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[chapter:プロローグ『その腹に、すべての夜が沈む』]
腹の上で、王が寝ている。
それは、王国の“夜”の風景だった。
王レオナール・グランフォード。
ライオン獣人の王者にして、国の頂点に立つ男。
そして、騎士団長オルド・バロンクス。
猪獣人の筋骨豊かな体を持ち、誰より忠義に厚く、誰より腹が柔らかい。
「……ぽこん……」
王の耳に、小さな音が響いた。
「……ころ……くくぅ……」
続いて別の音が、王の耳に、腹の奥から伝わる。
「うむ……今日も、見事だ。張り、深み、温度、音……すべてが揃っている」
「……寝ろよ。俺、帰れねえんだぞ」
仰向けに横たわる団長は、うんざりしたような口調でそう言った。
だが、寝間着の前はしっかりとはだけており、その丸みある腹の上には、王の頭が沈んでいる。
無意識ではない。れっきとした王命による“腹枕の公務”だ。
王は、腹でなければ熟睡できない。
膝でも、胸でも、羽毛の枕でも、寝具職人が一晩で仕立てた絹の枕でも――ダメなのだ。
「……ふる……ぽっ……」
「……実況すんなって、ほんとに」
「いや。これは記録に残すべき音だ。“ぽこん”は胃の中心、“ころ”は腸のくびれ、そして“ふる”は明らかに……」
「位置まで解説すんな!」
オルドはごろんと横を向きかけ、しかし王の頭が腹の上にいるせいで、動くに動けず固まった。
「……動くな。振動が腹の奥の音を乱す。今ちょうど、“くぅ”が来そうだ」
「知らねえよ!」
「今夜は特に……香りが良い。干し肉の香ばしさと、芋のやさしい甘み……」
「お前な、俺の腹から晩飯分析して悦に浸ってんじゃねえ!」
そんなやりとりを、王妃シルヴィアは静かに観察していた。
寝室と隣接する、観察室――正確には王妃の書見室に、彼女は腰掛けていた。
目の前には、膨大な記録帳。
その筆致は、まったく揺らがない。
『今夜の腹沈下角:中深度。反発あり。腹音:胃鳴3、腸鳴2、静音型。香調:穀類+獣脂の中間』
『記録語:腹音導眠型・香気安定式』
ぱたりと筆を置いたシルヴィアは、ふっと微笑んだ。
「……ええ、良好ですわね。今夜も、わたくしの愛する二人は、よく眠っておられます」
王妃シルヴィア・グランフォード。
王の正式な妻にして、記録魔。
夫と団長の関係を理解し、腹枕という文化の成長を支えてきた“第三の支柱”である。
「……しかし、そなたの腹は……ますます、香りが増したな」
「……さっきから腹の香り香りって……俺は香炉かよ……」
オルドのぼやきに、王はうんうんとうなずいた。
「香炉……それはいい喩えだ。そなたの腹は、夜に香る静けさを持つ。わしの眠りに欠かせぬ“夜の香炉”なのだ」
「……はぁ。今の俺、団長じゃなくて、国家の香炉なんだな」
「腹炉、でもよい」
「やかましい!」
シルヴィアは静かにページをめくり、次の記録を記し始めた。
『本夜、腹の香炉化進行中。比喩の深化に注意』
その横に、さらりとこう添える。
『記録帳・巻百、開始。王の安眠は、腹により今日も維持されている』
扉の向こう――寝台では、王の寝息が少しずつ深くなっていた。
「……ぽっ……ふるる……」
腹の奥の音が、眠りを導いていく。
オルドは目を閉じながら、ぼそりと呟いた。
「……これがなきゃ寝られねえ王様も、これでしか寝かせられねえ俺も……変な関係だよな」
だが、王の答えは静かだった。
「変ではない。“正しい夜”というものがあるとすれば……それは、こういうものなのだろう」
王の瞼が閉じる。
団長の腹の上で、深く、深く。
夜が――沈んでいく。
[newpage]
[chapter:第一章『昼の玉座、腹を呼ぶ』]
正午の鐘が、城中に響いていた。
王都ミルズフェルドの中心、王城の玉座の間は、その日も昼の政務に追われていた。
並ぶ文官。報告書を携える重臣。訴状を読み上げる民の代表。
その中央に鎮座するのは、王――レオナール・グランフォード。
しかし、その姿はいつになく落ち着かない。
手元の書類を読み、返答を口にし、頷くその合間に――王の指が、腹の上をす、と撫でるような動きを繰り返していた。
その様子に、側近の一人がそっとささやいた。
「陛下、少し……お疲れのようにお見受けしますが」
「うむ……少々な。昨夜は、やや沈みが浅かったゆえな……」
その一言で、周囲の空気がわずかに揺れた。
“沈みが浅い”――それが意味するものを、側近たちは知っている。
王が、団長の腹に、満足に沈めなかった夜であることを。
そして次の瞬間、レオナールは立ち上がった。
堂々たる体躯を、威厳とともに前に踏み出し――
「腹を。呼べ」
「………………は?」
文官の顔が、一瞬、空白になった。
「……し、失礼ながら、陛下。今のお言葉は……」
「“団長の腹”を呼べ、と言ったのだ。今すぐ、この玉座に」
ざわ……っと空気が揺れた。
「公務中に、団長の……腹を……?」
「そうだ。“昼の政務”にこそ、“昼の沈み”が必要だ」
迷いは一切なかった。
いや、むしろ、王の表情はすでに沈みかけている。まぶたが落ち、口元がゆるみ、焦点が定まらない。
その姿を見て、誰もが悟った。
――このままでは、寝る。
公務の最中に、この場で。
しかもストレスを抱えたまま。
王のストレスは国の平和……政務へ多大な影響を及ぼす。
潤滑な国政を行うには、王の睡眠はストレスフリーでなければならない。
「団長を!至急、謁見の間へ!」
城内を走る近衛の足音が響いた。
そして間もなく現れたのは、ひとりの猪獣人。
逞しく、むっちりとした体格の男――王国騎士団長、オルド・バロンクスである。
「……は? 玉座に……腹を? って何言ってんだお前ら……」
事態を説明され、最初に返ってきたのは、呆れ果てた素の声だった。
「……おい、まさか、レオ……ナール陛下が……」
つい、出てしまった。
――まずい。今の俺、呼び捨てで言いかけてたぞ……。
オルドは慌てて言い直す。
公の場である。臣下も民もいる。
本来、公の場でこんなことをするべきではない。
そして何より――こんな口の利き方も、本来なら御法度だ。
だが。
「遅かったな、オルド。……意識が沈みかけていたのだ」
「……それは……ご無礼ながら、私の責任では……」
「そなたの腹は、国家の夜だ。昼であっても、必要であると分かった」
「……陛下……」
オルドは嘆息しながら、玉座の下に敷かれた獣皮の上に腰を下ろした。
ためらいながらも柔らかい外衣を開き、いつものように腹を晒す。
その瞬間――
レオナールは、迷いなく沈んだ。
「……ふ……やはり、昼の腹は、夜とは違うな。張りがある。中が動いている」
「動くに決まってます、昼飯直後なんですから……っ」
――ちょっと口調が荒い。
オルドは内心で慌てる。
いかん、いかん。敬語、敬語だ。俺は団長なんだから、ここで砕けちゃいけない。
だが。
……きゅる……ぽこん……
王の耳元で、柔らかな音が鳴る。
「きゅる……この揺れだ。この音だ。今まさに、腹がわしを包んでいる……」
「じっ……実況は、お控えください、陛下……っ」
敬語に戻そうとするが、苦しい。
“実況”と言ってしまった時点でもう、口調が崩れかけている。
……ああもう、こんな公務の場で。
俺は何をしてるんだ――というより、何させられてるんだ……!
玉座の間に、団長の混乱が漂った。
しかしその間にも、王の寝息は徐々に整っていく。
頬を沈め、耳を押し当て、静かな音に身をゆだねる。
臣下たちは誰も言葉を発せなかった。
かつて見たことのない、異様な静寂。
だが、その場にいた全員が、なぜか逆らえなかった。
王が、静かに寝息を整えている。
それは、不思議なほどに――威厳すら感じさせた。
◆
その夜、王妃シルヴィアは記録帳にこう記した。
『昼の沈み:初実施。公務中腹枕の試験導入。腹音:ぽこん2、きゅる1、音圧弱め。王、沈眠中の発言:「そなたの腹は、わしの礎」』
『記録語:玉座沈下(ぎょくざちんか)型』
「……公務中にまで……さすがに、記録帳も厚みが増してまいりましたわね……」
彼女はそっとページを閉じ、紅茶を一口すすった。
「……まあ、昼の腹にも、安定性があると分かったのは、よい収穫でしたけれど」
口元には、ほのかな微笑み。
翌日から、城の政務日報の片隅には、こう記されるようになる。
《正午、団長腹枕による王の沈眠を確認。安定後、政務再開》
[newpage]
[chapter:第二章『団長、腹になる訓練』]
その計画は、朝の訓練後の食堂にて、麦粥をすすりながらささやかに立ち上がった。
「……なあ、お前聞いたか? 昨日の昼、陛下また団長の腹で寝たってよ」
「玉座で?」
「ああ。しかも、ちゃんと“ぽこん”って鳴ったらしいぞ」
「ぽこん……尊いな……」
皿を持つ手を止め、若手騎士たちは一様に黙り込んだ。
その背後には、「沈んだ腹からは、神託にも似た音が聞こえる」との噂まで飛び交っている。
そして、一人が言った。
「……だったら、俺らも“沈ませる腹”になれたら、陛下の安眠に貢献できるんじゃないか……?」
静まり返る食堂の一角。誰かがスプーンを落とした音が、やけに響いた。
数秒後、テーブルを囲む顔ぶれが、いっせいに目を輝かせる。
「それ、つまり……“腹枕騎士団”の創設ってことか?」
「うおお……!」
「“王を沈めるのは、俺の腹だ”……って名乗れる日が……!」
翌日、王国騎士団の訓練場にて。
「――以上をもちまして、“腹枕候補育成計画”を、正式に始動する!」
指導係のリューク副団長が叫んだ。
隊列に並ぶのは、筋骨隆々の者から、やや恰幅のいい若者たちまでさまざま。
「本日の目標は、“沈みと反発の黄金比”を身体に刻み込むことだ!」
「はっ!」
「目標、ぽこん3連音、きゅるるの共鳴を再現せよ!」
「はっ!」
その横で、団長オルド・バロンクスは、片眉を引きつらせていた。
腕を組み、壁に寄りかかったまま、じっと騎士たちの熱気を見下ろす。
「……おいリューク。これ本気でやってんのか……?」
「はい。完全に本気です。団長は“天然物”として伝説級ですが、我々は“技術で追いつく”方向です」
「技術で腹音出すなよ……」
すでに数人の騎士が、布を広げた簡易寝台に仰向けになり、仲間に腹を乗せられていた。
「どうだ?」
「……まだ沈みが浅い……もっと、こう……包まれる感が欲しい……」
「“包容反発型”だな。了解した。腹筋を部分的に抜け!」
「腹筋抜けってなんだよ……」
オルドはため息をつきながら、城の壁の石材と一体化するように立ち尽くした。
その隣では、いつの間にか現れた王妃シルヴィアが観察帳を手に、冷静にメモを走らせている。
「沈み角度、触感、腹音……やはり再現は困難ですわね」
「シル……ヴィア王妃様。言ってる意味はわかりますが……こういう時、止めるのが妃の仕事じゃありませんかね?」
「いえ。国の未来を担う騎士たちの探究心は、なるべく記録しておきたいので」
「探究心のベクトルがねじれてるだろ……」
◆
一人目――沈まない。全身筋肉。却下。
二人目――沈みすぎて「ズボッ」。埋没型。却下。
三人目――沈みはまずまず。しかし音が、
「……ぐぎゅっ、ぎゅう、ぬ、ぬるる……」
「……騒がしすぎる。“きゅる”“ぽこん”でなければ、導眠には適さない」
王が一刀両断した。
――そう、“王が”。
その訓練が始まってしばらくした頃から、訓練場の奥、槍置き場の陰にひときわ目立つ金色のたてがみが揺れていたのだ。
レオナール・グランフォード――王である。
彼は最初からその場にいた。昼政務の合間を縫って現れ、沈黙したまま訓練を見守っていた。
誰にも声をかけることなく、ただ、団長以外の“沈み”を試す者たちを見つめ――
そして、とうとう沈黙を破った。
「ふ、ふわ音じゃないと……ダメですか……?」
「ふわ音。いい呼び名だな。以後記録に採用しよう」
王は満足げにうなずいたが、騎士達はその場で項垂れた。
「……訓練で出せる音じゃねえ……」
また別の者が、香りで攻めようと腹に薬草香を塗布したが――
「においが強いな。干し芋の湯気と獣脂の中間が最適であろう」
「それ……どこに売ってるんですか……?」
「売っていない。“そなたが一日を過ごし、腹が自然に吸った空気”でなければ意味がない」
「うわ……奥深すぎる……」
◆
全員が玉砕したのち、オルドは訓練場の隅に立ち、静かに呟いた。
「暇人かよ……。……だから言ってんだろうがよ。俺は腹じゃねぇって」
その声に応じるように、奥から王の足音が静かに響いた。
姿を現したレオナールは、ゆっくりと歩を進めながら言った。
「否。そなたは、“夜”だ」
場が、静まった。
「夜とはなにか。沈むこと。音があること。匂いがあること。そして、変わらず続くこと」
レオナールは真っ直ぐオルドを見つめる。
「そなたの腹は、“夜そのもの”だ。儀式でも、代用品でもない。“眠り”を司る唯一の器だ」
「……お前……いや、陛下……そんな真顔でおっしゃらないでくださいよ……」
オルドは頭を掻いた。
だがその表情には、どこか照れと――誇りの混ざった、妙な複雑さがあった。
騎士たちは黙って頭を垂れた。
己の腹を見下ろしながら、誰かがつぶやいた。
「……やっぱ、夜って……生まれつきなんだな……」
「……訓練でどうにかできる領域じゃねぇんだ……」
その日の夕方、観察帳にはこう記された。
『腹枕候補、計十三名。沈み・香気・音響、いずれも不合格。王、団長を“夜”と定義。訓練、凍結』
『記録語:唯一腹性(ゆいいつふくせい)』
そして備考欄には、王妃の筆でひとこと――
『唯一腹、再確認。あの沈み、あの音、あの匂い――あれは、誰にも真似できない』
[newpage]
[chapter:第三章『騎士たちの誤解と崇拝』]
騎士団の訓練が終わった午後。
剣の音が止み、足音も引いた訓練場の片隅。
そこにぽつんと敷かれた藁布団の上で、ひとりの若い騎士が静かにうずくまっていた。
「……ああ……沈んだ……っ。団長の腹に、俺の額が……沈んでいった……」
「何言ってんだお前」
「団長の腹の“きゅる”を、俺の鼓膜が……直に……」
「お前ほんとに鼓膜で音拾ってんのか……」
周囲から呆れた声が上がるが、それでも布団の男――若手騎士ティールは、陶然とした表情を崩さなかった。
その日は、オルドが倉庫裏の整理で軽く上衣を緩め、腹がやや露出していた時間帯に――
偶然そばを通った騎士が「つい魔が差して」額を沈めてしまったらしい。
「……俺、分かったよ。なんで陛下があれに執着するのか」
「腹に?」
「ああ。あれはもう、“戦士の武装を解かせる柔らかさ”だよ。剣も盾もいらなくなる」
「脱戦モードってこと……?」
「いや、もっとこう……人に戻るっていうか……」
誰かがぽつりと呟いた。
「……あの腹、癒しの魔道器とかじゃね?」
そこからの展開は早かった。
「腹に触れれば強くなれる説」が、若手騎士たちのあいだで本格的に語られ始める。
ある日のこと。
オルドが倉庫仕事の合間に腰を下ろし、仰向けにひと息ついていた時だった。
若者たちがわらわらと集まってきた。
「団長、お疲れのところすみません!」
「な、なんだよ……」
「額だけで結構です。ちょっとだけ沈ませてください!」
「はぁ!?断るにきまってんだろ!」
「じゃあ触るだけでも!」
「断るって言ってんだろ!」
騎士たちはまるで握手会に並ぶ列のように、行儀よく並んでいた。
そのうち一人が思わず、ぽすっと腹に頭を乗せてしまった。
「……うわ……やば……“きゅる”……今、鳴った……っ!」
「お前、何やって――」
オルドはぐいっと相手の首根っこを掴んで立ち上がる。
「もういい! 解散! 二度と勝手に沈むな! 訓練場出入り禁止にすんぞ!」
「だ、団長……!」
「全く……俺をなんだと思ってんだ……!」
ばさっと外衣の裾を整え、腹を覆いながら立ち去る。
そしてそのまま、物陰の荷台にどさっと腰を下ろした。
──暑さと疲れと、徒労感。
オルドはひとつ大きく息を吐き、手袋を外して額を拭った。
「……腹、見せすぎたな……はぁ……」
背をあずけて目を細める。風が通る。心地よい午後。
「……余計な音、出てなきゃいいけど……」
そのまま、うとうとと目を閉じた。
深くは寝ていない。ただ、まどろむだけ。
ほんの数分でも、静かにしていればまた立ち直れる――
──と思っていた。
そこへ、戻ってきた者たちがいた。
先ほどの若手たちが、再びこっそり物陰から顔をのぞかせていたのだ。
「……寝てる……?」
「……多分……」
「今だ」
「おい、やめとけって……!」
だが忠告は遅かった。
ひとりがそろりと近づき、そっと額を腹に乗せた。
……ふっ……きゅる……
「“きゅる”確認……!」
「次……! 右からいけ!」
……その瞬間、腹がぴくりと動いた。
「……お前らなぁ……」
静かに、重く。
オルドの目が開いた。
「……なぁ……俺が目ぇつぶってりゃ、沈んでいいって話になってんのか……」
「い、いやその……」
「沈みたいなら、沈んでもいいけどな――そのまま地に、二度と起き上がれねぇ沈み方になるぞ?」
全員がぴしりと凍りついた。
が、その次の瞬間。
「団長、沈みました!」
「“きゅる”いただきました!」
「次、自分ッス! 左耳からお願いします!」
……まさかの腹沈みの追撃が来た。
オルドが反応する間もなく、その場が再び騒がしくなった――その時。
「…………」
静かな足音が、後方から迫っていた。
王レオナール・グランフォード。
訓練視察の帰りに、寄り道のような足取りで現れた彼は、その光景を――まざまざと、見てしまった。
団長の腹に群がる若者たち。沈む者、交代する者、順番を待つ者。
その中心に、すっかり困惑した顔の団長がいる。
「………………」
全員が、凍りついた。
「……その腹は、誰のものだ?」
王の低い声に、誰もが頭を下げた。
「…………だ……団長の、であります……!」
「では、その腹に沈んでよいのは、誰だ?」
誰も答えられない。
「言おう。“わし”だ」
静かでありながら、ずしりと重い響き。
王の一言に、空気が一変した。
「沈んでよいのは、夜を迎える者だけ。わしの夜を支える者だけ。すなわち……団長の腹は、わしの夜である」
誰かの喉が鳴った。
別の者は、膝をついた。
「申し訳ありませんでしたああああああッ!!」
その声に、団長がぼそりと呟く。
「やっぱ暇なのかよ陛下……。……だから言ってんだろ。俺は腹じゃねぇって」
その夜の記録帳には、こう記された。
『騎士団内に“腹枕神格化”の傾向あり。王、激怒。所有権明言。今後、腹の共有は固く禁ず』
『記録語:腹囲制限令(ふくいせいげんれい)』
そしてその下には、王妃のさらなる追記が記されていた。
『やはり、王の独占欲は、眠気と同等に根深いものであると再確認』
[newpage]
[chapter:第四章『王と妃と、恋と腹』]
その夜、王は眠れていなかった。
腹がなかったからではない。
腹はあった。夕方、団長の腹に一度沈み、音も香りも確認してある。ぽこん、も、きゅる、も、確かに耳に響いた。
けれど――眠れなかった。
理由は、自分でもわかっていた。
今日求めるのは腹ではない。
「……静かだな、今日は……」
王は寝台の上で、寝返りも打たずに目を閉じた。
けれどもその頬の奥、胸のあたりに、妙な熱がこもっていた。
そしてその時、部屋の扉が静かに開いた。
「お待たせいたしました、陛下」
ゆったりとした足音。淡く香る花茶の匂い。
そして、静かに揺れる銀糸の髪。
王妃――シルヴィアである。
「……すまぬな。こんな時間に呼びつけて」
「いいえ。記録帳を閉じたばかりでしたので、ちょうどよろしゅうございました」
いつも通りの、変わらぬ敬語。
けれどもその声は、今夜に限って、少しだけ柔らかかった。
「……妃よ。今宵は、そなたと眠りたい」
「はい」
シルヴィアは王の隣に腰を下ろし、外衣を脱ぎ、寝間着の襟を整えた。
柔らかな獣毛の胸元がのぞき、王の横にぴたりと並ぶ。
互いの呼吸が近づき、毛並みが触れ合う距離。
「……団長の腹には、確かに眠気がある。安心がある。……夜がある」
「そうですわね。あの腹は、国家の夜そのものですから」
「だが、妃よ。……そなたには、別の夜がある」
シルヴィアのまつ毛がわずかに揺れる。
「……別の、夜……?」
「腹の音も、匂いも、沈みもない。なれど……」
王はそっと、彼女の肩を引き寄せた。
毛並みに頬を預ける。柔らかく、少しひんやりしていて、けれど内側に熱がある。
「……そなたとこうしていると、“恋をしているのだな”と思う」
「……まあ。では、あの団長には……?」
「“夜を与えられている”だけだ」
「ふふ……」
王妃は微笑みながら、顔を王の胸元に近づけた。
「……恋とは、こういう夜のことを言うのですか?」
「わからぬ。だが、そなたとこうしていると――」
レオナールは一瞬、言葉を探すように黙った。
そして、獣毛越しに彼女の額へ唇を寄せる。
「……好きだよ、シルヴィア」
たったそれだけ。けれども、それは今夜のために取っておかれた言葉だった。
シルヴィアは頬を赤らめ、瞳を伏せてから、そっと目を閉じた。
「……ありがとうございます。陛下」
そして、目を閉じたまま――自らも、唇を重ねた。
唇と唇。獣毛と獣毛。
静かで、穏やかで、それでいて深い、王と王妃のキスだった。
毛並みが絡まり、重なり、互いの温もりを確かめ合う夜。
王は妃を背から抱くようにして、寝具の中でそっと腕を回した。
手のひらが腹に添い、指が微かに動く。
「……団長の腹と違って、音も鳴らぬな」
「そんなもの、聞かせる予定はありませんわ」
微笑交じりのツッコミ。
王の口元も、ふっと緩む。
「……眠れそうかしら、陛下」
「ああ……眠れそうだ。今夜は……そなたの静けさが、心地よい」
手の中にある細い腰。薄いけれど、しっかりとした温度。
腹枕とは違う、けれど確かに“夜”を迎えられるぬくもり。
「……そなたには、記録帳も観察眼もある。冷静で、強くて、優しい」
「お褒めいただき、光栄です」
「だが、それだけではない。そなたは、“わしの恋人”でもある」
「…………」
シルヴィアは黙って、その言葉を胸に沈めた。
そして、王の腕の中で静かに身を丸める。
獣毛がすれる音、寝具がしっとりと沈む音。
腹の“ぽこん”ではない。だがこれはこれで――“愛の音”だった。
その翌朝、王妃は記録帳にこう記した。
『腹枕ではない就寝、良好。沈みなし。静音型。恋的安眠型(れんてきあんみんがた)』
『記録語:王妃接触式(おうひせっしょくしき)』
そして備考欄には、そっと一行だけ――
『今夜、記録対象外(記録者の特権により)』
[newpage]
[chapter:第五章『腹枕制度、王国へ』]
「正式な制度にした方がよいのでは?」
その発言は、意外にも文官から出た。
場は、王直属の政務会議。
王、王妃、宰相、数名の重臣、そして騎士団長であるオルドも出席していた。
「“制度”とは、どういう意味で言っておるのだ?」
レオナールは、椅子にもたれながら、眠たげなまなざしを向けた。
隣ではオルドが「またか……」という顔をしている。
「はっ。畏れながら、近頃の御沈眠(ごちんみん)状況は、特定の補助行為に依存していることが記録より明白でありまして」
「補助行為……?」
「団長殿の腹でございます」
言い切った。しかも一切濁さず。
オルドが咳き込む。
「けほっ、……おい、ちょっと待て、それを“補助行為”って言うな。ややこしいだろ」
「表現の選定には今後留意いたします」
文官はまったく動じていない。
レオナールは、肘をついて静かに呟く。
「……そなた、今“記録”と言ったな?」
「はい。王妃様の記録帳より、……流石に全てを網羅することは今のところできておりませんが、現在までに七百七十八夜分を参照しております。」
「……シルヴィア、そなた、そんなに書いていたのか……」
「陛下の御沈眠は国家基盤ですので、夜ごとの記録は当然ですわ」
「……本当に、そなたには頭が上がらぬ」
王は苦笑交じりに目を細めた。
それを見て、オルドはすこし視線をそらした。
「……学園の頃からなんだから、国とか関係ねぇんじゃ……」
「何か言ったか、団長」
「いえ、何でもありません陛下」
こうして、その日から政務机の上には、妙な案文が並ぶようになった。
・王寝室補助制度案
・騎士団長腹使用における法的位置づけ草案
・“安眠補助官”の任命について
・“国家の夜”概念整理と伝達文式
「……なあレオナール、マジでやるのかこれ……」
オルドはいつもの通り、王の私室で書類を差し出され、眉をひそめた。
「“腹の使用申請には、王の許可を要する”。これ、なんか……やべぇよ」
「誤解されぬよう、語調を慎重に選んだつもりだが」
「“使用申請”の時点でやべぇんだって。誰に出すんだよこれ……」
「ならば“沈眠補助依頼書”にするか?」
「結局同じだろうが」
王は机の上に、記録帳の写しをぽんと置いた。
開かれたページには、こう書かれている。
『団長の腹は、王の夜にして、国家の礎。沈み回数一日平均1.6、きゅる比:ぽこん比=3:1、香調安定』
「……“きゅる比”ってなんだよ……比率で語るなよ……」
「こういう細部が制度化には大切なのだ」
「だから制度化すんなっての……」
しかし、物事はすでに動いていた。
その日の夕方。騎士団の会議室にて。
リューク副団長が手を挙げて言った。
「団長、“腹枕制度”の正式文書が騎士団にも配布されました」
「配布されたのか……」
「内容確認してよろしいですか?」
「……どうせ聞かせるんだろ。言えよ」
「――“王の睡眠補助のため、騎士団長の協力をもって夜の安定を維持する”。“沈眠は国家運営上、必要不可欠であり、団長の腹は一種の“夜の国器”である”」
「……“国の宝”とかでいいだろ……その表現、どっかに誤解生むぞ」
「発音だけ聞いた時に“ぼっ……”なんて聞き間違いされそうな文言を、公式文書に入れるのが悪いのでは?」
「お前、正論だがちょっと黙れ」
王妃シルヴィアの記録帳は、静かに書き足されていた。
『腹枕制度、王室公認へ。団長、異議あり。だが反映されず』
『記録語:夜の国器制定』
その下に、珍しく走り書きが添えられる。
『※団長の拒否反応、可及的速やかに鎮めるべし』
そしてその夜。
「……なあ、シルヴィア。俺、やっぱりおかしいと思うんだよ」
「何がですの?」
寝台の傍で、肩を落としたオルドがぼやいていた。
「“腹で寝かせてくれ”ってレオナールに言われるのはまあ、付き合いだし、慣れたけど……制度にして、公文書に残すのは、ちょっとさあ……」
「ふむ……つまり、“本来は私的な沈みであってほしい”と?」
「……そりゃそうだろ。あんな、音がどうこうとか匂いがどうとか、真顔で言われてさ……」
言葉に詰まる。
彼自身が、それを一番知っている。
「……なあ、シルヴィア。俺、いつまで“夜”なんだろうな」
その呟きに、シルヴィアはふっと微笑んだ。
「夜には、終わりがありません。ですから――いつまでも、ですね」
[newpage]
[chapter:第六章『妻の湯たんぽ、夫のため息』]
王城の離れ、夕刻の空が朱に染まるころ。
敷地内の一角にある二階建ての小さな家――
それが今や王国騎士団団長となったオルド・バロンクスの私邸であり、妻メリアとの暮らしの場だった。
日中は城内での訓練、政務補佐、王の護衛、……たまに腹枕業務。
夜になれば、腹枕業務を熟した後ここに帰ってくる。騎士団長としての顔を脱いで、一人の男として。
木扉が軋んだ音を立てて開く。
「……戻ったぞ」
オルドは、いつものように静かに帰ってきた。
団長服の肩紐をほどき、革の剣帯を外して壁に立てかける。
脇にかけた鞄からは、王室印の“昼の腹枕報告書”が数通、軽く折れたまま覗いていた。
「おかえりなさい。今日は“ぽこん”だった?」
奥から聞こえる声は、彼の妻――メリア・バロンクス。
猪獣人の女性で、かつては城下町の菓子屋「トルテ屋」の看板娘だった。
料理中の湯気と、あたたかな香草の匂いが部屋に広がる。
「……“ぽこん”と“きゅる”の合奏だったらしい。報告書にはいっそ音符でも書けってんだ」
「じゃあ今日は交響曲ね。お疲れさま」
オルドは深いため息をついて、重い腰を椅子に落とした。
「……俺の腹、商品目録みたいに扱われてんだぞ……」
「それだけ価値があるってことじゃない?」
「“香調:干し麦”“沈み:4回”って書かれて……意味があるのか、これ」
腹枕報告書を叩きながら、もう一度ため息をつく。
「香りは大事よ?」
「なにその菓子屋の目線……」
食事を終えたふたりは、寝室へ。
ベッドに並んで転がり込むと、外からは虫の音。秋の夜だ。
「湯、熱めにしてあるからね」
そう言ってメリアが差し出したのは、陶器の湯たんぽ。
彼女が毎晩欠かさず用意してくれる、自作の一品だった。
「……お前が湯たんぽ作るって言い出したときは、正直どうかと思ったけど……」
「でも今、気持ちいいでしょ?」
「……ぐうの音も出ねぇ」
毛布にくるまり、しばしの沈黙。
ふと、メリアが彼の腹へ頬を乗せた。
「王様も、毎晩こうやって直にやってるんでしょう?」
「……そうだけどよ……」
「なら、たまには私も沈んじゃお」
頬が、しっとりと沈む。
ゆっくりとした呼吸が、オルドの腹に伝わってきた。
「……どうよ」
「沈むわね。いい音する。……ふる、って鳴った」
「“ぽこん”じゃないのか」
「今日は、やさしい夜の音。そういう日もあるでしょ」
「……あー、そうかもな」
オルドは天井を見ながら、小さく息をついた。
「……なんかさ、団長になって、肩書きだけ立派になって……。でも結局、腹で寝かせてるだけじゃねぇかって思うことある」
「“寝かせられるだけの男”ってこと?」
「そう。……いや、そんな言い方されると余計つらい」
「ふふ。じゃあ逆に聞くけど、あなたの腹で眠れる人が何人いると思ってるの?」
「……レオナール」
「はい、王様。あと私。――それだけよ?」
「……狭っ」
「いいのよ、それで」
メリアはゆっくりと身を起こし、オルドの上に覆いかぶさるようにして顔を覗き込んだ。
「私ね、今でも思うの。あなたって、国を支えた夜だったんだなって」
「……過去形かよ」
「違うよ。今でも、誰かの大事な“ぬくもり”なの。……私にとってもね。それに……」
「……ん?」
「私が惚れたのはここじゃないもの。私が愛してるのはあなた自身よ、私の騎士様」
そう言って、彼女はそっとキスを落とした。
唇が重なり、静かな夜がいっそう深くなる。
温度が通い合うような、柔らかな口づけ。
言葉が要らなくなるくらい、長くて、あたたかくて――
「……メリア」
「……なに?」
「もうちょい近く来てくれ」
「いいよ」
彼女は静かにオルドの横に滑り込み、オルドを抱えるようにそっと抱きついた。
その腕が、彼の胸を通して心臓に触れた気がした。
「なあ」
「うん」
「俺が“腹の仕事”やめたら……寂しくなる?」
「うーん。ちょっとは」
「おい」
「でも安心して。辞めたとしても――私が毎晩沈むから」
「……お前って、ほんと強いよな」
「あなたが、ちゃんと受け止めてくれるからよ」
その日、城の片隅で、二人は静かな夜を迎えた。
[newpage]
[chapter:第七章『王と王妃の就寝(団長付き)』]
「……本当に、今夜一緒に寝るのか?」
王城西棟の特別室。
いつもの王の寝室ではなく、王と王妃が並んで眠る広い寝具の中央に、
なぜか団長オルド・バロンクスが仰向けになっていた。
その脇には王妃シルヴィアが寝転んでいる。
淡く香る湯上がりの香草とともに、すました顔で記録帳を手にしている。
「ええ。やはり実地の観察が必要でございますので」
「いや、必要って……なあ?」
オルドは布団の左側――つまり己の腹に沈む形で寝転がっている王、レオナールを見やった。
王は目を細めながら、もぞもぞと頬をオルドの腹へと擦り寄せている。
「妃が共に寝たいと申したのでな。王としてわしは逆らえん」
「いや逆らっていいだろ王制どこいった……」
「それに、シルヴィアの記録帳には“複数沈眠の感応差”が記されておらん。書く必要がある」
「ねえよそんなもん……!」
「それを含めての観察です。今まで確認してこなかったのが間違いなのです」
シルヴィアは涼やかな笑顔のまま、さらりと書き入れた。
「本日、初の“三者沈眠式”。団長中央配置。王右、妃左」
「配置の情報いらねぇだろ!」
三人並んで寝る構図は、異様としか言いようがなかった。
王は既に腹に沈んでおり、心なしか呼吸が安定している。
「……ふぅ……“きゅる”……聞こえたぞ……」
「はい。先ほどの“きゅる”は湿度控えめ、低周波。沈みやすい音質ですわ」
「……まるで楽器か何かみたいに……」
「いえ、“団長の腹鳴り”は、王国指定の音響資源でございます」
「嘘つけよ……」
オルドはうつろな目で天井を見上げた。
「……俺、いま、夫婦の寝室のど真ん中にいるんだよな……」
「正確には、“王と王妃の夜の中心”にございますわ」
「言い換えるな、恥ずかしい……」
シルヴィアは記録帳を閉じ、柔らかな毛布をレオナールにかけた。
「ですが、陛下の安眠に役立てるのなら、私は何も申しませんわ」
「役立つって話じゃねぇだろ……ってもう寝てるし……」
王の寝息が、ますます静かに、深くなっていく。
腹に沈んで完全に落ち着いた王の様子に、オルドはかすかな誇らしさと、やり切れなさと、諦めを抱いた。
「……それにしても、こうして間近で拝見しますと、やはり団長の腹は……」
「頼むから黙ってくれ……」
「申し訳ありません。つい、仕事柄……」
「“寝かしつけ観察”を仕事柄って言うなよな……お前は王妃の仕事しろ」
オルドが小さくぼやくと、シルヴィアは小さく笑った。
「ふふ……安心なさい。これは、あくまで国家の夜における実験でございますわ」
「だったら国家の名のもとに、腹を外せねぇかな……」
その後しばらくして。
王の沈眠が完全に安定したのを確認したシルヴィアは、改めて体勢を整える。
「では、団長……いえ、オルド。今夜はこのまま、私も沈ませていただきますわね」
「……え、ちょっと待っ……」
しかしもう遅い。
シルヴィアは、オルドの腹にそっと頬を寄せた。
「……こうしてみますと、やはり貴方のぬくもりは不思議と……馴染むのですね」
「湯たんぽでもねぇんだけどなぁ……」
静寂の中、三人の呼吸が重なり合う。
王の深い寝息。
妃の穏やかな吐息。
団長の腹が鳴らした小さな「ぽこん」に、シルヴィアがそっと反応する。
「……今のは、とても柔らかい“ぽこん”でしたわ」
「聞き取んなくていいから……!」
「ええ、とても良い記録が取れました」
その声は本当に満足げで、
なんとなく、オルドもそれ以上は突っ込めなかった。
夜がふけてゆく。
王の寝息は微動だにせず、完全な沈眠に入った。
妃はオルドの腹に身を預け、半ば眠りながら、かすれた声で言った。
「……オルド。貴方の腹は……王と私をつなぐ、夜の真ん中にございますのね。学園で出会った時から……」
「……それ、誉めてるつもりか?」
「もちろんですわ」
「……もうちょっと違う役目がよかったな……」
「それは、もう少しだけ先の記録帳に譲るとしましょう」
その夜、王妃の記録帳にはこう記された。
『三者同床・腹中央式。沈み音:きゅる/ぽこん、香調:淡眠と麦。睡眠安定:極上』
『記録語:両翼沈眠型(りょうよくちんみんがた)』
[newpage]
[chapter:第八章『王がなかなか眠れない日』]
その夜、団長オルド・バロンクスは、離れの寝具に沈み込んでいた。
背中にはぬくもり、足元には陶器の湯たんぽ、布団の中には静かに呼吸を重ねる妻――メリア。
しあわせ、とは言わない。だが、これ以上に安定した夜などあるものか、というくらいに心は落ち着いていた。
しかし。
それを壊す者がいた。
「団長、夜の急報です!」
「……またか」
騎士団の若手が息を切らして扉の所に立っていた。
「“沈まないと、今夜は眠れぬ”と……」
「“今夜は”って、いつもじゃねえか……」
「今回は、特に“眠れぬ夜だ”と……」
「……ったく……」
肩を落として立ち上がると、寝間着をそのままに上着を羽織り、布団のぬくもりに後ろ髪を引かれながら扉に向かう。
背後から、ぬっと現れる影。
「また?」
メリアである。髪をゆるくまとめたまま、肩に湯たんぽ用の布を抱えている。
「ああ……寝付けねぇんだとさ」
「二日前も来たでしょ」
「一昨日も来たな……五日前も……」
「泊まってくれば?」
「いや、泊まりはちょっと……」
「でも、どうせ毎晩戻っても呼び戻されるでしょ?」
「……まぁな」
「だったら最初から泊まって、しっかり沈ませてあげた方が、あなたも眠れると思うけど」
オルドは言葉を詰まらせる。
図星だった。
王の寝室。
灯りは落ち、広い寝具に沈んでいるはずの王レオナールが、明らかに寝ていない。
「……来たか」
「沈み待ち顔やめろや」
「わしはただ、腹を待っておっただけだ……」
「待たれる方の気持ちも考えろよ……」
「考えている。だから呼んだ」
「意味わかんねぇよ……」
オルドは、苦々しい顔のまま、布団の端に腰を下ろし、横になる。
その腹が、すでに沈む準備万端なのを、王は見逃さなかった。
「……沈むぞ」
「いちいち宣言すんなよ……」
沈んだ。
「……はぁ……沈んだ……」
王の声は満ち足りていた。
静かに、ゆっくりと、安らかに。
腹に沈み、音を聴き、香りを感じ、眠りへ落ちる。
が――
「……」
寝息は来ない。
「……どうした」
「きゅるが鳴らぬ……」
「知らねえよ!」
「鳴らぬと沈めぬ……」
「“腹が鳴らないから眠れない”って、俺の責任かよ!」
「オルドよ……今夜は……本当に眠れぬ夜なのだ……」
オルドは布団の上で天を仰いだ。
かつて、こんな王を育てた覚えはない。いや、少しはある。
「……音が鳴るまで、撫でろってのか」
「できれば、そうしてほしい……」
「本気で言ってんのか……」
結局、団長はその夜のうちに二度沈ませ、三度目の呼び出しを経て、明け方に王の寝息を確認した。
ふらふらになって帰った離れ。
「おかえりなさい」
メリアは、起きていた。
朝餉の準備をしながら、彼をちらりと見る。
「まだ起きてたのか……」
「帰ってくるんだろうなと思ってたから」
「……朝になったぞ……」
「だから言ったでしょ? 泊まってきた方がいいって」
「……ぐぅの音も出ねぇ……」
「今日はお昼まで寝てていいから。私はトルテ屋に顔を出してくるわ」
その言葉に、オルドはわずかに眉を上げる。
「……あれ? あの店、もう……」
「今日は“団長の腹トルテ”の再販記念日なの」
「なんだそれ……」
「私が試作した、沈みやすい香りのミルクトルテ。覚えてない?」
「……“しっとり系腹感”ってラベル貼ってたやつか?」
「そう。それ。好評だったのよ?」
「……俺の腹、味にされてんのか……」
「“国の夜”ですから」
その日、王妃シルヴィアの記録帳には、こう記されていた。
『陛下、沈み不足による覚醒三回。団長、再沈眠補助にて成功。』
『記録語:再沈補助型(さいちんほじょがた)』
その下には、メリアが残した一枚の紙が添えられていた。
『次は泊まってこいって言っときましたから。王様に良い夜を』
[newpage]
[chapter:第九章(エピローグ)『眠りよ、永久に』]
王城の夜は、風が静かに吹き抜けていた。
昼間に騒がしかった政務の余韻も、城中の寝息に吸われてどこかへ消え去った頃――
西棟の私室にひとつ、灯りが残っていた。
その部屋には、王と、妃と、そして団長の姿があった。
「……夜風が冷たいな」
王レオナール・グランフォードは、寝巻の上から肩掛けを羽織りながら、窓の外を見やった。
「秋も終わりですわね。記録帳も、今夜で百巻目が終了です」
王妃シルヴィアは、ページを静かに繰りながら答える。
指先に乗った筆先が、淡く揺れた。
部屋の隅では、団長オルド・バロンクスが毛布をめくりながら、小さくため息をついている。
「……何が百巻目だよ……寝かしつけ報告がそんなに続くとは思ってなかったぞ……」
「では、記録しない方がよろしいのですか?」
「……そりゃそうだろうがよ。やめろって、そういうの……」
苦々しくぼやきながらも、オルドは布団に腰を下ろす。
その中央、ふかふかに整えられた場所に、彼の役割が“当然のように”待っていた。
「……そなたの腹がある限り、わしは眠れる」
王が布団に潜りながら、しみじみとした声で呟いた。
その言葉に、オルドは肩をすくめて応える。
「……まったく、手のかかる王様だな……」
「手のかかる王には、腹のひとつくらい貸してやれ」
「そんな奴隷契約した覚えはねぇ……」
「記録によれば、もう七千沈みを超えておりますわよ?」
「そんなに!?って、だから記録やめろって……」
やがて、王は当たり前のようにオルドの腹に頬を沈め、
妃はその傍らに記録帳を置いたまま、布団を整えながら控える。
王の沈みは、もはや儀式でも、珍しい現象でもない。
それはただ、必要な行為として根づいた日々の一部。
香りも、音も、温もりも、そこにあるのが当たり前になっていた。
「……きゅる、だな」
「……鳴りましたか。まずはきゅる1回と……」
「やや乾き気味。だが、柔らかく沈む」
「いちいち解説すんな……」
オルドの声は呆れていたが、どこか安心もしている。
王は目を閉じたまま、腹に沈んだ頬をすこしだけ押し付けるように動かした。
「……これがなければ、わしの夜は始まらぬ」
「……こっちの夜も始まらねぇんだがな……」
「でも、オルドがいてくださる限り、陛下は必ず朝を迎えられますわ」
「……やめろって、そういうの……」
王の寝息が、静かに深くなる。
部屋の空気がすっと落ち着いて、布団の沈みも、身体の重さも、心地よく収まっていく。
記録帳の筆が最後の一行をなぞる音が止まり、シルヴィアはその表紙に手を添える。
微笑のように、そっと閉じた。
巻百、記録帳の最後。
灯りが落ちる。
夜が、そっと息を吐く。
王は団長の腹に沈み、妃はその隣で静かにまどろむ。
誰が欠けても始まらなかった“夜”が、何百何千という日々を越えて、
今ここに、何も語らずとも整えられている。
沈み音「ぽこん」が、ふたりの呼吸の合間に響いた。
オルドの耳が、かすかに笑う。
「……ま、これでいいか。これが、“俺の夜”なんだな……」
その夜、記録帳の最後に書かれたのは、ただ一行。
『団長の腹にて、陛下に安らかな夜を。』
[newpage]
[chapter:第十章(後日談)『腹に沈む未来』]
王子ルシエル・グランフォードが騎士団長オルド・バロンクスの私邸を訪れたのは、幾日も安眠を得られぬまま過ごした末のことだった。
もともと睡眠の質が良い方ではないが、ここ数日は明らかに疲労の色が濃い。
それに気づいたのは、他でもない王妃シルヴィアである。
「いちど、団長のところへ行ってらっしゃいな。陛下のように、少しだけ沈んでみると良いかもしれませんね」
ルシエルは迷った。
“父の夜”に自分が入り込むことへの抵抗。
だが、推薦したのが王妃であり、加えて本人たちの了承を得たと聞けば、断る理由はなかった。
団長邸の扉を叩くと、出迎えたのは落ち着いた雰囲気の猪獣人女性――メリアだった。
「ようこそいらっしゃいました、殿下。どうぞ。今日はおひとりで?」
「はい。……突然の訪問、失礼いたします」
「いえ、陛下と王妃様から事前にお話はいただいております。さ、こちらへ」
香草の香りに迎えられ、邸内へ通されると、奥の部屋には寝間着姿の団長オルドがいた。
椅子に腰掛け、手元の本から顔を上げる。
「……お待ちしておりました、殿下」
「本日はお時間をいただき、ありがとうございます、オルド団長」
ルシエルが礼を言うと、オルドは一度、目を細めてからため息をついた。
「……殿下。……先に申し上げておきますが、私はこの件に前向きではございません」
「……え?」
「これは陛下と王妃様のご希望によるもので、私の意志によるものではありません。……どうか、その点だけはご理解ください」
きっぱりとした声だった。
だがその口調に、拒絶ではなく“慎重さ”が含まれていることを、王子は敏感に感じ取った。
部屋奥のベッドに敷かれた厚布団。その中央に団長が横になり、寝間着の前をはだけさせる。
王宮仕様の寝具、そして――あの、“腹”。
「……沈まれるのでしたら、どうぞ。……ただし、今日限りとさせていただきます」
「はい。……失礼いたします」
オルドの口調は丁寧だが、明らかに硬い。
ルシエルは慎重に膝をつき、ゆっくりと腹へと頭を預ける。
沈んだ瞬間、すべてが変わった。
体温、重力、音、香り。
耳元で聞こえる「きゅる……」という静かな腹鳴が、眠りを誘う音にすら思える。
香りはわずかに衣と獣の温もり、けれどまるで違和感がない。
腹の感触は不思議と柔らかく、それでいてしっかりと支えてくれる。
何かが自分の内側から、ほどけていくような――
そんな安心感に包まれて、王子は小さく息を吐いた。
「……これが、父上の……」
「殿下、あまり長く沈まれませんように。体が慣れてしまうと厄介です」
腹越しに響く団長の声は、妙に現実的で、王子をふと笑わせた。
「……お気持ちが、少しだけ分かった気がします」
「……左様でございますか」
しばし沈んだのち、王子はゆっくりと起き上がった。
「……団長。これは……眠りだけの話ではないのですね」
「はい。これは“眠るため”だけのものではございません。――繋がりの“かたち”です」
「……確かに、何かを受け取った気がします。……私も、こういう腹を探せば……」
「……は?」
その瞬間、オルドがぴたりと目を細めた。
そして――
「……殿下。それは……おやめください」
「……え?」
「今、“こういう腹を探せば”と仰いましたな?」
「……はい……」
「……殿下、それは絶対に違います。真似て得られるものではございません」
団長の声は、どこまでも静かだった。
けれど、明らかに“止めている”響きがあった。
「腹枕というのは、誰にでも通用する安眠の秘訣ではございません。
陛下と私が、長い年月……いや、不可解な巡り合わせの末に行き着いた、極めて特殊な……奇跡のようなものです」
「……」
「殿下がご自身の夜をお探しになるのは素晴らしいことです。ですが、それを“腹”に限定する必要はまったくありません。むしろお止めください」
ルシエルは目を伏せた。
「……失礼いたしました。私は、何か“かたち”に頼りたかっただけかもしれません」
「そのお気持ちは理解いたします。……ですが、殿下には殿下にしか届かない夜が、きっとございます」
やさしく、それでいて力強く。
団長の声は、王子の肩をそっと押した。
その夜、ルシエルは城へ戻る馬車の中で、胸に手を当てて考えていた。
“父の夜”を体験しても、自分の眠れぬ夜は変わらない。
けれども――
今夜から、“探し方”が変わった気がする。
数日後の朝――王子ルシエルは自室で机に向かい、筆を走らせていた。
その手元にあるのは、騎士団への要望書である。
『腹枕騎士候補選定要請』
『必要要件:柔らかさ/沈み耐性/音響安定性/香調における自然系を含むこと』
『※記録担当官の配置も併せて検討されたし』
王子は、静かに最後の一筆を加え、封をした。
「……腹に沈んでこそ、安眠がある。父上の夜を理解した今、私も……私なりの夜を作るべきだ」
思い出されるのは、あの沈み。
体の奥まで染み込んでくるような、あの安心。
――あれは偶然ではなく、再現されるべき技術だ。と、王子は信じていた。
その数日後。
団長オルド・バロンクスは、王子からの要請書を受け取った。
騎士団文官が妙にバツの悪そうな顔で差し出したその一枚には、見覚えのある筆跡と、やたら細かい要件が列挙されていた。
「……なにこれ」
「……王子殿下からでして。腹枕制度の継続案だそうで……」
「……」
オルドは要請書をじっと見つめたまま、
次の瞬間――額を押さえ、深く、長く、ため息をついた。
「……聞いちゃいなかったか……」
ソファに崩れ落ちるその姿は、完全に“アチャー”である。
一方その頃、王の私室では――
「ほう、我が息子が腹枕候補を?」
書面を受け取ったレオナールが、いつもの椅子でふんぞり返っていた。
「ははは、そなたの言葉など右から左だったのだな、オルドよ」
隣に立つ王妃シルヴィアは、記録帳をそっと閉じながら溜息を吐く。
「……記録係の育成、急務でございますわね」
「また腹に沈む時代が来るのか……」
「いえ、“また“ではなく“次の“ですわ。新たな時代の幕開けです」
「わしとしては……ふふ、誇らしいではないか。血は争えぬ、というやつだな」
「誇らしいとお思いになるなら、次の記録実験にはぜひご同席くださいませ。被験者として」
「…………それは、検討しよう」
再び腹が沈む時代が来る。
誰かの夜が、誰かの腹によって支えられる。
その是非や正否は、未来の記録帳が決めるだろう。
ただひとつだけ確かなのは――
「……やれやれ……また、変な時代が始まるな……」
団長の呟きが、夕方の陽に溶けていった。
(完)
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