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【登場人物】
■猪原 篤志(いのはら あつし)
年齢:38歳
種族:猪の獣人
■熊森 湊真(くまもり そうま)
年齢:19歳
種族:熊の獣人
[newpage]
作業終わりの夕暮れどき。現場のプレハブのドアが、ぎぃ、と湿った音を立てて軋む。
湿気を含んだ赤土の匂い。鉄と汗、それに機械油がまざった空気が、薄い壁の内側にじっとりと染み込んでいる。窓も換気扇も回っておらず、空間はすでにふたりの匂いと気配に包まれていた。
先に中にいたのは、猪獣人の猪原篤志(いのはら・あつし)。体格のいい中年の作業員で、胸元のボタンは外れたままになっていた。折りたたみ椅子に腰を預け、額から落ちた汗を首筋のタオルで拭っていたところだ。
「……あんた、また背中、泥ついてる」
声をかけてきたのは、入り口に立っていた熊の獣人、熊森湊真(くまもり・そうま)だ。背丈があり、がっしりした若い身体には土木用のベストとズボン、安全靴、ヘルメットがそのまま残っている。濃い色の体毛は、首元や脇でぬらぬらと湿り、視線の奥には疲労と、わずかな安堵が混ざっていた。
熊森は、コンクリ土間の上で安全靴の底をずり、とこすり合わせながら、猪原のもとへゆっくりと歩み寄った。
返事はない。ただ、猪原が肩を重たげに揺らし、タオルを襟元から入れて汗を拭っただけだった。
熊森は、その動きにかぶせるように、ぬるりと上半身を預けた。大柄な身体が、猪原の胸元にしがみつく。
「……くさいのが、落ち着くんすよ」
そのまま、シャツの布に鼻先を埋め、ぐっ、と一息。鼻を鳴らしたのは猪原の方だ。「ふっ」とも「……ったく」ともつかない短い吐息が、鼻先から漏れた。
「くっつきすぎんな。……暑ぃ」
「でも、だめっす。きょう……すげー、さみしかった」
熊森の両手が、作業シャツの胸ぐらをぎゅっと握る。鼻先でシャツ越しの体毛をくすぐりながら、喉の奥でひとつ、かすかに鳴いた。
猪原は、それでも拒まなかった。
右手を上げ、熊森の背中にそっと乗せる。汗と泥で重くなったシャツ越しに、若い体の熱と、湿った毛並みがじんわりと掌に伝わる。
「……気持ち悪ぃくらい、しがみつくな」
言葉に反して、掌にはほんの少しだけ力がこもっていた。
熊森は返事の代わりに、喉を震わせて笑った。顔は押しつけたまま、すこしだけ上を向いて――
「なぁ、あんたさ。おれが男好きって、知ってても……なんも言わねぇの、ずるい」
数拍の沈黙のあと、低く、ぶっきらぼうな声が返ってくる。
「……お前もだろ」
熱を帯びた吐息だけが、応えるように胸元に触れる。
熊森は目を伏せ、ゆっくりと頷いた。
「うん。……だから、こうしてんのが一番いい。変に喋るより、ずっと」
ぐい、と重心を預ける熊森。作業靴のゴム底が軽く軋み、外では夏虫がしんと鳴き始める。
猪原は黙ったまま、数秒を過ごし、ぽつりと短く呟いた。
「……それでいいなら、俺はいい」
天井の小さな電球が、かすかに唸るような音を立てていた。白熱灯特有の温もりはない。だが、その頼りない明かりだけが、壁際に座るふたりの影を長く引いていた。
光の向こうで、顔立ちははっきりとは見えない。だが、獣人であるふたりの体格と輪郭は、互いに触れるほどの距離にある。土と汗と鉄のにおい。擦れた布と呼吸の音。その気配だけが、いやというほど濃く漂っていた。
壁の外を風が撫でると、どこかの鉄骨がコト、と鳴った。
猪原は、シャツのボタンをいくつか外したまま、背を折りたたみ椅子に預けていた。膝のあたりには、熊森の上半身が寄りかかっている。安全靴を履いた脚が床に崩れるように伸び、ふたり分の匂いを吸い込んだ空気が、プレハブの低い天井にとどまっていた。
熊森の体温が、猪原の腹と胸にじんわりと広がっていた。だがその下、作業シャツは汗で濡れ、湿った布が肌に張りついて冷たい。
「……寒くないんか。お前」
ぽつりと落とした猪原の声は、湿った空気に吸われるように響いた。手を背に回し、熊森のシャツの襟元をほんの少し持ち上げる。
「うん。……あったかいから、ここ」
熊森は素直にそう言った。声には一片の疑いもなかった。無防備なその響きに、猪原は黙って目をそらした。視線の先には、散らばった工具袋と、外套を引っ掛けたスチール棚がある。だが、どこを見ても、熊森の体温は逃れられなかった。
猪原は、わずかに足をずらした。安全靴のゴム底が床を擦る。ごく微かな振動が、熊森の重みごと揺らした。
「……お前さ」
ようやく続いた言葉には、釘を打つような強さはなかった。
「これ、……誰にでも、やってんのか」
一瞬、空気がぴたりと止まった。
熊森は動かない。だが、鼻先が少しだけ動き、息を吸ったのが伝わってくる。
「……誰にも、やんないよ。あんた以外に、やりたくねぇ」
それは、淡々と絞り出された“事実”だった。照れや演技の成分はどこにもなかった。
「おれ……あんたのにおいじゃなきゃ、落ち着かねぇんだよ」
その言葉を聞いた猪原は、鼻先で短く息を鳴らした。
「……バカが」
それ以上、口では返さなかった。だが手のひらは、熊森の背から、ゆっくりと首元へと滑っていく。濡れた毛並みに指先が沈み、掌がそこでじっと留まった。熱を確かめるように、確かに触れている。
「……なんも言わねぇの、ずるいって言ったろ。さっき」
熊森が顔を少しだけ上げる。その黒い瞳が、薄明かりにじんわりと濡れていた。ただ泣いているのではない。言葉の代わりに、何かを伝えたがっていた。
「ねぇ、あんたは、どう思ってんの」
猪原は、すぐには返せなかった。
返せない。自分の中に、まだその言葉がないことを、はっきり自覚していた。
代わりに、息を一つつき、かすれるような声で言った。
「……また、明日も来るんだろ」
熊森は、短くうなずいた。
「うん」
それから、胸に顔を戻す。片耳が、猪原の胸骨に当たる。ゆっくりと響く鼓動が、そこに確かにあった。
ぬるい湿気のこもった作業着。軋む木製の床。唸り続ける蛍光灯。
恋人ではない。けれど、言葉にならない絆がそこにはあった。
その夜は、あともう少しだけ、ふたりに許された。
静まり返ったプレハブの内部。合板の壁には虫の音も届かず、照明の唸る音だけが、薄く空気を震わせている。
熊森は、しゃがれた呼吸のまま、猪原の胸元に顔を埋めていた。互いの作業着が、じっとりとした湿りを含みながら触れ合っている。布地が呼吸のたびにわずかに動き、密着した空間で、ふたりの体温だけが確かな輪郭を持ち続けていた。
そのとき、不意に猪原がぽつりとこぼす。
「……変なこと言っていいか」
声は低く、喉の奥で潰れたような響きだった。
熊森は顔を上げなかった。押しつけたまま、かすかに頷きながら「うん」とだけ答える。
猪原は少し間を置いて、目線を下げる。言葉が地面を打つように落ちた。
「手袋……と、ヘルメット。つけたまま、抱いてみてぇ」
その言葉に、熊森の耳がぴくりと動いた。ぐっと瞬きをして顔を上げる。
「……は?」
「ほら、お前……そういうの、好きだろ」
いつもより少しむすっとした顔つき。だが、獣面の耳の内側がわずかに赤く色づいているのを、熊森は見逃さなかった。
猪原はすでに、脇に置いていた黒いゴム手袋を片方手に取り、指を一本ずつ通していく。乾いた汗でざらついた手のひらが、内側に滑り込んでいく音が、静まり返ったプレハブに小さく響く。
熊森は目を丸くしたまま、その手の動きをじっと見つめていた。
続いて、猪原がヘルメットを手に取る。現場で使い続けたそれには、油や粉塵の香りとともに、今日一日の汗がしっかりとこもっていた。顎紐を指先で確認し、音を立てないように被る。
バチン、と留め具が締まる音。
「……ほら」
言い終えた声は、小さくぼそりと落ちた。けれど、その声音には少しだけ照れが滲んでいた。両腕を開いて熊森を迎えると、そのまま、無言のままがっしりと熊の身体を包み込む。
熊森が思わず洩らしたのは、吐息に近い言葉だった。
「……うわ、」
感情のかたちをしていない。ただ、熱に近い何かが胸元を満たしていく。
手袋の感触。しっとりと濡れた布の冷たさ。その奥に確かにある体温。肩の上から伝ってくるのは、ヘルメットの内側に籠もった汗と埃の匂い。昼間の粉塵と機械油、土、風、汗が重なって、今目の前にいる“生きたあの人”そのものになっていた。
熊森は無意識のうちに、鼻先をヘルメットの側面にずり寄せる。ごつごつとした硬い樹脂の表面に、鼻先が擦れるたび、その匂いがむしろ鮮やかに蘇った。
「くっさ……、でも、……落ち着く……」
「バカが。……そんなに嗅いだら、具合悪くなるぞ」
「……いや。逆。なんか、変な気持ち……する」
そう呟いて、熊森の腕がゆっくりと動いた。腰にまわされる手。ごつい安全帯の金具に触れ、そのまま、胸の上へと這い上がっていく。
作業服の擦れる音。手袋の摩擦音。鉄と土と獣のにおい。湿り気と熱。指先の感触と呼吸の重なり。
そこにあるのは、何か名前のつかない衝動だった。恋とも欲とも違う。けれど、胸の奥をぬるく満たしていくその感覚が、ふたりの間にひたひたと染みていく。
言葉はもう必要なかった。
「……あんた、ずるいよ……」
その声は、喉の奥からにじみ出るようだった。
熊森は、猪原の胸元に顔を埋めたまま、浅い呼吸を繰り返していた。湿った布越しに伝わってくる鼓動の重み。鼻腔に入り込んでくるのは、猪原の体に染みついた汗、油、土――そして何より“いまここにいる匂い”。
それは洗濯済みの服に残った記憶ではない。手の中で呼吸するこの存在から直接立ち上る、息の熱に溶けた匂いだった。
「……なあ。あんた、これ、ほんとはわかってて……やってんだろ」
返事はない。だが、熊森の背に置かれた手袋越しの掌が、重たくしっかりと留まっていた。それだけで、拒絶ではないことは分かった。
喉の奥で、熊森のなかに何かがじわりとにじんだ。
欲しい、抱きしめたい、もっと匂いを確かめたい。だがそれらをすべて並べても言い尽くせない、名のない感情だった。生きて、ここにいて、今この匂いを出している“猪原篤志”という存在そのものへの執着。
「……ちょっとだけ、手、動かしていいすか」
「……好きにしろ。ただし、変なとこ触んな」
ぶっきらぼうな声。だが、排除の気配はなかった。
熊森は、ゆっくりと腕をまわし直した。作業着越しに触れる肩甲骨。指先がずり落ちて、背骨に沿って滑る。分厚い毛皮の下に、肉のついた腰回り――そこに手のひらが自然と吸い寄せられて、力が入る。
「はぁ……、やっべ……なんか、なんかだめだ……今日」
声が崩れた。鼻先をヘルメットの横にずり寄せると、無意識にそこへすりすりと顔を押しつける。
ヘルメットの表面は固く、ごつごつとしていたが、それがかえって“現実”だった。昼間の現場の残り香。汗が乾いてこもった匂い。粉塵の粒や、さびた金属の気配。全部が猪原の“今日”を記録していて、今しかない体温を守っていた。
「くさ……いのに、さ……、……好きだ……」
その言葉は、理屈でも意思でもなかった。熱に浮かされた獣の心が、勝手に零した一滴だった。
そのとき、猪原がゆっくりと動いた。
熊森の背を包んでいた大きな手が、首の付け根のあたりへと滑ってくる。ヘルメットと襟の隙間から手袋の親指が差し込まれ、毛並みの奥にある皮膚にそっと触れた。
「……落ち着け。バカが」
その声は静かで、硬くない。だが、あくまで遠い。“受け入れ”ではなく、“そこにいるだけ”の意思がこもっていた。
「……でも、おれ……、今、こうしてないと……たぶん、どっか壊れそうで……」
かすれた声に、返事はなかった。
ただ、首筋に添えられた親指が一度だけ――ぐっと優しく押し返した。
その圧に、熊森の目の奥がかすかに熱くなる。
感情はもう、言葉では追いつけなかった。
恋人でもない。家族でもない。友達ですらない。
でも、世界のどこにも、この距離を許せる相手はいない。
その夜、熊森は理由もわからぬまま、しばらくのあいだ、猪原のヘルメットに鼻を押しつけたまま――動けずにいた。
床の埃っぽさも、もう気にならなかった。
ふたりはそのまま、プレハブの片隅――荷物置きの棚と使い古したロッカーの間に、ずるりと腰を落とし、そして身体を横たえた。
作業着を脱がないまま。黒いゴム手袋も、安全靴も、ヘルメットさえもつけたまま。汚れた装備の匂いと体温が混ざり合って、空間を濃く支配している。
猪原は、仰向けに寝転んでいた。大柄な身体が床に沈み、厚手の作業着が背中と床の硬さを埋めていた。天井の蛍光灯がじぃ……と微かに唸っている。光は温もりに乏しく、まぶたを閉じればすぐに闇に変わるほど弱々しい。
その隣に、熊森が、ごろん、と体を横たえた。がっしりとした体躯が、迷いなく猪原の腹に頭を乗せる。
「……ここ、今日いちばん落ち着く」
ごつごつしたヘルメットが、猪原の腹のあたりに軽く当たる。熊森の鼻先がシャツを押す。布越しに匂いを確かめるように、鼻がゆっくりと動いた。
「ん……、汗……油……あんた……」
低くこもった声が、シャツの上から響く。一つひとつの語が、思考ではなく実感のなかからこぼれている。
猪原は黙っていた。
代わりに、手が先に動く。黒いゴム手袋のまま、ごつい指で熊森の頭にそっと触れる。撫でるというより、毛並みに圧をかけないように“置いた”というのが近かった。
「……撫でんの、雑っすね」
「うるせぇ。……撫でてやってんだ」
「ん……うん。……ありがとう」
熊森はそのまま、作業シャツに顔をぐりぐりと擦りつけた。染み込んだ匂い――泥と汗と油と、繰り返し使われた洗剤の混じった古びた香り。その奥に、“今日のあんた”の気配が確かにあった。
それは昨日も、一昨日も、きっと同じようにあった。でも今だけの匂いでもあった。
「……これ、ずっと嗅いでられる」
「バカが。鼻おかしくなんぞ」
「うん。でも……おかしくなってもいいや、ここでなら」
返事はなかった。ただ、手のひらが少しだけ丁寧になった。
毛並みを逆なでないように、頭骨の丸みに沿って、耳の根元まで包み込むように――ゆっくり、重たく。
熊森はそれを受けながら、深く、深く息を吸った。
匂いを、記憶しようとしていた。今日という夜を、鼻の奥に焼きつけるように。
やがてふたりは、言葉を交わさなくなった。
聞こえるのは、布の擦れる音。鼻を鳴らす、ごく小さな呼吸音。それだけが、プレハブの静けさを満たしていた。
ごろりと横になったふたりの足先が、自然と触れ合っていた。
安全靴の厚い革とゴム底が、ぎゅ……と鈍い音を立てて擦れる。乾きかけた泥と、表面に浮いた汗の塩がざらつき、ほんの小さく軋む。
「……なぁ、これ」
熊森が、腹に顔を押し当てたまま、ぽつりとつぶやく。
「靴……鳴らす音、……好きなんだよな。こうやって、あんたとぶつかる感じの……」
猪原は、腹の上に重みを感じながら、目を閉じたまま低く返す。
「……変な趣味だな、お前」
けれどその声に、呆れの色はなかった。代わりに、無言で自分の足をわずかに動かす。
熊森の安全靴とまた擦れ合う。ぎ、ぎゅ……と革が軋む音が、しんとしたプレハブの中に滲むように響いた。
その音に誘われるように、熊森の身体がじわじわと動いていく。脚を絡めるように、猪原の脇腹へと滑り込む。ごつい腕を胸にまわし、鼻先をシャツの上から押しつけていく。
「……なんか、体……勝手に動くっす」
鼻をこすりつけながら、息の混じった声。胸の匂いを吸い、作業着の肩を辿り、首もとの縁へと鼻先をすべらせる。
「ぬくもりと匂いと、音が……混ざってくのが……なんか……」
言い終える前に、また靴が擦れた。ふくらはぎ同士がぶつかり、厚手の作業ズボンがわずかに湿った布音を立てる。
「……おい」
「……なに」
「動きすぎだ。……くすぐってぇ」
「……ごめん。……でも、止まんない。……だって、やだ……」
“やだ”の理由は語られない。けれど、その言い方だけで伝わってくる。
今、この時間が終わってしまうことが怖い。ただそれだけ。
熊森の手が、猪原の腰をぐっと掴む。呼吸が乱れ、くぐもった吐息が胸に吸い込まれ、喉元で詰まり、またゆっくりと吐き出される。
それに重ねるように、猪原のごつい手袋の手が、熊森の背中を撫でた。やや無骨で、爪のあたりを少し立てるような触れ方――作業者の手袋越しだからこその力加減だった。
「……うるせぇな。ほら、動くな。……もぞもぞしてっと、余計くっつくだろ」
「……それでいいのに」
熊森の返事は短く、小さい。でも、その一言にすべてが込められていた。
また、安全靴が擦れた。
今度は猪原の方が、軽く足を押し返す。音が混じり合い、無言のまま伝わってくる。
拒まれていない。
この夜、この汗と埃の中で重なった音が――ふたりにとって、確かに必要なものなのだと、ただそれだけが伝わってきた。
プレハブの壁の隙間から、夜の終わりがじわじわと染み込んできていた。
空はまだ、紺と黒のあいだをたゆたっている。明るいとも言えず、暗いとも言えない、その狭間。
昼でも夜でもない、名もない静けさが、しんと現場の仮設小屋を包んでいた。
猪原と、熊森は、互いの身体を預け合ったまま、床に横になっていた。
作業着のまま、ヘルメットも脱がず、手袋も履き古した安全靴も、何ひとつ外さないまま。
息がゆっくりと揃っていく。もう会話はなかった。というより、言葉を挟む余地すらなくなっていた。
熊森の耳が、ちょうど猪原の胸骨の上に収まり、そこから聴こえてくる心音と呼吸を、静かに受け止めていた。
猪原はといえば、熊森の頭の上に手袋越しの手を乗せたまま、目だけを天井へと向けていた。
ふと、足元で――
ぎ……と、音がした。
安全靴の革が、ほんのわずか擦れ合う。
泥が乾いた部分と、まだ湿った汗染みが触れ、軋むような微細な音を立てる。
どちらが動かしたわけでもない。
けれど、それはまるで、“まだここにいる”と告げ合う合図のように響いた。
「……まだ、暗いっすね」
熊森が、ぽつりと呟く。
猪原は、声を返さなかった。代わりに、肩をほんのわずか揺らす。
それだけで十分だった。
外ではもう、鳥が鳴き始めているだろう。
どこか遠くでトラックのエンジンがかかり、今日の作業が静かに始まりかけている。
だがこの小さなプレハブの中には、まだ現実の時間は届いていなかった。
残っているのは、ふたり分の体温。汗と油と土の混じった匂い。
そして、こすれ合う安全靴の、無骨な音だけだった。
「……また、現場行くんだよな」
「……ああ」
当たり前のやりとり。それだけの言葉が、少しだけ胸に重かった。
立ち上がれば、このぬくもりは少しずつ薄れていく。
何もなかったように、また“現場の男たち”に戻っていく。
熊森が、足先を少しだけ猪原の靴に押しつけた。
ぎ、ぎぃ……と、革と泥の音が擦れる。
「……この音も、すき」
決して綺麗な音じゃない。
油と汗が染み込んだ、ただの労働靴の音。
だけど、その全部に“あんた”が生きていた。
「これ、ずっと鳴らしてたいな……」
「……アホか。うるせぇだけだろ」
そう返しながら、猪原は手袋越しに熊森の頭をもう一度、ゆっくり撫でた。
毛並みの奥まで、重たく、許すように。
“今だけは”それをしてもいいと、無言で伝えるように。
熊森は、その掌の重さに目を閉じた。
「……終わるの、やだな」
その一言に、猪原は何も答えなかった。
ただ、自分の安全靴の足先を、そっと熊森の靴に押し返す。
ぎ……と、また確かな音が鳴った。
その音だけが――返事だった。
外が、ほんのり白みはじめていた。
プレハブの合板壁のすき間から差し込む光はまだ弱く、色もない。
だがその淡い光が、夜という時間が確かに終わりかけていることを告げていた。
熊森の頭は、まだ猪原の胸に乗ったままだった。
けれど、ふたりとも目は開けていた。互いを見るでもなく、外を見るでもなく、ただ目を開けたまま、音のない光を受け止めていた。
「……寒くなってきたな」
熊森が、小さく呟いた。
その声には“起きたくない”という気持ちがうっすらにじんでいた。
それでも、猪原はゆっくりと身体を起こす。
背中に貼りついていたシャツの湿気が剥がれ、むわりと冷気が皮膚に触れた。
その動きにつれて、ごつい安全靴の革が床を引っかき、
ぎぃ……と、沈んだ音が木の板に響く。
「……シャワー浴びてねぇのに、このまま現場入んのか……」
立ち上がりながら漏らした言葉は、文句とも、諦めとも、ため息ともつかない響きだった。
ただ、湿気と汚れの染みついた作業着を見下ろし、ヘルメットも脱がずに頭をかく。手袋はまだ、外していない。
「……でも、朝イチ資材下ろしあるしな。間に合わねぇ」
「……うん。……おれも、まだ泥だらけだけど……」
熊森も、ゆっくりと体を起こす。重たい身体が床を離れ、腰を浮かせると、足元の編み上げた半長靴が軽くきしんだ。
足首を一回転させると、革が乾いた音を立てる――キュッ、と。
「でも……これ履いたまま、寝たの、なんか……よかった」
ぽそりと漏らされた声に、猪原は何も返さない。
ただ、腰に手をあてたまま、ちらりと横目を向けて熊森を見て――
「……お前、いっぺん靴脱いで、足ふけ。臭ぇぞ」
「……あんたもっすよ」
言葉はぶっきらぼう。でも、声に含まれた空気が、ほんの少しだけ柔らかかった。
熊森はゆっくりと立ち上がる。
両腕を伸ばして背を反らせると、作業シャツの裾が持ち上がり、背にこびりついていた泥がぽろぽろと床に落ちた。
その足元では、まだ猪原の安全靴と熊森のそれが、時おり自然に触れ合っていた。
立ち上がり、荷物を整える。ヘルメットを直す。手袋をはめ直す。
そんな朝の動作ひとつひとつのたびに、足元で――ぎ……ぎ、と馴染んだ音が鳴った。
もう、夜は終わる。
でも、ふたりの足元にはまだ“昨日の続き”が、たしかに残っていた。
[newpage]
ぱさり、とカーテンが小さく揺れた。
夜の外気が、わずかに部屋の隅へ入り込む。
畳にこもった微かな湿気と、洗いたての布地の香り。そこへ乾きかけた鉄や皮の匂いが、静かに混じっていた。
ここは猪原篤志の自宅。六畳間の一角に敷かれた寝具の上――といっても、毛布を重ねた簡素な布団にすぎない。
その真ん中に、ふたりは身を横たえていた。
どちらも、まだ作業着のまま。
猪原はヘルメットを被り、黒いゴム手袋をしたまま片腕で熊森湊真を抱いていた。
熊森も、編み上げの半長靴を脱がず、その身を猪原に預けている。
布がこすれる音が、絶え間なく続く。
動き回っているわけではない。ただ、熊森がもぞり、ずり、と鼻先を猪原に擦りつけているだけだった。
「……あー……やっぱ、今日も……あんたのにおい、する」
「……洗っただろ」
「うん。でも、いる……ちゃんと」
胸元に顔を埋めたまま、熊森は深く呼吸する。
洗剤の香りの奥に残っている、猪原の体臭――土と汗、油、獣の匂い。それがシャツの布越しにしっかりと染み出ていた。
「……これがないと、なんか……ダメだ」
ヘルメットの縁が、猪原の胸板にかつん、と軽くぶつかる。
熊森はそのまま、そこへ鼻先を押しつけるように擦り寄った。
「ん、んふ……すき……」
「……バカが」
猪原の声は低く、あきれた響きを含んでいたが、手の動きは止めなかった。
ゴム手袋越しの掌で、熊森の背中を一定の力で撫で続ける。
厚手の作業服ごしでも、熱のこもった若い体温がしっかりと伝わってくる。
きゅっ、と革が軋む音。
安全靴が無意識に触れ合い、畳の上でじり、と擦れた。
靴底が藺草の繊維を押し返す、その感触すらも、熊森には心地よかった。
「……お前、ずっとこうしてんのな」
「うん。……だって、これ、ちゃんと“あんた”だから」
熊森の声は、どこかとろけていた。
動きと音に、感情がゆっくり溶け込んでいく。
ベルトの金具が、寝具に当たり、からん……と鳴る。
布が、装備が、鼻先が、絶えずこすれる。
甘えた声。革の鳴き。金具の微音。
そのすべてが、ふたりの夜を満たしていた。
猪原は目を閉じたまま、深く息を吸う。
これは香水でも、芳香剤でもない。“生きた生活のにおい”。
そこへ熊の呼吸が、熱を帯びて重なってくる。
妙な安心が、胸の奥に満ちていた。
何も言わなくていい。
何も起きなくていい。
ただ、こうしていられれば。
「……寝ちまえ。明日、早ぇぞ」
「……あんたも一緒に寝て」
「……もう寝てんだよ、俺は」
「うそつけ。ちゃんと頭、なでてくれてんじゃん……」
猪原は返事をせず、ただごつい手袋の指で、熊森の耳の後ろをなぞるように撫でた。
かさり、とまた布が揺れた。
また、ヘルメットがぶつかった。
また、安全靴が擦れた。
その音たちは、ふたりの夜を壊すどころか――静かに、守っていた。
ぎぃ……と、金具がわずかに鳴った。
熊森が、頭のベルトを緩め、ヘルメットを外す。
編み込まれたストラップが手元でくたりと揺れ、畳の上に静かに置かれた。
身体を預けるようにして横になったまま、熊森は上体を少しだけ起こす。
そしてそのまま、丸みを帯びた獣の頭を、遠慮のない動きで猪原の頬へと押しつけてきた。
「……ん」
短く吐かれた息とともに、湿った獣毛と若い汗が混じった匂いが、猪原の鼻先をかすめる。
熊森は風呂を済ませたはずだ。それでも、毛の奥に染みついた体臭は消えていない。
それは洗剤では落とせない、“生きた存在”から発せられるにおいだった。
熱をもった額が押し当てられ、猪原の首筋までふわりと湿気が触れる。
「……どうした。今日はやけに甘えてくんじゃねぇか」
猪原の声は低く、ぼそりと落とされた。
文句のようでいて、そこには咎める響きも苛立ちもない。ただ、事実を確かめるような声だった。
片手をゆっくりと上げると、手袋の縫い目を指先で摘み、外す。
素手のまま、熊森の頭に触れる。
指先に感じるのは、短く硬い毛並みと、その奥の骨格の丸み。
ゆっくりと、指を滑らせるように撫でる。
ごし、ごし、と音が立ちそうな感触。
だが熊森は抵抗もせず、むしろ身を預け、顔をさらに強く押しつけてきた。
「……ん……、あんたの顔、ちょっと冷たくて……きもちいい……」
「……風通し悪いからな、ヘルメットは」
「……でも、こうしてると、なんか落ち着く……」
鼻先が猪原の頬をすべる。
ぬるい呼気と、体温を帯びた湿り気が皮膚に残る。
言葉ではなく、動きのなかに、求めるものの全部があった。
猪原は答えず、もう一度だけ撫でる。
今度は少しだけ力を入れ、耳の根元まで手を滑らせる。
皮膚の下の筋肉がかすかに反応し、熊森が短く息を漏らした。
「……お前、ほんとに、熊かってくらい……甘ったれだな」
「うん……おれ、熊っすから……」
会話にはならない。だが、そこに必要なのは会話ではない。
言葉よりも先に手が動く。動きが、気配が、全部を伝える。
足元で、安全靴がまた軽く触れ合う。
ぎ……と、革の低い音が畳に馴染む。
その音すらも、もう騒がしさではなく、静けさの一部だった。
世界の外では夜が終わりかけていたが、
この六畳間の真ん中には――まだ、ふたりだけの夜があった。
ごし、ごし――
重たい指先が、毛並みを撫でる音がしていた。
だがその動きが、不意に止まった。
力が抜けたわけではない。
撫でていた掌は、熊森湊真の頭にそのまま添えられていた。
ただ、動きだけが、静かに失われていた。
猪原の気配が、ふっと遠くを見るように変わった。
熊森は、それにすぐ気づいた。
鼻先をわずかに動かし、布と毛のあいだを浅い呼吸が抜けていく。
頬は猪原の頬にまだ触れていた。
けれど、さっきまで確かにあった“動き”がなくなるだけで、
体の奥が、すうっと冷えるような感覚に包まれた。
「……」
息を吸い込む音もない。
ただ、気配だけが変わる。
匂いも、温度も、そこにあるはずなのに――“なにか”が遠くなった気がした。
「……あんた、今……なに、考えてた」
熊森の声は低く、湿っていた。
問いかけではあるが、誰に向けたものでもなく、
まるで独り言のような響きだった。
猪原は何も言わない。
否定もしない。肯定もしない。
ただ、そのまま手を置いたまま、沈黙していた。
「……もしかして、めんどくさくなった、とか……?」
ようやく絞り出すように出た言葉には、
冗談にできない、笑えない気配が滲んでいた。
「……おれが……こうしてんの、重い、って……思ってる?」
頬はまだ触れている。
体温も匂いも、互いの作業着と肌に残ったまま。
けれど、熊森の鼻がかすかに動いたとき、
その奥に、“終わり”の気配をかぎとっていた。
沈黙が、部屋の空気を少しだけ重くする。
……そして。
猪原が、ようやく――ほんのわずかに、手を動かした。
止まっていた手が、耳の根元をそっとなぞり、
首元の毛並みを逆立てないよう、慎重に戻ってくる。
「……バカが。……寝てただけだ」
低く、ぶっきらぼうな声。
だがその言葉のあと、撫でる手が、またゆっくりと動きはじめる。
ごし、ごし。
さっきと同じ手の重さ。
同じぬくもり。
熊森の呼吸が、わずかに早くなった。
「……寝てたなら……よかったけど」
「……お前がうるせぇからだ。……暑ぃし、重てぇし」
「……ん、でも……ここにいさせて」
それは願いではなかった。
確認だった。“ここにいる”ことを、たしかめるための。
猪原は答えなかった。
かわりに、撫でる手を止めなかった。
その手の動きが――そのまま、答えだった。
熊森は、何も言わなかった。
ただ、また頬をすり寄せ、ゆっくりと深く息を吸った。
音がなくても、言葉がなくても、
“今ここにいる”ということだけが、はっきりと伝わっていた。
撫でる音が、続いていた。
ごし、ごし。
短く密な毛並みの上を、無骨な指先が何度もなぞる。
重たい掌が、獣の頭の丸みに沿って慎重に動くたびに、わずかに布が擦れる音も混じった。
熊森は、その下でじっとしていた。
猪原の胸に顔を埋めたまま、呼吸を浅く整えるようにして。
しばらく、ふたりのあいだに言葉はなかった。
熊森は、何かを探していた。
音を閉ざし、体の奥で言葉を撫でるように。
「……あのさ」
ぽつりと、小さな声が落ちた。
「おれ、たまに……、なんか、すっげぇ変な気分になるんすよ」
「……変な?」
低く返された声に、熊森はゆっくりと頷いた。
「うん。……あんたとこうしてると……、めちゃくちゃ安心すんのに、……なんか、逆に怖くなる」
撫でる手の動きが、ほんのわずかに慎重になる。
それでも止まることなく、指は毛並みをゆっくりとたどっていた。
「……このまま、ずっとここにいていいのかなって……。……いや、違うな。……あんたが、ほんとは“いらねぇ”って思ってんじゃねぇかって、……ふとしたときに、考えちゃって」
声が、少し震えた。
涙ではなかった。ただ、鼻先が汗と呼吸で湿ったシャツの布地にぐずぐずとこすりつく。
こもった呼気が、胸元に小さな熱を残した。
「わかってんすよ、勝手に思って、勝手に怖くなってるだけだって。……でも、止まんねぇんす。とくに……こうして、触れてる時ほど、……怖くなる」
「……」
猪原は、まだ言葉を返さなかった。
ただ、手が静かに動いた。
撫でていた掌が、耳の後ろをなぞってから首元へ滑り、
熊森の頭をそっと支えるように、腕を添える。
撫でるのではない。受け止めるような、重さを引き取るような抱き方だった。
その仕草に、熊森の声が、かすかににじんだ。
「……バカだな、おれ……。でも、……言っときたかった」
猪原は、それでも表情を変えずに、ひとことだけ、低く返した。
「……ああ」
慰めでも否定でもない。
ただ、その言葉を、まっすぐ受け取った証として。
熊森は、ぐいっと身体をしがみつかせた。
胸に顔を押しつけ、両腕を巻きつけるようにして。
足元では、安全靴がまたこすれ合った。
ぎ……ぎ、と床に革の低い音が響く。
ごし……、ぎ、ぎゅ。
その音が、ふたりがここにいることを確かに示していた。
それは、言葉よりも強く、長く残る音だった。
そして、撫でる手は止まらなかった。
そこにある不安を拭い去るように。
それでもいいと言うように。
夜はまだ、静かだった。
しばらく、ふたりはそのままでいた。
撫でる手。
鼻先をこする、獣毛と布の感触。
作業着に染みた洗剤と汗、そこに重なる獣の体臭。
夜の空気は深まり、時間は静かに、けれど確かに流れていた。
猪原が、ふとぽつりと呟く。
「……なぁ、こうしてても……なんでか、行為したいとは思わねぇんだよな」
声に照れはなかった。
弁解でもなければ否定でもない。
ただ、ごく静かな実感だけがそこにあった。
熊森は、少しだけ上体を起こす。
目を開いて、猪原を見た。
そしてまた、何も言わずに胸へと頬を戻す。
「……おれもっす。ずっと思ってた。……安心してんのに、……そういう気分には、なんねぇ」
くぐもった笑い混じりの声だった。だが、それ以上に正直な響きだった。
「……証拠に、ずっと平常時っすよ、おれら」
「……ああ。冷静に考えりゃ、作業着で抱き合ってんのに……妙だよな」
「でも、ぜんっぜん……イヤじゃない。むしろ、……これが一番いい」
その言葉に、ふたりの間に小さな笑いが生まれた。
声にはしない。
喉の奥で、鼻先で、ぬくもりをくすぐるように漏れた笑いだった。
ふっ、とか、はは、とか、そういうものでもない。
むしろ“言葉にならない安堵”が、そこにあった。
「……変なとこ、気が合うな」
「うん……変なとこで、ちゃんと合ってる。……よかった」
そのとき、どちらからともなく、ふっと力が入った。
猪原が、片腕で熊森の背中をぐっと引き寄せる。
熊森も、胸元に鼻を埋めたまま、両腕で猪原の腰を抱いた。
作業服の布がきしみ、金属のベルトが控えめに鳴る。
足元では、履いたままの安全靴が触れ合い、ぎぃ、と低く軋んだ。
けれど、どの音も煩わしくなかった。
それどころか、すべてが“これでいい”と告げているようだった。
シャツの湿り気、手袋を脱いだ手のぬくもり、獣同士の匂いが重なり、
ふたりだけの静けさを守っていた。
言葉はなかった。
でも、触れている腕。
くっついた体温。
獣の毛と毛の間にこもる空気。
その全部が――ちゃんと、伝えていた。
ふたりは、ただ静かに抱き合っていた。
名もない、でも確かな温度を、胸に残したまま。
外の空が、いつの間にか群青から灰色へと変わっていた。
窓際のカーテンを透かして差し込む光は、まだ頼りなく、六畳間の隅々に長く細い影を落としていた。
空気は冷えているはずなのに、どこか温く、部屋の中だけが夜の続きを引きずっているようだった。
掛け時計の針が音もなく進む。
時間は動いていた。夜は、もう夜ではなくなっていた。
けれど室内には、寝息ひとつない静けさがあった。
猪原は、熊森を抱いたまま、目を閉じていた。
眠っていたのか、ただまどろんでいたのか――自分でもはっきりしない。
だが、胸にある熊の体温だけは、確かに“今”としてそこにあった。
熊森の呼吸が、かすかに浅くなる。
その音が耳に触れた瞬間、猪原は目を開けた。
視線を落とせば、顔がある。
少し毛並みの乱れた熊の顔。鼻先にはうっすらと、昨夜の汗の匂いが残っていた。
鼻をこすりつけた跡が、猪原のシャツにまだ微かに湿って染みていた。
しばらく無言で見つめていると、熊森のまぶたがわずかに動いた。
そして、息と一緒に、声が漏れる。
「……朝……っすか」
「ああ」
返事は短く、でも確かなものだった。
熊森は顔を動かさずに、鼻先だけを胸にすり寄せる。
汗と洗剤の残り香のあいだに、昨夜のぬくもりがかすかに漂っている。
「……やっべ、ちょっと……もっかい寝てぇな」
「バカが。……五時半回収だぞ」
「知ってるけど……、……もうちょっとだけ」
そのまま熊森は、腕に力を込めた。
ごつい腕で、もう一度だけ、猪原の身体をぎゅっと抱きしめる。
床の上で安全靴がぎ、と擦れる。
革が軋み、ベルトの金属がかすかに揺れ、鳴った。
すべてが、今日という日が始まることを告げていた。
猪原はひとつ、長い息を吐くように溜息を落とす。
そして、ごつい手のひらで熊森の頭をぽんと一度だけ叩くように撫でた。
「……行くぞ。……そろそろ動け」
「ん……、わかった。……けど、あんた、また撫でるの雑になってきてるっすよ」
「うるせぇ。いつも通りだ」
ふたりのやりとりに笑い声はなかった。
けれど、その言葉の温度だけが、“続き”を肯定していた。
やがて熊森は渋々身を起こし、猪原もゆっくりと立ち上がる。
シャツの裾を引き直し、ベルトを締め直す音。
ヘルメットの顎紐を確認する指先。
靴の革が床に押し返される音。
それらすべてが、夜の終わりを確かに告げていた。
名残惜しさも、未練も、口にはしない。
けれどふたりは、何も言わずに今日という日を肩に背負っていく。
変わらない作業着。
洗いたての半長靴。
少しだけくたびれたヘルメット。
そのすべてを、また身にまとって――
ふたりは無言のまま、玄関をくぐった。
そして外は、すっかり“朝”だった。
[newpage]
現場に入った瞬間、朝の湿気に混じって――
土と油、そして金属粉の匂いが、作業着の上からまとわりついてきた。
空はまだ白く、陽の差し込みは浅い。
積まれた資材の影が長く地面に伸びている。
トラックが一台、バックでゆっくりと入ってくる。
タイヤの軋み、ブレーキの鳴き、鉄の響き。
職長の声が朝空に跳ね、工具を運ぶ音が早足で現場を埋めていく。
猪原篤志と、熊森湊真は、そんな喧噪のなかを――
並ぶでもなく、自然と少し距離を取って歩いていた。
ふたりは言葉を交わさない。
それが特別でもなく、ただ“いつも通り”だった。
厚く硬い安全靴が、土を踏みしめる。
乾ききっていない地面が、靴底の重みにゆっくりと反応する。
その音だけが、ふたりの“今”を伴っていた。
――その背中に、一つの視線があった。
「……あのふたり、やけに気ぃ合ってんな」
若い作業員がぽつりと漏らす。
現場に入って日も浅いその男は、ヘルメットをかすかに直しながら、何とはなくふたりを目で追っていた。
「ま、あんだけ組んでりゃな。猪原さん、見た目アレでも情には厚ぃよ」
「いや、それは聞いてんだけどさ……ほら、なんかさ……距離感? 近いっつーか……妙に馴染んでるっつーか」
そう言って、熊森の背をじっと見る。
ぴったりと締められた安全帯。
洗ってあっても取りきれない、作業着の皺のクセ。
道具を担ぐときに、時折ちらと猪原のほうを見る、無表情な横顔。
「……いや、気のせいか」
男は苦笑し、ヘルメットのつばを指で押さえた。
視線は自然に流れ、話題も切り替わる。
誰もそれ以上は深く踏み込まない。
ただ、ふとした違和感が、ひとしきり空気に混じって、やがて消えていった。
当のふたりは――
猪原は、熊森の方など一度も見ず、無言で手袋を嵌め直していた。
ごつい指先がしっかりと締まり、背はもう資材の方へ向いている。
熊森もまた、無言のまま道具箱を肩に担ぎ、視線を落として地面を見つめながら歩いていた。
互いに視線も言葉も交わさず、ただ、淡々と“朝”を進んでいた。
――だが、そのとき。
ほんの一瞬、熊森の安全靴が、猪原の靴に触れた。
ぎ……と、小さく革が軋む。
ふたりは、何も言わなかった。
声も、表情もなかった。
けれどその一音が、“今朝の続きをまだ終わらせていない”ことを――確かに伝えていた。
誰にもわからない。
けれど、ふたりには、それで十分だった。
夕方。
作業を終えた現場には、もう風の音しか残っていなかった。
資材は片付けられ、トラックのエンジン音も遠ざかっている。
プレハブの照明はまだ灯っていたが、陽が完全に落ちきる直前の空気には、何かが静かに沈み込んでいた。
猪原と、熊森は、並んで床に座っていた。
言葉は交わしていない。けれど、それはいつものことだった。
ふたりの作業着は、今日の泥と埃にまみれていた。
安全靴の編み上げ部分には乾いた土がこびりついていて、紐の隙間からもその色がのぞいている。
着替えもしないまま、ふたりは床に腰を下ろしていた。
熊森が、ほんのわずかに身体を寄せる。
けれど今日は、すぐには顔を押し当ててこなかった。
いつもなら、とっくにシャツに鼻を埋めているはずの時間。
その小さな違いに、猪原が気づかないはずもなかった。
「……どうした。今日は、くっついてこねぇのか」
低く投げた言葉。
その声には、どこか薄く笑いが混じっていた。
熊森は、視線を下げたまま、両膝の上に手を置いている。
「……ちょっと、考えてた」
「何を」
「……おれらのこと。……なんか、ずっと……名前つけねぇまま来てたなって」
猪原の目が、少しだけ細くなる。
「名前、か」
「うん。……恋人、とかでもないし。家族、って感じでもないし。……でも、こうしてるのが、当たり前になってる」
熊森の目線が、ほんの少しだけ猪原の方を向いた。
顔は上げず、ただぽつりと呟くように続ける。
「だから……ちゃんと、あんたと、今の距離……測り直してみても、いいかなって」
猪原は何も言わなかった。
ただそのまま、静かに立ち上がった。
熊森の正面へまわり、土のついたままの膝で床に沈む。
作業着の膝裏が引っかかり、布地が軋む音が小さく鳴る。
手袋はまだ外されていない。
そのまま、ごつい手を熊森の肩に置いた。
「……じゃあ、今決めろ」
熊森の目が大きく見開かれたまま、しばらく動かなかった。
「……決めていいの?」
「ああ」
その短い声に、熊森は一度目を閉じる。
そして、ほんのわずかに口角を動かし、小さく笑った。
「……“居場所”、ってのは……どうすか」
猪原は目をそらした。
そして、短くうなずいた。
「……それでいいなら、俺はいい」
そう言って、肩を引き寄せた。
シャツがこすれ合い、安全靴の先がぶつかり、ぎ……と短く音を立てた。
ふたりは、また抱き合った。
けれど今度は、それが“名のある”関係になっていた。
これまで曖昧だった距離に――
ようやく灯った輪郭。
そしてその名は、「居場所」だった。
夜。作業を終えたあとの、猪原の部屋。
プレハブとは違う、ほんのわずかに生活の染みついた空間。
畳の上には、薄く乾いた獣の体臭、洗剤、油、そして今日の汗が滲んでいた。
ふたりは、作業着のまま横になっていた。
安全靴も脱がず、その重さのまま畳に足を投げ出していた。
熊森は、いつものように猪原の胸元に顔を押し当てていた。
鼻先がシャツの布をこすり、時折、くすぐるように動いていた。
けれど今夜は、しばらく黙っていた。
やがて、くぐもった声がふと漏れる。
「……なんでおれ、こんなに、あんたに甘えたがるんすかね」
「……知らねぇよ。……自分で考えろ」
返ってきた声はぶっきらぼうだったが、
それと同時に、猪原の手は熊森の頭に置かれていた。
ごつい指先が、ゆっくりと毛並みをなぞっていた。
「……最近、ちょっと……思い出したんす」
「……ん」
「小さいころの……おれの親父。……ほとんど覚えてないんすけど」
その瞬間、撫でていた手がわずかに止まる。
だが熊森は、それでも言葉を続けた。
「……顔も声も、ほんと曖昧で。でも……匂いだけは、残ってるんすよ」
シャツの布に、もう一度、鼻先を押し当てる。
くすぐるような、確かめるような動き。
「……この感じ。汗とか、土とか、作業着の洗剤の匂いとか……。なんか……似てるんす」
言葉がとぎれがちになりながら、それでも口を動かす。
「……たぶん、うちの親父も、似たような仕事してたんだと思う。物心ついたときにはもう、家にいなかったけど……。小さいころ、膝にのせてもらった記憶があって。……そのとき、胸に顔くっつけたら、すごい安心したの、覚えてて」
猪原は黙っていた。
ただ、手袋を外し、素手の掌で熊森の頭をもう一度撫でた。
ごし、ごし――
毛並みを逆立てないように、静かな音が畳の上に落ちた。
「……それから、ずっと……人の匂いで、安心するかどうか、勝手に身体が判断するようになったんす」
熊森が、顔を少しだけ上げる。
「……それで。あんたは、……すげぇ安心する。……多分、最初から。……ずっと、そうだったんす」
猪原は、短く鼻で息を鳴らした。
「……なんだそれ。……そんな理由で、俺にべったりか」
「……うん。でも、それだけじゃないっすよ。……あんたがちゃんと、ここにいてくれるから」
その一言に、猪原の視線がゆっくりと下がった。
目は合わない。けれど、視線が触れた。
そして、ぽつりと短く。
「……そうか」
ただ、それだけだった。
でも熊森には、それで十分だった。
また顔を戻し、シャツに鼻を押し当てる。
そして深く、深く、息を吸った。
その匂いは、過去の記憶とは違った。
――“今ここにある”ぬくもりだった。
風呂から上がった猪原が、タオルを首にかけたまま居間に戻ると、部屋の空気が妙に静かだった。
湯気を引きずる体に、畳のにおいがしんと沁み込んでくる。
湿った足拭きマットの気配と、洗っていない作業着の生々しい残り香。
その真ん中に、熊森の黒い背中がうずくまっていた。
「……何してんだ、お前」
低く問いかけると、熊森がゆっくり振り返った。
その鼻先は、猪原のヘルメットの内側にぴたりと押しつけられていた。
額が当たるあたりに深く埋めたまま、くぐもった声で答える。
「……ん。ちょっと……落ち着くっす」
その顔は半分隠れ、表情は読めない。
すぐそばには脱ぎっぱなしの安全靴も転がっていて、熊森はその片方を手に取り、履き口に鼻先を近づけていた。
「……くさ。でも……あんたの匂い、強く残ってる」
猪原は鼻で息を鳴らすと、タオルで頭を拭きながらぼそりとこぼす。
「……寝るなら、本物にしとけ」
その言葉に、熊森の手が止まった。
しばしの間のあと、静かにヘルメットを置き、ゆっくりと立ち上がる。
湯上がりで毛並みはやや湿り、作業着も靴も何も身につけていない。
猪原も同じだった。洗ったばかりの素の身体のまま。
熊森は何も言わず、畳の中央――布団の敷かれた場所へと近づいていく。
その途中、ふと目を落とした先にあったのは――
猪原が今日着ていた作業着だった。
洗濯前のまま、汗と油と泥がしっかりと染みついたシャツ。
熊森はそれを、両腕でそっと抱きしめた。
そして、胸元に鼻を埋め、ゆっくりと息を吸う。
「……今日のにおい……ちゃんと残ってる」
「バカが……。そんなもん嗅いで寝るな」
「でも……これがあると、寝れそうな気がするんすよね」
熊森の声には照れも冗談もなかった。
それは、ただの“当たり前”のような仕草だった。
猪原は黙って床に腰を下ろす。
安全靴の紐がかすかに擦れ、畳が静かにきしんだ。
熊森は、作業着を胸に抱えたまま、布団の上へ身を横たえる。
「……ヘルメットの中も、あれはあれでクセになるっすね」
「……あとで洗っとけ」
「やだ。……もうちょい取っとく」
「……バカが」
短いやりとり。
どこかいつも通りで、けれど今夜は――
シャツも靴も、ヘルメットも脱いだ状態。
洗剤の混ざらない素の匂いと、剥き出しの体温が、そのまま伝わってくる。
猪原は、ごつい手で熊森の頭を撫でた。
今はもう手袋もない、素手のままで。
熊森は、作業着の匂いを吸い込みながら目を閉じた。
そして、ひとつ、深く息を吐いた。
その呼吸は、布越しに染みた“今日”と――
今、そばにある“本物”を、しっかりと確かめていた。
[newpage]
プレハブの小屋は、夜の冷気で少しだけひんやりしていた。
だが、空気は重たかった。
乾きかけの汗、土、鉄粉、油、そしてふたりの体温。
それらが混ざり合った“現場の匂い”が、密閉された狭い室内にしっかりとこもっていた。
その中央で、猪の獣人・猪原篤志と、熊の獣人・熊森湊真は、作業着のまま横になっていた。
ヘルメットも手袋も外していない。
編み上げの安全靴を履いたまま、床に重く沈めている。
革がわずかに軋み、空気の中に音を滲ませていた。
ふたりとも無言だった。
ただ自然に、身体を寄せ合い、呼吸を揃えていた――が。
「……ん、ふ……」
熊森が鼻を鳴らし、そっと猪原の胸から顔を上げた。
そのままヘルメットの縁に鼻先をぴたりと押し当てる。
「……くさい」
低い声で呟きながら、鼻先を滑らせるようにして、後頭部、耳の後ろ――首元へ。
作業着に染みついた濡れた布地の匂いに、くすぐるように鼻を押しつける。
「……でも、いい」
くぐもった声と共に、熊森はゆっくりと動いた。
半身を這わせながら、ヘルメット越しにこもった汗、作業着の襟、肩、胸、腕――順に、丁寧に辿っていく。
「おい、……犬かお前は」
猪原はぼそりと呟いたが、動かない。
苦笑すらせず、ただその動作を受け止めていた。
「だって、今日……いつもより強いんす。あんたのにおい」
熊森は背中に手をまわし、作業着の継ぎ目に鼻先を押し当てる。
フン、と息を吸い込む音が、薄暗いプレハブの中ににじんだ。
腰、太腿、膝――
そして、最後に、安全靴へ。
革が乾ききらず、昼の土を吸い込んだ匂い。
履き口の金具の隙間にこもった皮脂と埃。
熊森はそこに、宝物のように鼻を押し当てる。
「……ここ、落ち着く……」
「そこ、くすぐってぇんだ。やめろ」
「……やだ。……全部嗅いどきたい。今日は」
安全靴の甲に顔をのせるようにして、深く息を吐いた。
けれど――その呼吸の中に、わずかな震えが混じっていた。
(……あんたが、いなくなる時が……来たら)
唐突に浮かんだその想像が、胸をひゅっと縮ませた。
怖い。たまらなく、怖い。
いくら匂いを吸い込んでも、手触りを確かめても、
その“未来”だけは、頭から追い払えなかった。
「……っ、あんた……」
熊森の声が揺れる。
猪原が少しだけ目を開けた。
「……ん?」
「……あんたが、いつか……死んだら……って……考えたら……」
言葉が途切れる。
代わりに、湿った呼吸と、詰まった音が喉から漏れた。
「……やだ……やだやだ……そんなの……」
涙が、ヘルメットの縁を伝い、作業着の襟を濡らす。
「……絶対、忘れたくない匂いなのに……もし……二度と、嗅げなくなったらって……」
熊森は嗅ぎすぎて鼻が詰まりそうなほど、顔をシャツに押しつけていた。
安全靴が軋み、床にぎぃ、と鳴った。
「……お前」
猪原は低く呼びかけ、手袋ごしの手で熊森の背をしっかりと抱いた。
作業着越しでも、震えがはっきり伝わってくる。
「泣くな。……死んでねぇぞ、今」
「……でも、いつか……来るじゃん……」
「それまで、ちゃんと居てやる。だから、今は泣くな」
その声に、熊森はなおさら泣いた。
「……あんたのにおい、全部覚えとく……絶対、忘れねぇ……」
猪原は黙って、撫でた。
ヘルメット越しに、何度も、手のひらで頭を包み込むように。
“今”ここにいることを――静かに、強く、刻むように。
やがて、熊森の呼吸が少しずつ落ち着いていく。
濡れた襟元と、ごつごつした手のぬくもりだけが、夜の空気に残された。
そして、猪原がぽつりと呟く。
「……死んでも、臭ぇって言われそうだな、俺」
熊森が鼻をすする音のあと、小さく笑った。
「……あんたは……ずっと臭ぇっすよ。絶対に」
笑いながら泣いていた。
そして、もう一度、深く顔をうずめた。
その匂いを――生きている今を――決して、忘れないように。
朝。
プレハブの壁の隙間から、白く濁った光が差し込んでいた。
室内の埃が、逆光で細かく浮かび上がる。
金属棚の影が長く伸び、工具箱の隙間からはトラックのアイドリング音が微かに伝わってきた。
猪原は、すでに起きていた。
安全靴の紐を締め直し、作業用手袋を片方だけはめた状態で、プレハブの出入口に立っていた。
首にはタオル。外気を一度吸ってから、口元だけ動かしている。
その後ろで、布がこすれる音がした。
熊森が、もそもそと身体を起こす。
夜のままの格好。ヘルメットも靴も、すべて着けっぱなし。
毛並みには寝ぐせが残っていて、動きは重い。
「……ん、……もう朝っすか」
「とっくに朝だ。……五時四十だぞ」
「……あちゃ」
熊森はそう呟いて身体を起こすが、立ち上がらずに膝を抱える。
しばらくじっとして、ちらと猪原の背を見た。
そして、小さな声でぽつりと呟く。
「……あの、昨日……おれ、なんか……変なこと言ってた気がする……」
猪原は振り返らない。
外を見るふりをしながら、首のタオルをくしゃっと握り、ぼそりと返す。
「……覚えてねぇな。なんか言ってたか?」
その一言に、熊森の肩が一瞬、びくっと揺れた。
「……え、マジで? いや……だいぶ泣いてた気が……」
「……夢でも見てたんじゃねぇのか」
「……」
熊森は黙ったまま、鼻をすんと鳴らす。
数秒の沈黙。
そして猪原が、ようやく振り向く。
逆光の中で顔は陰って見えない。
だが、目元がわずかに緩んでいたのが、雰囲気だけで伝わってきた。
「……泣くくらい、別にいいだろ。誰にも見られてねぇんだし」
熊森は、俯いたままぽつりと返す。
「……あんただけには、見られてんすよ」
「俺は、泣いてたのなんて見てねぇ。……ただ、鼻水ついたシャツの始末はしてやったけどな」
「……最悪っす……」
熊森は、膝のあいだに顔を押しつけるようにうずめた。
見えなくても、耳の先が赤くなっているのが分かる。
猪原は、その横を無言で通りながら、ぽん――と手袋ごしの手で熊森の頭を軽く叩いた。
「ほら、支度しろ。……今日の分、始まんぞ」
「……うっす」
その返事には、照れと甘えが入り混じっていた。
けれど熊森の背中はまっすぐだった。
昨夜の涙も、今朝の空気も、全部そのまま引き連れて――
今日もまた、いつも通りの一日が始まろうとしていた。
それが、ふたりにとっていちばん確かな“続き”だった。
夜の部屋には、湯上がりの空気と洗剤の匂いが、まだうっすらと残っていた。
換気扇の低い駆動音が、天井近くにじんわりと響いている。
窓は少し開け放たれ、外の湿った夜風がカーテンを静かに揺らしていた。
猪原と、熊森は、すでに作業着に着替え直し、畳の上に並んで横になっていた。
作業後と変わらぬ姿のまま、靴も手袋もそのまま身につけて。
猪原は仰向けのまま目を閉じ、熊森は横向きに体を寄せていた。
鼻先が、シャツの胸元にぴたりとくっついている。
そのまま、何度も、深く呼吸を繰り返す。
「……ん」
熊森が、息を吐いた。
シャツの布を、指先でぎゅっと握る。
「……なんだ。今日はまたやけにしつこいな」
猪原の声は低い。
だが、そこに責める響きはない。
「……別に。……なんか、昨日のぶん……帳消しにしたいっていうか……」
「……あぁ?」
「泣いたのとか……変なこと言ったのとか……あんたの匂いで上書きできたら……って……」
言いながら、熊森は自分で小さく笑った。
「……バカだなって、思ってるっすよね。今」
猪原は何も言わず、シャツの襟元を片手で軽く引き上げた。
熊森の顔が、ちょうどその内側にすっぽりと収まる。
「……別に、思ってねぇよ」
その声は相変わらずぶっきらぼう。
けれど、布を持ち上げた手の動きには、余計な力がなかった。
熊森は目を閉じ、鼻を布にこすりつけた。
汗が落ち着いたシャツ地、洗剤の香りと、獣の皮膚に染みついた“生活のにおい”。
それが確かに「猪原の今」だと、呼吸のなかで受け取る。
「……ん……落ち着く……」
「……いつも言ってんだろ、それ」
「うん。でも、今日は……特に……」
熊森の腕が、ゆっくりと猪原の腰へまわる。
ふたりの作業着がこすれ、ざっ、という布の音が静かな部屋に小さく広がった。
安全靴のつま先がぶつかり合い、革がぎぃ……と軋む。
「……明日は……あんま泣かなくて済むようにしたいっす」
「……ん」
「だから、もうちょっとだけ……こうさせて」
返事はなかった。
代わりに、猪原のごつい手が背にまわり、シャツ越しに熊森の背中を押さえる。
撫でるでも、掴むでもなく。
ただ、ここに“いる”と、無言で教えるように。
ぴたりとしがみつく熊森の身体に、手袋の掌が熱を伝えていく。
獣のにおいと洗剤、布と革の音。
昨日の涙は、言葉ではなく、その夜のぬくもりによって――
静かに、ゆっくりと、塗り替えられていった。
電気を落とした室内に、月の光がぼんやりと射し込んでいた。
カーテンは薄く、外の冷たい風がその端をそっと揺らしていた。
それでも部屋の中には、昼間の熱が残っていた。
汗ばむほどではないが、空気がどこか、重く濃い。
ふたりは並んで、畳の上に横になっていた。
どちらも作業着のまま。
ヘルメットを被り、安全靴を履いたまま。
体から離れているのは、工具も資材もない。ただその夜のすべてをまとった姿で。
寄り添うというよりも、匂いを確かめるように、自然と身体を近づけていた。
だが――今夜は、いつもとは違っていた。
猪原が、わずかに身体を傾けた。
その視線が、隣にいる熊森に静かに向けられる。
口は動かさず、ただその距離を、ほんの少し詰めていく。
ヘルメットの縁がぶつかる直前――
猪原は、そのまま、熊森の唇にキスをした。
「……ん、……あ……」
熊森の喉から、短い音が漏れる。
驚いたように鼻が動き、わずかに目を開ける。
けれど逃げようとはしなかった。
そのキスは、短く終わらなかった。
猪原は一度だけではなく、また、唇を重ねた。
深く、ゆっくりと。少しだけ、荒い呼吸が混じっていた。
「……あんた、……今日は、どうしたんすか……?」
熊森が囁いた声には、熱がこもっていた。
けれど猪原は、何も答えない。
代わりに、またキスを返す。
作業着の布同士が擦れ、胸元でごそりと音を立てる。
安全靴の重さがぶつかり合い、床に軋んだ音が低く響く。
熊森の背に、猪原のごつい腕がまわる。
撫でるというよりも、確かめるように。
感触を逃さぬように、じっと留まるような触れ方だった。
「……あんた、もしかして……」
熊森は、言いかけた言葉を途中で止めた。
口づけの中に、言葉がこもっていたからだ。
“今だけは俺に甘えさせろ”――そんな音にならない声が、熱の向こうから伝わってきた。
だから、熊森はもう何も言わず、目を閉じた。
ただ呼吸を合わせ、重ねられるキスを受け止める。
鼻先に感じるのは、シャツに染みた汗と油。
肩口にかかるヘルメットの内側のこもった匂い。
けれど、今夜はそれらすべてよりも、猪原の“心そのもの”がここにあることが、何より濃かった。
何度も、何度も――
唇が離れては、また触れ合う。
言葉もなく、笑いもなく。
ただ静かに、ただ深く。
布の音と、革の軋みと、浅い息遣いだけが、夜の中に残っていた。
その夜は、いつもよりも――ずっと、静かで、長かった。
夜の部屋には、まだ“キスの温度”が残っていた。
電気の消えた室内。
月明かりが、カーテン越しにゆるやかに差し込み、空気の輪郭だけを照らしていた。
熊森は、目を閉じたまま仰向けになった猪原の胸に顔を寄せていた。
口元に、さっきのキスの名残が微かに熱を残している。
一方的な触れ方じゃない。いつもの無骨な撫ででも、静かな背中合わせでもない。
ちゃんと“求めて”きた――猪原のほうから。
「……ん」
猪原がわずかに身体を傾けた。
ヘルメットの縁が、こつりと熊森の額に当たる。
「……今日は……甘えたがりじゃないっすか、あんた」
そう囁く熊森の声に、猪原はすぐには応えなかった。
代わりに、深く息を吐いた。
その呼気が熊森の頬に触れ、汗に湿った毛並みがふわりと揺れる。
「……たまには、こういう日もあっていいだろ」
「……うん。……すげぇ、いいと思う」
熊森は、そっと腕をまわした。
守られるばかりじゃなく、今夜は、自分からも包み返すように。
背中へまわした手には、力をこめすぎず、でも確かに“離れたくない”という意思があった。
すると、猪原の手も動いた。
ごつい作業用手袋越しに、熊森の腰にそっと添えられる。
ふたりの腕が、どちらからともなく“支え合う”形になる。
一方が寄りかかるだけではない。
どちらもが、どちらかを抱え、どちらもが、どちらかを頼っている。
呼吸が自然と揃っていく。
「……さっきのキス、だいぶ濃かったっすよ。……正直、ちょっとビビりました」
「……悪かったな」
「ううん。……ちがう。嬉しかった……っす」
それ以上言ったら、きっと泣いてしまう。
だから熊森は、それ以上言葉を継がなかった。
かわりに、額をそっと猪原の胸に押し当てる。
シャツ越しに残った汗と油と洗剤の混じったにおい。
そこに混じる、獣の皮膚に染みついた生活の匂い。
今日も、昨日も、それより前も――ずっとここにあった匂い。
猪原は黙ったまま、熊森の肩に顎を軽く乗せた。
重すぎない。
でも、確かに“いる”と感じさせる重さ。
作業着がこすれ、安全靴の甲がかすかに擦れる音が床に伝う。
そのわずかな音のなか、ふたりはようやくぴたりと身体の収まる位置を見つける。
言葉よりも深く、音よりも正確に。
ふたりの呼吸がぴったりと重なる。
そして――眠りに落ちる寸前。
猪原がぽつりと、誰にも聞かせないような声で言った。
「……お前がいてくれて、助かったわ」
熊森は、返事をしなかった。
代わりに、まわした腕にだけ、ぐっと力を込めた。
それだけで、十分だった。
誰かを守るためでもなく、誰かに甘えるだけでもない。
“生きていたい”と、そう思える重さを互いに感じていた。
この夜の温度は、何も変わらないように見えて――
確かに、すべてが変わりはじめていた。
[newpage]
夜。
風呂を終えたふたりは、作業着に着替え直したまま、畳の上に並んで横になっていた。
室内の空気は、洗剤の香りと微かに乾き残った湿気に包まれている。
電灯は落とされ、外からの風が薄くカーテンを揺らしていた。
熊森湊真は、無言で猪原篤志の胸元に顔を寄せていた。
鼻先を、シャツの布地に押しつける。
乾ききらない汗と、作業の残り香。
その匂いを、ゆっくり、深く吸い込む。
安心を確かめるように――ただ、それだけのように。
猪原は、熊森の頭をごつい手袋の手で静かに撫でていた。
目を閉じたまま、しばらく何も言わずに。
そして、ふと、その静寂の中に言葉を落とした。
「……昔、一緒に働いてた奴がいた」
熊森の鼻がぴくりと動く。
顔を押しつけたまま、耳だけが声を追った。
「……年下だった。無口で、誰とも喋らねぇ。……最初は挨拶すら返さなかった」
ぽつ、ぽつ――
いつもより低く、深い声が続いていく。
「俺がそいつと組んだのは、ちょうどあいつが入って半年くらいの頃だった。……現場じゃ、誰からも煙たがられててな」
「……でも、俺には、ほんの少しだけ……目を合わせるようになった」
熊森は動かなかった。
ただ鼻先だけを少し寄せた。
「……最初は気のせいかと思った。……けど、道具渡した時とか、何か指示出した時だけ……目で返すんだ。ほんの一瞬、だがな」
猪原は、言葉を選ぶようにして、長く息を吐いた。
「……事故だった。現場の整備不良で、重機ごと足場が崩れて……」
そこからの言葉は、重たく、短かった。
「……でも、思い返すと、あいつ……その何日か前から、明らかにおかしかったんだ」
「おかしい……?」
熊森が低く呟く。
猪原は目を閉じたまま、ゆっくりと言った。
「……作業中、手が止まることが何度かあった。……あいつがそんな奴じゃなかったのは、俺がいちばん知ってた。……でも、俺は何も言わなかった」
熊森は、何も言わずに黙っていた。
「言ってやりゃよかったんだ。……『おい、大丈夫か』って、一言でも……」
撫でていた手が、熊森の背で止まる。
そのまましばらく、沈黙が落ちた。
そして、熊森がぽつりと口を開く。
「……そんなん、後からじゃなきゃ分かんないっすよ」
「……わかってる。……でも、それでも、だ」
もう一度、沈黙。
だがその先に、猪原は静かに続けた。
「……たぶんな、俺が……お前の匂い嗅がせるの、許してるのも……ちょっとは、そのせいかもしれねぇ」
「……」
「俺は……今度は気づいてやりてぇんだ。……お前がしんどい時、言葉にできねぇ時……甘えてくる時に、ちゃんと」
言いながら、手がまた動いた。
首の後ろの毛並みに、手袋越しの掌がそっと当てられる。
「……今度は、逃さねぇでいたいんだよ」
熊森の目が、ほんのわずかに潤んだ。
涙ではない。
ただ、胸の奥がじんと熱を帯びるような感覚だった。
「……じゃあ、おれも……」
「……ん?」
「おれも、ちゃんと見るっすよ。……あんたがしんどい時」
猪原は何も返さなかった。
代わりに、そのごつい手で熊森の頭をぐっと引き寄せた。
シャツの胸元に、鼻先が深く埋まる。
呼吸が、静かに、ひとつに重なっていく。
過去を知っても、ぬくもりは変わらない。
それどころか――今のこの“居場所”は、より深く、より確かになっていた。
朝。
トラックの荷台から資材が下ろされたばかりの現場には、ぬかるんだ泥の匂いと、夜露で冷えた鉄のにおいがうっすらと漂っていた。
重機が遠くで動き始め、声を張る職長の声が風にまぎれて聞こえる。
忙しない朝の空気のなかで――
猪原と、熊森は、荷下ろし後の資材整理を任されていた。
どちらも、現場用の作業着と安全帯、ヘルメットをきちんと着けたまま。
泥跳ねの乾いた跡が残る半長靴を履いた足元は、湿った土を鈍く踏んでいた。
ふたりの間に、会話はなかった。
ただ、黙々と荷を運び、金属が擦れる音と、安全靴が軋む音だけが響いていた。
ふと、熊森が荷の合間に横目を向ける。
「……なあ、あんた」
「ん」
猪原は、肩に鉄杭の束を担いだまま、短く返す。
「……あんたの若いころって、どんなんだったんすか」
その言葉に、わずかに動きが止まった。
猪原の背が、ごくかすかに揺れる。
だがすぐに持ち直し、黙って荷を地面に降ろす。
ガン。
鉄が土を打つ音が響いたあと、ふたりの間に静かな間が落ちる。
熊森はしゃがんだ姿勢のまま、ちらりと猪原を見る。
だが猪原は視線を向けず、作業リストを確認するように鉄材の束へ目を落とした。
そして、ぽつりと答えた。
「……昔は、もっと鈍かった」
「鈍かった、って……?」
「誰が疲れてんのかとか……何も見えてなかった。見ようともしなかった」
その声に、反省や後悔は滲んでいなかった。
ただ、淡々と、事実だけを取り出すような口調だった。
熊森はそれ以上は深く訊かなかった。
かわりに、ごく短く「そうなんすか」とだけ返す。
猪原は、資材に手をかけたまま、ゆっくりと続ける。
「……気づいた時には、もう居なかった奴もいる」
それは昨日の夜、語られた過去の“続きを肯定する”ような言葉だった。
熊森は、小さく息を飲みかけたが、それも呑み込んだ。
そのまま、鉄の束を整えていた猪原が、ヘルメットのつばを指で整えながらふと熊森の方を見た。
「……だから、お前が今ここにいて……甘えてくんのは、ありがてぇんだ」
その一言に、熊森は胸の奥が少しだけ揺れた。
「……悪ぃな。今さら変に語って」
言葉の終わりに、ごくわずかな照れが混じっていた。
だが、その響きは熊森の心に、静かに染み込んでいた。
“ありがとう”――
その言葉が、あの無骨な背中から出たこと。
熊森は、ゆっくりと立ち上がる。
作業手袋をつけたまま、金属の工具を拾い上げ、一歩だけ近づいた。
「……おれ、今のあんたしか知らないっすよ」
「そうかよ」
「でも、今のあんたは……ちゃんと“見て”くれてる」
その一言に、猪原は少しだけ顎を引いた。
視線を逸らしたまま、鉄杭の束をもう一度肩に担ぎ直す。
その背中へ、熊森がぽそりと、もうひとつ言葉を添えた。
「……だから、甘えてんす」
猪原は、それには応えなかった。
だが次の瞬間――
歩き出した安全靴の音が、熊森の靴の音と、自然と揃っていった。
**ぎ……ぎぃ……**と、革のこすれる音が二重に響く。
朝の騒がしい現場にあっても、ふたりの呼吸は不思議と静かだった。
まるで――昨夜の続きを、まだ黙って確かめ合っているかのように。
夜。
室内はすでに照明が落とされ、月明かりだけが窓から差し込んでいた。
壁と天井に、淡い影が静かに揺れている。
猪原の部屋には、布団と作業着、乾きかけの油と洗剤の匂いがゆるやかに満ちていた。
脱いだ半長靴が、壁際にきちんと揃えて置かれている。
畳の上、ふたりは並んで横になっていた。
どちらも、風呂上がりに着替えたばかりの作業着のまま。
熊森は、横向きになって猪原の胸元に顔を寄せていた。
目を閉じてはいたが、完全には眠っていない。
まどろみの中で、胸の動きや体温、匂いの重なりを静かに感じている――そんな状態だった。
そのとき。
「……祐介……」
掠れたような声が、猪原の喉奥から、ふっと漏れた。
熊森の耳が、ぴくりと動いた。
寝言にしては、生々しかった。
それはどこか苦しげで、懐かしさと、痛みのにじんだ響きだった。
「……祐介……?」
熊森は、目を開けたまま、その名をもう一度だけ繰り返した。
聞き覚えのない名前。
けれど――昨夜の猪原の言葉が、ふいに頭をよぎる。
『……気づいた時には、もう居なかった奴もいる』
その意味が、今ようやく、胸の奥に染み込んできた。
猪原は、それきり言葉を発さず、静かに寝息を立てていた。
眉間に、かすかに皺が寄っている。
口元は無言のままで、顔には月明かりの淡い陰影だけが差している。
熊森は、ゆっくりと手を動かした。
作業用手袋をはめたままの手で、猪原のシャツの胸元をそっとつまむ。
そのまま鼻先を押しつけ、染み込んだ体臭と洗剤の残り香を、浅く吸い込んだ。
「……あんた……夢ん中でも……会ってんすね、その人と」
誰にでもなく、空気の中に向けて呟くように。
返事はない。
ただ、寝息は変わらず、僅かに胸を上下させている。
熊森は、そっと体を寄せた。
額にかすかに当たるのは、猪原のヘルメットの縁。
腰には、ごつい手袋ごしの手を添えたまま――
「……大丈夫っすよ、俺は。ちゃんと、ここにいるから」
それは、祐介という名をなぞった誰かの代わりではない。
今、ここにいる自分の“意思”だった。
過去を抱えていてもいい。
痛みを背負ったままでいい。
“今”を支えることだけは、自分にできる――そう思った。
猪原の寝息が、わずかに落ち着いた音に変わっていた。
眉間の皺も、少しだけゆるんでいた。
熊森は、その変化を、声に出さずに受け止める。
そしてその夜、最後まで目を閉じなかった。
ただ、静かに“ここにいる”という温度だけで、
夢の中にいる誰かではなく、今を生きる猪原に寄り添い続けた。
夜。
猪原の部屋は、風呂上がりの湯気と洗剤、油の匂いが混じり合い、湿った静けさに包まれていた。
灯りは落とされ、窓の隙間から入る街灯の光が、畳の目をかすかに照らしていた。
壁際には、ふたり分のヘルメットと、揃えて脱がれた編み上げの安全靴がきちんと並べられている。
ふたりは、作業着のまま畳に寝転んでいた。
布団は敷いていない。
濃いめの洗剤に油と汗の匂いが溶け込んだ、馴染んだ作業服。
いつものようでいて――
その夜は、ほんのわずかに空気の質が違っていた。
猪原が仰向けになると、熊森が静かに、その上に身体を重ねてくる。
ごつい作業着同士が擦れ合い、ぎし……と布が低く鳴った。
「……重てぇぞ」
「……我慢してください」
声は低く、熱を孕んでいた。
すぐそばの口元から出たその声に、猪原は返しそびれた。
熊森は、無言のまま胸元に顔を押しつけた。
ぐいと鼻先を押し込み、短く、荒い呼吸でシャツの奥へと匂いを吸い込んでいく。
猪原が、かすかに眉を動かす。
「……今日、なんか妙に……」
言いかけたその瞬間。
熊森が顔を上げた。
目を逸らさず、ぴたりと顔を近づけ、そのまま――
唇を、重ねた。
一度。
短く、ためらいなく。
そしてもう一度。
今度は深く、しがみつくように。
猪原は抵抗しなかった。
ただ、目を細めたまま、その呼吸を受け入れた。
「……昨日、寝言で……“祐介”って呼んでましたよね」
ぽつりと漏れた熊森の声は、淡々としていたが、どこか沈んでいた。
「……おれ、別に文句はないっすけど……」
そう言いながら、熊森は作業着の襟をめくり、そこへ鼻を押し当てた。
呼吸の音が、布越しに熱くこもる。
「でも……なんか、今日ずっと、胸のとこ苦しいんすよ。……ずっと、俺じゃない誰かに抱きついてるみたいで……」
猪原は、黙っていた。
熊森は続ける。
声よりも、動きで伝えるように。
「……だから……今日は、おれって、ちゃんと分からせたいっす」
そのまま、手袋をはめた手で猪原の肩をゆっくり撫で、
額、頬、唇へと――何度もキスを重ねていく。
シャツに顔をうずめるたび、深く息を吸う。
首筋、肩口、胸板。汗と体温と一日分の“あんた”の匂いを、逃さず記憶に刻み込むように。
「……あんたの匂い、全部、俺に染みついてくれたらいいのに……」
「……熊森」
猪原が、名を呼んだ。
ごつい手袋のまま背にまわされた手が、熊森の身体を受け止める。
それは、ちゃんと“今の熊森”に返された動きだった。
「……悪かったな。……でも、お前の顔も名前も……ずっと、ちゃんと覚えてる」
熊森は、返事をしなかった。
ただもう一度、猪原の胸元に鼻を押し当て、重ねるように、キスを落とした。
“祐介”という名が、今も猪原の中にあること。
それでも“今、ここにいる”のが自分であること。
言葉じゃない。
匂いと体温と動きで――その事実を、上書きするように。
その夜、熊森はずっと猪原に張りついていた。
安全靴のない素足が、畳に沈む音もないほどの静寂のなか。
“いま”を、ただひたすら、染みつけるように奪い返していた。
翌日の夜――
猪原の部屋。
風呂を終えたばかりの空気には、湯気と洗剤と獣の体温がまだじんわり残っていた。
灯りはすでに落とされ、窓の外の街灯が、薄く畳の目を照らしている。
ふたりのヘルメットは壁際に整えられ、編み上げの安全靴も揃えて置かれていた。
猪原と、熊森は、作業着のまま並んで畳に寝転んでいた。
シャツの生地は洗いたてで、洗剤の香りがまだ濃く残っている。
だが、その奥にある日中の汗や土、油の“記憶”――それを、熊森は探していた。
彼の顔は、いつものように猪原の胸にぴたりと密着している。
だが、その動きはいつもと違っていた。
鼻先が、執拗にシャツをくすぐる。
吸い込み、少し動かし、また深く息を吸う。
「……なあ、お前……」
猪原の低い声が落ちたのは、熊森がシャツの襟元を指でつまみ、顔をさらに潜り込ませたときだった。
「……おい、くすぐってぇって」
「……もうちょいだけ……」
「もうちょい、じゃねぇだろ。……さっきからずっと――」
返事はない。
熊森は胸から肩、脇の方へと頭をずらしながら、鼻先で匂いを拾い続ける。
布がこすれる音。
くぐもった鼻息。
“今日”の猪原を、肌の下にいるみたいに確かめる執着。
「……おい、熊森」
さすがに声が低くなる。
だが、熊森はぴたりと顔をつけたまま、息を浅く吐いた。
「……ごめん……、止まんない」
「……なんだ。……なんかあったか?」
「……ない。けど……なんか……今日、あんたの匂い、薄く感じて……」
「それ、洗いたてだからだろ」
「……やだ。ちゃんと、染みてるとこ……探してんす」
声の調子は低いが、どこか焦燥を帯びていた。
洗いたてのシャツから抜け落ちていく“あんた”を、逃すまいとするような呼吸。
その言葉に、猪原は無言で手袋を外した。
素手で熊森の頭に触れる。
押すのでも、受け入れるのでもない――ただ、包み込むような圧だけを与える。
熊森は動きを止めず、顔を離さぬまま、浅く何度も匂いを吸った。
「……あんたの匂い、……全部、忘れないうちに……」
ぽつりとしたつぶやき。
その奥にあるのは、不安と、執着と、渇望の混在。
猪原は、短く鼻を鳴らした。
「……バカが。忘れねぇように、毎日嗅げばいいだろ」
「……うん。嗅ぐ……毎日、嗅がせて」
「……好きにしろ。……くすぐってぇのだけ、ほどほどにな」
そのまま、熊森は顔をさらに押しつけてきた。
シャツ越しに、腹のあたりをゆっくりくすぐるように鼻先がなぞる。
猪原は何も言わず、ただ背に手を置いてその執着を受け止めた。
言葉よりも濃く、体温よりも深く、匂いがふたりをつないでいた。
その夜、熊森は最後までしがみつくように離れなかった。
そして猪原も、何ひとつ遮ることなく、そのまま黙って抱いていた。
静かな室内には、ふたりの呼吸と、布の擦れる音だけが残っていた。
別の夜。
猪原の部屋。
蛍光灯は落とされ、カーテンの隙間から差す外灯の光が、畳の目を静かに照らしている。
風はない。ただ、室内にあるものすべてが静かに息をしていた。
畳の上には、作業着姿のふたりが寝転んでいる。
ヘルメットは脱がず、猪原はそのまま背を預けていた。
編み上げの安全靴は脱いであるが、ふたりの足先は、靴下のままぴたりと触れ合っていた。
「……まだ嗅ぎ足りねぇのか」
ぶっきらぼうな声。
けれど、それを拒むような温度はなかった。
熊森は、返事もせず、そっと頭を近づけた。
鼻先が、ヘルメットの後ろ、襟足のすき間へと深く差し込まれる。
「……っ、おい」
猪原の首が一瞬逃げかけるが、熊森の両腕がその動きを封じるように回る。
「……ちょ、待って……」
くぐもった声。
そのまま、熊森は深く、長く呼吸を繰り返した。
ヘルメットの内側にこもった汗、毛、作業後の体臭――
猪原の**首筋に染みた“生きた痕跡”**を、嗅覚でひとつずつ確かめるように。
「……ああ……これ。これっす……これが、ないと……」
短く、しかし切実な声。
鼻先が首筋をなぞり、呼吸が衣擦れとともに音を立てる。
猪原は、ため息の代わりに小さく鼻を鳴らした。
そして、手袋ごしの掌で熊森の背を一度だけ軽く叩いた。
「……落ち着いたか」
返事はなかった。
熊森は、ゆっくりと鼻先を引き、そして――
そのまま、猪原の唇に口づけた。
最初は浅く。
しかし、それはすぐに深く長くなり、重なったまま離れなかった。
鼻先が触れる。
息が混ざる。
汗の香りが口の奥にまで染みてくるような、獣の接触。
猪原は驚いたように目を開いたが、やがて目を閉じ、ごつい手で熊森の肩を包むように抱えた。
キスの中には、不安、欲、執着、そして“いま”への証明が込められていた。
しばらくして唇が離れると、熊森はやや乱れた呼吸で言った。
「……匂い、きっちり残ってましたよ。……全部、俺の中に染みました」
「……そうかよ。……じゃあ、今夜はもう安心か」
「……ん。たぶん……。でも……」
ふたたび、額を胸元に押しつける。
作業着のシャツ越しに残る、汗と土と油の残滓――それを最後まで確かめるように。
「……また明日も嗅がせて」
「……はいはい」
短く鼻を鳴らした猪原は、無言のまま背中を撫でた。
布がこすれ、安全靴の革が床の近くで微かに鳴る。
それは言葉に頼らないふたりだけの“会話”。
その夜もまた、匂いと呼吸でしか伝えられない愛着が、確かにふたりをつないでいた。
別の夜。
蛍光灯は最小の明るさで灯り、閉め切られた窓と微かな換気扇の音が、室内の静けさを際立たせていた。
空気には、洗濯済みの布地と、乾きかけた汗と油の匂いがじんわりと溶け込んでいる。
畳の上には、作業着と編み上げの安全靴を身につけたままのふたりが並んで寝転がっていた。
熊森は、いつもと変わらず猪原の胸元に顔を寄せていた。
シャツ越しに鼻を押しつけ、浅く長く呼吸を繰り返す。
だが、その“いつもの姿勢”は、少しずつ変わっていく。
――嗅いでも、満たされない。
熊森は、指先をそっと持ち上げた。
ごつい作業着のボタンを、一つだけ静かに外す。
「……おい」
低く響いた猪原の声。
だが、それ以上の拒絶はなかった。
熊森は返事をせず、開いた襟元から指を滑り込ませる。
胸板に埋まる毛並み。そこに染み込んだ体温。
掌に感じる、確かな“存在”。
その瞬間――
安全靴の膝同士がぶつかり、革の重い軋み音が畳ににじんだ。
熊森は、ゆっくりと指先で猪原の毛並みをなぞる。
汗も土もこびりついたその下に、確かに“あんた”がいる。
「……もう匂いじゃ、だめっす。……触れないと、ぜんぶ逃げてっちゃう」
くぐもった声。
吐息の熱が、シャツの隙間から猪原の肌にかかる。
熊森はそのまま、開いた襟の内側に唇を落とした。
汗の香り、毛の密度、皮膚の塩味――
舌は使わず、あくまでキスの形で、“ここにいる”を刻み込む。
「……っ、……くすぐってぇな」
猪原が、わずかに息を漏らす。
だが、肩の力は抜けたままだった。
何ひとつ止める気配はない。
熊森はそのまま、胸、首筋、のど元、鎖骨――ゆっくりと場所を変えていく。
ごつい作業着の布がこすれ、金具が小さく鳴る。
「……お前、今日はえらく必死だな」
「……うん。……なんか、こわくなったんす」
「何がだ」
「……この手から、全部抜け落ちていきそうで……。今こうしてても、夢みたいで……」
猪原は、ゆっくりと手袋を外した。
素手で、熊森の腰を引き寄せる。
無骨な掌が、ごつごつした作業ズボン越しにしっかりと体温を伝える。
「……離れてねぇよ。ここにいるだろ」
その言葉に、熊森の身体がぴたりと張りついた。
「……ん……、もう、ちょっとだけ……」
「……いいぞ」
それ以上、言葉は続かなかった。
熊森は再び、開いたシャツの奥に顔を押し当てた。
ごし、ごしと鼻をこすりつけ、肌に染みた“今日の匂い”をひとつずつ刻んでいく。
キスの音はしない。
ただ、呼吸と布のこすれる音、安全靴の革が触れ合う鈍い振動だけが、ふたりを包んでいた。
その夜――
匂いだけでは不安が消えない夜、
熊森は“触れることでしか刻めない”温度を、丁寧に記憶していった。
名もかたちも持たない絆に、何度も触れ、静かに名前をつけるように。
[newpage]
窓は閉じられ、外の気配は一切感じられない。
畳の上に横たわるふたりの獣人の間に、風も音も届かない静寂だけがあった。
猪原は短くがっしりした体躯を作業着のまま横たえ、足元には脱いだばかりの安全靴が置かれていた。
彼のシャツの襟元には、日中の汗と泥の残り香が淡く漂っている。
その隣にいた熊森は、濃茶の毛並みの中に、昼の埃と獣の温度を微かにまといながら、静かに身を起こした。
熊森は何も言わず、猪原の胸元へと手を伸ばす。
手袋越しの指先が、作業服の金属ボタンに触れるたび、小さくカチリと音がした。
ひとつ、またひとつ。
湿った布地がわずかに緩み、洗いたてのシャツの隙間から、地肌に近い熱がゆるやかに立ちのぼってくる。
熊森は無言のまま、鼻先をそっとシャツの内側に押しつけた。
「……ぬれてるっすね、今日」
声は低く、いつもよりもさらに抑えられていた。
猪原は目を閉じたまま何も返さない。
だがそのまま身じろぎひとつせず、黙って許すような気配が、全身からにじみ出ている。
シャツの奥、湿った布越しに――
熊森は深く息を吸い込んだ。
土、汗、油、獣の皮膚、そして長年使われた洗剤の匂い。
それは“猪原篤志”という存在が確かに今ここにあるという、五感の記憶だった。
「……染みてる……ちゃんと……」
鼻先を動かしながら、熊森は指先でシャツの布を握りしめる。
その圧に呼応するように、感情が指に溶け込んでいく。
尻尾がゆっくりと畳の上をなぞり、安心と渇望の入り混じった余韻をそこに残す。
「……こうしてると、……安心するっす。……“今”が逃げないって、思える」
その言葉に、猪原がようやく短く息を吐いた。
「……そんなもんでいいなら、……いくらでも濡らしてやるよ」
「……バカ。……でも、ありがと」
熊森は小さく笑ったように言いながら、再び顔をシャツの奥にうずめた。
シャツと肌の隙間に、鼻先と想いを埋めながら、静かに呼吸を重ねる。
何度も、深く。
まるでその匂いを一滴残らず、自分の内に刻み込もうとするように。
猪原は、それをただ黙って受け止めていた。
目を閉じたまま、その背に尻尾を横たえ、何も語らずに、そこにいる。
その夜――
ふたりの間には、言葉より重たい沈黙と、ぬくもりの匂いだけが残されていた。
部屋の蛍光灯はすでに落とされていた。
薄いカーテンの向こう、街灯の明かりが斜めに差し込み、畳の目にぼんやりと長い影を描いている。
茶褐色の体毛を持つ猪の獣人――猪原篤志は、がっしりとした身体を作業着に包んだまま畳に横になっていた。
足元には、自分の私物である安全靴がきちんと揃えて置かれたまま。
寝息は静かに、しかし確かにその胸元を上下させていた。
隣には、大柄な熊の獣人――熊森湊真がいた。
同じく作業着のまま、安全靴も脱いでいない。
背中を畳に預けたまま、目だけを開いている。
何かを探るように、静かに、ただ呼吸を整えながら。
鼻先が、ごく自然に――隣の猪原の胸元へと近づいていた。
猪原の寝息は深く、鈍い。
まるで一日中動いていた重機がようやく止まったあとに、まだエンジンの熱だけを残しているような、重たい静けさ。
(……寝たな)
熊森は音を立てぬように、ごくゆっくりと顔を近づけた。
シャツの襟元に鼻先を差し込み、わずかに息を吸う。
濡れかけた布の中には、洗剤の香りと、乾ききらない汗と、油と土の気配――
それらすべてに混じって、確かに“あんた”がいた。
「……ん、ふ……」
ごく浅い吐息が、自然とこぼれた。
声ではなかった。ただ、“居る”という確認が、鼻先から、喉、そして胸の奥まで静かに満たしていく。
「……今、ちゃんと……ここにいるのに……」
熊森の呟きは、自分にしか聞こえないほど小さなものだった。
獣の毛並みが、かすかに震えていた。
手袋をしたままの手で、シャツの襟をそっとつまむ。
ぬれた布地が指の腹にまとわりつく感触。
それさえも、記憶の中に焼きつけておきたかった。
「……忘れたくないっす……」
その一言に、返事はない。
猪原はそのまま眠り続けていた。
目を閉じ、無防備に、ただ呼吸の音だけを響かせて。
熊森は、そっとシャツの中に顔をうずめた。
わずかにずれたボタンの隙間から、布の奥に残った“今日のにおい”を、何度も深く吸い込む。
このぬくもりが明日もあるとは限らない。
だからこそ、今、少しでも多く――五感で、嗅覚で、指先で、胸の奥で、刻みつけておきたかった。
そして、静かに目を閉じる。
眠るのではない。
この一瞬をまるごと胸に抱いて、夜の中に沈むように――ただ、黙って寄り添った。
部屋にはもう、換気扇の音すら聞こえなかった。
ふたりの重なった呼吸だけが、微かに畳の上で響いていた。
朝――猪原の部屋。
窓のカーテン越しに、淡い外光が畳の目を照らしていた。
まだ色の薄い空気の中、町の遠くでカラスの声が聞こえる。
作業前の街が少しずつ“今日”に目を覚まし始めている音だった。
畳の上には、猪原が横たわっていた。
作業着を着たまま、足元には私物の安全靴が脱がれて並べてある。
目を開けた猪原の視線は、まずいつもの天井をとらえ――そのまま、胸の重みへと意識が向いた。
そこにいたのは、熊森だった。
作業着は昨日の夜に着替えたまま、重たい上半身をぴたりと猪原に預けていた。
鼻先をシャツの襟元にうずめていて、湿った布地には微かに獣の呼吸が残した跡があった。
(……また、くっついて寝やがったな)
猪原は声にせず、胸の奥でそう呟いた。
けれど、咎めるような気配はどこにもない。
代わりに、ごつい手袋の手で熊森の背に手を回し、軽く添える。
その瞬間、熊森の丸い耳がぴくりと揺れた。
「……あ、起きてた……っすか」
声は低く掠れていた。
眠気と、ほんの少しの照れを混ぜた、静かな語尾。
猪原は、目を閉じたままぼそりと返す。
「……シャツ、冷てぇな。……お前、また……」
「……すんません。ちょっとだけ、嗅いでたら……そのまま……」
「……いいよ。乾くし」
その言い方は相変わらずぶっきらぼうだったが、はっきりとした“許し”の温度があった。
熊森の肩がわずかに緩む。言いかけた言葉を引っ込めたように、深くは言わない。
だが、猪原は自分のほうからもう一言だけ加えた。
「……そこにいるのは、……悪くねぇ」
熊森の目が、ほんの少しだけ潤む。
「……昨日……しつこかった気がしてて……」
「しつけぇくらい嗅いでたな。……でもな、ちゃんと“今、ここにいる”っての、……伝わってきた」
その一言は、猪原にしては珍しく――正面から熊森の感情に返す言葉だった。
熊森は、静かに顔を上げる。
黒に近い濃茶の体毛が、光を吸ってくすんで見える。
鼻先はまだ少し湿っていた。
目が合った瞬間、猪原は軽く鼻を鳴らして言う。
「……次からは、シャツじゃなくてタオルにしとけ。濡れると風邪ひくぞ」
「……無理っす。それ、あんたじゃない」
「……バカが」
そう呟きながらも、猪原はその頭をくしゃりと撫でた。
毛並みの奥にある骨格をなぞるように、ゆっくりと、手袋越しの重さで。
カーテンがふわりと揺れ、朝の風が部屋の空気をほんの少しだけ動かす。
作業着は昨日と同じ。匂いも、温度も、重さも変わっていない。
だがその中に、たしかな安心があった。
言葉にしなくても届いてくる――“お前でよかった”という、無骨な肯定の気配。
それだけで、ふたりにとって“今日を始める理由”には、十分だった。
[newpage]
休日の昼――猪原の部屋。
外では、どこかの家の庭から草刈り機の音が聞こえていた。
低くうなる機械音が、のどかな住宅地に遠く響く。
窓は少しだけ開いている。
だが風は入らず、部屋の中には洗い立ての作業服と洗剤の匂いだけが満ちていた。
畳の目をなぞるように、やわらかな日差しが差し込む。
時間の流れが、あまりに静かで――
まるで“午後”という言葉そのものが部屋に沈んでいるようだった。
その畳の上、ふたりの獣人が寝転がっていた。
猪原篤志は、がっしりした体格の上から、乾いたばかりの作業着を着込み、足には編み上げの半長靴。
ヘルメットも外していない。手袋もつけたまま。
現場からそのまま帰ってきたかのような“フル装備”だった。
その胸に、ぴたりとくっつくように体を寄せていたのは、熊森湊真。
黒に近い濃茶の体毛が日差しにやわらかく照らされ、肩から背中にかけて、まるく力を抜いていた。
こちらも作業着、安全靴、手袋すべてそのまま。
どちらも動かず、喋らず、ただ寄り添っていた。
そんなふたりの間に、風の音もテレビの音もない。ただ、ごく微かな呼吸だけがあった。
「……なあ」
猪原がぽつりと呟いた。
「……お前、こういう時間、退屈じゃねぇのか」
熊森は目を閉じたまま、答えた。
「……なんで」
「なんでって……せっかくの休みだぞ。どっか行くでもなく、服も脱がねぇで……」
少し間を置いて、猪原はぼそりと吐き出す。
「……時間が、もったいねぇとか……思わねぇのか」
熊森は返事をしない。
だが、シャツに鼻先をぐいと押しつけてから、低く言った。
「……もったいないどころか、これが一番、贅沢っす」
「……は?」
「仕事でもないのに、この格好して……
あんたの匂い、ずっと嗅いでいられて……
話すこともないけど、横に居られて……」
声には、いつものような無愛想さはなかった。
むしろ、熱がこもっていた。甘えるでもなく、ただ静かに確信を抱いているような音。
「……これ以上に贅沢な時間って、あるっすかね」
猪原は黙ったまま、熊森の頭に手を置いた。
手袋越しでも、その丸みと毛のざらつきは伝わってくる。
革の安全靴が、互いの足元で触れ合い、ぎぃ……と鈍く擦れる音がした。
乾いた昼の光に、ふたりの影が畳にじわりと伸びている。
「……変わんねぇな、お前は」
「うん。変わりたくないっすもん」
「……そうかよ」
それ以上、何も言わなかった。
何も始めない。
何も終わらせない。
ただ、“ここにいる”という確かな重みだけを、お互いが確認し合っていた。
昼下がりの光が、ゆっくりと部屋の奥に移ろっていく。
でも、ふたりの間だけは――何ひとつ急がなかった。
作業着も、安全靴も、日々の匂いも全部そのまま。
ぬくもりも、重さも、呼吸もそのまま。
“何もしない”ことを、ちゃんと抱きしめていた。
シャツの内側に溜まった湿気。
汗と洗剤の匂い。
踏み合うように触れている安全靴の重みと、床にこもった昼の熱。
その全部が、静かに、けれど確かに、“生きていること”を伝えていた。
「……じゃあ、あんたは」
ぽつりと、熊森が口を開く。
「……こういう時間、もったいないって思うっすか」
すぐに答えは返ってこなかった。
猪原は目を閉じたまま、わずかに息を吐く。
肩がひとつ、上下する。
熊森は続ける。声の調子は低く、素直すぎるほど素直だった。
「……何もしてないのに。どこにも行ってないのに……おれと、こうしてるだけって……損してる感じ、します?」
猪原の手が、ごつい手袋ごしに動いた。
背中を包むようにまわされた腕が、わずかに力をこめる。
「……別に。そんなふうに思わねぇよ」
「……そっか」
「ただ、こんなふうに……丸一日、動かねぇで潰すのは……初めてかもしれねぇな」
「……それ、おれのせいっすか?」
「……そうとも言ってねぇ」
ぽん、と背中を軽く叩かれる。
ぶっきらぼうなその手つきが、妙にあたたかかった。
「……ただ、お前といると、変なことに慣れてくるなってだけだ」
熊森が、くすっと鼻で笑う。
「変じゃなくて……“居心地いい”って、言うんすよ。それ」
「……うるせぇ」
「ふふ……」
言葉が止まり、ふたりのあいだに静けさが戻る。
それでも熊森は動かない。むしろ、もう一度シャツに鼻先をうずめて、深く息を吸った。
「……じゃあ、もうちょっと……この、もったいなくない時間……続けていいすか」
猪原は答えず、腕を緩めることもしなかった。
代わりに、息をひとつだけ、深く吐いた。
それが返事だった。
安全靴が床をすこしだけきしませる。
互いの熱と匂いが、そのまま重なっていく。
音のない昼。
動きのない時間。
それでも確かに、なにかが深く続いていると、ふたりはわかっていた。
そのまま、しばらく動きはなかった。
猪原は目を閉じたまま、背にまわした腕を緩めることもなく。
熊森は、ぴたりと胸に顔をつけたまま、呼吸を潜めていた。
足元では、安全靴のつま先同士がかすかに触れ合っていた。
編み上げた革が、ほんのわずかに軋む音を立てる。
湿った畳の上で、それが唯一の“動き”だった。
外からは、風に揺れた電線が低く唸る音。
それだけが、世界の外側を知らせていた。
「……あのさ……」
熊森が、布越しに声を落とした。
低く、熱を帯びて、吸い込むような声音だった。
「……もうちょっとだけ、じっとしててください」
「……今だって動いてねぇだろ」
「……外じゃなくて。……中まで、です」
「……は?」
問い返しながらも、猪原は目を開けない。
熊森は、そっとシャツの上から耳を当てた。
白く乾きかけた布の内側――
まだわずかに湿りを残したシャツが、皮膚の熱を抱いていた。
そこに顔を押し当てると、冷たさよりも、わずかなぬくもりが先に触れた。
最初は、何も聞こえない。
でも、数秒もしないうちに――
「……とん……とん……」
奥から、ゆっくりと、重たい音が浮かび上がってきた。
機械のような規則でもなく、
音楽のような旋律でもない。
けれど確かに、“生きている身体の底”から鳴っている音だった。
「……あ……」
漏れた声は、ほんの小さな吐息だった。
「……ちゃんと、動いてる……」
それは理屈ではわかっていたこと。
でも、こうして直接聴いてみないと信じられないくらい――
熊森にとって、その証は大事だった。
目に見える呼吸でも、
鼻で嗅ぐ匂いでもなく、
肌に触れる熱でもない。
“奥の音”。
「……俺だけが、聞いてる……今の……あんた」
小さな独白。
確認するような、祈るような言い方だった。
猪原は黙ったまま。
だが、熊森の頭を包むように添えていた手に、そっと力がこもる。
「……そんなに、聴きてぇもんか」
「……うん。……だって、これが一番……嘘つかない音だから」
答えはまっすぐで、幼さもなければ、遠慮もなかった。
熊森はそのまま、目を閉じる。
心音に耳を澄ませ、そこに呼吸を合わせる。
布地の奥で鳴る“生”が、耳から胸へ、そして指先へと広がっていく。
怖さも、不安も、全部その鼓動に吸い込まれていくようだった。
何も言わなくていい。
何も起こらなくていい。
ただ、ここにあるものが――確かであれば。
その夜の熊森は、ただ静かに、その音に包まれていた。
時間が、止まっていた。
熊森は、猪原の胸に顔を預けたまま、静かに眠っていた。
耳は、湿り気を帯びた白シャツの奥――
その向こうで、猪原の心臓が「とくん」「とくん」と、変わらぬ律動を刻んでいた。
猪原の手は、その頭の上にそっと置かれていた。
ごつい手袋ではない。
裸の手のひらで、体温のまま。
撫でもせず、押さえもせず。
ただ、そこにあるものを、そこにあるまま。
無言の受け止め。否定も肯定もない、静かな“了承”。
窓の外では、午後の光がゆっくりと傾いていく。
開きかけたカーテンの隙間から、色のつかない光が畳を斜めに撫でていた。
音はなかった。
聞こえるのは、熊森の寝息。
そして、猪原自身の鼓動――
(……ちゃんと、伝わってんのか)
そんなふうに、ふと思った。
ぴたりと張りついてくる熊森の身体は、まったく動かなかった。
けれど、寝息のリズムが、心音と同じ間隔に近づいていくのがはっきりと分かる。
まるで眠っているあいだに、無意識に“合わせている”みたいに。
(……バカが)
短く鼻を鳴らし、猪原は眉間をわずかに寄せた。
だが、手はそのまま。
むしろ、ごくわずかに、指に力を込めた。
――時間が、少しだけ進んだ。
窓の明かりが赤みを帯びはじめた頃、熊森が身じろいだ。
小さく吐いた息が、湿ったシャツを少しだけ揺らす。
「……ん……」
寝起きの声は低く、喉の奥からこぼれた。
そして、顔を少しだけ起こし、ぼんやりと目を開ける。
「……あ……ごめん……おれ……」
謝ろうとするその言葉を、猪原はさえぎらない。
けれど、何も言わない。
ただ黙って、その顔を見ていた。
「……あんた……ずっと、そのまま……?」
「……まあな」
たったそれだけ。
でも、熊森はゆっくりと目を伏せて、小さく笑った。
そして――今度は、自分から胸元に手を添え、もう一度だけ、顔を戻した。
眠るためじゃない。
匂いを嗅ぐためでも、確認するためでもない。
ただ、“今、ここに戻ってきた”ということを伝えるように。
静かに、丁寧に、当たり前みたいに。
猪原は、その頭を抱えるように腕をまわし直した。
押さえつけるわけでもなく、どこにも行かせないという意思でもなく――
ただ、ここにあるものをここに在らせるように。
鼻先がシャツの布に触れた。
その向こうで、ふたつの寝息が混ざっていく。
ふたつの鼓動が、いつのまにか、揃っていた。
遠くでカラスが鳴いた。
夕方の風が、カーテンをゆるく揺らした。
言葉はなかった。
でもふたりの再起動は、はっきりと始まっていた。
布と体温と、鼓動の重なりの中で。
[newpage]
夕方の光が、部屋の中に薄く染みはじめていた。
カーテンは少しだけ開けられ、茜色の影が畳の目に斜めに差し込んでいる。
熱はすでに引き始めているが、湿気はまだ残っていた。
猪原は、作業着のまま部屋の隅に座っていた。
壁に背を預け、足を伸ばした姿勢のまま、無言で窓の外を見ている。
重たい安全靴の先が、ごつりと何かに触れた。
「……っと」
見下ろすと、熊森が目の前にしゃがみ込んでいた。
編み上げた靴、作業用の手袋、ヘルメットまで――現場そのままの装備をつけたまま。
そのままくるりと向きを変え、猪原に背中を向けて座る。
「……ちょっと、失礼」
「……は?」
言う間もなく、熊森の背中がぐいと押しつけられる。
膝の間に無理やり身体を差し込んできたかたちだ。
作業服同士が擦れ、厚手の布がざらりと音を立てる。
「おい、狭ぇだろ……」
「知ってます。でも、こうしてたい気分なんで」
遠慮も躊躇もなく、熊森はずしりと体重を預けてきた。
猪原の腕の内側にすっぽり身体が収まり、まるで背後から抱きしめるような格好になっていた。
「……ヘルメット……邪魔だろ。取れ」
「うん、今取る」
手袋ごしの手が、自分のヘルメットを外す。
ゴトリ、と床に落ちる鈍い音。
次の瞬間――
「っ……おいっ」
熊森が、丸く硬い頭を思いきり猪原の喉元に擦りつけてきた。
毛の根元に残る汗と、動物としてのぬくもり。
首筋に当たったその熱が、シャツ越しにじわじわと染みてくる。
「な、なんだお前、くすぐってぇっつの……!」
「だって、ここ……あったかいんすもん」
「バカが……首締まる……!」
文句を言いつつも、猪原の口元にはうっすらと笑みが浮かんでいた。
目を細めながら、腕を自然に熊森の腰へまわす。
皮の安全靴が軽く触れ合い、かすかな革の音を立てる。
「……まったく、甘え方がどんどん雑になってきてんぞ、お前」
「うん。慣れてきましたから」
「それがいいってもんでもねぇだろ……」
「でも、あんたは止めないから」
その一言に、猪原は短く鼻を鳴らした。
「……止める気もねぇけどな」
ごしごしと頭を擦りつけていた熊森の動きが、やがて落ち着く。
身体を預けたまま、静かに呼吸だけが続いていく。
作業着と作業着が、重なる。
厚手の布と皮のこすれる音だけが、部屋の空気を満たしていた。
なにもしない時間。
ただ寄り添うだけの、確かな時間。
外の光が、朱から藍へと、静かに変わっていく。
夜、風呂を終えたばかりのふたりは、いつものように作業着に着替えていた。
シャツはまだ洗剤の香りがわずかに残っていたが、すでに汗と体温に馴染みはじめている。
安全靴も履いたまま、畳の上にきちんと足を揃えて、猪原は横になっていた。
その隣に、同じくフル装備の熊森がいた。
ふたりとも、何も言わずに身体を寄せている。
息を合わせるようにして、ただ黙って、そこにいるだけだった。
やがて、熊森が静かに身を起こした。
そして、猪原の右腕にそっと頭を乗せる。
「……ふ……」
短い息を吐いて、そのまま目を閉じた。
ごつく張った筋肉。その上に乗る、わずかな脂肪の層。
硬さの中に沈み込む感触があった。まるで、圧を吸収する地面のように落ち着く。
「……やっぱり、いいなあ……」
その言葉に、猪原は目を開けず、ぼそりと返す。
「……なにが、だよ」
「この……弾力。ごついのに、ちゃんと柔らかいっす」
「……変なこと言ってんな。寝にくくねぇのか」
「むしろ逆。……これが、一番落ち着く」
熊森は顔をずらし、今度は胸のあたりに頬を当てた。
息を吸い込むたびに、作業着越しの汗と油の匂いが、微かに肺へ沈んでいく。
「……ん。ここも、あったかい……」
さらに、動きは止まらない。
熊森は胸から腹の上へと顔を移し、そっと頬を寄せる。
布の下にある肉と筋の弾力に、ゆっくりと頬をすりつける。
「……ここ、今日いちばん好きかも」
「……おい、どこまで行くつもりだ」
「もうちょい」
軽く寝返りを打って、熊森は今度、猪原の太ももの上に頭を預けた。
膝下の安全靴が重く床に沈むなか、太ももだけが妙に柔らかくてしっかりしている。
その感触に、熊森は自然と息を吐いた。
「……すげえ……立ってる時より、寝てる時のが、触り心地いいんすね……」
「……寝心地じゃねぇんだな、そこは」
「うん。寝心地っす」
熊森はそのまま目を閉じた。
体温と匂いと、沈みこむ弾力に身をゆだねて、動かなかった。
猪原は、もう何も言わなかった。
ただ、寄りかかる重みと熱を、黙って受け入れていた。
作業着とシャツの布が擦れ合い、畳に小さな音を残していた。
夜は静かに、ゆっくりと深まっていった。
猪原は仰向け。
熊森は、その胸や腹、太ももに顔をうずめるようにして、上から静かに身を預けていた。
作業着ごしに伝わる体温。
そこには日中の汗と洗剤の残り香がわずかに混ざり合い、どこか安心させる匂いがこもっていた。
熊森は目を閉じたまま、そのぬくもりに黙って甘えていた。
けれど――ふと、静かに体をずらす。
そして、今度は自分の腕を猪原の背へまわし、そっと“包み込むように”抱きしめた。
「……ん?」
気配に気づき、猪原が目を開ける。
「……どうした。甘える番、交代か」
「……ちがうっす」
熊森の声は、低く、静かだった。
けれど、芯があった。
「……あんた、いつも……俺を抱いてくれてるじゃないすか」
「……ああ」
「今日は……俺の番でも、いいすか」
言葉に重なるように、熊森の腕にゆっくりと力が入る。
その身体は、猪原よりひとまわり大きい。
厚い腕、広い肩、背中の張り。
そのすべてが、いまは柔らかく猪原を包み込んでいた。
「……お前、思ったよりごついな」
「よく言われます。……でも、こうしてると……ちゃんと“返してる”って感じがするんすよ」
「……返す?」
「……守ってもらってばっかりだから。……少しでも、“お返し”……したいっす」
猪原は、しばらく黙っていた。
大きな腕の中で、静かに目を閉じる。
やがて、ごつい手が熊森の背に添えられた。
叩きもしない、押し返しもしない、ただ、そこに在るだけの手。
「……ありがとな」
その一言は、めったに聞けない猪原の“素”だった。
熊森の腕が、もうすこしだけ、強く締まる。
だが、それは決して重くなかった。
ただ、体温を逃さぬように――
“今のお前を、ちゃんとここで包んでる”という静かな意思の力だった。
安全靴のつま先が、畳の上でかすかに擦れた。
作業着の布地が重なり、軋む気配が夜の静けさに溶けていく。
呼吸がまた、ぴたりと揃う。
音も言葉もない、ただふたりの温度だけが確かにそこにあった。
部屋の中は、すっかり夜に沈んでいた。
灯りは落ち、窓の外から遠くを走る車の音が、時おりかすかに届くくらい。
ほかには何もなかった。
畳の上、猪原は仰向けになっていた。
その上から、熊森ががっしりとした身体を預けてくるようにして、腕をまわしていた。
抱きしめる、というより、“逃がさない”と言うような力加減だった。
作業着ごしに、ぬくもりが滲んでいた。
安全靴のつま先同士がぶつかり、革が小さく軋む音がする。
ほかには、ふたりの呼吸だけがゆるやかに重なっていた。
熊森の顔は、ちょうど猪原の肩のあたり。
毛並みに触れるように密着し、目は開いているのに、夢の途中にいるような静けさだった。
猪原は、軽く息を吐く。
それから、気だるそうにぼやいた。
「……おい、寝てんのか」
「……寝てないっす」
即答だった。
だがその声は、まるで目を閉じたまま呟いたような、ぼんやりとした響きをまとっていた。
「……じゃあ、いつまで抱いてんだ。……そろそろ離れてもいいんだがな」
冗談めかして言ったが、力は抜かずにいた。
それでも熊森は返事をせず――代わりに、腕をぐっときつくまわした。
「……だめです。まだ……いい匂いしてるから」
「……は?」
「シャツの奥……ちょっと湿ってて……あったかくて……柔らかくて……」
「……お前な……」
「……それに、いま……ちゃんと“包めてる”気がしてて」
その呟きには、確かに満足の熱がにじんでいた。
安心や信頼という言葉ではなく、自分の腕で「ちゃんと掴んでいる」感触に、熊森は静かに安堵していた。
猪原は目を閉じたまま、短く鼻を鳴らした。
「……バカが」
そう言って、何もせずに身を預け続けた。
肩の力も抜けていた。
ぶっきらぼうな声と裏腹に、そのまま熊森の腕の中に収まり続けていた。
(……包まれてんな、俺がよ)
そのまま、熊森の手は離れなかった。
ごつい装備越しでも伝わる静かな執着と、止まない鼓動。
夜は、音もなく、深くなっていった。
蛍光灯の明りは落とされ、窓の隙間を抜ける風が、わずかに障子を鳴らしていた。
部屋の中には、ふたり分の呼吸と、作業服がこすれる音だけが静かに残っている。
畳の上、猪原は仰向けになっていた。
その身体に、熊森がぴたりと張りつくようにして重なっている。
背中にまわされた腕は、肩と腰をしっかりと抱え込んでいた。
顎を猪原の肩口に引っかけるようにして、首元に鼻先を押しつけている。
布越しでもわかるぬくもりと匂いが、静かに重なっていた。
安全靴の先同士も触れ合い、足元からも微かな重さが伝わっていた。
互いの体格の大きさがそのまま、密度のある静けさを生んでいた。
猪原は片目だけうっすら開けて、真上の天井をぼんやりと見つめていた。
「……なあ」
低く、ぽつりと呟く。
「……そろそろ、いいんじゃねぇか」
熊森は返事をしない。
けれど腕の力は、まるで返答そのもののように緩まなかった。
「……どこまで抱いてるつもりだ。……風呂のときですら、もうちょい距離あったぞ」
「……だって、いま……一番いいんすもん」
布に埋もれたまま、くぐもった声が返ってくる。
シャツ越しにこもる湿気と熱、それが熊森の声にもしっかり染み込んでいた。
「シャツ……ちょっと汗吸ってて、柔らかくなってて……。それが、あったかくて……」
「……さっきからお前、俺のシャツの状態ばっか実況してんじゃねぇか」
「……だって、今日のがいちばん好きかも。……この匂いと……この手触りと……この弾力……」
猪原は思わず短く鼻を鳴らした。
けれど抵抗するでもなく、身体をそのままにしていた。
「……まったく、もう……包まれるってのはこういうことかよ」
「そうです。……ちゃんと、包んでます。逃がさないように」
その言葉に、猪原は深く息を吐く。
ため息とも、笑いとも、降参とも取れそうな呼気が、畳に沈んでいった。
「……お前になら……まあ、いいか」
つぶやく声は、ごく小さく。
でも熊森には、しっかり届いていた。
返事はなく、かわりにシャツの肩口に鼻先がぐり、と押し寄せられる。
湿った布と、ごつい体温と、鼻息が一緒に揺れる。
そのぬくもりに抱かれながら、猪原もまた――
少しずつ、静かに、身を預けはじめていた。
[newpage]
ふたりは相変わらず、畳の上で横になったままだった。
照明は落とされ、カーテン越しの街灯が薄く部屋を照らしている。
作業着を着たまま、安全靴を履いたまま。
互いの体重がじんわりと畳に沈み、重なった体温が空気の奥にまで染み出していた。
熊森の腕は、変わらず猪原の背にまわされたまま。
その大きな腕からは、離れる気配がまったく感じられなかった。
猪原が時折漏らしていたため息まじりのぼやきも、今は聞こえない。
その代わりに――
「……んん~~~……」
鼻にかかった声が、低く響いた。
「……は?」
猪原が視線を落とすと、胸元に熊森の頭がぐりぐりと押しつけられていた。
力強く、左右に――毛と鼻先が作業シャツの布をしつこくこすっている。
まるで、その手触りと匂いを“言葉にならない満足”としてすり込もうとしているように。
「おい、……なんだよその声は……」
「んん~~~~~~……」
さらに深く、鼻先と頬を押しつけながらすり寄ってくる。
音にならない甘え方は、獣の癖そのものだった。
「お前、甘え方がもはや動物だぞ……」
「……いいじゃないっすか。……今日はこうしたかったんす」
その返事は、布に埋もれたままで、声がくぐもっていた。
「どう、って?」
「……あったかいの、ぐいぐい感じながら……意味わかんない声出して、……くっついてるだけ」
「……言ってて恥ずかしくねぇのか」
「うん。……だって、気持ちいいもん。……それに、こういうのって……言葉にするもんじゃなくて、身体で言いたくなる日ってあるじゃないすか」
「……知らん」
そう呟きながらも、猪原はごつい手袋を外し、その素手で熊森の背中を静かになでた。
服越しでも感じる分厚さと温度に、拒む気配はどこにもなかった。
「んん~~~~……ありがと……」
「もうやめろ、その声」
「んふふ……」
笑い声が喉の奥でくぐもる。
鼻をシャツに擦りつけ、意味を言葉にしないまま、体温だけで訴えかけてくる。
作業着の布が、ゆっくりと押し返され、擦れ、また沈む。
言葉じゃうまくいかない日。
なにが欲しいか説明できない日。
でも、“今日だけはこうしたかった”という理由が許されること。
熊森は、それを知っていた。
そして猪原は、それを黙って受け止めていた。
朝、部屋の空気はまだひんやりしていて、窓の外はぼんやりと白み始めていた。
静かな町の気配が、薄い壁越しにゆっくりと染み込んでくる。
猪原は畳の上から静かに身を起こした。
作業着のまま、昨夜からずっと同じ姿勢で眠っていたせいで、肩を動かすたびに布がごそりと擦れる音が鳴った。
安全靴の紐は緩めず履いたまま。
横には、丸くなって眠っている熊森がいる。毛布も掛けず、ごつい装備のまま、子どものように小さく。
ふと、自分のシャツの前身頃に視線を落とす。
胸のあたりに、何本も深く不自然なシワが寄っていた。
布が押しつぶされたように折れ込み、ところどころ湿った跡も残っている。
(……ああ)
昨夜のことが、感触ごと蘇ってくる。
呻き声。ぐりぐりと顔を押しつけてくる鼻先。やたらと強い体温。
「……んん~~~……」
「お前、甘え方がもはや動物だぞ」
「今日は、こうしたかったんす」
思い出しただけで、鼻の奥から息が漏れた。
ため息とも笑いともつかない、けれど確実にどこかあたたかい音。
右手で胸元のシワにそっと触れる。
指先でなぞってみても戻らない。まるで、熊森の“甘え”が布に染みついたようだった。
「……ったく……」
そう呟いて、猪原はわずかに口角を上げた。
文句を言う気はあっても、怒る気は起きなかった。
そのとき、隣で熊森がもぞりと動いた。
目を細めながら、眠気を引きずるように身体を起こす。
「……ふぁ……あ……ん、朝っすか」
「……おう。……もうちょい寝ててもいいぞ」
猪原の声に、熊森はまだぼんやりとした顔で頷きかけ――
その視線が、ふと猪原の胸元に向いた。
数秒の静寂。
やがて、熊森はふっと笑った。
「……ああ、それ。昨日の“んん~~~”の痕っすね」
「……お前、やっぱ自覚してたんか」
「もちろん。……わざとですもん」
「……堂々と言うなよ……」
猪原は呆れたように眉をひとつ上げた。
だがその表情に、怒りや嫌悪はなかった。むしろ、受け入れることに慣れた者の顔だった。
熊森は、背後に手をついてゆっくりと伸びをする。
朝の光を浴びながら、気持ちよさそうに首を傾げる。
「……あれ、またやりたくなるかもっす。……たぶん今夜とか」
「……おい、今から予告すんな」
「うん。予告じゃなくて、確認っす」
「確認もいらん」
そう言いながらも、猪原は胸元のシャツをぎゅ、と指でつまんだ。
そのシワは、まだ温度を残したまま、そこにあった。
熊森はそれを見て、小さく笑う。
猪原もまた、表情を崩すことなく――
けれど目の奥では、確かに笑っていた。
それは、ふたりの間だけで共有される、ささやかで曖昧な記憶のかたち。
言葉にすれば照れくさく、でも消すにはもったいない。
そんな空気が、ゆっくりと朝の光に溶けていった。
支度もまだ始まっていない時間、窓の外は静かに白み始めていた。
畳の上には、昨夜と同じ作業着姿のふたりがいた。
猪原は、仰向けのまま軽く上体を起こしていた。
胸元の白シャツを片手でそっとつまみ、何か確かめるように指先で布をなぞっている。
その様子を、熊森が見ていた。
毛並みの乱れをそのままに、作業着を着たままうつ伏せに寝そべり、片頬だけ畳につけて。
目元はまだ眠たげだが、口元にはうっすら笑みが浮かんでいた。
その視線を感じながら、猪原がぽつりと呟いた。
「……今日はお前の番な」
「ん?」
「……俺が“んん~~~”する日だ」
一瞬、部屋の空気が止まる。
熊森は瞬きを数回繰り返したあと、眉を寄せて低く呟いた。
「……は?」
猪原は顔を逸らすようにして、短く鼻を鳴らす。
「……なんだ、昨日はあれだけ気持ちよさそうにやってたくせに、受けんのは照れるのか」
「いや……いやいや、ちょっと待って……それは、ちが……」
熊森の耳がぴくりと動く。
目を合わせぬまま手の甲で顔を覆い、じわじわと耳の根元まで色が変わっていく。
猪原はわざとらしく重たく背を畳に預けた。
作業着の生地がぎしりと鳴る。
「……俺が、“んん~~~”ってやりながらお前の胸にぐりぐりすんの、想像してみろ。……案外イケるかもだぞ」
「う、うるさいっす……!」
熊森は顔を伏せ、シャツの胸元をぎゅっとつかんだまま、それ以上は何も言えなかった。
だが――その日一日。
現場へ出てもなお、その影響は尾を引いていた。
トラックに揺られながら。
鉄杭を抱えて足元の泥を踏みしめながら。
昼休みに麦茶のペットボトルを握りながら。
熊森は、何度も自分の胸元をさりげなく撫でていた。
まるで、“ぐりぐりされる未来の自分”の準備でもしているように。
(……冗談って分かってるけど……)
(……でも、ほんとに“ぐりぐりされる日”が来たら、どうしたらいいんだ……)
(……いや、むしろ、また自分の方からやった方が早いか……?)
そんなことを考えながら、熊森は手袋越しに白シャツの裾をそっと引っ張った。
目は合わせない。
だが、無意識に視界の端では、常に猪原の胸元の布の“状態”を確認していた。
そしてその夜――
部屋に戻り、猪原がいつもの白シャツに着替えた瞬間。
その胸元を見た熊森の耳が、またじんわりと赤くなった。
だが、猪原は何も言わなかった。
そして熊森も、やっぱり何も言わなかった。
そのかわりに、ふたりの距離だけが、夜の畳の上でいつもよりほんのわずかに近かった。
休日の昼下がり。
外では草刈り機の音がかすかに聞こえ、町全体がゆるやかに時間を滑らせていた。
「たまにはふつうのこと、してみません?」
そう言い出したのは熊森だった。
猪原は特に否やもなく頷き、ふたりは連れ立って外へ出た。
目的地は、駅前の商店街だった。
肉まんを食べ、雑貨屋を覗き、ベンチに並んで座る。
装備はすべて私服だったが、ふたりの体格と空気は変わらない。
ただ――その日の街歩きには、どこかぎこちなさがつきまとっていた。
言葉が途切れるわけではない。
だが、猪原の手は時折ポケットの中で動き、熊森の肩も不自然に何度も揺れていた。
互いに目を逸らしがちで、歩幅も、すこしだけちぐはぐだった。
そして、夕方。
最寄り駅の改札を出たところで、熊森がぽつりと口を開いた。
「……なんか、やっぱ、違うっすね」
「……ああ」
「悪くはなかったけど……あれっすね、“俺たち”って感じが、どっか行っちゃう」
「……そういうもんだ」
それ以上は言わず、ふたりは住宅地を抜けて猪原の部屋へと戻った。
夜。
部屋に入るなり、ふたりは黙って作業着へ着替えた。
畳に安全靴を揃え、ヘルメットを手近な場所に置き、ごついシャツの袖を通す。
洗剤の匂いと乾ききらない汗の残り香が、次第に部屋の空気に混ざっていく。
やがて畳の上に並んで横になると、熊森がゆっくりと身体を寄せた。
そして、いつものように、猪原の胸に顔を押しつける。
「……やっぱ、これっすよ」
シャツの厚みの下に沈んだ、柔らかさと体温。
「なんで外であんなにそわそわしてたんだか……。やっぱ、こっちが落ち着く」
「……結局お前、これがやりたかっただけだろ」
「うん。でも、外に出てから気づきました」
猪原は無言のまま、手袋ごしに熊森の背をぽん、と叩いた。
革と布が擦れる音、安全靴の先がわずかに触れる音。
それらの音こそが、ふたりにとっての“日常”だった。
「……悪くはなかったが、やっぱこっちのが“俺たち”か」
「はい。たぶん、ずっとこっちでいいっす」
「……お前がそう言うなら、俺はなんも言わねぇよ」
作業着の厚みも、安全靴の重さも、手袋のざらつきも、
何も脱がずに、こうして“くっつける”ことが、ふたりにとっての“ふつう”だった。
夜の部屋には、扇風機の低い音と、交わされない言葉のあたたかさだけが、ゆっくりと満ちていった。
部屋の灯りは薄く、窓の外にはすっかり夜が落ちていた。
商店街での街歩きを終え、ふたりは何も言わず帰宅し、
ほぼ反射のように作業着に着替え、安全靴を履き、ヘルメットをかぶって畳の上に横になっていた。
そのまましっかりと抱き合う。
布と布がこすれる音。革靴の重なり。ヘルメットの縁がぶつかる、ごつごつした感触。
何も飾らない――けれど、この重さと手触りこそが、ふたりにはいちばん“らしかった”。
熊森は、胸元に鼻先を埋めたまま、小さく息を吐いた。
「……なんかもう、ここが俺たちの“デートスポット”でいい気がしてきました」
猪原はその頭に手を添えたまま、目を閉じて返す。
「……自分で言って、恥ずかしくねぇのか」
「ぜんぜん。むしろ誇らしいくらいっす。……だって、落ち着くし、ずっと嗅いでられるし……安全靴もちゃんと履けるし……」
「最後の条件がわかんねぇよ」
熊森は、くぐもった笑い声をひとつ漏らしてから、こう付け加えた。
「……じゃあ、次の休みは最初からここでデートにしましょう」
「……は?」
「最初から“ここ”で。街行ってから戻るんじゃなくて、朝から晩まで、ずっと正装でここに居る。ちゃんと準備して、部屋デート」
猪原は小さく鼻を鳴らした。
「……じゃああれだな。“部屋デート・フル装備・正装回”ってことにしとくか」
「いいですね、それ。……俺、看板とか作っときましょうか」
「やめろ。部屋の中に貼るなよ、そんなもん」
「でも、そうでもしないとテンション出ないっすよ」
「十分だろ……この装備で抱き合ってる時点で、もう正装テンションだよ」
ふたりは、笑った。
それは声にならない、かすかな笑いだったけれど――
シャツの中の胸板越しに、鼓動の振動と一緒に伝わってくる。
「……じゃあ、次は“うちで正式にデート”っすね」
「おう。ちゃんとフル装備でな」
「当然です」
そう言って熊森は、作業着の厚い胸にもう一度顔をこすりつけた。
安全靴がぎゅっと触れ合い、しっかりと重なったまま、ふたりはまた静かになった。
――ふたりなりの結論。
それは街でも喫茶店でもなく、
作業着と汗と重さの中にある“部屋デート”。
不器用で可笑しみのある、でも確かな居場所だった。
[newpage]
夜はすっかり更けていた。
灯りは落とされ、部屋の中にはぬるい静けさと、汗を吸った作業服の匂いだけが満ちていた。
畳の上、ふたりはしっかりと重なり合うように横になっていた。
作業着とヘルメット、安全靴。
“正装”を崩すことなく抱き合ったまま、動く気配もない。
熊森は、猪原の胸元に顔を埋めたまま、すでに半ば眠りかけていた。
鼻先はシャツの隙間に触れ、呼吸のたびにかすかな音が洩れている。
猪原は目を閉じず、ぼんやりと天井を見ていた。
夜の静けさは、考え事を呼ぶには十分すぎるほどだった。
しばらく、何の音もなかった。
そして――ふと、ぽつりと、呟いた。
「……こいつと、こんな時間を過ごすようになるとはな」
誰に聞かせるでもなく、ただ漏れた声。
それは驚きでも、後悔でもない。
ただ、少しだけ信じられないような、微かな笑いが混じっていた。
重さのある身体を自分に預けたままの熊森。
腕の中に収まるその存在の、静かで確かなぬくもり。
「……どっちが包まれてんだか、わかんねぇな……」
そんな言葉とともに、猪原はごつい手袋ごしに熊森の背を一度だけなぞる。
熊森は気づいたように、ぴくりと反応したが、目は開けなかった。
代わりに、ごく小さく――
「……俺も、思ってました」
と、夢うつつのように呟いた。
それを聞いて、猪原はもう何も言わなかった。
ただ鼻を鳴らし、ヘルメットの下で苦笑する。
思っていたよりもずっと、
この“おかしな時間”は、悪くない。
それだけで、今日はもう、十分だった。
まだ、ふたりが“ただの現場の先輩と後輩”だった頃のこと。
その日、現場は荒れていた。
機材の不調、予定外の工程、そして職長の不機嫌。
熊森は朝から叱られ通しで、午後には言葉もほとんど発していなかった。
それでも黙って手を動かし、泥にまみれた手袋のまま鉄筋を運び続けた。
日が暮れる頃には、顔には汗と土が乾いて張りついていた。
プレハブに戻ってきたとき、猪原はすぐに熊森の様子に気づいた。
「……おい。お前、顔色悪ぃぞ」
その一言に、熊森は首だけを動かし、小さくうなずいただけだった。
いつもより背が小さく見えた。
ふたりだけになったプレハブの中。
猪原は、缶コーヒーをふたつ差し出すと、自分は無言で座布団に腰を下ろした。
「……座れ。疲れたろ」
熊森は、しばらく躊躇したが、やがて隣に静かに腰を下ろした。
缶を開けた音がふたつ、並んで響いた。
そのまま、少しの沈黙。
猪原はふと、熊森の背中を見る。
丸まった肩。背筋の張りのなさ。耳も垂れていた。
――ああ、限界か。
思ったよりもずっと、堪えている。
けれど、何をどう言っても気を遣わせるだけだと分かっていた。
だから猪原は、唐突にこう言った。
「……お前、シャツの上からでもいいから、俺の匂いでも嗅いどくか」
熊森は、一瞬、缶を持つ手を止めた。
それから、ゆっくりと顔を上げ、無表情のまま、目を細めた。
「……え?」
「落ち着くって言うだろ、動物ってのは。……まぁ、俺は落ち着かねぇけどな」
半ば冗談、半ば本気。
熊森は黙って猪原を見ていた。
それから、ためらうようにゆっくりと、猪原のほうへ身体を傾けた。
「……いいんすか?」
「勝手にしろ。ただし、変なとこ嗅ぐなよ。背中くすぐってぇからな」
熊森は何も言わず、そっと、猪原の肩に顔を寄せた。
そして――作業着の上から、鼻先を軽く押し当てるようにして、深く、息を吸った。
「……」
匂いは、汗と土と機械油、洗剤の残り香、そして――“誰かの生きている熱”。
「……すげぇ、落ち着く……」
「おい、マジか」
「マジっす」
それ以上の会話はなかった。
けれどその夜、熊森はしばらく離れなかった。
そして猪原も、離れさせなかった。
それから――しばらくのあいだ、ふたりの関係は変わらなかった。
変わらなかったはずだった。
けれど、あの夜を境に、熊森の行動にはわずかな“癖”が定着しはじめていた。
たとえば、作業終わり。
プレハブに戻ると熊森は、猪原の隣に座るのがあたりまえのようになった。
最初の数日は、ただ座るだけだった。
だが、そのうちに――
「……ちょっとだけ、いいすか」
そう言って、猪原の肩や胸元に鼻先を寄せ、シャツの上から深く息を吸うようになった。
いつも短く一呼吸だけ。
それが済むと、まるでなにもなかったかのように缶コーヒーを開け、いつもの顔に戻る。
猪原は最初、黙って受け入れていた。
変なことを言っても逆に気まずくなる、というのが分かっていたからだ。
だが――ある日のこと。
現場での作業がひと段落し、ふたりきりで資材置き場を整理していた夕方。
プレハブに戻るなり、熊森が無言のままふらりと猪原の胸元へ顔を寄せてきた。
「……おい」
さすがに声をかける。
だが熊森は、そのまま鼻先を押し当てながら、低く答えた。
「……今日、あいつらにバカにされて、……あんまり声出せなかったんすよ」
「……ああ」
「こうしてると、……頭ん中戻るんで」
「……お前なぁ」
猪原は苦笑した。
けれど、肩を押すことはなかった。
むしろ手袋を外し、ごつい手で熊森の後頭部をそっと支えた。
そのとき、自分でも気づいてしまったのだ。
(……こいつ、たぶん、これが“落ち着く”ってだけじゃねぇ)
シャツの上から伝わる、鼻息の熱。
その奥にあるのは、“自分がここにいていいのか”という、どこか幼い確認作業。
猪原は、ゆっくりと息を吐いた。
「……背中はダメだっつってんだろ。くすぐってぇんだからな」
「……うん。今日は胸だけにします」
「……ルールか、もう」
「はい。ルールっす」
それから、熊森は“嗅ぐ前に一言ことわる”“触れる場所は胸か腹まで”というルールを守るようになった。
不器用な遠慮と、静かな甘え。
そして猪原も、気づけばそれを“いつものこと”として受け入れていた。
――言葉は少ないが。
こうして、ふたりの関係の輪郭が、徐々にかたちを持ちはじめていく。
この先、距離がさらに縮まる“決定的な夜”へと、静かに歩み寄っていた。
――その晩、熊森が言った。
「……シャツの上からじゃ、ちょっと、足りない時があるんす」
静かな夜だった。
ふたりは、いつものように作業終わりに猪原の部屋へ流れていた。
猪原はシャツのボタンを留めたまま横になり、熊森はその胸元に顔を押しつけていた。
ごつごつした作業着越しに、浅く呼吸を重ねるようにして、匂いを吸い込んでいる。
そのまま数分が過ぎた頃――
熊森は、ほんの少しだけ、顔を上げて呟いた。
「……たまにっすよ。たまに。……でも……、どうしても足りなくて……」
猪原は何も言わなかった。
言葉はなかったが、代わりに手袋を外し、胸元のボタンをふたつだけ外した。
布が少し開く。
露わになったのは、毛並みに覆われた皮膚――
一日分の汗と、体温と、ぬるい生の匂い。
熊森は、そっと目を伏せた。
そして、シャツの内側に鼻先を差し入れ、ゆっくりと息を吸った。
「……っ、ああ……これっす……」
それきり、何も言わずに顔をうずめていた。
まるで、言葉を出すことすら惜しいかのように。
猪原は、その間ずっと目を閉じていた。
やがて、背に腕を回すようにして熊森を軽く抱き寄せた。
「……暑くねぇか、それ」
「……うん。でも……落ち着くから、大丈夫っす」
「そうかよ」
それだけのやり取りだった。
――それだけで、もう必要なやりとりは済んでいた。
――それから、ふたりの夜は変わっていった。
最初はシャツの上から。
次第に、シャツの隙間から。
そしてある晩には、猪原が言った。
「……どうせ嗅ぐなら、着替える前のが濃いぞ」
熊森は、「ほんとっすか」と真顔で返し、
それ以降、“現場から帰ってすぐ”の時間が定番になった。
作業着を脱ぐ前、安全靴を脱ぐ前。
汗と土と埃をまとうまま、熊森が猪原の胸に顔を押し当てる。
まるで、仕事の終わりの“儀式”のように。
手袋を外さないまま抱きしめ合う日もあれば、
ヘルメットすら脱がず、互いにぶつけながらくっつく日もあった。
言葉は、ほとんどない。
けれど、交わされた行動のすべてが、“ここに居ていい”という返答だった。
――そして、ある夜。
いつものように畳に並び、汗と埃の中で重なっていたふたり。
熊森がぽつりとこぼした。
「……こうしてると……“自分の匂いが、ちゃんとあんたに染み込んでる”って、思えて……安心するんす」
猪原はその言葉に、ただ鼻を鳴らした。
「……そういうのは、普通、女が言うセリフだろ」
「関係ねぇっす。おれが、おれでいるために、やってんすから」
「……へいへい」
そう答えながらも、猪原の腕は熊森の背にまわり、
胸元に額を押しつけてきた熊森の頭を、当たり前のように撫でた。
ふたりは、もう何も確かめなくてよくなっていた。
――今となっては、それが“いつから”始まったのかは、もう曖昧だった。
だが、“今”だけははっきりしている。
作業着のまま、ヘルメットのまま、安全靴のまま、
畳の上でふたりがごつごつと抱き合う、このかたち。
それが、どんな街歩きや洒落た言葉よりも、
ふたりにとって“居場所”になっていた。
もう、誰がどう見ようと関係ない。
言葉で名付けられなくても――
この感触だけは、いつだって戻れる場所として、ふたりのあいだに確かにあった。
[newpage]
夜。
畳の上に、ふたりぶんの重さが沈んでいた。
猪原と熊森――どちらも、フル装備のまま。
作業着の上から汗がにじみ、ヘルメットも手袋もつけたまま、安全靴はひもすら緩めていない。
部屋の中には、ふたりの動きが生む音だけが響いていた。
「……んしょ」
熊森が身体を預けるようにして、猪原の胸にどっかりと頭を載せる。
ゴトッ――
ヘルメット同士がぶつかり、くぐもった音が鳴る。
ふたりの額が擦れ、少しだけバイザーが軋む。
猪原は眉をひそめたまま、ぼそりとつぶやく。
「……おい、あたる。ずらせ」
「無理っす……ぴったり収まってるから」
「収まるとかじゃねぇだろ、ヘルメットだぞ……」
言いながらも、動こうとはしない猪原。
むしろ、熊森が身体をずらした瞬間――
カシャッ
ベルトの金具がこすれ合い、腰骨のあたりで金属音がひとつ。
そのままシャツが引っ張られ、ごしゅっ、ごしゅっと厚手の布が重なる摩擦音が続く。
「……うるせぇな、今日」
「音っすか?」
「全部だ。ヘルメット、ベルト、シャツ、安全靴……」
「……それ、つまり“あんたの音”ってことですよ」
猪原は短く鼻を鳴らした。
熊森はまた、ゆっくりと脚を絡めるようにして、片足を猪原の足の下へ滑り込ませた。
ギュ……ギュ……
安全靴の革が触れ合い、ぬめるような重い擦過音を立てる。
編み上げられた革がきしみ、金属の鳴りをかすかに帯びながら、床に密着して軋む。
「……うるせぇのに、落ち着くっすね」
「……バカが」
熊森は、また胸に鼻先を押しつける。
ギリッ、コツッ
ヘルメットの端が猪原の肩口に当たり、再び短い衝突音。
だが今度は、猪原は文句を言わなかった。
その代わり――手袋越しに、熊森の背を一度だけ撫でた。
布と革と金属の、ごつごつした重さ。
それがぶつかり合って、軋み合って、それでも重なっている。
誰にも見せない、ふたりだけの“正装の音”が、部屋に満ちていた。
畳の上でごつごつと横たわるふたり。
作業着のまま、安全靴もヘルメットもそのまま。
フル装備の重さを引きずりながら、それでも互いに身体を預けていた。
熊森が顔を埋めていたのは、猪原の胸元――
いや、今は少し上。喉元の毛並みに鼻先を埋めたまま、手袋ごしにそのあたりをわしゃわしゃと撫で回している。
「……くすぐってぇぞ、おい」
「我慢してください。……ここ、柔らかいっす」
「わしゃわしゃする毛なんかねぇだろ、俺ら」
「いや、あるじゃないっすか。短いけど、ちゃんと。……汗吸ってんのも分かるし……」
「……バカ正直かよ」
それでも猪原は、文句を言いながらも、片手で熊森の顔の脇――頬の毛並みをわしゃわしゃと撫で返していた。
鼻の脇から耳の下まで、太くてしっとりとした熊森の頬毛。
それがくしゃくしゃと音を立て、熊森は目を細めて身を縮めた。
「……そこは……やばいっす……」
「どこがやばいんだよ」
「気持ちよすぎて、……むずむずします」
「へぇ……」
しばらく、互いの毛をわしゃわしゃと撫で合いながら、無言で重なっていた。
そして猪原が、ぽつりと口を開く。
「……なあ」
「ん?」
「お前、俺のどこの匂いが一番好きなんだよ。……毎回、割といろんなとこ嗅いでんだろ」
熊森は少しだけ黙った。
そして、喉元から顔を上げ、目を細めて言った。
「……うーん、たぶん……首の後ろっす」
「……後ろ?」
「はい。……シャツの襟んとこに、汗がたまって……他の匂いと混ざってるんすよ。……ちょっと濃い、でも落ち着く、みたいな」
「お前、そんなとこまで分析してんのか……」
「してないと、嗅ぎ逃すじゃないっすか」
「嗅ぎ逃すってなんだよ……」
猪原は呆れたようにため息をつきながら、手袋のまま熊森の頬毛をまたわしゃりと握った。
「……じゃあ、今度からそこだけ濡らしてやるよ」
「マジっすか? 嬉しいっす」
「……冗談だ、バカ」
ふたりの笑いが、シャツとヘルメットの間に溶けていった。
金具と革がこすれ合い、布が沈み込む音と一緒に、
この夜もまた、ふたりだけの“音と匂いの時間”が、静かに流れていた。
作業着のまま、畳に寝転んでいたふたり。
安全靴が絡まり、ヘルメットの縁がごつごつと肩と肩をかすめている。
すっかりくたびれたシャツの下からは、今日一日の汗が、まだほんのりと残っていた。
熊森は、猪原の胸元に顔をうずめながら、ぽそりとつぶやいた。
「……次は、背中側。ちゃんと嗅ぎにいきますから」
「……おい」
猪原は一瞬だけ目を開けて、眉をひそめた。
「背中はくすぐってぇって言ってんだろ」
「知ってます。でも……首の後ろから繋がってる流れっすから。……いずれ、行きます」
「勝手に“流れ”作るな」
それでも、猪原は短く鼻を鳴らしただけで、熊森を引き剥がそうとはしなかった。
「……じゃあ、洗ってねぇ日に嗅がせてやるよ」
「……え、マジで?」
「マジで。……お前、たぶん一回で倒れるぞ」
「倒れてもいいっす。……本望っす」
猪原はごつい手袋で、熊森の頭を軽くぽんと叩いた。
「バカが」
少しの間、汗と布と革の擦れる音だけが続く。
その沈黙のなかで、熊森がふと思いついたように言った。
「……そういえば、あんたは……」
「ん?」
「……俺の匂いで、好きなとこってあるんすか?」
猪原は、軽く目を伏せた。
すぐには答えなかった。
だが数秒後、ぽつりと返す。
「……襟元だな」
「襟元?」
「ああ。……シャツの。お前、洗濯しても、そこだけ匂い残ってんだよ」
「え……あ、あー……」
「洗ってんのに、残ってるってのが逆に、落ち着くんだよな。……“熊”って感じがする」
「……それ、褒めてます?」
「当たり前だ」
熊森は、一瞬だけ耳をぴくりと動かし、
少し照れたようにうつむいた。
「……じゃあ次から、襟……あんま洗いすぎないようにしますね」
「……本気で言うな、バカ」
ごつごつとした装備が重なりながら、
その夜もまた、ふたりだけの音と匂いが、静かに部屋に満ちていた。
日が落ちかけた現場の片隅、
作業員たちがぞろぞろと引き上げていった後のプレハブ小屋。
窓の外では風が埃を巻き上げ、シャツの裾をわずかに揺らす。
その小屋の中、畳の上には作業着と安全靴のまま横になった猪原の姿があった。
シャツの背中には汗が染みており、安全帯の跡がくっきり残っている。
熊森はというと――
その猪原の後ろ側に、静かに回り込んでいた。
言葉はない。
ただ、ごく自然な流れのようにしゃがみこみ、
まずは膝裏に鼻先を寄せる。
しゃがんだ拍子に革靴がきしみ、作業ズボンの布がぬめるように軋む。
「……ん……」
熊森が、浅く息を吸い込む。
汗と埃、革の擦れる匂い、そして――少しだけこもった猪原の体温。
そのまま顔をずらして、尻のあたりへ。
きつく絞られた作業ズボンの縫い目の奥に染みこんだ、生乾きの汗の匂いをかすめるように嗅ぎ取る。
「……このへん、仕事の日の匂いって感じっすね……」
聞こえるか聞こえないかの声で呟きながら、今度は腰回りへ。
ベルトの金具が軋む音とともに、熊森はそっと鼻を押しつける。
ごつごつとした腰骨のあたり。
ベルトの裏に残る皮脂の匂いと、汗が乾いた独特の金属臭。
(……たまんねぇな、ここも……)
思わず深く息を吸いそうになったが、堪えて次へ移る。
背中――背筋のラインをなぞるようにして、上へ。
シャツの布越しに、ぞわりと毛が逆立つのが分かる。
(あ、やっぱくすぐってぇんだ)
けれど猪原は動かない。
ただ、息をひとつだけゆっくりと吐いた。
そして――最後に。
熊森は、ゆっくりと顔を首の後ろへと移動させた。
ちょうど、襟の合わせ目から熱がこもる部分。
汗と皮脂と洗剤の匂いが混ざり合い、
日中の陽に焼けた“猪原の匂い”が、いちばん強く残っている場所だった。
「……やっぱ……ここ、いちばん……」
そう呟いて、熊森は両手で猪原の腰にそっと触れたまま、鼻先を押し当てた。
ヘルメットがかすかにぶつかり、ごつんと鈍い音を立てる。
そのまま、ゆっくりと、深く――
何度も何度も、息を吸う。
猪原の体が、少しだけ呼吸に合わせて動く。
「……落ち着くな……ここだけは……」
そう言う熊森の声を、猪原は背中越しに聞いていた。
何も言わず、ただ――そのまま、黙って受け止めていた。
熊森は、鼻先を猪原の首の後ろの合わせ目に埋めたまま、何度も、呼吸を深く繰り返していた。
そこだけは、いつも“変わらない”匂いがする。
どんなに洗っても、風にさらしても、現場で汗をかいても――
この首の後ろだけは、「猪原」そのものの匂いが残っていた。
「……ふぅ……」
ごく小さく、息がこぼれた。
まるで溺れたあとのような、安堵の吐息。
そのとき。
「……おい」
猪原が、低く、寝返りも打たずに呟いた。
「……背中は、くすぐってぇっつってんだろ」
声はいつも通りぶっきらぼうだったが、
すぐに追いかけるような怒気もなかった。
熊森は動かず、そのまま口元だけで答える。
「……知ってます」
「……じゃあ、なんで……」
「……でも、もうやめられないっす」
それは、嘘のない声だった。
甘えるでもなく、許しを乞うでもなく。
ただ、“それが本音です”と、
首の後ろに鼻を埋めたまま言葉を落とす。
猪原は、しばらく沈黙した。
ごつごつした背中を通して、熊森の鼻息が、かすかに伝わってくる。
「……ったく、もう……」
ぼやくように吐きながらも、
猪原は自分の体を少しだけ預けるようにして緩めた。
「……なら……」
「……?」
「……一回くらい、本気で笑っちまうくらい、くすぐってやるからな。覚悟しとけ」
「……はい。……それでも、たぶん、嗅ぎます」
「……バカが」
そのやり取りのあいだも、
安全靴のつま先同士がわずかに触れ合い、革がこすれる音が部屋に続いていた。
金具の軋みも、布の摩擦も、
全部が“あんたがそこにいる”という証しみたいに思えてくる。
熊森はもう一度だけ、首の後ろに鼻先を押しつけて――
そのまま、目を閉じた。
夜。
プレハブの中は静まり返っていた。
安全靴を履いたまま畳に寝転がるふたり。
作業着は乾ききらない汗を含み、ヘルメットすらまだ外していない。
今日は、いつもと少し違った。
熊森が背を向けて横になっている。
そのすぐ後ろに、猪原が静かに身体を寄せていた。
「……なあ」
低く、小さな声。
「……今日は、逆な」
「……え?」
「お前じゃなくて……俺が、嗅ぐ番だ」
熊森は反射的に耳を動かした。
そして、ごく浅く、頷く。
「……うん。……どうぞ……」
その言葉を皮切りに、猪原は無言のまま熊森の背中に顔を近づけた。
まずは、肩甲骨のあたり。
作業着の布越しに、うっすらと残る埃と、汗と、洗剤が混じった匂い。
「……ふっ……」
熊森の喉奥から、抑えきれない吐息が漏れた。
次に、背筋をなぞるようにして、腰のあたりへ。
猪原の鼻先が触れた瞬間――
熊森の身体が、ぴくりと震えた。
「……っく、あっ、あんた……」
「動くな。嗅げねぇだろ」
「……だって……くすぐったいんすもん……」
その言葉には、抗議というよりも、どこか嬉しさと照れの滲んだ逃げ場のない感情が混ざっていた。
猪原は構わず、今度は襟の内側――首のつけ根に鼻を埋めた。
「っ……はっ……」
熊森が、あらがうように足先を少しばたつかせる。
安全靴のつま先がこすれ合い、ぎゅっ、ぎゅっと湿った革の音が続く。
「……お前、こんな匂い残してんのによく人前出てんな」
「や、やめて……変なこと言わないで……」
「……落ち着くな、ここ。……確かに、襟元ってのも、分かる気がするわ」
熊森は、顔を伏せたまま、小さく身悶えた。
「……こんなん……される側って……やばいっすね……」
「だから言ったろ。背中はくすぐってぇって……」
「うぅ……でも、なんか、……すげぇ、幸せっす……」
最後の言葉だけは、素でこぼれた。
猪原はもう何も言わず、軽くその背中に手を添えた。
布越しに伝わる体温と、震えるような息づかい。
互いの匂いを知るということが、
こうも静かに、こうも深く、心を満たしていくとは――
誰にも、教わらなかった。
熊森の身体は、まだわずかに震えていた。
背中、腰、首元――
一通り、匂いを嗅がれたはずなのに、心の奥にはまだ何かが残っていた。
猪原の呼吸が背中に触れるたび、
皮膚が微かに粟立つ。
安全靴を履いたままの足先が、またぎゅっとこすれ合う音を立てた。
猪原はもう離れようとしていた。
鼻先を少しだけ浮かせ、手を離そうとしたそのとき――
「……あんた」
熊森が、低く呼び止めた。
「……ん?」
「……もうちょっとだけ……」
声が小さくなった。
「……嗅がれてても、いいすか」
猪原は動きを止めた。
それは懇願でも命令でもなく、ただの“気持ち”だった。
「……もう、ちょっとだけ」
背中越しの声は、くすぐったい幸福を必死に押さえ込んでいるように、かすれていた。
猪原は何も言わず、再び顔を戻す。
そして――静かに、首の後ろへ鼻を寄せる。
「……ふ……」
熊森の喉から、堪えようとした息が、こぼれるように漏れた。
「……ありがと、ございます……」
その言葉は、布の奥に吸い込まれて消えていった。
作業着越しに、肌と肌が密着するわけでもなく、
声を交わすでもなく、
ただ“嗅がれる”という静かな行為のなかで――
熊森は、自分が包まれていることを、
この上なく、幸福に感じていた。
猪原は、黙ってそれを受け止めていた。
言葉など必要なかった。
安全靴の重み、ヘルメットのぶつかり、シャツの湿り――
全部ひっくるめて、ふたりの“今”を形作っていた。
夜。
ふたりはまだ、畳の上で横になったまま。
シャツの汗も乾ききらず、ヘルメットの縁が肩に当たる。
足元では、安全靴のつま先同士が重なっていた。
沈黙が、心地よく続いていた。
そのとき、猪原がふと口を開いた。
「……なあ」
「ん?」
「……お前の安全靴、けっこう……匂いすんな」
熊森は、びくりと足を引きそうになる。
「……わ、わざとじゃないっすよ!? あの、今日濡れたし、長靴から履き替えて……」
「いや。そういうことじゃねぇ」
猪原は、足を少し動かしながら、自分の靴と熊森の靴を擦り合わせた。
ギュッ――ギュリリ……
革と革が擦れて、湿った音とともに、鈍く鳴る摩擦音が畳の上に響く。
「……俺、わりと……この匂い、好きだぞ」
「……えっ」
「乾いてるときもいいが、……湿ってグニャッてなってるときのが……強くて、落ち着く」
熊森は思わずうつぶせになって顔を伏せた。
「……うそ……信じらんねぇ……」
「ほんとだ。……長く使ってる革って、ちょっと甘ったるい匂いするんだよな。汗とか、埃とか、ゴムとか混ざって……」
「……変態っすか、猪原さん……」
「そうかもな」
そう言いながら、また靴をこすり合わせる。
ギュ……ギュッ……
熊森の足が、逃げるように動く。
でも、完全には離さない。
猪原は、わずかに笑う気配を滲ませて言った。
「……お前が、これ好きで履いてんの、分かる気がする」
熊森は、枕の代わりにしていた腕に顔を押しつけながら、かすれた声で呟いた。
「……もうなんか、ほんと……やばいくらい嬉しいんすけど……」
猪原は答えず、ただもう一度、ゆっくりと靴をこすりつけた。
革の軋みが、ふたりの距離を測る音のように、静かに、続いていた。
「……ちょっと足、動かすぞ」
そう言って、猪原は体を起こした。
安全靴の爪先を揃えたまま、膝を折り、熊森の横にしゃがみ込む。
熊森がきょとんとした顔をする間に、猪原は――
ごく当たり前の動作のように、熊森の足元へ顔を寄せた。
「え……あんた?」
「じっとしてろ。……今さらだろ」
そして、猪原は熊森の安全靴の甲に鼻先をそっと押し当てた。
「……ん」
一呼吸。
ふた呼吸。
革の中にこもった湿気、長時間の作業で染み込んだ足の汗、土埃、洗剤の残り香――
無骨な臭気が、鼻腔の奥にじわりと沁みてくる。
「……あー……」
吐息混じりに、猪原が漏らす。
「やっぱ、こっちのが“熊”って感じだな」
「……な、なんすかそれ……俺、そんなに……?」
「いい匂いって意味だ。……って言っても、人には言えねぇな。誤解される」
「う……言わないでください、絶対……」
熊森が耳を伏せるようにして、足を引っ込めかける。
だが猪原は、少しだけ追いかけるようにして再度鼻先を寄せる。
ギュ……ギュッ……
革の軋む音が、再びふたりの間に濡れたように響いた。
「……なあ」
猪原が、顔を戻しながら、何気ない声で言った。
「……お前も、嗅いでみるか? 俺のも」
熊森の耳がぴくんと跳ねた。
「……え?」
「靴。俺の。……今ちょっと汗吸ってるし、今日も土入ったままだ」
「……いいんすか?」
「嫌ならいいけどな」
「……いや、嗅ぎます」
「即答かよ」
「“猪原さんの足の匂い”って……絶対、濃くて、落ち着くと思ってました」
「思ってました、じゃねぇよ……」
それでも、猪原は自分の脚をゆっくりと伸ばした。
靴底が畳に沈み、革のつま先が熊森の方へと向けられる。
「……好きなだけ嗅げ」
「……はい」
熊森は膝をつき、そっと顔を寄せた。
目を閉じ、鼻先を革に押し当てる。
くぐもった熱と、埃に混ざった汗のにおい――
熊森の肩が、ほんの少し震えた。
「……うわ……」
「どうした」
「……これ、すげぇっす……一発で“あんた”って分かる……」
猪原は答えなかった。
ただ、畳に手をついて体重を支えながら、無言で熊森の反応を見下ろしていた。
そして、どちらともなく、短く笑った。
足元の匂いすら分かち合えるというのは、きっともう、そういうことだった。
熊森は、まだ顔を猪原の安全靴に寄せたままだった。
鼻先でつま先をなぞるようにしながら、深く、息を吸い込む。
革と汗、土と時間。
それが混ざりあって出来た、猪原の足の匂い。
「……ふぅ……」
短く吐息をつき、熊森はゆっくりと顔を離した。
そして、目を伏せたまま――
そっと呟いた。
「……明日も、これ……履いてくださいね」
猪原は少しだけ目を細めた。
「は?」
「その靴。……この匂い、……ちょっと、落ち着きすぎて……」
熊森は言いながら、照れたように足元を見つめる。
「……まだ、嗅ぎ足りてないっていうか……。もう、これじゃなきゃ無理な気がしてきました」
「……お前な……」
猪原は、座ったまま足を軽く動かして、熊森のつま先を自分の靴でコツンとつついた。
「ずっと同じ靴だ。……新品にしたくても、くたびれてんのが履きやすいんだよ」
「……やった」
熊森は、ふっと笑った。
それは無防備な子供のような顔だった。
「明日も、ちゃんとあんたの匂いで終われるって、分かるだけで……」
言いかけて、熊森は少しだけ声を落とす。
「……ちょっとだけ、安心できるんすよ」
猪原は答えず、再びつま先で熊森の靴を軽くこすった。
ギュ……ギュッ……
革がこすれて、湿った音がまたひとつ。
それだけで、今日という一日がちゃんと終わっていくような気がした。
言葉よりも、音と匂い。
重ねることより、並んで同じ“重さ”を履いていること。
それが、ふたりの関係だった。
重ねられた安全靴のつま先が、革の音を鳴らしていた。
熊森は、しばらくその音を聞いていたが――
やがて、ふと顔を上げて言った。
「……今度は、“靴の中”も嗅いでみます?」
猪原は、目を細める。
「……は?」
「外じゃなくて、中っすよ、中。中の……一番こもってるとこ」
声の調子は、明らかにいたずらっぽい。
言いながら、熊森はくっくっと喉を鳴らすように笑った。
「……なんだその提案……お前、変態か?」
「いや、変態は……もう俺の方っすよ。前に、あんたの靴、こっそり中まで嗅いだことありますもん」
「……おい。いつの話だ」
「この前の雨の日。あんた、風呂入ってる間に、玄関で……」
「……」
猪原は、軽く手袋を外して、熊森の頭をはたいた。
ぺしっ
「……そういうことは黙ってやれ。報告すんな」
「いやいや、報告した方が“共有”って感じで安心するんすよ」
「誰と共有してんだよ……俺だけだぞそれ……」
「だからです。俺と“あんた”だけで完結してるから、言えるんすよ」
その言葉に、猪原は思わず短く鼻を鳴らした。
「……バカが」
「でも、“中”はほんとすごかったですよ。……今日履いてたの、あれでしょ? 右の方がちょっと濃い」
「なんでそこまで分かるんだ……」
「嗅げば分かるもんっすよ。……今度、交代で俺のも嗅きます?」
「遠慮しとく」
「えー」
熊森は笑いながら、またつま先をぶつけてきた。
安全靴の革と革がこすれて、濁った湿った音が鳴る。
冗談のようなやりとり。
けれどそこには、隠す気もない信頼と、
互いを“受け入れている”という重みがあった。
「……お前、そう言うなら――」
猪原が、少しだけ体を起こす。
ごそ、と作業着が擦れ、安全靴の重みが畳を軋ませる。
「……じゃあ軽く試しに、今、嗅いでみるか」
熊森の目が、ぱちっと開かれる。
「……は、え、マジっすか」
「おう。そんなに中がすげぇってんなら……ちょっと確認してみねぇとな」
「ま、待って、心の準備が……」
「お前が言い出したんだろうが」
猪原は低く笑いながら、熊森の足元へとしゃがみ込んだ。
安全靴の上からそっと手をかけ、紐の緩んだ口をぐっと開ける。
もわっと、こもった空気が漏れ出た。
土と汗と、数日分の熱がこびりついた、熊森の匂い。
猪原は一瞬目を細め、そして――
顔を近づけ、靴の中に鼻先をぐっと差し込んだ。
「……っ」
深く、静かに吸い込む。
熊森は見ていられず、顔をそむけた。
「や、やっぱやめましょうか、今のナシってことで――」
「……ああ。たしかに、これは……お前の言う通りだな」
猪原は顔を上げ、目を伏せながら呟く。
「ちょっと甘ったるい。汗が古くなってて……底の方に残ってる。……でも、これも“熊”って感じするわ」
「うううう……恥ずかしすぎる……」
熊森は耳まで真っ赤にして、作業ズボンに顔を埋めた。
「……これ……絶対夢に見ます……俺の靴に顔突っ込んでるあんた……」
「悪かったな。現実だ」
猪原は立ち上がり、手袋をつけ直した。
「……ま、今日はこれで勘弁しといてやる」
「……逆にありがとうございました……」
熊森はぼそりと答えながら、でも少しだけ、口元がゆるんでいた。
冗談のはずが、妙に沁みるやり取りだった。
足元の革が再び擦れて、
ふたりの空気が、いつもの“らしさ”に戻っていく音がした。
空気が一段落したところで、熊森がもぞもぞと身体を起こす。
足元の安全靴を見下ろしながら、思わせぶりな口調で言った。
「……となると、次は……やっぱ、ヘルメットの中っすよねぇ」
猪原がすぐさま、無言で目を細めた。
熊森はその視線にまるで気づかないふりをしながら、続ける。
「だって、ずっと頭に密着してるじゃないですか。汗とか油とか……こう、ぎゅっと詰まってるっていうか……」
「……なあ」
猪原の声が低く落ちる。
「お前、それ前に嗅いでただろ」
「…………」
熊森の背筋がぴくりと伸びた。
「……う……」
「風呂入ってる間、玄関でな。俺のヘルメット、外側からそっと持ち上げて……」
「ちょっ、それ言わなくていいじゃないですか!! もう時効っすよ、時効!!」
「お前がまた蒸し返してきたんだろうが」
猪原は鼻を鳴らしながら、ヘルメットのあご紐に手をかける。
「……嗅ぎたきゃ素直に言え。こそこそやって、あとで“気になりますよね”とか言ってんじゃねぇ」
「だ、だって……その……聞こえが悪いじゃないっすか……“嗅ぎました”って言うより、“気になりますよね”って言った方が……」
「同じだ。悪化してるまである」
熊森は両手で顔を覆いながら、しゃがみ込んだ。
「……俺、たぶんもう二度と“におい”って単語使えない身体になるっす……」
「言ってんじゃねぇか、もう」
その横で、猪原はぶつぶつ言いながらも、
自分のヘルメットのあご紐を外し、ぽん、と熊森の膝に置いた。
「……ほらよ」
「え……え、いいんすか……?」
「……今さらだ。嗅ぎたきゃ堂々とやれ」
熊森はそろそろと手を伸ばし、
両手でヘルメットを抱えるようにして――
「……ありがたく、いただきます……」
そして、あの内側へと、顔をそっと沈めた。
その仕草は、どこか神妙で、
しかし確かに、いつものふたりらしい光景だった。
[newpage]
夜。
風呂も済ませ、作業着のまま布団の上に横になるふたり。
畳の上、枕も使わず安全靴のまま、いつも通りごつごつと身体を預け合っていた。
熊森は、猪原の腹あたりに頭をのせたまま、ふと呟く。
「……あんたの部屋、もう完全に俺の匂い染み込んでますよね」
「……自覚あったのかよ」
「そりゃありますって。作業着のまま毎日転がってるんすから」
「毎日は言いすぎだ」
「いや、ほとんど毎日です。下手すりゃ、俺の部屋の方が“よそ”って感じするくらいには」
猪原は、それには反論しなかった。
布団の下で、安全靴の革が擦れてギュッと鳴った。
熊森は、その音に安心するように目を細めながら、
ぽつりと言葉を落とす。
「……でも、二部屋分の家賃払ってるの、正直もったいなくないっすか」
「……まあな」
「俺の部屋、もう冷蔵庫しか使ってないですもん。たまに洗濯機回すくらいで」
「……それ、完全に荷物置き場だな」
「そうっす。で、生活してんのはこっち」
熊森は、鼻先をシャツにすり寄せながらつぶやいた。
「……だったら、もう最初から“こっちが俺の部屋”でいいじゃないっすか」
「……は?」
「そういう名目にすれば、こっち一本で住めるし。家賃も食費もまとめられて、手間減るし」
「……勝手に“名目”作るな」
猪原はわずかに苦笑した。
「……俺は別に構わねぇが、お前が気まずくなんねぇか?」
「ぜんぜん」
熊森は即答だった。
「むしろこっちのが“帰ってきた感”ありますし。……布団の汗の匂いも、シャツの置き場も、靴の重なり方も……ぜんぶ、こっちが正しいっす」
「……なら、まァ……どっちが本宅でも同じか」
「そういうことっす」
ふたりはしばらく黙った。
けれどその沈黙は、もはや何かを考え込むようなものではなかった。
ただ、決まった場所に身体が収まったような――
そんな、“同居”という言葉にすでに馴染みつつある空気だった。
「……今さらだけどさ」
熊森が、またぽそりとつぶやいた。
「ここ、“俺の部屋にもなる”って言っていいっすか」
猪原は小さく鼻を鳴らした。
「……勝手に言っとけ。どうせ、お前の分の靴と作業着はもう常駐してんだからよ」
「へへ……了解っす」
そう言って熊森は、胸元に顔をすり寄せて目を閉じた。
“別々に暮らしているはず”という形は、
すでにとっくに、ただの書類上の話になっていた。
夜。
作業着と安全靴のまま、畳の上で横になったふたり。
熊森はいつものように、猪原の胸元に体を預けていた。
片手は、ごつごつとした喉のあたり――毛がやや密になっている首元に触れ、
指先で小さく、なぞるように、いじるように動かしていた。
「……ん」
猪原は息をひとつ吐いたが、制止することはなかった。
それどころか、少しだけ首を傾け、やりやすいように預けてくる。
熊森はそれに応えるように、
喉毛の手触りと、わずかな汗の香りに、心をまるごと預けていた。
(……あったかい……匂い……おさまる……)
頭の中がゆっくりとほどけていく。
指先の動きはだんだんと力を失い、ただ触れているだけになった。
「……ん……親父……」
ぽろり、と。
それは、考える前にこぼれた言葉だった。
次の瞬間。
熊森の体がびくんと跳ねる。
「――っ、あ、ち、ちが……っ」
あわてて上体を起こし、耳まで赤くしながら言葉を詰まらせる。
「い、今の……ちが……ちがいます! そういうんじゃ……!」
猪原は、まったく動かなかった。
ただ、薄く目を開けて熊森を見上げる。
無表情に見える顔の奥で、何かを測っているような、そんな視線。
「……お前」
「……っ、いや、ちが……!」
「落ち着け。別に怒ってねぇ」
猪原は、そう言いながら手袋を外し、
上がったままの熊森の肩にぽんと手を置いた。
「……無意識に出るもんってのは、止めらんねぇだろ」
熊森は黙ったまま、顔を伏せる。
作業着の襟元が、呼吸でかすかに揺れていた。
猪原は、ぽつりと呟くように言った。
「……言われたこと、ないわけじゃねぇよ。……昔の現場のガキにも、たまに呼ばれた」
「……でも……」
「でも、お前のは……ちょっと、違ったな」
熊森は、ようやくゆっくりと顔を上げた。
「……なんで……分かるんすか」
「分かるもんだ」
猪原は、静かに目を閉じた。
「……その言い方、……重てぇくらい、素直だった」
しばらく沈黙が落ちたあと、熊森はまたそっと身体を預ける。
今度は、喉元に触れず、ただ胸に顔を埋めた。
「……すんません。……忘れてください」
「……忘れねぇよ」
「……じゃあ、たまに言ってもいいすか。……小声で」
猪原は鼻を鳴らした。
「……勝手にしろ。……ただし、聞こえたら笑うかもしんねぇぞ」
「……そしたら……また言います」
それは、照れと甘えと、どこか懐かしい匂いをまとった声だった。
熊森は、作業着の胸に顔をうずめたまま、まだほんの少しだけ肩を強張らせていた。
猪原は、そんな熊森の背をぽん、ぽんと軽く叩く。
手袋を外した掌が、布越しにしっとりとした温度を伝えていく。
しばらくそうしてから、ぽつりと口を開いた。
「……まあ、年齢差考えりゃ……」
「……はい……」
「そう見られても、おかしくはねぇわな」
熊森の耳が、ぴくりと動いた。
「……あんたが親父だって、言われたら……たぶん、信じるやつ、いると思います」
「……それはそれで、なんか複雑だな」
「俺は、ちょっと嬉しいっすけど」
「変なやつだな……」
猪原は鼻を鳴らした。
それでも、熊森の背に添えた手はそのままだった。
「……だけどな」
「……?」
「“父親”ってのは……もっとちゃんとしたもんだろ、普通」
「……?」
熊森がわずかに顔を上げる。
猪原は、遠くを見るような目をしていた。
「俺はただ、黙って隣にいるだけだ。何かを教えたわけでも、導いたわけでもねぇ」
「……でも、いてくれるのが……いちばん大事なことじゃないすか」
熊森の声は、小さかった。
だが、まっすぐだった。
「いてくれて、黙っててくれて……くっついたら、撫でてくれる。……それで、十分っす」
猪原はそれを聞いて、黙ったまま、ゆっくりと頭を振った。
「……なら、俺は……」
「……?」
「お前の“親父役”じゃなくていい。……ただ、いてやるよ。ずっと」
熊森の目が、一瞬だけ揺れた。
それから、もう一度深く顔をうずめる。
「……それがいちばん、助かります」
言葉はそれきりだった。
畳の上で、安全靴がふたりの足元をつなぎ、
作業着のこすれる音と、布団の重みだけが、静かに夜を包んでいた。
夜は深く、風の音すら止んでいた。
部屋の隅でちらつく古い蛍光灯の明かりが、ふたりの影をゆっくり揺らしている。
畳に寝転んだまま、熊森はまだ猪原の胸に顔をうずめていた。
その体勢のまま、ぽつりと、言葉を落とす。
「……たまに、本気で……呼びたくなるんすよ」
「……ん?」
「“あんた”じゃなくて、“親父”って」
猪原は少しだけ目を細めた。
返事を急がず、手を背中に置いたまま、
小さく、鼻を鳴らしてから言った。
「……そうか」
「……はい」
「……なら、そのときゃ、そう呼べばいい」
熊森は、しばらく動かなかった。
けれど、胸にあたる顔の角度が、ほんのわずかに緩んだ。
「……本当に?」
「ああ」
「……俺が勝手に呼んでも……気持ち悪くないです?」
「お前がそう思ってんなら、それでいいだろ」
猪原の声は、ぶっきらぼうなままだったが、
どこか、奥底で許しを灯しているような響きだった。
「……そうっすか……じゃあ……」
熊森はごく小さく笑い、
シャツの上から喉元に額を寄せた。
「……そのときが来たら、ちゃんと呼びます」
「……ああ」
言葉は短く、
だが、その余白には**“今はまだ言葉にしなくていい”という、黙った了解**があった。
ふたりの安全靴が軽く触れ合い、
革がこすれて、いつもの音が戻ってきた。
何かが変わったわけじゃない。
けれど確かに、ひとつの“輪郭”ができた気がした。
呼び名に込めるのは、
きっと“恋しさ”でも“尊敬”でもない。
ただ――
この胸に顔をうずめたとき、
「ここにいてほしい」と願う、静かな想いだった。
静かな夜。
布団の上、並んで寝転んだまま、ふたりの間にほんのわずかな間があった。
熊森は、頭を猪原の肩に預けたまま、ぽつりとつぶやく。
「……あんたって、俺の“あんた”って呼び方、やっぱ変っすか?」
猪原は、少しだけ目を動かした。
「……いまさらかよ」
「いや、たまに考えるんすよ。現場じゃちゃんと“猪原さん”って呼んでるのに……」
「……だからこそ、じゃねぇのか」
「え?」
「現場とプライベート、呼び方が違うってことは……お前なりに線引きしてんだろ」
熊森は黙って、少しだけ頷いた。
「……たしかに、誰かに“猪原さん”って呼びながら、こうやってくっつくのは……なんか、変っすね」
「変じゃねぇが……やりにくいな」
「……“あんた”って、楽なんすよ。言いやすくて、落ち着いてて。……距離がちょうどいいっていうか」
猪原は、短く鼻を鳴らす。
「……まぁ、お前がそう思ってんなら、いいんじゃねぇの」
「でも、“龍さん”の前では絶対言うなって言われたときは、ちょっと怖かったっす……」
「……そりゃ、あいつは礼儀にうるせぇからな。目上に“あんた”とか言おうもんなら、後から俺が怒られる」
「……あんたが怒られるんすか?」
「俺の“指導不足”ってことになる。面倒くせぇんだ、そういうとこだけきっちりしてる」
熊森は思わず笑った。
「……じゃあ、これからもちゃんと使い分けます。“猪原さん”と、“あんた”」
「……間違っても、龍の前で“おやじ”とか言うなよ。マジで仕事減らされかねねぇ」
「それは……うっかり出そうっすね」
「出すな。絶対出すな。死活問題だ」
「はい、気をつけます……でも、“あんた”って言えるの、やっぱ俺だけっすよね」
「……そうだな」
「なんか、それもいいなって、思ってます」
猪原はそれには何も返さず、
ただ肩を動かして、熊森の頭を少し受けやすい角度に寄せた。
ふたりの呼び名は、
名前以上に、関係を示す手触りのようなものだった。
熊森は、肩に頭を預けたまま、ふっと小さく笑った。
「……じゃあ、“親父さん”って呼んだら、セーフっすかね」
猪原の耳がぴくりと動いた。
「……は?」
「“おやじ”だとアレっぽいけど、“親父さん”なら……ちょっと丁寧さあるし。龍さんの前でうっかり言っても……ギリ通らないっすか?」
猪原は、即座に首を横に振った。
「通らねぇ。アウトだ。完全にアウトだ」
「やっぱダメっすか」
「そもそも“親父さん”ってなんだよ。敬語かと思わせてぜんぜん敬ってねぇだろ、それ」
「……いやでも、ちょっと柔らかくて、俺は好きっすよ。“親父さん”」
「俺が好きじゃねぇんだよ」
熊森は、ぶふっと肩を震わせて笑いながら、
手袋越しに猪原のシャツをつまんだ。
「でも“親父”って呼び方、俺の中ではほんとに……すごく、特別っすよ」
「……ああ」
「冗談で使いたくない。だから、本気でしか言わないっす」
猪原は、それにだけは何も言わなかった。
代わりに、熊森の背中に手を添え、
安全靴のつま先を重ねるように、そっと押しつけた。
ギュッ……
革の濁った音が、いつもの合図のように響く。
「……よし。今夜はそれで終わりな」
「はい」
熊森は満足そうに応えた。
言葉で呼ぶ名前以上に、
ふたりの関係は、積み重なった音と匂いと沈黙でつながっていた。
そしてその夜もまた、
特別な呼び名を胸にしまったまま、ふたりは眠りについた。
明かりを落とした夜の部屋。
いつものように、作業着と安全靴のまま畳に並んで横になるふたり。
熊森は、猪原の腕に額をあずけていた。
ぬくもりに呼吸を合わせながら、ふいにぽつりとつぶやく。
「……名前で、呼んでみたいなって思うとき……あります」
猪原は、すぐには答えなかった。
「……下の名前のことか?」
「……はい」
熊森は、うっすらと目を伏せたまま、少しだけ声を落とす。
「“篤志”って、口に出すと、なんか……すごく“近づいた感”があって」
「……ほう」
「でも……それ言っちゃうと、なんか壊れそうで。……今の“あんた”って呼び方が、ちょうどいい距離なのかも、って思ったりもするんすよ」
猪原は、静かに鼻を鳴らした。
「……難儀だな、お前も」
「……ですよね」
「言いたきゃ言えばいいさ。別に、それで壊れるようなもんじゃねぇ」
熊森は、その言葉に少し目を丸くした。
「……でも、それって……俺に、許してくれるってことっすか?」
「許すもなにも、……お前の気持ちで呼びゃあいいだろ」
「……そっか」
そう言って、熊森はもう一度、顔を預け直した。
呼びたくて呼べない。
けれど、呼べないからこそ、名前がずっとそこにある。
その想いだけを、今は胸の奥にしまい込む。
――いつか、本当にそう呼びたいと思えたとき。
そのとき、きっと自然に名前は出る。
それが、熊森にとっての“篤志”という名だった。
室内はすっかり暗くなっていた。
窓の外では風が止み、虫の声も遠ざかっている。
猪原の部屋。
畳の上、布団の中、ふたりは変わらず作業着と安全靴のまま並んで横になっていた。
熊森はすでに眠っていた。
腕に頭をあずけ、顔はシャツの胸元に埋めたまま。
呼吸はゆっくり、安定していて――
けれどどこか、寝息のリズムに気持ちが乗っているような、そんな寝方だった。
猪原は目を閉じたまま、
静かにその重さを受け止めていた。
時折、熊森の耳がぴくりと動く。
夢の中でなにかを追っているような、小さな動き。
そして――ふと。
「……ん……あつし……」
ごく、ごく小さく。
音になるかならないかの声で、名前を呼んだ。
まるで息と混ざって、空気に溶けたような一言だった。
猪原は、目を閉じたまま、動かない。
ただ、短く息を吐いた。
「……」
叱りもしなければ、反応もしない。
でもその呼び方が、冗談でも甘えでもなかったことだけは、すぐに分かった。
夢の中、無意識に出る名前。
それはきっと――いちばん心の奥で、“そう呼びたい”と思っている証だった。
猪原は、熊森の背中にそっと手を添える。
シャツの布越しに、浅く呼吸の揺れを感じる。
「……聞かなかったことにしといてやるよ」
低く、誰にも届かない声で呟いた。
そのまま、再び目を閉じる。
夜はまだ、しばらく続く。
ふたりの呼び方が変わるその時は――
まだ先にあるかもしれない。
けれど、たしかに一歩、近づいた夜だった。
[newpage]
夜。
仕事終わり、風呂も済ませた後の猪原の部屋。
畳に新聞紙を敷いて、缶ビールとパックのつまみをいくつか並べただけの、ささやかな晩酌。
ふたりは、作業着と安全靴のまま、布団に腰を下ろしていた。
猪原は二本目の缶をゆっくり開け、黙ってひと口。
その隣で、熊森はもう三本目に手を伸ばしていた。
「……うん、なんか、……あったけぇっすねぇ……」
呂律が怪しくなりはじめた声でそう言うと、
熊森はぬるりとした動きで猪原のほうへ寄ってくる。
「おい、……近いぞ」
「近いくらいがちょうどいいんすよ……だって……あんた、でっかくて、やわらかくて……すげぇ安心する……」
猪原は面倒くさそうに眉をひそめたが、逃げるような素振りはしなかった。
熊森はそのまま、ぐいと身体を預けてくる。
ごつい体格同士、重みがどしりと猪原の横腹にかかる。
「……お前、飲みすぎてんだろ。明日早いんだぞ」
「……ん~~でも、今日は……ちゃんとこうしたくてぇ……」
「“ちゃんと”ってなんだよ……」
「んふふ……あんた……すき……すきすき……」
「やめろ、気持ち悪ぃ……」
それでも、熊森の身体はますますくっついてくる。
手袋ごしに腕を抱きしめ、
ヘルメットのまま額を猪原の肩にぐりぐりとこすりつけてくる。
ゴツッ、ギュリッ……
重なったヘルメットと革靴の音が、部屋の静けさに溶けた。
「……んふ……いいにおい……今日のシャツ……ちょっと汗しみてて……やばい……やばい……」
「ばっか……お前、ほんとにやばいぞ……」
「んふ……だいすき……あったかい……ずっと嗅いでいたい……」
猪原はため息をひとつ吐き、
肩に額を押しつけたままの熊森の頭を、手袋を外した指先で軽くぽんぽんと叩いた。
「……寝る前に水、飲ませるぞ。お前、明日これで遅刻したらマジでぶっ飛ばすからな」
「うん……怒ってもいいから……そのままでいて……んふ……」
熊森の声は、どんどん眠気と酔いでとろけていく。
猪原は苦笑まじりに、熊森の額をぐいっと離そうとする。
が、熊森はむにゃむにゃと文句を言いながら、また元の位置に戻る。
「……あーもう、こいつ……」
文句を言いながらも、猪原の声に、怒りの色はなかった。
むしろ、こんなふうに甘えてきた熊森を、逃さず受け止めるのは自分の役目だと、どこか当然のように思っている。
ふたりの晩酌は、ぬるい缶の匂いと、作業着の湿りと、酔った呼吸の中で、穏やかに終わっていった。
「んふ……あんた……あったかい……」
熊森の呟きはもう、会話というより息に近かった。
猪原の胸に体を預けたまま、手袋ごしに作業着をぎゅっとつかんで、
そのままうとうとと意識を手放していく。
ごつい体格のくせに、こうして眠ってしまえば、ただの重たい毛布みたいなもんだった。
猪原は、左肩に預けられた熊森の頭を一度だけ見下ろす。
「……寝たな」
誰に言うでもなく呟くと、そっと身体をずらして熊森を畳にゆっくり寝かせる。
ゴトッ……
安全靴の重みが床に落ちる音。
熊森の顔は、まだほんのり赤かった。
シャツの襟元には、猪原の匂いを嗅ぎすぎたせいで、わずかな汗染みが残っている。
「ったく……」
猪原は立ち上がると、散らかった缶やつまみの袋をひとつひとつ集めていく。
パックの残り汁がこぼれないように、そっと新聞紙に包んだ。
ガラ袋に突っ込む音だけが、静かな部屋に響く。
片付けをしながらも、
時折、熊森の寝息に耳を傾ける。
「……んぅ……おや……じ……」
その声は、ほんの一瞬だった。
けれど猪原の手は、その瞬間だけ止まる。
振り向いて、畳に横たわる熊森を一瞥する。
ぐっすり眠っている。
もはや安全靴のつま先すら少し開いて、完全に力を抜いていた。
猪原は息をつき、再び目の前のごみをまとめる。
「……もう一回言ったら起こしてやるつもりだったんだがな」
独り言のように、ぼそりと漏らす。
結局、熊森はそれ以上何も言わず、ただ静かに寝息を立てていた。
片付けを終えた猪原は、
毛布を一枚だけ熊森の上にかけ、電気を落とす。
そして、自分も作業着と安全靴のまま、いつものように布団の端へ横になる。
距離はほんの一手分。
言葉にはしない。
でも――“そう呼ばれること”を、拒む理由はどこにもなかった。
その夜、猪原は静かに目を閉じた。
暗い部屋の中で、熊森の寝息と、
革靴が少しだけ触れ合うギュッという音だけが、まだ聞こえていた。
朝。
猪原の部屋には、まだ陽が差し込む前の灰色の光がぼんやりと満ちていた。
窓を打つ風の音。
天井の隅で軋む古い梁のきしみ。
熊森は、畳に転がったまま、ゆっくりと目を開けた。
視界の先には、壁。
右手に伸ばせば、猪原の置きっぱなしのヘルメット。
それだけで、自分が“猪原の部屋”で寝ていたことを思い出す。
(……あれ、俺……またやっちゃった……?)
作業着のまま、靴も履いたまま、毛布だけかかっている。
いつものパターンだった。
けれど今日は――身体が、やけにあったかい気がした。
すぐ隣。
猪原はまだ横になっていた。
仰向けで、顔はこっちを向いていない。
けれど、きっと起きている気配はあった。
熊森は、毛布をかき分けて、こそっとつぶやく。
「……おはようございます……」
「……ああ」
低く、やっぱり起きていた。
熊森は、そろりと上体を起こし、
自分の安全靴が半分脱げかけていることに気づいて目をそらした。
(……絶対、なんかしたわ俺……)
「……昨日、何か……俺、変なことしてないっすよね?」
「そうだな。特に記憶に残るようなことはなかったな」
「……ほんとに?」
「おう。酒こぼすでもなく、寝言で俺の名を呼ぶでもなく……」
「うわあああああ」
熊森はヘルメットをかぶるみたいにして両手で頭を抱え、
畳の上でごろりと寝返りを打った。
「ちょ、まじっすか……俺、言いました……?」
「知らねぇ。俺は寝てた。たぶんな」
「“たぶん”ってなんすか、“たぶん”って……!」
「……寝言に“親父”って混ざってた気もしたが、風の音だったかもしれねぇな」
「もう……生きていけない……」
熊森はシャツの裾を引き寄せ、顔をうずめた。
でもその声は、どこか緩んでいた。
猪原はゆっくりと身体を起こし、
足を投げ出すようにして座りながら、短く言った。
「……まぁ、どうせ今日も帰ってくんだろ。ここに」
「……はい。間違いないっす」
「なら気にすんな。昨日も今日も同じだ」
熊森はようやく顔を上げて、
小さく笑って言った。
「……うっす。じゃあ、今日も“帰ってきます”」
「……おう」
ふたりの一日は、そうして始まった。
部屋はもう、ふたりの“帰る場所”として、しっかりと息をしていた。
夜。
猪原の部屋、畳の上に座布団を敷き、晩酌の残りが散らばっていた。
缶の数はいつもより少し多め。
それもそのはず、今夜は猪原のほうが、少し多く飲んでいた。
熊森は、ごつごつした作業着のまま横に座りながら、
目の前の猪原をちらりと見て、そっと尋ねる。
「……あんた、ちょっと……回ってきてません?」
猪原は無言のまま、缶を口に運ぶ。
けれど、その手つきはどこかふらついていた。
「……うるせぇ。まだ飲める」
「いや、もうじゅうぶん飲んでますって……」
猪原は小さく鼻を鳴らし、
背中を畳に預けるようにして、だらりと寄りかかる。
「……ああ、もう……なんかどうでもよくなってくるな……酒入ると」
「え……?」
「毎日土にまみれて、汗かいて、泥まみれで……それでもお前が帰ってくるんだから、……まァ、いっかってなる」
熊森は思わず、姿勢を正した。
「……それ、けっこう酔ってますよね」
「かもな」
ぶっきらぼうに返した声は、
いつもよりわずかにトーンが柔らかかった。
猪原はそのまま、熊森の肩にもたれるように頭を傾ける。
ごつん、とヘルメットがぶつかる音。
「……ちょ、重いっす……」
「うるせぇ。お前のほうが重い。普段」
「……は、はい……?」
熊森は何が起きているのか分からず固まる。
それでも、肩に預けられた体重がじんわりと温かく、変に拒むことはできなかった。
「……俺もたまには……こうしていいだろ」
「……はい。どうぞ……ごゆっくり……」
猪原はそれ以上何も言わなかった。
けれど、熊森の肩に預けられた重みと、
胸に触れるゆるやかな呼吸だけが、確かに“甘え”という名の重さを持っていた。
静かな夜。
ふたりは、逆になった姿勢のまま、
重なった安全靴の先で、ほんの少し革をこすり合わせた。
ギュ……ギュッ……
それは、“甘える”という不器用な感情の音。
熊森は、小さく笑って言った。
「……今日は、俺が“あんたの場所”っすね」
猪原は何も返さず、ただ肩にもたれたまま――
静かに目を閉じていた。
猪原はそのまま、熊森の肩にもたれて微動だにしなくなった。
呼吸が、ゆっくりと、規則的になっていく。
間近で聞くと、ほんのかすかに鼻の奥で鳴っているのが分かった。
「……寝た、か」
熊森はそっと視線を落とした。
猪原の重みはずっしりしていて、
それが逆に“本気で力を抜いてる”ことを実感させる。
(……俺に、こうやってもたれかかるって……相当、珍しいっすよ)
熊森は片手をそっと伸ばし、
猪原の背に毛布を引き寄せる。
安全靴を履いたままの脚に、ちょうどかかるように調整して、
静かに、乱れた作業着の裾を直してやった。
「……酔ってても、ちゃんと“こっち”帰ってくるの、ずるいな」
畳の上には、ふたりの靴のつま先が向き合ったまま並んでいる。
それがなんだか“今夜の記念”みたいで、熊森は小さく笑った。
そして、そっと猪原のヘルメットの端に触れる。
「おやすみなさい、あんた」
そのまま、熊森も横になった。
朝。
窓の外からは、トンビの鳴き声と、遠くの車両音が聞こえる。
熊森が目を覚ましたとき、隣では猪原が座ったまま、
すでにシャツの襟を直していた。
安全靴のひもも結びかけで、背中越しに言葉を投げる。
「……起きたか。早く顔洗え。出るぞ」
「……あれ? あんた、昨日の……」
熊森が言いかけると、猪原は振り向きもせず、ぶっきらぼうに返した。
「なにが?」
「いや……酔って、肩に寄りかかって……」
「覚えてねぇな。飲んでただけだろ」
「ほんとに?」
「おう。……飲んだら寝る。普通だろ」
熊森はしばらくその背中を見て、
ふっと、肩の力を抜いた。
「……ま、そういうことにしときますか」
「そういうことにしとけ」
そう言って、猪原は立ち上がる。
床には、まだ昨夜と同じように、ふたりの安全靴が並んでいた。
熊森はそれを見て、立ち上がる前に、そっと自分の靴の先を猪原の靴に軽く触れさせた。
ギュッ――
その音が、ほんの少しだけ名残惜しそうに鳴った。
そしていつも通り、今日の仕事が始まる。
けれど、昨晩のあの“重み”は、
きっとふたりだけの記憶として、ちゃんと残っていた。
[newpage]
夜の猪原の部屋。
風呂からあがってすぐ、
ふたりはそれぞれ清潔な作業着に袖を通していた。
汗はまだ完全には引いていない。
けれど、それがかえって、布越しにじんわりと伝わるぬくもりを増している。
畳の上、ふたりは並んで座り込み、自然と身体を預け合っていた。
「……流石に、ちょっと暑いな」
そうぼやいた猪原の前で、
扇風機が、ゆっくりと首を振っている。
ブゥゥゥゥン……ブゥゥゥゥン……
風が通るたび、シャツの胸元がふわりと浮く。
汗が乾きかけた作業着に、風の筋が沁みていく。
熊森は、そのままそっと猪原の胸元に顔を寄せた。
「……あ、あんた……今の匂い……めっちゃ……」
「なんだよ」
「……デザートっす。……風呂上がりで、汗がちゃんと綺麗なやつ……」
「……わけわかんねぇこと言うな」
「いや、ほんと……甘くて、すっきりしてて……あったかい。ちょっと冷えたシャツの匂いが混ざって……」
熊森は、作業着の胸元のボタンを軽くつまみ、
その下の布に顔をうずめた。
「……これ……一番すきかも」
「はぁ……」
猪原は小さくため息をつきながらも、
熊森の背中にそっと腕を回す。
まだ風呂上がりのせいで、互いの体温が高く、
抱き合うとほんのりとした湿気が伝わってくる。
「……汗が残ってるくらいがちょうどいいって……お前くらいだな、そんなこと言うの」
「“美味しい”って言いたくなるんすよ、なんか」
「獣か」
「……獣っすよ。最初から」
二人とも、頭部は獣のまま。
髪はなく、代わりに短く整った毛並みが、扇風機の風にそよいでいた。
熊森は、ぴくりと動いた猪原の首の下に、
鼻先をこすりつけるようにして、また一言つぶやく。
「……あんた、いま一番おいしいっす。期間限定って感じ……」
「……余計なことまでつけんな」
それでも、猪原の声はどこか緩んでいた。
ふたりの安全靴のつま先が、自然と触れ合って、
革がこすれる小さな音が、扇風機の音に紛れて聞こえていた。
一日働いた身体を洗い流したあと、
またこうして“作業着のまま”交わすぬくもり。
それは“始まり”でも“終わり”でもない。
ふたりにとっては、何より落ち着く、“ちょうどいい夜”だった。
「……ちょっとだけ、めくってもいいっすか?」
猪原の胸元に鼻先を押しつけたまま、
熊森がそっと囁いた。
「は?」
「……シャツの中。……風呂上がりの、いまだけの匂い……」
「……お前なぁ……」
猪原は呆れたように言いながら、腕をどけなかった。
そのかわり、背中をほんのわずかに起こす。
熊森は、その動きを見逃さなかった。
そっと指先で、作業着の裾から内側のシャツをつまみ上げる。
ぺらり――
冷えた風が、めくられた布の内側をすり抜ける。
その瞬間、こもった熱と、風呂上がりの皮膚から立ち上がる汗の匂いが、ふわりと鼻先をかすめた。
熊森は、一瞬で顔を緩める。
「……うわ……やっぱ……こっち、すげぇっす……」
「すげぇってなんだよ……」
「……すっごく“生きてる”感じします。……綺麗なのに、ちゃんと汗の匂いがあって……」
熊森はそのまま、
めくったシャツの内側、胸と腹のあいだあたりに、鼻先をそっと押し当てる。
毛に覆われた肌越しに、ほのかな湿り気と体温が伝わってくる。
「……ん……ここ……すっごい……あったけぇ……」
「……くすぐってぇって言っただろ、前にも……」
「でも……いまは我慢してください。……限定品なんで……」
「俺はなんの食品だよ……」
熊森は微かに笑って、さらにもう一息、深く吸い込んだ。
シャツと体のあいだに残っていた、
洗いたての布と、湯あがりの毛並みと、皮膚の匂いが、ゆっくりと肺に沁みていく。
「……ありがてぇ……」
「感謝される筋合いはねぇ」
「ありますよ。俺にとってはこれ……一番大事な時間っすから」
猪原は短く息を吐きながら、
自分のシャツに顔をうずめている熊森の頭に、そっと手を置いた。
「……布団敷くか。そこで寝る気だろ」
「……ああ、寝てもいいんすか。ここで」
「今さらだろ。どうせ、また明日も帰ってくるくせに」
「……ただいま、って言う前に帰ってきてる感じっすね」
「それでいいなら、それでいい」
言葉は少ない。
けれど、それでじゅうぶんだった。
シャツの中の熱も、扇風機の風も、
ふたりの安全靴のつま先がまだ触れ合ったままであることも――
すべてが、「今、ここにいる」証だった。
風呂上がり。
ふたりとも清潔な作業着に着替え、扇風機の前でゆるく身体を預け合っていた。
安全靴のつま先はいつものように触れ合い、
シャツの内側にはまだほんのりと熱がこもっている。
熊森は黙ったまま、猪原の腕元に目を落とした。
そして、なにを思ったか――
作業着の袖を指でめくり、ぺろ、と舌先で舐めた。
猪原はすぐには反応しなかった。
だが、熊森がそのあと、どこか不満げに眉をしかめているのを見て、さすがに口を開いた。
「……なんだ、いまの」
「……うーん……ちょっと違いました」
「なにがだよ」
熊森は返事をせず、すっと身を寄せてきて、
猪原の胸元に顔をうずめる。
そのままゆっくりと鼻を鳴らすようにして、匂いを確かめはじめた。
「……おい。舐めて納得いかねぇからって、結局ここ戻んのかよ」
「……うん。やっぱり、こっちがいいっす」
「なんだったんだ。……舐めるのは」
熊森はしばらく黙っていたが、やがて小さく、
それでもはっきりとした声で言った。
「……確認、したかっただけです。……やっぱ、“そういうの”じゃないんだって」
「“そういうの”って?」
「……その、エッチしたいとか、触ってほしいとか、じゃなくて。……俺、やっぱ、ここにくっついてるのが一番いいなって……」
猪原は鼻を鳴らした。
「……それ、確認のしかたおかしいだろ」
「……ですよね。でも……ちょっと、自分でも分かんなくなって……」
猪原は手袋を外して、熊森の背をぽんと叩いた。
「……で、その“そういうの”が来たときは、どうしてんだ」
熊森は、ぴたりと動きを止める。
「……え?」
「処理。どうしてんだって話だ」
「え……い、いま聞きますそれ……?」
「ここまで話したら、聞くだろ普通」
熊森はしばらく、黙ってシャツの布に顔をうずめたまま、
耳だけがほんのり赤くなるのが分かる。
「……たまに、ひとりで……済ませてますけど……あんまり……したくならないというか……」
「ふうん」
「匂い嗅いでるだけで、おさまるんすよ、だいたい……それで満足っていうか……」
猪原は何も言わなかった。
ただ、胸に押しつけられた熊森の頭の重さを受け止めるように、
そっと腕を回してやる。
「……じゃあ、いまは満足してんのか」
「……はい。すげぇ満足してます」
「……なら、いい」
部屋の中には、
扇風機の風と、革のこすれる音だけが流れていた。
ふたりはそれ以上、なにも言わなかった。
けれど、“確かめ合うこと”の先に、“安心できる今”がある――
そんな夜だった。
沈黙の中、扇風機の風がふたりの作業着をやわらかく揺らしていた。
熊森は、相変わらず胸に顔を埋めたまま。
けれど、ふと、声のトーンを変えてぽつりと尋ねた。
「……じゃあ、あんたは……どうしてるんすか」
猪原は、少しだけ目を細めた。
「……お前、こういう話、嫌いじゃねぇんだな」
「いや、そうじゃないんすけど……なんか、聞いときたくなっただけで……」
熊森は言葉を濁しながらも、
ほんの少し、シャツ越しの息遣いを強くした。
「……気になるんすよ。俺だけじゃないかなって、ちょっと……」
猪原は鼻を鳴らし、天井を見たまま、言った。
「……俺か?」
「はい」
「……昔は、普通にやってた。定期的に、どうにかしねぇと、身体に溜まってくばっかだったしな」
熊森は息を呑んだように、黙って耳を澄ます。
「でも、最近は……あんま、必要ねぇな」
「……どうしてです?」
「お前がいるからだろ」
猪原は、ごく自然にそう言った。
感情を込めたわけじゃない。
ただ、事実として告げただけの、低い、いつも通りの声だった。
熊森は、反射的に作業着の布をぎゅっとつかんだ。
「……それ、どういう……」
「……たぶん俺も、お前と同じなんだよ。……何かを済ませるために、やってんじゃねぇんだ」
「……」
「そばにいて、くっついて、匂い嗅いで……」
猪原はそこでいったん言葉を止めた。
扇風機の風が、ふたりの毛をなでるように通り過ぎる。
「……それで、じゅうぶん落ち着いてんだ。だから、してねぇ。今は、全然」
熊森は何も言わなかった。
ただ、ゆっくりと額をシャツの胸元に押し当て、
鼻先をくすぐる汗の匂いを、また吸い込んだ。
「……そっか。……じゃあ、俺もそれでいいんだな」
「元からそうだったろ。お前は、俺にとっても……」
そこで言葉が切れる。
「……あ?」
「いや、なんでもねぇ」
「気になりますよ、それ」
「……バカが」
猪原は小さく笑って、それ以上は言わなかった。
でもその笑い声が、熊森にとってはなによりの返事だった。
ふたりはそのまま、黙って寄り添い続ける。
汗も、作業着も、安全靴のままの重さも――
何ひとつ手放さず、ただ一緒にいるだけで、満たされる夜だった。
静かな風が、シャツの襟元から入り込み、
ふたりのあいだの体温と汗を、ゆっくりと撫でていく。
熊森は、胸に顔を埋めたまま、
まるで寝入りかけの声で、ぽつりと尋ねた。
「……じゃあ、もう俺ら、しないままでいいんすかね」
問いは、唐突でもなかった。
話の流れの先に、自然とたどり着いた“確認”。
猪原は、しばらく黙っていた。
けれど、拒むような気配はなく、
ただゆっくりと、事実だけを言葉にした。
「……俺は、別にそれで構わねぇ」
「……はい」
「ただ――」
言い淀むことなく、静かに続ける。
「身体の構造的に……まったく何もなしってわけにもいかねぇだろ。……溜まってくだけだ」
熊森は、小さく動きを止めた。
「……つまり?」
「たまには、一人で済ます。俺も、お前も。……それだけの話だ」
「……ああ。やっぱ、そうすよね」
熊森は、ごく浅く息を吐いた。
「俺も……何日も経つと、どうしても“どうにかしとくか”って時はあります。……ただ、それが“したい”って感情と繋がってないだけで」
「……わかる」
言葉はそれだけだった。
“処理”はしている。
でも、ふたりの関係に、それが含まれる必要はない。
むしろ、ふたりでいるときは、そういった欲を一時的に忘れていられる。
だからこそ、こんなふうに作業着と安全靴のまま、ぴたりと寄り添える。
熊森は、作業着の布をぐっとつかんだまま、
また猪原の胸元に額をあずけた。
「……こうしてるときは、なんか、全部いらなくなるんすよね。欲とか、疲れとか……」
「……ああ」
「……それでも、一人で済ませるとき、少しだけ……もったいない気もします」
「俺もだ」
それ以上は、言葉はいらなかった。
扇風機の音と、汗の香りと、こすれる革の音だけが残る。
それで、じゅうぶんだった。
“しない”という選択ではない。
ただ、ふたりでいるときには“求めない”という、特別なバランスの上に立つ関係。
猪原と熊森にとって、それは確かに――
名前のない、でもたしかにそこにある“居場所”だった。
話が落ち着いたあと、
しばらく部屋の中には、扇風機の風の音だけが流れていた。
熊森は、猪原の胸元に顔を埋めたまま、
じっと、なにも言わなかった。
だけど、手だけは動いていた。
作業着の布をつまみ、指先でさわさわと撫でる。
シャツの継ぎ目をなぞるように、汗の滲んだラインを確かめるように。
猪原が黙ってそれを受け止めていると、
熊森は、すうっと鼻を寄せてきて、低く息を吐いた。
「……変な話、しちゃって、すんません」
「……ああ」
「でも……なんか、ちゃんと“あんたと話した”って感じがして、……ちょっとだけ、甘えたくなりました」
猪原は、ふと目を伏せる。
「……俺も、似たような気分だ」
「え……?」
「お前に何かされたわけじゃねぇのに……俺も、ちょっとだけ……くっつきたい」
そう言って、猪原の手が、
ごつい作業用の腕ごと、熊森の背中を引き寄せた。
ギュッと。
汗のにおいが再び混ざり合い、
ふたりの安全靴のつま先がしっかりとぶつかる。
「……うわ、めずらしい」
「うるせぇ。たまにはこっちも……甘えてもいいだろ」
「もちろん、いいっすけど……」
熊森は笑いながら、もういちど胸に頭を戻す。
その上から、猪原の額が、
そっと熊森の頭に触れる。
押し付けるでも、撫でるでもなく――
ただ、ふわりと乗せるだけの、獣同士の“甘え方”。
髪はない。
代わりに、短く柔らかい毛同士が、くすぐるように触れ合う。
「……あんたも、たまにはこういう気分になるんすね」
「たまにな」
「……ほんとは、もっとしてくれていいんすよ」
「……今してるだろ」
「……へへ」
熊森の声は、完全にほどけていた。
そして猪原も、目を閉じたまま、
胸元で感じる熊森の呼吸に、ゆっくりと自分の呼吸を合わせていった。
言葉も、距離も、もういらなかった。
ただ互いに寄りかかり、
ふたりとも、“甘える”側でいられる夜だった。
夜の静けさは、
そのままふたりを丸ごと包み込んでいた。
扇風機はタイマーで止まり、
畳の上には、ごつい作業着と安全靴のまま寄り添い合うふたつの体があった。
胸元に顔を埋めた熊森と、
その頭に額をそっと寄せた猪原。
どちらも眠っていた。
深く、静かに、何も言わず。
毛と毛が重なる額の感触、
安全靴がこすれたまま触れ合っている重さ――
それは“境界のない安心”そのものだった。
朝。
窓の外、まだ青みの残る空。
鳥の声が遠くから聞こえてくる。
猪原が先に目を覚ました。
畳の固さに背を伸ばそうとして、
すぐ、自分の胸に重みがかかっているのを思い出す。
視線を落とすと、熊森が気持ちよさそうに顔を埋めたまま、うっすら寝息を立てていた。
「……おい、もう朝だぞ」
ぼそっと言ってみるが、反応はない。
そのまま腕を少しずらし、熊森の背を軽くぽんぽんと叩いた。
「……起きろ。くっつきすぎて、暑ぃ」
それでようやく、熊森がむにゃむにゃと顔を動かす。
「……うぅ、でも……あったかい……」
「……昨日、ちょっと……くっつきすぎたな。いくらなんでも」
「え、そうすか?」
熊森は、目を開けきらないまま、
作業着の裾をつまみながら答える。
「……俺はちょうどよかったっすけど」
「……お前がそう言うと、逆に不安になるんだが」
「でも……あれくらいしないと、ちゃんと“甘えた”って感じしなくて……」
「……バカが」
猪原はため息混じりにそう言って、
片腕で熊森を押しやるようにして、ようやく身体を起こした。
安全靴の軋む音。
作業着の継ぎ目が、寝ぐせのように折れている。
熊森はまだ寝ぼけ眼で、その姿を見上げる。
「……今日も現場、ですかね」
「当たり前だ。……あと十分で出るぞ。急げ」
「うぃー……」
熊森は立ち上がりながら、
そっと猪原のシャツの背中に鼻先を寄せて、ふわりと一息吸った。
「……昨日の残り香、まだちょっと残ってるっす。……ラッキー」
「……やめろ。シャツ替える」
「やめてください、やめてください」
ふたりの一日は、いつもと同じように始まった。
けれど、昨夜くっついて眠った“距離のなさ”が、まだどこかに残っている。
作業着も、安全靴も、布団も――
全部ふたりのものだった。
それが、なんとなく誇らしかった。
夜。
いつものように、畳の上で横になったふたり。
作業着のまま、安全靴も脱がず、ただ寄り添う。
シャツの下にまだわずかに残る熱が、互いの体温と混ざっていた。
熊森は、少しだけ上体を起こすと、
隣でごろりと寝転ぶ猪原の方を見下ろした。
「……あんた、ちょっとだけ……こっち、向いてもらっていいすか」
「……は?」
「いいから。ちょっとだけでいいっす」
猪原は面倒そうに眉をひそめながらも、
体を少しだけ横向きにする。
その瞬間、熊森の大きな腕が――
ゆっくりと、猪原を包み込むように回された。
「……おい」
「……たまには、俺の番っすよ」
言いながら、熊森は背中から、
まるごと抱きとるようにして、猪原の身体を引き寄せる。
厚い胸板と腕が、がっしりと囲う。
安全靴の脚も、そっと添えるように重ねられる。
「……お前な……」
猪原は文句を言いかけたが、
腕の中にすっぽり収まったその体勢のまま、なぜか言葉が途切れた。
圧迫ではない。
過剰でもない。
ただ、大きな体に“収まっている”という感覚。
それが、不思議なほどに心地よかった。
「……こうしてると、俺の方が守ってるみたいで、悪くないっすね」
熊森は、ちょっと照れたように、低く笑った。
「……甘えるだけじゃなくて、“あんたを包む”のも……たまには、ありだなって」
猪原は、わずかに鼻を鳴らした。
「……柄じゃねぇって自分で思ってんなら、やめとけ」
「でも……あんた、逃げてないじゃないですか」
「……」
返事の代わりに、猪原は目を閉じた。
しっかりと包まれるような重み。
シャツ越しの、毛並みと汗の匂い。
動かない安全靴の先が、ぴたりと自分の靴に重なっている感触。
「……重てぇな」
「すみません。でも、これが俺っす」
「……なら、しょうがねぇか」
ぽつりとそう言って、猪原は少しだけ肩の力を抜いた。
熊森の腕の中、ふたりの呼吸がゆっくりと揃っていく。
“守る側”“甘える側”――
そんな言葉がどうでもよくなるくらい、ただ静かに、“包まれている”という安心だけがそこにあった。
[newpage]
午後。
引っ越し業者の車が遠ざかる音が聞こえなくなって、
部屋の中にようやく静けさが戻ってきた。
段ボールの山は壁際に寄せられ、
まだ中身も整理されていないが、もう“ここが住まいになる”ことに、ふたりとも異論はなかった。
熊森はTシャツにジーンズというラフな服装で、
畳に腰を下ろし、缶のお茶を手にしていた。
隣では猪原が、首元のタオルで汗をぬぐいながら、黙って扇風機をつける。
ブゥゥゥゥン……
涼しい風が通り抜ける。
「……終わったっすね」
熊森が、ぽつりとつぶやいた。
猪原はタオルを首にかけたまま、短くうなずく。
「……ああ。これで、お前の部屋ともおさらばだな」
「“あっちの俺の部屋”じゃなくて、“こっちの俺の部屋”になった感じっすね」
「……違いが分かんねぇな、それ」
ふたりは、同じく畳の上に並んで座る。
服装が違うだけで、妙に不慣れに見える。
作業着でもなければ、安全靴も履いていない。
熊森は、足元の靴下を脱いで丸めながら、
ふと、天井を見上げて言った。
「……私服で並んでると、なんか変っすね」
「……落ち着かねぇな。お互いに」
「でも、やっぱここがいいや。こっちが“帰る場所”って感じする」
猪原は、缶のプルタブを開けて、ぐいとひと口。
「……だったら、文句言うな。ここが本宅だ」
「うぃー」
熊森は寝転がるようにして、畳に背を預けた。
「……これから、ずっとこっちに帰ってくるって思うと……ちょっと緊張しますね」
「……今さらなに言ってんだ」
「いや、形式的な話っすよ。今までは“寄ってただけ”だったのが、今度は“住んでる”って言えるじゃないっすか」
「……変わらねぇよ。どっちでも、俺がここで待ってりゃ、同じだ」
「……あんたがそう言うと、めっちゃ安心します」
熊森は、寝転んだままにっこり笑った。
荷ほどきはまだ先だ。
けれど、この一息が、ふたりにとっては一番大事だった。
騒がしい時間を終えて、ようやく戻ってきた――
ふたりだけの、変わらない静けさ。
引っ越し当日、
その“疲れたけど嬉しい”という感覚が、ゆっくりと部屋を満たしていく。
午後の陽が、窓のカーテンの隙間から伸びている。
引っ越し当日の余韻。私服のまま、畳に背を預けていたふたり。
熊森が、のそりと上体を起こし、ぽりぽりと首をかいた。
「……そろそろ、作業着に着替えます?」
猪原は、扇風機の風に当たりながら缶を置き、
ちらと横目を向ける。
「まだ昼だぞ。今日くらいはのんびりしてろ」
「……でも俺、あのシャツ着ると落ち着くんで。……早く、あの匂いのやつ着たいっす」
「バカかお前は。洗ったばっかだ」
「それでも匂い残ってますよ。ちゃんと篤志さんの」
「…………は?」
その呼び方に、猪原の動きが止まる。
熊森は、ふいに笑いも照れも混ぜたような表情で、
畳に両手をついて猪原のほうへ身体を傾けた。
「……心機一転っすよ。これからは正式にここで暮らすんで、ちゃんと呼んでみようかなって」
「……下の名前に“さん”って……今さらどうした」
「なんとなく。でも……いいかなって思って」
猪原は、肩で息をつき、
それでも怒るでもなく、頭を振った。
「……まあ、いいけどよ。照れくせぇな」
「俺もめっちゃ照れてます。でも……今日だけは、そう呼びたい気分っす」
「……しょうがねぇな」
熊森はそのまま、身体を滑らせて、猪原の隣に座り直す。
そして自然に、横から腕を回して、そっと引き寄せる。
「……篤志さん、今日はありがとう」
「……そうかよ」
「俺、ほんとに……こっち来れてよかったって思ってます」
「……なら、これからもっと働け」
「はーい」
そう答えながら、熊森はゆっくりと猪原の胸に頭を預ける。
まだ私服。
けれど、すでにふたりの空気は、“いつもの作業着”と変わらないぬくもりをまとっていた。
心機一転。
けれど、変わらないものもある。
そして、それが“ふたりの居場所”だった。
熊森は、作業着ではないシャツの布越しに、猪原の胸に顔を預けたまま、ふと口元を緩めた。
「……でも、明日からはまた“あんた”って呼ぶかもです」
「なんだそれ。心機一転はどこ行った」
「いや、今日の分はちゃんと“篤志さん”で過ごしたってことで……」
「……一日契約か」
「でも……それでも、ちょっと言えてよかったです。名前で呼ぶの」
猪原はそれには返事をせず、
ただ胸に感じる熊森の重さを、ゆっくりと受け止めていた。
部屋は静かだった。
風の音も遠く、生活音のない畳の空気が、妙に澄んでいた。
そして、猪原はぽつりとつぶやく。
「……湊真」
熊森の身体が、わずかにびくりと動く。
顔を上げるでもなく、
布に鼻を押しつけたまま、低く応えた。
「……今、呼びました?」
「ああ」
「初めて、ですよね」
「……たぶんな」
「……なんか、くすぐったいっすね」
「言ってるこっちもそうだ」
熊森は、ゆっくりと額を猪原の胸にこすりつけた。
「……でも、やっぱいいな。……“湊真”って呼ばれるの」
「……たまにでいいか?」
「毎日はきついっすよね」
「お前も“篤志さん”って毎日は言わねぇだろ」
「はい。明日からはまた、“あんた”で」
「……なら、たまにでいい」
互いに名を呼び合ったその瞬間だけ、
ふたりは少しだけ“これまでと違う”関係に触れた。
けれどすぐに、またいつもの“あんた”と“お前”に戻っていく。
それでも、ふたりが名前を口に出したことだけは、確かに残っていた。
畳に並んだふたつの影。
その間には、名もないまま、名を知ったぬくもりがあった。
夜。
時計の音もしないほど静かな猪原の部屋。
畳の上に敷いた布団の中、ふたりは作業着のまま横になっていた。
いつものように安全靴も脱がず、互いのぬくもりを感じられる距離で眠りについていたはずだった。
――けれど。
熊森だけが、まだ目を閉じていなかった。
「…………」
隣で寝息を立てている猪原をちらと見る。
胸がゆっくり上下していて、シャツの生地がかすかにこすれる音が聞こえる。
(……寝てる、よな)
熊森は、息をひそめながら、そっと身を寄せた。
寝返りを打つふりで、作業着ごしの体温に触れようとする。
けれど、それでも心は落ち着かない。
汗でもない、熱でもない。
喉の奥が詰まるような、どうしようもない気持ちが、胸にたまっていた。
そのまま、ほとんど声にならないほどの小ささで――
熊森はぽつりとつぶやいた。
「……篤志さん」
呼んだ瞬間、自分の鼓動がどくんと鳴った。
まさか、と思う。
寝ているはずだとわかっていても、どこかで“返ってくるかもしれない”と怖くなる。
けれど。
そのとき、猪原が――ゆっくりと、片腕を上げた。
なにも言わず、
ただ、無言のまま腕を広げる。
熊森のためだけの、ぬくもりの場所。
「……起きてたんすか」
「…………」
返事はない。
けれど、開かれた腕がすべてを語っていた。
熊森は、ごく自然にそこに滑り込む。
がっしりとした体格の胸元に、
いつものように顔を押しつける。
「……呼んじゃいました。……名前で」
猪原は、ただ一言だけ、低く、胸の奥で応えた。
「……たまには、いい」
「……すげぇ、落ち着きます。……さっきまで、眠れなかったのに」
「……だったら、もう寝ろ」
ぽん、と背中に手が置かれる。
指先の重みが、言葉より深く届いてきた。
熊森は目を閉じながら、
猪原の胸の匂いを、シャツ越しに深く吸い込む。
「……篤志さん……ありがと」
「…………」
そのまま、返事はなかった。
けれど猪原の腕が、いつもより深く背中を抱いてくれていた。
名前で呼んだ夜。
返事の代わりに、ぬくもりが応えてくれた夜。
熊森の呼吸は、すぐに穏やかになり、
やがて、いつものようにふたりの呼吸がぴたりと重なっていった。
休日の夜。
夕飯も終わり、ふたりは畳に座ったまま、テレビの前に並んでいた。
作業着のまま、安全靴は脱いで足をくずし、いつも通りの距離感。
テレビでは、お笑い番組が賑やかな音を流していた。
芸人のやりとりがテンポよく続き、観客の笑い声がスタジオに響く。
それにつられるように――熊森も、つい、吹き出していた。
「っはは……バカすぎる……何すかあれ……」
肩を揺らして笑う熊森。
声は低いのに、笑い方は妙にくすぐったい。
そしてなにより――本当に楽しそうな顔をしていた。
猪原は、隣でそれをじっと見ていた。
笑っている顔。
口元の形。鼻の動き。肩の揺れ。
いつも現場では無愛想に見えるのに、
こんなにも柔らかく、素直に笑うんだなと――不意に、思った。
熊森は、ふとその視線に気づく。
「……なに見てんすか」
「……いや」
「え、俺、なんかついてます?」
猪原はテレビを見たまま、ぽつりと漏らした。
「……笑い顔と声が……かわいいと思った」
「――は?」
熊森は、一瞬固まった。
目を見開き、何かを言いかけたが、言葉が出てこない。
猪原は特にこちらを見返すこともなく、
ただ無造作に、缶のお茶を口に運びながら続けた。
「……たまに、そう思うだけだ」
「……たまに、って……」
「いつもじゃねぇ。だから、気にすんな」
熊森は顔を赤らめながら、
シャツの裾をむにむにと握りしめた。
「……そんなこと言われたら、笑えなくなりますよ……」
「……じゃあ、黙って見てろ。俺は見てる」
「やだ、それもっと照れる……」
熊森は顔をそむけたまま、笑いながらも、
さっきとは違う、少し照れた笑い方をした。
猪原は黙って、
その“笑い声の変化”まで、ちゃんと聞いていた。
ただ隣に並んで、お笑い番組を見ているだけ。
けれどその夜、ふたりのあいだには、
ちょっとした「好き」がにじんだ空気が流れていた。
熊森は、まだどこか落ち着かない手つきでシャツの裾をいじりながら、
テレビの画面から視線をそらしたまま、ぽつりと呟いた。
「……じゃあ、篤志さんの笑い方も……今度、見たいっす」
「……笑い方?」
猪原は目を細める。
「お前、見てんだろ。俺が笑ってるとこ」
「……それ、“ふっ”て鼻で笑うやつとか、“にやり”とかでしょ」
熊森は、やや頬を赤らめながらも、言葉を続けた。
「そうじゃなくて……あんたが、本当に笑ってるとこ。肩とか揺れて、ちょっと声出てて……そういうやつっす」
猪原はしばらく黙った。
缶をテーブルに置き、手を組んだまま、
視線をテレビから熊森へ、ゆっくりと向けた。
「……そんなん、俺には似合わねぇだろ」
「似合うかどうかじゃなくて……見たいんすよ、俺が」
それは、ふざけて言ったわけじゃなかった。
熊森の声には、どこか真面目な重みがあった。
それに気づいて、猪原も肩をすくめるように息をついた。
「……まあ、出たら出たで見とけ。意識してやるもんじゃねぇ」
「……いつか出してくれます?」
「出すかもな。お前の顔が変だったら」
「変顔、研究しときます」
「……バカが」
熊森はふっと笑って、またテレビの方を向いた。
でも今度は、さっきよりもほんの少しだけ、
猪原に身体を寄せたまま、静かに肩をくっつけていた。
それを猪原が受け止めて、
何も言わずに寄りかかる肩に力を抜く。
本当の笑いが出る日も、もう遠くない気がした。
番組のエンディングテーマが流れ始めたころ。
熊森は、ごろんと横に寝転んだまま、目を細めてつぶやいた。
「……やっぱ、なんか落ち着かないっすね。私服だと」
「……そうだな」
猪原も、缶を片づけながらゆるく立ち上がる。
「着替えるか。戻すぞ、俺たちの“正装”に」
「うぃー。戻しましょう」
畳の隅に置いてあった作業着の上着を手に取り、
熊森はふわりと鼻先を押しつけた。
「……ああ、これこれ。これが落ち着く」
「バカが……変な顔すんな」
「してないっす。いつもの顔です」
それぞれ自分の作業ズボンに足を通し、
安全靴の紐を締める音が、しゅっしゅと部屋に響いた。
最後に、上着のボタンを留めながら熊森がちらと猪原を見た。
「篤志さん、そのシャツ……ちょっと湿ってないっすか」
「風呂上がりのやつだ。少し汗が戻ってきたな」
「……じゃあ、匂い、今いいっすね」
「……もう言わなくていい」
それでも熊森はにやにやしながら、
安全靴のつま先をちょんと猪原の靴にぶつけた。
ギュッ……
重なった革の音が、合図のように鳴る。
そのまま熊森が、ふいに身体を前に倒してきた。
がっしりとした作業着ごしに、胸を重ね、腕を回す。
「……着替えたんで、正装甘えタイム、いいっすか」
「……勝手に名付けんな」
猪原はぼやきながらも、
その腕を払いのけるような素振りは見せない。
むしろ、ごく自然に背中に手を添えて、
重みをゆっくりと受け止める。
「……やっぱこれが落ち着く。俺、作業着のときのあんたが一番すきっす」
「……毎日見てるくせに、飽きねぇんだな」
「むしろ毎日じゃないと困ります」
シャツ越しに鼻を押しつける。
毛並みにこもった匂いと、湿り気と、あたたかさ。
安全靴とベルトと作業布がこすれる音。
全身がふたりだけの温度になっていく。
「……湊真」
「……ん」
「お前も、やっぱこっちが似合ってる」
「そっちも、っすよ」
ふたりはもう、完全に“戻っていた”。
テレビの笑いも、私服の空気も、すべてを越えて、
ただ“いつものふたり”として、重なっている。
ぬくもりの交換。
それは、今日も変わらず、そこにあった。
[newpage]
夜。
ふたりとも、風呂も晩飯も済ませて、あとは寝るだけ――という時間。
けれど今夜は、足元にいつもと違う重みがあった。
熊森が、自分の長靴型安全靴の足首を軽く蹴って見せながらつぶやく。
「……なんか変な感じしますね。これ履いたまま横になるの、久々っす」
「……まぁ、たまにはいいだろ。汚れてねぇやつなら」
猪原も同じく、きれいに洗って乾かした長靴タイプの安全靴を履いたまま、畳の上にごろりと寝転んでいた。
素材は、いつもの革とは違う。
やや軟質なゴムがベースで、足首からふくらはぎまでをしっかり覆っている。
動かすたびに、ぎゅ、ぎゅっと鈍い音が鳴った。
乾いた革のこすれではなく、しっとりとした密着のある音。
熊森は足を少し曲げて、
猪原の靴にそっとつま先を合わせてみた。
「……音、ぜんぜん違いますね。なんか、ぬるっとしてて」
「おう。……でも悪くねぇ」
猪原は目を閉じたまま、ゆるく足を重ね返す。
ぎゅり、ぎゅっ――
いつもの“ギュッ”とは違う、柔らかく鈍い音。
熊森は、膝を猪原の脚に沿わせながら、さらに言う。
「……足、包まれてる感じが強くて……ちょっと、落ち着くかも」
「確かにな。……いつもより守られてるっていうか、遮断されてるっていうか……」
「うん。なんか、ここだけ別の世界っすよ」
足先の重さが、ふくらはぎから膝裏までじんわり伝わる。
それが逆に、身体の他の部分を軽く感じさせる。
熊森はそのまま、身体ごと横から猪原にくっついた。
「……篤志さん」
「……なんだ」
「今日は、足元から甘えてる気分っす」
「……よくわかんねぇけど……お前がそう思うなら、そうなんだろ」
猪原は目を細めながら、熊森の脚を軽く寄せるように押し返した。
長靴同士が、またぎゅ……ぎゅっと鳴る。
シャツの布越し、腹と腹が当たる。
腕と腕、胸と背。
だけど今夜は、“足元”のぬくもりが主役だった。
いつもと違う履き心地。
でも、そこに触れる相手は、やっぱり同じだった。
熊森は、つま先を猪原の靴の外側に沿わせながら、
うっとりしたように言う。
「……たまには、こういうのもいいっすね」
「たまにな。蒸れるから毎日は無理だ」
「蒸れたら嗅ぎます」
「やめろ。寝ろ」
「うぃー」
ふたりの会話が落ち着いていく中でも、
足元のしっとりとした重なりだけは、じんわりと熱を保ち続けていた。
朝。
窓の外では、鳥の声と、遠くの車の音が重なって聞こえる。
畳の上、ふたりはまだ作業着と長靴を履いたまま、ほとんど動かず並んでいた。
熊森が先に目を開け、うーんと身体を伸ばす。
「……なんか、足があったかいまんまっす……」
「……それ、長靴のせいだろ」
低く、隣から返ってくる声。
猪原もすでに目を覚ましていた。
「……思ったより寝れましたね。包まれてる感が良かったっす」
「おう。……ただし、蒸れたな、完全に」
そう言いながら、猪原が座り直し、
自分の足元の長靴を脱ぐ。
ぐっ……ぬっ……
やや湿りを帯びた音が鳴り、足が空気に触れる。
それと同時に、ふわりと、こもった匂いが立ちのぼった。
熊森の鼻が、ぴくりと動く。
「……あ」
「……おい、やめろよ。その顔」
「いや、違いますよ。……今の、めっちゃ“生きてる匂い”でした」
「朝から元気だな、お前……」
熊森は自分の長靴も脱ぎ、
中にたまっていた熱気がふわっと出てくるのを、思わず深く吸い込んでしまう。
「……うわ、俺のもすごい。最高っす。あったかくて、湿ってて、ちょっとゴムの匂い混じって……」
「……朝メシ前にやるなよ」
猪原はタオルで首を拭きながらぼやくが、
声に呆れた色はあっても、本気の怒りはない。
熊森は靴の中をのぞき込みながら、にっこり笑った。
「……篤志さんのも、あとでもう一回、嗅がせてもらっていいですか?」
「一回で足りねぇのかよ……」
「湿ってると、最初のと二回目で香り変わるんすよ。……ちゃんと違う顔見せてくれるっていうか」
猪原はそれを聞いて、タオルを外しながら鼻を鳴らす。
「……だったら、お前のも嗅ぐか。お返しに」
熊森が目を丸くする。
「え、ほんとっすか?」
「おう。蒸れた匂いで朝から盛り上がってる奴にだけ、許してやる」
猪原がそう言ったとき、熊森の耳がぴくんと揺れた。
「……じゃあ、ちゃんと嗅がせますね。……俺の、今、一番濃いやつ」
熊森は、長靴の片方を両手で持ち上げ、そっと中をのぞき込んだ。
湿った内側には、自分の体温と汗がたっぷり残っている。
ほんのわずかに曇った内側――
そのぬるく湿った空気が、口元まで立ちのぼる。
「……湯気じゃないけど、……“残ってる”感ありますね、これ」
猪原はやや面倒くさそうに座り直しながら、
片手で熊森の長靴を受け取った。
「……じゃあ、いくぞ」
「……はい。感想ください」
猪原は長靴の筒口を手で少し押し広げ、
鼻先をすっと近づけて、静かに吸い込んだ。
ふっ……
その瞬間、表情は崩れなかった。
けれど、目の奥がほんのわずかに細められる。
「……おう。濃いな。……昨日より深い匂いしてる」
「やっぱり?」
「乾きかけより、こもりきった方が……“らしい”」
熊森は嬉しそうに小さく笑い、
今度は猪原の脱いだ長靴に手を伸ばした。
「じゃあ、俺も……」
猪原はそれを黙って渡す。
熊森は、手袋をしているときよりも丁寧に、
長靴の内側に鼻を近づけた。
くん――、ふぅ……
「……うわ。……これ……」
「なんだよ」
「……あんた、寝てる間もずっとあったかかったっすもんね。……湿りがちゃんと“あんたの温度”してる……」
「……何言ってんだ。靴だぞ、それ」
「靴だからっすよ。……篤志さんの靴だから、俺、これすげぇ好きです」
猪原はわずかに顔をそらしながら、
自分の靴をそんなふうに扱われているのを見て、苦笑をひとつ漏らす。
「……誰にも見せんなよ。こんな朝の使い方」
「もちろん。……ふたりだけの朝っすよ」
そう言って、熊森はそっと長靴を畳の上に戻す。
そして、ふたりの靴先を並べてから――猪原のつま先に、ちょんと自分の靴を当てた。
ぐっ……ぬっ……
ゴム同士が押し合って、またいつもと違う鈍い音が鳴る。
熊森は、その音を確かめるように言った。
「……これ、記念に覚えときます。長靴の日の朝」
「……そんなにレアだったか?」
「レアですよ。蒸れて、嗅いで、許してもらえる朝なんて……世界中でここだけっす」
猪原はまた鼻を鳴らして笑う。
「……なら、次はもっと蒸れさせてみるか」
「……約束っすね」
そう言いながら、熊森はもう一度、猪原の靴の中に視線を落とした。
ふたりの朝は、匂いとぬくもりで始まっていた。
長靴の中のぬくもりと匂いを堪能したあと――
畳に並べて置かれたふたつの長靴の先が、ぴたりと触れ合っていた。
熊森は、それをじっと見下ろしたあと、
にやりと笑って口を開く。
「……じゃあ、今日はこのまま長靴で出ます?」
猪原はタオルで首を拭きながら、横目に熊森を見る。
「おう……蒸れた足で現場行くのか。マジか」
「“こもりたて”で動くと、匂いの質変わるかもしれないっすよ。動的変化ってやつで」
「分析するな、朝から」
熊森は靴を履いたまま膝を抱え、笑いながら言う。
「いやでも……このまま出るの、ちょっとおもしろくないっすか。昨日の夜からずっと履いてるわけで」
「まる一日、“靴脱がずにいたふたり”ってわけか」
「そうそう。“寝ても覚めても長靴”。なんか……こう、絆って感じで」
「バカな理由だな……」
猪原はそう言いながらも、すでに靴を履き直していた。
ぐっ、ぬっ――
音を立てて足を差し入れ、ふくらはぎまで包まれる感覚を確かめる。
熊森もそれに続いて、自分の長靴をぐいと履き直した。
「……あー、やっぱすごい。履いた瞬間に“朝の記憶”って感じっす」
「……言い回しがキモい」
「でも本音なんで」
ふたりは、ぎゅっぎゅっと靴底で畳を踏みながら立ち上がる。
安全靴の重さが、足の裏から全身に伝わってくる。
けれど今朝のそれは、なぜかちょっとだけ軽く感じた。
「じゃあ、長靴で出るってことでいいんすね?」
「おう。“今日はそういう日”だ」
「やった……!」
熊森は嬉しそうに靴のつま先を合わせる。
ぐっ……ぎゅりっ……
その音が、ふたりにしか分からない合図のように鳴った。
猪原はタオルを首にかけ、シャツの裾を整えながらつぶやいた。
「……靴ひとつで上がるテンションってのも、悪くねぇな」
「はい。俺ら、靴でもう繋がってますからね」
「……はいはい、さっさと飯食って出るぞ」
「うぃー。篤志さんの長靴、今日はたっぷり汗かかせてくださいね」
「お前がかかせるんだろ、どっちかって言うと」
そんなふたりの声が、
畳の上に重なるぬれた足音といっしょに響いていた。
今日は“長靴のまま出る”――
それだけで、ふたりにとっては、少し特別な一日だった。
朝の現場。
砕石と砂利の敷かれた敷地に、重機のエンジン音が響いていた。
作業員たちは既に持ち場ごとに散っており、ヘルメットとベストを着た姿があちこちで動いている。
その中を、鋼板入りの長靴をぎゅっぎゅっと沈ませながら歩いてくるふたりの姿があった。
猪原と熊森。
普段はくるぶし丈の半長靴を履いてくるふたりが、今日は揃って――ふくらはぎまでの安全長靴。
しかも、どちらも見た目はしっかり手入れされた新品。
だけど内部には、前夜から眠るまで履き続けていた“湿気と匂いの記憶”がまだ残っていた。
現場にいた年配の作業員が、ふと二人に目を留めた。
「あれ? 今日は長靴か、ふたりとも」
猪原はヘルメットの位置を直しながら、いつも通りに返す。
「……雨予報、出てたからな」
熊森も、ごく自然に相槌を打つ。
「一応、用心っす。地面ぬかるんでるかもって」
「そりゃそうだな。昨日の夜、ちょっと降ってたしな。滑らねぇようにな」
「おう、気ぃつけてください」
言葉だけ見れば、なんてことのないやり取り。
だが――ふたりだけは、どこかおかしみを噛み殺すように、目を合わせようとはしなかった。
「……今、匂いのこと思い出して笑いそうでした?」
熊森がこっそり囁く。
「……お前のせいだろうが」
猪原は低く返すが、声に力はなく、どこかくぐもっていた。
歩くたび、長靴のゴムがきしみ、
鋼板入りのつま先が、砂利を踏んで鈍く重い音を立てる。
ぐっ、ざっ、ぎゅっ……
ふたりの足音だけ、少し他の作業員と違っていた。
熊森が、ヘルメットをかぶり直しながら言う。
「……ねぇ、今俺たちだけ、足の中が“昨日から続いてる”って知ってるの、ちょっと良くないすか」
「知らねぇよ。バレたらバカみてぇだぞ」
「でも……あったかいし、ちょっと気持ちいい」
猪原は、何も言わずに前を見たまま、
ほんのわずかに鼻を鳴らした。
ふたりの靴の中には、“昨夜の体温”がまだ、確かに残っていた。
今日も一日、重い鋼板と湿った記憶を足に抱えたまま。
でもそれがふたりにとっては、ちょっとした誇りだった。
午前の作業がひと区切りついた現場。
工具音と無線のやり取りが一段落し、作業員たちは各自、日陰や資材の影に散って休んでいた。
プレハブの脇にある仮設のベンチ。
そこに、作業着のままどすんと腰を下ろした猪原と熊森。
ふたりとも、まだ鋼板入りの長靴を履いたまま。
ふくらはぎまで覆われた脚には、確かな重さと熱がこもっている。
熊森が、缶のお茶を飲みながら、
ちら、と足元に目を落とした。
「……あんた、蒸れてきてます?」
猪原は一度だけ目を向け、
また前を見ながら低く答える。
「……当然だろ。風、通らねぇんだぞ」
「ですよね。俺も、だいぶこもってきました」
言いながら、熊森は自分の靴を軽く動かす。
ぎゅっ……
湿気を帯びたゴムが、わずかに鳴る。
猪原も、足をわずかに開き、
無言のまま、つま先同士を並べてみる。
熊森のつま先が、ちょんと猪原の靴に当たる。
ぐっ……
その音だけで、お互いの“状態”が伝わる気がした。
「……こもり具合、似たようなもんっすね」
「昨夜からだからな。いまさら差なんか出ねぇよ」
熊森は、ふくらはぎのゴム部分にそっと手を添えた。
「……ここ。さわると分かります。ちょっとしっとりしてる」
「……やめろ。変な顔すんな」
「してないっす。……真面目に観察してます」
猪原はため息をひとつついて、
自分の脚にもそっと指を滑らせた。
作業ズボンの中、靴の上端。
確かに湿りが肌にまとわりつく。
「……お前が言った“動的変化”ってやつ、出てきたかもな」
「やっぱり。汗と空気の混ざり方が、朝と違う匂いしてるはずです」
「……あとで嗅がせてやるよ。休憩終わったらな」
「……ありがとうございます」
そう言って熊森は、にやけをこらえながら缶を一口。
靴の中では、指先がすこし湿気にくすぐられていた。
ふたりの靴は、ベンチの下で並び、
同じように鈍く、濡れた音を吸っていた。
作業はまだ続く。
でも、この“ふたりだけが知る湿気”のやりとりが、今日を少しだけ面白くしてくれていた。
夜。
玄関の引き戸を閉めた音が、カラリと響いた。
作業を終えて戻った猪原と熊森は、まだ長靴タイプの安全靴を履いたまま。
汗と埃、そして内部にこもった熱が、足首からふくらはぎまで重たくまとわりついていた。
猪原が無言で腰を下ろし、ゆっくりと片足ずつ、長靴の縁をつかむ。
ぐっ、ぬぅっ……
わずかな抵抗と、内側に残る湿気が引き離されるような音。
脱いだ瞬間、部屋の空気が少しだけ変わった気がした。
熊森もその隣で、靴を脱ぎながら小さく息を吐く。
「……あー……これ、今が一番濃いっすよ。絶対」
「おう。……一日、密閉してたからな」
熊森は猪原の脱いだ長靴に手を伸ばした。
まだ温かみを残すその筒口に、そっと鼻を近づけ――
くん……
「……あー、来ました。……完全に“篤志さんの一日”って匂いしてます」
「……うるせぇな」
「でもほんと、朝のと違う。湿度が熟成されてるっていうか……蒸気に“あんたの足の記憶”が混ざってて……」
猪原はまた鼻を鳴らしながら、今度は熊森の靴を手に取る。
さして照れるでもなく、
ごく自然に、それを持ち上げ、やや身を屈めて深く吸い込んだ。
ふぅ……
「……お前のも、こもってるな。今日の分、全部残ってる」
「……ですよね」
「朝より……甘くなってる気がする」
「それ、俺の体質かもです。疲れてくると、匂いが“柔らかくなる”って言われたことあるんで」
猪原は靴を戻しながら言う。
「……そうか。じゃあ、これは“疲れた熊森の匂い”だな」
熊森が目を細めて笑う。
「……“湊真”って呼ばれて、その匂い嗅がれると……ちょっと変な気分になります」
「……それでいいなら、それでいい」
ふたりは、長靴を並べて畳の隅に置いた。
一日中履いていた靴――
そこに染みついた汗も、埃も、蒸れも。
すべてが、“今日ふたりで過ごした証拠”だった。
熊森はそのまま、猪原の隣に座り直し、背中に体重を預ける。
「……ほんと、いい日でした」
「……靴が蒸れただけだぞ」
「でも、その蒸れを共有できたんで」
「……バカが」
猪原は、照れ隠しのようにぽんと熊森の背を軽く叩いた。
湿気は、まだ足元にじっと残っていた。
嗅ぎ直すという行為は、ふたりだけが持つ“時間の確認”だった。
長靴を並べたまま、ふたりは座り込んでいた。
風呂にもまだ入らず、作業着のまま。
扇風機の風が、ふたりの汗と、靴の残り香を部屋に緩やかに広げていた。
熊森が、ちらと長靴に目をやる。
「……あの。乾く前に……もう一回、嗅がせてもらっていいですか」
猪原はすぐには返事をしなかった。
ただ、少しだけ身体を傾け、
熊森の目線をたどるように、並んだ自分の長靴を見やった。
「……乾くまでが勝負、か」
「はい。……時間たつと、変わっちゃうんで。さっきの、“寝てから動いてからの一日ぶん”……たぶん今が一番、残ってます」
猪原は目を細めて、ため息をひとつ。
「……しょうがねぇな。嗅げ」
「……ありがとうございます」
熊森は、ごく慎重に、猪原の長靴を両手で持ち上げる。
そのまま、鼻先をそっと筒口に寄せ、今度は深く吸い込むことはせず――
浅く、ゆっくり、空気をすするように嗅いだ。
すぅ……
「……うわ……やっぱ、今が一番っす……」
「どう違うんだよ」
「……さっきより、“空気に混ざってない”。……靴の中だけの匂い。閉じ込められてたのが、今……ちょっとずつ出てきてて……」
猪原は言葉を挟まず、
ただそれを見守っていた。
熊森の表情は真剣で、どこかうっとりしていた。
変態じみた笑いではない。
確かに、そこに“落ち着き”と“信頼”が混ざっていた。
「……お前はそれで満足か」
熊森はそっと靴を戻し、
両手を膝に置いて、まっすぐに言った。
「……はい。ありがとうございます。……ちゃんと今日が、終わった気がします」
猪原は無言のまま、タオルで額をぬぐった。
そして――自分の脱いだ靴のもう片方を手に取り、
今度は無言で、熊森に差し出した。
熊森が驚いたように見上げる。
「……いいんすか?」
「今嗅いだの、片方だけだろ。どうせなら、そっちも同じにしとけ」
「……っ……篤志さん……好きです」
「……言うな、バカが」
熊森は目を細めながら、
差し出されたもう一方の靴にそっと鼻を近づけた。
夜の部屋の空気に、湿ったゴムと汗の重なりあった香りが、
またひとつだけ、静かに花のように開いていった。
それはふたりだけが分かる、“今日という日の形”だった。
風呂上がり。
汗も埃も流し終えて、ふたりは清潔な作業着に着替えていた。
部屋には扇風機がゆるく回っている。
空気はすでに冷たく、濡れていた身体もすっかり乾いていた。
猪原は足元に置いておいた半長靴タイプの安全靴に手を伸ばし、
無造作に足を差し込む。
ぎゅっ――
革がなじむ音が、どこか“戻ってきた”ような感触をともなって響く。
熊森も隣で、片方ずつ靴を履きながら、ぽつりと呟いた。
「……ああ、これ。……やっぱ落ち着く」
猪原が鼻を鳴らしながら問いかける。
「……長靴より、か?」
「うん。なんか、こっちが“俺の靴”って感じします」
熊森は両足を揃え、ぐっと踏みしめて革を馴染ませながら、
軽く靴同士をこすり合わせた。
ぎゅ、ぎゅりっ……
そのいつもの音に耳を傾けてから、
にやりとも、ため息まじりともつかない笑みを浮かべて言った。
「……なんか、旅行から帰ってきたみたいっすね」
「……は?」
「いや、長靴って“よそ行き”っていうか、“イベント感”があったじゃないですか。……でも今、こうやって半長靴履いたら……“あ、帰ってきたな”って思ったんす」
猪原は短く答えた。
「……なるほどな」
熊森は続ける。
「現場で履いてる間は、普通に仕事してただけなのに……なんか、いま足が“ただいま”って言ってる感じします」
「お前の足、喋るのかよ」
「喋りますよ。篤志さんの隣だと特に」
猪原は立ち上がって、畳の上に一歩踏み出す。
ぎゅっ
懐かしい革の鳴き音が、夜の静けさに混ざって響いた。
「……まぁ、俺も、こっちのが馴染んでる」
「ですよね。落ち着くっすよね」
ふたりは、そのまま布団の上に横になる。
服も靴も、いつものまま。
夜の匂いも、体の重さも、“ただいま”と言える安心が全部そろっていた。
熊森はそっと猪原の胸に頭を預けながら、
小さく息を吐いた。
「……長靴旅、またやりましょうね」
「……ああ。ただし、次も蒸らすんだろ」
「もちろん。むしろ次は、“二泊三日コース”で」
猪原は苦笑いしながらも、
その額にぽんと手を置いて、静かに撫でた。
今夜は、“戻ってきた夜”。
ふたりにとって、何より心地よい、いつもの夜だった。
畳の上に敷かれた布団。
ふたりは並んで、作業着のまま、足元には鋼板入りの半長靴を履いたまま横になっていた。
体はしっかり洗ったあと。
けれど、足だけは“いつもの重さ”をまとっている。
それがふたりにとっては、落ち着く形だった。
熊森は、猪原の胸に頭をのせたまま、布の擦れる音に耳を澄ませていた。
静かな夜。
扇風機の風が、ごう、と一度鳴って、またゆるく回る。
猪原の心音が、胸越しにじんわりと伝わってきた。
それにあわせるように、熊森はほんの小さく、それでも聞こえるように、ぽつりと口を開いた。
「……篤志さん。……ただいま」
声に力はなかった。
けれど、それは“帰ってきた”者だけが出せる音だった。
猪原は目を閉じたまま、
少しだけ、熊森の背中を強く抱くように腕を回し直す。
そして、低く、しっかりと――
「……おかえり」
それだけを、胸の奥から絞り出すように言った。
熊森は、目を閉じながらふっと笑った。
笑い声ではなく、表情にだけ浮かんだ“安心”。
「……帰ってくる場所が、ちゃんとあってよかった」
「……寝ろ」
「うぃー」
言葉が途切れると、また静かになる。
畳と布団と、安全靴の中にこもったわずかな汗の匂い。
それがふたりにとっては、何よりの“日常”だった。
誰にもわからない場所。
けれど、ふたりだけが知っている“居場所”。
ただいま。
おかえり。
それだけのやり取りが、今夜を優しく閉じていった。
[newpage]
畳の上、ふたりは並んで布団に横たわっていた。
熊森は、いつものように猪原の作業着の裾を指でつまみ、
くん、と浅く匂いを嗅いでいる。
湿りはない。けれど、日中の汗と動きがまだ残っているような香り。
それを確かめるように、ゆっくりと鼻先を滑らせていた。
その横で目を閉じていた猪原が、
ふいにぽつりと口を開いた。
「……なぁ。お前……」
熊森の手が止まる。
「……ん」
「タオルじゃ、ダメなのか?」
「……タオル?」
「使い終わったやつ。風呂上がりのとか、作業中に首に巻いてたやつとか。……あれのが、汗は濃いだろ」
熊森は、一瞬だけ考え込むように黙った。
そして、そっと作業着の布に顔を戻したまま、静かに答えた。
「……濃いとか薄いとかじゃないんすよ。……“出たあとの匂い”より、“ついてた匂い”の方が……“あんたの中にあった”って感じがして」
猪原は眉をひそめたまま、わずかに目を開ける。
「……どういうことだ」
熊森は続ける。
「タオルって、汗を“受け止めたもの”じゃないすか。……でも作業着とかシャツって、汗と一緒に動いてる。あんたが仕事してるとき、肩とか背中とか……そういう“動き”が一緒に入ってるんすよ」
「……動き、ねぇ」
「たとえば、ここ――」
熊森は猪原の肩口のシャツに鼻先をあて、
そのまま深く吸い込む。
「……ここ、すげぇ“生きてる感じ”するんす。……匂いだけじゃなくて、あんたの息とか、重さとか……」
猪原は、しばらく返さずにいた。
だが、やがて短く言う。
「……わかった。つまり、お前が嗅ぎたいのは、“俺の中身”ってことだな」
「……うん」
熊森は、やや照れたようにうなずいた。
「だから俺、タオルも好きだけど……やっぱこうして、着てるものの方が安心するんす。あんたがそこにいたってわかる」
猪原は目を伏せて、小さく鼻を鳴らした。
「……理屈がわかるようで、わからねぇな」
「俺も、全部わかってるわけじゃないっす。でも……そういう匂い、俺、好きなんすよ。……“篤志さんが生きてる”っていう証拠だから」
その声は、冗談めいた軽さはなく――
素直な、甘えの延長にあるまっすぐさだった。
猪原はため息をひとつつき、
そっと熊森の頭に手を置いた。
「……好きにしろ。俺に実害ねぇなら」
「……うぃー。優しい」
「優しくねぇよ」
そんなやり取りの中でも、
熊森の鼻は、静かにシャツの布をなぞっていた。
その匂いを、今日の終わりの証として、
きっちり記憶に刻むように。
夜。
風呂も済ませ、作業着に着替えたふたりは、いつものように布団の上に並んでいた。
半長靴の安全靴を履いたまま。
シャツ越しの肌にまだ微かな温もりが残る、そんな時間。
熊森は、横になった猪原の胸元に顔をうずめ、
くん、くん……と、ごく静かに“いつもの嗅ぎ方”をしていた。
鼻先で布の起伏をなぞるように、
ときおり深く吸い込むようにして――まるで、“存在”を確認するように。
猪原は、その様子を見下ろしながら、
しばらくの間、何も言わずに眺めていた。
けれどふと、
胸に押し当てられた頭の重さを感じながら、
ぽつりと、口元から声が漏れた。
「……やっぱ、カワイイな」
熊森の動きが、ぴたりと止まる。
「…………」
顔を上げるわけでもなく、
布に鼻を押しつけたまま、声だけがこもった。
「……今、それ、聞き間違いじゃないっすよね」
「言ったよ。聞こえてんなら、それでいい」
熊森は、顔を伏せたまま、しばらく沈黙していた。
やがて――ほんの少しだけ、
猪原の胸に押しつけるようにして、ぽつりと声を落とした。
「……俺、カワイイって思われるの、嫌じゃないです」
猪原は目を閉じたまま、静かに息を吐いた。
熊森は続けた。
「……あんたにだけ、なら」
「……そうかよ」
「……俺、あんたのこと……好きですよ」
猪原のまぶたが、かすかに動いた。
熊森の声は、それ以上でも以下でもなかった。
ただ、まっすぐに、胸に響く音だった。
「……だから、毎日こうして……“好きだな”って思いながら嗅いでるんすよ」
「……変なやつだな」
「変なあんたに似たんすよ」
そのやりとりのなか、
ふたりの胸と鼻先のあいだにあるシャツだけが、わずかに布ずれを鳴らしていた。
“好き”が言葉になった夜。
でもそれは、特別ではなく――
ふたりにとって、ずっと前からそこにあった気持ちだった。
猪原はそっと、熊森の背に手を添え、
もう一度だけ静かに胸元へ引き寄せた。
「……ほら、続き、嗅げよ」
「……ん」
くん、と短く鼻を鳴らしながら、
熊森はまた、いつもの場所に顔を戻した。
そこが、自分の“好き”の居場所だった。
熊森が胸に顔を押しつけたまま、静かに鼻を鳴らしていた。
くん…… くん……
シャツの布に、低い呼吸が擦れる音が重なる。
それを受け止めながら、
猪原はほんの少しだけ視線を天井に向けた。
部屋は静かで、風もない。
けれど、胸のあたりにある体温だけが、ずっと熱を放っていた。
やがて、猪原がぽつりと呟いた。
「……じゃあ、明日は……お前の番な」
熊森の動きが止まる。
「……え?」
「……今日、お前が“好き”だって言ったろ。……だったら、明日は俺が、嗅ぐ番だ」
熊森はしばらく黙っていた。
口を開こうとして、閉じて――それを何度か繰り返す。
そして、シャツの上からそっと顔を上げ、
まだ少し耳の赤さを残したまま、猪原を見上げた。
「……篤志さんが……俺を?」
「おう。お前の匂い、たまには確認しとこうかと思ってな」
「……そ、それは……その……」
熊森の耳がぴくりと動き、尻尾が床をこつんと叩く。
「……じゃあ、ちゃんと……明日、いっぱい動いて汗かいてきます」
「……バカが。別に無理して蒸らせとは言ってねぇ」
「でも……嗅がれるって思うと、ちょっと頑張りたくなるんすよ。……あんたになら」
猪原は鼻を鳴らしながら、
そっと熊森の額に自分の額を寄せた。
「……お前のそういうとこが、面倒くせぇし……可愛いんだよ」
熊森はまた、顔を赤らめながら、
言葉にはせず、うん、とだけ小さくうなずいた。
そしてそのまま、また胸に顔を戻し、
静かに目を閉じた。
“明日は、あんたの番”
たったそれだけの一言で、
ふたりは、またひとつ重なった。
言葉もなく、約束もなく。
けれど、しっかりと“互いの番”を渡し合っていた。
夜。
その日の作業を終え、ふたりはいつも通り猪原の部屋に戻っていた。
汗と埃を洗い流し、作業着に着替え直す。
けれど――靴は、まだ履いたまま。
今日の熊森は、いつもより体を動かしていた。
荷の受け取りや搬入の応援、少しの走り回り。
そのせいか、作業着の背や首元にはうっすらと汗の濃さが残っていた。
猪原は、その様子を横目に見ながら、黙ってタオルを首にかけ、畳の上に腰を下ろす。
熊森も少ししてから隣に座り、
なにげないふうを装っていたが――視線だけは、ちらちらと猪原を追っていた。
沈黙のまま、数分。
扇風機の風が回る音だけが、部屋をめぐっている。
そして猪原が、不意に動いた。
すっと身体を近づけ、熊森の前へ。
熊森が、ごく自然に背を向ける。
「……どうぞ」
低い声。けれど、どこかくすぐったさを堪えた響き。
猪原は何も言わず、
熊森の肩口に手を添えて、そっと鼻を寄せた。
くん……
布の奥に残る汗と、熊森自身の体温。
いつも嗅がれる側だった自分が、いま嗅いでいる。
ぬるく、湿りを帯びた匂いが、確かに“今日の熊森”だった。
猪原は、もう一度だけ吸い込む。
「……ちゃんと動いたな」
「……はい。約束だったんで」
「……濃いけど、きつくねぇな。お前の匂い、やっぱ甘いわ」
熊森が小さく笑う。
「篤志さんにそう言われると、ちょっと……安心します」
「……たまには嗅ぐのも、悪くねぇな」
猪原はそう言いながら、背中から熊森を軽く抱きしめた。
そのまま――鼻を、熊森の首の後ろへ。
「……ここ、好きなんだろ? お前が俺にそうしたみてぇに、やってみたくなった」
「っ……!」
熊森の体がぴくりと震えた。
「……あっ……はい……そこ……俺の、やばいとこです……」
「……知ってる」
首筋に鼻を押しあて、
体温と匂いと音を静かに受け取る。
“今日の熊森”を、確かに感じていた。
ふたりはそのまま、言葉も少なく、
ただ“番”を果たし合うように静かに身を寄せていた。
甘えるだけでなく、甘えさせる。
そのバランスが、今日という日を優しく閉じていた。
夜更け。
畳に敷かれた布団の中。
ふたりはすでに作業着のまま、靴を履いたまま、身体を並べて横になっていた。
猪原の腕の中に、熊森の体が半分おさまっている。
さっきまで、猪原が“熊森の番”として匂いを嗅いでいた。
首のうしろ、肩の裏、背中、そして作業着ごしの熱。
それをぜんぶ受け止めてもらった熊森は、まだどこか呼吸が落ち着いていない。
猪原が、それを察したように静かに言う。
「……じゃあ、今度は、交代な」
熊森が小さく顔を上げる。
「……交代?」
「互いに嗅ぐってことだ。……一緒にな」
熊森は、一瞬目を丸くしてから、
ゆっくりとうなずいた。
「……うん」
ふたりは布団の中でわずかに位置をずらし、
額と額が、ぴたりと重なる距離に身体を寄せ合う。
互いの胸に顔を押しつけるようにして、
それぞれのシャツ越しに、静かに鼻を寄せた。
くん……くん……
布と布が軽く触れ合い、
シャツに残る一日の名残りを、互いに吸い込む。
猪原は熊森の汗の奥に、夕方の陽射しを思い出す。
熊森は猪原の胸の匂いに、安心と深い眠気を覚える。
「……お前、ほんとに今日、動いたな。……背中が語ってる」
「……俺も、篤志さんの……胸のとこが、いちばん落ち着くっす」
「……わかってる」
ふたりは、互いの身体に腕をまわしながら、
まるで**“匂いとぬくもりで呼吸を合わせるように”**静かに寄り添っていた。
しばらくの間、
布ずれの音と、ごくわずかな吸う音だけが部屋に響いていた。
そして猪原が、ぽつりと漏らす。
「……こうやって、毎日嗅いでいくんだろうな。……お前と俺と」
熊森が、静かにうなずく。
「……嗅がなくなったら、俺たちじゃなくなります」
「……だな」
ふたりの額が、またそっと触れ合った。
“生きてる証拠”を、互いの呼吸で確かめ合う夜。
それは、恋人でも、ただの同居でもない。
ふたりだけが知っている、“居場所のかたち”だった。
[newpage]
ぬくもりと汗の匂いが、ゆるく布団の中に漂っていた。
胸と胸、腹と腹、足元には鋼板入りの半長靴。
どこもかしこも“いつものふたり”のはずだった。
けれど、ふと――
猪原が、熊森の額を見つめながらぽつりと呟いた。
「……そういえば」
「……ん?」
「最近、キスしてなかったな」
熊森は少し目を見開き、
それから、恥ずかしそうに小さく笑った。
「……あ、たしかに」
猪原はそれ以上、何も言わず、
ただ手を伸ばして熊森の頬に触れた。
そのままゆっくりと顔を近づけ――
ごく自然に、くちびるを重ねる。
ちゅ――
最初の一度は、浅くて静かなものだった。
けれど次第に、猪原の手がそっと熊森の頭を包み込む。
二度目、三度目と重ねるうちに、
口づけは深く、長く、そして“重なる”ものに変わっていった。
くちゅ、ちゅ…… ん、……んっ……
熊森の身体が、少しずつ脱力していく。
シャツとシャツがくっつき、
お互いの吐息が、ひとつの熱に変わっていくような感覚。
何度も、何度も――
息継ぎのたびに目が合って、でも言葉はなく、
またくちびるが、ゆっくりと重ね直される。
ようやく、熊森がそっと言葉を漏らした。
「……ふしぎっすね……」
「……何が」
「ぜんぜんエッチな気分じゃないのに……」
「……ああ」
「なのに、すっごく、気持ちいい。……芯まであったかくなる感じ……」
猪原は、熊森の背を抱いたまま、目を細めた。
「……わかる」
「……あんたとじゃなきゃ、こうなんないんだろうなって……」
「……たぶん、そうだな」
また、そっと口づける。
今度は短く、けれどぴたりと合ったリズムで。
ちゅ、……ん
「……ふたりだけの、変な習慣みたいになってきましたね」
「変でも、悪くねぇだろ」
「……うん」
くちびるが重なるたび、
言葉より深く、感情が通じていくような感覚。
それは決して“欲”ではなく――
ふたりが、ふたりとしてそこにいるための、大切な呼吸だった。
匂いと、ぬくもりと、くちづけ。
全部がそろって、ようやく“今日”が完成する。
熊森は目を閉じながら、ぽつりと呟いた。
「……また明日も、しますよね」
猪原が頷いた。
「……ああ、する」
その約束を交わすように、
ふたりはもう一度、音を立てずに、くちびるを重ねた。
最後のキスがそっと離れたあと――
ふたりの間に、静けさが戻ってきた。
熊森はまだ、猪原の胸に顔を寄せたまま。
くちびるが少しだけ熱を残していて、
その温もりが、まだ頬にうっすらと残っていた。
猪原は、天井を見たまま小さく息をついて、
胸元にある熊森の頭を、ゆっくり撫でた。
その手が自然と下へ降りていき、
熊森の手と、布団の中で指先がかすかに触れ合った。
熊森が、その触れた先を探すように指を動かす。
猪原はそれを受け止めるように、手のひらを返した。
ごく自然に、ふたりの指が絡んだ。
最初は、指先だけ。
けれどやがて――手のひらと手のひらが、しっかりと重なった。
ぎゅ。
言葉はない。
でもその一握りに、**“全部わかってる”**という想いが、確かにこもっていた。
熊森が、そっと握り返す。
「……」
猪原は何も言わない。
けれど、手の力は変わらず、ずっと優しく続いていた。
作業でごつごつした指。
革手袋のあとがうっすら残る甲。
それでもその手は、今だけは、柔らかくて――とても、あたたかかった。
熊森は目を閉じながら、つぶやくように思った。
(……これ、毎日してたいな)
でも声には出さなかった。
言わなくても、猪原の手のひらが、すでにそれを伝えてくれていた。
キスのあとの静けさと、重なる手のひら。
言葉より、ずっと深く。
名前より、ずっと近く。
ふたりは、今日という夜の終わりを、
“重なった手のぬくもり”でそっと閉じていった。
手をつないだまま、ふたりは静かに横たわっていた。
キスの熱も、握った手のぬくもりも、
どちらもゆるやかに、心の奥へ沈んでいくようだった。
熊森の鼻先は、いつのまにかまた猪原の胸のあたりに戻っていた。
シャツごしの匂い。汗の名残。安心の布。
そして――。
「……んん~~~……」
あの、妙に気の抜けたような甘え声が、
突然、胸のあたりでくぐもって漏れた。
猪原は目を伏せたまま、
小さく息を吐くように笑った。
「……またかよ」
熊森は、顔をこすりつけながら言葉を返す。
「……なんか、したくなったんすよ……また」
「さっき、キスもして、手も握ったばっかだろ」
「それはそれ、っすよ。……“ぐりぐりタイム”は別枠なんで」
そう言って熊森は、額から、鼻先から、
猪原の胸に「んん~~~」と押し当てながら、
ぐりぐり、ぐりぐりと身を預けてくる。
シャツが少しずつしわになり、布の音が鳴る。
「……気持ちよくて、喋りたくなくなると、出るんすよ。これ」
「……甘え方が妙にクセになってんな」
「……それ、褒め言葉として受け取ります」
猪原は、熊森の頭を優しく片手で撫でながら、
そのまま、もう片方の手で自分のシャツの前を軽く整えた。
(……明日の朝、またシワ残ってんだろうな)
でも、それでいいとも思った。
「……お前の“んん~~~”、そのうち条件反射になりそうだな」
「え、それヤバいっすね。ふたりとも“んん~~~”病になるやつじゃないすか」
「……バカが」
それでも、声のトーンは笑っていた。
“2度目”なのに、まるで“初めてみたいにうれしい”。
そんなふたりの夜は、今夜も――ゆるく、深く、重なっていく。
ぐりぐりと顔をこすりつけて、
十分に「んん~~~」の余韻を味わったあと――
熊森は猪原の胸に顔を伏せたまま、
少しだけ考え込むような間を置いた。
「……篤志さん」
「ん」
「“んん~~~”の次って、なんだと思います?」
猪原はゆっくり目を開けて、
下ろしていた手で熊森の背をぽん、と叩いた。
「……何が“次”だ。甘え方に進化段階でもあるのか」
「いや、ありますよ。……“んん~~~”って、たぶん中ボスなんで」
「中ボスかよ……」
「ラスボスは、“完全に言葉にできない甘え”っす」
「お前、寝る気ねぇのか?」
「……いや、あるんですけど……ちょっと考えさせてください」
熊森は、猪原の胸のあたりをやさしくぽすぽすと触りながら、
なにか思いつくたびに、ほんのり声を漏らす。
「“ぐるぐる~”はちょっと違うし……“とろとろ~”は、さすがにエロすぎるし……」
猪原は、天井を見たまま言った。
「……勝手にしろ。俺は寝る」
「うぃ……でも、あんたがいちばん気持ちよくなる甘え方、ちゃんと見つけたいんすよ」
「……俺のことかよ」
「そうっす。……今の“んん~~~”って、どっちかっていうと俺向けなんで。次は、“あんたが甘えられて気持ちいいやつ”、開発しようと思って」
猪原は、一瞬だけ言葉を失ってから、
微かに鼻を鳴らした。
「……ったく、お前ってやつは……」
「寝かせるって言いながら、寝かさないくらいのやつ考えますね」
「寝かせろ」
「うぃ」
そう言いながらも、熊森は手を動かすのをやめなかった。
くん、とシャツ越しに匂いを嗅いでは、
またぽす、と胸を軽く叩き――
“甘えの次なる形”を、真面目に検討し続けていた。
それは、ふたりにとって――
ちょっとくだらなくて、でもすごく大事な夜の営みだった。
[newpage]
数日後の夜。
現場の仕事を終え、汗を流し、いつものように作業着に着替えて――
ふたりは猪原の部屋で並んで布団に入っていた。
部屋の明かりはすでに落とされ、扇風機の微かな回転音だけが空気を撫でている。
そんななか、熊森がそっと猪原の胸に顔を寄せながら、
少し緊張した声で言った。
「……篤志さん」
「……ん」
「……あの、ちょっと試したい甘え方があるんすけど」
猪原は目を閉じたまま、
くぐもった声で返す。
「……今夜も新作か」
「うぃ。……今度のは、たぶん“あんたが気持ちよくなる系”です」
「……どんなだ」
「やってみて、いいっすか?」
猪原はため息のように息を吐いてから、
背中に軽く腕をまわして言った。
「……ほら、好きにしろ」
「じゃ、いきます……」
熊森は胸元から少し下がり、
猪原の腹のあたり――ぽっこりとした、おなかの丸みの上に額をそっとのせる。
そして、
「……むにぃ~~~……」
低く、腹の底から力を抜いたような、妙な甘え声を出したかと思うと、
そのまま頬と口元で、シャツごしにお腹を包むように、むにむにと顔を押しつけ始める。
「……ん、ぅぅ~……むにぃ~~……っ」
猪原は思わず目を開けた。
「……お前、それ……」
「“むにぃ甘え”っす。……んん~~~が俺用なら、これはあんた向け。……お腹、柔らかくて安心するんすよ」
「……やめろ。笑っちまうだろうが」
「笑わせるのも目的です。……でもちゃんと、“あんたの体が気持ちよくなる”ってテーマで考えたんで」
「……はぁ?」
熊森は真面目な顔のまま、
腹の上に頬をすりつけるようにしながら続ける。
「俺、あんたの腹、けっこう好きなんすよ。……安心感あるし、ぽすってしてるし。……くっつくと、“あ、生きてる”って思える」
猪原はしばらく黙って、
それから、鼻を鳴らして笑った。
「……なんだそりゃ。……でもまぁ……」
熊森がびくっと反応する。
「……ど、どうでした?」
猪原はゆっくりと目を閉じて、
そのままぽつりと漏らす。
「……悪くねぇ。たしかに、“むにぃ~~”されると……なんか、肩の力抜けるわ」
「……マジっすか!? やった……!」
「でも変な声つけんな。余計な笑い出る」
「え~……そこも含めて完成形なんすけど……」
「やかましい」
それでも、猪原は熊森の背をそっと撫でていた。
むにぃ~~とくっついたその顔を、シャツごしに包むように。
そして思う。
(……ほんとにこいつ、俺の“気持ちよさ”まで考えて……)
(……変なやつだ。……でも、悪くねぇ)
布団の中で、ふたりのぬくもりがまたひとつ重なった。
“むにぃ~~”という謎の言葉とともに――新しい甘えの形が、静かに追加されていた。
昼の現場。
重機が唸り、鉄骨の鳴る音が響くなか。
資材置き場の陰、日陰でふたりは水分補給がてら並んで一息ついていた。
ヘルメットの下、汗が首元にじわりと流れる。
作業着はもう、朝一番の清潔感をとうに失っていた。
熊森が、ふとつぶやく。
「……昨日の、どうでした? “むにぃ~~”」
猪原は缶のふたを開けながら、横目で一瞥する。
「……真面目に聞くな、そんなもん」
「いやでも……“んん~~~”と“むにぃ~~”、どっちが気に入りました?」
「……どっちもおかしいけどな」
「おかしいかどうかじゃなくて、“気持ちよさ”的にですよ。……真面目に聞いてます」
猪原は少しだけ考え込み、
ヘルメットの縁を直しながら言った。
「……お前がくっついてくる時点で、どっちも悪くねぇよ」
「ずるい回答っす」
「答えになってんだろ。俺は、お前がどう甘えてくるかより……“俺のこと見てる”ってのが、わかるほうが……嬉しい」
熊森はその言葉に、ふっと笑った。
「……でも、“むにぃ~~”ってやってる時のあんた、ちょっとだけ眉が下がってましたよ」
「……気づいてんじゃねぇよ」
「じゃあ、今後は気分で選んでいいってことっすね。今日は“んん~~~”、明日は“むにぃ~~”。」
「ローテーションかよ」
「シリーズ化ですよ。“篤志さん向け甘えシリーズ”」
猪原はため息混じりに鼻を鳴らし、
つま先で熊森の安全靴をちょんと小突いた。
ぎゅっ。
鋼板入りの革が音を立てる。
「……調子に乗るな。次の作業終わったら、水道で頭から水かけるぞ」
「わー、そんなことしたら“むにぃ~~”が蒸気になりますよ」
「……それはそれで試すのか?」
熊森は無言でにやりと笑い、
また缶の口を傾けた。
ふたりの足元では、
くたびれた革同士が、湿気と砂利の上で重なり、音を鳴らしていた。
“どっちが好きか”より、
“どれだけ一緒に笑えたか”――それが、ふたりにとっての答えだった。
夜。
風呂上がりの水滴も引いたあと、
ふたりは作業着に着替え直し、畳の上で並んで座っていた。
扇風機が首を振り、濡れた毛の奥に風を送る。
足元では、乾いた鋼板入りの半長靴が並んで音もなく鎮座している。
熊森が缶の水を口にしながら、ぼんやり言う。
「……今日は“んん~~”ですか? それとも“むにぃ~~”?」
猪原はその問いに答えず、
ただ黙って熊森の横に座り直し、背を向けたまま、ごそごそと布団の上に倒れ込んだ。
熊森が、きょとんとする。
「……え、篤志さん?」
返事はない。
けれど――
倒れた猪原の背が、ゆっくりとこちら側に傾いてきて、
そのまま熊森の膝にもたれるように、肩と頭を預けてきた。
熊森の体が、ぴたりと固まる。
「……え、え? ……あ、あの……」
猪原は目を閉じたまま、低く一言だけ。
「……今日は……お前の膝、借りる」
熊森は言葉を失い、
やがて、そっと猪原の頭に手を添えた。
毛並みの間から、微かな風呂上がりの残り香。
ぬるい熱が、太ももにじんわりと広がっていく。
「……や、やば……今日、俺、たぶん死ぬほど幸せかもしんない……」
「……うるせぇ。静かにしてろ」
「は、はい……!」
猪原の背は、緊張したようにわずかに固い。
でも、預けている重みは本物だった。
熊森は、あの「んん~~」でも「むにぃ~~」でもない、
もっと静かで、もっと深い“甘え”があることを、初めて知った気がした。
そっと、手を猪原の肩に置き、
ぽん、ぽんと、ごく軽く叩く。
「……篤志さん。……今日は、“俺が甘えさせる番”っすよ」
猪原は答えなかった。
けれど、それでよかった。
それだけで、ふたりの今夜の空気が、ぴたりと重なった。
言葉はいらない。
気持ちは、預けた重さと、受け止める手のひらで伝えればいい。
ふたりの関係は、
“甘える”と“甘えさせる”のあいだを、今日もまたゆっくり行き来していた。
猪原が、熊森の膝に頭を預けたまま――
その体重を静かに受け止めながら、熊森はしばらく黙っていた。
重み。ぬくもり。
それだけで、胸の奥が満たされていくのを感じる。
でも、黙っていられたのはほんの数分だけだった。
「……あの」
「……なんだよ」
「今日の、記録に残していいですか?」
猪原はうっすらと目を開け、眉をひそめた。
「……は?」
「シリーズに。“甘えシリーズ”に。今日のは……『寄っかかり型・無言の信頼タイプ』っす」
「……分類すんな。そういうのじゃねぇ」
「いやいや。これ大事なんすよ。
“んん~~”が言葉による甘え、
“むにぃ~~”が触感と圧による甘え、
そして今日のは、“沈黙と体重による信頼の証”……これはかなり高ランクっす」
猪原は、膝の上で小さくため息をついた。
「……お前、それノートでもつけてんのか」
「つけたいです。
甘え方の違いと、あんたの反応と、その時の匂いの質とか……すっげぇ細かく分類してみたい」
「……やめろ。人に見られたらどうすんだ」
「見せませんよ。……“篤志さん研究ノート”ですから」
猪原は顔を伏せたまま、
肩を軽く揺らし、くぐもった声で笑った。
「……バカが」
「でも、今日のやつ……俺、けっこう好きっす。
黙って重さ預けてくれるの、なんか、めっちゃ信頼されてる感じする」
「……まぁ、悪くねぇな」
「うぉ……録音したい……」
「だめだ」
ふたりの声が、扇風機の風に混ざってゆっくりと揺れていた。
ふと、熊森が小声で加える。
「……次は、“背中向けて無言で腕だけ引くタイプ”とか、どうです?」
「まだ増やす気かよ」
「甘えシリーズは、深いんすよ……篤志さんが教えてくれたんですから」
猪原は返事をせず、
ただそのまま、膝の上でゆっくりと目を閉じた。
熊森は、そっとその頭を撫でる。
“甘え”という名前の、ふたりだけの言語は――
今夜もまた、新しい一語を覚えたばかりだった。
[newpage]
布団の上。
夜の静けさの中で、ふたりはいつものように寄り添っていた。
熊森は、猪原のシャツの襟元に鼻先をうずめ、
浅く、深く、丁寧に匂いを吸い込んでいた。
くん、くん……
「……おい」
低い声が上から落ちてきた。
熊森は動きを止め、ちらと顔を上げる。
「……ん?」
猪原は寝転んだまま、天井を見つめたまま、
ぽつりとつぶやいた。
「……お前、俺の臭いに……飽きねぇのか?」
熊森はきょとんとして、
すぐには返さなかった。
やがて、またゆっくりと顔を戻し、
胸のあたりに頬を押しつけながら、低く答える。
「……飽きるって、思ったことないです」
「……毎日嗅いでんだぞ」
「だからっす」
猪原は、ちらと視線だけを熊森に向ける。
熊森は、真面目な顔をしていた。
「飽きるって、“同じ”だと思うから起きるんですよ。
でも俺、毎日違うって感じてます。……微妙な温度とか、汗の匂いとか、動き方とか。
そういうのが混ざって、今日だけの“あんたの匂い”になってるから……毎日ちゃんと、新しいんす」
猪原はしばらく黙っていた。
それでも熊森は続ける。
「……たとえば、今日のここ――」
そう言って、また胸元に鼻を押し当て、
くん……と吸い込む。
「……ちょっと風呂の石けん混じってるけど、背中からの汗も少し残ってて、シャツは昨日のより早めに乾いてて……
でも“全部合わせると、間違いなくあんた”なんすよ」
「……お前は……」
猪原は、声に出さずに笑った。
「お前は……ほんとに、それを大事にしてんだな」
熊森は小さくうなずいた。
「俺があんたを感じられるのって、たぶん匂いがいちばん強いんす。……あんたの声とか、姿とか、優しさとか……それら全部が、“ここにある”って感じられるから」
「……へぇ」
猪原は目を閉じて、胸を上下させながら、静かに受け止めた。
「……じゃあ、飽きられねぇように、明日は風通し悪い服着てやるか」
「お、蒸れ蒸れですね。最高っす」
「バカが」
その言葉にも、熊森は笑わなかった。
ただ、そっと鼻をもう一度押しあてる。
匂いは、彼にとって“記憶”であり、“安心”であり、
何より――猪原そのものだった。
だから、飽きることなんて、最初から考えていなかった。
布団の上、並んで横になったふたり。
熊森は、すっかり馴染んだ位置――猪原の胸のあたりに頬をすり寄せていた。
シャツ越しに、今日の汗の名残と体温がじんわりと伝わってくる。
くん……と浅く匂いを吸い込み、
それだけで息が落ち着く。
しばらくそうしてから、熊森がぽつりと口を開いた。
「……あの」
「ん」
「……今日、“ごし、ごし”してくんないすか」
猪原は目を半分開け、上から熊森を見下ろす。
「……頭か」
「うん。……いつものやつ。……ちょっと、やってほしい気分なんすよ」
そう言って、熊森は頬をさらに胸にこすりつけながら、
ほんの少しだけ、頭の角度を変えた。
まるで、「ここにどうぞ」と差し出すように。
猪原は少しだけ苦笑いしながら、
ゆっくりと腕を動かし、熊森の頭に手を置いた。
そして――
ごし、ごし。
指の腹と、手のひら全体で、毛並みをやや乱すように。
撫でるというより、揉むに近い動き。
それでも、熊森の耳がピクリと揺れ、
体が明らかに“ほどけて”いくのがわかる。
「……ん、ふ……やっぱ、これっす……」
「変な顔してるぞ」
「してないっす。……たぶん、すごく整った顔になってます、今」
「どんな自信だよ」
ごし、ごし。
撫でるたびに、熊森の眉がゆるみ、
口元が緩やかに綻んでいく。
「……子供のころ、誰かにこうやってもらってた気がするんすよ。……父親だったかな。……思い出せないけど、似てる」
「……そっか」
猪原の手は止まらなかった。
むしろ、少しだけ動きが優しくなっていた。
「……篤志さんの“ごしごし”……あれ、たぶん俺にとって“再起動”っす。
全部リセットされて、ちゃんと眠れる感じ」
「……そうか」
「だから、また明日も頑張れそう」
「……お前、時々よく喋るな」
「今日は特に気持ちよかったんで」
ごし、ごし。
その音だけが、部屋に穏やかに響く。
ふたりだけが知っている、
手と毛並みと、甘えのリズム。
それは、静かな夜にしか生まれない、優しい安心の音だった。
ごし、ごし。
ゆるやかに撫でるたび、
熊森の体から、少しずつ力が抜けていくのがわかった。
頭のてっぺんから、首の根元。
指のひらが、熊森の丸みを帯びた輪郭を確かめるように、
ゆっくりと、その温もりを拾っていく。
「……っ……ふ……ん……」
浅く、気の抜けた息が、猪原の胸元で漏れた。
もう、返事は返ってこない。
ごし、ごし――
まだ撫で続けていたが、その反応が、明らかに「寝入り」のものへと変わっていく。
ぴくり、とも動かない耳。
額からもたれる体重が、わずかに深く沈む。
猪原は撫でる手を止めないまま、
そのまま少しだけ視線を落とした。
「……寝たか」
囁くような低い声。
返事は当然ない。
代わりに――熊森の鼻先から、
小さく寝息の音がもれる。
す……す……
鼻腔に残っていた匂い、
胸元に擦れた布の感触、
そして何より、“ごしごし”の余韻。
全部が、熊森の中で**“安心してもいい”という合図**になっていた。
猪原は、ごく小さなため息をつくと、
ようやく撫でていた手を、熊森の背に下ろす。
そして、もう片方の手を、そっと熊森の体にまわし、
軽く、しかししっかりと、抱き寄せた。
「……お前、甘え方はアホみてぇなのに……」
低く笑いながらも、
声の奥には、揺るがぬあたたかさがにじんでいた。
「……誰よりもうまく、俺を静かにする」
熊森の寝息は、すこしリズムを整えてきていた。
本格的に、眠りの底へと落ちている。
猪原はそのまま、もう何も言わず――
熊森の寝顔のあたりに額を寄せる。
「……おやすみ、湊真」
それは、誰にも聞かせない声。
そして、“今日のふたり”をそっと閉じる、
猪原の静かな、そしてやさしい“終わりの言葉”だった。
朝。
窓から差し込む光が、畳の上の布団をじわりと照らしていた。
外の音はまだ少なく、扇風機が止まっているせいか、部屋の空気もゆるやかに温まっていく。
熊森は、半分だけ目を開けて、
目の前にある猪原の胸元のシワに、しばらく焦点を合わせていた。
(……あれ)
しわ、と布の折れに触れた鼻先。
昨日、自分がここにぐりぐりと頬を押しつけた感触が、よみがえる。
(……あっ)
記憶がまとまって戻ってきた瞬間――
熊森は急に体を起こしかけて、でも途中で止まり、
ゆっくりと猪原のほうをちらりと見やった。
猪原はすでに目を開けていた。
横になったまま、ただ無言で熊森の気配を見守っているようだった。
熊森は、そろりと体を戻しながら、
小さな声でぽつりとつぶやいた。
「……昨日……俺、たぶん……撫でられて、そのまま寝ましたよね」
猪原は目線を逸らさず、
そのまま淡々と答える。
「……ああ」
「……っ、やば……恥ず……」
「何がだ」
「いや、だって……撫でられてる途中で、コテンって……子供かって……」
猪原は小さく鼻を鳴らした。
「寝る時に寝た、それだけだろ」
熊森は、腕の下に顔をうずめたまま、ごにょごにょとぼやく。
「……でも……俺……“撫でてもらって喜んでる顔”とか……絶対、あんたに見られてた……」
「見たな」
「やっぱ見てたんすね!? ……最悪……」
猪原は少しだけ口元をゆるめて言う。
「……また甘えてくりゃいい」
熊森の動きが止まった。
「……え」
「気にすんな。……そういう日もあるだろ。昨日がたまたま、お前の“撫でられ日”だっただけだ」
熊森は、耳まで赤くしながら、
それでもその言葉に、静かにうなずいた。
「……じゃあ……また、“撫でてもらっていい日”、きます?」
「くるな。たぶん近いうちにな」
熊森は顔を戻し、
もう一度、猪原の胸元にそっと頬を寄せる。
くん、と小さく鼻を鳴らした。
「……昨日の残り香、ちょっとだけある。……すき」
「朝から気持ち悪ぃな」
「うぃ。でも今日も、ちゃんと頑張れそうっす」
その言葉に、猪原はもう何も返さず、
ただ静かに、熊森の頭をひと撫でしてから身を起こした。
今日も始まる。
けれどその始まりには――“昨夜の安心”が、ちゃんと残っていた。
朝の支度が始まっていた。
猪原は洗面台から戻り、
作業着のズボンをしっかり履き直してベルトを締めていた。
その足元では、鋼板入りの半長靴が、
くたびれた革を静かに鳴らして待っている。
熊森は少し遅れてシャツを引っ張りながら、
ベルトの金具をくいと締めると、足元に視線を落とした。
安全靴がふたつ。
昨日も、今日も、きっと明日も並ぶであろう自分たちの“足”。
(……よし)
と心の中で気合を入れて――
熊森は、ぼそりとつぶやいた。
「……今日は、“むにぃ~~”か“んん~~”……どっちがいいっすかね……」
小さな独り言だったつもりが、
ちょうどヘルメットを手に取った猪原の耳に、ばっちり届いていた。
「……朝からそれかよ」
熊森がぴくっと体をこわばらせ、
ゆっくりと振り返る。
「……え、聞こえてた?」
「全部聞こえた」
「……や、いや、あの……日中の仕事量とか、気温とか、体調によって最適な甘え方を選ぶの、大事だと思って……」
「考えるな。流れで決まるもんだ」
「でも、準備しとくと心の構えが違うっていうか……。
“むにぃ~~”の日は腹を出しやすいシャツにして、“んん~~”の日はシャツの襟に重みを残すようにして……」
「お前……そこまで考えてんのかよ」
「甘えは、戦略っす。計画と実行が命なんで」
猪原は、すっかり呆れた顔で熊森を見下ろし、
そのまま口の端をわずかに上げた。
「……まぁ、頑張れ。今日の夜、お前の“戦果”を見せてもらおうか」
「うっす。必ずや、“今夜の正解”を導いてみせます」
「ただし、ふざけたら水かけんぞ」
「冷水注意……っと。了解です」
ふたりは最後に安全靴を履き、
足首をぎゅっと締め、音もなく立ち上がる。
ぎゅ、ぎゅり……
革がすれる音だけが、朝の空気を押し出していく。
そしていつものように、玄関へ。
今日も一日始まる。
けれどその始まりには、“どっちで甘えるか”を考える静かな可笑しみがあった。
[newpage]
現場の午前作業。
重機の音と金属の衝突音が断続的に響き、
作業員たちの掛け声が風に紛れて飛んでいく。
日陰もろくにない現場の真ん中で、
猪原は黙々とチェックシートを確認しながら、資材配置の微調整を行っていた。
その少し後ろ――
資材を運ぶふりをしながら、何かをじっと見ていた熊森。
(……よし、いける)
手には、猪原が朝履いていた手袋の“替え”が握られていた。
サイズも色も似ているが、わずかに使用感が違う“予備の支給品”。
実はさっき、猪原が一瞬ヘルメットを脱いで水を飲んでいるすきに、
そっと交換しておいた。
(バレるの、昼休みかな……。
でも、あの人、手袋の感覚だけはすげぇ敏感だから……)
内心そわそわしつつも、熊森は涼しい顔で砂利をならす。
しばらくして、猪原が作業を再開するタイミング。
いつものように手袋をはめ――
ぴた。
動きが止まった。
熊森は気づかないふりで、後ろの鉄パイプを片付ける。
猪原が、手をぐっ、と握りしめたあと、
無言のまま手の甲を見ているのが視界の端に入る。
(……気づいた……!)
そして――
「……おい」
低い声。
背中がひやりとする。
熊森はゆっくり振り返る。
「……ん?」
猪原は、指先をわずかに広げながら手袋を見せた。
「……これ、俺のじゃねぇな」
「え、マジっすか? 似てるのに……」
「……お前、朝の休憩中にすり替えたな」
「や、なんの証拠が……」
猪原が、ゆっくりと一歩前に出てくる。
その顔は怒っているわけではない。
むしろ、呆れた中に小さく笑いが混じっていた。
「……理由はなんだ」
熊森は少し頬をかきながら、
小声で答えた。
「……たまには、篤志さんに“違和感ある状態”で過ごしてほしかったんす。
俺があんたのことで、ちょっとした変化に敏感になってるみたいに……逆も、あるかなって」
猪原は、手袋を外してぐっと丸め、熊森の胸にぽすっと軽く投げつけた。
「……バカが。昼に仕返しな」
「わー、まさかの合法的お仕置きタイム……!」
「合法じゃねぇ。現場ルールだ」
「それ、“むにぃ~~”で許してもらえます?」
「“んん~~”と“むにぃ~~”両方でも無理だな」
熊森は苦笑しながら、
でも嬉しそうに安全靴のつま先をちょっとだけ猪原のに当てた。
ぎゅり。
その革の音が、小さな“いたずら成功”の証になった。
昼休憩。
現場脇に設置された日陰スペース。
資材の山の隣、簡易テーブルの前に腰を下ろした熊森は、
弁当箱のフタを開ける前にふと、視線を上げた。
猪原が、いつの間にか手袋をはめて戻ってきていた。
さっきまでは違和感に即座に反応していた猪原が、今は――なぜか妙に静かだった。
熊森は、なんとなく嫌な予感を覚える。
(……ん?)
猪原はいつもよりやや落ち着いた手つきで、
現場ノートを開き、何気ない様子で指を動かしていた。
ただ――その手に、見慣れた“赤茶の擦れ跡”がある。
(……あれ、俺の……!?)
熊森はおもむろに自分の荷物の脇に置いた手袋に目をやる。
そこには、猪原の――少し色が褪せて、指の先がちょっとゆるくなった――**“いつもの手袋”**が、無造作に置かれていた。
(……え)
視線が猪原に戻る。
でも当の本人は、顔を上げずにノートにボールペンを走らせている。
しれっと。
完璧に、しれっと。
熊森は手袋をそっと手に取り、
匂いを確かめるように鼻先を近づけ――
くん……
汗と土と、油と、そして――
間違いなく、**朝から嗅ぎなれてる“猪原の匂い”**だった。
熊森は、そこでようやく確信する。
(……すり替えられた……!)
すぐに問いただすのも悔しくて、
けれど黙っていられるほど鈍感でもなく――
熊森は、わざとらしく咳払いしてから言った。
「……あの」
「ん」
「……手袋、交換しました?」
猪原は顔を上げ、ほんのわずかだけ口元を上げて――
「……知らねぇな」
「いや、知ってる顔っすそれ。絶対知ってますよね」
「そっちが朝やったんだ。……昼は、こっちの番だろ」
熊森は半分呆れ、半分感動していた。
「……わざと、っすか」
「当然だろ。お前が“俺の匂いで落ち着く”って言うなら――
たまには、お前が“俺に落ち着かせられてる”のも、ちゃんと実感させてやんねぇと」
熊森は、手袋をそっと膝の上に置き、
少しうつむきながら、ぼそりと呟いた。
「……うれしいとか、言いたくねぇけど……うれしいっす……」
「素直に言え。バカが」
「じゃあ……“ありがとうっす。篤志さんの匂い、大事にします”」
「使い方、間違えんなよ」
熊森は目を細めて笑う。
「そのまま、今夜“むにぃ~~”の材料にしますんで」
「おい、やめろ」
「篤志さんの手袋で“むにぃ~~”……最高じゃないすか」
猪原はため息をつきながら、
空いている方の手で熊森の頭をぽんと叩いた。
そのやり取りに、そばで弁当を食べていた他の作業員が何も知らずに笑っている。
ふたりの昼休みは、今日も“匂いと悪戯”でできていた。
夜。
風呂を済ませ、作業着に着替えたふたりは、布団の上に並んで横になっていた。
熊森は、足元の半長靴を軽く擦り合わせながら、
なぜか手元にある“猪原の手袋”をじっと見つめていた。
昼に“すり替え”られたもの――
使い込まれた革の表面、指の腹に沿った皺、そして、わずかに残る今日一日の汗と油の匂い。
猪原はすでに布団に入り、背中を熊森に向けて横たわっている。
熊森は小声で確認した。
「……篤志さん、寝ました?」
「……寝てたら、返事できねぇよ」
「……ですよね」
くすりと笑いながら、
熊森は布団の中でごそごそとその手袋を持って、猪原の背中にそっと寄り添う。
そして――
お腹のあたりに顔を押し当てながら、手袋を額に当てて、ふわっと押し当てた。
「……むにぃ~~~……」
猪原が一瞬、肩を揺らした。
「……おい」
「今夜の“むにぃ~~”、手袋仕様でお届けしてます。特別版っす」
「……お前、ほんとにやるとはな……」
「だって、今日あんた、俺のこと撫でるみたいに匂い残してくれたじゃないすか。
これは……それにちゃんと、返さないといけないなって」
「……返し方が特殊すぎんだよ」
「でも……これ、あったかいっす。
俺、たぶんこのまま……ちゃんと眠れる」
猪原はもう何も言わず、
ただゆっくりと寝返りを打ち、熊森の額にぽんと手を乗せた。
「……バカなことばっかしてるくせに……そういうとこは、ちゃんとしてる」
熊森は照れくさそうに笑って、
手袋ごと額をぐりぐりと猪原の腹に押しつける。
「……“むにぃ~~”は、信頼の証なんで」
「……はいはい」
「明日は“ふわ~~”とかも開発しようかなって」
「……寝ろ」
「うぃー」
革の感触と匂いと、ぬくもりとが、夜の中でひとつに溶けていく。
甘えるための道具なんかなくても、
でも、こうして**“あんたの一部”を借りて眠れるのは、ちょっとした贅沢だった。**
熊森は手袋を胸に抱いたまま、
少しずつ、静かな寝息を立てはじめる。
そして猪原は、それを感じながら、
またそっと、背中に手をまわす。
何も言わなくても伝わる夜が――
ふたりにとっての、最高の“ただいま”だった。
[newpage]
朝。
普段なら、シャツを鳴らして起き上がる音や、
安全靴を履くときの“ぎゅり”という革の音が小さな合図になる時間。
けれどその朝、猪原の部屋は静かだった。
いつもよりひとつ遅く目を覚ました猪原が、
寝具の隣でじっと丸くなっている熊森を見下ろして眉をひそめた。
布団の中で、熊森の肩がわずかに震えている。
呼吸は浅く、体温が妙に高い。
「……おい」
声をかけると、熊森はゆっくり目を開けた。
「……あんた……朝……?」
その声が、明らかに鼻声で――
しかもいつもよりずっとかすれていた。
「……風邪か」
「……たぶん。昨日の夕方からちょっとだるくて……」
「言え」
「……言う前に寝落ちしてました」
猪原は無言で立ち上がり、
水を汲みにキッチンへ向かう。
しばらくして、冷たい水を一杯と、頭に当てるための濡れタオルを手に戻ってくる。
「ほら、起きろ。水」
熊森は、ゆっくりと体を起こして受け取った。
その手を見た猪原は、
少しだけ触れて確かめる。
「……熱、上がってきてるな。今日は休め」
「……でも現場、手足りないって……」
「いいから寝ろ。俺がやる」
その言葉に、熊森は目を伏せて、小さく言う。
「……ごめんっす」
「謝るな。……人間、寝る時は寝なきゃ治らん」
そう言いながら、猪原は濡れタオルを取り上げて、
熊森の額にごしりと乗せた。
「……っ、冷て……」
「ちょうどいいだろ」
熊森はしばらく目を閉じていたが、
ふと声を漏らす。
「……あんたに撫でてもらって寝るの、好きだったんすけどね……今日はさすがに無理か」
猪原は黙ったまま、
そっと熊森の頭に手を置いた。
「……触れねぇとは言ってねぇだろ」
指の腹が、いつものように――
ごし、ごし。
熱を持った頭を、ゆっくりと撫でていく。
熊森の肩が、すこしだけ緩んだ。
「……寝て治せ。明日の“んん~~”は、お前の分、溜まってるぞ」
「……っ、うぃー……」
声にならない笑いとともに、熊森は再び目を閉じる。
静かな寝息が戻ってくるまで、
猪原は無言で――けれど決して乱れない手つきで、
“甘え”ではなく、“守り”の手を重ねていた。
熊森が回復したのは、風邪を引いてから四日目の朝だった。
熱は引き、声も戻り、ようやくいつもの重たい安全靴を履いて立ち上がれるようになった。
猪原の部屋で寝たままの数日、ほとんど何もできなかったことを思い出しながら、熊森は照れ臭そうに笑っていた。
「……明日からは、ちゃんと働きます。もう大丈夫っす」
「……そうか」
猪原はそう言いながらも、どこか動きが鈍かった。
「……?」
熊森がその様子に首をかしげていると――
昼過ぎ。
いつも通りに昼食を終え、
ふたりで布団を片付けようとした瞬間、
猪原が、ごくわずかによろけた。
「……あんた?」
「……ちょっと、寒いな」
その言葉に、熊森の耳がぴくりと動いた。
「……寒い?」
手を伸ばして猪原の額に触れた瞬間、
はっきりとした熱が、指先に伝わった。
「……うわ……これ……!」
猪原は気まずそうに目をそらす。
「……たぶん、うつったな」
「いや、うつったな、じゃないっすよ! なんで昨日から言わなかったんすか!」
「……お前が治ってからでよかったろ。動けたから、何とか……」
熊森はそのまま腕を引っ張り、
布団をもう一度敷き直して猪原を寝かせた。
「はいはい、寝てください。はい、服の前開けて。熱逃がします。水はあとで持ってきます。あと、今から“おでこ交代タイム”です」
「おい、なんだよそれ」
「俺が寝てたとき、あんたタオル乗っけてくれたじゃないすか。今度は俺の番っすよ」
熊森はそう言って、
自分の手ぬぐいを冷たい水で濡らし、猪原の額にのせた。
「……ちゃんとお返ししますから。遠慮せず甘えてください」
「……あのなぁ」
「ダメです。黙って寝てください。今日の“むにぃ~~”は俺がします」
「高熱で“むにぃ~~”は……きつい……」
「じゃあ“ふわ~~”でいきます。“ふわ~~”寝かし回、実装します」
「……バカが……」
そう言いつつ、
猪原はされるがまま、静かに目を閉じた。
熊森は、毛布の端を直しながらそっとつぶやく。
「……俺が治ったの、あんたがずっと側にいてくれたからだと思ってるんす。だから今度は……俺が、ちゃんとお返しします」
甘える番と、甘えさせる番。
それが、ぴったりと交代した日だった。
夜。
部屋の明かりはすでに落とされていた。
扇風機は止めてある。
代わりに窓をほんの少し開けて、外の夜風を入れていた。
布団の中では、猪原が横になったまま、
濡れタオルの下から熱のこもった呼吸を吐き出している。
その傍らで、熊森は姿勢を崩さずに座っていた。
背筋はやや張り気味、でも顔はやわらかく、猪原の様子をじっと見守っていた。
ときおり、タオルを外して、冷えたものに替える。
そのたびに、猪原はわずかにまぶたを開く。
「……湊真」
呼ばれて、熊森の手がぴたりと止まった。
「……はい」
猪原は、熱のせいか、いつもより声が少し低くかすれている。
けれど、その言葉は静かに、ゆっくりと降りてきた。
「……悪ぃな。……俺、お前いねぇと……寝つけねぇわ」
熊森の目が、一瞬だけ大きく見開かれた。
でもすぐに、眉尻がゆるみ、笑みがにじんでいく。
「……それ、今のうちに録音しとけばよかったっすね」
「……やめろ……暑苦しい声、残すな」
「うぃ。でも……そう言ってもらえるの、すごく嬉しいっす」
猪原は目を閉じたまま、
ぼそっと言葉を落とす。
「……甘えてんのは、俺のほうだな……ほんとは」
「知ってますよ。……でも、それでいいんです」
熊森はそのまま、猪原の手の上に自分の手をそっと重ねた。
ごつごつとした指の感触。
作業でできた小さな傷や硬さも、全部知っている。
「俺、あんたに甘えたくて生きてるけど……あんたに甘えられるのも、生きてる実感になるんす」
猪原は何も返さなかった。
けれど、その手のひらには、
わずかに握り返す力がこもっていた。
言葉はいらなかった。
“甘える”と“甘えさせる”は、もう、どちらかに決めるもんじゃない。
ふたりが並んで生きる以上――
その都度、自然に交代していければ、それでいい。
熊森はもう一度、濡れタオルを替えた。
「……大丈夫っす。明日にはきっと、治ってます」
「……根拠あんのか」
「俺の匂いで治すんで。保証します」
「……バカが……」
その言葉の端に、少しだけ笑みが混じっていた。
朝。
いつものように早い時間に目が覚めた熊森は、
猪原の布団の中で静かに呼吸を整えていた。
昨夜はしっかり熱があった猪原も、
今朝にはもう汗をしっかりかいて、顔色もよくなっていた。
「……あんた、どうっすか」
まだ寝転がったままの猪原が、
枕に顔を向けたままぼそっと答える。
「……まぁ、だいぶマシだな。熱も引いた」
「そっか。じゃあ、今日から復帰すかね」
「……ああ、そうだな」
そう言いながらも、猪原はその場で体を起こさなかった。
熊森も、すぐには動かず、
枕元の安全靴を見つめながら、ぽつりと漏らす。
「……でも、もうちょっとだけ、寝てていいっすか」
「……ん?」
「なんか……もう一晩くらい、甘えモードのままでいたいなって。あったかいし」
猪原は小さく鼻を鳴らして、
今度は自分の方から言葉を重ねた。
「……奇遇だな。……俺も、ちょうど今……“もう一晩だけでいいから、寝かせとけ”って考えてたとこだ」
熊森の耳がぴくっと動いた。
「……あれ、それ……」
「……言うな。今さら甘えた側のくせに照れるの、だるい」
「いや、もうそれ……完ッ全に、同時に“甘えたい”って言ったってことっすよね」
「……だから言うなって」
熊森は、思わず口元を手で押さえた。
「……あー……おもしれ。
あんたが先に言ってたら俺が看病モード入ったし、
俺が先に言ってたら、あんたたぶん寝返り打って背中向けてたっすよ」
猪原は肩をすくめながらも、
その場から動かずに、ぽつりと呟く。
「……じゃあ、どうすんだよ。もうひと晩寝るか?」
「寝ましょう。“もう一晩だけ、ぐだぐだ回”に決定っす」
「……どんだけ回数つけるんだ、お前は」
「記録は大事っす」
ふたりはそのまま、布団に潜り直し、
背中を向けるでもなく、顔を突き合わせるでもなく――
ただ、肩と肩を軽く当てるようにして、目を閉じた。
重なった空気。
いつもよりちょっとだけ汗くさい作業シャツ。
まだ乾ききっていない安全靴のにおい。
でも、その全部が“今朝のふたり”にとっては、
ちょうどよかった。
甘えを続ける選択は、何も間違ってなかった。
夜。
完全復活を祝うように、ふたりは同時に腕を広げた。
「よっしゃ……!」
「おう」
着替え終わった猪原と熊森は、
向かい合ったまま、お互いの格好をじっくりと確認し合う。
ヘルメット、作業着、グローブ、ベルト、安全靴――完全装備。
熊森が満面の笑みで言った。
「……やっと……“戻ってきた”って感じっすね」
猪原も、ごくわずかに目尻をゆるめてうなずく。
「……妙に、落ち着くな」
熊森は近づき、まず猪原の胸元に手を置く。
ゴワついたシャツの布越しに、掌に伝わる熱。
「この厚み……この汗と埃の混じった感触……」
「分析すんな。普通に抱け」
「はい!」
ヘルメット同士がカツッと当たるのを避けるように、
自然にあごをずらしながら、がし、と体を抱きしめ合う。
グローブ越しの指が、背中をなぞる。
ベルト同士がカチカチと当たって微かに音を立てる。
そして――
ぎゅり……ぎゅ……
足元では、お互いの半長靴の革がすれる音が静かに響いた。
熊森は、低く息をつきながら呟く。
「……やっぱ、これっすよ。
服も、靴も、重たいやつで……ぴたってくっついてるのが、いちばん安心する」
猪原は、熊森のグローブを着けた腕をゆっくり撫でながら答える。
「……汗臭ぇのに落ち着くの、もう完全にバグだな」
「バグでもバンザイです。
ていうか……ヘルメットから匂い、ちょっと抜けたな……また育てなきゃ……」
「お前の発言、たまに危ねぇ」
「じゃあ……まず今日は、シャツとベルトの擦れ音、重点的に堪能して……
明日は安全靴中心でいきましょう」
「シリーズ再開かよ」
「当然っす」
ふたりの体がぎゅっと重なるたび、
装備の重みと音がふたりを包む。
ただの作業着じゃない。
ふたりが“帰ってきた”ことを確かめ合うための、大事な皮膚の一部。
「……なぁ、篤志さん」
「ん」
「風邪ひいて寝込んでた時、ずっとこれ着たくてたまんなかったんすよ。
あんたとこれ着て抱き合ってないと、なんか落ち着かなくて」
「……俺もだ。……服着てないと、お前に触れてない感じして、変に不安だった」
「……お互い、だめですね」
「だめ同士だな」
ふたりはそのまま、ヘルメットを軽く傾けて、
ヘルメット越しの“かすり音”を鳴らす。
カチ、カツ。
これが、ふたりの“おかえり”だった。
抱き合ったまま、しばらく動かずにいた。
汗と布と革の音だけが、
ゆっくりと夜の空気に馴染んでいく。
熊森が、ぽつりと呟く。
「……脱ぎたくないっすね。今日だけは」
猪原も、すぐには返さなかった。
けれど腕を緩めずにいたまま、低く答える。
「……ああ。脱ぐ理由が見つかんねぇ」
「シャワー浴びたばっかっすし。
これ、今日いちばん清潔なフル装備ってことで……寝ても問題ないっすよね」
「誰も止めねぇよ。俺も……もうしばらく、このままでいい」
熊森が、ごそりと体をずらし、
そのまま布団の上に横になる。
猪原も、それに合わせて横たわり、
ふたりの半長靴が、かすかに“こつん”とぶつかる。
「……あんた」
「ん」
「……今日はもう、靴、脱がないで寝ましょう」
「ヘルメットもか?」
「……はい。……朝まで“完全正装”で、ぬくもり交換っす」
猪原は少しだけ鼻を鳴らした。
「……やりすぎだろ」
「でも、やりたいでしょ」
「……やるか」
熊森は小さく笑って、
布団を上からふわっとかけ直す。
その中には、
ヘルメットから安全靴まで、完全に“ふたりの装備”で満たされた身体があった。
ベルトの金具が、シャツの裾で音を立てる。
グローブの革が擦れ、肘が布団に沈む。
足元では、安全靴同士が、
ときおり**ぎゅ……ぎゅり……**と音を交わし合っている。
熊森が、ゆっくりと呟く。
「……なんか、旅行から帰ってきた日の夜、思い出すっすね」
「……ああ。着慣れたもん着て、布団に戻って、ようやく落ち着く感じ」
「……俺、たぶん……“ただ抱き合う”より、こっちのが好きなんす」
「俺も。……こっちのが、ちゃんと“ふたり”になってる気がする」
会話が止まる。
でも、それは沈黙じゃない。
布ずれの音、安全靴のすれ、ヘルメットのわずかな鳴り――
全部が“語り合い”だった。
やがて、熊森がもう一言だけ。
「……明日もこのまま目覚めたいっすね。
そしたらきっと、“あ、俺ら大丈夫だな”って思える」
猪原は、その言葉に短く答えた。
「……じゃあ、朝まで一緒に着てよう。
俺らの正装のままでな」
それは、ふたりなりの“寝巻き”であり、誓いでもあった。
朝。
窓の外が白んできた頃――
布団の中で、ふたりはまだ身じろぎもせずに横たわっていた。
作業着、グローブ、ヘルメット、ベルト、安全靴。
昨夜そのまま寝た“完全正装”は、今もぴたりと身にまとわれている。
熊森が、先に目を覚ました。
ゆっくりと視線を動かすと、すぐ隣にいる猪原のヘルメットが見える。
視線の先で、ヘルメットがほんのわずかに傾いた。
目が合った。
そのまま熊森が、ふっと笑って、
額のあたりをそっと寄せる。
カチン。
ヘルメットの縁と縁が、軽く音を立てた。
「……おはようっす」
猪原はまだ目を半分閉じたまま、低く返す。
「……ああ。……変な目覚めだな」
「最高じゃないすか。寝巻きフル装備、継続記録一日目」
「……一日で終わらせろ」
熊森は笑いながら、寝返りを打って猪原に背を預ける。
その背中越しにも、シャツの布とベルトの感触が伝わってくる。
「……脱ぎたくないな……これ。せっかく染みたぬくもりが、逃げちゃう気がするっす」
猪原も、布団の中で腕を動かし、熊森の腰にグローブ越しの手を回す。
「……わかる。……でも、着替えないと……靴の中、また汗でぐにゃる」
「……それも、それでアリじゃないすか」
「バカが」
そう言いつつ、ふたりとも、そのまましばらく動こうとはしなかった。
安全靴同士が、ぎゅり、と小さく擦れる音。
重たい装備の下で、
ふたりの呼吸とぬくもりが、ちゃんとそこにあった。
それは、ただの寝起きじゃない。
“またふたりで今日を始める”確認作業。
そして数分後――
「……そろそろ」
「うぃ……」
ようやく熊森が身体を起こし、
続いて猪原も上半身を起こした。
ヘルメットを外し、グローブをとり、
シャツの前を開け、ベルトを外して、
最後に安全靴の紐をゆっくり緩めて――
“フル装備”がほどかれていく。
そのどれもが、名残惜しくて、
けれど“今日を始めるために必要な儀式”でもあった。
脱ぎ終えたあと、熊森がぼそっと呟く。
「……また、やりましょうね。
“フル装備で眠る日”」
猪原はシャツを脱ぎかけたまま、目を細める。
「……ああ。たまには、帰る場所にしてもいい」
「“あんたのぬくもり装備”、大事にとっときます」
「お前の分も、洗わずに干しとくか」
「それ、最高っす」
朝は、ゆっくり始まった。
でもそれでよかった。
“あの装備で一緒に眠った”という確かな記憶が、
ふたりにとって何よりの活力だった。
[newpage]
夜。
ふたりは作業着のまま布団に入っていた。安全靴は履いたまま。
ただ、ヘルメットとグローブだけは棚に置かれている。扇風機が弱く回っていた。
熊森がぽつりとつぶやく。
「……あんた、さ。前にも“処理はそれぞれやってる”って言ってたじゃないすか」
「……言ったな」
「……じゃあ、何……おかずにしてんすか?」
その言葉に、猪原のまぶたがわずかに動く。
「……なんだ急に」
「いや……別に深い意味はないっす。
ただ、お互い“相手は使わない”って決めたからこそ、そこどうしてんのかって……ちょっと気になって」
沈黙。
それを破ったのは、猪原だった。
「……俺は、雑誌だ」
「紙の?」
「そうだ。コンビニで買う。見終わったらすぐ捨てる。残したくない」
「……ちゃんとしてるなぁ……」
「内容は……まぁ、普通だ。若い女の写真集。
お前とはぜんぜん関係ない。……だから選んでる」
熊森は黙ってうなずく。
「……あんたがそういうの買うの、ちょっと意外でしたけど……なんか、納得しました」
「……お前は?」
熊森は、少しだけもじっとしてから言った。
「……海外の、男の画像サイト。筋肉質だったり細身だったり……あんたに似てないやつ、あえて探してます」
「……わざわざ?」
「わざわざっすよ。似てたら、たぶん……使えなくなる。
“あんたじゃない”ってはっきりしてないと……たぶん、罪悪感みたいなもん出てきて無理」
猪原はその言葉に、ほんの少しだけ眉を上げる。
「……律儀だな」
「……でも、してる最中は……あんたのこと思い出さないように、意識して別のこと考えてます。
……“ぬくもりとか匂いとか、そういうのとは違うもんだ”って、自分に言い聞かせて」
猪原は、短く息を吐いた。
「……俺もだ」
しばらくふたりは黙って、
足元で革同士の音が、ぎゅり……と鳴った。
熊森が、ぽつりと続ける。
「……たぶん、こういうの……“相手のこと、大事にしてる”って言っていいんすかね」
猪原は、胸のあたりに熊森の額がそっと触れてきたのを感じながら、
低く答えた。
「……ああ。そうだと思う」
ふたりは、そのまま互いの匂いを感じるだけで、
ただ静かに、夜を過ごした。
“そういうのとは、ちがう”。
だからこそ――
この距離が、いちばん正直で、心地よかった。
夜。
作業着のまま布団に入ってから、しばらく。
足元で安全靴が触れ合い、
熊森は猪原の胸に顔を寄せたまま、
黙っている時間が長かった。
「……どうした」
猪原が、静かに声をかける。
熊森は、しばらく躊躇してから、
ぽつりと呟いた。
「……なんか最近、ちょっと……怖いんすよね」
「何がだ」
「……もし、俺が……
あんたの匂いとか、声とか、そういうので――
“反応”しちゃうようになったら……どうしようって」
猪原は、すぐには答えなかった。
熊森は続ける。
「……あんたのこと、好きです。
でも、そっちの意味で好きになっちゃったら……
たぶん、今の“この感じ”、全部壊れちゃう気がして」
「……」
「……ぬくもりとか、安心とか、あんたの作業着の匂いとか……
そういうのが、“エロい意味”に変わっちゃったら……
もう、俺……たぶん、普通に隣にいられなくなる」
猪原は、ごそっと腕を動かして熊森の背を撫でた。
グローブの指先が布の上をすべり、
金具のこすれる音が、ひとつ響く。
「……お前が、“そうなりたくない”って思ってるうちは……大丈夫だろ」
熊森の耳が動いた。
「……ほんと、そう思います?」
「……思う。お前が“今のままでいたい”って思ってるのが、ちゃんと伝わるから」
熊森は、胸の奥がほんの少し楽になった気がした。
「……もし、もしも……そうなっちゃったら……」
「その時は、その時だ。……考えりゃいい」
「……怒んない?」
「怒るかバカ。……俺だって、怖い時ある」
「……篤志さんも?」
「……ああ。お前のこと、ほんとに“ただの後輩”じゃなくなった時から……ずっと」
熊森は、その言葉を聞いて、
ようやく胸にためていた息を吐いた。
「……そっか。……俺だけじゃないなら、ちょっと安心した」
「安心してろ。……俺ら、めんどくせぇくらい真面目だからな」
「うぃ……」
ふたりはもう何も言わず、
ただ額をすり寄せ合いながら、呼吸を重ねた。
“壊れたくない”という気持ちが、
ふたりの距離をいちばん正しく保っていた。
[newpage]
「……もう、無理っす」
熊森が、シャツの襟元を引っ張りながら言った。
その背中にはしっかりと安全帯。ヘルメットも手袋も着けたまま。
部屋の中は、夜だというのに蒸し暑く、扇風機だけでは限界がきていた。
安全靴の中は汗でじっとりしており、猪原の背中にも湿気が貼りついている。
「……エアコン、買いましょう。もう俺、夏越せる気がしないっす」
猪原は、Tシャツの下に作業シャツを重ねたまま腕を組み、
扇風機の前で立ち止まったまま、ぽつりと返す。
「……室外機の置き場所は?」
「……ベランダ、ないっすけど、あの壁際に設置してるの、他の部屋でも見ました。いけます」
「配管通す穴、開けていいか、確認しねぇと……」
「それは……管理会社に、俺が聞きます」
「……お前、ほんとに限界だな」
「うぃ。……このままじゃ、“ぬくもり装備”で寝るの、命懸けっす」
そのあと、ふたりでスマホを並べて、
価格比較と冷房能力と電気代と騒音のレビューを読み漁る。
猪原は「工事費込みの総額」を気にし、
熊森は「室内機の見た目とフィルター掃除のしやすさ」にこだわる。
なんやかんやで二晩ほど悩み――
最終的に、猪原が「これでいいな」と言った一台が届いたのは、一週間後だった。
設置が完了した夜。
部屋には冷えた空気が流れ、熱気は一瞬で薄れていった。
「……最高っす……」
熊森はシャツの下で風が流れるのを感じながら、ため息まじりに呟いた。
猪原は床に座り、作業ベルトを直しながら言った。
「……こりゃ、もう脱がなくてもいいな」
「……フル装備で、存分にいちゃつけるっす」
「最悪だな、その言い方」
「でも……あんた、汗のにおいしてない状態でくっつかれんの、久々じゃないすか?」
猪原は熊森のヘルメットに自分の額をぶつけて、
「うるせぇ」と低く唸った。
だが、そのまま抱き寄せて離さなかった。
涼しい空気の中、
シャツの上からぴたりと密着する。
安全靴の革がひんやりしていて、こすれた音も、やけに気持ちいい。
グローブ越しに肩を抱く感触は、いつもより長く続いた。
「……これが……“文明”ってやつっすかね」
「違ぇよ。……お前と俺が、無駄に我慢してただけだ」
「じゃあ、次の文明は……洗濯乾燥機っすかね」
「調子乗んな。……次は冬に考えろ」
ふたりの声が、涼しい部屋に静かに溶けていく。
ぬくもりを、汗で我慢しなくていい贅沢。
それは、ふたりが“一緒に選んだ冷気”の中で、確かに息づいていた。
朝の光が、薄くカーテン越しに射し込んでいた。
部屋の中には洗剤と土、油と寝汗の匂いがわずかに残り、まだ少しだけ夜のぬくもりが漂っていた。
畳の上で、ふたりはほとんど無言のまま装備を整える。
作業着を着込み、安全靴を履き、手袋をポケットに押し込みながら、自然に身体を動かしていく。
シャツの布と布が擦れる音、安全靴がぎぃ……と畳の縁を踏む音。
猪原が立ち上がると、熊森もそれに続いて腰を上げた。
狭い土間の前で、互いに軽く姿勢を整える。
「鍵、持ったか」
「ある。ポケット。……篤志さんも、手袋、ちゃんと両方持った?」
「忘れるかよ」
そう言いながら、猪原は手袋を片方だけ取り出して見せ、もう片方のポケットを軽く叩いた。
熊森は少しだけ笑って、猪原の胸元に手を伸ばす。
シャツの第一ボタンを、自然な手つきで留める。
「……今日は風あるっぽいから、開けっぱだと冷えるっすよ」
「……過保護かよ」
「そっちが鈍感すぎなんすよ」
そんなやり取りのあと、ふたりは小さな音を立ててドアを開けた。
外の空気が、いっきに流れ込む。
冷たい風と、まだ乾ききらない土の匂い。
遠くで鉄骨を積んだトラックがアイドリングしている音が、町の朝を告げていた。
「……よし。今日も“いつも通り”だな」
猪原が呟くと、熊森は頷いて返した。
「……うん。今日も、ちゃんと“ここ”から始まる」
ふたりは並んで、アパートの外へ歩き出す。
足元で、安全靴の底が乾いた地面を踏みしめる音が重なった。
言葉はもう必要なかった。
でも、必要なときは必ず届くと分かっているから、ふたりは安心して無言になれた。
この朝が特別なわけじゃない。
ただ――終わらずに、続いていくということ。
それがすべてだった。
「……行くぞ、湊真」
「うん。……行こう、篤志さん」
今日もまた、“ふたりの朝”が始まっていた。
(完)
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