図書室で締められるエピローグ

  アスタはどこにでもいる男子学生という風貌の犬獣人だ。他の学生と少し違うところといえば、頭に赤いハチマキを巻いていることくらいだ。

  そんな彼が通う学校に、一人の転校生がやってきた。その転校生は落ち着かない様子を見せる猫の獣人で、尻尾も下がり気味。アスタはそんな彼のことを少し気にかけていたのだった。

  「今日から転校してきました、ナルですっ、よ、よろしくお願いします」

  クラスの中からポフポフ、と拍手が起こる。アスタもしっかりと彼の転校を祝福した。

  「はい、そういうわけで席は……アスタの横だ。みんな仲良くしてやってくれ」

  ナルは少し俯くようにしてアスタの横にある空席に座って、鞄を降ろした。その姿に、アスタは少し心を躍らせた。アスタの視線に気がついたのか、ナルは不思議そうな目でアスタの顔を見つめる。

  「なんかついてる?」

  「いや、なんでもないよ……」

  「そう。よろしく〜」

  「うん、よろしく〜。僕アスタって言うんだ」

  「頭のはちまき、いいねそれ」

  「へへんっ、いいでしょ!僕のお気に入りなんだ」

  「うん、似合ってるね、とても」

  

  褒められて少し照れるアスタに、ナルは微笑む。

  「あんまり喋りすぎるのもなんだし、後でね」

  はっ、とアスタが辺りを見回すと、彼らはクラス全員の注目を浴びている状態だった。少し慌てた様子のアスタを見て、ナルはふふ、といたずらっぽく笑う。

  ――午前の授業が終わり、昼休みとなった。ナルの席の周りには人だかりができていた。

  「ねえねえ!部活は何入るの〜?」

  「学食いこーぜー!ここの飯美味いんだよな〜!」

  「はぁっ……ナル様……♡」

  クラスメイトは三者三葉の反応を見せ、彼は瞬く間に人気者になっていた。そんな人だかりに目もくれず、ナルはアスタのもとへスタスタと歩いてくる。

  「や、アスタくん。ちょっと中庭に行こうよ」

  「え?わ、わかった!」

  「お弁当、持ってきて。ご飯食べよ」

  こうして二人はクラスメイトの注目をあつめながら教室を後にする。

  中庭のベンチに腰掛けながら、二人は昼食に舌鼓を打つ。何人か様子を気にしたクラスメイト達が二人のことを見つめていたが、話しかけてくる様子はなかった。

  ふとアスタは彼が手に持っている本が気になって、そこに視線を落とす。膝に弁当箱を預け、器用におかずを頬張りながら片手で本を読む彼の目は、真剣そのものだった。

  「何読んでるの?」

  「ん……これはね、小説」

  「小説……どんなの読んでるの?」

  「普通のよくある冒険物だよ〜。っていっても、これはめちゃめちゃ昔に作られたものだけどね」

  「へぇ……面白い?」

  「うん、面白いよ。初めて読んでまだ半分も読めてないけど、続きが気になる」

  「そっか。それだったら、一人で読んだほうが良かったんじゃあ…」

  「まぁ、そうなんだけど。まだ友達になったのアスタくんしか居ないし、何か面白い本知ってないかな〜って」

  アスタは一瞬戸惑う。その間にも、隣の彼は知らないよね、と呟きながら、見開き一ページ分を丸々読んで次のページへと目を走らせる。

  「はやっ……」

  「みんな言うんだよね、読むの早いねって。これでも結構遅い方だよ」

  「そ、そうなんだ。びっくりして、つい」

  「ううん、気にしてないよ。慣れたし」

  「ふぅ、ごちそうさまでした」

  「ごちそうさまでした」

  昼食を終えた二人は、そのまま陽の光に照らされてポカポカとした暖気を堪能していた。

  「あったか〜……」

  「うん……ねむ……」

  ナルはいつの間にやら体を丸めて、完全に睡眠の姿勢に入っていた。真っ黒なその毛皮は、太陽の光を浴びてツヤツヤと光沢を帯びている。アスタがそれに手を触れようとすると、

  「触らないでね」

  と、睨むような目つきで釘を刺されるのだった。アスタは苦笑いをしながら、そんな事しないよぉ、と手を振る。

  次の日、二人は昨日と同じように中庭で昼食を取っていた。ナルは新しい装丁の本を広げながら器用におかずを口に運んでいく。その器用な姿にアスタは感心しつつも、彼が読んでいる本の内容が少し気になっていた。

  「ナルくん、それってどんな本なの?」

  「ん……?これはミステリーかな」

  「ミステリー……なんでも読むんだね。どんな本なの?」

  「これは、なんか蒐集家と彫刻作家が登場人物のミステリーなんだって」

  「しゅうしゅうか……?何それ?」

  「色んなもの集める人の事だよ。コレクターとか、そういう人のこと。彫刻作家は――」

  「彫刻作家は分かるよっ!彫刻作る人でしょ〜。蒐集家は全然知らなかったよ……」

  「蒐集家はあんまり聞かないからね、珍しい表現だよ」

  ナルはその間も本を読み進めていて、ほぼ読み終わっている様子だった。アスタは彼の読むスピードに感心しつつ、とある場所を思い出した。

  「そうだ、確か図書室があったような気がする」

  「えっ、ほんとっ!?」

  「多分、あそこだったかなぁ……」

  目を輝かせるナルに、アスタは記憶の片隅にあった図書室のある方向を指差す。そこは学校の3階の隅にある教室だった。誰も使っておらず、生徒たちからも忘れられている場所だ。

  「図書室あるんだ……!うれしい……!」

  「誰も使ってないから、ぼくも忘れてたよ」

  「放課後行ってみるよ、ありがとうっ!」

  ナルは今までに見せたことの無い満面の笑みを浮かべながら、ゴロゴロと喉を鳴らして読み終わった本を閉じた。

  「それじゃ、ぼくは教室に戻って別の本読むね」

  「おっけー!それじゃあまた後でね〜」

  ナルは手を振り、アスタに別れを告げる。アスタは、ベンチに座り直し、空を見上げて少し考え事をする。

  「読書、かぁ……」

  あまり馴染みのない習慣に思慮を巡らせつつ、昼休みの終了5分前を告げる予鈴を耳にしたアスタは焦った様子で教室に戻るのだった。

  放課後、アスタは図書室に来ていた。自分も本を読んでみようと、色々な本棚に目を通す。その中で一冊だけ彼の目を惹くものがあった。

  「『空想上のモンスター図鑑』……?」

  表紙には今となっては日常の存在になった獣人や、ドラゴンといった強大な存在がイラストとして描かれていた。

  「これ……人間が書いたやつなのかな?」

  空想上の、と接頭辞がついていることから、この本が記された頃には存在しなかったことは想像できた。それはつまり、古の人間の時代から存在する本だということだった。アスタはそれを手に取り、パラパラとページを捲ってみる。

  「見たことのあるものばっかりだなあ……」

  少し力が強くなっただけの動物から、国の戦力を総動員してようやく倒せるくらいの強力なモンスターまで網羅されており、それらの一部は、本の中では『神話生物』としてランク付けがされていた。その基準はアスタ達が暮らす現代との価値観とも合致しており、文字通り神の加護を受けた武具を使わないと倒せないものだって居る。

  「ちょっと気になってきたなぁ……」

  一通り中身を流し見たあと、彼はそれを手に取って貸出登録を済ませて家に帰った。そのまま、布団に寝転がってその図鑑を開いてパラパラとページをめくる。

  それぞれに対峙した時の対処法や、注意しなければならない事項がびっしりと書いてある。書いてあること自体は現代においても通用する事ばかりで、デタラメなことを書いている訳ではなさそうだった。

  「想像で描いたのかな?それにしては、結構合ってるし……あれ?」

  ページをめくったとき、見開き1ページ分が真っ白になっているところがあった。不自然なまでに白く、指先で触ってみてもなんの凸凹も感じることが出来なかった。

  「あれぇ……。なんでここだけなんだろ……」

  前後のページにはしっかりイラストと文章がついているし、端についているページ数もこのページ分だけしっかり飛んでいる。アスタは落丁といったものだろうと割り切って、少し気にしつつも読み進めていった。

  「ふわぁ………」

  「ねむそうだね〜」

  翌日、アスタは大きな欠伸をしながら涙ぐむ。それもそのはず、図鑑を眺めていたらいつの間にか寝る時間を過ぎていたのだ。

  「昨日本借りたんだけどさ、夢中になっちゃって……あう……」

  「あー、あるある。ぼくもよくやるよ〜。面白くて、ついつい夜更かししちゃうんだよね」

  「ナル君もそうなの…?ならいいやっ。うーっ……んっ……頑張って起きなきゃ……」

  「頑張れぇ〜。それじゃ、ぼくはまた図書室行くね〜」

  いつの間にか立ち上がっていたナルは、本を抱えてアスタに手を振っていた。

  「あっ、ちょっと待って!僕も本返しに図書室行く〜」

  「ん〜?わかったぁ〜」

  アスタたちは、二人並んで図書室へ向かう。アスタ自身は本を教室に置いてきたようで、教室に戻ってから図書室へと走っていくのだった。

  ――そんな彼らの姿を、遠くから見つめる者がいた。

  「アスタ、か……。アイツに近づくなんて正気なのか?それとも、もう……」

  獅子獣人の彼は独り言を呟き、頭の中を過ぎった最悪の思考を紛らわせるように頭を振った。

  「あいつからは何も感じなかった……まだ何もされていないのか……?」

  辺りを見回し、警戒している様子を見せながら彼は頭の中で計画を練っていた。リスクの方が高い状況で、アスタに接触するべきかどうか決めあぐねていたのだった。

  「今は様子を見ておくか……しかし、早くしないとあいつが……クソッ……落ち着け、俺……」

  解決しないジレンマに頭を掻きむしりながら、彼は頭を冷やそうと教室に戻るのだった。

  次の日、アスタはいつもと同じように昼食をとったあと、図書室に向かうナルを見送って一人になったタイミングで、彼に近づくものがいた。

  「おい、少しいいか」

  声の主は、先日彼の様子を伺っていた獅子獣人だった。やつれた様子で、鬣もボサボサになってしまっている。そんな彼は、アスタにとっては一つ上の先輩にあたる。

  「え?なんですか」

  「お前、あいつと関わるのはやめておけ……」

  「はぁ…?別に僕が誰と関わろうが関係ないじゃないですか」

  「いや、そうではなくて、キミが――!」

  獅子獣人は口を止め、突然上を見上げたあと、恐怖を露わにする。アスタも彼と同じように上を見ると、校舎の窓から数人の獣人達が見つめており、その光景はアスタも少し恐怖を覚えた。

  「せ、先輩、人気者なんですね……?」

  「い、いや、違う、と、とにかく、別の日にしよう。いきなり変なことを言って悪かったな。それじゃあ」

  「え?あっちょっ…!」

  戸惑うアスタを他所に、怯えた様子の彼は走って教室へと戻っていく。アスタは気になってもう一度上を見上げると、さっきまで見ていた先輩獣人達の姿はどこにもなかった。

  「……ほんとに人気者なんだなあ……」

  見つめられていた時に感じた微かな恐怖。それを気のせいだと思いながらアスタは教室へ戻ると、ノートを広げるナルの姿が目に入った。

  「何してるの?」

  「わっ、アスタくんっ……!なんでもないよ、ははっ……」

  引きつった笑みを浮かべながら、ナルは驚いた様子でノートの中身を肘で隠すように覆った。

  「ん……?勉強してたの?」

  「そ、そう!勉強してたんだ……!ちょっと今日の授業でよくわかんないところがあったから、復習だよ、気にしないで」

  「なんだぁ、そういうことだったんだ。隠さなくてもいいのに〜。僕もわかんないところあるし、一緒に勉強しよ?」

  「あはっ、あははっ……ありがとう……」

  ナルは苦笑いを浮かべる。様子がおかしく違和感を覚えたアスタは数分前の出来事を思い出した。学校の人気者らしきあの先輩に嫌われているということを、もしナルが知っているならばそれは傷つくのも当然だろう、と考えたのだった。

  「ナルくん……また今度遊ぼっ!」

  「え?なんで……」

  「元気なさそうだったから…。そうでもない?」

  「ううん……ありがと。ふふっ。嬉しいな」

  ナルは少し気まずそうに笑う。それでも、アスタの目にはそれが明るく映って見えて、ほっと胸を撫で下ろしたのだった。

  それからしばらくして、アスタ達の学校はテスト週間に入った。とはいっても、彼らの学校は戦闘訓練が主な授業となっているため、机に向かって勉強することとしては基礎的な教養くらいで、それ以外は全て武術の修練に費やされている。結局、彼に近づいてきた先輩とは一度も会うことはなかった。

  「テスト週間かぁ。ちょっと不安だなあ」

  「勉強が…?でも、アスタくんは勉強出来るじゃん」

  「いやぁ、今やってる所があんまり分かってなくてさ……今日図書室で一緒に勉強しない?」

  「あー……ごめん。今日は用事があって。早く帰んなきゃいけないんだよね」

  「そっか……わかった!じゃあまた明日にしよ!」

  「うん、そうだね〜」

  午前の授業が終わり、帰路に着くナルを見届けてから、アスタは持ってきていた弁当箱を持って中庭に向かう。

  今となっては習慣になったその昼食も、一人だと少し寂しく感じる。

  「ああ、よかった。まだ居たんだな」

  アスタは声の方へ顔を向けると、そこには前に警告してきたあの先輩の姿があった。それ自体はアスタにはあまり響いていなかったが。

  「ぁ……先輩。どうしたんですか」

  「後で体育館の裏に来て欲しい。告白とかじゃないぞ。大事なことなんだ」

  「えっ」

  「そういうことだから、頼む。俺はまだ授業があるから、一時間くらいしたら来てくれ。じゃあな」

  獅子獣人の彼はそういうと、アスタの返事を待たずに逃げるようにして教室へ戻って行った。

  「行っちゃった……変な人だなあ……」

  アスタは困惑しつつも、約束を反故にするのも忍びないと感じて、時間を潰すのだった。

  「まぁいいや。ちょうど借りた本あるし、これ読んどこ……」

  陽気につつまれながら、アスタは本を読み進めていく。今彼が読んでいる本にもまた、ところどころに空白があった。

  「うーん……またかぁ……」

  これまでアスタが図書室から借りた本は全てどこかに空白があった。今回は、文章が途切れる形で空白が生まれている。

  「また図書室に行かなきゃ……これじゃ読めない……」

  もはや本として成立していないそれを閉じ、アスタは階段を上る。二階、三階……と登っていくうちに、アスタは妙な違和感を覚えた。

  「……あれっ」

  人気のない三階。心を少し暗くしてしまうほどの静寂が支配するその空間に、一枚だけ開いた扉が彼を誘うように佇んでいた。そこからは、少し話し声が聞こえるような、そんな錯覚もあった。

  「本を返しに来たんですけど……あっ」

  図書室に入ったアスタの目に入ったのは、またしても開いた扉。いつもは閉まっているそこは、係の人が入る場所で、所属していない生徒は入れない場所だ。先程感じた話し声は錯覚ではなくその扉の先から聞こえてくる。

  「……ナルくん?居るの……えっ」

  パタンッ。

  アスタの手から本が滑り落ちる。そこにあったのは、ナルの姿と、体がの大部分が灰色に包まれた例の先輩の姿だった。

  「き、きみ……逃げ――」

  「うるさいなぁ……はぁ……」

  先輩が全てを言い終わる前に、彼の時間は止まる。そしてナルはというと、不機嫌そうな顔をしながら顔を上げてアスタの方へ向き直った。

  「あーあ。見られちゃった」

  「ナルくん、これは……?先輩は、どうなって……?」

  「石にしたの。アスタくんに見られたくなかったのにな……」

  アスタの思考が止まる。現代では生き物が石化することがある、そんな知識はアスタにもあった。だがそれを引き起こすモンスターの大半は討伐され、石化を受けること自体が相当レアな事象になっていた。

  その間にも、ナルは手に持ったメモ帳にペンを走らせている。

  「石化……!?ナルくん、そんな力を…!」

  「アスタくん、友達になってくれて嬉しかった。でもこれからはずっと一緒」

  ナルはアスタを睨むように見つめながら、距離を詰めていく。

  「うっ……くっ……」

  アスタは背筋が凍るような感覚を覚えた。体が竦んで動けなくなってしまった彼にナルは容赦なく顔を近づける。

  「アスタくんも、石にしてあげるね」

  「うっ……あぁっ……!」

  ナルの目が光る。アスタは恐怖をあらわにしながら、それをまともに受け、体の感覚が冷たく遠のいていく――。

  「…あれ」

  突如、光が止む。アスタは恐る恐る目を開けると、そこには不思議そうに首を傾げるナルの姿があった。

  「石化しないねぇ……。アスタくんは耐性あるんだ。ちょっと想定外かも」

  「うっ……ううっ……!」

  アスタは石化こそしなかったものの、体が硬直して抵抗が出来なくなっていた。ナルはそれを見て笑みを浮かべ、アスタの周りをゆっくりと歩き始めた。アスタが落とした本を拾い上げ、目の前に持ち上げる。

  「ふふっ。アスタくんもこの本読んでたんだね。ぼくと趣味が合うね……」

  「あぅ……」

  「鏡の中で起きる冒険譚。面白かったなあ……」

  「うぅっ……離して……」

  「離す?別にアスタくんを捕まえてる訳でもないのに、変だなあ。でも、彫刻作家にでも見つかったら良い作品になるんじゃないかな、アスタくん」

  彫刻作家。その言葉に、アスタは少し寒気を覚える。それは、ナルと初めて会った時に読んでいた小説のストーリーに登場していた人物のプロフィールだ。

  「ぼくはこの学校をほとんど掌握しているんだ。キミも知ってるよね?」

  「ぇ……」

  「あれ?知らない?そっか。じゃあまぁいいや。キミのクラスメイトも、全然話しかけてこなくなったでしょ?全部石にしたから」

  「どういう、こと……?」

  困惑を露わにするアスタ。ナルはニッコリと笑って、顔を近づける。

  「文字通り、みんな石になった。それで、分身を作ったんだ。こんなふうにね」

  ナルが虚空に手をかざすと、アスタの目の前の地面から音もなく伸びるようにして鏡が出てきた。当然の事ながら、そこにはアスタの体と、背を向けるナルの姿が映っている。ナルは鏡に映らないように移動してアスタだけになると、小さく呟いた。

  『歪曲した世界の君、そこに』

  鏡の中のアスタは、それを聞くやいなやニヤリと悪い笑みを浮かべた。その瞬間、彼の体は黒く染まり、そして鏡の中から本当の世界のアスタに近づいてくるようにして足を踏み出して手を伸ばす。やがて鏡の表面に指先が触れると、そこから水面のように波紋を広げた後、『歪曲した世界』のアスタが図書室に降り立った。その姿はアスタよりも少し身長が高く、彼のトレードマークであるハチマキも巻いていない。

  「わっ……!」

  「へへっ。オレ、アスタ。偽物はいらない」

  「アスタくん、偽物をやっつけたいんだけど、どうも上手くいかなくってさ。偽物のハチマキを奪ってきてくれない?」

  「おーけー。わかった。オレのハチマキにするぜ」

  「それはちょっと待ってね〜」

  黒いアスタは、『偽物』の後頭部に手を回し、そのまま慣れた手つきでハチマキを奪い取った。それは黒いアスタのものにはならず、ナルに回収されてしまった。

  「か、返せっ!くそぉっ……!体が、動かない……!」

  「ありがとう、アスタくん。ハチマキはまた今度つけようね」

  「へへっ。オレにかかればこんなもんだっ」

  「さて、偽物くんには、からくり全部教えちゃおっかな」

  「えっ……?」

  「そういうわけだから、アスタくんは遊びに行っていいよ〜」

  「やったー!オレ、いっぱい暴れる!」

  そう言って黒いアスタは本物のアスタを他所に、四つ足の体勢で図書室を飛び出して行った。ナルはまたしても硬直するアスタの周りをゆっくりと歩きまわり始めた。その間に、アスタはあることに気がつく。

  (っ!指が、動く!)

  うるさすぎるほどの鼓動が頭の中で木霊するなか、アスタの体は指先が少しずつ動かせるようになっていた。ゆっくりと、だが確実にその領域は広がっていき、アスタの手はゆっくりと握り拳の形へと変わっていく。

  「それで、話の続きなんだけど、とりあえずぼくの目を見て?」

  「ぅぁっ!?」

  またしてもナルの目が光る。獰猛な獣の目。そこから感じる寒気は、アスタの体を変化させていくには十分すぎる力で、抵抗の意思を奪うのに一秒も要することはなかった。

  「はっ、ぁぅ…!」

  先程とは違う感覚に、アスタは小さく悲鳴をあげる。乾いた音を立てて、指先から冷たくなり、完全に動かせなくなっていく。

  「体が、石に……!」

  「あぁ、それ。何回も聞いたそのセリフ……たまらないね。やっぱりハチマキが防いでたんだ」

  目を見張る。アスタは自分が巻いていたハチマキにそんな力があるなんてことは知らなかった。その間にも、アスタの時間はゆっくりと灰色に蝕まれていく。二の腕は完全に静止し、上腕から胴へと広がっていく――。

  「まだ石化するまで時間があるから、ぼくの力について教えてあげよう」

  「はぁっ、はぁっ……」

  「ぼくはね、本の力をそのまま吸収する……『簒奪』の力を使ってキミ達を石にしてきた」

  「さんだつ……!」

  アスタはせめてもの抵抗で睨みつける。胴体もほとんどが石化し、足は完全に図書室の床に張り付くように動かない。

  「ここにモンスター図鑑があってよかったよ。探してたんだよね、あれ。おかげで、バジリスクの魔眼を使えるようになった」

  そう言ってナルは一冊の本を広げる。そこにはアスタが違和感を覚えた、あのまっさらなページが開かれていた。

  「あっ……そ、それって……!」

  「そう。ここに石化の力を持つモンスターがまとめられていたんだ。『バジリスク』『その見た目でただの大きなトカゲだと油断した冒険者は、その余生を石として過ごすことで相手の力量を思い知ることとなる』。いいよね、こういう説明」

  「うっ、あっ――」

  アスタの口が動かなくなった。頭にも石化が進み、"完成"の時は近づいていた。

  「あっ、もう石像になっちゃう。もっとおしゃべりしたかったのになぁ」

  「…………」

  「じゃあ、またね、アスタくん」

  ピキッ、と音を立てて、アスタの体は時間を止めた。ナルは先程奪ったハチマキを、乾ききった時間を過ごすアスタに再び結びつける。

  「アスタくんのトレードマークはこれだもんね。石化しちゃったからもう遅いけど、次は石化しないようにね……あはっ。次が来るかなんて、わかんないのにね……」

  石像は答えない。灰色の体に似つかわしくないハチマキは、主がかつて生物だったことを表している。

  「アスタくん、おいで」

  ナルが呟くと、どこからともなく黒いアスタが現れる。

  「呼んだか?」

  「うん、偽物は石にしたよ。今日から君が本当のアスタ。よろしくね」

  「へへっ、よろしくな、ナル……くん」

  「うん、これからもよろしくね、アスタくんっ」

  二人は硬い握手を交わし、隠す必要も無くなった石像を残して、図書室を後にするのだった……。

  少しあと、ナルは思い出したかのように微笑んだ。

  「あっ、そうだ。これを本にして、図書室に入れとこっと」

  こうして図書室には一冊の本が増え、そこから一人の作家が生まれた。その作家は後々、数々の作家をリスペクトしているとして人気を博した。その裏で、彼が世界を支配しようと、石像を増やしていくことには誰も気づくことはなかった……。