六話

  サコンの導きにより、一行は朱焔城の奥深くへと進む。

  長々と続く廊下は、磨き抜かれた黒漆の床が鏡のように三人の姿を映し出していた。大陸の城を支配する石造りの冷徹な空気とは異なり、ここには柔らかな木肌の温もりと、爽やかさを感じるい草の香りが満ちている。その穏やかな静寂は、訪れる者を優しく包み込みながらも、一国の主の懐へ入るという心地よい緊張感をじわりと伝えてきた。

  ​やがて、サコンが一際巨大な襖の前で足を止めた。金箔をふんだんに使い、力強く根を張る松の絵が描かれたその扉は、それ自体が一つの芸術品のようだった。

  ​「これより先が、朱焔城城主サクラ様のおわす『大広間』にございます」

  ​サコンが左右の取っ手に手をかけ、音もなく襖を左右に開く。その瞬間、一行を迎え入れたのは、百畳はあろうかという広大な畳敷きの空間だった。

  部屋の最奥、一段高くなった「上段の間」には、竜神アカツキが雲を割って現れる姿を描いた巨大な金屏風が立てられ、眩いばかりの光を放っている。四隅の香炉からはホムラサキ特有の甘く重い香煙が薄く立ち上り、広い座敷の空気を幻想的に揺らしていた。

  ​しかし――そこには、誰もいなかった。

  ​静謐な空間に漂うのは、拍子抜けしたような沈黙ばかり。一同が困惑し、互いに視線を交わそうとした時、案内役のサコンが小刻みに震え始めた。その端正な額には隠しきれぬ青筋が浮かんでいる。

  ​「…………殿ッ!」

  ​サコンは儀礼も忘れたような足取りでずかずかと畳を横切り、広縁へ通じる障子を、今度は力の限り引き開けた。スパンと小気味良い音が静寂を震わせて室内に響く。

  ​「殿! お客様がお越しになっております! さっさと上がってくださいませ!」

  ​「ふぁーあ、もうそんな時間か? すまんすまん。今日はお客さんが多いなぁ、……よっこいしょっと」

  ​怒号に近い呼びかけに応じ、縁側の向こうから一人の男があくびをしながら姿を現した。「殿」と呼ばれたその男は、深紅の染め抜きに金糸の桜が舞う豪華絢爛な打掛けを羽織っていた。しかし、サコンの執念が詰まった意匠であろうその至宝を無造作に着崩した姿は、あまりにものんびりとしていた。彼は寝ぼけ眼で重い腰を上げて立ち上がる。

  ​赤みがかった栗色の長髪は適当にまとめられ、結い目から幾筋かが零れて、涼しげで端正な優男の顔に色香を添えている。その瞳は、晴れ渡ったホムラサキの空をそのまま映し出したかのような、爽やかな空色を湛えていた。常に温かな光を宿すその瞳とは裏腹に、打掛けの下に隠された肉体は逞しく厚い。

  (……この男、ただ者ではないようだが……)

  ​ウォルカの直感が警鐘を鳴らす。だが、サクラはそんな刺すような視線などどこ吹く風で、上段の座布団にドサリとあぐらをかいて座り込んだ。

  「待たせてしまって申し訳ない。僕がこの朱焔城の城主、サクラだ。外国の王様と違ってホムラサキの代表みたいな感じだけど、よろしく」

  ​春の陽だまりのような脱力感。しかし、その細められた空色の瞳の奥には、すべてを包み込み、受け流すような不思議な深みがある。サクラは前に並んで座る一行を見て、満足げに目を細めた。

  アリオスは慌てて正座し、深く頭を下げた。

  「リュゴニアの王子、アリオスと申します! 本日はお時間をいただき、誠に……」

  「あ、全然そんな畏まらなくて良いよ。用件はヒナタちゃんから大まかに聞いてるしね」

  出鼻をくじかれたアリオスは、気を取り直し、膝を突いた姿勢を正して本題に入る。

  「はい……。我がリュゴニアは教会に乗っ取られ、竜脈が枯渇しかけております。国を取り戻し正常に戻すため、ホムラサキの皆さまとアカツキ様のお力を借りたく、参りました」

  サクラは、傍らに置かれた茶碗を啜りながら、ふむふむと大らかに頷いた。

  「教会か、うちの島は関わりがないからよく分からないけど、あまり良い噂は聞かないね。よし、わかった。僕ができることなら手伝うよ、困ってるんだろう?」

  そのあまりに軽い返答に、アリオスは一瞬、思考を停止させた。

  「……え?」

  「と、殿!?」

  サコンが横から慌てて飛び出すように前に出た。その顔は真っ赤に染まり、額の青筋がぴくぴくと激しく脈打っている。

  「流石に外つ国への助太刀を、そう簡単に決められては困ります! アカツキ様と大巫女様にもお伺いせねばなりませんし、兵を出すとなれば島の安寧に関わる大事です!」

  サクラは、ぽかんとしてサコンを見る目を瞬かせた。

  「あ、戦争するの? うーん、それは確かに困るか。遠いしなぁ。ありがとうサコン、いつもよく気がついてくれて助かるよ」

  「はぁ……」

  サコンはこめかみを押さえ、もう片方の手で胃を守るように抱えながら、ほっとするようなどこか諦めの混じった溜め息をつく。

  ​アリオスは、そんな主従のやり取りを呆然と見つめ、改めて痛感した。

  (この島……本当に、平和なんだな……)

  一方、ウォルカは無言で差し出された茶を啜り、内心で激しく舌打ちした。

  (……先程の直感は俺の思い違いか? ティーガを残してきているというのに……さっさと話をまとめろ)

  サクラはそんな一行の困惑や焦燥などお構いなしに、春風のような笑みを浮かべた。

  「よし、まずはゆっくり話を聞こうか。サコン、茶菓子を持ってきて。あと戦の話をするならウコンも呼んできてよ」

  (茶菓子で、ゆっくりだと……!?)

  アリオスとウォルカは、目の前のやたらとのんびりした殿と、疲労感を滲ませながら退室していくサコンを交互に見つめ、呆気にとられるばかりであった。

  ―――

  ​「お待たせしました。今朝、商人から差し入れられた練り切りでございます。頂き物ですが、我が街老舗の一級品ですよ」

  ​サコンが、色鮮やかな季節の菓子が並んだ盆を手に戻ってきた。

  その後ろには、もう一人、陽光を背負ったような大柄な男がにこやかに控えている。サコンの理知的な佇まいとは対照的に、一回り以上も大きな体躯を誇り、圧倒的な肉の質量を感じさせる男――彼こそがホムラサキの筆頭武官、ウコンだった。

  ​「おう、ウコンも来たか。まあ座ってよ」

  ​「なんだ、おやつ休憩か? やったぜ~」

  ​サクラに促され、その巨体が畳を鳴らして座した。サコンより一回り以上大きく、焦げ茶から赤茶へとグラデーションを描く、密度高く艶やかな毛並みに包まれている。

  若草色の羽織を大胆にはだけさせた胸元には真っ白なさらしが巻かれ、狸の獣人特有のもちっとした弾力ある肉付きが、強靭さと愛嬌を同時に漂わせていた。

  ​「皆もどうぞ、遠慮なく食べておくれ」

  ​サクラに勧められ、一行は毒気を抜かれたまま菓子を手に取った。

  ウォルカは無言で茶を啜りつつ、車座に座るこの「歩く重厚な毛玉」の武官を鋭く観察する。その圧倒的な質量と、感情に合わせてパタパタと畳を叩く太く短い房状の尻尾。ティーガとはまた違う、本能に訴えかけるような異質な迫力に、ウォルカの喉が小さく鳴った。

  ​「さて、茶も入ったところで……アリオスくん。お国の奪還は具体的にどんな手段でやるつもりなのかな? 戦をするのかい?」

  ​サクラが練り切りを口に運びながら、世間話でもするかのように問いかけた。アリオスは居住まいを正し、静かに首を横に振る。

  ​「いえ……そこまで大事にするつもりはありません。実際、王宮を占拠している教会の者たちは、それほど多くはないのです」

  ​アリオスの脳裏に、ホムラサキへ向かう船上での光景が蘇る。あの夜の甲板で交わされた会話が、克明に思い出された。

  ​潮風が吹き抜ける甲板の上、月明かりの下で一行は地図を囲んでいた。

  ​「では、王宮の内情を詳しく申し上げましょう」

  シグルドがモノクルの縁を押し上げ、落ち着いた声音で切り出した。

  「王宮に巣食う教会の者たちは聖母とシスター、そして護衛を合わせても総勢二十名ほど。数は少ないですが、女たちが放つ『洗脳魔法』が厄介です。近衛騎士たちも既に術中にあり、まともに戦えば同胞と殺し合うことになりましょう」

  ​「最悪だな。……斬れば解ける代物か?」

  ウォルカが低く唸るような声を出すと、隣に立つティーガが黄金の瞳を剣呑に光らせ、自身の豪腕を見つめた。

  「術者を一人残らず無力化するのは現実的じゃねえな」

  ​「うむ。無駄な血を流さず根源を断つためには、やはり魔法を解くしかあるまい」

  アリオスは意識を現実に戻す。

  ​「……というわけなのです。やはり被害を最小限に抑えるためにも、洗脳を解く術を持つ方――巫女様を、ホムラサキからお借りしたいのです」

  ​アリオスの切実な訴えに、サコンが顎に手を当てて静かに口を開いた。

  ​「なるほど。ですが、神力の話となりますと、やはり大巫女カグラ様、そしてアカツキ様にご相談せねばなりません」

  ​「それに、大陸まで行くとなれば道中の護衛も必要だ。たとえ少人数だとしても、巫女様に精鋭を付けないわけにはいかねぇよなぁ?」

  ​ウコンが琥珀色の瞳を細めて思案する。

  それまで大人しく話を聞いていたサクラは、ふむ、と深く呟くと、口の中の菓子を茶と一緒に飲み込んだ。

  ​「……もし、巫女たちを貸し出せたとしても、君たちの国のその後は大丈夫なのかな。女がいなくなるなら、子孫を残せなくなってしまわないかい?」

  ​サクラの放った冷静な疑問に、一行は揃って息を呑んだ。

  あまりにも真っ当な、ゆえに致命的な指摘だった。教会の聖母が施す『開花の秘術』がなければ、大陸の男は子を成すことができない。だからこそ、王も兵士も教会に強く出られず、今の事態を招いてしまったのだ。

  ウォルカは無意識に奥歯を噛み締めていた。それを考えなかったわけではない。ただ、考えないようにしていただけだ。視線を伏せると、畳の上に映る自分の手がやけに大きく見えた。耳の付け根が、じわりと熱を持つ。

  国を取り戻して教会と距離を置き、一人前になったアリオスにリューゴの神使の座を託すまでが自分達に課せられた任務だったはずだ。

  (それで……役目は終わるはずなのに)

  今、ここにいない存在の輪郭が頭に浮かび、ウォルカはぐっと喉を詰まらせた。

  ​「み、巫女様をその後もお借りすることは……!」

  ​「それは流石に無理かなぁ。新しく女が産まれて、神力が使えるようになるまで面倒を見るってことでしょ?」

  ​「我が島民に、長期で外つ国へ渡りたいと思う者などまずいないでしょうね……」

  ​サクラとサコンの困っている様子に、アリオスはがくりと肩を落とした。絶望の影が射した広間に、ウコンが不思議そうに声を上げる。

  ​「その教会ってやつを、なんとかするしかねぇんじゃねーの? 女がそこに一括管理されてるってのが、そもそもおかしな話だぜ。ホムラサキみたいに、普通に生活すればいいだろ」

  ​何気なく放たれたウコンの言葉に、ウォルカは眉をひそめた。それは、太陽が西から昇ると言われるに等しい暴論に思えたからだ。

  ​「……そうなると、我が国だけの問題ではなくなりますな」

  シグルドもまた、未知の劇薬を飲まされたかのように難しい顔をして呻いた。

  大陸の構造そのものを根底から覆すような「普通」の価値観。静寂が落ちた大広間に、サクラの快活な声が響いた。

  ​「よし、やっぱりカグラちゃんとアカツキ様にも相談してみよう。僕たちだけじゃ、どうしたら良いか分からないもんな」

  ​「サクラ様…… 我が国の問題に、これほど親身になっていただけるとは……」

  ​「困った時はお互い様だろ? 魔導具もタダでくれるって言うし、せっかく協力するなら、上手くいってほしいからね」

  ​サクラは相変わらずの春風のような笑みを浮かべ、励ますようにアリオスの肩を叩いた。その温かな掌の重みに、アリオスは消えかけていた希望の火を再び灯したようだった。

  ——その隣で。

  ウォルカは、ただ黙ってその光景を見ていた。

  独りでに耳が伏せ、尾が強張る。胸の奥で、何かが静かに軋む。話の流れは正しく、異論はない。だが、これはもう「ただ国を取り戻すだけ」の話ではない。

  (……事が大きくなりすぎている)

  ここにいない虎の姿が脳裏を過ぎり、ウォルカは無意識に拳を握り締める。自分の手の中にあるはずのものが、どこか遠くへ引きずり出されていく気がした。