1
ガチャリという音と共に何かが忍び寄ってくる感覚を光利は、ぼやける頭の中で感じ取っていた。トンと言う音と共にベッドに、それは飛び乗って来て自分の顔を覗き込んできた。グルグルと鳴る呼吸音か喉の音か?眠い目を擦りながらスマホで時間を確認する。まだ午前3時30分。夏でいくら日が昇るのが早いと言っても日の出までには、まだ、かなりの時間があった。
「あのなあ、ミルク。」思わず声に出してしまい文句を言おうとする。自分の顔を覗き込んでニャアとなく一匹の雌の猫。黒を基調としたモフモフの長毛に、所々白く長い毛が生えている。ブリティッシュ・ショートヘアと言う種類で、その風貌はふてぶてしさも感じる。光利の顔に、自分の顔をこすり付けて何かをアピールする。
「一寸待ってろよ。」仕方なくベッドから降りて、何時ものルーティンが始まる。トイレの掃除、水の交換、そして猫缶を半分だけ猫専用の皿に盛り付け、空になっていた別の更にキャットフードを補充する。用意している際も光利の体に自分の体をこすり付けてくるミルク。時々、鳴き声を挙げながら常にくっついて離れない。
餌を一心不乱に食べているミルクの姿を横目に見ながら自分も起きる事にした。目覚ましがいらないと言えば聞こえはいいが日の出の周期と共に猫の睡眠時間も変わっている。特に夏場は、この様に早く起こされるのだ。
洋式トイレに腰かけて用を足しながら歯を磨く光利。すると食べ終わったのだろう。ミルクがやってきて足元に纏わりついている。その様子を見ながら光利は、今までの事を思い出していた。
光利とミルク。一緒に生活をするようになってから5年程が経っていた。家から離れて一人暮らしを始めるに当たって親から(一人暮らしは寂しいだろうから連れていけ)と言われて一緒に連れてきた猫。その時は、まだ子猫で世話も親がしていた。一人暮らしが始まりミルクとの共同生活が始まる。順風満帆な物ではなかってのだ。
初めは慣れない世話、そしてミルクが光利に懐かないという事もあり大変だった事は脳裏に焼き付いている。何度、猫の爪で引っ搔かれて傷を作っただろうか?そして一緒に暮らし始めて1年ほどたった冬のある日、事件は起こった。洗濯物を干そうと窓を開けた。自分の不注意で猫を閉じ込めておくことを忘れていてミルクが、その隙をついて逃げ出したのだった。アパートの3階から地面に飛び降りて町に飛び出していく、その姿を呆然と見送った事は今でも覚えている。
2
アパートの周りの家々にビラを投げ込んだ。ミルクの特徴を詳細に書き込んだ写真付きの物だ。(外飼いの猫は戻ってくる事はあるけど中飼いの猫はいなくなると・・・)そういう噂は耳に入っていたが、それでも不安を押し殺して猫の帰りを待ち続けた。そして、いなくなって1週間後、奇跡的にミルクは見つかったのである。少しポッチャリした筈の体が、持ち上げると随分軽くなっていた。帰って来て不覚にも涙が溢れたのも思い出だ。
1週間、外の世界で色々な物を見て経験したのだろう。あれだけ懐かなかったミルクが人、いや猫が変わった様に懐き出したのだ。自分の後をついてまわり、外出しようとするのを察知しては鳴いて、帰ってくれば、またニャーニャー鳴く。ブラッシングをしても嫌がらず抱き上げても、引っ掻くような事はしなくなった。
そして現在、自分も20代後半となりミルクの年齢も6歳になった。人の年齢に直せば自分よりも年上の妙齢の女性にあたるらしい。今日も仕事先から戻ってドアを開けると玄関先にミルクが大人しく待っていた。
「ただいま。」と言って持ち上げると言葉が分かるかのようにニャーと鳴くミルク。今では、すっかり体重も元に戻り、男の自分でも片手で持ち上げるのには少し苦労するぐらいだ。と言っても明らかに太っている訳ではなく毛がフワフワモフモフで大きく見えるだけだと自分では思っていた。
「よし、ご飯だ。」既に皿の中のキャットフードは空になっていた。皿に補充してもミルクは口をつけようとしない。朝、半分だけあげた猫缶の残りも一緒に添えるが、それでもやはり見向きもしないのだ。
「やっぱり、これが欲しいのか。」そう言って目の前に差し出したのは一本のチューブに入った猫の御飯。
CMで評判の物。ミルクも、これが一番お気に入り。誰が言ったか猫にとって麻薬の様な物なのも頷ける。
自分の夕食を済ませて風呂に入り暫く寛いだ後にベッドに入る。それまではミルクも猫用のベッドの中で大人しくしている。様子を伺うと既に可愛らしい寝息を立てている様だ。自分の自由時間まで束縛するような物ではないが、とにかく朝が早い。それだけが唯一の悩みの種だ。
(また明日も早いんだろうな)そう思いながら自分のベッドに入る光利。電気を消して横になった、その後ろ姿を自分のベッドの中からミルクが見ている。そして暫く見つめた後に再び自分も眠りにつくのだった。
3
休日、自分の買い物とミルクの買い物を兼ねて近くのホームセンターに出かけた時だった。ペット用品売り場に近づくと何やら賑やかな雰囲気がある。多くの人々、特に子供連れの姿が目立つ前に一人の女性。そして、その横には一匹の犬と猫が大人しく座っていた。
(何と、この犬の耳のカチューシャと猫の耳のカチューシャ!これを頭につければワンちゃん、猫ちゃんの言う事が分かると言う優れもの!ネットでも販売していない、この商品、今なら〇〇円で如何でしょう?)
女性が力説するも、なかなか売れそうにない。光利は人だかりが消えるのを待って女性に近づいていった。
「これって本当に使えるのか?」猫耳のカチューシャを手にとって女性に質問してみる。沈んでいた女性の顔がパアッと明るくなり矢継ぎ早に商品の効能の説明を始めた。その口の上手さに引き込まれてしまう。
(この商品、自分で飼っているワンちゃん、猫ちゃんの声しか聞こえない様になっているんです。だから、この子達の声も私しか聞こえない訳で。お試しが出来ないので誰も信用してくれないんですよ)女性の表情は真剣その物だ。
(騙されたと思って)女性に金を払い猫耳のカチューシャを手に入れて買い物を済ませ家路へと向かった。
(意外としっかりした製品かな)家に持って帰ってカチューシャを改めて眺めてみる、始めは、玩具みたいな物かと思っていたが猫耳が外れる様な気配はない。自分が何か作業をやっているのを不思議に思ったのだろう。ミルクが近づいて来て自分の足元に纏わりついてきた。
「お前の為に買ってきたんだぞ。」膝の上にミルクを持ち上げてカチューシャを見せてやる。ゴロゴロと喉を鳴らし腹を見せている。信頼の証だろうという事は知っていたが、それでも深夜に起こされる事など色々と不満に思う所は幾つもある。ダメ元だとは分かっていたが猫の真意を知れるのなら安い買い物だろう。
(よし、つけてみるか)思い切って光利はカチューシャを頭につけてみた。特に問題はない。そしてミルクの様子を見ても特に変わった様子は無い様だ。
(やっぱり騙されたか)そう思い、カチューシャを外そうと頭に手をやってみる。
(あれ、外れない?)そして目の前がグルグルと回転しはじめ気が遠くなっていく。最後に感じたのはミルクの心配そうな鳴き声だった。
4
(ご主人様、ご主人様、起きて下さい!)頭の中で誰かが呼ぶ声がする。女性の声だとは分かるが聞いた事がない声だ。頭が、ふらつくが目を覚まして手に膝をついて起き上がろうとする。妙な感覚に気づいた。
確か服を着ていた筈なのに今、自分が触ったのは毛の様な感触だ。そして自分の手も妙な感覚があった。
立ち上がり何気なく鏡に映った自分の姿。それを見た瞬間に一気に目が覚める。信じられない光景がそこにはあった。人間大の猫の姿だ。お腹と手足だけが白く他は黒くて長い毛で覆われていて頭には猫耳もある。
手には肉球がついていて指には長い爪が伸びている。そしてお尻には大きくて太い尻尾が揺れていたのだ。
(ご主人様、私の声が聞こえますか!貴方のミルクです。私に呼びかけて下さい!)呼びかけてと言われても、その目の前には自分の知っている猫の姿は何処にもいない。慌てて再び自分の姿を鏡に映して見ると
(私、ご主人様と一緒になっているみたいです。何故だか分かりませんけど、ご主人様が何か頭につけられましたよね。そこから私も気が遠くなっちゃって、気が付いたら、こんな風になっちゃっていたんですよ)
ミルクと名乗る脳内の声。感じとしては大人の女性という感じだ。その説明に一先ず光利は納得が出来た。
「さて、これから、どうしようか?」頭につけた猫耳のカチューシャは今では本当の猫の耳になっている。
自分の意思で耳も動くし尻尾も動く。爪も出したり引っ込めたりする事が出来るのが本当に驚きだ。しかし、このまま元に戻らないのも非常に困る。丁度、今日からお盆休みで1週間程、会社が休みなのは本当にラッキーな事だと思う。その間に、何とか元の姿に戻れないか?その事で頭が一杯になってしまっていた。
(私、ご主人様の目線で物を見る事が出来て嬉しいです。ずっと床の付近でしか物が見えなかったから)
頭の中で一方的に喋るミルク。色々な事を語ってくれた。今まで育ててくれたお礼。そして、あの脱走の顛末を語ってくれた。
(私、外の世界に憧れていて思わず逃げちゃったんですけど、大変でした。外で生きる仲間からは追いかけまわされ、ご飯も食べれず水溜りの水を飲むだけでした。ご主人様に見つけて欲しくて近くにいたんですけど中々見つけて貰えなくて、もう少し見つけてくれるのが遅かったら今の私はいないと思うんです)
自分の事を分かって欲しい。そう思って語り続けているであろうミルクの心根に俺は惹かれていったのだ。
5
(そうだ、ご主人様、町に出かけませんか?もう夜ですし誰も見ていませんから)そう言われて今、光利は屋根の上に登っていた。辺りを見回すと既に夜の帳が降りていて家々には明かりが灯っている。確かに、ここは町ではなく大きなビルも辺りには数える程しかない。光利としては屋根から下を見下ろすと足が竦む。
(大丈夫です。私を信じて下さい。猫って凄いんですよ。じゃあ、ちょっとご主人様の体、お借りします)
そう言って急に体の自由が効かなくなった。家の2階の屋根から地面に飛び降りる。空中でくるっと一回転し音もなく着地する。一瞬、足に衝撃が走るが、それで動けなくなる訳ではない。そのまま、今度は別の家の2階の屋根に飛び乗るのだった。
(・・・・これぐらいは序の口ですよ。この体の大きさなら5階ぐらいまでなら落ちても大丈夫ですし一息で飛び乗る事も出来ます)ふうっと溜息の音が頭の中に聞こえる。光利自身は自分の体、いや、この猫娘みたいな体の能力に驚きを感じていた。テレビや映画の中でみたスーパーヒーローみたいな能力を持っている。
(じゃあ、もうちょっと町の中を飛び回ってもいいですか)その言葉に光利が頷くと、その体は自在に動く。屋根から屋根へ物凄い距離を跳躍し足音もなく着地する。その動きはまさに、しなやかな獣その物である。途中で屋根で休んでいた野良猫の隣に着地すると、猫は自分の姿をみて驚いて一目散に逃げて行った。
(昔、小さかった時は仲間だと信じて近づいていったのに余所者扱いされて追いかけまわされたんです。それで、ああ、私にはご主人様しかいないんだと思ったんです。外の世界って、もっと自由で楽しい所かなって思っていたんですけど、・・・有難うございます。取り合えず今の所は外の世界は十分楽しみました。)
その言葉に返す言葉も無い。確かにミルクが逃げない様に色々な所に鍵をかけたり閉じ込めたりしていた。
その行動が今のミルクの考え方になったとしたら自分のやっていた事が正しかったのかと思ってしまう。
(でも、ミルクは俺と一緒にいたいと言ってくれる。だったら彼女の気持ちを尊重するべきなんだろう)
暫く外を飛び回って程よい疲れが体に回って来てお腹も空いて喉も乾いてきた。そして自宅の屋根に飛び移り慣れ親しんだ自分の部屋に戻ってきたのだった。
6
何時もの様に食事を作ろうとする。しかし上手くいかない。指も全体的にふっくらして掌にはピンク色の肉球がついている。何時もと感覚が違うので調理器具を上手く扱う事ができない。それ見かねたのだろう。
(あのー、ご主人様。騙されたと思って私の食事を食べてみませんか?)ミルクが申し訳なさそうに言ってきた。
食卓には山盛りのキャットフードが乗った皿と猫缶1つ、そして猫の麻薬と称されるチューブが1本乗っている。まず、匂いを嗅いでみる。鼻も人の肌色の物から猫らしいピンクの、先が濡れた鼻に変わっている。
キャットフードと猫缶の匂い。何時もご飯を上げる時に手に匂いがつくが、その匂いが何故か魅力的だ。
このまま皿から貪り食べたいという衝動に駆られるが、そこまでしては完全に人として終わった気がする。
最後の抵抗でスプーンでキャットフードをすくい一口、口に入れる。そして思い切って噛み締めてみた。
口の中は鋭い牙とザラザラした舌が感じられる。加減が分からないので、ゆっくり時間をかけ咀嚼する。
「あれっ、思ったよりイケるにゃ?」思わず声に出してしまう。その声も自分の、男の低い声ではない。
猫の鳴き声と大人の女性の声が混じった様な妙な声だ。戸惑いながらもキャットフードを食べ続けてみる。
「うまい、うまいにゃ!」スプーンでは食べにくいので、直ぐに皿にかぷりついて直に食べ始めていた。
キャットフードを食べ終えて次は猫缶に手をつける。震える手で猫缶を開けて皿の上にあけるとツナ缶の様で生々しい魚の匂いがする。猫用なので特に味付けしている訳ではないが齧り付くとしっかり味を感じる。
(人間だと色々、食事に味付けをしますよね。私達、濃い味付けだと体に悪いので薄味で大丈夫なんです)
「よく、知ってるんだにゃ!何処で、そんにゃ知識を覚えたんだにゃ」お行儀が悪いとは思ったが猫缶を食べ終えた皿をペロペロと舐めながら光利は猫の食事の美味さに酔いしれていた。
(じゃあ、例のアレも食べちゃいましょう。これが一番私のお気に入りです)チューブの先端をハサミで切って思い切って吸い付いてみる。
(!!)麻薬という例えは悪いが、病みつきになる味だ。確かに止まらない。だが1日1本という決まりを自分で作った以上、その量は守らなければならない。名残惜しいが食事を結局、全部食べてしまっていた。
「でも、毎日、これの繰り返しだと飽きるよにゃあ。」問いかけるがミルクは、答えようとしなかった。
7
(・・・と言う訳なんです)食事を終えて自分のベッドの上に横になる。改めて自分の体を見て見ると猫としての特徴も勿論だが女性の体なんだという事に気が付いた。毛で覆われてはいるが胸には明らかな膨らみが2つあるしお腹の辺りを触ると、そこまで大きくはないが、やはり膨らみらしき物が幾つもあった。そして自分の男性の証は幾ら触っても触れる事が出来なかった。
「にゃあ、一つ、お願いしたい事があるんだけど?」光利は、そう話を切り出した。意思疎通が出来る間に言っておきたい事がある。何時、また互いに元の姿に戻るかも知れないし、このまま、ずっと猫娘の姿のままかもしれない。でも、一つ不満に思っている事があるのも事実だ。この際だから言っておく必要がある。
「今だとさ。日の出も早いだろ。朝というか深夜に起こされるのは辛いんだよ。昼間も眠くてさ。」光利の言葉をミルクは黙って聞いている。
「多分、ご飯が欲しいとか構って欲しいという事は分かるにゃ。でも、少し我慢して貰えないかにゃ?」
言い出したら止まらなくなってしまう。心の奥底に秘めている思いや不満、要望を全て吐き出していた。
(わ、私、寂しがり屋だし猫だから難しい事良く分からなくて・・・でも、そうですよね。知らない間に、ご主人様に迷惑をかけていたんですね)しょんぼりとした声が頭の中に響く。グスッグスッと言う音も聞こえるので恐らく泣いているのだろう。何か自分が悪い事をしたのではないかと罪悪感を感じてしまう。
(ご主人様は私と一緒だと嫌なのですか?)そう言われると言葉に窮してしまう。何か言って宥めようと思うが適当な言葉が思いつかない。思わず無言になってしまう。ミルクの方も何も言おうとしない事に不安だけが募っていく。そして長い沈黙の後にミルクがポツリと言った。
(やっぱり、私達、元の姿に戻った方がいいですね。分かりました。ご主人様の言う通りにします。)その言葉と共に強烈な眠気が襲ってきた。そして、そのまま光利の意識は闇に飲まれていったのだった。そして次に目が覚めた時、光利は自分が元の姿に戻っている事に気が付いた。その傍らには何時もの様にミルクが横たわって自分の姿を見つめている。そしてベッドの横には、あの猫耳のカチューシャが転がっていたのだった。
8
元の姿に戻ってから暫くの時間が過ぎた。あれからカチューシャは使っていない。何故、元の姿に戻れたかは分からずじまいである。ただ、何となく分かる事が一つだけあった。
(俺はミルクに拒否されたのではないか?)という漠然とし思い。でも、それは確信の様な気がしていた。
あれ以来、朝早くに起こされるという事は無かった。自分が起きて行動を開始すると、それに合わせた様に
ミルクも自分の寝床から起きて動き出すという感じになっている。相変わらず手のかからない猫であり自分の言う事にも素直に従ってくれる。そして、そのまま時間だけが過ぎていく。そんな、ある日の事だった。
「あれっ、今日も、ご飯を残しているのか?」普段なら全部食べてしまう筈のキャットフードと猫缶。最近は残している事が多くなった。その量が少しずつ多くなってきている。そして、あっという間に水と例のチューブしか受け付けなくなっていたのだった。体を持ち上げてみても随分と軽くなった様な気がした。
「ミルク、何故食べないんだよ?」心配になって動物病院に連れて行き診察を受け色々と検査を受けた。特に異常なしと言う結果だったが、一つだけ獣医の先生が気になる事を言っていた。
(何かストレスが溜まるような事があると食欲が落ちるという事があります。心当たりはありませんか?)
ぽっちゃりとした肉付きがよいふくよかな体も、今では触ると肋骨が分かるぐらいまでになっていた。
今では暇さえあれば構って欲しいとすり寄っていたのが殆どの時間を自分の寝床で蹲っているだけになっていた。
「どうしちゃったんだよ。」不安げな表情で蹲っているミルクを撫でてやる。弱弱しい声でニャアと鳴いて手に顔を擦り付けてくるが以前の力強い様子ではない。そんな光利の視界に入った物がある。例の猫耳のカチューシャだ。何時の間にかミルクが、それを自分の寝床に持ち込んでいた事に初めて気が付いたのだ。
「お前、まさか?」そう言ってカチューシャを取り上げようとする光利、すると思いがけない行動を見た。
(フシャー!)牙を向き出しにして威嚇してくるミルク。取り上げようとする手に噛みついてきたのだ。
思わず手を引っ込める。本当の力なら傷ついて出血する筈なのに歯型だけが掌にくっきり残るだけだった。
そして再びカチューシャを取り上げようとすると今度は歯型のついた掌をペロペロと舐めてきた。そして縋る様な視線を、こちらに向けてくる。光利は意を決して再び自分の頭にカチューシャをつけるのだった。
9
「グハッ!?」思わず、声が漏れてしまう。懐かしい女性の声。一瞬、気が遠くなりそうな感覚を何とか我慢して床に手をついて踏ん張る。朦朧とする意識の中で自分の姿を鏡で確認すると猫娘の姿だ。しかし前のふくよか姿とは異なり明らかに痩せている姿だ。すると脳裏にミルクの弱弱しい声が響いてきた。
(あれっ、ご主人様を追い出す事が出来ない?おかしい?前は出来たのに。私の中から出て行ってよ!)
何か言おうとして猛烈に腹が減っている事に気づく。とにかく何か食べなければならない。しかしその前に
「ミルク、どうしたんだよ。何でご飯食べにゃいんだよ?俺ににゃにか悪い事があったら教えて欲しい。」
そう、呼びかけると意外な返事が返ってきた。
(私、ご主人様の言う事を守っていたんです。でも何故か、それから食欲が落ちてきて、こんな風に・・)
息も絶え絶えな声で光利の声に応じるミルク。その言葉を聞いて、ふと思い当たる事があった。何かストレスになる事がなかったか?ひょっとしてミルクの行動を制限した。それを頑なに守る事が原因でないか?
「御免にゃ、お前は猫だもんにゃ、好きな様に気ままに行動するのが当たり前だにゃ。俺が悪かった。」
(いいのですか?私、我儘ですよ。また朝早く寂しくて、構って欲しくて、ご主人様を起こしますよ?)
「構うもんか。お前に元気ににゃってもらわにゃいと俺も困る。頼むから元のミルクに戻って欲しい!」
(ご主人様、有難うございます。最後に一つだけ我儘を聞いて貰っていいですか?)
その言葉に思わず愕然とする光利。最悪の予想が脳裏に浮かぶが聞き逃さない様に意識を集中させる。
「にゃんだ?言ってみろ、俺に出来る事にゃら、にゃんでもするから」
(お腹が空いて動けません。今日はキャットフードは特盛で猫缶は2つ、例のアレが4本食べたいです。)
言われた通りにキャットフードを大盛にして水で流し込む。猫缶を一口で飲み込んで例のチューブを4つ纏めて一気に吸い込む。食べるごとに体に活力が湧いて来る。そして、お腹が一杯になって床に寝転がった。
(有難うございます。やっぱり、ご主人様は優しいですね。私、ますます、ご主人様が好きになりました)
お腹が膨れてウトウトする光利の脳裏にミルクが泣きながら感謝する。その言葉が聞こえた様な気がした。
10
(行ってきます)
「俺も会社に行って来る。暗くなる前に帰って来いよ。」光利が部屋から出て行くのと同時に一匹の猫が飛び出して屋根伝いに軽やかに跳躍していく。その後ろ姿を見送って光利も、また仕事に向かうのであった。
あれから、また元の姿に戻った光利とミルク。何故か元に戻った時に、あのカチューシャは消えていた。
それと引き換えに光利が得た能力。それはミルクの事、つまり猫の気持ちが分かる様になったのだった。
あの時、販売員の女性が言ったように分かるのはミルクだけ。他の猫の気持ちは分からないままでいる。
痩せていた姿も、すっかり元に戻り、朝も早くから起こされる生活が、また始まったのである。それでも
光利にとってはミルクが元気になっただけで満足だった。何時もと変わらない日常が過ごせるという事が何よりも幸せな事だと改めて気づく事になったのだ。
(そういえば、ご主人様。今日、私と同じ種類の猫を飼っている方を見かけました。御主人と同じくらいの年齢の女性の方です)
会社が終わり家に戻って来て一緒に夕食をとる。その時に今日、何があったかを報告してくるのが日常の光景になっている。
「で、それが俺に、どう関係があるんだ?」
そう言いながらもミルクと同じ種類の猫を飼っているという所に興味を惹かれて、その先を聞いてみると
(私、ご主人様にも幸せになって貰いたいんです。私、ご主人様よりも早くいなくなっちゃいますから
ご主人様の今後が心配で)
そう言って俺の顔を見上げてニャアと鳴いてみせる。まるで母親気取りの様な様子に思わず胸が熱くなる。
(私が、いずれ、その女性の方を御主人さまに紹介しますからね。向こうの子。オスで年下なんですけど、その子も自分のご主人様の事を心配してましたからね。その子と連絡を取り合って段取りをつけますから)
「ハイハイ、楽しみにしているよ。じゃあ、ご馳走様。」
(ご馳走様でした)
自分の食器を流しに入れて洗い終えてから、食べ終わったミルクの皿を綺麗にしてあげる光利であった。
(じゃあ、お休みなさい)
そう言って自分の寝床に入って蹲るミルクを確認して光利も自分のベッドに入って眠りにつこうとする。
猫の寿命は自分よりも遥に短い。それを何処で知ったのだろうか?そんな事を考えながら何時の間にか眠りについていた。
ストンと何かが床に降りた音がした。何かが近寄ってくる気配を感じて、うっすらと目を開けてみる。丁度ベッドにミルクが飛び乗った所だった。そして顔が間近に迫った所で目を開けて
「おはよう。」
(おはようございます)ニャアと短く鳴いてみせるミルク。今日も、何時もと変わらない1日が始まるのだ。