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【ファンボ】 泡沫の人

  泡沫の人

  息遣いが聞こえる。

  他でもない、俺自身の物である。

  荒々しく脈動する心臓からくる、抗いがたい欲求。大きく息を吐いて、また吸って、酸素を取り込みたい。

  平時ならば当たり前にできるそれを、懸命に堪える。小さく。小さく意識をして、音を立てないように、

  少しずつ呼吸をする。

  近づいてきた。

  俺が背を預ける、堅い石壁。少し先で角を作り、その先をまた少し進んでは、また角を曲がった辺りに、きっとそれはいる。

  震える吐息を感じながら、俺はそっと腰に佩いたままの剣へと手を伸ばした。

  幸いだったのは、相手から俺を感知するのは難しいが、その逆はそれなりに容易いという事だった。

  そっと、角へと近づいて。そこから軽く視線を送る。そこに、それは居た。それに足はなく、宙に漂っていた。遠目から見ればポロい布切れがふわふわと

  漂っているだけにしか見えない。それでも頭部と思われる、布の隙間には吸い込まれそうな深淵の闇と、その闇に二つ。ぼうっと光るものがある。それが

  目だと思われるが、実際のところそれが人が持っているような瞳の役割を果たしているのかはよくわからない。

  どう見てもそれは亡霊とか、化け物とか、そういう類の生き物。いや、生き物じゃないかも知れないが。

  とにかく、そういう怪物なのだった。

  だから生身の俺と違って、相手を探知する方法もまた異なっていた。俺はそいつの放つ、強い魔力の波動を読む事ができる。対してそいつは、俺の命の宿る

  肉から発せられる生命力を読むのだった。だから今、それを表に出すのだけは懸命に堪えている、という状態だ。

  無論、普通の生身の奴がそんな事したって、押さえられないだろう。そこは一工夫という奴だ。

  今更、こんな奴に見つかるヘマはしない、はずだ。普段ならばこいつは俺にとっては与しやすい相手。それどころかこいつにとっては俺が天敵なのだから。

  普段の話、ならばだが。

  少しずつ、距離を取る。全力疾走は駄目だ。生命力が漏れるのを、隠しようがない。幸い、偽装した生命力の罠に釣られたのか、予想通りに俺の居ない方へと

  そいつは移動をはじめる。移動する度に、ずるずる、という、濡れて重くなった布が、地を這うような音が聞こえる。地面から浮いているのにも関わらず、だ。

  亡霊から少しずつ俺は距離を取る。そうしていると、やがて周囲の様子が変わってくる。今までは、廃れた砦の様な恰好をしていたはずのものが、次第に

  硬く、白い石材で整えられた物へと変化する。それでも、迷宮のように入り組んでいるという点では変わらない。

  「ここなら安全か」

  ある程度歩き、どうにか窮地を脱したのだと安堵の溜め息を吐く。とはいえまだ無事帰還という訳ではない。何せ、こっちは奥へ続く道だからだ。生還したいと

  いうのならば、たった今抜けてきたあの砦の様な見た目の……流刑窟と俺達の間では呼ばれている一帯を抜けなければいけなかった。

  疲れ切った身体を投げ出すように床に座り込む。その間も周囲の警戒は怠らないが、今のところは安全のようだ。

  「完全にしくじったな」

  今更の後悔を口にする。慣れた相手だった。俺みたいな魔剣士にとってはやりやすい相手。それだというのにダンジョンを進むのに気を取られて、不意打ちを

  食らった挙句に生命線でもある荷物を落としてしまっている。完全に自業自得だ。

  失った魔力の回復には、ただの休息では相応に時間が掛かる。それでも普段ならば、帰還するくらいならやりすごせるはずだった。しかし今日はどうやらこの

  ダンジョンの機嫌が悪かったようで、あの亡霊の数が異様に多かった。不意を突かれて逃げた先で、出てくる事出てくる事。剣に力を籠めて切りつければすぐに

  消し飛ばせるとはいえ、大量に湧いたそのすべてに対応するのはさすがに無理があった。

  結果、命からがら逃げ出しては次の領域との境目で立ち往生をしている。生きて帰れるかは、微妙なところだ。一応、ダンジョンにおいて非常時に使う事の

  できる救難信号の術式が刻まれた道具も起動させたが、助けが来てくれるかは微妙だ。何せ、魔剣士からの救難信号だとわかってしまうからな。

  こんな時、仲間が居てくれたら。

  そうは思うが、それもまた高望みだってわかっている。

  ……。

  一息吐くと、途端に身体が震えてくる。いや、さっきからそうだった。ただ、それを直視していなかっただけだ。

  俺、死ぬのか。こんな所で。たった一人で。

  悔しくて、ひとりでに涙が出てくる。嫌だ、死にたくない。でも、どうしようもない。こんな風に一人になった俺も、一人にならざるを得なかった俺の能力も。

  仕方ない事だから、諦めてただ死ぬのを待つしかないのか。座して死ぬのを、待つしか。

  どれほどそうしていたのだろう。多分、そんなには長くない。流れた涙も、まだ乾いていない。乾かない程に、流れ続けているのか。

  丁度、そんな時だった。

  「よう! あんたがラディルで間違いねぇ……よな?」

  陽気な声が、聞こえてきた。滲んだ視界を指で晴らして、声の主をみやれば。そこに居たのは。

  「いや、どうにか助かって良かったなぁ! お互いに、さ」

  ボロボロになりながら、そんな事を男が言う。ハイエナの男だ。たった今、俺をあのダンジョンから助けてくれた男。

  結局あの後、俺はこの男の手を借りる事で、命からがら窮地を脱したのだった。

  「このヴァンダ様が、あんたをちゃあんと外まで連れてってやるかよ、よ」

  そう言ってヴァンダと名乗ったハイエナの男の様子は、お世辞にも頼れそう、とは言えなかった。ずんぐりとした体型に、獲物は二振りのナイフ。軽装。不敵な、

  というよりは眠たそうで、少し目つきの悪い瞳。ボサボサのたてがみ。ピアス穴の空きまくった耳。

  一目見て、ヴァンダの能力は盗賊であると察せられた。それはヴァンダが単身で俺の下までやってこられた事でも証明されているといえる。他の能力者では

  単身でここまでくるなんていうのは、中々に難しい。魔剣士はまた少し勝手が違うが。

  そうして俺を連れ出そうとしてくれたヴァンダだが、すぐに難関にぶち当たっていた。例の、亡霊だ。どうもヴァンダは盗賊の力か何かを使って、それらを

  素通りしてきたようだが、俺を連れているとなると話は別だ。あいつらは、普段の俺にとってはカモも良いところだ。ただ、そんなのは狩られる側の魔物だって

  重々承知している。つまり、それなり以上の頭を持つ魔物は、自分の天敵を見極めては、交戦に入れば優先してそれを狙うのだった。

  ヴァンダ一人なら、来たのと同じように戻れる。だけど俺を連れては。

  「まあ、やるだけやってみようぜ? どうせここに居たら、あんたそんなに長続きしないだろ?」

  と、ヴァンダの言に俺は頷く他なかった。こんな所まで魔剣士の俺を助けに来てくれる存在が、他に現れるだなんてあるかもわからない話に、縋る理由はなかった。或いはたった一人だけ、該当する人物は居るが。その人は、今は俺の信号を見られる位置には居ないだろう。

  それでも、移動を始めて割とすぐに俺達は亡霊に見つかった。この点、魔剣士と盗賊の相性の悪さが仇となった。つまるところ、亡霊から身を隠すための術が、

  魔法を駆使する俺と、盗賊の能力を利用するヴァンダとでは、噛み合わないのだ。しかも俺は力が尽きかけているときたもんだ。

  ヴァンダはなるたけ敵の居ない道を探ってくれたが、それでも亡霊は俺が撤退を余儀なくされた時と同じ様に、増えて、増えて。

  盗賊であるヴァンダにとって、その相手は簡単な物ではなかった。これまた、相性が良い相手ではない。自慢のナイフも、どちらかと言えば威嚇に使われる

  程度だ。

  困った顔をしながら俺を見つめるヴァンダの様子に、俺は死を覚悟した。ダンジョンにおいて、窮地に陥った時。優先されるのは一人でも多くの命が

  助かる事だ。そのためならば、しんがりを務める者が出る事も多々ある。ただ、今は少し状況が違う。つまり、魔物は自分の天敵を当然ながら毛嫌いし、それを

  執拗に狙う、という純然たる事実だ。

  俺とヴァンダが並べば、当然亡霊は俺を狙う。

  ヴァンダが俺を思いきり亡霊の居る側へと突き飛ばせば、集まった亡霊は俺に群がり、あっという間に八つ裂きにしては俺の魂までも手中に収めるだろう。

  その隙に、一人になったヴァンダはその能力でいくらでも逃げられる。しんがりを務める、というのは何も綺麗な形で行われる訳ではない。しばしば

  冒険者が魔物を前に退却をはじめる時に起こる、貧乏くじの押し付け合い。

  ただ、それだからといって俺はヴァンダを恨む気にもならない。魔剣士の救援信号を読んでこんな所まで来てくれた相手だ。死ぬなら当然俺だ、というか俺の

  せいでヴァンダに死なれる方が、正直辛い。

  どうせいつかどこかで野たれ死ぬと思っていた命だ。

  「なんて顔してんだよ、お前」

  目が合った瞬間に、ヴァンダが一層目を細めてそんな風に口にしては笑った。俺、どんな顔してたんだろうか。

  そこからだった。ヴァンダの行動は素早く、懐に手を突っ込んだかと思えば、丸い玉を。俺は一瞬息を呑んだ。ヴァンダはほとんど躊躇う事もなくそれを亡霊の

  群れに投げつける。地面にぶつかったそれは小気味よい音を立てて割れ、同時に光が。一瞬にして俺の視界を奪う。その間際に、光に呑まれてのたうち回るかの

  様に動き亡霊たちの姿も。

  その後の事は、よく覚えていない。ただ、俺の腕を強く引く誰かが。何度も、強く。俺は促されるままに、その方向へと。足を取られないように必死に。

  やがて光が収まる頃には、俺は流刑窟を抜けていた。俺の腕をとっていたのは、やっぱり盗賊のヴァンダで。

  流刑窟さえ抜けてしまえば、今日のダンジョンは大人しいものだった。その落差に、油断していたのだった。無論、大人しいとはいえ消耗していた俺一人では

  やはり厳しかっただろうが、そこからはヴァンダの領分だった。盗賊、というと弱いイメージを持ちそうだったが。ヴァンダは持ち前の素早さを駆使して、出会う

  魔物はあっという間に制圧して。無論避けるべき戦闘は避けてくれた。

  そんな訳で、俺はダンジョンの入口で、出会った時よりも更にたてがみを振り乱したヴァンダと無事に生還しては、向き合っていたのだった。

  「ありがとう。ヴァンダ。あんたが来てくれなかったら、俺」

  「おう、いいってことよ。報酬は弾んでくれよな?」

  「それは勿論」

  「ま、でも今は休めよ。これ、俺のとってる宿のメモな。一応俺からギルドには言っとくけど、あんたも後でやっときなよ。んじゃ、おつかれー」

  そう軽く言って、掌をひらひらさせながらヴァンダは去っていった。その姿を、俺は見えなくなるまで見つめていた。

  路上の端に雑多に並べられた商品を一瞥しながら、人々は行き交う。

  ギルドの帰り道。俺は救難信号を送った身として、ギルドに無事の帰還を告げに行った帰りだった。それなりの金を出すか、或いは自身で習得する必要があるが、

  ダンジョンの中でどうにもならなくなった時に発する魔法の信号は、そのままにしておく訳にはいかなかった。

  無論、死んでいたら取り下げのしようもないのだが。

  「ま、無事でよかったよラディルさん。あんま無茶はしなさんな」

  受付にどっかりと座っていた山のように大きい牛族は、それだけを返してくれる。それに頷いた俺は、そそくさとその場を後にする。併設する酒場にでも行って、

  無事帰還できた喜びに一杯、なんて気分にもならない。そんな事より、あのヴァンダという盗賊への謝礼金で、財布の中は一層ひもじい事になるのだから。

  ラディル。犬族の魔剣士。

  それが俺の肩書きだった。

  特にそれらしい頭の良さや商才もなく、流れ者だった俺は働き口を探して、ダンジョンの出現に伴いそこを囲むように作られた急ごしらえの街である

  アウルラドロにて、その日暮らしの冒険者をやっている。ダンジョン、及びアウルラドロはまだ出現して五年かそこらの、新興のダンジョンだった。そのため、

  深層までの調査はいまだ最低限のままであり、そのダンジョンの発生源である悪夢の牙の情報も不確かなものだ。

  それでも出土する品はやはり他のダンジョンに倣い、それなりの物が期待できている。いわゆる夢の残滓(ざんし)。残滓と一言で呼ばれる品々は、それなりの

  価格で取引をされるのだ。とはいえ、これに魅力がないのならダンジョンを放置できるのかというと、それはまた別だが。悪夢が、広がるのだから。

  市場の中を一人歩いてゆく。人々の表情に暗いものはそれほど滲んでいない。ダンジョンというものが、畏怖の対象であると同時に、人々の生活を維持している

  のだから、不思議なものだと思う。

  そして悪夢が醒めれば、ダンジョンは消えて。そこに寄り添うようにできたこのアウルラドロはただの街になる。

  なんて、感傷に浸っている場合じゃない。俺は手持ちの金を道の端で数えて、軽く溜め息を吐く。目下重要なのは、あのヴァンダに報酬を支払わなければならない、

  という事だ。

  これに関して、ギルドを通じて救難信号を受け取り、救助をした側、された側の承認が既にされている状況だ。したがって、俺は"それなりの"額をヴァンダに

  渡さなければならない決まりだった。ただ、この点に関しては別に乗り気じゃないとか、そんな訳でもない。魔剣士である俺を助けに来てくれる奴なんてどれだけ

  居るのかという話だったし、そんな所に単身乗り込んできてくれたヴァンダには感謝してもしきれない。あと、単身で来てくれたというのも実際、助かってはいる。

  これが相応に大人数だった場合、無論法外すぎる値の請求はご法度とされているが、かといって安すぎては助けた側だって赤字もいいところである。そういう

  場合はギルドが立て替えてくれる場合もあるが、その場合は救助された側の冒険者の素養や、支払い能力によって額は大きく変わる。つまるところ、俺は

  大金を立て替えてもらえる立場ではないという事だ。

  そういう意味で、ヴァンダが単身で来てくれた事は助かった。ただ、それでも安い額を渡す訳にもいかない。ヴァンダがあの時投げて割った、あの光る玉。

  あれもまた残滓の一つなのだ。使い切りの物や、手放さなければ長く使える物。一口に悪夢の残滓といえど様々あるが、あれは一度きり。それもああいう

  亡霊みたいな実体のないタイプには持ってこいの物だった。その辺りもヴァンダは俺の救難信号を見て、抜かりなく用意してやってきたのだった。まあ、

  そうじゃなかったらいくら隠密行動が得意な盗賊だからといって、単身で来るはずもないんだが。

  そんな訳で、まあまあそれなりの額をヴァンダに包む必要があるのだった。そのため、いつもなら少しは視界に入りもする賑々しい市場の品にも、興味を

  そそられない。大体、今回のダンジョンに入った際の品は襲われて手放してしまった。ギルドは金融事業もかねて、個人の預金口座もあるので一文無しとまでは

  いかないが、得られなかった報酬。失ったいくつかの道具の補充にかかる費用。これらもまた頭が痛い話だ。特に俺みたいな魔法を使う素養を持つ奴は、道具

  無しって訳には中々いかない。

  掌に、数枚の硬貨。黒い被毛を持つ俺の掌の上で、鈍く銀色に光るそれを、懐へ忍ばせる。とりあえず今夜、ヴァンダと別れた後に最低限必要な額という奴だ。

  市場を抜けて、少し静けさを取り戻した街並みへ。通常都市の住宅街、とまではいかない。どこに発生するかもわからず、夢が醒めれば消えるダンジョンを

  目当てに作られたアウルラドロの街は、建物に関しては基本的に簡素の一言に尽きる。ただ、街並みは簡素であっても、住む人々は通常都市と大きく違うという事は

  なかった。しいていうなら、老人と赤子は少ないか。とはいえこの街ももう五年目なので、子供達に関してはそれなりに見かけるようにもなっていた。ダンジョンが

  生成されれば、まず周辺国が地域一帯を封鎖。調査をして最低限の安全を確認してから、金の匂いを嗅ぎつけた商人と、それが引き連れる工事関係者達がやってくる。

  それに並行するかの様に、命知らずな冒険者達も。どんなダンジョンかわからないからこそ、どんな残滓と、そしてその奥にどんな悪夢が眠っているのかに心

  躍らせて飛びつくのだった。そうして一定以上の人数が集まれば、そうした者達を支える、奉仕する、遊ばせる。それぞれの分野の者達もやってくる。集まるのは、

  冒険者だけではないという事だ。未開拓の大地を切り開くかの様に、種々様々な人が集まって、夢の上に、また夢を描くかのように街は形作られて。

  そうして、今に至っている。俺もそんなダンジョンに引き寄せられて、集まった一人に過ぎなかった。

  そんな訳で、ダンジョンの発生源にある街というのは、それなりに活気に溢れているのだった。建物ばかりは簡素なものだが、周辺国が監視と、報告を

  受け取るためのものとしての領事館もある。人々の営みの上に成立する以上、数年も経てば新たな命が芽吹くのもまた必然だった。

  「ここだな……」

  ヴァンダに手渡された紙に書かれていた場所へと、俺は辿り着く。見上げてみればなんて事はない、冒険者に供される宿の一つだった。冒険者というと粗暴な

  印象を持つし、実際それは間違ってはいないが、ここはダンジョンと寄り添う街。通常都市ならば冒険者と、街で暮らす人々の住居は区画を分けて整理されるが、

  ここではそれも曖昧だった。有事の際に、冒険者に頼らざるを得ないのだからそれは仕方のない話だ。

  そういう所は、通常の都市とは違うところとも言えた。

  宿の扉を開く。一階は小さめの酒場兼食堂と受付。部屋は二階。至って普通のタイプだ。俺が中へと入ってきても、席で飲んでいた奴らは一瞥するだけで特に

  気にした様子もない。

  「いらっしゃいませ。お食事、ご宿泊。いかがなさいますか?」

  「ああ、いや。すまない。実はこの宿に、ヴァンダという方が部屋を取っているはずなのだが……」

  俺は事の経緯を受け付けへと説明する。客の守秘義務もあるので、この件に関してはギルドで発行してもらった請求書を見せる。紙には、先に報告を済ませていた

  ヴァンダのサインと、そして先程俺が書いた物が並んでいる。押された印鑑には特殊な魔力が籠められており、基本的に偽造はできない仕組みとなっている。

  なので、こういう時に提示すると宿屋側は俺の説明と、それぞれのサインとギルドの印を確認してから、目的の人物が居るかどうかを教えてくれるのだった。

  「ラディル様でございますね。確かにお話はうかがっております。……ですが、そのう。ヴァンダ様はお帰りではありますが、先客が来ておりまして」

  「先客、か」

  俺と受付の話を聞いていたのか、席についていた酔漢が、不意ににやにやとした笑みを形作る。察した。

  「まあ、とりあえず行ってみるよ。ヴァンダも、俺が後に来ると言ったのだろう?」

  「さようでございますね。では、お部屋は二階の……」

  ヴァンダの部屋の場所を聞いて、俺は礼をすると二階へと上がってゆく。宿もまた、質素なものだ。ただ、質素ながらに掃除は行き届いているし、二階に上がれば

  一階の喧騒は急激に遠くなる。区画ごとに防音の魔法が施されている証拠だった。命を張って戦う冒険者にとっては、睡眠もまた大切な仕事だ。部屋は狭くても

  なんとかなるが、寝床と騒音に関しては整えてやらねばならない、というのは共通の認識でもあった。

  持て余す物もあるだろうしな。

  目的のヴァンダの部屋は、すぐに見つかる。俺はその扉の前に立ってひと呼吸置いて、ちょっと扉を。帰宅している旨を示す札はかけられているが、取り込んで

  いるから邪魔をするな、の方は掛けられてはいなかった。

  ならいいだろう。

  俺は扉の横にあった紐を引いて、ベルを鳴らす。これもまた特殊な造りで、廊下側には最低限の音しか聞こえないし、部屋の中に響くだけで、隣室に聞こえたりも

  しないものだった。

  一度鳴らして、しばらく待つ。

  「待たせたな。おっ。あんたか」

  時間が掛かるだろうか、という俺の予想に反して、割と早く扉は開く。そこには、先程俺の命を救ってくれたヴァンダの姿が。

  「……取り込み中なのは聞いているが、その」

  「ああ、悪い悪い。でも、出なかったのが悪いって言われて、払わねぇってなっても困るだろ?」

  「ギルドが認めた上での報酬の支払いだから、そんな事ができないのはわかっているだろう?」

  呆れた様に俺は溜め息を吐く。当のヴァンダは、裸のままだった。流れる汗も、立ち昇る臭いも、隠そうともしない。それどころか、俺に対して見せつけて

  くるかの様だった。そんなヴァンダに纏わりつく、女の匂い。

  部屋の中は、薄暗かった。裸のままなのを考えれば、最中だったとみるべきだろう。俺はヴァンダから少し視線を逸らしながら、努めて冷静に振舞おうとする。

  「助けてもらってこんな事を言うのは気が引けるが、俺が来るのがわかっていたのなら、空けておいてほしかったが」

  「悪い悪い! でも、別に日時の指定はしてねぇだろ?」

  「それは、まあ」

  あまり遅くなるとギルドの方からつつかれるが、少なくとも救助されたその日の内に、というのはそれてそれで性急なのは確かだった。俺に大した怪我が無かった

  からという理由ではあるのだが。金額の相談には、場合によっては時間が掛かる。そうすると、明日からの身の振り方も考えないといけなかったからな。

  「出直した方がいいだろうか?」

  「ん、まあ別にいいよ。ちょっと休憩しようかって思ってた所だしな」

  「そうか、では」

  俺は懐に手を突っ込んで、まずは硬貨の入った袋を。ヴァンダはそれを受け取ると、少し振って音を立てさせていた。そうしている間、ハイエナの大きな耳は

  小刻みに震えている。

  「おっ。結構奮発してくれるじゃねぇの」

  「それから、これも」

  俺は右手首に着けていたバングルを外して、それもヴァンダへと渡す。ヴァンダは最初いぶかるようにそれを見つめていたが、その内目を見開く。

  「おい。これ……まさか残滓か?」

  「そうだ」

  悪夢の残滓。ダンジョンに行けば、その存在にはいつか巡り合うものだ。悪夢から生まれいでた物ではあっても、夢の残滓は冒険者ならず、時には人々の生活を

  助けてくれるものまである。これは冒険者用だが。

  「いいのかい? 俺に渡しちまっても」

  「俺は持っていてもあまり使わないからな。金のまま持っていると、スられた時に困るから身に着けていた。機会があったら売ろうかと思ったが、今はあんたに

  渡した方がいいと思った」

  「へぇ……って事は、魔剣士のあんたと相性がいい訳ではないのか」

  「それほど強いもんじゃない。ただ、自分の攻撃で火を点けられる。盗賊のあんたには、悪くないものだと思う」

  「最高じゃんそれ。野宿するだけでも重宝するわ。……ところで、使い切り?」

  「いや、何度か使うと使えなくなるが、周囲の魔力を吸収するからその内また使えるようになる」

  残滓には、使い切りと、今俺が渡した物のように時間が経てばまた使えるようになるものがある。ヴァンダが割った奴なんかは、まさに使い切りだ。

  「すっげー。でも、ほんとにいいのか? 売ったら結構すると思うんだけどぉ」

  「……まあ。いい。その。助けにきてくれて、嬉しかったから」

  後半の方は、ほとんど音に出せないままぼそぼそと口にしてしまう。死を覚悟していた。魔剣士の俺を助けに来る奴なんていないと思っていた。支払う報酬

  としては通常よりも割り増しとなるが、俺の心はこれで良いと言っていた。

  「そっか。あんがとな!」

  へらっとヴァンダが笑う。

  「では、今回の報酬はこれで大丈夫だろうか」

  「おうよ、大丈夫も何も、充分過ぎるってもんだ。さて……おっと、忘れてた完全に」

  そこでヴァンダは後ろを、部屋の奥へと視線を向ける。忘れてた。こいつ、全裸だった。俺の方も報酬を渡す事に夢中になっていて、忘れていた。

  「へへっ。そろそろ行かなくちゃな」

  「ああ。邪魔をしてしまってすまない」

  「いいって事よ! それとも、あんたも交ざってくかい? ……なんてな。あんたみたいなハンサムな奴が居たんじゃ、俺が余っちまうわな!」

  わはははと笑いながら、手を振ってヴァンダが扉を閉める。俺は苦笑しながらそれを見送って、そのまま受付で礼と、きちんと謝礼を払う事ができたと説明を

  してから来た道を戻りはじめた。

  さて、今夜はもう眠ってしまいたい気分だが。それはそれとして、ヴァンダに支払った分、亡霊のせいで失った分、中々に手痛い出費だ。命あっての物種で

  あるからして、金をどうするかと悩めるだけ、幸せな悩みって奴なんだろうなとは思うが。それはそれ、これはこれともいう。差し当たって、ギルドに何か依頼でも

  ないかと、それだけ見ようとギルドの扉をまた開く。

  「あっ。ラディル!」

  「ん? ……ああ、フィオか」

  俺がギルドへ戻ると、受付……の反対側から慌てた声が上がる。さっきは居なかったはずの獅子の男が、そこに立って慌てた様子で俺に声を掛けていた。

  フィオと俺が呼んだその男は、独特な絵が描かれた服を。いわゆる、大きな瞳をモチーフにしたローブを着ている。そこと、ギルドの受付の反対側のカウンターに

  居るという時点でわかる奴はわかるだろう。鑑定士って奴だ。ただ、フィオはまだ見習の身だった。

  ただ、見習といっても鑑定士である事には変わりない。さっきヴァンダへ渡したバングル型の残滓なんかも、フィオに鑑定してもらったものだ。別に、冒険者

  同士であったり、あるいは見つけた冒険者当人が使う分には、夢の残滓の鑑定というものは不要ではあった。ただ、市場に出すというのなら話は別だ。確かに

  残滓は便利な代物ではあるが、物によっては代償を伴ったり、何かしら呪いに近い効果が付属するものまである。呪いがないか、きちんとした使い方を見極めて、

  お墨付きをつけるのが鑑定士の仕事って事だ。この点において、ダンジョンに挑む冒険者にとって鑑定士という存在はなくてはならない存在だ。

  ちなみに見習であるフィオは、呪われてたりするような力の強すぎる残滓の鑑定は行ってはいないらしい。なので、フィオが鑑定できる時点で、それほど強い

  残滓ではないという事になる。ただ、それと市場価格が釣り合うのかは、また別だった。例えばヴァンダに渡したような火を点ける残滓ならば、それだけで生活の

  利便性は向上するってもんだ。威力の強さと価格が必ずしも釣り合う訳ではない。その上で冒険者でもない一般人が手に取るには、残滓は未知数の部分が多いから、

  鑑定書をつけてもらうというのは、冒険者が残滓を売る事で利益を得ようとするのならば、絶対に必要な手順と言えた。中には鑑定士の勉強もして、自前で

  鑑定してしまう奴も居るらしい。

  火以外にも、例えばそよ風を起こす残滓なんかも人気がある。これは実用性とはまた少し違うのだが、有名な童謡に、歌声を風に乗せて、どこまでも、どこまでも

  響かせるというシーンがある。そのため、庶民からそれなりの貴族に至るまで、そよ風を起こす残滓は人気なのだった。なお、冒険では基本的に役に立たないと

  思ってくれていい。

  「救難信号がラディルから出てたって、驚いたよ。僕は」

  「誰も行こうとしなかった事にか?」

  「……それは、えっと」

  なんともいえない顔をフィオがする。俺は軽く笑った。

  「まあ、仕方ないさ。魔剣士なんぞ助けたって、大した利益にもならないからな」

  「そんな事、言っちゃ駄目だよ。ラディル……」

  悲しそうにフィオが口にするが、これは事実だった。報酬として得られる金銭以外にも、助ける意味というものが冒険者には時にはあるものだ。それが、新たな

  仲間を得るため。命を救う、救われる。そういう関係を築いたのならば、次の冒険は一緒にどうだろうか。そう誘う口実にもピッタリと言える。

  つまり、冒険の共連れとしての見込みがない魔剣士というのは、そういう意味でも助ける価値が無いと言われているに等しかった。実際鑑定士として、ギルドで

  仕事をしているフィオは、そういう様子を。あるいは魔剣士まで行かずとも、俺達には別に必要がないかな、なんて言われている誰かを見る事もままあっただろう。

  そんなフィオだからか、魔剣士の俺の事も対等に扱ってくれるのはありがたかった。無論、冒険者内での優劣がはっきりとしていて、冒険者同士でどれだけか

  魔剣士が揶揄されているからといって、ギルド自体は公的な機関だから、あからさまな侮蔑の視線を送ってくる訳ではないが、それでも平等に扱われるかといえば

  それはまた別の話だ。実際、一人で前に進むよりも、仲間と手を取り合い、助け合った方が生存率も高ければ、良い残滓を持ち帰る事もあるし、その内に悪夢を

  晴らす可能性も高いのだから、それは仕方のない扱いの差というものかも知れなかった。

  「僕も、戦えたらな……」

  「やめとけよ。せっかく鑑定士なんていう死ぬまで安定した方の職を持ってるのに」

  このやり取りは、何度目だろうか。フィオは、戦うのには向いていなかった。既に鑑定士だからといっても、人は何かしらの能力を持っているので冒険者に

  なれなくもないが、優しすぎるきらいがあった。ガタいはそれなりだが、どうせ誰かが窮地に陥った時、見捨てられないと前に出て、そのまま一緒に死ぬのが

  オチだと俺は思っている。あるいは俺についてこようとする事も含めて。例え同じ釜の飯を食って一緒に冒険する仲間だったとしても、もしもの時は見捨てる

  場合も多々ある。それは何も、冷たいからという話ではなかった。ことダンジョンにおいては無理は禁物であり、そういう情けを前面に出した奴から死んでゆく。

  ただ死ぬのだったらまだいい。そういう奴は、周りも更に巻き込んで死ぬ。冒険者になるのに特別な資格は必要ないが、この命のやり取りに関する話

  だけは、今でも鮮明に憶えている。耳タコって奴だ。実際、その教えを守ったから生き残れたという者は多く、守れなかったあいつは、という話もまたよく

  聞くものだ。

  「それより、何か依頼は来てるか? 救助の報酬でそれなりに手持ちが減ってしまってな」

  話を切り替えるかのように、俺はフィオに話を振る。俺がそれ以上の話を望まないとわかっているので、フィオの方も頷くと、揃って奥に壁に視線を送る。

  そこにあるのは、ギルドといえばこれ、というイメージを皆が持っていそうな、依頼の貼り出し場だった。壁にかけられたいくつかのボードそれぞれに、

  依頼としてギルドを通し承認されたものが貼りだされている。ボードの場所によって、その依頼内容は大別されており、恐らく常に高額な依頼が貼りだされて

  いるのは、仲間募集と、特定の残滓を求める依頼のボードだろう。特に人によっては相性の問題があるので、徒党を組むにせよ互いの能力の足りないところを

  補うのは基本中の基本だった。どれだけ強い戦力を整えても、能力の強さが偏っていると、相性の悪い敵が出たら負ける。単に仲間を探してすぐに見つけ

  られるのなら安く済むが、どうしても見つからない場合はああいう風に募集の貼り紙となって出てくる。傭兵に近い物と見てもいいだろう。それで良い仲間に

  巡り合えたのなら、そのまま一緒に続けていくこともままある、らしい。俺には関係ない話だが。それから残滓の方も、性質としては同じものだ。金持ちが

  求めている、というのは別として。例えば俺がヴァンダにあのバングル型の残滓を渡したのも、俺の能力とははっきりいって相性が悪いというか、自前で

  できる関係で必要性が薄い物だったから、手放すのにそれほどの躊躇いがなかったのだった。そして盗賊であるヴァンダにとっては、あると中々に便利な

  もの。残滓は確かに強力な装備になり得るが、それもまた持ち主との相性次第といったところなので、あんな風に欲しい物はこれです。もしくは自分か

  要らないから誰か使わないか、という逆に金をこちらから渡すタイプの貼り紙もあったりする。これが中々、掘り出し物があったりする。市場に流すのなら

  鑑定書はほぼ必須だが、この場でのやり取りでならそれも不要。まあ、鑑定してもらった方が安全性もわかるから越した事はないが、鑑定するための手数料を

  売る方は浮かせられるし、その分価格に転嫁する事で買う方も納得して買う訳だな。

  ただ、残滓のやり取りに関しては注意点もあった。それがフィオなどの見習鑑定士でも見られる残滓ならいいが、見習では見られない物。上級残滓って

  言ってる奴もいるが、そういうのは所持と同時にギルドでの登録が必須だった。これはまあ、仕方ない。誰が持ってるかを誰もきちんと把握してないって

  事は、窃盗、強盗の温床にしてくれと言っているようなものだから。無論、手に入れたその瞬間からギルドに持ち帰るまでの間に中々熾烈な争いが勃発する

  事も多々あるが、その辺は運否天賦といったところか。

  「随分依頼が少ないな」

  改めて貼り紙を見てみるが、俺はいつもよりその数が少ない事にすぐに気づいた。昨日、ダンジョンに入る前に見た時は、もう少しあった気がしたが。

  「ほら、ラディルも救難信号出してたでしょ。流刑窟で」

  「ああ……。もしかして、氾濫の兆候か?」

  「そうみたい。だから、皆一度ダンジョンの深くに入るのは様子を見て、手堅い依頼は持っていっちゃったよ」

  間の悪い話だ。しかし確かに言われればその通りでもあった。基本的にダンジョンの外に魔物などは出てこない。それはダンジョンの中に棲む魔物というのは、

  ダンジョンの物質からできている、というか。ダンジョンと同じようにできているからだった。つまるところ、悪夢の牙から発生した力から生成されるのは、

  何もダンジョンだけではなく、魔物までも含むのだ。なので、基本的にダンジョンの中から出てこない。基本的には、だ。

  そんな魔物が、出てくる時もある。それが氾濫と呼ばれるものだった。そして今回、ダンジョンの中で一部の魔物が急激に増えた件は、その兆候が見られたのでは

  ないかという話になっているようだった。確かにそれなら、今ダンジョンに入るのはかなりの危険を伴う。俺も危うく死にそうになってたしな。一度そういう流れ

  ができてしまうと、しばらくの間はダンジョンの深部には入らないのもまたお約束だった。なので、蓄えが無い奴は実入りが少ないのがわかっていても、

  簡単な依頼に群がるという訳だ。あそこに残っている貼り紙のほとんどは、かなりのリスクを孕む不人気の依頼だろうな。

  「仕方ない。また追加の依頼が来るまで、少し待つか」

  「そうした方がいいよ。というより、今日大変な目に遭ったばかりなんだから、まずはきちんと休みなよラディルは」

  「まったくだな」

  「……そういえば、ラディルを助けてくれたのって、誰だったの? 僕は厳密にはギルドの職員じゃないから、細かいところまでは聞けなかったけれど」

  「聞いて、どうするんだよ」

  「お礼が言いたいなって、駄目かな」

  「お前なぁ。そういうの、俺の立場ってもんがないだろ。やめてくれ」

  なんだそのうちの子を助けてくださってありがとうございますみたいなノリは。恥ずかしいだろ。いつから保護者になったんだ。

  「でもまあ、名前は教えてやるよ。どうせ他の奴らに聞いたらわかるだろうしな。ヴァンダ。盗賊のヴァンダだよ」

  「盗賊の……。あの人が? そう、なんだ」

  隠し続けてもどうせわかるだろうと思って俺は何気なくヴァンダの名前を告げた。だが、それを聞いたフィオの反応は予想と違っていた。驚いて、それから

  俯いて何かを考えているようだった。

  「なんだ? 何か、おかしいのか?」

  「いや、そうじゃない。そうじゃ……ないんだけど。ねえ、ラディル。そのヴァンダさんの事、前から知ってた?」

  「……いや。俺はそもそも他人と組まないのが当たり前だしな。遠目から見かけたとか、そういう事はあるかも知れないが……」

  とはいえ、ヴァンダの外見は別段特徴があるかって程でもない。ちょっと太った体型に、意地悪そうというか、好奇心旺盛な目や口元に。いや悪口ではない。

  ハイエナというのも、珍しい訳でもない。ハイエナで盗賊とか大分それっぽいなとか少し思うくらいだ。ただ、かなりの有名人とか、そういう訳ではない。

  さすがに冒険者の中で名が売れている奴だったら、俺も少しは知ってる。

  「そのヴァンダが、なんなんだ?」

  「うん……とね。まあ、僕から詮索したんだから、ここで僕が黙っちゃうのはズルいよね。これも、聞けば知ってる人もそれなりに居るから。あのね。

  ヴァンダさんっていうのは、少し前に、組んでた仲間たちが皆亡くなっちゃったんだよ。五人もね」

  「……ダンジョンでか」

  フィオのそういう情報は、中々信用に値する。何せ、日がな一日このギルドで鑑定士として働いているのだ。俺の救難信号をきちんと把握しているのもそうだが、

  そういった事件が起きた際には、まずその耳に情報が入るのだった。生憎俺は、一人で黙々とダンジョンに潜る事が多いから、何かあったとしても、あまりそれを

  知る機会がない。酒場で飲んだくれている分には魔剣士でも話し相手くらいにはなってもらえるから、そういう時に少し話を聞くくらいだ。もしかしたら、

  過去のフィオは俺にその話をしてくれたのかも知れないが、そういう時は大抵「ダンジョンの奥に行って亡くなった人が出たから、気を付けてね」程度で、

  深くは掘り下げない。

  「そう。ヴァンダさんと組んでた五人は、皆優秀で。勿論ヴァンダさん自身もね? だから、その時何があったんだって、ちょっとした騒ぎになってた」

  鑑定士受付の机をとんとんと叩きながら、フィオは軽く溜め息を吐く。

  「ただね。ヴァンダさんも、結構な重傷と、ショックを受けたみたいで。その時の事をよく憶えていないんだって。仲間たちと一緒にダンジョンに入って、

  その後傷だらけのヴァンダさんだけが戻ってきた。勿論魔物によっては精神に関与してくるのもいるから、そのせいかも知れない。単純にショックだったのかも

  知れないし。ただ、それで他の人は行方不明扱いで、時間が経っても見つからないからそれが死亡した事になってさ。それから、ヴァンダさんは新しい仲間を

  見つける事はやめて、一人で居る事が多いみたい。誘われたら、少し顔は出すみたいだけど」

  「そうだったのか」

  俺にはそんな奴にはまったく見えなかったが。不敵に笑って、器用に仕事はこなして、貰うもんは貰って、溜まるもんが溜まったら女を抱く。如何にも

  好き勝手に生きている雄の生物って感じの奴だ。まさか、そんな深い傷を受けているとは思ってもみなかった。

  「だから俺の事を助けに来てくれたんだろうか」

  「どうだろう。ただ、僕……。実はヴァンダさんとは話した事、あるんだ。彼は盗賊だから、金目の物はないかって。残滓以外の鑑定も、必要なら受け持ってるし。

  勿論残滓を持ち込んでくれる事もあったけど。ただ、その」

  「その?」

  「……あの時は、魔剣士なんか居なくなっても誰も困らないって。酷いこと言ってたのに」

  「……」

  フィオの言葉に、俺は考え込む。つまりヴァンダは内心、俺みたいな存在の事を疎んじているタイプという訳だが。

  「金になりそうだったからじゃないか?」

  実際、俺はヴァンダに感謝して、報酬は少し多めに。残滓まで手渡した。仮にヴァンダが内心で俺を見下していたとしても、別に俺は渡した事を後悔はしていない。

  ヴァンダが助けてくれた事で自分の命が助かったのも、単身で駆けつけては使い切りの残滓まで使って俺を助けてくれたヴァンダに感謝をするのも、当然の

  事だからだ。

  ただ、それなら今後ヴァンダを見かけても、あまり執拗に声を掛けるのは嫌がるかも知れないな。

  「ごめん、気を悪くするような事言って」

  「いや、いい。良い情報が聞けた。ありがとうフィオ。後で会った時、しつこく礼でも言ってしまいそうだったからな。程々にしておくよ」

  結局その日はそれで終いにして、俺も自分の宿屋へと戻る。冒険者証を持っていれば、宿の料金はかなり安上がりになる。荷物はギルド管轄の預かり所があるので、

  基本的にはそちらに預ける事が多い。芽が出た冒険者は、もう少し背伸びしていい部屋を買う。が、家を建てる事はない。ダンジョンが無くなったら、或いは悪夢が

  広がりきれば、この街とはさよならだからな。

  ダンジョンを求める冒険者が家を買う時は、冒険者を辞める時だろう。

  身体を清めて、よくよく被毛を乾かしてから寝間着になると俺は今日の出来事を反芻する。死にかけた、助けてもらった、金を払った、財布が痩せた。

  そんな事をぐるぐると考えている間に、あっという間に睡魔が全身を包んでいく。ああ、本当は疲れていた。すごく、疲れていたんだなと思った。

  深く眠れるだろう。夢も見ずに。眠る夢は、ダンジョンの奥底にある根源が見て。そして俺達はその上で起きたまま、未来の夢を見るのだった。

  数日後。依頼もなく、持て余していた俺は非常時用の残滓を少しだけ金に換えていた。とはいえ、そんなに性能の良い残滓って訳ではない。元々、路銀が心許なく

  なった時にと持っていたものだ。俺みたいな一人で細々とダンジョンに潜るような奴でも、残滓を見つける事はできる。もっとも大抵は低層。つまり弱い

  敵が居るところだ。悪夢の根源、悪夢の牙に近づけば近づく程、その悪夢から生じた魔物は強くなり、残滓もまた強力な物へと変じていく。危険と宝物は紙一重で

  あり、時に支払えない対価は命をも奪う。着実に、慎重に伸ばした手ばかりが、きちんとしたお宝を掴むのは当然の話だ。

  もっとも、中には無我夢中で手を伸ばして、宝を持って帰ってしまうような奴も居るんだろうが……。

  「よう、ラディル!」

  こいつはそんなタイプかも知れないな、なんて声をかけられて俺は驚きながらも思う。忘れるはずもなく、それはつい先日俺の命を救ってくれたハイエナの

  冒険者である、ヴァンダだった。路銀を足して、今はギルドの奥の食堂で飯を取ろうとしていたところだった。ちなみにこちら側からも外には出られるので、

  どちらが奥という訳でもない。冒険者は、そうしてこの街に居る限りはあらゆる補助を受けられるのだ。もっとも命の危険に晒されるのだから、せめて体調を

  整える場ぐらいは与えられてしかるべきという奴なのかも知れないが。

  「ああ。ヴァンダ。先日は助かった。ありがとう」

  「いいって事よ」

  俺は内心、ヴァンダから話しかけられた事に驚きながら、至って控え目の返事をする。内心は俺の事を毛嫌いしているのかも知れないと思うと、改めての長い

  礼を言う機会は損なわれても仕方がなかった。ただ、当のヴァンダは、俺がフィオから聞いたそんな話なんぞ実は全くの嘘でしたと思いたくなる程に、朗らかに

  俺に挨拶をしてくれた。それどころか依然として手を振ってくれている。俺は食事を受け取り、どこへ座ろうかと思案していたところ。ヴァンダは飯を食っている

  途中。つまるところ、こっちに来いという奴だ。

  こういう奴も居るのかも知れない、と思い直す。良い意味ではなく、苦手に思っていても、ビジネスなどの面で期待が持てるのならにこやかに接する、という

  意味でだ。ただ、それならそれで構わなかった。次にまた何かしらあった時に、ヴァンダが手を貸してくれるというのなら、それは渡りに船という奴だ。なまじ、

  魔剣士を見下している、あるいは距離を取ろうとしている奴の方が、冒険者の中では多い。それくらいに、魔剣士というのは評判が悪いのだから。ヴァンダの真意が

  なんであれ、気さくに話しかけてくれたり、それどころかきちんと手を貸してくれるというのなら、俺としては断る理由もなかった。

  ただ、胸の内が少しだけ。ささくれるような気がする。気がするだけさ。

  「いいのか。隣」

  「知ってる奴と食った方がおもしれーじゃん。ま、知らない奴と食って、そこから話広げてもうけ話聞くのも好きだけどよ」

  つまるところ、ヴァンダという男は話すのが好きならしい。

  骨付き肉を頬張り、指先と口元を脂でてらてらと光らせながら楽しく話している様は、お世辞にも身綺麗なとは言えそうもないが、その分独特ではあるが

  人好きのする様子もまた持っていた。少し垂れた瞳と、少しどころではなくまあそれなりに垂れた腹と。ただ筋肉質なのもあってどうしようもなく太っているとか、

  そういう訳でもなく。総合して思い浮かぶ感想は「よくこれで盗賊やれるな」に行きついてばかりなのだが。

  「しっかしお前細ぇな! ちゃんと食ってるのか~?」

  「まあ、そこそこには」

  お前が太いだけだ、という言葉はさすがに呑み込んだ。危うく出そうだった。危ない。いくらなんでも、命の恩人には言っていい事と悪い事がある。それに

  魔剣士は魔法を扱うとはいえ、前線で戦う事も多い。というかほとんど一人で戦うから自分が立ってる場所が前線だ。なので戦っていれば嫌でも身体は引き締まって

  いくし、太って動けないなんていう奴はそもそも生き残れないだろう。

  軽口を話しながら、食事に興じる。こういうのは、なんだか久しぶりだ。思っていたよりもずっとヴァンダは気さくで、本当にフィオの話は真実だったのかと

  疑いたくなる程だった。酒場で軽口を叩く事はあるが、それでも冒険者としての利益をこみこみでの話が基本だ。今のヴァンダは、そういう話も別にしない。

  ただ、少なくとも自分の仲間を失った事は本当のようだった。俺を助けてくれた時から今の今まで、ヴァンダの傍には仲間の姿はない。

  「どうしてラディルは冒険者になったんだよ?」

  「稼ぎ口がこれしかなくてな」

  「へぇ」

  俺がそう答えた時も、ヴァンダは特にからかう事はなかった。魔剣士じゃ稼げないだろ、という流れで笑われるのはもう慣れてしまった。

  「そういうあんたは?」

  「俺? 俺はなぁ。金が好きで。……っていうのはまあ本音っちゃ本音なんだけどさ。俺んち、大家族って奴で。故郷の家族に金が送りたくてさ」

  「そうなのか。立派じゃないか」

  「そうかぁ? ま、大体酒と女で使っちまうけどな!」

  照れているのか、本当なのかわからない事を言いながらだはははとヴァンダが笑う。まあ、半分は本当だろう。今は旨そうに肉食ってるし、この間は女を

  食っていたのだから。

  ただ、見た感じ案外モテそうではあった。確かにそこそこ太っちゃいるが、人好きのする性格に、ハイエナって点は人を選ぶかも知れないが、それでも

  その好奇心の塊みたいな爛々と輝く瞳は、思わずこちらも目で追いたくなってしまうものがあった。

  そこでようやく、俺はヴァンダに対して好意を抱いている自分に気づいた。助けてもらったから、というだけではなく。そしてそんなヴァンダが、内心では

  魔剣士の俺を見下しているのかも知れないという事が頭をよぎる度に、寂しさと、そんな事はないんじゃないかという都合の良い願いを胸で唱えてしまっている。

  「故郷にはちゃんと帰ってるのか?」

  「いや~、それがあんまりだなあ。アウルのダンジョンって結構見るところも多いから、この街来てからは特に一回も行ってねぇや。もし故郷の近くに

  ダンジョンができたら、金も稼げるしあいつらの様子も見られるから。そん時行きゃいいじゃん!? って思ってたんだけどさぁ……いやもう、まったく

  あっちの方じゃダンジョンなんてできねぇのよ。やっぱ悪夢もクソ田舎は嫌なんだな~って、親近感湧いちゃうわな」

  「たまたまだろうさ」

  そもそも、悪夢の牙が出る場所には一貫性がない。人もなにも居ない荒野のど真ん中に現れては、ダンジョンを形成する事だって珍しくもない。逆に酷い

  時は、大国の王都に現れたって場合もある。その場合、少なくとも王族などは身の安全のために移動をしないといけないし、政の機能なども別の都へと移す

  必要がある。貴族が煌びやかに過ごすその場所に、野卑な冒険者が集まるというのだから、高貴な血筋って輩からはすこぶる評判が悪いのだ。もっとも、

  冒険者が手を差し伸べなければ、その問題に対処するのは難しいが。ただ、国によっては自国の武力だけでダンジョンを御する国も中にはある。そういう国は

  最終的には悪夢を晴らすが、それまでに強力な残滓も独り占めする事で、より強い国家へと育っていくんだとか。もっともそんな国は少数派だし、対処

  できない国は結局は周辺国と冒険者に救援を出して、なんとかしてもらうのが一般的だった。

  「ヴァンダは結構、ダンジョンは巡った方なのか」

  「まあな。行ったことがあるかないか、で言えばアウルのダンジョンで五つ目くらいかな」

  「凄腕なんだな」

  「まさか。ちょいと味見して一抜けたってのも、割かしあったさ」

  「そういうものなのか。俺はまだ、二つ目だ。前の時は、慎重になり過ぎてあまり探索もできないまま、ダンジョンが消滅した。今回は、もう少し深く探って

  みているところなんだ」

  「それで、この間のあれって訳?」

  「返す言葉もない」

  正直なところ、俺は功を少し焦っていた。魔剣士での、一人旅に限界を感じていたのだ。

  「俺が、魔剣士でなかったのなら。もっと違うやり方があったんだが」

  「……ふーん」

  つい零してしまった言葉に、俺は失敗したなと思う。ヴァンダはいつの間に頼んだのか、酒を飲みながら俺の様子を窺っていた。

  「でもよ、俺。知ってるぜ。魔剣士にも凄腕の奴が居たんだよな?」

  「ああ……。大魔剣士カルファーン、か」

  「そうそう、確かそれ。つまり、頑張ればなれるかも知れないって事だろ!?」

  「いや、どうだろうな」

  魔剣士カルファーン。その名前は魔剣士である者ならば絶対に一度は聞いた事があるだろうし、なんなら大半の魔剣士は忘れる事もしないだろう。

  魔剣士という蔑視される能力を持ったにも関わらず、カルファーンは折れず腐らず、血を吐くような研鑽の果てに魔剣士の道を究めたとされる、ある意味で伝説上の

  人物だった。魔剣士というのは言ってしまえばすべての力を秘めているともいえるが、それは言い換えれば器用貧乏という事でもあった。各々が特化し、助け

  合う事で力を最大限に活かすのが基本の他の能力とは、一線を画す。

  つまり、相性が悪いのだった。

  そりゃ特化して一番手の奴が居る中で、二番手、下手したら三番手の魔剣士なんていう存在が居ても、正直役に立たない場面は多い。人数が多ければ多い程

  冒険は有利、という訳ではないのだ。増えた分だけ、思惑もまた増える。派閥ができたりもすれば、分配で揉めたりもする。そういう時、単純にその場での

  仲の良さで決まる場合もあるが、もっと多いのがどれぐらい皆に対して貢献ができたか、という主張合戦だった。そうなると、常に一番にはなれない魔剣士は

  途端に立場も悪くなる。それに気も緩む部分もあって、却って危険であったりもする。

  そんな訳で、魔剣士はいわゆる仲間にはしたくない相手としてよく知られるようになったのだった。

  ただ、そんな中において新星の如く現れた、魔剣士カルファーンは一味も二味も違っていた。人一倍の努力によって得られたその力で、いわゆる専門職といっても

  良い連中をすら出し抜いては華々しく活躍をし、それだけではなく当人は大層な切れ者、知識人だったようで、魔物に立ち向かう際には態々助言を乞いに来る者まで

  出る始末だったという。

  魔剣士という、いわゆる"ハズレ"に現れた奇跡の存在。それが魔剣士カルファーンだった。当然ながら俺も、自分が魔剣士だと知ってからは強い羨望を抱いても

  いたし、同職に会えば大体はカルファーンへの憧れと、そしてそれに至らない自分への嘆きが同時に出てくるのも当然だった。

  一部には、カルファーンは何か秘密を持っていたと噂する奴も居る。本当は魔剣士ではなかっただの、カルファーンは詐欺師で皆を騙していただの。悲しい事に、

  それを嘯く者の中には、魔剣士として冒険をしていた者も含まれていた。かつて憧れ、強烈な羨望を抱いていたからこそ、そこに肩を並べようと我武者羅に

  努力と研鑽を積み重ねては、結局はカルファーンのようにはなれない自分を呪う。かつての憧れも、ただただ憎たらしくなる。

  そんな魔剣士の慣れの果てというのも、今まで生きてきて、俺は確かに見てきたのだった。

  「他の能力を持つ奴らにはいろんな有名人が居るけれど、魔剣士はカルファーンのみ。誰も、カルファーンみたいにはなれなかったんだよ」

  俺がそういう事まで少し詳しく説明をすると、なるほどなとヴァンダは頷く。

  「なんつーか、それだけ道が険しいって事なのかねぇ……。盗賊なら、何人かそういう有名な奴が居るのは知ってっけど」

  「ファントムとかか?」

  「あー。いいよなファントム。俺、好きだよ」

  「俺もだ」

  盗賊ファントム。如何にもな名前だが、当のファントムの人生は意外と庶民的であったりする。俺も、有名人の話の中では好きなものだった。喧嘩っ早い上に

  ちょっと馬鹿で騙されやすい。だけどここって時は頼りになって、そして義賊として名を馳せた後で、後に戦士として有名になる相手にぶっ飛ばされては、行動を

  共にして盗賊として更に名を馳せてゆく。ちょっと憎めないお茶目な盗賊。名前だけ見ると、凄腕の余裕綽々の盗賊の印象が強いが、彼の話はいつも余裕なんて

  一つもない、泥にまみれた道だった。その泥も道を形作るようにしては、今は立派な軌跡となって人々の知るところとなっている。

  「あんな有名人、なってみたいよな~。ま、さすがにそんな凄い奴らと肩を並べられる程強くはねぇけどさ」

  「今は個人で有名になる時代じゃないかも知れないな」

  「ああ、確かにぃ」

  それこそ最近はあのダンジョンを攻略した奴ら、みたいな感じで人々の口に上っている方が多いかも知れない。

  「まあ、夢を見るよりも先に、目の前の生活苦をなんとかしないとな」

  「違いねぇ」

  奢りだと言って、ヴァンダが酒を一杯頼んでくれる。酒を酌み交わして、たわいのない会話に興じる。随分と久しぶりな気がする。雑談程度ならしはするものの、

  故郷の話、育ちの話。そんな、今冒険者をやっていく上では特に必要もなく、また関係もない話に花を咲かせては、こんな人物だったのだなという事を知って。

  「……そういやさぁ。金欠だっていうのなら、別に話があるんだけど」

  その内に、そんな事を言ってヴァンダが話を切り出してくる。俺は夢から醒めるように。今までの話を心地よいと思っていたのだなと改めて知り、また名残惜しい

  思いを抱きながらも、本題を切り出してきたなと頭を切り替える。

  「良かったら、俺とちょっと組んでみね?」

  「……え?」

  ただ、ヴァンダの口から出てきた話は、俺の予想とは少し別の内容だった。

  アウルラドロの街並みは、普通の街とは違っていた。

  街の中心部は石材や金属製の建築物が並び、そしてある一定の境を過ぎた頃に木造へと変化していくのだった。

  ただ、それはアウルラドロだから、というよりは。そこがダンジョンによって栄えた街だから、といった方がより正確だっただろう。

  そんな訳で俺は今、石造りの建物を抜けたその中央。ダンジョンの入口へとやってきていた。そこには高く天へと聳え立つ塔が、というような事もなく。ぽっかりと

  洞窟が口を開けて待ってるだけだ。ただ、周囲に厳重な警備体制が敷かれている事と、その洞窟の中から明らかに異質な気配が感じられる事で、そこがただの洞窟

  ではない事を誰であっても知る事ができるのだった。

  「よう。待ったか?」

  ダンジョンの入口で待っていると、しばらくしてヴァンダがやってくる。服装は如何にも盗賊といった様子で、いわゆる軽装。そして腰にはいくつかのポケットが

  ついたベルトを巻いている。それとは別にナイフを差した物も。あとは、先日俺が渡したあのバングル型の残滓も身に着けていた。

  「いや、そんなには……」

  待った、という程ではない。というより、新鮮だった。ダンジョンに入る最初の数回こそ、入口で少し息を呑んではそこを見つめてはいたものの。一人で活動する

  事が多い魔剣士である俺にとって、入口なんて明らかな異変が起きているのでない限りは、ただ素通りするだけの場所だ。それに、入口で待ち合わせ、なんてのは

  通常の冒険者にとっては当たり前の事だ。つまるところ居心地が悪いんだ。ヴァンダを待っている間だって、他の冒険者の姿が見えたし、相手は俺が魔剣士だと

  知るや、なんでこんな所で立ってるんだと言わんばかりに見ていた。ただ、だからといってヴァンダより遅れてやってくる訳にはいかなかった。それでも結果としては、

  久しぶりに正面からダンジョンの様子を眺めていたので、これはこれで悪い事ばかりではなかった。

  「ほら、行こうぜ。そんな気張らずに。な?」

  「ああ」

  「そんじゃ、改めて。よろしく!」

  「……よろしく」

  軽く悪手を交わす。その様子を周りから見ている奴も居るのかと思うと、なんだか照れ臭かった。

  洞窟の中へと、足を踏み入れる。淡い、もやのような中を抜ける。次第に、眩しくなる。急に視界が開けた。

  そこは、見渡す限りの密林だった。天からは温かな陽光、って言っていいのかこれは。ともかく、光が降り注ぎ、虫の声、鳥の声が遠くでは響く。密林の

  生態系をそっくりそのままそこに再現したかのようだった。ただ、そればかりではなく遠くには明らかにそれが動物という、基本的には俺達にとってただの獲物と

  なりうる存在ではなく、時には俺達を食らおうとする魔物の類である生物が見え隠れしている。密林という表現そのままに、ギャアギャア、ガアガアと派手な

  色合いのやたらとデカい鳥が俺達の来訪に歓待の声を上げた。足元には、小さな、本当に小さな、ルビー色の瞳をした蜥蜴がちょろちょろと、茂みから茂みへと

  駆け抜けていく。急に夏が訪れたかのように気温は上がり、湿気も増しては途端に着ている軽鎧の内側が汗ばんで。慣れてないと。この急激な変化に身体が

  ついていかない奴もかなりの数居る。

  まるで異界の扉でも開いてどこか別の世界へとワープしてしまったかの様に、景色は様変わりしていた。もう慣れてしまっているが、もし初めてここに足を

  踏み込んだのなら、隣にさっきまで居たヴァンダが、今も変わらず居てくれる事を確認しなければ、夢でも見ているのかと混乱してしまったかも知れない。

  アウルラドロ第一層、始原の密林。

  「やっぱあっちぃなー。餌場は」

  というそれっぽい名前も一応ついているが、俺達冒険者の間での通称は"餌場"である。理由は至極簡単で、アウルラドロのダンジョンに突入したのならまずここに

  出る事。どんなぺーぺーの初心者だろうと、まずはここで冒険者としての下積みが始まる訳で。冒険者にとってここは絶好の狩場であり、餌場である。もっとも気を

  抜けばどちらが餌になるかわかったもんじゃない。昔はもっと別の、やましい理由で人を処分したい時にも使われていたそうだが。今のところ、アウルラドロの統治が

  改善された事もあって、俺は見かけた事はない。

  ダンジョンの中、とはいえそこはまるきり別の世界だった。その様変わり具合が、つまるところ夢の上に立っていると人々にいわれる所以でもある。そしてそんな

  夢から、化け物が生じるのだから。確かにそれは悪夢という他はなかった。何より、ダンジョンは見た目と中身の広さがまず一致していない。というか入る前、

  明らかに洞窟だった。なのに空を見上げれば、青空と太陽とおぼしき光があり、そして遠くには大きな雲まで流れている。まるで荒唐無稽だった。

  「今更だけど、ヴァンダ。本当に俺と来てよかったのか?」

  ダンジョンへの感傷も程々に、俺は狩りがはじまる前にヴァンダへと軽く声を掛ける。

  「んん? まあ、いんじゃね?」

  訊ねられた当のヴァンダは、非常にあっけらかんとしている。

  「俺は魔剣士だから、お前を強く守ったりとか、そういう事はできないが……」

  「そんなのわかってるって。お互い無理しない程度でやりゃいいさ」

  もしかしてヴァンダは、魔剣士がどういう存在なのかを詳しくは知らないのではと俺は思わず口にしてしまうが、きちんとわきまえているようだった。通常

  であれば、盗賊であるヴァンダは敵の攻撃に強く晒される訳ではない。無論、前衛か後衛で大別するのなら、前衛だから時には危険に晒される場合もあるが、

  基本的には騎士や戦士などの能力持ちに守られる側で。だから、俺みたいな奴とこうして組むにあたってそれを期待されると、正直な話俺も困る。

  無論魔剣士として、ほとんど一人でダンジョンに入っていたので、遠距離で戦わない限りは常に矢面に立たされるのが魔剣士の宿命でもあるが、だからといって

  誰かを庇いながら戦う経験には乏しいし、それに適した技術も持っていない。はっきりいって効率は悪い。

  その上、大丈夫だと口にするヴァンダの防具らしい防具は左腕につけた二つの丸く小さい盾だけ。それは手首と肘の辺りにそれぞれついており、一応攻撃を

  受けられなくもないが、といった程度だった。それ以上をつけるとヴァンダ自身の動きを阻害するから、つけていないのだろう。

  「まあ、お互いに相手がどんなもんか、まだわかってない部分があるってのは確かだから。焦らず行こうぜ」

  「ああ」

  その言葉を皮切りに、俺達は餌場の攻略をはじめる。

  「実はさ。今氾濫の心配があるって、ダンジョン入るのが警戒されてるだろ? 中の敵も変に増えたりしてるし。その関係で今、餌場の方に結構いい奴が湧いてる

  っぽくてさ。良かったら一緒にやらね?」

  というのが、ヴァンダから受けた提案だった。なので、基本的にこの第一層は今となっては素通りする場合も多いが、今回はここが目的地でもあった。さすがに

  ダンジョンに異変が起きている今、深層へ行くのは俺も反対だったが、まあ餌場ならと承諾したのだった。そうでなければ実力も定かではないヴァンダと、いくら

  恩があるとはいえ同道しなかっただろう。何かあった時にヴァンダに致命傷を負わせてしまったとしたら、それこそ合わせる顔がない。

  先頭をヴァンダが行く。盗賊であるヴァンダは斥候の役割を果たせるので、まあ適任といえばそうだが。何よりもヴァンダの言う"ウマい話"の詳細をいまだ

  聞かずに同行しているので、道案内も任せるばかりだ。

  しばらくはただ、暑くて仕方ない密林を抜けていくばかりだった。時折冒険者らしき人影が見える。いつもより人気が多い気がする。多分、気のせいではない

  だろう。深層を遠慮してしばらく休む奴も居るだろうが、先立つ物に乏しい奴らは、こうして日銭でもいいからとやってくるのだった。ヴァンダの話によれば、

  その上でウマい話もあるそうだが。

  油断はせず、俺は掌で静かに魔力を練っていく。普通の魔法使いなら、仲間が居るから安心だと温存をするかも知れないが、実力がわからない上に、たった

  二人。一人増えただけで、警戒を緩める程俺は強くもない。

  そしてそんな俺の予想は、ある意味では裏切られて、しかしある意味ではその通りとなったのだった。

  「お?」

  不意に、ヴァンダが気の抜けた声を上げる。続けて、呻き声。俺は考えるのをやめて、ヴァンダの視線を追う。

  人が倒れている。それも複数人。それだけじゃない。魔物も居る。それから、淡い緑色の光が……。

  「く、来るな……!」

  たった一人で、魔物に立ち向かっている虎の大男がそこに居た。片膝を突きながら、後ろに倒れている仲間を庇って手に持つ大剣を必死に向けている。それに

  迫る、四足の大型の獣。

  俺の思考はそこで途絶えた。ほとんど無造作に掌を魔物に向けて、練り上げていた魔法を解き放つ。雷光が飛び出し、一瞬にして獣へと距離を詰め、その被毛と

  内側の肉を焼く。獣が咆哮を上げた。ただの牽制の魔法だ。これじゃ倒せない。

  「うわ、反応はっや。やるじゃん」

  ヴァンダの声。斜め前に居ると思っていたのに、気づけばそこから更に数歩先から聞こえる。獣から一瞬視線を逸らそうとするよりも早く、獣と重なるように

  ヴァンダが飛び込んだ。早い。俺の魔法を早いといった癖に、その動きも中々の素早さだった。さすがに雷光の速度には適わないが、それでも瞬きをしている間に

  見失ってしまいそうな程の速度ではある。獣が近づいてくるヴァンダの気配を知ったのか、男から狙いを変えて、ヴァンダへと顔を向けて。食われる。そう思った

  次の瞬間には、ヴァンダは素早く滑り込む。大地すれすれに姿勢を低くして攻撃をやり過ごし、それと同時に一瞬の煌めきがそこから発せられた。ヴァンダが獣と

  重なったのはほんの一瞬で、ただ通り過ぎたようにしか見えなかったが、そのままヴァンダは獣と距離を取るとすぐさま立ち上がった。

  「いいもん見たわ~」

  軽口を言いながら、いつの間にか抜いていたのか銀色に光るナイフを軽く振る。先端に付着していたわずかな血が大地へと飛び散るのと同時に、獣の首からも

  夥しい血が溢れ出した。思わず総毛立つ。あんな一瞬で、硬くて剛毛、皮膚もまた硬いあんな化け物の首を掻っ切れるもんなのか。少なくとも俺の剣ではちょっと

  難しい。諦めて魔力を込めて焼き切るだろう。

  ただ、俺達はそれで勝利を無事収めて一安心、とはいかなかった。

  あの淡い、緑色の光だ。

  「なるほど。ウマい話って事か」

  「そゆこと。いやー、一人とか頼りない奴とだと、こいつらみたいになっちゃうじゃん?」

  俺達の視線の先には、宙にふわふわと漂う緑色の光が。見た目通り、揺光(ようこう)と呼ばれる魔物だった。流刑窟に居た亡霊とも似ているが、亡霊と違うところは、

  こいつらは結構、レアな敵だという事だ。そして攻撃も激しくはない。

  ただし、問題がある。あの淡く、優しい緑色の光。あれは精神に直接作用する。なので、平たく言うと、非常にリラックスして、寝てしまう。

  そう。寝てしまうだけだ。ただ、寝る場所が問題だ。こんなダンジョンのど真ん中で寝てしまったら最後、魔物未満の獣にすら食われて死んでもおかしくはない。

  なので、今そこらで寝ている奴らも死んだり致命傷を負っているというよりは、ぐっすりと眠っているのだった。虎の大男だけ起きているのは、非常な興奮

  状態に陥って光の作用を受け付けていないか、精神耐性が元々高いのだろう。

  俺はとりあえず自分の指先に魔力を込めて、自分の目へと。気休めだが、直接的に見るよりかは幾分マシというものだ。

  「ヴァンダ。あんたは大丈夫なのか」

  「へーきへーき。そういう残滓もあるって事」

  ふと気になってヴァンダを見れば、大きなハイエナの耳につけられたピアスから力を感じる。なるほど。あれで対抗しているのか。

  ヴァンダは一度ナイフをしまうと、別のナイフを取り出す。そちらは今獣を一撃で倒したものと比べると、大分細く、質素なものだった。

  「んじゃ、試してみようかね」

  ヴァンダが、腕に着けたバングルを使ったのだろう。すぐに握るナイフから熱を感じる。それをすぐさまヴァンダは放った。揺光は実体を持たないかのように

  見えるが、実はある。淡い光の中に、わずかに核となる部分があるのだ。そこを見極めて攻撃をする、というのは実は難しい。

  見極めるために近づくと、寝る。あっという間に。

  けれど、その辺りはさすがヴァンダだった。既にヴァンダの腕前に関して、さっきの一撃で獣を仕留めた部分で問題ないと思っていたが、遠目からの投げナイフの

  一撃もまた、狙い過たず核へと達する。すぐさま揺光はぶるぶると震えて、光を霧散させては消えて、割れた核だけがぽとりと落ちる。

  「おおー、一撃! 助かるわ~。さすがにあんなヘボナイフじゃ、一発じゃ落ちないからさぁ。かといってさっきの投げてどっか行ったら困るし」

  ヴァンダはバングルの効果で一撃で揺光を倒すことができて、ご満悦のようだった。そのまま続けざまに投げて、更に後ろに居る揺光まであっという間に制圧

  してしまう。

  「あ、電池切れた」

  のはいいのだが、すぐに残滓の効力が切れてしまう。使い切りではない残滓は確かに便利だが、一度に強く使うとあっという間に力が枯渇してしまうのだった。

  ただ、ヴァンダが充分に数を減らしてくれたので、残りは俺の担当で良さそうだった。さっき放った雷光の一撃で残りを掃除していく。ただの牽制の一撃では

  あるのだが、揺光は耐久力はそれほどでもない。炎魔法はこんな密林で火事を起こしたら後が面倒なので撃てないし、核を完全に捉えきれなくとも、かするだけで

  多少のダメージが期待できる雷光が結局は相性が良かった。

  「おつかれーっ!」

  そんな訳で、それほどの時間をかけずに周囲の敵を殲滅しおえる。残っていた他の魔物も居たが、まあその辺はただの雑魚だ。所詮は第一層。ただ、普段は

  中々お目にかかれない揺光がこれほど湧いているというのは確かに珍しかった。

  「これだけあれば、確かに当分は問題ないかもな」

  そしてまた、お目当ての品というのがこの揺光の核でもあった。この核そのものにも、先程の光に似た作用がある。無論、既に生きては……生きてるって言って

  いいのかこいつらは。ともかく、先程までの緑色の光を発しまくっていた状態と比べると効力は落ちるが、枕元に置いておくだけで心地よく眠れるという、安眠に

  使える品なのだ。揺光自体が中々お目にかかれない上に、この核もしばらくすれば完全に力を発しなくなるのもあって、不眠症で悩む奴にとっては喉から手が

  出るほど欲しい代物。中には揺光を倒さずどうにか持っていけないかと苦心するという者も居るが、まあ、笑い話だ。さすがに街中であんなの居たら、周りの奴らが

  ばたばた倒れて寝てしまうので、使えたもんじゃない。大金持ちなんかは或いは厳重に管理をして所有しているかも知れないが。ただ、いくら気持ちよく眠れる

  からといって、見たら強制的に寝てしまうという状態をずっと続けるというのは、ある日目覚めないままとなってしまっても不思議ではない気がする。

  ……ある意味幸せな死に方か?

  「大丈夫か?」

  周囲の危険が無くなったのを充分に確認してから、俺は片膝を突いたままの虎の大男へと声を掛ける。見た感じ、戦士か。助けたその時から、ヴァンダと勝利を

  悦ぶ今の今まで、呆けたように俺達を見つめている。俺が声を掛けると、びくりと身体を、その巨体に似合わぬ程に強く震わせた。

  「も、もう駄目かと思いましたぁぁ……」

  デカい図体から絞り出された、思いの外に幼い声音。よく見ると確かに、若い。図体のせいでもっとおっさんかと思ったら違った。顔だけ切り取るとまだ少年を

  ギリギリ抜けた程度だ。

  「立てるか? とりあえず、信号送るぞ」

  俺は手持ちの中から、つい先日使ったばかりの……とは違う、救難信号を出す。当たり前だが、先日の流刑窟のような切迫した状況ではないし、そもそも俺が

  助けを必要としている訳でもない。とはいえ寝ているだけで四人ぐらいは居る訳で、こいつらを全員運ぶのは骨が折れる。そのため、今使ったのは要救助者発見、

  追加で"複数名"とだけ入れて発している。第一層である餌場なのもあって、街からもすぐだし、周囲の冒険者の中から手が貸せる奴らも来てくれる。

  「おーい。大丈夫か?」

  期待が裏切られる事はなく、とりあえず倒れている全員の様子を見ている内に声が掛けられる。昏倒したせいで頭を打ったりはしたかも知れないが、外傷に

  重傷と見られる箇所もない。まあ、大丈夫だろう。

  「ヴァンダ。俺達はどうする?」

  正直俺は他の奴らに任せて、引き続きヴァンダと狩りに勤しんでも構わないと思いつつも、意見を仰ぐ。一応ヴァンダが誘った形なので、リーダーはヴァンダの

  方でもあった。

  「ん。まあ、一応出口まで面倒見るかね。普段ならしねぇけど。普段なら」

  そう言われて、俺も頷く。確かに平常時の餌場なら、そんな事はしないだろう。ただ今は、氾濫の兆候もある。どこで何があるかわからないし、出口までそこまで

  距離がある訳でもない。一応は俺達が最初に助けたのもあるし、最後まで面倒を見るべきか。

  「それじゃ行くか。えっと……」

  「あ。俺、レカードって言います」

  「レカードか。まあ、出口までだが、よろしく。俺はラディル。……魔剣士だ。そっちはヴァンダ。盗賊だな」

  「改めて、助けていただいて、ありがとうございました」

  「いいっていいって。報酬もらうだけだしさ」

  「ほ、報酬……どうしよう、俺達、お金は全然」

  金の話になって、レカードは尻尾の先まで縮こまらせて困った顔をしている。

  「ああ、平気平気。お前ら初心者だろ? ある程度はギルドが立て替えてくれるから、気にすんなよ」

  「そう……なんですか?」

  「そうだな。常習犯とかじゃないなら、まあ」

  冒険者ギルドというのは、当たり前だが冒険者の活躍によって成り立っている。よってヴァンダに俺が助けてもらった時の救難信号の処理と報酬の橋渡しも

  してくれたし、例えば俺が金を持っていなかったとしても、立て替えてくれたりもする。この辺は冒険者相手の金融事業の一環という奴だ。無論、腕もないのに

  無謀な戦いに出て何度も救助されるような馬鹿は別だが。その場合は逆に損害賠償ものだが、今回のような場合は氾濫の兆候もある。なんの問題もなく立て替えて

  くれるだろうし、返済計画も無理な要求はしないだろう。

  「俺、冒険者になりたくてこの街に来て……そこで、同じような仲間を見つけたんです」

  道中、周囲の警戒は怠る事なく、それでもレカードから事情を聞く。まあ、集まってきた冒険者のおかげもあって、正直暇だしな。もっとも寝てる奴らを担いで

  もらっているので、いざ敵が来たら俺やヴァンダが前に出る形にはなるが。

  「でも、今は氾濫が近いかも知れないから、第一層でも危険かも知れないって言われて。だけど手持ちも心許ないし……」

  「それで、揺光の話を聞いたのか」

  「はい。おんなじような事情の人が酒場には沢山居て、それでどうにか稼げるものの中に、あの光る奴の話があって」

  ヴァンダも同じようなルートで情報を入手したのだろうか。

  揺光は確かにそれ自体はあまり危険じゃないから、他に邪魔が入らないなら初心者向けかも知れないが。しかしダンジョンでは邪魔なんていくらでも入るだろう。

  結果として、揺光との戦闘はそれなりに戦闘経験を積み、何よりどう対処するのかを熟知している必要があった。まあ、初心者じゃな……。

  「他の魔物まで出てきて、もう駄目だと思ったところで、ラディルさんとヴァンダさんが来てくれて。本当に助かりました。すごく恰好良かった」

  「そ、そうか……」

  「へへへへへ」

  ヴァンダがでれっとした顔をしながら笑い声をあげる。俺も、少し顔が熱く感じる。無垢な子供から寄せられる純粋な感情に近いだろう、この感謝の言葉は。

  「俺、戻ったら、もっと身の丈に合った稼ぎをまずは探して、きちんと皆さんに報酬を支払えるようにします」

  「良い心がけだな。なら、これ持ってきなよ」

  にぃっ、と笑ってヴァンダが懐から石を取り出す。揺光の核だ。それを見たレカードが、目を丸くする。

  「えっ。でも、それ……俺が倒した訳でもなんでもないのに、そんな」

  「何言ってんの。レカードくんがあそこで耐えてくれたから、他の奴らは助かったんじゃん。レカードくんを含めて五人分の救助の報酬が、まず俺とラディルは

  もらえるって訳。死んでたらさすがにもらえんからね。遺族とかいて、謝礼金出るなら別だけど。だから、その分これは君にあげる。他の奴らが起きた時に、

  取られないようにな?」

  助けを求めるように、レカードが俺へと視線を送ってくる。謙虚だなこの男。ヴァンダの仲間である俺が、そんな事するなよってヴァンダに言ってくれないかと

  期待しているのだった。俺は苦笑して、俺の持っていた石も一つ差し出す。

  「貰っていい。今ヴァンダが言ったのもそうだが、初心者であんな状況になって、逃げ出さずにいたのは立派なもんだ。まあ、それが正しいのかは、時と場合に

  よるが……今回は第一層だしな」

  冒険者になったばかり、という事は初陣もいいところだろう。よくそんな状況で、自分以外全員寝ているというのに、逃げ出さずに戦おう、守ろうとしたなと

  感心する。ただ、それは冒険者としては早死にする特徴でもあった。見捨てたところで、同じ冒険者からは咎められはしない。無謀な計画を立てた奴がまず悪いし、

  実力がまったく見合ってなかったのだから。まとめて寝かされたのがまずもって論外。そんなおざなりな戦い方じゃ勝てるもんも勝てなくなる。逃げる事が

  卑怯であるかどうかは、時と場合による。冒険者はもっと、泥臭いものだ。

  誇りに生きる事もなければ、誇りに死ぬ事もない。

  「ありがとうございます! 俺、頑張ってお二人の役に立てる冒険者になりたいです!」

  「へへ、楽しみ~」

  「ああ、いや、俺はその……」

  魔剣士だから気にしなくても。と言いたかったが、水を差してしまう気がしてそれ以上は言えなかった。俺が名乗った時にも別に顔をしかめたりもしなかったし、

  レカードはそういう話はまだ何も知らないのかも知れなかった。

  これがもう少ししたら色々知って、魔剣士の俺の事を冷めた目で見つめる日が来るのかと思うと……。

  お腹痛くなってきた。

  そんな日が来ない事を祈ろう。

  「まあ、とりあえず今日のところはゆっくり休んで……」

  俺がレカードの話を軽く流そうとした、その時だった。不意に、地響きが巻き起こる。その場に居た全員が瞬時に戦闘態勢に入る。

  遠くから、唸り声。

  デカい。

  声の太さ、大きさ、大地の揺れ具合でただならぬ相手が居るのが容易に察せられてしまう。なんだ。何が居る。

  「……ありゃあ」

  いち早くその正体を見つけたのは、咄嗟に前に出たヴァンダだった。気絶している奴らを背負っている冒険者の方はそうする事はできなかったし、また何人かは

  彼らを守るようにもしていた。

  「まずいな、こりゃ。主だわ」

  いつも通りの軽口のように、ヴァンダが言う。その場に居た全員に緊張が走る。

  主、あるいは長という言葉は、古来からよく使われるものだった。

  群れがあれば、それを率いる長が居るし、洞窟や湖には主が居る、なんて話もこれまたよく聞く。

  だからダンジョンのそれも、ある意味例外ではなかったと。それだけの話といえばそうなのかも知れない。

  もっとも、ダンジョンで出てくる主というのは、他のたまたま居てデカいだけの奴とは異なっていて。

  今まさに俺達をとって食おうと咆哮を上げては、血走った目で睨みつけてきているのだが。

  「初めて見たな……」

  誰かが口にする。俺も、そうだ。

  アウルラドロ第一層、始原の密林の主。

  それは非常に大きい猪の猛獣だった。立派過ぎる体格と角。角は緋色に近い色合いで、まるで血を吸ったからそんな色をしているのではないかと錯覚してしまう

  程に鮮やかでもあった。

  歩く度に大地が僅かに揺れる気さえする。

  初心者冒険者達がいまだに眠ったままなのは幸運だった。こいつら起きてたら、絶対叫んで四方八方散り散りになっていただろう。幸いここに居る冒険者達は

  そこまでではなかった。だが、それでも第一層だからまだ大丈夫と思っていた奴もまた多い。主が少し動けば、その威圧感には容易く蹴散らされてしまう。

  通常、主というのはその層を統べる存在だが、会う事は滅多にない。それというのも、基本的に主は次の層へ向かうその直前を縄張りにして、冒険者か奥へ

  行こうとするのを阻もうとするのだ。ただ、誰かが一度主を倒すと、それきり姿を現す事がない。

  ただ、例外もある。それがダンジョンからの魔物の氾濫だった。倒した主さえも、甦る。あるいは新しい個体が現れる。

  既に突破された餌場の主が俺達の目の前に再び現れるというのは、まさに魔物の氾濫が迫っている事を告げる使者であるかのようでもあった。

  「どうする。もう出口はすぐそこだぞ」

  「氾濫だっていうのなら、下手したらあれが外に出ちまうのか? 冗談だろ……」

  「落ち着け。とにかく、寝てるのを担いでる奴らは主を刺激しないように外に出てくれ」

  追加で救難信号。第一層の主の出現。それ以上の情報は必要ない。

  「レカード、下がれ。危険だ」

  「でも、俺」

  レカードは主を目の前にしても、怖気づく様子もなく俺の言葉を聞いて迷っているだけだった。先輩冒険者達の方がよっぽど狼狽えている。それが経験の差なのか、

  レカードの肝が据わりすぎているからなのか。はたまた無謀さの塊なのかはわからないが。少なくとも俺は少し膝が笑っている。

  ただ、話をしているのもそこまでだった。先程まではまだうろうろと周りの様子を窺っていた主が、不意にこちらへと視線を向ける。来る。咄嗟に、俺は

  先程とまったく同じように雷光を放っていた。少なくとも負傷者を抱えている奴らの方に行かれるのは不味いし、無論アウルラドロの街に出られても困る。

  時間稼ぎが必要だった。

  「俺が引きつける、今のうちに行け!」

  馬鹿な役を引き受けたなと思いつつ、俺は走り出す。正直相手が悪い。というか器用貧乏な魔剣士は、基本的に大物なんて相手にできない。器用貧乏ながらも

  伸ばせるところは伸ばして、そのわずかな長所と短所から得意な相手を選んで狩るのが精々。そして大きな山のような主にとって、そんな小さな才能の段差

  なんて誤差も甚だしいのだった。

  とはいえ、そんな俺でも時間稼ぎくらいはできる。主が俺に狙いを定めたのを確認しながら、あとは全速力で……。

  「あっぶねっ!!」

  不意に、ヴァンダの声が聞こえると同時に俺の腕が強く掴まれて、身体が引っ張られる。視界がぐるりと一回転して、俺は宙へと投げ出される。ひっくり返る

  世界の中、たった今俺が立っていた場所を主が通り過ぎるのが見えた。早い。想像していたより、ずっと早い。そのままだったら吹っ飛ばされていたかも知れない。

  俺が茫然とそれを見つめていると、また腕が引かれる。何が起きているのかと腕の先を見れば、何かが巻き付いているのが見えた。そして身体が吸い寄せられた

  先で、柔らかい感触がして。

  「おい。無茶すんなよ」

  これまたひっくり返った視界に、呆れたヴァンダの顔が見えた。かなり体勢を崩した俺を、ヴァンダが身体で支えてくれたらしい。柔らかい腹があって

  激しくぶつかる事もなかった。よく見ると、俺が渡したバングルは右腕につけていて、左腕についた腕輪から、蔓のようなものが伸びて俺を捉えていたらしい。

  「今のは……」

  「これも残滓だよ。まったく、やるならやるで相談してくれよな」

  「……悪い」

  その言葉に、俺はなんだかむず痒い気持ちを覚える。ヴァンダからすれば、戦うと決めた訳でもない。静観しても、他の奴らと一緒に逃げたとしても、

  変わらないだろうに。

  改めて主の方を見つめる。主は俺への攻撃を外した事に気づいて、すぐに俺へと向きを、変えようとして新手の妨害に遭う。

  レカードだ。新米冒険者といいながら、雄叫びをあげて凄まじい勢いで大剣を叩きつけている。普通の敵なら、不意打ちに近い形であんな大剣の一撃を

  受けたら致命傷になるだろう。しかし相手は主だった。

  「離れろ、レカード」

  俺が声を掛けるが、レカードは離れない。いや、離れられないのだった。主の赤い角が、煌めく。輝きを増して、それに目が吸い寄せられる。

  「うわっ。なん……だ、これ」

  レカードが苦し気に呻く。不味い。死ぬ。

  掌の中で、ありったけの魔力を練り上げる。手加減をしている暇はなかった。俺はそれを主ではなく、レカードへと。瞬間、凄まじい風が巻き起こる。それは

  一つの大玉のように纏まると、まともにレカードの横っ腹にぶち当たった。レカードが更に声を上げて吹っ飛ぶ。ひとまずは大丈夫か。

  「初めてみたな、あれ。あれがあるから、近づけねぇって聞いたけど」

  ヴァンダは冷静に主の力を見つめていた。第一層の主の力は、吸命だった。つまり、あの角が怪しく輝いていると、命を奪われる。逃げたいのに、身体の

  自由も効かなくなる。

  揺光とは別の意味で近づいてはいけない相手だった。だから以前に倒した際は、もっと広く場を使ったと聞く。でも今はそれができない。ここから立ち去る

  事はできない。せめて餌場の奥地まで誘導できればとも思うが、それができたとして、俺とヴァンダとレカードでは遠距離での決定打には欠ける。ヴァンダに

  渡した残滓の力があっても、本職には及ばないし、魔剣士の俺なんて言わずもがなだ。そしてレカードは基本的に敵の前に出るのが仕事なので、完全に相性が

  悪かった。

  逃げたいのに逃げられず、こんな状況でいつまでも持つ訳がない中で持久戦を強いられる。非常に苦しい展開だった。

  「逃げるか? 俺はそれでもいいぜ」

  耳元で、ヴァンダの声。はっとなって、俺は顔を上げる。当のヴァンダは笑って俺を見つめていた。

  なんだろう。不思議な感覚だ。ヴァンダだって、今は危機的状況には違いないはずなのに、まるでそんな事は斟酌するに値しないと、それよりも俺がどう

  行動するのかをただ見守っているかのようだった。

  逃げるべきだった。こんな状況で逃げるのは、何も間違いではなかった。

  だけど、周りの奴はどうなるだろうか。助けるためとはいえたった今吹っ飛ばしたレカードは? もし気を失っていたとしたら、どうなるかわからない。

  出口は目の前だけど、主も居る。そんな中での気絶では。

  「……逃げたくない。でも、どうしたらいいのか……わからないんだ」

  ヴァンダの問いに、俺が示した答えはあまりにも稚拙で……まるで子供のわがままのようだった。どうしたらいいのかもわからないけど、なんとかしたい。

  そんな俺のあまりにも身勝手な返答にも、ハイエナの男は笑みを返してくれる。

  「なら、やるだけやってみようじゃねぇか。俺に考えがある。あ、でも……そのためには、あいつがあの吸命を使ってる必要があるわ。だから、正面から

  あいつにぶつかる必要があるのと、それからその時に、ほんの少しだけどあいつが無防備になってもらわないといけない。ラディル。できるか?」

  「それは」

  俺は言い淀む。そこまでやる事を提示されているというのに、俺ではそもそも主を正面から受け止められない。軽く吹っ飛ばされて、そもそもあの力を

  使われる事もないかも知れない。

  「俺がやります」

  俺達の会話に割って入るように、声が。視線を向ければ、少しふらつきながらも起き上がったレカードが立っていた。口から血が出ている。

  「俺が止めてみます。だから、ラディルさんはあれを少しの間、止めてくれませんか」

  「お前……下手したら、死ぬぞ」

  正面から敵を受け止める。確かに戦士であるレカードの本領だった。だけど、これは作戦の成否に関わらず、レカードが一番危険で、一番命を落とす可能性が

  あった。俺ができればよかった。だけど、俺ではできなかった。

  怖くないのかと、そう思いながら俺はレカードを見つめる。ついさっき会ったばかり。いくら助けたとはいえ、それでも、たったそれだけだ。命を懸けて

  何かをする相手としては不足しかないだろうに。

  レカードが、俺を見つめて、苦しそうにしながらも笑う。

  「俺、嬉しかったです。ラディルさんと、ヴァンダさんが助けてくれて。お金の事でまで、助けてくれて。俺も、こんな風になりたいって、さっきから思って

  ました。こんなに早く、お二人に恩を返せる時が来ると思ってなくて、今ワクワクしてます」

  「ばーかだなぁお前。死に急ぎすぎじゃねぇ?」

  ゲラゲラ笑いながら、ヴァンダが言う。そうかも知れないとレカードも笑う。

  笑ってないのは俺だけだ。

  「……わかった。やる。レカード、頼む」

  俺だけ置いてけぼりにされてしまいそうな感覚を覚えて、俺はそう答える。どの道、もう主は俺達三人を改めて視界に収めて、今まさに飛び込んできそうな

  勢いだった。

  「任せてください!」

  レカードが大剣を構える。身体が震えている。怖い、よな。当然だ。

  「じゃ、やるか。いいか? 手順は……」

  短く、ヴァンダが説明をはじめる。疑問を差し挟む時間はない。俺とレカードは同時に頷いた。

  主が動く。レカードが雄叫びを上げて前に。正面衝突の構えだった。ヴァンダが一旦後方に飛び退り、俺は横へと走る。まず、レカードが主と激突する。

  初心者とは思えない気迫で切りかかるレカードは、まるで歴戦の戦士のようにも見えた。その大剣は主へと振り下ろされるが、主の被毛も皮膚も、さっき

  ヴァンダが一撃で仕留めた獣とは比べようもない。大剣の一撃を角で弾かれることもなく、被毛にぶつかるのだった。だからそこで、押し合いになる。当然、

  俺達よりも数倍はデカい魔物だから、普通にやったら抑えきれない。その辺りはレカードが戦士の力を使っているのだろう。

  そしてすぐに主の角が光りはじめる。どうかレカードの命が尽きない事を願いながら、俺は集中する。苦し気なレカードの声。一歩間違ったら、そのまま

  死ぬというのに、レカードはただまっすぐに主にぶつかっていた。

  「行くぞ!」

  ヴァンダの声。宙から、蔦が伸びてレカードの胴に絡みつく。ヴァンダは近くにあった大木の上から、レカードに向けて蔓の残滓を放ったのだった。強制的に

  ぶつかり合いが解除される。動けなくなるとはいえ、さっき俺が風を当てたように、外部からの圧力があればレカードは動かす事ができる。主は獲物が逃げた

  事に腹を立てたかのように、宙へ逃げてゆくレカードを追おうと、せめて角の先で串刺しにしてやろうとする。充分に主を引き付けている事を確認したレカードは

  主に向かって、懐から取り出したものを投げつけた。

  揺光の核だ。さっき渡した物だけじゃなくて、散開する前に渡した物も含めて、十個以上はある。

  俺は腕を上げて、それに向けて残っていたすべての力を解放した。魔剣士の魔力量は、多くはない。その場で周囲の魔素を濃くする道具も使って補助を

  しながらも、あるだけ、湧くだけの魔力を全て放った。狙いは勿論、揺光の核。主に当てたって大した意味はなかった。揺光の核は、揺光を仕留めた後も

  しばらくは眠りの作用をもたらす力がある。それは核の内部に残った力が、少しずつ、少しずつ外へと漏れ出すからだ。俺の掌から放たれた特大の雷光は、

  その核をすべて貫き、破裂させる。淡い緑色の光。まるで揺光そのものがその場に顕現したかのように、光は広がって。すぐ近くにいた主をも呑み込んで。

  「いいねぇ、最高じゃん」

  いつの間にかヴァンダの姿が、淡い光の中に浮かんでいた。ピアスの残滓のおかげで、ヴァンダは眠らない。主も、さすがに眠らなかった。それでも動きは

  鈍る。

  不意に、黄金色の光が迸った。淡い光の中には、主の角から放たれる光もあったが、それよりも更に強い光が。それはヴァンダの腕の辺りで光っていて。

  いや、ヴァンダの腕自体が、まるで……。

  その光を、ヴァンダは怯える様子も見せずに主の角そのものへと伸ばす。俺は息を呑んだ。あの命を吸い取る能力そのものに手を伸ばして、本当に大丈夫

  なのか。ヴァンダの説明は確かに聞いた。だが、質問する猶予さえ与えられなかった。

  激しい光が上がる。淡い緑も、赤も、黄金も、すべての光を呑み込むかのように。それでも、やがては消えていく。

  光が収まるとそこにまだヴァンダも、そして主の方も立っていた。まるで何事もなかったかのように。

  だけど、すぐに変化が訪れる。主が、ヴァンダから距離を取ろうとしていた。後退をし、頭を少し低くして。ヴァンダがゆっくりと右手を上げる。

  そこから、光が。さっきまでの黄金色ではない。赤い、あの光が。

  「そんなに怯えるなよ。"慣れ親しんだ"もんだろ……?」

  ゆっくりと、ヴァンダが歩を進める。赤い光が強くなる。突然、主が狂ったように鳴き声を上げて、一気にヴァンダへと距離を詰めた。ヴァンダはそれを

  正面から、右手で受け止める。

  「ヴァンダッ!!」

  俺は思わずその場に駆け付けようとして、それでも足が前に進まない事に気づく。ヴァンダからの、赤い光だ。主が使っていたものよりも、更に一層の

  輝きを放っているそれは、周囲に居る俺達の動きさえも掌握していた。主だけは、俺達とは当然だが造りが違うのだろう。抗っている。けれど、主の角からは

  あの輝きが無くなっていた。普通ならヴァンダとて、盗賊なのだから主を受け止めるなんて事はできないはずなのに、今は一歩も引かずに立ち向かっている。

  不意に均衡が崩れる。主がヴァンダをそのまま押しはじめ、加速する。ヴァンダは逃げる事もなく、その手で主を掴んだまま近くの大木に激しく打ち付けられる。

  助けなくては。ヴァンダを。そう思っても、俺の身体は動いてくれない。ヴァンダが助けたレカードも、同じようだった。

  光が、強くなる。大木に叩きつけられ、そのまま押しつぶされてもおかしくはないのに。既にヴァンダの姿も見えない。強い光だけが、更に輝きを増していた。

  抗っているのだ。命の煌めきそのもののように、ヴァンダの力が。こんな提案、受けるんじゃなかったと後悔した。結局俺は、一番安全な場所で。こうして

  三人で戦う時でさえ大した役目も果たせず、今まさに死闘を繰り広げているヴァンダの下に駆け付ける事さえできないのか。

  「ヴァンダ……。ヴァンダ!」

  名前を叫ぶ。たったそれだけが、なんになるのだろう。けれども、身体も動かず、核を砕くのに魔力もすべて使い切った俺にあとできるのは、それだけだった。

  たった、それだけで。

  「大丈夫。聞こえてるさ、ラディル」

  俺の耳に届く、その声。俯きかけた顔を勢いよく跳ね上げて。光は今まさに、最高潮に達したといわんばかりに。もはや視界のすべてを覆いつくしていた。

  色の判別すらできず、瞳はその輝きに眩み、目をつぶっても逃れられない。光そのもので、身体の外側も、内側も、そして脳裏まで照らされ、焼き尽くされて

  しまうかのようだった。

  それでも、その光もまたその内には消えて。

  残ったのは、いつの間にか倒れていた主だった。そして、その影から。

  「いやー。死ぬかと思ったわ。さすがに」

  まるでいつもと変わらぬかのような軽い口調で現れる、ハイエナの男。腕の輝きは無くなり、本当にいつものヴァンダそのもののようだった。

  「ヴァンダ、お前」

  「死に急ぎすぎ、なんて言えたもんじゃねぇな? お互いに、さ」

  脱力して座り込む俺に向かって、笑顔でヴァンダが手を振っていた。

  餌場で主を倒してから、数日後。

  俺は諸々の手続きと、そして報奨金を手にしては、潤った懐で市場を散策していた。

  あの後、主に対する救助隊が組まれてやってきたものの、既に俺達が片付けたという事で彼らは肩透かしを食らう破目にはなったが、とはいえそれで残念

  そうな顔をする奴は誰も居なかった。主の能力を考えたなら、喜び勇んで突撃しようとする冒険者の方が少ないだろう。

  そして俺とヴァンダとレカードは、それぞれにギルドからその働きを認められて、主を討伐した報酬を別途受け取るという形になったのだった。

  報奨金が出るというのは幸いな事だ。なんせ、あの討伐の際に本来の目的であった揺光の核を、そのまま主の討伐にほとんど使ってしまったので、俺達が

  得られるのはレカードと、レカードが組んでいた数名の救助報酬だけになりそうだったし。正直なところあんな主なんていう規格外の敵を相手にして、

  それだけではさすがに割に合わないなとはヴァンダとも話をしていた。

  市場は、賑やかだった。

  ここしばらく、ダンジョンの氾濫という話題があり、そしてあの主の出現。人々が色めき立つのも不思議ではない。氾濫が本格的にはじまれば、魔物は

  ダンジョンから飛び出してくる。それを警戒して、ダンジョンを中心に展開される街の造りというのは、中央が石や金属の建築を主とし、外部に行けば行くほど

  木造などの比較的耐久性が落ちるものとなるし、また火災の警戒もある。中央に燃えやすい物は基本的に厳禁だった。また正面の道と、一部の道に限り、木造、

  可燃物の配置も厳禁となっている。これはもし外側で何かしらあった際に、街の外に落ち延びやすい造り、らしい。

  魔物の氾濫はそんなに甘いものではない。現に、今アウルラドロの市場は活気に溢れているが、道行く人々のいくらかは、魔物の氾濫が落ち着くまでは

  アウルラドロから外に出て一時避難をしようと目論んでいる者も居る。冒険者を相手に商売をし、ダンジョンを中心に様々な人々が集まり、成長をし、時には

  子もまた育まれるとはいえ、この時ばかりは例外だ。それにギルド側としても、そうした者達を守る冒険者の人数は最低限に留めておきたいのが本音だろう。

  氾濫の期間は、そこそこに長い。少なくとも一日二日とか、そんな短いものではない。長期戦の戦いだった。過去には、この氾濫が乗り切れず、街そのものを

  放棄せざるを得なかったダンジョンもまたあった。あるいはその後、討伐隊が組まれて街を取り戻す事もあれば、氾濫の期間が過ぎるまで魔物に好き勝手に街を

  荒らさせ、氾濫が落ち着いてから戻るという手段を取る場合もある。アウルラドロに関しては、基本的に徹底抗戦の構えである。この辺りの方針は、その街の

  ギルドの方針と、揃う冒険者の腕前と能力の比率、街の経済状況、ダンジョンからの恩恵の多寡、そしてダンジョンがどこに生成されたかに左右されると

  言ってもいい。早い話が不毛の地にできたダンジョンで、中で手に入る残滓、あるいは魔物の素材などの戦利品に魅力がないのなら氾濫中は基本的に街を

  放置した方が手っ取り早いし、交通の要所とか、あるいはどこかの都にダンジョンができてしまった、なんて場合はこれはもう氾濫の間機能しない方が

  集まる者達が等しく実害を受けるので、なんとしてでも徹底抗戦の構えを取るべきだという流れになる。アウルラドロは国と国の境目にあって、場所柄旅人の

  休憩地点としても機能しているし、まだ新興のダンジョンでもあるのが良かったとみるべきか。大規模な街にまでは発展しないだろうが、ダンジョンが

  無くなっても小さな宿場町程度には使えるだろうし。そうなった時、こうして建てられた街並みは、そのまま新しい街へと生まれ変わるのだった。

  市場をいく人々の顔は、思いの外明るい。

  アウルラドロは既に魔物の氾濫は何度か経験済みだ。これが初めての場合は、場合によっては混乱をきたす場合もあるが、一時避難のための物品を求めて

  慌ただしくしている者も居るので、市場はいつもよりも活気に溢れていると言ってもよかった。そんな中で俺は、道の端で開かれた店から、並べられた果実を

  手に取っていた。こういった果実は、アウルラドロの外から来たものだ。ダンジョンとそれに付随する街では、長期的な農耕などは基本的には向かない。その

  代わりに、ダンジョンからの恵みを出荷する形で、代わりにこういった物が入ってくる事で経済は回っている。また冒険者が集まるのもあって、護衛業なども

  場合によっては請け負い、街の外へ出かける場合も多々あった。結局僅かな量しか残らなかったが、揺光の核などはこの街を出て、不眠に悩む金持ち貴族の

  夫人辺りが喜んで高値で買ってくれているだろう。

  「レカード。体調はどうだ」

  市場を抜けて、住宅街の近くにある安宿へと。ギルドが全面的に支援している施設だ。駆け出し冒険者ときたら、まずはここ。なんて言われるくらいの。

  受付で挨拶を済ませてから、俺は目的の部屋へと向かって中に居る人物へと声を掛ける。ここに来るのも、何度目か。

  「ラディルさん。いつもありがとうございます」

  「気にしなくていい」

  扉を開けて顔を見せた虎の大男であるレカードは、ぱあっと花が咲いたように。いや、男に対してその言い方はどうかとは思うが。それでもわかりやすく

  満面の笑みを浮かべて俺を迎えてくれた。

  レカードの部屋は質素なもので、以前訪れたヴァンダの寝泊まりする宿よりかずっと狭かった。まあ、その辺は羽振りの良さってのが違うのだろう。こんな

  狭いんじゃ女を呼んでも嫌な顔をするだろうしな。そんな中で、今は戦士の鎧を脱いで、ただの麻布の服に身を包んだレカードが居る。鎧を着ていなくても、

  その体格の良さから部屋は大分手狭に感じるし、ベッドなんて特に小さく感じてもいるだろうが。当人の仕草にはそういう物は滲んではいなかった。

  市場で買った食料品を手渡す。レカードの身体には、まだ生々しい傷痕が残っていた。特に主との接近戦をしたのだ。押し合いへし合いをしたし、それより

  前から仲間を守るために単身で戦い続けてもいた。そこまでの傷がすぐに癒える事はなく、何度も攻撃を耐えた事で特に両足首の負担が相当なものだ、しばらくは

  療養するようにと言い渡されたのだった。

  そんな訳で、俺の出番な訳だ。まさか主にぶつかれと頼んでおいて、満身創痍になり満足に外にも出られなくなった奴を見捨てるなんて事ができる訳もなく。

  そもそも当のダンジョンだって、主が入口にまでやってきてた訳だから、ギルドとしても警戒心を更に高める結果になった。今通れるのは、万全の準備を

  整え、それなりに腕の立つ者か、そこまで行かなくとも入口付近でほんの少し、ダンジョン内の植物などを採取する程度の者達くらいだろう。

  俺は買ってきた果物の皮をナイフでむいて差し出すと、レカードは嬉しそうに頬張る。

  「大分良くなってきたみたいだな」

  「はい。おかげさまで、もう少しすれば問題なく歩けるようには。今でも歩けはするんですけど、どうにも引っかかる感じがしてしまって」

  「むしろそれだけで済んで、俺は驚いてる」

  あの主の吸命まで受けたのだから、もう少し横になったまま動けないとかあってもいいと思ったんだが。

  「ちょっと腹の辺りが痛いくらいですかね」

  「それは本当にすまなかった」

  加減もできず放った風魔法の方が痛い事になっているだなんて、申し訳ない。とはいえどれくらいの出力なら主から離せたかもわからないし、遅れていたら

  死んでいただろうから、仕方なかったと割り切るしかない。ここも含めて、俺が今レカードの世話を焼いている理由がある。

  「あの後、仲間とはどうなった? ああ、言いたくないなら別にいいんだが」

  「それは……」

  少し暗い、というより悲しい顔をしてから、レカードはそれでも薄く笑みを浮かべる。

  「とりあえず、俺達は解散という事になりました。全員意識が戻ってから、まずは喧嘩になりましたし……。その上で、立て替えてもらえたとはいえ、救助の

  費用もかかった訳ですから」

  「まあそれは仕方ないな。実力を見誤るとそうなる」

  立て替えてくれるといっても、借金は借金だ。金に困ってはじめた事で、借金ができる。そりゃ、穏やかな顔して話し合いなんてできないし、発案した奴がと

  まっさきにやり玉にあげられるだろう。もっともそれに乗った奴全員が馬鹿だったという話なのだが。

  そういう意味では、レカードも例外ではない。ただレカードは魔物相手には果敢だが、人に対しては優しく誠実で、面倒見も良かった。

  「結局いただいた核は使っちゃいましたけれど、別途いただいた報奨金のおかげで俺はなんとか」

  「まあ、そういう形でもらえたのは良かったかもな」

  何せ自分達が呑気に寝ている間にレカードは必死になって守ってくれて、その後主との戦にまで臨んで立派な立役者となり、それで得た報酬だ。

  まさかそれを自分達にもよこせ、なんて口が裂けても言えないだろうし、必要以上にその要求をしたら報奨金を出したギルドも黙ってはいないだろう。

  勿論俺も。

  「そんな訳で、解散にはなっちゃいましたけど。俺個人としては、得られたものは多かったと思います。単純にお金がもらえたのは嬉しいし、それだけじゃなくて、

  良い経験だったし、その上でラディルさんやヴァンダさんとも知り合えました」

  「……おう」

  こいつ、人格ができすぎているんじゃないか? と俺は思う。俺が初心者だった頃。こんな殊勝な立ち居振る舞いはできていなかったと思う。とはいえ、

  初心者でありながら主に果敢に立ち向かったレカードは既に冒険者の風格が身についているといっても不思議ではない。今回の件も、主を退治した報酬で金額的な

  負担はなかったようだし、主を倒すための負傷なので治療費なんかは全額ギルドが払ってくれる。立て替える、ではなく。なのでレカード個人としては

  大幅な黒字になっただろう。その上で、ギルドの酒場では主が現れた事、それがたった三人に退治されたという事で酒の上での話ではよく出るらしい。特に

  俺以外の二人に関してはそうだ。ヴァンダは元々そこそこは名の知れた存在だったらしく、また主を倒したのも実質的にはヴァンダなので当然だが、

  初心者でありながら主と正面からぶつかり合ったレカードの勇ましさもまた、期待の新人だと大騒ぎといった具合だ。金にせよそれ以外にせよ、レカードの

  評判は芳しく、未来は明るく思えた。

  反面、その二人と比べると俺の評判はまあ控え目だ。とはいえ俺はそれでいいと思っている。実際、命の危険を感じたかどうかという意味でなら二人には

  劣るしな。あまり持て囃されても、魔剣士という能力の関係上、次に活かせる事もない。

  「俺達三人で倒したんだから、報奨金もちゃんと三分割、な?」

  とヴァンダが言い、そして報酬を受け取れただけでもはやそれ以上言う事は何もなかった。

  「ただ、別れてしまったけれど……。みんな、大丈夫かなって。少し心配です」

  「……優しいな、お前は」

  「……ちょっと、憧れてたんです。歴戦の冒険者になるって。だから初心者だけどああして仲間ができて、俺達はこうなるんだって誰かが言って、頷いたり

  して。ああ、こういうのを繰り返して、俺もいつかはそんな冒険者になっていくのかなって。勿論ずっと同じ相手と組む訳じゃないけど、初めて組んだのは

  こういう人達だったなって、そう思い返したりするのかなって」

  「……。情に絆されて、金渡しに行ったりするなよ」

  「しません。というより、そういう事はするなと、特にヴァンダさんからはキツく言われてしまって」

  その辺り、ヴァンダはさすがにさっさと見極めてはレカードにアドバイスをしていたようだった。

  「そうだな。下手にそうやって親切にすると、そいつらは借金を返して、その上で次は上手くやれる、今回は運が悪かった。そんな風に思って、また似たような

  事をして……。次は死ぬ」

  だったら冒険者を自分には向いてなかったと早くに諦めて、普通の人に戻ったらいい。あるいはアウルラドロで冒険者相手に商売をしている奴らは、そういう

  人種も多いだろう。負傷などの理由があって冒険者をやめたが、彼らの支えになりたいという奴も居るし。

  「はい。だから俺は、もらったお金で、元気になったら装備をもっと整えて。それでまた新しい仲間を見つけて、強くなって。今度はきちんと、ラディルさんや

  ヴァンダさんと肩を並べられるようになりたいです。今回はさすがに、教えていただく事ばかりでしたので」

  「少なくとも、俺にとってはもうお前の方がずっと上に見えるがな」

  「え?」

  「……まあ、いい」

  それ以上の話は、魔剣士の、俺の面倒で暗い話になるだけだ。

  「ラディルさん。お願いがあるのですが」

  「内容による」

  俺のそっけない返事に、ふふっとレカードが笑う。

  「俺の怪我が治ったら、また俺と、一緒に組んでくれませんか」

  「俺と肩を並べられるようになったら、じゃないのか」

  「それはそうなんですけれど。ただ、今って氾濫の予兆がって、誰もかれも言うばかりで」

  「……ああ」

  確かに今回の主の件でレカードは一目置かれるようになった。平時なら間違いなく、うちにこないかと引く手数多となってもおかしくはない。しかし今は

  そうではなかった。魔物の氾濫の機運が高まり、不穏な動きが増えている。

  こういう時にもっとも安心できるのは、経験だ。

  魔物と戦った経験。氾濫を乗り越えた経験。

  いくら新参者として名を馳せても、その二つに関して乏しいという事実には変わりない。

  「僕としては、次は色々教えていただけるような人達に。最初はご迷惑をかけてしまうとは思うのですが……色々学びたくて、ついていきたかったのですが」

  「それが今は難しい、か」

  「はい」

  酒場で見かけて、軽く一声かける。やるじゃないか。すごいじゃないか。頑張れよ。そんなやり取りなら、いくらでもしてもらえるだろう。

  でも仲間として受け入れられるかというと、まだ早いかな。そんなところか。

  「俺はお前に、あまり細かいところまで教えてやれる訳じゃないが……」

  特に多人数での戦闘について教えてくれ、と言われるとどうしようもない。俺だってほとんど経験がない。

  「それでも、魔物の特徴についてなら大丈夫でしょう?」

  「まあ、そのくらいなら」

  というより、それを熟知していないと一人で戦う魔剣士はすぐ死ぬ。冗談ではなく本当にすぐ死ぬ。魔剣士としてダンジョンに入り、それなりの年月を生存

  し続けられているというのは、実は一部では知恵を乞う相手として適当であるという話もある。カルファーンに助言を乞う、という流れと似ているのも道理だ。

  「それで、いいんです。息を合わせるとか、そういう事じゃなくて」

  微笑みながらそう告げるレカードの様子に、これはギルドに顔を出した辺りで何か吹き込まれたなと察する。活躍はすごいが、あんな魔剣士と組んでどうした、

  くらいは言われてるだろう。

  「……考えておく。だが、氾濫が終わって、落ち着いたらお前はきちんと他の奴らと組むんだぞ」

  「やった! ありがとうございます!」

  両手をあげて子供のように喜ぶレカードの様子に、思わず苦笑をしつつ。きちんと養生するように告げて、俺は部屋を後にする。

  道の上へと戻ると、今度はまた別の宿へ。ヴァンダの居る場所へと向かう。無論、ヴァンダもレカードと同じように今は部屋で休養を取っている。

  というより、主とぶつかり合いそのまま大木にぶつけられ、はっきり言えば肉塊になってもおかしくないような戦い方をしていた気がするが……。

  あれでぴんぴんしているのだから不思議なものだ。盗賊なのに。

  「失礼。ヴァンダの見舞いに」

  「ああ、ごくろうさまです。どうぞ」

  宿の受付との会話も、何度か訪れているのもあってスムーズだ。既に主との戦は、アウルラドロの酒場であればどこであっても誰かしらは口にする内容だ。

  昼を過ぎた今、この宿の一階にある食堂兼酒場には誰かしらが居るが、初めてここに足を運んだ時のような下種な笑いを浮かべられる事も今はなくなった。

  許しを得ると、俺は階段を上り、何度も通ったヴァンダの部屋へと向かう。

  「ヴァンダ。俺だ。ラディルだ」

  扉を軽く叩き、来訪を告げる。しかし返事はない。取っ手に手を回すと、ふと掌にかすかな感触がし、次の瞬間には扉の鍵が外れる音が聞こえた。どうも、

  俺の魔力を登録して、俺が来たら勝手に入れるようにしたらしい。普段なら呆れるところだが……。

  「……ヴァンダ?」

  部屋へ入ると、灯りはついていなかったが、今はまだ昼過ぎ。厚手のカーテンの隙間から洩れる光が、ベッドの上の膨らみを照らしていた。すっぽりと

  毛布を被っているが、大きさからみてヴァンダだろう。疲れて寝ているのだろうか。とりあえず、レカードと同じく差し入れの品を傍の棚に。レカードには

  果物を多めに、それと焼き菓子を包んだが、ヴァンダにはジャーキーと酒類だった。まあ、見た目通りというか。いやレカードに対してそれを言うのは

  おかしいが。少なくともヴァンダの立派な腹はこういうものを食って育ったんだなと実感する。それでいて盗賊であり、動きの俊敏さには舌を巻いてしまう

  程だから侮れないが。

  すうすうと寝息が聞こえる。俺は覚えず、自分も軽く呼吸をして、束の間静かな世界を味わった。窓の外は通りであるからして、住宅地に近いとはいえ

  人々の賑わいもまた聞こえる。子供達のはしゃぐ声。あと何日かすれば、その内の幾人かは氾濫を警戒して外へと一時避難もするのだろうが。

  冒険者としては、俺はこういう空気は好きだった。一度ダンジョンに入れば、生きるか死ぬかの命の奪い合い。息を殺して魔物の気配を探り、自身は気取られぬ

  ように徹する。それが、ダンジョンの外に出て、街で生きていれば。誰かの生活の息遣いに耳を傾ける事もできる。きっと、冒険者としての命のやり取りが

  あるからこそ、このひと時もまた俺の中ではキラキラと輝くのだろうと思った。一日中街中に居たら、こんな退屈なのは嫌だと。そう思ったかも知れないし、

  実際冒険者ではない者はそんな事を口にしては、冒険者への憧れを抱くのだった。

  「うぅん……」

  ヴァンダが、軽く声を上げる。それを見て、逡巡する。渡すものは置いたし、そのまま立ち去るべきか悩む。別に急ぎの用事がヴァンダとある訳ではない。

  というよりヴァンダも傷を癒しているのだから、そんな要件あるはずもない。

  軽く一声掛けて、起きないならそのまま出るか。

  「……ヴァンダ」

  俺は毛布の膨らみへと近づいて、その端をちょっと持ち上げる。そこには当然ながら、あのどこか憎めないハイエナの姿があって……。

  「うおっ!?」

  目覚めてくれるのなら、軽く言葉を交わしてと思い込んでいた矢先、不意に俺の腕が掴まれて、そのままぐいと引き寄せられる。なんだか、残滓を使われた

  時の事を思い出した。俺はそのまま体勢を崩して、ベッドの中へと。

  「お、おい。ヴァンダ」

  鞘がベッドの寝台に当たる。いつもの軽鎧は着ていなかったが、今は氾濫の事もあって街中でも剣をつけている奴は多くて。まあ、とりあえず鎧でヴァンダに

  ぶつかるといった事態は避けられた。いつも視界に飛び込んでくる丸い腹の感触が柔らかくてあったかい。

  「へへへへぇ」

  いつものあのうすら笑いが聞こえる。遊んでいるのかと思ってよく見てみると、ヴァンダは俺を抱き締めながら、よくよく寝ていた。こいつ。

  「……起きろ馬鹿野郎」

  「あだあぁぁっっ!?」

  俺はもがいて片手をどうにかヴァンダの腕の外に出すと、そのままヴァンダの右腕を軽く叩いた。

  「いでででででっ!! なにっ、何すんの!? 俺の黄金の右腕ぶっ壊れたらどう責任とってくれんの!?」

  「やっと起きたか」

  「あ? ……あー……おはよ」

  ベッドの上で跳びあがったヴァンダは、そのまま毛布を吹っ飛ばしてから俺を解放してくれる。その後になって、自分が寝ぼけていた事に気づいたようだった。

  「もしかして俺、ラディルの事抱いてた?」

  「ああ」

  「あちゃぁ~。最近ご無沙汰だからなぁ」

  「その指の動きはやめろ」

  へへっ、と笑ってヴァンダは大あくびをする。

  「体調はどうなんだ?」

  「悪くないぜ~? まあ、ちょっと右腕がね?」

  「俺には右腕というか、全身がひき肉になってもおかしくない攻撃を食らったように見えたが……」

  「まあ確かにちょっとひき肉になってたけど、すぐ戻ってたしな」

  なんでもヴァンダの言によれば、あの戦いはヴァンダの技を使ったものであったらしい。そのため、通常ならはっきり言えば即死してもおかしくない程の

  攻撃を食らっていたように見えたが、どうにかそれを避けていたんだとか。

  「でもさ、相手が何持ってるかにもよるし、そもそも燃費悪ぃんだよな~これ。おかげでしばらく右腕がしんどくてしんどくて」

  「……すまない」

  「いや。いいっていいって。そういう事言ってほしい訳じゃねぇし。実際被害は最小限って奴だったじゃん? そりゃ、結果論って言われたらそうだがね」

  結果論。まったくその通りだ。少なくともレカードとヴァンダは死んでもおかしくなった。そして二人が死んだら、俺は多分そのまま逃げもせずに主に

  ぶつかって死んだだろう。逃げて当然。逃げても仕方ない。その精神は大切だ。でもそれは、魔剣士には当てはまらない。

  居場所も無い癖に誰かとつるんで、その相手だけを見殺しにして逃げた先で、魔剣士は生きてはいけない。

  「だからそんな顔すんなって、な?」

  ヴァンダの大きな掌が、俺の背を何度か軽く叩く。今更だが、男二人ベッドの上でそんな触れ合い方をしているのは大分おかしい気がする。

  少なくともヴァンダは、女を好んでいるというのに。

  「ああーでも、今日はよく寝たな。そういや、レカードくんは?」

  「先に行ってきた。レカードは、もう数日もすれば大体良くなりそうだった」

  「そっかぁ。俺はもうちょいかね。これは傷ついたからっていうか、使った代償みたいなもんだから。早くは治らんわな」

  改めて、そんな凄いものをヴァンダが惜しげもなく使ってくれたという事実に申し訳なくなる。俺が渡した以外にも多数の残滓を使い、戦局を有利に運ぶ

  その姿は、ただの盗賊なんてものは軽く凌駕している。そもそも盗賊にしては攻撃力が高すぎる。ナイフの一撃で獣を落としたのもそうだが、単純にそういった

  資質と、その上に胡坐を掻かずに鍛錬を積み重ねた結果なのだろう。

  「……もうすぐ、花祭りかぁ」

  「え?」

  不意にヴァンダが呟いた言葉に、俺は顔を上げる。

  「……そういえば、もうそんな季節か」

  「ああ。最近はダンジョンの様子がって、そればっかだったからなぁ」

  「花祭り、か……」

  ふと、約束を俺は思い出す。

  "次の花祭りの季節には……"

  「しっかし、魔物の氾濫で今てんやわんやなのに、そんな事してる余裕はあるのかねぇ?」

  「……そうだな。その辺りはギルドがダンジョンの様子を見て判断するんじゃないか。場合によっては氾濫をやり過ごしてからになると思うが」

  「そんなもんか。まあ、別にどうしても決まった日にやってる訳じゃないもんな」

  そこで話は終わりだった。花祭り、という言葉を聞いて俺はそれ以上ヴァンダに声を掛けられなくなってしまったのだ。

  「なあ、ラディル」

  帰り際、ドアノブに手を掛けた辺りで呼び止められる。

  「なんだ?」

  「花祭りであんたは、花を持つのかい」

  「……いや。俺には手向ける相手はいないな」

  「そっか。じゃあ、祭りを楽しむだけ楽しんだらいいな」

  それ以上、ヴァンダは何も言わず。俺もヴァンダの部屋を後にした。

  それから数日後、魔物の氾濫が本格的にはじまるのはもうしばらくかかるという事で、ギルドから花祭りの実行許可は下りたのだった。

  花祭り。

  それは夏を過ぎた頃、暑さの盛りがようやく和らぐ頃に各地で催される祭りの事だった。

  暑さの頂点を過ぎて、少し和らいだ頃になると。特に冒険者は自然と花祭りへ意識を向けるのだ。

  生きているという事は、熱を帯びるという事でもあった。

  そして死ぬという事は、冷たく。熱を失うという事でもあった。

  花祭りは、死者への別れを告げる祭りでもある。

  過ぎ行く暑さに別れを告げるのと同じように、歩みを止め、冷たくなった者達へ別れを。

  人々は花と歌を送って、贈って。そうして死者は送られてゆく。

  そんな季節に行われる。そんな祭りの事だった。

  ……。

  夢を見ていた。

  数年前の俺の夢だ。

  どうして今更。そう思ったが、花祭りを前にしてだろう。俺にとって花祭りは死者への物ではなく、その時期に別れたあいつとの印象が強かったから。

  あの頃の俺は、自分が魔剣士である事を認められなかった。

  当然だろう。食い扶持を稼ぎにとは言いながら、実のところは冒険者にだって憧れていた。

  誰だって、新しい何かを始める時。口では程々が、とか。楽な方が、とか。そんな風に言いはしても、その実、自分自身に未知の素晴らしい才能が眠って

  いたとしたら。

  それで世界の何もかもが変わってしまうのなら。

  期待しないはずがない。自分の事は自分が一番知っているだなんて、そんなのただの思い込みだったって。今まで生きてきて、"自分"をやっていた自分に

  だって、本当は知らない別の部分がきっとあって……。

  ……。

  だけど、俺はそこで現実を突きつけられた。

  一番あってはならない現実を突きつけられた。

  それが、魔剣士の才能だった。

  冒険者ギルドでその判断が下された時。足元からすべてが崩れ落ちていくかのような錯覚を覚えた。あの時の感覚だけは、きっと死ぬまで忘れないだろう。

  自分の知らない素晴らしい自分ではなかった。いつも通りの自分でも良かったのに、それでもなかった。

  俺自身が知らなかった、新しい俺は。

  ただただ、期待外れの自分。それだけだった。

  それでも俺は、やれる事をやろうとした。魔剣士なんて、すべてにおいて中途半端な奴に、仕方なくその名前をつけただけなんじゃないかと憤りながらも。

  だけど現実はやっぱり厳しかった。誰かに必要とされない。仲間として見てもらえない。たった一人で行く? 昨日まで、剣すら碌に振った事もないのに?

  相対する魔物ですら、時には複数で挑んでくるというのに? だのに俺はただ一人で、独りで、ひとりで……。

  俺はなんでもやった。一人で行くのは、無理だった。できるだけ明るく、気が利くように振舞った。荷物持ちでもなんでも志願して、既にできた仲間の輪の

  中に入ろうとした。取り分が俺一人だけ少なくてもなにも言わなかった。出費が一人だけ多くてもなにも言わなかった。

  必死だった。魔剣士カルファーンの伝説を聞いては、とてもそんな風になれる訳がないと思いながら、それでももしかしたら彼にもこんな下積みの時代が

  あったのかも知れないとも思い直した。

  上手くやれている。俺は、上手くやってた。戦闘技術も、ほんの少しずつだけど磨く事ができた。前進していないなんて事はない。足踏みしているだけなんて

  事はない。後退しているはずがない。大丈夫だ。やれる。やれるさきっと。

  そんな矢先だ。ダンジョンの中で深い傷を負って、置き去りにされたのは。

  わかっている。その判断は、時には正しいと頷かれる。誰かを助けるために全員の命を危険に晒し、あまつさえ誰かが命を失っては意味がない。非情な

  判断も必要だ。正しいのは彼らだ。間違っているのは、ヘマをやって深手を負った。ああ、いや。そうじゃなかったな。咄嗟に、庇ってしまったんだったな。

  ただ……。

  「魔剣士だから別にいいだろ。ここまででも」

  俺が魔剣士じゃなかったら、見捨てられなかっただろうか。それともまた別の、優しい捨て台詞を吐かれては、それに小さく頷いていたのだろうか。

  喧騒が聞こえる。夢が、悪夢が醒める。悪夢の牙から生ずるダンジョンの中で見た、俺の悪夢が。

  肌寒い訳でもないのに、震えている。鼻を啜って。滲む視界の中でも、窓の外は明るい。寝過ごしていたようだ。

  そっと自分の身体を抱き締める。古傷はもう癒えていた。あの時傷めた足は、今では元気に俺の人生を再び歩んでくれている。

  何も悪い事はなかった。あの時絶望した俺を助けてくれる奴も居た。今は、魔剣士としての俺を知りながらも、冒険に誘ってくれたり、慕ってくれる奴が居る。

  怖い。

  いつかそれが、ひっくり返ってしまうのではないかと。駒遊びのように。順調に見えているそれを、奪われ失うのが。コインのように。ただ表と裏があって。

  どんなにか良くやれている、溶け込んでいられると俺が思っていても、結局は表が裏になってしまったのなら。また一人、置き去りにされてしまうのではないのかと。

  ガキの感傷だ。

  薄く笑った。今は、それでいいとも思っていた。死を覚悟していた俺の下に、たった一人でヴァンダは駆けつけてくれた。魔剣士である俺の事を先輩と

  慕っては指導を受けたいとレカードは言ってくれた。そして、あいつも。置き去りにされた俺を助けてくれたあいつも。

  それでまた裏返ってしまったとしても。その時はきっと、あの時とは違って。

  充分良くしてもらったじゃないかって。きっとそう思えるだろうさ。

  身支度を済ませて、アウルラドロの街に出る。既に街並みは花祭り一色と言ってよかった。露店には、白いカンの花が並んでいる。死者を弔いたい奴は、

  あれを買うのだった。また、そうじゃないが祭りを楽しみたい奴は、それらの意匠が施された装飾品を身に纏う。残念ながら、死者を送る祭りとはいえ、

  祭りは祭り。そもそもがさつな冒険者にそんな厳かな空気は期待するもんじゃない。騒ぎたいなら騒げばいい。ただし、祭りの進行の妨害だけは別として。

  生憎と、俺は花祭りでやる事は特にない。まあ祭りの雰囲気だけ味わって、あとはただ流すだけだ。どちらかといえば、いまだはじまらない鈍足な魔物の

  氾濫に対して、特に用事のない冒険者は警戒をしてほしいというお達しが出ているので、そちら側だろうか。

  街中を歩く。花祭りの日程は数日に及ぶ。今日はその初日だった。氾濫はまだだろうというギルドの発表と花祭りという事もあり、いまだ子供の姿は

  よく見る方だ。それも、花祭りの終わりを機に一時避難を開始するという予定を立てた者も多いだろうから、次第に見なくなるだろう。冒険者にとって

  別れを告げるためのこの祭りは、冒険者を支える者達にとっても当然ながら特別な催しでもある。別に冒険者じゃなくても、死んだ奴は見送るしな。開催日は

  毎年まちまちで、今の時期はどこの街でも、特にダンジョンの併設された街はほぼやっている。ただし、今回のアウルラドロのように魔物の氾濫などの

  横やりが入る可能性があるので、多少日程が前後するのは珍しくもない。

  祭りの内容としては比較的質素なものだが、それもまたダンジョンの傍にある急ごしらえの街らしい、急ごしらえの祭りって奴だろうな。どこそこの都の

  ように出し物が大量に、とか。そういう風にはしたくともできない。あるとすれば、運が良ければ芸を披露する旅の一座などが来てくれる場合があるが、

  毎回となると難しい。なので、運が良いことにそういう連中が来てくれると、それはもう大層盛り上がる。押し合いへし合いで満足に見物もできないくらいだ。

  残念ながら今回の花祭りは氾濫が近いという事もあって、その辺りのどんちゃん騒ぎも控え目だが。何かあった際に守れる保証もない。そういう意味では

  ギルドから警戒の指示を出された一部の冒険者などは、むしろ浮かれた様子も見せないので静かな祭りになりそうだった。

  「ラディル」

  ギルドへと足を運ぶと、鑑定士のフィオから声を掛けられて、俺は軽く手を上げる。

  「調子はどうだ? フィオ」

  「最近はちょっと暇かも。ずっと氾濫を警戒して、入る人数が減ってるし」

  「そりゃそうか」

  「でも、腕に覚えがある人達はそれでも入っているから、珍しい残滓が出たりするね。多分、ダンジョンがいつもと違うからっていうのもあるはずだって親方は」

  「確かに、主も出たしな」

  「あれは本当、聞いた時肝が冷えたよ……それもラディルの話だったし」

  「今度こそ死んだろって?」

  「ラディル!」

  からかいながら一頻り会話をフィオと繰り返す。口にした言葉は真実のようで、周囲を見ても鑑定士の連中は暇なようだ。特に今は花祭りがはじまった

  ばかりで、そちらへ関心も移っているだろうしな。

  「ラディル。ラディルかい?」

  しばらくフィオと雑談をしていると、ふと声を掛けられる。俺はそれに何度も耳を震わせた。今朝、夢の中で聞いた声だ。俺を助けてくれた、あの……。

  振り返ると、そこに立っていた。長身で、純白の被毛を持つ壮年の狼の男が。服装は、軽装。俺と似たような軽鎧で。だから、そうだ。

  俺と同じ、魔剣士。

  「ファルガン……」

  「久しぶりだな。まだこの街に居てくれて、良かった」

  ゆっくりと、静かに俺の下へと歩きながら男はやってくる。距離を詰めると軽く手を上げては、その手は迷わず俺の頭へと伸びて。ぽんと、頭頂部に

  置かれる。

  「変わりないようで、安心した」

  「子供扱いするなよ」

  「……ああ。すまない。そうだな。君ももう、いい歳か。いかんな。別れる前にもそう怒られてしまったのに……」

  すっと手を引いて、考える仕草をファルガンがする。ファルガン・ドールマン。俺と同じ魔剣士で、数年前に仲間に見捨てられた俺を助けてくれた人物だった。

  あの時、ダンジョンの中で俺は仲間に置き去りにされ、自分は死ぬのだと確信していた。そんな時に現れたのが、ファルガンだった。そういう意味では

  ヴァンダと似ている。もっともあの時は救難信号さえ持っていなかったが。

  「そうか。魔剣士か、君も……」

  ファルガンは、魔剣士の中でもそれなりの実力を持っている人物だった。魔剣士らしく、というとなんだか語弊はあるものの、少なくとも俺は、俺以外と

  組んでいるファルガンは見た事がない。俺の境遇を不憫に思ったファルガンは、そのまま俺の身を預かり、俺はしばらくファルガンを師と仰いだ。

  「他所のダンジョンの残滓に、興味があってね。ラディル。君は、どうする……?」

  それでも、ファルガンも去年、アウルラドロを出ていった。俺はファルガンの誘いを蹴っ飛ばしたのだった。ファルガンを師と仰ぎ、その下で指導を受け、

  俺は強くなった。しかし同時に、ファルガンに依存しきっている自分の存在に気づいてしまった。

  いつかファルガンと並びたてるようでありたいと当時の俺は思っていて。だから本当は、俺も一緒に行きたかったけれど、そのままアウルラドロに残り、

  そこからは一人でやってきたのだった。

  「それにしても、立派になったな」

  「今変わりないって言ったばかりじゃないか」

  「それはそうだが、ただ、きちんと一年もの間、冒険者をやれた。それだけでも、立派になったと言える。そうじゃないかい?」

  そう言われると、なんだか照れ臭い。

  少し場所を移して、そのままギルド内部にある酒場へと移動する。フィオは空気を読んで黙っていてくれたが、それでも入ってすぐの場所で長話をする訳

  にもいかなかったし、積もる話もある。俺もファルガンの話が聞きたかった。

  「この街も変わらないな」

  注文を済ませると、辺りを一瞥してファルガンは感慨深そうに口にする。俺はその様子をじっと見つめていた。久しぶりに見た。当たり前だが。見た目は

  壮年の、まあそれなりに歳をとっているのもあって酷く落ち着いている男だ。ただ、その所作には隙が見当たらない。背は俺よりも高く、身なりも冒険者に

  してはという部分がつくが相応に整っている。真っ白な被毛の中に、澄んだ青い瞳を持ち。そうしていると一見して貴族か何かが興味本位でそんな恰好を

  してみたかのようにも見えた。整った顔立ちも含めて、なんというか、魔剣士という部分を除けば引く手数多だろうな、という印象だ。

  俺と違って。

  「一年じゃ何も変わらないんじゃないか?」

  「そうでもないさ。特にダンジョン街はな」

  「……ああ、確かにそうか」

  そのダンジョンが攻略され、消滅したら以降はただの街になるか、人気がまったくない場所はそのまま廃墟となる。賊の溜まり場になっては堪らないから、

  場合によっては近くの国が撤去作業をする事もあるが。あるいは悪夢の進行が大きくなりすぎて、放棄せざるを得ない街も時折存在する。そうなったら、

  辺り一帯が死の大地になり、悪夢が移動するまでそこは使い物にならなくもなる。

  そう考えると、一年経っても何も変わらない、なんて感想が言えない場合も多々あるのだなと思う。

  「ただ、アウルラドロが無くなってなくて良かったなと思ってね。ダンジョンが踏破されるにせよ、放棄するにせよ。そうしたらラディル。君はここには

  居なかっただろうし」

  まあ、ダンジョンが無くなったらそこは単なる街に成り下がる。ダンジョンを目当てにしている冒険者は当然ながらほとんどは他所へと移っていくのだろうな。

  「アウルラドロが攻略されつくすのは、大分先だろうさ。そういえば、旅は、どうだった? 良い残滓は見つかったのか」

  「まあ、それなりには。ただ、自分で扱う分としては、最良のものを得た、と思えるようなものはまだ見つからないな」

  「それは俺もわかる」

  ヴァンダに渡したバングルなんかが良い例だ。なまじ魔剣士は広く浅く。中途半端といえばそうだが、やれる事が多い。ほのかに力を宿す物も多い残滓は、

  基本的に魔剣士には合わない物が多かった。その点、ヴァンダが所持している残滓は使いやすいものが多く、その点においてはさすがと言わざるを得ない。

  「すぐ扱えるように装備しておかなければならない点を考えると、無いよりかはマシ程度では中々自分で持ち続けるのは悩ましくてね」

  「邪魔になるからなぁ」

  正直なところその程度の性能なら、自分にとって大した価値はないが欲しい人にとっては価値がある訳なので、売ってから改めて自分の求める残滓なり、

  あるいは装備を新調するのに使った方が基本的には効率も良い。合わない物を無理に使うのは、一人でダンジョンに入る事の多い魔剣士にとってはただの

  自殺行為だった。

  「ラディル。君の方は、どうだった? 私が居なくても、大丈夫だったかい?」

  「保護者みたいに言うなよ」

  「ああ。すまない。けれど、どうしても心配でね」

  悪気はなさそうにファルガンは柔和に微笑む。とはいえ、ファルガンの心配ももっともだった。それくらい、ファルガンに助けられた当時の俺はボロボロ

  だったし、生きる気力もなにも、失ってしまっていた。誰かを庇った事すら、馬鹿な真似をしたと。見捨てられ傷ついた心に、更に自分で傷をつけるようにして。

  「君だけが生き残る、という意味だったのなら。君がそうして誰かを庇ったのは、間違いだったかもしれない。だけど君は、誰かが今君が陥っているような

  状況になるのも、嫌だったんだね」

  あの時。血の匂いに反応したのか、集まる魔物を撃退した後に俺を治療しながらファルガンはそう告げた。一人でそれができるだけの力を持っている彼が、

  羨ましかった。俺と同じ魔剣士なのに、俺は荷物持ちのような真似をしては最終的に見捨てられる程度の存在でしかなかったのに。ファルガンは俺と、

  撤退した仲間だった奴らが対処できない魔物を複数相手にしながらも、冷静にさばききっては俺に手を差し伸べたのだった。

  「そりゃ……。あんたにずっと、頼りっぱなしだったのは、悪かったと思ってる」

  その日から俺はファルガンに師事しては、指導を仰いだ。魔剣士としての戦い方をきちんと教えてくれて、共に戦ってくれた。整い、澄ました狼の顔とは

  裏腹に、その身体には無数の傷痕が残っている。一人で生きてきた魔剣士だからこそ、受け止めるしかない傷。俺が共に行動する事で、時には俺を庇い受けた

  傷もまた。

  「ラディル……。こんな事を言うのは、気が引けるが。もしもの時は、私は良い。逃げて、生きてほしい」

  いつぞや、ダンジョンに潜った際の言葉が蘇る。俺を庇って倒れたファルガンに、泣きながら俺は寄り添って。だけどファルガンは逃げろと言う。

  「見捨てられた俺を助けてくれたあんたを、今度は俺に見捨てさせるのかよ。そんなの……そんな事までして、俺は生きていたくない。あんたを置いて逃げた

  先で、どうして俺が生きられると思うんだ……?」

  泣きながらそう返す俺に、ファルガンは困ったように笑って。

  その時は結局、救難信号を出しながら、初めてファルガンが俺を助けてくれた時のように、今度は俺自身が叫び、足掻いては血まみれになって救援が来るまで

  どうにか持ちこたえたのだった。

  思い返せば、俺の魔剣士としての人生はファルガンと過ごしてきたものが大半だった。そんな俺の在り方が、ファルガンにとっていまだに心配の種に

  なっているのかも知れなかった。

  だから俺はあの時、ファルガンの誘いを断って袂を分かつことにもしたのだった。ファルガンに依存しきっている自分に気づいていたから。

  そして多分、おそらく。ファルガンも俺に……。

  「そこそこ上手くやってるよ。それは見ればわかるだろ」

  「そうだね。魔剣士というものは、一年後も息災ならば充分だと。よく魔剣士同士で話をすると話題にもなるくらいだしね」

  基本的には一人で。組むとしても魔剣士同士で。それが多いからこそ、一年後もそうして冒険者をやっていられるというのはそれだけで充分な結果を

  出せていると言えた。そういう意味で、俺もまた結果を出した。

  ……この間ヴァンダに助けられてしまったが。

  「それと、主の事も聞いたよ。私が顔を出したら、ラディルの事を教えてくれる人が居てね」

  「そうか」

  それも、また仕方ないか。あれだけ俺はファルガンにべったりだったし、ファルガンも嫌がる素振りも見せず、毎日俺の指導をしてくれていたし。

  「けれど、魔剣士以外と組んだんだね。こういうのは気が引けるけれど、大丈夫だったかい? いや……。大丈夫、かい?」

  「平気だ」

  ファルガンは、俺の心の傷を気にかけているようだった。出された茶を軽く飲んでから、俺へ視線を送ってくる。そういう所作もまた、優雅な物だった。

  「君のそういう成長は、喜ばしく思う。でも、そうだな。一年経って、君がきちんと魔剣士として成長しているのもよくわかった。……ラディル。それなら、

  また私と一緒に組んでみないかい? 君は私に頼っている自分を情けないと言っていたけれど、今の君なら大丈夫だろう」

  「俺と、また?」

  返答をしつつも、しかしそれは意外な提案という訳ではなかった。別れてこれきりというのなら、いつかまたどこかで出会ったらという話で終わっていた

  だろう。一年後、花祭りの季節にまた。そう別れたからには、ファルガンとしても俺の様子を見て、そして問題がないならまた一緒にいようと考えている

  だろうという事は、察していた。

  「でも、今は俺……他に組んでる奴が居るんだ」

  「ああ、そうだね。……でも、彼らはいつまで君の傍に居てくれるんだい?」

  問われて、俺は胸が詰まる思いだった。どうせ魔剣士なんて誰からも相手にされない。俺は。ファルガンは。それを嫌という程に経験してきている。魔剣士

  として活動を行っている冒険者の中で、この壁にぶち当たらない奴なんて存在しないだろう。

  だから一人で細々と、組んでも同じ魔剣士と。

  それが一番傷がつかないやり方だった。

  「この一年の間。辛い事はなかったかい?」

  「……」

  無い。なんて言えない。特にファルガンと別れた直後はそれが顕著だった。以前なら話ができた奴にも、相手にされなくなった。確かにファルガンも魔剣士

  ではあるのだが、実力はかなりのものだし、一部ではカルファーンのような存在になるのではと有望視する奴も居るくらいだ。俺はそんなファルガンの背を

  追っていただけのただのおまけに過ぎなかったのだと、まず思い知らされた。それからヴァンダと組むまでは、誰とも組む事もなかった。大体は蔑視され、

  嘲られ。

  正直に言えば、最初の内俺はファルガンに付いていかなかった事を心底後悔した。戦闘さえ一人でできればなんとでもなると思っていた。でも、そうじゃ

  なかった。ウマい依頼を一つ手にするのさえ、ファルガンの顔の広さに頼っていたし、ダンジョンの深部にだって今でこそ地道に功績を重ねたり、最近では

  主の討伐の経験があるから立ち入りを許可してもらえているが、当時はアウルラドロの第二層に行くのにすら渋い顔をされていたし、実際苦戦した。

  ダンジョンの中でも、本当に一人きりで戦う事の辛さが身に染みた。ファルガンに出会うまでは荷物持ちなどをしていた手前、本当に一人きりでの戦いを

  したことがなかったのだった。無論、ファルガンから授けられた技などはきちんと扱えはする。しかしどんな時でも気が抜けない状況というのは、想像以上に

  精神を摩耗した。そうしてダンジョンから帰った先で、安心したのもつかの間。今度は魔剣士だからと笑われる。

  ファルガンは、偉大だった。俺の様子を見て、俺の世話をずっと焼いてくれていたのも頷ける。俺を一人にさせたらどうなるかわからない事をすぐに見抜いては、

  ずっと傍に居てくれた。優しい言葉も表情も惜しまずに与えてくれた。

  だから俺はそれに溺れて。ようやくひとり立ちをしたらしたで寂しさに喘いでいたのだった。

  「私となら、何も心配しなくていい。ずっと君の傍に居よう。また前のように一緒に居たらいい。魔剣士としての辛さを本当にわかっているのは、結局は同じ

  魔剣士でしかないのだから。……私には、君が必要だ。ラディル。他の誰よりも、ずっと」

  「でも、あんたは……。アウルラドロのダンジョンには用が無い。そうだよな」

  「そうだね。ある程度は散策したし。別に悪夢を醒めさせる事にもそれほどの興味は……というより、そういうのは魔剣士では中々ね。だから、別の街がいい。

  ラディル。君が居てくれて、二人なら。私が見ていた他所のダンジョンでもう少しやれる気がする。そのためのスカウトでもあるね。だから、君と一緒にこの街を

  出たい」

  嬉しい申し出、なのかも知れなかった。あのファルガンが、俺の手を借りたいと願ってくれている。今までずっとファルガンに守られて、足を引っ張って、

  そればかりだった俺が、ついにファルガンに恩返しができるのだから。

  きっと、ヴァンダやルカードと会う前の俺だったら、二つ返事で承諾して、この街を出ただろう。

  だけど今は、二人が居る。それにアウルラドロも氾濫前という微妙な時期だ。それなりにこの街にも、世話にはなった。特にギルドには。不都合がないなら、

  もう少しここで様子を見ていたい気持ちもあった。

  「ラディル。私と一緒に……」

  「ちょおぉーっと待った。そこまでだ」

  不意に別の声が。陰々と、まるで魔法のように響くファルガンの声音が遮られる。気づけば俺とファルガンが挟んでいた卓の横に立っている人物が居た。

  「ヴァンダ」

  顔を上げて、俺はあのハイエナが立っている事に気づく。すらりとした長身で、しかし筋肉も相応にあるファルガンと比べると、大分ずんぐりな印象は

  受けるあの男が。もっとも体格は良いので、立派ではないとか、そうは思わない。腹はその中でもとかく立派であるというだけの話であって。

  ボサボサの鬣をいつもよりも更に荒れさせながらもヴァンダはいつものように余裕綽々でファルガンを見下ろしていた。

  「悪いけど、そいつは今俺と組んでんの。何一人で話進めようとしてくれちゃってる訳?」

  「これは。もしかして、君があの主を倒したという、ラディルと組んでいるヴァンダくんかな。ラディルが大層世話になったみたいで。感謝しているよ。挨拶が

  遅れて申し訳ない。私はファルガン・ドールマンという者だ。よろしく頼むよ」

  「……ヴァンダだ。別に、あんたに保護者よろしくな挨拶をされるいわれはねぇけどな?」

  「これは手厳しい。とはいえ、君の言う通りだね」

  俺ははらはらしながらヴァンダとファルガンを交互に見つめる。

  「それよりも、そいつの勧誘についてだ。既に組んでいる奴の場合、勝手な引き抜き行為はご法度だって。それはわかるよな?」

  「……」

  「それとも。誰かと組まないから知りませんでした、なんて言うつもりかよ? そっちの方が物知らずってもんだが」

  「……そうだね。すまない。少し軽挙妄動だった」

  基本的に、冒険者が相手を仲間に誘う際には一定のルールというものが存在する。相手がどこにも所属していないというのならそれで構わないし、もしくは

  組んでいたとしても、新たな仲間と組んで活動に支障が無い、両立できるというのならそれも構わない。とはいえ、掛け持ちでどちらかの能率が落ちる可能性は

  それなりにあるので、実際にはひと声かけるのは基本的な行為だった。

  ただ、今ファルガンが俺を勧誘している行為はそれらには当てはまらない。何故ならファルガンは、アウルラドロ以外のダンジョンの探索に俺を誘っている

  からだ。当然ながら、余程近い場所でもない限りは、別々のダンジョンを掛け持ちして攻略なんて事はできない。必然的にどちらかは諦めざるを得ない状況に

  なる。そういった提案をファルガンはヴァンダに話を通さずにしているのだから、確かにそれはルール違反という奴なのだろう。

  「主を倒したって話を聞いたんなら、当然組んでるって事もわかってるよな? ラディルは俺と……。いや、俺達と、組んでるんだよ」

  そこで、ヴァンダの後方からぬっと虎の大男であるルカードが出てくる。どうもヴァンダと共に今はギルドに来ていたようだった。

  「俺も居ます。ラディルさんは今僕に色々と教えてくださっているので……勝手に連れていかれるのは、僕も困ります」

  と、体格にまったく見合わない控え目な主張をしてくれた。

  「まさかベテランが新人の仲間を奪ってく、なんて事はないよな~?」

  すかさずヴァンダが嫌らしい笑みを浮かべながら、挑発をする。俺としては嬉しさもあるが、ファルガンに対してさっきから全力で煽りをかましているので

  その辺りが心配になってくる。もっともファルガンはここからあと二倍、三倍煽ったところで涼しい顔をするだろうが。基本的に怒らない男だから。

  「ファルガン」

  俺は軽く手でヴァンダを制すると、ファルガンを呼ぶ。当のファルガンは二人を見つめて少し考えていたようだが、俺の言葉で視線をこちらへと移して。

  「悪いが、あんたの誘いには今は乗れない。今ヴァンダが言ったように、言ってしまえば俺には先客が居る。一年前、あんたが別れる前に、一年後にまた

  組もうって言ったんなら、あんたの方が先客だったかも知れないが、そうは言ってないもんな」

  「まあ、そうだね」

  「その上で、これはあんたに言っておきたい。……俺は、あんたの飼い犬になったつもりはない」

  「……」

  「確かに、あんたには感謝してる。本当に。俺がここで生きているのも、何もかも。全部あんたのおかげって言っても、過言じゃない。あんたが俺を助けて

  くれて、いろんな事を教えてくれた。アウルラドロまで連れてきてもくれた。いつだってあんたは俺の憧れだったし、あんたが居ないと……不安だった」

  俺は正直に自分の心情を告げる。どれも、本当の事だ。ファルガンの接し方が、仮に今問題があったとしても。ファルガンが本当に俺を様々な面で支えて

  くれたのは覆らない事実だった。戦術、戦略は勿論のこと、交渉術、話術、果ては学問に至るまで。その日暮らしで頼るあてもないままに冒険者になり、

  結果魔剣士となって絶望し、見捨てられて自暴自棄になり。ほとんど壊れかけていた俺を救い出してくれたのは、他の誰でもなくファルガンだ。

  「感謝してる。ありがとう。……でも、それと今あんたが横紙破りをしているのを許すのかはまた別の問題だ。俺は、あんたと行くことはできない」

  「そうか。わかったよ、ラディル」

  思いの外あっさりと、俺の言葉にファルガンは頷いてくれる。

  「申し訳なかった。しばらく見ない間に、君はずっと強く成長していたんだな。私の知らないところで、どんどん強く。君の心配ばかり私はしていた」

  「俺の事を必要だって言うのなら。それと同じくらい。俺の事……信じてほしかった」

  「……すまない。私の悪い癖だ」

  席を立ったファルガンが、俺達三人に一礼をする。

  「いつか、君がその気になった時。そして私もまだ現役であったのなら。その時は。今は、それでいいだろうか」

  「ああ。俺も、あんたには沢山借りがある。それは返したいと思っている」

  「そうかい。それでは、失礼する。とはいえ、せっかく花祭りの季節にきたから、しばらくはここに滞在するがね。花を手向けたい相手もいるし」

  それぞれに軽く詫びると、ファルガンはそのまま振り返りもせずに酒場から出ていった。俺はそれをじっと見つめていて。

  「あの……良かったんでしょうか。つい、俺は口を出してしまいましたけれど」

  「何言ってんだよ。仲間の引き抜きなんて冒険者やってたらいつか絶対巻き込まれるぞ。慣れとけって」

  「それは、確かにそうですけれど」

  ルカードは俺とファルガンの関係が、そんなに浅い物ではないと感じ取ったのだろう。戸惑いつつも、俺がファルガンの誘いを断った事には安堵している

  ようだ。ヴァンダはいつも通りだが。

  「いや、それにしてもスカッとしたなぁ! あんまりお前が悩むようなら、どうしたもんかなと思ってたけど」

  「さすがに俺も、そこまで二人に悪い事はしないさ……」

  ルカードとは特に最近はよく組んでいるし。色々な事を知りたいと望むルカードの姿は、いつぞやファルガンに指導を受けていた俺に似ていた。そして

  遅ればせながらも怪我も治ったヴァンダもまた、最近ではそこに加わっていた。揺光の大量発生は今も続いているので、改めて小遣い稼ぎに行こうと、

  狩りに出ているのだった。さすがに三人ともなると、揺光の狩りも効率が良い。特にヴァンダは残滓により、ルカードは元々の精神耐性の高さにより揺光とは

  相性が良い。唯一俺にはそういうものがないが、魔剣士なので遠距離から攻撃して、その上で周囲への警戒役を引き受けていれば充分だった。三人が思い思いに

  狩ると、いつぞやの主のような危険な敵が来た時に下手すれば壊滅的な打撃を受けるからだ。とはいえ、一時的な供給量の上昇により、揺光の核の取引価格は

  下落の一途をたどっているので、最近はそれ以外の敵も様子を見て狩っている。そもそも揺光だけ狩っていると面白味に欠ける上に、ルカードに色々教えて

  ほしいと言われたのに大した事が教えられない。

  なので今はヴァンダの提案の下、無理のない狩りの計画を立ててはダンジョンの浅い層に入る事を繰り返していたし、邪魔者はどっかいったと言わんばかりに

  ヴァンダは注文を済ませては席にどかりと座ると、早速小さな手帳に記された集めた情報を指で示しながら、次はどうするかという話をはじめる。レカードも

  それに倣って、席に。俺はその二人の様子を見ながら苦笑をして。それから。

  ファルガンの消えた先へと改めて視線を送った。当然ながら、そこにあの白い狼の姿は見えない。背格好も、その被毛の色も、よく目立つから。人込みの

  中からファルガンを探すのはいつも簡単だった。だから、そこに居ないのはよくわかっていて。

  楽しそうに話している二人の会話を聞きながら、少しだけ思ってしまう。

  ここにただ、ファルガンも加わってくれたら。それで良かったのに、と。

  「おーい。話聞いてる?」

  「ああ。悪い。なんだ」

  そんな思いも、ヴァンダに声を掛けられて。どこかへと。

  賑やかなギルドの酒場に、俺達三人の声が響いていく。

  草の踏みつける足音が聞こえる。

  「いきます!」

  ルカードが掛け声と共に、全身に力を漲らせる。太い腕からは被毛越しでも太い血管が浮き出ているのが見える。

  ……いつ見ても凄いなあれ。

  「やあっ!」

  と、大剣を振り下ろす。振り下ろした剣は大地を叩き、揺らす。同時に軽い衝撃波が起きて、周囲に居る魔物の動きを鈍らせる.予期していないと、中々に

  注意力や、体勢を持っていかれる行動だ。実際俺も備えていないと危ない。ちなみに大型の魔物には、その一撃をそのまま叩き込めば、それだけでかなりの

  致命傷にもなる。

  ただ、それで逃げようとしていた魔物の動きが止まった。小動物型のそれに向けて、俺は魔法も放つ。雷、でもよかったが今回は石。正確には土を硬く

  纏めたものだった。対象の羽兎の動きはある程度学んだので、数が多すぎない限りはこれで充分だった。

  「やりましたね!」

  足は速いが、防御などはからっきしな相手なので、それで戦いは終了となる。こいつの毛皮と肉は需要があるので、初心者冒険者には好んで狩られる。

  揺光と比べると稼ぎは控え目だが、需要はほぼ無限。ギルドの食堂兼酒場を利用すれば提供されるおなじみのスープにも入っているくらいだ。

  俺ははしゃぐルカードに頷きながらも、周囲を警戒する。今は二人きりだった。今日は花祭りの、最終日。祭りはそこそこに、俺はヴァンダ、ルカードと

  ダンジョンに入っていたが、最終日はヴァンダに予定があるので二人だけとなり、そうすると俺はともかく、ルカードは主を退治したとはいえ新米は新米。

  第一層である餌場までしかいまだ入れないので、ちまちまとした狩りになる。とはいえ、こうした日銭稼ぎもまた冒険者にとってはできるようになっておくと

  大分勝手が変わるものだ。戦闘能力では既にルカードはこんな兎なんぞに後れを取る事はないが、逃げ足は速いので、捕まえるとなると少し慣れが必要だった。

  いや、捕まえられはするんだが。ルカードがさっき大剣で大地を叩きつけたように、そのまま大地を払って石礫でも飛ばせば、いい感じに当たるんだ。

  ただ、力が強すぎて……。兎がひき肉になる。まず毛皮が売り物にならなくなるし、肉も小さい石が交じった肉になるので買取価格も大分目減りする。

  目下、コントロールの調整が課題だった。とはいえ戦闘のセンスにのはかなり光る物がある。その内身に着けるだろう。

  「早いけど、そろそろ帰るか」

  「そうですね。……花祭りの最終日、ですし」

  花祭り、という言葉を口にした時、ルカードが俺へと視線を送ってくる。それに首を傾げて。もしかして、祭りを堪能したいのだろうか。期間中もダンジョンに

  来てばかりだったしな。そういう事ならと、俺達は足早にダンジョンから外に出る。出口で歩哨に軽く声を掛ける。先日の主の一件で、新米冒険者は締め出されて

  いるが、俺達はその主を退治した功績もあるので問題なく通る事もできた。ルカードだけだと、さすがに大丈夫かと訊かれるかも知れないが。

  ちなみに、立ち入り禁止と言われても実際には立ち入る事ができない訳ではなかった。例えば第一層までしか基本的には許可されていないルカードが、無理に

  第二層や、俺がヴァンダに助けてもらった第三層の流刑窟に行く事もできる。しかしそれは自己責任という無慈悲な言葉で片付けられるし、もし実力も

  伴わないのに足を踏み入れた場合、救助費用は高額なものになるし、一発でギルドは立て替え拒否をしてくる。つまり、身ぐるみ剥がされる。

  それにギルドでの依頼にせよ、実力が伴わないとまず受けられないので、正直そこまでして深部に立ち入るメリットはない訳だから、実質的に禁止されている

  といった方が良かった。

  ダンジョンから外に出る。アウルラドロの街の中心にあるので、洞窟を出れば周囲は氾濫に備えてそこそこの広場となっており、進めば見慣れたギルドの

  建物が見えてくる。

  建物に入ると、俺達はすぐさま戦利品を査定する。残滓などの金にはなるが時間と費用もかかる物はないので、すぐさまそれらを終えて金を受け取り、

  そこで解散となる。

  「ラディルさん。良かったら、俺と花祭りを見てみませんか?」

  別れ際に、ルカードから誘われる。俺は目を丸くしてから、まあ、と頷く。俺も祭りの間氾濫の警戒をしているか、ダンジョンに入るかしかしていない。

  そんな訳で、着替えをするためにも一度解散をし宿へと戻るとまずは湯浴みをして身体を清めてから、鎧を脱いで剣だけを持って俺は再びギルドの入口へと。

  建物に背を預けて、道を歩く人々を眺める。既に昼は過ぎ、もう間もなく夕方がやってくる。人々は賑やかで、カンの花の装飾品をつけている奴も多かった。

  花祭りの最終日は、特にそれを見ようとする者も多いので、いつにもまして人が多く感じられる。あちらこちらで笑い声が上がり、氾濫の予兆で不安を

  感じている暇もないくらいだ。もっとも冒険者の内のいくらかは、それを警戒している奴も居るので、その辺りはいつもの花祭りと比べると少々物騒と

  いったところか。

  人込みを眺めながら、俺はふとその中に、ファルガンの姿はないかと探してしまう。あの日、ファルガンの誘いを断ってから、その姿は見なくなった。

  あれほど目立つのだから、ファルガンがこの街に滞在し、また冒険者としてギルドに足を踏み入れる事もあるというのなら、嫌でもその内には顔を合わせる

  だろうと思っていたのだが。それとも、ファルガンの事だから求める残滓でなくてもと、ダンジョンに潜っているのかも知れない。ファルガンの腕前ならば、

  例え氾濫の予兆があったとしても、第五層くらいまでは入れるだろう。そう考えると、第三層で危うしとなっていた俺との実力差はまだまだ存在する

  と言わざるを得ない。ファルガンに恰好つけて、一年前のように誘いを断ったものの。俺ももっと精進しないとなと改めて決意を固める。なまじ、今はルカード

  という後輩が居るのだから。もっともルカードとの接点も、氾濫が終わり、通常通りダンジョンに利用が解禁され、また新たな仲間を求める声が多く上がる

  ようになる頃には無くなるのかも知れないが。

  せめて、その時が来るまでには俺が知っている事を、ルカードにも伝えられるようでありたいと思った。俺がかつて、そうしてもらったように。

  そう考えると、魔剣士とかなんだとか。そんな話もどこか遠くに感じる。ベテランの冒険者は新米を助け、新米は教えを乞い。授けられたそれを、いつか

  また別の誰かへと伝えて。それが、どこまでも、どこまでも連綿と続いていく。そういう流れの中に自分も居るのだと思うと、少しは冒険者としても

  報われる思いだった。

  「すみません、おまたせしました!!」

  そんな事を考えている俺のところへと、ルカードがのしのしとやってくる。

  「……随分装いが違うな。商人、か……?」

  「あ、すみません。大きな服が中々無くて」

  「ああ、それでか」

  俺は動きやすい、袖のない上着とズボンに剣を佩いているだけ。まあ、緊急時にも対応できるように。それと比べて。ルカードも部屋着のような質素さで

  来るのかと思っていたら、たっぷりと余裕のある白い絹の服を上下に着ている。首回りの装飾は、商人が好んで使うものなのだが。どうも自分に合う服が

  無いからそういう物に手を出しているらしい。確かに、ルカードのような大男だとしゃれた格好を一つするだけでも選択肢は大分狭まる。その上で前衛を

  やっているから筋肉量がな。かといって特注品なんてものを買う余裕はさすがに厳しいし、それなら今は装備や、身体の素になる食事に気を遣いたいだろう。

  結果として。商人が着ている服を。基本的に余裕がある、いかにもな服を着ているのだった。余裕があるといっても、ルカードが着ればそれは図体のデカさに

  引っ張られて、丁度良い塩梅になる。一件して商人の服だが、どう見ても商人には見えないくらいのガタいの良さ。これはこれで丁度良いのかも知れない。

  「それじゃ、見て回りましょうか。とはいっても、俺は何があるのかもよくわかってないのですが……」

  「まあ、買い食いをするだけでも大分違うだろう。今年は見世物も少ないだろうが、その分魔法ができる奴なんかは来てるしな」

  祭りの開始までに氾濫がはじまらず、その予兆もあるという事で残念ながらそういった祭りを敏感にかぎ取ってくる連中は今年は来ていない。この時期なら

  どこでもやっている祭りである以上、態々危険のある場所に飛び込んでくるのは相当な気骨のある連中だけだろう。それこそ冒険者とそん色ない程に戦えるような。

  「ラディルさん。楽しいお祭りにしましょうね」

  そういって、ルカードが手を差し出してくる。これは、掴めというのか。男二人で。

  束の間悩んで、俺は渋々と手を取った。まあ、これだけ人が多い中を行く訳で、はぐれる可能性もある。どうせ手元なんてよくは見えないだろう。

  「スリにだけは気をつけろよ」

  それだけを言って、俺はルカードとまもなく夜の帳が下りはじめる、アウルラドロの花祭りへと繰り出したのだった。

  夜が更けていく。

  青い空が徐々に赤く、そして紫へと変じて。暗くなる代わりに眩い星々が姿を現していく。

  そうして夜が深まる度に、アウルラドロの街も幻想的に色づき始めていた。

  白い、カンの花。爽やかな香りが、少し湿った夏の終わりの風に乗って俺の鼻腔をくすぐる。陽の沈んだ、夜の今。その花は淡い光を発して、ぼんやりと

  アウルラドロの街並みを優しく照らしていた。カンの花の何よりも特徴的なのは、魔力伝導率が高いという点だろう。少し力を籠めるだけで、力は花弁へと

  渡り、薄っすらと発光をする。花は拳大の大きさで、花弁も一枚一枚が大きいそれは、古来より死者の魂が宿る花と言われてもいた。

  そう言いたくなる気持ちも、わからないでもない。白く、淡く光を放つそれは、まるでそこに何か別の物が宿ったかのように神秘的でもあった。

  出店に並んだカンの花を、死者を悼む人々が求める。一凛だけを大切そうに持つ者も居れば、花束にして大切そうに。本当に大切そうにそれを抱き締める

  者も居た。中には生花そのままを装飾品として使う者も居る。もっともそれはどちらかといえば野暮天な使い方とも言えたが、かといってここは冒険者ばかりの、

  ならず者とまでは言わないが、かといって貴族のルールなんてものも通用しない世界。少し目立ちはしても、そういう事もあるだろうと大目に見てもらえる。

  それに、中には本当に誰かを亡くして、それでもそれを身に着けていたい者も居るのかも知れなかった。それが大切であればあるほどに、できるだけ傍に

  居てほしくて。

  どんな内情をその人物が秘めているのかは、知る由もない。ただ、カンの生花を持つ者は大抵、誰かしらを失い心に傷を負っているということを示していた。

  それを悼む心があるのなら、細かい事は気にしない。ルールらしいルールといえば、それだった。

  宙に、ふわりと光が舞う。

  誰かの、魔法なのだろう。小さな生き物を象った光が、ひらり、ひらりと薄暗い世界を。出口を求めて彷徨い、揺蕩う。どこかで力尽きて、光の粉となっては

  消えて。幻想的な空気だった。花祭りの最終日には、こうした光景が特によく見られる。俺もルカードも、しばしそれに見惚れた。

  「綺麗ですね。ラディルさん」

  「そうだな」

  「魔法って、あんな事もできるんですね。いいなぁ。俺も、魔法が使えたらな」

  「飯は食えないぞ」

  「あはは。それは困りますね」

  俺は空いている方の手で。ルカードに繋がれていない方の手で、魔力を練っては解放する。俺の掌からも、小さな蝶々が現れて、紫紺の空へと当てもなく

  羽ばたいていった。

  「すごい。ラディルさんも、できるんですね」

  「強い力がないからな」

  少し皮肉を込めて言う。実際、誰が飛ばしているのかまでは見ていないが、こうして僅かな力で夜を彩る光を発しているのは、魔剣士である事が多かった。

  派手な演出はできない。ほんの小さな、命のようなそれを作り上げては宙へと放り、短い生と自由を謳歌させてやるだけだ。ただ、その儚さが、ある種の

  無意味さが。この花祭りにはよく似合っていた。人の命もそんなものだろうという気持ちと同時に、儚く消えるそれを惜しみ、まだ消えていない物を大切に

  思う心を育てていく。魔法による芸術家。そういう意味では、何人かは魔剣士でありながら有名な者も存在するのだった。それがまた、魔剣士の揶揄に一部では

  一役買っているのだが。

  「わ、わっ」

  俺が飛ばした蝶が、ルカードの鼻先に止まる。慌てながらも、下手に触れては壊してしまうのかと、ルカードは身を震わせるだけだ。思わず笑ってしまう。

  そんなに気にしなくても、別にそれが生きている訳ではない。パチン、と指を鳴らすと、その蝶は飛び立ったと同時に、端から光る粉へと変わって。それを

  見たルカードは今度は寂しそうな顔をする。そこまで観察してから、もう一度。音と同時に、粉は形を変えて鳥へと変じて。大きな優しい虎の周りをくるくると

  飛び回っては、やがては沈みゆく遠くの夕陽を、明かりを求めるかのように飛び立っていった。

  「ラディルさん……」

  それを二人で見送って、ふと、ぎゅっとルカードが俺の手を握りながら俺の名を呼ぶ。

  「さて、祭りも楽しむか」

  「……はい!」

  何かを言いかけたルカードの様子を気にもせず、俺は花祭りへと。それにはルカードも反対する理由がないのか、二人揃って街へと繰り出していく。

  道の左右からは威勢の良い掛け声と、鼻をくすぐるスパイスの香りがかなり強く立っていた。俺は早速その中から一件入って、串焼きを二本手にする。一本を

  ルカードへと渡した。餌場で狩る事ができる極彩色の鳥の肉に、串を通して焼き、遠い異国の地から運んできた辛いスパイスがたっぷりとかかったそれは、

  普段食べなれている肉のはずなのに味はまた全然違っていた。口にすると口内に脂と共に豊かな香りが広がり、香りそのものが味であるかのように。そして

  遅れて濃い、甘辛いタレの味が出てくる。味はかなり濃いが、肉は噛めば噛むほど中から熱い脂がしたたるように溢れ出すので、即座に中和され、いい塩梅に

  調整される。中々の一品だった。

  「食べないのか?」

  「あ、はい。いただきます」

  ルカードは俺が食べる様子をしげしげと見つめながら、そしておずおずと串焼きを口にする。そういえば一緒に食事をしている時、ルカードはこういうものは

  まったく手に取っていなかった気がする。大体はナイフとフォークを使っていたし。

  「美味しい。なんだか、懐かしい味がします」

  「懐かしい……?」

  俺にとっては慣れてない味だが、ルカードにとっては違うようだ。案外、香辛料のように遠くの地から来たのかも知れない。当人が口にしない事は、あまり

  詮索をするつもりもないが。

  意外と量が多く苦戦するかと思っていた串焼きは、あっという間にたいらげられる。というより、冷めたら肉が硬くなるし、濃い味の主張ばかりが残るのも

  明白だったので、そういう意味でも食は進んでいた。残った串を返却すると、次の店。それが済んだら、また次へと。

  気づけば結構な量を食べていた。とはいえ、たまにはこんな散財もいいか。ヴァンダやルカードと組んでいたのもあり、懐はかなり潤っているし。精神的な

  疲れもそれほどなかった。一人での狩りだと、儲かりはしても精神の摩耗が激しいために、こういう祭りに狩りの後に出かける、なんていう気もあまりしない

  ものなので、そういう意味でも俺は久しぶりに祭りを堪能していた。

  そういえば去年までは、何度かファルガンと祭りを見ていたな、なんて思う。

  「お祭りってこんな感じなんですね。とても賑やかで」

  「祭りはあんまり行かなかったのか?」

  「そうですね……。俺は遠くから見ている事が多くて。だから新鮮で、楽しいです」

  「ふうん。まあ、楽しめているのなら良かった」

  道を行く。アウルラドロはダンジョンを中心に街が建てられているので、その内住宅街、また工業という程ではないが冒険者の装備を扱う地区を除く場所に、

  今は露店が出ている状況だった。なので円の中の半分近くを歩いたら、道を一本外側に移動してまた反対側へ、という具合に流れていけばまた違った品を

  出す店へ向かう事もできた。段々と空は闇の色に染まり、その度にカンの花の淡い光の主張も激しくなってくる。ふと、歌声が聞こえた。詩人なんてよく

  今の状況で来たなと思いつつも、その声音と、手にするキタラの弦をつま弾く音が響き渡る。声もキタラの音も申し分ない。ただ、申し訳ないのだが、

  聞いていて俺は思わず笑ってしまう。

  「どうしたんですか?」

  「いや、この間の……ヴァンダの演奏を思い出して」

  「あ、ああー……」

  ルカードもその場に居たので、演奏に瞳を輝かせていたのだが、そちらを思い出したのかルカードもくすくすと笑っている。楽器型の残滓、というものも

  残滓の中にはある。夢の残滓と言われる通り、残滓には本当に様々な形があって。そして弦楽器のものをどこからともなくヴァンダが取り出した時があった。

  そして、歌いもした。野太い声の歌は、正直なところ想像していたよりも、上手かった。今聞こえている澄んだ声とか、そういうのとはまた違う。されど

  力強く、それはそれで俺は好きだな、なんて思っていた矢先の、あまりにも凄まじく酷い、弦楽器の音色。耳がひん曲がりそうな音に、思わず俺は噴き出して

  しまった。

  「楽器と歌声がいい感じにハマれば、魔物は眠っちまうんだぜ?」

  ヴァンダ曰く、そういう話、らしい。まったくハマらなかったが。むしろ魔物を呼びよせるのではないかとさえ思えたが。あれはもうわざとだろう。

  ちなみに魔物は眠らなかった。ただ、音で注意を引く事ができたので戦いやすくもあった。騒音問題になりそうだったのでそれから使用は禁止している。

  耳に優しい歌声と音に送られて、更に道を。ある程度食べて、喋って、笑って。俺とルカードは街人の一人になって、進んで。その内街の端へとやってくる。

  ここから先は住宅街なので、進んでも仕方がない。

  「ラディルさん。あそこ、上ってもいいですか?」

  中心部に踵を返そうとしたところ、ルカードから提案される。それはアウルラドロに設置されている物見やぐらだった。街の外側でもあるので、そういった

  ものはいくつもある。平時は外へ目を向けるものだが、魔物の氾濫が起これば内側を警戒するためにも使われるものだった。

  俺は頷いて、その提案に乗る。ルカードが何を見たいのかを察したからだ。

  入口には見張りが居たが、そのまま軽く挨拶をするだけで通してくれる。冒険者が主体のこの街で、剣を佩いている俺と、恰好が商人でも恰幅は前衛な

  レカードが咎められる事もない。簡易的な階段と、梯子を使って上へ、上へと。

  「わぁ……」

  ある程度上ったところで、レカードはやぐらから外を見下ろしては声を上げた。幻想的な白い光に満たされた、アウルラドロの光景がそこには広がっていた。

  普段は低い位置からしか見ない街並みは、確かに新鮮でもあった。住宅・工業地区はその光が控え目で、たった今歩いてきた市場や、街の玄関口などは

  カンの花の光に染められている。一つ一つは弱い花の光も、より集まれば強い光となって。今だけは空の星ではなく、地上の星が夜の主役を務めてもいた。

  「すごく、綺麗です。間近で見ると、こんなに違うんですね。それに街の様子も、いつもと違う感じがして……。俺、たまにこうして高いところから

  アウルラドロを見下ろすんですけれど、やっぱりそれとも違って」

  「そうだな」

  辺りに人気もなく、静かに時間が過ぎていく。とはいえもっと高いところには見張りがまた別に居るのだろうが。彼らはこういう時も、祭りに安穏と参加

  する訳にもいかない。交代が来るまでの我慢という奴だろう。余計な事を考えるのはやめて、俺もアウルラドロの街並みを見下ろす。白い光が寄り集まって、

  小さく動く。命の鼓動のように。そうしてそれは今、少しずつ中央の広場へと向かっていた。ダンジョンとギルドのある中心点から、少しだけ外側にある

  街の広場。そこから各々の地区に出られる道が繋がっていて、いつもは市場からはみ出した店などもよく出店していたりするが、今はそこへ向かって人々は

  少しずつ歩みはじめているようだった。祭りの、終わりを迎えるために。

  それなら俺達もそこへ行こうかと、俺はレカードに声を掛けようとする。

  「ラディルさん」

  俺が声を掛けるよりも先に、レカードの声が。そちらを見やれば、いつの間にかレカードは街の様子ではなく、俺をじっと見下ろしていた。どこか、緊張した

  面持ちで。

  「……どうした?」

  「あの、俺っ」

  さっきまでの楽しそうな様子とは違って、レカードはどこか目を泳がせたりしていて。俺は大丈夫かと思って軽く肩に触れようとするが、それよりも先に

  レカードが俺の両肩を掴む。

  「す、好きです! 俺、ラディルさんの事が!」

  「……は?」

  まったく想像していなかったレカードの言葉に、俺は思わず素っ頓狂な声を上げてしまう。好き。好きって、この状況で言うって事は、友達としてとか、

  仲間としてとか、そういう意味ではないよな。

  「こんな風に思いを伝えても、ラディルさんを困らせてしまうとずっと思ってたんですけれど。でも……」

  「……」

  「でも。あの……ラディルさんと一緒に組んでいた、ファルガンさんの事を見てて。それに、俺達は冒険者です。いつ命を落とすかなんて、わからないです。

  今隣に居てくれるラディルさんが、いつまでも居てくれる訳じゃない。そう思ったら、伝えないままいつかお別れするなんて、俺、とても……」

  「レカード……」

  「だから、その……。好きです、ラディルさん。男同士とか。その、色々ありますけど。ラディルさんは俺の事、どう、思っていますか……?」

  「どう……思っているか、か」

  そう言われても、あまりにも突然の告白だし。しかも色恋の話となると正直なところ俺はあまり関心が無いというか、そういう余裕のある日々ではなかった

  というか。単純に好意を抱いているかどうかというと、レカードに好意は抱いている。だけどそれはヴァンダにも、そして袂を分かつような形になったが、

  ファルガンに対してもそうだ。

  こんな魔剣士の俺に、きちんと接してくれる。

  多分、俺の抱く行為は、それに近い。感謝寄りの好意だ。だけどレカードが持っているものはそれとはまた違って、そして求めているのも多分、そういう。

  ただ、少なくとも。

  「ごめん、レカード。お前の気持ちは、多分嬉しい……んだと、思う。でも、今の俺には、よく……わからない。誰かを好きになるとか、誰かから好かれるとか。

  ……そんなの、俺には全部他人事だと思ってた。だから、嫌ではないんだが。どうしたらいいのかわからない。わからないのに、お前のまっすぐな気持ちに

  いい加減に答えるのは、きっと誠意が無いんだろうな」

  「ラディルさん。……ありがとうございます。今は、それだけでも」

  ぎゅっと、レカードが抱き締めてくれる。俺よりもずっと大きな身体が屈んで、俺はそれに強い拒否を示す事もできず、ただ太く逞しい腕に抱き締められる。

  温かい。暑いくらいの今の季節でも、それは温かくて。レカードが俺に、そういう意味での好意を持っていなかったのなら、俺はそのまま眠ってしまったかも

  知れない。こんな風に抱き締められる程の好意も、きっと俺はほとんど知らない。俺が深く傷ついて、誰も信じられなかった時に、ファルガンがそっと抱き

  締めてくれた時くらいで。あとはきっと、母の胸って奴くらいだろうか。その記憶も残っちゃいないが。

  温かい。

  「ごめん、ルカード」

  俺が再度謝ると、ふるふるとルカードは首を振る。俺の首筋に、虎の鼻先や頬が当たる。

  しばらくの間俺達はそうして抱き合っていた。俺も、そっと控え目に手を。振った相手の身体に手を添えるなんて、酷い話かも知れないが。

  「……ありがとうございました。ラディルさん」

  「ああ」

  やがて、ゆっくりとルカードが離れる。いつの間にだろう、少し泣いていたようだった。胸の奥が、ズキズキと痛む。傷つけたくなったのに、傷つけて

  しまった。

  「ごめんなさい。いきなりわがままを言って。でも、伝えられて良かった。初めて誰かを好きになれたから」

  「そう、なのか。……ルカード。その……まだ、俺と仲間で居てくれる、のか?」

  こんな風にすぐそれを訊くのは、配慮がなってないと怒られてしまうかも知れないが。俺は今はそれが気になっていた。痴情のもつれで解散、なんて話は

  冒険者をやってれば笑い話で、酒の席ではいくらでも出てくるものだ。笑い話にはできそうもないが、それでも明日から、ルカードが俺に背を向けてしまうと

  考えると、俺はどうしたらいいのかわからなくなる。もしルカードが振った俺と一緒に居るのが辛いというのなら、それは尊重しなければならないが。

  「それは勿論。俺だって、この話をしてラディルさんがもう一緒に居てくれなくなったらどうしようって、ずっと悩んでました。ラディルさんがよろしければ、

  俺は明日からもラディルさんの仲間です」

  「……そうか」

  それきり、互いに何も言わなくなる。どうしたらいいのか、わからなくなる。

  「……光が、集まってますね。カンの花の」

  告白を受ける前に俺が気にしていた事を、その内にルカードが口にする。

  「ああ。あとはあれを中央広場に集めて……。死者を悼む奴は、そこに集まるんだ。だから、ヴァンダも多分、今年はあそこに」

  「ヴァンダさん。そういえば俺は少し聞いただけでしたけれど。元々組んでいた人達が、みんな亡くなったって」

  思っていたよりも饒舌になって、ルカードは俺の返しに食らいついてくる。紛らわせたいのかも知れない。

  「……そうだな。だから最終日は予定があるって、今日は組まなかった」

  「なら、行ってみませんか?」

  視線を、またレカードへと。今は大分持ち直したのか、少し微笑んでもいて。まだ若い、青年だというのに。短い時間の間に一気に大人びたかのようにも

  見えた。

  「そうだな。もし、落ち込んでいるのなら。何かしてやれたらとも思う」

  「……。ラディルさんは、誰かを好きになった事、ないんですよね」

  「そうだな」

  突然、もう終わった話だと思っていたものを蒸し返される。今の流れで何か気に障ったのだろうか。

  「ヴァンダさんの事は、どう思っていますか?」

  「えぇっ!? ヴァンダ?」

  ヴァンダについて訊ねられて、俺は思わず頓狂な声を上げてしまう。どうと言われても。頼りがいのある男だとは思う。お調子者で、少し腹が出ていて。

  はっきりいってファルガンみたいな見るからに頼れる、みたいな奴とは対照的だ。でも、ここぞという時は絶対に外さない。そういう芯の強さのある男だ。

  「その流れで俺に訊くって事は、ヴァンダを好きかどうかって話だよな……?」

  「まあ、そうですね」

  よく今振られたばかりなのに、それを話題にする勇気があるなこいつは。

  「多分、お前に対するものとそんなには変わらないと思うが……。頼りになるとは思っているが」

  「あ、俺が頼りにならないって言ってるんですか」

  「そこは事実だろう。戦闘が終わった直後に喜び過ぎだ。もう少し警戒しろ」

  「うぅ……」

  「まあ、でも……少し不思議な奴だとは思ってる。なんというか、ごく自然に懐に入られてしまうというか」

  「それはわかります。すごくわかります。ヴァンダさんはなんというか、俺もそうなんですけれど。まごついているところに、にこって笑って手を取って

  くれる感じがして……。落ち着くんです。それだけだったらきっと、同じことができる人は他にも居るとは思うんですけれど。戦闘になると……」

  「ああ。強いよな」

  俺達の見解は一致する。要はヴァンダの魅力とは、その平常時と戦闘時の温度差という奴なんだろう。盗賊は決して攻撃に特化している訳ではないはず

  なのに、戦闘技術と所持する残滓の豊富さでそれらをカバーしては毎度暴れまわる。洞察力にも優れるので、戦いの中でも当然発揮されるが、普段の何気ない

  会話においてもそれは発揮されて、気づいたら助けられている事も多い。

  「俺はなまじ魔剣士だから、組む相手は少なかったんだが……。ああいうタイプの奴も居るんだなと、そういう意味ではとても感心する」

  「好きですか?」

  「……そう言われてもな」

  よくわからない。

  「そうやって俺の事を詮索しているくらい余裕があるなら大丈夫そうだな。ほら、行くぞ」

  「あ、はい」

  俺は話を切り上げるようにその場を後にする。少し遅れてレカードが。わかっている。本当はレカードの中でまだわだかまりがある事も。さっき流していた

  涙は作り物でもなんでもなく、俺を大切に、また愛しく思っているからこそ出ていたものだという事も。

  それでも俺は、今はそれに目を向ける事はできなかった。

  誰かに抱く愛情もよくは知らないのに、レカードの気持ちに応える準備があるはずもなかったのだった。

  レカードを連れて、アウルラドロの中央広場へと向かう。

  進みやすかった。何故なら、みんなが中央広場へと足を運んでいるから。花祭りの最終日、夜も深まる時刻に、花祭りは最後の時を迎える。

  白い、カンの花。視界のあちこちにそれがあった。先程までは装飾など、作り物も交ざっていて、まばらに見え、それでも多かったが。今は一面にその

  白い生花を持つ者達が見えた。祭りを楽しみつつも、死者を悼みもしたい。そういう奴はカンの花を手にするのはこの時間になってからという場合もあるので、

  それで持つ者の数が急激に増えたのだろう。俺とレカードは、持っていないが。

  「なんだか、お祭りというか……儀式みたいな雰囲気になってますね」

  「まあ、それらは表裏一体だとは思うが」

  儀式に非日常を感じて騒ぎたい。ついでに経済効果なんかも足したい。そうなったら儀式は祭りになる。昔からよくある流れという奴だ。

  祭りの顔を一頻り見せたから、今は儀式の顔を見せる。そんなもんだろう。先程までは楽し気に騒いでいた人達も、今はめっきり騒音を立てるのをやめて、

  その表情も悲壮感にまみれたとまでは言わないが、それでも神妙な表情を宿していた。

  やがて、広場へと辿り着く。

  かなり広くそこは作ってはあるが、それでもアウルラドロに集まる者達が大挙するので、次第に足が前に出なくなる。出たとしても、半歩、半歩と、牛歩を

  余儀なくされる。やがては止まる。ただ、それで充分だった。元々ダンジョンに対する街だ。背が高い建物は少なく、広場の近くともなればそれは顕著で、

  視界を遮るものとてない。そもそもダンジョンを囲むように、併設するように街を建設する際には、花祭りを行う際の人込みの流れも計算して作られるから、

  歩けはしないものの、押し合いをして誰かが倒れたりとか、人並みに呑まれてどうしようもないとか、そこまでの事態にはならなかった。

  「これより花祭り最後の儀、花送りをはじめます」

  進行を告げる声が響く。誰も歓声をあげず、じっと見守っていた。少しの後に、中央に設けられた空白に、少しずつ人々が集まる。その手に、カンの花を

  持って。

  「あ、ヴァンダさん」

  レカードはすぐにヴァンダを見つけたようだった。その視線を追って、俺もやがてはヴァンダを。死者を悼む者は、最後にこうして広場の中央に集まって、

  花送りの儀をするものだった。ヴァンダはカンの花束を持って、いつもよりもいくらかはマシな正装という奴でそこに立っていた。夜も深まったとはいえ、

  沢山のカンの花によってどんな様子をしているかは見て取ることができた。その表情はいつも湛えている皮肉なそれではなく、無表情に近いもので。却って

  それがヴァンダには似合わないような気がしてしまう。とはいえ、死を悼む時くらいはいつもと違う表情をしていて当然か。

  そういえば、フェルガンを見かけないなと思う。長く冒険者をやっているファルガンは、花を手向けたい相手も居るはずなんだが。

  まあ、ファルガンならこういう場所には来ないで、一人で静かに花を持っていそうではあるが。

  「死者に祈りを」

  司会の言葉で、花を持つ者達が目を閉じ、祈りを捧げる。しばしの間完全な静寂が辺りを包む。しばらくそうしていると、合図が出されたのかまた元の

  状態へと戻って。

  「これより花を送ります」

  ふと、花送りをする者達を囲む外周から歩いてやってくるものが居る。確か、ギルドお抱えの魔法使いだ。ほっそりとした狐の男で、中央へやってくると

  会釈を何度もしてから、跪き。しばらくの間ぶつぶつと何かを唱える。

  不意に、風が吹いた。強い風ではない。だが、感じられる魔力の量はかなりの物だった。その風は周囲から吹いて、俺達の身体を撫ぜるように駆け抜けては

  中央へ向かい。そして、宙へ。

  充分な風が吹いた頃。花送りをする者達が、両手を上げてカンの花を捧げる。すると、カンの花はそのまま、風に乗って空へと、夜の闇へと旅立って。

  たった今まで地上の星として、夜空の星の主役を奪っていたそれらが、ゆっくりと、だけど確実に夜空の中へ帰るかのように、高く、高く昇っていく。

  何度見ても、不思議な光景だなと思う。カンの花の特性もそうだが、こうして魂のような輝きを持つそれが、天へと昇っていくさまを見るのも。

  ヴァンダの手からも、カンの花が解き放たれた。花束の紙を解いて、一輪ずつ空へと。六つの光の花が、ヴァンダから離れて、飛んでいく。仲間を失った

  ヴァンダから、離れていくようで。それをただじっと無表情で見つめているヴァンダの様子を眺めていると、なんだか胸がぎゅっと、締め付けられるようだった。

  集められたカンの花が、花の光が、夜空の果てへと消えていく。どこまで飛んでいくのだろう。起こされた風は強風ではないものの、長く、長く、花を

  遠くまで運んでいくだろう。海を越えて、どこか別の大地へと届くだろうか。あるいは本当にそのまま、天の果てへと昇っていってしまうかのようだった。

  広場の中央は、暗くなっていた。それぞれが持っていたカンの花を手放したから、今は売れ残ったり、またはカンの花そのものを扱った装飾が周囲で光を

  発しているだけで。中央にはもう残ってはいない。ヴァンダの表情も、もう知る事はできない。

  「以上で、花送りを終え。花祭りもまた終了を宣言します」

  しんと静まり返った世界に、響くその声。途端に、どっと騒音が戻ってくる。がやがやと、人々の騒ぐ声。堰を切ったように溢れてくる。楽しかった、

  綺麗だった、遠くまで届くといいな、さようなら、ありがとう、そろそろ帰ろう、疲れた、眠い。

  思い思いの、まだ生きている者達の言葉が溢れてくる。生の音が戻ってくる。

  祭りが、終わった。

  広場から、少しずつ人が去っていく。後方に待機していたものから、邪魔にならないように、道を空けるようにと。

  「ヴァンダ」

  少し待って、足がようやく動かせるようになってきた頃。俺は戻るのではなく、中央に進んで。その名前を口にした。

  既に広場には松明が灯され、いつものアウルラドロの様子が戻ってきた。そんな中で、ヴァンダはただじっと、今でもわずかに残っている、空にいまだある

  カンの花の光を見つめていた。俺とルカードは、そんなヴァンダに向けて歩いて。

  「実感、わかねぇなぁ……」

  「え?」

  ぽつりと、ヴァンダが呟いて。それを聞いて、俺も声を漏らしてしまう。それに気づいたのか、ヴァンダが俺へと顔を向けた。

  「……よう、ラディル。ここまで来てたのか。よく見てなかったわ」

  「あ、ああ。花送りを見に。そうしたら、あんたが居たのもよく見えた」

  「そっか。ま、祭りもこれで終わりだな! 花送りに参加してて、腹減っちまった。なんか、食おうぜ」

  先程までの様子は露程も感じぬように、ヴァンダは努めて明るく振舞う。俺はルカードと顔を見合わせてから、頷き合う。

  「それなら、さっきの露店が出てるところに行きましょうよ。まだやってるかも知れませんよ」

  「お、いいね~。つーかお前ら、俺が居ないところで食いまくってただろ、なんか、いい匂いする!」

  「当たり前だろ。祭りは満喫するためにあるんだから」

  「だよな~!! 俺も今から満喫するわ~、酒、酒もある? 急いで買って、飲もうぜ」

  いつもの様子に戻ったヴァンダに促されて、俺とルカードは後を追って。結局それから、まだ開いていた露店で串焼きだの魚を焼いたのだのを見繕い、

  それから酒も買ったのだった。

  それから少し経った後。

  「は~~。食った、飲んだわ。いい夜だなぁ」

  「飲みすぎだろう、ヴァンダ」

  「なんだよ、序の口だろ~!? お前ももっと、飲めよ、飲め」

  「本当にお前は酒が好きだな」

  「当たり前だろ、この腹見ろ! 酒が好きな腹してるだろ!!」

  もう何も言うまい。

  そんな訳で俺達三人は、一番近かったルカードの部屋へとお邪魔して酒盛りをしていた。正直駆け出し冒険者の部屋なので一番狭いんだが。

  「酔いつぶれた時にルカードは諦めるしかない」

  とヴァンダが深刻な顔つきで言ったので、確かにこんな大男担げる訳がない。それはそうだと頷いてルカードの部屋に転がり込んだのだった。

  そして。

  「わあ、このお酒、甘くてとっても美味しいです」

  と、飲みやすい酒をさっさと呷った結果、真っ先にルカードは潰れたのだった。酒、弱かったんだな。まあ、体格を除けばまだ子供みたいな感じだしな。

  体格だけはこの三人の中で一番デカいが。今はベッドにどうにか這い上がって、すやすやと静かに寝息を立てている。

  「いいとこの坊ちゃんにはまだ早かったかー」

  「そうかも知れないな」

  「ま、その内慣れるだろうさ。酒なんて最初はそんなもんだ」

  ヴァンダは最初からザルだっただろうな、とは思ったが俺は口にせず、ちびちびと酒を飲む。酒はそんなに強い訳ではない。とはいえ、ルカードよりは

  強いが。

  「明日から、大変になりそうだなアウルラドロは」

  「あん? ……あー、まあなぁ。いよいよ氾濫が来るって話だもんな。まあ、充分空気読んでくれたんじゃね?」

  「祭りの最中に起こらなくて良かったのはそうだな」

  とはいえ、いざ氾濫が起きたらすぐさま危機的状況になるかと言われると、そうでもない。というかそれだったら、こんな悠長に祭りなんてしてはいない

  だろう。別に氾濫が治まってからやればいいで済む話になる。

  魔物の氾濫は実際のところ、じわじわと広がるように徐々に激しさを増していくことが多いという。そして期間もまたそれなりだ。それなり、のその上で、

  長かったり短かったりも曖昧だ。つまり今花祭りを逃してしまうと、開催は大分先になってしまう。氾濫次第では街が破壊される事もあるので、その氾濫を

  片付けても、街の復興が先になるしな。

  それでも、花祭りという行事自体がその年は中止、という事は基本的にはない。まあ、氾濫で街が吹っ飛んじまったとか、そういうのはまた別の話だが。

  常に死と隣り合わせの冒険者にとって、失った仲間を悼む事はとても大切な行為だった。もっとも実際の戦いの中においては、時に見捨てるというのは

  正当な行為でもある。ただ、だからこそ失った仲間に対して、花送りに参加するのは半ば義務のようなものになっていた。故に、祭りを執り行わないという

  選択はとらないのである。

  義務のような。

  ……。

  「なあ、ヴァンダ」

  「うん? どした? もっと飲むか?」

  「いや、いい。それより……さっきの、花送りの儀の事なんだが」

  「……ああ」

  「あんまり、詮索をするのは良くないってわかっている。気分を害したのなら謝る。ただ……」

  「俺の言葉、聞こえたか」

  「ああ」

  ヴァンダは、俺が何を気にしてその話題を態々掘り起こしたのか、察しているようだった。元々、ヴァンダの失った仲間達について、今までは特に訊ねたりは

  してこなかった。それは俺と組む前の話だし、ヴァンダが殊更に話題にあげるでもなければ、逆に仲間を失った苦い記憶なんて思い出したくもないだろうと

  思って。これに関してはレカードにも早々に釘を刺しておいたが、別にレカードは常識知らずという訳でもない。むしろ常識的な奴だから、こちらもヴァンダに

  根掘り葉掘りという事はしなかった。

  「言葉通りさ。実感が、わかなくてな」

  「……」

  自分でその話題を振っておきながら、俺はどう返したらいいものかと沈黙してしまう。

  「俺の話、少しは聞いた事あるだろ?」

  「まあな」

  「あいつらみんな死んじまって、俺だけがまだ生きてる。それはまあ、そういう巡り合わせなんだろうけどもな。でも、なんか実感がわかなくてさ。あいつらが

  死んだってのはわかってる。いや、全員の死に目を見た訳じゃねぇけどもね。ただ、俺もちょっと記憶が曖昧な部分があってさ。だから……あんまり、そんな

  感じがしてねぇっていうか」

  確か、ヴァンダ自身も重傷を負っていた上に、記憶が曖昧になっていたんだったか。

  「だからかな? あいつらは死んだって事になって、だから残った俺は花祭りで、花送りをしろって。それは当然なんだけどさ。なんか……ただそこに居ない

  だけで、本当はどこかで生きてるんじゃねぇのかって、そんな気分だった。そんな気分のまま、花送りをしたから」

  「実感がわかない、か」

  「そうだな。なんか、他人事みてぇに。知らねぇ誰かが死んだんだからって気分で花を放ってたよ。んなの、さすがに失礼だって俺でもわかるんだけどさ……」

  「ヴァンダ」

  また、胸が痛くなる。初めてみるヴァンダの悲痛な言葉と、その表情に。自分から訊ねておいて、そこに陥れておいて。こんな気分になるのは、我ながら

  卑怯だとは思うが。

  「俺、変なのかな」

  ぽつりと零れた弱音に、気づけば俺は席を立ち、向かい側のヴァンダの下へと歩み寄っていた。ヴァンダはじっと俺を見つめている。揺れる瞳が、不安な

  色を隠しもせずに。束の間そうするか迷ってから、俺はそっと腕を伸ばして、そのままヴァンダを抱き締める。

  「すまない。嫌な事を、思い出させた」

  「……別に、いいよ。ほんとはさっきからずっと考えてた。紛らわせたくて、酒飲んでただけだ。酔えねぇなぁ……。こんな気分じゃ。ちっともさ」

  ヴァンダの背中を、ぽんぽんと軽く、何度も叩く。子供でもあやすかのように。

  「へへ、男同士で抱き合ってら、変なの。おっぱいデカいねーちゃんには何回もされたけど、男は中々ないぜ」

  「悪かったな。男で」

  「いや、いい……。今は、これで。ラディル。なんか、落ち着くわ……。変かな、俺」

  「……俺も、落ち着く」

  そっと俺が抱き締めているだけかと思ったけれど、気づけばヴァンダも手を伸ばして、思いの外強い力で俺を抱き締めていた。

  「俺、薄情なのかなぁ……? 全然、思い出せない。あいつらの事、俺……」

  「そんな訳あるか。ヴァンダ。あんたは俺の事、助けに来てくれた。たった一人で、流刑窟まで。俺を助けて、亡霊に囲まれた時も俺を見捨てないで、

  外まで連れていってくれた。ルカードと出会った時だって、きちんと助けて。その後の主だって、俺が飛び出したのについてきて、最後は身体張って倒して

  くれた。薄情なんかじゃない。優しい。優しいって。そんな証拠ばかりだったよ、あんた。ちっとも薄情なんかじゃない……。嬉しかった。あんたがあの時、

  来てくれて」

  「そっかぁ。嬉しかったかぁ」

  震える声で、ヴァンダが嬉しそうに喋る。俺の胸に埋めた顔の部分から、少し湿った冷たい感覚が伝わってくる。鼻声になっている。

  「でもさ、やっぱ薄情かも、俺。いまさ、ちょっと……上手く話せないのは。あいつらじゃなくて……。ラディル。お前がもし居なくなったら、どうなのかって。

  ちょっと、考えてみた。嫌だって、そう思った。鼻の辺り、ツンとして。どうしたらいいのかわからなくなった。なんで俺、あいつらにはそんな風に思って

  やれないんだろ? おかしいな……。俺、おかしい。おかしいんだ……」

  「落ち着け、ヴァンダ。その時の記憶が、あやふやなんだろ? だから、あんたの言うように、実感がわかないだけかも知れない。俺も……」

  気づけば、俺も少し涙ぐんでいた。

  「あんたが居なくなったら、悲しい、みたいだ。だから、一緒だ」

  「……一緒」

  「俺の事、あんたは、薄情だって思うか」

  「……んな訳ない。魔剣士だからほんとは苦労してんのに、魔剣士以外なんて嫌いでも仕方ねぇかなって感じなのに、いつも……俺やルカードの事、見守ってて」

  そうヴァンダが評してくれるという事が、今の俺には嬉しかった。ファルガンが今の俺を見たら、嫌な顔をするのかも知れないと。それだけが少し胸に痛みを

  覚えさせるが。それでも俺はこれでいいと思った。ヴァンダも、ルカードも、今は大切な仲間だ。

  「だから、俺とあんた、一緒だよ。大丈夫。……大丈夫だよ。ヴァンダ」

  ぎゅっと、ヴァンダを抱き締める。少しでもヴァンダの憂いが晴れるように。ヴァンダもまた、普段のとぼけた様子はどこかへいって。ただ俺の身体を

  抱き締めて。あたたかいなと思う。さっき、レカードにそうされた時も思っていたけれど。あの時とも、また違う。今はもう少しだけ、穏やかだ。

  ふと、レカードの言葉が蘇る。ヴァンダの事、好きなのかと。わからない。今はそれと、関係ない気もする。少なくとも、照れ臭いとか、そういう思いでも

  なかった。ただ、ヴァンダが、傷ついているのがわかった。だから俺にできる事をしたいと願って、そうしているだけだった。

  「……落ち着いたか?」

  「ん……」

  しばらくそうした後、俺はヴァンダが泣きじゃくるのが治まったのを確認してから、努めて優しく声を掛ける。ヴァンダは俺の胸に顔を埋めたまま返事を

  していた。

  「……男相手にこんなの晒して、やっちまった。俺」

  「それだけ元気ならもう大丈夫そうだな」

  軽口が叩けるのなら、もう大丈夫だろう。明日からも、また元気なヴァンダが見られるだろう。

  「そろそろ、帰るか。いつまでもここに居ても仕方ないしな」

  「ん。俺も、安心したらなんか、眠い」

  「帰れそうか? 随分飲んでたが……」

  「……念のためついてきて」

  苦笑して、俺は頷く。まあ、基本的に冒険者の使う宿は近くにある事が多いので、ついでで寄る分には問題がない。俺はヴァンダを少し待たせている間に

  部屋の片づけを済ませて、二人揃って部屋の外に出てから鍵をかけて、鍵を扉の隙間から中に入れる。足取りが少し覚束ないヴァンダを支えながら、部屋を

  後にするのだった。

  「……ラディルさんの、バカ」

  アウルラドロの街は緊張感に満ち満ちていた。

  つい数日前まで、花祭りに浮かれていたとは到底思えないその空気。被毛が、ヒリつく感じがする。

  魔物の氾濫が、ついに起きたのだ。

  その日は朝から、じっとりとした湿気が被毛に張り付いて、嫌な日だな、なんて俺は思っていた。夏の暑さも和らいだというのに、その不快さばかりが

  纏わりついて。

  そしてそんな嫌な予感が現実のものとなるかのように、ギルドから正式に魔物の氾濫が起きたと告知されたのである。とはいえ、それで特別な混乱が

  起きたかというとそうではない。氾濫の予兆ばかりが今回は長く、その癖ダンジョンの中では妙な事が起きては、冒険者達はとっくに準備万端だったのだから

  無理もない。むしろようやく来たかと喜ぶ奴らがちらほら居るくらいだ。俺としては揺光やらで稼いだし、主の一件で株も上げたしで、悪くない期間では

  あったが、やはり平時の探索しやすいダンジョンの方が喜ばれる。残滓も取りやすいし。特にその関係でここしばらくは残滓の出土数が減ったので、そちらは

  高騰が続いている、らしい。

  そんな訳で、集まった冒険者達はダンジョンを睨む位置。ギルドの建物や、そこへ至る道に勢ぞろいしては、魔物の出現を待っていた。普段、魔物はダンジョン

  から積極的にはまず出てこない。はずみで出てくる、くらいのものだ。だが魔物の氾濫はその名の通り、溢れんばかりの魔物が勢ぞろいしては、外へ、外へと

  手を伸ばしてくる。まるで悪い物が詰まりに詰まった身体のできものが、不意に破れては外へその病魔が飛散するかのように。人体を蝕む病のように、悪夢は

  俺達の住む大地を穢す。

  アウルラドロのダンジョンから、魔物が溢れ出す。先頭の魔物に対して、既に構えていた弓士達が矢を放つ。空を覆わんばかりの矢の雨が、狙い過たず

  魔物へと吸い込まれていく。それでまずは大多数の魔物を葬る。とはいえ、次から次へと追加は出てくる。何よりも魔物の氾濫で気を付けなければいけないのは、

  それが途方もない消耗戦であるという部分だった。弓士は素早く次を、という事もしない。無論矢は大量に用意してはいるが、かといって無限ではない。出鼻を

  挫いただけで良しとし、後から追加でやってくる魔物の群れには今度は魔法使いが少し待ってから魔法を。

  また、防備する側において非常に厄介なのが、ダンジョンの出入り口を破壊してはいけない、という事だった。単純に氾濫が終わった後の復旧作業箇所を

  増やしてしまうのはそうなのだが、わかりやすい出入り口があると魔物はそこから出てくるのだが、そこを潰すと、まるで掌で押さえた水が指の隙間から漏れ出て

  くるかのように、散発的に、そして予想できない位置に沸きだすのだ。

  故に、ダンジョンの入口から、その周囲を囲む、壁のように建てられたギルドの防壁。そこに至るまでが魔物の狩場と言えた。ただ出入り口を潰すだけで

  良いなら、初っ端から俺も参加して全員で魔法を叩きこめばいいのだが、残念ながらそうする事はできなかったのである。

  魔法攻撃も抜けた魔物が、やってくる。ここまできて、ようやく近接が得意な奴らの出番になる。以降、遠距離組は魔物の中でも要注意なものを狙う方へと

  役割を変える。空を飛ぶ魔物、魔法を唱えられる程の知性を有する魔物。物理的な攻撃が効きにくい魔物。とりあえず優先的に始末するのは、こいつらか。

  そして今、俺達は。

  「ラディルさん、お願いします!」

  「ああ」

  俺は蝙蝠のように素早く動く魔物へ狙いを定めて、電撃を放つ。あいつ自体は弱いが、高速で飛び回りながら超音波で攪乱してくるので厄介な事この上ない。

  小さすぎて、遠距離組の狙撃でも狙いにくいし、そもそも今は乱戦状態だ。味方に誤射される危険性が高いとなれば、接近戦で素早く仕留められる奴が

  やるしかなかった。幸い、俺はファルガンの指導もあってその辺りは得意な方だ。もっともファルガンのような強さは、とても体得できなかったけれど……。

  放たれた雷光が、蝙蝠を貫く。俺の動きを邪魔しようとする他の魔物は、ルカードが盾になり防ぐ。

  そして。

  ルカードに行く手を塞がれた魔物の傍に、まるで影から現れ出たかのように、ヴァンダが。思わず見惚れてしまいそうになるほどに、その動きは鮮やかだった。

  ぬっと現れたかと思えば、既にそのナイフには魔物の血が。しゃがんで姿を消したかと思えば、十歩は先へ瞬時に移動を終えて、道中の魔物がばたばたと

  倒れていく。凄まじい。周りの冒険者達も、ヴァンダの動きに圧倒され、そして負けてはいられないと士気も高くなる一方だった。

  ただ、俺はそんなヴァンダを今は心配して見つめていた。ヴァンダのその表情が、いつものひょうきんなものではなく。ただただ無表情を湛えては、無神経と

  いってもいいほどに、無慈悲に魔物を切り伏せていたから。

  「ヴァンダさん、すごい……。あんなに強かったんですね」

  「そうだな。普段も勿論強いんだが」

  今まで、どちらかと言えばヴァンダの強さは、その機転の良さや、気配りの良さ。それから残滓を巧みに扱う器用さと発想力。そういうものだった。

  ただ、ここに来て俺達が今見せられているのは、純粋な盗賊としての腕の良さだった。手さばき、足さばき、どちらをとっても目で追えない程の、まるで

  殺戮兵器そのものであるかのような。見ていて身震いがするほどだった。

  「ヴァンダ。そろそろ一度引こう」

  だから、俺は想定よりも早く、その言葉を口にした。実際ヴァンダの目ざましい働きによって、魔物の勢いは予想よりもずっと早く弱まっていた。一騎当千の

  人物が戦場に居る時、周囲の者もその気配に当てられて、強くなる。それに近いものがあった。

  「そっか」

  ヴァンタが返したのは、ただそれだけで。すぐに俺達の下へと戻ってきてくれる。

  「ヴァンダさん、凄く強くてかっこよかったです!! 俺、憧れます!」

  「ん。あんがとな」

  ルカードが飛び跳ねて喜ぶ様子には、さしものヴァンダも少し元には戻ったようだが。それでもすぐ後には、ダンジョンの方をじっと、見つめていた。

  「……どうしたんだ? ヴァンダ」

  「ああ……いや、その……」

  気になって訊ねてみても、ヴァンダはそれ以上は何も言わない。俺に隠し事をしようとしている、というのとはまた違うようだった。ヴァンダ自身も、

  困惑しているように俺には見える。何か違和感を覚えていて、だけどどうしてそれを感じるのかが理解できていない。だから、何も言う事ができない。

  そんな感じだった。

  だから、ひとまずはダンジョンから物理的に距離をとってもらおうと俺は決めた、充分戦ったのは事実だし、別に文句を言われる筋合いもない。そもそも

  この戦いは、当然ながら昼夜を問わない。休める時に休めて、戦力を温存しないと負け戦は必至だった。

  「ヴァンダ! お前、あんなに強かったのかよ!」

  「見ててぞわっとしたわ。てか盗賊ってあんな強いのか?」

  「その内ヴァンダも盗賊の中で抜きんでた奴だって、言われるのかもな~」

  俺達が帰還すると、ヴァンダの戦いぶりは早速評判になっていたようで、集まってきた冒険者達が口々にほめそやす。それにもヴァンダはへらへらとは

  笑っていたが、どうもいつもの調子は出ていないようだった。

  「ヴァンダさん、気になりますね。ラディルさん」

  「ああ」

  「やっぱり、いつもとちょっと違うような気がして……」

  俺が気になった点は、何も俺だけが気になっていたという訳ではなかったようだ。ルカードも、休憩に入るとそれを口にする。当のヴァンダは、少し

  寝てくるといって既に離脱している。話をするべきかと思ったが、結局のところ俺はそれを見送った。ヴァンダの中にある、何かの違和感。その正体が

  掴めない今、下手な事を言っても仕方ない気がしたのだ。それを抜きにすれば、ヴァンダの戦いぶりで戦い自体は非常に順調の一言だったし。

  「その内、ヴァンダの方から納得できたら話してくれるだろう。俺達も、今のうちに休もうか」

  「そうですね……」

  「それにしてもルカード。新米冒険者なのにお前も随分タイミングが悪いというか、結構な修羅場ばかりくぐるな」

  「それ、最近酒場に居るとよく言われて、からかわれます。俺としては短期間で色々学べて、いいかなって思ってますけど」

  「強いな……」

  「だって、初心者で組めないんですもん。今の状況。開き直るしかないじゃないですか」

  それはそう。初心者がへらへらしていられたのなんて、ルカードと出会ったあのあたりまでで、その後は魔物の氾濫の予兆が顕著だからと、初心者に

  できるのなんてダンジョンに入ってすぐで薬草になりそうなものでも探すか、諦めてアウルラドロの街で雑用をするかのどちらかだった。そんな中でも、

  ルカードのような一握りの冒険者は、例え新米だとしても頭角を現しては腕も名声もあげていく。

  「これが済んだら、お前もそろそろ普通の……というと変だが。もう少し多い人数の中で組んでみるのもいいかも知れないな」

  「……そうしないと、駄目ですかね」

  寂しそうな反応を示しながら、ルカードは俺を見つめて。俺はそれに苦笑しながらも、色んな経験を積んだ方がお前のためにもなる、と付け足した。

  ルカードがそうして他の誰かと手を組んだ時、そこに俺の姿は無い。ヴァンダはあるいは、誘えば来てくれるかも知れないが。

  ふと、そう考えると無性に寂しさを覚えてしまう自分に気づいて、俺は苦笑した。今まではそれが当たり前だったのに。今がたまたま恵まれているだけに

  過ぎなかったのに、気づけば今に慣れては、以前に戻る事に怯えている。

  現金なものだ。

  どうせ戻って数日もすれば、やっぱりこっちが日常だったと。納得していようがいなかろうが思い知らされるだけだというのに。

  「場数を踏んでおくのも、大切な事だ」

  それらしい事をいって、俺も手を振って自分の部屋へと戻る。

  まだ氾濫ははじまったばかりだ。

  夜が深まる。

  あれから数日後。どうにも釈然としないヴァンダの様子を見守りながらも、俺は魔物の氾濫と戦い続けていた。

  少しずつ、魔物も強くなる。次第に苦しくなる。

  とはいえ、まだまだ余裕はある。というより、そうでなければ氾濫を態々受け止める策は採らない。ギリギリ勝てました、味方が沢山死にました。なんて

  結果を手にするくらいならさっさと氾濫が終わるまで街を放棄した方が懸命だからだ。

  ただ、アウルラドロは立地が結構良い街だった。元々交通が盛んな場所にダンジョンが発生した形なので、これを放置するとそれなりに周辺国にとって

  痛手となる。そのため、魔物の氾濫ともなればここを利用する事で利益を上げている連中は躍起になって支援してくれるし、当然ながら金も惜しまない。

  そのため、魔物の氾濫、という言葉自体は物騒なのだが、ギルドにとっては稼ぎ時であったりもするのだった。

  そういう意味では、余程の事がない限りは負けない事が決まっている戦いと言っても良い。

  ただ、それだからといって気楽に構えていいのかはまた別の話だ。戦いに勝っても、自分が死んだら意味がない。あくまで俺達は個人であって、組織の

  利益を上げる事に血道をあげている訳ではないのだから。

  そんな最中、俺は夜の戦闘へと今度は足を伸ばしていた。昼の方は人手が足りているという事で、夜の人手が求められていたのだ。当然その分、謝礼金も

  はずんでいる。稼げる時に稼ぐのは鉄則だ。ただし無理のない範囲で。ただ、夜に出た関係で今はルカードやヴァンダの姿はない。

  その分、俺は好き勝手に戦っていた。ここしばらくはずっとヴァンダ、ルカードと共闘をしていたので、却ってそれは新鮮に感じられる。あの二人と組んで

  いると、基本的に攻撃は任せる事が多く、どうしても魔法でないといけない時に渋々といった場合が多い。多くは、俺は後方にて不意打ち、挟み撃ちの警戒に当たるのが基本になる。特に通常、後方からの攻撃に備えて、いわゆる前衛と言われる奴らが、その名の通り全員前に出てしまうと、後方からの不意打ちで

  あっさりと後衛が死ぬなんて事はそれほど珍しくもない事態だった。その点において、実は魔剣士は前衛と後衛を半端ながらもこなす事ができるので、適正が

  あるのだった。無論、他で代用は利く。

  今は一人であるからして、俺は思うまま前に出る事ができる。ただし、周囲への警戒も同時にこなさなくてはならない。常に多数の仕事を抱えるのが一人で

  ダンジョンに潜る魔剣士にとっては当たり前の話だが、久しぶりという事もあって感覚が鈍った印象を受けるのはどうしようもなかった。とはいえ、夜戦に

  出てきた他の冒険者も居るので厳密には完全に一人という訳でもなかったが。少なくとも人の気配を感じる、人の戦う音がする。という方向への警戒はやや

  下げ、何も音が無い場所、図体のデカい魔物の足元など、小さい魔物を見落としてはいないか、闇夜に紛れる魔物はいないか。そちらへ注視した。灯りは

  それなりに焚かれてはいるが、それでも暗い闇がまったく無い訳ではない。そういう場所から、まるではい出るかのように急接近してくる魔物の一撃は、

  中々に厄介だった。反応が遅れ、当たり所が悪ければ一撃で退場になる可能性もある。

  戦いにおいての疲弊は、肉体的な疲れよりも、そういった物事がいつ起こるかわからない。それに対する警戒心を常に抱いて行動する事による精神の疲労

  といっても過言ではなかった。常に命の危機に晒されると当然ながら心がささくれてくる、というとわかりやすいかも知れない。そんな状況でにこにこ

  笑っていたらそっちの方が怖いくらいだが。

  何度か乱戦になっている場所へと突っ込み、不利になりかけているところへ手を貸す。一人で参加しているからといって、戦い方も一人という訳ではないのが

  乱戦の特徴でもある。魔剣士としてはこちらの方が分があるだろう。普段はまったく活かせないが。

  何度か突撃と後退を繰り返す。息が上がってきた頃に、魔物の勢いも弱まる。空が、白みはじめてきた。傷はかすり傷ばかりで、心配する程のものでもない。

  まだいける。

  だけど、俺の集中はそこで途切れた。

  視界の隅に映る、見知った姿。

  ハイエナの男の姿。

  俺は慌てて魔物から退き、消耗が激しい事を知りながらも強めの魔法で始末する。それよりも、相手を見失わない事を優先する。

  ヴァンダ。

  ヴァンダも夜の狩りに来ていたのか。ただ、そういう話は聞いていない。もっとも、必ずしも予定を教え合っているかといえばそうでもないので、それは

  別に不自然な事でもなんでもなかった。実際、俺も別に話してはいない。明日は疲れが溜まっただろうから、休日にしようと話をした後だ。だから俺一人で

  ここに来て、久しぶりに腕がなまっていないか確認もしていたのだから。

  だからそれは、俺と同じような理由でヴァンダがここに来たのだと。ただそれだけに過ぎない、はずだったのに。

  当のヴァンダは、遠くを見ていた。アウルラドロのダンジョン。魔物の発生源。それをただ、食い入るように見つめて。危うい事に、武器を構えても

  いなかった。まるで存在感を薄くしているかのように、魔物がヴァンダを襲うこともなかったが、その存在を認知した俺としては、どうしてそんなところで

  無防備に立っているのだと、意識がもっていかれてしまう。

  そんなヴァンダが、少しずつ歩き出す。行先は、当然。

  「ヴァンダ」

  俺はヴァンダを止めようとした。明らかにヴァンダは一人で。この乱戦の中、目立たぬという事もあって、アウルラドロのダンジョンへと侵入しようと

  していた。今、ダンジョンの中には魔物しか居ないはずだ。余程の手練れでもない限り、あの中は魔物が大量に発生している。到底、生きてはいられない。

  そんな中に向かおうとするヴァンダを、黙ってみている訳にはいかなかった。

  「ヴァンダ!!」

  俺の言葉にも、ヴァンダは反応を示さない。まるで何かに操られてでもいるかのような。我武者羅に俺は走り出す。そんな俺の行く手を阻むかのように、

  魔物が。あまりにも、迂闊だった。ヴァンダに気を取られ過ぎて、俺はそれへの対応が遅れた。

  あ、死ぬ。

  瞬間的に察し、浮かんできた言葉はそれだった。ただ、次の瞬間には俺に向かって振り下ろされようとしていた屈強な魔物の腕が、吹き飛ばされる。

  見知った魔法。

  「ファルガン」

  「君らしくないな。そんな風に周りを見ずに飛び出すなんて」

  先日以来、一度も見かけなかったあの白い狼が、いつの間にか俺の後方に立っていた。

  「あまり無茶をしないでくれ、ラディル。君に何かあったら、私はとても辛い」

  「……ごめん。でも」

  「あれ、か?」

  ファルガンは、俺が何に気を取られているのかを瞬時に察したようだった。

  「ダンジョンの中に……」

  「ファルガン。俺は、ヴァンダを追いたいんだ」

  「それは。私に、君が死ににいくのに手を貸せというのか」

  瞬時にファルガンの瞳が細められ、睥睨される。全身に怖気が走る。本気になったファルガンの威圧感は、ある程度成長したはずの今の俺でも受け止めるのは

  辛いものがあった。

  「でも。……でも、あのままじゃヴァンダが」

  「……。君にも、大切な仲間ができたのだね。ラディル」

  ふと、威圧感が和らぐと同時にファルガンが微笑む。怒られるとばかり思っていた俺は、それに面食らった。こういう時、ファルガンの意見は手厳しいものが

  多かった。それが、笑って俺を肯定するというのも、また珍しかった。

  「今まではずっと、君は私の後をついてきてくれていた。私はそれが嬉しくて。ただ、同時に危うくも感じていた。もう、大丈夫かい。誰かを信じられる

  ようになったかい? 誰かを信じた自分を、馬鹿な奴だと蔑まなくなった?」

  「ファルガン。俺……。ごめん、勝手な事ばかり言って。ちゃんとした大人になれたかっていうと、自信はないけど……。でも、今はあいつを一人には

  しておきたくないんだ」

  「いいだろう」

  言葉と同時、俺達に向かってきた魔物を目にもとまらぬ早業でファルガンは切り捨てる。魔剣士でありながら、その実力はかなりのものだった。一部では

  大魔剣士カルファーンの再来とさえ言われる事もあるのだ。もっとも当人は、まだ足りないと言って笑うばかりだが。

  「たまには君が指図するといい。本当は君とまた一緒になって、そうしてもらいたかったがね」

  「ありがとう、ファルガン。……俺を、あそこまで。ダンジョンの入口までの道を切り開いてくれ」

  「承った」

  既にヴァンダは、ダンジョンの直前にまで至っている。それだというのに、相変わらず魔物はヴァンダには目もくれない。されど、俺達に目もくれないかと

  いうとそれはまた別の話だった。

  凄まじい魔力のうねりを感じる。俺の隣に居るファルガンからだった。剣を握る手元に集中したそれで宙を切り払うと、そこから衝撃波にも似た斬撃が

  飛び出す。俺がまだ使えない、魔剣士の技。

  「走れ。止まるなよ、ラディル」

  言われた通り、俺は全速力でアウルラドロのダンジョンに向かう。生命の鼓動を隠しもせずに走り出した俺に向かって、魔物が。しかしその次には、俺の

  後方からファルガンの放つ電撃が、続けて風刃が、行く手を遮った二体を同時に襲う。ファルガンの強さには色々あるが、魔法を同時に唱える事に関しても

  かなりの精度と速度を持っているのが、まずもって強かった。俺の憧れの魔剣士。カルファーンという、話の上でしか知らない存在とは違う。俺を助けて、

  俺の身を庇い続け、俺に教えを授け続けてくれた人。

  「さあ、行け!」

  何度も感謝を心の中で叫びながら、俺は走り出した。光が、溢れている。アウルラドロのダンジョンから。そこへ到達したヴァンダに向かって、俺は

  飛び込んで。

  「ヴァンダッ!!」

  俺の言葉に、ヴァンダが振り返る。少し驚いた表情を見せながらも、俺の身体を受け止めようと手を伸ばして。

  そのまま、俺は。俺達は。

  魔物の氾濫の最中の、アウルラドロへと到達したのだった。

  アウルラドロ第一層、始原の密林。

  その入口で、今俺達は倒れていた。

  「……なんだ、ラディル。お前、居たのか」

  勢いあまって倒れた俺の下敷きになっているヴァンダは、それを気にした様子も見せずに。俺が居る事に言及する。

  「あんたが、ダンジョンに向かってくのが見えたから」

  「はぁ。夜なら、大丈夫かなって思ったんだけどな。お前には、見られたくなかった」

  「何か、行かなきゃいけない理由があるのか?」

  「理由。理由、ねぇ……」

  そこで、ヴァンダは視線を逸らしてダンジョンの奥へと。ここ最近、いつもそうしているようにじっと見つめている。

  「わからない。ただ、行かなきゃいけないって。そう俺が思ってるだけだ。でも、魔物の氾濫が起きている時に行くなんて、まあ、死ぬだろ? だから、

  こっそり行こうと思ってた」

  「俺も、行く」

  「正気か? まあ、正気じゃないように見える俺が訊くのも、野暮ってもんだけどな」

  「そんな言葉が言えるのなら。あんたは充分正気だよ。……でも、あるんだろ。何かが」

  「ああ。……とりあえず、ここから動こう。"今は"大丈夫なんだ。でも、すぐに外に向かう魔物達がまたここを通る。さすがにあの数は俺でも無理だ」

  頷いて、俺は立ち上がり。続けて立ち上がったヴァンダは鼻先を宙に向けて、すんすんと匂いを嗅いだり、少し遠くを見つめてから。

  「こっち」

  俺を先導する。ヴァンダにそんな能力はなかったと思うが。少なくとも今まで一緒に組んでいて、そんな姿は見た事がなかった。

  それでも、その案内が正しい事を俺はすぐに理解する。魔物と、会わないのだ。魔物の氾濫が起きている間、溢れた魔物は外へと、次から次へ飛び出して

  いく。当然そうなっているからには、ダンジョンの中は魔物が普段よりもずっと多いというのは当たり前の話だった。それなのに、ヴァンダが案内する道では、

  ほとんど魔物らしい魔物は出てくる気配がなかった。

  始原の密林は、静かな物だった。魔物の声も、動物の声も、鳥の声も、虫の声も。何もない。ただ風が木々の間を通り抜けて、葉擦れの音だけがさわさわ、

  しゃらしゃらと聞こえる。夜の今も、この密林の中は明るく。太陽のような光が天から降り注いでいた。何もかもが、夢のように感じられる。それこそが、

  悪夢から発生したダンジョンの特性ともいえるが。

  「こんなに、魔物が居ないものなのか……」

  「居ない場所を選んでるからな。だから、俺から離れるな。守ってやれない」

  どうしてそれがわかるんだ?

  俺の手をきつく握って、前へ、前へと進みはじめるヴァンダに、それを言う事ができなかった。何か得体の知れない者に、道を先導されている気分にも

  なった。今声を掛けたら。俺のかけた言葉が、ヴァンダの意に副わぬものだったとしたら。振り返ったヴァンダの顔は、まったく別の何かに変わっていても

  不思議ではないような。力強く握る手が、俺を腕を引きちぎる程の膂力の強さを不意に露わにするかのような恐怖が、俺の胸を襲った。俺は黙ったまま、

  ヴァンダの後頭部と、ハイエナ特有の大きな耳と、繋ぐ手と、揺れる尻尾の上で順番に視線を動かしているばかりだった。

  それでも、つなぐ手は温かく。ヴァンダの先導は熱心だった。魔物と遭遇する事なく、第一層を抜けていく。不意に景色が途切れて、第二層の姿が見える。

  ダンジョン内では、層ごとに次の階へと繋がる部分がいくつかある。ただ、ヴァンダが案内してくれたそこは、俺の頭には入っていない連結地点だった。

  これもまた、魔物の氾濫によってダンジョンの内部が不安定になっているという事なのかも知れない。

  景色が変わる。まるで折れた樹木にまったく別の枝を接木でもしたかのように。そこからダンジョンの様相は異なっていた。密林を抜けると、次は谷。

  アウルラドロ第二層、獅子落としと呼ばれる場所だった。谷の底は闇に染まっており、落ちたらまず助からないのは確実だろう。かといって足場が安定

  しない斜面に留まると、周囲から発見されやすく、空を徘徊する翼をもつ魔物に狙われる。中々厄介な場所だ。

  ヴァンダは木陰などで何度か停止しながら、先へ、先へと。さすがにこの大空の下、見晴らしが良いので第一層のように魔物の姿を見ない、なんていう

  事はなかった。ただ、それでもやはりヴァンダの特別な嗅覚のおかげか、魔物と接触する事はほとんどなかった。時折それがあったとしても、まあ少数なら

  俺とヴァンダの敵ではない。魔剣士の俺としては魔力が尽きない限りは魔法で対処できるしな。逆に足場も不安定なので、前衛には辛い場所でもある。

  そして、そんな谷も不意に途切れ。というよりぽっかりと空間に穴が空いて、その先の薄暗い岩肌の壁が露出している場所にやがては出る。

  第三層、流刑窟だった。俺にとってはお馴染みの、そしてあれからは立ち入らなかった場所。最近はダンジョンに立ち入ってもルカードが居る事も

  多いので、精々が獅子落としまでの狩りしか行っていなかった。流刑窟はそれまでの二つの層と比べて、狭く、鬱屈としていた。言葉の通り、罪人を送るのに

  お誂え向きな天然の牢獄の様相を呈していて、時折聞こえる嘆きの声は、いつか罪によって投獄された者の慣れの果てだという噂もある。

  四方八方、遠方から敵に補足される心配がないという意味では二層までと比べると安心できるが、その分薄暗く、視界が悪い。また入り組んだ岩壁の要塞は

  迷路のように入り組んでおり、油断しているとあっという間に迷い。帰る術を知らない者はここで命を落とす事も多かった。また、不意に視界が開けた、長い

  廊下などがあるのも厄介なところだ。視界が通らない事に安堵し過ぎていると、そういう時自分が誰かに見られているという事に気づきにくい。暗い闇の中に、

  本当はどうな魔物が潜んでいるのかが理解できない。結果として、気づけば目の前にまで魔物が迫っていた。そういう事も多い。

  また、前二層は生き物らしい生き物。動物が化け物になったようなタイプが多かったが、ここからは俺が普段は標的に、しかしヴァンダに助けられた際は

  脅威となった亡霊など、生物と言って良いのかわからない魔物も増えはじめる。死と生の垣根を飛び越えたかのような、それらを冒涜するかのような。

  ダンジョンの構造にせよ、相対する敵にせよ、それまでとはまた違った対処を求められるのだ。

  だからこそ、それらに柔軟に対応するために各々異なる分野に特化している必要があり、そして器用貧乏な魔剣士はといわれる所以でもあるのだった。

  「ヴァンダ。どこに……行くんだ」

  第三層まで来て、俺はようやく口を開く。この辺りは、俺でも敵の探知がしやすい。言葉を発しても問題ないだろう。

  「正直、俺にもわからねぇ。ただ、こっち。こっちって、なんだろうな……聞こえる? いや、違うな。呼ばれてる。そうだ。呼ばれてるんだ……俺は」

  「……」

  何に?

  それすら、訊ねられなかった。いや、恐らくはヴァンダも、その回答を明確には示せないだろう。

  まるで虫が明るい光に引き寄せられるかのように、無意識に近いレベルでそれを追ってしまう。行かないという選択肢ができない。その先で火に入るかも

  知れないのに、歩みを止める事もできないかのように。

  そんなヴァンダについていく事は、俺の身の破滅をも招くのかも知れなかった。

  「怖くないのか。ラディル。お前はただ、俺についてきているだけなのに。本当はもう、わかってんだろ。俺がおかしい事なんて、さ」

  「……俺は。ただ、俺を助けてくれたあんたを、一人にしたくなかった。それで俺が命を落とすのなら。ただ、冒険者としての勘が働いてなかった。それだけの

  話じゃないのか」

  「違いねぇや。……ありがとな」

  少しだけ振り返ったヴァンダ、いつものように笑おうとして、上手く笑えていなくて。だから皮肉そうな笑みというよりは、それはただ照れた笑みのように

  見えた。

  流刑窟を進んでいく。ここは、敵の数は元々少ない。だからこそ不意に遭遇した時の混乱も大きいのと、一体一体の厄介具合というか、それまでと別のものを

  要求されるのがしんどいのだった。俺にとってはやりやすい敵ではあるが。

  青白い光、赤々とした光が、暗がりの途中途中にある。そこにいっても、光を発するものは何もない。まるで砦に、松明などの照明を配置した後で、その

  光源を排除し、されどその発した光ばかりがその場に汚れのようにこびりついているかのようだった。足元をどこからともなく吹いた、ひんやりとした風が

  過ぎていく、生命の力強さと、圧倒的な暴力を見せつけられる第一層や、弱肉強食を明確にさせられる第二層とも、また異なる、精神を恐怖で蝕む冷たさが

  ここにはあった。

  そんな中でも、やはり敵とは遭遇しない。いや、俺はここの敵を感知しやすいからわかる。ヴァンダはそれもまた巧みに避けているのだった。俺があの日、

  立ち往生した時のように、敵の数は増えている。時折、すれ違うような時もある。ただ、敵の感覚もそれまでと違うので、魔力を外に漏れださないようにし、

  声を殺し、平静を努めればやり過ごすのは難しくない。

  奥へ、奥へと抜けていく。しかしダンジョンの道は、やはり俺が今まで散々頭に叩き込んでいたものとは異なる部分もあった。氾濫によって、その中の

  構造が明確に切り替わっている。そんな中でも、ヴァンダの足取りは迷いを見せなかった。

  「ここ」

  ふと、ヴァンダが口にする。それは岩壁の中にある、何も無い空間だった。今までのように、次の改装へ、まるで雑に切っては貼ってしたような、境目が

  なかった。

  「ここ?」

  「まあ、引き返さないなら、俺についてきてくれ」

  ヴァンダが進む。壁に向けて。面食らった俺の前で、ヴァンダは壁に向けて手を伸ばす。すると、その手は暗がりの壁にぶつかるどころか、そのまま壁の

  中へとめり込んでいく。思わず呻いた。第四層への継ぎ目は、もっと明確なもののはずだった。ヴァンダが肩まで壁に入りながら、俺に大丈夫かと一度

  立ち止まって視線を送ってくる。俺は頷いて、むしろそのままヴァンダを押すように前へと。俺も手を伸ばす。腕が、吸い込まれる。ダンジョンの中に、

  奇妙な感覚だった。気持ち悪いような、快いような。摩訶不思議なダンジョンに、今までは入りながらも一体とはならないでいたのに、一体となるかのような。

  それでもさすがに顔面が壁に入る時は目を閉じた。目がどうにかなってしまいそうな気がして。

  中に入っても、ヴァンダはゆっくりと進んでいく。俺の動揺を感じ取っているのだろう。急かしたりはしない。

  「抜けたぞ」

  言葉に、目を開く。そこで俺は驚愕する。

  第四層、ではなかった。俺はファルガンに連れられて第五層までは行った事があるし、自力でも第三層はある程度闊歩しているので、敵を振り切ったり、

  時折第四層の様子を覗いたりしていたので、そこがどんなものか知っていた。第四層は、厳かな宮殿だった。白く滑らかな石ばかりで作られた、荘厳な宮。

  そしてその中を闊歩するのは、たった今抜けてきた流刑窟ともまた違う、しかし生命の息吹を感じさせない、いわゆる魔法生物と呼ばれる者達の巣窟だった。

  だが、今俺の目の前に広がるのは、暗い夜空だった。まるでダンジョンから抜けて、街に戻ってきたかのように錯覚をしてしまう程にそこは暗く。

  「どこだ、ここは……一体、何層なんだ……?」

  ヴァンダが掌に淡い光を灯す。強い光は、魔物に見つかると警戒しているのだろう。

  「十層だ。俺の記憶が、間違ってなければ」

  「なんっ……」

  俺は言葉を失う。同時に、明確な命の危機を感じる。俺の実力では、足を踏み入れても四層までだ。五層はファルガンが居ないととても立ち入れなかった。

  なのに、第十層? 果たしてファルガンでも足を踏み入れられるだろうか。この領域に。そしてそんなファルガンの足元にも及ばない俺は、ここではただの

  虫けらに等しいことは明確だった。ヴァンダは確かに腕が立つが、それでもとても魔物に見つかりでもしたら。

  「引き返すか? 俺は、この先に……ああ。まだ呼ばれてるんだ」

  「……」

  俺は深呼吸をして、だけど首を振った。

  「行こう。……今しか、行けないんだろ?」

  「ああ。そうだな。魔物の氾濫で、魔物の居場所が偏ってんだよ。だからきっと今しか行けない。今の道も、通れない。だから俺は行くしか、ねぇんだ」

  頷いて、前へと進む。

  そこは深い、夜の領域だった。開けた原の上を、歩いていく。星が瞬き、されど月は無く。遠くから吹く風が草を掻き分けて、その度に草が音を立てて、

  前方から後方へ。右から左へ。まるで笑い声を響かせるかのように音が移動していく。湿気もなく、温暖な。遠くを見渡せば、明かりが見える。見た限り、

  それは街の灯りのようだった。あそこまでたどり着けば、街があるのだろうか? この悪夢のダンジョンの中に、そんなものがあるのだろうか?

  「あそこには、行けないらしいぜ。目指してみたけど、駄目だったって」

  「蜃気楼みたいなものなのか」

  ぽつりと呟く。ふと、遠くの空に何か、巨大な物が飛んでいるのが見える。そこにそれが居ることに、俺達は星の光が遮られているという点でしか気づく

  事ができなかった。それでもそれは大きくて。

  「竜、なのか。あれは?」

  「あれに見つかったら諦めた方がいいぜ」

  「……まあ、どうにかできるとはまったく思わないが」

  乾いた笑いが漏れる。なんだか少し、俺も慣れてしまった。穏やかな風景。望郷を駆り立てるかのような街の灯り。そんな中に非常識に飛び回る竜の姿。

  夢のようだった。本当に。悪夢というのは、どうしようもなく最悪な、救いようがないという意味で使われているのかと思ったが。今のこれは、まるで

  子供が見る夢の内容にも似ていた。

  「大丈夫だ。もう少しで、着く」

  「知っているんだな」

  「ああそうだ。俺はそれを"知って"いる」

  手を引かれて、どこまでも、どこまでも原を進む。

  ここがダンジョンではなかったのなら、俺達はもっと楽し気に歩いていたかも知れなかった。

  そして、俺達はついには辿り着く。その場所に。

  アウルラドロ第十一層。

  いや、違う。そこは今までのような層とは違っていた。

  進む内に、不意に大木が目の前に現れた。遠目からでは、そんなものはなかったのに。そんな大木の、大きな洞(うろ)の中に、それはあった。

  無機質な、冷たい金属の壁でできた、それまでそれぞれ別世界に飛んでしまったかの様な広さと比べたら、こじんまりとした広さともいえるその場所。

  白色の光が、何か中央から発せられている。周囲の金属の壁には、何かしらの模様が見えたり、時折ちかちかと光が走っているが、よくはわからない。

  ヴァンダが目指していた。呼ばれていたと感じているのなら、恐らく間違ってはいないだろう。

  ここがアウルラドロの終着地点だ。

  「ここが……」

  ヴァンダに手を離されて、俺は立ち止まってその場所をしげしげと見つめる。

  ダンジョンの最下層には、悪夢の牙があって。それは地に食い込み、悪夢を生み出す、ダンジョンの根源となっている。

  だから最下層では、冒険者は悪夢そのものとの戦いをするのだという。だが、一見してそんなものは見当たらなかった。いや、恐らく中央の光がそれなの

  だろうとは思うのだが。だけど、敵意もなにも感じない。場所が場所でなかったら、腰を落ち着けて休んでも良いくらいに。

  「ああ、そうか。……そうだったんだなぁ」

  不意に、俺から離れて先を歩いたヴァンダの言葉が聞こえる。俺ははっとなって、ヴァンダを。光の近くで、ヴァンダはだけど光に背を向けて何かを見て

  そう呟いていた。俺も遅れてそこへと向かい、そして息を呑む。

  眩い光で、それが今まで俺には見えなかった。そして不思議と、臭いもしなかったのだ。

  そこに倒れている、無残な死体の存在に。

  「ヴァンダ……?」

  既にそれは、死んでからある程度の時間が経っていたのだろう。乾いて、だけどこの空間の作用なのだろうか。腐ってはいなかった。

  少し太った、ハイエナの。一見して盗賊とわかる男の死体。死体の周りには、乾いたどす黒い血が床を汚していた。

  どう見てもそれは、俺が今まで一緒に行動を共にしてきた、ヴァンダという男の姿だった。服装が違うだけで、少なくともその顔付きは。

  「ごめんな。ラディル」

  俺が死体に呆気にとられていると、ヴァンダの声が聞こえる。目の前でこと切れている彼からではなく、今までずっと一緒に居たヴァンダから。

  俺がそちらに顔を向ければ。

  「ヴァンダ……」

  生きていたはずのヴァンダの身体が、淡い光で包まれていた。その足元に、ぽたぽたと雫。ヴァンダは俺を見つめて、泣いていた。

  「俺、やっぱり……。違ったんだな。忘れてた。いや、どこかで……気づいちゃいたんだ。でも、記憶が……曖昧なんだと思おうとした。そうじゃなかった。

  俺、ヴァンダじゃなかったんだ。ずっと、お前の事を騙して、俺」

  「ヴァンダ」

  慌てて俺はヴァンダに手を伸ばして。だけどそれよりも早く、ヴァンダの身体はより白い光へと変わっていく。身体の端から、崩れていく。流れ落ちた涙を

  残して、光へと変わって。ヴァンダの手を握ろうとして、俺の手は空を切る。もう手なんかどこにもない。

  「お前と一緒に居られて、楽しかった。俺が知ってるだけの奴らとはまた別に、俺自身が初めて仲間だと思えた奴。なんだ。じゃあ、仕方ないよな。お前を

  特別に思ったって、そんなの……仕方ないよな……」

  「ヴァンダ!」

  「お前と一緒に居られて、良かった」

  光が強くなる。ヴァンダの形か無くなる。目が、眩んで。

  次に光が収まった時、目の前に。俺をここまで連れてきてくれたヴァンダの姿は、どこにも見えなくなっていた。ただ。その背後にあった光が、強さを

  増した気がする。

  「ヴァンダ……」

  身体の力が抜けて、俺は座りこむ。視線の先に、濡れた水滴の痕。ヴァンダが残してくれたのは、たったそれだけだった。

  気づけば、そこに俺の涙も落ちていく。ぽたぽたと。だけど、それだけだ。こんな所まで来て、一人取り残されて。ただ涙を流す俺が居るだけだ。

  理解が追い付かなかった。ただ、今まで俺を導いてくれた男が。俺を助けて、いつもへらへらと笑っては一緒に居てくれた相手が、消えてしまった。

  わかるのはたったそれだけで、それ以外の事はほとんどわからなくて。

  けれど、どうでも良かった。そんなの、どうでもいい。

  こんな事になるのなら、ヴァンダを止めれば良かった。呼ばれていると、ダンジョンに引き寄せられそうになるヴァンダを無理にでも止めて。

  あんたが傍に居てくれるのなら、それだけで良かったのに。

  「よくぞここまで来た。勇敢な冒険者よ」

  泣き崩れる俺の頭に、言葉が響く。耳から、という訳ではなかった。ぼやけた視界のまま、俺は顔を上げる。音としてそれが聞こえる訳でもないのに、

  俺はそれが目の前の、残った光の塊から響いているのを本能的に感じ取った。

  「勇敢……? 俺が?」

  そんな勇気、俺のどこにもなかった。ただ、俺はついてきただけに過ぎなかった。本当に勇敢なのは、不確かな記憶に怯えていたのに、それでも俺みたいな

  奴に優しくできるような。あんな。あんな奴の事なのに。俺なんて何も持っていないのに。

  「残念ながら、そこの男はここに来て、願いを口にしたものの事切れてしまった。そなたは、ここまでたどり着いた二人目だ。故に、願う事を許そう」

  「願う……?」

  「お前はこの迷宮の事を、知らないのか?」

  「……悪夢の牙から生じた迷宮は、踏破されれば消える。されなければ、大地が腐って、数百年以上は使い物にならなくなる」

  「そうだ。お前は、ここまでたどり着いた。だから願いを口にし、この迷宮を終わらせる権利を持つ」

  「あんた、一体……なんなんだ」

  ずっと、ダンジョンの根源というものは俺とは、人とは敵対するものだと思っていた。だけど、こいつの言い分はどうも違う。まるで待っていたかのように

  聞こえる。

  「夢だよ。お前達が口にする。悪夢。いや、それを見ている誰かというべきか。だから他の迷宮に足を踏み入れても、このように話ができるとは思わない方が

  いいだろうな」

  「……」

  「そして、迷宮を踏破したものは迷宮を消滅させ、一際強い……お前達の言う。夢の残滓を手にいる」

  「上級残滓……?」

  「そうだ。無論、それ以外でも迷宮から出る場合もあるが」

  ダンジョンを消滅させた、いわゆる英雄と称えられる冒険者の話は聞いた事がある。彼らは悪夢を晴らし、ダンジョンを消滅させた。その過程で、上級

  残滓を手にもする。こういう事、だったのだろうか。ただ、他所ではまた違う場合があるというのなら、これもまたそうなのかも知れなかった。

  「望む物が手に入れられる。もっとも迷宮の力を超えるものは与えられない」

  「だったら」

  俺の答えは、とっくに決まっていた。そして見た感じでしかわからないが、ダンジョンの、悪夢から生じたとされるのならば。

  「ヴァンダを、返してくれ」

  「その男を生き返らせるのは、無理だ」

  「違う。ここまで……俺を連れてきてくれた、あのヴァンダだ」

  「あれか」

  「……どうして、あのヴァンダ……。いや、あの人は、自分をヴァンダだと思っていたんだ? 姿も、その……そこで死んでいるヴァンダと、同じだ」

  「それが、そこの男の願いだからだ。死にたくない、という酷く原始的な願いだ」

  「……」

  それで、あのヴァンダが作られたのだろうか。でも、現に本物のヴァンダは死んでいる。

  「間に合わなかったのだ。そこの男を治せれば、それで良かった。しかしその男が願いを口にするのと死ぬのは、ほんの些細な差しかなかった。故に、その男の

  記憶から新しく、ヴァンダを作った。あとは、そのヴァンダと共に居たお前がよくわかっているだろう」

  「そんなの……」

  願いを叶えたとは、言えないのではないか。今更ながら俺は涙を払い、振り返って動かない"本物"を見つめる。死にたくないという願いを口にして絶命した

  ヴァンダの願いは叶えられた。新しい、作られたヴァンダが外へと飛び出した。気の毒な話だ。だけど、この男がそう願ってくれたから、俺はあのヴァンダに

  出会えもしたのだった。

  「死んだ事がわからぬままならば、それと同じ物がそこに在るのならば。誰もそれが当人ではないとは気づかないだろう? そうやって、願いは叶えられた」

  「だったら、できるよな。あんたが生み出したんだ。あのヴァンダを」

  「そんなものがいいのか。無論実現できる範囲には限りがあるが、お前にはいくらでも……」

  「必要ない。俺には。元々、俺の実力でここまで来た訳じゃない。本当にそんなものが欲しいのなら、自分の力で俺がくればいい。だけど、ヴァンダは……。

  俺の傍に居てくれたヴァンダは、駄目だ。俺にはヴァンダが必要だ。返してくれ。他に何も、いらない」

  「あいわかった」

  悪夢はそれ以上、何も聞き返さなかった。途端に、強い光がまた迸る。散ったはずの光が。こんな事が、あっていいのかと思う。人ひとりが、願いで

  作られてしまうのなんて。俺の願いは、あまりにも大きすぎるのではないかって。

  だけどそんな思いも、すぐに失われる。少しずつ光が収まってきて、たった今消えたその姿が、少しずつ、少しずつ形作られて。

  「ヴァンダ」

  光が収まると同時、その身体が倒れてくる。俺は慌ててそれを受け止めたが、重くてそのまま潰されそうになる。すんでの所で、身体が動き、手をついた

  のか。俺はそのまま下敷きにはならずに済んだ。

  「なんだよ。ラディル。……いくらでもいい物、願えたのに。そうしないのかよ」

  ずっと。ずっと待ち望んでいた声が聞こえる。戻ってきてくれた。拭った涙が、また溢れ出してくる。

  「俺がそんな物貰って、喜ぶと思ったのか。俺の事、何もわかっちゃいない」

  「でも、さ。俺、消える直前に思ったんだ。もし消えるのなら、ここで終わりなら。せめてお前になんかいいもんでも与えてもらって、外に出してやれないかな

  ってさ……。俺にゃ大したもん、あげられねぇし……ただの、偽物だから」

  「偽物じゃない。俺にとっては、お前がヴァンダだ。もし、お前がそれが嫌なんだったら……新しい名前でもなんでも、名乗ればいい。今まで俺の傍に居て

  くれたお前と、俺は一緒が良い」

  「なんだよ。愛の告白かぁ? ……へへへ。男同士なのに、なんか嬉し。変なの。俺」

  「あんたが戻ってきてくれて、俺は嬉しいよ」

  「そっかぁ……。なあ、ラディル。俺、おかえりって、言ってほしい」

  「おかえり。おかえり、ヴァンダ」

  「ああ。……ただいま」

  遠くなった街並みが見える。

  アウルラドロの街並みだ。

  久しぶりに歩く、外の世界。ここ最近はずっと、街とダンジョンの往復だったから、なんだか今もダンジョンの中に居るような錯覚すら覚えてしまう。

  あのアウルラドロの街並みも、本当は遠くに見えるだけでたどり着けないかような。

  「大分進んできたな。へぇ、アウルラドロって遠くから見ると、こんな感じなんだなぁ」

  呑気な事を口にしながら、ヴァンダが掌を額に当てるようにして遠くを見つめる。

  「でも、いいのかよ? 一応、まだダンジョン残ってるっぽいけど、出てきちゃって」

  「まあ。それは……仕方ないだろう」

  ヴァンダの問いに、俺は苦笑しながら頷く。

  あの後。短い別れの後に再開した俺とヴァンダは、そのままアウルラドロのダンジョンを出た。ただ、残された本物のヴァンダの遺体は、頭を悩ませたが

  結局第十層にその遺体を弔う事とした。どちらにせよ、戦闘が起こったらとても外までもっていけなかったし、持っていったらいったで隣に生きているヴァンダは

  なんなんだと詰問されるのが目に見えている。

  亡くなったヴァンダには申し訳ないが、ダンジョンで弔ってやるしかなかった。もっともダンジョン内部で亡くなった冒険者がそのままそこに弔われるのは

  珍しい事でもなんでもないが。見つからないとされているヴァンダの仲間だって、今頃は土に還っているのだろうし。

  「なんか証拠隠滅みたいでやだなー!」

  「お前が言うな」

  と、ヴァンダが言う。まあ、仕方ない。

  そして俺達が来た道を引き返して外に出ると、何食わぬ顔でまた魔物の氾濫の対処に加わっていたのだが、比較的早くそれは終わり。そして俺とヴァンダは

  そのままアウルラドロを出る事にしたのだった。

  一つには、アウルラドロのダンジョンはまだ残っているという理由があった。あの光は、俺がダンジョンを踏破したと認めたが。俺がそれを受け入れなかった

  からか、それとも願いもヴァンダをただ返してほしいと口にしたからなのか。ともかくもダンジョンが消滅することはなかった。ならば、俺としてはヴァンダを

  アウルラドロに残し続けない方が良いという判断だった。いつまた、あんな風に呼ばれる形でヴァンダが最深部にいったり、形を失ってしまうのかと考えれば、

  それは当然の選択でもあった。

  「ラディルさん。ヴァンダさん。本当に、行ってしまうんですか……?」

  「ああ。それに、氾濫も収まった。ルカード。俺とお前の話は、元々そこまでだったな」

  「はい。……いつか、もっと強くなって。お二人に役に立てるようになって。俺、またお二人に会いに行きます」

  そして、俺達はルカードにも別れを告げた。元々ルカードへの指導は、魔物の氾濫の関係で初心者で組む事ができなくなり、ダンジョンに入れないからと

  いうものもあった。氾濫が落ち着いたアウルラドロは、既に通常の状態に戻っている。ルカードは、これからだろう。

  ヴァンダの事を細かくルカードに打ち明けられなかったのだけが心残りだったが、それで俺達はルカードと、アウルラドロの連中に別れを告げて、外へと

  飛び出したのだった。

  「フィオ。世話になった、本当に。お前ならきっといい鑑定士になれるさ」

  「もう、行っちゃうんだね。ラディル。ついこの間、来たみたいな気がしていたけれど……。どうか、気を付けてね」

  フィオにも挨拶をした。フィオは俺がヴァンダと出ていくという事に疑問を感じたようだが、俺が決めた事だと正直に告げて、そして俺の顔を認めると、

  もう何も言わずに微笑んで送り出してくれた。

  唯一、ファルガンだけは捕まらなかった。俺が無事なのを確認したら、出て行ってしまったのかも知れなかった。

  「あのままあそこに残っても、ふとした弾みであんたが本物のヴァンダじゃないって知れ渡らないとは限らないし、そうなったらあんた、区分すれば……。

  その、残滓に近い存在なんだろ。絶対研究とかされるぞ」

  「おっかねぇ……。さっさと行こうぜ。俺、知ってるけど実際に見てないのばっかだから。こうして外歩くだけでも新鮮。めっちゃ新鮮だわ~」

  飛び跳ねるように、ヴァンダが先へ、先へと走り出す。

  「そういえば、あんた」

  「おん?」

  「名前、どうするんだ」

  「ああー……」

  くるくると回りながら、ヴァンダは考えている。

  「そっかぁ。新しい名前、つけてもいいのかぁ」

  うーん、としばらく考えてから。ヴァンダはいつもの皮肉な笑みを浮かべて俺の下へと戻ってきては、片腕を差し出す。

  「んじゃ、改めて自己紹介だ。俺はヴァンダってんだ。よろしくな!」

  「前と一緒じゃないか」

  「ちげーよ。改めて決めて、ヴァンダにしたんだよ。いいだろ? ダメ?」

  「……いや」

  俺としては、それで構わなかった。それに現実的な話をすると、見た目は同じな訳で。冒険者として活動する上でのヴァンダを継いだ方が結局は楽だろう。

  「よろしくな。ヴァンダ。俺はラディルだ」

  「お前はなんも変わってないだろー!?」

  勢いよく突っ込んでくるヴァンダに、俺は朗らかに笑う。そしてヴァンダも。

  アウルラドロでの生活が終わる。街は遠くなる。

  青空の下、笑顔で駆けはじめたヴァンダを、俺は追って。

  どこまでも。どこまでも、進んでいく。

  [newpage]

  一覧(本編中ネタバレあり)

  ラディル

  魔剣士。とくになし。

  上級残滓(ヴァンダ)

  アウルラドロの悪夢から生まれた本編中でのヴァンダ。

  腕っぷしは本物通りであり、このヴァンダが特別強いというよりかは、元になったヴァンダが強い。

  ルカード

  辺境貴族の五男辺り。本人は隠しているつもりらしいが、仕草(特に食事のマナー)が上品過ぎるのでラディルとヴァンダからは察せられている。

  辺境貴族はダンジョンの生成に遭う確率が高く、また自ら指揮を執る必要性もあり、その権限が国から与えられ、その関係で尚武の気質が尊重される。

  またダンジョン踏破の際には冒険者との関わりも深く、貴族でありながらも冒険者には一定の敬意を払う。ルカードが冒険者に憧れ、実際に冒険者に

  なったのはこの影響がある。

  跡取りとしては特に期待されておらず、また冒険者への憧れも尊重されているので、家出をした訳でもなく、家族からも応援されている。

  しかしラディルと会う直前には詐欺に遭い、大体の財産を失っている。

  ファルガン・ドールマン

  魔剣士でありながら戦闘力に秀で、その上で博識であり、また容姿も端麗という何もかも持っているかのような狼男。

  その実はラディルに対して強い依存を持っている。ラディルとは共依存の関係である事を求めているが、それとは別に非常に常識人なので、ラディルの

  考えは基本的に尊重するし、自分の下から去るのならそれも応援してくれる。

  ラディルに縋りついてもらえる事が堪らなく好きである。また

  「どうか私の事は置いて、君だけでも生き抜いてはくれないか」

  「あんたを見捨てて逃げた先で、どうして俺が生きられるんだ……?」

  「君を待っている人だって、居るだろう。ラディル」

  「俺には誰も居ない。ファルガン。あんただけ……俺にはあんただけなんだよ。ファルガン」

  という当時のラディルとのやり取りを今でも定期的に思い返しては悶えており、使い物にならなくなる時がある。

  単身での実力でいえば、伝説の魔剣士カルファーンよりも上である。ただ、カルファーンのように他職と群れるに積極的ではなく、また当人もダンジョンの

  踏破や、多くの人々を統括するという意思を持たず、カルファーンのようになる気はさらさら無い。ただカルファーンの記した戦術・戦略書は愛読書である。

  ちなみに音声を記録する残滓を持っている。

  ヴァンダ(故人)

  本編中では遺体でのみ登場した人物。

  実力は仲間と一緒ではあるが、アウルラドロの最深部に辿り着いたので英雄と称えられるに足るレベルではある。

  が、非常に現金な性格であり、目立つ事を良しとはしなかった。金が絡む事柄においては有名人ではあったが、それ以外では面倒を避ける傾向が強く、そういう

  意味ではアウルラドロ深層に至った時でさえ、仲間は多く生き延びれば取り分が減る、とも考えていた。この辺りの根の考えが、アウルラドロで彼らが散った

  遠因であるし、終着地点にヴァンダが辿り着いた原因であるともいえる。

  ちなみに大家族で故郷に家族が居るのも本当であり、金にがめつすぎるのもまたそのせいではあるので、根っからの悪人気質かというとそうではないが、金の

  ために他者の命を平気で捨てるくらいの事はしていたと思われる。

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