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[chapter:十歳十四歳二十四歳
]
ユアンはしずかに語った。シュバリスはじっと耳をかたむけていた。
「ハダルはしかも、とびぬけて健康だったんだ。君も気づいただろう、彼のなかには減ってしまったとはいえ莫大な魔力がある。体内でうまれるはしから呪いにつぶされ、いまはまったく機能していないが。だがそう、あれほどの魔力をもちながら彼は丈夫で、しかも賢かった。ハルトガルトの再来と云われていた。伝統的に皇帝家の子どもは生まれてすぐ試石を握らされて[[rb:固有魔法 > マジック]]の傾向を調べられるが、末恐ろしいことに生まれてすぐに彼は黒を出した。数百年ぶりのことだ。もっともここまではっきり幼いうちから黒が出ると、わりとほんとうに怖いことも起こってしまう。黒魔法の素質がありすぎるーーのちのち魔力を暴走させて人を死に至らしめたり暴力的な思想に染まったり、ほかの分家とおおっぴらに対立、政争を引き起こして内々に処分せざるをえなくなったり。長い皇帝家の歴史のなかではそんなこともたびたびあったーー狂帝、とのちに評された皇帝もいたほどだよ。だが、ハダルに限ってはそれは杞憂だった。彼は黒をもちながらきわめてまっとう、かつ温厚な少年に育ち、前途有望の跡継ぎとして期待されていた」
「だけどーー?」
「七年前の誘拐事件だね。そう、あれはほんとうに不可解な事件だった。いまでもよく覚えている、とても暑い夏のできごとだったよ。ハダルはその日、皇帝家のもつユーロープの別荘ですごしていた。お付きのものと騎士団の護衛、そこにはもちろんナイジェルも含まれるが、合わせて六名が彼に同行していた。毎年恒例の夏期休暇の避暑だった。皇帝皇妃夫妻は公務を終えてあとから合流する予定だった。ところが先行して二日目、市街地にある大聖堂を観光がてら参拝に行ったおり忽然とハダルが消えた」
「消えたーー大聖堂で?」
事件についてきくのははじめてだ。シュバリスがいずまいをただすと、
「いや、参拝は終えていた。正確には、広場に面するカフェの個室から消えたんだ。彼らはそこで休憩中だった。ところが、護衛とナイジェルがほんの数秒目を離した隙にハダルがいなくなっていた。最初は彼が全員の目を盗んで外に出たんだと思われた、当時は元気いっぱいの男の子だったからね。脱走してひとりで街を見に行ったのだろうとーーだが、どこにもいなかった。かわりに大聖堂の前にある馬車の停泊所の前に途切れた血痕が落ちていた。ハダルの血だった」
「そこで誘拐されたということですか。抵抗して血が落ちたーー目撃者は? 大聖堂前の広場でカフェが広場に面していて、馬車の停泊所、ということはーー」
「そうだ。車に連れ込まれたのだと思う」
「真昼間なら、それを誰かが見ていてもおかしくないかと存じますが」
「そのとおりだ。かなりの量の人出があったし昼間のできごとだった。だが不可解なことに誰も目撃していなかった。目撃者はゼロだった」
ユアンはため息をついた。
「そしてほうぼう手を尽くしたが見当たらなかった。ことがことだけに報道管制がしかれ、この件はいっさい表には出されなかった。ハダルが皇位継承者としてさらわれたのか、ただ単に裕福な家庭の子だからさらわれたかも最初は不明だったーーが、状況からみて皇位継承者としてさらわれたのに間違いなかった。でなければわざわざカフェから彼だけを連れ去ったりしない。広場をふつうに歩いていた子がごまんといたし、そのなかには富裕層の子だっていたからね。状況から、犯人はその日の皇子のスケジュールを知っていて犯行に及んだのだと目され、同行していた六名はかなり厳しい取り調べを受けた。六名のうちいずれかが情報をもらしたと思われた。だが、どの人物も口外していないし犯人とつながっている証拠もでなかった」
「では、ハダルさまを連れ去った車のほうは? そこに犯人もいっしょに乗っていたのでは。そちらからは?」
「車は街のはずれで乗り捨てられているのが見つかった。中にはハダルの血痕も落ちていたーーが、これはどうも、車に彼を乗せるときに金具で切ってしまったんだろうということだった。その血痕がなければ誘拐とは思われなかったかもしれない。そして、残念ながら犯人じたいの痕跡はまったく車に残されていなかった」
「そうですか。あのーーユーレアイト家はそのとき?」
「そう。ハダルが攫われたとなると真っ先に疑われるのが同じく皇位継承権をもつアルジュナ擁するユーレアイト家だ。その線はまっさきに騎士団が調べた。実は当時ユーレアイト家の奥方もその父親も別荘に逗留していた。ここはセレスタインの別荘のほど近くにある、だから当初は、かなりの確率で彼らのしわざではと思われた」
「彼らならこっそりハダルさまたちの後をつけていって犯行に及ぶ、ということもできるわけですね?」
「そうだ。それに、彼らならハダルらの予定を事前に把握できただろうし、赤ん坊のころから顔をつきあわせている間柄だ、ハダルに言い含めてじぶんからカフェの外にでてこさせることだってできる。だが、彼らにはちゃんとアリバイがあった。六歳だったアルジュナを連れて近くにある小型飛竜の訓練場を見学していたんだ。現場からも結局ユーレアイトを示す痕跡は出なかった。それとなく調べたユーレアイトの別荘からも」
「そうですかーーあの、ユーレアイトの、アルジュナのお母さまとおじいさまが誰か人を雇って誘拐させた、という可能性は?」
「調べたがわからなかったそうだ。かなり突っ込んで調べた、とのちに騎士団に訊ねてみたところそう聞いたけどね」
「そうですかーーではそのあとは?」
「懸命の捜索の末、三日後にハダルは発見された。別荘地のある広大な森のなかを流れる小川のそばに、意識を失って倒れていた。ハダル自身の証言によると、誘拐されたあとはずっと犯人と森で野営をして過ごしていたと。だが彼は顔を覚えていなかったし、現場から犯人につながる決定的な証拠もでなかった。複数犯とみられ、反帝国組織の紋章のついた旗があったことから、組織のしわざだろうとされたがね」
「そうですかーー、」
「だが、組織の犯行にしては、犯行声明がなかったのが奇妙といえば奇妙だった。皇帝の息子をさらっておきながら身代金の要求がなかったことも、大した外傷もなく見つかったことも。ハダルは一見まったくの無傷で保護された」
「呪いのことは?」
「呪いをかけられたことも、魔力を奪われたことも、そのあとすぐに知れた。その呪いがとんでもなく古いものであることも。だが、当時は彼が生きて戻ってきた喜びで、それに対する懸念はあとまわしになった。生きて戻ってきてくれさえすれば、と当時は全員がそう思っていたし願っていた。同時に、みんな心のどこかで呪いなどすぐに解けるだろうと思っていたんだ。なにしろ皇帝家だ、エウレシアじゅうの優れた解呪士を動かせる。だが、けっきょく誰にもあの呪いを解くことはできなかった。そう、あの呪いをかけられる術者、という手がかりからも事件は調べられたんだよ。あれを施せる術者はそうそういない。だから騎士団は、蓄積した情報からブラックリストにのっている違法な魔法使い、魔女、そのなかには蛇人も含まれるが、あらゆる方面から調べを尽くした。だがけっきょくなにもわからない。ただ結果として緩やかに密やかに、ハダルは魔力を強奪されて、魔力も知性も失っていった」
「そうですか……」
シュバリスはじっと考え込んでいた。そしてふと首をかしげた。
「あの、つかぬことをおうかがいしますがよろしいですか?」
「なんだい」
「誘拐事件が起こったとき、学院長はどちらにいらしたんでしょうか。事件のことはすぐにお知りになれたのでしょうか?」
「ああ、わたし?」
ユアンは顔をあげ、なんら気にする様子なく答えた。
「当時のわたしは研究所の研究員だったが、やはり夏季休暇で別荘にいた。ユーレアイトにセレスタインにカルセドニーと、ちょうど三角形の形に別荘が位置していて避暑のあいだはパーティーだの乗馬だのピクニックだの音楽会を一緒にやるのが恒例だったのでその準備もあったしーーだからわたしも別荘にいて、ハダルが消えたという一報もすぐに受けた。誘拐だというものだからすぐさま現場にすっとんでいった。ナイジェルのことも心配だったしーーいまじゃ想像もつかないと思うが、ナイジェルだって当時は十四歳の少年だったんだよ。数年前に母親を亡くしたうえ前の年に父親を亡くしていて、そんななか試験を勝ち抜き学院に受かってハダルと同級生になるんだといって休学に入っていた。彼は当時セレスタイン家でハダルといっしょに暮らしていたから、アレクセイよりよほどハダルを実の弟のようにかわいがっていた。だから気の毒に、ハダルが誘拐されたのは自分のせいだと思い込んでうちひしがれていた。自分が目を離したからだと。もしハダルになにかあったら自分も死ぬなどというもんだから、どう慰めていいかとわたしも手をつかねた」
「そちらには、テディもいっしょに?」
「いや、残念ながらあいつは当時、部員に泣きつかれて学院で[[rb:巣球 > ネスボラ]]のコーチをしてやっていた。一報をきいてすっとんできて、ナイジェルを抱きしめようとして八つ当たりされて蹴られていた」
「そうですかーーミクラとユーロープではかなり距離がありますが、学院長も当時ユーロープにいらしたんですね」
「そうだね」
こくりとうなずいて、「ああ」とユアンは笑って肩をすくめた。
「たしかにハダルになにかあればユーレアイトだけでなくうちに皇位が転がり込んでくる可能性があるね。わたしにも動機がないわけではないと思っているんだね。そうだね?」
「はあ……、」
そうはっきり云われると、と苦笑するシュバリスに、ユアンは手を振って答えた。
「実を云うと我が家もかなりその線で取り調べられたよ。わたしもハダルの捜索に参加したが、そのじつ騎士団から監視下におかれていたともいえるしね。でもまあちゃんとアリバイがあったし、そもそもわたしには無理だからね、皇帝の座を継ぐなんてことは」
「無理、ですか? なぜ?」
「それはね」
ユアンはふうっとため息をついた。
「皇帝の仕事が激務だからだよ。広いエウレシアの端から端まで、人間だけでなく獣人たちの意見も聞き、議会の要請に応え、あるいは議会に要請し、各地で公務をこなす。そんなのわたしにはとてもとても。先ほども云ったがわたし体はが丈夫なほうではないし、また、御双家の人間であるがゆえに皇帝の仕事を間近でみてきて、とてもじぶんには皇帝の資質はないと幼い頃から実感していたんだ。そしてそれはわたしの両親もそうだった。うちの息子が皇帝になったが最後、一週間で崩御すると心から信じていた。いまも信じているししょっちゅう云っている、うちのユアンにはとても無理、とね。だからふたりとも、ハダルの兄と姉が立て続けに亡くなり、わたしが筆頭候補者になったとき真っ青になっていた。わたしが激務で死ぬかもしれないというのではなく、こんなのが皇帝になったら帝国民に迷惑をかけるというのでね。ひどい親だろう?」
「はあーー」
「だから皇位をめぐって利権にからむ連中は、アルジュナが生まれてからは全員ユーレアイト家へ寄っていったよ。ハダルでなければアルジュナだろうとね。まかりまちがってもカルセドニーのユアン王子ではない。だから、間接的にはアルジュナをああまで頑なにしてしまったのはうちのせいでもあるかもしれない、ひじょうに責任を感じる」
ユアンは天井を見上げた。「だが」と彼はそっと云った。
「これが七年前の誘拐事件の顛末だ。そして結局犯人は捕まらぬまま、ハダルは死に瀕しているーーゆえにナイジェルは思い切った手段に出、ユーレアイトこそ犯人であると目してアルジュナを消そうとした。だが君に阻まれて君を恨み、姿を現して墓穴を掘って逃走。そう考えると、君のおかげでナイジェルは自らの計画を変更せざるをえなくなったことになる」
「そうーーですねーー、そのとおりだと思います」
たぶん、と思っていると「たぶんではなくじっさい」とユアンは難しい顔でうなずいた。
「それを思うと君には重々身辺に気をつけてもらいたい。君もナイジェルに恨まれる理由がある。まさか学院にいるあいだは襲って来はすまい、あれから寮の警備は強化したし君にはアイドクレーズもいるからね。だがーーナイジェルはいったいいまどこにいるんだろうな。よほど周到に逃げ道を準備していたか親しい仲間に匿われているのか、騎士団の様子ではまったく消息がつかめないようだ」
「そう、ですか……」
「ああ。それからね、イスラメイ。これはナイジェル以上に云いにくいことでもあるが、君は上級生にも気をつけてくれたまえ。繁殖期を迎えたばかりの彼らのなかには、君が蛇人だという理由でけしからぬことをしようとするものがいるかもしれない。まさかまだ十歳の女子に、とは思うが」
「はい。気をつけますーー」
「薬を配布しているのに、たまにあるからね。数年にいちど、寮のなかでそうした騒ぎが……獣性の中でも繁殖欲は本人にも抑えがきかないらしいけどね。本人も辛いだろうとは思うが」
あれから投げつけられる侮辱には、たしかにそういう種類も含まれる。「学院に商売しにきたんだろう」とか「いくらなら売る?」とか。シュバリスは無視したがーーだいじょうぶです、と断言するシュバリスを頼もしそうに見つめて、ユアンはひとりごちるように云った。
「そうーーそれからね、依然として行方のわからぬ奪われた聖遺物だが、ひょっとしたら、これからハダルに使うつもりだったのかもしれない。とすれば、騎士団がナイジェルの身柄を確保すれば、行方もおのずと明らかになる。だからとにかく今回の図書館でのこと、D11はじめ原本の変化は、これから多少話題を呼ぶにせよナイジェルの件に比べたら些細なことなんだから、ナイジェルが騎士団に捕まるまでは用心しなさい」
「はい」
それで話は終わりだった。シュバリスはほっと息を吐いた。D11の件はどうやらユアンはシュバリスのせいだと思っていないし、誘拐事件のことも騎士団の捜査状況もかなり聞き出せた。ユアン自身のことも。アイドクレーズと検証してみる必要はあるけどーーと、ユアンがふと柔らかく微笑んで云った。
「そういえば、ハダルに[[rb:御守 > アミュレ]]を渡したのは君だねシュバリス」
「え? ああーーはい、」
たしかに青いクリスタルを渡した。彼を守ってくれるように。ユアンは感心したようにうなずいt。
「印を施すときにハダルが見せてくれたよ、シュバリスにもらったんだとね。彼のあんな顔を見たのは久しぶりだった。教官として学院長理事長として、着任してからずっとハダルの様子を見守ってきたが、ここ数年あんなに朗らかに笑っているところを見たことがない。ありがとう」
「いえーー」
「ーーそれに素晴らしい[[rb:御守 > アミュレ]]だ。一目見ただけでわかった、あれでハダルの精神はかなり安らぎを得ている。ネスボラに入ったのも彼を心配してくれているからだろう? ほんとうに蛇神シュバリスと同じく救済の女神だね」
「そんなーーそんなことは」
できるなら呪いじたいを解いてあげたかった。いまシュバリスにできるのはあれが精一杯で、むしろふがいなく思う。しかしユアンは心からシュバリスを賞賛していた。優しく穏やかな表情と心からハダルの身を案じる様子は、とうていナイジェルの云う策謀を秘めた人物には思えない。
「あの御守だが、どうやって作ったのだろう。なかなか大変そうに思えるのだが?」
「たいしたことはありません、治癒と同じですわ教官。苦痛を和らげるように、それから、なにかあったとき身を守ってくれるように。それだけです」
「これまでにもなんども作ったことが?」
「さあーー、」
ふと、シュバリスの脳裏にある光景が浮かんだ。
『持っててね。離さないで、なにがあっても。これがあればだいじょうぶよ、絶対守ってくれるからーーわたしがいっしょにいるからね。だからーー』
かつてじぶんで作った御守を、むかしハルトガルトやほかの五人に渡した。そのときの記憶だろうか、とシュバリスは、どことなく重くなった頭に手をあてて考え込んだ。そのままこめかみに指先をすべらせる。なにかだいじなことがここにある、と思った。
「そうですね。たしかーー昔にーー、」
そのときだった。ずきん、と頭全体に痛みが走り、シュバリスは「う」と声をあげた。
「うーーっ?」
「どうした?」
「いえーーあの、ちょっとーー」
シュバリスはあわてて手を振り「だいじょうぶ」と云おうとした。しかし、かすかな兆しから始まった頭痛はすぐにすさまじい痛みに変わり、シュバリスは大きく目を見開いた。
「いっーー」
(痛い。いたいいたいいたい、なにこれーーなにこれ、なにこれ。なにが起きてーー、?)
いままで感じたことのない痛みだった。つづいて心臓をつかまれたように胸が苦しくなった。
「あーーあああああああっ……!」
「イスラメイ? イスラメイーーどうした?」
「ひっーーひ、あ、あああっーー」
頭と胸をおさえて、シュバリスは腰掛けていたソファからすべり落ちた。ユアンも慌てたように腰を浮かせ、シュバリスのそばに膝をつく。いまにも床に崩れそうなシュバリスの肩にユアンの手がかけられる。心配そうな緑の目がシュバリスを覗き込んだ。
「どうしたんだいったい。頭か? 頭が痛いのか? それとも胸?」
「あーー、」
シュバリスはぎょっとした。ユアンは口元に笑みをうかべていたが、その笑みはどこか奇妙だった。
「だいじょうぶだよ。すぐにわたしがなんとかする。君ほどではないが白魔法はわたしも得意だ」
「あーー?」
ユアンに対する嫌悪感が彼女のなかで噴出した。ふと階下から「シュバリスさま!?」というアイドクレーズの鋭い声がシュバリスの耳に届いた。閲覧室の片付けはとっくに終わり、階下でじっと待っていたのだ。そして、シュバリスとつながっているアイドクレーズは、あるじに異変が起こったとすぐに気づいた。
「シュバリスさま!? なにがありましたか!?」
「アイクーーアイク!」
痛みをこらえながらシュバリスは頭をあげ、ユアンではなく必死でアイドクレーズを呼んだ。
「おーーねがーー、」
声にならなかった。痛みが増し、吐き気がした。
(アイク。アイクーーアイドーークレーズ。早くきて。助けて)
どうして急に、とシュバリスは頭痛と吐き気を振り払おうとゆっくりと頭を横にふった。しかし痛みはひどくなるばかりだ。喉の奥から苦いものがこみあげ、気が遠くなった。
(なんで急にーーなんで急に?)
ユアンがそばにいるからだろうか、とシュバリスはそっとユアンを見上げた。ユアンは貴重な原本をソファに放り出し、シュバリスを抱えあげようとしていた。その指先がふとシュバリスの手の間をぬって彼女のこめかみに触れた。
「だいじょうぶか? ここになにかーー問題が?」
とたん、シュバリスのなかで恐怖が爆発した。爆発というほかない、たとえようもない強い恐怖だった。恐怖はあっというまに全身に広がり、びくん、とシュバリスは跳ね、その拍子に「シュバリス!」とユアンが彼女を呼んで抱きすくめた。セレスタインの血をひく男の力強い手が背を包みこんだとたん、シュバリスを恐怖が襲った。
この男は危ない。
危ない。危ない危ない危ない。
「いやーー!」
確信と衝動に突き動かされるまま、次の瞬間、シュバリスは力いっぱいユアンを突きとばしていた。
[newpage]
[chapter:その淑女破天荒につき]
ユアンの呆然とした顔が、乱れて額にふりかかった銀色ごしに見えた。しかし、つきとばされ、拒否されてなお彼はシュバリスにむかって手をのばした。シュバリスにはもはや恐怖にしか感じられない、細く白い優雅な指先が迫るーー
「シュバリス! 落ち着けーー、」
力強く抱きしめられ、耳元で囁かれて、シュバリスは「いや!」と絶叫した。しかし彼はそのまま無理やりシュバリスの頬を両手ではさみこみ、顔をのぞきこんだ。
「だいじょうぶだ。落ち着けーー!」
「いや、いやいやいやいや、さわらないで! さわらないでーー!」
触れられたくなかった。ユアンの穏やかな顔に、優しい指先に、そばにあるだけで身の危険を感じるほどの脅威と恐怖を感じた。シュバリスは死にものぐるいで身をよじり、ユアンから逃れようとした。
(こわい。このひとがこわい)
(盗られる。命をーーまた大事なものを奪われる。体の一部を)
(このひとはこわいーーこわい。真っ黒だーーこのひとは闇そのものだ!)
「あーーあああああっ、あーー、あなたがーー」
この男がそうだ、とシュバリスはせつなに、本能としかいえない部分で察知した。そしていくばくかの理性で思い出した。ナイジェルはユアンについて、ひとの意思を操ると云っていた。それがユアンの[[rb:固有魔法 > マジック]]だと。苦痛と混乱の中でシュバリスははっと目を見開いた。
「やめてっーーやめて、やめてやめてやめてーーわたしに魔法をかけないで! おねがい、やめて!」
(もしーーいま話しているあいだじゅう、彼がマジックを使っていたとしたら?)
(わたしのことばも、考えも、ぜんぶぜんぶ彼に操られていたとしたら? これから操られるとしたら?)
「シュバリスーーイスラメイ?」
「いやあっ……」
シュバリスの体の周囲で白金の火花が散った。ユアンは怯んだように一瞬上半身をそらせたが、しかしすぐに決意を目に浮かべてシュバリスの肩を片手できつく掴んだ。頭に触れたもう片方のユアンの手がじわりと温かみを帯びる。
「この程度なら誓約には触れない。診るだけだか」
魔法が発動する。また暗闇がくる。混乱しながらシュバリスは、とっさに防御魔法でじぶんの全身を覆った。ばちん、とユアンの手が見えない防御壁に弾かれた。
「えーー?」
シュバリスさま、と階段をかけあがってくるアイドクレーズの声。彼がきてくれれば、とシュバリスは願った。だがユアンは恐るべき執念をみせた。シュバリスに云うことをきかせようと、息も絶え絶えのシュバリスの体を強引に引き寄せる。細身だが、意外なほど力強い。抵抗するすべもなくシュバリスはユアンにすっぽりと抱き込まれ、頭を掌で支えられながら床に寝かされ、のしかかられていた。見上げたユアンの表情はひき歪み、いつもの紳士然とした様子はどこにもなかった。きれいに撫でつけられた砂色の髪が額におちかかり、その下で緑の目がするどくすがめられている。ふだんの優しさは消し飛んでいた。
「おとなしくしなさい。少しでいい」
「いーーやーー、」
アイドクレーズは間に合わない。シュバリスはすでに泣いていた。
「おねがい。やめてーー」
大きな手が頭に触れる。
「あーー」
気が遠くなる。せつな、まったく聞き覚えのない「おーい!」と呼びかけるアルトとテノールのあいだの元気な声が聞こえたーー階下の入り口の方から。そして奇妙なことに、すぐさま同じ声が間近であがった。
「おおーい、って呼んでるじゃないの色男くん! ってあらら、なんだか大変みたいじゃないか、またあなたが女の子を泣かせてるのかと思ったらなにこの状況、無理やりっぽくみえるんですけど。公共の施設でことに及ぶなんてわたしじゃあるまいしこれはいけない、さあレディ、お姉さんのとこにおいで!」
風がシュバリスに押し寄せた。全身が持ち上げられ、次の瞬間シュバリスはユアンではない別の誰かの胸に抱かれていた。正確には目を閉じていたのでよくわからなかったが、抱きとられてユアンから遠ざけられた。下の方からユアンがなにごとか激しく詰め寄る声がきこえたが、もはや間近にはない。シュバリスの全身からふうっと緊張がとけた。頭上からアルトとテノールの声が云った。
「うるっさいなあ、だいたいユアン、この子は君に怯えてるみたいですけどね。怖い顔してらしくもない、なにがあったんだか知らないけどーーおおよしよしお嬢ちゃん。ほら、目をあけてごらん? 悪い王子サマにはもう手を出させないからね。もうだいじょうぶだよ」
ふわりと頬になにかが触れた。
(あったかい。懐かしいーーアリス。いやエステルーー?)
かつての仲間の気配がそこにはあった。全身が溶けてしまいそうに心地いい。なめらかな手がこめかみから頬をゆっくりと撫でてくれる。うっとりとシュバリスはその感触にひたった。
「あーー」
(野菊の香りーーそれから[[rb:山査子 > サンザシ]]ーー[[rb:加密列 > カモミール]])
それはアリスの匂いーー長い戦いのなかで同じ兎人の戦士である夫のあいだに五人もの子をもうけ、兎人族すべての母として慕われていたおおらかなアリス。そしてエステルーー狼人族を束ね、妖艶さと剛毅さをもって君臨していた誇り高きエステル。仲間だったふたりの女性の香りがシュバリスを包んでいた。
(それから[[rb:薫衣草 > ラヴェンダー]]。それからーー)
([[rb:肉桂 > シナモン]]ーー[[rb:香菜 > コリアンダー]]? 桃ーーえっーー[[rb:紫丁香花 > ライラック]]に[[rb:阿利襪 > オリーブ]]ーーてことは?)
(シオンにエコーにライド?ーーえっーーなに、どういうことーーみんな?)
シュバリスはゆっくり目を開けた。
「おっ、ちょっと楽になった? うんーー頭が痛いみたいだね、そうだろう? でももうだいじょうぶだよ」
目の前に、いたずらっぽく輝く紅茶色の目があった。こめかみを覆う手のひらがそっと外される。シュバリスは片手で抱きかかえられていた。ものすごい腕力をもつ女性、男性? いや、おそらく女性ーーがにっこりと微笑んでいる。
「あなたは?」
「わたしかい? わたしはギネヴィア。ギネヴィア・ルネ・マリー・トリーー」
「シュバリスさまっ!」
とうとうアイドクレーズが現れた。三階ぶんの急階段は子どもの体には辛かったのだろう、息をきらしている。彼は大股にシュバリスの元へやってきて、シュバリスを抱きかかえた女性を激しく睨みつけた。
「あなたはどなたです!?」
「わたしかい? わたしはギネヴィアだよ。ギネヴィア・ルネ・マリー・トリーー」
「いやいい、いいから早くそのかたをこちらへ!」
「じゃ、ソファまで連れてったげる。それでいいね?」
「はいーー、」
ギネヴィアと名乗った人物はあっさりとシュバリスをソファに下ろして解放してくれた。そのころには頭痛はおさまり、乱れきっていた感情も落ち着いていた。「だいじょうぶですか。なにが?」とせわしく訊ねるアイドクレーズに「だいじょうぶ」とうなずきかけると、シュバリスはそのまま目の前でたたずむギネヴィアに見入った。
その人物はどこか風変わりだった。
「ええとーー」
ギネヴィアは背後のユアンになにか喋りかけていたが、シュバリスたちを振り返り「やっとぜんぶ名乗らせてもらえるのかな?」と真っ赤な唇をにいっとつりあげた。
「はじめましてお嬢さん。わたしはギネヴィア・ルネ・マリー・トリッチトラッチ。セレスタイン魔法研究所主任研究員。仕事内容は魔具の研究開発それから解析、ついでにそこにいらっしゃる王子さまの同期でもある」ギネヴィアはちらりとユアンを見やった。
「学院長のお知り合いで?」
「そ」
アイドクレーズはまだ警戒を解かずギネヴィアを見上げ、そのむこうに憮然としたユアンの顔が見えた。彼もまた突如あらわれたギネヴィアを鋭い目つきで睨んでいたが、そうするとふだんの温厚さは消え、ひどく野心的な顔になった。学院理事長および教官がこんな顔もするのかと、彼を慕う女子学生たちなら驚いたことだろう。だがギネヴィアは、まだ床に座り込んだままの不満げなユアンを見下ろして「なあーにい?」と鼻で笑った。長身なのでなかなか迫力があった。
「なんなのさ不機嫌そうに。君が呼んだんでしょ、[[rb:原本 > オリジナル]]の魔法が解けたようだから大至急来てくれって。そうじゃなくて単なるお楽しみなんだったらそうと云っておけよ、こっちだって遠慮するっての。はっ」
そしてギネヴィアはふと、ユアンからシュバリスへと視線を移し、意外そうな顔になった。
「あれ。うーんーーあれっ?」
「なんーーでしょう?」
シュバリスの全身を、ギネヴィアはじろじろと無遠慮に眺め、シュバリスはどこか落ち着かず肩をすくめた。ギネヴィアは不思議そうに云った。
「ねえ。ほんとうはもっと年上なんじゃないあなた、お嬢ちゃん。いやお嬢さんーーレディ?」
「ーーえっ?」
ぎょっとするシュバリスとアイドクレーズに、しかしギネヴィアはすぐに「あ、ごめんなんでもない。いやあーわたしも疲れてるな」と目元をごしごしこすって頭を振った。
「さしものギネヴィアさまも[[rb:女王 > クイーン]]にこきつかわれて三日完徹じゃあ、自慢の[[rb:読魔能力 > オルリド]]を発揮するどころじゃないや。人を読むのは難しいーーえっと、それでなに、ユアン?」
ふたたびギネヴィアはユアンにむきなおる。頭の高い位置でポニーテールにされたまっすぐな[[rb:栗色 > ブリュネ]]の尻尾がふわりと舞った。
「あなたいつから[[rb:少女性愛好 > ロリコン]]になったわけ。性的嗜好はそこそこまっとうだと思ってたんだけど宗旨替え? 気持ちはわかるけどねこんな美少女じゃね。いやしかしどこからどう見ても新入生まるだしだけど、こりゃあ十三歳入学組じゃないよねもっと下だよね、まさか君にそんな年の生徒に手を出す度胸があったとは思いもよらーーん、なあに、まだ座り込んで? あ、そうかそうか失礼しました。君はほんとうに根っからの王子さまだよね。いやお姫さまかな? ささ、この騎士めのお手をどうぞ姫」
「あいかわらずよく喋る」
ぎょっとするほど低い声でユアンが云った。
「しかしありがたく手は借りよう」
ギネヴィアに引き起こされると、ユアンはジャケットの裾を払った。並んでさらにはっきりしたが、ギネヴィアはやはりヒールを履いているのを差し引いてもユアンと並ぶほどの長身だった。そして、ユアンがいつもどこか物憂げで、線が細いというより腺病質といったほうがふさわしいのに対し、ギネヴィアのほうはいかにも骨太で頑健で、全身に生命力をみなぎらせていた。顔立ちも体つきも中性的なので一見判別しにくいが、胸部のゴージャスな盛り上がりや腰から脚にかけてのなだらかなラインからしてれっきとした女性ーー顔の造作の繊細さという意味ではユアンのほうが勝るが、ぱっちりした目とすっと通った鼻筋、赤い唇のバランスがとれた、鞭のようにしなる体をもつ印象的な美女だった。紅茶色の目には、やはり好奇心旺盛さを表す快活な光を灯している。そしてーー
(獣人の気配がするわ。でも種類がまったくわからない。見当もつかない。こんなかたははじめて、どうなってるの?)
アイドクレーズも気づいたようだ。「なんだーー?」といぶかしそうにギネヴィアを見つめている。
「あのーーあなたはーー?」
ぽかんとするふたりを、ふたたびさっとポニーテールを舞わせてふりむいたギネヴィアは、
「ああ。初対面のひとはたいていびっくりするんだよね。ご明察のとおりわたしは雑種だよお嬢さんがた。しかも[[rb:二種間雑種 > ハイブリッド]]なんてものじゃない、混ざりに混ざってる。この国の『歩く[[rb:獣人図鑑 > ベスティアリィ]]』、またの名を『帝国の成果』。またの名を『輝かしき人類の未来』。またの名を『学院始まって以来の才媛』。そしてまたの名をーー」
「三四一期生の恥」
横からぼそりとユアンが云い、ギネヴィアがすぐに云い返した。
「違うさ、三四一期生の星さ! 三年連続最優秀学生賞、巣球部キャプテン、学院長賞ほか数々の賞を在学中に受賞、おかげで騎士団複数部署からのスカウトに研究所の各部から引く手あまた! 入学時首席に限ってはあなたに譲ったけど卒業時の首席はわたしだった。でしょ?」
「それは認めよう。だがほかにもあるだろう、『三四一期生の暴れ雌馬』。君が通った後は草木も生えず、道の両側は死屍累々」
「なんだいそれ、ひとを人殺しみたいに! ああ、信じちゃいけないよ可愛らしいお嬢さん?」
ギネヴィアはさっとソファの前に跪くとシュバリスの手を取った。
「えっ? えっーーあの、えっと」
きらきらの、虹彩のところどころに金色と銀色の散る紅茶色の目は才気煥発に輝いていた。
「いいかな小さなレディ。学院長で理事長で教官なんて派手な肩書きに騙されちゃいけない、ユアン・カルセドニーこそほんとは悪ーい男なんだよお! 今でこそ女生徒にきゃあきゃあ云われているけど、昔はすーっごく手のかかる子だったんだから。お姉さんがいつか君にこいつの悪事を隅から隅までばらしてあげよう、いやそれにしても君は美人さんだね! こいつは将来楽しみだ、唾つけとこうかなーーどうだい今夜わたしと夕食でも。そのあとはベッドでお茶でも?」
「はあーー、」
まくしたてるような早口で理解がおいつかない。シュバリスは目をしばたかせた。さしものアイドクレーズもなにも云えず口をぱくぱくさせるばかりだ。後ろから苦々しげにユアンが云った。
「ベッドでお茶でもだと? またとんでもない口説き文句を作り出したもんだなギネヴィア。その手を離せ、うちの学生が汚れる」
「はあーん? 失礼な男だな君は、汚れるとは。かわいい後輩と親睦を深めたいだけだ、何が悪い!」
「悪い。君が[[rb:両性愛好者 > バイセクシュアル]]だとその子は知らない、それに君がお茶だけで済ますはずがない。いや君の趣味に口を出す気はないがいくらなんでも学生に手を出すのは許さん。学院の長としても大人としても」
「そんなこと云ったって今年も研究所にわんさか研修で送り込んでくるんでしょうが。書類に印璽を推すのはあなたでしょ? は、見てるがいいさ、今年もわたしがなんにもしなくたって魅力に参って[[rb:恋文 > ラブレター]]をしたためる輩がまた出てくる。云っとくがわたしは彼らが抱いてくれっていうから望みを叶えてやってるまでさ。こちらから迫ってるわけじゃないからね」
「残念だったな、今年は君のいる部署はもれなく外す。それでなくとも去年の騒動は理事会のあいだでも大問題になったぞ[[rb:博士 > ドットール]]。普通なら君は解雇ものだ、いくら主任とはいえやっていいことと悪いことがある」
「ああ、あれ?」
うんざりと肩にかかった髪を払ってギネヴィアは低く笑った。
「学生たちはけっこう面白がってたけどね。いやそれにしても薬の副作用で性別が変わるなんて、まさか誰も思いもしないよね! あれはほんとわたしもびっくりだった。でも滅多にできない体験だったでしょ、あははははっ」
「なにをいう、戻ったからいいものの、一生あのままだったら生徒自身にも保護者にも申し訳がたたないところだ。君は有為の学生の前途をだいなしにするところだったんだぞ!」
「ふうーん学生の、ね。あなただってわたしの一生をだいなしにしてくれたけどね。忘れられないひとがいるとかいって一方的にふってくれちゃって、さしものギネヴィアさまもあれはけっこう堪えたんだぞ。おかげであのあとろくでもないやつと結婚してしまったしねえ」
「なにを云う、君のほうが一方的に、わたしのような根暗の陰険には耐えられないってそっぽをむいたんじゃないか。それに君の離婚手続きをしたのは実質わたしだ、いったい誰のおかげだと思ってるんだ、晴れて独身に戻って研究に打ち込めている現状!」
「あははははっーーいやあれねえ、別にわたし頼んでないけど」
「頼まれなくたって誰でもやるさ、あんなザマじゃ。ほんとうに君は趣味が悪い」
「それを云われちゃ立つ瀬がないけどね。あっそういえば今日はママはどうしたの? 姿が見当たらないけど?」
「テディはわたしの母じゃない」
「そうお? 君のお母上よりよほどーーうん? 違うな、なんでこんな話になったんだ? なんで」
ギネヴィアは首をかしげ、すぐにぽんと手を打った。
「そうだユアン、オリジナルはどうしたんだい。魔法がついに解けたってね。どこ?」
「そこだ」
苦々しげにユアンがアイドクレーズを指差した。アイドクレーズは首をかしげていたが、ふいに弾かれたように腰を浮かせた。無残に潰された原本を見て、ギネヴィアが「ひゃあ」と肩をすくめた。
「今日はそいつにとって受難の日だな。どれどれーー」
ギネヴィアはアイドクレーズのそばに近づくと、ふところからぬかりなく手袋を出して嵌め、ソファからつまみあげて目の前にかざした。シュバリスはその瞬間、ふわりと魔力のうねりがギネヴィアから放たれたのに気づいて彼女を凝視した。
暮れなずむ外の光が差し込む三階ホールに、紅茶色の目の中に紫色の光が一瞬浮かび、星の瞬きを出現させた。ギネヴィアはオリジナルにじっと見入っていたが、やがてため息をつきながら「たしかに解けてるね」と首をかしげた。
「詳しくは研究所で解析しなきゃいけないけど、ざっと見たとこ、なにからなにまでぜんぶ解けてる。もう魔法はない、このオリジナルは動かせるよ。どこにでも持っていける」
「そ、そういえばーー」
シュバリスはやっと告げた。
「それはこの図書館から動かせない、そういう魔法がかかっていると、さきほどみなさんがいらしたときに教官がそうおっしゃっていましたがーー?」
「ああうん、そうだね」
ギネヴィアはそのまま無造作に中身をぱらぱらめくり、やはり彼女も文面の変化に気づいたのだろう、目を細めてくすりと笑うと、元どおりに木の表紙をあわせ、器用に紐を結んで本を閉じた。彼女はドーム型になった天井を見上げて静かに云った。
「そう、この場所ーーセレスタイン魔法学院附属図書館。学院の学生だけじゃない、大学に研究所に騎士団の人間もここにはよく来るが、ここは学院の歴史という点でも特別な場所だ。ねえ、あなたたちはこの原本についての解説書も読んだんだろうね。さっき受付のカウンターにあったの、わたしも読んだことがあるよ。たしか、『帝歴488年、王家の別荘で火事が起こったさい地下倉庫より運び出された櫃のなかから、それまで未発見のハルトガルト直筆の散文や手紙類が発見され、そこにD−11の草稿も含まれていた』という記述のある解説書。でもこれは知ってるだろうか、その火事が起こった王家の別荘というのがここなんだよ」
「ここーー?」
「この図書館だ。つまりここがこの原本のもともとの発見場所なんだ。オリジナルは、いまは書庫になっている地下の倉庫から発見された」
「えっーー?」
顔を見合わせる主従に、ギネヴィアはゆったりと云った。
「この図書館は、学院校舎が建設されるはるか以前からここにあった。というか、セレスタイン魔法学院のはじまりは、貴族の子弟だけがひっそりと集められて魔法教育を受けていた小さな塾からはじまるんだけど、塾の講義はここで行われていたんだよ。つまりこの図書館こそーー当時は図書館じゃなかったんだけどねもちろんーー学院の始まりだ。そしてその前は王家の別荘で、もっとずっとさかのぼって千年前はハルトガルトが建てた[[rb:展望施設 > パノプティコ]]だった」
「ハルトガルトが建てたーー展望施設?」
「そうさ。そこのーー」
とギネヴィアは、斜め前方から壁に沿ってさらに屋上へ登る階段を指差した。
「階段をのぼって屋上に出るでしょ。いまは閉鎖されてるけど、そこから上に出るとセレス市のみならずミクラのかなり広範囲までが見渡せるんだ。ここは学院校舎よりちょっと高くなっているし、そこにさらにこれだけの建物が建ってるわけだからーー千年前はこれだけ高い建物ってのもここくらいだっていわれてる。だからハルトガルトはよく王宮からこの別荘に来て、ここからじぶんの作った街を眺めつつ政治や福祉や獣人たちのこれからについて思索していた。このぶんだとこわーいお妃さまから逃れて安らげる場所に来て、大好きだった元恋人とのかつての日々を思い出し、回想録よろしくしたためてもいたんだろうね。捨てられた子犬がご主人様を思い出してるみたいで、なんかちょっとかわいいよね」
ギネヴィアも「蛇神シュバリス娼婦説」信望者ではないようだ。
「いやそれにしても、オリジナルにかけられた魔法が解けて本来の文章があらわになったとなると、これを発表したら各界に衝撃が走るだろうね。しかもこの内容、“ドーリスじゃなかった”わけだからね……」
オリジナルで口元を隠していたが、苦笑しているのは声色から明らかだった。ユアンも云った。
「君から中立の専門家に渡して、そこから発表してもらえるよう計らってくれないか、ギネヴィア。わたしや君の名で公表すればいらぬ疑いをもたれる。できるか?」
「もちろんそうしよう。これはこのままわたしが大学に持ってくーーいやダメだな。司書から大学に持ち込んでもらったほうが無難かな。それでいい?」
「いいよ。モード女史にはわたしから頼んでおこう」
「頼むよ」
「あのーー」
アイドクレーズがいぶかしげにギネヴィアを見つめた。
「お察しするところ、あなたは専門家ではないのですよね?」
「ああ、そうだよ」
「ならばなぜ、見ただけでそこまで断言できるのでしょうか。そのD11の入った原本について、魔法が解けたとかもうここから動かせるとかーーわたしも先ほど閲覧室で目撃しましたが、あの魔法は強力だった。魔法がまだ残っていて、またうちのあるじに妙な容疑がかかるような魔法が発動するのではという不安を、わたしはぬぐいきれないのですが」
アイドクレーズはその瞬間、シュバリスの肩を抱く手に力をこめた。先ほどの異常がユアンのせいではなく原本のせいではないかと疑っているようだ。
「ああ」
しかしギネヴィアはちょっと拍子抜けしたようにうなずいた。
「そりゃあ間違いなく、もうぜんぶ魔法は解けてるって断言できるよ。わたしは[[rb:読魔能力者 > オルリド]]だからさ、これはオルリドとしての首をかけてもいいね。この本にはもう魔法は残ってない」
「オルリドーー?」
「そうさ」
ギネヴィアがうなずいた。彼女の目はアイドクレーズを撫で、そしてシュバリスの上で止まった。彼女は「あなたもそうよね?」というように神秘的な笑みをみせると「オルリドっていうのはね」と続けた。
[newpage]
[chapter:原始の魔法]
「ひとやものの[[rb:魔力 > オーラ]]を読む能力のことさ。オーラというと、非常に魅力的な人物が光を放っているように見えるのを『オーラがある』とかって云うね。でも、オルリドにとってのオーラはそれとはちょっと違う。ものにおさまりきらずに外まで溢れ出てくる魔力のことをオーラもしくはアウラっていうんだ。ものが放つのが[[rb:魔力 > アウラ]]、ひとが放つのが[[rb:魔力 > オーラ]]ーーまあいまはどっちもオーラで統一しとこうか。で、ひとのオーラっていうのは魔力のあるなしに関わらず、また魔力の大小に関わらず誰からも多少は放出されているし、そのオーラの中には相手の情報がたくさん詰まってる」
「相手の情報ーー?」
首をかしげるアイドクレーズに、
「そうだよ。むろん、オーラが強く感じ取れるほど相手の魔力が大きいってことはある。そして、一定以上の力をもつオルリドにとってオーラを読むことは、相手の履歴、すなわち生育歴や経験、能力や性格や記憶を読むことと同じだ。相手の魔術レベルや、ときには感情なんかもわかる場合がある。モノの場合は材料がなにか、作成年代、魔具の場合は何の魔法がかけられているか、種類や量や力の程度がわかる。そしてわたしは、モノにかけられた魔法を読むのに特化したほうの読魔能力者なんだよ」
「それがあなたの[[rb:固有魔法 > マジック]]なんですか?」
「いや。オルリドってのはーー読魔能力そのものも読魔能力をもつ者のことも両方をまとめてオルリドって呼ぶけど、オルリドの力はマジックには分類されない。これは厳密には魔法でもない、ざっくりいうなら『野生の勘』の拡大バージョンだ。動物にもともと備わってる危機対処能力、たとえば対峙した相手がじぶんにとって危険かどうか見極める能力を広くとらえたもの。つまり人間に原始的に備わっている魔法と呼んでもいい。だから実は、オルリドってのは誰にでも備わってる能力でもある。ただし使えるひとと使えないひとがいて、ある一定以上の能力者がオルリドと呼ばれる。ーーユアンもオルリドだよ」
「いちおうね」
ユアンがちょっと首をかしげながら云った。
「状況がかなり限定される。君ほど能力は高くない」
「そうーーあなたのは痕跡を読む力なんだよね」
ギネヴィアはユアンにうなずきかけ、
「ひとのオーラは見えないけど、ひとが残した魔法の残渣を読みとり、そこに犯人の署名を見いだすことができる。騎士団には垂涎の能力だよね。そして君のご主人はーーええと?」
「あーーシュバリス・イスラメイです。こちらはアイドクレーズ」
ようやくシュバリスも名乗った。ギネヴィアは「遅くなったけどよろしく、シュバリス」と微笑むと、「麗しの蛇神シュバリスさまの御名をもつお嬢さんも[[rb:読魔能力者 > オルリド]]だよね。しかもかなり強力な」と瞳をくるめかせた。
「そのオルリドという呼び方も実情もいまようやくまともに知りましたが、どうやらそのようです」
「ーーそうなんですか?」
横からアイドクレーズが驚いたように云い、シュバリスは「そうみたい」と曖昧に笑みを浮かべた。意識して集中するとひとの魔力が可視化され、いろんな色や模様をなして見える。過去も視える。だがこのことは、つきあって五百年になるがアイドクレーズには云ったことがなかった。というよりシュバリスは、アリアナに指摘されるまで他の人も当たり前にもっている能力なのだと思っていた。「云ってくださいよっ」とアイドクレーズはちょっとふくれ、ギネヴィアが笑った。
「ねえシュバリス。ちょっとわたしを見てみてくれない、読魔能力で」
「いいんですか?」
「いいよ。どうぞ」
「じゃあーー」
シュバリスは集中してギネヴィアに意識をむけてみた。感じ取ったのかギネヴィアがくすぐったそうに肩をすくめた。
「あは、なんか照れちゃう。ーーね、あなたにはわたしはどう見える?」
「とても綺麗です」
ギネヴィアのオーラは強靭で芯があって、純粋さと清廉さを兼ね備えている。ユアンはさきほど好き放題に云っていたが、ほんとうはかなりこのひとは一途だとシュバリスは見て取った。それに、外見は中性的で、胸や腰を除いた体つきは[[rb:競技者 > アスリト]]のようだけれど、内にはたしかに女性らしい柔和さと受容性がある。そしてそこに一筋だけ、するどく尖った剣のようなきらめき。研究者としての彼女だろう、切れ味のよさが見て取れる。類稀な発想と実力をもつ人物に違いなかった。大きな野心と、同じくらいの純朴さが同居している。
「澄んだ紫です。夜明け前、ううん、暮れきった夏の夜の色。柔軟で優しくて、でも尖ったところもある。すごくバランスがいいーー完成された大人のオーラだと思います」
「まさか。完成された大人だと、ギネヴィアが?」
ユアンはおおげさに云って肩をすくめ、「間違いないね」とギネヴィアはユアンをぎろりと睨んでうなずいた。
「じゃあやっぱり本物だ。読魔能力者にはみんな同じ色が見えるから、これを外しちゃうやつはだからオルリドじゃないってすぐわかる。あなたの見立ては前にわたしが仲間に診てもらったときと同じだ。さてーーひとを読むのは得意じゃないけど、わたしにもぼんやりとあなたがわかるよ。あなたもとても綺麗。あなたは真っ白なのね。辺縁部は透明で、そこで虹色の星がぱちぱち弾けてる」
「そうですか? じぶんの色はみえないので……」
シュバリスは辺りをぐるりと見渡す。ギネヴィアはしきりとうなずいていた。
「うん。小さい子でここまではっきりしてるのは珍しいわ。子どもはあいまいなのが多いし、ちょっと見ない間にがらっと変わったりするから。でもーー」
ふとギネヴィアは一点を凝視したまま動かなくなった。しかしすぐに目元を指先で押さえると「やっぱり人を読むのはだめだ、疲れちゃうや」と小声で呟いて頭をふった。しかも、次の瞬間目元を覆っていた手が外れると、明らかに顔色が悪くなっていた。
「なんかーーごめん、気分が悪くなってきたーー」
「えっ? だ、だいじょうぶですか?」
「だいじょうぶーーでもなんかーーいやだいじょうぶ、たぶん魔力酔い。慣れないことするもんだから」
「さっき三日完徹したとか云わなかったか?」
横からユアンが云った。
「それも原因だろう、すぐに寝ろ。君はいつもそうだ。なにも君が来てくれなくたって助手か誰かよこしてくれればよかったんだ。他にもいくらだって手が空いてるやつがいただろうに」
不機嫌そうなユアンに、ギネヴィアは手を振った。
「いや、そうじゃなくてもあなたに話したいこともあったし。えっとーーとりあえず下に降りて、どっか暖かいとこに移らないかい。図書館は冷える。久しぶりにテディのお茶も飲みたいし」
「いいだろう。ただし寮にこの子たちを送ってからだ。最近は物騒なのでな。それまでもつか?」
「もつよ」
「行こう」
ユアンが促し、シュバリスもアイドクレーズも立ち上がった。だがギネヴィアは三人についてこず、ふらふらと階下を一望する手すりへとむかうと、ふたりがあっと声をあげるまもなく柵を乗り越え、空中に身を躍らせた。
「えっーー」
下までかなりの高さがある。シュバリスたちはあわてて階段をかけおりた。しかし門扉の前では、まだ顔色がすぐれないものの「早く行こうよう」と笑顔で手をふるギネヴィアの姿があった。どこにも怪我はない。受付のカウンターからはモード女史が「上階から飛び降りないでください!」と原本を手に怒鳴りつけていた。
「またあなたですかドットール・トリッチトラッチ! いいかげんにしないと出禁にしますよ!」
「彼女には直近の先祖だけで、狼、猫、虎と、跳躍力に定評のある獣人種が複数いてね」
後ろからユアンが説明してくれた。
「その他にも、羊、馬、猿、熊、鳥、とじつに多彩な種族の血が彼女には混じっている。なかには希小種の[[rb:一角神馬 > ユニコーン]]種だの[[rb:天馬 > ペガサス]]種だの[[rb:鷲獅子 > グリフォン]]種までいる。ずっと以前の先祖には蛇人もいる。そもそも彼女の先祖は変わり者で、もとは純粋な人間で貴族だったんだがパートナーにもれなく獣人を選んだ。妻も側室も愛人も。そしてその妻や側室や愛人の子どもたちがまた別の獣人種をパートナーに選んだ。時代が下るとそのあいだで婚姻しまくった。おかげで彼女には帝国じゅうのありとあらゆる獣人種の血が流れている」
「そんなことがあるんですかーー?」
「あるんだ。彼女個人の主張だが、異種族間で子が得られにくいという問題は、異種族交配を数世代重ねていくとある時点から解消され、逆に子を得やすくなる、だそうだ」
なるほど、『歩く獣人図鑑』に『帝国の成果』。シュバリスも納得がいった。いろんな獣人の気配が混淆しているのもさきほどアイドクレーズより先に三階に現れたのも、[[rb:巣球 > ネスボラ]]のキャプテンになるのもーーどこかふらふらと頼りないが、それでもしっかりと筋肉のついた手足の動きを見ながらシュバリスはまた感心した。
(千年たって、ものすごいかたが出てきたものね……頼もしい)
それに異種間で交配すると体も丈夫になるらしい。吹けば飛ぶようなユアンの背中と匹敵する広さをもつギネヴィアの背中を見比べてシュバリスはため息をついた。ユアンもハダルもアルジュナも、できればほんとうに獣人と結婚したほうがいい。そうすれば彼らの子どもたちは無事に育つかもしれない。
「それにしてもテディは遅いな。てっきり戻ってくると思ったんだが」
前方でユアンが不満げに首をかしげた。たしかにアリアナを送っていっただけにしては時間がかかりすぎる。
「あなたのために道路の石をよけてあげてるんじゃない? つまずいたら大変だもの」
「君はいったいわたしをなんだと思ってる。わたしはもう三十一だぞ」
むっとしたようにユアンが云った。
「いくらなんでもそうしじゅういっしょってわけじゃない。それに道を歩いているくらいでつまずいたりしない。わたしだって訓練はしてるしそこそこ強いつもりだ」
「それは魔法に限ってでしょ。腕力じゃあの子には及びもつかないじゃないの、それにまだいっしょに住んでるんでしょ? テディが家事一切担当であなたの健康管理もしてる、じゃあやっぱりあなたのママみたいなものじゃないの。今日の門限は何時かしら坊ちゃん?」
「莫迦にするな」
さらにむっとユアンが云い返したが、「そうお?」とギネヴィアは気に留めなかった。
「思い出すわあ、テディといっしょに何度あなたを抱っこして医務室へ行ったことか。体育で倒れ音楽で倒れ、舞踊で倒れ魔力精錬で倒れ、それでも女の子たちはあなたが次の皇帝陛下だと思って甲斐甲斐しく世話をやいてくれたわよね、栄華は五年生までだったけど。ハダルさまが生まれたもんだからねえ、あのときあなた落ち込んでたわよね、めちゃくちゃに」
「落ち込んでない。喜ばしいことだった。わたしには皇帝はむいてない」
「そう? わたしにはがっかりしてるように見えたわよ。じぶんが皇帝になったらやりたいことがあるって云ってたじゃない」
「たしかに云ったがーー」
そこでユアンは眉間にしわをよせ、シュバリスはアイドクレーズと顔を見合わせた。シュバリスの無言のメッセージをアイドクレーズは正確に受け取ったしたらしく、「まさか?」という形に唇が動いた。
ユアンにもアルジュナを狙いナイジェルを嵌める理由がある。皇位を狙っているなら。たまさかギネヴィアが、ちょっと後ろを歩いていたふたりをふりむいて云った。
「シュバリスにアイドクレーズ! ね、このひとってば、一見とっても優しそうな紳士に見えるでしょ? よくできた教官さまにさあ」
「はあーー」
「ええ、見えますが」
「とおーんでもない。こいつはわっるい男なんだよお。ユアンが入学する年、学院の入学倍率が例年より五倍もはねあがったんだけど、それってぜーんぶこのひととお近づきになって玉の輿を狙う女子受験生のせいだったの。で、このひとそれをわかってて、入学後は自分の周りに女の子を侍らせてたんだよ、じぶんが病弱なのを利用して」
「利用してない、勝手に寄ってきたんだ。あのときのわたしは子どもだったし、女子の思惑など考えもしなかった。本気にしないでくれたまえふたりとも。ドットールは話を大げさにする天才だ」
「ーーええと。でもそれは、たしかに教官は素敵ですから、おもてにはなったのかな、と思いますけど……」
受贈者名簿にあったユアンの昔の写真を思い出しながらシュバリスが答えると、
「いやいやいやいや。低学年のころはともかく、高学年になって自覚してからは片っ端から食ってたからね。調子が悪いから寝室まで付き添ってくれないか、で、のこのこついてきた女の子をそのままベッドにひきずりこむ。とんだ病弱のカサノヴァもあったもんだ。くわえて学生の頃からオリジナルの印やら陣やらしこたま開発して裏で売りまくってた。寮と学院の禁忌に触れないでセレス市に出る魔法印やらミクラに出る魔法陣やら。なのに自分では使わないの、品行方正なフリだかなんだか、おおかたみんなを試作品の印陣の実験台にしてたんだよ! ほんと、弱みにつけこんでひとを利用する天才だよね!」
「それは君だろうギネヴィア。君のほうこそわたしを利用していた。放校処分になりそうだったのを何度わたしが父上に頼んで止めてもらったか。君が上空に飛んだまま降りなくなったときや、女子のみならず男子からまで恋人を取られたという陳情があがったときも教官をたらしこんだときも。他にもあるぞ」
「ところでわたしは[[rb:魔具 > マギアツール]]の研究開発をしているんだけどね」
ギネヴィアは無視して話を変えた。
「わたしはいずれこの国に大陸横断鉄道を作りたいんだよね」
「大陸横断ーー」
「鉄道?」
そろって顔をみあわせるふたりに、ギネヴィアは瞳を輝かせてうなずいた。
「そうさ。いまエウレシアじゃあ、短距離は車か馬、中距離は小型飛竜、長距離は飛竜と魔法陣、超長距離、たとえばアングイスからヤハンまでとなると巨大魔法陣一択でしょう。でもそれだと魔法を使えない人たちは利用できないし利用しづらい。わたしはそれを解決したいんだ。もちろん動力として魔法を採用するけど、機械式にして、誰でも乗れる移動手段にする。そしてそれは、魔法陣みたいにあちらからこちらへ一足飛びではなく、時間をかけてゆっくりこの国を横断するものなんだ。景色をみたり食事をしたり友達と語り合ったり、ただじっと時の流れを感じたり、偶然知り合った誰かと話したり、そんなふうに楽しみながら移動する。[[rb:大陸 > エウレシア]]の東西を結ぶ横断列車!」
「大陸横断列車ーー」
「それは素敵ですねえ」
楽しそうだしロマンがある。シュバリスとアイドクレーズは目の前の女性にすっかり魅了されていた。「だろ?」とギネヴィアはにっこり笑い、ユアンを横目で見つめた。
「でも莫大な資金が要るんだよね。土地の問題もあるし線路も一から作らなきゃならない。だからユアンに出資してくれって頼んでるんだけど、なんど頼んでも渋るんだなあ。カルセドニーの御曹司で、掃いて捨てるほどお金をもってるくせにさ」
「わたしひとりで決められることじゃない。それに君の全計画を容認したら、さしものカルセドニーといえど屋台骨にヒビが入る。先祖代々うけついできた財をわたしの代で潰せない、だいいちそれほど大きな計画、議会の承認なしには実行できないだろう」
「だから君が皇帝になってくれればいいんだよ。勅令いっぱつ、税金投入しほうだい。君がやる気ならいくらでも協力するけどねえ」
「ーーまあな」
まんざらでもなさそうにユアンは口元に手をあててつぶやき、シュバリスたちはまた顔を見合わせた。
(そうだわ。じぶんで望んだことじゃないにしろ、教官は途中までは確実に皇帝になる立場だった。十四歳のときにハダルが生まれて皇位継承者から外れた、ということは、十四歳まではずっと皇位継承者だったわけでーー)
(そのころにはまだアルジュナも生まれていないから、たったひとりの資格者だった。それがハダルの誕生でがらりと変わった)
皇位につく人間だからと、彼をちやほやしたり便宜をはかったりする者もいただろう。なのにその全員が、ハダルが生まれたからいっせいにユアンにそっぽをむく、あるいは態度を変えたとすると? じぶんが蛇人だと知って手のひらを返した級友たちにシュバリスが傷ついたように、彼も傷ついたのではないだろうか。
(人生が変わったといっても過言ではないのじゃないかしら。教官だってそのころは子どもで、十四歳なんて多感な時期にそれを経験した。皇位に翻弄されるじぶんの立場を不満に思ったり反発したり、じぶんの地位を奪ったハダルを恨んだ可能性だって)
それに、なんといってもユアンは印陣に精通している。
学院の入試を受ける前、ひょっとして学院が設置している魔法陣を使って犯人が逃げたのではないかとシュバリスは推測したが、ユアンが黒幕ならそれを使う必要すらない。もっともそれはナイジェルにもいえる。つまり、このふたりに限っていえば七柱廟がいくら遠方にあろうと問題ではない。
アイドクレーズも気づいたようだ。胡乱そうにユアンを見上げていた。
しかし、それらすべてを棚上げにせざるをえないできごとに一同はぶちあたった。ようやく寮の玄関が見える場所へと角を曲がったとき、大勢のひとびとが集まってなにやら大騒ぎしていた。騎士団の制服を着て忙しく歩き回るひとびと、興味深そうにそれを眺めて寮の窓から顔を出す生徒たち。そして騎士団に囲まれて彼らに必死に答えているひとりの人物ーー
「テディ? どうした?」
中心にいる人物を見てユアンが走り出した。ギネヴィアも。シュバリスとアイドクレーズも追った。寮の門前は喧騒に包まれていた。
[newpage]
[chapter:忠誠の誓い]
「ユアンさまーー!」
騎士団員より頭一つ背の高いテディはすぐに気づいた。同時に騎士団員たちも振り返ったので、体の隙間からテディの全容が目に入ったが、その姿に四人はぎょっとした。首から下が血まみれで、ジャケットの袖はちぎれてなくなり、肩からむき出しになった右腕は血に染まっていた。ユアンが叫んだ。
「怪我してるじゃないか。なにがあった!? 腕をどうした!?」
「それがーー」
「シュバリスーー学院長!」
寮の玄関ではアリアナが寮母といっしょにいた。彼女は騎士団員になにか喋っていたが、団員と付き添いの寮母を振り切って四人のもとへやってくると、もごもご云い訳するテディより先に事情を説明した。
「わたしたちここで立ち話してたんです。テディさんとここまで戻ってきたのですが、話の流れでこれからの授業のことになって、相談にのってもらっていて」
アリアナは門扉の前あたりを指差した。「立ったままふたりでお話してました。そしたらとつぜんそこに」彼女の指先はつづけて、寮を囲む柵の内側の、楡の大樹を指差した。「知らない男性が立っててーーテディさんの弟さんらしくて、そのひとに襲われて、テディさんはわたしをかばってお怪我を」
「ナイジェルが?」
ユアンがぎょっとしたように目を見開いた。
「ナイジェルがここに来たのか? また学院内に潜り込んだというのか、結界を強化したのに。ああテディ、ひどい血だ。見せてみろ!」
「いや、平気だ」
テディは慌てたように、心配そうにユアンがつかみかけていた腕をふりほどいた。
「だいじょうぶだユアン。さっき団員の方が手当てしてくださったから傷はふさがったし、ちゃんとくっついてる」
「くっついてる? くっついてるってなんだ、どういうことだ」
「腕を切り落とされたんです。右腕を」
アリアナが横から云った。いつも凛としている彼女だが、さすがに声は震え、目に涙をにじませている。彼女の制服にも血しぶきが散っている。思い出したのかぶるりと身を震わせ、「わたしをかばってーーごめんなさい。ーーシュバリス!」シュバリスは急いでアリアナに駆け寄り、彼女を抱きしめた。アリアナはシュバリスの肩に顔をうめ「なにもできなかったわ」とうめいた。
「むしろわたしがとっさに杖を出しちゃったのが悪かったのかも。逆上させちゃった、どうしようーー学院の生徒なのになんにもできなかったわ。寮母さんを呼んで騎士団を呼んでもらうことしかーーあなたみたいにテディさんを治してあげることもできなかったの」
「なにもできなかったなんてそんなことないわ。というか、いまここまで説明できるなんてすごいわよ。じゅうぶんすごいわ」
シュバリスは必死で慰めた。いっぽう彼女の隣では「腕を切り落とされたって?」と呟いたきり絶句していたユアンが我にかえり「だから!」と激しく従者を睨みつけた。
「気をぬくなといっただろう! 弟だろうと容赦するなとも云ったはずだ、それに、反撃できないのならせめてわたしがやった印を使え。なあテディ、もしものときのために渡しただろう? それを使えば無傷ですんだのになぜむざむざやらせた!?」
「申し訳ございません」
テディはぐっと唇をひきむすんだ。弟に反撃できなかった己を責めているようだ。しかし同時に誇りをにじませていた。
「それでも、すでに両親が亡くなっている以上わたしがアベンチュリンの家長でたったひとりの兄です。なんとか説得できればとーーそれにとにかくアリアナ嬢だけでも守らねばと」
「それはまあ」
アリアナが無傷なのを見て、ユアンは少し溜飲をさげた。
「生徒を守ってくれたのは嬉しいし誇りに思う。だが頼むからじぶんのこともだいじにしてくれ。ナイジェルは普通の状態じゃない、わざわざ危険を冒してここに現れたのだって、彼が捨て身であることの何よりの証拠だ。そうだろう?」
「はいーー、」
「結界は張った。守備も強化した。なのにーー」
ユアンはあたりを見渡し、音が出そうなくらい唇をきつくかみしめていた。「なにをしにきたっていうんだ?」と首をひねるユアンをテディは暗い顔で見つめ、彼自身も眉間にしわを寄せていた。
「次こそはナイジェルだろうと斃します」
「そうだ、弟だと思うな。おまえにここまでするとなるともはや敵だ。わたしにとっても敵だ」
「ユアン」
「テディーー」
主従が絆をたしかめあういっぽうで、ギネヴィアは逆に冷めた、ひとごととも思える口調で「困ったもんだねえ」とぽつりと云った。彼女はそっとユアンの両肩に手を置き、なだめるようにさすりながら首をかしげた。
「遺物強奪とユーレアイトのお坊ちゃんの件つながり、か。そういや[[rb:研究所 > うち]]にも注意喚起がきてたな。んで、行方不明の手配犯がようやく姿を現したのに、今回も捕まえられなかったと。うーん、テディきみさあ、身内に甘すぎない? 魔法は仕方ないにしても腕力だけならたぶんあなたのほうが上だよ? 組み合わせしだいではギリ斃せるよ?」
「面目ありません先輩」
テディがびしりと姿勢をただした。
「精一杯やっておりますのですが、どうもじぶん、弟に弱くて」
「それはわかるけど。しかし君、そのガタイのわりに性格が優しすぎるよ、そこを直せってキャプテンの座を引き渡す時にもわたしはいったもんだけどね。だいたい兄だから手が出せないんじゃなくて兄だからこそ手を出しなよ、こうなった以上弟を捕まえて引導渡すのが兄のつとめってもんでしょ」
「今回はあちらが上手だったんだ」
もはやテディを責める段階ではない、とユアンはつぶやいて、
「ナイジェルの力のほうがわたしたちが思っているより強いんだ。そもそもが黒だからな。七年前からどんどん強くなっている。まるで彼がハダルの力を吸い取っているかのようだ」
「ふうーむ。だとしたらさ、七年前の誘拐事件の犯人もナイジェルだった、なあんて可能性はない?」
ふとギネヴィアが云い、「絶対にない」ユアンはきっぱり否定した。
「ナイジェルとハダルは忠誠の誓いを結んでる。云ってなかったか? ナイジェルにそんなことはできない、破れば彼は死ぬ」
「あ、そうか。そうだっけ」
「ーーあの。忠誠の誓いとは?」
アイドクレーズが訊ねる。すぐにギネヴィアが答えた。
「主従の間で結ばれる魔法契約さ。契約内容はおもに三つ、ひとつ、従者はあるじの意に反することはできない」
「あるじの意に反することはできない?」
シュバリスは思わず口をだした。
「あの、だけどハダルはナイジェルの暴走を望んでいません。ナイジェルに誰も傷つけてほしくないと思っています。だとしたらナイジェルはいまハダルの意思に反していることになりませんか?」
「いや、主人の命にかかわる問題ならそのかぎりじゃないんだよ。あるじの命を守るためなら意思に反することもできるんだ。そしてこれは裏を返すと、従者が主人の命を脅かすような行為はできないってことだ。だから彼がハダル殿下に呪いをかけたり、殿下の力を奪うことは不可能だ。そしてふたつめ、従者はこの契約を勝手に解除することはできない。契約を結ぶには双方の合意が必要だが、主人は一方的にこれを解約することができるのに対し従者はできない」
「不平等ですね」アイドクレーズが眉間にしわをよせた。「そして不公平だ」
「でも、この時代に主従でいるってのはそもそもそういうことだからね。あえて不平等で不公平な道を選んでも、お互いに利益がみいだせるならーーってこと。で、みっつめーーこれが最もひどいんだけど、主人が死ぬときは従者も死ぬ」
「えっーー?」
「つまり[[rb:殉死 > ジュンシ]]ね。主人が死ぬときは従者が死ぬとき」
ギネヴィアはあっさり云ったが、シュバリスは声も出なかった。
(じゃあ、もしもハダルが呪いに飲み込まれてしまったら、ナイジェルだって死ぬってことじゃ?)
「さらにいうと、三つ目だけじゃく、この三つのどれか一つでも破ったが最後、たちどころに従者は死ぬんだ」
ギネヴィアは眉間にしわを寄せた。
「だからナイジェルの発見を急がなくちゃならないわけ。彼は強い戦士であると同時に主人に忠誠を誓ったほんものの騎士だ。目的を達成したが最後、誰にも知られず、止められない手段をもって自殺する可能性がある。騎士団にとっては最悪の終わりかただ。でも、ハダルさまも割といま危険な状態だから時間の問題ではある。ナイジェルの目的がハダルさまの呪いを解くことだとしたら、彼はこのあと必ずハダルさまの元へ戻ってくるだろうし、もしそれが叶わずハダルさまが死ねばナイジェルも死ぬ。この件はそれをもって解決できる」
「それを解決とはいわない。なにも解決されない。なにも」
「まあね」
きびしく云ったユアンにギネヴィアは肩をすくめると、瞳に紫の光をまたたかせて周囲を見渡した。
「そうーー庭や門扉に残ってる[[rb:魔力残渣 > オーラ]]はたしかにナイジェルみたいだね。あとテディ。ずいぶんそちらのお嬢さんを守るために奮闘したらしい、腕を落とされたとはいえあなたもただではやられなかった。先輩として誇りに思うよテディ、がんばったね」
「ありがとうございます」
「とはいえわたしにはこれ以上は無理だけど。あなたにはどう見える、ユアン?」
「ーーひどく焦ってる」
ユアンの緑の目に、つかのま深い青がよぎった。オルリドとしての力を発揮している。
「どうやら彼は、ハダルが帝位を継ぐのにわたしも邪魔だと思っているな。計画の邪魔もさせまいとしてる。今回ここに現れたのはテディを排除すればわたしを殺すのがたやすくなるからだ。狙いはわたしだ」
「そりゃ困るな」ギネヴィアが眉間にしわをよせた。
「かなり思いつめてるってことだ」
「ああ。詳しくは騎士団の解析を待たねばならないだろうがーーそういえばもう暗いな。ノヴェレッテン、だいじょうぶか?」
「はい。もう平気です」
アリアナはようやくシュバリスから離れた。子どもたちを見渡して、ユアンが優しく微笑んだ。
「では君はもう戻りたまえ、寮母も心配している。シュバリスとアイドクレーズも。D11の件はこちらに任せてくれていいし、今回のことも騎士団がちゃんとしてくれる。ただし三人ともじゅうぶん気をつけて、とうぶん不要不急の外出はせず、つねに誰かの目の届くところにいること」
「はいーー」
「わたしは団長と話してこよう。ちょうどご到着だ」
ユアンの視線の先では、魔法の光に照らされて、ひとめで階級が上にあるとわかる騎士団の制服を着た男性が現れたところだった。長い白髪を後ろで結び、頰に大きな傷がある。いつかクローゼットの中で声だけを聞いた人物かもしれない。すぐに表情厳しく近づいてくると、背後に大勢の部下を従えた彼は、ユアンにむかって重々しく云った。
「閣下。すまないが、あなたの従者をしばらくうちでお預かりしたい」
「ーーというと?」
「ナイジェル・アベンチュリンがここへ来る前の行動がわかった。部下が急行してたしかめました。そしてある可能性が浮かんだ」
「というと?」
「テオドール・ネメシア・アベンチュリン!」
「はい?」
フルネームで呼ばれ、テディがきょとんとあるじの横に出た。
「なんでしょうか団長。ええと、しばらくそちらへということは、今回の件の事情聴取ですか。かなり長くかかりそうなのですか?」
「いや、違う。テディ、君にはナイジェル・イベリス・アベンチュリンを匿った容疑がかけられている」
「はーー?」
「共犯の可能性がある。そうでなくとも、君はナイジェルに便宜をはかったかもしれない。来てもらう」
「えっーー」
「団長!」
意味を悟ってユアンが叫んだ。
「何をおっしゃる。テディがそんなことをするはずがない。いったいなぜーー」
「ナイジェルはさきほどまでミクラにあるアベンチュリンの屋敷にいた。あいつはそこからここへ来たんだ。アベンチュリンの屋敷に数日滞在していた痕跡もあった。君が彼を匿っていたんじゃないのかテディ。そして彼は君に用があったか、なにか困ったことがあったかでここへ来た。だが運悪く女子生徒と君がいっしょだったために、女子生徒を排除しようとしたーー君は女子生徒を守ったが、腐っても血をわけた弟、ナイジェルに手出しはできなかった」
「はーー?」
「でなければナイジェルがのこのこここへ現れるはずがない。アベンチュリン家にいるのもおかしい。騎士団の必死の捜索にもかかわらずナイジェルの行方は杳として知れなかった。テディ、君が彼を匿っていたんじゃないのか。どうだ?」
「はーー、え、あーー」
テディは目を白黒させていた。「連れて行け」と団長が背後に視線を送る。テディはすぐに取り囲まれた。
「なにかの間違いだ」
うめき声をあげたユアンはそのまま団長に詰め寄った。
「冤罪だ、なにかの間違いだ! テディはそんなことはしていない! ナイジェルを匿ったりなどしていない! アベンチュリンの屋敷にいたなら、それはかってにナイジェルが住みついてたんだ、テディは知らない! 彼はわたしとロッジに住んでる、あちらにはずっと帰ってないんだ!」
「ーーでもテディの家族思いは有名だからねえ」
「ヴィア!」
「うーんんん」
ギネヴィアは愁眉をみせて考え込み、ユアンは連行されてゆく従者を追おうとした。しかし騎士団員の壁に阻まれた。
「テディ! テディーー!」
「ユアンさま! だいじょうぶですーーわたしはやってない、すぐ戻ります!」
「カート、テディはさっきナイジェルに右腕を叩き落されたんだぞ! 共犯だの匿ってるだのあるわけないだろう!」
「しかし、閣下。アベンチュリンの屋敷を検分し、共犯の可能性を示唆したのは[[rb:女王 > クイーン]]です」
「クイーン?」
ユアンの顔が嫌悪に歪む。ギネヴィアまでもが「ひゃっ」と肩をすくめた。
「彼女が直接テディと話します。あそこは独立部隊も同然、もとよりナイジェル・アベンチュリンに容疑がかかった時点であそこが主導権をとっている。わたしにもどうにもできない。いま出てきたのはテディのあるじがあなただからです、わたくしからじきじきにご説明申し上げる必要があると思ったからだ。それとーー」
団長は声を低めたが、シュバリスたちにはばっちり聞こえた。
「この件の解決を急ぐようにと皇帝陛下から直々のお達しです。皇子の健康にもかかわることだと。どうかご理解いただきたい」
「わかった」
ユアンはゆっくりとうなずいた。
「ただし彼女に伝言を。テディはなにも知らないし、してない」
「承知しました」
団長が去っていく。シュバリスもアイドクレーズもぽかんとした。
(クイーンって誰かしら。いえそれより、テディがナイジェルを匿ってた? そんなことあるかしら?)
「あっーーちょっとちょっとユアン。どこ行くの!?」
テディが連行されるとともに大半の騎士団が撤収し、残ったのは鑑識係らしい数名のみ。ユアンは硬い表情でそちらを見つめていたが、やがて踵を返した。学院長室の方角だ。
「じゅうぶん注意して、今夜は寮から出ないようにしなさい」
それだけ云いのこして、ユアンは校舎へ足をむけた。学院長室の方角だ。ギネヴィアがぼやいた。
「うーん。あいつらも忠誠の誓いを結んでいたとしても驚かないわね。はあ、ここでほっとけないから腐れ縁なんだろうなあーっ、しょうがない、追うかーーあの顔をしてるユアンは危険だ。ありゃあそうとう怒髪天を衝いてるぞ。今夜は荒れるぞお~」
彼女はぶつぶつ云って、最後にシュバリスたちを振り返り、笑顔で手を振った。
「じゃ、またねかわいこちゃんたち。これもなにかの縁、お友だちになれて嬉しかったよ!」
「友だちになった覚えはないですけどねえ」アイドクレーズがぼぞりと云ったが、ギネヴィアはおかまいなしに、「次はぜひベッドの上で[[rb:御茶会 > ティパーティ]]といこう。じゃね!」
疾走という表現ではなまぬるい、一陣の風と化してギネヴィア・ルネ・マリー・トリッチトラッチは闇に消えた。すっかり夜闇に包まれた寮の門扉の前で、シュバリスたちはぼうっと立ち尽くしていた。
[newpage]
[chapter:おかたづけしましょ]
その夜、気の乗らない宿題や夕食やお風呂や歯磨きといった、寝る準備をすべて終えてアイドクレーズがダイニングテーブルについて云った「ちょっと話を整理しません?」に、むかいでお茶を淹れていたシュバリスは「大賛成」とうなずき、ちらりと寝室に目をむけた。
「アリアナもようやく眠ったみたいだし、ね」
「ええーー」
あのあとアリアナは、目撃した兄弟げんか、と呼べるほど穏健なものではなかった流血沙汰の衝撃から立ち直れず、今夜はシュバリスの部屋に泊まることになった。いくらしっかりしているとはいえまだ十三歳の少女、しかも千年前とは違う平和な時代を生きている。今回のことがアリアナの柔軟な心に傷を残さなければいいが、とシュバリスは思っていた。
「アリアナがぶじでよかったわ。精神的にはともかく肉体的には無傷でほんとうによかった」
「テディはそのぶん大怪我を負ったみたいですがね。熊人だからあれですんだともいえるかもしれない、獣人はたいてい人間より丈夫ですからね。アリアナも鳥人と熊人の血を継いでいるそうですがまだ子どもですし、テディが盾になってくれて幸いですよ」
「そのとおり、とも云いづらいけどまあそうねえ」
「にしても、動揺しているとはいえアリアナはしっかりしてます。すぐに騎士団に通報してくれたおかげでテディの腕も無事くっつきました。そのせいで即座に連行されたにせよ」
「そうね……」
テディがほんとうにナイジェルをかばい、実家に匿っていたかどうかは騎士団の調査を待たねばならない。しかし問題はそれ以前だ。
「結局犯人はどっちなんでしょう。もはやふたりに絞られましたよね、ナイジェルかユアンか」
「そうね、ナイジェルかユアンのどちらかだわね」
「両者それぞれに動機がありますね」
「あるわねえ」
「じゃ、どちらかが黒幕ないしは真犯人として、とりあえず最初に疑わしいと思ったナイジェルから検討してみませんか。込み入ってきたんで、メモをとりつつ流れを整理して、と」
アイドクレーズは宿題用の巻紙を取り出した。さらさらとナイジェルの名を記し、ついで関係者の名と肩書きを書き込んでゆく。じぶんも関係性をおさらいしようとシュバリスがのぞきこむと、
「ナイジェルが犯人ーーヤハンのシュバリス廟に押し入ってあなたから眼と足を奪った犯人なら、動機はその魔力をつかってハダルの呪いを解くこと、失われた魔力をとりもどすこと、皇位継承者の地位を確実にすること、なにより命を救うことーーぱっと出すだけでこんなにありますね」
「ええ、いっぱいある。動機としてじゅうぶんな数ね」
「それに[[rb:現場不在証明 > アリバイ]]の点からいっても彼ならすべての犯行が可能なんでしょう。だから騎士団は犯人だと断定した。アルジュナの件も、彼が実際にアルジュナを刺した実行犯かどうかはまだ定かではないが、そうでないとしても協力者を得てアルジュナを抹殺にかかった可能性はある。聖遺物の件だけでなく暗殺未遂に関してもナイジェルには強い動機があります」
「あるわね。そうーーこの事件は大きくふたつにわけられるわ。ひとつめがわたしを含めた七柱廟を次々と襲った聖遺物強奪事件。ふたつめがアルジュナ暗殺未遂事件」
「ええ。しかし、それらすべてがナイジェルの犯行とは、確実にはいいきれません。ひょっとしたら、聖遺物強奪は別の犯人によるごくごくふつうの盗難事件なのかもしれない。闇で遺物を売りさばく不埒な輩もいないではないらしい、ですしね」
「でもその場合、わたしが眼と足を奪われるのが明らかに変よ。単なる強盗なら、地下神殿にいるのが白蛇だってわかったら、特になにもせずに帰っちゃうと思う。足を切り落としたり眼をえぐり出したり、わざわざ[[rb:獣 > ケモノ]]を虐待するような真似しなくていいでしょう?」
「ですね。他に金目のものがないか探すつもりだったとしても、中途半端にそのへんにいた獣に危害をくわえるってのもおかしい。とすると、他の七柱廟と遺物強奪が連続するということもあわせて、シオン廟、エステル廟、シュバリス廟の侵入強奪犯はすべて同一と考える方が妥当です。とするとやっぱりナイジェルーー」
「よ、ねえ……。そもそもうちを襲った時点で犯人はこの指輪を落っことしたんだし、騎士団、セレスタイン魔法学院卒、という条件がそこで発生するものね。ナイジェルは犯人像にぴったり当てはまる。そしてナイジェルは、わたしたちが見た限りではこの指輪を嵌めていなかった、犯人である可能性はきわめて高い」
シュバリスは胸元を押さえた。
「わたしを襲った犯人であるナイジェルが他の廟の聖遺物も奪ったとするのがいちばんしっくりくる。でも、確実に奪われたのはシオンの槍の穂先だけで、エステルは無事にすんだ」
「それは騎士団が警備を強化したからでしょうね。不幸中の幸い」
「それでもなおナイジェルがハダルを治癒していなかったのはなぜかというと、教官のおっしゃったとおり、ナイジェルはひょっとしてシオンの槍とわたしの眼と足だけじゃ足りないとふんだのかもしれない。他の聖遺物も盗みだし、目的の数を集めたところで一気にハダルを癒す気だった。力はいくつあってもいいわけだし、それはありそう」
「ですね。だけどナイジェルが思ったより早く騎士団の捜査が始まった、だからあなたの脚だけはシュラク通りの例の倉庫に隠しておき、他はもっと安全な場所へ隠していた。そちらはかなり巧妙で、まだ騎士団も見つけられずにいるーーしかしあなたが追ってきて、彼の隠れ家までついていって騎士団が倉庫を発見してしまったことで捜査が厳しくなった。他の聖遺物の強奪を断念して逃亡生活に入らざるを得なくなった。あなたの存在だけが彼にとっては計算外だったーーしかし、うーん、なんだろう」
アイドクレーズは紙面に目を落としてため息をついた。
「わたしには、なんだかナイジェルという男は詰めが甘い気がしてなりません。どの犯罪も中途半端というか、ナイジェル自身も云っていたとおり、彼ならそもそも聖遺物が強奪されたことじたいを気づかれないようにするんじゃないかな。アルジュナの件もそう、彼なら気づかれないようにやりおおせる気がする。なにより、あのあとじぶんからのこのこ寮まで飛んできたってのもどうも解せない、いきなりアルジュナとアレクセイの部屋にどかん! って、あなたが目的ならなんで直接ここに飛んでこなかったんでしょう。ひょっとして間違えたとか? はっ、まさかーー」
「そのまさかかもしれないわよ? ハダルがあの状態じゃ焦らざるをえないでしょうし、ところどころ身の処し方が甘くなるのも理解できるわ。ナイジェルはハダルの容態に関してかなり過敏になっていて、近づくものすべてが敵に思えるとしたらーーあの夜のことも、ハダルに近づき、彼を暴走させたり勝手に[[rb:御守 > アミュレ]]を渡したものがいると知って驚愕し、あわてて忠告にきた、となると」
「だとしたら、やはりわたしはナイジェルが犯人としか考えられません。ユアンだと検討するまでもなく」
「でも、やっぱりユアンだって怪しいのよね」
シュバリスは思い出しながら云った。
「魔法陣に飛び込んだあとのことだけど、あのときのナイジェルには嘘をついている様子はなかった。ほんとうにユアンが真犯人でユアンに嵌められたんだと思っているようだった。わたしが蛇神シュバリスだというのにも驚いていたーーいえ、驚くのはもちろんなのよ、追いかけてきたんだから。だけどそれだけじゃないような気がする。D11のことを口にだしたとき、わたしは思い違いをしていた、ともナイジェルは云ってたもの」
「その、思い違いってなんなんでしょうか? いったい彼はなにを云いたかったんでしょうか?」
図書館でのことを思い出したのか、アイドクレーズの目が鋭くなった。
「D11についてあなたに知らせた意図はなんなのか。ナイジェルは、あなたが原本に触れたらハルトガルトのかけた魔法が解けることもわかっていたんでしょうか。あなたがD11を閲覧したり調べたりすることで、ハルトガルトの魔法が明るみにでるって」
「さあ。そこまではーー」
たぶんわかっていなかったのだ、とシュバリスは眉間にしわを寄せた。ただ、ナイジェルがD11と言い残したのには必ずわけがあるはずだった。しばらく考えた後、シュバリスは云った。
「復讐の女神ーーかしら、やっぱり」
「復讐の女神。というとソネットの一節」
「そう。ナイジェルはどうも、蛇神シュバリス娼婦説の信望者だったんじゃないかしら。だからこそ、彼が犯人だとしたら、シオン廟では聖遺物を『強奪』したけど、わたしの時はそこにいた蛇神シュバリスを『損傷』させたんじゃないかしら。そして呪いをかけた」
「あっ。そういえば!」
アイドクレーズはふいに愕然とした顔で云った。
「そうだ。よくよく思い出してみるに、あの地下神殿にたまたま野生の[[rb:野良白蛇 > ノラナーガ]]がいたとして、普通はその足をぶったぎったりなんてことは発想しないん……あっ!」
アイドクレーズがさらにかっと目を見開いた。灰色に青の混じった虹彩が大きくなる。
「ーーまずい、この可能性を考えてなかったですシュバリスさま。わたしもたいがい莫迦だ。そうだーー犯人が、もしーーありえないとは思うが、もし」
「ええ」
シュバリスも気づいた。心のすみっこで、わたし“も”ということは、あなたわたしを莫迦だと思ってたのねアイク、あなたって子は、とちょっと腹立たしく思いながら、
「“わたしが生きていることを知ってたら”ーーってことよね。七柱のなかでたったひとり、蛇神シュバリスだけは死んでいない、いまだに生きて地下神殿で暮らしているとナイジェルが知っていたとしたら。そうーーじゃないとおかしいことがあるわ、そもそも」
根本から覆る。シュバリスは云った。
「そこにいるのがシュバリス自身だとわかっていなければ、あんなことはできないのよ。ふつうの野良の白蛇なら、腹立ちまぎれにただ殺しちゃえばいいだけ。だけど犯人はわたしの一部を『奪った』ーーあんなに鮮やかなやりくちで」
「そして遠隔魔法で魔力を吸い取り続ける呪いまでかけた。事前に準備していなければ、あんなにスムーズにことを運べない。つまり」
「ええ。つまりあの犯人はたまたまそこにわたしがいたから眼と足を奪ったんじゃなくて、わたしが蛇神シュバリスだと知ったうえで襲いかかり、眼と足を奪っていったのよ。その可能性、というかいまじゃこれ以外考えられないけど、あなたの云ったとおり、ふつうの人間や獣ならあの傷でだって致命傷になる、だけど犯人は、それでもわたしが生きのび、眼と足から延々と魔力を奪い続けることが可能だと知っていた。そしてそんなことをしたのは、わたしがハルトガルトの娼婦で、ずる賢くて七柱に値しない存在だから、眼を足を奪ったって構わないと考えたからじゃないかしら。いえ、むしろーー」
「次期皇帝ハダル・ハルシオンくんの命を助けるために使われて当然なのだ、と、犯人がそういう思想をしていたらということですね。犯人は蛇神シュバリス娼婦説を信じ、あなたを軽んじている人間」
「ええ」
「しかしーー」
半秒ほど考え込んで、すぐにアイドクレーズが云った。
「だとすると、ナイジェルはどこであなたが生きていることを知ったんでしょうか。それもかなりおかしいですよ、だって蛇神シュバリスは世間的には余儀なく死んでることになっています。廟というのは一般的に死者を祀る場所であり、シュバリス廟が建ってる以上シュバリスは公的には完全に死んでいる。なのにあなたが廟の地下で、なんて、彼はどうやって知ったんでしょう?」
「わからないわ。ただ、ナイジェルはハダルの呪いを解くためにほうぼうで資料をあさったり研究書を読んでたらしいじゃない。そのなかのどれかにわたしが生きていることを示唆する内容があったか、もしくはそう、ナイジェルがオルリドって可能性はないかしら、アイク?」
「[[rb:読魔能力者 > オルリド]]ですか。ナイジェルも?」
「ええ」
オルリドはみんなが多かれ少なかれもっている原始的な力だとギネヴィアが云っていた。優秀な魔法使いばかりが集まるセレスタインや研究所や騎士団に、優秀なオルリドが多数いたとしてもおかしくない。そして評判を聞く限り、ナイジェルはきわめて優秀だ。
「最初に襲われたのはシオン廟で、彼はシオンの槍を盗んだ。世間的にはたしかにわたしは死んでることになってる、だけど知っているひともいるーーというか、“いた”のよ。確実に知ってるひとが、昔は」
「だれです?」
「他の六人よ。ハルト、シオン、アリス、エステル、エコー、ライド。六人はわたしが[[rb:大神 > ジヴァ]]に永遠の命をいただいたことを知っている。そしてもしナイジェルが高いオルリドの能力をもっていて、そのことをシオンの槍から知ったとしたら?」
「槍に残っていた記憶を読んだわけですか。そんなことが可能でしょうか。千年前のものでしょう?」
「でも聖遺物は、千年間ひとびとの信仰をあつめた凄まじい力をもつ魔具でもあるって。記憶が残っている可能性はある、シオン自身も記憶力のいいひとだったしーーそう、ナイジェルオルリド説だって完全なる推測にすぎない、でもありえなくはない。だからわたしはシオンの次に襲われたと考えられないかしらアイク? 聖遺物を狙うなら、忘れ去られた蛇神シュバリス廟よりエステルやエコーやアリスを狙うほうが確実。なのになぜか犯人は、シオンの次にわたしを襲ったのよ」
「ああーー、」
アイドクレーズは唇をかみ、ため息をついた。
「そうですね。七柱廟から聖遺物をと考えたとき、ふつうの発想なら一足飛びにシュバリスへ行くのは違和感がある。いま現在を生きている人間や獣人なら、シュバリスなにそれ、シュバリス廟どこ? ってものが大半だ。あそこはヤハンでも辺境の辺境、深山幽谷といっていい。いまでは地元の人間ですらシュバリス廟と知っているかどうか怪しい」
「ええ。だけどナイジェルは、シュバリスが生きていることを知っていたからわざわざわたしのもとへきた」
「しかしまさか、追いかけてくるとは思いもしなかったーーそこで彼の計画が狂った。わたしたちにとってはしてやったりですが」
「ええ。彼はあの傷でわたしがとうぶん再起不能になるとふんでいたのかもね。少女に戻って元気いっぱいとは思わなかった。そして彼は、わたしがハダルに接触してきたと知ってひどく動転した。ソネットにあった復讐の女神、あれはわたしのことなのだと、すくなくともナイジェルはあのときそう信じていたもの」
シュバリスは倉庫でのナイジェルの言動を思い返した。
「皇帝家にはなにか、わたしに関する言い伝えがあるのかもしれないーーあのD11のとおり、ハルトにフラれた腹いせに、その子孫に復讐しようとする、そんな女だ、とか。そしてナイジェルも皇帝家の従者としてそのことを知っていた。と同時に、わたしが生きていることも知っていたから、自分が眼と足を奪ったことで、予言が現実になる引き金をひいてしまったのかもしれないと恐れたーー」
「本末転倒じゃ?」アイドクレーズが頬を歪めた。「じぶんで寝た子を起こしておいて?」
「そこまで頭がまわらないほどせっぱつまってたのよ」シュバリスは考え込みながら云った。
「なにしろハダルの命だけじゃない、じぶんの命もかかってるのだもの。今日ようやくわかった、あのときハダルが云ってた契約ってこのことだったのよ」
「なんとか契約を解除するーーっていってましたね。なんのことかと思ったら、忠誠の誓い? そんなものを交わしていたとは」
「わたしとあなたの魂が繋がってるように、あのふたりの命も繋がってる。そしてわたしの命は永遠。千年寝たままだったから、まだじっとしててくれると思った、あるいは、あれでわたしが死んでもかまわなかったーーかしら?」
「……」
「いま誤解がとけてハルトガルトは『復讐の女神』を削除してくれたけど、ナイジェルは原文をそのまま読んでいた、これは確実だと思う。だとするとわたしに対する恐れを潜在的にもっていて、じぶんがしたこととあいまって、わたしにむかって取り返しにきたのかとか、復讐とか、よくわからないことを云ってきた」
「なるほど」
だがシュバリスには、じぶんと彼との間になにか認識のズレがあるような気がしてならなかった。それにソネットじたいにもだ。
(あのソネットにあった、すべて奪われて、という部分。あれがいまになってみょうにひっかかる)
(眼と足のことじゃなく、ほかにもなにかを奪われたような気がする。でもそれがなにか思い出せないーー)
これ以上はじぶんでも頭が爆発しそうなので、アイドクレーズには云わないことにした。アイドクレーズも閑話休題とばかりに毒づいた。
「しっかし、あのソネットもたいがいわけがわかりませんけどね。あれはほんとうに、いまのあなたの状態を指しているんでしょうか?」
「わからないわ。でも、最初の四行はいままさにわたしのおかれた状況ではあるわね」
「んっとに、迷惑なものを残してくれたもんですねえ。残すならもっと素直にあなたを褒め称える詩を残しときゃいいのに。いや、残してたのか。ドーリスじゃなくてあなたへの詩だった、ってのは、聞いて胸がすかっとしましたけどね」
「そうねえ……」
図書館の三階でユアンがした説明を、シュバリスはキッチンで夕食の支度をするあいだアイドクレーズにも伝えていた。アリアナがダイニングテーブルにいたので声をひそめつつ概要をざっとだったが、知った瞬間アイドクレーズは「してやったり」という顔をした。
「じゃあ、ナイジェルの動機についてはこのへんにしておきましょうか。騎士団に直接情報がもらえるならともかく、わたしたちではこれがせいいっぱいですし」
「そうね」
「じゃあ次に、ユアンが犯人である可能性を考えてみましょうか」
アイドクレーズが、「ナイジェル犯人説」のメモの横にしゃっと縦線を引いて区切り、新たに「ユアン」と記すーーユアンが犯人であったらと考えるのは、ナイジェルがそうだと考えるより複雑だった。
(だってもしも教官だとしたら、事件はふたつじゃすまないわ)
「もしもユアンが犯人だとしたら、七年前のハダルの誘拐事件についても関与している可能性がある、わよねーー」
憂鬱な気分だった。アイドクレーズも小さくため息をついた。
「そうですね。そうなりますーーここから先はぜんぶ想像するほかないのですがーー」
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