ただの鹿

  菜月は大学の友人と一緒に、地元で有名な山のハイキングコースを歩いていた。

  この後陽が落ちた後、山の中腹にあるキャンプ場でテントを建て、友人とキャンプをするのをモチベーションに菜月は登山をしていた。

  透き通るような雲ひとつない青空が広がり、木々の間から降り注ぐ木漏れ日が心地いい。いつもは室内で過ごすことが多い彼女だが、アウトドアも案外いいものだな、と思いながら山道に足を進める。

  「菜月、早く!ここの景色めっちゃ綺麗だよ!」

  先を歩く友達が振り返って手で菜月の事を招く。

  「待ってよー!」と笑いながら足を速める。小鳥のさえずりや風の音に包まれて、都会の喧騒を一瞬でも忘れられる瞬間だった………。

  「はぁ…!やっと追いついた!」

  と、顔をあげたがそこに友人の姿は無く、そこは木々が周りには生い茂り、昼なのにも関わらず暗い場所だった。

  「…あれ……?こんな場所…、え………、ここ…どこ…?」

  菜月は足を止め、辺りを見回した。さっきまで友達の声が聞こえていたのに、今は何も聞こえない。

  「ねえー!みかー!?まつりー!?」

  と、友人の名前を呼ぶが返事はない。

  菜月の胸に、じわじわと不安が広がる。見下ろすと、足元の道はいつの間に細い獣道に変わっていた。

  「なんで……ここ、さっきの道じゃ、…ない……?」

  背中に冷たい汗が流れる。道の先を進むべきか、引き返すべきか、とにかく戻ろうと菜月は思い、来た道を引き返す。

  しかし、戻った先にも見覚えのある風景はなく、やはり木々がどこまでも生い茂るだけだ。

  「どうなってるの……?」

  焦りがさらに募る。ポケットからスマホを取り出して友達に電話をかけようとしたが、画面の左上に表示されたのは「圏外」という2文字だった。

  「え…、どうしよう…、どうしよう………!」

  今にも泣きそうな声が震える。友達に連絡する術はなく、空は次第に茜色に染まり始めている。

  「お願い、誰か……!」

  必死に叫んでも森はただ静かに彼女を飲み込むだけだった。

  [newpage]

  時間は冬の17時半、菜月の足はとうに限界に達していた。

  お腹は空っぽで、体力も尽き果てている。とうとう足が止まり、両手を膝につけ半屈みの姿勢になった。

  「どうしてこんなことに……、やだよ……こんなの………。」

  声に力はなく、涙が頬を伝う。

  すると菜月の鼻をくすぐる甘い香りが漂ってきた。

  「……何…?この匂い……。、

  顔を上げると、すぐ近くに見たこともない果実が実をつけている木があった。それは艶やかで鮮やかな黄色をしており、どこか人工的な美しささえ感じさせた。

  「すごい…、なんだろうこれ…、でも…美味しそう……!」

  空腹に負け、菜月は果実に手を伸ばす。

  毒があったら、不安が頭をよぎるが、香りの甘さと空腹感がそれをかき消した。一つ果実をちぎり取ると、恐る恐る口に運ぶ。

  噛んだ瞬間、口いっぱいに広がる濃厚な甘み。

  それは言葉にならないほどの幸福感を彼女にもたらした。

  「わ………、美味しい……!」

  だがその直後、菜月の身体に異変が起き始めた…。

  [newpage]

  突然の異変が彼女を襲った。全身にビリビリと電流に近い痺れが走り、心臓がドクンドクンと異常な鼓動を刻み始める。

  「いやっ……!…な…、何…これ?!」

  はぁ、はぁ、と菜月は過呼吸を起こし始め、全身が急に熱くなり、肌の内側から何かが沸き上がるような感覚。

  菜月は恐怖と混乱で声を震わせた。

  「助けて……、誰か……!こんな所で死ぬのはいやだよ……」

  服が汗で張り付くのが気持ち悪く、菜月は着ていた服全てを地面に脱ぎ捨てた。

  季節は冬、あたりは夜に包まれ凍えるような寒さだったが、体の芯から熱が押し寄せてくるため菜月の汗は止まらなかった。

  「はぁ…!はぁ…!うっ…!いやああっ…!」

  と、菜月が声をあげると身体の痛みがだんだんと引いていった。

  「はぁ…!はぁ…?は、はぁ………。………な…、何だった…、の…?」

  だが「変化」が始まったのはそのすぐ直後だった。

  「……い゛やっ!?!?」

  また先程と同じように身体が暑くなりはじめた。

  だが次は違う、足もガクガクと震えはじめる。これは寒さによるものでは無く、身体全体がムズムズし始めた事により、菜月は身体の異変をより本格的に、鮮明に感じ始めた。

  身体に一瞬、針に刺されたようなツンとした痛みが走る。

  「きゃっ……!?あぁ……!あぁ!?」

  足元から菜月の身体の変化は始まった。

  足首が妙な方向に曲がり、関節の形が変わっていく。

  「いたい!!!何、なに…!これ……!?」

  細い足の骨がゴキゴキと軋むような音を立てて伸びていき、ふくらはぎがどんどん細く絞られていく。指先は縮み、いつしか固い蹄のようなものへと変わっていった。

  「まって………。やめて……、痛い………よぉ!!!」

  恐怖と混乱で泣き叫ぶ彼女は変化の止まらない自分の足を見つめる。茶色く短い毛が生え揃い、足は完全に別の生き物の足へと変わってしまった。

  「うっ………!?!?がっ………!」

  腰にも異常が現れる。急激に引き締まり、背骨がポキポキと音を立てて長く伸びていく。お尻の割れ目の上からは細い尻尾がニュルニュルと生え、軽く揺れた。

  腹部もじわじわと細長くなり始める。柔らかかった肉がどんどん硬く引き締まり、内臓が移動するような感覚が彼女を襲った。

  「う゛あ゛あっっっ!? あああ………、やだ………!!!」

  腹部が変わるにつれ、内側からポコポコと奇妙な音が響き、外見も次第に、その生き物へと近づいていく。

  女性器も茶色い毛に覆われていき、毛並みによる鼠径部だけを残し、その器官は見えなくなった。

  かつての女性らしい曲線は消え失せ、あの生き物特有の引き締まった体型が浮き彫りになっていった。

  「やめて……私、…人間!!!いやだ!!!」

  泣き叫ぶが、自分の声さえもどこか違って聞こえる。

  次に、腕が細くなり始めた。肩から肘にかけて肉が削げ落ちるように細くなり、手のひらも徐々に硬化していく。

  指が縮み、関節の可動域がなくなっていく様子はあまりに異様だった。

  「いや…!いや…!…まって………これって………!?」

  菜月は自分が何に変化しているのか自覚してきた。

  「いやだ……これ夢だよね……!?たすけて……!」

  首がスッと伸びていく。耳はじわじわと上に移動し始め、頭の上あたりまで来ると平べったく広がり毛に覆われていく。

  最後に顔だ。菜月は息を切らしながら、顔に手を触れた――しかしその瞬間、触れた感覚は、すでに人間のものではなかった。

  「あうっ!」

  鼻先から口元が前に伸びていき顔が細長く変形していくのを感じる。

  目の瞳孔は広がっていき真っ黒な眼球になると視界は広くなった。

  「あががっ…!あぁっ……………………。

  ……………、……はぁ………、はぁ…………。」

  気づくと痛みは収まっていた。

  長くなった首を後ろに向かって伸ばし、自分の身体を見る。

  「これ…………、わた…、し……………?」

  自分の姿を見て、菜月は絶句した。

  そこにいたのは、一匹の メス鹿 だった。

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  鹿の姿に変わり果てた菜月は、四肢をブルブルと産まれたての小鹿のように震わせながら立ち上がった。

  「こんな…、身体…?で…、どう、すれ、…ば………?」

  メス鹿の後ろには菜月という一人の人間の女性であった頃の衣服が散らかっていた。

  両足で地面を踏みつけるたび、全てが現実であることを突きつけられるようだ。

  自分が人間だったこと、友達とハイキングをしていたこと、それを思い出そうとするが焦りと混乱が邪魔をして思考は絡み合ったままだった。

  周囲の森はどこまでも広がり、どこが出口なのかも全くわからない。菜月は無意識のうちに森の中をうろつき始めた。

  (誰か…、私を見つけて……、お願い……、たすけて………)

  「ウ゛ァ゛ァ゛~」

  声を出したが、出てきたのは鹿特有の低い鳴き声だった。

  自分の今出した声に困惑し、鹿の目からは涙が頬につたっていた。

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  菜月はふと立ち止まり、頭を軽く振った。

  (なんで私は森の中を彷徨っているのだろう?)

  (…あ、そうだそうだ…。助け……?を呼ば…ない……と?)

  なんで助けが必要なんだろう、私は今一匹の野生の鹿なのに。

  野生…?私は………、あれ………?

  何か大切なことを思い出そうとしている、そんな感覚が鹿には芽生えた。

  (…あっ…、さっきの…ゆう…、なんだっけ…?にん…げん…)

  友人の名前を心の中で思い出そうとしたが、その言葉はすぐに消えていった。

  ゆうじん?…人間の顔がぼやけ、声も思い出せない。

  (……わた…し…?だれ…だっけ…。)

  自分どうして鹿になったのか、そもそも何故こんな山にいるのか、その理由さえもわからなくなり始めている。

  代わりに、心の中に新たな感情が芽生え始めた。

  「このにおい…………、どこから……」

  風に乗って運ばれてきた草の匂いに引き寄せられる。視線を上げると、木々の間から広がる草原が見えた。その光景に、胸が高鳴る。

  (………あ……、はしり………たい………。)

  その衝動が、彼女の中でどんどん膨れ上がっていく。

  友達の名前も、家族の顔も、自分の名前さえも、全てが薄れていく。代わりに、草原を駆け巡りたいという欲求や、仲間を見つけたいという衝動が彼女を支配していった。

  (わたしは……。にんげん……だった………、…っけ…?)

  (でも…、にんげん…こわい…………、いやだ……………)

  (はしり…たい………!とも…だち!みつける…みつける!)

  (ともだち……!とも…だち………!)

  人間の記憶は霧のように静かにゆっくりと消えていった。

  「…………、ゥギューーー!!!!!」

  元人間だったそのメス鹿は、ついに完全に本能に支配され、仲間を呼ぶ鳴き声を山の中に響かせる。

  鹿は蹄で地面を蹴り、草の匂いを嗅ぎ、陽が登り始めた草原へと走っていく。

  すでに彼女の中に人間だった記憶は一欠片も残っていない。

  朝日が木々を照らし出す中、鹿は森の奥深くへと駆け出していったのだった。

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  元人間だった鹿の友人のその後

  「ねぇ…、菜月の電話繋がった!?」

  「…ううん…、全然繋がらないよぉ…、菜月…どこ行ったの…」

  「菜月…………!」

  「…みかがあの時菜月を置いていったせいじゃん…!」

  「…え…。道は一本道だよ?菜月が迷うわけ…!てかまつりも菜月の近くにいれば良かったじゃん!」

  「だってみかがすぐ先行くんだもん!私は止まって、って言ったのに…!?」

  「はぁ…!?だって……………、」

  2人が口論を始めた途端、キャンプ場の奥の茂みからガサガサと音が聞こえた。

  2人がその方向を振り返るとそこには一匹のメス鹿がこちらを見ていた。

  ただの鹿は2人をしばらく見つめた後、森の方へ背を向け帰っていった。

  「え……、鹿……?なんでこの山に……?」

  「分からないよ…、でもなんだか凄く今の鹿あの子に似てた…、あの…なん…だっけ…?あの友達?の名前…。」

  「えっ……、友…達? あれ……、なんだっけ………。」

  「…そもそも私たち2人だけじゃなかった…?」

  「………うん!そうだよ!私とまつりでここに来たじゃん」

  「あーそっか……、なんかモヤモヤするけど…、2人だけだもんね最初から、私たち何言ってたんだろうね、さっきは、ごめんね。」

  「うん…、こちらこそごめん…、何の話してたんだろう…。

  まいっか…、テント建てる?」

  「うん、そうだね!テント片付けて下山しよう…!よーし、そうと決まったら…………、」

  と、2人が仲直りした頃、メス鹿は山中を彷徨っていた。