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隊長と薬屋の恋日誌

  [chapter:第1章『ポーションと傷痕』]

  その日、空は薄曇りだった。

  警備隊詰め所の朝は早い。まだ朝露の残る石畳を、隊員たちの足音が響く。

  熊獣人の隊長……フレル・ガルダインは、広場の中央で腕を組み、黙って隊列を見渡していた。

  「魔物討伐、完了ッ! グライム、負傷者の確認! ラッカ、お前は道具袋の中身を点検しろ!」

  怒鳴る声は広場に響き、鳩が数羽、屋根の上から飛び立った。

  副隊長のグライムはジャッカル獣人だ。灰色の毛並みに鋭い目つき。冷静で理論派な彼は、無駄な言葉を挟まない。

  「了解しました、隊長」と答えて、負傷者にすばやく視線を向ける。

  アナグマ獣人のラッカは、対照的におしゃべりで表情豊かだ。茶黒のまだら毛が少し跳ね、顔つきもどこか丸い。

  「へいへい、了解っすよ、隊長~」と軽口を返しながら、荷袋を持ち上げた。

  そして詰め所の奥では、イノシシ獣人のモーグが腕を組み、腰を下ろしている。骨太な体格に似合わず面倒見の良い男で、ラッカら若手の信頼も厚い。

  午前中に討伐任務を終えた警備隊は、それぞれの後処理へと散っていく。

  フレルは一人、剣の柄を腰に戻すと、振り返って部下たちに声をかけた。

  「詰め所に戻れッ。報告は後でまとめて受けるッ! 俺は……薬品の補充に行ってくるッ!」

  ラッカがニヤリと笑った。

  「またっすか、隊長。最近やけに補充、早くないっすか?」

  「ポーションが不足してるだけだッ! なにか問題あるかッ!?」

  「いやいや、別に~? たまたま“あの薬屋の若い娘さん”が店に立ち始めたって噂を聞いただけで」

  「違うッ! 関係ないッ! 業務だッ! 公務中だッ! ……いいから行けッ!」

  フレルは怒鳴りながらも、頭の中で昨日の会話を思い出していた。

  (“ヴァルシェルの娘さん、可愛かったっすよ”……とか、ラッカめ、余計なことを……)

  (会うとは限らんッ! そもそも薬を取りに行くだけだッ! 公務だッ!)

  赤くなった顔をごまかすように叫び、フレルはひとり、町の中心通りへと足を踏み出した……。

  薬品店「ヴァルシェル堂」は、石造りの建物が並ぶ通りの一角にある。

  正面の看板には薬草の意匠が描かれ、木扉の下からほのかにハーブの香りが流れている。

  「……よし。入るぞ。入るだけだ。任務だ。業務中だ。落ち着け……俺」

  扉を開いた瞬間……

  「いらっしゃいませっ……!」

  フレルの鼓膜を突いたのは、思ったよりも若く、澄んだ声だった。

  「っ!?」

  思わず一歩、後ずさる。

  目の前にいたのは、薄緑のエプロンドレスに身を包んだ、小柄な兎獣人の少女だった。

  長い耳がふわりと揺れ、整った顔立ちの中にやさしい瞳が宿っている。

  (まさか……本当に出てたのか……!)

  「ガ、ガルダイン隊長……でいらっしゃいますか?」

  「あっ、あァ……そうだッ! ヴァルシェル嬢か!? お前、いや、あなたが!? 娘殿! いや、嬢殿!」

  「あの……どうぞ、お掛けになってください……?」

  ぎこちなく差し出された椅子に、どっかりと腰を下ろす音が木製の床に響く。

  リネア・ヴァルシェルは机の奥に控え、柔らかく微笑んでいた。

  「本日はどのような御用でしょうか?」

  「魔物討伐でポーションを大量に使用したッ! 在庫の補充と、ついでに新しい止血薬の注文だッ!」

  「はい、かしこまりました。ええと、では記録帳を……」

  慣れない手つきで書類をめくるリネアの様子に、フレルは居住まいを正す。

  だが、視線を合わせるたびに、彼女の目がまっすぐに向いてくるのが耐えられない。

  「っ……あのッ! いや、その、すまんッ! 傷ッ! 俺が、いや隊員が……ッ!」

  「お怪我、大丈夫ですか?」

  「ああっ!? 俺か!? 俺は問題ないッ! 死んでないから生きてるッ!」

  「ふふっ……そうですね」

  「……お時間、よろしいですか? 少しだけ、傷を消毒させていただけませんか」

  「ッッ!?」

  手を伸ばしてきたリネアに、フレルの尾が反射的にぴくりと跳ねた。

  そのまま椅子の背に“ココンッ”と軽くぶつかり、音が鳴る。

  「そ、それは……必要か!? いや、そうだな!? 衛生管理は大事だな!? あァァ……っ」

  リネアが綿に薬液を染み込ませ、彼の頬にちょん、と当てる。

  その瞬間、フレルはまるで火でも当てられたように硬直した。

  「……すみません、しみますよね」

  「い、いや……その、しみるとか、そういうことじゃないッ! ただ、その、ええと!」

  「隊長さん、声が……少し大きいです」

  「なッ……す、すまんッ!!」

  詰め所に戻ると、石段の下でラッカが手を振った。

  「お帰りなさいませ、隊長殿~。思ったより長かったっすねぇ?」

  「黙れッ! 俺は任務を果たしてきたッ! 業務だッ! 業務以外のなにものでもないッ!!」

  「隊長のしっぽ、跳ねてたって……副隊長が言ってたっすよ?」

  「なにィッ!? あいつ見てたのかッ!?」

  「ええ、窓のとこで書類整理してたら、ちょうど見えたらしくて。“ピクッと反応してたな”って」

  「ぐッ……!」

  フレルは石段を駆け上がり、扉をばしんと開ける。

  中ではモーグがくつろいでいた。「おう、お帰り。で、どうだった? 例のヴァルシェル嬢」

  「……俺は……死ぬほど、恥をかいた……」

  「そりゃあ、生きてる証拠だな」

  フレルは石畳を踏みしめながら、ひとりで歩いていた。

  午後の日差しが背中を押す。だが、どこか歩みはぎこちない。

  (……なにをあんなに取り乱してる……俺は……)

  (落ち着け……あんなに声を張らなくてもよかったッ! 冷静に、論理的に……いや、そもそもっ!)

  尻尾が、だらんと垂れている。

  (次は……謝罪から入るべきか? いや、余計不自然か? でも……)

  そのまま詰め所へ戻る途中、フレルは顔を覆いたくなった。

  ヴァルシェル堂のカウンター。

  リネア・ヴァルシェルは、扉の向こうに消えたフレルの背を思い出しながら、帳面に記録を書き込んでいた。

  「……少し、大きな声だったけれど」

  ぽつりと呟く。

  「でも、まっすぐで……いい人、なんだろうな」

  棚のポーション瓶が、光を受けてわずかに煌めいた。

  詰め所の中では、ラッカがニヤニヤと近づいてくる。

  「いや~隊長、しっぽも跳ねてたけど、声のボリュームもフルだったっすね!」

  「黙れッ! お前も副隊長も、情報共有しすぎだッ!」

  モーグが笑いながらどっかりと椅子に座る。

  「ま、照れるくらいならいいさ。怒鳴るよりゃ平和だ」

  グライムが黙って帳面を差し出すと、フレルはそれを受け取りながら、唸るように言った。

  「……業務以外に、なんの意図もなかった……ッ!」

  「じゃあ、次の業務も楽しみっすね~」

  ラッカの声が廊下に消えていく頃、フレルは机に突っ伏した。

  (……もっとマトモに……)

  (……次は……!)

  ……それが、彼にとっての“初戦”であることを、本人はまだ知らなかった。

  [newpage]

  [chapter:第2章『お大事に、隊長さん』]

  翌朝、詰め所の中には薬草の匂いが漂っていた。

  「……なんか、香りますねえ。新しい消毒液ですか?」

  「いや、違うな。これは……ポーションの匂いだな。しかも、瓶詰めされたばかりの……」

  アナグマ獣人のラッカと、イノシシ獣人のモーグが鼻をひくつかせる。

  そのとき、扉が控えめに叩かれた。

  「お、お届けに上がりました。警備隊ご依頼分の、ポーション類です」

  その声に、詰め所がわずかにざわつく。

  ジャッカル獣人の副隊長・グライムが扉を開けると、そこに立っていたのは、昨日と同じ緑のエプロンドレスを着たリネアだった。

  「おお、ヴァルシェル嬢。いらっしゃい」

  「グライム副隊長様。納品に参りました」

  ラッカが耳をぴくぴくと揺らす。「おおお~、昨日の! まさか今日も来てくれるとは!」

  「その発言、隊としての信用に関わるから控えろ、ラッカ」

  「へいへい、すんませんってば~」

  奥でなにやらがたんと椅子の音が鳴る。

  「……誰だッ! 朝から騒がしいッ! 俺は集中して報告を整理していたッ!」

  姿を現したのは、熊獣人の警備隊長……フレル・ガルダインその人だった。

  そして、リネアと目が合った。

  「……ッ……ッヴァル……シェル……嬢……!」

  「おはようございます、隊長さん。昨日のポーション、追加でお届けに参りました」

  「う……うむ……ッ! 公務に忠実な態度、大いに評価するッ!」

  「こちらが、昨日ご注文いただいた三種。消毒液と……あと、傷のご様子も、少し拝見した方がよろしいかと……」

  「拝見ッ!? ま、待てッ、いやそれはッ……俺は無傷だッ! いや、ちょっとは傷んでるが、戦士の勲章だッ!」

  ラッカが横からひそひそ声を漏らす。

  「隊長、耳が真っ赤です。昨日より赤いかもしれませんよ……?」

  「黙れッ、俺はなにも動揺していないッ!!」

  「じゃあその尻尾の跳ねっぷりはなんなんすかねえ……」

  「グライムッ! 記録からその発言は削除しろッ!」

  副隊長は帳面をめくりながら淡々と答えた。「現場記録として残します、隊長」

  モーグが肩を揺らしながら、「ま、お茶でも出すか」と席を立った。

  「……失礼します。少しだけ、消毒だけでも……」

  リネアがそっと近づき、綿に薬を染み込ませてフレルの腕を取った。

  「っ……くうッ……っ」

  「痛みますか?」

  「い、いやッ! 痛くは……ないッ! ただ、なんというか……あァァ……」

  詰め所の空気が、妙な沈黙に包まれる。

  ラッカが手にしていた荷物を落としそうになって慌てて直す。

  「……隊長さん」

  リネアが、ふと声を落とす。

  「そんなに無理なさらないでください」

  「……なッ……!?」

  「隊長さんのこと……皆さん、とても頼りにしておられるようですから。だから、少しでも長く健康でいてくださったら、って……私は」

  リネアは控えめに頭を下げ、荷をまとめながら言った。

  「……それでは、隊長さん。どうか……お大事に」

  その言葉に、フレルの思考は完全にフリーズした。

  「お、大事にしますッ!!!」

  「……ふふっ。ありがとうございます」

  リネアは控えめに頭を下げ、静かに荷をまとめて帰っていった。

  その背を見送りながら、フレルはその場に立ち尽くす。

  「……俺は、今……何か、致命的なことを言ったか……?」

  「いや隊長、逆っすよ。完璧に“刺さって”ました」

  「黙れッ、ラッカッ!!!」

  扉が閉まり、リネアの足音が小さくなっていく。

  フレルはその場に立ち尽くし、しばらく視線を落としていた。

  (……なんだ、あの破壊力はッ……!)

  (“お大事に”……そんな、爆弾級の台詞をだな……)

  (くそッ、言い返す隙もなかった……ッ!!)

  椅子に崩れ込むように腰を下ろすと、モーグが湯の入った木椀をフレルの前に置いた。

  「ほら、水分取れ。血が頭に上りすぎてんぞ、お前」

  「……む、うむ……感謝するッ……」

  「隊長よぉ。あの嬢ちゃん、優しいな」

  「知ってるッ!! 見てのとおりだッ!!」

  「そう怒るなって。……照れてんのか?」

  「照れてなどいないッッ!!」

  モーグは喉を鳴らして笑いながら、ラッカの方を見やった。

  「ラッカ、隊長には刺激が強すぎたらしいな」

  「そっすね~。たぶん、あと2回くらい来られたら心臓止まるんじゃないっすかね~」

  「止まらんッ!! 止めないッ!! 強化するッ!! 耐性をつけるッ!!」

  「薬じゃないんすから……」

  その頃、リネアは詰め所を後にして、通りを歩いていた。

  納品の帰り道、肩に下げた空の木箱が軽く揺れる。

  (……少し言いすぎたかもしれません)

  (でも、やっぱり心配だったし……)

  思い出すのは、鋭い目つきと、荒々しい言葉、そしてあの声量。

  でも、その奥に見えた、困ったような表情と、ピクリと動いた小さな尻尾。

  (……優しい方、なんだろうな)

  ふと足元を見つめた。

  陽だまりの中を、うさぎのような足取りで、ゆっくりと帰っていく。

  「……では、次の巡回割り振りを確認する」

  グライムが淡々と帳面を読み上げる。フレルは半ば放心した顔でうなずいていた。

  「隊長、質問がございます」

  「……なんだ……ラッカ……」

  「次の補充任務、俺が行きましょうか?」

  「絶対に許さんッ!!!」

  帳面の端をびしっと叩いて返したフレルに、グライムが一言、締めた。

  「……嫉妬の表現としては、今のはわかりやすかったですね」

  「違うッッ!!!」

  隊長の叫びが、詰め所の天井に響き渡った……。

  その夜。

  詰め所の奥、書き物机の前に座ったまま、フレルは報告書を前に唸っていた。

  「……あの“お大事に”は、どの意味だったんだ……?」

  「隊の健康を願う意味か? それとも……直接、俺個人に向けて? いや、まさかな……!」

  呟きながら頭を抱える。尻尾がぴくぴく動いては止まる。

  「ちくしょう……なぜあの場で、冷静に返せなかったッ! “ありがとう。任務中の励みになる”くらい言えたはずッ!!」

  耳を伏せ、ぐっと拳を握りしめた。

  そのとき、背後の扉が静かに開いた。

  「……隊長。灯り、落としますよ」

  グライムの声だった。

  フレルはびくりと反応して振り返った。

  「なっ、見ていたのかッ!? いつからッ!? なぜ無言で現れるッ!?」

  「安心してください。誰にも言いません。……記録にも残しません」

  「お、おお……うむ。感謝する……」

  グライムは控えめに机の上の茶を差し出す。

  「……明日、もう一度納品があるかもしれませんね」

  「……ぐッ……!」

  そのまま立ち去るグライムの背に、フレルは何も返せなかった。

  明け方。

  詰め所の片隅でモーグが朝の飯を煮ていると、ラッカがのびをしながら入ってくる。

  「ふぁ~。……隊長、起きてます?」

  「まだ奥だな。昨夜は遅くまで書き物してたからな」

  「じゃあ……起こすのは、俺に任せてくださいよ」

  「なんでニヤけてるんだ、お前」

  「……気のせいっす」

  朝の光が差し込み、今日もまた、一日が始まる。

  隊長はまだ知らない。

  “そのポーション納品”が、彼の運命をまたひとつ転がすことを……。

  [newpage]

  [chapter:第3章『顔が、近い……!』]

  昼前の詰め所。風通しの良い窓から、陽が柔らかく差し込んでいた。

  「納品分、ありがとうございます。先に道具棚へ運んでおきます」

  ジャッカル獣人の副隊長・グライムが、てきぱきと箱を運びながらリネアに一礼する。

  「ありがとうございます、副隊長さん」

  「それと……隊長宛てに、もう一つ」

  「はい。隊長さん、まだ奥に?」

  「報告書を整理中です。入っていただいて構いません」

  「失礼いたします……」

  詰め所の奥では、フレル・ガルダインが椅子に深く腰を下ろし、帳面に顔を埋めていた。

  「隊長さん、こんにちは。追加の納品と……昨日の傷、大丈夫でしょうか?」

  「なッ……ッリネ、いや……ッリネアさんッ!? なぜここに!?」

  「グライム副隊長さんの許可をいただきましたので……」

  「ッ……そうかッ! いや、無礼ではないッ! いや、少し驚いただけであってだなッ!!」

  落ち着きのない口調で椅子を引くフレルに、リネアがふっと微笑む。

  「今日は……少しだけ消毒だけでも。傷の周囲、気温のせいか少し腫れてるようにも見えたので……」

  「いやッ、それは、だな、必要か!? 本当に必要かッ!? 別に痛みはないッ!!」

  「ですが、予防的な処置として。どうか……」

  「……ッ……わ、わかったッ……必要ならばやむを得んッ!!」

  フレルが覚悟を決めて机に手をつくと、リネアはそっと椅子を寄せて彼の隣に膝をついた。

  その瞬間、詰め所の空気が一変した。

  「ちょっと、失礼しますね……」

  リネアの白く小さな手が、フレルの顔の横に添えられた。

  「ひゃッ……!」

  「動かないでくださいね?」

  「う……うむ……!」

  鼻先、十数センチ。

  リネアの顔が近い。目が合う。瞳が大きい。まつ毛が長い。

  耳が、ピクッと反応していた。

  (近いッッッ!!!)

  (この距離感は……っ、拷問か!? いや拷問ではないッ!! 治療だッ!!)

  「じっと……しててください……」

  「んんんんッ……!」

  フレルの尻尾が“コンッ”と椅子の背にぶつかった。

  ふいに、部屋の奥からラッカの小声が漏れる。

  「……あれ、近くないっすか?」

  「出よう。俺たちは空気が読める隊だ」

  グライムが即座に判断し、モーグとラッカを引き連れてそっと扉を閉めた。

  フレルとリネア、二人きり。

  リネアは小瓶から薬液を取り、指先に少量垂らす。

  「少し、冷たいですよ……」

  「んふッ!?」

  「動かないでください……」

  (こ、この状況で動ける者がいたら俺が表彰するッ……!)

  リネアの指が、頬の傷を優しくなぞる。

  その手のぬくもりと薬のひやりとした感覚が同時に迫り……

  フレルは、ただひたすら耐えていた。

  「……はい、終わりです」

  「た、助かったッ……!! 否、施術感謝するッ!!!」

  「ふふっ……いえ」

  リネアが立ち上がった時、フレルは反射的に頭を下げてしまっていた。

  「その……俺は……もう大丈夫だッ!! 帰路に気をつけろッ!!」

  「はい。……隊長さんも、お大事に」

  また、言われた。

  その言葉に、フレルの尻尾がぴくぴくと三度はねた。

  「……ぐッ……し、失礼したッ!!!」

  勢いよく立ち上がった彼は、リネアを直視できず、壁の方を向いたまま固まっていた。

  扉が閉まる音のあと。

  しばしの沈黙を破るように、再び現れたラッカの声。

  「……終わったっすか?」

  「貴様らッ! なぜ黙って出て行ったッ!!」

  「そりゃあもう、“顔が近い……”って、こっちが叫びそうになったっすから」

  「うるさいッッッ!!!」

  隊長の叫びが、今日も詰め所に響き渡った。

  通りを歩くリネアの足取りは、いつもよりわずかに早かった。

  背中に感じた“視線を逸らされた気配”が、まだ心に残っている。

  (……あんなに驚かれるとは思いませんでした)

  (でも……やっぱり、近かったですよね……)

  頬に自分の指をあててみる。彼の体温が移ったかのように、わずかに温かかった。

  (……変じゃなかったかな。嫌じゃなかったでしょうか)

  ふと、耳の先が熱くなる。

  そして、言葉が胸の奥からふわりと浮かぶ。

  「……顔、近かったですね……」

  小さく呟いて、思わず口を覆った。

  詰め所に戻ったフレルは、ぐいと椅子に座るなり怒鳴った。

  「断じて違うッ!! あれは恋ではないッ!! 俺はただ、治療を受けただけだッ!!」

  「誰も恋だとは言ってないっすよ、隊長」

  「言ってなくても目がそう言ってるッ!!」

  モーグが煮込み鍋の蓋を開けながら苦笑する。

  「ま、意識してる時点でだいぶ進行してるぞ?」

  「してないッ!! ……俺は、してない……!」

  その声に、グライムが一言だけ、帳面の上から視線も動かさずに言った。

  「では、隊長。次は“目を見て話す訓練”から始めましょうか」

  「黙れッッッ!!!」

  こうして今日も、隊長の不器用な奮闘は続くのだった。

  その日の午後、詰め所の棚に新たに並べられたポーション瓶のラベルには、

  リネアの整った筆跡で「健康第一」「心身の平穏」と書かれていた。

  それを見つけたラッカはにやにやと笑いながら、隊長の背中を叩いた。

  「これ、隊長さんへのメッセージっすよね?」

  「黙れと言っているッ!!!」

  詰め所には今日も、声量過多の愛すべき怒号が響き渡った。

  [newpage]

  [chapter:第4章『隊長の失言』]

  町の石畳には、午前の陽が落ち着いた光を落としていた。

  穏やかな風が市通りの布幕を揺らし、露店からは香辛料の匂いが漂ってくる。

  フレル・ガルダインは、部下数名を連れて巡回任務の最中だった。

  「モーグ、南口の見回りは任せる。異常がなければ、三刻後に詰め所へ戻れッ」

  「了解だ、隊長。問題あっても押さえ込んで戻るさ」

  イノシシ獣人のモーグが手を振り、笑って街角へと消えていく。

  ラッカとグライムは別経路へと向かい、フレルは単独で中央通りを歩くこととなった。

  (……まあ、たまにはひとりでも構わんッ。異常がなければそれでいい……)

  自分に言い聞かせるように顎を引いたそのとき。

  通りの向こう、果物店の前にしゃがみこんだ小柄な姿が目に入った。

  (……ッ!?)

  薄緑のエプロンドレス。白く整った兎獣人の顔立ち。

  肩に下げた箱と、手にした布袋。荷物は明らかに重そうだった。

  ヴァルシェル堂の娘……リネア・ヴァルシェル。

  彼女が、ひとりで荷を抱えていた。

  気づけば、足が動いていた。

  「持つぞッ、ヴァルシェル嬢ッ!!」

  「えっ、そ、そんな……たいしたことありませんから……!」

  両手で荷を抱えたまま、リネアは驚いた顔でこちらを見上げる。

  その瞬間、周囲の通行人の視線が一斉にフレルに集まった。

  (……やってしまったッ!!!)

  「違う! 俺はその……責務としてだ!いや、違う、今のは……ちが……くそっ!」

  顔が熱い。耳が熱い。尾の根元まで熱を持っている気がする。

  「た、隊長さん……あの、本当に、大丈夫ですから」

  「いや、よくないッ!! そういうわけではないッ!! だが、持つ必要がないなら……いや、でも俺は……ッ」

  (止まれ! 口を止めろ! なぜだ! なぜ止まらないッ!)

  リネアは、必死に微笑みながら言った。

  「あの……お気持ちだけ、受け取っても……?」

  「気持ちッ!? なにッ!? 気持ちってなんだッ!? 違うッ! そういう意味ではないッ!!」

  (最悪だ……この状況、もう抜け出せないッ!!!)

  近くの花屋の老婆が、くすっと笑った。

  「隊長さん、若いのに真面目で可愛いねぇ」

  「ち、ちが……違わないこともないが、いや、違うッ!!」

  袋小路のような状況で、フレルの口はすでに制御不能だった。

  リネアはと言えば、ぽかんとしながらも、静かに首を傾げて言う。

  「……えっと、その。よければ……半分だけ、持っていただけますか?」

  「ッ!? う、うむッ!! ならばその提案は受理するッ!!」

  手から手へ、重さのある布袋が渡される。

  それだけのことなのに、フレルの心拍は討伐任務より早くなっていた。

  (……なぜ俺はッ……この程度で……ッ!?)

  「すみません、ありがとうございます、隊長さん」

  「問題ないッ! 町の民の支援は我らの務めだッ!」

  「ふふっ。では、少しだけ……ご一緒しても?」

  「う、うむッ!! 問題ないッ!! ……問題ない……ッ」

  フレルの尻尾が、こっそり揺れていた。

  その揺れに、気づいていないのは隊長本人だけだった。

  並んで歩くには、ほんの少し距離が近かった。

  布袋を持ったままのフレルは、何度も握りなおすように指を動かしていた。

  隣ではリネアが、少し恥ずかしそうに視線を下げながら歩いている。

  「……重くありませんか?」

  「む、問題ないッ! これしきの重量、隊長としては当然の任務であるッ!」

  「……ふふっ。そうですね」

  それきり、しばらく言葉は途切れた。

  通りを抜け、橋の上に差しかかったとき、川の流れの音が風に乗る。

  「……隊長さんは、いつもあんなふうにしてくださるのですか?」

  「なッ!? ふ、ふうにとはどういう意味だッ!? 俺は常に、町の安全を守る義務を……!」

  「……優しいなと思って」

  「ッ~~~~~~~~!!」

  口から何かが出そうになり、慌てて飲み込む。

  「優しい……というより、誠実なんです。たぶん、誤解されやすい方だと思うけれど」

  「誤解はされていないッ!! 俺は……常に、真っ直ぐであるだけだッ!!」

  (……なんだこの会話ッ!? どうやって終わればいいッ!?)

  そんな時だった。近くの食堂から出てきた初老の夫婦が、笑いながら通りすがりに言った。

  「まあ、若いっていいねぇ。微笑ましいわ」

  「お前も昔はああやって荷物持ってもらってたじゃないか」

  「やだもう、あなたったら」

  その言葉が耳に入った瞬間……

  「ッッ違うッッッッ!!!」

  フレルの声が、昼下がりの空に響き渡った。

  リネアは驚いたように立ち止まり、手で口元を押さえて、くすっと笑った。

  「……隊長さん、ほんとうに分かりやすいです」

  「なにがッ!? 俺は常に誤解を招かないよう最善を尽くしているッ!!」

  「うふふっ……はい。ありがとうございます」

  少しだけ、彼女の歩幅が近づいた気がした。

  (……落ち着け、俺……歩くだけだ……荷物を持って、歩いているだけ……!)

  しかし尻尾の動きは、そんな冷静さを裏切るように、こっそり跳ね続けていた。

  [newpage]

  [chapter:第5章『ごめんなさいと、おまけ』]

  朝の市場は、人通りがまばらで落ち着いた空気に包まれていた。

  木箱の並ぶ裏通りを、フレル・ガルダインは一人、重い足取りで歩いていた。

  (……何度も反芻したはずだッ。第一声は「先日の非礼を詫びに参った」、次に「隊としての立場から謝罪を」……)

  額に汗。手には汗。尻尾も落ち着かない。

  ヴァルシェル堂の扉が見えてきた。扉を前に一度立ち止まり、深呼吸。

  (よし……よし……行くぞッ……!)

  がちゃりと扉を開けると、薬草の匂いが鼻先に届いた。

  「いらっしゃいませ」

  リネアがカウンターの奥で顔を上げた瞬間、フレルは姿勢を正した。

  「ヴァルシェル嬢ッ!!」

  「……あっ。隊長さん」

  「ッ……先日の非礼……俺の不適切な発言と行動……! 全て、公務の名の下にあるとはいえ……あれはッ……!」

  「ふふっ……ごめんなさい、笑ってしまって。でも、気にしてませんよ?」

  「なッ……!? いやッ、だがそれでも礼儀として謝罪を……いや違う、それでは不十分ッ!!」

  「隊長さん、そんなに肩に力を入れないでください」

  フレルは拳を握ったまま頭を下げた。

  「……すまなかったッ……ッ!!」

  それを見たリネアは、そっと手元の棚を開け、小さな紙箱を取り出した。

  「では……ひとつ、受け取ってもらえますか?」

  「なにッ……? いや、それは……義理など、いや、義務などで受け取るような……」

  リネアは黙ってカウンターの横から出てくると、そっと彼の前に立った。

  「これは……貼っておいた方がいいですね」

  「……え?」

  「はい、おまけです」

  小さな指が彼の頬に触れた。

  薄い布の端がぺたりと皮膚に吸いつく感覚。

  匂いが近い。

  ハーブの香りと、彼女自身のほのかな匂い。

  (ち、ちか……ッ……ッッ!!!)

  頭が真っ白になる音がした。

  「……あ、ありがとう……ございます……」

  地声が、裏返った。

  リネアは一瞬目を丸くしたあと、ふっと笑った。

  「丁寧な隊長さん、はじめて聞きました」

  「ち、違うッ!! 俺は……その、今のは……くそっ!!」

  「ふふっ。大丈夫ですよ、ちゃんと伝わってますから」

  その言葉に、もう何も返せなかった。

  ヴァルシェル堂を出たあと、フレルはしばらく通りに立ち尽くしていた。

  (……なんだったんだ、今のは……)

  頬に貼られた絆創膏は、風に当たってわずかにひやりとする。

  けれどその感覚よりも、彼女の手のぬくもりの記憶のほうが鮮明だった。

  (ちがうッ……これは治療だッ! それ以上でも以下でもないッ!!)

  だが、どう考えても“おまけ”にしては心拍の上がり方が異常だった。

  詰め所に戻ると、待っていたのは当然のようにラッカの鋭い勘だった。

  「隊長~、それどうしたんすか? 頬のそれっすよ」

  「ッッ!?」

  「それ、絆創膏……にしては、かわいくないっすか? あれ、ラベンダーの香り?」

  モーグもにやにやしながら寄ってくる。

  「まさか、貼ってもらったんじゃねえだろうな?」

  「ち、違うッ!! 俺は……ッ、その、受動的だったッ!! 不可避だったッ!!」

  「“貼られただけ”ってことっすね? あ~、そりゃもう完全に受け入れてるっすわ」

  「やめろッ!! 語るなッ!! 何も!! 語るなッ!!!」

  グライムはというと、帳面の陰から視線も上げずにこう言った。

  「……治療であれ、記録には残ります。正式な処置として」

  「黙れッ!! 書くなッ!!!」

  その夜、フレルは一人で詰め所の椅子に座り、頬の絆創膏をそっと指でなぞっていた。

  あの手のぬくもりと、何気ない笑顔と、

  「伝わってますから」という一言。

  (……あれは……何が……伝わったんだ……?)

  分からない。けれど、それを知りたいと思ってしまった自分がいる。

  「……くそッ……ッ」

  頬に残る布の端が、今夜はやけに熱を帯びていた。

  消灯後、詰め所の仮眠室。

  寝台の上で、フレルは天井を睨むようにして横になっていた。

  (……俺は……あれを……何と受け取るべきだった……)

  頬にまだ絆創膏が貼られている。剥がすこともできたが、なぜかそれができなかった。

  (あのとき……あいつは……いや、“リネアさん”は……ッ)

  喉の奥で小さく呻く。

  (なぜ今、名前で呼んだッ!? いや、呼んでないッ!! 心の中だッ!! 心の中でならば問題ないッ!!)

  それでも、名前を呼んだ自分に対して、なにかがふわりと込み上げてきた。

  (……もし、あれが……ただの薬屋の娘ではなく……“リネアさん”だから、だったとしたら……)

  (俺は、どうすればいいッ!?)

  悩んだ末に出た答えは、布団の中に頭を突っ込んでの叫びだった。

  「くそッ……ッッ!! もう、どうすればいいか分からんッ!!」

  その呟きが夜の詰め所に吸い込まれ、どこまでも静かに消えていった。

  [newpage]

  [chapter:第6章『恋と呼ぶには早すぎて』]

  昼下がりの詰め所は、巡回部隊の出払ったあとの静けさに包まれていた。

  開いた窓からは風が入り、書類棚の端がぱら、と小さく鳴る。

  その静寂を破ったのは、控えめなノックの音だった。

  「失礼いたします。納品に参りました」

  グライムが静かに立ち上がり、扉を開ける。

  「いらっしゃい、ヴァルシェル嬢。隊長は奥にいます。新作ですね?」

  「はい。新しい滋養強壮系のポーションを少々……副隊長さんも、後ほどお試しください」

  「……遠慮しておきましょう。何が起きるか、私では予測できませんので」

  「ふふっ……安全ですよ?」

  そのやりとりを聞いていたフレルは、部屋の奥から小さく身を乗り出した。

  「……ヴァルシェル嬢かッ……!?」

  「隊長さん、ご在室ですね。あの……少し、お時間よろしいでしょうか?」

  「う、うむッ! 問題ないッ! 用件は何だッ!?」

  「新作のポーションをお持ちしました。ですが……その、効能の確認のために少し、手をお借りしたくて」

  「手……!? な、なにをするつもりだッ!?」

  「脈を、測らせていただきます」

  「なッ……ッまッ、ヴァルシェル嬢!? いま何を……!? どこをッ……!?」

  「手首、です。大丈夫、失礼はいたしませんから。……はい、手を」

  指先が、そっと彼の手首に触れた。

  そのまま、細い指が脈を探るように押し当てられる。

  柔らかなぬくもり。静かな呼吸。距離が、近い。

  (ッッ……このままじゃ……死ぬぞ俺……)

  顔が近い。手が温かい。空気が静かすぎる。

  「……早い、ですね。脈が」

  「そ、それはッ!! ええと、気温の影響かッ!? いや、違うッ! なんだッ!? くそッ!!」

  「ふふっ……大丈夫です。緊張しておられるだけだと思いますから」

  「緊張などしていないッ!! 落ち着いているッ!! 冷静だッ!!」

  (俺のどこが冷静なんだッ!! うわああああッ!!)

  リネアが手を離す。名残惜しさすら感じてしまう己に、フレルは動揺した。

  「はい、これで測定完了です。正常範囲、異常なし」

  「む……う、うむッ……感謝するッ!!」

  リネアは小さく笑みを浮かべたあと、言葉を継いだ。

  「それと、もうひとつ。ポーションの香り、変えてみたんです。今回は……すこし、柔らかめに」

  「そうかッ! 確かに……以前より、なんだかこう……」

  「……甘く、感じますか?」

  「ッ……ッ!!」

  (甘いッ!? なにがッ!? この空気がかッ!? 彼女の香りがかッ!?)

  「香りも、ですが……隊長さんの反応も、甘くて……ふふっ」

  「反応が甘いとはどういう意味だッ!? いやッ、聞かなくていいッ!! 撤回するッ!!」

  (もうなにも分からんッ!! これ以上会話を続けると崩壊するッ!!)

  納品を終え、通りに出たリネアは胸元に手を置いていた。

  隊長の手首に触れていた指先に、まだ余韻が残っている。

  (……あんなに、速かった……)

  もちろん、薬理的な意味で異常はなかった。

  けれど、あの脈の速さは……

  (……やっぱり、緊張……してたのかな)

  そしてもうひとつ。

  (……そろそろ、“ガルダイン隊長”じゃなくて……)

  言いかけて、ふるりと首を振る。

  (まだ、早い……ですよね)

  自分の耳が熱くなるのを、風に紛らわせて歩き出した。

  一方、詰め所では。

  「……リネアさん……いや、違う、ヴァルシェル嬢……いや、“さん”って呼びかけたら……ッッ!!」

  椅子に突っ伏したフレルが、机の角に頭を打ちつけて悶えていた。

  (もし“リネア”と呼んだら、どうなる!? なんと言われる!? いやそれ以前に……俺は無理だッ!!)

  自爆の末にぐったりしていたところ、グライムが机の上から書類をすっと差し出した。

  「隊長」

  「な、なんだッ!?」

  「恋というのは、脈の速さで判断するものではありません」

  「だれが恋などしていると言ったッ!? そんな記録は存在しないッ!!」

  「では、診療記録として“動悸・目眩・過剰な声量”を提出しておきましょう」

  「やめろッッ!!!」

  グライムは淡々と帳面に書き込みながら、一言だけ付け加えた。

  「……呼びたいなら、呼べばいいのに、とは思いますけどね。名前で」

  「……呼べるかァッ!!」

  詰め所の天井が、今日も叫び声に震えた。

  その夜。仮眠室の隅、寝台に座るフレルの姿は妙に落ち着かない。

  (……試しに……呼んでみるだけだッ。誰も聞いていないッ!)

  深呼吸。布団の端を握りしめたまま、そっと呟いてみる。

  「……リ……リ……リ、リ……ッ」

  言えない。

  何度も口を開いては閉じ、声にならない。

  「……リネ……ああああッ!! 無理だッ!!!」

  枕に顔を押しつけて、声にならない雄叫びを上げる。

  「くそッ……くそッ……なんでこんなッ……たかが呼び方だろうッ!!」

  誰もいないはずの部屋で、己にだけ届くような小さな声が続く。

  「リネアさん……リネア……さん……」

  名前だけが、やけに柔らかく響いた。

  けれどその一言だけで、今夜もまた、寝つけそうになかった。

  [newpage]

  [chapter:第7章『風邪薬と沈黙』]

  その朝、詰め所の空気は少し違っていた。

  「……あれ、今日って隊長、来てませんよね?」

  ラッカが窓を覗きながら眉をひそめる。

  いつもなら、夜明けとともに出勤しているはずの熊獣人の姿がない。

  「連絡も……ないですね。珍しい」

  グライムが帳面を繰りながら答えた。

  モーグが腕を組み、「様子見に行った方がいいな」と言ったのはその直後だった。

  詰め所奥の仮眠室。

  布団を被ったままうずくまる影がひとつ。

  「……ッ、すまん……俺は……大丈夫だ……ただの風邪だッ……!」

  布団の中から聞こえてきたのは、明らかに弱ったフレルの声だった。

  「どこが大丈夫っすか、声がもう隊長じゃないっすよ!」

  ラッカが半ば呆れたように返す。

  額に手を当てたモーグが「熱あるな、こりゃ」とつぶやくと、グライムが部屋を出た。

  「薬を取りに行きましょう。適任者が、いるので」

  その一言に、誰もが誰を呼ぶつもりか悟った。

  昼前、詰め所の扉が静かに開いた。

  「おじゃまいたします。ガルダイン隊長は……」

  「奥っす。今は静かに寝てるけど……たぶん、顔も見せられないくらい弱ってるっす」

  「そう、ですか……」

  リネアは静かに仮眠室の扉を開けた。

  その中で、布団を頭までかぶったフレルが、ぴくりと反応する。

  「……誰だッ……! 来るなッ! 今は誰にも見せられる顔じゃないッ!!」

  「隊長さん……リネアです。薬を、お持ちしました」

  「……ッ……なぜ来た……いや、違う……来てくれて……ありが……いや、すまん……ッ!」

  咳の混じる声が、彼の弱り具合を物語っていた。

  「お水と、薬、それと……はい、冷やした布も」

  「む、う……感謝する……でも、姿を見られたくはない……ッ」

  リネアは、そっと布団の端に膝をついた。

  「では、姿は見ませんから」

  そう言って、そっと彼の手を取った。

  冷えた布を、その手に包み込むように当てる。

  言葉はなかった。

  ただ、静かで優しい手の感触が、彼の熱を少しだけ落ち着かせてくれた。

  (なぜ……こんなときに限って……やけに優しくされる……ッ)

  (いや、いつも優しいが……今は……不意打ちすぎる……!)

  声を出せず、身動きもとれず。

  それでも、心だけはずっと、彼女に向かっていた。

  彼女の手が、そっと布団の端を整える。

  それだけの仕草に、フレルの思考は再び混乱する。

  (俺は……なんでこんな……寝てるだけで、何も返せない……ッ)

  (せめて、声くらい……まっすぐ、出せれば……)

  「……すまん……情けない……姿を……ッ……見せてしまって……」

  そのかすれた言葉に、リネアは首を横に振った。

  「隊長さん。誰だって、弱る日もあります」

  「……だが……俺は、いつも……強く……在らねば……ッ」

  「……私は、弱っている隊長さんも……嫌いじゃありませんよ?」

  「なにを言って……ッ!? いま、なんと……!?」

  「ふふ……なにも。気にしないで、薬を飲んでください」

  リネアはそう言うと、立ち上がりかけてから一度だけ振り返り、

  ごく控えめな声で付け加えた。

  「……早く、元気になってくださいね。隊長さん」

  そのまま部屋を出て行く足音が、静かに遠ざかっていく。

  フレルは布団の中で、熱とは別のもので頭がぐるぐるになっていた。

  (いまの……なにッ!? 嫌いじゃないとは……どういう意味だッ!?)

  (いや違うッ、そういうのはもっと健康な時に処理すべき話題だッ!!)

  (だが……嬉しくなかったとは言えない……ッ)

  詰め所の外では、ラッカが興奮気味に話しかけていた。

  「やっぱ来ましたね、リネアさん! 俺、なんとなくそう思ってたんすよ~」

  「お前、声がでかい」

  モーグが低く呟くが、ラッカは止まらない。

  「で、どうっすか? 看病イベントってやつっすか? いい感じっすかね? ねっ?」

  「ラッカ」

  「へっ?」

  「静かにしろ。今日の隊長には“沈黙”の方が薬になる」

  グライムの静かな声に、ラッカは珍しく黙った。

  その空気のなか、ただ一つ、奥の部屋から微かな呟きが漏れた。

  「……おまえら、聞こえてるぞ……ッ……静かにしろッ……」

  どうやら、まだまだ回復には時間がかかりそうだった。

  その夜、詰め所の仮眠室。

  フレルはまだ微熱を残したまま、布団の中で天井を見つめていた。

  (……あの姿を、見せたこと……恥ずかしかった、はずなのに)

  けれど、彼女の言葉と、あの静かな手の感触は、心のどこかに残り続けている。

  (……それでも、来てくれた)

  (仕事でも義務でもない……そういう、“優しさ”だった)

  誰にも見られていないことを確かめて、布団の中で小さく呟く。

  「……リネア……さん……」

  それだけの一言で、体の奥に残った熱が少しだけ、和らいだ気がした。

  そして彼は、眠る。

  ひさしぶりに、すこし穏やかな呼吸で。

  [newpage]

  [chapter:第8章『心音、近く』]

  季節外れの激しい豪雨が町を襲ったのは、日が落ちて間もなくのことだった。

  増水した川の水が一部の通りにあふれ出し、町の数軒に避難指示が出された。

  警備隊の詰め所は、その一時的な避難所として解放された。

  「ここで一晩を明かしてもらえれば、雨が止む頃には戻れるはずだッ!」

  フレルの声が、広間に響いていた。

  天井を打つ激しい雨音と、どこか湿った空気。

  町の損害は最小限だったが、水はけの悪い路地や店舗の裏口が一時的に閉ざされたという。

  そんな中、避難してきた一人が、薬品店ヴァルシェル堂の娘・リネアだった。

  「ご迷惑をおかけして、すみません……裏の戸が塞がれてしまって……」

  「問題ないッ! 状況が落ち着くまで、ここにいてくれて構わんッ!」

  フレルは思わず語気を強めてしまい、慌てて補足した。

  「……いや、あの、つまり……その……民を守るのは、我らの務めで……」

  「はい、ありがとうございます。隊長さん」

  そう微笑まれてしまっては、何も言えなかった。

  夜も更け、避難民の多くは別の施設に移された。

  詰め所の広間には仮設の寝台が数脚並び、静寂が戻りつつあった。

  「毛布が足りていない……ッ」

  フレルが備蓄棚をあさっていたところに、廊下の影から小さな声がした。

  「あの……隊長さん?」

  「な、なんだッ!? いや、どうしたヴァルシェル嬢ッ!!」

  「すみません、寒くて……少しだけ、何か……」

  「これを使えッ!!」

  勢いよく毛布を差し出しながら、フレルは自分の声の大きさにぎくりとした。

  「……いや、あの、無理に大きな声を出すつもりはなかったッ!!」

  「ふふ……ありがとうございます」

  受け取るリネアの手が、冷えていた。

  「……冷えてるな。場所が悪かったか?」

  「いえ、大丈夫です。屋根があるだけでも、ありがたいです」

  「ここに……座るか? その、窓から離れたほうが……暖かいッ!」

  「はい。お言葉に甘えて……」

  寝台の端にリネアが腰を下ろし、その隣にフレルもそっと座る。

  思ったよりも距離が近く、肩と肩がわずかに触れた。

  会話は止まり、雨音だけが部屋を満たす。

  ふいに、フレルがぼそりと呟いた。

  「……寒くないか?」

  リネアの肩が、ぴくりと震えた。

  返事はなかった。

  けれど、すぐ隣から伝わってきた。

  ……ドクン。

  衣の向こう。

  耳の先で、心音が小さく、けれどはっきりと響いていた。

  リネアは、肩に触れたぬくもりのせいで、余計に寒さを感じてしまっていた。

  それは冷えではなく、内側から熱が上がってくるような、不思議な感覚。

  (……聞こえて、ますよね。たぶん)

  自分の鼓動が、外に漏れているのではないか。

  そう思うと、胸の奥がきゅっと締めつけられるように鳴った。

  (でも……逃げたくはない、です)

  横にいるフレルは、ぴくりとも動かない。

  いや、動けないでいるのだと気づく。

  (きっと……隊長さんも、いま……)

  一方そのころ、フレルの内心も混乱していた。

  (なにをしているッ!? 俺はただ、毛布を渡しただけのはずだッ!!)

  (それなのに……なぜ、肩が触れたままなのかッ!? 動けないッ!)

  (今、話しかけたら……何かが壊れそうな静けさッ……!)

  部屋の空気が、やけに濃く感じられる。

  リネアの小さな呼吸が耳に触れるたび、脈拍がさらに加速する。

  (この距離……この沈黙……)

  そのとき、廊下の奥から足音が近づいた。

  ラッカの軽い声が扉の向こうから響く。

  「隊長、毛布もう一枚……あっ……」

  扉は、少しだけ開いていた。

  寝台の上、肩を寄せ合って座るふたりの姿が、そこにあった。

  ラッカは一瞬だけ固まり、

  そのままそっと、何も言わずに引き返していった。

  「……」

  誰も気づかないふりをした。

  扉は開いたまま、ただ静かに、雨音に溶けていた。

  どれほどの時間が過ぎただろう。

  リネアが、わずかに身を引くように肩をずらした。

  「……そろそろ、戻ったほうが……」

  声は、ごく小さかった。

  けれど、すぐ隣にいるフレルには、はっきりと届いた。

  (……そうだ。ずっとこうしてるわけには……)

  わかっている。だが、それでも口をついて出たのは。

  「……もう少しだけ……ここにいてくれ」

  リネアが、驚いたように視線を向ける気配。

  けれど、フレルはそちらを見なかった。

  見たら、何かが変わってしまう気がして。

  返事はなかった。

  ただ、それきり彼女が動く気配もなくなった。

  代わりに、もうひとつの音が聞こえてきた。

  ……ドクン。

  彼女の鼓動。そして、自分の鼓動。

  違う拍を打っていた音が、少しずつ、重なるように揃っていく。

  目を合わせないまま、視線を逸らしたまま。

  それでも、心音だけが、静かに共鳴していた。

  [newpage]

  [chapter:第9章『名前で、呼びたくて』]

  翌日、空はすっかり晴れていた。

  川の水も引き、町は静かに、日常を取り戻しつつあった。

  ヴァルシェル堂の店先には、朝の日差しが差し込んでいた。

  リネアは出入口に新しい薬草を並べながら、時おり、ぼんやりと遠くを見ていた。

  昨夜の、あの静寂。

  「……もう少しだけ、ここにいてくれ」

  思い出すたびに、胸の奥がじんと熱を帯びる。

  (あのとき……名前で呼びたくなった)

  ただの「隊長さん」ではなくて。

  ただの「守ってくれる人」でもなくて。

  彼を、ひとりの人として、もっと近くで。

  リネアは手を胸に当て、小さく息を吐いた。

  (言えるでしょうか、ちゃんと……)

  一方その頃、詰め所では。

  「……あの晩のことは記録に残すべきか否か……」

  「やめろグライムッ!! 余計なことを考えるなッ!!」

  「寝台使用記録が不自然に1床分不足しているので、つい……」

  「書くなッ!! 記録も! 記憶もッ!!」

  「じゃあもう告白しちまえばいいのに」

  「モーグ、黙れッ!!!」

  そんな怒号が飛び交うなか、リネアはその扉を静かにノックした。

  「失礼いたします……ご在室でしょうか?」

  騒ぎはぴたりと止まり、皆が一斉にフレルを見た。

  「ど、どうぞッ!! 入室許可ッ!!」

  「……ありがとうございます」

  ドアの隙間から現れたリネアは、どこか表情が固かった。

  「隊長さん……少しだけ、お時間いただいても?」

  「う、うむッ!! 応接室へッ!! こちらへどうぞッ!!!」

  廊下に出た瞬間、後ろからラッカの囁き声が飛んだ。

  「隊長、今度こそ……ッスね……!」

  「ラッカッ!! 貴様ッ……もう黙ってろッ!!!」

  扉が閉まり、静かな空間が訪れた。

  応接室にて。

  フレルは背筋を正して椅子に座っていた。

  けれど、視線がどこにも定まらず、手もじっとしていられない。

  リネアも、落ち着かない様子で指先を重ね合わせていた。

  「その……突然すみません。どうしても、今日……お伝えしたいことがあって」

  「な、なんだッ!? 何か問題でも発生したのかッ!? いや、違うなッ!? 違うのかッ!?」

  「違います。あの……問題では、ないんです」

  「そうかッ!! 問題でないなら……いや、それはそれで逆に……なにかあるのではないかとッ!!」

  「……隊長さん」

  静かに呼ばれて、フレルは口を閉じた。

  リネアは、ほんの一瞬だけ目を閉じて、そして……告げた。

  「その……ガルダイン隊長のこと……下の名前で、呼びたいと思ってしまって……」

  世界が、一瞬止まった気がした。

  (な……なにを言っているッ!?)

  フレルは目を見開き、すぐに言葉を返せなかった。

  リネアは、彼の反応をそっと見つめながらも、声を震わせずに続けた。

  「……いけなかったでしょうか。隊長としてではなくて……その……フレルさん、って……」

  心臓が、大きな音を立てて跳ねる。

  鼓動が耳に響きすぎて、返事ができない。

  フレルは俯き、拳を膝に乗せて握りしめた。

  (呼ばれたッ!! 名前を……初めて……名前で……!!)

  その瞬間、長年の訓練も、指揮官としての理性も、どこかへ吹き飛んだ。

  彼は、顔を手で覆ったまま、しばらく沈黙していた。

  リネアは、不安そうにその様子を見守っていたが……

  やがて、深く、ゆっくりと息を吐いた彼が、低い声で言った。

  「……いい。お前……いや、リネアさん。呼んでくれて、嬉しい」

  その一言は、震えながらも、まっすぐだった。

  リネアは、小さく口元を緩めて、そっと頷いた。

  「……ありがとうございます。フレルさん」

  名を呼ぶ声が、部屋に優しく響いた。

  「……実は、ずっと呼びたかったんです。隊長さんの名前」

  リネアが恥ずかしそうに言うと、フレルの耳の先が赤くなるのがはっきり分かった。

  「な、なぜだッ!? いや、嬉しいがッ!! その……理由は……いや、理由はいいッ!!」

  わけのわからないことを言いながら、フレルは立ち上がって背を向けた。

  「とにかくッ……今後も、必要とあらば……その、名前で呼んでも……構わんッ!!」

  「……はい。ありがとうございます、フレルさん」

  その名がもう一度響くたびに、背筋が伸びる気がした。

  その頃、応接室の扉の外……

  「うっわ~~~~~これは、完全に交際寸前っすね~~~~」

  ラッカが壁に背を当て、にやけながら小声で呟いていた。

  だが次の瞬間、扉の隙間から聞こえた低い声が彼を凍らせた。

  「……そこにいるのは誰だッ!!」

  「ひえっ!? す、すみませんでしたぁ!!」

  ばたばたと逃げ去る足音が、廊下にこだました。

  部屋の中では、リネアがくすくすと笑っていた。

  フレルは顔を覆ったまま、小さく呟いた。

  「……もう、恥ずかしさで死ぬかと思った……ッ」

  けれどその声には、どこか、満たされた響きがあった。

  [newpage]

  [chapter:第10章『隊長と、恋人と』]

  詰め所の屋上は、昼間の喧騒が嘘のように静かだった。

  空は澄んで、遠くの森の稜線が青く霞んでいる。

  警備隊の内部では、ここは休憩や見張りの合間に利用される場。

  けれど今夜は、そのどちらでもなかった。

  足音が一つ、階段を上がってくる。

  フレルは、手すりの前で立ったまま、その気配を待っていた。

  「……お呼びでしょうか、フレルさん」

  声がして振り返ると、リネアが小さく礼をした。

  「う、うむッ! よく来てくれたッ……! いや、ありがとう……というか……すまん……!」

  「ふふっ、すみません、落ち着いてください。私、逃げたりしませんよ?」

  そう言われてしまえば、もう、何も言えなかった。

  二人は、屋上の隅、風を避けられる壁際に並んで立った。

  しばらくは、何も話さずに夜空を見ていた。

  リネアがそっと口を開く。

  「……星、きれいですね」

  「う、うむッ……そうだな……ッ!!」

  「詰め所から見るの、初めてです」

  「俺は……何度か、夜勤の折に」

  そこで言葉が途切れた。

  一呼吸、そして……フレルは、意を決して言った。

  「……俺は、リネアさんのことが好きだ」

  リネアが驚いたように目を瞬かせ、すぐに視線を伏せた。

  「……はい」

  それだけだった。けれど、その頷きに込められた意味は大きかった。

  言葉はぎこちなくても、指先はしっかりと繋がれていた。

  (恋人、というやつだッ……!!)

  (交際、成立ッ……!! ……本当にこれでいいのかッ!? いや、いいに決まっているッ!!)

  その場で一人興奮しそうになるのを、フレルは全力で抑えた。

  沈黙が少し続いたあと、リネアは小さく呟いた。

  「……私も」

  「な、なんだッ……ッ!? 今、なんと……?」

  「私も、です。フレルさんのこと、好きだと思います」

  ほんの少しだけ、声が震えていた。

  けれど、それは紛れもない本心だった。

  「うおおおおおおおお……ッッ!!」

  フレルは小さく叫び、耳まで真っ赤にしながら後ろを向いた。

  「くそッ……なんでッ! なんでそう簡単に言えるんだッ!! 俺はもう限界だッ!!」

  「隊長さん、落ち着いてください」

  「無理だッ!! これが落ち着いていられるわけがないだろうッ!!」

  「ふふっ……でも、私も緊張していますよ?」

  そう言って、リネアがそっと右手を差し出した。

  「……あの……よければ、手を……」

  「ッ!? 手だとッ!? いや、その、ええと、ちょっと待てッ! 準備がッ!! いや、今するッ!! したッ!! 済んだッ!!」

  混乱のまま、がしっと握った手の温度に、フレルはまたパニックしかけた。

  けれど、彼女の手がそっと握り返した瞬間、不思議と落ち着いた。

  「……温かいな」

  「はい。フレルさんの手も……すこし、震えてますけど」

  「震えてなどいないッ!! ……いや、しているかもしれんッ!! だが問題ないッ!!」

  夜風が吹く中、二人はただ、黙って空を見上げた。

  その沈黙は、少しだけ甘く、そして穏やかだった。

  その頃、屋根裏の反対側。

  ラッカの泣き声を聞きながら、グライムとモーグは階段下で腕を組んでいた。

  「……屋根裏に入り込むとは、ほんと落ち着かん奴だな」

  「でもまあ、今日は多めに見てやれよ。隊長の門出だ」

  「……記録には残しませんが、思い出には残るでしょうね」

  「お、珍しく詩的だな」

  「隊長の顔を見たら、明日から呼び方を変えるつもりです。“隊長殿”と」

  「それ、絶対バレないようにしろよ?」

  「努力はします」

  そんな彼らの会話を知らずに、フレルとリネアは静かに夜を過ごしていた。

  翌朝、詰め所。

  「おはようございます、フレルさん」

  「うむッ! いや、おはようッ!! 違うなッ!? いや、正しいッ!! おはようございますッ!!」

  朝から全開のフレルを見て、モーグがニヤリと笑った。

  「へえ、今日は“さん”呼びか。なんかあったんじゃねえの?」

  「ないッ!! 何もないッ!! いや、あるがッ! ないッ!!」

  「隊長、顔、真っ赤っすよ~~~。もうバレバレっすよ~~~!」

  「ラッカッ! 貴様ァ!! 黙れッ!! いや、話せッ! だが選べッ!!」

  グライムが書類棚から顔を上げて、一言。

  「……交際記録の提出は任意です。お忘れなく」

  「記録はするなッ!!! 誰もッ!!!」

  笑い声が広がる中、リネアがそっと詰め所に入ってきた。

  フレルと目が合い、ふたりとも少しだけ、照れたように笑う。

  その距離は、ほんの少し前より、確かに近づいていた。

  [newpage]

  [chapter:エピローグ『春告げの朝』]

  季節は巡り、町には春の香りが満ち始めていた。

  巡回の道すがら、隊服の袖をまくったフレルは、陽気な光に目を細める。

  肩にかすかに残る冷気が、冬の名残を告げていた。

  「隊長さん、暑くないですか?」

  背後から聞こえた声に、彼は振り向く。

  リネアだった。今日も薬草を届けに来ており、詰め所の前で彼を待っていたようだ。

  「暑くはないッ! むしろ適温ッ!! いや、少し暑いかもしれんが……いや、大丈夫だッ!」

  「ふふっ。じゃあ、これをどうぞ」

  彼女が差し出したのは、涼感効果のあるハーブの包みだった。

  「この時期、日差しに反応して体が重くなることもありますから。よければ、詰め所に……」

  「感謝するッ!! さすがはヴァル……いや、リネアさん!!」

  声が大きすぎた。

  町人が二、三人、振り返る。

  フレルは慌てて声を落とした。

  「……すまん。最近、声量の調節が……」

  「大丈夫ですよ。隊長さんの声、私は好きです」

  リネアはそう言って微笑み、横に並んで歩き出した。

  フレルも、歩幅を合わせるように一歩を踏み出す。

  小さな尻尾が彼の視界にちらちら揺れている。

  春風がそれを追いかけるように吹いて、二人の影を長く伸ばしていった。

  詰め所に戻ると、いつもの三人が待ち構えていた。

  「うぉ、また見事に並んで帰ってきたっすね~~~」

  「そろそろ手でも繋いで来る日が来ると思ってたぜ」

  「……そういう場面は職務中には不適切です」

  フレルの顔がみるみる赤くなる。

  「貴様らッ!! 職務中に私語を慎めッ!! というかッ! 詮索するなッ!!」

  「いやいや、なんも言ってないっすよ? ね、モーグさん?」

  「まーな。俺はただ、春だな~って言ってただけだ」

  「その“春”が俺のことを指しているのだろうがッ!!!」

  部屋の隅で、グライムだけが静かに帳面を繰っている。

  「春の報告も、交際の記録も……本日は記載不要。日常業務に含まれる、と」

  誰に言うでもなく呟いたその一言が、なぜか妙にあたたかく聞こえた。

  フレルは溜め息をひとつついて、リネアの方を見た。

  「……帰りも、護送しようッ!」

  「……はい。お願いします、隊長さん」

  ふたりの足音が並んで消えていく。

  空には、鳥の影が一筋。

  それを見上げたフレルの耳が、少しだけ赤く染まっていた。

  詰め所の階段を下りながら、リネアはそっと彼を見上げた。

  (あの夜、名前を呼んだとき。隊長さんの顔が、あんなふうに真っ赤になるなんて思わなかった)

  少しずつ、変わっていく関係。

  それはまるで、薬草が時間をかけて効いていくような——ゆっくりと、けれど確かに染みていく感覚だった。

  (好き、という気持ちは……思っていたより、柔らかくて)

  (でも、思っていたよりも、勇気が要るもので)

  それでも、彼がその手を取ってくれたから。

  (この人と一緒なら、大丈夫って……そう思えるから)

  外に出た瞬間、まぶしい春の日差しが頬を照らした。

  「目に染みるな……ッ!! いや、照度が高いだけだッ!!」

  「ふふっ、春ですから」

  並んで歩く肩と肩が、時折ふれる。

  声を上げずに、どちらもそのままにしていた。

  その日の夜、詰め所の仮眠室。

  フレルは寝台の端で、日報を書きながらペンを止めた。

  (守るべきものは、町だけじゃない)

  (……誰かひとりを大事に思うって、こういうことなんだな)

  机の上に置かれた小さな薬包。リネアが今日、置いていったものだ。

  「……また明日、か」

  ぽつりと呟いて、灯りを落とす。

  仄暗い部屋に、春の夜風がそっと吹いた。

  翌朝、詰め所。

  「……お、おかしいッ!? 俺より早く来ているとは……!」

  玄関の扉を開けたフレルは、目の前の光景に固まった。

  薬包を並べている小柄な背中。

  リネアが、すでに詰め所の掃除を始めていたのだ。

  「おはようございます、フレルさん」

  「な、なに!? その、なぜ……いや、おはようッ!! 違う、いや正しいッ!! おはようございます……リネアさん」

  「今日は、先に来てみたくなって。……驚きました?」

  「う、うむッ! まったくもってッ!! だが……悪くないッ!!」

  ほんのわずか、手がふれそうになった。

  どちらも動かない。けれど、もうそれを焦って隠すことはしなかった。

  「……今日も、よろしくお願いします」

  「……ああ。よろしく頼む、リネアさん」

  朝の光が差し込む詰め所で、静かな一日がまた始まった。

  だが、二人の距離はもう、昨日までの“日常”とは少し違っていた。

  (完)

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