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[chapter:フロレスタン]
「ハルトーー、」
春とはいえ運河の水はまだ冷たく、全身がみるみるうちに冷えていった。それでもシュバリスはひたすら目の前の少年に見入っていた。かけることばが出ないかわりに、かつての恋人の名がごくあたりまえに唇からすべりでたーー別人だとわかってなお、なんども彼女は「ハルト」とささやいた。
ふと、揺動する水面に押され、ぬるりと靴底がすべった。体勢が崩れて自然と抱き合うかたちになったシュバリスをびっくりしたように見つめるハダルは「うーん」と申し訳なさそうに小首をかしげてふにゃりと笑った。
「ぼくはハダルだけど……ごめんねハルトじゃなくて。でも光栄だなあ初代の愛称で呼ばれるなんて。それにしても君、なんでそんなにかわいくなっちゃってるの? なにがあったの? どうしてここにいるの?」
「あーー、あの、ふえっーーくしゅっ、」
「あ、寒い?」
ハダルはシュバリスの肩に手を回し、じぶんの体温を分け与えるように強く抱きしめた。お互いびしょ濡れなのでなんの意味もなかったが、シュバリスの胸はじんわり熱くなった。ハルトガルトと出会った十一歳の自分に戻った気がした。と同時に、彼と別れた時の二十六歳の自分に。「どうしてわたしを置いていったの?」「どうしてわたしたち別れなきゃならなかったの?」「どうしてあなたはーー」その問いを必死で押さえ込んで、ただ「会いたかった」と、シュバリスもハダルをつよく抱きしめかえした。
「あなたに会いたかったわーーほんとうに会いたかったの。とてもとても会いたかった」
「ぼくもだよ」
きっとこの少年はハルトガルトの遺産だ。失恋の痛みをいまだにひきずるどうしようもないじぶんにハルトガルトがじぶんそっくりの子孫を引き合わせてくれたのだ。ぜったいそうだーー感激のあまり涙を浮かべるシュバリスにハダルは微笑み、十七歳の少年らしい骨ばった手でゆっくりとシュバリスの頭を撫でた。「ぼくも会いたかったよ」力強いことばにシュバリスはほっとため息をついた。別人だとしても、目の前の少年からハルトガルトと同じ匂いや光を感じるのはたしかだった。
「ハダルーーわたし、」
そのときだった。「ごるあああああー!」とすさまじい怒声が運河に響き渡った。シュバリスがはっと歩道を仰ぐとアイドクレーズが地面に膝をつき、赤煉瓦の縁を掴んで覗き込みながら鬼の形相で叫んでいた。
「ちょっとちょっとお、なにしてるんですか! おいそこのおまえとっとと手を離せ、うちの女神に触れるな、いまそのかたはおまえのものじゃないんだ!! あなたもですよシュバリスさま、わかったらさっさと離れて!! 浮気だめ、ぜったい!!」
「おっひゃあー……」
そのまま「飛び込むなんてばかじゃないですか、なに考えてんですか!」と怒鳴りちらすアイドクレーズに、腕のなかからシュバリスを解放したハダルは目を丸くした。
「すごいねあれ。君の知り合い? えっと、なんていうか、とっても元気な子ーーだね?」
「ええまあーーあの、ごめんなさい」
シュバリスは周囲を見渡し、ハダルもこくりとうなずいた。
「ん、上がらなきゃね。足がつくとこでよかった、この運河ってもう少しいったところが深みになってて、そこに落っこちたらさすがに危なかった、いまのぼくは泳げないしナジもいないし。……でもここから上がるのもけっこう難しい、かなーー?」
足をかけるとっかかりになりそうなものもなく、壁の上部はかなり高い位置にある。じぶんの無茶で無礼なふるまいが急に恥ずかしくなったシュバリスだった。
「ほんとうにごめんなさい。つい後先考えず……ここがどことかみんなふっとんじゃってた、どうしましょう。どうやってあがれば?」
いまのアイドクレーズではふたりをひっぱりあげるのは無理だ。弱り果てていると、
「あーんれまあ、おめえらいったいそこでなにしてんだ? 学院の生徒じゃねっけ、まだ寒いのに水泳の練習かあ?」
かなりきつい訛りのすっとんきょうな声が響いた。荷物を載せた船がすーっと近づいてきて止まる。運河を利用して学院に荷物を運ぶ運送業者だった。頭に麦わらぼうしを載せた男は、首にかけたタオルで額をぬぐって云った。
「まあだ寒いで風邪ひくでよ。てえーかそっちの坊主はたしか、こないだ別のとこで落っこちてた子でねっけ、今度はそったらかわいげなお嬢ちゃんまで道連れにして罪なやっちゃのう。ほい、上げてやっからじっとしてな、んで係留所まで送ってやっから、そこなら階段があっから、そしたらほれ、すぐそこの[[rb:四阿 > あずまや]]でじぶんで火ぃおこして服乾したらええべさ、な? 学院の子ならそんくらい朝飯前だべ?」
「あ、ありがとう存じますーー」
「ありがとーおじさーん!」
恐縮するシュバリスと、どうやら前にも落ちたことがあるらしいハダルはまとめてボートに引き上げられ、男はすぐ近くの係留所まで船を漕いでくれた。アイドクレーズは歩道から並走した。岸へあがると男に礼を云い、すすめられたとおり森の中にたつひっそりとした四阿にむかった。
まるい屋根をもつユーロープ風の四阿はレースのような木漏れ日を全体にまとっていた。全身びしょ濡れなのはいうまでもなく、水底に沈んでいた泥や藻などが体に張りついて見るも無残な有様だ。制服もどろどろだ。しかしとにかく汚れを落とすのはあとまわしにして、はやく温まらなくちゃ、とシュバリスは石の床の上に魔法で火を起こした。ついでに風も呼び出して、熱を帯びた風でふたりの体をすっぽりとくるむ。とたん、ハダルはうっとりと手をたたいた。
「おーっすごいすごい、きもちいい、お風呂みたい。 呪文もなしにこんなになんて、君は魔法が上手だねえ!」
「はあーー、」
シュバリスは戸惑った。ハダルはにこにこ笑っているが、その笑顔は年齢に比してあどけない。地上であらためて対峙すると、見かけはそっくりだが、元恋人と目の前の少年はまったくの別人だ。なぜハルトガルトだと思ったのだろう、と内心で首をかしげるシュバリスに、ハダルは無邪気に云った。
「あ、あらためまして、ぼくはハダル・ハルシオンです。えっと、シュバリスとーーなんだっけ? そちらの君はアイドクロースだったっけ。名前はマリアだっけ? マリア・グノークロールくんだっけ?」
「はいぃ?」
先日のアルジュナの件でかなりセンセーショナルに取りざたされたので、初対面のハダルがシュバリスの名を知っていてもおかしくない。だが従者アイドクレーズのほうはかなりあいまいのようだ。アイドクレーズとシュバリスが顔を見合わせていると、ハダルはどんどん見当違いの方向へ進んでいった。
「あれ、違った? おかしいなあちゃんと見たんだけどなあ。ーーあ、マリノスだっけ、マリノス・グロリア。ーーいや、そうじゃなくてレグノだっけ? レグナリーさん? うーんわかんなくなってきた。ごめん、君の名前は?」
「わたしなら、アイドクレーズ・イスラメイと申しますが」
ここまで盛大に間違われるのは初めてだ、と困惑しながらアイドクレーズが答えると、ハダルはぽんと手を打った。
「あ、そうだっけ。そうかそうか、そうだった、アイドクレーズだ。思い出した思い出した。で、君がシュバリス。シュバリスとアイドクレーズ」
「わたしどもをご存知で?」
「ああ、こないだからみんな噂してるよね、一年生の特待生がじつは蛇人で、たいして出自がよさそうでもないのに従者の男の子がいっしょだって。君たちのことだよね?」
「はい。そうなんですがーー」
失言を失言とも思わぬ様子にかえってアイドクレーズのほうがひるんでいると、
「えっと。それでなんの話だっけ。そうだ、君たちはシュバリスとアイドクレーズだったねーーよし、覚えた。ーーあ、それでなんの話だっけ?」
シュバリスはちょっと首をかしげた。様子がおかしい、というより、直裁に云っていいならこれはーー
彼女の隣で、アイドクレーズも眉間にしわを寄せていた。彼はそのまま不審そうに訊ねた。
「あのーー申し訳ありません、あなたはほんもののハダル・ハルシオン・セレスタインさまですよね?」
「ちがうよ」
「えっ?」
「セレスタインはつかない、ここではハダル・ハルシオン。皇帝家の姓がついてると学生が萎縮しちゃうから、学院にいるあいだセレスタインに限って名乗るの禁止。だからぼくはいまのところただのハダルあるいはハダル・ハルシオン。まあでも、セレスタインの名前があってもまわりの評価が上がったかどうかはわかんないや、このとおり弱虫で劣等生だしさーー見て」
ハダルはシュバリスの炎の横を指差すと、「フオルコ」と火の呪文を唱えた。ぼっ、と炎が現れたものの、細い筋が浮かんだだけで、そのまま水でもかけられたかのように立ち消えていく。シュバリスとアイドクレーズは顔を見合わせた。魔法が発動するときに放散される魔力のうねりや気配といったものが、ハダルからはまったく感じられなかった。魔法自体もお粗末で、習いたての初心者レベルだ。「ね?」とハダルも自嘲した。
「とっさに魔法を使おうとしてもぜんっぜんできないの。魔法印を山ほど準備して魔力増幅の霊薬を浴びるほど飲んで、補助の[[rb:御守 > アミュレ]]をつけてようやく一人前。学院の試験に受かったのだって『三六七期生の奇跡』っていわれてる。いや、いまじゃもう、陛下の七光のオマケ合格っておおっぴらに云われてる。そんで毎年毎年落第寸前。あははははっ」
シュバリスとアイドクレーズはますます戸惑った。乾いたハダルの笑みと笑い声からは、彼が長年にわたってまとってきたのであろう卑屈さと劣等感が透けて見えた。
「で?」
ハダルは無邪気に首をかしげた。十七歳というが、そうするとシュバリスと同じ十歳ほどにしか見えない。彼はこめかみに人差し指をあて、忘却の海のなかから針を見つけ出そうとするように眉をひそめた。
「また忘れちゃった。えーっと、いったいなんの話だったかな……?」
穏やかで朗らかな微笑を少年が口元に浮かべたその瞬間、シュバリスはついにいたたまれなくなり、口元を手で覆った。
ハダルはどこかおかしかった。ユアンのことばがシュバリスの脳裏をよぎったーー「ハダルは呪いをかけられ、学院に入学できるていどの魔力と知能しかもてなくなった」。
いまシュバリスはそれをまのあたりにしていた。
[newpage]
[chapter:同じ傷]
これはひとすじなわではいかないかもしれないぞーーハダル・ハルシオンの特異さにことばを失ってしまったあるじに代わって、じぶんたちがここへ来た目的を思い出したアイドクレーズはなんとか訊ねた。
「あのーーじつはわたしたち、あなたの従者であるナイジェル・アベンチュリンについて聞きたいことがあるのです。今日はそれであなたに会いにきたのですが」
ほんとうなら、いきなりこんなことを訊かれたら不審に思うはずだ。なにしろ会ってわずか十分、名前しか知らない。だがハダルはあっさりうなずいた。
「ああ、ナイジェルね。いいよ、なにがききたい?」
「え? えっと、そうですねーー性格とか得意な魔法とか最近の様子とか。あの、ナイジェル・アベンチュリンというのはどういった人物で?」
「ナイジェルはすごいよお~」
なぜそんなことを、とはハダルは訊きかえさなかった。むしろ自慢げに話しはじめた。
「賢いし強いし魔法もいっぱい使える。魔力だって主人のぼくなんかよりだんぜん高いしなによりすごく優しい、ぼくより四つ年上だけど十二歳で入学して三年休学してぼくが入学するのを待って同級生になってくれて、ぼくが補習くらったときもいじめられたときもかばってくれてネスボラだってぼくがやりたいなーって云ったらつきあってくれていっしょにクラブに入ったんだけどやっぱりナイジェルのほうがすごいからすぐにレギュラーでキャプテンになって卒業するまでずっとエースだったんだよ。ね、すごいでしょう。優しいしかっこいいしぼくの自慢の従者だよ!」
「はあーー、」
シュバリスとアイドクレーズは無言で頭の回転速度をあげた。ハダルは続けた。
「それでナイジェルは学校の成績がいいから何回も表彰されたり他のクラブにも引っ張りだこですっごく忙しかったのにあいまにぼくを連れて病院行ったり大学の研究室を訊ねたり学校の図書室だけじゃなく帝都の図書館にも行ってぜったい呪いを解いてやるって写本や古い文献を読み漁ってぼくを今よりもうちょっとましにしようとしてくれたんだけど、でもやっぱり無理でねえ。とうとう彼のほうが先に卒業しちゃうことになったんだけどナジは成績優秀で指輪ももらってたから卒業後はすぐに騎士団にって誘われて、だけどナジはぼくを学院においてくのをすごく悩んでたんだけどぼくが落ちこぼれなのはそのころにはみんなが知ってたし皇帝の子だからいじめられるったって死ぬほどの目には合わされないだろうしユアンもテディも教官で助手で秘書してて校内で見ててくれるだろうから大丈夫だろうって、最後までナジは留年してでもいいからそばにいるっていって迷ってたけど、ぼくもぼくの両親も必死で説得してなんとか騎士団に就職させてさあ」
「はあーー」
「それでもずっといっしょにいてくれたしいまもいっしょに暮らしてるんだけどでも最近はぜんぜん会ってないっていうか、いまはもうナイジェルもぼくの従者なんかやめちゃいたいんだと思うんだよねだってぼくってほんとダメなやつだかーーっ、あ、ごめ、なんか息切れしてきちゃった、なんでだろ……?」
やけに一気に喋る、と思っていたが、頭に思い浮かんだことを喋るのに夢中で、息をするのを忘れていたらしい。ぜえぜえ云いはじめた次期皇帝を、アイドクレーズはなかばあきれ、なかば感心して眺めていた。菫色の目に苦しそうに涙が滲んでいる。酸素不足というのとは別に、ふがいないじぶんが厭になったようだ。彼はぽつんと「ナジは完璧だ。なのにぼくはナイジェルのあるじにふさわしくないんだ」と呟いた。
「ハダル。ハダルだいじょうぶ? そんなことないわよ、だいじょうぶよ」
シュバリスが彼の背中をとんとんしてやると
「ナイジェルはねえ。ナジだってもうぼくの従者でいたくないんだあーー」
痛そうに胸に手をあて、宙にきょろきょろ視線をさまよわせてハダルはとつとつと語った。
「騎士団に入ってもっと上の情報を手に入れて強い魔法を使えるようになって、そしたらぼくにかかってる呪いが解いてあげるから待っててくださいって云ってくれたけどほんとうはぼくが弱くて莫迦なのに迷惑して呆れてだんだん厭になってきてるんだーーきっとそうだ。だってナイジェルはぼくの従者にはもったいないほどのひとだもの」
「……そうなの? そんなにすごいひとなの?」シュバリスが優しく背をさすると、「うん」とハダルはうなずいた。
「ナジはほんとにすごいんだ。ぼくなんかとぜんぜんちがう。強くて賢くて、なのにぼくなんかについたばっかりにいっつも苦労してかわいそう、ほんとに申し訳ないよーーあるじがぼくじゃなくてアルかユアンだったらもっとラクに暮らせたろうにさ。このあいだも大喧嘩しちゃったーーもうぼくを守ってくれなくていい、こんなぼくの従者でなんかいなくていい、おまえにとってもそのほうがいいよって云ったらあいつはすごく怒ってたーーぼくが莫迦で魔法もろくにつかえないのはぼくのせいじゃないんですよってーー嘘でもそんなこといわないでくれってーー悪いのはみんな呪いをかけたやつだから、どんなことをしてもじぶんが呪いをといてやるからってーー」
「ほほう」
アイドクレーズの目が光った。
「どんなことをしてでも、と云ったんですね? ほかにはなんと?」
「アベンチュリンは、いちど仕えた人間を見限るほどやわじゃないとか忠誠がどうとか……それでぼくが泣き出しちゃったら、しっかりしてくださいって怒って、そんなんじゃあなたは永遠に閉じ込められたままだ、ぜったいじぶんが呪いを解くから待ってろってーーぼくを抱きしめてーーひざまずいてーーあなたはわたしのあるじです、死ぬまでいっしょですって……あいつはそういってくれた……」
「ほう?」
それはじゅうぶんナイジェルの動機になりえた。反帝国組織に誘拐され、初代に匹敵するほどの魔力を奪われたというハダルの呪いを解くため、ナイジェルがより大きな魔力を必要としているなら。そしてナイジェルはどうやら、あるじのためならなんでもするタイプの従者だった。ハダルの説明はひじょうにわかりにくかったが、ナイジェル・アベンチュリンがハダルのために入試時期を遅らせたり休学したり留年までしようとしたばかりか、八方手をつくしてハダルの呪いを解こうとしていたことはちゃんとわかった。
テディやアレクセイがあるじに忠実なのと同様、ナイジェルもそうなのだ。
「ぜったい呪いを解く、とナイジェルがそう云ったんですね? どうやって、というのは云ってましたか?」
こいつ訊けばなんでも喋るぞ。そうありありと思っている顔でアイドクレーズが重ねて問う。ハダルは素直に「云ってた」とうなずいた。だがすぐに不安そうに頭を振った。
「いやーー云ってたかもしれないけどわかんない、覚えてない。最近はもうナジの云ってることもむずかしくてよくわからない……あいつはいつもすごくわかりやすく云ってくれるんだけど……父と母よりぼくのことわかってるからーーでもごめん、ごめんなさい。ぼくがしっかりしてないから。だからーーああ、怖いーーぼく、ナイジェルが怖い。あいつが怖いんだ。どうしようーー」
「怖い? あなたに忠実な従者のようですが。いったいなにが怖いので?」
「だってナジは、ぼくのために死ぬかもしれない」
「え?」
ふたりが顔を見合わせると、ハダルはふと「なんでもするっていうんだ」とぎゅっと眉間にしわをよせた。黒髪に手をさしこんでぐしゃぐしゃとかき回す。そのままはっとしたようにあたりを見渡してぶつぶつ云いはじめた。
「あいつがーーあいつが戦ってるところが見える。なんだろう。これはいったいなんだろう? あいつが誰かに襲いかかってーーいやだ、止めてーー止めて! ナイジェル! おねがい、戻ってきて! ぼくはそんなの望んでないーー、望んでない、おねがいーーやめろ!」
「わっーー」
とつぜん、ハダルの周囲に黒い煙のようなものがあふれて渦を巻いた。それはすぐに、近くにいるものをすべてまきこむ、きわめて攻撃的な魔法の風となって吹き荒れた。「ハダル!」とシュバリスは叫んだ。
「落ち着いてーー落ち着いて! いきなりどうしたの?」
「わかんないーー見えるんだ。ナイジェルがーーナイジェル!」
ハダルはナイジェルの名を叫び始めた。
「いったいどうしたんでしょう?」
強風に舞い上がる枯葉や石つぶてがふたりを打つ。アイドクレーズがシュバリスを抱き寄せた。
「こんなふうにいきなりーーこれはいったい? 魔力が暴走しているようですが、しかし」
「さあーー」
暴走するもなにも、これまでの様子では暴走するほどの魔力もありはしないのだ。そのはずだーー不審に思いながら、シュバリスはじっとハダルから流れる魔法と彼を包む魔力に注視した。彼女の瞳に映るハダルの魔力は信じられないほどいびつだった。ひとびとを包む固有の魔力は年輪のように術者の過去を提示する。それをシュバリスは見つめ、読み解いていった。魔力は術者の肉体と精神の維持に深くかかわっているものだが、ハダルの魔力からわかったのは、過去に誰かに精神の深いところにまで干渉されたせいで彼自身の人格も捻じ曲げられている、ということだった。そしてさらにもう一歩奥深くにまで意識を集中させたとき、ハダルが本来もっていた魔力の莫大さとそこに隠された仕掛けに気づき、シュバリスは虚をつかれてハダルに触れかけていた手を震わせた。
たしかにハダルには、[[rb:初代皇帝 > ハルトガルト]]に匹敵するほどの魔力があった。だが、過去にそれを無理やり奪われたばかりか、今現在も古傷からつねに魔力を奪われつづけていた。
(なんてこと。この子はこのままだと死ぬ。それもじきに)
(そしてこの子にかけられた呪いは、わたしの眼と足にかけられているのと同じもの。ただしハダルは心臓に、もっと巧妙に、強い呪いとして魔法をかけられ、長年にわたって魔力を奪われてきたせいでわたしより症状が重い。肉体も精神ももうぎりぎり。じきに限界がくる)
ナイジェルが犯人だとしたら、なりふり構わず凶行に及んでいる理由がわかった。単に皇位継承権にからむ問題ではなく、これはハダルの生命にかかわる問題であり、ナイジェルが解決したいのはむしろそちらの問題なのだ。魔力と知能の回復よりも、ひたすらハダルを生きながらえさせたいがために行動している。それは愛情からくるものだ。たしかにナイジェルは兄や弟と同じく忠誠心の塊だった。と同時に、彼は深い後悔を抱いている。
(そうかーーナイジェルは悔しいんだ。なぜならハダルが誘拐されたとき彼もそばにいたから。なのにじぶんの務めを果たせなかったから)
(それが彼の動機なんだわ。あるじへの絶対的な忠誠。従者としての誇り。そしてつぐない)
「ハダル」
しかし、それはそれとして、いまは少年を落ち着かせなければならなかった。
「落ち着いてーー落ち着いてハダル」
シュバリスは黒い嵐と化した漏れ出す魔力、術者が深く傷ついているがゆえに触れるものをみな傷つけようとする悪意の渦をかきわけ、ハダルの肩にやっと触れた。指先も、腕も、肩も、首も頰も、びりびりとしびれたように痛みが走った。
「シュバリスさま」
アイドクレーズの制止する声が聞こえたが、シュバリスは頭をふり、ただハダルだけを見つめていた。
(高い魔力をもつ赤ん坊は、感情が起伏するたびにものを壊したり動かしたりする。年をとるにつれて落ち着くけど、いまのハダルもそんな感じだわ。じぶんの魔力をコントロールしかねてる)
ハダルにはそれでも高い魔力がある。ただ、制御がきかないため厳重に閉じ込めておかねばならない状態で、それがかなりのストレスとなっている。
と、黒い渦のなかから垣間見えたハダルの体から、何かが砕ける音がした。魔法嵐でめくれあがったシャツの隙間から手首や腕や腹がのぞいたが、手首に何重にもクリスタルの[[rb:御守 > アミュレ]]が巻かれ、腕にも腹にも特殊な薬品で魔法印が描かれていた。御守は次々と砕け、魔法印はインクが水に溶けるように滲んで消えていく。描かれている[[rb:魔法語 > マギアコード]]はすべて術者を保護するものだ。ナイジェルが施したのだと気配でわかった。ハダルの命を守り、暴走を止めようとしている。
「ハダルーー」
シュバリスはそっとハダルの頰に触れ、額に額をくっつけた。すさまじい痛みを感じたが、ハダルはもっと苦しんでいて、いまやその苦しみはシュバリスのものでもあった。
「落ち着いてーー怖いことも悲しいことも考えないで、感情を抑えるの。そうすればもう苦しくなくなるわ。ねえ? 落ち着いてやってみて、あなたならできる」
「どうーーやって?」
「ナイジェルはあなたを見捨てたりしない、あなたをとても大事に思ってるしずっと友だちよ。小さい頃からいっしょにいて、ずっと守ってくれたでしょ? 彼を信じてるでしょ?」
「ああーー守ってーーくれた。でもいまはーー」
「あなたの好きなものは?」
ナイジェルについて思考を向けると悪化する。そう悟ったシュバリスは方向を変えた。
「好きな食べ物は? 好きな色は? だいじなものは? 楽しいことを考えて」
「食べ物ーーあれからーーおいしいと思ったことないーー色は白が好きーーだいじなのは父上と母上、皇帝陛下と皇后陛下と[[rb:皇太后宮 > オオキサイノミヤ]]さまとユアンとアルーー楽しいことーーそれは彼女を思い出すこと。彼女はとても綺麗で、優しくてーー素敵な子なんだーー」
「好きな子がいるのね?」
元恋人にそっくりのハダルは、じぶんではない誰かに恋している。ちょっぴり痛みを感じながら、しかしその痛みはじぶんの身勝手だと打ち消してシュバリスは微笑み、「わたしは林檎が好きなの」とつぶやいた。
「それから、雨上がりの朝の空気。森の中を歩くときに感じる地面の感触。蝶袖服のレースの衿。ミルクティー。ほかにもたくさんあるわ、あなたは?」
「あるーーけど、思いだせないーー」
「思い出せるわ。だいじょうぶ」
シュバリスの頭に音楽が浮かんだ。歌詞は特に決まっておらず、メロディーにのせて自分の好きなものを次々と挙げていく連想ゲームのような歌だ。昔ほかの六人とよく歌った。まだ無名だったころ、旅のあいだに暇を持て余した彼らは、拾った古い楽器を修理しておもちゃがわりにしていた。そのお遊びは何年ものあいだに習慣化し、大陸で名を知られるころにはみんなかなりの腕前だった。
ハルトガルトが弾くピアノ。シオンのチェロ、アリスのフルート。ライドのギター、エステルのドラム、エコーのヴァイオリンーーあれは完璧な[[rb:調和 > ハーモニー]]だった。エウレシア統一という目標で仲間たちが固く結ばれていた時代。そしていちばん最後に仲間に加わったシュバリスは、じぶんでじぶんを楽器にするすべを覚えた。
「ーー悲しいときは思い出すの」
楽しいことを。大好きなものを。
「そうね。たとえばーー
赤い薔薇にしたたる蒼い雨の雫
群れをなして飛ぶ竜と淡い黄金の月
鳴り響く夜明けの鐘と旦那さまが結んだ紫のリボン
美しい白いドレスの柔らかなシフォン
さくさくのパイに熱々のジャム
お茶に注ぐミルクと溶けていくクリーム
抱っこされた赤ちゃんが楽しそうに笑ってる
頭のてっぺんからつま先まで降りつづくキス
崩れた崖から顔を出すクリスタルの原石
ふりそそぐ流星群 睡蓮のつぼみが音をたててひらく
足元によせる波 闇を照らすかがり火
やかんから上がる湯気で曇る窓の細い夕月
長い夜がきても
[[rb:化物 > モンストル]]の足音が聞こえても
思い浮かべるの わたしの大好きなもの
そうすれば何も怖くないーー」
旋律を得たことばは[[rb:魔法語 > マギアコード]]のように力をもち、たしかなイメージをハダルに想起させた。シュバリスの歌声に耳をすませるうちに、ハダルから流れる黒い嵐は徐々に勢いをなくしていった。風が止み、周囲を火花のように弾けていた魔力が収束する。やがてゆっくりとハダルはシュバリスの腕から頭をあげた。薄いくちびるがため息を漏らし、瞳がしっかりとふたりを捉えた。その菫色の瞳に驚くほどの明晰さが現れているのを発見してシュバリスとアイドクレーズは驚いた。ハダルはふたりを見据えたままゆっくりと云った。
「久しぶりだーーすごく気分がすっきりしてるーー」
「ハダルーーハダル・ハルシオン、だいじょうぶ?」
「平気だ。ああーー今回は長かったな。ずっと眠ってた気分だ。ここはどこだ? そういえば運河に落ちたんだったな? 運動場奥の森か。思い出したーーそうだったな」
劣等感にまみれていた少年とは別人のような堂々とした口調と顔つき。ハダルは一瞬で年相応に、いや、実年齢より大人びてみえた。彼は静かにシュバリスを見つめて首をかしげた。菫色の目に先ほどの狂騒はかけらもなく、ただただ静謐だった。シュバリスははっとした。
(こっちだ)
(こっちがほんとうのハダル・ハルシオンだーー)
彼は穏やかに云った。
「君の歌は魔法だシュバリス。君がぼくを起こしてくれたんだね。すまない、さっきのぼくはほとんどわけがわからなかっただろう? 心からおわびするよ、シュバリス・レイミア・イスラメイ。それからアイドクレーズ。はじめまして」
「え? あ、はいーー」
すこしあっけにとられながらシュバリスは答えた。
「どういたしまして。でも、魔法を抑えたのはあなた自身の力よハダル」
「きっかけをくれたのは君だ。ありがとうシュバリス。君はほんとうに優しい女神さまだ」
「――あなたはだれ?」
「わかってるんだろう?」
「さっきの彼は?」
「呪いからぼくを守るためにうまれたもうひとりのぼくだ。ぼくよりするどいときもあるよ、信じられないだろうけど」
ハダルは目元を和ませてじっとシュバリスを見つめた。そして云った。
「だけど、残念ながらこの状態も長くはもたない。それにぼくらにはもう時間がない。君もさっき気づいたねシュバリス。君が気づかないはずがない」
「え?」
まさか。目を見開くシュバリスにハダルは静かに云った。
「ぼくはもう長くない。じきに死ぬ。そうだろう?」
「えーー」
シュバリスは戦慄した。
「わかってるーーの? あなたも、自分で?」
「ああ」
驚くシュバリスとアイドクレーズの前で、ハダルは着ていたシャツを大きくめくりあげた。消えた魔法印に変わって、どす黒いあざのようなものが胴体を帯状に横切っていた。特に刮目すべきは心臓の真上だ。漆黒の丸い痣が浮かび、胸にぽっかりと穴があいたようだ。
「これがぼくにかけられた呪いだ。七年前からどんどん広がり、濃くなっている。とくに心臓に深く刺さってるぶんだ、魔力の源である魔素は血液にのって心臓から全身に送り出されるが、心臓に呪いが刻まれたために生きている限りえんえん魔力を吸い取られる仕組みになってる。魂まで食い込む呪いでもある。だからこそ容易に解けず、だんだんとぼくの肉体と精神を蝕んでいるーー成長するにつれてその威力は絶大だ、数年前までは、さっきのぼくもいまのぼくももうちょっとまともに魔法を使えたしこんなふうに暴走もしなかった。知性もちゃんとあった。ナジはずっとこれを止めようとしてるけど無駄足に終わってる。いままでたくさんの魔法使いや魔術師や賢者がぼくを診察し、呪いを解こうとしてきたけど駄目だった」
「他に手は?」
「ない」
じきに死ぬというのに、ハダルは驚くほど冷静だった。こともなげに云い放った。
「いいんだ。ぼくのかわりはちゃんといる。ユアンとアルジュナ」
彼はいとおしそうにふたりの名を口にした。
「ふたりがいれば帝国はだいじょうぶだよ」
[newpage]
[chapter:真因知る愚者]
息をのむシュバリスに、ハダルは淡々と告げた。
「ぼくになにかあればユアンとアルジュナのどちらかが皇位につく。皇子としてのぼくがいなくなっても、帝国にはなんの問題もない。それは両親もとっくに理解していることだ。だがそれではすまないものがいるーーナイジェルはぼくの兄がわり、両親が不在のあいだは父でもあった。彼はいま、ぼくの命を守るために危険な領域に踏み込もうとしてる」
「さっきあなたはナイジェルが怖いと云ってた。どういう意味なの? 彼がだれかに襲いかかってる、それが見えるって云ってたけれどーー彼があなたのために犯罪に手を染めようとしているということ?」
だとしたらさっきハダルは、ナイジェルが地下神殿に侵入してシュバリスを襲うところを見たのか。シュバリスが首をかしげていると、
「それもある。それもあるが、それだけじゃない。ぼくと彼の命はひとつなんだ」
「命がひとつ? どういうこと?」
「ぼくと彼はとある契約を結んでいる。そしてそれによって、ナイジェル自身にも命の危険が迫っている。だけどそのときがきたら、ぼくはじぶんの意識がないとしてもなんとかして契約を解除する、だから君たちに頼みたいのは、ぼくが止められない部分でどうかナイジェルを止めてくれ、ということだ。思いとどまらせてくれーー彼に人を殺させないでくれ」
「人を殺させないでって、」
それはつまり? 身内からの通報も同然のことばにシュバリスとアイドクレーズが顔を見合わせていると、
「君たちになにもかも託すことはできない、すでにさんざん傷ついた君にこれ以上無茶をしてくれとは云えない。だからシュバリス、これからぼくが云う内容をユアンに伝えて欲しい。彼なら騎士団にもツテがある、手をうてるはずだ。頼む、ユアンに伝えてくれ」
「あ……」
ハダルはできるかぎりのことをしようとしている。シュバリスはうなずいた。
「わかった、ユアンに話すわ。なにを伝えたらいいの?」
ハダルの強い視線がシュバリスを捉えた。「ハルト」と呼びそうになってシュバリスは寸前でふみとどまった。
「ナイジェルはあなたを助けようとしてる、そのせいで危険なことをしでかしてる、それはさっきわたしにもわかったわ。それでーー?」
「シュラク通り七三七。その番地になにかがある。ナイジェルではなく騎士団に所属する別の男の名義で借りられているはずだ。ナイジェルの部屋の机にメモがあった、そこにナイジェルが隠しているなにかがある、とても強い魔力を秘めたなにかだ。ナイジェルにとってだいじなものだ。そこは暗いーー倉庫とか、無人の事務所ーーのように見えるーーそこになにかがある」
「ハダル。あなた透視ができるの?」
視線を宙に彷徨わせ、ここにはない何かを見ている様子は、かつてその能力で仲間を勝利に導いたハルトガルトとよく似ていた。息を呑むシュバリスに、「できる。それがぼくのマジックのひとつだ」ハダルはうなずいた。
「この手の透視や幻視、過去視はしょっちゅうだ。でも、ふだんのぼくはそれを見たところでいったいなんなのかわからない。他人に説明するだけの読解力も語彙もない。なにしろ、思ったり見たり聞いたりしたはしからどんどん記憶が消えていく。あとかたもなく溶ける。この恐怖は誰にもわからない、ひどいときにはじぶんがだれかも、いまどこでなにをしているかもわからなくなるーーああ、駄目だ。時間切れだ。シュバリスーーナイジェルを頼む。ぼくは彼にこれ以上凶行をかさねさせたくない。ぼくの命がかかっているとしても彼が手を汚す必要はない、残された時間がわずかなら、そのぶん彼と穏やかに過ごしたい、それがぼくの望みなんだ。彼と両親と静かにーーそして君と」
ハダルは重ねていた手を振りほどき、より強い力でシュバリスの手を掴みとった。必死な眼差しとともに、強い願いがシュバリスのなかに流れ込んできた。
「[[rb:女神様 > ディーズ]]。どうかぼくたちを許してくれ」
呪いで正常な思考を失い、もうひとりのじぶんに外部との接触を託していても、ほんとうのハダルはぼんやりとじぶんをとりまく世界を知覚しているのだ。「ナイジェルを頼む」最後に彼はもういちど呟いた。
「さよならだ。また混乱の中に行かなくてはーー」
きっともう二度と会えない、ハダルはそうぽつんと云って悲しげに目を伏せた。シュバリスは「待って」と、半乾きの上着のポケットから小さな青いクリスタルを取り出した。今日の魔法具の授業で作った[[rb:御守 > アミュレ]]だ。購入したのは杖の素材を買いに行くときだが、「じぶん以外の誰かを守る強い力を秘めている」と店主が説明してくれたこの石が、どうしても気になって買わずにいられなかった。いまのシュバリスとアイドクレーズに必要なのは、むしろ自分たちの身を守るものなのに。
女神としての第六感がはたらいたとしか思えない。ハダルのためだったのだーー強い守護の魔法をこめた[[rb:魔晶 > クリスタル]]を、シュバリスはハダルの手におしつけた。
「これをあなたに。わたしもあなたを守るわ。昔よくだいじなひとに魔晶を渡したものよ、いざというときはこれが身代わりになってくれるからね」
「ありがとう」
ハダルはさいごにくしゃりと笑った。そしてハダルはあっというまにさっきのハダルに戻っていった。
「待ってーーこれも持ってて。わたしたちもう友だちよ、必要ならいつでも呼んで」
シュバリスはいそいで制服のポケットから手帳を取り出した。まだ濡れていたが魔法で瞬時に乾かし、ぱりぱりになった紙片に寮の部屋番号を記してハダルに渡した。
「友だち……?」みるみるうちにぼうっとした顔に戻ったハダルがこてんと首をかしげた。「君とぼくが? 友だち?」「そうよ。友だちよ」シュバリスは、胸の痛みをこらえてにっこり笑った。ハダルも笑った。
「そっか。嬉しいなあ、学院でナジ以外の友だちができるのははじめてだ。どうもありがとうシュバリス!」
「こちらこそ、ハダル」
「――あっ!」
たまさか、学院の時計台が五時の鐘を打った。
「やばーい、フィールドにかえらなきゃ! またキャプテンに叱られる! じゃあまねシュバリス! またねアントクロース!」
「サントクロースみたいに云うな」
帝国西域で信仰される聖人の名を出してアイドクレーズはぼそりとつっこんだ。ハダルはこけつまろびつ、なんどもシュバリスたちを振り返りながら去っていった。
ハダルが消えた後も、シュバリスは衝撃冷めやらぬまま呆然としていた。シュバリスの眼と足を奪ったのはおそらくナイジェル・アベンチュリンでまちがいない。だが、ハダルの切迫した容体とナイジェル・アベンチュリンの必死の思いを知ってしまったいまは、体の一部を奪われた怒りより哀れみのほうが勝った。
ふたりは寮へ戻った。シュバリスはとある決意をかためて主寝室へむかったが、アイドクレーズが背後からシュバリスを追い越して回り込み、「だめです」と立ちふさがった。
「あなたが何を考えているかわかりますよ。だめです。危険すぎます」
「ーーナイジェル・アベンチュリンに会うわ。今日これから騎士団まで行って本人に会ってみる。だめなら伝言を残すか面会の約束をとりつける」
「わたしにも、ハダルのことばが何を意味しているかよめました」
アイドクレーズは暗い顔だった。
「彼は愚かだが正直だ、二重人格の表も裏も。その正直な彼の云う通りならあなたを襲ったのはナイジェル・アベンチュリンでまちがいないーーそして彼の動機はただ一点、主人の命を救うため。しかし、ここであなたが真正面からぶつかるのは危険すぎる。なんの準備もなしに、あれほどの魔力のもちぬしと対決して無事ですむとお思いで? あるじのために死に物狂いになってる男が、いきなりじぶんに会いにきた被害者のことばを正直に受け取ってくれるなんてこと、ぜったい、断じてありえない!」
アイドクレーズは眼を丸くし、わざとらしく肩をすくめた。シュバリスは頭を振った。
「ううん、ナイジェルは話せばわかる。彼の動機はハダルの命よ、ハダルさえ助かるなら彼はなんでもするでしょう。さっきわかった、あの呪いーー眼と足さえ返してもらえればわたしが治癒できるかもしれない」
女神の全魔力をもってすれば。シュバリスがそっとじぶんの掌に視線をおとすと、
「のこのこ行って正直にそう云うんですか?」
アイドクレーズは目を吊り上げた。
「あなたの正体もばらすことになるし、凶行を知ってるとわざわざ告げることになりますよ。それが彼にとってどういう意味をもつかおわかりで? 脅迫されていると思うはずだ。消されますよ!」
「消されたりしない。念のためユアンとテディにも伝言しておくわ。そうだ、彼がさっき云ってた内容を伝えてきてよアイク。シュラク通り七三七だったわね。建物か部屋の番号かしらね?」
一刻も早く出発したかった。早ければ早いほうがいい。内心のいら立ちをおさえながらシュバリスが頼むと、
「反対されるからわたし抜きでいくつもりですか? 駄目ですよ」
ますます怖い目でアイドクレーズはシュバリスを睨んだ。とうとうシュバリスも目を吊り上げた。
「どうせ反対するんでしょう。だったらつべこべいわずに教官のところへ行くか、ついてくるっていうならすぐにそこを退いて。着替えなくちゃーー退いて!」
服も髪も体も乾いているが、泥と水草がこびりついたままでは誰かを訪問するのにふさわしいとはいえない。相手が初対面ならなおさらだ。アイドクレーズは「だめです」となおも頭を振った。
「もっと相手について知るべきです。情報が足りない」
「もうじゅうぶん知ったわ。わたしにはわかる」
「わかってない」
「わかってる」
「いいえ、あなたはわかってない!」
アイドクレーズは突如、それまでと桁違いの冷ややかな瞳でシュバリスを睨みつけた。従者のそんな態度に不慣れなシュバリスはぎょっとした。アイドクレーズは不機嫌と不満を隠そうともせず云い放った。
「これまでちゃんと手順を踏んでここまできたのに、なぜ急に大胆になるんです? ナイジェルに会うというならそれじたいを止めはしません、ただし準備をしてからと云ってるんです。手紙を書くなり騎士団に連絡して約束をとりつけるなり、もしくはユアンとテディを通じて面会を設定してもらうなり、いくらだって方法はある。こちらの正体をばらさずに穏便に、眼と足を返してもらうことだってできるかもしれない。あるいはそのシュラク通り三七三でしたっけ、そこに彼にとって大事なものが隠してあるというならそれこそあなたの眼と足かもしれない、そちらへ侵入してこっそり奪い返せばいい」
「でもーー」
「それも云わなくていい、わたしにはわかる。ハダルでしょう? 彼の命が危ないだけじゃなく、ハダルがハルトガルトとそっくりだったから急にそんなことを云いだしたんでしょう? 焦っているのはそのせいでしょう?」
「なにいってるの」
笑い飛ばそうとしたが、一瞬、そうかもしれない、とシュバリスは慌てた。千年前、戦場からシュバリスのもとへ帰ってきたハルトガルトを癒し、ふたたび戦場に出る彼に防御魔法を施すのはシュバリスのだいじな役目だった。かわいそうなハダル・ハルシオン、わたしがそばにいたらあんな呪いなんかよせつけなかったのにーーハダルと接するうち、そんな感慨を抱いたのは事実だった。なぜならハダルはそっくりなのだ。髪も顔も体も、抱きしめたときの感触も抱きしめる腕の強さも、纏う香りも。それが異様にシュバリスの心をかきみだし、かきたてた。
違うのは瞳の色だけ。彼こそが、最も色濃くハルトガルトの血を受け継いだ子孫だーーならば。
せつなの迷いをアイドクレーズは見逃さなかった。「図星ですね」彼は冷たく云った。
「ハルトに似ているからこんな突拍子もないことを云いだしたんでしょう。そしてじぶんを危険に晒そうとしてる。その軽はずみをわたしが許すと思いますか? いいかげんにしてください」
「いいかげんな気持ちで云ってるわけじゃないわ」
「どうですかね」
アイドクレーズが皮肉っぽく笑った。
「もうそろそろ、ハルトガルトを忘れたらいかがです?」
「ーー、」
「あの男はもう千年も前に死んだんですよ。あなたを一方的にフった身勝手で薄情な男、あなたではない別の女を選んだ男。その子孫がそいつそっくりだからって、いちいち同情していままたじぶんの身を危険にさらすのは愚の骨頂だ。すでに一度傷つけられ、奪われておきながら、怒りを忘れて同情してもういちど傷つくなんて愚かしいことを蛇神シュバリスともあろうものがしないでください。もういいかげん現実をみてください、あいつはあなたを捨てたんですよ! あなたを利用するだけして、戦争が終わったらとっとと捨てた、あいつがあなたをそばにおいたのは、あなたの治癒と防御の力がめあてで、あとはせいぜいあなたの体が欲しかっただけだ!」
「そーー」
衝撃がシュバリスの全身を貫いた。アイドクレーズのことばは思いのほかするどく、矢のように胸に刺さった。それは彼女にとって最も触れてほしくない、直視したくない理由だった。
じぶんはハルトガルトに捨てられた。あんなに仲良しだったのに、命をかけて愛したというのに。それはなぜだったのかーーぐらりとシュバリスの視界がゆらいだ。
[newpage]
[chapter:おおげんか]
「あなたになにがわかるっていうのよ」
ひどく動揺していたが、女神の誇りにかけて、シュバリスはとっさに云い返していた。
「あなたになにがわかるっていうのアイドクレーズ、わたしのなにが? いいじゃないの彼の子孫に同情したって、彼にそっくりだから早く治してあげたいと思ったって、だってわたしとハルトはずっとパートナーだったのよ。ふたりでいろんなことをしたし同じ時間を過ごした、彼を戦場に送り出すときはとっておきの守護魔法を施したし、ぶじに帰ってきてくれたときは泣くほど嬉しかった。そしてーー」
シュバリスの脳裏をなにかがかすめた。
銀色の髪を縁取るレース。小さな[[rb:跫 > あしおと]]、小さな声。秘密を分け与える喜びに満ちた微笑。
ハダルが彼と、じぶんじゃないほかの女の子の血を引いている子なのだとしてもかまわなかった。だってそれはーー
「ハルトに似てるからよけいに助けたいと思うことのどこが悪いの? まだ十七歳の未来ある男の子の命を救ってあげたい、それって当然のことでしょう? あのときのハルトと同じ、危ないから助ける、それのどこがいけないの?」
「いけなくはない。だとしてもこんなに急いでことをすすめる必要はない」
「必要はあるわ。彼の呪いを解くのはいっこくも早いほうがいい。あのねえアイク、たとえハルトに捨てられたとしてもわたしはその子孫の男の子を見捨てたりしない、それとこれとは別問題なの。わたしはだれも見捨てたりしないーーそうよ、ハルトのときだって、わたしが彼を見捨てたことなんか一度もなかった。拒否されてもフられてもだいじなものを奪われても、ずっと嫌いになんかなれなかったし、この千年、わたしはずっと彼を忘れたことなんてなかったもの!」
「別問題にしているなんてとても思えませんがねーーつまりいまでも好きなんですね?」
冷ややかな笑みを浮かべてアイドクレーズが首をかしげた。
「そうなんですねーー利用されていたとしてもあなたはいまでもハルトガルトを好きなんだ。彼を忘れてなどいなかったんだずっと」
「ーーそうよ」
じぶんでもはっとしながら、シュバリスはちいさくうなずいた。
「だってあのひとはわたしを見つけてくれたもの。ヤハンの暗い森の洞窟にひとりぼっちでいたわたしを見つけて、友だちになろう、いっしょに行こうって云ってくれた。いまだって目をつぶってても彼の姿や声を思い出せるわ。そうよーー彼はわたしを頼りにしてくれたしわたしも彼を頼りにしてた、わたしたちは信頼し合ってた。あのひとはたくさんたくさんわたしに花を贈ってくれて、わたしは彼のゆいいつの存在で、わたしにとってもそうだった。彼にフられても捨てられても、そのときの絆が消えるわけじゃないしいまだって感謝してる! ほんとうは利用されてた、だからなに!? そうだとしても彼がわたしを仲間にしてくれた事実は変わらない、これはフラれたことをさっぴいてもお釣りがくるほどの恩だわよ! だからわたしはあのときの借りを返したい、だからわたしはハルトを救うの!」
「ハルトではなくハダルだろ! あの子はあなたの元恋人じゃない、混同するな!」
「してないわよ、ついうっかりよ。ねえ、そんなことはどうでもいいでしょ? 命のまえではささいなことだわ、だって彼には時間がない、そしてわたしが助けなきゃ誰も助けてあげられない、あの呪いはかんたんには解けない、解けるとしたらわたしだけ。だからそのためならナイジェルだって説得してみせる、彼の命を救うならどんなことでもするーーぜったい彼を助けてみせる!」
「彼、というのはどちらですか? ハルト? ハダル?ーーあなたおかしくなってますよシュバリスさま。あなたともあろうかたがなんて顔をするんです? あなたはーーあなたは」
アイドクレーズは眉間にしわを寄せて吐き捨てた。
「さっきの短い間にもういちど恋でもしたんですか? ハルトではなく彼の子孫に、あんな一瞬で、また莫迦のひとつおぼえみたいに同じ顔の男に! しかもあのガキはいま、どこの馬の骨ともわからない別の女を好きらしいってのに!」
「――ひょっとしてあなた」
シュバリスの脳裏を、さきほど運河から見上げた彼の必死の形相がよぎった。
「嫉妬してるの?」
シュバリスにしてはかなり底意地のわるい質問だった。「どっちに。ハルトに、それともハダルに?」ーー「してますがなにか?」アイドクレーズはあっさりと答えた。灰色の瞳は冷えて冴えざえとしていた。
「いまのあなたのパートナーはわたしです。過去の男にしゃしゃり出られて、心中おだやかでいられるわけがない。しかも別人とはいえ同じ顔の男にまで出てこられちゃねーーええ、してますよ。ばりばりしてます」
「――子どもね」
「ええ、子どもですよあなたに比べたら。だけどその子どもはあなたに育てられた子どもだし、なにより思い出していただきたいのは、あなたがその子どもを男にし、五百年ものあいだ連れ添った結果、いまじゃわたし以上にあなたを知り尽くしてる男もいないってことです。あなたがハルトといっしょにいたのは十一から二十六までのせいぜい十五年、対してわたしは五百年、三十倍近い差だ! そしていま、誰がなんといおうとわたしはあなたの男だ。このわたしこそ」
「……」
「そしてあなたはわたしのただひとりの女性です。そのプライドにかけてわたしはあなたを慰め、守ってきた。しかしそのあなたがいまだに元恋人を思い出しておかしくなってる、これほどの侮辱はありません。しかもこの千年忘れたことはないって、よりによっていま、あなたがそう云うとはね! たいした裏切りじゃありませんかシュバリスさま!」
「待ってーーあなたなに云ってるの。あなたこそなにを云ってるの?」
戸惑いながらシュバリスは首をかしげたが、アイドクレーズは逆に訊ねた。
「あなたこそ。あなたはけっきょくこの千年でなんにもわかっちゃいなかったんじゃないんですかシュバリスさま? 少しは現実を直視なさったらいかがですか、あなたはエウレシアを統一するためにハルトガルトに利用された、恋人だと思ってたのはあなたひとりだったんだ。あっちはそんなつもりはなかった、あなたは彼の恋人なんかじゃなかったんだ!」
「違うーー違う違う違う、利用なんかされてない! それにわたしたちは恋人だった! ねえアイク、あなたまでわたしを娼婦にする気? あなただけはわかってると思ってたのにどうしてそんなことを? わたしのこと誰よりもわかってるんでしょ? この五百年、わたしたちずっといっしょにいたじゃない、だったらなおさら、」
「いっしょにいたからだ! あなたはーーあなたは」
アイドクレーズは激しく頭を振り、灰色の目ーー正確には純粋な灰色ではなく、虹彩の周囲に銀色と青の縁取りのある灰色の瞳に炎を宿して怒鳴った。
「お人好しにもほどがある蛇神シュバリス! わたしはねーーわたしは悔しいんです、わたしはたしかにハルトガルトにもハダルにも嫉妬してるがそれだけじゃない、悔しくて腹がたってしょうがないんだ!! あなたをこの千年かばいもしなかった皇帝家の跡継ぎを、なんであなたが眼と足を奪われたうえに救ってやらなきゃならないんだ? だいたい、あなたがほんとうに七柱の一人としてふさわしいと、そう当時認知されていたならどうして皇帝家はそのことをはっきりと千年前から国民に知らしめなかったんです? あなたがフられたショックで寝てるあいだに時間は掃いて捨てるほどあったはずだ、あなたが関知しなかったのならその役目こそ皇帝家が行うべきだった、なのになぜほかの五人の獣人やその子孫ばかり初代王や王族としてまつりあげておいて、あなたの一族だけに汚名を着せつづけたんだ? 帝国をまとめるため、なんて恩知らずな理由は通らない、あなたは利用されてきたんだ、ハルトガルトにもその子孫たちにも。いや、ハルトガルトこそ諸悪の根源、彼は最初からあなたのその純粋さや純真さや世間知らずなところや孤独に育った寂しい気持ちにつけこんであなたをたぶらかし、利用してきたんだ。だからシュバリスーーこうまで恩を仇で返されたというのに、なぜあなたはこのうえ彼らのために働こうとする!? 情けないと思わないんですか、いまになってもハルトガルトにふりまわされてることが! 眼も足も奪われたのにそれをあっさり諦めようとしたり、憎むべき犯人に同情したり、なおかつそのあるじを助けてやろうなんて気を起こすなんて、愚かにもほどがある! 軽挙妄動だ!!」
「愚かでも軽挙でもなんでもいい、命がかかってるのよ、年端もいかない男の子の命が! 命よりだいじなものなんてある!? ないでしょ!?」
恋や愛や意見の相違はこのさいどうでもいい。シュバリスは道徳心に訴えることにした。
「これは命の問題よ! 命よりだいじなものなんてないわ! でしょ!!」
「ーーある!」
アイドクレーズはきっぱりと云った。
「命よりだいじなものはありますよ。このぶんだとあなたには永遠にわからないでしょうが、シュバリスさま」
「~~ッ」
どうしてもわかってもらえない。育てかたを間違ったのかしら、とシュバリスは唇を噛んだ。ほかの仲間、たとえばシオンやアリスやエステルやライドの子や孫は我ながらいい子に育てられたと思うのに、じぶんの子はうまくいかないーーそんなことをちらりと考えながらシュバリスはとうとう絶叫した。
「なによーーなによなによなによ! 大っ嫌い、アイクなんか大っ嫌い!!」
衝撃のあまり、柘榴から透明な水がぼろぼろこぼれて床に落ちた。
「なんでわかってくれないの!? 時間がないの、こうすべきなのよ!」
「あなたこそなぜわからない? これじゃハルトに捨てられるわけだ、あなたはほんとうに莫迦だ、ハルトも莫迦だがあなたはその数倍は愚かだ!」
「うるさい、もういい、出ていって! わたしのいうこときかないならでてけ!」
「出て行きますよ云われたとおり。ただし今日は騎士団へは行かせません、ぜったいに!」
「ーー!」
行けるわけがない、とシュバリスは手の甲でごしごし涙を拭いた。鏡を見るまでもなくひどい顔をしているだろう。それに気分も最悪だ。たとえ魔法で腫れたまぶたや充血した瞳を治しても、落ち込んだ気分はどうにもならない。まをおいて仕切りなおすしかない。
とうぶん顔もみたくない、と彼女がさらに怒鳴りつけようとしたときだった。こんこんこん、と乾いたノックが入口から響いた。
[newpage]
[chapter:アレクセイ]
「いいかげんにしてくれ」
アイドクレーズがドアを開けると、アレクセイがむっつりと云った。
「なにを揉めてるんだか知らないが喧嘩ならよそでやってくれ。それか静寂魔法をかけろ。こっちももう帰ってきてるんだ、うるさくて宿題がすすまないだろう」
「それは失礼」
寮の壁は薄くはない。だがさきほどの紛糾ぶりでは内容まで聞こえずとも云い争っていることは明白だ。気まずく口をつぐむ主従に、気が済んだのアレクセイは「じゃあな」と踵を返した。だが、シュバリスはとっさに「待って」と玄関に走った。
「待ってアレクセイ。ちょっと待って」腕をつかむと、
「なんだ。何か用か?」アレクセイは厭そうに腕をひいた。だが、シュバリスにとっては飛んで火にいるなんとやらだった。人間至上主義だろうが家の事情が複雑だろうが、どうあれアレクセイはナイジェルの弟だ。シュバリスはアイドクレーズを威嚇した。
「ーー彼に話をきくくらいはいいでしょうアイク、どうせこれじゃ丘の向こうへは行けないもの。この子は彼の弟さんだし、いくらなんでもこの子にはあなたも嫉妬しないでしょ。ねえ?」
皮肉を放つシュバリスに、アイドクレーズも「どうぞごかってに」と皮肉っぽく肩をすくめた。そのまま大きくドアを押し開くと、シュバリスがつかんだのと反対のアレクセイの腕を取ってドアの内側に引き入れた。
「えっ。なんだよーーっ、」
「おい小僧、つべこべいわずこのかたの質問に答えるんだ。これで借りはチャラじゃないが三分の二くらいには減らしてやる。それから間違っても妙な真似はするな、侮辱もなしだ。いいな? わたしはしばらく外に出る。ーー夕飯の買い物でもしてきます」
「いってらっしゃい」
「はあ? えーーわっ」
そのあいだにシュバリスは居間にアレクセイをひきずっていった。もっともアレクセイは抵抗したし、いまのシュバリスは小柄で非力なので、同じ一年生でも格段に高身長で体格もいい彼を連れ込むのはかなり苦労したが、
「じゃあねえアイク。遅くなっていいからね!」なかばアレクセイの腕にしがみついたまま、べえ、とシュバリスが舌をだすと、「そのつもりです」アイドクレーズは冷たく答え、乱暴にドアが閉まった。
シュバリスは深々とため息をつき、部屋にひっぱりこまれた隣室の従者は目を白黒させていた。
「おい。いったいなんの真似だ?」
「話があるの」腕から離れたシュバリスは、頭みっつぶん高いアレクセイを見上げた。
「おれはない、帰る。アルをひとりにはできない。まんがいち襲われたらことだ、もしまたあんなことになったらーー」
「そんなことはさせないわ。だいじょうぶ、隣にいれば厭でもわかる。座ってアレク、お茶を淹れる」
「でもおれ、いまあいつと宿題ーー」
「いいからお座り!」
アレクセイはため息をついた。「すこしだけだぞ」と窓際に置かれたダイニングテーブルにむかう。「用なら早くしてくれ」「ええもちろん」おとなしく座ったアレクセイを横目にシュバリスはキッチンに向けて指を鳴らした。ポットとカップ、数種類のお茶の缶が飛んでくる。次の「ぱちん」で空中に水と火が躍った。だが、強すぎる火にあぶられたカップ二杯分の水は、じゅっという音をたててすべて蒸発してしまった。
心の乱れは魔力の乱れ。落ち着かなきゃーーシュバリスはこんどは慎重に水を温めた。そのあいだに浮遊するお茶の缶をさっと見渡し、好みの茶葉を選んで残りを棚に飛ばし戻す。カップとポットが温められ、適温の湯によって茶葉の成分と香りがじゅうぶん抽出されるとアレクセイの前に移動させる。行儀よくテーブルに着地したカップとソーサーに、アレクセイが低く口笛を吹く。シュバリスはテーブルの反対側にじぶんの分を飛ばして席についた。
無理やり連れ込まれたこともあってアレクセイは手を出さないかもしれないと思ったが、手順をすべて目撃して毒は入っていないと判断したか、隣室の従者は素直に口をつけた。
「ーーうまい。ただ、やけに緑色だがこれは?」
「緑茶よ、ヤハンの特産。これはバニラの香りつき」
「いい香りだ」
その後アレクセイはまじめにお茶を味わっていたが、
「それでおれになんの用だ? 喧嘩でむしゃくしゃして従者の愚痴をぶちまけたいなら、なにもおれをひきずりこまなくともアリアナ・ノヴェレッテンとかもっと適任がいるだろう」
「そおーんなんじゃないわよ! アイクとの喧嘩はしょっちゅうよ、こんなのでいちいち目くじらたててたらごひゃーーっ、むぐぐ、何年も一緒にいられないわ!」
じぶんは莫迦かもしれないがアイドクレーズも莫迦だ、とシュバリスはがぶりとお茶を飲んだ。意外と嫉妬深い性格だ、というのは彼と暮らし始めてすぐ、彼がまだ幼いうちに気づいた。だがあそこまでとは思わなかった。ハルトガルトのみならず会ったばかりのハダルにまで悋気を起こすなどどうかしている。
「ほんとに育てかたまちがっーーいや、いくらなんでもさっきのはあんまりだわよ! 人助けのどこがわるいっていうのよ、ねえ!?」
「はあ」
アレクセイは頬を痙攣させてちょっと微笑み「あんたもまあ、入学したときに比べたらずいぶんはねっかえりになったようだが」とぼそぼそ云った。
「このあいだの件で正式にお礼を云えというなら悔しいがそのとおりだ、個人的にはちゃんとあんたに恩も感じてるしいずれ恩返しもしたいと思ってる。だが蛇人の帝国での評判については悪いが自業自得だぞ。現に彼らは軽蔑されてもしょうがないことをしてるしな」
「ん?ーーああ、それは違うわよ」
アレクセイの微妙な勘違いに気づいたシュバリスはひらひら手を振った。
「訊きたいのはそこじゃないの。感謝してくれとか見返りがほしいとか云ってるんじゃない。そうね、あなたもアルジュナと長く離れるのはアレでしょうから手短にきくわ、あなたのお兄さまの連絡先を教えてほしいの。いるでしょ? お兄さん」
「は?」
とたん、アレクセイの顔が険悪になった。
「いない。おれには兄なんかいない、おれは生まれた時からずっとひとりだ」
「しらばっくれないで。院長先生からいろいろうかがったわ、あなたもいろいろ事情があるみたいだけど、いいから教えて、だいじなことなの。でないといますぐ寮母のもとへすっとんでって、あなたが院長先生の訓戒を破ってわたしにひどい侮辱をしたって大声で泣き喚くわよ。いま涙腺がゆるゆるだからお茶の子さいさいよ。とにかくあなたのお兄さんについて訊きたいの、教えてちょうだい」
「ううーむう」
プライベートと体面を天秤にかけ、アレクセイは体面をとったようだ。「どっちだ?」とますます不機嫌そうに云った。
「テオドールの無能とナイジェルの外道のどちらだイスラメイ」
「ナイジェル。皇子さまの従者のほう」
「ーー、」
テディとしか面識はないはずなのに、とアレクセイはいぶかしんでいる。シュバリスは「いいから」とせいいっぱい怖い顔をした。
「教えてちょうだい」
「ナイジェルね。わるいがおれも連絡先は知らない。住んでるところしか」
「どこ?」
「門番小屋だ。学院正門のすぐ内側、森のあいだのーー見たことないか?」
あった。運動場を包む森ではなく、セレス市街と学院とを隔てる森の中ほどにレンガと石作りの建物がひっそりと建っている。門番たちは現在、森を抜けた日当たりのいい場所で最新式の家屋に暮らしているから、なんのために旧式の小屋が残されているのだろうと疑問だったが、アレクセイは「皇子がそこに住んでるんだ」と説明した。「学院の生徒は基本的に寮暮らしだが、ハダル・ハルシオンはここにいない。皇帝家の嫡子に対する学院側の配慮と、あとは警備上の問題からだ、まかりまちがって皇子めあてで暗殺でも起こってほかの生徒が巻き添えをくっちゃまずいからな。だからハダルはそっちにいるしナイジェルもそこで暮らしてる。ラーゼス陛下も学生時代は従者と住んでたはずだ、その前のヒュパティア陛下も」
「そう。ナイジェルはいつそこに帰ってくる? 何時ごろ?」
「はあ? おれがあいつの帰宅時間まで知るかよ。いつ帰るってか、たしかあいつは防衛部だが、騎士団の防衛部は聞くところかなり激務だそうだから、へたしたら一週間に一回とか一か月に一回帰るのが精いっぱいじゃないの。それこそ寝に帰るだけとか。まあ、皇子の従者だから配慮はされてりだろうしたいせつなご主人さまの面倒みる時間くらいはあるかもな。だとしたらもっと間隔は狭いかもしれん」
「そうーーあなたとナイジェルはたまに会う?」
「会うわけねえ。おれはあいつの八つ下で五歳のころからユーレアイトの屋敷に移った。一緒に暮らしたのだって一瞬だし、そのころだってほとんど口もきかなかった。おれがあいつのことで知ってるのはほんとにこれっぱかりだ」
家を訪ねるより、やはり騎士団に会いに行ったほうがてっとりばやい。シュバリスは唇を噛んだ。
「さっきあなた、お兄さまを外道って呼んだわね。どういう性格? 危険なことをしそうなかた?」
「ーーそっちならよく知ってる、危険そのものみたいなやつだ。目的のためなら手段を選ばない。おれはテオドールも嫌いだがあいつはもっと嫌いだ。三歳で初めて会ったが、顔を見るなり蹴り飛ばされた。テオドールが止めなきゃそのままぼこぼこにされてた」
「乱暴なひと?」
幼児を蹴るとは。シュバリスが呆然としていると、
「はためにはぜんぜん見えない、だからたちが悪い。それに執念深いんだーーさっきも云ったとおりおれは五歳でアベンチュリンを出たが、その後もたまに顔を合わせりゃ嫌味と嫌がらせ。アルのほうが皇帝にふさわしいもんだから妬んでる。うちでいちばん魔力が高いのを嵩にきて、いまじゃテオドールにも兄貴ヅラしてるしな。あっちは十一も離れてるんだがな」
「黒魔法が得意だときいたけど」
「そうだよ。そもそもは赤だが卒業前の最後の試石ではそうでたってな。腹のなかの色が現れたんだろ」
そこでアレクセイはシュバリスをじっと見つめ「あんたは白だったな」と目を細めた。
「従者のガキは黒、と。その年からそこまではっきりしてるってのは、云わせてもらうがかなり異常だ。白黒灰の三色はすべての魔法に素養があるとわかったうえでの本人の性格みたいなもんだからな」
「性格ーー?」
白、黒、灰色に関しては、魔法そのものの性質ではなく、その性質を使ってなにができるかの分類なのだとシュバリスはおおざっぱに見当をつけていたが、アレクセイはもっと詳しく説明できるようだ。ナイジェルのこともだがじぶんたちの問題でもある。シュバリスは首をかしげた。
「というと?」
「術者の魂がどちらにむいているかだよ。攻撃か防御か、外向的か内向的か、大胆か繊細か穏健か危険か、平和を好むか闘争を好むか、微妙なパラメータの総合でこの三色は決まる。魔法を習得し、極めたさきにある領域だ。[[rb:固有魔法 > マジック]]の色で測れるが、そいつの固有魔法が攻撃か防御かどちらにむいているか表してもいる。平和的な使い方ができるかそうじゃないか、とか」
「白は治癒や防御で黒は攻撃にむいてる、そうよね?」
「そうだ。だが、セレスタインではその中間である灰色が最良とされ、生徒は皆卒業までに灰を出すよう目指す。優しすぎても厳しすぎても、強すぎても弱すぎてもダメーー灰色ってのは、白と黒をあわせもちながらバランスの取れた色であり状態なんだ。中立・中庸・正道のモットーにふさわしい。アルも灰に移行したがそうとう努力した、人格者を表す色なんだ、灰色ってのは」
自慢げなアレクセイに、しかしシュバリスは「かしらねえ?」と肩をすくめた。
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