日後。
湊は順風満帆な大学生生活を送っていた。
「ミナト君、なんやお洒落になったなぁ!」
丸い猫の目を一層丸くして、宗矢はまじまじと湊の服を見つめてはそう評価する。湊は顔がかっと熱くなる思いだった。
「友達に、選んでもらいまして」
「ええ友達やなあ。大事にせんとあかんで。俺なんか、俺が派手な物ばっか選ぶから、最近はもっとケバケバしいのばっか提案してきよる奴ばっかや」
既に十分な程に宗矢の私服は派手だと湊は思っていたが、どうやら宗矢の友達連中は更に派手に宗矢を飾ろうと画策しているらしい。
「……先輩なら似合うかも知れませんね」
「ほんま? ミナト君がそう言ってくれるんなら、俺頑張っちゃおうかな~」
そんな軽口を一頻り交わしてから、湊はいつも通り練習へと打ち込む。射場に立てば、精神を落ち着かせて、一心に弓を引く。いまだ、宗矢のように連続して的に当たる程には
なってはいない。もっとも始めてそれほどの日が経った訳でもない。ようやく最低限の弓の扱いを心得てきたといった程度だ。宗矢のように、音にせよ、弓の動きにせよ、綺麗に
とはいかなかった。その日も、自分で弓とにらめっこをしながら、宗矢の方を時折見ては違いに思い悩んでいた。
「どしたん?」
弓をじっと見つめていると、少しの間をおいてから宗矢が声を掛けてくる。それに、湊は少し沈んだ様子で応える。
「先輩みたいな音が中々出ないなと思いまして」
「はぁぁ。ミナト君そんな事気にしとったんか。まあ、人によって違うもんやから、気にしてもしゃあないもんやけどな」
「でも、先輩の音はすごく綺麗なんです」
「ミナト君……。そんな風に言わると、照れるから、あかんよ。……少し休憩しよか」
必要以上の会話は、心身を落ち着かせなければならない以上はご法度だった。促され、湊は頷き弓道場の外に出る。いつの間にか、じっとりと汗を掻いていた。そこまできて、
二人とも胸元を少し開けて僅かな涼をとる。
「でもほんま、数か月前とは見違える程やミナト君。ようやっとる。今のままでも、ミナト君は充分立派や」
「そう言っていただけるのは、嬉しいのですが」
「そんなに弦音が気になるん?」
「そうですね。多分……一番印象に残りやすいからかも知れません。そういうところを気にするのが、初心者なのかなとも思いますけれど」
「まあ、気持ちわからんでもないけどな。弓の材質とか、重さとかでその人の音って感じになるもんやし。俺も同期や先輩のなんかは、もう飽きる程聞いたから。別にそっち見やん
でも、これはあの人やなってようわかるし」
「俺の音も、わかりますか?」
「うーん。それはまだかな。ミナト君はまだまだ発展途上やし、数か月前とは違うって言うたやろ? 日々変わってくんや。勿論良い方向にな。せやから、もっと長く、沢山続けて。
ミナト君だけの物にしたら。そん時のミナト君が出した音が、ミナト君の音や。せやから、俺の音と違う、なんて思わんでもええ」
「そうなんですか」
「せや。……ああでも、なんや懐かしゅうて、こそばゆいな。俺も初めて弓持った頃は、なんやこんな話してた気ぃするわ。教えてくれたセンセが、やっぱええ感じでなぁ。
……なんや。そう考えると、ミナト君そんな事気にせんとって思っとったけど。俺も同じやったわ。お揃いやな」
ぱっと、黒猫の顔が笑う。それを見て、湊はなんとなくかっと顔が熱くなるのを感じる。
「せやから、そんな気負わんでええ。ミナト君はミナト君の音出せるようになったらええ。それがどんな音になるんか、今から楽しみやな」
「……はい」
自分だけの音。そう考えると、湊はまた少し弓道に対して、今までよりも貪欲な気持ちになった。それから、宗矢の音ももっと詳しく知りたいと思った。それこそ音を聞けば、
それが宗矢が出した音なのだとわかるようになりたいと。
「ま、音ばっか気にせんと。他の事も疎かにしたらあかんよ。あんまり気を取られとるのは褒められへん。無心、って一言で言うのは簡単やけど……それを目指さんとな」
「はい」
そこまでで、また弓道場へ戻ってもう少し練習に勤しもうと二人が立ち上がった時だった。少し離れた場所で、走り込む集団が目に留まる。どの部活動だろうかと湊は顔を
上げてじっと見ていたが、同じように見ていた宗矢が不意に小さく呟く。
「……シユウ(獅雄)……」
「先輩?」
「……行こか、ミナト君」
それ以上宗矢は何も言わず、踵を返して弓道場へと戻ってしまう。その後を追いかけようとして、再度湊は走り込みをしている集団へと。その中に、自分のように身体の大きな、
そして立派な鬣をなびかせている人物の姿を見つける。ただ、それ以上は目で追わず。湊は宗矢の後へと続き、その場を後にする。
必要な講義を受けて、部活動に精を出し、時々は休みを設けて自習や、余暇を過ごす。
そうやって、湊の大学生活は静かに進んでいった。サークル活動に興じては派手な生活をする者も中には居るが、湊はそういったものには相変わらず加わらなかった。勉学と弓道
だけでそれなりの負担という事もあるし、あまり夜遊びなどをして家族を心配させたくはないという気持ちもあった。もっとも湊の家族は、昔から湊の引っ込み思案なところを
心得ていたので、少し羽目を外すくらいでいいのではないかという姿勢ではあったのだが。
バイトに勤しむ、という事も湊は考えたが。勉学に穴を空けないようにとの厳命を受けての弓道部への入部を果たした手前、中々そちらには手が出なかった。
結果として、特に湊は賢い性質ではなかったが、勉学の時間を充分に取る事ができたので、成績は昔から良かった。
ただ、それでも時折は暇を持て余す。今日もまた、そんな一日だった。
水飛沫があがる。
水に飛び込む、学生の姿。飛び込み台から、まるで矢のように水へと。途端に上がる水飛沫が、いまだ残る暑さには見ているだけでも涼し気だった。
屋内プール場の二階から、水泳部の練習風景を湊は眺めていた。見学に丁度良い場所が屋内プールには設置されているので、水泳部の見学はやりやすい。これが弓道部ともなると、
大きな物音を立てるのは厳禁であるからして、見ているだけでも気を遣う場合が多かった。
プールに飛び込む学生を、じっと湊は見つめる。
静かに、落ち着きたい。という気持ちから弓道部の門戸を開いたものの、こうして見下ろしていると、水泳というのも中々面白そうだなと湊は思う。泳ぎ切った選手が、そのまま
水中の壁を蹴ってターンをした瞬間から、しばらくの間。まったく水面に顔を出さずにずんずんと水中を進んでゆく様は、まるで人ではない何かが。一瞬魚のそれになったようにさえ
思えて、ある種滑稽で、同時に感心を抱くのだった。それから、タイムを計測して、良い結果が出たのか。その場で喜びを露わにするところなども、新鮮に感じられた。特に弓道では
矢を放った後も、心身の冷静さを保つ必要がある。的に綺麗に当たったからもろ手をあげて喜ぶ、とか。そんな事はご法度だった。そういうところも弓道は好きなのだが、それとはまた
別に、全力を出し尽くした結果を見て、喜びを噛み締める姿というのも、それはそれで眩しく、また尊くも湊には感じられた。
そして、視線の先に目に留まる人物が居る。遠目だが、その毛色。また不本意ながらも、休日のラフな格好のせいで把握している体格もあり、それが天羽だという事が湊にもわかる。
湊と接している時の天羽は明るい笑顔を見せている事が多いが、そうして練習に勤しんでいる姿は、まるで弓を引く時の宗矢と同じように、静かなものを感じさせた。弓道と比べたら
賑やかとはいえ、結局は真摯に物事に打ち込む者の姿は、どこでも変わらなかった。
そういう姿は、殊更に湊の胸を打つ。自分もこうありたいと、思わせてくれるものだった。
飛び込み台に立った天羽が、合図と同時に水へと。長い狼の尻尾が、本体の後を追うように宙を舞う。水を吸って、その持ち主の身体がくっきりと浮かび上がっているのが、時折
水中から出てくる部分ではっきりと見える。泳ぎ終わり、水から上がると。天羽の身体がどれだけか引き締まっていて、努力の結実となっているのかがわかる。
そこまで見て、急に湊は天羽が遠くの人に感じられる。自分と同学年ではあるが、天羽は宗矢と同じく、水泳一筋で何年も続けているような強者なのだった。始めてたったの数ヵ月の
湊とは、違うのだと思い知らされる。
ただ、それだからといって湊は暗い気持ちになる訳でもなかった。宗矢にせよ、天羽にせよ。仮に湊のこんな気持ちを聞いたら、誰だって初めはそうだったのだと言ってくれるのだと、
今はよくわかる。いつの間にか、一人きりに慣れていたはずなのに、二人の存在に大いに助けられていたのだなと湊は実感する。
しばらくの間、練習に勤しむ学生の姿に湊は釘付けになっていた。こういう風景もまた、良い息抜きになった。ひたむきな努力をしている、自分ではない別の誰か。それが同じ年頃
ともなれば、なおさら自分も何かできるはずだと、勇気をもらえる気がした。
数十分の間、そうしていただろうか。ふと天羽の姿が見えなくなっている事に湊は気づく。休憩をするには早いかも知れないと思いながらも、別に最初から練習風景を湊はじっと
見つめていた訳でもない。少し休憩を取って、また少しやって終わり。そういうものなのかも知れなかった。
水泳部の練習風景を充分に堪能したというのもあって、湊はその場を後にする。大学校舎をしばらくぶらぶらしては、他の部活に勤しむ学生の観察をする。誰を見ても、真剣な表情で、
名も知らぬ学生ではあるけれど、そこでもまた元気をもらった気がする。
そうして、いつもの廊下へと。いつか天羽に声を掛けられた場所へと差し掛かった時だった。
天羽が、そこに居た。
いつぞや湊がそうしていたように、今は天羽が窓から外を。ただ、少し元気がないのか、疲れているのか。窓に突っ伏して、外を見ていた。夕陽の射し込むグラウンドを走る陸上
部員を、じっと見つめていた。天羽のそんな空気のせいか、はたまた偶然か。すぐ近くには他の学生の姿もなく。だからそれは、一幅の絵の様にも見えた。
「アモウ……?」
湊は訝し気に、天羽を呼ぶ。湊の呼びかけに、弾かれたようにアモウが顔を上げて、
「あっ……。ミナトか」
思考に耽っていたのか、とても意外そうに湊を見つめて、そんな事を口にした。
「具合悪いのか? さっきは元気そうだったのに」
「さっき……?」
「今日、水泳部を見学してた」
「……ああ、そうだったのか」
普段の天羽なら、二階なら湊が見学しているのにあるいは気づいたのかも知れない。それだけ別の何かに気を取られていた、という事だった。
「いや、具合は悪くないんだ。大丈夫。……ただ、なぁ」
「聞かない方が良いか」
「……うーん」
何かを迷うように、アモウは視線を泳がせては、湊をまた見つめる。拒絶とまでは言い切れないが、湊に自分が抱えている悩みを打ち明けていいか、悩んでいるようにも見えた。
そうしている時、いつもは快活で、狼の怜悧さと同時に人好きのする愛想の良さを秘めているはずの天羽の仕草は、勝手な事ながら、憂いを帯びていてそれはそれでまた天羽を
好きだと誰かが言うのも、無理はないのかなとも湊は思うのだった。
そこまで考えて、湊も思い至る。
「また告白されたのか」
天羽の返答は、無言だった。ただ、同時にわかりやすく身体を震わせて。それから、なんともいえない表情で湊を見つめていた。続けて、静かに苦笑をする。
「ミナトにそういう話したの、失敗だったな」
「ごめん。嫌なら、もうしない」
「いいよ。俺から話した事だし。……はぁ、なんでかなぁ」
そこまで話して、むしろ天羽は吹っ切れたのか。長いマズルを夕闇の外へと向けて、少し鼻をすする。
「なんで好きなんて言ってくるんだろうな。……そんな事言わないでいてくれれば、ずっと一緒に遊べるのに」
「……」
その言葉に、どういう反応を返すべきか。湊は途方に暮れる。恋愛の経験なんて無いに等しいのに、その上で相手は慕われる事を嫌がっているというのだから。仔細を知らない
というのもあるし、その上で誰かが好きだどうだという話ですらないのだ。
「その……。その相手と付き合ったりするのは、駄目なのか」
「付き合う……?」
天羽は、まるでその選択肢を初めて自分の中に浮かべたかのように。それくらいに、虚を突かれたように目を丸くしては、湊へ視線を移す。それから、静かに笑って首を振る。
「悪いけど、そういう相手とは微塵も思ってないかな。湊に今言われて、改めてどうかって考えてみたけど。……うん。友達。俺にとっては、ただの遊び相手」
「友達みたいな恋人、とか」
「やだよ。そんなんで付き合って、いざ本当に恋できる人と出会ったら……いや、できる自信ないけど、さ。そうなった時、本気で好きな人ができたから別れてって言うのかよ?」
「そうだな。ごめん。嫌な言い方だった」
「いい。ミナトは俺の事考えて、そう言ってくれてるだけだしな」
しばしの間、静寂が流れる。周囲の環境音が、どこか遠くに感じられた。弓を引く時、集中するが故に音が遠くなるのともまた違う。その証拠に、目の前の天羽の存在感だけは、
薄れなかった。湊と天羽。二人だけの存在が、夕陽の中に取り残されたかのようだった。陽の光を照り返して燃えるような赤い天羽の瞳が、射貫くように、瞳の中に映した湊さえも
燃やし尽くすかのように、、じっと視線を注いで。
「ミナト。ミナトは俺の事なんて……好きにならないよな?」
そう告げてくる。
束の間、湊は返答に迷った。無論、天羽にそういう想いを抱いている訳ではなかった。ただ、夕陽に赤く照らされた、天羽のその姿は。運動の後で胸元がはだけているのもあってか、
妙に艶めかしく、同時に現実離れをもしていた。たまの息抜きに二人ででかけている時に見せてくれていた、あの無邪気な天羽の姿とはまったく違う、その姿に湊は息を呑む。
「ああ。俺は好きにならないよ」
「……そっか。良かった。俺、湊とはもっと一緒に遊びたいんだ」
ふっと、力が抜けるかのように。湊のその言葉を聞いて安堵したのか、いつもの天羽が帰ってくる。
「あーあ。でもどうしような。予定が台無しになっちまった。だから泳ぎに来たんだけど、なんかこう調子でねぇしぃ……」
「また出かけるか? 俺も、今日は部活休んでるし」
「……えー。あー。えっと」
急に歯切れが悪くなった天羽が、何度も湊に視線を送る。湊は首を傾げては、ただそれを見つめる事しかできなかった。
「今日は街に出たい気分じゃないんだよな」
「そうなのか」
「……ミナト。ちょっと、いいか?」
そういいながら、窓から離れた天羽が軽く誘いをいれる。図書館にでも行くのかと思って、湊は頷いた。どの道水泳部の見学はもう終えてしまって、あとは特に予定もなかった。
天羽に促され、道をゆく。ただ、途中からその道は湊の想像とは離れててゆく。外へ出たかと思えば、少し遠くに運動部の連中を臨みながら、夕焼けの中を歩く。
「ミナトって相変わらず恋とかしてない感じ?」
「そうだな」
「そっか」
途中、短いやり取りが交わされる。
天羽が向かったのは、大学の旧校舎跡だった。老朽化により新校舎が建てられたのも、湊が大学に入る随分前であり、旧校舎も機能の移転はとうに終え、当然ながら取り壊されて
いる。今は更地となっており、運動部等、屋外活動をする者が多い際の臨時の練習場になっていた。今日は既にあと幾何もせずに陽が暮れるという事もあり、周囲に人気は
見当たらない。
「こっち」
天羽に案内されて辿り着いたのは、旧校舎の隣にあったトイレだった。ここは旧校舎と同じく年代を経てはいるが、同時に取り壊される憂き目を回避したものでもある。設備としては
古臭いが、今でも近くを運動場として開放している以上、臨時の使い道として活用しているのだろう。湊は、一度も使った事はなかったが。
軽く天羽は周囲を見渡してから、その中へと。
「アモウ……?」
湊は天羽を呼びながら、遅れて中へと入る。
「ほら、ここ」
中には誰も居ない様だった。当然だ。既に周囲に人気はなく、清掃されてはいるが、アンモニア臭の漂う屋外に設置された設備の古いトイレに、態々立ち寄る奴が居るはずもない。
天羽が示した個室の一つにせよ、和式便所があるだけで、既に夏の盛りは過ぎたとはいえ、その独特の臭いと、湿気の多さに、あまり気持ちよく利用できるような場所とは言えない。
「何があるんだ?」
「……」
こんな所にありそうなもの。便所の落書き。湊の頭で思いつくのは、精々がそれくらいのものだ。果たしてそれがどれだけか面白かったにせよ、こんな風に招かれては足を運ぶ程の
ものではない事もまたわかりきってはいたのだが。
「ミナト」
声を掛けられて、湊は振り返る。思っていたよりも天羽が近くに居た。
そのまま、少し背伸びした天羽が近づいて、湊の唇を奪う。
「今日はこういう気分なんだよな。……ほんと警戒心ねぇな、ミナトって。時々わからなくなる。こいつ、本当は全部計算ずくじゃないかって」
しばらくの接吻の後に、離れて天羽が口にする。湊はそうしている間も、黙ったままそれを見守っていた。内心では、酷く驚いていた。
「でもやっぱそんな事考えてないよな。だってミナトだし」
「アモウ、どうして」
「どうして? 何に対して?」
「……好きな相手と、することだろ」
「うっわ」
くすくすと天羽が笑う。今まで湊が付き合っていた天羽とは、まるで別人のその仕草に、湊は目を奪われる。
「あーやっぱ面白いわミナトって。箱入りで。そういうところ、好きだわ。あ、いや。好きっていう意味での好きではなくてね?」
一頻り笑ってから、天羽はそっと後ろ手に扉を閉めて鍵を閉める。古いトイレのため、広さはそれほどでもなく。大の男。それも湊のような体格の大きい男が居るので、それだけで
中はかろうじて一歩歩ける程度でしかなくなる。
「ミナトって、溜まったらどうしてんの? そんなんで」
「どうって」
「まあ、抜いてるか自分で。だったら丁度いいや。ここでしようぜ」
「アモウ、お前」
「嫌なら抵抗していいよ。ミナトが本気で嫌がるのなら、そりゃ仕方ないしな」
また、天羽が湊と唇を合わせる。湊は抵抗らしい抵抗もみせず、かといって積極的に舌を出して絡めたりをする訳でもなかった。それから遅れて湊は身体を震わせる。掌が。天羽の
掌が、すべるように。最初は軽く腹の辺りを撫でたかと思えば、ぬるりと掌全体ではうように進み、湊の胸に当てられる。軽く揉むようにしながら、顔を放した天羽が唾液の雫を
長い舌で舐めとると、三日月のように笑う。
「ああ、やっぱいいなミナトの身体。正直ミナトとこういう事するの、あんま考えてなかったけど……。いい身体だなーとは思ってたけど、それよりミナト、面白かったからな。でも、
こうやって触ってみると、いいな……。すっげーエロい。こんなエロかったんだ、お前」
「……」
徐々に陽が沈んでゆく。狭い個室トイレが闇に溶けてゆく。暗闇に沈む中で、その狼の瞳ばかりは爛々と輝いていた。
まさぐる手の動きが激しくなる。一頻り胸をいじったかと思えば、また下へ。腹の辺りをくすぐって、服の内側へ。湊の被毛を狼が撫ぜる。未知の刺激に、湊は軽く息を詰まらせた。
自分でする時は、こんな事はしない。もっと直接的な刺激だけでさっさと満足させてしまう。
だからこそ余計に、今のこれは二人で、あるいはそれ以上でする行為なのだと、湊の脳に焼き付けられてゆく。激しい運動をした訳でもないのに、はっはっ、と天羽が呼吸を荒らげる。
「っ……」
つられて、湊も。腹からまた手が上へ、胸に。乳首に軽く触れられる。くすぐったい、だけだ。
「くすぐったい? きもちいい? 大丈夫。感じるなら、気持ちよくなれるよ」
暗がりからは、もはやいつもの天羽の声音とはまるで違うものが陰々と響いていた。みだらな声音とは、こんなにも平時とは違うのかと思い知らされる。湊の耳が捉える天羽の声は、
いつも快活で、時折は愁いを帯びていて、それでもまっすぐに、素直なものだった。かろうじて狼のシルエットが視界に見えなければ、それが天羽だなんて湊は思わなかっただろう。
「アモウ、お前、こんな事してたのか」
「そうだよ。遊び相手が、俺は欲しいんだ。ミナトみたいなのも良い。一緒に居るの、楽しい。でもそれだけじゃ足りない。だけど、すぐ俺の事、好きだって言いはじめるから、
そこは嫌いなんだよ。互いに楽しく、気持ちよくなる。それでいいじゃんね? ああ、ミナトに言っても、わからないよな。まだ」
おりてくる。天羽の手が。暗がりに、感触だけを頼りに、互いの身体を感じている。天羽の掌が、少し強く腹に当てられて。そこから下へと。
「……ミナト、勃ってる。もしかして男に興味あった? だったら最初から誘えばよかったかな……」
与えられる刺激に無我夢中で湊は気づかなかったが、天羽に指摘され、気づけば下着はその内に潜むものの主張により大きく膨らんでいた。一度手を引いたアモウが、金属音を立てて
湊のベルトを外す。暗がりなのに実に器用な所作で行われるそれは、天羽がその行為に慣れ切っている事を如実に物語っていた。
「すげ……ミナト、デカいんだな。身体がデカくても、こっちもデカいとは限らないんだけど。触っただけでわかるわ」
薄い布越しに、天羽の掌が触れてくる。湊は呼吸を止めて一度堪えた。続けての刺激に、今度は吐息を漏らす。
「なんか……エロ……。なんだろな。ミナトって、見た目は雄そのものなのに。いつも静かでさ……そういうの、感じてなかったなって。……こうやって」
先端に、湿ったものが触れてくる。すんすんと天羽が鼻を鳴らす音がする。
「やらしい匂いまでさせたら、やっと意識できるくらい。こんなにエロいのにな。ミナトの人徳って奴かな」
下着を引っ張る感覚がする。今まで見ないようにしていたそこに、ミナトは視線を送る。陽が沈みかけているが、一応はまだ視界に収める事ができた。窮屈そうな湊の下着から、
既に充分に血が集まり勃起したものが飛び出した。湊はあまりにも日常とかけ離れたその光景に、しばらく釘付けになる。つい先ほどまではただの友達として。それなりに仲良く
しては時折は街に繰り出して、馬鹿な話をしたり、たまには真面目な話をして、一緒に食事をしていた間柄でしかなかった相手が、今は勃起した湊のペニスを前をうっとりと目を
細めては見つめながら、今からそこに刺激を与えようとしているのだから。それは日頃、湊がしている性欲処理とはあまりにも対極にあるかのような行いでもあった。大学生では
あるので、性の知識が無いなんて事はなかったし、大きな身体で健康優良児だった湊だ。当然身体は早い内から第二次性徴を迎えては、特に強い性欲を持て余すまでになっている。
そんな湊ではあるが、家での性処理に関してはかなりおざなりであった。それというのも、大学生になっては一人暮らしを始める者もそれなりに居た。天羽にせよそうだった。
だが湊自身は、いまだに実家暮らしの身である。よく懐いてくれている妹も居るし、部屋には鍵なんて気が利いた物もついていない。性欲処理はもっぱら家族が寝静まった深夜帯に
行うのが当たり前となっていたし、静まり返った深夜帯なので、声を出す訳にもいかなかった。無論、アダルトグッズ等持っているはずもない。
「あんま大声出すのはダメだけど、少しくらいならいいよ。ミナトのエロい声、聴いてみたい」
その言葉を皮切りに、ぬるりとした感触が突如自分のペニスから上ってきて、反射的に湊は身体を震わせて、声を出してしまう。
指とはまるで違っていた。道具を使ってみるという事を考えはしても、家族も居る手前どこにしまうかなども考えると結局は面倒臭くなって、右手での刺激に慣れ切っていたし、
最近は弓道という新しい事柄に触れて、そこで親身になって接してくれる先輩の事もあり、ただの性処理なんぞに時間は掛けられないと手早く済ませてしまう事ばかりだった。
それなのに、今感じているのは指とはまったく違う触感でもって、それは湊に快感を与えてくる。天羽の、狼の口吻がゆっくりと湊のペニス全体を口内へと迎え、狼の長い舌が
ずるりと下側の半分近くを包んでくる。何より、ぬるりとした感触と、温かさが堪らなかった。時折口内に隙間ができた時に、暑い吐息がペニス全体にかかる。一人で、そして
指で与える刺激とのあまりの差に、湊は我を忘れた。刺激としてそれが指より特段優れているかといえば、それもまた違っていた。ただ、見下ろせば。友達であったはずの天羽が
目を細めては、うっとりと湊のペニスを咥えている。視界だけなら、良かっただろう。刺激だけなら、良かっただろう。その二つが連動して、嫌という程に伝えてくる。下腹部から
洪水のように流れてくる視界と刺激の暴力が、普段は少し冷めて一歩引かせていたはずの湊の理性を滅茶苦茶にする。気づけば、湊も疲れた訳でもないというのに、荒い息を
吐いていた。
「アモ……う、うぅぅっ……」
湊が名前を呼びかけた瞬間。まるで狙いすましたかのように、天羽は一度引いて舌先で弄んでいたそれを、ずるりと一息に喉奥まで案内する。吸いながら、それでも牙をぶつけない
ように注意を払ったその動きの快感はあまりにも強くて、湊は大きく喘いでしまう。自分の喉からそんな音か出る事に驚いて、恥ずかしくなる。こんな風に声をあげて快感に浸る
など、自慰を覚えはじめた頃くらいのものだっただろう。ただ、ようやくその辺りで湊も与えられる快感に少し慣れてきては、天羽の様子を見る余裕もでてきた。天羽は熱心に
湊のペニスを咥えているだけかと思っていたが、よく見れば屈んで和式便器をまたいだ天羽は、そのまま前を寛げては自身のペニスを露出させて、片手でしごいているようだった。
その光景にも、湊はまた興奮した。自分のものが咥えられているのもそうだが、これだけ間近で自分以外の雄の勃起したものを見るのも初めてだった。もっとも夕闇は更に深くなり、
今は顔を少し動かして覗いても、暗がりに僅かにそのシルエットが。天羽の腕の動きからして、天羽のペニスもそれなりのサイズだという事がわかる程度ではあったが、それでも
男同士だというのに刺激を与えあって(いや、天羽から一方的に与えられるだけではあるのだが。それでも天羽も湊の痴態で大分興奮はしているが)、快感を享受するという非日常が、
湊の興奮を更に煽り立てた。天羽に言われた通り、男が好きなのかと言われればそれはよくわからなかった。湊には恋愛は自分には縁のないものという認識だったし、そもそも恋人
どころか友達ですら、今までは碌に作ってもこなかったのだから。それが一足飛びどころではない跳躍振りで、今は男同士で盛りあってあるのだから、気持ちの整理をつけるのにも
大分時間が掛かっていた。
「きもちいい?」
じゅぽっと、音を立ててペニスを一度解放した天羽が見上げてくる。いきり立った自分のペニスのすぐ横から顔を覗かせては上目遣いをしてくる狼のその様子もまた、あまりにも
暴力的な視界といってもよかっただろう。少し疲れたのか荒く呼吸をしている天羽の様子も、口の周りから溢れた唾液だかなんだかわからない透明な液体も、そこだけ切り取っても
湊のペニスに充分な奉仕をしていたのだと察せられる程だった。そういう実感を覚えさせられるのも、湊にはまた新たな刺激であった。
「あぁ……」
「ん。よかった。ま、こんなにガチガチになってて気持ちよくないなんて言われても、笑っちまうけど」
満足そうに笑ってから、また天羽がペニスを咥える。静止をしようとする余裕も湊には無かった。気持ちよかった。
「……ごめ。ミナト。服まくってくれていい?」
「あ、ああ。わかった」
フェラチオを再開したばかりではあったが、また口を離して天羽が注文をつけてくる。湊は一瞬言葉の意味がわからなかったが、素直に従った。かがんでずっと湊のペニスを咥えて
いる天羽の方が、大変なのは明白だから。その注文には応えないといけないという気持ちが勝った。言われた通りに、湊は自分の服を軽くまくる。天羽がペニスを咥えたままじっと
湊を見つめているので、そのまま胸の辺りまであげる。充分に隆起した湊の胸が露わになる。元々体躯は充分で、筋肉量もある程度はついている。弓道をはじめた事で運動に対する
意識も加わった今、湊の身体は充分に天羽の興奮を駆り立てるものに仕上がっていた。
もっとも湊はそれを理解してはいなかったが。
胸元までシャツを上げてから、湊は快感に身じろぎしてしまうと、手で押さえていないと服がずり落ちてしまうのを認識して、そのまま服を更に上げ、首だけを一度服にくぐらせて
解放する。天羽がどこを見たいのかはなんとなくわかっていたので、自然とその発想がでてきたのは湊にとっては合格点だっただろう。
「エッロ……」
天羽がこれ以上ない程の賞賛の言葉を贈る。そして、本格的な天羽のフェラチオがはじまる。先程までよりも強く吸い上げ、その度に湊は身体をびくびくと震わせてしまう。手では
服が落ちていただろうなと改めて感じながら、天羽がこちらを見上げながらも自身のペニスをしごいているのを、湊も見てしまう。天羽が自分を見ている。自然と、湊は片手で
自分の胸を軽く撫でた。天羽に与えられている刺激の分、自分は天羽に痴態を晒せばいいのだと理解した。それから、声も。さすがに外に聞こえる程に出す訳にはいかなかった。
誰かに見られては困るから、トイレの電気すら点けていないのだから。ただ、言い換えれば誰かに気づかれない程度には声を出しても構わないのだった。
「ハァ……あぁっ、アモウ……」
湊は声を出して、胸もいじってみる。天羽に触れられたのを思い出して、乳首もつねってみた。強い快感、という訳ではなかった。むしろ、不慣れな刺激なので射精するために
得るものとしては邪魔にも感じられた。ただ、それで良かった。射精のための刺激として考えれば大抵の快感はノイズに過ぎなかった。それよりももっと別の、脳裏の方に、
湊と天羽の痴態は焼き付く。興奮を煽り立てる。今まさに味わっている最中ではあるが、きっとこの経験は忘れないだろうという確信を湊は思った。強く乳首をつまんで、痛みにも
身体を震わせる。天羽の腕の動きが早くなる。目の前で繰り広げられる湊の不慣れな自慰に、天羽も興奮しきっているのだろう。天羽が自身を刺激するのと同様に、咥えている湊への
刺激もまた強く。強く吸われ、鬼頭を口内や、喉の奥へとあてがわれ、その度に汚い水音が立つ。
絶頂の階段をのぼってゆく。
「あもっ……もう……」
湊は何度も呼吸を繰り返し、必死に快感から逃れようとしていた。射精するのか、と思った。自慰とはまるで違っていた。さっさと終わらせて寝よう。明日も大学にいって、講義と
部活動をしたいのだから。先輩と話もしてみたい。そんな事を考えながらさっさと終わらせていた行為とは、まるで違っていた。結果はただの射精であってなんの違いもないはず
なのに、ここまで違うのかと痛感する。射精しそうだ。まだ出したくない。もう少し、味わっていたい。ぬるぬるとした天羽の舌の感覚が気持ちいい。射精を促すように、尿道に
這わされた舌が包んでくる。射精したい。まだ出したくない。
咄嗟に湊は空いている方の手を出して、天羽の頭に添えた。ただ、無理に剥がしてしまうのも、無理に押さえつけてしまうのも天羽に悪いのではという気がしてしまう。もうすぐ
射精してしまうから、天羽に解放してもらわなければならないという気持ちだけはあって、それでもそこで止まってしまう。湊がまごついていると、天羽もまた空いた手をあげて、
そっと湊の腕に触れる。湊が見守っていると、天羽はそのまま湊の腕を引くように。自分の頭が湊へ近づくようにする。また、深く咥えられる。喉の奥までペニスが突き進んで、
鈴口の辺りがきゅっと閉じられた喉に擦られて、気持ちよくて。天羽は苦しくないのだろうかと湊は心配しながらも、また声を出す。天羽が腕を今度は押すように。湊から離れる
ようにするので、湊も掴まれた腕で抵抗はせずにそうする。そしてまた、強く天羽が引く。何度かそうしていると、湊は天羽がそれを続けてほしいのだと理解して。やがては胸を
いじっていた方の手も、湊の頭へと。親指と人差し指の間に尖った耳を通して、耳と頭を掴むようにして、ゆっくりと自分の方へと。天羽は目を細めて、そしてフェラチオを
激しくする。湊はもう天羽を気にする事をやめた。他でもない天羽がそれを望んでいるのだから。誰も文句を言わないのならば、それに頓着する必要もなかった。
「はっ、はぁっ……あっ、うぅ……ああぁ……」
声を上げ、天羽の口を湊は犯す。引き寄せる時に、腰も突き出す。より一層深く、深くへと。その度に天羽の身体がびくびくと震える。喉が震える。それでも天羽は暴れなかったし、
やめてほしいという素振りも見せなかった。次第に乱暴になる。いや、湊にはそんなつもりはなかった。ただ湊の体格と、それに釣り合う太く大きなペニスを、天羽の満足するように、
天羽の口内にぶち込めば、それははたから見れば乱暴な動作に見えるというだけだ。
そしでそれに文句を言う者はここには居ない。
オナホールというのはこんな感じなのかと湊は思う。とはいえ、湊を迎えている天羽の口内は、強く吸い付いたり、舌を這わせたり、喉で絞めてきたり、自在に動くから、多分
違うのだろう。何より温かい。
激しく動かして、湊は段々と射精欲が高まってくる。天羽は湊に任せるがまま、口内を犯されていた。もう何も言わないし、手で誘導もしてこない。全部湊の動きに任せている。
「……出す、ぞ、アモウ……くっ……ぐっ!! あっ、あぁぁ……はぁっ、はぁっ……」
どくっ、と射精を感じるのと同時に、湊は遠慮会釈なく腰を前へと突き出し、そして天羽の頭部を抱え込むようにして、一番奥にぶちこんで射精を果たした。今までの自慰とは
まるで別物になってしまったかのように、湊のペニスは何度も激しくしゃくりあげては、精液をその先端から迸らせる。一度しゃくりあげ、尿道を通って精液を吐き出す度に、湊は
強い快感と、そして尿道を通る精液の量に驚いていた。いつもはもっと、どろっとした、勢いのない射精が多かった。手早く、さっさと済ませたい。その惰性からくる射精とは、
まるで違っていた。まるで、射精を果たしたその場所の奥が子を孕む場でもあるかのように、本能から射精し、また孕ませたいとしているかのように、精子を浴びせかけるように
激しい射精だった。湊はあまりの快感に腰をがくがくと震わせては前かがみになり、しかし必死に耐えて身体は後ろへと重心を移した。そのままだと前のめりになって、天羽ごと
倒れてしまいそうだった。
「んっ、んんっ……」
天羽から声が上がる。湊は天羽が苦しんでいるのかと思ったが、少し違っていた。天羽の身体が震え、直後にびちゃっ、びしゃっと音がする。天羽が射精したのだろう。天羽は
湊のペニスを存分に咥えながら興奮しては、自身をしごいて、そのまま和式便器の水たまりに向けて射精をしていた。湊からは上手く見えなくても、水たまりに勢いの良い雄の
精液が飛び散る音ばかりが強く聞こえた。こちらも相当に興奮していたのか、あるいは元々、その予定があって溜まっていたのか、かなりの量をぶちまけていた。湿気の多い、
アンモニア臭の漂う個室内に、途端に雄の臭いが広がる。二人分の、若い男の匂いが広がる。後には荒い息遣いばかりが残った。
「あ……ごめん」
少ししてから、湊は天羽を大分拘束していた事に気づいた。窒息してもおかしくないように見えたが、口を離した天羽はうっとりとした顔をしたまま、ただたった今まで咥えては、
射精を果たした湊のペニスと、また湊の顔を見つめていた。依然として、湊のペニスは勃起したままだった。
「……すっげーよかった。ミナトのチンポ。デカくてしゃぶりがいがあったし、ザーメンの量もすごくて……あんなに喉に叩きつけられるたの、初めてかも」
そう評してくる。さすがに露骨に言葉で言われると、湊は恥ずかしくなった。
「……待って、綺麗にするから」
そういって、精液をほとんど飲み込んでから、天羽は湊のペニスにまた舌を這わせてくる。今更だが、あれだけの射精量だったはずなのに、まったく零しもせずに、何よりも精液を
飲んでしまった天羽に湊は驚いていた。興味本位で舐めたくらいは疎い湊にも覚えはあるが、お世辞にも美味しいとは思えなかったし、何より臭かったはずなのに。
「ん……」
時折キスするように、天羽は湊のペニスを丁寧に舌で綺麗にしてゆく。引き抜いたばかりでは、泡立ち、精液が残り白く汚れていた湊のペニスが、綺麗に清められてゆく。綺麗に
なると、今度は尿道から金玉の方へと舌を滑らせて、いつの間にか濡れていた袋の部分も舐めとってくれる。未知の刺激に、思わず湊は何度もペニスをしゃくりあげてしまう。拘束
されていない湊のペニスは、それで大きくびくびくと震えて。視界一杯にそれが広がっている天羽をまた魅了した。
「満足、したか……?」
「ん……。最高だった。……でも、さ」
終わった。そう思って湊はそう声を掛けたが、天羽はいまだにうっとりとした目で湊を見つめている。
「ミナトのここは、まだ満足してないんじゃないのか?」
「……」
図星だった。あまりにも強い刺激。夢のような快感。ありえない程の射精量。情報量が多すぎた。すべてをきちんと整理する事もできずに、そして湊のペニスはいまだに主張を
続けていた。こんな事も、初めてだった。事務的に性処理をしている時は、二回戦はしなかった。むしろ一回射精したら程よく眠くなるので、睡眠導入剤みたいなものだと湊は
思っていた節もある。それなのに、今は。
「俺なら平気だぜ、ミナト。ほら」
躊躇う様子を見せる湊に、天羽は優しかった。再び口を開けて、舌が誘うように揺れる。途端に先程までのやり取りが胸に去来し、湊は本能の赴くままに、そこへペニスをあてがう。
もっと気持ちよくなりたい。射精をしたい。天羽の口の中に出したい。その欲求は、抗いがたく。
夜が深まる。既に陽は暮れて、トイレの中は真っ暗だった。二人分の息遣いと、湊のペニスを咥える天羽の口から発せられる卑猥な水の音ばかりが響く。
何も見えなくなっても、もう湊は気にしていなかった。見えていた時のあの光景が、勝手に脳裏に広がる。それに見えないと、それはそれで快感にだけ意識を向けていられた。
暗がりで、湊が声を上げる。また射精した。天羽の口内に、喉の奥に、どくどくと精液を放つ。勃起が治まらなかった。また、天羽の頭を掴んで。
結局、その日湊は四回も射精し、三回は天羽の口内で。天羽は三回射精し、二回は和式便所へと。
「あっ、あぁ……ミナト……」
「アモウ……」
そして最後の一回。もはや何も見えなくなっている個室の中で、さすがに疲れた天羽が立ち上がり、湊と抱き合うようにする。そしてそのまま、いまだ熱く、硬くいきり立つペニスを
二人は擦り合わせ、唾液と精液を纏わせて、兜合わせをした。湊はもう訳がわからなくなっていたが、深く考える事も放棄した。熱い二人分の雄根をこすり合わせる。気持ちよさは
物足りなくても、興奮はそれまでの比ではなかった。天羽の身体を軽く抱いて、二人分のペニスを握る天羽の手の上から湊も手を乗せて。二人して夢中でペニスをしごいた。
「イく……、イッ……くぅぅぅぅ!!!」
一際大きい声を上げ、天羽が射精した。大きな声は駄目だと誰より理解しているはずだが、興奮からか押さえきれなかったようだ。後を追うように湊も射精した。既に数回絶頂を
迎えて精液の量は減ったが、その代わり二人分だ。あっという間の湊と天羽の手は白く汚れて、また精液の匂いがむわっと立ち昇った。後には、体力を使い果たした二人の呼吸する
音ばかりが、それだけは治まる事はなかった。既に性欲は発散されていたが、心地よい疲労感と、体温の快さで二人はまだ繋がっていた。
しばらく無言のまま、時が過ぎる。息を整えて、そうすると段々と世界が戻ってくる。建物の外で吹く風の音とか、溢れて床に落ちる精液の音とか、そういうものが耳に入ってくる。
「ミナト……、俺達、友達だ」
「ああ」
「また、しような」
「……ああ」
湊の了承に、天羽は顔を上げて。軽く唇を合わせてキスをする。
その日も、湊は弓道部の活動に勤しんでいた。
すぐ近くには、いつも見守ってくれている宗矢の姿が、今は無かった。
当然だ。休む感覚、私用の有無。必ずしも同じ日に部活に勤しむ訳ではないし、必ずしも一緒につるむという訳でもない。
「おつかれー、ミナト」
「……ああ。おつかれ」
一頻り弓と格闘をしてからそろそろ帰ろうかと思っていた頃に、同学年の学生から声を掛けられる。天羽ほど親しくなったという訳ではないが、宗矢の取り成しによって無事に
知り合い、ややもすれば友達という間柄の相手も増えた。元々同じ一年ではあるものの、後から入部した湊は既に形成された知己にも後手に回る他はなく、元々塞ぎ込みがちでも
あったので、友人ができるなどとは期待もしていなかったが、その辺りも宗矢のケアは抜かりなかった。
「今日はアクラ先輩一緒じゃないんだな」
「ああ。まあ、毎回一緒って訳じゃない」
「ふーん。最近先輩元気ないしな」
「……そうなのか?」
不意に出た話題に、湊は虚を突かれる。つい先日顔を合わせた宗矢もいつもと変わらなかった、と思う。いつもの様に元気な声で、笑顔で、助言をくれて。またなと別れて、それきり。
「あー……ミナトには心配かけたくなかったんかね? まあ、なんか噂もあったし」
声をかけてきた相手は、少しばつが悪そうにそう告げる。どうも湊がそれを知っているのを前提でその話を振ったようだった。ただ、そうは思いながらも本来しようとしていた話題が
あったのか、続けてそう口にして。それもまた湊には思い当たる節がなかった。宗矢関連の、噂。憶えがない。確かに宗矢はあの口調と天真爛漫さもあって、非常に目立つ。それは
人付き合いに疎い湊でも充分にわかる。
「どんな噂なんだ?」
「これ、先輩居ないのに言っていいのかな……まあ、でも知ってる奴も多いから別にいいかな? ほら、先輩って、関西から来たみたいじゃん? 口調的に」
「まあ、そうだな」
「でさ、その時一緒に関西から来た人が居たんだよ。その人も先輩でさ。ミナトは知ってる? ハルネ先輩。名前なんだっけ……ハルネ シユウ?」
獅雄、という言葉を聞いて、湊は思い出す。つい先日、宗矢が走り込みをする集団を見て口にしたのがそれだった。
「ライオンの人でさ。それでまあ、アクラ先輩ってすげー目立つけど、ハルネ先輩もまあデカいから目立つ訳でさ。だからよく噂になる訳。で、まあ……ここからはほんと、ただの
噂ってだけなんだけどさ。あの二人が付き合ってる、ゲイだって噂もあってさ」
「付き合う……」
「まあ、あくまで噂な? で、同じところから来たっぽいし、アクラ先輩はそういうの抜きに明るくて人気だったからさ。一年でも知ってるって奴結構居るんだよね」
そういう話を、湊は初めて聞いた気がした。正直なところ、そういった噂や雑談の類には参加したことが無いし、天羽もあまり口にはしなかった。恐らく天羽は意図的にそういう
話題を湊に振るのを避けていたのだろう。湊の人見知りの傾向や、他者から好き勝手な考えを持たれる煩わしさを天羽自身が知っている事。また同性愛者という部分においても、
湊を"遊びに"誘う天羽からしたらあまり土足で踏み入りたくはない話題だったのかも知れなかった。
「で、アクラ先輩が元気ないっていうのは……最近その二人が一緒に居るところ見なくなったから、別れたんじゃないか、なんていう話があったからで。あ、これほんと噂だから、
怒んないで、ミナト。お前が怒ると多分普通に怖い」
「別に、怒ってはいない」
それよりも、湊の関心は宗矢が同性愛者かも知れないという部分だった。噂を鵜呑みにする訳ではないが、もしそうなら。宗矢も、湊と天羽がしているような事をしているのかも
知れない、などと考える。そしてその相手が、恋人として存在していて。
「……?」
不意に、胸の辺りが僅かに痛む感覚を湊は覚えて、首を傾げた。宗矢にそういう相手が居るのが、衝撃だったのか。別に、宗矢が誰と付き合っていようが、そんなのは関係がない
はずだった。湊と宗矢はあくまて、部活動を共にする、後輩先輩の間柄でしかなかった。確かに宗矢の友好的な態度には幾度となく助けられたが、それだからといって宗矢の交友関係に
首を突っ込むつもりもなかった。
ただ、噂話の真相は別としても。宗矢に元気がない、というのは引っかかった。自分に何ができるとも思えないが、いつもそれとなく助けてくれる宗矢に対してほんの少しでも
湊自身にできる事があるというのなら、行動を起こすにやぶさかではなかった。
「え? アクラ先輩……? まあ、知ってるけど。たまに噂されてる人だよな」
弓道部の話を終えて、少し思案してから湊は天羽にこの話を打ち明けてみる。街に出たついで、飲食店で軽食を取りながら。
「まあ、その噂は俺も聞いた事はあるけど……。でもまあ、そんなもんじゃね? 今時男同士っていうのも珍し訳じゃないし。ただ皆、口に出さないだけでさ。その二人の先輩は、
結構露骨に仲良かったから。同郷だから仲良いのをそういう風に茶化してるんじゃねとか、そういう風にも言われてたけどさぁ」
「そうなのか」
天羽からも似たような話をされて、また湊は胸がちくりと痛む。とはいえ、この話が本当なのかは、わからなかった。直接本人に聞ければいいが、さすがにこんな話をするのは
気が引けた。それこそ宗矢がその辺りをもっと最低限でもオープンにして、付き合っている奴が居るんだ、くらい公然と言い放ってくれたのならば別だが、そうではないものに態々
首を突っ込むのは気が引けた。それで宗矢との関係が終わって、楽しい部活動がぎくしゃくとした空気が漂うものになるのも避けたかった。そんな心持で、矢が放てるはずもない。
ふと、目の前に居る天羽に湊は意識が向く。暑さも終わりを告げてきた、十月の末。そろそろ寒さが足元に躍る季節ではあるものの、被毛を持ち、その上で健康で若い盛りの湊の
服装はそのままだった。それは天羽も同じだが、もうまもなく衣替えをして、こんなお洒落がしたい、という話をしたばかりだった。
天羽は、なんにでも詳しい。
詳しいというと語弊があるかも知れないが、少なくとも湊よりは物を知っている。それは確かだ。
「なあ、アモウ」
「うん?」
「好きになるって、どんな感じなんだろう?」
「……そうだなぁ」
口にしながら、天羽の恋愛の感情を向けられる事に対する忌避を知っている湊は、天羽が嫌な顔をするのかと思ったが、意外にも天羽は湊のその言葉を素直に受け止めてくれた。
「人による部分もあるからなんとも言えないけど、さ……。やっぱ、この人じゃないと駄目って思う、そんな感じなんじゃね?」
「そうか」
「何、気になる奴でもいんの。……話の流れ的に、アクラ先輩? そういえば弓道部だからミナトはよく面倒見てもらってたんだっけ」
「ああ。いつも世話になっていて……。最近、元気がないって聞いた。でも、俺はそれもわからなくて……駄目だな、俺は」
「……ふーん」
生返事をしながら、天羽が残りの飲み物をぐいと飲み込むと、立ち上がる。
「ま、ここであれこれ考えても仕方ないんじゃね。ミナトの気持ちはともかく、その先輩か本当はどうなのか、なんてさ。そろそろ行こうぜ」
「ああ」
結局のところ、結論はそこに行きつくのだった。これ以上は、宗矢に直接聞いてみるしかないだろう。ただ、それを考えると湊は怖くなった。もし話がこじれて、今の良い関係が
崩れさってしまったらと思うと、怖い。また一人になるだけじゃないか。そう思い直す事もできるのかも知れない。それでも、本当に一人きりでは弓道は続ける事はできないかも
知れなかった。それが弱さなのかも知れなかった。弓を射る時の、精神の強さ、安定性。そういうものはまるでかけ離れていた。
店を出る。二人はそのまま、街並みを歩いて、駅で電車に乗ると揃ってまた別の場所へと向かう。少し歩くと、見えてくる。
天羽のアパートだった。
部屋に入り、軽く荷物を置く。湊は軽く部屋を見渡した。
天羽の部屋は、シンプルだった。当人の性格を考えると色々流行の物が置いてあるのかと思っていたが、思いの外に片付いていて、無駄なものは見当たらない。そういった部屋の中に、
一人人目を引く天羽が居るのだから、逆に視線が奪われる。
「……ミナト」
声が掛けられる。部屋に入るなり、振り返った天羽にキスをされる。湊は黙ってそれを受け入れた。
あの日から。大学のトイレで事に及んでから、定期的に湊は天羽と、別の遊びにも耽っていた。元々天羽はそれをする相手を欠き退屈していたし、湊もそういう事に興味が無い訳では
なかったが、機会を得る事がなかったので、それからはずるずると続いている状況だった。何も考えなければ、ただ気持ちよいだけで時間が過ぎてゆく。
「なあ、ミナト」
顔を上げて、天羽が立ち上がった。たった今まで湊のペニスを咥えていた口からは、唾液が糸を引いていて、酷く扇情的だった。
「このまま、俺と……ヤッてみない?」
「……」
天羽の言葉に、湊は息を呑む。今までは、ただ互いの物をこすり合わせたり、あるいは天羽が湊の物を咥えるのが大体だった。挿入には至ってはいない。
「ミナトが男を好きかよくわからなかったから、あんまやらなかったけどよ。……結局、好きなんだろ? だったら、いいかなって」
「……」
正直なところ、湊はそういう事に関してはあまり深く考えてはいなかった。いわゆるバニラセックスを天羽とするだけで充分に満足していた。ただ、天羽はそれだけでは不満に
思っていたのか。あるいは不満に思うようになってしまったのか。じっと湊を見つめる狼の双眸は、獲物を見つめる獣のそれであって。決して冗談を言っている訳ではない事が伺えた。
「でも……」
湊は言い淀む。少し前の自分だったら、今までの延長線上だと割り切っていたかも知れない。たった今まで天羽に咥えられていて、いまだに硬くそそり立っている自分のものを見れば、
いまだ満足をしていない事が伺える。
もっと気持ちよくなれるかも知れない。
そう思うだけで、興奮はより一層増しているのは事実だ。
ただ、微かに芽生えていた気持ちが、湊がその行動に走るのを踏み止まらせた。宗矢に対する想い。好きなのかすら判然としていない、かもしれないという想い。或いは判断が
つかないからこそ、その直前に大きな決断をして、天羽に手を伸ばすのを躊躇っているのかも知れなかった。
「今は、嫌だ」
「こんなに興奮してるのに?」
「うっ……」
天羽が、目を細めてからしなやかな指先で触れてくる。硬くなったペニスに。ぬるりとした感触が、直前まで触れていた舌の感覚を思い出させる。一瞬にして流されそうになってしまう。
「それに、アモウ……お前は、それでいいのか」
湊はどうにか自制を保ちながら、同時に天羽にも訊ねる。元々バニラで踏み止まっていたのは、湊の経験不足もあるが、天羽の警戒もまたあったのだった。
深く遊ぶと、相手が自分を好きになって、遊ぶことそのものの楽しさを損なう。
天羽の主張を端的にまとめると、そういう事だ。そして天羽の提案は、自分からその領域に踏み込もうとしている。
程々に楽しく遊んで、程々に気持ちよくなってすっきりする。天羽にとってはそれが理想なのだろうと湊は思っていた。湊がそれを指摘すると、天羽はなんとも言えない表情をする。
「あのさ、ミナト。俺……お前の事、好きかも知れない」
そして、観念したかのようにそんな事を口にした。その言葉に、湊は目を見開く。興奮も何もかもを置き去りにして、しばらく静寂が過ぎる。
「自分でもすっげぇ身勝手なのは、わかってる。俺、そういうのが嫌だったはずなのにさ……。でも、今日。俺、お前が、アクラ先輩の話をしててさ。もしかしたら、ミナトとこうして
過ごすのも、もうそんなにないのかなって考えてた。そしたら、それは……嫌だなって。ミナトの性格なら、もしそれが本当に、好きなんだったら。俺とはしなくなるとは思うし。
……いや、そうじゃないや。お前とこういう事できなくなるのが……エロくない事も含めて。それが、嫌なんだって思って。……ごめん、上手く、言えない」
「アモウ」
「俺じゃ、駄目か? 俺達、悪くないって思ってる。ミナトと何かするの、楽しいんだ。よく考えたら、最初はそういう目的じゃなかったからこそ、先に話をして。だから余計に、
居心地よく感じられるようになったのかも知れない」
「……」
天羽の言葉を、何度も湊は反芻していた。自分の事が好きだという、天羽。その気持ちは本物なのだろう。ただ、同時に湊の胸の内に、無性な寂しさが湧き上がる。
宗矢の事を好きなのかはいまだわからなかった。気持ちに気づいたのも、今日だったから。その上で天羽からの想いも。自分の想いの強さは、天羽が決心して話したそれと比べたら、
淡く儚いものなのかも知れなかった。
ただ、それでも。同時に感じている寂寥感の正体もまた、湊はわかっていた。今までは知らなかった。ただ、天羽から聞いていただけで。
「それが、本当なら。アモウ。俺は……お前とは、もうこんな事はできない」
「……俺じゃ、嫌なのか」
「嫌とかじゃない。……お前が今まで感じていたように、煩わしく思っている訳でもない」
頼むから、好きとかなんだとか、言い出さないでくれ。
過去の天羽が抱いていた気持ちが、今は少しだけ、湊にも理解できた。もうここで終わりなのだと。昨日までの、さっきまでの関係が、終わりを告げるのだと。この縁を保つためには、
変えないとならなかった。自分自身の何かを、だ。そしてそれをうべなえないからこそ、天羽は気分を沈ませながらも、関係を断ってきたのだった。
「でも、それだからこそ。俺は……自分の気持ちも、確かめないといけない」
「俺達、いい感じじゃないか。それで別に……ああ」
途中まで言いかけて、天羽の瞳からぽたぽたと大粒の雫が溢れて、いくつも流れてゆく。
「同じこと言ってる。俺。今まで捨ててきた奴らと。なんでいいとこで止まってくれないんだろうって。……止まれないよな、こんなの。それすら、理解してなかった」
「アモウ」
「わかってる。……わかってても、俺はこうするしかないんだな。ミナト。お前の事が、好きだ。もう、駄目だ。好き、好きなんだ。ごめん。好きにならないでなんて、言って」
ゆっくりと、天羽が近づいてくる。既に半ば行為に及んでいたので、足元にパンツが落ちている程度で、二人ともほとんど全裸だった。天羽は湊の手をとって、自らに触れさせる。
水泳で鍛えに鍛え抜かれた身体は、被毛の上からでも筋肉の存在感がはっきりと伝わってくる。
「好きにしていい。滅茶苦茶にしていい。だから、俺の事……好きになって」
こんな時でも、天羽のその姿は悩ましかった。一度は鳴りを潜めた性欲が、首をもたげるのを湊は感じていた。天羽は自らの胸の手を触れて、小さく喘いだ。泣きながら。その二つを
同席させてもただただ哀れにしか見えないのだとわかっていても、もはや感情の抑制すらできなくなっていた。あるいは人によっては、こんな天羽を滅茶苦茶に食い散らかして、穢して
しまいたいと思う者も居るのかも知れなかった。
それでも。
「ごめん。アモウ。俺には、できないよ」
触れさせられていた手を一度引き、天羽の胸に掌を当てて。本当に弱弱しい力で一押ししながら、湊はそう口にした。
嫌な事は重なる、という事なのだろうか。
天羽の誘いを断り、日常に戻った湊ではあったが、弓道部にはいつもなら顔を見せにきているはずの宗矢の姿はなかった。
数日に渡る欠席は、少なくとも宗矢と知り合ってから湊は経験が無い。
「宗矢? ああ、具合が悪いって、休みだったかな」
思い切って二年の弓道部の先輩に声を掛けてみたが、帰ってきたのはそんな返事だった。
体調不良なら仕方がない。いつもの湊なら、そう思って。宗矢が居ない間も練習に打ち込んでは、元気になって戻ってきた宗矢に成長を見せられるようにしようと、そう意気込んだ
だろう。
ただ、天羽との事。宗矢の噂の話。それらが湊の中で渦巻いては、集中力を乱す。結局、いつもよりも上手く弓を扱えず、たまに当たるはずの矢も当たらなかった。
気づけば、一人。まるで以前の自分の存在に、自分自身が気づいたように。今再び、湊は一人になっていた。ほんの数か月前。いや数日前ですら、楽しい大学生生活というものを
謳歌していたはずなのに。
「好きって言わなければ楽しいままでいられたのに」
いつだったか、天羽がそんな風に溜め息交じりに口にしていた言葉を思い出す。
皮肉な事に、うんざりしたように口にしていたはずのその言葉を、天羽本人が口にしては、湊との関わりもまた終わりを迎えさせたのだった。
湊としては、以前の関係に戻れたらとは思ってはいた。ただ、天羽はそれではもはや納得ができなくなっていた。
「行っていいよ、ミナト」
最後に聞いた天羽の言葉も、それだけだった。
溜め息を一つ吐く。こんな状態で、満足に弓を射る事ができるはずもない。
そんな事を考えて、悶々と日々を過ごしていた。
欠席していた宗矢が戻ってきたのは、更に数日後だった。
「……ああ、ミナト君。久しぶりやな」
ただ、ようやく顔を合わせられたと喜んだのもつかの間。湊の目の前に居たのは、すっかり気落ちした宗矢だった。気づいた瞬間に、湊は胸が痛くなった。
噂の真相が、どうなのかは定かではなかったが。それでも宗矢がすっかり憔悴しているのは鈍い湊でも簡単に見て取れたのだ。そして冗談を言うのが宗矢は好きだが、だからといって
自らを弱く見せてからかうなんていう悪趣味な性質ではないのもまたよく知っていた。
「先輩、大丈夫……ですか?」
「まあ、一時的なもんやから。ちょっとすれば、治るから。……ごめんな。本当はもう少し時間経ってからが良かったんやけど、弓の事も忘れてしまいそうやから」
笑顔を浮かべていても、それがいつも見ているものと違っているのがわかってしまう。
そんな宗矢を見守るように、湊は部活動に勤しんだものの、耳をそばだてれば聞こえてしまう。宗矢の調子の悪さが。的に当たらなくなったというわかりやすいものもあるが、
それよりも何よりも、弦音が違うという方に湊の意識は向いてしまった。ようやく多少は聞き慣れたと言ってもよかった、宗矢が弓を放った際のその音が、いつもとは違うように
感じられてしまう。こっそりと様子を盗み見れば、宗矢の表情もまた暗い。
「……ごめん。ちょっと、抜けるわ」
宗矢は、自分の調子の悪さ。そしてそういう自分が居る事で、周りに居る者達も宗矢を気にしてしまっている事にも気づいたのだろう。それほど長居もせずに、足早に弓道場を
後にしてしまう。それを湊は見送って、自分は自分でそのまま続けようかとも思ったが、どうにもそういう気も起こらずに、結局は自分も抜け出す事にする。
自分が宗矢の下へと向かって、一体何の役に立つというのか。
自分自身を責めるように、何度も自問したが、結局は居てもたってもいられずに湊は飛び出す。
雨が降っていた。
既に季節は11月の半ば。冷たい雨だった。雨脚は強まり、遠くには大慌てで運動部の学生達が屋内へと避難している。湊が弓道部に入る時は降っていなかった事とその光景から、
今降り出したのだという事がわかる。
宗矢の姿を探した。大学校舎へ続く道をまずは見たが、そちらには見当たらなかった。一直線の廊下は遠くまで見渡せて、見慣れた黒猫の姿はその上には無く。続けて弓道場の
更衣室を遅れて覗くが宗矢の姿は見当たらない。
「あれ、ミナト。どうした?」
「ソウヤ先輩、来てないか?」
「え? 来てないけど」
誰かを探す様子の湊に声を掛けてくれた学生と軽く言葉をかわすが、宗矢はこちらにも来ていないようで。軽く礼を言って、湊はまた外へと飛び出す。
屋根のある廊下から、外を見る。雨粒は大きく、大地に叩きつけられていた。
「先輩……」
宗矢を見失って、途方に暮れる。それでも湊は焦らず、腐らずに。宗矢を捜した。弓道を終えたのなら通ると思われる道にも、更衣室にも、無論弓道場にも居ない。
人目を避けている。その結論に、すぐに辿り着く。だとしたら。
湊は意を決して、弓道場の裏手へと回る。風が強いために、弓道場の少しだけ出た屋根だけでは完全には雨粒を防げずに、弓道着が濡れるが、そんな事は気にしてはいられなかった。
歩く度に、胸の鼓動が高まる。もしかしたら、この先にも宗矢は居ないかも知れない。だとしたら、ただ濡れ鼠になっただけで終わってしまうが、それは大事な事ではなかった。
ただ、宗矢が何に悩んでいるのかを、湊は知りたかった。知ったところで、何ができるのかもわからなかったが。それでも。
歩く度に胸に痞える想いに、湊は困惑しながらも足を前に出し続けた。これが天羽との話の上で散々出ていた、恋心なのかもわからなかった。きっと、親しいとか、触れ合ったとか、
そういう意味でなら、今は宗矢よりも天羽の方が余程そうしたとも言えた。普通は触れないような箇所にも触れ合って、快感に溺れもした。それでも湊は今ここに居て、天羽とは袂を
分かち、そうして恋という意味においては好きなのかもわからない、宗矢の影を追っている。
曲がり角を、曲がる。季節柄、部活動に勤しむ今の時間は既に陽はほとんど落ちて、雨雲のせいもあり視界は悪かった。弓道場の裏手、外の道路側にある街灯だけが申し訳程度に
明かりを届けてくれていた。
そんな中に、その人は居た。暗い闇と同化するように、黒い被毛を持って。ただ、今は湊と同じように。白い弓道着のままで飛び出していたからか、よく目でとらえる事もできた。
「……先輩?」
どう声を掛けたらいいのか。散々悩んで、結局湊の口から出たのは、そんな簡素な言葉だった。気が利かない、本当に駄目な男だと湊は自分を責めた。
「ミナト君……?」
背を向けていた宗矢が振り返る。まるい、大きな金色の猫の瞳には、大粒の涙が溜まっていて。それを見た途端に、湊の全身に電流のような衝撃が走る。初めて見た、宗矢の泣き顔。
つられたかのように丸くなった湊の瞳を見て、宗矢は自分がどんな顔をしているのか思い出しでもしたのか。慌てて腕で乱暴に涙を拭っている。
「雨粒が入っただけや」
「何があったんですか」
「なんも」
「俺なんかには、言えませんか」
「……そういう訳やない、けど……」
「ごめんなさい。先輩」
言い淀んだ宗矢を見て、湊は謝罪をする。宗矢を追い詰めたい訳ではなかった。
「俺、先輩が何に悩んでいるのかも、わかってません。先輩の辛い気持ちを受け止められる程できた奴でもないし、先輩からすればただの後輩の一人で、なんでそんな奴に態々話を
しなくちゃならないんだって、先輩はそう思うかも知れません。……そんなに、親しい間柄じゃないって、思われてるかも知れません。でも……ただ、先輩が最近悩んでいて、元気が
ない。それだけは、わかっています。俺に何ができるかわからないし、余計なお世話だって言われたら、本当にそうなんですけれど……先輩の事、教えていただけませんか」
「ミナト君……」
一息に言葉を口にして、湊は呼吸を整える。それを聞いていた宗矢は、最初は面食らったような表情をしていたが、次第に目を細めて少し笑う。
「なんや、意外とちゃんと話せるんやな、ミナト君も。ってこんな言い方はあかんか。……でも君、俺がなんか言っても、いつも返事は短くてな。この子はこんな感じなんやなって、
俺、勝手に思っとったわ。ごめんなぁ」
「いえ、俺は……きっと、そういう奴です。ただ、先輩や、友達が助けてくれたから。最近は少し話すのに慣れただけで」
「ええ子やなぁ。……でも、俺の話はあんまりええもんやないよ。ミナト君は、俺の噂はもう知っとるん?」
「えっと……」
なるたけ言葉を選びながら、湊は自分が耳にした情報を口にする。湊の言葉を聞いている間、宗矢は特に気を悪くした様子もなく、聞き入っていた。雨音の中に、湊のそれほど
大きくもない声が響く。
「うん……概ね、そんな感じやな。別に、間違ってへんよ。俺もそんなに隠す気もなかったし」
「そう、なんですか」
「ミナト君は、こんな俺の事……嫌やないの?」
「正直なところ、よく……わかりません。俺には、なんというか」
宗矢が同性愛者だという事に対する嫌悪、というものは湊には特にはない。そんな事を言えば恋愛自体が程遠かった上に、性的趣向も定かではなく。あまつさえ天羽と快楽を貪りあう
時間さえ設けていた自分はなんなんだという話になる。自分はこう、なのだと。そう定めては明確に行動をしている宗矢と比べれば、少なくとも湊はそれに対して偉そうにご高説を
垂れられるような立場ではない。少なくとも湊自身はそう思った。
そして、その上で傷ついて、行き場のない自分の心を持て余している宗矢を見て、放ってもおけなかった。
「でも、もし嫌だったら……きっと先輩からは距離を取っていたし、ここまで捜しにも来なかったとは思います」
「そらそうや。まあ、君は優しい子やから。そういうのあかんて思ても来てくれたかも知れへんけど。まあ、それでな……俺と一緒に、こっち来た、シユウ。ミナト君はそっちも
知っとるん?」
「先輩の、恋人の方はあんまり」
「元やで」
「すみません」
「……まあ、そんでな。俺とシユウは、いや、シユウが、かな? シユウはな、都会にめっちゃ憧れててん。いや西だってちゃんと栄えて都会やないか、ていうのは置いといてな?
ずっと、ずっと……こっち来たいって思っとった。それこそ俺がシユウと出会う前から、ずっとな。ほんで、俺はシユウを好きなって、シユウも俺の事、受け入れてくれて。
大学生にもなったら、もう地元なんか出たくて堪らんって。なんやろな、そういう憧れ、なんかな。せやからシユウ、こっち来てからもう俺みたいな言葉で話さへん。まあ、センセに
怒られたりもするし、結局敬語も必要やから、俺も話せんこたない。でも、俺と二人きりの時でも……もう昔みたいには話さん。そない、嫌やったんやって……ああ、脱線しとるな」
そこで言葉を切って、先程まで湊の意外な一面に触れて笑っていた宗矢が表情を曇らせる。半円の猫の瞳が俯いて、また少し涙を目尻に湛えた。今更ながら、それがとても綺麗
というか、宝石のようだと湊はしばし思う。
「俺は、シユウがこっち来たい言うから、一緒に来たんや。地元離れるんも、嫌……というか、不安やったけど。でも、俺はシユウと離れるなんて考えられへんかった。小さい頃から、
シユウは俺の事、よう手助けしてくれてな。それに……それに、シユウだけこっちに来させたら。きっともう、俺の下には戻ってきてくれへん思た。せやから親戚筋辿って、俺も
こっち来たんや。幸い二人ともそういう伝手はあってな。別々に暮らしてもよかったけど、恋人と一緒で、生活費も浮かせるんやから、とんとん拍子で話はまとまった。家族には、
まあ昔から仲良うしとったで押し通したけど。正直、最初はしんどかった。俺、こんなんやし。浮いとった。シユウは俺みたいには話さへんし。それでも、幸せやったわ」
話しながら、徐々に宗矢の声が鼻声交じりになっていく。涙が次から次へと。思い返す度に、胸の傷が痛むのだろう。湊は自分が宗矢を捕まえて、話させているというのに、
罪悪感を覚えながらもそれを聞いていた。初めて聞く宗矢の情報。深い話。今までは、あまり聞く事がなかった。宗矢は獅雄との仲を隠すような事もしてかなったようだが、それも
一年下の湊に対してまではあまり明け透けには語らなかったし、また可愛い後輩にここまで突っ込んだ話をしてしまうのを単純に避けていたのだろう。噂として、それを耳にしたと
したらそれはそれまでだが、さすがに積極的に話すというような真似はしなかった。また湊も、遠く関西から来ている、と宗矢に対して思っていたので、その出自などに関しては
根掘り葉掘り聞くのは、もしかしたら答えにくい事もあるのかも知れないと、触れる事もなかったのだ。
「幸せやった。シユウが、俺と別れたいって言いはじめるまでは……」
その言葉を、宗矢は何度も口にするのを躊躇ってから、ようやく口に。同時に、涙が溢れて、何度も息を小さく吐く。思わず、湊は宗矢の肩を引いて、抱き寄せた。ほとんど
発作に近いもので、湊自身も何故そうしたのかと問われても、説明は難しかったかも知れない。それでも、そうしなければ今にも宗矢は足場から崩れ落ちて、そのまま溶けては
消えてしまいそうに見えた。その白い弓道着だけを残して、夜の闇に儚くなってしまいそうな程に。
「ごめん。ミナト君」
宗矢は拒絶を口にして、離れるかと湊は思ったが。大人しく湊の腕の中におさまっていた。宗矢自身、自分がどうかなってしまいそうな事を充分に、今日の弓道の結果も含めて
認識しているのだろう。寒さと雨に濡れているというせいもあるが、身体も震えていた。
「なに、聞いても。あかんかった。なんで別れたいんや、とか。どうしたら撤回してくれるんや、とか。そうやないんやな。もうあかんって、シユウの中で、決まっててん。俺、
上手くできひんやった。その内、気づいたわ。シユウは全部、新しくしたかったんや。西のもん、全部嫌やったんやって。言葉捨てて、新しい自分なって。生活も新しくして。
学校も、友達も、全部さらのもんに。そら、俺だけそのままなんて、嫌やったんやな。……ああ、でも。シユウは多分、努力もしとった。これは、シユウのためにも言うとくけど、
こっち来て、すぐにシユウが余所余所しくなった訳ちゃう。ただ……あかん思っただけなんや、最終的にな」
目を開けていられなくなったのか、何も見たくないのか。宗矢が目を瞑る。涙はとめどなく溢れて、雨よりもしとどにその弓道着を濡らしてゆく。湊の腕の中で、小さい呻き声を
あげて、宗矢が泣きはじめる。
「俺、どこで、間違ったんやろ? どうすれば良かったん? シユウの事、好きになったのが間違いなん? そんなん、しゃあないやん……。好きになるのが全部自分の損得や、
相手の細かいとこまでよう見て、最後は上手くいくやろ思てできるもんちゃうやん。今更どないせ言うねん。ほんま、あほらし……。こんなとこまで来て、捨てられてる俺も、
こんな話、ミナト君に話してる俺も。嫌やのに……」
「先輩」
「……俺、それでも上手くできる思っとった。シユウに別れようって言われたの、今年の二月ぐらいやったし。せやからミナト君と知り合った時には、もう別れるのは決まっとった。
俺、結構上手くやってたやろ? そんな悩んでるように見えへんかったやろ。弓もな、まあまあ上手くやれとった。シユウが居なくなっても、俺にだって、自分のもんって言える物が
あるんやって。……ほんとは、弓もちょっと下手なってたけどな。でも、引っ越し先決めて、こないだシユウが出て行って、部屋がぽっかりするとなぁ……あかんかった。家に帰る
度に、部屋間違えたんかって思ったり。飯作っても最初二人分出しそうになったり。できた飯、一人で食いはじめると、もう……あかんかった。居なくなってからのがキツいって、
どっかで聞いたけど、ほんまなんやな。ほんで、大学でシユウとちょっと顔合わせた時に、もう何も言わんとそのまま通り過ぎたりしたら。もう、なんもない。赤の他人や」
滔々と語られる宗矢の言葉に、それがどれだけか宗矢の中に渦巻いていて、その胸を埋め尽くしていたのかを湊は知った。こんな状態で、満足に弓が射れるはずもなかった。言葉の
端々から、宗矢が獅雄を大切に、愛していた事ばかりが伝わってくる。同時に、湊は自分の胸が痛む想いもまた感じていた。ただ、それよりも、何よりも。今にも壊れてしまいそうな
宗矢の心が、湊には気がかりだった。
「まあ、経緯としては、こんなもん、かな……。ごめんな。愚痴なんか零して。みっともない先輩やな……。ミナト君には、恰好ええ先輩って奴、見せたかったんやけど。土台
無理な話やったんかな」
「先輩……大丈夫、ですか」
「大丈夫に見えるんかこれが」
瞬間的に、敵意すら孕んだかのような宗矢の言葉。ただ、口にした宗矢はすぐにはっとして、かぶりを振る。
「ごめん……俺、もうあかん。おかしなっとる。ミナト君の事、傷つけるんはちゃうのに。俺……」
行き場のない想いを、どうする事もできずに苦しむ宗矢を見て、湊は自分に何ができるのかと思案する。そうして無言の時が過ぎてゆく中でも、雨は降り続けた。もはや軽く拭く
だけでは済まないくらいに、二人とも濡れていた。寒さが、さすがに偉丈夫である湊の身にもしみてくる。湊でそうなのだから、宗矢の方はより深刻で、段々と身体が震えはじめていた。
ただその震えが本当に寒さからくるものなのかは、定かではなかったが。
「ソウヤ先輩。俺じゃ頼りにならないかもしれませんが。俺の事、頼ってくれませんか」
「頼りもなにも、こんな話聞いてもらっとるだけで、充分過ぎるわ……。ミナト君は、嫌やないの。こんな、俺の事」
「嫌じゃないですよ。俺。先輩のこと、好きですから」
「……それ、本気で言っとるん?」
「本気ですよ」
一瞬、宗矢は自らを渦巻く悲しみの事さえも忘れて、顔を上げて湊を見つめた。好きだといいながら、湊は同時に苦しい想いを感じていた。好きだと言ってしまったのなら。天羽の
言葉がまた甦る。天羽も、湊に好意を伝えた時、こんな気持ちだったのだろうか。上手くいかなかったら、そこですべての関係が終わるかも知れないと、怯えながら。その怖さは、
湊も理解できた。例え宗矢がこんな状態に陥っていたとしても、湊にとって宗矢は大切な先輩だった。それから、淡い想いを抱く相手としても。宗矢と天羽の二人によってもたらされた
ひと時の楽しい日々の、すべてが終わろうとしていた。宗矢との関係も終われば、全てが元に戻って。だけど、湊の心は元には戻れなかった。最初から何もなかったようには振舞え
ないだろう。宗矢が口にするように、失った日々を、そこに耽溺していた自分も、忘れられるはずもない。
「こんな、別れたばっか。それも捨てられたばっかの奴に……言うもんちゃうよ」
「ごめんなさい。でも、俺が持ってるのなんて、これくらいしかなくて。俺じゃ、駄目ですか。ソウヤ先輩」
「あかん」
間、髪を容れずに宗矢が口にする。途端に、湊の胸にも痛みが広がった。こんなに痛かったのか、と思った。もしかしたら、自分がほんの少し抱いた想いと比べれば、宗矢や天羽が
持っていたものはもっと大きかったのかも知れないから。その分痛みも大きかったのかも知れないとも思う。少なくとも二人のように取り乱すような真似も、湊はしなかった。ただ、
目の前に居る宗矢の痛みが、ほんの少しでも和らぐように。また明日から、笑えるようにと、願うばかりだった。鈍感で、丈夫だから、その分湊自身は傷ついても良かった。
「あかんよ、ミナト君……あかん。君だけは、あかんのや」
「ごめんなさい。俺、なんの魅力もなくて」
「誰がそんな話しとんねん。……逆や。今、誰でもええ気分なんや。こんな辛いの、忘れたくて堪らん。せやから、ミナト君はあかんのや」
ゆっくりと、宗矢が腕を押すようにする。湊は何も言わずに、腕から宗矢を解放した。少し離れた宗矢が、金色に湊を映す。いつの間にか、涙が止まったのか。少し充血はしていたが、
まっすぐな瞳で湊を見つめている。
「誰でもええから、ミナト君だけは……あかんのや」
「……好きですよ、ソウヤ先輩。先輩が関東に来てくれて、俺の先輩になってくれて良かった。先輩と一緒に弓道をするのが、俺は楽しくて、好きで。この人と会えてよかったって
思いました。俺の気持ちになんか、応えてくれなくてもいいです。今は少しでも、先輩の足しにしてください。それだけで、充分です」
「そんなんずるいわ……」
ぎゅっと、宗矢がまた身を寄せてくる。湊ももうなりふり構わずに、震える身体を抱き締めた。
雨は依然として降り続けるが、二人はそのまましばらく身を寄せ合った。小さな想いが、どれだけ宗矢の支えになっているのかは、湊にはわからなかった。
ただ、それても。宗矢の身体の震えは次第に治まって。雨は止まずとも、その心には何かしらの変化が訪れたようでもあった。
寒さが、身に沁みる。吐く息が白い。
夜道を、湊は歩いていた。朝晩はよく冷えると、充分に温かい恰好をしてほしいと、気象予報士も告げていた事を湊は思い出す。
電車を降りて歩く道。まだ、あまり見慣れたとは言えない道を行く。人との繋がりの、そういう部分が湊は好きだと、最近になって気づいた。自分一人では、どこへでも行ける
ばすなのに、実際にはどこかへ行こうなどとは思いもしなかった。見慣れた道の往復が、ただ移動をしたという一言で済んでしまう。ただ、今は違っていた。道の途中に、こんな
店があった。そんな小さな出来事でも、それは湊の胸に留まる。あとで、覗いてみてはどうだろうかと思案する事もできる。
無論、一人ではなく。
アパートの一室に辿り着く、扉の一つを番号を頼りに、そしてそこにある表札を見て。インターホンを鳴らす。
「いらっしゃい! ミナト君。寒かったやろ。こたつもあるから、あったまりや」
扉を開けて出迎えてくれた黒猫の嬉しそうな様子を見て、湊も笑みを浮かべる。お邪魔しますと口にして、湊も中に入る。
外との寒暖差に、湊は一息ついてから、厚着していた服を脱いで。宗矢との時間を満喫する。
新しい時間がはじまる。もう幾日か過ぎれば、年も明ける。得た縁もあれば、失った縁もあった。
せめて掌に残ったものを大切にしようと、湊は改めて固く誓った。
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