川越巨獣伝③

  僕はひどく疲れていた。

  朝早く叩き起こされ、殴られたあげく山中を駆けまわり、ベアラに殺されかけたのだ。

  僕は自衛官たちと一緒に、ひとまず川越の市役所へ送り届けられることになった。

  市役所で車から降りた途端、フラッシュが焚かれ、多数の報道陣に取り囲まれる。

  『あの巨大熊について聞かせてください……』

  『熊の他にも、巨大な動物が目撃されたようですが……』

  『自衛隊が市内で実弾を使用したことについて……』

  『……そこにいる彼はどなたでしょうか?』

  質問は刑事と3佐に集中したので、僕は目立たず市役所に入ることができた。多少はテレビに映ったかもしれないが。

  昼食にカレーをごちそうになり、ソファに横たわる。このまま二十四時間ぶっ通しで眠りたかった。

  ──だが、目は冴えたままだ。

  『──人間なんか助けるんじゃなかった!』

  彼女の言葉が、頭の中にこびりついて離れない。

  「……お疲れ様。大変だったね。でも、おかげでベアラを駆除することができた」

  顔を上げると、刑事が僕のスマホを手に立っていた。

  「もう、帰ってもいいんですか?」

  スマホを受け取ると、刑事がとまどうように口を開く。

  「ああ、かまわないが……あの、巨大な狼については──」

  「僕は何も知りません。聞かれても何も答えられません」

  僕はきっぱりと言った。刑事は僕の目を見て頭をかいた。

  「……わかった。そういうことにしておこう」

  記者会見が開かれている間に、僕は市役所を出た。午後二時。今日も暑い一日になりそうだ。

  スマホの電源を入れると、美奈からのメッセージが届いている。

  『何か大変なことになってるけど、昨日行くっていってたところじゃない?』

  『ちょっと、大丈夫なの?』

  『……今、テレビに出てなかった?』

  「びっくりしたよ! まさか当事者とは思わないじゃない?」

  美奈はわざわざ川越まで来てくれた。テレビで僕を見て電車に飛び乗ったらしい。

  早く帰りたい気持ちもあったが、美奈の顔も見たかったのだ。駅前のファーストフードで待ち合わせして、今日起こったことをかいつまんで話した。

  「ひどい目に合ったね……」

  美奈は優しく、湿布を貼った僕の頬に触れた。

  「まあ、大したことはないよ」

  満身創痍だったが、男として弱いところは見せたくない。

  「せっかくだし、ちょっとブラブラしてこうよ」

  美奈が腕をからませてくる。化粧の甘い香りが鼻をくすぐった。

  僕らは川越の町を歩き始めた。

  町のメインストリートともいえるのが“蔵造りの町並み”で、瓦屋根に漆喰の壁という、江戸時代を思わせる店が並んでいる。あれだけの騒ぎが起きたのに、大勢の観光客で通りは溢れている。入間川まではかなり距離があるし、真夏の観光シーズンに店を閉めるわけにもいかないのだろう。

  通りの中央には一棟だけレトロな西洋式の建物がある。昭和初期に建てられた〈ひびき銀行〉で、つい最近まで現役で営業をしていたという。

  さらに奥に進んだところには、江戸時代に建てられた〈時の鐘〉がある。その名のとおり時刻を告げるための木造の鐘楼で、高さは十六メートルほど。まわりに高い建物がないのでひときわ目立っていた。

  美しい町並みを、美しい彼女とのんびり歩く。これ以上の幸せがあるだろうか?

  ──そんなことを考えていると、彼女が僕の耳元にささやいた。

  「それにしても……すごいチャンス、つかんだね」

  「チャンス……?」

  何のことかわからず、僕は立ち止まった。彼女はわからないのがわからない、という目で僕を見た。

  「だってそうでしょ? これだけの大事件で、あなたがその中心なんだもん。私たち有名になれるよ!」

  「……」

  ──そんなものだろうか。

  言葉が見つからず、僕は再び歩き出した。彼女はどこか不満そうな顔をした。

  氷川神社の近くまで歩いてくると、急に人通りが多くなった。報道関係らしいヘリが旋回している。

  「どうかしたの?」

  「わからないな。ベアラのことならもう片付いたはずだし……」

  美奈はスマホで何か検索していたが、突然声を上げた。

  「あの熊、引き上げ作業が終わったみたいよ。これからこの近くを通るみたい!」

  「ええっ?」

  「ねえ、見に行こうよ」

  「……」

  気が進まない。何人もの犠牲者が出ている事件。僕の中ではもう忘れたい事件なのだ。

  「どうしたの? テレビ局の人とかいるかもよ。みんなあなたの話を聞きたがるわ」

  「だけど……」

  「もう、何なの? あなた文学部なんだから、このことを本にして売りこもうとかいう気はないの? ただでさえ文学部なんて就職には不利なんだから──」

  突然にスマホから警報が鳴り響き、僕は跳び上がりそうになった。

  僕だけではなく、美奈のスマホも、歩いている人たちからのスマホからも鳴っている。

  ──Jアラート。緊急を呼びかける行政からの警報だ。

  「え……何?」

  美奈は混乱していたが、僕にはおおかたの予想はついていた。スマホの画面にはこう表示されていた。

  『国民保護に関する情報──輸送中の大型肉食獣が逃亡しました。直ちに避難してください。

  対象地域……埼玉県川越市』

  ──ベアラは死んでいなかったのだ!

  僕は美奈の手を取って、急いで駅に向かおうとしたが、早くも路上は逃げまどう人たちと、避難してきた車両で身動きも取れないほど埋まっている。

  警報が鳴りやんだかと思うと、電話がかかってきた。どうにか建物の陰に身を寄せて電話に出た。

  「もしもし?」

  『秩父署の宝田です……今、どちらにおられます?』

  「まだ川越にいますが……」

  『よかった! 申し訳ないが、すぐに川越の市役所まで来てもらえないだろうか』

  「刑事さん、今はそれどころじゃ……」

  『わかっている。君ももう知っているかと思うが、ベアラが目を覚ました。まだ動きは鈍いが……おそらくは人間がいることを察知して、川越市街地に向かっている。大至急、君に頼みたいことがあるんだ』

  「頼みたいこと……?」

  『あの狼──千疋狼を、もう一度呼ぶことはできないだろうか』

  「……」

  あまりのことに、しばらく言葉を失った。美奈が心配そうに僕の顔を覗きこむ。

  「どうしたの? 誰から?」

  「いや……」

  そうしている間にも、刑事は言葉を続けた。

  『もちろん、警察や自衛隊も動いているが、現場は混乱している。思うような動きがとれない。それにあれだけの攻撃に耐えた奴だ。次の攻撃でも成果があるかどうか……だから考えた。あの狼なら奴を倒すか、少なくとも安全な山の中に追いこむことができるんじゃないかと──』

  「できません」僕は言った。「そもそも、彼女たちがどこにいるかもわかりません。あなたたちが撃ったりするから……」

  『われわれは事情を知らなかった。君は知っていたのに教えてくれなかった──君を責めているわけじゃないんだ。あの少女が黙っていてくれと頼んだんだろう。それでもあの子らは君を助けにきてくれた。君の頼みならもう一度手を貸してくれるんじゃないか?』

  「そんな勝手な……」

  『勝手なのは承知だ。だが市民の安全を守るためならあらゆる手段を使うつもりだ。もし協力が得られないのなら、君を見つけ出してでも──』そこで刑事は言葉を切った。『すまない。無理強いできることではないな。忘れてくれ』

  「……」

  「どうしたの? 早く逃げようよ!」僕の袖を引いて美奈が言う。

  「……美奈、先に逃げてくれ」

  「えっ?」

  「刑事さん、市役所ですね? 今から行きます!」

  僕は電話を切って、市役所のほうに足を向けた。ここからなら目と鼻の先だ。

  「待って、あたしも行く!」

  「駄目だ!」僕は美奈に怒鳴った。

  彼女が驚いたように足を止める。その間に僕は駆け出した。

  「もう、何なのよ! バカァ!」

  彼女の声が背中越しに聞こえてきた。

  市役所の屋上には警察のヘリが待機していた。

  宝田刑事と一緒にヘリに乗り、まずは最初に彼女たちに会った三宮山に向かう。

  ヘリは三十分ほどで三宮山上空に着いた。森林地帯を見下ろしながら旋回する。

  「いそうか?」刑事が聞いてくる。僕は首を振った。

  「やはり無理か……」刑事は汗をぬぐうと、深いため息をついた。

  「そもそも、こんな広い山の中で──」

  僕がそう言いかけたとき、何かが──説明ができない感覚が、鼻の奥に広がった。

  僕は数キロ右手にある、峰のほうを指さして言った。

  「……あそこへ」

  「い、いるのか? どうしてわかるんだ」刑事がいぶかしげな顔をする。

  「そう言いきれるわけじゃありませんが、何というか──“匂い”がするんです」

  「匂いって……」刑事は言いかけて、首を振る。「いや、賭けるしかないな」

  ヘリは峰に近づくと、すぐ近くの道路で僕を降ろした。

  「ここにいてください。刑事さんがいると、彼女たちは話を聞いてくれません」

  僕は一人、藪をかき分けて山に入った。

  不思議なほど足に迷いがない。友達の家に遊びに行くような感覚さえする。

  山を登り続けると、不自然なほど開けた場所に出た。

  同時に、突然飛んできた何かが、足元にドスンと突き刺さった。ひしゃげた砲弾だった。

  「……そんなもの撃ちこんだりして!」

  あの少女が姿を見せた。初めて出会ったとき──いや、それ以上に警戒心をあらわにして。

  驚きはしなかった。ここにいることを僕は知っていたのだ。

  「すまない……」僕は頭を下げた。

  「それで? 何しに来たのよ」少女は腕を組み、憮然とした口調で言う。

  「君たちにお願いがあるんだ。まずは君のお母さんに会わせてくれ」

  「お願い? そんなもの聞くと思う?」

  「頼む。話だけでも……」

  「帰って!」

  ──少女の背後で樹木が揺れた。

  もやのような何かが目の前を覆い、たちまち巨大な狼の顔が現われる。

  金色の瞳がじっと僕を見つめた。恐怖は感じない。僕はセンの前にひざまずいた。

  「本当に……すまないことをした。助けてくれたあなたを傷つけてしまって。だけどもう一度だけあなたに頼みたい。あいつを──あの狂暴な熊を倒すのに、手を貸してくれないか」

  センは無言のままだ。やはり駄目なのか……と思っていると、少女が言った。

  「おっかあが手を貸さなくても、あの熊はやがて死ぬわ。山を下りて食べ物もなく、何発も撃たれ続けたら、そのうち死ぬ」

  「それまでに、どれだけの人間が犠牲になるか、わからない!」

  「そんなこと知らない!」

  激昂する少女に、センが顔を寄せた。何かをささやいているようにも見える。

  少女は一瞬、驚いた顔をした。しばらく僕と彼女を交互に見つめてから口を開く。

  「おっかあが、キミを助けると言ってる」

  「えっ!」

  「でも、条件があるわ」

  駆け寄ろうとした僕を制するように、少女が続ける。

  僕の心は暗くなった──いったいどんな条件を突きつけられるのか?

  多少の無理はあの刑事に飲ませてみせる。ことは非常事態なのだから。

  しかし、もしそれが例えば──僕の命とかなら?

  「……わかった。言ってみてくれ。僕が何とかする」

  つとめて冷静に言ったつもりだが、声の震えは隠せない。少女はおかしそうに笑った。

  「その言葉を聞いて安心したわ。おっかあは、キミをあたしの婿にしたいと言ってる」

  「……」

  一瞬、わけがわからなかった。聞き違いかとも思った。

  婿? 結婚しろということなのか? 目の前の、中学生くらいの少女と?

  いや、それ以前に、彼女は人間ですらないのに──。

  「前にも言ったでしょう。何千人かに一人、狼とつがいになれる人間がいる──キミは間違いなくその一人。匂いでわかる」

  「そんな……僕は普通の……」

  「普通の人間なら、あたしたちの居場所を簡単に見つけられない」

  少女はヤッケの袖をまくり、体毛に覆われた腕を見せた。豊かな髪をかき上げると、ピンと尖った耳があらわになった。

  「あたしも百歳を超えた。もうじきおっかあみたいに大きくなる。そうなったらもう人間とはつがいになれない。それまでに子供を産まないと、狼の血は絶える。嫌なら諦めるわ。大勢が死んで、あたしたちの一族が滅びるだけ」

  「……その言いかたは、ずるい」僕は言った。「断れるわけないじゃないか」

  「決まりね。それじゃあ、行きましょうか」

  僕は再びセンのほうを見た。気のせいか、その瞳は微笑んでいるように見えた。

  ヘリで待機していた刑事たちは驚いたに違いない。突如現れた巨大な狼が頭上を飛び越えて、山を駆け下りていくのを目の当たりにしたならば。

  僕は少女と一緒に、センの背中に必死でしがみついていた。センは建物も畑もお構いなしに踏み潰して疾走する。入間川をひと飛びで超えると、あっという間に川越の町が見えてきた。

  同時に、町中でうごめく巨大な黒い影──ベアラの姿もはっきりと確認できた。

  「もうあんなところに……」

  僕は焦った。美奈が無事ならいいのだが……。

  「このままじゃおっかあが戦えない。どこかで降りなきゃ」少女が言う。

  センは町外れで僕たちを降ろした。

  ベアラもすでにセンに気づいていた。威嚇するように後脚で立ち上がり、睥睨する。

  相手に合わせるようにセンも後脚で立った。やはり人間の血が流れているのか、踵を高く上げているほかは、人間とほとんど変わらない立姿をしている。

  「アオオン!」

  センは吠えると、山のほうを顎で示した。山に帰るよう説得しているのだ。

  「グフオオオ!」

  ベアラもまた吠えた。

  僕には聞こえた──自分はやがて死ぬ。せめて命が尽きるまで人間どもを殺戮するのだと。

  ベアラが前進した。腰ほどの高さしかない、蔵造りの町並みが次々と蹴り壊されていく。手には赤く血塗られたものが握られていたが、それが何であるかは考えたくもなかった。

  センは素早く動いた。二本足のままベアラに向かって突進していく。待ち構えていたようにベアラは腕を振るった。その攻撃をバックステップでかわしたセンは、高く跳躍して強烈なキックをお見舞いする。重いベアラの体が横倒れして、家屋の破片が飛び散った。

  続けてセンの鋭い牙が、ベアラの首元に襲いかかった。しかし、それより先にベアラの脚がセンの腹を蹴り上げる。柔道の巴投げのように、センの体は弧を描いて十数メートルも向こうに落下した。

  二頭はほとんど同時に立ち上がった。川越のシンボルである〈時の鐘〉を挟んで対自する。

  そこで信じられないものを見た。

  〈時の鐘〉の隣は老舗の和菓子屋だ──その屋根の上に誰かいる!

  しかもそれは、僕がよく知っている人に似ていた。

  「……美奈!」

  距離があるのではっきりとは確認できない。僕はとっさに走り出した。

  「そっちに行ったら危ない!」

  少女が止めるのも聞かず、大通りを一気に走る。角を曲がり、〈時の鐘〉がある路地へ入った。

  やはり美奈だった。屋根の上から一心不乱にスマホで動画を撮っている。

  「美奈、何をしてるんだ!」

  「だって、こんな凄いの、撮らないわけにはいかないでしょ? 絶対に高く売れるわ!」

  「バカ! 早く降りろ!」

  ほんの目と鼻の先で、二頭が正面から組み合っている。センはベアラが動かないように抑えてくれているようだ。美奈もようやく、そろそろと屋根の上から降り始めてくれた。

  そのとき、凄まじい衝撃に地面が揺れた。鐘の脚が折れたらしく、ゆっくりと傾いていく。

  「キャアアッ!」

  足を滑らせた美奈は、必死で屋根のへりにしがみついていた。

  僕が駆け寄るのと、美奈が手を離すのはほとんど同時だった。尻餅をつきながらも何とか彼女を受け止める。

  「ごめん……大丈夫?」

  「痛てて……」

  ほっとしている間もなく、頭上でゴオンという音が響いた。

  鐘楼から外れた、巨大な金属製の鐘が屋根の上から転がり落ちてくるのが見えた。

  「うわああッ!」

  さすがに逃げる暇はないと思った瞬間、襟首をつかまれて後ろに引っ張られた。

  鼓膜が破れそうなほどの音を立てて、目の前に鐘が落下する。

  振り返ると、少女が眉をしかめて僕を見ていた。

  「その女は──」少女はふっと、ため息をついた。「そうか、もう相手がいるんだな。キミには」

  「だ、誰よこの子……知り合い?」美奈は目を丸くしている。

  「詳しい話はあとで。とにかくここを離れないと!」

  僕らがその場を離れると、センとベアラはもつれ合いながら大通りへと出た。

  ベアラはおそらく、まだ大勢の人がいるだろう駅のほうを目指している。

  センは必死に押しとどめているようだったが、それはボクサーと大相撲の力士が戦う姿に似ていた。

  距離を取って攻撃を加えれば、センのキックと噛みつきはベアラの体力を奪うだろう。

  だが正面から組み合えば──センは仰向けに、地面に押し倒された。

  その後脚をベアラが両脇に抱えこむ。

  「グフオオーッ!」

  ベアラはセンの体を振り回し、放り投げた。その先には蔵造りの町では数少ない、鉄筋コンクリートの建物──〈ひびき銀行〉がある。センは銀行に激しく叩きつけられ、外壁がひび割れた。

  なおも突進してきたベアラはセンの頭をわしづかみにして、繰り返し建物に叩きつける。

  「ギャウンッ!」センの口から悲痛な叫びが漏れる。

  「おっかあ!」

  少女が駆け出そうとしたとき、銀行が音を立てて崩れ落ちた。粉塵が舞い、目の前が真っ白になる。

  ようやく視界が開けると──そこには瓦礫に埋もれて横たわるセンの姿があった。

  「グフオオンッ!」

  ベアラは勝ち誇ったように咆哮を上げ、ズシン、ズシンと駅に向かって移動を始めた。

  少女と僕はセンのもとに駆け寄った。目の前に巨大な鼻がある。

  しっとりと濡れていた黒い鼻は粉塵で白くなり、呼吸の音は聞こえなかった。

  「そんな……そんな!」

  僕は瓦礫を駆け上り、センの体を掘り起こそうとした。少女と一緒にコンクリートの破片をどけていく。しかし、二人がかりでも埒があきそうにない。僕はスマホで撮影していた美奈に声をかけた。

  「美奈も手伝って!」

  「無理よ! こんな瓦礫の山……」

  無理なのは自分でもわかっていた。だからといって、このまま見ているだけなどできない。

  必死に瓦礫を片づける。真夏の熱気が容赦なく襲いかかり、汗は滝のように流れ、目がくらんだ。

  だから、田崎3佐の一隊がすぐそこまで来ていたことにも、声をかけられるまで気づかなかった。

  「君! 大丈夫か!」

  振り向くと、大型トラックから二十人ほどの自衛隊員が降りてくるところだった。

  3佐は呆然と、目の前に横たわるセンを見つめていた。それから崩れかけた銀行の建物と瓦礫の山を見て腕を組んだ。

  「……」

  ほんの数秒、考えこんだ。やがて「よし」とつぶやくと、大声で隊員たちに命じた。

  「──ただちに瓦礫の撤去作業にかかれ! あの狼をここで死なせるわけにはいかん!」

  「しかし、ベアラは今、駅に向かって……」

  「復唱ッ!」

  「は、はい! 瓦礫の撤去作業、開始します!」

  隊員たちがいっせいに作業にかかった。被災地などで慣れているのだろうか、驚くほど効率的な作業だった。数分もしないうちに瓦礫は撤去され、センの体は掘り起こされた。

  僕はセンの体に上って、胸のあたりに耳を当てた。その肌は冷たく、鼓動も聞こえない。

  「くそっ!」

  両手を組んで、力いっぱい胸を叩いた──心臓マッサージのつもりだった。

  彼女の巨体に、僕の非力な両腕が何の役に立つだろう。それでも僕は続けた。

  「そこをどきなさい!」

  頭上から声がした。かろうじて残っていた銀行の二階のフロアに、整列している隊員たちの姿があった。

  「行くぞ! せーのっ……」

  十人ほどの隊員が、センの胸目がけていっせいに飛び下りてきた。着地の衝撃に巨体が弾む。続けて残りの十人も飛び下りてくる。相当な圧がかかったはずだが、センが息を吹き返す気配はなかった。

  「あきらめるな! もう一回!」

  隊員たちはもう一度同じことをした。センの体に飛び下りると、即座に階段で二階まで駆け上がり、飛び下りる。十数回は繰り返しただろうか。さすがの隊員たちにも疲労の色が見え始めたときだった。

  ──センの体が、ビクンと跳ねた。

  「……!」

  僕はセンに近づいた。次の瞬間、熱い鼻息が僕の体に吹きつけられる。

  固く閉じられていた目蓋がゆっくりと開き、優しい金色の瞳が僕を見つめた。

  「……総員退避! 動くぞ!」

  3佐の声に隊員たちが退避する。

  センの胸は規則的に波打ち、垂れていた耳がピンと逆立った。

  パラパラと粉塵を振るい落としながら、センはゆっくりと立ち上がり、空を仰いだ。

  「アオオオオーンッ!」

  サイレンのような咆哮が空気を震わせる。センは身を翻すと、駅に向かって猛然と駆け出した。

  「我々も続くぞ!」3佐が命じる。

  僕と美奈は高機動車に乗せられ、隊員たちと一緒に駅へと急いだ。

  いつの間にか少女は姿を消していた。まだ3佐のことは信じられないのかもしれない。

  本川越駅前はさながら戦場だった。

  バリケードを築いていた車両が横転し、炎を上げている。ベアラに抉られたらしいアスファルトはところどころに穴が開き、血まみれで倒れている人たちが手当もされないまま横たわっている。駅前は逃げ遅れた人たちで身動きも取れないようだった。

  3佐は隊を二つに分けると、一方に負傷者の救護を、もう一方に市民の誘導を命じた。

  駅周辺にはバスターミナルが広がり、その中央にベアラはいた。

  今にも群衆を踏み潰そうとしているベアラに、センは背後から襲いかかった。首筋に噛みつき、振りほどかれる前に自ら距離を取った。挑発するように噛みついては離れを繰り返す。

  激昂したベアラが矛先を変えたのを見計らい、センは駅ビルの屋上に飛び乗った。いくら巨大なベアラでもさすがに手が届かない高さだ。センは屋上から吠え立て、さらにベアラを挑発する。

  「アウッ! アウッ!」

  ベアラは太い腕を振り回したが、せいぜい窓ガラスが割れるくらいだ。

  その間に3佐が率いる部隊は、市民をトラックに載せて避難させていたが、それに気づいたベアラは駅ビルを離れてトラックに狙いを定めた。

  途端にセンは地上へ飛び下り、噛みつき攻撃に転じた。

  「グフオッ!」

  またも屋上へと逃れたセンに向かって、ベアラは勢いをつけて突進した。

  巨体で駅ビルに体当たりすると、今度は窓ガラスが割れるだけでは済まなかった。

  ガラガラと音を立て、駅ビルが崩れ始めた。センは一瞬驚いた表情をしたが、すぐ隣にある、さらに高い建物へと退避した。駅に直結している、〈川越プライムホテル〉で、高さが六〇メートルはある。

  ベアラはそこにも体ごと突進した──が、さすがに大型のホテルだけあって、簡単には崩れない。

  「グルル……」

  ベアラの拳が窓ガラスを叩き割った。続いて後脚も窓を蹴破ると、窓枠に爪を引っかけた。

  ──窓枠を梯子がわりに登っていくつもりだ!

  センはあたりを見まわした。足場となる駅ビルはすでに崩れ落ちている。地上に飛び下りたら、あの高さでは無事には済まないだろう。近くに飛び移れるような建物もなかった。

  獲物を追い詰めるようにベアラは一段、また一段と登り、センのいる屋上に到達した。

  ベアラの爪がセンに襲いかかった。胸元が引き裂かれ、赤い血の筋が走る。

  そのとき、センがベアラに向かって突進した。

  ベアラはようやく狙いを悟ったようだ──自分を突き落とすつもりなのだと。

  同時に嘲笑ったようにも見えた。力比べで勝てないことは、すでにわかっているはずではないか。

  落ちるのは、貴様のほうだ。ベアラがセンを押し返そうとしたとき──センは体の力を抜いた。

  「グフオッ?」

  バランスを崩したベアラの体が前によろめいた。

  その隙をセンは逃さなかった。前脚はがっしりとベアラの胴をつかまえ、逞しい後脚が床を蹴る。

  次の瞬間、二頭の体はもつれ合ったまま、真っ逆さまに地上へと落下していった。

  凄まじい衝撃とともに、何かが砕ける嫌な音がした。

  破裂した水道管が水柱を噴き上げ、視界を奪う。

  僕は走った。がむしゃらに走った。

  水煙の向こうで、巨大な影がゆっくりと立ち上がるのが見えた。

  ──その影はピンと立てた小さな耳と、真っ直ぐな鼻と、金色の瞳を持っていた。

  「センッ!」

  彼女は濡れた体をブルブルと震わせると、頭蓋を砕かれ、横たわるベアラを哀しそうに見つめた。

  安堵のあまり、僕は膝から崩れ落ちた。

  「死……死んだの、その熊?」美奈が恐るおそる近づいてくる。

  僕が彼女の体を、力いっぱい抱きしめたとき、視線を感じた。

  いつの間にか、あの少女が目の前に立っていた。

  ──そうだ。約束だ。僕は彼女の婿にならなければならない。

  これからの一生を、狼の家族として生きなければならないのだ。

  僕は最後のつもりで、美奈に軽く口づけしてから少女に言った。

  「……それじゃあ、行こうか」

  「行く……行くって、どこによ?」

  美奈の声には振り返らなかった。今振り返れば行きたくなくなるだろう。

  そうなれば僕の命はもとより、美奈の身にも何かあるかもしれない。

  少女に歩み寄った途端に、僕は激しく突き飛ばされた。

  「……?」

  思わずよろめいた体を、美奈が支えてくれる。

  「……気が変わった」少女は言った。「お下がりは御免だわ。あちこちに尻尾を振っているような雄を、婿にしたいとは思わない──そうでしょ、おっかあ?」

  センはしかたない、とでもいうように鼻息を鳴らした。

  「それじゃあね」

  少女はスルスルとセンの前脚を登り、その背中に乗る。同時に煙のように姿を消した。

  ただ重い足音だけが遠ざかっていく。

  「……」

  気配に振り返ると、3佐を始めとする自衛隊員が整列し、敬礼の姿勢を取っているのが見えた。

  足音が完全に聞こえなくなるまで、彼らは右手を下ろそうとしなかった。

  ──以上が事件の顛末だ。

  死傷者二百名近くを出した未曽有の熊害──これを熊害と呼ぶべきか迷うところだが──はこうして終わった。犠牲になられた方々には、この場を借りてお悔やみを申し上げたい。

  事件が収束してからというものの、僕の生活は一変してしまった。

  僕のアパートにはマスコミと、悪名高い『動画配信者』とやらが押し掛けるようになった。

  大学にもマスコミが追いかけてきたため、僕は二学期以降を休学せざるを得なかった。

  追い打ちをかけるように、どこから嗅ぎつけたのか、スマホにも抗議の電話が殺到した。

  『なぜかわいそうな熊を殺したのか』

  『あれは学術的に価値があった』

  『あの狼のような猛獣は、君が飼っているのか』

  ある人はわめき散らし、ある人は泣き叫び、ある人は無言のまま電話を切った。

  同じような抗議は実家の父にまでかかってきているようだ。

  この手記を読まれている方々にお願いしたい。まだ良識があるのならば、父に迷惑をかけることはやめてほしい。今回の事件には何の関係もないのだから。

  僕と美奈との関係も終わりを告げた。

  アパートにいられなくなった僕は、しばらく美奈のマンションに身を隠していたが、ある日のこと、美奈が学友の佐藤を連れてやってきた。誰にも居場所を教えないように頼んでいたのだが。

  佐藤がルポライター志望だということはすでに述べたと思う。その彼がこの事件に興味を示さないわけがなく、開口一番、この事件を本にして発表しないかと言った。

  僕は丁重に断った──あの親子のことをお金にしたくないからだ。

  しばらく口論したあと、僕は美奈のマンションを飛び出した。最後に美奈が言った言葉を覚えている。

  「あたし、野心のない男は嫌いよ!」

  以来、美奈とも佐藤とも会っていない。

  すでに気づかれていると思うが、この事件について著作をものにし、テレビでもよく見かけるあの二人が美奈と佐藤だ。世間では男女の仲だとささやかれているが、それが噂であれ事実であれ、今の僕にはどうでもいいことだ。

  さて、先に本を書く気はない、お金にする気はないと述べたが、なぜこうして手記を書いているのかといえば、ひとつは僕が望んで引き起こした事件ではないということをわかってもらいたいからだ。

  もうひとつは佐藤が書いた本は、あまりに誇張が過ぎるからだ。少なくとも美奈は『行方不明になった恋人を探しに』来てなどいないし、『放射能の影響で巨大化した』怪物も存在しない。

  ただひとつだけ、真実に近い文言があるとすれば、『精神不安定となり、人前に出るのを避けるようになった恋人』というのはある意味当たっている。

  なぜなら僕はこの手記をもって、人間社会と決別するつもりだからだ。

  僕は決めたのだ。もしあの少女──といっても僕よりはるかに年上だが──が望んでくれるなら、彼女を生涯の伴侶とすることを。

  おそらく三宮山には、もうあの親子はいないだろう。事件以来、あの山はアマチュアの学者や自称探検家に荒らされ過ぎた。僕自身、あの親子が今どこにいるかはわからない。

  だが、必ず探し出して見せる。かつて彼女たちを探し出したときのように。

  そして──狼の血を繋いでいくつもりだ。