黒猫は、聖夜に凍えて愛に溶ける

  [chapter:第一章]

  愛されているという錯覚を得るのに必要なのは、薄暗い照明と、コンドームの滑りだけだ。

  安っぽいベッドのスプリングが、一定のリズムでみしみし鳴っていた。頭の上でシミだらけの天井が、規則正しく揺れている。視界の端では、安っぽいベッドのスプリングに合わせて、サイドテーブルの水飲みグラスが微かに震えていた。

  大きく広げられた僕の両足の間に、男の体が割り込んでいる。

  覆いかぶさってくるのは、ブルドッグ獣人のがっしりとした重量感だ。脂汗じみた重みに押し潰されそうになりながら、腰を打ちつけられるたびに、シーツの下から薄いマットレスの感触が背中に刺さる。痛い、というほどじゃない。むしろ、このくらいの強さの方が声を出しやすい。

  「っ、そこ……じょうず……っ」

  喉の奥から勝手に漏れたみたいな声を装って、タイミングを合わせて甘く震わせる。すぐ目の前で上下するおじさんの顔から、荒い息がかかって、汗と微かな加齢臭と、シトラス系制汗剤の匂いが、まとめて鼻に押し込まれてきた。

  「カオルくん、気持ちいい? なあ、気持ちいいだろ?」

  枕に沈み込んでいる頬のあたりを、分厚い手が乱暴になでる。押し付けられた僕の黒い尻尾が、逃げ場を求めてシーツの上でもがくように跳ねた。毛並みの流れなんてお構いなしだけど、そこは今は気にしない。僕は逃げ場のない体勢のまま、彼の肩にしがみつくふりをした。

  「うん……っ、すごい……。こんなの、初めて、かも……」

  言葉の「初めて」を強調すると、ブルドッグ獣人のおじさんの腰の動きがわずかに早くなる。分かりやすくて、助かる。背中越しに伝わる体温は高いのに、手のひらは妙に冷えていて、掴まれた腰骨のあたりだけが、ひやっとしていた。

  指先でしわくちゃなシーツを握りしめながら、頭のどこかで数を数える。五十、五十一、五十二——。呼吸を乱しながら相槌みたいな声を挟んでいれば、そのうち向こうが勝手にゴールする。

  最後のひと突きが深く入ったふりをして、背中を大きく反らせた。連動するように、尻尾の毛を逆立てて、先端をピクリと震わせる。自分でもよくできた、と内心で拍手を送ってやりたくなるくらいの、きれいな弧だったと思う。

  耳元で、短く、潰れた声が弾ける。ベッドが一度だけ大きくきしんで、そのあと、部屋の中にやっと静けさが戻ってきた。

  重たかった体がどさりと横に退いて、急に腰から力が抜ける。さっきまで熱が集まっていたところに、ひやりとした空気が差し込んできて、背筋がぞくっと震えた。

  汗と体液で湿った尻尾を、自分の太ももに引き寄せて手ぐしで整える。タオルなんて用意されていないから、シーツの端でそっと指先を拭った。

  「……ふぅ。カオルくん、すごかったなあ。久しぶりに燃えたよ」

  横に転がったおじさんが、満足そうに笑いながら腕を伸ばしてくる。引き寄せられる前に、少し早めに自分から胸元に潜り込む。そうしておけば、「抱き寄せた」っていう手柄を向こうにあげられる。

  「ほんと? よかったぁ……。変じゃなかった? ちゃんと、気持ちよくできてた……?」

  わざと不安そうに聞いてみると、太い腕にぎゅっと力がこもった。押しつけられた胸毛が頬にちくちく当たる。さっきのタバコの匂いに、安い柔軟剤の甘さが混じっていた。

  「変なわけないだろ。最高だったよ。こんなの久しぶりだ」

  耳の後ろをぶ厚い指がなでる。

  「……また、会ってくれるよな?」

  撫で方は少し雑だけど、「また」という言葉に、ちゃんと期待の重さが乗っているのが分かる。

  胸の奥に、何かが沈んでいく感覚が一瞬だけあったけれど、そこには触らないでおく。

  「……僕でいいの?」

  顔を上げて、おじさんの目を覗き込む。まぶたを少しだけ伏せてみせると、相手の喉がごくりと鳴った。

  「うん、嬉しい」

  そう言って笑うと、おじさんの顔がぱっと明るくなる。頭をぽんぽんと叩かれて、「可愛いなあ」なんて、よくあるセリフが降ってきた。

  しばらくそうして、くっついたまま他愛もない話をする。どこに住んでるのかとか、仕事がどうとか。内容は耳を通り過ぎていって、頭にはあまり残らない。

  ベッドの端に座って服を着るとき、足の裏にカーペットのざらつきが伝わってくる。シャツのボタンを留める指先が、少しだけ震えていたのは、きっと冷房のせいだ。

  「じゃあ、また連絡するからな」

  ロビーまで送ると言い張るおじさんをうまくかわして、エレベーターの中で一人になる。鏡張りの壁に、乱れた毛並みの黒猫獣人が映っていた。口元だけが、まだ甘えた笑顔の形を残している。

  鏡の中の自分と目が合う。

  知らない奴だ、と思った。

  さっきまで「気持ちいい」と鳴いていたこの口は、僕の意思とは無関係に動くただの肉のパーツだ。瞳孔が開いた目は、どこかガラス玉みたいに光を反射しているだけで、奥には誰もいない。

  まるで精巧に作られたラブドールが、魂だけ抜き取られてそこに立っているみたいだ。

  「……はは、キモっ」

  乾いた笑い声が狭い箱の中に反響する。自分の声なのに、誰か知らない男の笑い声を聞いているみたいで、背筋が、ゾクリとした。

  一階で降りてラブホの自動ドアをくぐる。夜風が頬をひっぱたくように吹きつけてきた。

  思わず身震いして、コートの襟をかき合わせる。まだ肌の表面には、さっきの部屋の生ぬるい湿度と、知らない男の安っぽい柔軟剤の匂いがへばりついていた。

  駅へ向かう大通りは、十二月の喧騒に浮かれている。街路樹に巻きつけられたイルミネーションが、頼んでもいないのにチカチカと瞬いて、アスファルトを白く照らしていた。

  ポケットの中で、スマホのバイブが短く震える。出会い系アプリの通知。さっきのおじさんだ。

  『今日はありがとう。カオルくん、本当に可愛かったよ。次はいつ会えるかな? 来週の水曜とかどう?』

  画面に浮かぶ、デフォルメされた犬獣人のスタンプ。ハートマークが飛び交っている。

  歩きながら、僕は鼻で笑った。白い息が吐き出されて、すぐに夜の闇に溶けて消える。

  「……可愛かった、ねぇ」

  親指が画面の上を滑る。メッセージを遡りながら、脳内で勝手に採点表が開かれた。

  まず、部屋の選び方。

  あのホテル、駅近だけど防音ゼロ。隣の部屋のシャワー音が丸聞こえだった。ムード作り以前の問題だ。照明も明るすぎる。僕の表情を見たがっていたけれど、あれじゃ毛並みの乱れまで見えてしまう。デリカシーという概念が欠落している。

  マイナス二十点。

  次に、会話。

  事あるごとに「僕の若い頃は」とマウントを取りたがるくせに、いざ行為が始まると「すごい」「いいよ」しか言えなくなる語彙力の貧困さ。自分の武勇伝を語る暇があったら、もう少しマシな愛撫の一つでも覚えればいいのに。

  マイナス三十点。

  そして何より、あの匂いだ。

  耳元で囁かれたとき、微かに漂った加齢臭と、それを誤魔化そうとして失敗しているシトラス系の制汗剤。混ざり合って、なんとも言えない不協和音を奏でていた。あれを嗅がされながら「好き」なんて言わなきゃいけない僕の身にもなってほしい。あそこで吐き気を催さなかった僕の演技力には、アカデミー賞をあげるべきだ。

  マイナス五十点。

  合計、ゼロ。いや、むしろマイナスだ。

  信号待ちで立ち止まる。向かい側の巨大ビジョンでは、どこかのアイドルがクリスマスソングを歌っていた。周りのカップルたちは、寒さなんて感じていないみたいに、互いのポケットに手を突っ込んで笑い合っている。

  幸せそうで結構なことだ。どうせあの男も、この女も、家に帰れば退屈な日常が待っているだけなのに。今は魔法にかかったふりをしているだけ。僕があの狭いベッドの上で演技していたのと、何が違うっていうんだ。

  ふと、スマホの画面に視線を落とす。

  さっきのスタンプの下に、追撃のメッセージが届いていた。

  『返事待ってるね! おやすみ』

  待て待て、誰が「おやすみ」なんて許したんだ。僕の夜はまだ終わっていないし、あんたの夜に付き合う義理もない。

  あーあ、つまんない。

  全部、つまんない。

  僕は立ち止まったまま、画面右上のメニューを開く。

  「ブロック」の赤い文字が、イルミネーションよりもずっと魅力的に輝いて見えた。

  「ばいば〜い」

  指先一つで、その男の存在を僕の世界から抹消する。

  画面から名前が消えた瞬間、胸の奥で小さく何かがつかえたような気がしたけれど、すぐに冷たい空気を吸い込んで誤魔化した。

  信号が青に変わる。

  誰かが捨てた空き缶を爪先で軽く蹴飛ばして、僕はまた歩き出した。

  賑やかな街の音に紛れて、カツ、カツと響く自分の足音が、やけに乾いて聞こえた。

  ◇

  オフィスの窓から差し込む冬の日差しは、暖かさよりも埃っぽさを強調しているだけだった。

  僕が勤めているのは、雑居ビルの三階にある小さなデザイン事務所だ。主な仕事は、スーパーのチラシや地方自治体のパンフレット作成。クリエイティブな響きとは裏腹に、実際はクライアントの無茶振りを形にするだけの下請け工場みたいなものだ。

  けれど今、僕のモニターに映っているのは違う。

  来春、大手広告代理店が主催するコンペのプレゼン資料。もしこれが通れば、僕の名前で仕事ができるかもしれない。週末と睡眠時間を削って、何十回も修正を重ねた自信作だった。

  「……[[rb:星河 > ほしかわ]]くんさぁ」

  背後から、湿った鼻息と共に声がかかる。

  振り返ると、制作部長の[[rb:猪狩 > いかり]]さんが、充血した目で僕の画面を睨んでいた。猪獣人の彼は、いつも鼻息が荒く、近くに来るだけで加湿器がいらないくらい湿度が上がる。

  「はい、猪狩さん。昨日のラフ、いかがでしたか?」

  僕は椅子を回し、口角を完璧な角度に上げて微笑んだ。

  猪狩さんは太い指で、液晶画面を直接バンバンと叩く。指紋がつくからやめてほしい。

  「全然ダメ。まずここ、キャッチコピーのフォントサイズ。遠慮しすぎ。もっと主張させないと。ハイ、マイナス五点」

  指が画面を滑る。

  「次、この写真のトリミング。空間を空けすぎてて寂しい。もっとギチギチに詰め込まないと客はお得感を感じないんだよ。マイナス十点」

  さらに指が下の余白を突く。

  「あと、この配色。オシャレぶってるけど、これじゃあお年寄りには読みにくい。コントラストが弱い。マイナス五点。……トータルで、マイナス二十点ってとこかな。やり直し!」

  矢継ぎ早に降ってくる減点の嵐。

  余白の美学も、視線誘導のための配置も、この男にかかればすべて手抜きやミスとして減点対象になる。

  (……はい、マイナス百点。あんたの言う「お得感」って、どっかの店の圧縮陳列のことか? ここは高級マンションの広告だぞ、ボケ)

  心の中で中指を立てながら、僕は殊勝に頷いてみせる。

  「なるほど……ご指摘ごもっともです。ターゲット層への配慮が足りませんでした。すぐに修正します」

  「分かればいいんだよ、分かれば」

  猪狩さんは満足げに鼻を鳴らすと、ドスドスと通路を歩き出した。

  僕は息を吐き出そうとしたが、すぐにそれを飲み込む。猪狩さんの足が、数メートル先の新人のデスクで止まったからだ。

  「おい、佐藤!」

  「は、はいっ!」

  入社したばかりのリス獣人の女の子が、ビクッと肩を跳ねさせて立ち上がった。

  「なんだこのデスクの汚さは。クリエイターは整理整頓が命だぞ。マイナス十点」

  「す、すみません……!」

  「あと、その挨拶の声。小さい。やる気あるのか? 社会人としての自覚が足りない。マイナス十五点!」

  怒鳴り声がフロアに響く。佐藤さんが涙目で「申し訳ありません」と頭を下げるのを、猪狩さんはふんぞり返って見下ろしている。

  ああ、また始まった。あの人は、他人から点数を引くことでしか、自分の点数を保てないのだ。

  「災難だったね、星河くん」

  隣の席から、キャスター付きの椅子が滑り込んできた。

  同僚のミナミさんだ。彼女はウサギ獣人で、いつも長い耳をパタパタさせながら社内のゴシップを集めている。

  「あの猪親父、また始まったよ。佐藤ちゃん可哀想に。自分だって昨日、クライアントとの会食でやらかしたくせにさー」

  ミナミさんは小声で毒づきながら、僕のデスクに飴玉を置いた。

  彼女のこういうストレートな悪口は、聞いていて少しだけスカッとする。でも、ここで一緒になって悪口を言えば、いつか回り回って自分の首を絞めることになる。この狭い業界、壁に耳あり障子に目ありだ。

  「あはは、まあ、猪狩さんも指導に熱が入ってるんですよ。僕らも期待されてるってことで」

  僕は飴玉を手に取り、困ったように眉を下げてみせる。

  否定も肯定もしない、無害で優秀な後輩の顔。

  「えー、星河くんってば大人~。私なら絶対キレてるよ。あんなの、ただのパワハラ減点マシーンじゃん」

  「そんなことないですよ。……あ、コーヒー、淹れてこようかな、ミナミさんもいかがですか?」

  僕は自然な流れで会話を切り上げ、席を立った。

  ミナミさんは「いいの? ありがとー!」と嬉しそうに耳を揺らしている。

  給湯室へ向かいながら、僕は表情筋の力を抜いた。

  ミナミさん。愛想はいいけど、声のボリューム調整ができていない。社内で上司の悪口を言う際のリスク管理も甘い。マイナス五点。

  (……あ)

  無意識に同僚を採点している自分に気づいて、足が止まった。目の前にある業務用のコーヒーメーカー。その磨き上げられたステンレスの曲面に、歪んだ自分の顔が映り込んでいる。

  そこに映る黒猫は、口の端を卑屈に歪めて、どこか薄ら笑いを浮かべているように見えた。その表情が、さっきまで僕を罵倒していた猪獣人の、あの下卑た嘲笑と重なる。

  (……うわ)

  胃の奥から、酸っぱいものが込み上げてくる。やっていることはあの暴君と同じだ。ステンレスの中の自分が、ますます醜く歪んで見えた。

  僕は逃げるように視線を逸らし、抽出ボタンを乱暴に押した。コポコポという音が、静かな給湯室に響く。

  出来上がったコーヒーを、砂糖も入れずに流し込む。焦げ付いたような苦味が舌を刺したが、口の中に残る嫌な後味を消すには、これくらいがちょうどよかった。

  マイナス五点、マイナス十点、マイナス十五点。耳の奥で、クソボケ猪狩の声がリフレインする。

  誰もいない給湯室で、僕は深くため息をついた。

  ◇

  会社を出る頃には、二十一時を過ぎていた。

  エレベーターホールで一人、下降ボタンを連打する。何度押しても来るスピードは変わらないと分かっているのに、指が止まらない。

  (クソ猪狩。あの修正、明日の朝でいいって言ったくせに。帰る直前に「やっぱり今夜中に送っといて」とか、脳みそ腐ってんのか)

  胃のあたりが焼けるように熱い。これは空腹じゃない。純度百パーセントのイライラだ。

  一階に着き、重たいガラス扉を押し開ける。冷え切った冬の夜気が、熱を持った頬を撫でていく。

  街の大通りは、まだ眠っていなかった。

  飲み会帰りだろうか。赤ら顔のサラリーマンたちが、肩を組んで大声で笑っている。タクシーを待つカップルが、寒さを口実に身を寄せ合っている。

  どいつもこいつも、幸せそうだ。

  彼らには帰る場所がある。彼らを待っている人がいる。あるいは、隣にいる誰かが、彼らを肯定してくれている。

  ふと、視界が歪むような感覚があった。

  世界中で、僕だけが輪郭線がぼやけているような、誰からも認識されていないような疎外感。

  ――ムラムラする。

  下腹部の奥で、どす黒い熱が疼いた。

  それは性欲というより、もっと切実な、痛み止めを求める発作に近かった。誰かに触られたい。誰かに乱暴に扱われて、頭の中のボケ猪狩の声を、もっと大きな快感と痛みで上書きして消し去りたい。

  歩きながら、僕は慣れた手つきでスマホを取り出した。

  裏通りのような暗い配色のアングラ掲示板。ブックマークの一番上。

  『今から会える人いませんか? 二十代黒猫獣人。写メ交換×、スリム体型のウケです。mrmrしてるので激しいの希望です。◯◯線△△駅付近。足場ないです。ラブホでよかったら』

  投稿ボタンを押すまでのタイムラグは、三秒もない。

  テンプレート通りの文章。まるでファーストフードの注文するような手軽さだ。

  最寄り駅の改札までは、歩いて約七分。

  ルールは決めている。

  ホームに着いて電車に乗るまでに、誰かから連絡が来れば「当たり」。来なければ、大人しく家に帰って一人でする。

  この七分間のくじ引き。

  自分が「市場」でどれだけの価値があるのか試される、ヒリヒリするような時間。この瞬間だけが、僕の灰色の一日を鮮やかに彩ってくれる。

  一分経過。

  スマホが震えた。

  『はじめまして。近くにいます。写真交換できますか?』

  二分経過。

  連続して通知が来る。

  『激しいの得意です。車で迎えに行けます』

  『黒猫の子、好きです。よかったらこれから飲みつつどうですか?』

  画面をスクロールする指先が、微かに震える。

  ほら見ろ。

  僕は求められている。

  クソボケ猪狩は僕の仕事にいつもマイナス点をつける。でもこの世界の男たちは、僕という素材に群がってくる。

  僕は無価値じゃない。ここに、僕を欲しがっている人間がこんなにいる。

  通知の数は、駅に着く頃には五件を超えていた。

  今日は入れ食いだ。大当たりの日だ。

  「……どれにしようかな」

  改札の前で立ち止まり、品定めをする。

  文面の雰囲気、添付されたボケた写真、返信の速さ。

  まるでガチャを引くときのような、射幸心と期待感が胸を高鳴らせる。

  (こいつは文章がキモい。こいつは年寄りすぎ。……お、こいつは悪くないかも)

  一枚のプロフィール写真に目が止まる。

  少し強面なドーベルマン。体格も良さそうだ。文面も短くて、慣れている感じがする。

  こういうタイプは、乱暴だけど後腐れがないことが多い。今の僕が求めている「鎮痛剤」にはぴったりだ。

  『駅前にいます。服装教えてください』

  送信。

  すぐに返信がくる。

  心臓が早鐘を打つ。

  どんな声だろう。どんな手で触ってくるんだろう。どんな風に、僕をめちゃくちゃにしてくれるんだろう。

  その痛みだけが、僕が生きていいという唯一の証明書だ。

  僕は定期券をポケットにしまい込み、改札とは逆方向の、待ち合わせ場所であるロータリーへと足を向けた。

  冷たい風の中で、僕の体だけが、期待と軽蔑の入り混じった熱に浮かされていた。

  ◇

  ロータリーの喫煙所近くに、その男は立っていた。

  スーツ姿のドーベルマン獣人。スマホを見ながら、苛立ったように貧乏ゆすりをしている。

  近づきながら、瞬時に視線で査定を開始する。

  顔は、まあ悪くない。マズルが長くて凛々しい。そこは写真通りだ。

  だが、視線を少し下げた瞬間、僕は心の中で盛大に舌打ちをした。

  ――腹、出すぎだろ。

  送られてきた写真は、もっと引き締まった逆三角形だったはずだ。それがどうだ、目の前にいるのは、ベルトの上に見事な浮き輪肉が乗っかった、だらしない中年体型じゃないか。

  典型的な過去の栄光の瞬間を使い回すタイプだ。

  (うわー、萎える。自己管理できないなら、せめて今のありのままを載せろよ。見栄張ってんじゃねーよ)

  マイナス三十点。即決だ。

  これなら即キャンセルして帰ってもいいレベルだが、僕は小さく息を吐いて思い直す。

  (まあ、この前来たハスキーに比べればマシか。あいつなんて『二十代・細マッチョ』って書いてたくせに、来たのはどう見ても四十代のメタボ親父だったしな。それに比べれば、こいつの腹の肉なんて可愛いもんだ)

  この界隈じゃ、プロフィール詐欺なんて挨拶代わりだ。いちいち目くじらを立てていたら、くじ引きなんて楽しめない。

  今日の目的は「発散」だ。完璧な王子様なんて求めていない。そこそこの顔で、そこそこ感じさせてくれれば、腹の肉くらい目をつぶってやる。

  距離が縮まると、強烈なヤニの匂いが漂ってきた。

  キスした時に灰皿の味がするのは確定だ。マイナス二十点追加。

  「……あの、すいません、待ち合わせの方ですか?」

  声をかける瞬間、僕はスイッチを切り替える。

  心の中の毒舌をシャットダウンし、少し上目遣いで、不安そうに。肩をすくめて寒そうなふりをする。

  男が顔を上げ、僕を見た。

  その目が、驚きで見開かれるのが分かった。

  「えっ……あ、そうだけど。君が?」

  「はい。黒猫です」

  男の視線が、僕の顔から足先までをねっとりと舐め回す。

  掲示板の「激しいの希望」という淫らな文面と、目の前にいる小綺麗な若者の黒猫獣人のギャップに、脳の処理が追いついていない顔だ。

  いい反応だ。こういう男は、「見た目は清楚なのに中身は淫乱」というギャップに一番弱い。

  「へぇ……なんか、想像してたのと違うな。すごく、可愛いじゃん」

  「そ、そうですか? ありがとうございます……」

  照れたふりをして視線を逸らす。

  「可愛い」しか言えないのかよ、ボキャ貧め。

  「君さ、いつもこういう書き込みしてるの? こんな可愛いのに、相手いないわけないでしょ」

  はい出た〜。テンプレ質問その一。

  「君みたいな子がなぜ?」という好奇心と、「僕は特別な獲物を引いた」という優越感を確認したいだけの質問。

  「いえ、ほとんど、しない、です……。その、最近ちょっと、色々あって。寂しくて……」

  言葉を濁し、寂しげな笑みを浮かべてみせる。これが正解だ。「ワケありで傷ついている子」を演じれば、男は勝手に「僕が慰めてやる」というヒーロー気取りのスイッチを入れるからだ。

  「そっか。まあ、色々あるよな。今日は僕が忘れさせてあげるよ」

  案の定、男はニヤリと笑って、馴れ馴れしく僕の腰に手を回してきた。

  分厚い手のひらから伝わる熱と、鼻をつくタバコの匂い。

  指先が、僕の腰のラインをいやらしく確かめるように這う。

  ゾワッとした不快感が背筋を走るが、それを押し殺して、少しだけ身を委ねてみせる。

  「……はい、お願いします」

  僕が小さく頷くと、男の指が腰肉を強く揉んだ。

  路上でこういうことをするデリカシーのなさ。マイナス五点。

  でも、その粗雑さが、今の僕にはちょうどいい。

  「ホテル、すぐ近くだから。行こうか」

  「はい……」

  男にエスコートされるふりをして、僕は歩き出す。

  本当は、この辺りのホテルの場所も、料金体系も、部屋の設備も、だいたい頭に入っている。この男よりもずっと詳しい。

  でも、きちんと連れ込まれるウブな獲物でいておこう。

  あんたがその気になって、その浮き輪肉を揺らしながら僕をめちゃくちゃにしてくれるなら、そのくらいの演技代は安いもんだ。

  ネオンが滲む路地裏へ。

  僕は男の影に隠れるようにして、冷たい夜の底へと沈んでいった。

  ◇

  部屋に入った途端、男は乱暴に僕をベッドへ押し倒した。

  前戯らしい前戯もない。いきなりズボンに手をかけられ、下着ごと引きずり下ろされる。

  野獣のような息遣い。でも、それは情熱的というより、単に自分の欲望を処理したいだけの獣の荒い息だ。

  「っ、んぅ……激しすぎ、ます……!」

  わざとらしく声を張り上げて、シーツを握りしめる。

  男の重みがのしかかってくる。浮き輪肉のような腹が、僕の腹にむにゅっと押し付けられる感触。不快だ。

  男が一方的に腰を打ち付け始める。

  リズム感ゼロ。ただ力任せに突っ込めばいいと思っている。

  (痛いっつーの! 「激しい」と「自分勝手」を履き違えてんじゃねーよ。AV見過ぎの童貞かよ)

  頭がヘッドボードにガンガン当たる。脳震盪を起こしそうだ。

  クッションくらい挟めないのか。気遣いゼロ。マイナス三十点。

  「う、あ……すごい、大きい……! 壊れちゃう……っ」

  口から出るのは、テンプレ通りの甘い鳴き声。

  男はそれを聞いて、自分が絶倫だと勘違いしてさらに激しく動く。

  (ああもう、下手くそ。そこじゃないって。もっと奥だってば)

  内心で舌打ちしながらも、僕は腰をくねらせて、男が気持ちよさそうな位置に合わせてやる。

  奉仕だ。これは慈善事業だ。

  そうやって自分を納得させながら、男の首に腕を回す。

  でも。

  痛みと不快感の向こう側で、体が熱く痺れていくのも事実だった。

  こんな最低な男でも、こんな下手くそなセックスでも、僕を求めて、僕の中に深く入ってきている。

  そのことが、僕を満たしてくれる。

  「黒猫くん……いいよ、最高だよ……っ!」

  男が果てる瞬間、僕は背中に爪を立てて、「大好き」と言ってやった。

  事後。

  男は満足げにタバコを吹かしている。部屋中に煙が充満して、僕は咳き込みそうになるのをこらえる。

  「いやー、よかったよ。君、ウケの才能あるね」

  それを言うならアンタはタチの才能ないよ。

  心の中で中指を立てながら、僕はシャワーを浴びて服を着た。

  帰り際、男が財布から一万円札を抜いて差し出してきた。

  「これ、タクシー代。取っときな」

  僕は一瞬、その紙切れを見つめた。

  受け取れば、今日の奉仕代になる。演技代になる。

  でも。

  「……いえ、その、お気持ちは嬉しんですけど」

  僕は首を横に振って、その手をやんわりと押し返した。

  「でも受け取ったら……僕がお金目的みたいじゃないですか。僕、そういうつもりで、来たわけじゃないです」

  男は「えっ、あ、そう?」と驚いた顔をした後、「ごめんごめん、君みたいな良い子に失礼だったな」とバツが悪そうに財布をしまった。

  馬鹿だな、と内心で思う。

  お金を受け取ったら、僕の価値がたった一万円で確定しちゃうじゃないか。それに、お金を受け取ってから連絡を絶つのは、さすがに寝覚めが悪い。

  これは僕のプライドだ。あんたなんかに値段をつけられたくないっていう、最後の意地。

  「それじゃ、今日はありがとうございました。楽しかったです」

  完璧な笑顔を残して、僕はホテルのドアを開けた。

  駅へ向かうアスファルトの上を、爪先で蹴るようにして歩く。

  コートのポケットに突っ込んだ指先は冷たいのに、体の芯のほうだけが、まだ鈍く火照っていた。さっきの男の体温というよりは、微熱が出たときのような、嫌な熱さだ。

  ポケットの中で、スマホが短く震えた。

  画面を覗くと、さっきの男からのメール通知が光っている。

  『今日はありがとう! 本当にいい子だね。また会いたいな』

  親指が画面の上で一瞬だけ迷い、それから横になぞるようにスワイプした。「削除」のアイコンをタップすると、メールは音もなく消滅した。

  画面が暗くなると、そこには自分の顔がぼんやりと映り込んでいた。口角は下がっているのに、目は妙にギラギラと冴えている。

  改札を抜け、電車に乗り込む。

  平日の深夜、車内はまばらだ。窓際の硬いシートに腰を下ろすと、どっと重力がのしかかってきたような気がした。

  一定のリズムで揺れる車内で、僕は無意識に自分の二の腕を抱いていた。

  さっきまで、あの男の腕が回されていた場所だ。

  指先で、コートの上からその感触をなぞる。

  確かに、誰かに触れられた。誰かにきつく抱きしめられた。その圧迫感はまだ皮膚に残っているはずなのに、自分の腕をいくらさすっても、何かが抜け落ちていく感覚が止まらない。

  喉が渇いた。

  唾を飲み込んでも、ざらついた渇きが喉の奥に張り付いて取れない。

  海水を飲んだときみたいだ、と思う。

  欲しくてたまらなくて口にしたのに、飲めば飲むほど喉がひりついて、もっと水が欲しくなる。

  ふと、窓ガラスに額を押し付けてみる。

  ひやりとした冷たさが、熱を持った肌に染み込んでいく。

  流れていく夜の街の灯りが、光の線になって後ろへ飛び去っていく。あの光の一つ一つに、誰かの生活があって、誰かの帰りを待つ人がいる。

  僕は窓に映る自分に向かって、心の中で呟いた。

  (……今日の演技、九十点。あの男の扱いは完璧だった)

  (我慢強さ、百点。あんな下手くそに最後まで付き合ってやったんだから)

  (総合評価、九十五点。……うん、上出来だろ)

  自分に高得点をつけてやる。

  そうすると、肺の中に溜まっていた重たい空気が、少しだけ軽くなる気がした。

  抱いていた二の腕を、爪が食い込むくらい強く握りしめる。

  痛い。

  その痛みが、今日、僕が確かにここに存在していたという、唯一の手触りだった。

  [newpage]

  [chapter:第二章]

  回転寿司の皿が回るように、僕の夜もクルクルと回っていく。

  乾いたネタだろうが何だろうが、とりあえず食っておけ精神だ。

  月曜日。

  会議室でアホ猪狩のワンマンショーが開演した。

  「覇気がないんだよ、覇気が!」

  バン、と机を叩く音。今日もいい音だ。ドラマーにでもなればいいのに。

  僕は神妙な顔で頷きながら、心の中で「覇気って何キロいくらで売ってますか?」と問いかけてみる。

  ……ガツンとくる衝撃?

  ああ、そうだな。僕も今、頭を空っぽにして何かに激突したい気分だ。できれば交通事故以外で。

  その夜、僕はジムトレーナーだというゴツい虎獣人のベッドで、新体操選手もびっくりの角度で腰を反らせていた。

  汗とシーブリーズの匂いがすごい。青春かよ。

  「うおおお! いくぞ、いくぞオラァッ!」

  背後で野獣の雄叫び。ザラついた舌がうなじをジョリジョリと削る。痛い。大根おろし作れそう。

  「あっ、激しいの……好きぃ! 壊れちゃう……っ!」

  僕はシーツを握りしめ、完璧なタイミングで可愛い悲鳴をあげる。

  激しいピストンに揺られながら、視線だけは冷静に、天井のクロスの模様で迷路遊びをしていた。

  (声量がデカい。近所迷惑で通報されるわ。マイナス二十点。リズムが単調すぎる。メトロノームか? マイナス十点。……まあいい、あと三十秒でイカせてやるから感謝しろよ)

  事後。

  プロテインの成分表を得意げに語る男に、「へぇ~、すごいですね!」とキラキラした目を向ける。我ながら日本アカデミー賞モノの演技だ。

  駅の改札で手を振って別れた瞬間、ポケットからスマホを取り出す。

  流れるような指さばきで、スワイプ、タップ。

  「はい、ブロック~」

  筋肉と一緒に、デリカシーも鍛えてから出直してこい。

  週の真ん中、水曜日。

  静まり返ったオフィスに、無機質な通知音が響く。

  『Re: Re: Re: 至急修正願い』

  文字の羅列が網膜を刺す。『論理的じゃない』『説得力がない』『マイナス三十点』。

  握りしめたマウスから、ミシミシとプラスチックが軋む音がした。

  論理? 説得力?

  ああ、もういい。誰でもいいから、僕を言葉で黙らせてくれ。思考回路が焼き切れるくらい、理屈で埋め尽くしてくれ。

  深夜、僕はITベンチャー社長だというキツネ獣人の視線に晒されていた。

  間接照明の薄暗い部屋。眼鏡の奥の瞳が、僕の体を品定めするように舐め回す。

  「君の反応、すごく扇情的だね……。僕のソリューションで、ニーズを満たせているかな?」

  冷たい指先が、敏感な場所を執拗にいじる。爪が皮膚に食い込む感覚。

  「んっ……はい、すごいです……社長さんの指、魔法みたい……」

  潤んだ瞳で見つめ返し、熱っぽい吐息を吹きかけてやる。

  キツネの口元が満足げに歪むのが見えた。安いプライドだ。

  (ソリューションとか寝言は会議室で言え。マイナス十点。爪が伸びてる、デリケートゾーンに触れる資格なし。マイナス三十点。前戯が長すぎて体が冷えてきた。マイナス二十点。……さっさと入れて、さっさと僕に溺れろよ)

  事後。

  「君をリクルートしたいな」という冗談を、艶やかな流し目でかわしてタクシーに乗り込む。

  テールランプの赤い光が遠ざかるのを確認してから、スマホを取り出す。

  「はい、ブロック~」

  その魔法の指で、自分の鼻の穴でもほじってろ。

  そして、金曜日。

  十九時。誰もいないオフィス。空調の音だけがブーンと響いている。

  机の上には、脂が白く固まったコンビニ弁当。

  一口食べた箸が止まる。

  味がしない。

  プラスチックの容器に詰められた冷たい餌。今の僕とお似合いだ。

  無理やりかきこんで空になった弁当の容器をゴミ箱に放り込んだ。ドン、と鈍い音がして、胸の奥が少しだけスッとする。

  高い肉が食いたいわけじゃない。ただ、僕には価値があるって、誰かの体温で証明してほしいだけだ。もっと確かな重量感で、僕を押し潰してほしい。

  二時間後、僕は高級ホテルのふかふかのベッドに沈んでいた。

  上にのしかかるのは、百キロ超えの肉塊。不動産オーナーだというブタ獣人だ。

  重い。

  物理的な質量が、肺を圧迫する。肋骨がきしむ。

  内臓が押し出されそうな苦しさの中で、僕は必死に媚びた声を上げる。

  「重くないですよぉ……包まれてるみたいで、幸せ……」

  窒息寸前の呼吸で、男の背中に腕を回す。汗ばんだ皮膚の感触。

  香水を振っておいてよかった。ニンニクと脂の混じった男の体臭を、僕の選んだ香りが中和してくれる。

  (重いって言ってんだろ、漬物石か。マイナス十点。汗が顔に落ちてきた。最悪。マイナス十点。……でも、もっと強く抱けよ。僕が息もできないくらい、強く)

  事後。

  呼吸が整うや否や、僕は素早くベッドから這い出そうとした。

  長居は無用。さっさとシャワーを浴びて、この脂っぽい空気から脱出しなければ。

  しかし、その目論見は一瞬で阻止された。

  「……んぁ~、待ってよぉ。どこ行くのさぁ」

  背後から、ぬるりとした肉の壁が覆いかぶさってくる。

  重い。もはや物理攻撃。

  腰に回された太い腕が、逃げようとする僕をむぎゅむぎゅと締め上げる。

  「あの、そろそろ終電が……」

  「えぇ〜? 帰っちゃうのぉ? ヤだヤだ、もっと遊ぼうよぉ」

  耳元で甘えた声を出される。

  野太い低音の声と、語尾の幼児性の不協和音。

  背筋を駆け上がる悪寒を必死に抑え込み、僕は口角を吊り上げた。

  「ごめんなさい、明日も仕事なんです。残念ですけど」

  「仕事なんて休んじゃいなよぉ。ねえねえ、カオルくん、僕のペットになりなよぉ……」

  男は僕の首筋に鼻先を押し付け、スンスンと匂いを嗅ぎながら、とんでもない語尾を付け足した。

  「……飼ってあげたいニァ♡」

  (…………は?)

  今、このオッサン、なんて言った?

  ニァ?

  

  脳内処理が追いつかず固まる僕を、男は好意的な反応と勘違いしたらしい。さらにすり寄ってくる。

  「カオルくんみたいな可愛い子、放っておけないニャ。そうだ、いいこと思いついた! 僕が持ってるマンション、ひと部屋あげるよ」

  「え?」

  「いいトコだよ? 家賃タダでいいし、お小遣いもあげる。だからさぁ、僕の『飼い猫ちゃん』になってよ、ニァ?」

  男はブヒブヒと鼻を鳴らしながら、上目遣いでウインクを飛ばしてきた。

  

  ——限界だった。

  胃の内容物が逆流しそうなのを、鉄の意志で飲み込む。

  こいつ、本気だ。

  本気で自分をチャーミングなご主人様かなんかだと思ってやがる。

  マンションと引き換えに、一生この「ニァ」を聞かされる生活? 地獄か? 懲役刑のほうがまだマシだ。

  (マイナス五億点)

  僕は男の腕を、指一本ずつ丁寧に、しかし力任せに引き剥がした。

  「わぁ、夢みたいなお話! ……でもごめんなさい、僕、猫アレルギーなんです」

  「えっ? でも君、猫獣人……」

  「自分でも痒くなっちゃうんですぅ。だから『ニァ』は無理かなぁ、アハハ!」

  意味不明な理屈を早口でまくし立て、呆気に取られる肉塊をベッドに残し、僕は脱兎のごとくバスルームへ飛び込んだ。

  十分後。

  豚獣人のいる部屋から脱出して、エレベーターに乗る。

  コートのポケットからスマホを取り出す手つきは、早撃ちガンマンよりも速い。

  「はい、ブロック~」

  あんたのその語尾、『ニァ』じゃなくて『ブヒ』の間違いだろ。

  親指一つで、あの不快な存在を僕の世界から抹消する。スマホの画面を消した瞬間、まだ口元に残っていた嘲笑の形が、フッと緩んだ。

  一階に着いた僕は外出する宿泊客を装い、何食わぬ顔でホテルのロビーを横切る。フロントでは、チェックインを済ませているのであろう、若いウサギ獣人のカップルが「夜景が綺麗なお部屋なんですよ」というフロントマンの声に、嬉しそうに耳を揺らしていた。

  (はいはい、お幸せに)

  心の中で軽く悪態をつき、自動で開くガラスの回転ドアに足を踏み入れる。

  一歩、外に出た瞬間。真冬の夜気が、ナイフのように頬を切りつけた。さっきまでのぼせていた頭が一気に冷やされ、喉の奥がツンとする。

  熱気と香水の匂いで満たされたホテルの中とは、まるで世界が違う。アスファルトの冷たい匂い。排気ガスの匂い。遠くで鳴るサイレンの音。さっきまで浮かべていた薄っぺらい勝利の笑みは、吐き出した白い息と一緒に、あっという間に闇に溶けて消えてしまった。

  コートの襟を立て、ポケットに手を突っ込む。指先に触れるものは何もない。空っぽのてのひらを一度強く握りしめ、僕はまた、誰もいない夜の街を歩き出した。

  帰り道。ふと、歩道橋の上で足を止めた。

  眼下を流れる車のヘッドライトが、血管の中を流れる赤血球みたいに見える。

  生きてるなぁ、みんな。

  僕だけが、この世界の血流から弾き出された異物みたいだ。

  さっきのブタ獣人の重みが、まだ肋骨に残っている。重かった。苦しかった。

  でも、あの圧迫感がないと、自分がここに立っているのかどうかも怪しくなる。

  ……削れていく。

  誰かに抱かれるたびに、僕という輪郭がヤスリで削られて、薄くなっていく気がする。

  痛み止めを飲めば飲むほど、胃が荒れていくみたいに。

  いっそ、このまま擦り切れて、透明になって消えちゃえばいいのに。

  「……さむっ」

  僕は首を振って、ネガティブな思考を振り払うように早足で歩き出した。

  ◇

  鍵穴に鍵を差し込む音が、深夜の廊下に冷たく響いた。

  重たいドアを開けると、生ぬるい空気が澱んでいるワンルームが僕を迎える。

  電気もつけず、靴を脱ぎ捨ててベッドに倒れ込んだ。

  ポケットの中で、スマホが震えた気がした。

  取り出してみるが、通知なんて来ていない。さっきブロックしたばかりだ。来るわけがない。

  画面の明かりが、暗い部屋の中で僕の顔だけを青白く照らす。

  無意識に、実名制のSNSアプリをタップしていた。

  美大時代の同期たちの投稿が、タイムラインに流れてくる。

  『新人賞、入選しました! 応援してくれたみんなありがとう』

  『来週から、憧れの代理店でプロジェクト始動。忙しくなるけど頑張る!』

  みんな自分の人生を切り売りするように、キラキラした断片をアップロードしている。

  そこに映っているのは、僕が喉から手が出るほど欲しくて、でも手に入らなかった加点の世界だ。

  画面をスワイプする指が重い。

  彼らと僕の間に流れている時間は、同じはずなのに。

  僕は今夜、何をしていただろう。

  知らない男の下で喘いで、嘘の愛を囁いて、満足感を得た気になっていた。

  ――バカみたいだ。

  スマホを放り投げると、ベッドの隅で鈍い音を立てた。

  喉が渇いた。水じゃない。もっと強くて、思考を麻痺させる何かが欲しい。

  冷蔵庫を開ける。

  一番奥に、いつ買ったか覚えていない缶チューハイが転がっていた。

  「ストロング」と書かれた銀色の缶。アルコール度数九パーセント。

  プシュ、と缶を開ける音が、静寂を引き裂く。

  一気に流し込む。

  「っ……!」

  喉を通った瞬間、食道が焼けるような熱さを訴えた。

  たった一口で、胃袋がびっくりして収縮するのが分かる。

  すぐに心臓が早鐘を打ち始め、顔が一気にカッと熱くなった。

  こめかみの奥で血管がドクドクと脈打ち、視界がぐらりと揺れる。

  体が「異物だ」と拒絶反応を示しているのが分かる。

  でも、今はそれがいい。

  この気分の悪さが、胸の奥のモヤモヤを上書きしてくれるなら。

  ベッドの縁に座り込み、膝を抱える。

  揺れる視界の中で、体の中に残るブタ獣人の重みや匂いが蘇ってくる。

  振り払うように、自分を採点する。

  今日の演技、九十点。

  我慢強さ、百点。

  ペット扱いを断ったこと、百二十点。

  ……嘘だ。

  そんな点数、何の意味もない。

  膝に顔を埋める。

  熱くなった頬が、冷たいデニム生地に触れて少しだけ気持ちいい。

  瞼の裏に浮かぶのは、さっきブロックした男たちの顔じゃない。

  鏡に映った、空っぽの笑顔を貼り付けた自分の顔だ。

  誰とも繋がれない。

  上辺だけの言葉と、体だけの関係。それしか知らない。

  僕の中身を見てくれる人なんていないし、見せられる中身なんて僕にはない。

  こんな生活を繰り返して、何を積み上げた?

  ブロックリストの数だけ増えて、僕の中身はすり減って、ペラペラの抜け殻になっていくだけじゃないか。

  「……マイナス、三百点」

  膝に埋めたまま、声が漏れた。

  一番の減点対象は、あの男たちじゃない。

  会ったばかりの他人に抱かれることでしか自分を保てない、僕自身だ。

  ふと、放り投げたスマホの画面が光った。

  ロック画面の日付が目に入る。

  十二月十八日(金)

  胃の奥が、さらに重く沈んだ。

  一週間後。

  世界中が、赤と緑の色に染まって浮かれ騒ぐ日。

  恋人がいる奴は勝ち組、いない奴は負け組と選別される日。

  そして何より、僕という個人の存在が、巨大な祭りの影に隠れて、誰にも思い出されなくなる二日間。

  最悪だ。

  一年で一番、僕が透明になる時間がやってくる。

  缶チューハイの残りをあおる。

  苦い。

  吐き気がこみ上げてくるけれど、もうどうでもよかった。

  僕はそのままシーツに倒れ込み、泥のような眠りが思考を奪ってくれるのを待った。

  ◇

  十二月二十四日、木曜日。

  十八時のオフィスは、空調の音がやけに響いていた。

  「じゃ、お疲れ。戸締まりよろしく」

  猪狩は浮き足立った様子で、一番に退社していった。安っぽいコロンの香りと共に、去り際に振り返る。

  「星河くんはいいよなぁ、気楽な独り身で。俺なんか家族サービスで大変だよ、ハハッ」

  自動ドアが閉まる音を聞きながら、僕は握りしめた拳をゆっくりと開いた。

  爪の跡が白く残っている手のひらを見つめる。

  「気楽」という言葉が、こめかみの奥で鈍く反響していた。

  会社を出ると、街は暴力的なまでに輝いていた。

  街路樹に巻きつけられたイルミネーションが、視界を白く焼き尽くす。

  どこからともなく流れてくるクリスマスソング。

  すれ違う人々は、誰もが早足だ。手にはケーキの箱や、チキンの入った袋。

  世界中が、示し合わせたように巨大な舞台セットの上で踊っているみたいだ。

  僕はコートの襟を立て、冷たい風から逃げるように駅前の広場へ向かった。

  一人の夜なんて、慣れている。

  去年も一昨年も、コンビニの缶チューハイと惣菜でやり過ごした。

  今年も同じようにすればいい。

  そう自分に言い聞かせても、足が駅へ向かわない。

  ショーウィンドウに映った自分の姿を見る。

  明日になれば、僕は二十五歳になる。

  最近、掲示板で「二十代前半まで」という条件をつける相手が増えてきた。

  ガラスに映る自分はまだ若いけれど、その鮮度が音を立てて落ちていくような錯覚に襲われる。

  ポケットの中のスマホが重く感じる。

  昨日見た、美大時代の同期の投稿。

  『個展成功』『代理店プロジェクト』『婚約しました』。

  まぶたの裏に焼き付いたその光景が、チカチカするイルミネーションと重なって、視界を歪ませる。

  ――負けたくない。

  今夜、あの暗い部屋に一人で帰れば、僕の「全敗」が確定する気がした。

  誰か。

  誰でもいい。

  スマホを取り出す。指先が震えているのが分かる。

  いつもの掲示板。いつものアプリ。更新ボタンを連打する。

  しかし、画面に並ぶのは無惨な文字列ばかりだった。

  『クリぼっち集合。五人で鍋パ』

  ――馴れ合いは求めてない。

  『サンタコスプレしてくれる子募集。衣装あり』

  ――風俗に行け。

  『既婚者です。今夜だけ隙間埋めてくれませんか』

  ――隙間風でお腹壊して死んでくれ。

  スクロールする指が止まる。

  まともな募集は、すでに予約済みか、幸せ報告で埋め尽くされている。

  出遅れた。

  クリスマスという巨大な市場で、僕は在庫として売れ残ったのだ。

  その時、一通のメッセージが届いた。

  『今から会えませんか? 写真なしですが、お礼は弾みます』

  アイコンは初期設定のまま。プロフィールは空欄。

  普段なら、目にも留めない地雷物件だ。

  でも、親指が吸い寄せられるように返信画面を開く。

  「お礼」なんてどうでもいい。ただ、誰かの腕の中にいられれば。今日という日を「誰かと過ごした日」として記録できれば。

  僕は震える指で、『どこで会えますか?』と打ち込んだ。

  送信ボタンの上に親指を浮かせる。

  ふと、駅前の大型ビジョンの光が反射して、スマホの黒い画面に自分の顔が映り込んだ。

  眉間に皺を寄せ、必死な形相で画面に齧り付いている黒猫。

  誰でもいいから拾ってくれと、尻尾を振って哀願している売れ残りの野良猫。

  親指が止まる。

  急速に体温が下がっていくのが分かった。

  何やってんだ、僕。

  顔も分からない、怪しい相手に、自分から「会ってください」なんて。

  そこまで落ちたか?

  今日という日をやり過ごすためなら、ただでさえすり減っているプライドを、ドブに捨てるのか?

  (……マイナス、一万点)

  僕はメッセージを全部消去して、スマホをポケットに深く突っ込んだ。

  無理だ。

  こんな思いをしてまで、知らない男に抱かれたくない。

  それなら、一人で凍えている方がまだマシだ。

  吐き出した息が、白く濁って消える。

  帰ろう。

  いや、帰りたくない。あの部屋の静寂が、鼓膜を圧迫するのが想像できる。

  踵を返そうとした時、強い風が吹き抜けた。

  コートの隙間から冷気が入り込み、肌を刺す。

  (……酒)

  そういえば、と思い出す。

  隣町の繁華街に、一度だけ嫌々連れて行かれたことのあるゲイバーがあった。

  確か、『止まり木』とかいう名前だったか。

  薄暗くて、静かで、客層の年齢層が高かった記憶がある。

  あそこなら、騒がしい若者も、イチャつくカップルもいないかもしれない。

  誰かと寝なくてもいい。

  ただ、暖房の効いた部屋で、人の気配を感じながら、強い酒を飲みたい。

  隣の席の知らない誰かと、天気の話とか、今年の景気の話とか、どうでもいい会話をして。

  そうやって思考を麻痺させて、気づいたら朝になっていれば、それが一番だ。

  僕はポケットの中で拳を握り直し、改札へと向かった。

  ホームへ滑り込んできた電車は、満員だった。

  寄り添うカップルたちの隙間に、息を止めるようにして体をねじ込む。

  ガラスに映る街の灯りが、流れる星のように後ろへと飛び去っていく。

  僕は吊革を強く握りしめ、揺られながら目を閉じた。

  どうか、今夜だけは。

  僕を透明人間にしないでくれ。

  ◇

  雑居ビルの急な階段を降りていくと、地下特有の湿った匂いと、微かなタバコの香りが漂ってきた。

  重厚な木の扉には、小さなリースが飾られている。

  『止まり木』と書かれた真鍮のプレート。その下には『会員制』のプレートも静かに鎮座している。

  僕はコートの裾を整え、深呼吸を一つしてから、ゆっくりとドアノブを回した。

  ドアベルが控えめに鳴る。

  予想に反して、店内は熱気で満ちていた。

  暖色の間接照明が照らす空間には、ジャズピアノのBGMと、低い話し声、そして笑い声が混ざり合って溶けている。

  (……よかった)

  僕はホッと息を吐いた。ここには、僕を値踏みするようなギラついた視線はない。ただ、それぞれが夜を楽しんでいる、穏やかな空気だけがある気がする。これなら、一人で飲んでいても惨めな思いをしなくて済みそうだ。

  店内は広い。

  L字型の長いカウンターにはずらりと客が座り、奥のボックス席も埋まっているようだ。

  見渡すと、客層はバラバラだ。

  初老の馬獣人と、若い牛獣人の男がグラスを傾け合っていたり、恰幅のいいおじさん獣人たちが肩を組んで笑っていたりする。

  そうだ、ここは確か、そういう店だった。

  いわゆる「老け専」バー。年配の男を好む男同士が集まる場所。

  場違いだったか、と踵を返そうとした瞬間、バーテンダーと目が合った。

  蝶ネクタイをした年配の柴犬獣人だ。

  「いらっしゃいませ。お一人ですか?」

  「あ……はい」

  「カウンター空いてますよ。どうぞ」

  逃げ損ねた。

  促された席は、カウンターの一番奥、壁際の席だった。

  僕は会釈をして、人々の背中の後ろをすり抜けていく。

  どこを見ても、誰かと誰かが楽しそうに話している。独りなのは僕だけだ。

  指定された席に座り、コートを膝にかける。

  隣には、山のような背中があった。

  白い毛並み。白熊獣人だ。

  カウンターに肘をつき、ウイスキーのグラスを弄んでいる。

  周りの喧騒から切り離されたように静かだ。

  誰かと待ち合わせている様子もない。ただ一人、氷が溶けるのを眺めている。

  (……この人も、一人か)

  僕と同じだ。この聖夜に、一人で酒を飲みに来ているはぐれ者。なんとなく親近感を覚えて横目で見ていると、白熊獣人がふと顔を上げた。

  視線が合う。

  深い茶色の瞳だった。

  酔っているのか、それとも元々なのか、少し潤んだような瞳が、僕の顔をじっと見つめる。仕立ての良さそうなグレーのスーツ。その襟足から覗く首筋は太く、びっしりと生え揃った白い体毛が、店内の照明を吸って柔らかく光っている。

  年齢は五十代くらいだろうか。

  ジャケットの下に着ている水色のVネックのニットの上からでも分かる、腹回りの肉付き。

  (……へえ)

  僕は無意識に、唇を湿らせた。ただの寂しいおじさんかと思ったけれど、よく見れば身なりはいいし、清潔感がある。

  何より、この潤んだような寂しげな瞳。あれは、誰かの温もりを求めている目だ。

  僕の中の採点表が音もなく起動する。当初の予定変更だ。ただ酒を飲んで帰るつもりだったけれど……こんな優良そうな物件が目の前に転がっているなら、話は別だ。あわよくば、この大きな毛皮を今夜の暖房にできるかもしれない。

  僕は愛想笑いをしながら「こんばんは」と囁く。

  でも白熊は何も言わなかった。

  数秒ほど僕を見つめた後、ふい、と静かに視線を逸らし、また手元のグラスに目を戻してしまった。

  ……あれ?

  肩透かしを食らった気分。

  ……無視された?

  いや、今の目は何だったんだ。嫌な感じはしなかったけれど、まるで何かを確認するような、不思議な間だった。

  マスターがおしぼりを差し出した。

  「お飲み物何にします?」

  「……ジントニックで。あと、何かすぐ出るものを」

  「かしこまりました。ミックスナッツでいいかな?」

  「はい」

  僕は小さく息を吐き、カウンターの木目を指でなぞった。

  隣の白熊は、もう僕の方を見ようともしない。氷がグラスに当たるカランという音だけが、二人の間に落ちる。

  店内には、どこかのテーブルが開けたシャンパンのポンという音が響き、拍手が起こっている。

  幸せな音。

  僕は唇を噛み締め、早く強い酒が来るのを待った。

  「お待たせしました。ジントニックです」

  カラン、と氷がグラスの縁を叩く涼やかな音が、僕の鬱屈した思考を断ち切った。差し出されたグラスの表面で、ライムの皮が鮮やかな緑色を滲ませている。背後のテーブル席から聞こえる幸せそうなシャンパンの音とは対照的な、冷たくて静かな液体だ。

  僕はそれを細い指先で弄ぶように受け取ると、グラス越しに隣の席を盗み見た。さっき視界に入った「同類」――白熊獣人が、すぐ隣に座っている。

  鼻をかすめるのは、香水のような人工的な香りではない。洗い立てのリネンのような、清潔で飾り気のない体臭。

  (毛並みの手入れは……合格点。安っぽい香水を使ってないのも好印象)

  僕は心の中で赤ペンを取り出し、この「物件」の採点表にチェックを入れていく。

  「ジョウさん、グラス空いてるよ。次はどうする? ボトル?」

  カウンターの中に立つマスターが、慣れた手つきでグラスを拭きながら声をかけた。

  人好きのする笑顔を浮かべた柴犬の獣人だ。この店の主人は客のあしらいがなんとなく上手い感じがする。僕がこの席に座ったのも、恐らくは彼の計算だろう。

  隣の男――ジョウと呼ばれた白熊は、ゆっくりと僕の手元のグラスに視線を落とし、それから少し困ったように丸い耳をピクリと揺らした。

  「……いや。ちょっと趣向を変えてみようかな」

  「おっ、珍しい」

  「彼と同じものを頼めるかい」

  低く、腹の底に響くような深みのある低音。重低音が空気を震わせる感覚に、僕の背筋が少しだけゾクッとした。

  (声質、九十点。……いい響きだ)

  僕は内心でほくそ笑む。

  偶然を装っているが、わざわざ隣の僕と同じ酒を頼むなんて、興味があると言っているようなものだ。

  マスターは「はいよ」と短く答えると、僕の方を見て悪戯っぽく片目を瞑ってみせた。

  「お兄さん、ジョウさんに気に入られたみたいだね。この人が自分から他人の真似をするなんて、雪でも降るんじゃないかな」

  僕は作り込んだ「人懐っこい笑顔」を貼り付け、少しだけ首を傾げてみせる。

  「ふふ、光栄です」

  計算通り、男の黒くつぶらな瞳が僕の顔に吸い寄せられた。

  「そういえば、お兄さん初めてだよね? お名前は?」

  マスターが絶妙なタイミングでパスを出してくる。実は二回目なのだがそんなことはどうでもいい。僕はグラスに口をつける動作で一瞬だけ間を作り、潤んだ瞳を演出してから答えた。

  「……カオルです」

  「カオルくんか。いい名前だ」

  マスターは頷くと、掌を隣の男の方へ丁寧に差し向けた。

  「こっちはジョウさん。この店のヌシみたいなもんだから、安心していいよ。見た目はデカいけど、噛みついたりしないから」

  「おい、人聞きが悪いな」

  男が苦笑しながら、分厚い肉球のある掌でカウンターを軽く叩く。

  「……[[rb:冬部 > ふゆべ]]です。『ジョウ』っていうのは下の名前の読みだけど、まあ、呼びやすい方でいいよ。よろしく、カオルくん」

  冬部。その名前の響きは、この男の静かで冷ややかな理知さと、全身を覆う白い毛皮の温かみを同時に感じさせた。

  僕は椅子の向きを変え、あえて無防備に膝を彼のほうへと向ける。

  「はじめまして、冬部さん」

  上目遣いで見つめ返しながら、僕は最終的なジャッジを下していた。

  身につけている時計は堅実だが安物じゃない。性格は穏やかそうだが、こちらの押しには弱そう。そして何より、寂しさを抱えている目をしている。

  (総合評価Aマイナス。……たぶん、チョロいな。このおじさん、ちょっと押せば簡単にイケそう)

  今夜の相手兼暖房器具は彼で決まりだ。僕は甘いジントニックを喉に流し込みながら、狩りの開始を告げる鐘を鳴らした。

  「今日は冷えますね。外、雪が降りそうでしたよ」

  「ああ、予報でも深夜から降ると言っていたな」

  会話の滑り出しは、当たり障りのない天気の話から始まった。

  冬部さんの話し方は穏やかだ。ガツガツとプライベートを聞いてくることもなければ、僕の服装や見た目を褒めそやしてくることもない。まるで古い友人と話しているような、奇妙な落ち着きがある。

  (……手堅いな。でも、こういうタイプこそ一度崩せば脆いんだ)

  僕はグラスの水滴を指で拭いながら、横目で彼の様子を観察する。

  大きな手だ。グラスを持つ指は太く、爪は短く切り揃えられている。あの手で撫でられたら、どんな感触がするだろう。想像するのは容易かった。きっと、分厚い毛皮と筋肉の弾力が、冷え切った僕の体を芯から温めてくれるはずだ。

  「冬部さん、手、大きいですね」

  僕は自然な動作を装って、カウンターに置かれた彼の手の甲に、自分の手を重ねた。

  ビクッ、と冬部さんの肩が小さく跳ねる。

  予想通りの反応だ。僕は悪戯っぽく微笑んで、わざと指を絡ませるようにして大きさを比べるフリをした。

  「ほら、僕の手と全然違う。……あったかい」

  「……それは、まあ。種族が違うからね」

  「いいなあ。僕なんて冷え性だから、冬部さんみたいな人が羨ましいです」

  甘えるような声色で囁きながら、僕は少しだけ体を寄せる。

  膝が彼の太い太腿に触れるか触れないかの距離。僕の知ってる男たちなら、この時点で鼻息を荒くして「じゃあ温めてあげようか」と乗ってくる場面だ。

  けれど、冬部さんは困ったように眉を下げただけで、僕の手を振り払おうとはしなかった。

  「そうかな? ただの暑苦しい熊だよ」

  彼は穏やかにそう言って、そっとグラスを持ち上げた。その動作で自然と僕の手は離れてしまう。

  (……かわされた?)

  拒絶ではない。けれど、乗ってもこない。まるで悪戯好きな子供をあしらうような、大人の余裕が見え隠れする。

  それが、僕の狩猟本能に火を点けた。

  (へえ……)

  ただの枯れたおじさんかと思ったけれど、案外ガードが堅いらしい。

  僕は内心で舌打ちをしつつ、さらにギアを上げることにした。同情を引く、あざといカードを切るタイミングを見計らう。

  その時だった。

  不意に店内の照明がスウッと暗くなり、どこからともなく『ハッピーバースデー』のメロディが流れ始めた。

  「え?」

  僕がきょとんとしていると、奥からマスターが小さなケーキを持って現れる。ろうそくの火が揺らめき、カウンターの客たちの視線が一斉にこちらへ集まった。

  正確には、僕の隣にいる、この大きな白熊へ。

  「ジョウさん、おめでとう! 今日だよね?」

  「えっ……?」

  冬部さんが目を丸くして、マスターとケーキを交互に見る。

  店内から「おめでとう、ジョウさん!」「おめでとう〜!!」と拍手が湧き起こった。

  「参ったな……。こっそり飲むつもりだったのに」

  冬部さんは照れ臭そうに頬を掻きながら、それでも嬉しそうに目を細めた。

  その横顔を見て、僕は瞬時に頭の中で作戦を切り替える。

  (今日が誕生日?……これは使える)

  神様がくれた、絶好のチャンスだ。僕は驚いた表情を作り込み、身を乗り出すようにして彼に話しかけた。

  「えっ、冬部さん、今日お誕生日なんですか?」

  「ああ、まあね。いい歳して祝ってもらうのも恥ずかしいんだけど」

  「……すっごい偶然!」

  僕はわざと声を弾ませ、潤んだ瞳で彼を見つめた。

  「実は僕も、明日、誕生日なんです。イブとクリスマス、一日違いですね」

  嘘ではない。

  けれど、このタイミングで言うことに意味がある。

  冬部さんが驚いたように瞬きをした。「奇遇だね」と呟く彼の声に、親近感という名の隙が生まれたのを僕は見逃さなかった。

  「本当、奇遇ですね……。なんだか運命感じちゃうな」

  僕は甘く囁きかけ、自分のグラスを持ち上げる。

  「お祝いしましょうよ。二人で」

  二人で、を強調するように囁く。

  さあ、これで逃げられない。

  聖夜の魔法と誕生日の特別感。この二つを武器に、今年こそ僕は、性の六時間を手に入れるんだ。

  「乾杯」

  グラスが触れ合う澄んだ音がした。冬部さんの微笑みは優しかったけれど、そこには僕が期待したような「欲」の色が見当たらない。

  「ありがとう、カオルくん。……でも、運命なんて大袈裟だよ」

  「そんなことないですって。こんな偶然、なかなかないですよ」

  僕はさらに距離を詰めようとしたが、彼は「さあ、ケーキを食べようか」とマスターに視線を戻してしまった。

  (……また、かわされた)

  僕の言葉が、まるで暖簾に腕押しだ。普通なら「じゃあ、この後二人きりで祝い直そうか」という流れになるはずなのに、この白熊はまったくその気配を見せない。

  それが余計に、僕を焦らせた。

  もしかして、僕に魅力がないのか? いや、そんなはずはない。今までだって、どんな男も最後には僕の前に跪いてきたんだ。

  (落とせないはずがない。……見てろよ)

  僕はグラスの中身を一気に煽ると、追加のオーダーをした。少し強めのカクテルだ。

  酔いが回ったふりをする。それが僕の常套手段だった。

  時間が過ぎるにつれ、僕は意識的にボディタッチを増やしていった。

  話題が途切れるたびに、彼の太い二の腕に自分の体を預ける。ふわりとした白い毛並みの感触が、頬に心地いい。

  「んぅ……冬部さん、あったかいですね……」

  「そうかな? ただの毛皮だよ」

  「僕、冷え性で……。ねえ、触ってみてくださいよ」

  僕は自分の手を彼の頬に押し当てる。冷たい指先が、彼の体温を奪っていく。

  冬部さんは少し驚いたように目を瞬かせたが、嫌がる素振りは見せない。ただ、困ったように眉尻を下げるだけだ。

  「確かに冷たいね。……あまり飲みすぎない方がいい」

  「心配してくれるんですか? 優しいなあ……」

  僕は上目遣いで彼を見つめ、耳元に顔を近づけた。吐息がかかるくらいの距離。この距離で囁けば、落ちない男はいない。

  「ねえ、ジョウさん……」

  わざと下の名前で呼んでみる。

  「今夜、このまま帰りたくないな……。一人は寂しいんです」

  「…………」

  冬部さんの手が止まる。

  よし、効いた。僕は心の中でガッツポーズをした。

  寂しい子猫を演じれば、大人の男は放っておけない。保護欲と性欲を同時に刺激する、完璧な布石だ。

  けれど、返ってきた言葉は、僕の予想を斜め上にいくものだった。

  「……そうだね。誕生日に一人は寂しいものだ」

  彼はしみじみとそう頷くと、マスターに手を挙げた。

  「マスター、ホットミルクを一杯。彼に」

  「は?」

  思わず素の声が出そうになった。

  ホットミルク? 今、このタイミングで?

  「体が冷えているなら、温かいものを飲んだ方がいい。お酒ばかりじゃ、明日が辛くなるからね」

  冬部さんは本気で心配しているような顔でそう言った。

  その瞳には、一点の曇りもない善意が宿っている。下心も、計算も、何もない。ただ純粋に、僕の体調を気遣っているだけだ。

  (なんなんだ、こいつ……!?)

  こっちは体を差し出しているのに、返ってくるのはホットミルクだなんて。

  プライドが傷つくのを通り越して、もはや理解不能だった。僕の価値はミルク一杯分ってことか? それとも、本当に僕に興味がないのか?

  「……子供扱いしないでくださいよ」

  「子供扱いなんてしていないさ。ただ、大切な誕生日を二日酔いで迎えてほしくないだけだよ」

  ずるい。そんな風に正論を言われたら、何も言い返せないじゃないか。

  出されたホットミルクからは、甘くて優しい湯気が立ち上っていた。僕はそれを両手で包み込みながら、悔し紛れに唇を尖らせた。

  (絶対、落としてやる。……意地でも、一緒にラブホに行ってやるからな)

  僕は酔ったふりを続けながら、最後の切り札――「終電逃し」のタイミングを虎視眈々と狙い始めた。

  だがその後も、僕の孤独な戦いは続いた。

  ホットミルクを飲み干した後、僕は再びアルコールを注文し、さらに大胆な攻勢に出た。

  「冬部さん、僕、酔っちゃったみたい……」

  僕はとろんとした目つきで、彼の太い腕にしなだれかかる。分厚い上腕二頭筋の感触を頬で確かめながら、わざと熱い吐息を彼の肩に吹きかけた。

  普通なら、ここで肩を抱き寄せられるはずだ。

  けれど、冬部さんは動じない。

  「水をもらおうか? それとも、少し外の風に当たるかい?」

  「ううん、このままでいいの……。冬部さんの匂い、落ち着くから」

  「そう言ってもらえると助かるよ。加齢臭がしていないか心配だったからね」

  ……だめだ。暖簾に腕押しどころか、豆腐に釘だ。

  僕がどれだけ色仕掛けをしても、彼はそれを「酔っ払いの介護」か「世間話」に変換してしまう。

  膝を擦り合わせても「席が狭いかな?」と椅子を引かれ、耳元で囁いても「耳が遠くてね」と聞き返される始末。

  (なんなんだこの鉄壁は……!? このおっさん、インポか!?)

  僕のイライラは募るばかりだ。こんなに手応えがないのは初めてだった。

  そうこうしているうちに、壁掛け時計の針は二十三時半を回っていた。

  突然、店内の照明が一段階明るくなり、BGMのボリュームが絞られる。

  「はい、皆様。そろそろ閉店のお時間ですよー。終電逃さないようにね」

  マスターの明るい声が響いた。

  僕は思わず素っ頓狂な声を上げた。

  「えっ!?」

  「ん? どうしたのカオルくん」

  「もう閉店? まだ二十三時半ですよ? こういう店って、朝までやってるもんじゃ……」

  僕の常識では、ゲイバーといえば始発待ちが当たり前だ。これからが夜の本番だというのに。

  マスターは苦笑しながら手を振った。

  「うちは健全なバーだからねえ。シンデレラも帰る時間は守ってもらわないと」

  「そんな……」

  計算が狂った。

  じっくり酔わせて、なし崩し的に「終電なくなっちゃったね」からのホテルコースを狙っていたのに、強制退場だなんて。

  まだ冬部さんの合意どころか、脈があるのかすら怪しい状態だ。このまま別れたら、今夜の努力が全て水の泡になる。

  ……やばい。

  焦りが胃の腑を冷たくする。

  僕はチラリと横を見た。冬部さんは慣れた様子で会計を済ませ、コートを羽織り始めている。

  「じゃあ、マスター。ご馳走様」

  「はいよ、ジョウさん。気をつけて。メリークリスマス」

  彼が席を立つ。このままじゃ逃げられる。

  僕は慌てて残りの酒を煽り、お金をカウンターに叩きつけるように置いた。

  「ま、待ってください冬部さん! 僕も出ます!」

  「おや、カオルくんも帰るのかい?」

  「はいっ、駅まで一緒に行きましょう!」

  千載一遇のチャンスを逃すわけにはいかない。

  店の中がダメなら、外での延長戦だ。駅までの道のり、寒さと暗闇を味方につければ、まだ逆転の目はあるはずだ。

  僕はふらつく足取りを演出しながら、大きな白熊の背中を追って夜の街へと飛び出した。

  店の重い扉を開けると、冷たい夜気が頬を刺した。

  思わず身を縮めると、白い息が視界を遮るように立ち昇る。

  外の世界は、僕の惨めさを嘲笑うかのように煌めいていた。

  日付が変わる直前だというのに、通りはまだ人で溢れている。腕を組み、寄り添い合いながら歩く男女の群れ。ショーウィンドウにはクリスマスの装飾が輝き、どこか遠くでジングルベルのアレンジ曲が鳴っている気がした。

  幸せそうな恋人たちの笑い声が、耳障りなノイズのように鼓膜を叩く。

  (……うるさいな)

  僕はコートの襟をかき合わせ、視線を足元に落とした。

  彼らには帰る場所がある。温かい部屋と、愛し合う相手が待っている。

  僕にあるのは、冷え切った体と、今日という日をやり過ごすための薄っぺらな嘘だけだ。

  隣を歩く冬部さんが、大きな背中を丸めるようにして歩調を合わせてくれている。

  その巨大な影が、路灯に照らされて僕の足元に伸びていた。

  ここが正念場だ。この大きな「暖炉」を手に入れなければ、僕は一人で凍えることになる。

  「うぅ……寒い……」

  僕はわざとらしく肩を震わせ、足をもつれさせてみせた。

  冬部さんの腕に、しがみつくように体を預ける。

  「手が、感覚ないよぉ……」

  「今夜は特に冷え込むからね。手袋をしてくればよかったのに」

  「だって、きっと誰かが温めてくれると思ってたから」

  僕は上目遣いで彼を見上げ、甘えた声で囁く。

  「ねえ、ジョウさんのコート……すごくあったかそう」

  厚手のウールの感触を頬で確かめる。微かに残るリネンの香りと、彼の体温。

  これが欲しい。今夜だけでいいから、この温もりに包まれて眠りたい。

  「……ここじゃ寒すぎて、話もできないですよ」

  「駅まではもう少しだ。頑張ろう」

  「そうじゃなくてぇ……」

  僕は彼の腕を強く引き寄せ、自分の胸に押し付けた。

  「もっと暖かいところ、行きたいな。……僕の部屋、ここから近いんです。暖房、すごく効いてますよ?」

  決定的な一言。

  体も、場所も、全て差し出している。これ以上ないほど明確な誘いだ。

  周りのカップルたちと同じように、僕たちも「聖夜の二人」になれるはずだ。

  「お祝いの続き、しませんか? 二人で」

  駅の改札が見えてくる。

  さあ、どうする? このまま改札を抜けて寒空の下に帰るか、僕と一緒に温かいベッドへダイブするか。

  答えなんて決まっているはずだ。僕は勝利を確信して、少しだけ唇を湿らせた。

  改札の手前、蛍光灯の白い光が降り注ぐ場所で、冬部さんが突然足を止めた。

  「……ここだね」

  彼は短く呟いた。

  僕は心の中でガッツポーズをした。よし、止まった。

  ここから「じゃあ、お邪魔しようかな」という展開になるはずだ。僕は期待に胸を膨らませ、潤んだ瞳で見つめ返す準備をした。

  しかし、冬部さんの手は僕の腰ではなく、自分の首元へと伸びた。

  ざり、と衣擦れの音がして、彼が巻いていた厚手のマフラーが解かれる。

  「え?」

  僕が間の抜けた声を上げるのと同時に、まだ彼の体温がたっぷりと残ったそれが、ふわりと僕の首に巻き付けられた。

  カシミヤの柔らかい感触と、洗い立ての匂い、そして濃厚な温もりが、冷え切った僕の顔周りを一瞬で包み込む。

  「……これで少しはマシになるかな」

  「あ、あの……冬部さん?」

  状況が理解できずに立ち尽くす僕の目の前に、冬部さんは胸ポケットから取り出した一枚の名刺を差し出した。

  僕は反射的にそれを受け取る。

  シンプルだが上質な紙。そこにはしっかりとした明朝体で、こう印字されていた。

  『株式会社 冬部設計事務所 代表取締役 一級建築士 冬部譲二』

  きちんとした肩書き。僕の住む世界とは縁遠い、堅実な社会人の証明書。

  それを僕に渡す意味が分からなくて、僕は呆然と彼を見上げた。

  「……これは?」

  「今日はもう遅い。お互い、お酒も入っているしね」

  冬部さんは、まるで駄々をこねる子供を諭すような、けれど決して見下しはしない穏やかな口調で言った。

  「また、[[rb:素面 > シラフ]]の時にでも、ゆっくり話そう。……もし君が、こんなおじさんと、話したいと思ってくれるなら」

  体ではなく、会話を。

  夜のノリではなく、素面の時間を。

  それは僕が今まで、どの男からも提示されたことのない条件だった。

  彼は腕時計を一瞥すると、ふと表情を和らげ、目元に笑い皺を刻んだ。

  「少し早いけど」

  大きな手が、僕の頭をぽん、と軽く撫でる。

  「お誕生日おめでとう、カオルくん」

  それだけ言い残すと、冬部さんは踵を返した。

  大きな背中が、自動改札の向こう側へと遠ざかっていく。一度も振り返らない。まるで、これ以上僕に期待させないようにするかのように。

  残された僕は、首元に巻かれたマフラーの温かさと、手に残った名刺の感触に挟まれて、ただ立ち尽くすことしかできなかった。

  自動改札がバタンと閉じる音が、やけに大きく響いた。

  冬部譲二の白い背中は、もう雑踏の中に消えて見えない。

  「……は? 何これ」

  僕は乾いた声を漏らし、手の中にある名刺を凝視した。

  代表取締役、一級建築士。住所も電話番号もフルオープンだ。

  馬鹿なの? 初対面の、しかもバーでナンパしてきた怪しい男に、こんな個人情報を渡すなんて。警戒心とかないわけ? これ悪用されたらどうすんの?

  「意味、わかんない……」

  思考が空回りして、熱を帯びていく。

  こんなものを渡すくらいなら、抱けよ。

  部屋に行きたいって言ったじゃん。寒いって言ったじゃん。

  名刺なんて紙切れより、あんたの体温の方がよっぽど欲しかったのに。

  (……気があるってことじゃないの?)

  素面で話そう、なんて。そんなの、体目的よりよっぽどタチが悪い。

  それに、このマフラーはどうすんのよ。

  首元に触れるカシミヤは、悔しいくらいに温かい。冬部さんの匂いが鼻孔を満たして、まるで彼に抱きしめられているような錯覚に陥る。

  これ、返せってことでしょ? また会いに来いってこと? それとも、ただの施し?

  「……クソ」

  僕は乱暴にマフラーを掴み、顔を埋めた。

  温かい。ムカつくくらい、温かい。

  ホテルを出ればすぐに消えてしまう男たちの体温とは違う。このカシミヤは、いつまでも執拗に、僕の首筋に彼の熱を伝え続けてくる。

  「あの……インポ親父」

  精一杯、嘲笑うように吐き捨てたつもりだった。けれど、口元を埋めたマフラーが言葉を吸い込んでしまい、その悪態は情けないくらい弱々しい吐息となって夜気に溶けた。

  駅前の広場では、日付が変わった瞬間を祝うように、どこかの若者たちがクラッカーを鳴らしている。

  「メリークリスマス!」という歓声が、夜空に吸い込まれていく。

  街は幸せな聖夜の色に染まり、誰もが誰かと手を繋いでいる。

  その中でひとり、僕は見知らぬ男のマフラーに顔を埋め、名刺を握りしめて立ち尽くしていた。

  最悪の誕生日だ。

  ベッドは手に入らなかった。体は満たされなかった。

  なのに、胸の奥だけが、火傷したみたいに熱くて痛い。

  舞い始めた粉雪が、僕の熱い頬に触れては儚く溶けていった。

  [newpage]

  [chapter:第三章]

  年が明けて、松の内も過ぎた頃。

  僕は待ち合わせの小料理屋の暖簾をくぐった。

  今夜のミッションは明確だ。

  第一に、借りっぱなしだったマフラーを返すこと。

  第二に、その「お礼」という名目で冬部さんを酔わせ、今度こそ既成事実を作ること。

  (今日の僕は、本気だぞ)

  服の下には、奮発して買った勝負下着を仕込んである。

  テカテカピチピチ、もっこりが強調されるホモパンツ。しかも面積が極端に少ないやつだ。これを見せられて理性を保てるホモなんて、この世に存在しない。

  クリーニング済みのマフラーを入れた紙袋を握りしめ、僕は戦場へと足を踏み入れた。

  「やあ、カオルくん。こっちだ」

  奥の座敷席で、白い山が手を振っていた。

  冬部さんは今日もツイードのジャケットを着込み、相変わらずどっしりとした幹のような安定感を放っている。

  「遅くなってすみません、冬部さん」

  「いや、私が早く来すぎただけだよ。……座るといい」

  向かい合わせに座る。

  僕はまず、紙袋を差し出した。

  「これ、ありがとうございました。クリーニング、しておきましたから」

  「律儀だねえ。そのまま返してくれても良かったのに」

  冬部さんは柔和に笑って受け取ると、すぐにメニューを開いた。

  「さて、何を頼もうか。君は育ち盛りだから、肉がいいかな? それとも魚?」

  「……えっと、お酒に合うものがいいですね」

  僕は上目遣いでアピールする。

  酒だ。とにかく酒を飲ませて、判断力を鈍らせないと始まらない。

  しかし、冬部さんは店員を呼ぶと、とんでもないオーダーを口にした。

  「とりあえず、ブリ大根と里芋の煮っころがし。あと、刺身の盛り合わせと……この『季節の釜飯』は時間がかかるかな? じゃあ先に頼んでおこう」

  「お飲み物は?」

  「ああ、私は熱燗で。彼は……」

  冬部さんは僕とメニューを交互に見ると告げる。

  「彼にはウーロン茶を」

  「は?」

  「しっかりご飯を食べる時は、お茶の方がいい。酒は体に毒だからね」

  ……はあああ!?

  ここ、居酒屋ですよね!? これから口説こうって相手にウーロン茶!?

  僕の勝負下着が泣いてるよ! このホモパンツ、あんたに見てもらわないと、ただただ履き心地が悪いパンツなんですけど!?

  「冬部さん……僕もお酒、飲みたいなぁ……」

  テーブルの下で靴を脱ぎ、足先で冬部さんの太い脛をツンツンとつつく。

  精一杯の猫なで声。これで落ちない男はいないはず。

  だが、冬部さんは「ん?」と少し眉を動かしただけで、メニューの『厚焼き玉子』の写真を凝視している。

  「足元、狭いかな? ここの掘りごたつ、ちょっと窮屈だよね」

  「……」

  (違うわ! 誘ってんの!! あんたのその立派な足を絡めてこいって合図!!!)

  心の中で絶叫しながら、僕は引きつった笑顔を貼り付けた。

  「……いえ、大丈夫です。あ、僕もやっぱり熱燗で」

  「だめだめ。空きっ腹に飲むと胃が荒れるよ。まずはブリ大根を食べてからにしなさい」

  やってきたブリ大根は、味が染みていて悔しいくらい美味かった。

  「……美味しいです」

  出汁が染み込んだ大根は舌の上で解けるようで、僕は素直に箸を進めた。ふと、視線を感じて顔を上げる。冬部さんが、箸を止めてじっと僕を見ていた。いつもの穏やかな目じゃない。茶色の瞳が、妙に静かで、光を吸い込むように暗い。

  (……え、なに? ガツガツ食べすぎた?)

  心臓が跳ねる。育ちが悪いと思われただろうか。それとも、口の端にご飯粒でもついていて、幻滅されているのか。

  その視線は、僕の顔の表面を通り越して、もっと奥の汚い部分まで見透かそうとしているみたいで、背筋がゾクリとした。居心地が悪い。早く「優しいおじさん」の顔に戻ってほしい。

  「あ、あの……なんですか? 顔に何かついてます?」

  僕は慌てて作り笑顔を貼り付け、おしぼりで口元を拭った。冬部さんはハッとしたように瞬きをして、ふわりといつもの柔和な熊の顔に戻った。

  「いや……。君は、美味しそうに食べる時は、嘘をつかない顔をするんだなと思ってね」「え?」

  嘘? 何の話だ?僕はきょとんとして彼を見たが、冬部さんはそれ以上語らず、「さあ、釜飯も来たぞ」と話題を変えてしまった。

  僕は釈然としないまま、お茶を啜る。今の「間」は一体何だったんだ。まさか、僕が演技してるのがバレた? ……いや、まさか。この鈍感そうな熊に、そんな芸当できるわけがない。たぶん、「無心で食べてて子供みたいだ」とでも思ったんだろう。僕はそう自分に言い聞かせて、胸の奥のザワつきを飲み込んだ。

  「君は少し痩せすぎだからね。もっと栄養をつけないと、風邪を引くよ」

  「……冬部さんは、僕のこと、子供だと思ってます?」

  「まさか。立派な青年だよ。……ただ、私の甥っ子に少し似ていてね」

  甥っ子。

  親戚枠。一番色気のないカテゴリーに分類された。

  (くそっ、負けるもんか……!)

  僕は作戦を変更した。

  釜飯が来る頃には、少し酔いが回ったふりをして、冬部さんの隣へ移動する。

  「あー、なんか酔っちゃったかも……」

  「ウーロン茶しか飲んでないだろう?」

  「雰囲気で酔うことってあるじゃないですかぁ」

  強引に彼の肩に頭を乗せる。

  ツイードのチクチクした感触と、獣特有の温かい匂い。

  これだ。この「暖炉」が欲しいんだ。

  「ねえ、譲二さん……」

  「こらこら、行儀が悪いよ」

  冬部さんは、僕の頭を優しく、けれど断固とした力強さで元の位置に戻した。

  そして、取り分けた釜飯の茶碗を僕の目の前に置く。

  「ほら、冷めないうちに食べなさい。カニとイクラだぞ」

  「……はぁい」

  出された飯は美味かった。

  涙が出るほど美味かった。

  悔しいけれど、僕の胃袋は正直で、温かい出汁の味に完全に屈服していた。

  結局、その夜の成果はゼロ。

  いや、満腹だからプラスか。

  でも僕の勝負下着は、誰の目にも触れることなく、ただ僕の股間を締め付けただけで役目を終えた。

  帰りの電車の中、僕は周りに見えないように、こっそりとズボンの位置を直した。

  「……食い込んで痛いんだよ、クソ白熊」

  窓ガラスに映る僕は、文句を言いながらも、どこか血色が良く、間抜けなくらい健康的な顔をしていた。

  ◇

  二月に入っても、冬部さんは僕を抱こうとしなかった。

  週に一度、食事に誘ってくれる。美味しい店を知っている。話も面白い。笑顔も優しい。

  でも、それだけだ。

  手を繋ぐこともなければ、キスをされることもない。ただ「また来週」と言って、毎回きちんと改札で別れる。

  三月のある夜、僕は限界を迎えた。

  胸の奥がムズムズする。皮膚の下を何かが這いずり回っているような、気持ち悪い疼き。

  これは、渇きだ。

  誰かに触れられたい。乱暴に扱われて、頭を真っ白にしたい。

  気づけば、僕は久しぶりに掲示板のページを開いていた。

  スマホの画面に並ぶ「今から」の文字列。どれでもいい。誰でもいい。

  親指が勝手に動いて、テンプレートの募集文を打ち込んでいた。

  『今から会える方いませんか? ◯◯駅近く。ラブホでお願いします』

  送信ボタンを押した瞬間、背徳感と安堵感が入り混じった熱が腹の底に広がった。

  十分も経たないうちに、返信が来た。

  『行けます。写真交換しましょう』

  待ち合わせは駅前のロータリー。相手は虎獣人だった。

  スーツ姿。がっしりした体格。顔つきも悪くない。

  僕の中の採点表が自動的に起動する。

  合格点。今夜の相手としては十分だ。

  ホテルに入る。

  慣れた手順でシャワーを浴び、ベッドに横たわる。男が覆いかぶさってくる。

  重い。熱い。

  口の中に舌が入ってくる。タバコと酒の匂い。

  「……んっ、やだ……激しい……」

  テンプレ通りの言葉を吐きながら、僕は男に身を委ねた。

  この感覚だ。この「求められている」という実感が、僕を生かしてくれる。

  行為が始まる。

  ベッドが軋む。規則的な衝撃。男の息遣い。

  いつもの景色。いつもの音。

  なのに、今夜は違った。

  男の顔を見上げた瞬間、視界がぼやけた。

  虎獣人の鋭い瞳が、一瞬、丸くて優しい白熊の瞳に見えた。

  (……え?)

  目をこすって見直す。

  やっぱり目の前にいるのは、虎獣人だ。冬部さんじゃない。

  なのに、脳が勝手に「もしこれが冬部さんだったら」というシミュレーションを始めてしまう。

  もし、あの大きな手が僕の腰を掴んでいたら。

  もし、あの低い声が僕の名前を呼んでいたら。

  もし、あの温かい毛皮が僕を包み込んでいたら――

  「っ……!」

  思考が暴走する。

  胸の奥が、ぎゅっと締め付けられるように痛い。

  これは欲情じゃない。もっと別の、名前のつけられない感情だ。

  (なんで、冬部さんのことを考えてるんだ……?)

  こんなこと、今まで一度もなかった。

  セックスの最中に、別の男の顔を思い浮かべるなんて。

  そして、その瞬間。

  体が急速に冷えていくのを感じた。

  目の前の男の荒い息も、肌を打つ衝撃も、全てが急に汚いものに見えてきた。

  この男の匂いは安っぽい。

  この男の手つきは雑だ。

  この男の声は、僕をモノとして扱っている。

  (……もういい。帰りたい)

  心の中で、プツンと何かが切れる音がした。

  僕は演技を続けた。甘い声を出して、相手を満足させて、さっさとこの時間を終わらせる。

  行為が終わると、僕はすぐにシャワーを浴びて服を着た。

  「また会える?」

  男がそう言ったが、僕は曖昧に笑って頷いただけで部屋を出た。

  エレベーターの中で、スマホを開く。

  男の連絡先を削除する。

  ついでに、掲示板のアカウントそのものを削除した。

  もういい。

  こんなの、もういらない。

  ホテルを出ると、冷たい夜風が頬を撫でた。

  コートのポケットに手を突っ込み、俯いて歩く。

  胸の奥が、まだ痛かった。

  冬部さんが抱いてくれないから、こんなことになったんだ。

  あの人が僕に手を出してくれれば、こんな惨めな思いをしなくて済んだのに。

  でも、その言い訳も、どこか嘘臭く感じた。

  スマホの画面を見る。

  削除したアプリの跡だけが、ホーム画面にぽっかりと空いていた。

  まるで、僕の中にできた穴みたいに。

  ◇

  新年度を迎えたオフィスは、相変わらず埃っぽさと緊張感が漂っていた。

  この時期は新人の教育と、年度末の決算処理の名残でピリピリしている。その中心にいるのは、もちろん制作部長の猪狩だ。

  「おい、ここ! 全然違うだろ!」

  フロアに怒号が響く。

  猪狩が新入社員のデスクをバンと叩き、モニターを指差して喚き散らしている。

  「このレイアウトじゃ視線が止まらないんだよ! 客は素通りだぞ! お前の給料も素通りさせてやろうか? ハイ、マイナス二十点!」

  新人は涙目で直立不動になり、「すみません、すみません」と繰り返している。

  いつもの光景だ。

  半年前の僕なら、この光景を見るだけで胃の腑が鉛のように重くなり、心の中で中指を立てて呪いの言葉を吐いていただろう。

  けれど今の僕は、キーボードを叩く手を止めずに、心の中でぼんやりと考えていた。

  (……今週末、冬部さんと鰻だな)

  創業百年の老舗らしい。予約が取れない店なのに、冬部さんがわざわざ手配してくれたのだ。

  「君に精をつけてもらわないと」なんて、また爺むさいことを言っていたけど。こっちとしては精をつけても発散する場所がないと思うばかりだ。

  でも、あのふっくらした鰻重の写真を見ただけで、猪狩の怒鳴り声なんて蝉の声くらいにしか聞こえなくなってくる。

  「星河くん、ちょっと」

  背後から声をかけられた。

  振り返ると、猪狩が充血した目で僕を見下ろしていた。

  「さっき出したラフ案だけどさあ。……ここ、もうちょっとインパクト欲しいんだよね。なんかこう、ドカンとくるやつ」

  「ドカン、ですか」

  「そう、ドカンと。分かるだろ? クリエイターなんだからさあ」

  具体的な指示ゼロの、感覚だけの修正命令。

  以前なら「具体的に言えよこの無能豚」と内心毒づきながら、必死に取り繕っていたはずだ。

  でも今は、自然と口角が上がった。

  「分かりました。ドカンとですね。じゃあ、タイトル周りに装飾を足して、色味ももう少し派手にしてみます」

  「おお、そうそう! そういうことだよ! さすが星河くん、話が早いねえ」

  猪狩は満足そうに鼻を鳴らして去っていった。

  簡単なことだ。彼の言う「ドカン」は、要するに「俺の好みに合わせろ」という意味だ。彼の好みの配色パターンは、もう完全に把握している。

  適当にあしらっておけばいい。

  給湯室でコーヒーを淹れていると、同僚のミナミさんが入ってきた。

  彼女は長いウサギの耳をパタパタさせながら、僕の顔をじっと覗き込んでくる。

  「ねえ、星河くん」

  「はい?」

  「最近なんか、雰囲気変わった?」

  僕はマグカップを持ったまま首をかしげた。

  変わった? そんなはずはない。

  服装も髪型も、上司への「はい、分かりました」という従順な返事のトーンさえも、完璧にいつものルーティン通りにこなしているはずだ。

  「え、そうですか? いや、べつに自分では意識してない、ですけど」

  「うーん、外見っていうか……なんていうか、やっと人間っぽくなった?」

  彼女はニヤリと口元を緩めた。

  「に、人間?」

  「そう。前はなんかこう、完璧な笑顔すぎて、逆にアンドロイドみたいだったからさ。触ったら冷たそうっていうか」

  ドキリとした。

  無害な後輩を演じていたつもりが、まさかそんな風に見られていたとは。

  ウサギ獣人の聴覚は地獄耳だと言うけれど、彼女の場合、視覚の方も侮れないらしい。

  「最近、『いい顔』してるよ。……恋でもした?」

  心臓がドクリと跳ねた。

  恋?

  冬部さんとの関係を、そんな言葉で定義したことはなかった。

  あれは「営業」であり、「食い逃げ」であり、最近では「介護」に近い何かだと思っていた。

  でも、ミナミさんの言葉には妙な説得力があった。

  「まさか。仕事が楽しいだけですよ」

  僕は笑って誤魔化したが、給湯室を出る前、ふと壁の鏡に映った自分の顔を見た。

  そこに映っていたのは、いつもの貼り付けたような営業スマイルではなかった。

  目尻の力が抜け、どこか穏やかな表情をしている黒猫獣人。

  確かに、以前のようなヒリヒリした切迫感、ミナミさんの言う「アンドロイドのような冷たさ」は消えていた。

  (……いい顔、か)

  自分の頬に触れてみる。

  指先に伝わる温度は、かつてのような冷たい渇きではなく、じんわりとした温かさを帯びていた。

  週末の予定を思い出すだけで、表情筋が緩むなんて。

  僕は自分が思っている以上に、あの白熊に餌付けされているらしい。

  デスクに戻ると、スマホに通知が来ていた。

  冬部さんからだ。

  『今度の鰻屋だが、少し早めに行って近くを散歩しないか? 天気が良さそうだ』

  僕は画面を見つめたまま、小さく吹き出した。

  鰻の前に散歩。おじいちゃんかよ。

  でも、その提案をまったく嫌だと思っていない自分に気づいて、僕は「了解です」とスタンプを返した。

  もう、猪狩の減点なんてどうでもよかった。

  ◇

  ゴールデンウィークの初日。

  僕は自宅のソファで、無意味にテレビのチャンネルを変え続けていた。

  「……つまんない」

  独り言が、埃っぽい部屋に吸い込まれていく。

  本当なら今頃、冬部さんとどこかの温泉街でも歩いているはずだった。いや、勝手に僕がそう思い込んでいただけだ。「連休はどうする?」と聞かれて、「空いてますけど」と答えるシミュレーションまで完璧だったのに。

  『すまない。連休は実家の法事があってね。田舎に帰らないといけないんだ』

  二週間前、申し訳なさそうに言われた言葉を思い出す。

  僕はその時、「あ、全然大丈夫です! 僕も溜まってる仕事あるし」なんて、これっぽっちも思っていない台詞を笑顔で吐き出した。

  物分かりの良い、自立した大人のフリ。

  その結果がこれだ。仕事なんて半日で終わった。

  スマホを見る。通知はない。

  (……いや別に、寂しいわけじゃないけど)

  ただ、生活リズムが狂うのが不愉快なだけだ。

  最近は毎週土曜日にあの白熊に餌付けされるのがルーティンになっていたせいで、胃袋と体内時計が勝手に「週末の予定」を求めて誤作動を起こしている。これはいわば、禁断症状みたいなものだ。僕の精神的な弱さとは関係ない。

  そのままスマホを見たり見なかったり、ゴロゴロしたりしなかったりして、なにかしてるのか、なにもしてないのかわからない休日を過ごして、気づけば夜十時。

  僕は舌打ちを一つして、スマホを掴んだ。

  暇つぶしだ。そう、あまりに暇すぎて死にそうだから、からかい半分で電話してやるだけだ。

  名目は「来週のお店の予約時間の確認」。ネットで調べれば一秒でわかることだけど、おじさんのアナログな手帳管理を心配してあげるフリをする。完璧な口実だ。

  『……はい、もしもし』

  数コールの後、少し枯れた低い声が響いた。

  その音を聞いた瞬間、胸の奥で固まっていた黒い澱が、勝手にじわりと溶け出した。

  良い声の男は、ズルい。

  「あ、冬部さん? 夜遅くにごめんなさい。今、大丈夫ですか?」

  『ああ、構わないよ。どうしたんだい?』

  「いえ、来週の予約の時間って、六時で合ってたかなって。僕、うっかり書き間違えちゃったみたいで」

  『はは、君らしいな。……六時で合ってるよ。楽しみにしてくれているんだね』

  穏やかな笑い声に図星を突かれて、僕は眉をひそめた。楽しみになんてしてない。ただのスケジュール確認だ。

  背景からは、虫の声と、遠くで誰かが談笑するような音が微かに聞こえる。田舎の親戚に囲まれて、さぞかしご満悦なことだろう。こっちがコンビニ弁当で済ませたことなんて知りもしないで。

  「……そちらは、どうですか? お忙しいんですか?」

  『まあね。親戚が多くて大変だよ。酒を飲まされてばかりで、少し頭が痛い』

  「うわぁ、大変ですね。……あんまり飲みすぎないでくださいよ? 倒れられたら迷わk……あ、じゃなくて、心配ですから」

  危ない。

  「倒れられたら迷惑(僕との予定が潰れるから)」と本音が漏れそうになり、慌てて「心配」という美しいラッピングで包み隠す。

  心臓がドクリと跳ねた。最近、気が緩んでるんじゃないか、僕。

  『ふふ、ありがとう。……でも、君の声を聞いたら、少し楽になったよ』

  は? なにそれ。

  無意識なのか、計算なのか。この白熊は時々、こういう爆弾をサラリと投げてくる。

  カアッと頬が熱くなるのがわかった。悔しい。こんなベタな台詞で動揺するなんて、僕のプライドが許さない。

  それから十分ほど、他愛のない話をした。

  中身なんてない会話だ。でも、その言葉のキャッチボールをするたびに、逆立っていた神経が勝手に撫でつけられていく。

  これはあれだ、精神安定剤みたいなものだ。無料で使えるなら使っておかないと損だ。そうだ、損したくないだけだ。

  『……そろそろ、寝るよ。明日も早いんだ』

  「あ、はい。すみません、夜遅くに」

  『いや、電話をくれて嬉しかった。……おやすみ、カオルくん』

  「……おやすみなさい、冬部さん」

  通話が切れる。部屋に静寂が戻ってくる。

  さっきまで耳元にあった温かい気配が消え、急激に現実の冷たさが押し寄せてくる。

  ため息が出た。

  声を聞いて満足するどころか、余計に腹が減った野良猫みたいな気分だ。

  あーあ、最悪。変なスイッチが入ってしまった。

  僕は画面が暗くなったスマホを睨みつけ、そのままシーツの中に手を滑り込ませた。

  仕方ない。これは生理現象だ。

  溜まったストレスを発散するための、健全なメンテナンス作業だ。

  目を閉じる。

  思い浮かべるのは、さっきまで電話の向こうにいたあの男。

  

  全部、あの鈍感なんだか臆病なんだか天然なんだかわからない白熊が悪い。

  僕という健気な黒猫の若者の魅力に気づかず、生殺しにして、連休も放置して、思わせぶりな台詞で煽った罰だ。

  僕は心の中で盛大に悪態をつきながら、彼を勝手に脳内に呼び出した。

  「……んっ、ぁ……じょうじ、さ……」

  自分の指先を、彼の手だと思い込む。

  現実の彼は指一本触れてくれないヘタレだけど、妄想の中の彼は、僕の望むことを全部してくれる。

  こうして勝手に彼を「無断使用」して、一人で処理するのは、もう習慣になっていた。

  惨め? いや、これは正当な権利行使だ。彼が抱いてくれない分のツケを、こうやって回収しているだけだ。

  「……っ、んぅ……っ!」

  短い絶頂の後、僕は丸くなって荒い息を整えた。

  けだるい余韻の中で、胸の奥だけがチクリと痛む。

  

  ——ムカつく。

  

  好きなように使ってやったのに、ちっともスッキリしない。

  妄想じゃ足りない。本物の体温じゃなきゃ、このイライラは収まらない。

  僕はカレンダーの来週の土曜日の日付を、親の敵のように睨みつけた。

  (覚えてろよ、クソ白熊……)

  次会ったら、絶対にタダじゃ済まさない。

  骨の髄までしゃぶり尽くして、僕なしじゃ生きられない体にしてやる。

  僕は涙目でそう誓いながら、誰もいないベッドで丸くなった。

  ◇

  梅雨入りが発表された週の週末。

  ついに、その時は来た。

  「雨で外食も億劫だし、家で映画でも観ながら食事はどうだい?」

  冬部さんからのメッセージを見た瞬間、僕はスマホを握りしめてガッツポーズをした。

  来た。ついに「家」だ。

  半年間、頑なに外食だけで済ませてきたあの鉄壁の白熊が、ついに自分の城門を開いたのだ。

  これはもう、実質的な合意と見ていいだろう。

  「映画でも観ながら」なんていうのは口実だ。男と女(男だけど)が密室で映画を観て、何もしないわけがない。

  (待ってろよ、おっさん……。半年分のツケ、たっぷり払ってもらうからな)

  僕は入念に準備をした。

  ムダ毛の処理は完璧。ボディクリームは普段より高価なものを使い、肌触りを極上のシルクように仕上げた。

  そして下着。

  一月の失敗を教訓に、今回はさらに攻撃力の高いものを選んだ。フロントが紐だけの極小Tバックだ。脱がなくても横にずらすだけでイケる実用性も兼ね備えている。

  香水は、雨の湿気に負けないよう、少しスパイシーで甘いものを手首と足首に忍ばせた。

  土曜日の夕方。

  僕は指定された住所のマンションへ向かった。

  閑静な住宅街にある、真新しい白塗りのデザイナーズマンションだ。

  さすが一級建築士、住む場所にもこだわりを感じる。

  インターホンを押すと、「はい」という低い声が聞こえ、すぐに解錠された。

  エレベーターで十階へ。

  ドアが開くと、エプロン姿の冬部さんが立っていた。

  「いらっしゃい。足元が悪かったろう」

  「お邪魔します、冬部さん」

  僕は濡れた傘を畳みながら、上目遣いで彼を見上げた。

  部屋の中からは、出汁のいい香りが漂ってくる。

  通されたリビングは、予想以上に広かった。

  壁一面の本棚には建築関係の専門書や小説がぎっしりと並び、窓際には背の高い観葉植物が置かれている。

  家具はどれも木製で統一され、華美ではないが質の良さが滲み出ている。

  掃除が行き届いていて、独身男性の部屋とは思えないほど清潔だ。

  「適当に座っていてくれ。もうすぐ出来るから」

  冬部さんはキッチンへ戻っていく。

  僕はソファに腰を下ろした。

  座り心地がいい。革張りだが冷たくなく、体に吸い付くような感触だ。

  (……いい部屋だな)

  こんな部屋で、毎日あの白熊と一緒に暮らせたら。

  ふとそんな想像をして、僕は慌てて頭を振った。

  違う、今日は「暮らす」んじゃなくて「落とす」ために来たんだ。目的を見失うな。

  やがて運ばれてきたのは、手の込んだ和食の数々だった。

  茄子の煮浸し、豚の角煮、出汁巻き卵、そして炊き込みご飯。

  どれも家庭的だが、盛り付けが綺麗で食欲をそそる。

  「乾杯しようか。今日はこれを開けたんだ」

  冬部さんが持ってきたのは、珍しい銘柄の日本酒だった。

  ようやくアルコールありだ。

  僕たちは乾杯し、食事を始めた。

  「ん、美味しい……! 冬部さん、料理上手ですね」

  「一人暮らしが長いからね。自分の口に合うものを作っていたら、自然とこうなったんだよ」

  角煮は箸で切れるほど柔らかく、煮浸しは味が染みている。

  お酒が進む。会話も弾む。

  窓の外では雨が降り続いているが、部屋の中は暖かく、穏やかな時間が流れていた。

  食事が終わると、冬部さんは「映画でも観ようか」とプロジェクターを準備し始めた。

  部屋の照明が落とされ、間接照明だけの薄暗い空間になる。

  ムードは最高だ。

  僕はソファでくつろぐふりをしながら、さりげなくシャツのボタンを一つ多く開けた。鎖骨が綺麗に見える角度。手首と足首に忍ばせた香水の香りも、体温でちょうどよく立っているはずだ。

  準備を終えた冬部さんが戻ってくる。僕は上目遣いで、最高に色っぽく流し目を送った。

  「準備、ありがとうございます」

  僕は、隣に座って、と促すようにソファの座面に手を置く。冬部さんは僕を見て、一瞬、足を止めた。

  その目が、すうっと細められる。

  欲情の熱さじゃない。かといって、拒絶の冷たさでもない。まるで、散らかった部屋の隅でうずくまっている子供を見つけた時のような、困惑と……何か重たいものが混じった眼差し。

  (……っ、なんで?)

  なんでそんな、「可哀想なもの」を見るような目をするんだ。僕は今、最高に魅力的で、誘っているはずなのに。その視線に晒されると、せっかく整えた勝負服が、急にみすぼらしいボロ布に思えてくる。自分が「必死すぎる」と笑われているような気がして、頬が熱くなった。

  「……冬部さん?」

  居心地が悪くなって声をかけると、彼はハッとしたように眉尻を下げた。

  「……君は、準備がいいな」

  「え?」

  「いや、映画の話だ。楽しみにしてくれていたみたいで嬉しいよ」

  彼はそう言って、僕の隣に——しかし、微妙な距離を空けて腰を下ろした。

  「準備がいい」という言葉が、妙に引っかかる。褒め言葉のはずなのに、胸の奥に小さな棘が刺さったみたいにチクリとした。まるで僕が武装していることを、全て見透かされているような響きだったからだ。

  選ばれた映画は、古いモノクロの名画だった。

  僕たちはソファに並んで座った。

  距離は二十センチ。手を伸ばせば触れられる距離だ。

  映画が始まって三十分。

  僕はそろそろ仕掛けることにした。

  自然な動作で足を組み替え、冬部さんの方へ体を傾ける。

  膝が彼の太腿に触れる。

  「……譲二さん」

  「ん?」

  彼は画面から目を離さずに応えた。

  僕はさらに距離を詰め、彼の肩に頭を預けた。

  太い腕の感触。体温。石鹸の匂い。

  「エアコン、ちょっと効きすぎじゃないですか?」

  嘘だ。温度は快適そのものだ。けれど、薄着の僕が身を寄せれば、大人の男は「寒いのかな」と勘違いしてくれるはずだ。

  「そうか? 温度、上げようか」

  「ううん……このままでいいです」

  僕はそっと手を伸ばし、彼の手の甲に重ねた。そして、指を絡ませるようにして、湿った声で囁く。

  「譲二さんがあったかいから、ちょうどいい」

  今度こそ、逃さない。半年間焦らされた分、今夜は朝まで離してあげない。

  僕は心臓が高鳴るのを感じながら、彼の反応を待った。

  さあ、どうする?

  このまま僕の手を握り返して、押し倒してくるか?

  それとも、「映画が終わってから」なんて焦らすのか?

  けれど、譲二さんから返ってきた反応は、僕の予想をまたしても裏切るものだった。

  譲二さんの手は、僕の手を握り返してこなかった。

  かといって、振り払うわけでもない。

  彼はただ、重ねられた僕の手の上に、自分のもう片方の手をそっと乗せただけだった。

  「……手が、冷えてるね」

  彼がポツリと呟いた。

  それは誘惑への応答ではなく、単なる事実の確認のようだった。

  大きな掌でサンドイッチにされた僕の手は、彼の体温に包み込まれて、じんわりと熱を帯びていく。

  (……え?)

  僕は拍子抜けして、彼の横顔を見上げた。

  譲二さんは穏やかな表情でスクリーンを見つめている。その瞳には欲情の色など微塵もなく、ただ映画のストーリーを追っているだけだ。

  いつもの僕なら「なんで手を出さないんだよ!」とキレるか、さらに大胆に迫る場面だ。

  けれど、不思議と体が動かなかった。

  彼の掌の温かさが、手首から腕を伝って、胸の奥へと染み込んでくる。

  その熱は、今まで僕が知っていた「性急な欲望の熱」とは全く違っていた。

  じっくりと、ゆっくりと、芯まで温めてくれるような、凪いだ海のような熱さ。

  映画の中では、男女が別れの言葉を交わしている。

  部屋の中には静かな雨音と、譲二さんの規則正しい呼吸音だけが響いている。

  (……あれ?)

  僕はふと、自分の中にあった焦りが溶けていくのを感じた。

  さっきまで「絶対に落としてやる」「既成事実を作ってやる」と意気込んでいた気持ちが、まるで嘘のように消えていく。

  今、僕はこの人を誘惑して、服を脱がせて、行為に及んで……それでどうしたいんだっけ?

  快楽が欲しい? 違う。

  所有権を確定させたい? それも何か違う気がする。

  譲二さんの体温に触れているだけで、呼吸が楽だ。今まで、誰かといる時は常に採点におびえ、相手を喜ばせるための正解を探して酸欠になりそうだったのに。今は、ただ息をしているだけでいい。この温かい手の下にある自分の手が、震えていないことに気づく。

  セックスをしてしまえば、この時間は「事前の駆け引き」や「事後の倦怠」に変質してしまう。

  賢者タイムが来て、気まずくなって、着替えて帰る……そんなありきたりな結末で、この完璧な夜を終わらせたくない。

  (……したくない)

  自分でも驚くような感情が湧き上がってきた。

  抱かれたくない、わけじゃない。

  ただ、今はまだ、この温かい毛皮のそばで、何もせずにいたい。

  ふと、隣から小さな寝息が聞こえてきた。

  見ると、冬部さんの頭がこくりと船を漕いでいる。

  お腹がいっぱいで、お酒が入って、部屋で映画を観て……睡魔には抗えなかったらしい。

  「ふふっ……」

  僕は思わず笑ってしまった。

  無防備すぎる。ここで僕が襲いかかったらどうするつもりなんだ。

  でも、その隙だらけの寝顔が、認めたくないけど、微笑ましい。

  僕はそっと手を解き、ソファの背もたれにあったブランケットを彼にかけてあげた。

  そして、自分もその端っこに潜り込み、彼の大きな肩に頭を預けた。

  譲二さんの体温と、リネンのような清潔な匂い。

  そこは、どのラブホテルのベッドよりも心地よかった。

  「おやすみ、譲二さん」

  僕は小さく囁いた。

  勝負下着は無駄になったけれど、惜しくない。

  僕は目を閉じ、スクリーンから漏れる淡い光の中で、深く、泥のように安らかな眠りへと落ちていった。

  窓の外の雨音は、いつしか優しい子守唄のように聞こえていた。

  ◇

  眩しい光が、瞼の裏を刺した。

  ゆっくりと目を開けると、遮光カーテンの隙間から、微かな日差しが差し込んでいた。

  「……ん」

  体を起こそうとして、自分の姿勢に気づく。

  僕はソファの上で、大きな白い毛皮に半分埋もれるようにして眠っていたらしい。首が少し痛いが、不思議と体の節々は軽かった。

  横を見ると、冬部さんはまだ規則正しい寝息を立てている。いつもよりさらに無防備な顔だ。

  (……寝ちゃったのか、僕)

  あんなに意気込んで、勝負下着まで穿いてきたのに。

  結局、色仕掛けも何もせず、ただの抱き枕みたいにして朝を迎えてしまった。

  なのに、胸の中にあるのは「失敗した」という後悔ではなく、サイダーの泡みたいな爽やかな充足感だった。

  立ち上がって伸びをする。

  コーヒーでも淹れようか。そう思って振り返ると、譲二さんが目を覚ましていた。

  眠そうな目をこすり、こちらを見つめている。

  「……おはよう、カオルくん」

  「おはようございます、譲二さん。……よく眠れました?」

  「ああ。君のおかげで、熟睡できたよ」

  彼は照れ臭そうに笑って、のそりと身を起こした。そのままキッチンへ歩いていく。

  その何気ない笑顔を見た瞬間、僕の中で堰き止めていた問いが、不意に溢れ出した。

  「ねえ、譲二さん」

  「ん?」

  「僕たちって……どういう関係なんですか?」

  コーヒーメーカーに水を入れようとしていた冬部さんの手が止まる。

  僕は一歩踏み出した。もう、誤魔化したくない。

  「一緒にご飯食べて、家まで呼んで、同じソファで寝て……それでも指一本触れないなんて。僕って魅力、ないですか? それとも、ただのペット扱い?」

  声が少し震えた。

  もし「君はただの甥っ子代わりだ」なんて言われたら、僕はきっと立ち直れない。

  譲二さんはゆっくりとこちらに向き直った。

  薄暗い部屋の中で、その茶色の瞳だけが真摯に僕を捉えている。

  「……魅力がないなんて、とんでもない。君は、眩しすぎるくらいだよ」

  「じゃあ、なんで……!」

  「……見ていられなかったんだ」

  譲二さんの口から出たのは、意外な言葉だった。

  大きな白熊が、弱々しく眉を下げて、まるで自分の非を認めるように笑っている。

  「初めて会った夜から、君はずっと……何かを焦っているように見えた」

  「……焦ってる?」

  「ああ。君が私を誘う時、笑っているのに、どこか必死で……まるで、自分の一部を切り売りしているように見えて、痛々しかった」

  図星だった。

  心臓の奥を、冷たい手で掴まれたような気がした。

  否定したかったけれど、声が出なかった。

  だって、そうだったから。

  誰かに強く抱きしめられていないと、自分が透明になって消えてしまいそうで怖かった。だから手当たり次第に温もりをかき集めて、それでも朝になれば、また凍えるみたいに寒くて。

  セックスという「痛み止め」は飲めば飲むほど、それなしじゃいられなくなった。まるで、麻薬みたいに。

  「私は欲張りなんだよ、カオルくん。君のサービスが欲しいんじゃない。……君自身が、欲しかった」

  「……」

  「体を支払わなくても、ただ一緒にご飯を食べて、笑っているだけで……君にはここにいる価値があるんだと、分かってほしかったんだ。……まあ、半年も待たせたのは、私の意地悪だったかもしれないね。ごめんよ」

  譲二さんは一歩近づいてきた。

  その手が伸びてきて、僕の頬にそっと触れる。

  大きくて、温かい掌。

  それは僕を「消費」するための手ではなく、壊れ物を扱うような慎重な手つきだった。

  その温かさに触れた瞬間、張り詰めていた糸がプツリと切れた。

  感動で胸がいっぱいになる……はずだった。

  でも、それ以上に、脳裏である言葉がリフレインした。

  ——半年も待たせたのは、私の意地悪だったかもしれないね。

  (……は?)

  待て。今、なんて言った?

  意地悪? ……わざと?

  こっちが毎晩「僕に魅力がないのか」って枕を濡らして、高い下着買ったりムダ毛処理したり、胃が痛くなるほど悩んでたのに?

  それを、この熊は全部わかってて、高みの見物を決め込んでたってこと?

  「……ふざっ、けんな」

  喉の奥から、低い声が漏れた。

  抑えようとした時にはもう遅かった。反射的に、頬に添えられた譲二さんの手を、パシッと払い除けてしまっていた。

  乾いた音が響く。

  譲二さんが驚いて目を丸くし、僕の手と顔を交互に見ている。

  (……あっ、やば)

  血の気が引く。

  何やってんだ僕。せっかく両想いの雰囲気だったのに。

  「可愛くて健気なカオルくん」でいれば、ハッピーエンド確定だったのに。

  今ので全部台無しだ。手を払うなんて。睨みつけるなんて。

  謝らなきゃ。

  「ごめんなさい、手が滑って」って、可愛く誤魔化さなきゃ。

  ——でも。

  腹の底から湧き上がる熱い塊が、もう喉元まで来ていた。

  半年分の我慢と不安。そして自分でわかって欲しかった、なんて澄ました顔で僕をコントロールしていたこのおじさんへの苛立ち。

  (……もういいや)

  ブチリ、と頭の中で何かが切れる音がした。

  どうにでもなれ。

  こんな猫被ったまま愛されたって、どうせいつか剥がれるんだ。なら、今ここで全部見せて、嫌われるならそれまでだ。

  僕はいっそ開き直って、譲二さんを思い切り睨みつけた。

  「なにそれ。半年も放置プレイしておいて、最後はイイ話でまとめようって? そんな都合のいい話ある?」

  口をついて出たのは、甘い愛の言葉じゃなく、棘だらけの悪態。

  「おや、手厳しいな」

  「当たり前でしょ! こっちは半年間、生殺しにされてたんだよ? 趣味悪いよ、この悪徳熊!」

  今までなら絶対に見せなかった、眉間に皺を寄せた不機嫌な顔。

  「可愛い黒猫くん」の仮面をかなぐり捨てて、毒を吐き散らす。

  心臓はバクバク言っている。「嫌われる」という警報が頭の中で鳴り響いている。

  でも、止まらない。一度壊れたダムからは、泥水みたいな本音が溢れ出してくる。

  「だいたいねぇ、君のため、とか言って自分が気持ちよくなってんじゃないの!? 人の気も知らないで……!」

  一息にまくし立てて、僕は肩で息をした。

  終わった。完全に終わった。

  こんな性格の悪い男、誰だって願い下げだ。

  僕はギュッと目を閉じて、譲二さんからの「帰ってくれ」という言葉を待った。

  けれど。

  聞こえてきたのは、罵倒ではなく、空気が抜けるような音だった。

  「……ぷっ」

  恐る恐る目を開けると、譲二さんが口元を押さえて、肩を震わせていた。

  そして、堪えきれないというように笑い始めたのだ。

  「……なに、笑ってんの?」

  「いや、ごめん。……やっと、本当の顔を見せてくれたなと思って」

  「……っ」

  「私は、その不機嫌そうな顔のほうが好きだよ。作り笑いより、ずっといい」

  彼は目尻に涙を浮かべて笑っている。

  その笑顔を見ていると、振り上げた拳の行き場がなくなって、僕は脱力したように溜息をついた。

  ……敵わない。この白熊には、どう足掻いても勝てない。

  「……勘違いしないでよね」

  僕は彼の胸元にあるシャツの生地を、ぎゅっと握りしめた。視線は合わせない。

  「別に、楽しかったわけじゃないから。……ただ、あんたといると、なんか調子狂うっていうか」

  「うん」

  「セックスのこととか、自分のこととか……そういう面倒くさいこと、考えるの忘れちゃうんだよ。……それが、なんか……悔しい」

  認めるのは負けた気がするけれど、事実だった。

  あんなに欲しかった「痛み止め」がなくても、この人のそばにいるだけで、不思議と喉は乾かなかった。

  この半年間、僕は自分が「中毒者」であることを忘れていられたんだ。

  「……責任取ってよね、おじさん」

  僕は爪先立ちになり、ふてくされた顔のまま、自分から彼の首に腕を回した。

  「……ああ」

  譲二さんの目が優しく細められる。

  そのまま、僕は彼の唇に自分の唇を押し付けた。

  舌を入れるわけでも、唾液を絡ませるわけでもない。

  ただ、体温と体温を確かめ合うだけの、小鳥のようなキス。

  触れ合った場所から、じんわりとした熱が全身に広がっていく。それは、一瞬で燃え尽きる快楽の火花なんかよりもずっと深く、僕の冷え切った魂を芯から温めていくようだった。

  唇が離れると、譲二さんは今までで一番優しい顔で微笑んだ。

  「……大好きだよ、カオルくん」

  低く、腹の底に響く声で紡がれたその言葉は、まるで重力のように僕をその場に縛り付けた。

  今まで何十人の男に抱かれてきたけれど、こんなにシンプルで、重たくて、逃げ場のない言葉を言われたのは初めてだった。

  「好き」でも「愛してる」でもない。「大好きだ」。

  まるで子供が宝物を抱きしめるような、混じりけのない肯定。

  僕は熱くなった顔を隠すように、彼の分厚い胸板に額を押し付けた。

  Tシャツ越しに伝わる心臓の音が、僕の鼓動とリズムを合わせようとしている。

  「……言ったね? もう撤回できないよ」

  「ああ」

  「僕、重いよ? 面倒くさいよ? すぐ不安になるし、試し行動とかするし、あんたが思ってるようないい子じゃ全然ないよ?」

  脅すように言ってみる。でも、声は情けないほど震えていた。

  譲二さんは、僕の背中に回した腕に、ぎゅっと力を込めた。

  「かまわないさ。……私は力が強いからね。重いくらいが、抱き心地が良くてちょうどいい」

  意味が微妙にズレている。でもそのズレも、この人らしいと思った。

  僕は彼の背中に爪を立てるようにして、シャツを強く握りしめた。

  もう、この温かい檻から逃げ出すことはできない。逃げたくない。

  「……知らないからな」

  僕は涙声をごまかすために、精一杯の憎まれ口を叩いた。

  「ノークレーム・ノーリターンだからな」

  それは僕なりの、契約書へのサインだった。

  譲二さんの胸の奥から、くくっと低い笑い声が響いてくる。それはどんな言葉よりも心地よく、僕の耳を震わせた。

  「……お腹、空いた」

  涙を誤魔化すように呟くと、冬月さんは「ああ」と優しく頷いて体を離した。

  「朝ごはんは何がいい?」

  「フレンチトースト。甘いやつ」

  「了解。……甘いのは得意じゃないんだが、君のためなら練習しよう」

  彼はエプロンを手に取り、鼻歌交じりにキッチンへと向かっていく。僕はその大きな背中を見送りながら、リビングの窓へと歩み寄った。重たい遮光カーテンに手をかけ、勢いよく開け放つ。

  途端に、まばゆい光が部屋の中に雪崩れ込んできた。

  厚いガラスの向こうには、目が覚めるような青が広がっている。昨夜まで街を覆っていた雨雲は嘘のように消え去り、遥か遠くのビル群までが、洗われたようにくっきりと稜線を描いている。梅雨の晴れ間だ。 眼下に広がる住宅街の屋根々々が、濡れた瓦を朝陽に輝かせ、街全体が水鏡のように空の光を跳ね返している。地上ではまだ水たまりが残っているのかもしれない。けれど、この高さから見る世界は、ただひたすらに眩しく、どこまでも透明だった。澱んだ雲は流れ去り、遮るもののない光だけが、静かにこの部屋を満たしていく。

  眩しさに目を細め、僕は振り返る。キッチンでは、湯気を立てるコーヒーメーカーと、手慣れた様子で卵を割る大きな白熊の姿があった。

  僕は小さく笑って、目元の涙を拭った。

  採点表は、もういらない。誰かに点数をつけられなくても、点数をつけ返さなくても。僕の価値は、この人が隣にいてくれる。ただそれだけで証明されている。

  そんな気が、するから。

  (了)