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【新春けもケット12】もう一度、君に・サンプル

  「ユウ、そっちのファイルを取ってくれるか?」

  両腕に抱えた書類の束をスチール棚へと押し付ける。視界の端では、西日がブラインドの隙間から黄金色の帯を伸ばし、舞う埃を照らしだしていた。ギチギチと紙束が擦れ合い、今にも雪崩を起こしそうなその質量を身一つで支えながら、男は背後に向かってそう声をかける。

  ――返事はない。普段であれば「オッケー」という気の抜けた了解の声が即座に返ってくるはずなのだが、今日に限っては事務所はただ沈黙を貫いている。冷や汗がこめかみを伝い、無精髭の浮いた顎先へと滑り落ちる。毛皮を持たない人間の肌は、こういうときに実に頼りないものだ。薄いシャツ越しに、書類の角が昔より体積の増した腹の肉へと容赦なく食い込んでくる。とはいえ、少しでも力を緩めれば、この数年分の事件記録が床に散乱してしまう。振り返ることすらままならない。さて、困った。どうしようかと悩むこと、しばし。

  「リョージさん、兄貴ならさっき出かけたよ」

  不意に、予想よりも低い声が聞こえた。――それは先程呼びかけたユウの声ではなく、床下から響くような落ち着いた低音だ。

  「……お、レンか、お帰り。ちょっと待ってくれな」

  確認するまでもない。この鈴城探偵事務所のもう一人の居候、ユウの弟である箱辺蓮(はこべ・れん)だ。男――この鈴城探偵事務所の主である鈴城良治(すずしろ・りょうじ)――は、一度での整理を諦め、手に持った書類の山を床へ静かに置いた。そしてふう、と大きく息を吐き出し、重い体を反転させる。

  視線の先には、予想通りの静寂な立ち姿。学ランを脱ぎ、ワイシャツの袖をまくり上げたユキヒョウの青年が、小脇にファイルを抱え音もなくリョージの傍らに立っていた。身長は二メートル近い。こうやって至近距離で相対すると、それなりの体躯であるリョージであっても見上げる形となり、首の筋が引き攣るような錯覚を覚える。灰白色の毛並みには、黒い斑点がまるで墨を散らしたように美しく浮かんでいる。その斑紋は、顔から首筋、腕へと流れるように続いていた。背後では、身体のバランスを取るように、一般的な獣人のそれよりも太く長い尻尾がゆらりゆらりと揺れている。

  「ん」

  レンが無表情のまま短く一音を発し、抱えてきたファイルを突きつけてきた。兄の代わりに手伝いを引き受けよう、ということなのだろう。

  「ああ、ありがとう」

  リョージがそれを受け取ろうとした、その刹那。

  「――いや、俺の方が早いか」

  レンはリョージの手を水のような動きで回避する。そのまま長い腕を伸ばし、リョージが背伸びをして届くか届かないかという絶妙な位置にある棚の最上段へ、吸い込ませるようにファイルを滑り込ませた。分厚い肉球が衝撃を吸収したのか、紙が擦れる音すらしない。無駄のない、洗練された動きだった。

  「……そうだな、助かる」

  最初から「片付けてくれ」と頼むべきだったのだ。先程「取ってくれ」と言ったのは、ユウに言ったつもりだったからだ。リョージは苦笑しながら事務椅子を引き寄せると、どかりと腰を下ろした。事務所の空気中に、レン特有の、冬の朝の雪原を思わせる冷たくて清潔な匂いが交じる。

  「それで、ユウはどこに?」

  「ん……下ですれ違っただけだから、行き先までは」

  聞いていない、ということだろう。レンはこういう時に語尾を濁す喋り方をよくする。視線をやれば、彼は既に給湯スペースに移動し、こちらへ背を向けていた。茶葉が湯の中で踊るわずかな音と、陶器が触れ合う澄んだ音がリョージの耳に入る。何も言わずとも茶を淹れてくれているのだ。兄弟を自称するとはいえ、このあたりは到底ユウには期待できないな、とその長身を眺めながらリョージは思う。

  「そうか。晩飯の相談をしたかったんだが」

  その言葉に、茶を用意する手を止めて、レンがこちらを振り向いた。

  「食べたいものは?」

  片眉を器用に上げての返事。それは特に希望はない、あるいはリョージの提案に従うというレンなりの意思表示だ。

  「それか、ユウの希望を知ってるか?」

  リョージの追加質問に、レンは小さく頷いて見せた。淹れたての湯呑みを盆に乗せ、音もなくこちらへと歩いてくる。

  「昨日、中華が食べたいって」

  言っていたんだな。それならユウが好きそうなものを選んでおけば、おおよそ外すことはないだろう。

  「よし、麻婆豆腐あたりをメインで組むか」

  リョージがそう結論づけると、レンは目を細め、わずかに口元を緩ませることで同意を示した。

  「あ、そう言えば」

  ならば買い出しに、と椅子から腰を浮かせかけたときだ。レンが盆をデスクに置きながら、なんでもないことのようにスッと玄関口を指さした。

  「誰か、来る」

  レンの耳が玄関を向いたまま、ピンと張り詰めている。

  「――は?」

  思考が一瞬停止する。レンの指先をたどってリョージは視線を飛ばした。磨りガラスの向こうには何も映らない――いや、違う。おそらくレンは階段を上がる足音をその耳で聞き取ったのだろう。先程までは日常と変わらない様子だったそこに、不意に人の形をした巨大な影が、まるで圧迫するかのように浮かび上がる。リョージの心臓が跳ね上がった。この威圧感、このシルエット。幾度となく見上げた、あの背中。

  「そういうことは早く言えッ!」

  叫ぶやいなや、リョージは事務椅子を蹴ってそちら側へと駆け出した。

  「どうぞ」

  こういう場面であっても、憎らしいほどスマートに。音もなく背後からすっとリョージを追い抜き、レンが扉を開け放つ。その瞬間、室内の空気が爆ぜた。レンが纏っていた雪の静寂を塗り潰し、サバンナの熱波が吹き込んできたような錯覚をリョージは覚えた。数年前までよく嗅いでいた、高級なシダーウッドのコロンの香りと雄の熱気。厄介ごとを運んでくる懐かしい匂いと共に事務所に入ってきたのは、分厚いコートを着込んだ壮年の獅子獣人だった。

  一言で表すなら、質量が違う。高さこそレンに譲るものの、横幅――肩幅と胸板の厚みが圧倒的だ。レンが研ぎ澄まされた剃刀だとすれば、目の前の男は城門を守る鉄壁だ。記憶にあるよりも腹部が存在感を増しているような気がするが――いや、これ以上は語るまい。なんなら自分にも跳ね返ってくる。

  チャコールグレーのオーダースーツが、膨れ上がった筋肉に悲鳴を上げている。肩の縫い目が今にも裂けそうなほどに張り詰め、腕を組めばボタンが弾け飛びそうだ。一方で美しく整えられた金色の鬣が、室内の蛍光灯を浴びながらふわりと揺れる。

  ――獅堂誠司。警視庁生活安全部の管理官であり、リョージの警察時代の元上司だった男だ。

  「ようスズ。顔色が悪いぞ? ちゃんと飯食ってるか?」

  「……誠司さんの顔を見たらちょっと胃が痛くなっただけですよ。……何の用ですか、こんな藪から棒に」

  「おいおい、数年ぶりに会った昔の上司にその対応はないんじゃないか?」

  「胸に手を当てて、今までの所業をよーく思い出してください」

  リョージが軽くため息をつく。それには答えず、獅堂は鋭い犬歯を覗かせてニカッと笑うと、手にしていたデパートの紙袋をレンの方へ押し付けた。

  「レンくん、だったな。ほら、差し入れだ。高い肉が入ってるぞ」

  「ん」

  レンは無表情のまま紙袋を覗き込み、そして一瞬だけ口元を緩める。恐らく高級ジャーキーかなにかだろう。ユウの好物はレンの好物。肉食獣同士のコミュニケーションは早くて羨ましい限り、とリョージは表情に出さずにそう思う。

  「で、だ。久しぶりの再会を祝して――」

  獅堂が大仰に丸太のような腕を広げ、一歩リョージの方へと距離を詰めてくる。ハグだ。この人は昔から、口よりも先に体温と質量で距離を詰めてくる。親愛の表現に違いないのだろうが、ノンケであるリョージにとってそれほど嬉しくはない行動だ。身構え、そっと後ずさる。そこへまた一歩、獅堂が踏み込む。再会早々、何故こんな攻防をしなければならないのか。目の前の巨体がゆっくりと、しかし確実に自分との距離を詰めてくる。これは逃げ切れないか、とリョージが観念して目を瞑ろうとした、その瞬間。すっと視界の端から影が走った。

  「リョージ……下がって」

  箱辺柳(はこべ・ゆう)だ。いつの間にか事務所に戻ってきていた彼が、リョージと獅堂の間に滑り込む。先程までは確かに不在だったはずのユウの姿を見て一瞬安堵し、そしていつ扉が開いたのかも気づかなかった自分の焦燥具合を苦々しく思った。

  ユウのシアン色の瞳が、危険を察知した狼のように細められている。頭頂部の耳がピンと立ち上がり、喉の奥から低く、押し殺したような唸り声が漏れた。敵意ではないが、明確な拒絶のサイン。視線は獅堂に向けたまま、背後に回した手がぎゅっとリョージのジャケットを握る。リョージを守ろうとして……いや、これは単純な護衛ではない。本能が全身で警鐘を鳴らしているのだ。目の前の男は、自分とは「格」が違う、と。

  周囲の空気が、獅堂の存在だけで重く、熱く、歪む。喉元を食いちぎられる幻痛に四肢がすくみそうになるのを、ユウは必死の理性で抑え込んでいた。この怪物は危険だ。放置していたら、何が起こるかわからない――。

  ピリ、と静かに空気が張り詰める。しかし、その緊張感を何のためらいもなく壊せるのもまた、獅堂という男の特徴だった。

  「おっと」

  獅堂はピタリと足を止め、面白そうにユウの目を見つめる。喉の奥でゴロゴロと重低音が鳴った。それは威嚇ではなく、猫科の捕食者が、獲物の勇気を褒めるときに発する音だ。

  「優秀な番犬……いや、相棒だな。悪い悪い、別に取って食おうってわけじゃないさ」

  「……それはどうも」

  ユウが低い声で唸るように答える。ぎゅ、とジャケットを掴む手が更に強くなった。その指先の震えが、リョージに伝わる。姫を守らんとする騎士か、それとも親を取られたくない仔犬か。どちらにせよ、この状態では何も先に進まない。リョージはユウの手に自身のそれを重ね合わせる。心配するなというように握ってやれば、途端にユウの大きな尻尾が嬉しそうに左右に揺れた。

  「大丈夫だ、この人は俺が本気で嫌がることはしない。……ギリギリを攻めようとはするけどな」

  「なんだ、人聞きが悪い。私ほど国民のことを思う公僕はいないと思うぞ?」

  獅堂がガハハと大きな声を上げる。そうしてガラリと変わった場の空気に、リョージはどこか懐かしさを覚えた。昔からこういう人だった。この圧倒的な熱量と質量で、あらゆる障害を跳ね除け、自ら道を切り開いていく。誠司さんがいれば万事解決する――そう信じて走り回れたあの頃は、もう戻らない。決別し、自ら手放したあの日々。リョージはその輝きを、今も眩しく思い出す。

  「……とにかく、座って下さい。このままだと落ち着いて話もできないので」

  「おう、邪魔するぞ」

  どかりと獅堂が革張りのソファに腰を下ろす。古いスプリングが限界と言わんばかりに悲鳴を上げた。獅堂が座ったのを確認すると、リョージはレンの方に視線を送る。それを受けたレンは無言で頷くと、足音ひとつ立てずに給湯スペースへと戻っていく。こういうときにすべきことを把握しているのは、やはり頼もしい。一方で兄は未だにジャケットの裾を握りしめ、獅堂を警戒している。

  「ユウ」

  「……うん」

  しぶしぶ、といった風にユウはリョージのジャケットから手を離した。そしてリョージの眼前から退いてそのまま背後に回って仁王立ちになる。

  「失礼します」

  久々の感覚に少しだけ緊張を覚えながら、リョージはローテーブルを挟んで獅堂の反対側に腰を下ろした。真正面から向かい合うと、生物としての格の違いを改めて思い知らされる。自分も元警察官として、それなりに鍛えた体を持っているつもりだ。だが、獅堂の前ではまるで子供のようだ。テーブル越しに伝わってくる体温が、まるでストーブのように熱い。

  「どうぞ」

  タイミングよくレンが二人分のお茶を運んできた。熱いお茶が、振り回されっぱなしのリョージにいつもの日常を取り戻させてくれる。どんな話が飛び出すことか――ちらりと獅堂を見やると、彼は美味そうにレンの出したお茶を啜っている。猫舌にも完璧な温度調整。さすがレンだとリョージは内心で舌を巻く。

  「さて」

  一息ついた獅堂が、濃紺のネクタイを緩めながらリョージを見た。琥珀色の瞳からは、すっかりと笑いの色が消えている。これが現場叩き上げの刑事、かつて憧れた男の目。久々のその変化に、リョージの喉がごくりと鳴り、自然と背筋が伸びた。

  「冗談はここまでだ。……スズ、折り入って頼みがある」

  「やはり仕事ですか。それで、内容は?」

  「ああ。……人探しだ」

  獅堂は短く告げると、茶を一口啜り、どこか遠くを見る目をした。

  「ある男を、見つけ出してほしい」

  「男、ですか。事件関係者で?」

  「いや。……私的な相手だ」

  獅堂は少しだけバツが悪そうに、鼻先を手で擦る。その仕草は、照れ隠しをする少年のようだった。しかしそれでもまっすぐリョージを見据えながら、言葉を続けた。

  「少し前に、とある『会員制の店』で出会った」

  獅堂の声が、わずかに沈む。

  「名前は知らない。顔も知らない。分かっているのは、体に触れた感触と――彼が残した鮮烈な記憶だけだ」

  会員制の店。リョージの脳裏に、政治家や財界人が密談に使うような、重厚な扉の奥にあるサロンが浮かぶ。獅堂のような社会的地位が高い者のみに許された、選ばれた大人の社交場だろう。しかし、そういった場で顔を見ていないというのは妙だ。逆に体の感触だけを覚えているというのも不可解極まりない。リョージが眉間のしわを深くするのを見て、獅堂は困ったように眉を下げた。

  「まあ、なんだ。……その、いわゆるワンナイト、というやつだ」

  むせた。危うく飲みかけていた茶を吹き出し、目の前の獅子にかけてしまうところだった。自分の呼吸をなんとか落ち着け、リョージはレンの方を振り向く。

  「レン! 醤油が切れてたな。今すぐ駅前のスーパーで買ってきてくれ」

  「……在庫、ある」

  

  レンが棚を指差すが、そこで引くリョージではない。

  「いや、あれじゃ駄目だ。もっとこう、高いやつだ。隣町の専門店で買って来てくれ」

  「……どうして?」

  「あー、うん。ちょっと美味い晩飯が食いたくてな。頼む」

  「……ん。分かった」

  なにか言いたげな視線をリョージに向けつつも、その言葉に大人しく従い、レンは獅堂にペコリと一礼すると鞄を持って玄関から出ていく。扉を開ける直前、一度だけこちらを振り返った。その視線には非難も不満もなく、ただ静かな諦念だけが宿っている。リョージは思わず視線を逸らした。方便だったのに、本当に隣町に醤油を買いに行くらしい。どこまでも律儀な性格だ。

  扉が閉まり階下へ去っていく足音を確認し、リョージは大きく息を吐き出した。レンが纏っていた雪原の冷気が消え、事務所は再び獅堂の熱でじわじわと満たされていく。背後のユウも、緊張で肩を固くしているのが気配で分かる。乱れた空気を断ち切るように、リョージは居住まいを正して獅堂に向き直った。

  「騒がしくしてすみません。……で、続きを。『ワンナイト』というからには、ただの社交場ではなさそうですが」

  「スズの配慮は正しいな。確かに、学生の耳に入れるべき話じゃなかった」

  獅堂は苦笑を収めると、黄玉の瞳をすうっと細めた。そこから先程までの陽気な色が消え、捕食者特有の鈍い光が宿る。

  「そこは、社交場なんて上品なものじゃない。……もっと即物的で、本能的な場所だ」

  「……ああ」

  獅堂が不意に放ったその空気に当てられ、リョージはようやく納得する。自分とは無縁の世界だが、獅堂のような男たちが集まり、獣のように性欲を発散させる場所が点在しているという噂は聞いたことがある。

  不意に、鼻腔の奥が痛んだ気がした。――以前、吹雪の夜に迷い込んだペンションでの一件だ。雪に閉ざされた密室、逃れられない熱気。壁一枚隔てた向こう側で、幾重にも重なり、交わり合っていた男たちの気配。獣の脂や汗、そして精液が混ざりあったような、むせ返るほど濃厚な雄の匂いが、記憶の奥底から蘇る。理性を溶かし、ただ本能だけが剥き出しとなる、あの独特の感覚。――なるほど、欲望の「処理場」ということか。

  「誠司さん、一つ確認です。……それはその場限りの遊び相手、ということですよね?」

  「その通りだ」

  「俺はそっち系の不文律的なものには疎いんですが……そういう場で出会った人に対して、詮索をしないのがルールなのでは?」

  「まあ、そうだな」

  「それなら今誠司さんがしようとしていることは、重大なルール違反ですよね?」

  「分かっている」

  リョージの正論に獅堂は頷きを返す。だが、その瞳に宿る熱は、リョージの冷や水を受けても冷めるどころか、反対に油を注がれたようにギラリと輝きを増した。

  「それは、重々承知している。だがな、スズ。――忘れられんのだ」

  獅堂は心臓を握りしめるかのように、ワイシャツの襟元をぐっと鷲掴みにした。

  「あの夜の手順(てつき)。徹底された安全管理。そして……完璧に制御された『間』。ただの火遊びで済ますには、少々強烈すぎたらしい」

  猛獣のような眼光はすっかりと消え失せ、琥珀色の双眸は痛々しいほどに切実な光を宿している。

  「……はあ」

  リョージは呆気にとられる。現職の管理官が。生態系の支配者が。ハッテン場で一夜を共にした顔の見えない相手が忘れられなくて、探偵事務所に駆け込んできたというのか。

  「――笑ってくれ。いい歳こいて、熱病にかかってしまったらしい。仕事中のふとした瞬間に、あの夜の感触が蘇る。……このままだと、日本の治安に影響が出てしまう」

  「大げさすぎますよ」

  リョージは頭を抱えた。こめかみの血管がズキズキと痛む。だが、目の前の男は本気で、一夜の遊び相手を探し出してほしいと望んでいる。脅迫されているわけでも、弱みを握られているわけでもなく。ただ、己の「性癖」と「情動」に従って、恥も外聞もなくリョージの目の前に座っているのだ。

  「それこそ警察の力を使って探せばいいでしょう、誠司さんの権限なら――」

  「馬鹿野郎ッ!!」

  リョージの言葉を遮り獅堂が一喝する。腹の底から響く重低音がビリビリと室内の空気を震わせ、リョージの内臓を直接揺さぶった。生物としてのランク付けを強制的に理解させられる、威圧感。その咆哮を受けて、ユウの尻尾がくるりと丸まり股の間に挟まれた。

  「公権力を私利私欲に使ってどうする! ……これはあくまで、私個人の『恋煩い』だ。だからこそ、信頼できる民間のプロであるスズに頼みに来たんだ」

  はっきりと、大真面目な顔で「恋」と宣言された。リョージはいつの間にか半開きになった口を閉じ、天を仰いでため息をつくことしかできなかった。

  「……条件は?」

  そう言いながら、リョージはソファの背もたれに体重を預けた。断る選択肢など、最初からなかったのかもしれない。目の前の男は、かつてリョージに警察官としての「いろは」を叩き込み、育て上げてくれた恩師だ。未だ返しきれていないその莫大な借りを、こんな個人的な色恋沙汰で請求されることになろうとは。やれやれ、とリョージは内心で肩をすくめる。獅堂の期待を裏切ることは、今の自分にはどうしても選べそうになかった。

  「さすがスズ、話が早い」

  獅堂の口元に笑みが戻る。だがその眼光は依然として鋭いまま、真摯な色を宿していた。

  「まず、私の素性は絶対に漏らすな。相手が誰であろうと、私が警察の人間だとバレたら終わりだ」

  「当たり前です。こちらの信用問題にも関わりますから」

  「次に、相手を見つけたとして……」

  獅堂はそこで一度言葉を切り、わずかに視線を落とした。その彼に似つかわしくない仕草に、リョージの眉がひそめられる。やがて、意を決したのか獅堂は再度口を開いた。

  「無理強いはしない。もし相手が拒絶したら、それで終わりだ。二度と探さない。……これは約束する」

  「……本気ですね」

  「ああ」

  獅堂は真っ直ぐリョージを見つめ返した。その目には、冗談の欠片もない。食物連鎖の頂点に座する獅子が、一夜限りの相手に対してここまで誠実であろうとしているだなんて、一体誰が想像するだろうか。昔から数多の男女に好意をぶつけられていた獅堂誠司という人であれば、そういう相手にだって困らないはずだ。しかし今、自分に全ての本音を曝け出し、ただ愚直とさえ言えるほどに相手を追い求める姿を見て。リョージはわずかに羨望を覚えた。

  「誠司さんの事情は把握しました。……受けましょう」

  「本当か!」

  獅堂の顔がぱっと輝いた。昔から多くの人を惹きつけてやまない、精悍だがどことなく少年のような若々しさも感じられる、そんな笑みだ。――と同時に、背後から大慌てで否定するような声が飛ぶ。

  「リョージ! 無理だよ、こんな厄介ごとの塊みたいな依頼!」

  「ユウ、依頼人の前だぞ」

  「……ごめん。獅堂さんも、勝手に口出ししてすみませんでした」

  ユウはあくまで探偵助手。この場の主役であり交渉役は探偵事務所の主であるリョージだ。静かに叱るリョージの言葉を受けて、ぐっと言葉を飲み込みユウは獅堂に頭を下げる。

  「いや、ユウくんがそう考えるのも仕方がない。その点に関しては申し訳ないと私も思っている」

  気にするな、とでも言うように獅堂はひらひらと掌を振ってみせた。

  「――まあ、実際厄介な案件だというのはユウの言う通りです。とにかく情報が少なすぎる」

  そこでリョージは人差し指を一本立てる。

  「もう少し詳しく相手について聞かせてください。いつ、どこで、どんな状況で出会ったのか。体格、声、仕草。何でもいい。覚えていることを、全部」

  「ああ、そのことなんだが……」

  途端、獅堂が照れたように鼻先を掻く。懐から手帳を出してメモをしようと待ち構えていたリョージは、その動作にはっきりと嫌な予感を覚えた。

  「その、……目隠しをされていてな。顔はもちろん、体格もはっきりとは分からん」

  「――は?」

  リョージの声が裏返る。この短時間で二度も素っ頓狂な声を上げてしまった自分の喉を恨めしく思いながら、リョージはこめかみを押さえた。チラリと視線を巡らせれば、背後のユウは顔をカァッと赤らめて視線を泳がせている。パタパタと忙しなく動く尻尾が、彼の動揺を雄弁に物語っていた。

  「つまり……視覚情報はゼロ、ということですか?」

  「そういうことになる」

  「……誠司さん、それ本気で言ってます?」

  「大真面目だ」

  獅堂はその名の通り堂々と胸を張った。リョージは頭を抱える。これは想像以上に厄介な依頼になりそうだと、頭の中でけたたましく警報が鳴った。

  「せめて声は? 話し方の癖とか、訛りとか」

  「……あった。少し高めの、かすれた声だ。喋り方は……そうだな、注意に慣れている感じだった。事務的で、冷静。必要以上のことは話さない」

  獅堂が目を閉じて、豊かな鬣を手で梳いた。それは考え事をする際の、昔からの彼の癖だ。

  「それと、安全管理が徹底されていた。荷重がかかっている間は金具に触らない、とか。体勢を変えるときには必ず声をかけてくる。……ああ、そうだ。最後に『鍵は解錠しておきます』と言い残して去っていった」

  その言葉に、リョージの頭の片隅で何かが引っかかった。

  荷重。金具。解錠。

  どれも、情事の最中に口にするにはあまりにも無機質な言葉だ。人間相手ではなく、物体や構造物を管理する際に使われる「業務」の言語(コード)。――まるで、現場作業に従事する者の言葉遣いじゃないか。

  「誠司さん、その『会員制の店』というのは、具体的にどこにあるんですか?」

  「……スズ、お前」

  今度は獅堂が眉をひそめる番だった。だが、リョージはそんな相手の様子を見ても構わず続けた。

  「場所の特定ができなければ、相手を探すことも不可能です。最低限の情報は必要ですよ」

  「……分かった」

  獅堂は重々しく頷くと、声を落とした。

  「西新宿の、駅から少し離れた雑居ビルの地下だ。……店の名前は、『Junction(ジャンクション)』」

  「なるほど」

  リョージはペンを走らせながら、さりげなく次の質問を投げかけた。

  「で、その相手は……どんな体格でした? 触れた感触で分かることもあるでしょう?」

  「ああ」

  獅堂の喉が、ごくりと鳴った。その音を聞いて、リョージは思わず手帳から顔を上げる。獅堂の顔が、わずかに赤く染まっている。

  「筋肉質だった。引き締まっていて、無駄な脂肪がない。だが、ガチガチに鍛え上げられているわけでもない。柔軟性を保ちながら、必要な筋肉だけをつけている感じだ。……それと」

  「それと?」

  「毛皮があった。獣人だ」

  獣人。それだけでも絞り込みにはかなり有効な情報だ。

  「種族は?」

  「……すまん、分からん。ただ、体毛の質感は覚えている。短いが柔らかくて、密度が高い。それと――」

  獅堂がそこで言葉を切った。リョージが手帳から顔を上げる。獅堂の視線が、虚空を見つめていた。いや、正確には「見ている」のではない。網膜の裏で反芻しているのだ。あの夜の感触を、匂いを、熱を。その表情には、管理官としての威厳はなく、一人の雄としての――いや、もっと複雑な何かが滲んでいるように、リョージには思えた。

  「匂いが――忘れられないんだ」

  獅堂の声が震える。

  「清潔な匂いだった」

  獅堂の目は、リョージを見ているようで見ていなかった。記憶の中の誰かを探し出そうとしている動き。

  「糊の利いたシャツのような、あるいは消毒液のような――冷たくて、それでいて優しい匂い。……あの場所は、汗と精液と雄の獣臭が淀む空間だ。理性を溶かし、本能だけが剥き出しになる、そういう場所だった。……なのに、彼だけは違った」

  獅堂の大きな手が、まるで意思を持ったかのように鼻先へと伸びる。深く息を吸い込み――そこに相手の匂いがないことを確認すると、諦めたように胸元へ手を下ろした。

  「まるで、異世界から迷い込んできたような。あの淫靡な空気の中で、一人だけ別の次元に立っていて。穢れを知らない――いや、穢れても穢れない。そんな清潔感のある存在だった」

  そこまで聞いて、リョージは静かにペンを動かす手を止めた。獅堂の声のトーンが、明らかに変わっている。これは単なる情報の羅列ではない。記憶を拠り所に、その時の感覚を――触れた体温を、聞いた吐息を、嗅いだ香りを――今ここで再体験している、そんな語り口だ。熱っぽい憧憬と疼き出した本能が混在しているのか、獅堂の吐き出す息が今までよりも少しだけ荒くなっている。

  「誠司さん……」

  琥珀色の瞳がハッとリョージを捉え、そして慌てて視線を逸らす。百獣の王の顔に、少年のような羞恥が浮かんだ。毛皮の下で、わずかに頬が熱を帯びているのがリョージにも分かった。

  「……馬鹿らしいだろう? こんな歳をして、匂いに囚われるなんて」

  自嘲の笑みを浮かべながら、獅堂は冷めた茶を手に取った。

  「だが、本当なんだ。あれ以来、仕事中にふとした瞬間、あの匂いが蘇る。書類にサインをする時、会議で発言する時、部下の報告を聞いている時……その全てが、色を失ってしまったかのようで」

  ごくり、と喉を鳴らして茶を飲み干す。リョージは黙ってその様子を見つめていた。獅堂が何かを――それも、自分でも制御できない何かを抱えていることが、痛いほど伝わってくる。

  「スズ、頼む」

  空になった湯呑みをテーブルに置き、獅堂は深々と――本当に深々と、リョージに向かって頭を下げる。金色の鬣が、重力に従って垂れ下がった。百獣の王が、元部下に頭を下げる。警察時代、どんな困難な事件でも、どんな凶悪な犯人を前にしても、決して背を曲げなかった男が。あの不撓不屈の獅子が、今、頭を垂れている。その姿に、リョージの胸が締め付けられた。かつて憧れた背中が、今は助けを求めている。背後でユウも、言葉を失って固まっているのが気配で分かった。

  「もう一度、あの匂いを確かめたいんだ。それが誰のものなのか。なぜあんなにも、私の中に焼き付いて離れないのか。……その答えを、知りたい」

  「……善処します」

  リョージは頷いた。そして、手帳に視線を落とす。

  西新宿の地下。ハッテン場。獣人。筋肉質。清潔な匂い。安全管理に長けた喋り方。

  走り書きされた断片的な情報が、まるでジグソーパズルのピースのようにページ上に散らばっている。――これだけの情報で、一体何をどうやって探せというのか。リョージは内心でため息をつき、書き殴ったメモの走り書きをそっと指先でなぞった。インクの染みが、奇妙な二面性を浮き彫りにしている。欲望と潔癖。熱狂と冷静。相反する要素を持つその「顔のない男」は、リョージの想像の中で不意に輪郭を結ぼうとして、そのままふわりと霧散した。

  普段なら秒で断る案件だ。情報は欠損し、リスクは致死的。頭の中で冷静な声が、そう囁いている。だが一方で、この無理難題に心が踊っている自分もいる。探偵になって何年も経つが、こんなに不可思議で、それでいて胸を熱くさせる依頼は初めてかもしれない。

  それに、あの獅堂が本気だ。冗談でも遊びでもなく、心の底から求めている。かつて自分を導いてくれた男の、その真摯な願いに応えない理由が――リョージには見つからなかった。

  「……さて、と」

  パタン、と小気味よい音を立てて手帳が閉じられる。まずは、散らばったピースを繋ぎ合わせるところから始めるとしようか。

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