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――僕、このまま死ぬんだろうなぁ。
暗闇の中、独り寝転びながら、トウヤはぼんやりとそんなことを思っていた。
その種族は雪豹獣人。灰色の毛と青色の瞳をした、ステレオタイプそのままな雪豹獣人の少年だった。
今、トウヤが居るのは壁も床もコンクリートで覆われた部屋の中。一辺が五メートルくらいある正方形のような形をしており、窓のようなものは無く、扉はひとつあるが鍵がかかっている。案の定、押しても引いても開かなかった。一応換気口のようなものもあったが、小学五年生のトウヤの手のひらサイズだった。到底、ここを通って外へ出ることはできないだろう。
部屋の中にあるのはホテルや旅館にあるような小さめの金庫と、トウヤが床に敷いている数枚の段ボールのみ。段ボールに関しては、ここに来たときにコンクリートの床が冷たいと文句を言ったら貰えたものだった。
明かりに関してはひとつ、天井近くに吊るされている。とはいえそこそこ高い天井から降り注ぐ電球一個の明かりは正直手元が見えるか見えない程度で、まああるだけありがたいという程度だった。
トウヤがここに連れてこられたのは三日前。連れてこられた、といっても当然その手段は穏当なものではなく、小学校からの帰り道に薬を嗅がされ、無理矢理車に押し込められた。薬の効能か、トウヤは抵抗もできず、そのまま車は発進し、意識が朦朧としているうちに着ているもの全てを剥ぎ取られ、気付いたらここに全裸で横たわっていた。
要するに、トウヤは誘拐されたのだった。
だが、下着諸共服を奪われたとはいえ、どうやらこれは性犯罪目的の誘拐ではないらしい。という結論に至ったのは、連れてこられて一日にも満たないときだった。
男子目的の性犯罪者も居ると学校で教わったことがあるが、一切乱暴されなかったのだ。今時の小学五年生なら、そういった知識は当然あった。
なら服を脱がせたのはなぜか。これはつまり、脱走防止のためではないかとトウヤは思っていた。こうして全裸にさせておけば、逃げようと思ってもなかなか逃げる気になれないだろう。
しかし、トウヤにはここから出ようという気はなかった。誘拐されてきた身分にしては、案外待遇が良かったのだ。
まず、しっかりとご飯が三食出た。
武器になりかねないためか、カトラリーを使わず手で食べられるようなおにぎりやサンドイッチばかりではあったが、毎食充分な量を貰えた。飽きる、という点に関してはこの状況においてはそうも言っていられないため、とりあえず貰えるだけでもありがたいと思うことにした。
前述のとおり、床が冷たいと文句を言ったら段ボールも貰えたのは意外だった。
さすがに全裸でこのコンクリート張りの床に寝そべるのは辛い。今は七月中旬、夏も真っ盛りに近づく時期ではあるが、窓も何も無いこの部屋では外の暑さとまったく無縁だった。
とはいえトウヤには雪豹獣人ならではの分厚い毛皮がある。そのため頑張れば寝られなくもなかったため、まあ断られたら断られたで仕方ないくらいのテンションで文句を言ったのだが、それが通るとは思っていなかった。
そのおかげか、そのせいか。トウヤには特に抵抗しようという気もここから逃げ出そうという気も起きなかった。そのためか、性暴力ではない単純な暴力を揮われることもなく、本当にただただトウヤはここで一日をある意味平穏に過ごすままにしていた。
全裸なのもここに一人で居れば気にならなかった。もしかしたら隠しカメラとかもあるのかもしれないが、別にいいかと割り切った。目の前でまじまじ見られるのはさすがに恥ずかしいが、そういった画面越しなら特に気にならなかった。
だけど、性犯罪目的じゃないなら一体なんで僕を誘拐したんだろう。トウヤがそう考えて出た推論は二つ。身売り目的か、あるいは身代金目的だ。
前者ならばこのままどこかへ売り払われるのだろうし、下手に健康を害してもいけないので食事がしっかりと出るのもわかる。とはいえ、それならもっと暴力を揮われてもいい気がした。そのほうが従順になるだろうし、あまり反抗的なものを売り飛ばしても意味が無いだろうからだ。それに、子供の身売りならそれこそ性的な乱暴を受けてもいいような気がした。
トウヤは人身売買について詳しいことを知るわけも無かったが、それくらいの想像はついた。
じゃあ身代金目的かな。と思ったが、それはそれであまり意味が無いように思えた。何せ、トウヤの家は貧乏だったからだ。
制服を着ていた以上、いいところの坊ちゃんのように思ったのだろうが、大外れを引いたな。とトウヤは鼻で笑った。ここらへんの公立はだいたいみんな私服登校だから、勘違いしてしまったのだろう。下調べが甘いな、と謎な目線で評価を下していた。
しかし、ここに閉じ込められて早四日目。正直トウヤは暇で暇で仕方が無かった。
ちゃんとご飯は出るし、段ボールの上で眠れば床の冷たさも気にならないので問題はないのだが、如何せんそれ以外がここには何も無さすぎる。
話し相手が欲しい。今までの人生で、トウヤは初めてそんなことを思った。
今になってわかる、学校という場所のありがたさ。初日は学校帰りだったからこれで学校には三日間連続で行っていないことになる。初めてだった。
つまらないと思っていた授業も、うざったいと思っていた同級生も、めんどくさいと思っていた宿題も。なぜか恋しく思えてしまうのだ。
ヨシトは元気にしているかなとか、ノゾミは心配していないかなとか。顔と声は少しおぼろげだったが、ふと気付くとたまに話していたクラスメイトのことを考えてしまう。
担任教師のことも一応思い出したが、顔と声以前に名前を覚えていなかったため、あの人はどうしてるんだろうなぁくらいで終わってしまった。たしか牛獣人とかだったような気もするが、もしかしたら羊獣人だったかもしれない。そんなレベルだった。
ここから早く出たい、というよりかは何か遊ぶものをくれ。ごろごろと転がりながら頭の中で九九や平家物語の冒頭部分を唱え、ひたすら暇を潰してゆく。
部屋の中に唯一ある物品。あの小さな金庫に関しては初日で開けてしまったため、もう玩具としての機能は失ってしまった。ただ数字を合わせればいいだけだから時間をかければ突破できるし、トウヤにはその時間が有り余っていた。
そのときだった。
「飯だ」
「おっ!」
扉の向こうに気配を感じた瞬間、ぶっきらぼうな男の声が聞こえてきた。それと同時に扉の下部にある猫用の出入り口みたいな場所から袋が放り込まれた。
今回もおにぎりかサンドイッチだろうが、今となっては唯一の楽しみ。トウヤは起き上がると青色の目をきらきら輝かせながら扉へ近づき、袋を手に取った。
「今回はおにぎりか」
独り呟き、金庫の中を確認する。窓が無いため外の様子は一切わからないが、これが今日のトウヤの昼ご飯のようだった。
袋の中にはどこかのコンビニで買ってきたであろう塩おにぎりが三つと、きゅうりの浅漬けが一個、あとお茶が入っていた。
「たんぱく質が無いな……」
ぶつくさ文句を言いながら、金庫の上へ袋からそれらを出して並べてゆく。床の上で食べるのはなんとなく抵抗があったため、ちょうどいいサイズ感である金庫を卓袱台のようにして食べていた。
トウヤという、身代金目的としてはダントツの外れ駒を誘拐してきたくせに、変なところで手が込んでいるため、この食料もいつものように朝ご飯とまた違ったコンビニで調達してきたようだった。
「いただきます」
手を合わせ、とりあえずお茶を開けて喉を潤す。500mlペットボトルだが、食事のときにしか渡されないためどうにも喉が渇くのだ。
ぺりぺりと包装を開け、塩おにぎりを食べつつたまにきゅうりの浅漬けをつまむ。きゅうりに関しては指だが、ちゃんとアルコールのウェットティッシュも入っていた。塩おにぎりとかいう、コンビニで一番安いのを適当に買ってきていそうなチョイスなのに、こういうところで妙に気が利く連中である。
「ちゃんと毎回違うコンビニだし、賞味期限見ると結構まめに買ってるっぽいよな」
裏を見ながらもぐもぐとトウヤは食べ進める。ずっと一人で居るからか、最近ひとりごとが多くなってきた。
「しゃけ、いやツナマヨがよかったな……。あと汁物も欲しい」
味噌汁が飲みたいだなんて思ったのは人生初だった。
あれこれ文句をつけながらトウヤは次々とおにぎりを食べていき、最後に残ったきゅうり一枚を食み、全てを平らげた。
「ふう、ご馳走さまでした」
お茶を飲み干したあと、出たごみを袋にまとめ、口をふん縛る。排泄に関しては部屋の角のほうに水路へ続いているらしきそれっぽい穴があり、一人のためそこまで気にせずしていた。風呂は無く、ちょっと毛皮がべとつくが、まあそれくらいならということで我慢している。
「食べ終わりました」
そう言って例の猫用ドアの前にごみを置いておくと、無言で手が伸びてきて回収されてゆく。そして、扉の向こうの気配が消えた。これがいつものことだった。
ご飯も食べ終わり、腹もくちくなったところで一息つく。
「……寝るか」
だが、とにかく、やることがない。
段ボールの上に寝転がると、トウヤはごろんと天井を見上げた。
照明のオンオフスイッチなんてもんはないため、いつでも微妙に明るい中寝なければいけない。が、それももう慣れた。
うつ伏せになって腕の間に顔を埋め、目を瞑る。涼しい部屋の中とはいえ、やはり風呂に入っていないからか、少しあぶらっぽいにおいがした。
どうせあと数日の命。暇死には嫌だから、他にやることが欲しいな。そう思いながら、トウヤは眠りについた。
*
その翌日。誘拐されて五日目。
朝起きて金庫の中を見て、朝ご飯を食べて。一息ついてまた眠ろうとしていたとき。
不意に扉がばんと大きな音を立てて開かれた。
「んん……?」
完全に寝る気だったトウヤが起き上がると、覆面をつけた獣人が部屋に入ってきていた。覆面の獣人はそのままトウヤへ詰め寄ってくると両手首を掴み、頭の上へ持っていかせる。
トウヤはその姿に覚えがあった。意識が朦朧とする中、車の中に自らを押し込んだやつらは皆覆面をつけていた。今、部屋に入ってきている獣人がつけているそれとおなじものだ。
覆面の獣人はさらに詰め寄ってくる。それに圧されてトウヤの背中が壁についた。覆面獣人はトウヤへ覆い被さるような体勢になると、今まで隠すように持っていたナイフをその首筋にぐっと押し当てた。
「動くな。声も上げるな。わかったら二回瞬きしろ」
その声はいつもご飯のときに聞く声と同一だった。声の低さ的に男だろうが、覆面を被っているせいでその種族はわからない。
死を覚悟しているトウヤだが、別に殺されたいわけではない。それに変わらず全裸のままだが、こんな状況で恥ずかしいなんて言っていられるわけもない。
ゆっくりと二回、瞬きした。
「いい子だ。手間が省ける」
そして男は変わらぬ口調でそう言うと、どこか――おそらく扉の向こうへ目配せする。とはいえ、すぐトウヤへ視線を戻し、じっと両目を見据え続ける。覆面でよくわからないが、少なくとも刺すような視線だけは感じられた。
目配せをしたからか、何人かの獣人たちが部屋に入ってくる音がする。覆面男に覆い被さられているせいで姿は見えないが、確実に複数人の誰かが何かをしているようだった。
しかしその物音もすぐに止み、足音が部屋から出て行く。
その後も数分ほどトウヤを見ていた覆面男だったが、不意にナイフを引っ込めるとそのまま出て行った。
扉が閉まり、鍵が下ろされる。扉の向こうからふっと気配が消えた。
いつの間にか呼吸を止めていたのか、錠の音がした瞬間、トウヤは目を瞑り、深く深く息を吐いた。
ひとまず、殺されないで済んだ。
なんとなく天を仰ぎ見るかのように上を向き、ぶら下がる裸の電球をぼーっと見る。さすがに緊張した。
そのまま何回か深呼吸を繰り返していたとき、ふと首筋に痛みを感じて手をやってみると、ナイフを押し当てられたときに切れたのか少しばかり出血していた。
とはいえそれも薄皮一枚切れた程度のことのようで、上を向きながらしばらく手で抑えていると自然と傷はふさがった。
そのときだった。ふと気配を感じ、視線だけを動かしてそのほうを見ると。
「……え?」
トウヤのように一糸纏わぬ姿の少年が、床に置かれた段ボールの上で眠っていた。
[newpage]
「えぇ……」
どうしよう。トウヤの頭の中を、ただそれだけが満たしてゆく。
いつかの自分のように、ここへ連れてこられたこの少年も、薬を嗅がされてこうして眠っているのだろう。
毛皮の雰囲気や耳の形からしておそらく種族は狼獣人。毛皮の色は白で、狼獣人によくある色だった。体はトウヤよりも幾段か大きく、抱き締められたらすっぽり腕の中に収まりそうだった。
トウヤの記憶にあるかぎり、この白い狼獣人はクラスメイトどころか、小学校の中で見かけたことすらない。その記憶が正しいかは怪しいが、きっと違う小学校の生徒なのだろう。
もしかしたらトウヤを外れだとようやく認識したあの犯人たちが、何が何でも誘拐を成功させるために新しく調達してきたのかもしれない。だとしたら少し申し訳ないな、と思いつつ、なら自分はもうそろそろ始末されてしまうのだろうかと冷めた頭で考えていた。
とりあえず起こすか。と、トウヤは段ボールに寝そべる狼の少年へ近づくと屈み、その肩へ手を伸ばす。
ここから出たいというわけではなかったが、今のトウヤは話し相手を欲していた。正直、目の前の少年が自然と目を覚ますのを待っているなんてできなかった。
トウヤよりも大きな肩を掴み、体を揺する。
起きて、と言いかけたそのとき、狼の少年が薄目を開けた。
「ん、ん……」
何回か瞬きしたあと、狼の少年は真正面からトウヤを見る。視界に姿を認めた瞬間、狼の少年――アラタは俊敏に飛び起きた。
「誰だっ!? どこだっ!? ……真っ裸!?」
最初は動揺し、次に警戒を露にさせたが、最終的にアラタの表情は驚愕で落ち着いた。
琥珀色をした目を白黒させながら股の間へ手をやるアラタを見ながら、トウヤはどこから説明しようかと頭を捻らせていた。が、とりあえず自己紹介かと思いとりあえず目を合わせた。
「初めまして。僕はトウヤ、雪豹獣人。君の名前は?」
「え? ……なんでお前もマッパなの? 隠せよ」
「見られても減るもんじゃないし」
「まあ……、それはそうか」
股間を隠しながらちらちらとトウヤのそこへ視線をやっていたアラタだったが、そう納得すると股間から手を外した。そのままぽりぽりと後頭部を掻く。
「で、あー、名前か。オレはアラタ。狼獣人だ」
「それ名字? 名前?」
「名前だ名前。漢字で書くと新しいに太い。それでアラタ」
「へー」
「もっと興味持てよ。トウヤは名字なのか?」
「いや、名前」
トウヤの返事は素っ気無いが、実のところ内心では久しぶりに誰かと会話を交わせたことを楽しんでいた。
屈んだままだったので立ち上がり、自分の段ボールを置いている壁際まで戻る。すとんとその上へ体育座りをすると、なぜかアラタは近づいてきてその横へ腰を下ろした。
もちろん、トウヤの段ボールの上に。
何。とトウヤが言う前に、アラタのほうから口火を切った。
「……なあトウヤ。今、少しずつ寝る前のことを思い出してきた。学校から帰ってくる途中、変なやつらに車に押し込まれて、なんかハンカチみたいなものをマズルあたりに当てられた」
「そこからは?」
「覚えてない。気付いたらここに居て、マッパのお前に起こされてた」
羞恥心があるんだかないんだか。アラタは立て膝で座り、惜しげもなく己の性器を曝け出している。トウヤが見てみると、自分のそれより大きかった。ちっ、となぜか心の中で舌打ちをしたい気分になった。
「……まあ、誘拐か。裸にされたのは脱走防止か?」
「なかなか落ち着いてんじゃん」
「お前に言われたかねえよ。誘拐だぞ誘拐。生きて帰れるかもわからないし」
「生きて帰りたいの?」
「……どーだろーな」
トウヤの質問に対し、アラタはそう言って会話を打ち切るかのように室内を見渡す。あるものはあの扉と小さな換気口に裸電球。そして金庫と水流に繋がる穴と、トウヤがここに来たときとなんら変わらない。ひとつ変わっているところといえば、このアラタの存在と付随してやってきた段ボールくらいだ。
「雪豹獣人のトウヤか。どこの学校だ?」
「[[rb:狩 > かり]][[rb:刃 > ば]]第一小学校。五年生」
「ああ、あそこか。オレは[[rb:辰 > たつ]][[rb:崗 > おか]]東の六年生だ」
そこでアラタは言葉を止めると、トウヤのほうを見てくる。じとっと見返すと、アラタはにんまり笑った。
「オレのほうが一個年上だな。オレの言うことは聞くように」
「誕生日は?」
「……三月五日」
「僕五月三日。同い年だね」
「うるせー! 体だってオレのほうが大きいんだからいいだろ別に!」
「さっきのは無しとか無しだよ」
「ぐぬぬ……小癪なガキめ……」
「それ現実で言う人初めて見た。記念にちゃんと名前覚えておいてあげるね、アラタ」
トウヤの傲岸不遜な物言いにアラタが顔を引きつらせる。お前さよならと同時に忘れるつもりだったのかよ、と突っ込みたくなったが、無事にさよならできるとは限らないと思って黙っておいた。
「オレはお前の名前絶対忘れないからな、トウヤ」
意趣返しとしてアラタがそう言うと、トウヤはにやりと笑みを浮かべた。
アラタが初めて見たトウヤの笑顔だったが、もっと素直に笑えばもっと可愛いだろうに、とあまり感慨深いとは言いがたい感想を抱くに終わった。
「そういやトウヤ、あいつらに襲われたりとかしてないよな?」
「襲われてここに居るわけだけど」
「そういう意味じゃない」
先ほどとは少し違い、真剣な雰囲気を滲ませながらアラタはそう言う。横顔には不安というより心配の表情が浮かんでいた。
「覆面のあいつらにいやらしいことはされてないよなって意味だ」
アラタの発言にまた突っ込もうかと思ったトウヤだったが、その真剣な雰囲気を感じ取ってしまった以上、ふざけることはできなかった。
「されてないよ。裸にされただけだし、アラタもきっとされないと思う」
「ふぅん? どーだかな」
少しばかりトウヤに疑念の視線を送っていたアラタは、顔を上げるとどこか遠くを見るような表情を浮かべる。トウヤも顔を上げてアラタのほうを見ると、その横顔には憂いがあった。
「わざわざ二人おなじところに入れたんだ。片方を従順にさせるために片方を凌辱することだって考えられる。そうなればきっと、後のほうに連れてこられたオレが凌辱されることになるんだろうな」
「……今のところ、僕は反抗してないよ。ご飯だって貰えてるし、暴力をふるわれたこともない。飯抜きにしてたこ殴りにしてまで反抗してるならまだしも、今の僕を従順にさせる必要はないんじゃないの?」
「じゃ、お前が凌辱される側かもな」
アラタはさらりとそう言う。こいつ、人の心無いんじゃないのかとトウヤがほんの少し敵意のこもった視線を投げつけると、アラタは「いやすまん」と目を伏せた。
「怖がらせたかったわけじゃない。ただ……万が一のために心の準備はしておいたほうがいいんじゃないかってな」
「そう? 所詮、身代金目的の誘拐だと思うけどね」
「身代金目的で二人も連れてくるか? リスクがありすぎるだろ。どちらかというと、身売りのほうが相応しい気もするぞ」
「身売りなら僕もうとっくに売られてるだろうし、何かしら仕込まれててもおかしくないでしょ。二人揃うのを待っていたとしても、今僕たちがここである程度自由に過ごせている時点でねぇ」
「もしかしたらもう一人連れてくるつもりかもな。[[rb:調教 > しつけ]]はそこからかも」
「……今とんでもないルビが振られた気がするけど、それこそリスキーじゃない? それに、そんなことはないと思うよ」
トウヤはそう言い切ると、うーんと伸びをしてこてんと段ボールの上へ横になった。
「僕寝ていい? 今朝無理矢理起こされて眠いの」
「おい。オレを置いて寝るのか?」
「寝るよ。寂しいんなら一緒に寝れば? あの段ボール持ってきて隣に敷いて寝転ぶくらいならいいよ」
「じゃそうする」
アラタは少しぶっきらぼうにそう言うと、立ち上がって段ボールを取りに行く。
引き締まったいい背中と尻してるなぁとぼんやり思いながら、トウヤはアラタの後ろ姿を見ていた。その尻から生える尻尾は太く、体とおなじ白色をしている。少しぼさぼさしており、入念に手入れされているというような印象は受けなかった。
アラタは地面へ無造作に置かれた段ボールを手に取ってトウヤの横へ戻る。どうやら本当に羞恥心は吹き飛んだらしく、この肌寒さで少し引き締まった一物を隠すことなく歩いてきた。
「……トウヤ、お前今オレのちんこ見てただろ」
どこかにやにやとした笑みを浮かべながら、アラタはトウヤの段ボールの横に自分が持つそれを敷くとその上へ寝転ぶ。
変わらない笑みを浮かべたままのアラタに対し、トウヤはじとっとした目を向けた。
「アラタだって見てたでしょ。値踏みするような視線送ってきてたのバレてるから」
「おい、お前が言うか。サイズ見比べてたのもわかってるんだからな」
「年下に勝って嬉しい?」
「同い年だろ。毛も生え揃ってないくせに」
「そもそも揃う以前に生えてないよ。アラタは生えてるの?」
「生えてるよ。見るか?」
「わざわざじっくり見たいと思うほどの興味は無い。生えててよかったね」
トウヤはそう言うと寝返りを打ってアラタに背を向ける。確かに、その体躯の小ささを見ると、トウヤは成長期も思春期も迎えていなさそうだった。
「なあトウヤ、身長何センチ?」
「一四五」
「チビ」
「はっ、無用のデカブツが」
「初対面でそこまで言うか!?」
鼻で笑ったぞこいつ。オレたち初対面だよな? 出会ってまだ十数分だよな? と身長一六二センチのアラタはかなり驚いた表情を浮かべる。デカブツと揶揄されることはあってもそこに“無用の”とつけられたのは初めてだった。
「無用のデカブツか……そうか……」
「寝る。静かにして」
「慰めの言葉をくれてもいいんだぜ?」
「ぐー、ぐー」
「んなベタな寝息があるか。[[rb:雪豹 > たぬき]]寝入りするな」
「ねえ、またとんでもないルビ振らなかった?」
「気のせいださっさと寝ろ。子守歌でも必要か?」
「アラタは音痴そうだから要らない」
「減らず口が過ぎるだろ。オレ合唱部だぞ?」
「そうなの?」
意外な発言にトウヤは振り返ってアラタを見る。すると、アラタはやっとこっちを向いたと言わんばかりに満面の笑みを浮かべた。
「ウソ。ほんとは野球部」
「やっぱり。野球部っぽい顔してるもんね」
「ボールみたいな丸顔とでも?」
「ううん。ベースみたいに踏んづけたくなる顔ってこと」
「お前……」
一瞬殴ってやろうかと思ったアラタだったが、この勝負は先に手を出したほうが負けな気がして自らを押しとどめた。ずっと言葉の応酬、というよりぶつけ合いをしているが、寝ないでいいのだろうかと思いつつも、アラタは頬杖を突いた。
「そーいうトウヤは何部なんだよ」
「ハリーポッターのヘドウィグの翼研究会」
「ウソすぎる。ウソつくならもっとマシなのをぬかせ」
「うんさっきのは嘘。本当は理科部だよ」
嘘をあっさり認めたトウヤだが、今までのやりとりの経験上、ここでトウヤが真実を吐くとはアラタは到底思えなかった。
じっくりと疑いの視線で突き刺していると、トウヤは苦笑いを浮かべた。
「……いや、本当だってば。理科室でそれっぽい物作りをする部活だよ。ロウソクとか」
「ホントカ……? アヤシイゾ……?」
「片言になってまで疑わなくていいから」
トウヤはそう言うと再び伸びをして起き上がる。どうしたのかと思ってアラタが見ていると、トウヤは段ボールの上に足を投げ出して座って壁へもたれた。
「もう。眠気覚めちゃったじゃん」
「いやオレだけのせいみたいにしないでくれよ。結構ノリノリで会話楽しんでたくせに」
「バレた? やっぱり、久しぶりに話し相手ができると嬉しいし楽しいよ」
ふっと、そこでトウヤは笑みを見せる。その笑顔を見ると、なぜかアラタも笑みをこぼしそうになってしまった。
「久しぶりって、オレが来るまで一人で居たのか?」
「うん」
「どんくらい?」
「今日で五日目だから、四日間?」
「四日間? ここで一人っきり?」
「うん。ご飯届けてはくれるけど、会話はしてくれないし」
トウヤの言葉に思わず沈黙していたアラタだがふと、ひとつの疑問、というより好奇心が湧いて出てきた。
「そういやトウヤはちゃんと日数を覚えてるんだな。こんなところに居たら曖昧になりそうなもんだが」
「ああ、それは」
と、そこでトウヤは言葉を止め、視線を初日で開錠してしまったあの金庫のほうへ向ける。
それを辿ってアラタも金庫へ視線をやったとき、トウヤはどこか挑発的な笑みを浮かべた。
「アラタ。今、何を見ても驚かないって自信はある?」
「え? なんだ、藪から棒に」
「中身を見てみてもいいけど、ちょっとばかし刺激的なもんだからさ。……ま、詳しくは見てからのお楽しみってことで」
トウヤはそれきり黙りこみ、一切言葉を発さなくなった。
中には時計のようなものが入っているんだろう。――そう推測したアラタだったが、そこまで言われてしまって身構えないわけもない。
だが、それと同時に、少しずつ興味の心が鎌首をもたげ始めているのがわかった。
一歩ずつ一歩ずつ、アラタは金庫のほうへ近づいてゆく。
既に金庫に錠はかかっていない。扉は二、三センチくらい開いていたが、そこから中身を窺い知ることはできない。
ついに間近まで迫り、アラタは屈みこむと扉に手をかける。ごくりと唾を呑み、意を決して金庫の扉を開き、中を見た。
「……これ、は。時計?」
一番に目に入ったのは、デジタル表記でパネルに表示されている数字たち。まさにデジタル式の時計の盤がそっくりそのままそこに収まったような見た目をしていた。
だが、すぐに時計とは違うと気付いた。もしも時計なら数字は増えるはずだが、目の前のそれは逆。一つずつ、数字が減っていっているのだ。
数えてみると、一秒に一個減っていっている。何かしらへのタイマーのようだった。
次に目に入ってきたのは、そのパネルに繋がれた色とりどりのコード。それを目で追っていくと、パネルの裏に横倒しになっている円柱形の筒が六つ、ピラミッドを作るかのように並べられていた。
アラタはそれを、映画や漫画の中でだけでしか見たことが無かった。まさか、現実でこうして目の前にすることになるだなんて、思ってもいなかった。
金庫の中に収められていたその物を見て、自然と脳裏に浮かんできたとある単語。それがアラタの口をついて出る前に、背後から投げかけられた。
「たぶんそれ、爆弾だよね」
トウヤの声に、アラタはゆっくりと振り返る。
雪豹獣人の少年は、相変わらず涼しい表情と冷めた声で、さらりとそう言ってのけたのだった。
[newpage]
「……ん、んん」
翌日、すなわち六日目。ふと寝苦しさを覚えたトウヤが目を覚ますと、体にアラタの太い足が乗ってきていた。
ちっ、と舌打ちした後、それをどけて起き上がると、寝たときはトウヤとおなじ体の方向だったのに、アラタは見事にその上下がひっくり返っていた。おまけに、トウヤのほうの段ボールに乗ってきてまでいる。
昨日、二人は晩ご飯を食べ終わったあと、段ボールを近寄らせたまま隣り合って眠ったのだが、隣で寝ることを許したとはいえ、領分を侵してくることを許したわけではない。おかげで本来の半分ほどの面積で眠る羽目になった。
「気持ち良さそうに寝やがって……」
アラタは大口を開け、足をかっ開き、太い尻尾を軽く抱き締めながら豪快に眠っている。その上、かっ開かれた足の間にあるアラタの一物は朝の生理現象を催して、立派に屹立していた。
トウヤはもう一度舌打ちをし、足元にあるその頭を蹴飛ばしてやろうかと思ったが止めておく。腹立つことには変わりないが、下手なことをして話し相手を失うのも惜しかった。
起き上がり、ぽりぽりと体を掻きながら例の金庫のほうへ近づいていく。一秒一秒、正確に時が減ってゆくあの爆弾らしきものは時計代わりになるのだ。
扉を開いて中を見る。残りの時間は約四十二時間。昨晩眠る前に見たときは約五十時間だったため、大体八時間ほど眠ったことになる。太陽も月も星も見えないこの環境だが、この爆弾らしきものと定期的に差し入れられる食事のおかげで生活リズムをあまり乱さずに済んでいた。
しかしついに四十八時間を切ったか、と思いながらトウヤは扉を閉め、ふうとため息をついた。
昨日、この爆弾らしきものをアラタに見せたとき、あの狼獣人の少年は意外と落ち着いていた。
なんだかんだ肝は据わっているらしい、とトウヤは自分のことを棚にあげて考える。そして二人で観察したり話し合った結果、やっぱりこれは爆弾じゃないかということで決着がついたのだ。
もちろん、爆弾を解体するような知識なんて二人とも持っていない。そんな中下手にいじったら爆発してしまいそうだったから、二人は配線にすら一切触れず、完全に見た目から判断したのだが、それでもその結論で落ち着いてしまった。
あまりにも見た目がアニメや漫画や映画でよくある時限爆弾だったからだ。
もし、機能もアニメや漫画や映画でよくある時限爆弾そのままなのなら、あの数字が零になった瞬間爆発するのだろう。爆弾の爆発力にもよるが、このまま助けが来なければ、二人の命はあと約四十二時間で尽きることになる。命が尽きなくても、重傷は免れないだろう。
だから、どうせなら一発で死にたいと、二人はそのときを金庫の傍で迎えようと約束した。そして、あと二日の命かぁ、と二人で諦めたように笑った。二人とも、端から助けが来るとは思っていなかった。
だが、そんな昨日の今日でアラタはぐーすか気楽に寝ている。それはもう、図太いとしか言いようがなかった。
トウヤが振り返って見てみても、アラタの体勢は変わらず、股を開いて惜しげもなく勃起した陰茎を見せ付けている。当然そのサイズはトウヤのそれよりも大きく、ついでに半分ほど皮も剥けて亀頭も露出していた。
ちっ、とトウヤは三度目の舌打ちをし、もうそろそろ朝ご飯が来る時間だから起こそうと、アラタの傍へと近寄って屈みこんだ。
「ほら、起きて」
「ぐぅ、ぐぅ……」
「アラタ。ほら」
「ぐぅ……ぐぅ……」
トウヤがアラタの肩をつかんで揺らしても、まったく目覚めない。
昨日はあんだけ目覚めがよかったのに、と思いながら体を揺らすが、アラタからの反応は無いままだった。ただ、揺れに合わせて大きくなった一物がゆらゆらと揺れている。
いくら起爆まで時間があるとはいえ、誘拐されてきた挙句爆弾の傍に置かれてよくここまで眠れるなと最初は感心していたが、さすがに腹が立ってきた。
それに、眠っている間に足を乗せられた恨みも、トウヤの段ボールに勝手に乗ってきた恨みもまだ晴らしていない。むしろ、思い出してみるとそっちのほうが腹が立った。
「…………」
アラタの肩から手を離し、大きく開かれた股の間に座りなおす。
高く手を上げ、そのまま振り下ろす勢いで、相変わらず屹立したままの一物を思いっきり平手で叩いた。
「ぎゃんっ!?」
ばちん、と小気味良い破裂音に近い打撃音がすると同時に、アラタが目を覚ます。
慌てたように上半身を起こし、しばらくトウヤのほうを見て何がなんだかわからないと呆けていたアラタだったが、一気に萎んだ一物から伝わってくる痛みでなんとなく現状を把握した。
「トウヤ……おれのちんこ、叩いたか……?」
「あまりにも寝相が悪かったから。隣で寝てもいいとは言ったけど、寝ている間に僕の段ボールの上に乗ってきた挙句僕の上に乗ってきていいとは一言もいっていない」
そのトウヤの言葉に、アラタは周囲を見回す。やがて景色が眠るときとまったく違うことに気付き、起き上がって自分が今の今まで眠っていたところを見ると、確かにそこはトウヤの使っていた段ボールの上だった。
アラタがそのことを認識したあと、ゆっくりトウヤのほうを見ると、雪豹獣人の少年は変わらない冷たい表情と目をしていた。
「すいませんでした」
「よろしい」
トウヤがアラタの謝罪を受け入れた瞬間、あの扉の外から、いつも男の声が聞こえてきた。
「飯だ。食え」
その言葉と同時に、戸の下部につけられたペット用の出入り口と思しき扉から袋が投げ込まれた。
「もうそんな時間だったのか」
「そうだよ寝坊助」
アラタがぽつりと呟くとトウヤはそう言って袋を取りに扉のほうへ向かう。変なところでしっかりしている誘拐犯なので、アラタが来たぶん、貰う食事の量もちゃんと増えた。
少し重みの増した袋を手に取り、中を覗く。
「今日の朝ご飯はなんだ?」
「サンドイッチ」
トウヤはそう言うといつものように金庫の傍へ行き、その上へ袋の中身を並べ始める。アラタは金庫を挟んでトウヤと向かい合うように座った。
最初は「爆弾が入っているものの上で食うなんて」とびっくりしたアラタだったが、それも一瞬で慣れた。平然とおにぎりをぱくつくトウヤを見ると、気にしている自分が馬鹿らしくなったというのも大きい。
「いただきます」
「いただきます」
互いに手を合わせ、包装を開けてサンドイッチを食べ始める。アラタは未だに股間がじんじんと痛んだが、それはそれとして腹が減っていることも事実だったため、素直にサンドイッチへ食らいついた。
ちんこを叩かれただけでこれだけ痛むのだから、金玉を標的にされなくてよかったと、平然とした顔でサンドイッチに齧り付くトウヤを見ながらアラタはそう思った。先ほど他人の大事なところをぶっ叩いたばかりとは思えないような態度だった。
「……なあトウヤ、警察とか来ると思うか?」
「どーだろ。案外、僕が居ないことに気付いてないかも」
「同感。服もランドセルも全部奪われたし、あいつらオレたちの住所とか電話番号とか知ってそうだけど、電話かけたからといって見知らぬ番号からの着信を取る可能性は低いしな」
「……そーなると警察云々以前に通報もされてないかもね」
「学校は気付いてそうだけど、だからといって動くとは限らねえし」
「だよねぇ」
サンドイッチを食べながら、二人は世間話のようにそんなやり取りをする。
今のところ、互いに互いの事情に関しては深く踏み込まないようにしていたが、それでも会話の端々から互いが居た環境はなんとなく推察できた。
自分が外れなせいでアラタが誘拐されてきたと思っていたが、そういう意味ではアラタもまた外れ駒なのかもしれないと、トウヤは思っていた。
「あーあ、無事戻れたら宿題とかたまってんのかなぁ」
「うわそんなこと考えさせないでよ。意地悪」
トウヤよりも体がでかいアラタは、そのぶん一口も大きく、食べ終わるのも早い。一足先にサンドイッチを平らげ、ごろんと床に寝転がってそう言った。
段ボールを敷かずに直接寝て冷たくないのかな、と最初見たときにトウヤは思ったが、二回目にそうしたのを見たとき、金庫を挟んだ向かい側から動かないのは自分が食べ終わるのを待っているんだと気付いて少し申し訳なくなった。
なんだかんだ、こういうところは気が利くというか、優しいんだなと思った。
「トウヤって今五年生だっけか。どんなことやってんだ?」
「んー、図形の面積の求め方とか、国語では新聞についてやってる」
「あー懐かしい。確かにやったわそれ」
同い年で学年も一個しか違わないくせに、謎に年上風を吹かしてくるアラタに対し、トウヤは少しじとっとした目を向ける。だが、その視線にアラタは気付くことなく、ごろんと寝返りを打った。
「アラタはあんまり勉強とか得意そうじゃないね」
「ああ、わかるか? 正直、分数の計算とかわけわからん。割り算も結局わからないままだしな」
「なるほど……」
中学校にあがったとき苦労するんだろうな、と思いつつ、トウヤはそれ以上何も言わないでおいた。
頭の回転は速そうだし、肝も据わっているのに学校の勉強は駄目なタイプらしい。たしか野球部に入っているという話だったし、要するにフィジカルタイプなのだろう。引き締まった体からもそれがわかる。
そんなことを考えているあいだにトウヤもサンドイッチを食べ終わったため、ごみを袋に入れて口を縛る。いつもどおり回収してもらい、二人は段ボールの上へと戻った。
アラタは当然のようにトウヤの横へ座ってくる。が、座ってくる位置が昨日よりもトウヤ寄りになっていた。体の横に置いた手が少し触れ合う程度に。
「……なんか、近くない?」
「そうか? 嫌だったら離れるが」
「いや、別にいいけど」
どうやらわざとではないらしい。きょとんとした表情を浮かべるアラタを見て、トウヤはそう思った。
いつもどおり体育座りをして、膝の上へマズルを乗せる。アラタはあぐらをかいていた。
「……なあ、トウヤ」
不意に、少し真剣なアラタの声がした。トウヤがアラタのほうを向くと、狼獣人の少年は真面目な表情を浮かべている。
珍しい。そう思って「うん?」と首をかしげたトウヤに、アラタは変わらぬ口調でこう言った。
「ここらへんで、互いの身の上話といかないか?」
アラタの言葉に、トウヤはしばし押し黙る。
触れないようにしていたけれども、いつかはその話をしなければいけないとは思っていた。
会って一日が経ち、寝食を共にし、二人はもう初対面とは言えない関係になった。互いに全裸の状態で対面したからしょうがない部分はあるが、普通あまり他人に見せない部分も晒しあった。
確かに話してもいい。とはいえ、ひとつの考えがトウヤの頭の中にはあった。
「けど、どうせ死ぬのに?」
トウヤがそう言うと、アラタの顔に苦笑が広がった。
「まあ……そうかもしれないが。死ぬと決まりきったわけじゃないし、なにより、一緒に死ぬ相手のことは知っておきたい。どうせそうなるとしてもだ」
「ふぅん、そう。僕のこと知りたい?」
「知りたい。オレはトウヤのことを知り尽くしたい。そして、一緒に死にたい」
「……へぇ」
視線をアラタから外し、トウヤは呟くように言う。
たとえ死ぬとしても、全てがなくなるとしても、アラタは僕のことを知りたいらしい。きっと何かを知るということが好きなのだろうと、そう思った。知って何かをするというわけではない。知ること自体が好きで、それが楽しみなのだ。
「あんまり楽しい話じゃないよ」
「わかってる」
「僕のこと嫌いになるかも」
「そんなことあるわけない」
「僕のことを話したら、アラタのことも教えてくれる?」
「もちろん。互いの身の上話って言っただろ?」
トウヤの言葉に、アラタは間髪いれずにそう返す。
はぁ、と小さくため息をついたあと、トウヤは少しずつ語りだした。
*
トウヤは自らの母親を知らない。父親によると、トウヤを産むだけ産んで他に男を作ってあっさり出て行ったそうだ。だから母親というよりかはトウヤを産んだ女と表現するほうが正しかった。
だがそもそも、トウヤが父と思っている男が本当にトウヤの父親であるとは限らなかった。トウヤを産んだ女は、トウヤの父親以外の何人もの男と関係を持っていたからだ。少なくとも、トウヤの父親はトウヤの半分が自分でできているとは信じていなかった。それでもトウヤを家から追い出さなかったのは、大人として子供を見放すのは世間体が悪いからにすぎなかった。あのクソ女、売女のくせにコブを押し付けやがって、と酒を飲みながら悪態を吐く自らの父親を、トウヤは幾度も幾度も見てきた。
だから、自分は要らない子なのだと無意識の深層にまで刷り込まれて育った。
そして、不幸なことにトウヤは自らを産んだ女に似てしまった。成長するにつれあの女の面影を強めてゆくトウヤを、父親は強く憎んだ。そこにトウヤを産んだ女は居ないとわかっていても、ふと気配を感じるたびに、罵り殴りかかりたくなってしまう衝動に駆られるようになった。
しかし、それでも父親はトウヤを見捨てはしなかった。トウヤへ暴行を加えるようなこともしなかった。大人としての矜持が、それをぎりぎりのところで押しとどめた。その代わりに、会話が一切無くなった。父親はトウヤと顔を合わせることがあっても、目を合わせることをしなくなった。話しかけても、一切答えなくなった。
おはようも行ってきますも、おやすみもおかえりなさいも無く。いただきますもごちそうさまも無く。
父子家庭で貧乏だった二人の住んでいた、四畳一間の木造アパートは無機質な四角い箱に成り果てた。
だが、トウヤは特にそれを苦と思わなかった。苦と思わないことによって、自らを守っていた。
元々父親が残業で遅く帰ってくるときは一人で食事を取っていたし、そういうときはトウヤ自身で食事を作ることも多かったから、それでも問題は無かった。
テレビをつけておけば物静かになることもないし、本を開けば違う世界へ行ける。
夜ご飯は父親が仕事帰りに買ってくる夕飯を会話も無く食べ、朝は何かから逃げるように早く出社してゆく父親の足音をベッドで聞き届けた後、一人で朝食を摂る。
そんな生活が数ヶ月続いた頃。
次第に、父親は帰ってくる時間が遅くなっていった。
ご飯を買ってくることもなくなり、その代わりに金だけが卓袱台へ置かれていることが増えていった。
気付けば一日中帰ってこなくなり、三日帰ってこなくなり。その期間はどんどん延びてゆき、いつの間にか一週間帰ってこないようになっていた。
だが、トウヤが餓死することはなかった。最近父親が帰ってきていないらしいと気付いた隣の小母ちゃんに、食卓に招かれるようになったからだった。
トウヤが住んでいた地域ではそういった孤児は珍しいわけでもなかったため、その小母ちゃんは以前からトウヤのことを気にしてくれていたのだ。
だが、やがてそのことを知ったトウヤの父親は、やがて一ヶ月間丸々帰ってこなくなった。預金通帳も印鑑も置いたままだから大丈夫だろう。父親はそう思っていたが、小学生のトウヤにその使い方がわかるわけもなかった。むしろ、父親はそう思うことによってトウヤの存在から逃げていた。
だいたい一ヶ月に一度の頻度でふらりと現れてはいくらかのお金を残し、またどこかへ消えてゆく。いつしかトウヤの父親は、それだけの存在になっていた。
しかし、いくらかのお金といってもそれは一週間の食費にも満たない金額だったし、小母ちゃんは絶対にそのお金を受け取ってくれなかったため、トウヤの貯金になっていった。ノートや鉛筆などの文房具を買うお金はそこから捻出し、服に関してはたまに小母ちゃんのところで洗濯してもらうようになっていた。
とはいえ、その状態が続くことは健全とは言いがたい。
そんな生活が半年ほど続き、さすがにもうそろそろ児童相談所なりなんなりに話をしたほうがいいんじゃないかと小母ちゃんが考え始めた頃。
学校帰り、トウヤは誘拐されてここに来たのだった。
その手口は単純。聞きたいことがあると片方が気を逸らし、もう片方が背後に近づいて薬品を嗅がせる。薬品の作用で意識が朦朧としたトウヤを縛って車へ連れ込むのは容易く、そうしてトウヤは呆気なく連れ去られた。
*
「……思ったより、長くはなかったな」
「聞き出しておいてそれ?」
トウヤの語りを邪魔せずに聞いていたアラタは、トウヤが話し終えたと見るや否や、開口一番そう言った。
「アラタって失礼だよね。失礼馬鹿野郎」
「馬鹿は余計だろ、おい」
「馬鹿失礼野郎?」
「位置の問題じゃないんだよ」
変わらない態度のトウヤに対し、呆れた表情を浮かべたアラタだったが、はぁ、とため息をつくと少し物憂げな表情を浮かべた。
「なあトウヤ。お前、誘拐されてよかったって思ってる?」
「……どーだろーね。少なくともアラタと会えたのはよかったって思ってるけど」
「なっ!? ……それは、ありがとよ」
トウヤにとって友達と言える人物はあまり多くない。むしろ、少ないほうだった。
なぜか急に照れだしたアラタを不思議に思いつつも、トウヤがこの出会いに感謝しているのは本当だった。なんとなく、鬱陶しく思っても嫌いになれないし、何より今まで出会ってきた誰よりも一緒にいて落ち着くのだ。
もっと別の出会い方をしたかったな、と考えながら、トウヤはひとつ欠伸をした。
「……眠くなってきちゃった。話疲れたのかな」
「えっ」
次は自分の番と思って話す気満々で居たアラタは、そう言ったきりごろんと寝転がったトウヤへマジかこいつという視線を向ける。
「ね、寝ていい?」
「いや、いいけどさ……」
「アラタも眠くなったら寝ていいから。あ、金庫見て時間だけ教えてくれる?」
寝転がったまま、トウヤは欠伸をしつつそう言う。
その縦横無尽な傍若無人っぷりに絶句しつつも、アラタは立ち上がって金庫の中を見た。
「えーと、残りだいたい四十時間だな」
「わかった。ありがと」
トウヤは寝返りをうってアラタのほうを向くと、どこか甘えたように見てくる。
雪豹というよりかは、単なる猫に近いなとアラタは心の中で呟いた。
「じゃ、おやすみ。お昼ご飯の時間になったら起こしてね」
そして、トウヤは最後にそう言うと目蓋を閉じて寝息を立て始めた。
アラタは金庫のそばからトウヤの横へ戻ると、なんとなく背中を撫でる。小さな背中だな、と思いながら。
そこでふと、お昼の時間に今朝ちんこをぶっ叩かれて起こされた仕返しをしてやろうとアラタは思ったが、トウヤのちんこのサイズを見ると少しその気が失せた。
ちんこというよりかはおちんちんといったほうが近い大きさのものを叩くのは可哀想だと思ってしまったのだ。その時点で、アラタの負けだった。
思えば、アラタはトウヤのちんちんが勃起しているのを見たことが無い。金玉の大きさを見てみても、未成熟なのだろう。生えていないと言っていたが、見た感じその言葉どおりのようだった。
獣人の陰毛は他の毛と違って触ると少し硬いが、見た目にはそれほど差異はない。正確に判断するには鼠径部あたりを触る必要があったが、寝ている間であってもそんなことをしたら玉を潰されかねないと思ってやめた。なにせ、トウヤは他人の陰茎をぶっ叩くことに対して遠慮が無いようなデリカシーの無さも持ち合わせているのだ。
「すぅ……すぅ……」
そんなトウヤなのに、その寝息はどこかかわいらしい。
先ほどその口から語られたエピソードは確かに思っていたほどは長くなかったが、それでも重いことには変わりなかった。
顔も知らない母親に、子に興味が無い父親。例の小母ちゃんとやらが居なければ、トウヤは既にこの世に居ない。そう考えると、アラタはその小母ちゃんに感謝したくなった。
トウヤには何様だと殴られるかもしれないが、それでも、この子を生かしてくれてありがとうと、そう言いたい気持ちでいっぱいだった。
なんとなく、トウヤにハグをしたくなったがやめておいた。自らの身を守るためでもあったが、向こうからしてくるようになるまで、しないほうがいいと思った。
*
「おいトウヤ、起きろ。お昼ご飯だぞ」
「んぇ……?」
自らを揺り動かす、大きな手。トウヤが目を覚ますと、その視界には優しげな笑みを浮かべたアラタが居た。
「アラタ……」
ぽつりと、トウヤはその名を呟く。そしてまるで存在を確かめるかのように、トウヤは手を伸ばすとアラタの頬に触れた。
指先に伝わってくる、少しべとついた毛皮の感触。そして、温もり。
寝ぼけたようなトウヤの行動に対し、アラタが不思議そうな表情を浮かべた瞬間。トウヤの目の端から涙が溢れてきた。それを見たアラタが、明らかに狼狽える。
「お? と、トウヤ? どうしたんだ? 何かあったのか?」
「……ううん。違う。夢を見たの」
「夢?」
「うん」
ぐしぐしと手の甲で涙を拭い、トウヤは起き上がる。そのまま少しの間トウヤは泣き続けていたが、数分で収まってきた。
「……どんな夢を見たんだ?」
泣き止んだのを見計らって、アラタがそう言うと、目元を濡らしたトウヤは少し迷ったように視線を彷徨わせた。話そうか話すまいか逡巡しているのだなとアラタは思った。
時折洟をすすりつつ、トウヤはしばらくそのまま考えていたが、ふっと笑うとアラタへ悪戯な笑みを向けた。
「駄目、秘密。教えない」
「えー、いいじゃんか。教えてくれたって」
「やだね」
先ほど大粒の涙を流していたとは思えないほど、トウヤはあっけらかんとそう言って笑顔を浮かべ続ける。
言えるわけがなかった。夢の中で、アラタに置いていかれて、寂しくなっただなんて。けれど、起きたらアラタはちゃんと目の前に居て、それが嬉しくなって泣いてしまっただなんて。
「悔しかったら当ててみなよ」
「でももしそれで当てたとしても正解とは言ってくれないんだろ?」
「いぐざくとりぃ」
トウヤはそう軽く言う。そして、もうこれでこの話はおしまいと言わんばかりに話題を変えた。
「もう昼ご飯の時間だっけ。なんだった?」
「おにぎり。しかも昆布が大量だった」
「なにそのチョイスは……」
「オレに聞くなよ」
アラタもそれ以上涙と夢の話に突っ込むことはせず、素直にトウヤが変えた話題に乗った。
二人は立ち上がり、テーブル代わりにしている金庫のほうへ移動する。金庫の上に置いてある袋を覗きこみ、トウヤは驚いた表情を浮かべた。
「うわ、ほんとに昆布のおにぎりしかない」
「だろ? オレも今日の昼飯はなんだろうなと思って袋覗いたら昆布おにぎり六つだ。びっくりしたよ」
互いに苦笑しながら金庫を挟んで向かい合って座り、袋の中に手を突っ込んでおにぎりを手に取る。何も変わらないはずなのに、互いが互いに向ける表情が、初対面のときとは少しだけ違って見えた。
「じゃ、配分は僕五つでアラタ一つでいい?」
「なんでだよ。オレのほうが体大きいんだからオレのぶんもっと寄越せ」
「わかった。平等に僕が全部食べよう」
「一番不平等だよ。いいからとっとと寄越――っておい袋ごと持っていくな!」
「それが人に物を頼む態度かな~?」
「そもそもお前一人で五つとか六つとかおにぎり食えんの?」
「ううん無理。アラタ三つ食べて」
「はいはい」
一転、素直にそう言ったトウヤは、奪い取った袋の中から昆布おにぎりをすべて金庫の上へ出す。お茶は元から出されていた。
ぺりぺりとおにぎりを包むフィルムを剥がし、アラタはおにぎりへ齧り付く。昆布のおにぎりと聞いて想像するままの味だった。
「そういえば、アラタの身の上話聞かせてもらってないけど」
「いや、聞く前にトウヤが寝ちゃったんだろうが」
「じゃ今聞かせて」
「お前なぁ……」
おにぎりをもぐもぐ食んでいたトウヤは要望を投げかける。その突飛さにアラタは少し呆れ顔を浮かべたが、しかし、その突飛さに少し慣れはじめていた。
「おにぎり食いながらでいいのか? あんまり食事時にする話でもないと思うんだが」
「いいよ、別に」
「……あっそ」
そして諦めた顔を浮かべ、アラタは一旦入っていた茶で喉を潤すと、己の過去を話した。
[newpage]
「ついに一日切ったね」
「だな」
その翌日、つまり七日目。そして、最終日。
金庫の中に収められている爆弾らしきもの。そこについているパネルに表示されているカウントダウンが二十四時間以下になっていたのを見て、二人はそう呟くように言った。
二人は今、開いた金庫の扉の前で横並びになってしゃがみこんで中を覗きこんでいる。
これが本当に爆弾なのかはわからないままだったが、この数字が零になった瞬間に何かが起こることは間違いないだろう。もし本当に爆弾で、零になった瞬間爆発するのなら、下手に手緩くせず一発でしっかり殺してほしいとトウヤは思っていた。そんな中ふと、トウヤが右を向くと、アラタはどこか遠くを見るような目をしていた。
やはり、何か思うところがないわけではないのだろう。
どこか悟ったような、諦念のこもったその目を見ていると、トウヤの脳裏に昨日のアラタの話がなんとなく蘇ってきた。
*
昔、アラタは隣の県に住んでいた。アラタがトウヤとおなじこの県に住むようになったのは半年ほど前、幾度かの引っ越しを経てここまでやってきたのだった。
その幾度かの引っ越しの間に、アラタの名字はころころといくつも移り変わった。
始まりは去年の六月。ある日の昼下がりに、アラタの両親が交通事故で死んだ。アラタの母は買い物帰りに居眠り運転の軽自動車に撥ねられ、父は営業の外回り中に居眠り運転のトラックに突っ込まれた。それは、おなじ日のおなじ時刻のことだった。
学校でそのことを知ったとき、アラタは当然ショックを受けた。何も手につかなかったし、何かを考えることもできなかった。
まさか同時に違う場所で交通事故に遭うとは、と周囲もアラタを慰めることしかできなかった。ただただ不運としか言いようがなかった。
そして、そこから半月ほど経った頃。アラタは母方の伯母の家庭へ引き取られた。誰が引き取るかという親戚の話し合いで、真っ先に手を挙げたのがその伯母で、じゃあそういうことならとトントン拍子で決まったのだ。
元々アラタとその伯母の家族は仲良くしていたし、アラタの住んでいた家と伯母の家は近く、おなじ校区の中にあったため転校の必要もなかった。アラタとしても伯母に引き取られることを望んだ。
それに、たまにお泊まりに行くこともあったからある程度勝手もわかっていたし、アラタにとって従姉妹にあたる伯母の子供にも懐かれていた。伯母の夫も優しい人で、アラタを歓迎してくれた。そのため特にそこで何か一悶着が起こるようなことも無く、アラタは家族として伯母一家へ順調に馴染んでいった。
しかし、それから数ヶ月が経ったとき。その伯母一家もある日いきなり事故で亡くなった。
アラタが小五の宿泊学習へ泊まりで出かけていたときの夜。皆が寝静まった頃、家に雷が落ちたのだ。しかもそのとき運悪く、伯母の家でガス漏れが起こっていた。
漏れ出たガスが充満した家に雷が落ち、文字どおり全てが木っ端微塵になった。
連続で家族を喪ったアラタに対し、周囲は同情した。だが、次第に同情の声は違うものへとなっていった。
半年と経たず事故で家族を亡くしているのに、アラタだけは何事にも巻き込まれず五体満足で生きている。もしかしたら、アラタが災いを呼び込んでいるんじゃないのか――。
初めはそんな一人の生徒の軽口だった。だが、そんな子供の邪推を交えた冗談は瞬く間に真実となって皆へ広まり、事故から一週間もしないうちにアラタのあだ名は疫病神となった。そして当然、いじめの対象となった。
謂れのない悪口と暴力と拒絶。それらを連日浴びて疲弊しきったアラタを伯母一家の葬式会場で見たアラタの祖母は、血相を変えてアラタから事情を聞きだした。その口から細々と語られた顛末に義憤を覚えた祖母は、アラタを引き取ることに決めた。アラタの祖母は少し離れたところに住んでいたため、転校しなければならなかったのだが、それが救いになると思った。
そして、その選択は正解だった。
もうどうでもいいという投げやりな気持ちで、言われるがまま祖母の元へ引き取られたアラタだったが、祖母の元で過ごすうちに元の快活さを取り戻していった。
元々明るい性格だったアラタは転校先のクラスに馴染むのも早く、いじめとは無縁な生活に心が癒されていった。
だが、祖母に引き取られてから二ヶ月ほど経ったとき。世間がクリスマスで賑わい始めたちょうどその頃にその祖母も亡くなってしまった。純粋に、寿命だった。
そのときアラタは初めて心から泣いた。両親が死んでからそのときまでずっと泣く暇もなく、ショックを受け続けてきたからだった。
祖母が亡くなった後、アラタは祖母の妹の娘に引き取られた。
続柄としてはアラタの従妹違に当たる人で、そのときが初対面だったが、快くアラタを迎え入れてくれた。
その人は祖母と違う県に住んでいたため、アラタは初めて県をまたいだ引越しをした。このとき引っ越してきた県こそ、今アラタが住む県だった。
従妹違の人は未婚の一人暮らしで、竹を割ったようなさっぱりとした性格の人だった。会うなり早々、クリスマスプレゼントを買いに行くからとそこそこ大きなショッピングモールへ連れて行かれたことも、アラタの記憶に新しい。
そして、アラタが引き取られてから一ヶ月ほど経ったとき。新年が明けて少しした頃、その従妹違が結婚した。猪獣人だった。
しかし、その結婚相手は端からアラタ目当てで結婚していた。アラタの義父となったそいつは、少年愛者だった。
最初は手を出されることこそ無かったものの、同棲して半月も経つ頃には、アラタの体はそういう目的で弄くりまわされるようになり、一ヶ月経つ頃には無理矢理犯されるようになっていた。もちろん、アラタの義母である妻の目を盗んで。
苦痛だった。不快だった。やめてと抵抗しても、大人に力で敵うはずもなく、軽くではあったが殴られて結局犯された。会った当初は優しい人だと思っていたのに、裏切られたような気分になった。何より、無理矢理犯されているはずなのにしっかりと感じてしまう自分が嫌になった。
そして不運なことに、婚姻から二ヶ月が経つ頃、アラタの義母が死去した。平日の昼、家に一人で居るときに急性心不全を起こし、そのまま亡くなった。
それを聞いたとき、アラタは絶望した。当然、それを境に義父のアラタに対する行為はエスカレートしていったのだ。
どこかのホテルへ連れて行かれ、複数人から輪姦された。学校から家に帰ってきたら居た、見知らぬおっさんと一晩中寝室でまぐわらされたこともある。そのとき無理矢理乳首へ針を通されて開けられたピアス穴はふさがりはしたものの、未だに痕は残っていた。だが、さすがにアラタの義父としてもそれはやりすぎと思ったのか、それ以降、行為中は義父の監視がつくようになった。しかし、義父はあくまでも先ほどのようなかなり目立つ外傷をつけることを禁ずるだけで、アラタが犯されている最中首を絞められたり、複数人相手のとき一度に二本尻に性器を入れられて穴が軽く裂けたりしても、止めてはくれなかった。
そんなことが数ヶ月続いたある日。義父が死んだ。アラタはそのとき、初めて他人の死を心から喜んだ。
しかし、その義父はいつの間にかアラタの知らないところでアラタの知らない女性と婚姻を結んでいた。義父が死んで初めて知ったことだったが、当然、次のアラタの引き取り手はその女性となった。
一体どうして結婚していたのだろう。そう思いながら義父が結婚していた犬獣人女性が住んでいるという家に行ったとき、その女性が子持ちであり、そしてその子供がアラタとそう歳の変わらぬ少年であることを知った。
つまり、あのクソ野郎はアラタ以外にも食い物にしていた子供が居たのだ。
そのことに気付いたとき、アラタは言いようのない怒りに駆られた。その少年はアラタのように不特定多数の相手をさせられてはいなかったが、それでも例の義父の毒牙にかかっていることには変わりなかった。
おなじ被害者同士、この子のことは放っておけないと思い、アラタは新しくできたその義弟とよく話すようにした。最初こそ引っ込み思案なところが目立った義弟だったが、すぐにアラタに懐き、兄さんと呼び慕ってくれるようになった。
新しい義母はアラタを歓迎こそしなかったものの、邪険にすることもなかった。母として親切に世話を焼いてくれることはなかったが、とりあえず大人として面倒を見てくれはしたのだ。義母のほうもアラタの存在を知らなかったため、その対応は当然っちゃ当然といえた。
だが、何より、毎日ご飯が食べられて、暖かい布団で眠ることのできる環境がそのときのアラタにはありがたかった。それだけで幾分も救われた。
それから一ヶ月。アラタの肉親の死去から一年が経った頃、その義母が再婚した。
シングルマザーの結婚という単語にアラタとその義弟は警戒心を露わにしたものの、幸いその配偶者はまともな大人だった。とはいえアラタたちを目の上のたんこぶとは思っていたようで、優しくはされなかった。
だが、それでよかった。手を出され、犯されないだけで二人は安心した。
しかし、再婚から一週間もしないうちに、アラタの義母と義弟はこの世を去った。数台の車による大きな交通事故に巻き込まれたとのことだった。
残されたのはアラタと、アラタを目の上のたんこぶとして見ていた虎獣人の義父だけ。結局義父はその後すぐに再婚し、アラタにとって何人目かわからない義母ができた。
そのときの義父にとっては連れ子、そして義母に至っては連れ子の連れ子であるアラタは当然あまりいい扱いをされなかった。が、性的暴行を受けないだけでアラタにとっては満足だった。
けれど、虎獣人の義父にとってはその環境はストレスでしかなかった。やがて義父は他所に女を作って夜逃げし、兎獣人の義母はそんな義父を忘れるかのように獅子獣人の男と再婚した。
何人目かもわからない書類上の両親。名字の変わった回数はもう数えることさえ諦めた。現に今でもアラタは自分の名字を覚えていない。
兎獣人の義母と、獅子獣人の義父。そして狼獣人のトウヤ。当然そこに家族としての親密さはなく、アラタは徹頭徹尾邪魔者として扱われていた。
そんな折だった。アラタは誘拐されて、トウヤと出会った。
*
「……どーした、そんなに見つめてきて」
「ん?」
ふと気付くと、アラタを見ていたはずのトウヤはいつの間にかアラタに見られていた。少し考えに耽っているあいだ、トウヤから注がれる熱烈な視線にアラタが気付かないわけがなかった。
とはいえ、それで素直に「アラタのことを考えていた」と言うようなトウヤでもない。
いや、なんでも。と何事もなかったかのようにトウヤはアラタから視線を外した。明らかに何か隠しているようだったが、そこまで追求することでもないかとアラタもそこで引き下がった。
「そうか。なあトウヤ、最後一日。どう過ごす?」
「別に。いつもどおりでいいでしょ」
トウヤはいつもの冷めた表情でそう言う。先ほどとは一転して、朝ご飯はなにかな、そもそも来るのかな。なんてことを考えていた。
そんなトウヤに対し、アラタは少し真剣な表情を浮かべる。
おそらく、今日がトウヤと共に過ごせる最後の日。つまり、覚悟を決める日だった。
アラタは少し、トウヤとの距離を詰める。しゃがんだまま、足だけを動かして。
隣の少年が動く気配を感じて、一体どうしたのかとトウヤが顔を上げた瞬間、アラタは飛び掛るようにしてトウヤへ抱きついた。
ぎゅーっと、まるで自分の存在を擦り込むかのようにアラタはトウヤを抱き締める。
一気に激しくなる鼓動。毛皮の感触と、その向こうから伝わってくる肉体の感触。思わずトウヤが驚愕の表情を浮かべていると、アラタは耳元でぽつりと呟いた。
「なあ、トウヤ。キスしていいか」
「はぁっ!?」
いきなりの行動といきなりの言葉。
トウヤが青色の目を白黒させ、とりあえず腕の中から離れようとアラタの体を押しのけようとしたが、アラタは腕に力をこめてそれを許さなかった。それどころか、さらに強くトウヤへ抱きついてくる。しかし、あくまでもトウヤに痛い思いをさせないように手加減された力強さだった。
窓も無く、コンクリートに覆われてひんやりとした部屋の中。互いの体温と心拍が合わさって、二人の居るそこだけ気温が上がってゆく。
だが、トウヤはアラタに抱き締められていて嫌な気分にはならなかった。何せ、昨晩はそうして抱き合って眠ったのだ。
初めて一緒に寝た晩は絶対に嫌だったが、気付けばトウヤはアラタを自分の至近距離に居てもいい相手として認めていた。アラタ相手なら抱き合って眠ってもいいと思った。何より、アラタと触れ合っているととても落ち着けたのだ。
抱き締められたまま、トウヤはアラタのほうを見る。
白い狼獣人の少年は今どんな表情をしているのだろうか。それは一切わからなかったが、自分から言い出したくせに、きっと照れたような表情を浮かべているのだろうとトウヤは思った。
ふふっと微笑みながら、トウヤはアラタを抱き締め返す。
大きな背中だった。腕を回すのもやっとで、向こう側では指先が触れ合うのがやっとだった。
アラタの尻尾がばさりと揺れた音がした。
「……いいの? 嫌じゃない?」
「嫌じゃない。トウヤ相手だから、キスしたいって思った」
「なんでそう思ったの?」
「わかんねえ。なんとなくそう思ったんだ。オレ、多分トウヤのこと好きなんだと思う。むしろ、トウヤのほうこそ嫌じゃないのか?」
「嫌じゃない。別に、キスされても、それ以上のことをされてもいいって思ってる。……多分、僕もアラタのことは好きなんだと思う」
アラタの体がぴくりと震えた。まさか断られるばかりでなく、そんなことを言われるとは思っていなかったからだ。
だが、これがトウヤの本心だった。
アラタに対してだけは、全てを曝け出してもいいような、そんな思いを抱えていた。何しろ、既に己の過去も含めて互いにいろいろと曝け出しあった後だ。今更それが一つや二つ増えたところでトウヤは構わなかった。
これを好きというのかはわからなかったが、そんなことはどうでもよかった。そう言い表すのが、トウヤの中でも一番しっくり来たからだった。
どちらからともなく抱擁をやめ、二人は見つめあう。狼らしい琥珀の瞳と、雪豹らしい青色の瞳から発された視線が絡み合う。
「舌入れてもいいよ。そんなに巧くないだろうけど」
「馬鹿。小五のくせに巧かったら問題だろ」
そう言うと、アラタは少し寂しそうに笑う。だが、そんな笑みはすぐに引っ込み、いつものアラタの快活な笑みが戻ってきた。
「安心しろ。ちゃんとリードしてやるから」
「そう。期待してるね」
トウヤがそう言って目を瞑ると、アラタはその小さなマズルへ自分のマズルの先を近付けてゆく。
だんだん近づいてくる鼻息を感じながら、トウヤはアラタへ自らを委ねた。
最初に感じたのは、柔らかな感触だった。これがアラタの唇か、とトウヤが思った瞬間、アラタはマズルを少しだけ開き、舌を出した。誘われるかのようにトウヤも口を開け、アラタの舌を口内へ誘う。
互いに顔を少し斜めに傾け、がっぷりとマズルを組み合わせる。その中では、子供らしい小さな舌同士が音を立てて絡み合っていた。
巧くないといった言葉どおり、トウヤの舌遣いはたどたどしく、初々しかった。そんなトウヤの舌を、アラタは優しく包み、ねっとりと舐る。
いつの間にか、トウヤとアラタは恋人繋ぎにして互いの両手を握っていた。
マズルの端々から吐息が漏れ、時折ぽたりと胸にどちらともつかぬ銀の唾液が落ちる。
どちらからともなく口を離すと、熱の籠もった瞳で互いを見つめあった。
「どうだ? 初めてのキスは」
「……きもちよかった」
少し恥ずかしそうにトウヤがそう言うと、アラタはくくっと笑った。
「それはよかった。ちんこもびんびんだもんな」
「アラタだって。押し付けてきてるくせに」
「嫌か?」
「嫌じゃないけど」
「だろ?」
そう言ったアラタはトウヤの股座へ手を伸ばす。トウヤも拒否することなく、少し恥ずかしそうにしながらも、アラタの手を受け入れた。
*
それから十数時間。二人は互いにもたれかかりあって座りながら、開いた金庫の扉の中を見ていた。
カウントダウンは十分を切った。零に向けて刻一刻と減ってゆく数字を見ながら、二人は手を繋ぎ、呼吸を共にしている。
あれから結局、二人は今日一日をほとんど性行為と睡眠に費やした。トウヤにとっては一週間、アラタにとっては三日間の鬱憤を全て燃え上がらせるかのように、二人は互いを慰めあった。今日は一切食事の差し入れがなかったのもそれに拍車をかける要因だった。
きっとあいつらは逃げたのだろう、臆病者め。二人はそんな風に考えていた。
今更、二人は自分たちをここに連れてきた誘拐犯を恨むような気持ちは持っていなかった。だが、やはりもっと互いにもっと別の出会い方をしたかったと思っていた。
「ねぇ、アラタ」
「なんだ?」
「久しぶりにハグされた。嬉しかった。ありがとね」
「……オレも。トウヤに好きって言われて嬉しかった」
「そういえばさ、なんで僕のこと好きになったの?」
「ははっ、なんでだろうな。オレもわかんねぇや。……きっと好きっていうのはいろんなものに対するただの後付けなんだよ。つい目で追っちゃうとか、ついエロい目で見ちゃうとか、つい特別扱いをしちゃうとか。それになんでだろうって思ったときに、それはきっと好きだったからだってなるんだと思う。きっと、理屈じゃなくて、説明できるもんじゃないんだよ」
「アラタのくせに、変にかしこぶっちゃって」
「悪いかコラ」
「別に。頭はいいのに勿体ないなって思う。いろいろと」
「お前黙ってれば可愛いのに……」
「あん? やんのかこら」
「そういうとこだぞ」
呆れた表情を浮かべるアラタに対し、トウヤは心の中で「アラタの真似しただけなんだけどな」と呟こうとしたが、心の内に留め置いておいた。本人が気付いてなさそうだったからだ。
「なあ、もしここから出れたら何したい?」
「アラタのところに行きたい。一緒に逃げ出して、連れ子の義兄弟ってことで児童相談所に保護してもらおう」
「お前なんでそんなダイナミックな……。友達になるとかじゃ駄目なのか?」
「もう友達にはなったし、それ以上になりたい」
「……あっそ」
「ん? 照れてる?」
「別に!」
アラタは少し語気を強くすると、トウヤの手を握る力も少し強める。
はいはいとトウヤが苦笑いを浮かべると、アラタはふんと鼻を鳴らした。
「あと五分だね。ねえ、何が起こると思う?」
「二人とも死ぬか、あるいは警察に通報が行くか」
「この姿を警察に見られるのかぁ。アラタの精液まみれなんだけど」
「オレもだよ。さんざん搾り取られたわ」
「ちょっとおいしく感じるようになってきたよ」
「その手を上下に動かすジェスチャーやめろ。精根尽き果てるわ」
「ちぇっ」
「このエロガキがよ」
「アラタに目覚めさせられちゃった」
「責任転嫁するなエロガキ」
「アホガキがなんか言ってる」
「誰がアホだ」
そんな軽口を叩きあいながらも、なんだかんだ二人はカウントダウンの数字から目を離さない。離せない。
気付けば、残り一分を切った。一体何が起こるのかとどちらからともなく互いの手を握る力を強めたときだった。
「……なあ、なんか扉の外から物音聞こえねえか?」
「え? ……ほんとだ」
ふと、耳を澄ました二人の耳に、どたばたと誰かの足音が入ってくる。
この期に及んで何なんだろう。そう思った二人が同時に振り返ったとき。鍵が開く音がした。次いでこの部屋に唯一ある扉が開き、とある制服を着た熊獣人が現れた。
紺色の活動服。その上に着けられたベストにはSITという三つのアルファベットが刺繍されていた。
それを見た瞬間、トウヤとアラタは血相を変えた。警察だ。言わずともわかった。
そして熊獣人のほうも、見た瞬間二人が被害者だということがわかったのか、どこか優しい笑みを浮かべた。
「さあ、大丈夫だよ。君たちをここに連れて来た悪いやつらは――」
「おまわりさん! あれ!!」
「え?」
トウヤがそう言って金庫を指差した瞬間。
カウントが零になり、視界が白く染まった。
君と僕の最期の三日間 ~fin~
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