下校途中のカイは、静かな午後の住宅街を歩いていた。
初夏の陽射しがアスファルトをじんわりと温めていて、風もなく穏やかな日だった。
そんな中、道端にぽつんと転がる奇妙なものを見つけた。
「……亀の…甲羅…?」
それはまるで亀の甲羅だけが落ちているようだった。
けれど、手足も頭もない。まるで、亀の中身だけがすっぽり抜け落ちたかのようだった。
カイは不思議に思い、周囲を見回した。近くに川や池があるわけでもない。逃げ出したペットがこんなところまで来るとも考えにくい。
「なんで…こんなところに……?」
興味が勝った。
しゃがみこんで甲羅をじっと見つめる。
表面は艶があり、湿ったような輝きを放っている。触れたらひんやりと冷たそうだった。
少し迷ったものの、カイはそっと手を伸ばした。
その瞬間。
「……え…ちょっ…!」
甲羅の隙間から、ドロリとした緑色の液体があふれ出した。ねっとりとしたそれは、生温かい吐息のような湿気を帯び、ゆっくりと形を変えながらカイの右腕に絡みついた。
「う、わっ……!?」
必死に左手で引き剥がそうとするが、スライムはまるで生き物のように蠢き、次々とカイの肌に絡みついていく。
「た…すけ…っ!」
最後の1文字を出し切る前にカイは力強く甲羅の中へと引きずり込まれた。
⸻
中は想像していたよりも広かった。
だが、それ以上に異質だった。
全方位を緑色の粘液が覆い尽くし、どこを見ても抜け出せる隙間はない。スライムは壁のようにねっとりと絡みつきカイの身体をじわじわと包み込んでいく。
「……! ……っ!」
叫ぼうとしても口元にもスライムが張りつき、声すら漏らせない。
じわり、と異様な熱が広がった。
カイの服の繊維が触れるそばから泡を立てて溶けていく。
「ん…んん……!?(う…うそ……!?)」
ジリジリと布地が侵食され、肌が露わになっていく。
Tシャツはべたついた音を立てながら溶解し、ズボンや下着までもスライムに飲み込まれて消えていった。
生温かい液体が、素肌を包み込む。
「ぅ……め…!(ぁ……ゃめ…!)」
抵抗しようとするたび、スライムはさらに絡みつき、カイの手足をじっくりと押さえつけた。
全身が緑色の膜に覆われ、皮膚の感覚が曖昧になっていく。
「ん、んぐ……」
胸元、腹、足の先まで。ぬるりとした感触がまるで肉の内側に入り込むように、じわじわと染み込んでいく。
そして、変化は始まった。
指の先が丸みを帯び、皮膚はしっとりとした鱗のように硬質化していく。
爪は短く分厚くなり、腕はゆっくりと太くなっていった。
「ん……ぁ……」
次第に関節が重くなり指を曲げるだけでも鈍い痛みが走る。足はずっしりとした重量感を帯び、甲羅の内部に吸い込まれていくようだった。
「あ………ぅん………」
言葉にしようとしても、頭の中でぼんやりと霞んでいく。
スライムはただ身体を作り変えるだけではない。
脳まで侵食し、カイの思考をじわじわと蝕んでいった。
言葉の端々が崩れ落ち、簡単な単語すらうまく思い出せない。
(ぼ…く…?……って……だ…れ…?)
不安が胸を締めつける。
けれど、その感情さえも長くは続かなかった。
考えることが、むずかしい。
言葉が浮かんでも、うまくつながらない。
「……あ……ぇ……」
自分が何だったのか。
そんなことは、もうどうでもよかった。
「……あう……ぁ……」
声に出せるのは、単純な音ばかり。
言葉を探そうとしても、脳がそれを拒絶した。
もう何も考えられない。
首が縮み、鼻先が突き出し、口元は硬いくちばしのような形状へと収束していく。
甲羅の穴から、緑色の顔がぬるりと現れる。小さな黒い瞳が瞬きをし、分厚い前足が地面に置かれる。
そこにいたのは、普通の子亀だった。
さっきまで人間の少年が歩いていた道を子亀はトコトコと、ゆっくりどこかに向かい歩みを始めた。
気づくとさっきまで甲羅があった場所には新しく甲羅が落ちており、そして新たな獲物を求めるかのように再び静かに転がっていた。