月は惹かれて

  [[rb:白浜深雪 > しらはまみゆき]]は身篭っていた。

  日に日に大きくなるお腹の中の我が子を愛おしく思いながらも、彼女の日々は目まぐるしい。重い体を起こして、仕事に向かう。

  深雪のそばには、支えてくれる家族も、彼女たちを愛してくれる夫もいなかった。

  お腹の中の我が子とたった二人で、深雪は厳しい日々を過ごしていた。

  

  寒々しい街頭に照らされた夜道を歩く。

  冬の風は身を切るように冷たい。

  お腹の中の子は大丈夫だろうか?震えていなければいいのだが。

  この前の検査で男の子だと判定された。

  でも、彼女にはもっと前から分かっていた。

  だって、とっても力強くお腹を蹴るのだもの。きっとこの子はわんぱくで、逞しい子になるに違いない。

  我が子の将来ほど、今の彼女にとって輝かしいものはなかった。

  だが、その輝きは深雪の道を照らしてはくれない。

  日に日に減っていく口座を見る度に、この先、生きていけるのか不安になる。医者には十分な栄養を摂るように言われているが、そんな余裕はない。まるで出口のない迷路の中にいるようだ。

  「それでも、お母さんなんだから」

  頑張ろう。

  たとえ、この子の顔を見れないとしても、必ず、この世に……。

  「あなたの名前、決めなくちゃね」

  どんな名前にしよう。

  名前は親が授ける初めての贈り物だ。

  とても、とても、素敵な名前がいい。

  「なかなか良い名前、思いつかないな。

  ごめんね。お母さん、頭悪いから」

  お腹を撫でる。

  深雪は歩き続けた。

  とても寒いけれど、とても美しい夜だった。

  ―――そして、彼女は出会ったのだ。

  「あぁ、あなたにも見てほしい」

  思わず感嘆するほど、それは深雪の心を震わせた。

  もし二人とも無事に生きられたのなら、必ずここに一緒に来よう。

  そして、教えるのだ。

  「あなたの名前に込めた思いを」

  [newpage]

  校庭の外縁に沿うようにして植えられた桜の木々だけが、この学校で唯一気に入っている。

  風が吹き、鮮やかな[[rb:淡紅色 > たんこうしょく]]の花弁は吹雪のように舞い上がる。揺れる枝葉は我が子を見送る母のように慈愛に満ちていた。

  [[rb:白浜雅 > しらはまみやび]]は不快な現状から目を逸らすように、窓から見えるその景色を見詰めていた。

  窓に映るのは眼光の鋭い竜人。それも高校一年生とは思えないほど大柄で、悪魔を連想させるような黒鱗の竜人だ。

  彼は自分の席で頬杖をつきながら、教室の喧騒に舌打ちする。

  入る学校を間違えた。そんな思いが雅の頭の中を巡る。

  雅が通う高校は東京でも指折りの進学校だ。それこそ国内で最も頭のいい大学に進学する生徒もいる程の生粋の進学校。

  ゆえに周りにいるのは勉強ができる、いや、雅からすれば『勉強しか』できないガリ勉ばかり。

  「あの……白浜くん」

  白い毛並みの狼獣人が話しかける。巨躯の雅が殴れば吹き飛びそうな痩身。眼鏡をかけ、学ランのボタンを首元まできっちり留めている。いかにも優等生然とした格好だ。ヒゲがヒクヒクと揺れるのは緊張からだろう。

  「入部届け、出してくれないかな……。一応この学校、全員部活に入らなくちゃいけない決まりだから」

  雅と目を合わせないよう俯きながら話す狼も不快だが、もっと不快な相手がいた。

  「クラス委員だからってあんな不良と話さなくちゃいけないとか、大神くんマジかわいそう」

  「それな。俺だったら無理だわ」

  「不良は不良らしく、底辺の学校行っとけよ」

  雅がこの学校に来て最初に学んだこと、それは学力とプライドは比例するということだ。学力という唯一のアイデンティティを、雅のような不良に奪われるのが彼らには我慢ならないらしい。クラスメイトのほとんどが雅に敵意を抱いていた。

  そして彼らの敵意に雅もまた敵意を募らせる。互いの溝は深まるばかりだ。

  敵意を剥き出しにした目で彼らを睨み付ける。雅の睨み殺すような目付きに、彼らは不満げな顔をしながらも押し黙った。

  「クズが……」

  これまでどちらかが手を出すような事態になったことはないが、それも時間の問題だった。

  「ねぇ、白浜くん……」

  その声に雅はもう一度目の前の狼に意識を向けた。

  「どこでもいいからさ、入部届け書いてくれないかな?もし決まってないのなら僕と同じじゅう」

  バンッ、と破裂音のような大きな音が教室の空気を叩く。教室に溢れていた喧騒は消え去り、水を打ったように静まり返った。

  薄氷の上に立っているような緊迫が教室を支配する。

  音のした方へ目を向ければ、黒曜石のような鱗に覆われた拳が机に強く打ち付けられていた。その威力たるや打ちつけられた箇所がへこむ程だった。

  「失せろ……!」

  ドラゴンが炎の息を吐くように、黒竜は拒絶の言葉を吐き出した。

  これ以上、俺の領域に立ち入るな、と。

  「ご、ごめん……」

  狼獣人はそう言って去っていく。

  雅は忌々しげに顔を歪めながらも、心を落ち着かせようと窓の外に顔を向ける。

  そしてまた、違う学校に行けばよかった、と後悔を繰り返すのだった。

  キーンコーンカーンコーン。

  六限の終わりを告げる鐘が鳴る。

  雅はガタンと音をたてて立ち上がると、教師が出るより早く、自分の鞄を持って教室を出た。この後、本来なら担任が教室にやって来て帰りのホームルームをするのだが、雅にしてみればどうでもいいことだった。教師の不満も、クラスメイトからの冷ややかな視線も、雅にとっては羽虫と同等の取るに足らないことなのだ。

  まだ誰もいない校門を通り抜け、五分もすれば下校する生徒で賑わうであろう道を一人で歩く。

  コツコツコツコツと、コンクリートを叩く雅の足音だけが[[rb:空 > むな]]しく響いていた。

  黒く塗られた天井に、小さな照明が点々と吊るされている。広い空間に対して照明は少なく、その光は弱かった。そこにあるものが静止していれば、洞窟のように静かで暗い場所になっていただろう。

  しかし、今は違う。

  常に極彩色の人工光が飛び交い、大音量のサウンドが鳴り響く。時折、ジャラジャラと勢いよく硬貨が流れ落ちる音がする。

  雅は学校から歩いて十五分の位置にあるゲームセンターに来ていた。

  カウンターの隣にある両替機に似た機械にカードを入れ、黙々と機械の液晶画面を操作する。するとジャラジャラとメダルが流れ出しカップに貯まっていく。カップに貯まったメダルはピッタリ百枚、お金に換算すると約七百円程だ。

  あまり財布に余裕のない雅は、勝てばいくらでも遊び続けられるメダルゲームを好んでやっていた。

  ちなみに、中学生の頃からゲームセンターに通い、勝ち続けた雅のメダルバンクには現在十万枚以上のメダルが貯まっている。

  カップを片手に店内を回り台を見定める。今日はいつもより高校生、それもガラの悪そうなやつらが多かった。

  彼らを避けつつ良さげな台に座る。あとはメダルを投入し続ける単純作業だ。投入口に入れたコインはレールを転がって一面銀色のプレートに落ち、無数に散在するコインのひとつになる。その様子を雅は退屈そうに眺めていた。

  コインを投入口に入れ続けて十分ほど経った時、雅は背後に人の気配を感じていた。先程見たガラの悪い高校生ではない。興味を抑えきれずチラっと向けてしまう視線やコソコソと話す高めの声は幼さゆえだった。

  雅は振り向くことなくコインを投入し続けた。

  無視し始めてこれまた十分、先に痺れを切らしたのは彼らだった。

  「あの!ちょっといいですか!」

  緊張で固くなった声が真後ろからしたので、雅は嫌々ながらも振り向いた。

  高学年くらいの小学生二人が緊張で毛を逆立てながらこちらを見詰めていた。話しかけたのは赤毛の犬の方だろう。口をパクパクさせながら次の言葉を探していた。

  「え、えっとぉ、おれたちメダルゲームはじめてで、お、お兄さん上手そうだったから教えてほしいなって!」

  犬の後ろに立っているトカゲ獣人を見る。犬とは反対に口をギュッと閉じている。雅にじぃっと見られて後ずさりした彼がもつボックス型のケースには、おそらく一万円分はあろう大量のメダルがどっさり詰まっていた。

  それを見て雅は舌打ちした。

  「断る。そのメダル、せいぜい無意味に使い捨てるんだな」

  雅はそう吐き捨てて、作業に戻ろうとした。

  「お、お願いだよぉ。そうだ!教えてくれたらお兄さんにメダルあげるから。だから教えてよ!」

  雅は自分が彼らくらいの頃を思いだした。

  あの頃は彼らのように、世間は善意で満ちていて頼めば願いは受け入れられると思っていた。

  しかし、現実は違う。願いは打ち捨てられ、代わりに不条理が幅を利かせる。思い描いていたよりずっと醜くて意地の悪い世界が広がっているのだ。

  「いい加減失せろ!」

  胸の奥底から込み上げる激情のまま、雅は彼らに拒絶の言葉を吐き捨てた。

  去っていく二人の背を雅は視界の端に捉えていた。怖くて泣いてしまったトカゲの子を、なんとか涙をこらえた犬の子が慰めながら、ゆっくりと雅から離れていく。

  これが自分の行動の結果なのに、どうしようもなく心を掻き乱される。

  「チッ……」

  舌打ちで蟠りを少しでも発散しようとしたが、心は少しも軽くならなかった。

  「おいおい、『二中のドクリュウ』は小学生のガキにも容赦なしか!どんだけ器ちっせーんだよ」

  吐き捨てられたガムのように粘着質で汚らしい声が鼓膜を侵す。不愉快極まりない声に先程までの感傷は掻き消えた。

  そして、代わりに体を支配するのは闘争への緊張。理性のタガが緩み、本能が心臓にムチを打つ。

  「ケンカを売りにきたのか」

  射殺しかねない程の眼力でやって来た不良たちを睨む。鱗に覆われた竜人の顔は元々厳つく見えるものだが、今の雅は鬼の如き形相をしていた。

  「いやぁ、別に。

  あのドクリュウが進学校に入ったって聞いたからどんなツラしてんのかって思ったら……。

  まさか、ガキ相手にイキってんだからな落ちたもんだよな!あ、そうだ。ガリ勉どもにスカしたイキリ方を教えてもらえよ、せっかく進学校にいんだからさ!」

  外れかけたタガをギリギリで保つ。心臓は興奮のままに脈動し、全身に熱血の激流を巡らしていた。

  「外に出ろ。全員、ぶっ殺してやる」

  雅は立ち上がると、振り向きもせずに言い捨てた。そのままゲームセンターを出る。背後にニタニタと嗤うクズどもを引き連れながら。

  やって来たのは路地の奥。太陽すら見捨てた都会の[[rb:陰 > かげ]]は、まさに掃き溜めであった。

  散らばったタバコの吸殻、黒ずんだ室外機、いつまでも残り続ける水溜まり。人の目が届かない場所は取り繕うことをやめ、堕落した醜悪な姿を晒す。

  そして、それは人も変わらない。

  世間から見捨てられた者たちは、自ずと掃き溜めに集まってくるものだ。

  雅は学ランを脱いで荷物と共に室外機に置くと、背後を振り返った。

  そこには下衆な笑みを浮かべた高校生が四人、袋小路に蓋をするように立っている。内面は外見に表れるというがまさにその通りで、腰パンにピアス、毛を染めている者もいる。連中が世間の爪弾き者なのは一目で分かった。

  「ほら、着いてきたやったぞ」

  「殺せるもんなら、殺してみろや!」

  ギャハハハハと下品な笑い声を上げる彼らを、雅は心底軽蔑した目で見下していた。

  「群れなければ何も出来ないくせにイキるなよ、雑魚どもが」

  雅の一言が相当気に触ったのだろう。先程までの軽薄さはなりを潜め、代わりにふつふつと怒りが沸き上がる。

  「ほんの少し前まで中坊だった奴が調子乗ってんじゃねぇよ!」

  一人が足早に近づくと大きく腕を振りかぶって雅の頬を殴りつけた。

  ――しかし

  「なっ……!」

  「死ね」

  硬い鱗に包まれた竜に、それは赤子のパンチ同然だった。

  そして、竜は相手が赤子同然だろうと容赦はしない。赤子の腕を捻る――いや、赤子の腕をへし折るかのように、その豪腕を振りかぶる。

  「や、やめ」

  相手が制止するのも聞かず、雅はその豪腕を振り抜く。杭打ち機の如く撃ち放たれた鉄拳は、相手の右頬を捉えゴム毬のようにぶっ飛ばした。

  「う、うそだろ……」

  呆然とする不良たちに近づく黒い竜。竜は一番近くにいたチーターの腕を引き寄せ、向かってきた顔面に拳を打ち付ける。鼻血を撒き散らしながら倒れるチーター。そこに我に返った鰐獣人が殴りかかる。が、それを雅は捌き、みぞおちに肘鉄を一撃。内蔵に届く一撃に、鰐は体を折って倒れ込んだ。

  「ご、ごめんなさい……!ごめんなさいごめんなさいごめんなさい」

  チーターは鼻血を流しながら昏倒し、鰐は体を丸め呻き声を上げ続ける。そして最後の一人は、雅から逃れようと壁に身を押し付けながら、狂ったように謝罪を繰り返した。

  雅はゆっくりと彼に近づく。

  そして――

  「許すわけないだろ」

  そう呟きながら鷲掴みにした頭を容赦なく、壁に叩きつけた。

  硬いものが砕けるような、鈍い音が響く。

  最後の一人は額からタラりと血を流しながら、ズルズルと地面に倒れ込んだ。

  雅は倒れた四人を見下ろし、ただ鬱陶しげに舌打ちした。

  高い建物に囲まれた路地裏に、勝者を照らす太陽は無い。汚れたコンクリートの谷底で、雅は勝利の余韻に浸ることなく、つまらなそうに空を見上げた。

  汚れた場所から空を見上げると、その透き通った蒼さが際立つ。建物の隙間から覗く輝くような青空を、二羽の鳥が軽やかに飛び越えた。

  「……クソ」

  あての無い罵倒が裏路地の濁った空気に溶けていく。何のしがらみもなく、自由に空を飛ぶ鳥が羨ましかった。

  空から視線を戻すと、目の前にあるのはどうしようもない現実だ。

  「よくもオレの手下を可愛がってくれた。お礼をしなくちゃぁな?」

  先頭に立った巨体のライオン獣人の重くのしかかるような声に、雅は僅かに顔を歪めた。ライオン獣人の後ろには十人以上の獣人が控えている。さっきの不良たちが雅に喧嘩を売る前に連絡していたのか、それとも意識のあった者が助けを求めたのか。到着したタイミングからおそらく前者だろうが、今の雅には些細なことだった。

  「先に手を出したのはコイツらだ。馬鹿丸出しの言いがかりしてんじゃねぇ」

  雅は唸った。

  「どっちが先かなんて関係ねぇ。大事なのはコイツらがお前に負けたって結果。

  そして、お前がオレの顔に泥を塗ったっていう事実だけだ」

  獅子はそう言って雅の言い分をねじ伏せた。

  にじり寄る獅子。雅の背中に冷たい汗が流れる。獅子だけなら互角の喧嘩ができただろう。しかし、1対10では勝ち目はない。逃げようにも袋小路に追い詰められた状況では、それも不可能だ。

  それでも

  「馬鹿が。んなこと知らねぇんだよ!」

  怒気の満ちる咆哮と共に、雅は一歩前へ踏み出した。

  

  口の中に血と水溜まりの味がする。頬に触れるコンクリートは冷たくて、視界には雅を見下す彼らの足が並んでいる。

  彼らは雅を見下ろしながら、何か言っている。聴覚は正常でも情報を処理する脳が上手くはたらかず、その意味が理解できなかった。

  獅子が近づいてきて、容赦なく雅の頭を踏みつける。グリグリと踏み付けられると、靴裏の凹凸や付着した砂利が肌にくい込んで痛かった。雅が声を上げる度に、蚊の羽音のような忌々しい笑い声がする。

  ……あぁ、惨めだ。

  いつもいつも、身にかかる火の粉を払おうとしているだけなのに。

  どうして負ける度に、嬲られなければいけないのか。

  体の熱は水溜まりに消されて、今はとても寒かった。

  「そこまでです」

  凛と響く、毅然とした声。

  罵倒でも嘲笑でもない、雅を助ける言葉が聞こえた。

  誰もが、声のした方へ目を向ける。

  そこにはきっちりと制服を着こなし、眼鏡をかけた、いかにも優等生然とした白い狼獣人が立っていた。

  「お前、誰だよ」

  「白浜くんのクラスメイトです」

  彼は不良の威圧感のある問いかけに怯えることなく堂々と答えた。

  そして、雅を踏み付けている獅子の元まで躊躇うことなく歩み寄る。

  「その足を退けてください」

  獅子の取り巻きに睨め付けられながら、狼は獅子を真正面から見据えてそう言った。

  「嫌だっつったらどうする」

  「……力ずくです」

  手を伸ばせば掴める距離で、両者睨み合う。

  ――先に仕掛けたのは狼だった。

  蛇が獲物に襲いかかるように、胸元と腕を掴む。そして獅子に背を向けるようにして半転。回転の勢いそのままに獅子の足を鋭く払う。

  体勢を崩す獅子。

  狼はその一瞬を逃さない。グイッと腕を引き、渾身の力を込めて獅子を地面に投げつけた!

  背中を強打した獅子はガハッと息をもらし、白目を剥いて気絶した。

  まさかまさかの大番狂わせに、その場の誰もが声を失った。雅も獅子の取り巻きも、白い狼の強さに度肝を抜かれていた。

  「さ、この人を連れて帰ってください」

  狼の声に弾かれたように取り巻きたちは動き出し、泡を吹く獅子を抱えて一目散に逃げていった。

  「……ふぅー」

  息を吐くと共に先程までの緊張感が消え失せる。そこにいるのはいつも教室で見る、優等生のクラス委員長だった。

  「大丈夫、白浜くん?」

  柔和な笑顔を浮かべ、地面に伏したままの雅に手を差し伸べる。

  しかし雅はその手を払い除け、痛みに耐えながら自力で立ち上がった。

  「見下してんじゃねぇ」

  「ごめんごめん」

  朝と同じ謝罪の言葉。けれど今のは謝るというより、困った人だな、という労りの滲む言葉だった。

  「けっこう痛そうだったけど、元気みたいで何よりだよ」

  [[rb:大神希月 > おおかみきづき]]の言葉に雅が今日一番の舌打ちで返すのを、昼間の空に浮かぶ満月だけがそっと見守っていた。

  [newpage]

  今日も変わらず学校からの解放を告げる鐘の音が鳴る。

  その音とともに雅は腰を上げ、いつも通り教室を去ろうとして。

  「ちょっと、待って待って!」

  後ろから伸びた白い手が雅の真っ黒な腕を掴んだ。

  「なに掴んでんだよ」

  「ちょっと白浜くんに話があって。お願いだから少し残ってくれない?」

  希月を睨みながら雅は逡巡する。いつもの雅であれば躊躇いなくその腕を振りほどいて教室を後にしていただろう。

  しかし、こうして留まっている理由は……ただ単に昨日怪我した所を掴まれて痛かったから、だった。

  背中に冷や汗が流れるほどの激痛を現在進行形で味わっている雅だが、そんな様子はおくびにもださない。

  無遠慮に傷口に触った希月への怒りより、痛みに耐えた自分への賞賛の方が少しだけ勝った。

  「……少しだけだ」

  雅の返事に希月の顔はパッと明るくなり「ありがとう!」と言って自分の席に戻った。

  雅も自分の席に戻る。窓際の列の一番後ろの席だ。前の席のチーターがチラリとこちらを見たが、雅と目が合うと慌てて目を逸らした。

  少しして担任の教師が教室に入ってきた。雅がいることに気付いて一瞬目を見開いたが、すぐに切り替えて連絡事項を話し始める。

  ホームルームが終わると前の席のチーターは弾丸のように教室から飛び出していった。

  「さすが陸上部。まさにロケットスタートだ」

  希月は「ちょっと失礼」と言って、さっきまでチーターが座っていた席に座った。

  「昨日の怪我、大丈夫?」

  さっきお前に掴まれて悪化したよ、と言いたい気持ちを引っ込めて「お陰様で」とだけ返答した。もちろん、純度100パーセントの皮肉だ。

  「……なんか悪意を感じる」

  ふむ、皮肉の[[rb:味 > 意味]]が分かるくらいには[[rb:舌 > 頭]]は良いらしい。

  ムッと頬を膨らませた希月をよそ目に、雅は足を机に乗せ腕を組む。

  「で、話って何だ。とっとと話せ」

  明らかに見下した態度だが、希月は気にすることなく本題に入った。

  「昨日の続きなんだけど、白浜くんにも部活に入ってもらわないといけなくて」

  またかよ、と雅は舌打ちした。目の前の狼から幾度とされた話だ。もっとも、その[[rb:悉 > ことごと]]くを無視し続けてきたのだが。

  「お断りだ。お前らみたいなクソどもと関わるくらいなら死んだ方がマシだ」

  「そこまで言うとは……」

  希月は雅の物言いに気圧されながらも話を続ける。

  「白浜くんが部活に入りたくないのは分かったよ。でも生徒は必ず部活に入るっていう校則なんだ。一人だけ特別、という訳にはいかないよ」

  雅は退屈そうに欠伸すると、窓の外に目を向けた。

  「興味ある部活とかないの?」

  「ない」

  「演芸部とかどうかな?重い荷物を運ばなくちゃいけないんだけど、部員が女の子ばっかりで困ってるんだって」

  「いい気味だ」

  取り付く島もない雅に、希月ははぁ、とため息を吐いた。

  そして次に、希月はとんでもないことを口にした。

  「じゃあ、仕方ない。柔道部で決定ね」

  「…………は?」

  何が決まったというのだ。まさか所属する部活が決まった、ということか?

  「白浜くん、身体大きいし柔道やったら強いと思うんだよね。だからさ、一緒に柔道やろうよ」

  困惑しながらも「一緒に」という言葉が一瞬引っかかった。が、そんなことはどうでもいい。

  雅は足を机から下ろすと、希月に食ってかかった。

  「なに勝手なこと言ってんだよ。お前に俺のことを決める権利なんてないだろうが!」

  「確かにそうだけど、白浜くんは僕が何度話をしても部活を決めなかった。自分で決める機会はたくさんあったのに、それを捨てたのは白浜くんだよ」

  諭すように希月は努めて優しく言った。それが雅には気に食わない。

  机を蹴り倒して教室から出ていってやろう、とも思ったが、それは希月の正論に負けたようで癪だ。

  雅は立ち上がると、固く握った拳を思いっきり机に投げ下ろした。バキッと木が割れるような音がした。

  「偽善者ぶってんじゃねぇぞ。俺はお前みたいな優等生ズラしてご高説垂れてくるヤツが、ぶっ殺したいくらい嫌いなんだよ!」

  半分は本心で、もう半分は打算だった。こうして脅せば昨日のように怯えて逃げるだろうと思っていた。

  しかし、目の前の白狼は眉をピクリと動かしただけで 、その表情に怯えた様子は欠片もなかった。

  「白浜くんに僕は殺せないよ。だって」

  君は僕より弱いから。

  そう言って希月は席を立った。

  雅を睨む白狼は、まるで別人のようだった。

  今まで雅が殴り倒してきたチンピラたちとはまるで違う。壮年の武人のように冷たい闘志を纏っている。

  今度は雅が気圧される番だった。しかしそれを悟らせてなるものか、と唾を呑み込むことを必死に耐えた。

  「俺はお前らみたいなクソどもとは、死んでも関わらない」

  「なら、無理やり連れていく」

  希月はメガネを外し机に置くと、素早く雅の胸元と制服の袖を掴んだ。掴んだ手を引いたと思ったら、逆に殴りつけるように強く胸を押した。たたらを踏んだ雅の足を払い、気付けば雅は地面に叩き付けられていた。

  激痛が全身を駆け巡る。

  ぐっ!と苦悶の声をこぼす雅だが、希月は追撃の手を緩めない。倒れた雅の体を足で抑え、腕で首を締め上げた。体格に差があるというのに、いくらもがいても逃れることが出来ない。それほどまでに希月の絞め技は完璧だった。

  「……かはっ!」

  酸素不足で手放しそうになる意識の中、溺れるような荒い呼吸音と、僅かに香るレモンのような汗の匂いだけが雅の脳裏にこびり付いた。

  暗闇の中、地面がドスン、ドスンと揺れている。巨人が手のひらで地面を叩いているような振動だ。

  次に感じたのは[[rb:黴 > かび]]の匂い。そして指先に感じるとても細かな凹凸は繊維によるもの。つまり畳の感触だと分かった瞬間――自分の現状を理解してマグマのような怒りが込み上げた。

  「おい!あのクソオオカミはどこだ!!」

  目を開くとそこは予想通り学校の柔道場で、雅はその隅にいた。

  白い道着に身を包んだ獣人たちが見てくるが、構わず雅は怒鳴り続ける。

  「ざっけんなよクソオオカミ!

  おい!この手錠なんだよ!」

  体の後ろに回された手には手錠が嵌められ、足枷には重りが付いていた。しかも手錠や重りは雑貨屋で売っているようなおもちゃではなく、警察が使うような頑丈な作りのものだった。

  「ごめんごめん。でもそうしなきゃ白浜くん帰っちゃうと思って」

  そばにやってきた希月はしゃがみこんで雅と目を合わせた。メガネを外し、白い道着を着こなす姿が思いのほか様になっていたので、一瞬目の前の人物が誰だか分からなかった。

  「でもそれ、凄いんだよ。日本じゃ警察が使ってる手錠は市場に出回らないから、わざわざアメリカから取り寄せたんだ。やっぱり、本物は違うよね」

  昨日頼んだけど間に合ってよかったよ、と希月はのんきに話した。

  「外せ」

  「部活が終わったら外すよ。だからそれまでは練習見学してね」

  朗らかに言い放ち希月は練習に戻って行く。

  練習が再開されると、再び道場には振動が響き始めた。

  「……チッ」

  しばらく手錠や足枷をガチャガチャといじってみたが壊せそうにない。希月が言った通り、本当に警察が使っているものを取り寄せたのだろう。

  「……クソボンボンが」

  雅は誰にも聞こえないくらいの声で呟いた。

  大神希月は大神財閥の御曹司である。大神財閥の影響力は凄まじく、大神財閥なしに日本人の生活は成り立たないと言われるほどだ。

  朝はライフ・オブ・オオカミ製の歯ブラシで歯を磨き、移動には大神製作所で作られた電車に乗る。帰る家はもしかしたら大神コーポレーションによって建てられたものかもしれない。これらはほんの一例に過ぎず、生活のありとあらゆる箇所を大神財閥が支えているのだ。

  雅には想像もつかない程の大金持ち、まさに雲の上の存在。アメリカから手錠を買いつけるなんて、朝飯前という訳だ。

  そんな財閥の御曹司が同じ学校、それも同じクラスにいるのだ。クラスメイトの名前を誰一人覚えていない雅だが、希月の話だけは否応なしに耳に入っていた。

  大神希月という人物はそれほど大きな存在なのだ。

  目線を上げればちょうど件の狼が見えた。赤茶色の毛並みの犬獣人と組み合っている。犬獣人が片足を振り子のように振る。何度か繰り返した後、前に振り出した足を希月の足にかけて投げた。

  起き上がると次は希月の番だ。犬獣人相手に先程と同じ動きを繰り返す。

  しかし、その実力は圧倒的に希月の方が上だった。技を掛ける時の鋭さや気迫は、気を抜けばそのまま投げられるのではと錯覚させられるほどだ。

  そして何より特筆すべきは動きの滑らかさ。

  まるで大河のように淀みない動きは、柔道のことを何も知らない雅の目から見ても見事だった。何千何万と同じ動作を繰り返して初めてできる動きだ。

  希月は投げた相手の手を取り、立ち上がらせる。二人で何か話していたが、遠くて何も聞こえなかった。

  雅は結局、日が沈むまでむさ苦しい練習風景を見させられた。しかし、雅の頭には道場の汗臭さと、窓から差す西日の眩しさだけが不快な記憶として残った。

  チャイムが鳴ると一年一組の教室から二つの影が躍り出た。

  一つは黒、もう一つは白。

  黒い影はその巨体に見合わない駿足で廊下を駆ける。校則に微塵も配慮しない思い切りの良い走りは賞賛ものだ。

  もう一つの影がなければ、だが。

  黒い影を追いかける白い影。黒い影より小柄なため歩幅では敵わないが、足の回転は圧倒的に勝っていた。

  徐々に縮まる距離。腕二つ分の距離になった瞬間、白い影は黒い影に飛びかかった。もつれるようにして二つの影が一つになる。

  「ってぇな!危ねぇだろうがクソオオカミ!」

  ガッチリと技を決められた雅に唯一できるのは、頭のおかしい狼に吠えることだけだ。

  「でも白浜くん丈夫だし!」

  衝突事故を起こしながらも寝技を決めるという離れ業を披露した希月は雅の言を一蹴した。

  「ば、ばかなのか、おまえ……」

  お決まりとなったチョークスリーパーを掛けると雅はたちまち失神した。

  「ふぅー、今日も捕まえたぞー」

  希月は大物を仕留めた猟師のように、達成感たっぷりの笑顔を浮かべた。足元で倒れているのは、紛れもない彼と同じ獣人だが。

  「希月!」

  振り向くと同じ部活の[[rb:犬井陽斗 > いぬいはると]]がいた。体格の近いため練習では犬井とペアになることが多かった。

  「おつかれ。これから部活いく?」

  うん、と頷く犬井。

  「ところで今日もやってたの?」

  「うん。バッチリ仕留めたよ!」

  表現が先程より物騒になっているが、犬井は指摘しなかった。

  「運ぶの手伝う?」

  「いや、大丈夫。あ、でも僕らの荷物、教室に置きっぱだから持ってきて貰っていい?」

  「分かった」

  犬井の了承を聞くと、希月は雅の両足をそれぞれ両脇に抱えた。

  「それじゃ、よろしくね」

  そう言って、希月はズルズルと体を廊下に擦りつけながら白目を剥いた獲物を引きずって行った。

  希月が雅を部活に[[rb:誘う > 連行する]]ようになって一週間。生徒たちはこの恒例の運搬作業を『大神奉行の校内引き回しの刑』と呼んでいる。

  「はぁ、嫌だな……」

  これから始まる部活の空気を想像して、犬井は一人ため息を吐いた。

  雅は柔道場の隅に座っていた。気合のこもった掛け声にも、投げ技による振動にも微動打にしない。じっと佇むその姿は、道端にあるお地蔵様のようだった。しかし、お地蔵様は人に対する慈悲が込められているのに対して、雅は真逆のものを抱いていた。

  あの日と同じ夕焼けが、燃えるような憎しみを呼び起こす。

  遠く、けれど、霞むことのない過去。

  見たくない。

  だが、目を背けることを雅自身が許さない。

  人の痛みを知らない屑どもが、邪魔な他人を日陰に追いやって、こんな陽の当たる道を歩いている。その不条理を、雅は決して許さない。

  「どうだった、今日の練習」

  気付けば目の前に希月がいた。どうやら、とっくに練習は終わっていたようだ。他の部員たちが続々と更衣室に入っていくのが見える。

  目線を合わせるようにしゃがむ希月が、この上なく癇に障る。

  「うざいんだよ、お前ら」

  なぜ目の前にいる狼の心は健全なのか。

  心の底から笑って、毎日を楽しそうに生きている。しかし、他人を気遣うことを忘れない。健全な心があればこその、正しい精神活動だ。

  しかし、雅の心は傷だらけだった。損傷した肉体では普通の生活が送れないように、傷ついた心では普通の活動はできない。

  そして心の傷の多くは、自分を取り巻く環境が原因であって、それは個人ではどうしようもない。究極的には運でしかない。

  だから傷一つない健やかな心など、あってはならない。一つも傷がないというのなら、今ここで付けてやる。

  そして、お前も苦しめばいい。

  それが平等というものだ。

  希月の苦しげな表情に、雅はなんの感慨も持たなかった。間違いを修正して、何を感じろというのか。

  錠の鍵を外すと、雅は黙って柔道場を去った。

  「もうやめた方がいいんじゃないのか」

  振り返ると、同じ一年生の[[rb:牛谷力 > うしたにりき]]がいた。雅ほどではないが恵まれた体格の褐色の牛獣人だ。変態だが、そこに目を瞑れば一年生の中ではまともな人物だ。

  「練習なんてちっとも見やしない。その癖、俺たちを見る目はちょっとヤバいだろ。今の様子で部活に入れたら、トラブルなんてレベルじゃすまない事を起こすぞ」

  牛谷の言うことは希月もよく分かる。

  雅が希月たちに向ける目は、同じ学校の生徒に向けるものとはとても思えなかった。

  練習中、背中に冷たいナイフを突きつけられたかの様な感覚に陥ることがある。振り返ればその先には雅がいるのだ。

  殺してやる。そう告げているようだった。

  それが希月たちに対してなのかは分からない。雅は希月たちを介して別の誰かを見ているようにも思える。

  しかし、どちらにしろ雅の憎しみに燃える目が希月にはとても恐ろしかった。

  「明日は土曜日だ。学校も部活もない。よく考えろ」

  牛谷は踵を返し、更衣室に歩いていった。

  希月は一人、柔道場に残された。更衣室から漏れる喧騒が遠く感じる。

  「でも……」

  その先が言葉になることはなく、呟きは[[rb:空 > くう]]に消えた。

  夕日はすでに沈み、窓から見える空は暗幕に覆われたように真っ暗だった。

  錆び付いた階段を登る。一歩踏み出す度にギイギイと音を立てるこの階段が雅は好きではなかった。

  「……ん」

  普段は閉まっている鍵が開いている。

  ボロいアパートだから空き巣ということはないだろう。

  「おかえり、雅」

  「ただいま」

  ドアを開けるとすぐダイニングが広がっており、台所で母が料理をしていた。

  母は雅と違って、雪のように白い鱗をしている。人の目を奪う美しい母の鱗が雅は小さい頃から好きだった。

  「もう少しでご飯できるから待っててね」

  「分かった」

  母の声を背中越しに聞きながら雅は自室に入った。

  六畳しかない小さな部屋だ。窓に接するように置かれた文机と、きちんと畳まれた布団しかない。普通の高校生が持っていそうな漫画や本、ゲームなどは一つも見当たらない。強いて言えば部屋の隅に高校の教科書が積まれているが、高校生の部屋とは思えないほど殺風景だった。

  「布団、たたんだっけ」

  部屋の隅に綺麗に畳まれた布団を見て、雅は呟いた。畳むのが面倒で、敷きっぱなしで学校に行ったはずだ。

  そんなことを考えていたら、ドア越しに「ご飯できたよー」と母が呼ぶ声がした。

  雅は学ランをハンガーに掛け、部屋を出た。

  二人がけのダイニングテーブルにはカレーライスが二皿置かれていた。美味しそうな匂いに腹の虫が鳴った。

  母が座る向かい側に座り、手を合わせる。

  「いただきます」と言ってスプーンを口に運んだ。

  「美味しい」

  「良かった」

  嬉しそうに母は笑った。

  桜の形に切り抜いた人参をスプーンですくう。母のカレーライスにはいつも桜の形の人参が入っている。もう子供じゃない、と反抗したい気持ちもあるが、なんだかんだ言って雅はこの形の人参が入った母のカレーが好きだ。

  「母さん、今日はファミレスの方はないの?」

  「うん、今日はいきなりお休みになったの。シフトがダブってたみたい」

  「母さん疲れてるみたいだし、よく休んで」

  明るい声音だが、目元には疲れが滲んでいた。

  母は仕事をかけ持ちしているため、こうして一緒にご飯を食べることはなかなか無い。

  「ありがとね。雅は帰るの遅かったけど、何かあったの?」

  母の言葉に正直に答えるか、一瞬迷った。部活のことは雅にとってあまり気分のいいことではなかったからだ。

  「……部活の体験に、行ってた」

  それでも雅は正直に答えた。

  「そうなんだ。何の部活?」

  「柔道部」

  「へぇー、いいじゃない。どうだったの」

  「ああいうのは嫌いだ」

  雅は吐き捨てるように言うと、空になった母のコップに水を注いだ。

  「ありがとう。でも好きじゃないなら、なんで体験に行ったの?」

  「まあ、いろいろあったんだよ」

  希月のことを話すのは面倒だし嫌だったので、雅ははぐらかした。

  「そっか。それじゃあ部活に入る気はないんだ」

  「当たり前だろ」

  雅は眉間に皺を寄せて言った。

  「あんなくだらない連中とつるむのは御免だ」

  「……そっか」

  母の呟きは二人の間の空を漂い、やがて消えた。

  カチャカチャと食事の音だけが部屋に響く。

  やがて食べ終わると、雅は「ごちそうさま」と言ってシンクに食器を片付けた。

  「あのさ、雅」

  自室に戻ろうとした雅の背に母が声をかけた。

  「雅があまり、人と関わるのが好きじゃないのは知ってるよ」

  慎重に言葉を選びながら、でもね、と母は続ける。

  「一見好きじゃないなって相手でも、一緒にいて初めて分かることだってある。そういう意味では、部活は人を知るとてもいい機会よ。

  だから、お母さんとしては雅が部活に入ってくれたら安心できるな」

  嬉しい、ではなく、「安心できる」といった母の言葉がずっしりと雅にのしかかる。

  その言葉は、ずるい。

  雅は注射を我慢する子供のようにギュッと目を瞑る。

  そして、小さく首を動かした。

  月曜日の朝は憂鬱で仕方ない。カーテンの隙間から射す光も鳴り止まない目覚ましの音も不快で堪らない。

  それでも何とか体を起こす。

  時刻は既に八時を過ぎている。家から学校まで歩いて二十分かかる。急ぎで諸々の支度をして家を出れば、ギリギリ朝のホームルームには間に合う時間だ。

  しかし、雅にホームルームに間に合わせようといった殊勝な心がけはない。のっそりと布団から抜けると、これまた緩慢な動きで布団を畳んだ。

  リビングに母の姿はなく、ダイニングテーブルには朝食と弁当が置かれていた。

  「何だこれ」

  弁当の隣に見慣れない袋が置いてあった。余った布を縫い合わせて作られた大きめの巾着袋だ。中を覗けば新品の柔道着が入っていた。

  「はぁ、マジか」

  息子より気合いの入った母の姿勢に苦笑してしまう。それでも、夜遅くに針を手にチクチク縫う母を想像すると、胸が温かくなる。

  朝食を手早く食べ、学校に行く支度を済ませる。母手製の道着袋を鞄にいれ、雅は家を出た。

  「いってきます」という声に返してくれる人はいない。

  けれど、外の春の空気は温かかった。

  [newpage]

  「そ、そ、そ、その道着袋どうしたの!?」

  ホームルームが終わり、雅の席にやってきた希月は、いつもと違ってトボトボと覇気のない様子だった。

  しかし机の脇に引っ掛けられた道着袋を見ると、一転して声を張り上げた。

  「自分で買っ」

  「カツアゲか!?」

  「違う!」

  希月から問い詰められるとは予想していた。だから授業中にどんな嘘で躱すか考えていたというのに、それすら遮ってとんでもない妄言が飛び出した。それを真顔で言うあたり、希月の雅に対する印象がよく分かる。

  「え、じゃあその道着袋はなに……」

  希月は雅の道着袋を得体の知れない呪物のように指さした。

  「……俺の道着袋」

  「……なんで?」

  「……柔道部に、入る、から」

  互い、宇宙人と話すようかのように警戒しながら言葉を交わした。

  「じゅうどうぶにはいるから……」

  まるで火星人の言葉を聞いたかのように、不思議そうに首を傾げながら雅の言葉を反芻する。数十回繰り返してやっと意味が理解できたのだろう。体越しに見える尻尾が高速で左右に揺れ始めた。

  「つまり、白浜くんが!柔道部に入るってこと!?」

  「そうだって言ってるだろ」

  雅の肯定に希月の尻尾は最高潮を迎えた。残像を残すほどの高速尻尾振りだ。

  「くぅぅぅぅぅっ、やっったぁぁぁぁぁぁ!!!」

  希月はガッツポーズした両手をブンブン振りまわす。

  一体なにがそんなに嬉しいのか雅には理解できなかった。

  しかも人前でこのはしゃぎ様は正直、気持ち悪い。これを見ているくらいなら、とっとと部活に行った方がマシだ。

  「先に行く」

  「待って待って!一緒に行こーよー」

  柔道には『礼に始まり礼に終わる』という言葉がある。

  稽古も試合も相手がいなければ成り立たず、どちらも痛みを伴う。故に、互いが礼の精神を持って臨まなければ、柔道は粗暴な争いに成り下がる。

  常に敬意をもって振る舞い、自他共栄の精神を育む。

  それこそが、柔道なのだ。

  「正面に、礼!」

  三年生の声に従い、頭を下げる。

  「先生に、礼!」

  もう一度下げ

  「互いに、礼!」

  さらにもう一度、頭を下げる。

  「ありがとうございました!」

  雅は希月が道場に着くまでに語っていたことを思い出していた。

  物知り顔で話す希月があまりにも鼻についたので、「道場に入る時は一礼してから入るんだよ」と言う希月の体を持ち上げて、礼する前に柔道場に放り投げてやった。

  挨拶が終わると部員たちはわらわらと立ち上がって、更衣室に向かっていく。

  「白浜くん」

  希月は雅に声をかけた。

  「どうだった?初めての部活!」

  白い毛並みは赤らみ、汗で湿っていた。よっぽど激しく稽古したのだろう。

  しかし、それに対して。

  「……つまんねぇよ」

  雅は汗ひとつかいていなかった。

  それもそのはず。部活が終わるまでの三時間、柔道場の隅で、ぶっ通しで礼法の練習をしていたのだ。それも顧問とワンツーマンで。

  左足から立っただけで怒鳴られるのだ。時代錯誤にも程がある。

  さっきの挨拶もそうだ。わざわざ三度も頭を畳に擦り付ける意義が分からない。礼法を重視するスポーツなのは知っているが、今日の雅には畳と仲良くなるためのスポーツに思えた。

  「まあ、礼法は退屈だと思うけど、大事なことだよ。

  てゆーか、足、痺れたの?」

  いまだに正座している雅に訊いた。

  図星である。

  挨拶が済んでもたった一人で正座し続けてしまうくらいには雅の足は痺れきっていた。

  「なわけねぇだろ」

  けれど、雅は立ち上がる。一歩踏み出す度にビリビリと足が痺れるが平然とした顔で更衣室に向かう。

  素晴らしい虚勢だが、挨拶が終わっても一人正座し続けていた時点で誤魔化せていない。

  「ある意味すごいなー」

  足に走る激痛に耐えながらもごく自然に歩く雅の後ろ姿を見て、希月はそうこぼした。

  雅が更衣室のドアを開けるとムワッとした熱気が漏れてきた。男所帯なこともあってか漂ってくる空気が汗臭い。

  臭いだけでなく絵面も酷い。ガッシリとした裸の雄どもが視界いっぱいに映るのだ。見ているだけでむさ苦しい。

  「入らないの?」

  後ろから希月が訊いてくる。

  「…………先入れ」

  「?ありがとう」

  雅の気遣いに首を傾げながらも、希月は躊躇なく更衣室に入っていく。

  「犬のくせに鼻イカれてるのか」と心の中で悪態をつきながらも、意を決して雅も中に入る。

  呼吸を止め、汗にまみれた彼らに触れないよう注意しながら狭い更衣室を慎重に進む。彼らから発せられる熱が生暖かくて気持ち悪い。

  見知らぬパンツがロッカーの上に放置されていたり、部屋の隅にエロ本が積み重なっていたりと、混沌とした光景を越えて雅は自分のロッカーにたどり着いた。

  道着と同様真っ白な帯をするりと解く。テキパキと道着を脱ぎ、制服に着替えた。

  「白浜くん、着替えるの早いねー」

  希月はまだ上衣を脱いだばかりだった。こうして希月の裸体を見ると予想以上に逞しい。教室で見る希月は華奢に見えたが着痩せするタイプなのだろう。割れた腹筋やがっしりとした胸板は彼が立派な柔道家であることを静かに示している。

  ちなみに雅は知らないが、希月はその肉体美は学校でも有名だ。結構ちょろくてセミヌードまでなら描かしてくれる、とは美術部部員の談である。

  「これから一年生みんなでコンビニ寄ってくんだけど、白浜くんも行かない?」

  校門を出て少し歩いた所に生徒御用達のコンビニがある。カップ麺用の電気ポットがあるため、運動部所属の生徒を中心に評判がいいのだ。

  「行かない」

  雅はロッカーの扉を叩きつけるように閉じる。一番遅くに入ったというのに、誰よりも先に更衣室を出ていった。

  「帰るのはや」

  「そりゃ駄べらずに着替えれば早いだろ」

  希月の呟きに牛谷力が答えた。一年生たちだけでなく、先輩たちですら談笑に気を割いて着替えが終わっていない。

  「もっと話せばいいのにね」

  「そうだな」

  「それより、力さー」

  二人の会話に入ってきたのは熊獣人の[[rb:熊山実 > くまやまみのる]]だ。大食漢で、一年生のうちなら雅よりも体が大きい。と言っても、体の大部分は脂肪のようだが。

  「ホント、毎回着替える度に全裸になるのやめろよな」

  彼はうんざり、といった様子で牛谷に苦言を呈す。

  希月は隣で着替えている牛谷を見た。熊山の言う通り、そこにはパンツすら身につけていない、生まれたままの姿の牛谷がそこにいた。

  「だって俺、道着の下はノーパン派だし」

  「だからって毎回お前のブツ見せつけられるこっちの気持ちにもなってみろ」

  「いいじゃねぇーか。美味しそうなソーセージだろ?」

  「全世界のソーセージに謝れ」

  希月は「腹減ってんなら俺のソーセージ食えよ」と熊山を煽る牛谷の声を聞きながら、雅は下穿きの下は何派かな、とぼんやり考えていた。

  ちなみに希月はジョックストラップ、いわゆるケツワレ派である。

  雅は欠伸を噛み殺しながら朝の通学路を歩く。

  部活で疲れたからか、昨日は珍しく早めに寝れた。お陰で今日は普段より早く起きれたので時間に余裕がある。

  朝の澄んだ空を仰ぐ。

  東京の空は狭い。ごちゃごちゃとした電線や高い建物がごった返しているせいだ。視界を埋め尽くす広大な蒼天は、このコンクリートジャングルではまずお目にかかれない。

  それでも、建物や電柱の隙間から見える突き抜けるような青空を見ると少し気分が良くなる。

  きっと今日は良い日になる。理由はないがそう思えるのだ。

  学校が近くなり、周りを歩く生徒の数が増えてきた。

  雅は先程までの感傷的な自分を封印して、いつもの鋭い目付きになる。といっても、目付きは元々鋭いのであまり変わらないのだが。

  校門を通り抜け昇降口へ向かう道すがら、雅は予想外の生徒の多さに少し驚いた。普段は登校時間ギリギリに来るので生徒の数は数える程だが、今日はどこを見ても黒い制服をきた獣人が目に入る。

  しかし、雅からすれば人の多さは嬉しいことではない。

  挨拶を交わす朗らかな声は鼻につくし、談笑に混ざる笑い声は聞くに耐えない。楽しそうな顔をしている人を見ると、その顔面を潰したくなる。

  雅に気付いた生徒が向ける忌避の目の方がまだマシだ。

  雅は丁寧に扱われていることが分かる綺麗な上履きを履き、その時に潰れた踵を人差し指で直してから教室に向かった。

  一年一組の教室に着くと、後ろのドアを開け雅は自分の席に行こうとした。

  しかし、教室の後ろには何かを囲うようにして十人程度の人溜まりができていた。

  雅が教室に入ってくると、彼らは一斉に雅の方を向いた。そして彼らが発していた喧騒が、テレビのボリュームを下げたように小さくなる。無数の蟻が囁くように、「来た」「来た」「来た」と彼らは呟いた。

  雅の席は窓側の一番後ろで、人溜まりのそばにだったが、雅は彼らを無視して自分の席に座ろうとした。

  「待ちなさいよ!」

  気の強そうな声が雅を止める。

  振り向けば雅をキッと睨みつける女子生徒がいた。顔にありありと怒りを浮かべた彼女は、目元を赤く腫らした兎の女子生徒の肩を抱いていた。

  「あんたでしょ、花瓶割ったの」

  「は?」

  「あれ、見なさいよ」

  女子生徒が輪の中心を指さす。

  そこには床に広がる水溜まりと、割れた花瓶と一輪のコスモスがあった。

  「春川さんが教室に来てたら割れてたのよ。心当たりあるでしょ!」

  段々と状況が飲み込めてきた。

  このコスモスは教室の後ろのロッカーの上に置かれていたものだ。誰が世話をしているのか知らなかったが、今泣いている兎が育てていたのだろう。凹んで安定感のないロッカーに置くとは頭が悪いと思っていたが、こうしてメソメソ泣くだけの兎は想像以上に愚鈍だった。

  雅の席はコスモスに近く、それが雅は犯人だと決めつける根拠の一つだろう。

  しかし、一番の理由は。

  「……チッ。愚図が」

  「な、なんですって」

  地の底から這い上がってくるような憎しみに満ちた声に、気の強い女子生徒もたじろいだ。

  「証拠でもあんのか。俺がやったっていう証拠が」

  「無いわよ。でも、他の人に訊いても誰もやってないって。

  ならアンタ以外に誰がやるって言うの」

  結局、人は印象で何でも決める。事実無根、根拠薄弱だとしても、「コイツならやるだろう」といって人に石を投げる。

  やはりこいつらは馬鹿だ。そして、その頭の悪さゆえに人を傷つけ、その痛みも理解できない。こんな連中がのさばる世の中を、雅は心の底から嫌っていた。

  「アンタ、毎日花を世話してた春川さんの気持ちが分かる?分からないわよね、だからこんな事できるんでしょ」

  証拠もなく雅を犯人だと決めつけて、責め立てる女子生徒に他人への思い遣りを説かれる。マグマがふつふつと沸き立ってきた。

  「なんで謝んないわけ?」

  「アイツ、本当に性格悪いな」

  「アイツと同じクラスとか、マジ無理」

  女子生徒に続いて、周りの連中が悪意をぶつけ始めた。勉強ができる連中のやり方は陰湿だ。手を出して体を傷つけるのではなく、集団でひたすらに一人の心を嬲る。血は流れず、人を傷つけた証拠も残らない。しかし、これは磔にされた人に石を投げるのと、何が違うというのか。

  ここまで来れば、我慢は必要ない。何もせずに嬲られ続けるのは、殺されることを許容したのと同じだ。

  そうして、雅は自分の怒りを肯定した。

  ここにいるヤツら、全員ぶっ殺してやる。

  いつか感じた激情が全身を駆け回る。

  激情はエネルギーとなって体を動かす。

  いつもより熱く、激しく、そして破壊的に。

  まずは目の前の女から、と雅は豪腕を振り上げた。

  雅はいつも学校の屋上で昼食を摂る。

  屋上は本来立ち入り禁止なのだが、管理している教師が杜撰なのだろう。いつも鍵がかかっておらず入り放題になっていた。

  他の生徒はそんな事情は知らないようで屋上にはやって来ない。一人を好む雅からすれば絶好の食事場所なのだ。

  だが、

  「青空の下で食べるなんて、白浜くん風情あるね〜」

  ノコノコと雅の後を追ってきた希月は眩しげに手をかざした。

  雅とて、こんなヤツをお気に入りの場所に連れて来たくはなかった。

  四限が終わり、教室を出た雅の後を希月は堂々と追った。雅は撒こうとしたが、希月は親鴨を追う小鴨のようにピッタリとくっついて離れなかった。最終的に雅は根負けして、仕方なく希月を引き連れて屋上にやって来たのだ。

  雅は屋上の端まで行くと、フェンスに背を預けるようにして座った。もちろんベンチなんてないので地べたにだ。

  金持ちは地べたに座るなんて嫌がるだろう、と思ったが「となりすーわろ」と言ってあっさり座った。

  希月は弁当を包んでいるとは思えない程大きな風呂敷を広げる。そして中から現れたのは高校生の弁当箱としてはゴージャス過ぎる重箱だった。カパッと蓋を開けると、これまた贅沢を極めたような品々が鎮座していた。

  思わず雅の口からぐっ、と声が漏れる。

  自分の弁当袋を見る。いつもより小さく感じるのは気のせいだろうか。

  「食べないの?……あ、もし食べたいおかずあったらあげるよ」

  今度はギッ、と歯を食いしばる音がした。

  くそボンボンがっ!

  例え飢え死に寸前だろうと、こいつの食べ物は貰わない。雅はそう固く心に誓った。

  袋から弁当箱を取り出す。雅の弁当箱はシンプルな二段弁当だ。下段には白米、上段には大ぶりな肉団子にだし巻き玉子、アスパラのベーコン巻きにきんぴらがギュッと詰まっている。質素だが、健康に気を使った弁当だ。

  「白浜くんってコンビニ飯とかかなって思ってたけど、弁当なんだね。作ってるのお母さん?」

  雅は希月の質問を無視して、黙々と食べ始めた。

  「僕の弁当は調理師の美馬さんって人が作ってくれてるんだ。昔は一流ホテルで料理長してた人でね、美馬さんの作る料理は何でも美味しいんだ」

  雅は肉団子を大きな一口で頬張った。

  ムシャムシャといつもより強く噛む。

  「休日はお父さんが料理するんだ。美馬さん程じゃないけど、お父さんの作る料理も美味しいんだよ。

  まぁ、めちゃくちゃキッチン汚すから片付けが大変なんだけどね」

  雅はさっきよりも大きく開けた口にきんぴらを大量に放り込んだ。頬袋にドングリを詰め込んだリスみたいに、口がパンパンになってしまった。

  その後も希月は一人で話続けていたが、その一切に雅は答えなかった。

  雅は最後の一粒を食べ終わると、弁当の蓋を閉じ、弁当袋に仕舞った。

  そしてやっと、雅は希月に声をかけた。

  「なんで庇った」

  先程までずっと動いていた希月の口が、静かに閉じた。

  雅の言ったことが分からなかったからではない。むしろ、雅の言う意味をすぐに理解した。

  雅が言っているのは朝の件だ。

  女子生徒を殴ろうとした雅を止めたのは希月だった。二人の間に入って、雅が振り下ろした拳を両手で受け止めたのだ。

  教室に入る前に話を聞いていたのか、希月は全てを理解した上でその場にいる全員に言い放った。

  「白浜くんは、花を粗末にするような人じゃないよ」

  雅と希月は、友達では、ない。

  幼馴染みでもなければ、気が合うわけでもない。たまたま同じ高校で、たまたま同じクラスになっただけの他人だ。

  だから雅は希月のことを、何も知らない。

  同様に、希月も雅のことを知らないはずだ。

  なのになぜ、あんなことを言ったのか訊きたかった。

  しかし、当の本人は実につまらなそうな顔をして言い捨てた。

  「別に、知ってたことを言っただけだし」

  「なんで知ってる」

  「…………それは秘密」

  希月は明後日の方向を向いた。雅からは希月がどんな顔をしているのか分からなかった。

  「そんなことよりさ、僕は白浜くんの話が聞きたいよ」

  希月はさっきの不機嫌そうな様子が嘘のように、パッと笑顔を咲かせた。

  「……断る」

  雅は立ち上がった。

  驚いた様子の希月の膝元には、中身が半分も減っていない重箱があった。

  「……部活終わったら、なんか奢れ」

  「え?」

  希月が雅を見上げる。

  「コンビニ、昨日言ってただろ」

  雅の尻尾がぎこちなく揺れる。

  「うん!任せて!」

  希月の声を背中越しに聞きながら、雅はいつもより少しだけ早足で屋上を後にした。

  「やったっ!」

  希月はヒゲを嬉しそうに揺らしながら言った。

  艶やかに光る黒豆を箸で掴み、口に運んだ。調度良い甘さが口に広がる。

  しかし、この甘さを出すには手間も時間もかかる。根気のいる料理だ。

  「うん、ガンバろ」

  見上げれば、雲ひとつない青空が目一杯に広がっていた。

  今日も明日も、きっといい日になる。

  [newpage]

  この時期はいつも、少しだけ切なくなる。

  雅は意外にも、自然への造詣が深い。桃色の花が咲いていなくとも桜の木を判別できる程だ。

  校庭に植えられた桜の樹木は花を落とし、平凡な風景の一部に成り果てていた。

  植物に詳しくない人からすれば、花の散った桜の木なんてその辺の街路樹と変わらないだろう。

  しかし、春には大勢の人を惹きつけた桜が季節を過ぎれば見向きもされないのは寂しい。

  この時期の桜だって魅力的だ。地面に積もった花弁は季節外れの雪のようで風情がある。

  だ、それらも、地面に落ちた花なんぞに用はない、と言わんばかりに片付けられてしまった。

  自然の風情に鈍感な現代人ばかりで残念だ。

  「僕の話、聞いてた?」

  隣で話す希月をほっぽって、雅は屋上のフェンスの隙間から校庭の桜を眺めていた。

  「聞きたくない」

  「えぇ〜〜〜」

  希月が上げる非難の声もどこ吹く風だ。

  「一応大事な話だから、ちゃんと聴いてよ」

  雅は黙って昼食を再開した。今日も母の弁当は美味い。

  「今日なんだけど、放課後、クラス委員の集まりがあって部活に遅れるから。その事を部長と先生に伝えておいて欲しいんだ」

  「自分でやれ」

  雅は素っ気なく断った。

  「いつもコンビニでご飯奢ってるでしょ。たまには、僕にお返ししてくれてもいいんじゃない?」

  「ぅ……」

  それを言われると弱い、とばかりに雅は唸った。

  柔道部の一年生たちは、部活が終わると学校最寄りのコンビニで買い食いする習慣がある。雅も一緒に行くのだが、毎回に希月に奢らせている。雅は財布を取り出したことすらないのだ。

  「そんな訳でよろしくね」

  雅は、はぁ、とため息をつき、それを了承の意とした。

  しかし、教室へ戻る道すがら、雅は一つ大きな問題があることに気付いてしまった。

  雅は一人で柔道場に向かう廊下を歩いていた。

  いつも希月と一緒に部活に行くので、実はこうして一人で向かうのは雅にとって初めてのことだった。

  希月は寂しがり屋の気があり、いつも誰かといる。トイレや移動教室の時も誰かと一緒に行くのだ。なので当然、部活に行く時は雅と希月、二人で行っていた。

  雅は武道場への道を見回した。こうして見てみると、ここは思ったより綺麗じゃない。隅にはホコリが溜まっているし、壁に貼られたポスターは剥がれかけている。

  何度も通った道だが、一人でなければ気づかないこともあるんだな。

  そんなことを、妙に浮ついた頭で考えていた。

  柔道場の入口で一礼して雅は中に入る。首を縦に動かす程度の浅い礼だが、雅にも一応、礼儀が身に付き始めていた。

  更衣室に入ると、牛谷力と熊山実の二人が着替えながら談笑していた。熊山は下穿きまで履いていたが、牛谷は全裸だった。

  扉の音に反応して振り向いた二人だが、入ってきたのが雅だと分かると気まずそうに顔を逸らした。

  雅は不愉快そうに鼻を鳴らした。

  さっきまで賑やかであっただろう更衣室が、雅の登場で一気に気まずい空間に変わった。

  自分のロッカーを開けると、しんとした更衣室にギィィィと蝶番の軋む音が大きく響く。

  荷物を放り込むと鞄の金具がロッカーの壁に当たって、ガシャン!とけたたましい音を立てた。隣の二人の肩がビクッと動いた。

  普段なら何気なく揺れるはずの尻尾が、今日は動かし方を忘れたかのようにぎこちなかった。隣にいた牛谷に尻尾が当たりそうになったが、牛谷がまるで当たったら死ぬかのように全力で避けたので事なきを得た。

  ふと、雅は床に落ちている一枚のパンツに気が付いた。

  柔道部員は下穿きに何も履かない、いわゆるノーパン派の者が一定数いる。なので、あのパンツもノーパン派の誰かが投げ捨てたものだろう。

  ―――そう、思っていた。

  「…………っ!」

  雅の背筋が凍りつく。

  落ちているパンツに見覚えがある。ゴムにメーカーのロゴが入った黒のボクサーパンツ。

  あれは昨日、俺が履いていたパンツだ!

  そう思って、雅はパンツに手を伸ばした。

  音速にも匹敵しそうな早業、ネットに動画を投稿すれば「俺じゃなきゃ見逃しちゃうね」のミームが巻き起こるだろう。

  が、雅の手はパンツまで届かなかった。

  「ど、どうした……?」

  雅の手がパンツを掴む寸前で、牛谷力がそのパンツを拾ったのだ。二人はパンツを取ろうと屈んだ(牛谷は取った)姿勢のまま、静止していた。

  「これ、俺のパンツだけど……」

  その瞬間、雅の優秀な脳は全てを理解した。

  勘違いだった。

  たまたま雅が昨日履いていたパンツと同じものを牛谷力が今日履いていた。そして彼はノーパン派。牛谷が脱いで放り投げていたパンツを、雅は自分のだと勘違いしてしまったのだ。

  「っ!!!」

  よくよく考えれば分かる事だ。

  雅は更衣室でパンツを脱いだことがないのだから。

  顔が、燃えるように、熱い。

  「おーっす、ってどったの?」

  犬井陽斗の気の抜けた声だけが、更衣室に響き渡った。

  ぎゃはははは、と品のない男子高校生の笑い声が柔道場に鳴り響く。

  四人は着替えて、柔道場で輪になって座っていた。先程のパンツ勘違い事件の顛末を聞いていたのだ。

  「あ、ありえん!パンツ勘違いするとか聞いた事ねぇー!」

  「くぅぅ〜、ちゃんと最初から最後まで見たかった!」

  バタバタと畳を叩きながら熊山と犬井は笑い転げている。

  黒い鱗に朱が差すほどの羞恥に耐えながら話しきった雅。そんな彼を労るように牛谷が肩に腕を回した。

  「ま、そんなこともあるわな。ドンマイ、ドンマイ」

  なにがドンマイだ、と思いつつも、雅は大人しくその慰めを受け取った。

  「でも、俺もパンツを盗られそうになったのは初めてだな。でも欲しいならあげるぜ、俺の脱ぎたてパンツ」

  「いらねぇよ!」

  「復活した!」

  「復活したな」

  わはははは、と笑い声が上がる。

  「はぁー、笑った笑った」

  目尻に浮かんだ涙を犬井は拭った。

  「ホントな。しっかし、白浜も思ってたより普通だな」

  熊山がいった言葉が雅には引っかかった。

  「……普通?」

  雅の呟きに牛谷が答えた。

  「あぁ、白浜の噂は聞いてたからな。中学生なのに高校生五人まとめて相手して半殺しにした、とか、同級生から金を巻き上げてたとか」

  「その巻き上げた金で札束ビンタしてたって聞いたよ」

  牛谷の話に犬井が付け加えた。

  「俺はカツアゲはしない」

  「じゃあ、高校生半殺しはガチ?」

  と熊山が訊いた。

  「……まぁ」

  雅の肯定に、三人は「おぉ〜」と少年のような感嘆の声を上げた。

  「そんな白浜に連戦連勝してた希月はやっぱ強いな」

  「な〜。最初は希月のやつ、厄介なの連れてきたな、って思ったけど」

  牛谷に熊山が同意する。

  「でも、思ったよりマジメだよね、白浜は。入部初日に礼法ぶっ通しはキツいだろうに。よく耐えたよ」

  と犬井が感心したように言った。

  「ずっと柔道場の隅で正座して、一人だけ茶道部だったよな」

  その時のことを思い出したのだろう。牛谷が笑った。

  「キレるんじゃないか、って心配だったけど最後までやり切ったもんな。ちょっと意外だったわ」

  熊山はしみじみと言った。

  「……そ、そう、か」

  こうして誰かに認められたのは何時ぶりだろうか。先程とは別の理由で顔が熱い。

  「……うん?」

  ザラザラと畳みに何かを擦る音が聞こえる。

  「おうおう、シッポが照れてらぁ」

  牛谷が雅の尻尾を指さす。振り返れば尻尾がモジモジとうねっていた。

  「おい一年!練習始めるぞ」

  三年生の先輩が大声で言った。周りを見れば、道着姿の先輩や顧問の先生まで揃っている。

  「やばいやばい。もう行くか」

  言葉とは裏腹に、熊山がゆったりと促した。

  「よっしゃ!今日もやるぜ!」

  と言いながら、牛谷は雅の背をバシッと叩いて立ち上がる。雅はぐるりと肩を回した。先程までの強ばりが嘘のようにない。いつもよりずっと、体が軽かった。

  ――あぁ、俺、緊張してたんだ。

  雅はいつの間にか解けていた不安に背を向けて歩き出した。

  

  

  「おい一年ども、大神はどうした。まさかサボりじゃねぇだろうな」

  虎の顧問、[[rb:虎賀 > こが]]が教師らしからぬ粗暴さで一年生に詰め寄る。

  三人は、そういえば、といった様子で振り返る。

  そこには口を「あ」の形に開きながら固まる雅がいた。

  [newpage]

  「痛……」

  暇だったので、さっきのホームルームで配られたプリントをいじっていたら中指の腹を切ってしまった。

  黒い鱗に覆われた体も、内側はクリーム色の肌が広がっている。頑丈そうな見た目のくせに内は脆いなんて、なんとも情けない話だ。

  雅は血の滲んだ指先を眺めながら、物思いに耽っていた。

  顔を少し上げれば、女子クラスメイトに囲まれた希月が目に映った。

  「じゃあ、個人戦は出れるんだ?」

  「うん、柔道は階級で別けられてるからね。僕は66キロ級」

  「予選はどこでやるの?」

  「N武道館ってところだよ」

  「そうなんだ。結構近いんだね」

  「私、絶対応援に行くね!」

  と、希月に熱を上げる女子達がキャッキャ言いながら、三週間後に控えた柔道のインターハイ予選について訊いている。

  雅からすれば、あんなクレイジーな毛玉のどこが良いのか全く分からない。が、この調子なら大会当日には希月のファンが大量に武道館に押しかけるだろう。

  「……まだかよ」

  帰りのホームルームが終わり、希月が囲まれてから既に十五分は経っている。この調子では部活に間に合わない。

  一人でも先に部活に行ってしまおうか、とも思うのだが、前に一人で行った時は「なんで置いてくの!」と半泣きの希月に問い詰められた。それがなかなかに面倒くさかったので、こうして一人、自分の席で暇を持て余しながら希月を待っているのだ。

  「あーあ、馬鹿馬鹿しい」

  にしても、血が止まらない。白い柔道着に付けば少量の血でも目立ってしまう。柔道場に着くまでに止まればいいのだが。

  「お待たせー、部活行こー」

  十五分も待たせたにしては軽すぎる声に眼光がキツくなるのは仕方のないことだろう。しかし、神経が図太い希月は全く気にしない。

  「あれ、その指どうしたの?」

  図太いくせにこういう所は目敏い。雅は素っ気なく「紙で切った」と答えた。

  「も〜、雅くんはしょうがないな〜」

  なんて嬉しそうに言いながら、希月はリュックをゴソゴソと漁る。そして取り出した絆創膏を雅に渡した。

  「柔道場着いたらテーピングしといた方がいいよ。練習してたら取れちゃうから」

  雅はそれを無言で受け取る。プリントを鞄に無造作に突っ込み、席を立った。

  最近の部活の雰囲気は、いつになく緊迫感を帯びていた。

  三週間後に控えたインターハイ予選に向けて、誰もが練習に身を入れていた。

  柔道部唯一の初心者で、未だ受け身の練習から抜け出せない雅としては、置いてきぼり感が強い。が、雅はそんなことで焦るような玉ではない。顧問は他の部員に夢中で、雅のことはほとんど眼中に無い。それをいい事に、バレない程度にぼーっとしながら彼らを眺めていた。

  気迫では三年生たちが最も強い。

  やはり高校生最後の大会にかける想いは生半可なものではないのだろう。呼吸を荒くしながらも、休まずに一本でも多く投げようと奮闘している。彼らの熱気は、見ているだけの雅にも伝わる程だ。

  二年生や牛谷力、熊山実、犬井陽斗ら一年生たちも頑張ってはいるが、三年生程の覇気も実力もなかった。

  最上学年らしく三年生が一番か、と思ったが、しかし、そんな三年生も大神希月には敵わない。

  彼はたった一本であっても全身全霊で投げる。しかしながら動きには無駄がなく、淀みない。相手を崩す様は大河のように流麗ながら、投げる時は明王の如く力強い。

  実力、気迫ともに希月はこの部内で飛び抜けていた。

  だから希月がインターハイ予選の団体戦メンバーに選ばれたことは、さして驚くほどのことでもなかった。

  終わりの挨拶の前、顧問は厳かに

  「団体戦のメンバーを発表する」

  と言い放った。

  全員が正座して顧問に耳を傾ける。大会に何の想いもない雅ですら、この時は固唾を飲んだ。

  厳粛な空気を、顧問の低い声だけが震わせる。

  柔道の団体戦のメンバーは五人。四人いる三年生が順当に呼ばれ、最後の一枠を得たのは一年生の希月だった。

  五人は喜びの声を上げることなく、「はい」と返事をした。

  挨拶が終わり解散となると、一年生たちは希月の元に飛んで行った。

  「やったね!」

  犬井がそう言って、拳を突き出す。

  よくペアになって練習するので、一年生の中でも犬井が一番喜んでいた。

  「陽斗のお陰だよ」

  希月は拳を突き返した。

  「いやーめでたい!今日は希月の団体メンバー入りを祝して打ち上げだな!」

  と熊山が言う。

  「いや、お前は飯食いたいだけだろ」

  「それもある!」

  牛谷の突っ込みに、熊山は堂々と返した。

  四人が笑うのを雅は少し離れた所から見ていた。

  何となく、教室でクラスメイトに囲まれる希月を思い出す。今日は女子だったが、昨日は男子から応援の言葉を貰っていた。

  こうして男女から愛される希月を見ていると、不思議な気持ちになる。

  「……らしくないな」

  雅は一人、呟いた。

  幸福な人を見る度に心が荒立つ雅だが、希月が笑っている様子を見るのは嫌いじゃない。それが何故か分からなくて不思議だった。

  彼らに背を向けて、雅は足取り軽く更衣室に向かった。

  更衣室のドアノブを掴み―――その手を止めた。

  「ちっ、やってらんねぇよ。クソが」

  「ホントにな。何だってあんなガキが選ばれんだよ」

  扉越しに聞こえる声。彼らは雅に気付かない。

  「三年の次は二年だろ、普通に考えて」

  「虎賀は馬鹿だからな、常識とか分かんねぇんだよ」

  「アイツも頭悪いよな。なんで俺たちに譲らねぇんだよ。分を弁えろよ、クソ犬が!」

  ガンッ、とロッカーを殴る音がする。殴られたのは希月のロッカーだと、雅は何となく分かってしまった。

  「ワイロでも送ってたんかね」

  「あ〜あ、金持ちはいいよな。努力しなくても、親の金でなんでも思い通りになるんだから」

  雑音が消え去って、彼らの声だけが雅の頭に響く。平衡感覚を失ったように視界がぐらりと揺れた。自分が今、真っ直ぐ立てているのか分からなかった。

  「ねぇ、雅くん」

  希月の声にはっとする。

  握っているドアノブはゾッとするほど冷たかった。

  「なんでドアの前で突っ立ってるの?」

  「……別に。牛谷たちはどうした」

  「何かスイッチが入ったみたい。あっちで自主練してるよ」

  ドアノブから手を離し、希月が指さす方を見れば、三人は乱取りをしていた。和気あいあいとした彼らが、今はとても遠くに感じる。

  「……お前は、混ざらないのか」

  「流石にもう限界。今は早く帰って休みたいよ」

  玉のような汗を毛先に浮かべて希月は言う。希月の声が更衣室の中まで聞こえたのだろう。二年生の話し声はもう聞こえなかった。

  「あ、そうそう。一つお願いしたいんだけど」

  希月はそう言って、そのお願いとやらを話した。

  「……分かった」

  「ありがとう。じゃ、明日からよろしく!」

  雅はどこか後ろめたいものに背中を押されながら、希月の頼みを承諾したのだった。

  早朝のひんやりとした空気は、雅のような鱗持ちには少し寒い。手を脇に入れ、熱を逃がさないようにと体を丸める。

  道には雅以外の人はほとんどいない。たまにスーツを着た社会人を見かけるが、のんびり歩く雅を尻目に足早に歩いていく彼らはすぐに見えなくなる。雅のように制服を着た生徒は一人もいない。家を出たのが五時四十分頃なので、当然と言えば当然か。

  希月との約束は六時から。この調子ではギリギリ間に合うかどうか微妙なラインだ。とは言え、希月も多少は遅れてもいい、と言っていた。多少の遅刻は大目に見てくれるだろう。

  雅は一人、黙々と歩く。学校の昇降口に着いたのは六時ジャストだった。約束の場所は柔道場なので遅刻確定である。

  上履きに履き替え、柔道場に向かう。柔道場に近づくと、ドスン!とサンドバッグを床に叩き付けるような音が聞こえてきた。

  柔道場の扉を開ける。一人しかいない道場はいつもより広く、空気が澄んでいた。

  「おはよう、雅くん」

  柔道場の真ん中にはメガネを外し、道着を着た希月がいた。足元には道着を着せたカカシのような人形がある。先程の音はこの人形を投げた時の音だろう。

  「…………」

  欠伸を噛み殺す雅を見て、希月は苦笑した。

  「ごめんね、こんな早くから。ゆっくりでいいから、道着に着替えてきて。そしたら練習を始めよう」

  こくり、と雅は頷き、更衣室に向かった。

  希月の頼みというのは、詰まるところインターハイに向けた朝練に付き合うことだ。柔道部には朝練はないので、これは完全に自主的な練習である。

  朝の六時に集合し八時まで練習する。柔道場の鍵は前日に顧問から受け取ったらしい。

  インターハイまであと三週間。平日は毎日する、と希月は言う。

  「なんでそこまでするんだよ」

  「勝ちたいから!」

  そう言って、希月は人形を投げ飛ばす。ドスン、という音が朝の静謐な空気を震わせる。

  「動画見せて」

  雅は持っていたタブレットを渡す。このタブレットは希月に渡されたもので、希月が投げ技のフォームを確認するために雅が撮影していたのだ。

  希月は受け取ると、動画の再生バーを指先で弄りながら進めたり、戻したりしている。

  「そんな理由で、こんな朝早くから練習するのかよ」

  「そうだよ」

  希月はタブレットを見ながら答えた。

  「小学校の頃はお兄ちゃんが練習に付き合ってくれたんだけどね。僕が中学生になったくらいかな?お兄ちゃんも忙しくなっちゃって一緒に練習できなくなっちゃったんだ」

  兄がいたのか。初耳だが、普段の甘えん坊な様子を思うとしっくりくる。どうせ甘やかされていたのだろう。

  「で、あの投げ込み人形をくれたってわけ」

  そう言って、希月は人形を指さした。カカシのようなフォルムだが、体幹部は丸太のように太い人形。道着を着せてあるのは組み手を組むためだ。

  人形に近づいてみる。遠目からでも分かっていたが、近くで見るとそのボロさがよく分かる。人形の生地や道着が茶色く変色している。腕は今にももげそうだし、首なんて一度もげたのだろう。首元にヘタクソな縫い跡がある。

  「ボロボロでしょ。直してはいるんだけど、この子もそろそろ限界かなぁ」

  「この子も、ってことは他にもあるのか?」

  雅は振り返って希月を見る。希月は未だにタブレットを見つめていた。

  「うん、この子は三代目」

  「そんなにすぐ壊れるのか」

  「そんなことないんじゃない。お兄ちゃんに初代を買ってもらって一年くらいかなぁ。『壊れた』って言ったら、『もう壊したのか!?』って驚かれたもん」

  確認が終わったのか、希月はタブレットから顔を離し立ち上がる。

  「フォームの確認は十分したから、次は打ち込みしたいんだけど……」

  その先は濁しながらも、相手してくれないかな?と目で訴えてくる。

  打ち込みとは、技をかける時の体勢を何度も何度もつくり、そして最後は実際に投げる練習だ。柔道ではとてもベーシックな練習法だが、受け身が完璧とは言えない雅には出来る自信がなかった。

  とは言え、ここで断ったら希月の頼みを聞いた意味が無い。

  「加減しろよ」

  と、不安を飲み込んで答えた。

  「もちろん!」

  希月はタブレットや人形を端に置き、雅と向かい合った。

  「お願いします!」

  「……お願いします」

  互いに礼をする。

  希月が雅の襟と裾を掴む。雅もそれを真似る。雅の方が頭一つ分背が高いので、アンバラスン感が否めない。が、力強く道着を握る希月にはそんなことは微塵も関係ないのだと分かった。

  「大外刈は分かるよね?それの打ち込みをするから」

  吐く息が届くほどの距離で見つめ合う。

  高級そうなオレンジジュースの匂いが鼻腔をくすぐった。大神家の食事は朝から豪華そうだ。

  「分かった」

  雅の声を聞くと、希月は動き出した。

  外から打ち込み練習を見ている時は、打ち込まれる方は楽だと思っていた。しかし、希月の打ち込みは素早く、鋭い。こちらも急いで元の体勢に戻らないと、希月の打ち込みに間に合わない。

  「次、かけるよ」

  その声に反応する余裕は雅にはない。

  気付いた時には仰向けに倒れていた。

  「うんうん。ちゃんと受け身取れてるじゃん」

  と希月は嬉しそうに言った。

  日々の練習のお陰か、無意識に受け身を取っていたらしい。

  「はぁ」

  不安が抜けるように、息がこぼれる。ちゃんと練習相手になれていることに雅は少し安堵した。

  「次はもう少し本気でいくからね」

  「…………」

  黙る雅。

  本気じゃなかったのか、とは言えなかった。

  希月の打ち込みは徐々に鋭く、苛烈になっていった。

  初心者の雅に気を使って、初めは加減していたのだと理解している。その気遣いはありがたかったのだが、十分とは言えなかった。

  回数を重ねるごとに本気を出す希月の動きについていくのは、汗で足元が滑るほど大変だった。部活中にこれほど汗をかいたのは初めてだ。

  火照る身体、荒い呼吸、そして、乱れる集中。

  そう、これほど激しい練習を経験したことのない雅には、長く気を張り続けることができなかった。

  「っ……!」

  受け身の瞬間、左手の中指が激しく痛んだ。

  「だ、大丈夫!?」

  組み手を解くと、雅は痛む中指を見た。第一関節の辺りが青く腫れている。

  「受け身の時に突き指しちゃったんだ。ちょっと待ってて」

  そう言うと、希月は更衣室に走っていった。少しして更衣室から出てくると、希月の手には救急箱があった。

  「ちょっと触るよ」

  希月は雅の人差し指を中指に添える。そして二本の指をテープで巻いた。

  「とりあえず、応急処置はこれで大丈夫。あとで保健室に氷を貰いにいこう……」

  俯きがちに希月は言った。

  「ごめんね。無理させすぎたよね」

  「別に、これくらい大したことじゃない」

  「でも……」

  「本当だ」

  雅の気遣うような言葉に、希月はわずかに頬を緩めた。

  「ありが」

  「むしろ、体験に連れていこうと投げられてた時の方がよっぽど痛かった。床が硬いのに、投げたり飛びかかったりしやがって。場所を考えろ、このアホが!」

  「すみませんでした」

  掘り起こされた雅の怒りに、希月は土下座するしかなかった。

  怒られた子犬のようにペタンと耳を折った希月を見ながら、雅は訊いた。

  「にしても、治療の手際が良いな」

  「まあね。僕も柔道始めたての時はよく突き指したし」

  懐かしいな、と希月は零す。

  「なんか分かんないけど僕だけ突き指するんだよね。その度に道場の先輩に巻いてもらってたなぁ」

  まぁ、今でもちょいちょい突き指するけどね!と希月は話を締めた。

  「…………なぁ」

  雅は躊躇いがちに言葉を紡ぐ。

  「二年生のこと……どう思う」

  希月は逡巡することなく、答えを出した。

  「尊敬してるよ」

  「……本当か?」

  陽の光が翳る。道場はすぅっと暗くなった。

  「珍しいね。雅くん、いつも他人に興味なさそうなのに」

  希月の言う通りだ。

  なのに今は、蛇のようにねっとりとした執念が雅の中でとぐろを巻いている。

  「昨日、二年生たちが言っていた。『なんで俺たちじゃなくて、一年の大神が選ばれるんだ』て」

  希月の眉がピクリと動いた。

  「『どうせ金持ちだから、努力しなくても金で何とかなるんだろ』て。それでもお前は、二年生を尊敬してるって言えるのか?」

  自分でも陰湿だと思いながら、口を動かした。

  雅は、希月が口汚く罵るのを期待した。

  自分と同じ、やられればやり返す、普通の獣人だと思いたかった。

  ―――だって、雅も思ってしまった。

  お前の成功は全て、金のお陰だろう、と。

  偏差値の高い高校に入れたのも、柔道が上手いのも、団体戦のメンバーに選ばれたのも、希月の成功は全て『金』のお陰だと思っていた。

  もちろん、金が直接的な要因ではないと理解している。しかし、塾や道場は金が無ければ入れない。金があるからこそ得られる機会というものがあり、希月はその悉くを得てきた。

  そうして、『今の大神希月』があるのだと思っていた。

  でも、違うのだと知ってしまった。

  雅が絶対に起きないような早朝に起きて、丈夫そうな人形をボロボロになるまで練習するのが、大神希月だ。努力家な人柄は、金ではけっして手に入らない。

  独りよがりな妄想を事実だと勘違いしていた。なんて因果だろう。かつて自分が、それでどれほど怒り苦しんだか、忘れる訳がないと言うのに。

  けれど、雅は愚かな自分を受け入れられなかった。

  賢くなくてもいい。せめて、自分は普通だと思いたくて、希月を同じレベルに[[rb:陥 > おとしい]]れることを選んだ。

  「そっか、先輩たち、そんなこと言ってたたんだ……」

  身を切られるような、痛々しい声が希月の口から零れた。

  望んだものが聞ける。そう内心で暗い笑みを浮かべ―――パンッ、と頬を叩く音に意識を揺さぶられた。

  「僕は先輩を尊敬してる!」

  そうハッキリと断言する声が鼓膜を叩く。

  「な、なんで」

  「だって僕はベクトル分かんないけど、先輩は分かる。英語の単語だって先輩の方がたくさん知ってる。それに身長だって先輩の方が高い!」

  まくし立てる希月に、雅は目を白黒させた。

  「そんなの、俺たちより一年先に産まれてきたからだろ!そんな理由で尊敬なんてできる訳がない!」

  「できる!」

  「っ……」

  堂々と言い切る月に気圧されて、雅は言葉に詰まった。

  「言っとくけど、僕はそんな悪口なんて慣れてるから!その程度のことで落ち込んだりなんかしない。まして、相手の評価を変えるなんてありえない!」

  「…………どうして」

  それ程までに強いのか。

  雅には絶望的なほどに、理解できない。

  「……欲しいものがある。だから、そんな言葉に負けてられないんだよ」

  淡々とした口調だが、その目には強い意志があった。

  「そんなことよりさ、雅くんはどう思ったの……?」

  打って変わって弱々しい声。まるで何かに怯える子供のようだ。

  「……なにが」

  「先輩が話してるの聞いて、どう思ったの?」

  「……金持ちだからってところには、共感した」

  「そっか。それはちょっと、嫌だな……」

  希月は伏せ目がちに言った。

  ……なんでそこは人並みなんだよ。

  「もうそろそろホームルームの時間だね。付き合ってくれてありがとう。雅くんは先に教室行ってて。僕はもう少しだけ練習して行くから」

  そう言って、希月は雅に背を向けた。

  いつもは堂々とした大きな背中が、今は歳相応に見えた。

  何となく、突き指した手を労わるようにもう一方の手で摩った。すると、希月に巻いてもらったテーピングにガサガサと何かがつっかえた。

  それは昨日、希月にもらった絆創膏。

  今はもう、血は流れていなかった。

  「待て」

  希月が振り返る。

  「付き合う」

  雅は立ち上がると、短く言った。

  「いいよ。雅くん怪我してるし、痛いでしょ」

  「これくらい大した事じゃない。それに、この程度の痛み、我慢できないのは失礼だ」

  希月は悪口を言った二年生を受け入れた。それは彼らの悪口に共感した雅も許す、ということだ。

  その苦しみと比べれば、突き指の痛みなんて痛みではない。

  「遠慮なんてするな、思いっきり打ち込め。それでチャラだ」

  希月は何も言わない。

  ただ、その熱のこもった手で雅の道着を掴む。

  先程よりも鋭く、鮮烈に、技をかける。

  二人だけの道場に響く、衝撃音。

  それは、第三者がいたのなら見惚れるほど美しい背負い投げだった。

  「背負い投げとは、聞いてねェ!」

  「初心者とは思えない良い受け身だったよ」

  「そういう話じゃねぇんだよ!」

  [newpage]

  七月の太陽は加減を知らない。

  容赦のない太陽光は都会を天然のサウナに変えた。目の前を通り過ぎて行った車を目で追うと、その先で熱されたコンクリートがゆらゆらと揺れていた。

  「……暑い」

  雅たちは学校の近くにあるファミリーレストランの前に立っていた。黒い鱗は太陽光をガンガン吸収して、このままではドラゴンの黒焼きができてしまう。まあ、元々黒いのだが。

  「……流石に中で待たない?」

  「……そうだな」

  希月の提案に牛谷力が頷いた。

  約束の十三時を五分ほど過ぎたが犬井が来ない。彼らが着ている高校生らしい地味なTシャツ(牛谷なんかは部活のTシャツを着ている)は、今や汗でぐっしょりと濡れている。冬は毛皮持ちを羨むのだが、夏だと鱗で良かったと心底思う。暑さに喘ぐ彼らには悪いが、大量の汗で湿気った毛並みは随分とみすぼらしい。たった五分でも毛皮持ちには地獄の時間だ。

  「……あ、来た」

  パタパタとうちわを扇いでいた熊山実が、遠くに見える人影を見つけた。

  「ごめん!お待たせ」

  走って来たのだろう。これまた汗でぐっしょりの犬井陽斗がぜえぜえと息を吐きながら言った。

  「遅い!あと少しでゴジラが暴れ出すところだったぞ!」

  牛谷が怒鳴った。

  ゴジラって誰のことだ?

  「謝るから殴らないで下さい」

  犬井が雅に頭を下げた。

  「……俺かい」

  厳つい顔に逞しい身体、黒い鱗は確かにあの大怪獣に似ているかもしれない。

  しかし残念ながら、雅には暴れ回るどころか怒る体力すらなかった。

  あの大怪獣なら、こんな暑さの中でもしっかり東京を破壊するのだろう。大怪獣のその真摯な仕事ぶりは尊敬に値する。

  「ちょいちょいっ!そんなことより、陽斗のその目どうしたの!?」

  希月は犬井の左目に手を伸ばそうとし、触ってはいけないと思ったのか途中でその手を引っ込めた。

  今はテスト期間中で部活禁止なのだが、久しぶりに見た犬井は海賊が着けていそうな黒い眼帯を着けていた。

  「ふふん、よくぞ訊いてくれました!」

  犬井が胸を張って高らかに言った。

  「この眼帯、なんと薬局に普通に売ってたから買ってみたのです!」

  「え、じゃあ怪我とかでは……」

  オチを察した希月の声が尻すぼんでいく。

  「ない!僕は健康優良児だから。今のところ学校も部活も皆勤です!」

  あまりの馬鹿馬鹿しさに舌打ちしそうになったが、雅はすんでのところで舌を止めた。きっと苦虫を噛み潰したような歪な顔をしているだろう。

  犬井にはこういう厨二病じみたものに惹かれる習性がある。眼帯なんて目の前にぶら下げられたらホイホイ買ってしまうだろう。

  「そういえば、昨日も学校で着けてたよな?」

  熊山は犬井の隣のクラスなのでよく見かけるのだろう。熊山の問いにうん、と犬井は答えた。

  「マジか。クラスメイトは何か言われないのか」

  信じられん、といった顔で牛谷が訊く。

  「どーしたの、って訊かれたよ」

  「……なんて答えたんだ」

  「眼球を貫かれた、って」

  「…………誰に」

  「柔道部の黒竜に」

  ぶふっ、吹き出す音がした。

  「柔道部の黒竜でも笑うんだなぁ」

  全くいわれのない罪を背負った黒竜を見て、希月は朗らかに言葉をこぼした。

  余談だが、それを聞いた犬井のクラスメイトは「犬井は勇者だな!」と讃えたらしい。完全に雅は悪の魔王扱いである。

  学校が休みである土曜日の真昼間から集まったのは他でもない。期末テストに向けた勉強会のためである。

  希月が「一人で勉強したくな〜い!」と雅に引っ付いていたのを、他の三人が見て参加を希望し発足した会だ。

  雅は希月の「ご飯おごるよ」という言葉に[[rb:誘 > いざな]]われ、結果的には柔道部一年生総参加となった。『おごる』という言葉は貧乏性には魔法の言葉だ。

  『流石は進学校に通う生徒たち。賑やかなファミレスであっても集中を切らすことなく、着々とページを[[rb:捲 > めく]]る。時には分からないところを教え合いながら切磋琢磨していく姿は、まさに高校生のあるべき姿と言える』

  「……んなワケあるか、ボケ」

  雅は自分のメルヘンチックな妄想を粉々に叩き割った。

  「なぁなぁ実!ポッキーゲームしようぜ!」

  「力、ポッキー持ってきたのか?」

  「いいや。でもコレでできるだろ」

  そう言って牛谷が手に取ったのは熊山が注文したフライドポテト。そのポテトをくわえ、口を突き出した。

  「ん〜」

  「しゃあねぇ、やったるか!」

  熊山は牛谷の突き出したポテトをくわえた。

  「うっわ〜、めっちゃ油ギッシュなポッキーゲームだ」

  入口での一件後、眼帯を雅に奪われ目元がクリアになった犬井が呟いた。

  トントン、と肩を叩かれた。隣を見ると、ポテトを口にくわえた希月がその先端を雅に差し出していた。

  「ん」

  ポテトのほとんどが希月の口の中に含まれており、先端がちょこんと申し訳程度に出ている。

  「チッ」

  雅は希月のマズルを上下から両手でガシッと掴み、潰すように力をいれた。

  「ンンン!」

  噛み切られたポテトの先端がポロリとシートに落ちる。雅は片手で希月のマズルを掴みながらそれを手に取ると、ポテトを希月の右の鼻の穴にねじ込んだ。

  「ンンンンンン!!!」

  「うわぁ、えぐい」

  「流石『二中のドクリュウ』だね」

  聞き覚えのある忌み名に雅はピクリと反応した。

  「犬井、それ誰から聞いた」

  「二中出身のクラスメイト」

  「なんだなんだ、そのヤバそうなあだ名」

  熊山が興味津々、といった様子で訊いた。

  「そういえば、ゲームセンターで雅に絡んでた不良っぽい人達もそう呼んでたよね」

  ポテトが詰まって鼻声の希月は、左の鼻の穴を指で塞ぐとフンッと鼻息を飛ばす。そして落ちたポテトの欠片を紙ナプキンで丁寧に包んだ。

  「何でも、雅が不良として名を馳せてた時の通り名らしいよ」

  「へぇー、どういう意味なんだよ」

  「おいお前ら、その話はやめろ」

  この話題を止めさせようと身を乗り出した雅の視界を突然なにかが覆った。手で触れると薄く滑らか質感。視界を遮るそれを手に取り、それが何だったのか認識した。

  一万円札だ。

  「『二中の』ってのは雅が第二中学校出身だから。で『ドクリュウ』っていうのは、いっつも一人だから孤独の『独』から取って『二中のドクリュウ』なんだって」

  雅が両手にある一万円札に魅入っている間に、犬井が話しきってしまった。

  視界の端では隣に座っている希月が黒光りする長財布をポケットにしまっていた。紙幣で人の目を隠すとは、やはり金持ちはやることが汚い。

  「ぶぉっ!だっせぇぇぇ!」

  「力、笑いすぎっ!」

  吹き出した牛谷を希月が窘める。が、雅は希月の口角がプルプルと震えているのを見逃さなかった。もちろん、食べ物を吹き出しそうになって必死に口を抑える熊山も。

  「そうだよね。僕も初めて聞いたときは『ダサ!』って言っちゃったもん!」

  犬井が意気揚々と追い打ちをかける。

  「言っておくが、俺が自分で名乗ってた訳じゃないからな!批評するなら付けたやつに言え」

  雅は吐き捨てるように言うと、一万円札を自分の財布に入れた。

  「あ、会計する時はその一万円で払ってね」

  「……ケチッ」

  話が一段落すると皆、教科書やノートを開いて勉強を始めた。皆、ページをめくるのが早い。やはり腐っても進学校に通う生徒か、と雅は思った。

  しかし、そうではなかった。

  「よぉーし、休憩!」

  牛谷はパタンとノートを閉じた。口を閉じてシャーペンを持ってから十五分後の出来事である。

  他の皆も牛田に同調して参考書を閉じた。ペラペラとページをめくっていたのは、単に集中できていなかったからだったようだ。

  「なにが休憩だ。そういうのは最低でも一時間ぶっ通しでやってから言え」

  「雅……お前、真面目か?」

  牛谷は聖書を読む悪魔でも見るかのような目で雅を見た。

  「意外と雅は真面目だよ。授業中に居眠りして怒られる、みたいなこと、一回もないもん」

  「それは先生が雅にビビって注意できないんじゃない?」

  「ちがうちがう。ホントに起きてんの」

  へぇぇぇ、と犬井の心底驚いた顔が癇に障ったので、パァンと脳天をひと叩き。犬井はいったぁ!と言って頭を抑えた。

  「この前の中間テストの順位はどうだったんよ」

  牛谷が雅に訊いた。

  「教えねぇ」

  「クラス順位だと4位で、学年だと20位くらいだったよ」

  「おい、なんで知ってんだよ」

  教える気などサラサラなかった雅だが、隣の希月があっさりとバラしてしまった。

  「大神財閥の情報網を駆使したら一発だったよ」

  「権利のクソ乱用だな。この一件を告発したら大神財閥の信用は失墜するぞ」

  「ふふん、うちの会社は高校生の証言程度で揺らぐほどヤワじゃないよ!」

  希月は自信たっぷりに言い放った。

  ムカついた雅は脳天にゲンコツを叩き込んだが、予期していた希月は手で頭をガードした。予想通りと言わんばかりのドヤ顔に、雅は拳を震わせてリベンジを誓った。

  「なぁ、雅の優等生エピソードはもういいからメシ頼まね?」

  「雅が不良モドキだって分かっただけで十分だしな」

  熊山の提案に牛谷がつまらなそうに同意した。

  雅も昼食はまだ食べていなかったので空腹を感じていた。

  さっとスタンドからメニュー表を取り広げると、たっぷりのデミグラスソースをかけられもくもくと湯気がのぼるハンバーグがドーンと現れた。きゅるると腹が鳴るのは抑えられても、ごくりと唾を飲み込むことは我慢できなかった。

  ペラッとページをめくれば今度はパスタだ。ミートソースが絡んで赤くなったパスタも、クリームが濃厚そうなクリームパスタも良い。隣のページのピザも美味しそうで目移りしてしまう。

  「全部ウマそうだな」

  「そうだよね、迷っちゃうな〜」

  隣からメニューを覗いていた希月がウンウンと頷いた。

  「雅は何にする?」

  雅はぐぅぅぅ、と呻きながらメニュー表を睨みつける。とても一つには決められない。せっかく希月の一万円があるのだ。複数の品を頼むのも手だろう。

  しかし、母が毎日少ないお金で料理をやりくりしているのを見てきた雅だ。頼みすぎて食べ切れない、なんて理由で食べ物を粗末にするのは断じて許せない。

  一体、どうしたものか。

  「もし決められないならさ」

  煮え切らない様子の雅に希月が声をかけた。

  「僕も雅が食べたいもの頼むから、半分こしようよ」

  その発想はなかった、と雅は柄にもなく顔を輝かせた。

  「じゃあ、俺がハンバーグプレートとミートソースパスタ頼むから、希月はマルゲリータとクリームパスタを頼んでくれ」

  「結構多いね……。でも、いいよ。その代わり、僕にも雅の少し分けてね」

  「分かってる」

  他の三人は既に決まっていたので、呼び鈴を鳴らし注文を済ませる。

  たわいの無い話をしている内に、気付けば料理が机の上を占拠しており、教科書たちは隅に追いやられていた。

  「いただきますっ」

  熊山は早口に言うと、すぐさまアツアツのステーキにかぶりついた。

  「あっつ!けどウマっ!」

  フォークを動かす手はほんの少しも止まらず、ひたすらステーキを口に放り込む。熊山は食べてる時が一番楽しそうだ。

  「はい、雅」

  希月が小皿に取り分けたクリームパスタを差し出した。

  雅も目の前にあるミートソースパスタを小皿に取り分け希月に渡す。目の前に赤と白のパスタが並んだ。

  「いただきます」

  ミートソースパスタから口に運び、次にクリームパスタを口にした。一度の食事で異なる美味いものを食べることができるとは、一人ではできない贅沢だ。

  「俺のカキフライ一個やるから、雅のパスタ少しくれよ」

  「デカいのよこせよ」

  雅は皿ごと牛谷に渡す。牛谷は四分の一も食べたので、雅も大きなカキフライを二つぶんどった。タルタルソースが絡んでいて美味しかった。

  「みんなもピザ食べて、たくさんあるから」

  「いいの?食べたかったんだよね」

  希月がピザを勧めると、犬井が嬉しそうに一切れ取った。

  「テスト終わったら、高校初の夏休みだよ!どうするどうする?」

  美味いものを食べて気分が上がったのか、希月がテンション高く言った。

  「行くなら海だな。俺のこの巨乳を披露したい」

  そう言って牛谷は自分の胸を揉んだ。

  「いや、僕らは十分見てるけどね」

  犬井の冷めた言葉通り、道着に着替える度に全裸になる牛谷の身体は全員が見慣れている。

  「確かに力の胸はデカいけどさ、雅のもけっこうおっきくない?」

  雅の隣の白い犬っころから、まさかの問題発言だ。

  「あー、確かに。いつの間にか雅もノーパン派になってたからよく見るけど、雅の方が大きそうだな」

  熊山が頷いた。

  「お前ら、マジ、黙れ」

  雅はどさくさに紛れて雅の胸に伸びる希月の手を[[rb:叩 > はた]]き落とした。

  「僕は合宿が楽しみだな」

  「合宿?」

  犬井の『合宿』という言葉に雅は首を傾けた。

  「あぁ、雅はまだ聞いてなかったか。八月の下旬に栃木の山奥の武道場まで行くんだぜ」

  「なんでそんな遠くまで行くんだよ」

  「雅は今年から柔道始めたから分からないと思うけど、夏場の道場はヤバいんだよ、暑すぎて。だから、少しでも涼しい場所で練習するの」

  暑いという理由で遠くまで行くなんて、大層贅沢な金の使い方だ。そんなことなら我慢して別のことに金を使った方が有意義だ。例えば家庭菜園とか、どうだろう。

  「夕飯食ったら、夜は恋バナとかどうよ。青春じゃね?」

  「実はオトメか!合宿の夜といったら枕投げっしょ!キミたちに枕の味ってやつを教えてやんよ!」

  意気揚々で宣言する犬井が一番弱そうだと思ったことは、雅の胸の内に仕舞おうとして

  「ぜったい犬井が一番ザコいだろ」

  やっぱり止めたのだった。

  帰路に着いた時には、日は沈んで真っ黒な空が広がっていた。都会の夜空では星は輝かない。頻繁に現れる街灯が道を照らし、月を頼りに夜を歩くこともない。

  風情のない日常だが、それでも空に浮かぶ三日月は泰然として、その威容に少しの[[rb:翳 > かげ]]りも見せない。

  「あんなの、絶対に勉強会じゃないだろ」

  今日のどんちゃん騒ぎを思い出す。

  ファミレスに滞在した時間が五時間ほどだったのに対し、雅達が勉強した時間は三十分あるかないか。

  「ったく、時間の無駄だったな」

  本当に、勉強会とは名ばかりの下らない集まりだった。

  しかし、四時間半もくだらないことを話して過ごすことなど、今までの人生であっただろうか。あの時間を思い返す度に、体が雲になったみたいに軽くなる。

  足取り軽くアパートの階段を登る。最近はギイギイと軋む音も気にならなくなっていた。

  鍵穴に鍵を差し込み、くるりと回す。カチャリと小気味良い音がした。

  「ただいま」

  雅は何も見えないほど真っ暗な部屋に向けて声を発した。

  だが、雅に「おかえり」と言ってくれるヒトはいなかった。

  しかし、それはいつものことだ。

  暗い部屋に向けて、返ってくることのない挨拶をする。何千回と繰り返してきた、白浜雅の習慣。

  手探りで照明のスイッチを押す。

  パチンと大きな音がして、空っぽな部屋があらわになる。

  誰も見ないテレビ。

  誰も立たないキッチン。

  誰も座らない椅子。

  家族がいない家は、まるでハリボテのように空虚だ。

  「……くそ」

  すぐ側にヒトがいたファミレスから、一人ぼっちの家。

  喧騒に慣れてしまった耳に、この静寂は痛かった。

  ダイニングテーブルには雅の分の食事だけが置かれている。コップも箸も用意されている。お腹を空かせて帰ってきた雅が少しでも早くご飯を食べれるよう、箸を揃える母の姿が頭に浮かんだ。

  その時はまだ、ご飯も温かかっただろう。

  「母さんと、一緒に……」

  ご飯を食べたかった。

  [newpage]

  [[rb:碧碧 > あおあお]]と[[rb:茂 > しげ]]る木々はトンネルのように道を覆う。その隙間から漏れる陽の光。景色は絶えず後ろに流れていく。時折見かける道端の花たちが愛らしい。特に白い花がよく目を引いた。

  ガタゴトと揺れる振動を感じながら見る外の景色は、とても雅の好みだった。

  「……きた!」

  マイクロバスの一番後ろの五人席を占領した一年生たちの真剣勝負は終盤に差し掛かっていた。

  希月が二枚のトランプカードを翻す。スペードとクローバーの11だ。

  「あぁぁぁぁ!俺のお菓子がーーー!」

  どうやら希月と熊山のババ抜き最下位争いは決着が着いたらしい。

  「それじゃ、ありがたく」

  希月はお菓子が入った最後のひと袋を手に取った。

  それぞれが持ち寄ったお菓子を一位から順に多く貰い、最下位には何も無し、というルールのババ抜きをしていたのだ。

  「実の食い意地すごいな。ポーカーフェイスもクソもないぞ」

  牛谷の言う通りだ。実の顔が天国と地獄をコロコロと行き来するものだから、どれがジョーカーなのか一目瞭然だ。結局、熊谷にジョーカーが来てからそのジョーカーが誰かの手に渡ることはなかった。

  ちなみに、お菓子を賭けるルールを提案したのは熊山である。

  「『策士策に溺れる』みたいだけど、そう言うのもおこがましいくらい弱かったね」

  犬井、追い打ちをかける。

  「頼む雅、チョコ一粒でいいから分けてくれ」

  熊山は雅の膝元に蓄えられたお菓子の山を羨ましそうに見やった。何を隠そう、ババ抜き一位は雅なのだ。

  「……ま、いいだろ」

  雅は容器を振ってチョコレートを一粒、自分の手のひらに載せた。

  「ほら」

  「雅、マジ神!」

  熊山が手のひらのチョコレートを取ろうとした瞬間―――雅はサッと手を引っ込めてチョコレートを自分の口に放り込んだ。

  「ガハッ!」

  呻き声を上げて熊山は動かなくなる。

  こういうのが気持ち良いんだよ、と雅は内心ほくそ笑んでいた。

  「真っ黒だなぁ……」

  雅の胸中を察したのか、希月はそう呟いた。

  合宿所は森に囲まれた小学校、といった印象だ。

  合宿所に続く道を除けば一面緑に覆われており、その道は未舗装の砂利道で街灯なんて一つもなかった。スマートフォンは当然のように圏外だし、町まで車で一時間はかかる。田舎どころか、秘境と言っていいんじゃなかろうか。

  しかし、雅はこの場所を気に入っていた。

  東京は狂ったかような蝉の鳴き声に支配されていたが、ここは蝉の合唱と木々のさざめき、そして時折聞こえる鳥の声の美しい旋律で満たされている。広大な天空にはまるで富士山のように雄大な入道雲が威容を示し、都会の病的な熱さもない。

  かつての健やかな夏が、ここにはあった。

  豊かな自然を前に感傷に浸っていた雅だが、それをぶち壊す粗暴な顧問の声が鼓膜を叩いた。

  「各自荷物を部屋に運べ。十時から練習を始めるからさっさと動いて柔道場に集合しろ!」

  ……分かっていたとも。

  あんな風情のふの字もない[[rb:朴念仁 > ぼくねんじん]]に、この自然の素晴らしさなど分かるはずもない。

  しかも今は九時五十分。たった十分で準備しろとは横暴過ぎやしないだろうか。

  雅は大きなため息を吐き、自分のバッグを持って入口に向かった。

  いつの間にか隣にいた希月が雅に話しかける。

  「ねぇねぇ雅」

  「……あ?」

  虫の居所が悪い雅の反応はガラの悪いものだった。が、希月はいつもと変わらず楽しそうに言った。

  「ここ、すごく自然豊かだね。小学生の頃に行ったグアムを思い出すよ」

  「栃木の田舎とグアムじゃ比べ物にもならねぇだろ。あとお前、マウント取ってんのか?」

  雅たちは二階の部屋に荷物を置き、道着に着替えると柔道場に向かった。柔道場に入ると「ギリギリだぞ!」と顧問に怒鳴られたが、そもそも顧問の指定した時間がすでにギリギリなのだから怒られるいわれはない。

  練習始めの挨拶を終えるとストレッチや前転、側転などの準備運動をこなす。そして準備運動の終わりは受け身の練習。パァンと畳を叩く音が響き渡る。雅も受け身だけなら他の部員と遜色ないものをできるようになっていた。

  打ち込みや乱取りのような組み合ってする練習は、体格的に牛谷や熊山とすることが多い。今日は牛谷と組んでいて、熊山は顧問と組んでいる。

  打ち込み稽古で技を確認したら次は乱取りだ。乱取りは互いに技をかけ合う、実戦的な練習だ。

  雅は牛谷の道着の[[rb:裾 > すそ]]と[[rb:襟 > えり]]を掴む。

  牛谷も同様に雅の道着を掴んで組み合った。

  「――ふっ」

  牛谷が踏み込む。グッと力を込めた吊り手が雅の体を浮かせようとする。

  瞬間、当たった、と思った。

  雅は重心を下げ、体勢を維持する。

  牛谷は刈足を振り上げ、強引に雅を崩そうとする。

  ――今だ。

  足を踏み込み、釣り手を引く。そして、体勢を崩した牛谷の足を刈り上げた。

  片足で不安定な牛谷は、雅の返しに耐えられない。

  ズドン、と大きな音をたてて牛谷は畳に倒れた。

  「マジか……」

  倒れた牛谷が信じられない、といった顔をしている。

  「すごいよ雅!今の大外刈返し、めちゃくちゃ良かった!」

  興奮を隠しきれない様子で希月は雅に詰め寄った。尻尾は我がことのようにブンブンと喜びを表していた。

  「よく牛谷に大外刈りやられてたから……。それでヤマ張ってたら当たっただけだ」

  「そうだとしてもキレイな返しだったよ!」

  真っ直ぐに見詰める希月に耐え切れず、雅は目を逸らした。

  雅の背後では牛谷が犬井に「やーい、初心者に投げられてやんの」と煽られていた。「うっせ」と言って牛谷は立ち上がった。

  「あーあ、舐めて大外やりすぎたか」

  「いや、今のは雅が上手かったよ」

  「……希月が、教えくれたお陰だ」

  もごもごと気恥しそうな雅に、牛谷と犬井がブブッと吹き出した。

  「……何笑ってんだ」

  「ドクリュウにも可愛いとこあるんだね」

  「うっせぇ犬井!」

  顧問の「休憩」の号令を聞いて、力たちは道場の外に駆け出して行った。多分、自販機に飲み物を買いに行ったのだろう。

  希月はそれを見送ると、体を畳に放った。畳の匂いが鼻腔をくすぐる。

  四歳から柔道を始めたが、道場によって畳の匂いは少し違う。この道場は古本屋のような黴臭い匂い。

  それに混じって、好きな人の匂いが届く。森林浴をしているかのような、樹木系の香りだ。

  少し不機嫌そうな顔だけど、それはいつも通りの表情だ。

  雅の機嫌は尻尾に表れる。

  希月の隣に雅は胡座をかいて座っている。尻尾を持ち上げ、ぱたん、と畳に落とす。その繰り返し。

  こういう時の雅は上機嫌なのだ。

  「始めてだね。雅が乱取りで一本取ったの」

  「……あぁ」

  「気持ちよかった?」

  「……あぁ」

  ぱたん、と尻尾が鼻先に落ちる。埃が僅かに舞った。

  交わされる言葉は少なくとも、穏やかに揺れる黒い尻尾を見ているだけで心が満たされる。

  規則的に鳴る音が、ふいに消えた。

  と、思ったら顔に何かが降ってきた。ぴたん、と顔を優しくたたく。硬い何かが、希月の視界を覆った。

  「雅の尻尾は硬いんだね」

  希月は顔の上に乗った雅の尻尾をさわる。鱗に覆われた尻尾は太くて強靭そうだ。

  「内側はヤワいけどな」

  希月は雅の尻尾を掴み、少し持ち上げた。

  「ホントだ。プニプニだね」

  クリーム色の鱗はとても柔らかくて、指で押すと指が沈む。上部の硬い鱗からは想像もできない優しい手触りだ。

  「他にも柔らかいところある?」

  「手のひらとか腹とか、体の内側は柔らかい」

  そう言えばそうだった。朝練に付き合ってもらった時も、思いがけない手の柔らかさに驚いたのだった。

  「人は見かけによらないね」

  「そんな事ないだろ」

  雅は希月の穏やかに揺れる尻尾を見て言った。

  「希月」

  「なに?」

  普段とは違う、どこか緊張した雅の声。中学生の頃に告白してくれた女の子のように、勇気を振り絞った顔をしていた。

  断られるのが怖い。でも、もっと近くに居たい。

  恐怖を乗り越えようとする決意を湛えた顔だ。

  「夜、少し付き合ってくれないか?」

  食事を済ますと希月と雅は外に出た。

  すでに空は暗く、夜のとばりが落ちている。涼やかな風は夏の熱気を吹き流し、森からは秋の虫たちの声が聞こえてきた。

  「夜は涼しいね」

  「あぁ、東京と違って気持ちがいい」

  二人は合宿所から続く道に沿って歩いた。

  頭上を覆うように木々が枝葉を伸ばしている。街頭なんてもちろんないし、月光も届かないので、まるで明かりのないトンネルの中を歩いているようだ。雅は鱗が黒いし、着てるジャージも暗い色だから闇に溶け込んで見えにくい。

  一人、出口のない、永遠に続く暗闇の中を歩いているかのようだった。

  小学生の頃に姉や兄と一緒に見たホラー映画を思い出した。まさにこんな真っ暗な森の中で、魔女の爪のように細くくねった木の枝が不気味に伸びていた。その木の陰から飛び出した顔の無い化け物が主人公たちを襲うのだ。

  希月はあの映画のように木の陰に何かが隠れていて、希月たちを伺っているのではないかと震えていた。気付けば尻尾が股に挟まっていた。

  「希月」

  怯えきっていた希月は、突然の雅の声に飛び跳ねた。

  「これ、見てみろよ」

  幸い、暗闇のおかげで希月の様子は見えなかったようだ。希月は怯えながら、雅の声がした方へ早足で向かった。

  「な、なに?」

  「この花、知ってるか?」

  地面にしゃがみ込んだ雅が指さしたのは、茎の先に小さな白い花弁が花束のように集まった花だった。

  「う、ううん。知らない」

  希月が首を振ると、雅は楽しそうに話し始めた。

  「こいつはゼラニウムって花だ。南アメリカ原産の花で、200種類以上ある。白より赤とかピンク色の方が有名だな」

  「へぇー、そうなんだ。でも、よくこの暗闇で花の種類まで分かったね?」

  「部活に入る前は夜によく散歩してたんだ。で、家の近くの公園の花壇に植えてあったからよく見るんだ。

  ちなみに、白のゼラニウムの花言葉は『尊敬』とか『育ちの良さ』だ。お前に合ってるな」

  そう言われて、希月は再びゼラニウムをじっと見た。暗闇にぼんやりと浮かぶ白い花は、怖がる希月に雅が送ったブーケのように思えてきた。

  「なんか嬉しい。ありがとう、見せてくれて」

  雅は満足気な顔をして立ち上がると、少しイタズラっぽい笑みを浮かべて言った。

  「ちなみに白いゼラニウムには『あなたの愛を信じない』っていう花言葉もある」

  「え、どういう意味!?」

  「言葉通りの意味だろ」

  はぐらかす雅に希月は困惑した。しかし、気付けば暗闇の森に対する恐怖は消えていた。もしかしたら、怖がっている希月の気を紛らわそうとしてくれたのかもしれない。

  前を行く雅の背中はいつもより大きくて、股に挟まっていた尻尾はいつの間にか緩やかに揺れていた。

  「ここ良いな」

  しばらく進んで雅は足を止めた。

  そこは深い森の中でぽっかりと空いた場所だった。周りを木に囲まれたそこは、まるで自然に造られた舞台のように月光のスポットライトに照らされている。

  「星が見える」

  顔を上げれば、[[rb:儚 > はかな]]い光の欠片が散りばめられた夜空があった。満点の星空とはいかないが、森の澄んだ空気はありのままの輝きを伝えてくれる。雨に打たれても消えない灯火のような芯のある輝きが、希月の目に焼き付いて離れない。

  「東京じゃこうはいかない。こんな辺鄙な場所まで来たかいがあった」

  雅は夜空を見上げて言った。

  「雅は星が好きなの?」

  「星だけじゃない。自然が好きなんだ」

  「へぇ、雅だね」

  希月の冗談を気に入ったのか、雅は顔を和ませた。

  「自然は、ヒトと違って傷付けてこない。誰に対しても不干渉だけど、その美しさは見るだけで充分助けになる。だから、辛いことがあった時なんかは今日みたいに散歩するんだ」

  雅の瞳に星が散らばっている。

  ガラスの破片のように鋭利な輝きを伴って。

  「……辛いこと、あるの?」

  言葉を選ぶように慎重に希月は訊いた。

  雅は目を丸くした。自分を心配する他人の存在に驚いた様だった。

  「どこかのお節介が部活に誘ってくれたからな。散歩するどころか、悩む時間すらない」

  だが、そんな表情はたちまち意地悪な笑みに変わった。

  希月は胸を撫で下ろした。

  「雅が部活を楽しんでくれてるなら、僕も頑張って勧誘したかいがあったよ」

  そう嬉しそうに言って、しかし、希月は再び顔を曇らせた。

  「でも、最近は、ってことは前はあったんだ」

  「……まぁ」

  喉に棘が刺さったかのように、その声は痛ましい。

  「……僕に、話してみない?」

  決して、興味本位で訊いた訳ではない。

  好きな人が、痛みを抱えながら生きているのが嫌だった。そして自分なら、その棘を抜いてあげられると思ったのだ。

  ――しかし

  「……その話は、したくない」

  雅は希月の手をやんわりと断った。

  「いい夜なんだ。俺の昔話なんて無粋だろ」

  そんなことない。

  そう言おうとして、希月は止めた。

  ――雅はゆっくりと、瞼を閉じる。

  瞳に星が映らずとも、その表情はとても満ち足りていた。

  今を蝕む過去があっても、希月といるこの瞬間を、目の前の黒い竜は[[rb:慈 > いつく]]しんでいる。

  雅にとって、この瞬間は子守唄なのだ。

  痛みに泣き出しても、優しく包み込む母の抱擁。幸せで、健やかな日々を願う、母の声。

  希月はその子守唄の一部で、雅はそれに耳を傾ける。

  そして同時に、雅もまた子守唄の一部であり、希月もまた聞き手なのだ。

  希月は深く息を吸った。

  土の匂い。森の匂い。雅の匂い。

  耳を澄ます。

  虫の音。風の音。自分の心臓の鼓動。

  今この瞬間だけの、自然と二人が創る――狼と竜の唄。

  「確かに、そうだね」

  でも、せっかく二人なのだ。

  この歓びを一人で噛み締めるのはもったいない。

  「だから、未来の話をしよう」

  希月の提案に、雅は戸惑った。

  「普段は一人で花や星を見るだけで満足かもしれないけど、今は僕と雅の二人なんだから。二人じゃないとできないこともしようよ。きっと、もっと素敵な時間になるよ」

  「でも……」

  雅は困惑した表情を浮かべた。希月との会話が嫌、というわけではない。一人でこの時間を堪能していた雅には、こんな時に何を話せばいいのか分からないのだ。

  「なんでもいいよ。雅が思ったことを教えて」

  雅は頬をかきながら考え込んだ。時折、悩ましげに首を傾げたり、喉を鳴らして呻いたりした。

  希月は黙って待った。どれだけ待っただろう。五分か十分か、もしかしたら一時間待ったかもしれない。

  ようやく雅は重い口を開いた。

  「桜を、見に行きたい……」

  「さくら?」

  「小さい頃に母さんと見た桜の木があるんだ。思い出の桜の木なんだが、母さんいわく『冬が一番綺麗』らしい」

  「冬が一番綺麗……?」

  桜といえば、花が咲く春ではないのか。冬の桜なんて葉すらないだろうに。

  「あぁ、俺もその光景を見たことはないんだ」

  でも、と雅は続けた。

  「星を見るだけでこんなに楽しいんだ。きっと、希月とその桜を見れたらもっと楽しいと思う」

  雅の照れたような控えめの笑みに、過去最高速度で希月の尻尾が揺れる。この調子なら空に飛び上がってしまうかもしれない。

  「そっかそっか!じゃあ、見に行かなくちゃね!」

  希月は跳ねるように雅に近づいた。鼻と鼻がぶつかりそうなほど顔を寄せる。

  「約束!冬になったら、二人で桜を見に行こう!」

  二人の唄は熱を帯び、踊り出しそうなほど賑やかに。

  一夜限りの演奏、けれど、確かなものが二人の胸に。

  半ばの月が、静かに二人の唄を聞き届けたのだった。

  [newpage]

  二泊三日の合宿は瞬きのうちに終わった。

  合宿最終日、午前中は練習し合宿所を出たのが昼過ぎ。高速道路で渋滞にはまり、マイクロバスが学校に着く頃には太陽は沈み夜の[[rb:帳 > とばり]]が落ちていた。

  雅は荷物を詰め込んだバッグを肩にかけて、家に帰る道を歩く。五メートルおきに現れる街灯が帰り道を明るく照らした。真っ暗な森の中とは大違いだ。おかげで星なんて見えやしない。

  「……でも」

  月だけは変わらず、夜空に浮かんでいる。

  円を半分に割ったような綺麗な半月。その輝きは希月と見た夜空のそれと同じだ。

  尻尾が小さく揺れる。

  月を見ていると、希月と交わした約束が自然と思い出された。

  ……約束なんて、いつぶりだろうか。

  少なくとも、あれ以来、誰かと約束をしたことはない。

  果たせるかどうかは分からない。

  だが、果たせたらいい、と思った。

  「誰かと一緒にいるのって、楽しいんだな」

  自然とこぼれた一言が、雅の足取りを軽くした。

  早く帰ろう。

  小学生の頃のように、母さんに今までのことを話したい。

  楽しかったこと、嬉しかったこと――好きなこと。

  これまで失ってきたものを取り戻すように、今だけの楽しみを取りこぼさないように、この時を大切にしたい。

  そう思えるようになったことを、母さんに知って欲しい。

  街灯の数が減り、闇が増す。家の近くは街灯が少ない。

  やがて道を照らすのは空に浮かぶ月だけになった。淡い月光は心もとないけれど、今はそれで十分だった。

  母が待つ家はすぐそこだから。

  ―――ふと、ポケットのスマートフォンが震えた。

  見知らぬ電話番号に不穏なものを感じながら、雅は通話ボタンを押した。

  「もしもし」

  「白浜雅さんの携帯ですか?」

  「そうですけど」

  相手は聞いたこともない女性の声だった。切羽詰まった声が不安を煽る。

  「これから話すことを、落ち着いて聞いてください」

  女性はそう切り出して、話した。

  

  厚い雲が、月を覆う。

  真っ暗な世界は震えるほど寒かった。

  夏の終わり。

  届いた急報は母が職場で倒れた、というものだった。

  ―――輝く月は、もう、見えない。

  [newpage]

  合宿明けの部活日、顧問は道場に入ってきて開口一番にこういった。

  「白浜が部活を辞めた」

  雅が、部活を辞めた?

  混乱した頭は理解を拒む。

  合宿の時はあれほど楽しそうだったのに、何故?

  「せ、先生っ」

  「なんだ」

  思考の整理も、何を言うかも定まらない。しかし、聞かずにはいられなかった。

  「なんで、雅は辞めたんですか」

  「家庭の事情だ」

  顧問から飛び出た言葉は非常に端的で、希月が求めた答えからはほど遠い。

  「それだけじゃ、何も分からないです。家庭の事情ってなんですか」

  「他人に話せないから、家庭の事情って言ってるんだ」

  希月はくってかかったが、顧問は取り付く島もない。

  「準備運動、始め!」

  これ以上の問答を拒むように顧問は声を張り上げた。その声に背中を押されて、部員たちはパラパラと走り始める。

  「ほら、行くぞ」

  走り出す素振りすら見せず顧問を睨み続ける希月の腕を、力が強引に引っ張った。

  最後に希月は顧問をキッと睨みつけ、既に走り出している彼らの後に続いた。

  高校生が走り回るとドタドタドタ、と地響きのような音が道場に満ちる。たった一人居なくなった程度では、その騒々しさに変わりはない。

  「家庭の事情なら仕方ないよなぁ」

  大きな腹を揺らしながら走る実が、そう呟いた。

  「せっかく仲良くなってきた所なのにね」

  隣を走る陽斗が頷く。

  二人にとって、雅のことは既に踏ん切りが着いたことなのだろう。惜しむような言葉だが、その納得の早さは薄情に思えた。顧問が来る前、雅が来ないと心配していた言葉は嘘だったのか。

  準備運動を終えると、次は打ち込み稽古だ。

  今までなら雅と力と実が、あまりを決めるジャンケンをしているはずだった。あまりは顧問と組むのだが、三人ともそれが嫌で、白熱した勝負を繰り広げていた。そして、敗者は顧問の目も気にせず悪態をつき、それを聞いていた顧問が容赦なく投げ飛ばすのだ。それを見るのが、希月のちょっとした楽しみだった。

  「希月、内股やるよ」

  「……うん」

  しかし、今日は見られない。

  大柄な牛と熊が組み合っている。まるでいつも通りの組み合わせかのように平然と。

  「あれ」

  突如、希月の視界がひっくり返った。

  そして気付いた時には体は畳に叩き付けられていて、馴染み深い痛みが小指に走った。

  「いっ――やらかした」

  突き指だ。こんなに強く痛むのはいつ以来だろうか。

  「ご、ごめん!大丈夫?」

  耳をぺたりと倒した陽斗が希月の顔をのぞき込む。

  「ごめん、気が散ってた。しばらく指を冷やすから、先生と稽古してて」

  「えぇー、ヤダよぉ」

  ごねる陽斗を無視して、希月は保健室に氷嚢をもらいに行った。

  戻ってきた希月は道場のすみに座り、練習を眺めていた。

  陽斗は顧問と組んで、打ち込み稽古をしている。

  本当に顧問と組むのが嫌なのだろう。ずっとしかめっ面のまま稽古をしている。それをチラチラと盗み見る力と実の二人が意地悪そうな顔で笑っていた。

  「なんで、笑ってんだろ」

  小指に氷嚢を押し付ける。小指を冷やせば冷やすほど、体の内に燃える熱との差が際立った。

  しかめっ面で練習を見学する希月の姿は、いつかの雅の姿と似通っていた。

  希月が練習に戻る前に部活は終わった。今日が夏休み最後の日ということもあり、いつもより早めに練習を切り上げたのだ。

  挨拶を終えると、希月はいつもなら他の一年生とのんびりお喋りしながら更衣室へ向かうのだが、今日は違った。素早く立ち上がると、一人で足早に更衣室に向かおうとした。

  「希月」

  その背に力が声をかけた。

  「ちょっと、こっち来い」

  そう言って力は希月を更衣室とは反対の角に連れて行った。

  「雅のこと、気にしてんのか」

  希月と同い年のはずなのに、落ち着いた力の声はいくらか年上に聞こえた。しかし、その諭すような声音が希月には気に入らない。

  「……なんで、みんなは気にしないの」

  牙を噛み締め、絞り出すように希月は言った。

  力の顔を見たくなくて、希月の目線は畳の上を滑る。新しい畳に替えたばかりなのに、畳にはいくつものささくれがあった。

  力は苦虫を噛み潰したような顔をした。角を掻きながら、言うべきが否か熟考する。やがて力はその重い口を開いた。

  「仕方ないだろ。俺たちは雅のことを、何も知らないんだから」

  「そんなこと」

  「ない」と希月は否定しようとしたが、力は「ある」と力強く遮った。

  「俺はアイツが『ありがとう』とか『ごめん』って言うのを聞いたことがない。アイツの好きな物も嫌いな物も知らない。

  なんでか分かるか?」

  力の問いの答えを、希月は持っていた。

  「……雅が、みんなに心を開いてないから」

  「……そうだ」

  力は悲しそうに[[rb:項垂 > うなだ]]れた。

  「アイツは俺たちといる時、楽しかったと思う。

  でも、それ以上はない。

  アイツは俺たちを友達だと思ってない。だから、お礼なんて言わないし、自分のことを何も教えない。

  それがアイツの示した、俺たちとの距離なんだ」

  力の言葉が希月の胸の奥深くに刺さる。

  きっと、今言ったことが力にとっての真実なのだろう。

  しかし、希月は「自然が好きなんだ」と教えてくれた雅の穏やかな顔を鮮明に覚えている。

  あの夜、雅は間違いなく希月に歩み寄ってくれた。

  人間関係が健やかだった人にとって、それは取るに足りない小さな歩みかもしれない。だが、周りに高い壁を張り続けた雅にとっては、勇気のいる一歩だったのではないか。

  「雅は小さい歩幅だけど、僕らに近付こうとしてたと思う……」

  希月の声は小さく、力が聞き取れたか定かではなかった。

  雅自身の行動でしか、力たちの認識は変えられない。しかし、雅が部活を辞めてしまった以上、その機会はもう無い。

  「……雅と一番仲が良かったのは希月だ。きっと、そうだったんだろうよ」

  力は放り捨てるように言うと、希月に背を向けた。

  更衣室に向かう力に、陽斗が「何話してたの?」と心配そうに訊くのが聞こえた。きっと隣には実もいるのだろう。力が真面目な声で話しているのが聞こえた。

  希月は唇を噛み締めながら道場を出た。行くあてもなかったが、道場にいるのは嫌だった。

  柔道部のみんなは薄情ではなかった。

  彼らが情を見せるほど、雅は心をさらけ出していなかったのだ。友人でない相手に心を割いて苦労できるのは、ほんのひと握りの聖人だけだ。

  事実、彼らは道場を出ていく[[rb:希月 > 友人]]の背に、心配そうな視線を投げかけていた。

  「大神」

  道場を出てしばらくして、声をかけられた。

  声のした方を見れば、道着のままの顧問が立っていた。

  「話がある。ついて来い」

  [newpage]

  早起きは苦手だが、いつも日曜日の朝はがんばって早起きする。重い瞼をごしごし擦って布団から出ると、隣の布団で眠っている母を起こさないようにそっと部屋のドアをくぐり抜けた。そして、音をたてないように全力で静かにドアを閉める。

  「ふぅ」

  リビングまで来てしまえばミッションクリアだ。

  あとはお目当てのブツを点けるだけ。

  「よし、時間ピッタリ」

  黒い鱗の少年はテレビの左上に表示された時間を見て上機嫌に笑った。

  朝の七時半から始まる特撮ドラマ、いわゆる戦隊モノが少年の目当てだった。カッコいい剣や銃を携えたヒーローたちが迫り来る怪獣たちと戦うのだ。

  少年をとりこにする要素が二つある。

  一つは仲間との絆だ。仲間とケンカしたり、彼らの元を去ってしまうこともあるけれど、最後には互いを受け入れて、共に戦う。少年はそんな姿に憧れた。

  そしてもう一つは、彼らは助けを求める人を見捨てないこと。助ける姿がカッコいいのではなく、助けを求めれば答えてくれる人がいる、ということが少年の心を揺さぶった。 それこそ苦手な早起きをしてしまうくらいには。そうして今日も、少年はテレビに齧り付くように見入っていた。

  しかし楽しい時間はあっという間に終わってしまうもので、気付けば次回予告が流れていた。

  「えっ、だれこのひと!」

  見た事のないシルバーの毛並みの狼獣人が現れた。基地で主人公たちと話しているからきっと味方だろう。仕草がクールでとても強そうだ。

  新たな味方の登場はどんなアニメでも一大イベントだ。

  最後の最後にとんでもない爆弾を落としていった。来週まで待たないと見れないとは、なんてイジワルなんだろう。

  少年が時間の遅さに悶々としていると、ガチャ、とドアが開く音がした。

  「おはよう。今日は早いね」

  「おはよ、お母さん!来週は新しいひとが出てくるみたい!」

  十歳の雅は今日のトップニュースを無邪気に伝えるのだった。

  「ドッジしようぜ、ドッジ!」

  四年二組の昼休みのブームはドッジボールだった。教室に二つしかないボールの片方を活発そうな男の子がぶんどると、教室中に聞こえるほどの大声で言った。

  その声に引かれるように、わらわらと男の子たちが集まった。遊び盛りの小学生にとって、ドッジボールは抗いがたい魅力がある。

  雅もその集団に加わろうとしたが、その前に、そばにいる兎の少年に声をかけた。

  「[[rb:兎田 > うだ]]もドッジいこうよ」

  兎田と呼ばれた背の低い少年は、机から本を出した。

  「ボク、図書館に本を返さないだから」

  ちらりと見えた本の表紙には、色とりどりの花のイラストが描かれていた。

  「その本の花、なんて名前?」

  「朝顔だよ。夏休みに育てたでしょ」

  「そんなの覚えてないよ。花とか興味ないもん」

  兎田は「だったらどうして訊いた」と言わんばかりの呆れ顔で雅を見た。

  「ボクは図書館に行くから、白浜くんはドッチボール行ってきなよ」

  そう言って兎田は教室を出ていった。

  「ホンのムシめ」

  雅は覚えたての言葉をその背中目掛けて投げつけた。

  ふと気付けば、さっきまでの騒がしい声が聞こえなくなっている。

  「あっ、おいてかれた!」

  教室の後ろを振り向けば、さっきまでいた集団が消えている。ドッジボールをするにあたって場所取りは死活問題で、一分一秒を争う。のんきに喋っている仲間を待っているほどの余裕はないのだ。

  ゲームが始まるまでには合流しないと!

  雅は勢い良く、教室を飛び出した。

  校庭に出ると、クラスメイトが足でラインを引いていた。できかけのセンターラインを挟んでチームが分かれているが、まだ始まってないようだ。

  「ボクも入れて!」

  「いいぜ。白浜はアッチのチームな」

  そう言ったのは、いつもクラスの中心にいる[[rb:獅子島 > ししじま]]だ。まだ鬣は生えていないが、自信に満ちた表情は実にライオンらしい。

  ラインを引き終えると、ゲームは始まった。

  ジャンケンの結果、ボールは獅子島のチームから始まった。

  ゲーム開始の一投目を投げるのは獅子島だ。ぶんっ、と腕を振り、放たれたボールはクラスでも一番を争う豪速球だ。開始直後の人の多い状況では避けにくく、猫の子が当たってしまった。

  「よっしゃ!」

  「いいぞ、獅子島!」

  向こうの陣で喜びの声が上がった。

  しかし、ボールはこちら側にある。

  「頼むぞ、白浜!」

  ボールを拾った味方が雅に渡す。雅は期待に応えようと、渾身の力で投げる。獅子島に勝るとも劣らない球速で、相手チームの羊の子を当てた。

  「ナイス、白浜!」

  「うぉっ、はぇぇぇ」

  今度はこちらから声が上る。その声に雅は嬉しそうに「やったね」と答えた。

  互いに1アウトずつの初球から、試合は互角のまま進んだ。徐々に人が減っていき、内野に残っているのは雅と獅子島だけになった。

  しかしボールは獅子島側で、雅は躱すので精一杯。どこかのタイミングでボールを取らなければ、防戦一方のままだ。

  獅子島は試合終盤にも関わらずパワフルなボールを投げる。が、ここでそれが災いする。

  獅子島のボールを外野の選手が取り損ねたのだ。

  選手の腕からすり抜けたボールは地面をバウンドして、ラインを越える。

  チャンスだ。

  雅はボールに駆け寄った。

  しかし雅がボールを掴むより先に、相手の外野から伸びた手がボールを取った。

  彼はすかさず、雅目掛けてボールを投げる。躱すには近すぎて、雅の左肩に当たったボールは地面に落ちた。

  「っしゃーー!」

  雅側のチームの内野はゼロ人になった。

  獅子島と相手の外野たちが歓声を上げる。

  「今こっちのボールだろ!」

  「いや、ライン越えるギリギリだったし」

  「そうだよな。ナイスフォローだったぜ、[[rb:鰐口 > わにぐち]]!」

  雅の抗議も、獅子島のデカい声に流される。最後のズルは有耶無耶のまま、勝敗は決まってしまった。

  「そんな怒んなよ、白浜」

  そう言って雅の肩を叩いたのは、ズルをした(と少なくとも雅は思っている)鰐口だった。

  「負けて悔しいからって、嘘ついて俺のせいにするのは良くないな」

  鰐の長い口は悪びれることなく、スラスラと雅を煽り散らかした。

  「クソムカつくっ!」

  「分かったって。その話、もう五回は聞いたよ」

  雅は下校する道すがら、隣の兎田に昼休みのドッジボールの件を熱烈に語っていた。

  兎田の言う通り、休み時間や掃除の時間、果てには授業中ですらこの話をしていたのだから、雅の怒りは相当なものだ。

  「白浜くんからは越えたように見えただけで、本当は越えてなかったんじゃない?」

  「いいや、ぜったいにラインを越えてたね。それなのにアイツ、ぬけぬけと……っ!」

  道端に転がっていた小石を鰐口だと思って、怒りのまま蹴り飛ばす。小石は跳ねるように転がって、カーブミラーのオレンジ色の柱にコツン、と当たった。

  「まあ鰐口くんずる賢いところ、あるからなぁ」

  「だろ!この前だって、親のサインが必要な提出物、自分で書いて出してたぞ」

  「白浜くんだって、たまにしてるじゃん」

  「ぐっ……」

  雅は配られたプリントを机やランドセルの奥に無造作に突っ込むタイプだった。提出日の過ぎたぐしゃぐしゃのプリントを渡す度に、母にやんわりと[[rb:諭 > さと]]されていた。

  「でも、それくらいは大したことないよ。

  お母さんから聞いたんだけど、鰐口くん、夏休みにお金払わないで電車に乗ってたみたいだよ」

  「フツーに犯罪じゃんか!」

  まさかの事実に雅は声を上げた。

  「電車乗って、どこ行くつもりだったんだ。金を払えないくらい遠くに行こうとしたのか?」

  「いや、それがさ、山手線ってあるじゃん。東京を一周するやつ」

  「うん」

  それなら雅も知っている。よく電気屋のCMの歌にでてくるし、遠出する時にたまに乗る。東京都心をぐるりと一周する路線だ。

  「山手線を走る電車にずっと乗ってたらしいよ」

  「なんだそれ。意味わからん」

  山手線は多くの人が乗る。すし詰め状態の車両は快適さからは程遠く、雅が初めて乗った時には五分で酔って、途中の駅で降りることになった。

  それをわざわざ自分から、しかも犯罪を犯してまでするなんて、雅には理解できない。

  「ボク、鰐口とは友達になれない」

  雅はカーブミラーの側にあった小石を、もう一度蹴飛ばした。

  「……僕たちには分からない理由があったのかも」

  兎田は転がって、遠ざかっていく小石を見ていた。小石はコンクリートに擦れて、擦れて、やがて側溝の蓋の隙間をすり抜けて落ちていった。

  「拾ったら?」

  兎田は消えた小石を指さした。

  カーブミラーには二本の別れ道が、映っていた。

  「誰が石っころなんか拾うんだよ」

  雅は鼻で笑って、迷うことなく前に進む。小石のことなど、すでに意識から消えていた。

  「……まあ、そうだよね」

  兎田は先を歩く雅の背中を見ながら、誰にも聞こえない声で呟いた。

  

  雅は道の向こうから、見知った白い影が近付いていることに気付いた。

  「兎田、走るぞ!」

  言うと同時に、雅はランドセルを揺らして駆け出した。

  「ちょっと!置いてかないでよ!」

  後ろから兎田が情けない声を上げながらついて来る。ガタンガタンと鳴る兎田のランドセルは、雅のより重そうだった。

  「ほら、ランドセル貸して」

  「えぇ……、なんでぇ?」

  「いいから」

  雅は兎田の元まで戻ると、ゼェゼェと息切れしている兎田からランドセルをぶんどった。自分のランドセルを背中に、そして兎田のランドセルを腹に抱えた。

  「走るぞ!」

  「なんでぇ!」

  二人は再び駆け出した。

  二人のランドセルを持っているというのに、雅の走りは軽快だった。兎田のランドセルの中でガタンガタンと本が暴れる音を聞くことすら楽しかった。

  「お母さん!」

  雛が鳴くような高い声で、雅は母を呼んだ。

  「雅、学校終わったの。

  そのランドセル、兎田くんの?」

  「そうだよ!」

  太陽のようにニコニコ笑いながら雅は答えた。

  「持ってあげたのは偉いけど、兎田くんに合わせてあげたらもっと偉かったね」

  そう言われて、雅は後ろを見た。

  ゼェハァゼェハァと息を吐きながら、兎田がやって来るところだった。

  「こ、こんにち、は……」

  「こんにちは、兎田くん。ごめんね、雅が走らせちゃって」

  「だ、だいじょうぶ、です」

  普段から本を読むばかりで運動をしない兎田は、体力も運動神経もない。

  「本読んでばっかで、ドッジボールに来ないから」

  「そういうこと言わないの」

  母は雅を優しくたしなめた。

  「お母さん、これからスーパーに買い物に行ってくるから。家に帰ったら洗濯物を取り込んでおいてくれる?」

  「任せてよ!」

  雅は胸を叩こうとして、兎田のランドセルをバンと叩いた。兎田がじぃっと雅を睨んだ。

  「ありがとう。

  これ、パン屋さんでもらったから食べてね。

  良かったら兎田くんも、たくさんあるから好きなパン持っていって。いくつでもいいからね」

  母は雅にパンが入った紙袋を渡して去っていった。紙袋はずっしりと重く、中身への期待も膨らむ。

  「あ、カレーパンある!」

  「いいな、僕にもちょうだい」

  「一個しかないからダメ!」

  世の小学生はすべからく、カレーパンが好きなのだ。

  カレーパンのためならば、ナサケムヨウ、である。

  兎田は「えぇー」と不満をこぼしながらも、紙袋を覗き込んだ。

  「じゃあ、焼きそばパンとアンパン」

  「二個はダメ。一個だけ」

  「おばさん、何個でもいいって言ってたじゃん!」

  「ボクは言ってない」

  「けち!」

  兎田はぷりぷり怒りながらもアンパンを一つ取った。そして律儀に「ありがとう」と礼を言った。

  「うむ、苦しゅうない」

  「ねぇ、前からききたかったんだけど……」

  兎田は躊躇いがちに言葉を紡いだ。

  「白浜くんとおばさんの鱗の色、全然違うのはなんでなの」

  一瞬、立ちくらみしたかのようにぐらりと地面が揺れた。

  そう感じるほどに、今の兎田の言葉は雅の心の奥まで脅かした。

  雅は兎田から目を逸らし、吐き捨てるように言った。

  「……たぶん、父親の鱗が黒かったんだと、思う」

  口の中に入った砂利のように、父親という単語は舌触りが最悪だった。

  「思う、ってどういうこと」

  「会ったこと、ないから」

  父を想えば吐き捨てるように、母を想えば絞り出すように、雅は言葉を紡ぐ。

  「……ごめん。言いたくないこと、言わせたよね」

  「別に」

  雅は兎田と目を合わせることなくランドセルを返し、歩き出す。兎田は雅の真っ黒なランドセルを視界に入れながらついていく。

  よくノートを買いに行く文房具屋を越えて、低学年の子たちが遊んでいる公園の側を歩いている時、兎田は雅の足取りが軽くなっていることに気付いた。

  「でも、いなくて良かったかも」

  「……え?」

  唐突に、雅はそう呟いた。

  「父親。いなくて良かったって」

  「なんで?」

  「お母さんを捨てた奴だもん、絶対ヤな奴だよ。

  だから、お母さんと二人だけの今の方が、ボクは楽しいと思うんだ」

  ボクたちの人生は、風船が空へ飛んでいくように、幸せへと昇っていくんだ。そう信じて疑わない、純粋無垢な幼い笑顔を浮かべて雅は言った。

  俺と似てる。でも―――違う。

  

  宙を舞う花弁を掴むように、兎田の大きな耳はずっと後ろから聞こえた声を奇跡的に捕らえた。――割れた風船が地に落ちていくような、失望した声を。

  「ボク、道こっちだから。またね白浜くん」

  そう言って、兎田は雅とは違う道を歩んだ。

  [newpage]

  カツカツカツ、と粉を散らしながらチョークが黒板を叩く。

  「平家物語とは、平家の栄華と没落を描いた軍記物語だ。鎌倉時代に作られたとされているが、作者は不明で琵琶法師によって語り継がれてきた」

  鹿の教師がチョークを動かしながら話し続ける。国語教師らしく達筆な字でさらさらと黒板に書き連ねた。

  「中学の社会は覚えてるか?

  平安時代に力を持っていた武士の二大勢力が平家と源氏。この二つの勢力が戦い、これに勝った平家は莫大な力を得た」

  雅はノートをとるのも程々にして教室を見渡した。

  大半は真面目にシャーペンを動かしているが、一部の生徒はマヌケな顔を晒して眠りこけている。進学校といえども、こういった不真面目な層は一定数いるのだ。

  雅は彼らを嫌悪していた。

  不真面目だから、ではない。他人しかいない教室で無防備な姿を晒す警戒心の無さが、雅には許し難いのだ。

  「『平家にあらずんば人にあらず』という言葉は聞いたことあるだろう?何とも傲慢だが、そう言われるほどに平家は繁栄を極めたんだ」

  クラスメイトなんて、たまたま同じ箱に入れられた他人に過ぎない。そんな者たちの前で寝ることは、戦場で敵に隙を見せるのと同義だ。

  「しかし、彼らの時代は長くは続かなかった。

  『沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす』

  どんなに栄えてた者も、いつかは[[rb:衰 > おとろ]]える、という意味だ」

  教室という檻では、何が隙に繋がるか分からない。ならば隙になりうるモノは全て、排すべきだ。ゆえに雅は、教室で眠ることも、食事することも、笑うこともしない。

  「それじゃあ一文ずつ読んでもらおう。大神から始めようか」

  「はい」

  教師に指された希月は教科書を持ってすっと立ち上がった。

  そう言えば―――沙羅双樹の花の色は白らしい。

  チャイムが四限の終わりを知らせる。

  雅は鞄からコンビニの袋を引っ張り出し、席を立った。そして教室を出て、屋上へ向かう。

  廊下には学食や購買へ行く生徒でごった返していた。久しぶりの人混みに嫌悪感を抱きながら雅は歩く。夏休み明けだと言うのに、生徒たちは活気に溢れている。彼らの会話に、共通して出てくる単語が聞き取れた。

  『文化祭』

  耳に入る度に、雅の心を逆撫でる。

  一所に押し込められて嫌いなヤツらと出し物の準備するのも、非日常感に当てられたかん高い笑い声も、反吐が出るほど嫌いだ。

  雅は足早に階段を上がった。一歩階段を上る度に、耳障りな喧騒が遠ざかる。

  雅は屋上の扉のドアノブを握ろうとした。

  「待って、雅」

  突如、背後から聞こえた声に雅は慌てて振り返った。

  そこには眼鏡をかけた希月がいた。夏休みはずっとコンタクトだったので、眼鏡をかけた希月は久しぶりだった。

  ふっと肩の力が抜ける。

  制服姿の希月を見て、昼休みはいつも一緒に昼食を食べていたことを思い出した。しかし、その手には重箱を包んだ風呂敷は無かった。

  「いきなり部活を辞めたから心配したよ」

  希月は雅との心の距離を測るように、ゆっくりと階段を登る。

  「……悪い」

  罪悪感が喉を詰まらせる。吐いた言葉は[[rb:靄 > もや]]のように薄かった。

  「ごめん、責めたかったワケじゃないんだ。ただ、ホントに急だったから、僕もショックを受けちゃって……」

  そう言って希月は俯いた。

  雅は他人には分からないほど僅かにだが、目を見開いた。怖がられて、嫌われてばかりだったから、自分がいなくなることで喜ばれることはあっても悲しまれることはなかった。

  誰かに惜しまれる存在になれたことが、雅にはほんの少し嬉しかったのだ。

  「そっか……」

  「でも元気そう……と言うのも違うか。変わりなくて良かったよ」

  希月の心遣いに、雅は一瞬迷った。

  自分のことを打ち明けようか、と。

  母子家庭であること、たった一人の家族である母が倒れたこと、小学生の頃にとても嫌な出来事があったこと。

  雅の器に溜まった感情は溢れそうな程いっぱいで、希月ならそれを受け止めてくれるだろう。そして、受け止めてくれる相手は滅多におらず、そんな相手が目の前にいることは幸運なことだと理解している。

  しかし、底にこびり付いたカビのような、雅個人ではどうしようもない人への不信感が足を引く。

  「メシ、食わないのか」

  「食べるけど、その前に雅に渡したいものがあって」

  首を傾げる雅に構わず、希月は制服の内ポケットに手を伸ばした。そして、引き出された手の先には厚みのある茶封筒があった。

  「先生に教えてもらったよ、雅の家の事情。お母さんが倒れちゃって入院費を稼がないとだから、部活を辞めるって。

  そのお金、僕が払うよ。そうすれば、雅が働く必要はないし、今まで通り部活を続けられるよね」

  名案でしょ、とでも言いたげな希月の嬉しそうな顔を、雅は見ていられなかった。

  かさり、と軽いビニール袋が腿に当たる。中身は安くて量があるからと買った食パンだ。しかし、食パン以外は何も無い。ジャムやマーガリンを買う金は無い。食パンだけでは美味くないと分かっていても、それ以外の物を買うことはできなかった。

  雅は舌打ちしかけて―――止めた。

  これが希月なりの優しさだと分かったから、怒りを飲み込んで抑えた。

  でも

  「知られたくなかった」

  え、と希月が聞き返す。

  その囁きは雅のものとは思えないほど幼く、弱々しかった。

  「家のことは、誰にも知られたくなかった」

  雅は唇を噛んだ。怒りや悲しみを噛み殺すように。

  「俺にとっては、幸せな家だ。

  でも、他人から見ればそうじゃない。父親のいないことは不幸なことだと、欠損のない奴らは俺を指さして嘲笑う。『お前は、カワイソウな奴なんだ』って」

  雅は俯いて、地面に向かって言葉を吐いた。心から溢れ出した感情が体を震わせる。黒い鱗の手がぶるぶると震えているのが見えた。

  「クソみたいな奴らに見下されるのが嫌だったから隠してたのに、なんで暴くんだよ」

  雅の声は徐々に小さくなって、地面に落ちた。

  「ごめん……。雅がそんな風に思ってたなんて知らなくて」

  ―――当たり前だろ、隠してたんだから。

  もはや顔を上げる気力もない。俯いたまま、雅は言った。

  「その金は受け取れない。もう、どこか行ってくれ」

  希月の影が揺れる。小さく、辛そうに。

  「……ごめん」

  再び謝ると階段を降りていく音が聞こえた。

  視界の端に映る毛並みは、枯れた花のように色褪せて見えた。栄華を極めた一族も、美しい花も、誰かとの友情も、簡単に崩れ去るものだ。

  [newpage]

  自分には読書という行為は向いてない。

  雅はそう思いながら手元の本から顔を上げた。雨が降って外で遊べないからと、兎田について図書室に来たのは失敗だった。適当に本棚から取った本とはいえ、十分で三ページは読む気が無さすぎる。

  周りを見渡せば、ぽつぽつと間を開けて長机に座った生徒たちが様々な本を読んでいる。子供向けの小説、いわゆる児童書を読んでいる生徒がいれば、マンガ風の児童書や赤と白のボーダーを着たヒトを探す絵本を読んでいる生徒もいる。

  (あーあ、僕も探しモノ系の本にすれば良かった)

  雅は「はぁ」とため息を吐いて、手元の本を見た。かっこいいドラゴンの表紙(しかもキラキラ光る!)に惹かれて手に取ったが、実はシリーズ物の四冊目だと判明した瞬間、読む気を無くした。道理で最初から話が分からないわけだ。

  目の前に座る兎田は、大人が読みそうな文庫本の小説を読んでいた。腰を据えてじっくりと本を読む兎田は、雅より大人びて見えた。

  何を読んでいるのだろう、と机に頬を押し付けて表紙を覗き込む。どうせ分からないだろう、と思っていたが見覚えのあるタイトルだ。最近よくCMで見る映画のタイトルと同じだ。確か、唯一の家族である母親にネグレクトされた子供の話だったはず。母子家庭という境遇には親近感を覚えたが、雅には愛情のない母親というものが想像できず、結局他人事のように感じた。

  「その本、面白い?」

  声のボリュームを落とし、すきま風のような声で雅が訊く。

  兎田は本から僅かに目線を上げた。

  「内容は重いけど、まぁ面白いかな」

  雅はふーん、と頷いた。

  「普通の家族を持ってるヒトからすれば、親が片方しかいない家なんて意味不明だろ。そんな話を読んで楽しいの?」

  「うーん、共感はしにくいよ。でも読書を通して知ることで、実際に同じような境遇のヒトが何を思うか想像できるようになる。それが大事だと思うんだ」

  雅は再び、ふーん、と口にしながら目を逸らした。ぱちんぱちんと雅の後ろから音がするが、これは勢い良く揺れる雅の尻尾がイスの脚に当たるせいである。

  兎田が自分のことを知ろうとしてくれてる。

  そう思うと、雅は自分の尻尾を止めることができなかった。

  ――もっとも、兎田が理解しようとしていたのは雅ではなかったのだが。

  「もうそろそろ昼休み終わるね。僕この本、借りてくる」

  「分かった」

  兎田が本を借りる手続きをしている間に、雅は本を本棚に戻した。たった三ページしか読まなかったせいか、表紙のドラゴンは悲しそうに雅を見つめる。

  「お待たせ。教室戻ろう」

  「うん」

  ドラゴンに後ろ髪を引かれながらも、二人は図書室を後にした。

  「兎田はどんな本を読んでるの?」

  雅はいつもより人でごった返した廊下を歩きながら、兎田にきいた。

  「うーん、ボクはミステリーが好きかな。でも、それ以外の小説もよく読むよ」

  そう答えながらも、兎田はどうしてそんな事を訊くのか、と疑問のこもった目で雅を見た。

  「今日読もうとした本、あんま面白くなくてさ。たくさん本読んでる兎田なら、面白い本知ってるかなと思って」

  「そういうことか。でも人には好みがあるから、ボクが好きな小説が白浜くんも好きとは限らないよ」

  「そっか」と嘆息する雅に、兎田は訊く。

  「白浜くんの好みが分かればオススメの小説を紹介できるよ」

  雅は腕を組んで、うーん、と唸る。

  「よく見てるのは、戦隊モノの特撮だけど」

  「なるほど、勧善懲悪系か。それならファンタジーかな。あ、この前読んだ須菜先生の小説もいいかも」

  カンゼンチョウアクという言葉が何を意味するのかは分からないが、ぶつぶつと考え込む兎田は何でも知ってる博士のようで頼もしい。

  「白浜くんが好きそうな小説探しておくね」

  雅以上に楽しそうな兎田の様子が、雅には嬉しかった。

  読書が好きになって、兎田とお気に入りの小説を紹介し合う想像をする。本を片手に熱く、けれど終始笑って話し合う。互いに高め合う姿に、雅は憧れを抱いた。

  「楽しみにしてる!」

  期待に胸を膨らませ、雅は答えた。

  ―――その期待が無惨に裏切られるとは[[rb:露 > つゆ]]ほども思わずに。

  [newpage]

  「白浜、五番卓!」

  黒豹の店長が叩き付けるようにカウンターに置いた料理を、雅は返事もせずに運ぶ。八時を過ぎた今がまさにピークで、否が応でも仕事に集中力する。

  「……焼き鳥、です」

  笑顔なんて1ミリも浮かべない仏頂面のまま、雅はテーブルに料理を置く。

  「兄ちゃん、ビールのおかわり頼むわ!」

  顔を赤らめた中年の猪が空になったジョッキを差し出す。馴れ馴れしい注文の仕方に舌打ちしかけながら、雅はジョッキを受け取った。

  「白浜くん焼酎お湯割りお願い、三番卓!」

  裏に戻り雅がドリンクサーバーでビールを注いでいると、他のホールスタッフが雅に切羽詰まった声で頼み込む。自分でやれよ、と断ろうと思ったが、振り向いた時にはその相手は厨房にいなかった。

  「チッ、このクソ忙しい時に」

  愚痴をこぼしながらも、雅は焼酎の準備をする。陶器の器にお湯を注ぎ、次に焼酎を注ぐ。大学一年生(と周りには嘘をついている)の割に酒の種類を覚えるのが早いので、雅は他のスタッフに当てにされることが多かった。

  「白浜、つぎ六番卓!」

  再び店長の大声が厨房に響く。カウンターに置かれた料理は餃子に唐揚げ、そして重くて汁がこぼれやすいうどんだ。次々にくる料理に雅は辟易しながら、両手いっぱいに持って厨房を出る。

  まずは厨房に近い三番卓に焼酎を、そして次に五番卓にビールを届ける。

  「唐揚げ、餃子、あとうどんっす」

  「おっ!来たきた」

  雅のかったるそうな声も気にせず、六番卓のスーツを着た会社員らしい客たちは嬉しそうに器を受け取る。

  「うどんは?」

  「あ、私です」

  女性らしい柔らかな声の方を見て、雅の心臓はぎゅっと締め付けられた。

  がっしゃーーん!

  「きゃあ!」

  女性の叫び声と共に、雅は我に返った。足元を見れば、床には割れた器とうどんが飛び散っていた。

  「ちょっとキミ、どうしてくれるんだ!」

  一番近くの客に言われて、自分が落としたのだと気付いた。

  「あ、ぁ……す、すみま」

  雅が動揺していると、何かに後頭部を掴まれ無理やり頭を下げられた。

  「申し訳ございません。お怪我はございませんか」

  横目で見ると、隣で真っ黒な獣人が雅と一緒に頭を下げていた。店長が騒ぎを聞きつけてすっ飛んで来たのだ。

  「ちょっと濡れたけど大丈夫ですよ」

  「すぐに掃除させます。誠に申し訳ございませんでした」

  店長が頭を上げると、雅もおずおずと頭を上げた。

  店長は、掃除しとけ、と雅に目配せすると、最後にもう一度だけ客に頭を下げて厨房に戻って行った。

  「……すみませんでした」

  「大丈夫よ。貴方こそ大丈夫?ケガしてない?」

  灰色の鱗を持った竜人の女性が優しく微笑むのを見て、雅はまた、胸を締め付けられるのだった。

  閉店時間である十一時を過ぎると、客はいなくなり店の掃除を始める。雅はテーブルの上に散乱する空き皿を厨房に運びつつ、テーブルを布巾で拭く。その手際はバイト始めたてにしては良いものだった。

  二十卓以上あるテーブルを片付け終わった時、厨房のスタッフが雅のところにやって来た。

  「白浜〜、店長が呼んでっぞ」

  大学三年生だというハスキーが雅に伝える。雅はチラリと先輩の方を見て手を止めると、身を翻して店長がいる厨房に足を向けた。

  「おーい、先輩にはちゃんと返事しろ」

  とハスキーが言うが、それもまた無視して厨房に向かった。

  「……来たか」

  厨房に入ると、そこには黒い毛並みの豹が包丁を研いでいた。

  固く結んだ口元やナイフのように鋭い目付きが特徴の彼は、街の居酒屋より工房の方が似合いそうな職人気質の人物だった。

  「お前、今日で何度目だ」

  黒豹は手元を見たまま、雅に目もくれずに問う。

  「……すみません」

  「俺は何度目だ、と訊いている」

  「……三回目、です」

  包丁を研ぐしゅぅぅぅ、という無機質な音が厨房に響く。

  鱗持ちの種族の女性を見る度に、雅は失敗を繰り返していた。彼女らの楽しげな顔が倒れた母を思い出させ、雅にどうしようも無い不安と焦りを生み出していた。

  「お前がここに入ってまだ一週間しか経っていないのにその回数だ。はっきり言う、無能はこの店には要らない」

  店長の容赦ない言葉に、雅は喉を詰まらせた。

  「確かに旧友に頼まれはしたが、俺は情に絆されてお前を雇った訳じゃない。虎賀の評価を聞いて、お前が使えると判断し雇っている。だというのに、この体たらくだ」

  雅は俯いて、じっと足元を見る。汚れたスニーカーが惨めだった。

  「客はお前の事情なんて知らないし、興味もない。そんな無関係な相手に自分の都合で迷惑をかけるな。それができないと言うのなら、お前はここで働く資格はない。即刻、辞めてもらう」

  分かったな、と問う黒豹に雅は小さく頷いた。

  「ご迷惑をおかけして……すみませんでした」

  「それは俺じゃなく客に言え」

  はい、と呟くように雅は答えた。

  店長はフン、と鼻息を吐くと雅の方を向いた。

  「お前、学校には行ってるか」

  黒豹の淡緑色の瞳が雅を見つめる。射抜くように真っ直ぐな視線に雅は僅かにたじろいだ。

  「……一応は」

  「ならいい。そこにまかないを置いてある。持っていけ」

  店長が目で指した先を見る。そこには調理台に置かれた二つの大きなタッパーがあった。中には焼き鳥や唐揚げ、だし巻き玉子といった様々なおかずに加え、もう一つのタッパーにはご飯が詰められていた。

  「なんでそんな気にかけてくれるんですか」

  「馬鹿。仕事だからだよ」

  高校生である雅は、法律上では十時を越えて働くことができない。しかし雅の事情を知った店長は、周りに雅は大学生だと嘘をつき、夜遅くまで働くことを許した。

  店長の配慮は、金が必要な雅には頭が上がらないほど有難いものであった。

  「……すいません、これ要らないです」

  しかし、雅は失礼を重々承知しながらも店長の気遣いを無下にした。自分の事情を全て知っている相手だとしても、施しを受けるのは弱みを晒すようで恐ろしかった。

  「そうか。ならさっさと帰って休め」

  「……失礼します」

  雅は頭を下げると厨房から出て行った。

  「てんちょー、まかないくださーい」

  雅が厨房を出て数分後、雅を呼んだハスキーが軽薄な声と共に厨房に入ってきた。

  「そこにある。勝手に持ってけ」

  「うっほぉ、今日のは豪華だぜ!」

  ハスキーはタッパーの中身を見て目を輝かせた。

  「しかしなんで今日に限ってこんなに豪華……?

  あっ、白浜にあげようとしたんですね!」

  「黙れ、減給すんぞ」

  「またまたぁ〜、テキトウなこと言っちゃって〜」

  ハスキーは店長の厳格な雰囲気をものともせず茶化す。

  「でも、なんで店長は白浜のこと気にするんですか?さっきも『学校行ってるか』て訊いてるの聞こえたし。俺らにはそんなこと訊かないのに」

  ハスキーは神妙な顔で焼き鳥を食らった。普段は何も考えていなアホ面なのに重要なことは聞き逃さないのがこのハスキーの長所だ。

  店長は、雅が[[rb:拠 > よ]]り所を失うことを危惧している。

  拠り所とは安心して素の自分でいられる場所のことで、家族がいる家、気の置けない友人がいる学校などがそれに当たる。

  しかし、雅の家は現在、雅以外誰もいない。自分以外誰もいない場所は拠り所とは言えない。

  家という拠り所を失った雅が持つ最後の拠り所、それは学校だ。虎賀の話によれば、部活には仲の良い友人が数名いると言う。

  しかしそれすら失うことになれば、雅の心を癒し、元気付ける場所は無くなる。迷走の果てに得るのは、粉々に潰れた心だけだ。

  「そんなことにならないためにも、自分の拠り所を自覚していれば良いのだが」

  大人であれば、拠り所を作る努力や守る覚悟が必要かもしれない。しかし、子供にそれを求めるのは酷だ。

  黒い豹は誰にも聞こえない声で独りごちた。

  今日も月は見えない。

  空を覆う黒い雲は牢屋の天井のようで気分が塞ぐ。

  雅は陰鬱な気分のまま、家のドアを開けた。目隠しをされたような真っ暗闇が出迎える。手探りでスイッチを押すと、ぱっと闇が晴れた。

  母が入院して一週間以上経つが、部屋にものが散乱することも、シンクに食器が溜まることもなく、リビングはいつもと変わらず綺麗に整頓された。

  幼い頃から母の手伝いをしていた雅は要領良く家事をこなす。だからこそ雅は母が入院する前と大して変わらない生活を送れていた。

  テレビをつけたのはほんの気まぐれだった。いや、もしかしたら音のしない家に寂しさを感じていたのかもしれない。

  しかし、これが雅の不安を掻き立てた。

  『断捨離って言ってもねぇ……。そんなに物を捨てちゃって大丈夫なの。暮らしにくくない?』

  『そんなことないですよ。それが無いと生きていけないって物はほとんどないんです。だから、これは無くても大丈夫って思ったものは捨てるようにしてるんです』

  気取った女性の声が頭に響く。

  これ以上は聞きたくなくて、雅は急いでテレビを切った。

  「……ダメだ、そんなことない」

  両手で顔を覆い、ぶつぶつと呟く。手のひらが汗で湿っている。疲れや空腹で不安になっているだけだ、と自分を言い聞かせて自室に行こうとしたその時、ダイニングテーブルにぶつかって隅に置かれていたペン立てを落とした。

  「……明日にしよう」

  床に散らばったペンを見てため息を付き、それを放置して雅は自室に入っていった。

  もし母がこの一件を見ていれば、雅が自らテーブルにぶつかったことに気づいたかもしれない。

  [newpage]

  その日、初めて雅が学校に遅刻した。

  朝から細かい雨が降っていて、教室にいてもサァァァという雨音が聞こえた。窓から見える校庭には冷たい雨に打たれる桜の木が立ち尽くしていた。

  朝のホームルームが始まっても現れない雅に教室が微かにざわついた。――心配ではなく、喜びで。

  彼らからしてみれば、雅はいつ爆発するか分からない爆弾のようなものだ。教室にいる誰もが厄介者がいない平穏な一日を期待した。

  だからこそ三限目の授業中、唐突に教室の扉を開いた雅を見て、彼らは期待を裏切られたことへの落胆と、雅への悪意を抱いた。

  「はぁ、なんだよ」

  普段から声が大きくクラスの中心的な男子生徒が、これみよがしにため息を吐く。彼に続くように他の数名の生徒もため息や舌打ちをした。

  雅は一瞬立ち止まり彼らに目を向けた。まさか殴るつもりか、と思って希月はヒヤリとしたが、雅はすぐに足を進めて自分の席に座った。

  希月はほっと胸をなで下ろした。ただ、男子生徒に向けた雅の目は、部活に入る前の、それこそ裏路地で喧嘩していた時のような敵意に満ちていた。

  外の景色を思い出す。

  夏には青々とした葉をつけていた桜は、今やそのほとんどを散らしている。その様は時間をかけて育てたものが無に帰したようで虚しかった。

  四限が終わると雅はいつものように席を立ち、教室を後にした。希月も弁当を片手に席を立つ。

  「ねぇ、今日アイツ学校遅刻したじゃん?なのに授業中ずっと居眠りしてんのヤバくない?」

  「えぇ、マジ?遅刻しておいて居眠りとかウザすぎでしょ」

  「だよね。私らだって眠いの我慢して授業受けてるってのに。授業受ける気ないなら学校来んなよって感じ」

  希月はこれ以上聞かないように耳をたたんだ。

  シワひとつ無い綺麗にアイロンがけされた制服を着た彼女らは、彩り鮮やかな弁当を広げている。

  日々働いている雅と、悠々自適に生きている彼女らでは背負っている物が違う。彼女らはよくカラオケやお洒落なカフェに行くと聞いたことがある。自分で稼いだわけでもない金を、生きるためではなく娯楽に使う彼女らに雅を批判する権利はないはずだ。

  校舎の壁を叩く雨音を聞きながら、希月は屋上に上がる階段を上る。遮るもののない屋上は晴れていれば気持ちが良いが、こんな日ではとても出れないだろう。

  屋上の扉の手前の踊り場でひっそりと食事しているだろうと思っていたが、希月の予想に反して雅はそこにいなかった。

  「嘘でしょ」

  銀色のドアノブを恐る恐る回す。

  天蓋のように頭上を覆う雨雲、無常にコンクリートを叩く冷たい雨粒。

  雅と過ごした屋上は、ここには無かった。

  もともと隠れる場所なんてない屋上だが、雅はすぐに見つかった。扉を出てすぐ左。雅は庇の下で雨を避け、膝を抱えて座り込んでいた。

  希月は雅に声をかけようとして、止めた。

  雨音に紛れてすぐには気付けなかったが、目の前の黒い竜はすぅすぅと[[rb:微 > かす]]かな寝息を立てていたのだ。

  希月は雅が寝ている姿をほとんど見たことがない。もちろん、家族以外の他人が寝ている姿を見る機会はもともと少ない。だが、高校生なら授業中に居眠りすることもあるだろうし、合宿中は同じ部屋で寝たのだ。

  しかし、雅は決して授業中に居眠りしないし、合宿中も誰よりも遅く寝て、誰よりも早く起きていた。人前で目を瞑ることすら避けていた気がする。

  そんな雅が寝息を立てながら眠っている。

  きっと、もう限界が近い。

  希月は雅を起こさないよう、そっと隣に座った。

  希月は雨の降る屋上を見渡した。絶え間ない雨はカーテンのように視界を覆う。雨音もなかなかの音量だが、雅の眠りには影響しないらしい。変わらず規則的な寝息が聞こえてくる。

  「まぁ、自然が好きな雅のことだから、雨音を聞くのは癒されるのかもなぁ」

  雅の足先が庇から少し出ていて雨に打たれて、薄汚れた上履きの先が濡れて黒くなっている。徐々に水が浸透してつま先から黒い部分が広がるのを、希月はただ見ていた。

  「僕は、どうすれば……」

  何の考えもなく、衝動に流されて追った先で見つけたのは、打ちのめされた大事な人。それを希月は、ただ見ていることしかできない。

  自身の無力さに打ちひしがれる。

  「……お母さん」

  不意に希月の鼓膜が震えた。それが雅の寝言だと気付くのにたっぷり三秒かかった。それは雅の声とは思えないほどか細く、幼い声だった。

  「……お母さん、ごめん」

  雅がなぜ謝るのか、希月には分からない。

  しかし、子供が母親に縋り付くような頼りない声が、希月の胸を締め付ける。

  せめて雅の苦しみが僅かでも減るようにと、希月は少し痩せた背中を撫でた。

  「何もできなくて、ごめんね……」

  希月の声は雨にかき消され、雅に届くことはなかった。

  [newpage]

  木琴の音色のように柔らかだった雨音は、いつの間にかドラムロールのように激しく打ち鳴らしていた。

  しかし暇を持て余した生徒たちは廊下を駆け回ったりはしゃいだりして、雨音を掻き消すほど騒々しい。行動は制限されても、小学生のパワーは天気に左右されない。

  雅と兎田の教室の廊下の壁には、図工の授業で描いた絵が掲示されている。それぞれの好きな学校の風景を自由に描いたものだ。雅は兎田と一緒に校庭の隅にある花壇を描いた。二人ともほとんど同じ構図で、正面から色とりどりの花を描いた。

  ただ、兎田の描いた絵の方が色鮮やかで花も上手に描けている。運悪くも雅と兎田と作品は隣同士で、見比べると自分の描いた絵の下手さが際立って恥ずかしい。

  雅は絵を見ないように、と急いで教室に入った。

  瞬間――雅は自分に視線が集まるのを感じた。蛇に絡め取られたかのような不快感と、これから待ち受けるものへの恐怖が身に走る。

  兎田は何も感じなかったのか、いつも通りの様子で自分の席へ歩いていく。雅は兎田の背に隠れるように、ピッタリと後についていった。

  「なぁ、白浜」

  コソコソする雅を嘲笑うように、高圧的な声が降ってきた。

  雅は平常を装って声の方を向いた。

  「……なに」

  そこには机の上に座ってふんぞり返る獅子島と、彼の取り巻きの四人がいた。弱みを握った獲物を前に舌なめずりするように、雅を嘲笑っていた。

  「これ、見てくれよ」

  獅子島はふんぞり返ったまま、着ているパーカーを摘んだ。

  主張の強い赤色のパーカーで、胸元にはデカデカと「New York」と書かれている。

  「父さんがアメリカに出張してたんだけど、最近帰ってきたんだよ。で、お土産としてこのパーカーをもらったんだ」

  獅子島はこれみよがしに指先でキーホルダーをくるくると回す。きっとあのキーホルダーも父親からのお土産なのだろう。

  「俺の父さん、大企業の重役だから忙しいくて海外に行くことが多いんだけど、帰ってきたら必ずお土産くれるんだ。アメリカの前はフランスに行っててな。その時はエッフェル塔の形の入れ物にお菓子が入れてあったんだぜ」

  獅子島は机から降りると、雅の目の前に立った。

  「白浜はさ、父さんから何をもらうんだ?」

  雅は逡巡した。正直に答えるか、否か。

  そして、雅は学校で教えられた通りの模範解答を選んだ。

  「……何もない」

  「へぇ、なんで?」

  「父親、いないから」

  獅子島たちの口角が上がるのを見て、やはりこの言葉を待っていたのだ、と思った。

  「お前の家族って母親だけか?」

  傍にいた一人が無遠慮な声で言った。それに雅は小さく首を縦に振る。

  「だったら家じゃ二人っきりか。兄弟もいないのはつまんなそー」

  「父ちゃんとか兄ちゃんがいない生活ってことだろ?オレには無理だわ」

  他の二人の言葉に、獅子島は大きく頷いた。

  「だよな。この前、家族みんなで銀座の寿司屋行ったんだよ。そこはなかなか行けない高級店らしくてさ、めちゃくちゃうまくてさぁ。

  でも、父さんがいなかったらあんな寿司屋、高すぎて行けねぇよ。

  俺ん家は父さんいて良かったわ」

  獅子島は真っ直ぐ雅を見据えて言った。

  「お前にはそういう経験ないだろ?カワイソウなやつだな」

  獅子島のせせら笑う声が、洞窟の中にいるかのように頭の中で反響する。

  朦朧とする意識の中で、雅は自分の家に思いを馳せた。

  確かに家族は母、一人だけだ。

  母は雅を食べさせるために、毎日一生懸命に働いていた。雅より早く起きて働きに行き、雅が寝た頃に仕事を終えて帰ってくる。雅が母に会えるのは、朝のほんの少しの時間と、パン屋の仕事が終わり夕食を作りに帰ってくる夕方の一時間しかない。夕食を作り終えると、母は深夜までやっているスーパーのパートに行ってしまう。

  母のいない家はいつもより広くて暗くて、とても怖かった。夜には部屋のちょっとした死角に何か隠れているのではないかと怯えて、一人でトイレに行けなかった。

  母がそばにいれば感じなかった恐怖。何度、仕事に行かないでと、家に帰ってきてと願ったことだろう。

  しかし、雅がそう駄々をこねたことは無い。母が誰のために働いているか、知っているから。

  小さい頃の雅は恐怖をぐっと飲み込んで、一人食卓に着いた。レンジで夕食を温めている間、雅は母が残したメモを読む。

  『おかえりなさい。

  今日の学校はどうだった?

  今日は水えいのじゅぎょうがある日だったよね。みやびはおよぐのすきじゃないから、あまりたのしくなかったかな?

  でもこんなあつい日にプールに入れるのは、おかあさんはうらやましい!

  何はともあれ、みやびがたのしくすごせてるなら、おかあさんはうれしいよ。

  今日の夕食はなつやさいカレーです。はじめてつくったけど、みやびが気に入ってくれるといいな』

  毎日、夕食の隣には母が綴った手紙が置かれていた。

  メモ用紙いっぱいに書かれた母の字は綺麗というより丁寧で、幼いながらにその筆跡から何かを感じて、自然と笑顔になっていた。

  食べ終わるとランドセルから筆箱を取ってきて、鉛筆を握った。

  『おかあさん ただいま

  がっこう たのしかった

  カレー おいしかった』

  表はいっぱいなので、裏面に返事を書く。小学一年生の頃はミミズがのたうつような下手くそな字だった。

  それでも母は翌日の朝、疲れているだろうに、それを感じさせない微笑みを浮かべて言うのだ。

  「読んだよ。カレー気に入ってくれて、お母さん、すごく嬉しい。ありがとうね」

  白い鱗に覆われていない手のひらは大きくて、柔らかく、そして温かかった。

  母の[[rb:温 > ぬく]]もりは、雅から寂しさを吹き飛ばした。

  けれど彼らに言わせれば、それは『かわいそう』なことらしい。

  怒りも、悲しみも湧かなかった。

  ただ、あまりの衝撃に、全て揃っている人にはそう感じるのか、と呆然とした。

  そして、自分はあるべきものが欠けているのかもしれない、と感じた瞬間、教室中で雅だけが地の底へと沈み始めた。

  翌日、登校して靴を仕舞おうとした時、自分の下駄箱から上履きが無くなっていることに気付いた。。

  「え……なんで」

  雅は下駄箱の前で立ち尽くした。

  ぞくりと背筋に悪寒が走る。

  「邪魔なんだけど」

  [[rb:簀子 > すのこ]]の上に立った同じクラスの女子生徒が苛立ちを隠さずに雅を睨みつけた。

  「あ……ごめん」

  雅は道を譲るため、靴下のまま簀子から地面に降りた。

  雅が譲った道を、その女の子は上履きをはいて通り過ぎる。母親が洗ったであろう、漂白された綺麗な白い上履きを履いて。

  その後、隣の下駄箱や、下駄箱の上も探したが見つからなかった。

  仕方なく、靴下のまま教室に向かった。

  教室に入ると、自分の机にランドセルを置いた。

  「おはよう、兎田」

  雅の左隣の席に座っていた兎田に挨拶する。兎田は手元の本から顔を上げるが、雅に目を合わせることなく「……おはよう」と返した。

  どこかよそよそしい兎田の様子を疑問に思ったが、そんな日もあるだろうとスルーして、雅はランドセルから教科書を取り出し引き出しに移した。

  「ねぇ、ボクの上履き見てない?」

  「え……あぁ、えぇっと……」

  雅はダメ元で兎田に訊いてみたが、兎田の反応は予想を大きく外れたものだった。困惑、というより、葛藤か?

  兎田の視線は本から離れ宙をさまよう。そして、しおりも挟まずに本を閉じた。どこからか分からなくなるんじゃないか、と雅は心配にした。

  「も、もしかしたらだけど、あれって白浜くんの、かな……」

  そう言って兎田が指さしたのは教室の前に置かれているゴミ箱だった。

  ゴミ箱なんかにある訳がない、と思いながらも雅は中を覗きに行った。

  「え……」

  しかし、ゴミ箱の中には二足の上履きが捨てられていた。名前はマジックで塗りつぶされていて読めなかったが、サイズや汚れ具合から雅のもので間違いない。

  「なんで……こんな所にあるの」

  ホコリや消しカスや鉛筆の削りカスが溜まったゴミ箱の中から上履きを取り出すと、雅は衝撃と悲しみで立ち尽くした。

  目を凝らせば黒塗りの隙間から『白浜 雅』の文字の片鱗が見つけられる。

  もう四年生だから、と初めて自分で上履きに名前を書いた。紙と違って平らじゃないし、力を込めたら凹んでしまうので悪戦苦闘したのを覚えてる。誰でも雅自身が書いたのだと分かるような下手くそな字だった。

  それでも自分なりに丁寧に書いて、母も「よく書けたね」と褒めてくれた。最近では下手くそな字に愛着とまでは言わずとも、許容できるようになっていた。

  それをこうも無神経に潰されると、心が痛む。

  雅は、唇を噛み締めた。

  「あー、それ白浜の上履きかー」

  背後からの憎たらしい声が鼓膜を震わせる。

  振り返ると、黒光りするランドセルを背負ったままの獅子島が意地悪そうな顔をしてこちらを見ていた。

  「昨日、それ落ちててさ。名前読めなくて誰のだか分かんねぇからゴミ箱に捨てたんだわ」

  白々しい。

  悪魔のように笑う獅子島を見て、彼が犯人だと確信した。

  「なんでゴミ箱にいれた」

  「なんでって、ゴミはゴミ箱に入れるのがジョウシキだろ?お前ん家はそんな事も教わらないのかよ」

  獅子島はそう言って雅を見下した。

  これだから片親は、とでも言いたそうな雰囲気だ。

  「……上履きは、ゴミじゃないよ」

  雅は振り絞って、それだけ言った。

  獅子島から顔を背け、汚れた上履きを手ではたく。

  「その上履き、ゴミまみれできたねぇな。

  ママに新しいの買ってもらえよ!」

  雅は無視して上履きをはたき続けた。

  手を止めたら、手が震えているのがバレてしまう。

  必死に上履きをはたきながら、もう二度と、この上履きは母に見せられないと思った。

  

  その後も同様な事が続いた。

  筆箱が無くなって、教科書が破かれて、ランドセルを壊された。

  筆箱は探してロッカーの裏から見つけ出したし、教科書はセロハンテープで直した。ランドセルの肩紐が破れそうになっていたのはガムテープで補強した。錠前も壊れてかけられなくなっていたが、小学生にはどうすることもできないので諦めた。

  全て、母が汗水垂らして働いてくれたから得られたものだ。口が裂けても、「新しいものを買って」とは言えない。

  「お母さん、先に出るね」

  「うん、行ってらっしゃい」

  「雅も、学校がんばってね。それじゃあ、行ってきます」

  雅が朝ごはんを食べ終える前には、母は家を出る。

  たぶん、小学生の子供より先に家を出る母親は普通じゃない。

  ばたん、と扉が閉まる音が聞こえた。

  最近ではこの音を聞く度に、学校を休もうか、と考えてしまう。普通ではない恩恵として、無理やり学校に行かせようと説得する親もいない。他の子供よりずっと簡単に学校を休める。

  そう思いながらも雅は服を着替え、トーストを齧る。そして結局、ぼろぼろのランドセルを背負って家を出た。

  学校に着くと、これまたぼろぼろの上履きを履く。ただし、履く前に裏返しにして揺すり、上履きの中に何も入っていないか確認する。[[rb:画鋲 > がびょう]]を入れられた事があるからだ。

  教室に入る時は下を向いて、ヒトと顔を合わせないようにする。クラス中からの突き刺すような視線に耐えて、なるべく音を立てないようにして席に着く。

  先生の目がある授業中には流石の獅子島たちも表立ったいじめはしてこない。

  ほんの少し、気を抜ける。

  「昨日の宿題だったこの問題、分かったヒトいるかな?」

  授業が始まると、先生は黒板に書いた問題を指して言う。算数の問題だ。なかなか難しい問題で、雅も解くのに時間がかかった。

  鹿の男の子がいの一番に手を挙げ、先生はその子を指名した。鹿の彼は黒板の前に出ると、チョークを握り意気揚々と数式を書いた。

  「お見事、正解!難しい問題だったのによく解けたな」

  先生がそう言うと、周りは「おぉー」 と声を上げた。そしてぱらぱらと拍手の音が鳴る。鹿の彼は胸を張って誇らしげに浴びていた。

  しかし、彼が毎日塾に通って勉強していることを雅は知っている。そして塾に通う前の彼は、頭が悪かったことも。

  所詮は親の金で得た学力だろう。塾の講師に言われるがままロボットのようにテキストをこなしただけで、地頭の良さでも、努力の成果でもない。

  だと言うのに、なぜ彼を褒めるのか。なぜ彼が褒められるのか。

  「……チッ」

  雅は小さく舌を鳴らした。

  自分の回答に丸を付けようとして筆箱を開けたら、赤鉛筆の芯が折れていた。他の鉛筆の芯も全て折れている。

  休み時間にトイレから戻ってきたら筆箱が床に落ちていたので、机から落ちた時に折れたのだろう。

  丸を付けられないのは別にいい。

  しかし、授業のノートを取らないのは流石に先生に怒られる。

  「ごめん、兎田。鉛筆、貸してくれない?」

  雅は左隣の兎田に頼んだ。

  「……ムリ」

  兎田は素っ気なく言って、雅から顔を背けた。

  途端に教室の後ろからクスクスと意地の悪い笑い声が聞こえてきた。

  振り向くまでもなく、獅子島たちだと分かった。

  わざと雅の筆箱を落として、兎田に自分に鉛筆を貸さないように指示していたのだ。

  「……クソ」

  雅は口の中で呟いた。

  赤い夕日が教室に差す放課後、雅はたった一人で教室の掃除を終え、[[rb:箒 > ほうき]]をロッカーにしまった。

  班の他の人は何を言うでもなく、当たり前のように帰って行った。獅子島たち以外のヒトたちのいつも通りのやり方だ。

  無視と陰口。

  直接的ではない陰湿な手口が彼らのやり方だった。

  ランドセルを机の上に置いて帰る準備をする。引き出しから教科書やノートを取り出しランドセルに入れようとして、不意に目眩がした。手から教科書やノートがこぼれ落ち、床に広がった。

  一つとして、綺麗なものはない。全て落書きや破れた跡がある。白を基調とした教科書に夕日が差す。夕日が教科書を赤く染め上げて、まるで血をぶちまけたようだった。

  雅はできるだけ表紙を見ないようにまとめて拾い、ランドセルに入れた。

  しかし、束の一番上のノートが目に入った。白い花が表紙にプリントされたノートだ。小さな白い花が細長い枝いっぱいに咲いている。儚げだが、可愛らしくて好きだった。表紙の裏に解説が書いてあり、それを読んで『ユキヤナギ』という花だと知った。

  しかし今は、悪意のある落書きで汚され、愛らしい花たちは見る影もない。

  そしてその下、名前を書く欄、『白浜 雅』の上から、大きく雑な字で『カワイソウ』と書かれていた。

  鼻をすする。

  自分と、この名前を付けてくれた母を否定されたようで辛かった。

  全てランドセルに仕舞うと教室を出た。人のいない校舎に雅の足音はよく響いた。

  ふと、下駄箱の先からヒトの言い合う声が聞こえ、雅は下駄箱の陰に隠れた。自分の名前が聞こえたからだ。

  陰から覗くと、出入り口の外に兎田がいた。

  「もう一度訊く。白浜くんの家の事を獅子島くん達に教えたのはキミだろう――鰐口くん」

  そう言って兎田は目の前いる鰐口に問い詰めた。

  兎田は見たことないほど険のある様子だったが、鰐口は全く動じない。無表情のまま、その大きな口を開こうとはしなかった。

  「白浜くんの家の事を知っているのはボクと、君だけだ。そして、みんなの白浜くんへの態度が変わったあの日、ボクは白浜くんと図書館に行っていた。

  君しかいないんだよ。白浜くんの事をみんなにバラせるのは」

  苦々しい表情で兎田が問う。しかし鰐口は表情を変えず、何も喋らない。

  しかし、雅は肯定ゆえの沈黙だと悟った。

  兎田も同じようで、重々しく頭を抱えた。頭の上の長く白い耳が[[rb:項垂 > うなだ]]れる。

  「いや、こんな事を聞いても仕方ない。これで白浜くんへのいじめが無くなる訳じゃない」

  「よく言うな。兎田だって、いじめに加担してるだろ」

  鰐口の正論に兎田は顔をしかめた。

  雅はヒトの揚げ足取る時には軽い鰐口の口に苛立った。

  「それとこれとは別問題だから。

  そんな事より、なんで鰐口くんは白浜くんの事をバラしたの」

  「それを俺が話せば、白浜へのいじめは無くなるのか?」

  「無くならないだろうね。そんな事は分かってる。

  でも、ボクは納得できないんだ。鰐口くんが白浜くんの事を売るような事をしたのが。

  だって――君は白浜くんと同じじゃないか」

  同じとはどういう意味なのか、と雅が疑問に思うより先に、怒号が鼓膜を殴った。

  「ふざけんなよ!

  俺と、白浜は、全然同じじゃない!」

  離れていた雅でさえ飛び上がりそうになった声量だ。当然、鰐口の目の前にいた兎田も腰を抜かすほど驚いていた。

  「俺より白浜の方が何倍も恵まれてる!むしろ、いじめられてやっと同じくらいだ!

  全部揃ってるくせにいじめに加担するお前が、正義ヅラしてんじゃねぇよ!」

  鰐口は荒い息を吐きながら、肩を大きく揺らしていた。体に大きな負荷をかけるマラソンを走り終わった後と同じように、先程の言葉は鰐口の心に大きな負担をかけていた。

  苦しげな呼吸は徐々に嗚咽に変わっていった。

  硬い鱗に覆われた右腕で、目元を覆い隠す。強く強く、震える腕を押し付けるように隠すから痛々しい。

  泣いている鰐口の様子は少しおかしかった。嗚咽を無理やり止めるように左手で口を覆っている。しかも体をぶるぶると震わせ、やがて自分を守るように体を丸めて座り込んでしまった。

  鰐口は、泣くことに怯えているように見えた。

  雅は泣くことに恥じることはあっても、怯えることはなかった。

  きっと、普通はみんな、そうだろう。

  「ご、ごめん、鰐口くん。

  今日は帰ろう。いくらでも[[rb:家 > うち]]にいていいから」

  兎田は戸惑いながらも、鰐口の手を取って一緒に歩いた。

  二人の声が聞こえなくなると、雅は陰から出て靴を履いた。

  二人が立っていた場所を見つめる。

  コンクリートの上に湿った涙の跡があった。

  カチャリ、と家の鍵を開けた。

  誰もいない家の中は薄暗い。

  雅はそそくさとランドセルを自分の部屋の隅に隠すと、棚を漁り落書きされて使えなくなったノートの代わりを探した。

  しかし、いくら探せどノートは見つからない。落書きされる度に新しいノートに替えていたせいでストックが尽きてしまったようだ。

  落書きは表紙にしかされずノートの中にはされないのだから、我慢して使い続けるべきだったかもしれない。

  「ただいま。……あれ、雅どうしたの?」

  棚を漁っていた雅を見て、色褪せたスニーカーを脱ぎながら母は首を傾けた。

  「あ、いや、ちょっと探し物……」

  雅は母から目を逸らした。

  「何を探してるの?」

  「……ノート」

  母は雅の隣に膝を着き、棚を探し始めた。

  「あれ、もう無くなっちゃったのかー。ごめんね、お金渡すから新しいノート買ってきてくれる?」

  そう言って母は財布を開いた。千円札が一枚目しか入ってないのを見て、雅は口を開けた。

  「あ、やっぱりノートあるかも!だからお金はいいや」

  「ほんとに?」

  「ほんとほんと!だから心配しないで」

  母は困惑した表情を見せながらも夕食の準備を始めた。

  台所に立つ母の後ろ姿に、雅は心の中で謝った。

  ごめんなさい。ごめんなさい。

  お母さんが働いてくれたおかげで買えたのに、物を大切にしなくてごめんなさい。

  鼻の奥がツンとする。目頭が熱くなる。罪悪感が、雅の心を押し潰す。

  雅はふらふらと母に近づくと後ろから抱きついた。

  「ふふ、どうしたの」

  母の背中に顔を擦り付ける。頬に当たる服の毛玉がくすぐったかった。

  「料理、手伝う」

  「それじゃあ、ニンジンの皮むきしてくれる?」

  「うん」

  母の隣に立って、雅はニンジンの皮むきを始めた。

  「手伝ってくれてありがとね」

  「うん」

  「雅は優しいね」

  「……うん。ニンジンの皮むき終わったよ」

  「ありがとう。次はお味噌汁を作ってくれる?」

  「うん」

  雅は手際よく味噌や具を用意し鍋に入れる。

  「最近の学校はどう?楽しい?」

  「……まあまあかな」

  「そっか。昼休みは何して遊んでるの?」

  「……いつもドッチやってる」

  「男の子だね、楽しそうだなぁ」

  嘘ばかりだ。

  見下され、傷つけられるだけの大嫌いな学校。

  誰にも見つからないようにと、トイレの個室でじっと過ごす昼休み。

  本当に嘘ばかり。

  けれど、母にだけは、本当の事を知られたくない。

  「お味噌汁、できたよ」

  「ありがとう、雅。あと少しで生姜焼きできるから待っててね」

  料理ができあがると、母は一人分の料理を器に盛り、ダイニングテーブルに置いた。

  そして出かける準備をした。

  「それじゃあ、お母さんまたお仕事行ってくるから」

  「うん、がんばって」

  突然、母はゴホンゴホンと咳き込んだ。

  「お母さん、大丈夫?」

  「大丈夫よ、心配しないで」

  母の言葉とは裏腹に、顔には疲れが滲んでいる。身支度をしている時だって緩慢な動きで辛そうだった。

  「お仕事、休んだ方がいいんじゃない?」

  雅がそう言うと、母は雅の頭に手をのせ、優しく撫でた。

  「本当に雅は優しい子ね。お母さん、すごく嬉しい。

  心配してくれてありがとう。でもほんとに大丈夫よ。

  それじゃあ、行ってくるね」

  「うん……行ってらっしゃい」

  母は花のように微笑んで家を出た。帰ってくる頃には雅は寝ているだろう。

  母の笑顔を損ないたくない。雅は心の底から思った。

  三時限目が終わると、担任は雅を尻目にそそくさと教室を出ていった。

  担任は雅に対するいじめに気付いているようだった。だが、厄介事を抱えたくないのか、獅子島たちの行いを見て見ぬふりをする。

  もはや、学校に雅の味方をするヒトはいなかった。

  「今日も辛気臭い顔してんなぁ!」

  そう言って、獅子島は教科書やノートを尻に敷いて雅の机に座った。そして四人の取り巻きたちが雅を囲む。

  「しゃーねぇよ。カワイソウな家で過ごしてたらカワイソウな顔しかできねぇよ」

  「でもせっかく俺たちが話しかけてやってんだから、ちょっとは嬉しそうな顔するべきだろ」

  取り巻きの一人が両手で雅の頬をぎゅっ摘むと容赦なく引っ張った。

  「痛いっ」

  思わず叫ぶが、彼らはゲラゲラと笑って止めない。

  「ははは、今の顔の方がずっとマシだわ」

  獅子島が腹を抱えて笑う。

  「父親に捨てられるなんてカワイソウに。俺はお前が心配だよ」

  芝居がかった様子で獅子島は言う。

  ――そして、直後に発せられる言葉が、雅の人生を変える。

  「オマエノハハオヤハ、イツオマエヲステルンダロウナ」

  それが発せられた時、雅は理解できなかった。――いや、理解を拒んだ。

  お前の母親は、いつお前を捨てるんだろうな。

  頭が理解すると走馬灯のように母の顔が浮かんだ。

  そして次の瞬間には、獅子島の顔を全力でぶん殴っていた。机を巻き込みながら吹っ飛ぶ獅子島に、周りの生徒は悲鳴を上げた。肉を越えて骨を打つ固い感触。血が着いた掌を見ても、雅の怒りは微塵も収まらない。

  教室中から恐怖に満ちた視線を浴びながら、雅は鼻血を流して倒れている獅子島に近寄った。

  吹っ飛んだ時に頭を打ったのか、獅子島の目は焦点があっていなかった。それでも、雅が近づいてくるのは分かったようで「や、止めろっ。こっちに来るなっ」と言ってくる。

  雅はそれを無視して獅子島に馬乗りになると、何度も何度も、顔面を殴りつけた。

  獅子島は両腕で顔を覆う。それでも雅は殴り続けた。

  何度も、何度も、何度も。

  そのうち、太い枝が折れるような音がした。

  「いってぇぇぇっ!」

  獅子島が叫ぶ。腕から力が抜けた。

  「死ねよっ!」

  雅は腕を振り払い、無防備になった獅子島の顔面をぶん殴った。ぼきり、と鼻が折れて、雅は返り血を浴びた。

  獅子島の体から力が抜けた。

  まるで死んだかのようだった。

  「まだだからな」

  雅は再び、腕を振り上げた。

  「死ぬまでだ。死ぬまで殴り殺してやる」

  「もう止めろ!」

  腕を振り下ろそうとした時、何かが雅を羽交い締めにした。

  「邪魔すんなっ!」

  雅は背後の人物の脇腹に左肘を打ち込んだ。背後の人物が「うっ」と声を上げる。力が緩んだ隙に雅はするりと抜け出した。

  「消えろ!」

  雅は件の相手を殴りつける。右の拳は相手の頬を強く打ち付け吹っ飛ばした。がしゃん、と机をなぎ倒して倒れていたのは鰐口だった。

  「……お前のせいでっ」

  まさに火に油を注がれた気分だった。

  怒りで体が震える。

  雅は倒れて動かない鰐口に近づこうとした。

  「これ以上はやめて!」

  兎田は小さな体を震わせながら、鰐口の前に立った。

  「ごめん、ごめんなさい。全部、ボクらが悪かった。今までの事、全部謝る。だから、これ以上はもうやめて……」

  兎田は目尻に涙を貯めながら雅に懇願した。

  ほんの僅かに怒りの炎が弱まって、雅は気付いた。

  同じ教室にいるヒトたちの、悪魔を見るかのように怯えた表情に。

  「……クソっ、クソ!お前ら全員、死んじまえ」

  雅はそう言って、舌打ちした。

  教室から夕日を見ていた。獅子島を殴った時に手に着いた血のように真っ赤な夕日だった。

  あの後、騒ぎを聞きつけた隣のクラスの担任が教室に入ってくると、真っ先に獅子島の元に駆け寄った。いくら揺すっても起きない獅子島の様子に顔を青ざめながらも、ポケットから素早くスマートフォンを取り出し救急車を呼んだ。

  その頃には他の教師たちも続々と教室に来ていて、頬を腫らした鰐口に、そして最後に雅に駆け寄った。

  雅は学年主任の教師に手を引かれて別室に連れていかれた。その後、教室に残された生徒たちや鰐口がどうなったかは知らない。

  使われていない暗い教室の埃っぽい椅子に座らされて、目の前に座った学年主任に「どうしてこんな事をしたんだ」と苦々しげな表情で問われた。

  何も話さないまま、何時間も過ぎた。

  太陽が沈み始めた頃に他の教師が「白浜くんのお母様がお見えになりました」と学年主任に報告に来たことだけは覚えている。

  そしてまた幾らか経つと担任がやって来て「お母さん、正門前で待ってるから、教室に戻って荷物取ってきなさい」と雅に言った。

  四年二組の教室は誰もおらず、先の暴力沙汰が無かったかのように元通りに片付けられていた。倒れた机は規則正しく並べられ、飛び散った血は拭きとられていた。

  自分の席に行ってランドセルを机に置く。一人ぼっちの教室にランドセルの金具の音が響いた。

  教科書やノートを乱雑に詰め、留め具をかけた。しかし、雅はランドセルを背負おうとはしなかった。

  ランドセルに手を置きながら、じっと夕日が沈むのを見つめていた。

  そんな時だった。教室の扉が開く音がしたのは。

  「白浜くん……」

  教室の前の扉を開けた所に兎田がいた。

  雅はランドセルの肩ひもを掴み、後ろの扉に早足で向かった。

  「待って!」

  兎田が初めて聞くほど大きな声で呼び止めたので、雅は足を止めた。

  「……本当に、ごめん。友達として、助けるべきだった。でもそんなことをしたら自分もいじめられるんじゃないかって思ったら、怖くって……。

  でも今日の白浜くんを見て、後悔した。白浜くんがあんな事をしてしまったのは、ボクのせいだ。ボクが白浜くんを追い詰めたんだって……。

  謝ってすむ問題じゃないことは分かってる。今ここでどんなに言葉を尽くしても、白浜くんの受けた傷は癒えない。

  きっと、白浜くんの今後の人生を変えてしまうほどの傷だ」

  雅は目を背けたままだったが、兎田の今にも泣き出しそうな声は聞こえていた。

  「でも――人がつけた傷は人と関わり続けることでしか癒えない。

  今の白浜くんは人の[[rb:惨 > むご]]さに絶望してると思う。自分より劣っていると思い込んで見下して、白浜くんになら何をしてもいいと……。間違ってたよね。

  でも、その前はみんな仲良くやってた。ドッヂボール、白浜くんはいつも楽しそうだったよね。ドッヂボールみたいに一人じゃできないこと、味わえない楽しい事がたくさんある。

  それを捨てさせる事こそ、一番の罪だと思う。

  だからどうか、ボクに責任を取るチャンスを与えてほしい」

  そう言って、兎田は深々と頭を下げた。

  時計の針が刻む音だけが二人きりの教室に響いていた。

  雅はランドセルを床に置いた。兎田に背を向け、教室の後ろの壁の方へ向かう。

  「……白浜くん?」

  兎田が困惑した声を上げる。

  雅はそれに反応することなく、壁に貼られた習字の作品を剥がし始めた。乱暴に剥がした半紙をぐしゃぐしゃに丸めては隣の作品を剥がし、また丸める。そうして、四年二組三十二人の作品を全て剥がし終えると、雅はその全てをゴミ箱に捨てた。

  『友達』と書かれた、その全てを。

  「お前も、これも、もう要らない」

  そう言って、雅は教室を出ていった。

  雅の冷えきった目に、兎田は微塵も映っていなかった。

  兎田がその後ろ手に隠した仲直りに選んだ本も雅には見えていない。雅は他人全てを自分の世界から排したのだった。

  [newpage]

  「雅ってリンゴの皮むきしたことあったの?」

  ベッドの頭側を背もたれのように上げて、背中を預けた母が雅に訊いた。

  「いや、初めて」

  雅は丸椅子に座って、病院から借りたナイフでリンゴの皮を剥いていた。雅の手元からは螺旋状に繋がったリンゴの皮がするすると表れる。

  「そうなの?お母さん、そんなにキレイに皮むけないよ」

  「母さんは不器用だし」

  「まあねぇ。でも、雅が器用だから、っていうのもあるんじゃない?」

  雅はリンゴをくし切りにして皿に盛り、ベットの机に置いた。

  「ほら、食べて」

  「ありがとう。でも、リンゴなんて高かったでしょう?

  せっかくだから雅も一緒に食べよ」

  「うん」

  母が棚から出したフォークを受け取り、リンゴを一欠片頬張った。しゃりっ、と瑞々しい食感が口に広がるが味は微妙だった。

  しかし母は気に入ったようで「美味しい」と言いながら食べていた。

  「母さん、思ったより食べれるな」

  「久しぶりのフルーツよ、食べなきゃもったいないもの。

  それに病院食は味がイマイチだから、こういう美味しい食べ物が食べたかったの」

  そう言うと母は嬉しそうな顔を反転させ、心配そうな表情を雅に向けた。

  「雅こそちゃんと食べてるの?前より痩せたように見えるけど……」

  「……大丈夫、食べてるよ。バイト先で貰った賄いがある」

  「お昼ご飯は?」

  「……学校に行く途中のコンビニで買ってる」

  「そう、ちゃんと食べてるのね」

  そういって母は胸を撫で下ろした。ほっとした母の表情に、雅の胸が痛んだ。

  「退院したらお母さん張り切ってご飯作るね。

  雅は何が食べたい?」

  「……何でもいいから、早く退院してくれ」

  「そうね、がんばるわ」

  つっけんどんな雅の返事に母はふふ、と笑った。

  雅はもう一度、リンゴを口に運んだ。リンゴの水分が乾いた口内を潤した。

  「母さん、話があるんだ」

  雅が改まった様子で言うと、母は笑顔をしまい無言で先を促した。

  母にばれないように小さく深呼吸して、覚悟を決める。それでも喉に突っかかる異物を感じながら、雅は口を開けた。

  「俺、高校辞めようと思う」

  「……どうして?」

  「……あの学校、嫌いなんだ。勉強しかできないガリ勉ばかりなのに、プライドだけは高い。あんなお高くまとまったヤツらと同じ空気を吸ってられるか」

  それに、と言って雅は続けた。

  「俺も働きたいんだ」

  先ほどの吐き捨てるような言い方から一転して、その言葉には雅が母にだけ見せる親愛が込められていた。

  母は一瞬目を丸くし、やがて涙を滲ませた。

  「雅は、本当に優しい子ね」

  母は雅の手を両手で優しく包んだ。母の荒れた手は固く、思いの外小さかった。

  「ごめんね、雅はまだ高校生なのにこんな事を言わせて……

  私、母親失格ね」

  「そんな事、絶対ない」

  断固たる意思をもって雅は否定した。

  雅の頑固そうな表情を見て、母は嬉しそうに口角を上げた。そして瞑目し、しばらく何か考えているような素振りを見せた。

  「雅の夢は何?」

  「え……今はなにも」

  母の突然の問いに、雅は戸惑いながらも答えた。

  「そうよね、夢ってなかなか見つからないよね。私が高校生だった時も無かった」

  母は握った雅の手を見つめる。

  「でも、高校を卒業して働くようになってから私にも夢ができたの」

  「どんな夢?」

  「社長さん」

  母の突拍子のない夢に、雅は「ぶふっ」と思わず吹き出した。

  「母さん、そんなスケールの大きな夢あったのか」

  「私の働いてた会社に来た社長さん、若い女性だったんだけどね、スゴくカッコイイのよ。ウチの上司たち相手に、物怖じせずハキハキと喋るの。それなのに私みたいな平社員にも丁寧に挨拶してくれる。本当に憧れたわ。

  でも私は高卒で学歴がないから、あの人みたいにはなれないって思った――思ったし、言われたわ。

  大学に行ければ違ったのかなって思ったら、とっても悲しかった。でも、両親を早くに亡くした私には何となく大学に行くなんてできなかった。手に職つけて、自立しなきゃいけなかったから」

  母は少しでも自分の思いを伝えようと、雅の手を強く握っる。胎盤を介するように、鱗のない肌を通して母の熱を感じた。

  「もし雅が夢を叶えるのに大学に行く必要がないのなら、高校なんて辞めていい。

  でも、大学に行くことで雅の可能性が広がって、いつか見つけるかもしれない雅の夢が叶う確率が少しでも上がるなら、私は雅に大学に行って欲しい」

  母の話で、雅は自分の将来について何も考えていなかったのだと気づいた。何となく、高校を卒業したら働くのだろう、と今までは漠然と考えていた。

  しかし、母は雅よりも雅の将来について憂慮していたのだ。多大な苦労をかけて育ててもらっておきながら、惰性で生き、幸福を求めようとしなかった親不孝な自分を恥じた。

  「ごめん、母さん。俺のこと、そんなに考えてくれてるなんて……」

  「いいのよ、雅はまだ子供なんだから。自由に生きて、何か素敵なことを見つけてから考え始める位でいいのよ」

  懐の深さを感じさせる母の話に、雅は「ありがとう」と笑ったが、再び浮かない顔を見せた。

  「まだ何か悩んでる?」

  「家に大学に行くほどの金なんてあるのかって思って……」

  現状、家賃はギリギリ払えているが公共料金の方は余裕が無い。いつ電気やガスが止められてもおかしくない状況だ。

  それほど家計は火の車なのに、大学の費用を捻出できるとは思えなかった。

  「多くはないけど、そのために貯めてるお金があるの。お母さんの部屋のアルバムに隠してあるから、もし必要なら使って」

  母はあっさり明かしたが、雅は初耳だった。正確な学費は知らないが、かなりの額になるはずだ。それだけの金額を貯めていたことに、雅は驚いた。

  「でも、何年も働いて貯めた金だろ。おいそれとは使えない」

  「使った分は、また働いて稼げばいいのよ」

  明朗な声音とは裏腹に、病院服から覗く母の腕は枝のように細かった。

  「とりあえず、学校を辞めるっていう話はもう少し考えてみて」

  母が何と言おうと、母の生活を犠牲にしてまで得た金を、本来の目的以外に使おうとは雅には思えなかった。

  [newpage]

  「希月、ちゃんと声に出さないと覚えられないでしょ」

  希月がリビングのソファに腰掛けながら単語帳を眺めていると、背後から気の強い女性の声がした。

  「そういうのは自分の部屋でやるからいいのー」

  振り向くと希月と同じ白い毛並みの狼獣人がいた。腰に手を当て、負けん気の強そうな顔をした人は、希月の姉、大神[[rb:水月 > みづき]]だ。

  「そんな心持ちで大学受かると思ってんの。私は高一の頃から毎日一時間は音読してたわよ」

  「知ってるよ。毎日壁越しに聞こえてたもん。でも受験期は声が大きすぎて僕眠れなかったの、水月姉ちゃん知ってた?」

  当時、小学生だった希月の部屋には水月の鬼気迫る声が呪詛のように流れ込んでいた。それが夜遅くまで続くものだから毎夜枕で頭を覆って寝ていたのだ。

  しかし、当の本人は全く反省する素振りを見せなかった。

  「だったら壁を防音にすればよかったじゃない」

  「その手があったか」

  「いや、ないからな水月。希月に変なことを吹き込まない!」

  なるほど、と希月が頷いていると、アイランドキッチンに立っている父がおたま片手に声を張り上げた。父は一般家庭で育ち大神家に婿入りしたため、生来の金持ちである子供たちとは金銭感覚が合わないのだ。

  「確かに家にはたくさんお金がある。だがそれはご先祖さまが作り上げた実績と信頼の賜物だ。使うなとは言わんが、よく考えて、ご先祖さまに顔向けできるような使い方をしなさい」

  父は離れた二人に向けて大声でいった。料理の音に加え、広い部屋なので声を張り上げないと聞こえないのだ。

  すると父の隣で料理を手伝っていた兄、[[rb:睦月 > むつき]]が口を開けた。

  「ご高説は結構だけど、床に落ちた食材を鍋に戻すなよ」

  「だいじょぶだいじょぶ、三秒ルールだから」

  「前もそう言って戻して希月が腹壊してたでしょうが」

  父は「え〜」と言いながら、床からつまみ上げた食材を鍋に入れるのを止めた。その代わり、父はその食材を口に放り込んだ。

  「うわばっちぃ」

  「そういう事を言うな、水月。この世には食べたくても食べられない人もいるんだ。床に落ちた程度で汚いなんて言ってるとバチが当たるぞ」

  貧乏性を発揮した父を睦月は呆れた目で見ていた。

  「はぁ……で、母さんはまだ会社?」

  「あぁ、今日も夜遅くまで。夕食食べたら母さんの分のご飯を会社に届けてくる」

  大神財閥の総帥である母は多忙でなかなか家に帰れない。そのため父が食事を作って届けているのだ。

  「ねぇねぇ、今日のご飯はなぁに?」

  「今日はロールキャベツだ。希月、好きだろ」

  「好き好き!早く食べたい!」

  「もうちょっと待ってろよ〜」

  希月の期待に満ちた声に、父は相好を崩した。

  少しするとキッチンから離れたリビングにまで、食欲をそそる美味しそうな匂いが漂ってきた。

  「いい匂い〜、お父さんできた?」

  「もうすぐだから、水月は用意しといてくれ」

  「はいはーい」

  水月はいじっていたスマートフォンをソファの前のローテーブルに置き、ダイニングテーブルを布巾で拭き始めた。希月もキッチンからグラスやナイフやフォークを運ぶ。

  そこにスープなどの副菜と主食のパエリアを睦月が運んできた。

  「姉貴、なに飲む?」

  「今日のメニューにはワインでしょ。この前お母さんがどっかの社長さんから貰ってたやつ開けよ」

  「持ってくるよ」

  「いやいや、睦月は座ってなさい。私が持ってくるから。

  お子ちゃまはオレンジジュースね」

  「りんごジュースがいい〜」

  はいはい、と受け流してキッチンに向かった水月は、二本の瓶を持って戻ってきた。まず黄金色のりんごジュースをグラスに注ぎ、残り三つにはルビーのように輝く赤ワインを注いだ。

  「さぁ〜て、みなさんお待たせしましたよぉー」

  父がロールキャベツを盛った器を置いた。母がオーダーメイドで作ったシャンデリアがそれを照らす。透明な出し汁に浮かぶ輝く緑の島からゆらゆらと湯気が上っていた。

  「うわっ、めちゃくちゃ美味しそう!お父さん天才!」

  「そうだぞ、水月。お父さんは天才なんだ」

  水月の煽てに気を良くした父は胸を張ってふんぞり返った。

  全員が席に着くと、各々グラスを手に持った。

  父が三人を見渡す。

  「今日もみんな良く頑張った。それじゃあ――」

  「かんぱーい!」

  宝石のように美しく輝く液体を入れたグラス同士がぶつかった。その音は高級な楽器が奏でる音色のように凛とした響きだった。

  

  満腹になった希月たちが座ったまま寛いでいると、睦月がトレーにデザートを載せて運んできた。

  「家庭菜園で採れたリンゴを使ってスイーツ作ったんだけど、みんな食べる?」

  睦月は世の中の流行りに興味がなく、黙々と一人で作業するのが好きだった。睦月が高校生の頃に家の庭で始めた家庭菜園は年々拡大しており、始めは十畳だったのが今やテニスコート並の広さだ。

  「たべるー!」

  薄切りにしたリンゴを薔薇の花弁のように飾り付けたグラスケーキに希月は目を輝かせた。グラス部分にはシリアルやベリーソース、リンゴのムースが層を成している。

  「めっちゃオシャレじゃん!写真撮らないと!」

  水月はスマートフォンをグラスケーキに向け、カシャカシャと色んな角度から撮っていた。

  「え、家庭菜園でリンゴ?」

  父が呆気に取られながら呟いた。

  「確かに。リンゴって育てるの難しいの?」

  「そこそこって感じ。でも、梨に比べたらだいぶ楽らしい」

  水月と睦月の会話の裏で、父が「いつの間に庭にリンゴの木を植えたんだ……」と愕然としていた。

  「いただきまーす」

  希月は目の前に置かれたグラスケーキをスプーンですくい頬張った。

  「うわぁ、おいしい!」

  リンゴの酸味とクリームの甘みが調度良い。希月はパクパクと食べ進めた。

  「よかった。姉貴はどう?」

  「う~ん、この前カフェで食べたヤツには負けるわね」

  まるで評論家のようだ。しかし、睦月は姉の高慢ちきな評価を無視して訊いた。

  「どこのカフェ?」

  「銀座。今度一緒に行く?」

  「もちろん」

  睦月の目の奥に火が点るのがわかった。これは競争心からではなく、食への探究心ゆえだと希月は知っている。

  「そういえばさ希月、雅くんの話どうなったの?」

  水月がグラスケーキを食べながら希月に訊いた。

  先ほどまでパクパクと食べ進めていた希月だが、途端に手が止まってしまった。耳がしおれ、風船から空気が抜けるように気力が無くなっていく。

  「それが、お金を断られてから避けられるようになって、全然話せてなくて……」

  「えっ!?希月、お金渡そうとしたのか?」

  父が驚きの声を上げる。

  「雅くんってあれだよな、希月が柔道部に入れた母子家庭の子だよな」

  希月が首を縦に振ると、父は「あちゃー」と額に手を当てた。

  「え〜、せっかくの希月の好意なんだから受け取ればいいのに」

  「いやいや、みんながみんな姉貴みたいにガサツじゃないんだよ」

  「はぁ?私は繊細でお淑やかで上品でしょ!」

  「食材をミキサーに突っ込んで混ぜたものを料理と言い張る人のどこがだよ。繊細のせの字もない」

  確かに、卵、アーモンド、ヨーグルト、ブロッコリー、納豆と栄養価の高い食材をミキサーに突っ込んだスムージー(水月スペシャル)の味はガサツという言葉がこの上なく合っていた。

  「希月だけじゃなくて、水月と睦月にも聞いて欲しいんだが」

  父はそう前置きし、真剣な表情で三人を見た。三人とも父の様子に気づき、佇まいを正した。

  「ハッキリ言って、この家はとんでもなく恵まれている。

  毎日の豪華な食事、優秀な家庭教師による個別指導、いつも綺麗で大きな家、いくら使っても減らないお金。お前たちにとって、これらは当たり前のことだ。

  まるで真ん丸な満月のように、欠けたところのない満ち足りた生活だろう。

  でも、その生活ゆえにお前たちがなかなか獲得できないものがある。何だか分かるか?」

  父の問いに希月と水月は首を横に振った。

  「思い遣り、とか……」

  心当たりがあった睦月が自信なさげに答えた。

  それに父は嬉しそうに頷いた。

  「そうだ。

  お前たちは欲しいものも、出来ないことも、困り事も、金で解決できる。だから、欲しいものを諦めることも、出来ないことに苦しむことも、困り事に頭を悩ませることもほとんどない。

  そうなると、苦しんでる人や我慢してる人たちの気持ちが分からず、人の気持ちに鈍感になる。人の気持ちに鈍感になれば、配慮を怠り、人を傷つける。まるでドラマやマンガで出てくるイヤな金持ちのようにな」

  ふと、希月はあの時の雅の顔を思い出した。強く閉じられた瞼、悲痛そうに歪められた目元。

  「僕、無神経だった……」

  握りしめた雅の拳は震えていた。雅は、無遠慮な希月の行いに怒っていた。

  しかし、希月に傷つけられても雅はその怒りを希月にぶつけることはしなかった。部活に戻ってきて欲しいという個人の願いを押し付けた希月とは違い、雅は希月の想いを図り、それが悪意ゆえではなく、曲がりなりにも善意からの行為だと判断した。

  粗暴な見た目とは裏腹に思慮深い雅の心根に深く感服する。しかしそれと同時に、自身の短慮さに嫌悪を覚えた。

  「自分がしたことが分かったみたいだな」

  父はニコニコと笑顔を浮かべながら言った。希月のした事に幻滅も失望もせず、ただただ我が子の成長を見守っている。

  「希月、失敗と挽回はセットなの。会社でミスして落ち込んでる時にお母さんによく言われたわ」

  「でもお姉ちゃん、挽回って何すればいいの?それに、また無神経なことして雅を傷つけちゃうかも……」

  「そういう不安に苦しむのも、人の気持ちを知るいい機会だ。たくさん悩め、てのは突き放しすぎか。

  兄貴からのアドバイスだ。希月が白浜くんにした逆のことをしてあげな」

  「逆のこと……」

  希月は顎に手を当てて考え込む。それを家族は優しく見守った。やがて何か思いつき「そうだ!」と希月は顔を上げる。

  「お父さん、教えて欲しいことがあるんだけど」

  希月が父に頼み込む。その顔は、進むべき道を見つけた者特有の強さがあった。

  「それでこそ、優しくて賢くて可愛い大神家の末っ子だ」

  父は温かい手で希月の頭を撫でる。ロールキャベツの美味しそうな匂いが希月の鼻をくすぐった。

  [newpage]

  泥から這い出でるように目が覚めた。

  時計の短針は三時を示していたが、カーテンの隙間からこぼれる光はどんよりと鈍い。分厚い雨雲から降り注ぐ雨粒は、雅を追い立てるように窓を叩く。

  しかし、雅は外の世界には無関心だった。雅がいなくても学校の授業は進むし、雅が何をしても雨は止まない。

  雅は気怠い体に鞭を打って布団から這い出た。昨日もアルバイトから帰ってきてそのまま寝たので、汗の染みた服が気持ち悪かった。

  シャワーを浴びようと部屋を出ると、そこには滅茶苦茶に散らかった居間があった。テーブルにはこぼれた水やカップ麺の汁がシミを作り、倒れた引出し収納から出てきた小物が床に散らかっている。台所のシンクにはカップ麺のケースが積み重ねられており、長い間放置されたそれらからは悪臭が漂っていた。

  雅はそんな居間に目もくれず風呂場に歩く。脱衣所のスイッチを押すが、一向に灯りはつかない。

  先日ガスが止められ、今度はついに電気も止められたらしい。

  それでも雅は機械的に体を動かし、真っ暗な中シャワーを浴びた。冷たい水が体の熱を奪っていく感覚だけがあった。

  部屋に戻ると、隅に放られた衣類の山から適当に取って着た。その山の中には無造作に投げ捨てられ、数週間分の埃が積もった学生服もあった。

  しかし、散らかった家の中にも綺麗に保たれているものがある。

  文机の上に置かれた皺ひとつない手製の巾着袋。中には丁寧に畳まれた柔道着が入っている。柔道部を辞めてから着ることは無かったが、その道着袋だけが雅の部屋の中で唯一、整然さを保たれていた。

  そして道着袋の中にはもう一つ、大事な物が入っている。

  雅は道着袋に手を入れ、それを取り出した。

  通帳だった。

  白浜雅、という名前の下に母の字で「雅の将来のためのお金」と書かれている。

  雅は通帳を開くと最後に印字された欄を見た。

  現在高―1316,351

  最初のページを見る。一番上の欄の日付は十五年前の一月六日。雅が生まれた三月八日より前から金が振り込まれている。その金額、百六十七円。

  それから一、二年は雀の涙ほどの金額が続き、その後、職を得たからか、それなりの金額が振り込まれるようになった。しかし、その金額も目を見張るようなものではなく、むしろ少ない。

  まさに、塵も積もれば山となる。

  母の人生を削り出し続けて得た砂金が、今や巨大な金山となって雅の目の前にそびえ立っている。

  女手一つで子供を育てながらこれだけのものを我が子のために蓄えるのは、想像を絶するほどの苦労だったに違いない。これを見た時は、雅に人生を捧げる母の愛情に自然と涙が零れた。

  しかし――だからこそ、この金を使うことはできなかった。

  今、この金を使うことが、大学に行って欲しいという母の願いに沿うのかどうか、分からない。母が倒れるほど苦労して貯めた金だ。ひょいともらったお小遣いとは重みが違う。どうしても踏ん切りがつかない。――高校に通うことが、大学進学に必要だとしても。

  何より、雅はこの金を使わずにすむ[[rb:術 > すべ]]を諦めきれていない。今も道着袋を手放さないのが、その証であった。

  アルバイトが終わり雅が帰路に着く頃には、日付は変わっていた。暗い道には人はおらず、冷たい雨が霧のように視界を覆っていた。

  厚い雲は空を覆い、星どころか月の光すら遮ってしまう。最後に月を見たのは、合宿の時だった。あれ以来、雅は一月以上も月を見ていない。

  「……月がないと、やっぱり暗いな」

  暗幕に覆われたかのような空を見て雅は言い、歩を進めた。 足を踏み出す度にぱしゃぱしゃと水が跳ね、ズボンの裾を濡らした。

  「アイツ、俺が近づくとブルブル震えるんだよ。それが面白くて、近づいてバンッて足鳴らしたんだよ。そしたらアイツ、『ヒィッ』ていって椅子から転げ落ちてよォ。マジダセェよな」

  「流石っす、[[rb:獅子丸 > ししまる]]さん!」

  「めっちゃ可愛がってましたもんね。でもアイツ、最近学校来てないみたいですよ」

  「マジかよォ。また新しいオモチャ探すか」

  自分の悪行を自慢げに語る声ははばかる事を知らず、雨音を越えて雅の耳に流れ込んできた。

  「クソが……」

  雅は他人の痛みが分からない人を嫌悪している。小さな違いを矢面に上げられ、ささいな傷を[[rb:抉 > えぐ]]り広げるように虐められた過去が雅の心に深く刺さっている。

  人の苦しみ、人の痛みが分からない屑どもが、他人を尊びながら生きようとする人の人生を破壊する。これほど不条理なことは無い。

  傘で限られた視線の先、見覚えのある影がいた。四人の子分の中心に立つ獅子獣人、あれは四月にゲームセンターの裏路地で希月に投げられたやつだった。

  その獅子が雅の視線に気付いた。子分たちを引き連れ、ヘラヘラと笑いながら雅に近づく。

  「よう、ドクリュウ。いい夜だなァ」

  久しく聞いていなかった呼び名だった。

  柔道部にいた日々は貴重な時間だったと思い知る。雅が本来いる場所は、互いの尊厳を[[rb:貶 > おとし]]めあうこういう場だ。

  「特に雨が降ってるのがいい。雨は血を洗い流してくれるからなァ。害悪退治とはいえ、オスの血みどろな姿は萎えっからよ!」

  そういうと、獅子は傘を子分に持たせた。雨に濡れるのも構わず早足で雅に近づく。徐々にスピードが上がり、獅子はその勢いを乗せて雅の頬をぶん殴った。

  「ガァッ!」

  雅は体をコンクリートの地面に打ち付けた。

  視界が明滅する。殴られた右頬が熱く、打ち付けた左肩は水溜まりに突っ込んで冷たい。

  「別に血がダメって訳じゃねぇんだけどよ。ただ、血まみれのやつで遊ぶと、オレにも血が着いちまうのがウザったいんだよな」

  熱が徐々にじんじんと痛みを発し出した。

  普段なら避けるなり防ぐなりできた単純なパンチだった。しかし日々の疲労は足枷となり、雅の動きは病人のように緩慢だった。

  雅は重い体を無理矢理起こす。ふらふらと揺れる視界には、愉快そうな顔をした獅子がいた。

  「お前……何様のつもりだよ」

  「主役だよ。んで、お前らは俺の人生を盛り上げるモブだ」

  それがこの世の真実だ、と言わんばかりの迷いのなさだった。子分たちは「獅子丸さん、かっけぇ!」はやし立て、気を良くした獅子は鬱陶しい鬣を撫でて「当たり前だろ」と答える。

  目の前の相手が、昔のだれかと重なって見えた。

  「今度こそ……殺してやる」

  雨の音も子分たちの声も消え失せ、雅の意識は獅子に向けられる。

  獅子は雅に劣らない体格をしていた。上背があり、上腕や首はもちろん、服に隠れた胸板や腕も逞しい。雅に遣る舐めた視線は、自身の実力に対する自信の現れだろう。

  しかし、雅は獅子に負けることはないと考えていた。

  体格が同じで、相手が喧嘩なれしていようと、雅には決定的な強みがある。

  それは、体を覆う硬い鱗だ。

  柔道は必殺の一本を取るために駆け引きをするが、喧嘩に駆け引きはほとんどない。技術も作戦もなく、ただ互いに力任せに殴り合う。いわばガードのないボクシング。どんなに殴られようがリングに立っていた方が勝つのと同じだ。

  雅の硬い鱗はダメージをゼロにすることはできずとも、毛皮よりずっと減る。同じ体格であれば、殴り合いを続けるほど雅と相手のダメージの蓄積量には差ができる。要は雅だけ鎧を着て喧嘩するようなものだ。

  先程は疲労に足を取られて痛い一撃をもらってしまったが、アドレナリンが体を支配する今、先のような失態は有り得ない。

  思い上がった屑に、身の程を教えてやる。

  そう意気込んで、雅は右腕を引き絞る。

  しかし、その拳が獅子に放たれることはなかった。

  「はっ、もっと周りを見ろ。バカが」

  子分二人に体を抑えられた雅を見て、獅子はそれを嘲笑する。一人が雅を羽交い締めにし、もう一人が腕を抑えていた。二人とも雅ほどの体格はなく、以前であればこの程度の拘束は難なく振りほどけた。

  しかし、今はどんなにもがいても振り解けない。これは体に蓄積された疲労のためではない。十分な食事を取らなかったために体が痩せ、筋肉が落ちたためだった。

  「前から気に食わなかったんだよ。中坊の頃からドクリュウなんてもてはやされてよぉっ」

  動けない雅のみぞおちを獅子は殴る。

  「がぁぁぁっ」

  内臓を潰されるような痛みに雅は悶える。しかし獅子は躊躇うことなく雅を殴り続けた。ドスン、と衝撃を受ける度に体中を痛みが駆け巡る。

  腹を殴られれば、空っぽの胃がひっくり返って胃液だけが出てきた。顎を殴られた時は、口内が切れて血の味がした。

  雅は自力で立てないほど痛めつけられ、もはや拘束していた二人に支えられているような状態になった。

  「離せ」

  獅子が二人にいう。解放された雅は地面に両膝を付き、倒れないようにするのでやっとだった。

  朦朧とする意識を何とか繋ぎ止める。痛めつけられた体は呼吸さえままならず、胸を無理矢理動かして息を吸う。十月の冷えた空気が、少しでも空気を吸おうと広がった気管を通り抜ける。

  「はっ、ボロボロにされてもその仏頂面は止めねぇか」

  焦点の定まらない視界を上に向けた。獅子の表情は歪んで見えない。が、雅を蔑んでいることだけは分かった。

  「ま、認めてやるよ。お前は喧嘩が強い。これだけボコされてそんな顔できるやつはなかなかいねぇよ。だけどな――」

  獅子は雅を見下していった。

  「それ以外、お前には何の取り柄もない。

  知ってんだろ、お前がドクリュウって呼ばれる理由」

  雅の体からすっと熱が引いていく。熱を放出するために流れていた汗が、冷や汗に変わっていた。

  「孤独の『独』も由来の一つだが、一番は毒物の『毒』だ。

  お前の同じ中学のやつが言ってたぜ。ドクリュウがいるだけで、クラスの雰囲気が悪くなるって。みんな、お前にビクビクしながら生活してたらしいじゃねぇか。

  キレイな空気や水でも、毒を一滴垂らすだけで駄目になる。それと同じだ。お前はクラス全員、いや、学校全員の学校生活を汚染したんだ。お前の存在は害悪でしかないんだよ」

  ふと、高校のクラスメイトの顔が浮かんだ。しばらく会っていないが、雅を見る時、誰もが嫌悪や不快感を顔に滲ませるのは覚えている。何なら、彼らの明るい顔が思い浮かばないほど、雅は彼らの笑顔に見覚えがなかった。

  体から力が抜け、両手を泥水が覆う地面に着いた。自分は目の前の獅子や獅子島と同じ、他人の人生を壊す屑だったのか。

  「……いや、でも」

  雅は言い訳を探すようにぶつぶつと口ごもる。

  しかし、思考がまとまるより先に雅の視界は回転した。

  「お前みたいなヤツは百害あって一利なしだ。産まれてきてんじゃねぇよ」

  側頭部をコンクリートの地面に打ち付ける。明滅する視界と強い痛みを感じながら、雅は獅子に蹴り倒されたのだと理解した。

  下卑た笑い声と共に足音が遠ざかっていく。

  怒りどころか、立ち上がる気力すら湧かない。

  体を雨に晒しながら、自分の生き方は間違っていたのか、と自問する。

  泥水と血の味が答えだった。

  雅は暗い道を一人歩く。

  家の塀に手を当て、泥水にまみれた姿で、ゆっくりと前に進む。

  道端に綺麗な花が咲いていた。恵みの雨に打たれ嬉しそうに花弁を震わしている。

  ふと、雅がよろめいた。

  おぼつかない足が道端の花を踏み潰した。

  茎は折れ、花弁は無惨に散り靴裏に張り付いた。

  しかし、雅は気にしない。今さら気にしてもどうしようも無い。今までしてきたことと、何も変わらないのだから。

  雅は暗い道を一人歩く。

  「もう、助けてはくれないか」

  帰ったら、道着袋は捨てよう。

  雅は一縷の希望を手放すように、諦めの滲んだ声で呟いた。

  その声は雨に叩きのめされて、誰にも聞かれることなく消えていく――はずだった。

  「そんなことない。

  雅がこの手を取ってくれるなら、僕は何度だって助けるよ」

  久しぶりに聞く声に、鼓膜だけでなく全身が震えた。心の奥底で、ずっとずっと彼を求めていたのだろう。自身を取り繕う余裕もないまま、雅は勢いよく振り向いた。

  「久しぶり、雅。少し……痩せたね」

  眩しいほどに真っ白な毛並みだった。

  希月は恥ずかしそうな、バツの悪そうな様子ではにかんだ。

  死んだように動かなかった雅のしっぽがぴくりと揺れた。

  [newpage]

  「お邪魔します」

  かしこまった様子で希月は雅の家のドアをくぐった。体を縮めて緊張した様子の希月は、借りてきた猫ならぬ借りてきた犬状態だった。

  しかし、緊張しているのは雅も同じだった。なにせ他人を家に上げた事がない。「ただいま」といわれれば「おかえり」と返せばいいが、「お邪魔します」という聞き慣れない挨拶には何と言えばいいのか。

  雅は逡巡した果てに「……ん」とだけ返した。

  二人が靴を脱いで上がると、希月がキョロキョロと部屋を見渡した。

  「何か気になるか?」

  雅は希月の方に振り返って訊いた。大方、小さな家が金持ちの希月には珍しく見えたのだろう、と思っていたが、希月の返答は違った。

  「いや、電気のスイッチどこかなって」

  雅が灯りを点けなかったから、代わりに点けようとしたのだろう。今も壁に手を当て、手探りで探している。

  「もう少し手前だ」

  「えぇっと、ここか」

  探り当てた希月が、カチッとスイッチを押す音がした。しかし、部屋は依然、真っ暗なままだった。

  「あ、あれ?」

  「電気止められてるから点かないぞ」

  「なんでそれを先に言わないの」

  頬を膨らませて抗議する希月が暗闇にぼんやりと浮かぶ。それを見て雅はくすくすと笑った。

  希月は肩にかけていたトートバッグをダイニングテーブルにそっと置くと、ポケットから取り出したスマートフォンのライトで部屋を照らした。

  「これは……」

  スマートフォンの小さな光が部屋の惨状を部分的に浮かび上がらせる。不用意に歩けば物を踏みつけてしまう程だ。

  異臭を嗅ぎつけたのか、スンスンと鼻を鳴らし、希月はシンクにライトを向けた。積み重ねられたカップ麺の容器を見て、希月は顔を顰めた。

  「悪いな、汚くて」

  「……いや、こっちこそ、ごめん」

  尻すぼみになっていく希月の声には、後悔が滲んでいるようだった。顔を顰めたのも、嫌悪からではなく罪悪感ゆえだったのかもしれない。

  「まずは雅の怪我の手当からしよっか」

  希月は雅の方を向いて、殊更明るく振る舞った。

  照らされた雅には打撲や擦り傷の類が体の至るところにあった。鱗の無い体の内側はもちろん、外側も鱗が剥がれ傷口から血が流れている。

  「救急箱はどこ?」

  雅は手探りで床を探し、見つけた救急箱を掲げた。

  「僕が手当するよ、服脱いで」

  希月の前で服を脱ぐ。そう意識したら急に恥ずかしくなり、救急箱を持った手を引っ込めた。

  「い、いや、いい。自分でやる」

  「今さら恥ずかしがることないって。雅の裸は何回も見てるんだから」

  希月はそういって救急箱をぶんどると、雅の服を脱がして床に座らせる。雅は落ち着かなくて胡座を組み直したり、尻尾をくねらしたりした。

  希月が雅の体を照らして傷を探している間、柔道部にいた頃を思い出していた。着替えの時、部活に入りたて雅は裸を見られないように素早く着替えていたが、いつしか彼らと話しながらゆっくり着替えるようになっていた。互い格好なんて気にしないし、話に夢中になって全員パンツ一枚で話し込んでいた時だってある。

  しかし、部活を辞めてもう二ヶ月も経った。彼らとの関係は希薄になりつつある。希月の前で脱ぐのを躊躇ったのはそのためだ。

  胸の隙間を北風が吹き抜ける。これが「惜しい」という感情だと、雅は知らなかった。

  「傷口消毒するから、少し染みるよ」

  希月は消毒液を浸したガーゼで肩の傷を拭いた。

  「……っ」

  傷にピリッと刺激が走る。噛み締めた牙の隙間から息が漏れた。

  「もう少し我慢してね」

  スマートフォンで照らしながら手早く、それでいて丁寧に傷口を洗う。首元に当たる希月のふさふさな手に慣れなくて、雅は希月と反対側の壁を見詰めていた。

  「こうしてると思い出すなぁ。インハイの前、朝練に付き合ってくれた雅が怪我して、僕が手当したの」

  「でも柔道の怪我と、喧嘩の傷は違うだろ」

  「うん。こっちの方が血が出てて痛そう」

  希月は眉をひそめていうが、その手の動きは澱みない。

  「あの頃は希月のこと、努力も苦労も知らないボンボンだと思ってた」

  「あはは、僕と初めて会った人はだいたいそう思ってるよ」

  同じようなことを何度も言われるのか、希月は慣れた様子で笑い飛ばした。

  「僕だって、まだ雅のことちょっと怖かったから、『雅くん』なんて呼んでたよ」

  「お互い、第一印象からだいぶ変わったな」

  「まったくだね」

  希月のおちゃらけた返答に、雅は顔をほころばせた。

  「よし、取り敢えず消毒は完了。ガーゼで傷を覆った方がいいだろうけど、先にシャワー浴びた方がいいよね」

  雅が見下ろすと、泥水や血に汚れた自分の体が目に入る。

  「ああ、そうするよ」

  「その間に僕はアレの準備しておくね」

  希月はテーブルの上のトートバッグを指さしていった。

  「期待してる」

  雅はそう頷くと、自分の部屋から着替えを取ってきて脱衣所に向かった。

  真っ暗かつ冷たいシャワーで身を清める。流水があちこちにできた傷口を舐める度にヒリヒリと痛んだ。それでも、痛みを我慢して体の隅々まで綺麗に洗い流した。思えば、ここまで丁寧にシャワーを浴びるのは久しぶりだったかもしれない。

  体をバスタオルで拭き、脱衣所から出る。

  「お〜、石鹸のいい匂い」

  と希月が鼻を鳴らしながらいった。

  「希月……掃除してくれたのか」

  暗闇に慣れた目には、数分前よりずっと整頓された部屋が映っていた。埃を被っていたテーブルは拭き清められ、床に散乱していたものは元に戻されたり、一箇所にまとめられている。何より、カップ麺の悪臭が弱くなっている。まったく無い、という訳ではないが、意識しなければ気にならないほどだ。かなり溜まっていたが、全部洗って、その上換気までしてくれたようだ。

  「悪いな」

  「気にしないで。せっかくだし、ベストな状態にしときたかったんだ」

  希月がトートバッグから取り出したのは、丸型の弁当箱だった。薄く削り出した檜を用いた、いわゆる曲げわっぱだ。木目が走るこの弁当箱には、プラスチック製のものには無い、温かな命の営みが感じられた。

  「ウチで売ってる弁当箱でね、冷めてもご飯が美味しいって人気なんだ」

  希月はスプーンとともに弁当箱を雅の前に置いた。

  雅はイスに座ると、逸る気持ち抑えながら弁当箱のフタを開けた。

  「これは……オムライスか」

  フタを開けると、真ん丸に焼いた黄色の卵が一面に広がっている。その下から漂うケチャップの香り。

  綺麗に焼かれた卵の色味と、ケチャップの酸っぱい匂い。この二つが一月近く我慢していた空腹を解放させた。萎みきった胃が、飯はまだか、と急き立てる。

  「いただきます」

  オムライスをスプーンいっぱいにすくうと、雅は口を大きく開けて頬張った。

  とろっとした卵が口でとろける。そこにケチャップの酸味や野菜の旨みがよく調和している。そして大振りな鶏肉は食べ応え抜群だ。久しぶりに食べる肉はため息がでるほど美味しかった。

  雅はガツガツと勢いよく食べ進める。胃に食べ物が落ち、徐々に膨れていく感覚は久しぶりだった。

  緊張した面持ちだった希月の表情が和らいでいくのに、雅は微塵も気付かなかった。

  「気に入ってくれたみたいで良かったよ」

  希月がそういうと、雅は口いっぱいに頬張りながら頷いた。

  「こんなに食い意地張ってる雅、見たことない」

  希月が嬉しそうに笑っていった。

  希月と話すよりも食べることを優先している自分に気づいて、雅は頬を赤らめた。

  「わ、悪い。腹、減ってたから、つい。――でも、どうして俺に弁当作ってくれたんだよ」

  ――ご飯、作ってきたんだ。

  雨の中、傘をさして雅の隣を歩く希月はそういって、肩にかけたトートバッグを見せた。

  「あの時は混乱して訊けなかった。今も考えてるが、これだけのことをする理由が分からない。もしかして――まだ部活に戻ってきてほしいのか」

  雅は顔をしかめていった。

  母の退院の目処がたたない現状、公共料金どころか明日の食費も払えない雅とってアルバイトは生命線だ。だから部活や学校、時間や自由と様々なことを捨てて雅は働いている。

  希月が雅の事情をどれほど理解しているかは分からない。が、どちらにしろ、もし希月が自分の望みを押し付けてくるのなら、雅はこの弁当ごと希月を家から追い出す覚悟だった。

  「正直に言うと、戻ってきてほしい。けど――無理だよね」

  希月は唇を噛み締める。その表情には、自分ではどうしようもない事を無理やり飲み込む苦しさが滲んでいた。

  「今日、雅の様子を見て、お家まで入れてもらってよく分かった。雅は身を粉にして一生懸命働いてたんだって。それなのに、僕はどうしようもなく自分勝手だった。

  本当にごめんなさい」

  頭を下げた希月に、雅は面食らった。

  自分の過ちを認め、謝罪する。

  それができる人は雅の人生にほとんどおらず、雅自身、できるとは思えない。しかし目の前にいる相手は、それをほんの数週間でやってのけた。

  「雅はまだ僕と同じ十五歳なのに偉いよ、家族のために働くなんて。多分、僕が雅と同じ状況になったとしても、僕にはできなかったと思う。

  でも、あんな辛そうな顔で生きるのは良くないよ。僕の母さんや父さん、あとお姉ちゃんも毎日仕事は大変そうだけど、笑えてた」

  心配そうな顔をした希月が、雅を覗き込む。母以外の人の心配そうな顔を見て、雅は思わず顔を逸らした。

  「仕方ないだろ。見ての通りうちには金がない。明日の飯すらままならないんだ。そんな状況で、笑えるわけないだろ」

  言葉とは裏腹に語気は弱々しかった。

  そんな雅を希月は優しく見つめている。

  「……そうだよね。そんな余裕はないよね。

  でも、だからこそ僕のお弁当を食べてほしいんだ」

  意味が分からなくて、雅は怪訝そうな顔で希月を見た。

  「いろいろ考えたんだ。未熟な僕が、雅のために何ができるのか。家族にも助けてもらって思いついたのが、お弁当だった。だって、美味しいものを食べれば、誰だって元気になれるでしょ?

  僕は、家族のために一生懸命に働く雅を尊敬する。学校に来ないことも――まあ、僕は来て欲しいけど、雅が決めたことだから尊重する。

  でも、一つだけお願い。そうするしかないって理由では進まないでほしいんだ。雅だって苦しいし、置いてかれた僕らも寂しい。

  余裕が無いなら、僕が作る。目の前に広がる道を、雅の意思で選べるように、僕が支える。だから――」

  希月は雅を見据えた。その目は、暗闇に指す一条の光のように輝いていた。

  「だから、雅は進みたい道を選ぶといい」

  ふと、柔道部の一員だった頃を思い出した。

  あれは、夢のような日々だった。

  友と一緒に飯を食べて、汗を流して、笑いあった。それはあの日、兎田の謝罪を蹴るとともに雅が捨てた日常だった。

  「……でも、俺は嫌われ者だ」

  雅は顔を歪めた。目の前の希月を直視できず、その目は食べかけの弁当を映した。

  「希月だって分かってるだろ。クラスの誰もが、俺なんて消えればいいと思ってる。……いや、クラスのやつらだけじゃない。俺と関わった人、全員が俺の存在を疎んでる。俺はいるだけで、周りに害を及ぼす毒だ」

  学校にいて、刺すような視線を感じなかった日は一度もない。恐怖や憎悪といった負の感情の濁流に晒され続けた雅だが、投げつけられる感情は全て自身の行動が招いたものだと納得している。

  「それでも、俺にそこまでする価値があると思うのか?」

  雅は絞り出すようにして、眩い月に自身の価値を問う。

  しかし、希月は迷うことなく言い放った。

  「他人の評価なんて関係ない。僕が知ってる白浜雅には、間違いなくそれだけの、いや、それ以上の価値がある」

  思わず顔を上げた。嫌われるばかりだった雅を、希月は認めている。

  それに気付いた瞬間、心臓が熱く、強く鼓動を打った。

  「こんな、俺が……?」

  曇りない笑顔が温かく雅を肯定する。

  雅は黒い鱗に覆われた手で、顔を隠した。手の隙間をすり抜け、机に落ちる大粒の涙は、雅が母以外に初めて見せる弱さだった。

  

  「送っていかなくていいのか?」

  雅は赤く泣き腫らした目元のまま、玄関に立っていた。普段纏っていた張り詰めた空気は消え、高校生らしい純朴な顔をしていた。

  「大丈夫だよ、運転手さんが迎えに来てくれてるから。それに、雅はバイトで疲れてるでしょ。まずはよく休んで」

  希月は靴を履きながらいった。

  「あ、そう。明日――じゃなくてもう今日か、は文化祭の振替休日だから、学校行っちゃだめだよ」

  「え、文化祭?」

  「うん。この土日が開催日だったんだ。雅は学校来てなかったから、知らないと思って」

  それを聞いて雅は希月に申し訳なく思った。二日間の文化祭、学級委員という立場的にも、希月の疲労は相当なものだろう。

  「希月も疲れてるだろうに、悪かったな」

  「気にしないでよ。僕がやりたくてした事だから。

  それに、成果はあったしね」

  ご機嫌なのは口調だけでなく、ぱたぱたと揺れる尻尾からも分かった。

  雅はせめて外まで見送ろうと、サンダルをつっかけて希月と共に外へ出た。

  「雨、止んでるね」

  視界にこびり付きそうなほど永遠に空を覆っていた黒雲は、今や夢だったかのように消えていた。しかし、月光と都会の強い灯りにかき消されて星の光は見えなかった。

  「都会の夜空は寂しいな。ほとんど星が見えない」

  久しぶりの空を見て雅はいった。最後に空を見上げたのは、部活の合宿のとき以来だった。あの時の空と比べると、都会の夜空は星が無くてもの寂しい。

  「それでいいんだよ。目を凝らして星を見つけるのが、都会の夜空の醍醐味だからね」

  希月のいったことが雅の胸にすとんと落ちる。

  なるほど、これからの自分に必要な考え方だ、と。

  「希月」

  ふと、雅は希月を呼んだ。

  希月は「うん?」と首を傾げて雅の方を見た。

  「今日はありがとう。弁当、美味かった」

  希月は朝顔のようにぱっと顔を輝かせた。

  「明日も美味しいの作ってくるから、期待してて」

  「ああ、楽しみにしてる」

  「また明日!」

  「また明日」

  離れていく希月の背中を、雅は見えなくなるまで見送った。

  満月を十五夜の月というが、その二日前の少し欠けた月を十三夜の月と呼ぶ。

  今宵はその十三夜の月が[[rb:揺蕩 > たゆた]]う[[rb:良夜 > りょうや]]であった。

  白い月光が二人の道を照らす。

  月が満ちるまで、あと僅か。

  [newpage]

  教室の窓から見える景色には、葉を落としきった寂しい桜の木があった。十二月の寒々しい空気に、花のない桜はみすぼらしく見えるかもしれない。しかし、それでも逃げることなく堂々と[[rb:聳 > そび]]えるその姿が、雅は好きだった。

  物思いにふけっていると、換気を名目に開けられた窓からからっ風が吹き抜けた。服の隙間から入り込む冷気に雅は体を震わせる。

  「なんで休み時間に換気すんだよ」

  雅は独り愚痴をこぼす。換気を命じた教師は、今頃暖房の効いた職員室でふんぞり返っているのだろう。我慢するのはいつだって生徒だ。

  寒さに耐えようと制服の前を引っ張り合わせていた雅だが、突然、机にどすんと何かが置かれた。

  「よう、雅。いつものだ」

  豪放磊落に言い放ったのは牛谷力だった。一回り大きく見えるのは、毛皮持ち特有の冬毛が原因らしい。

  「どーも」

  雅は目の前に置かれた牛乳パックを手に取った。

  希月は雅から許可を得て、柔道部の三人に雅の家の事情を説明した。雅の家庭環境や、母の病状、雅の余裕のない現状。

  それらを聞いた三人は、部活を辞めたことに勝手に落胆し、雅を見捨てたことを謝った。食べ物や飲み物をくれるようになったのは彼らなりの雅への支援であり、謝意や友情といった想いの表れだった。

  犬井は名前を書かれた人が死ぬノート――をモデルにした板チョコをくれた。どこで買ったのか訊くと「熱帯雨林」と答えた。その後もオタク文化由来の色物をくれるが、正直扱いに困る。

  食い意地の張った熊山はチロルチョコ一つくらいだろうと思っていたが、予想に反して大量の菓子パンやおにぎりをくれた。理由を訊くと「俺の分を分けるのは嫌だけど、雅の分を余計に買うなら問題ない」とのこと。胸が熱くなる言葉だが、熊山のクラスから雅のクラスに行く間に、雅に渡すつもりの物を一つ二つ盗み食いしていることを知っている。

  そして目の前の牛谷は牛乳をくれる。前に理由を訊いたら「俺の雄っぱいから搾っ」と言ってきたので鉄拳制裁。ちなみに、変態牛谷のことだから持ってくるとしたらソーセージだろう、と思っていたのは秘密である。

  「お母さんの調子、どうなんだ?」

  真面目な面持ちで牛谷が訊いた。

  「先月退院した。体調はだいぶ回復してるけど、様子見と勤め先の配慮もあって休みの日を多めにしてもらってる」

  雅が答えると、「そりゃ良かったな!」と牛谷が手を叩いた。

  「で、雅はいつ柔道部に帰ってくるんだ?」

  牛谷の期待のこもった眼差しを雅に向ける。雅の復帰を心待ちにしているのが伝わってくる分、その期待に応えられない罪悪感に胸が詰まる。

  「母さんがあまり働けない分、俺が稼がないとだからな。まあ、今年中は難しい」

  雅の答えを聞いて、牛谷はガックリと肩を落とした。

  「ま、しゃあないわな。お前はマザコンだし」

  「おい」

  柔道部一年の間で、雅はマザコンという不名誉な共通認識ができていた。しかし、それ自体はまだいい。彼らが雅の教室に来る度に「マザコン、マザコン!」と騒ぎ立てるので、教室中に「白浜はマザコン」という噂が広まってしまった。

  「お前らのせいで、クラスの奴ら、俺を馬鹿にした目で見るようになってんだぞ」

  雅は声を潜めつつ牛谷を責めた。

  「馬鹿にされるってことは、壁が低くなったってことだ。良かったじゃねぇか」

  牛谷は笑い飛ばした。

  確かに、最近の雅は取っ付きやすいのかクラスメイトから話しかけられることがある。内容はもっぱら提出物などの事務連絡だが、それすら一学期には一度も無かったことだ。

  「まぁいい。馬鹿にされるのは良しとしよう。だが、たまに本気の殺意を向けられるのは何だ」

  「そりゃお前、あの希月から毎日、弁当貰ってんだから当然だろ。ショタ好き、玉の輿狙い、果ては無垢な笑顔を曇らせたいドSまで、多方面から狙われてる希月だぞ。恨まれないわけが無い」

  人間関係を断ってばかりだった雅は生徒間のゴシップに疎い。財閥の御曹司ということで希月が有名なことは知っていたが、人気もあるとは知らなかった。

  「アイツ、そんなモテるのか」

  「そうだぞ。そんな希月の愛情たっぷりな愛妻弁当をもらうんだ。殺気の一つや二つ当たり前だ」

  今は母が朝食と夕飯を作ってくれるので、希月からは昼の弁当だけ貰っている。母が退院するまでは昼と夜、二食分の弁当を毎日貰っていた。アルバイトと学業で手一杯だった雅には料理をする余裕など微塵もなく、希月の弁当は雅にとって生命線だった。今、雅が学校に通えているのは、希月の弁当のお陰といっても過言では無い。

  「訊きたかったんだけどよ、希月の弁当、味はどうなんだ?」

  教室の前方でクラスメイトと話している希月の耳がピンと立ったことに雅は気づいた。周りも少し静かになり、聞き耳を立てているようだ。

  「最初から美味かったが、最近はさらに美味い。あれを毎日食べれるのは、正直嬉しい」

  希月は雅に背を向けていて顔が見えないが、ご機嫌なのはブンブン揺れる白い尻尾を見れば分かった。

  しかし、それと同時に教室のどこかからバキッとシャーペンをへし折る音がした。そして向けられる憎悪の視線。

  周りのヤツらに自慢してやろうと惚気けたのは、どうやら失敗だったらしい。

  「あ、そろそろ休み時間終わるし教室もどるわ」

  額に冷や汗を浮かべた牛谷はそそくさと教室の扉に向かう。

  「ああ。牛乳ありがとな、[[rb:力 > りき]]」

  雅は牛谷の背中に投げかける。

  牛谷は振り返り、ニカッと笑って親指を立てた。

  ドアノブを回して家に入ると、味噌汁のいい匂いがした。

  「おかえりなさい」

  「ただいま、母さん」

  母がエプロンを付けて台所に立っていた。母の白い鱗は部屋を一段と明るく感じさせる。

  「何か手伝おうか」

  雅は荷物を自室に置き学ランを脱ぐと、母に尋ねた。

  「じゃあご飯よそってくれる?」

  「うん」

  炊飯器を開けると、もわっと水蒸気が立ち上る。ご飯をしゃもじでかき混ぜてから、茶碗にご飯を盛った。茶碗には桜の花が描かれており、青い桜が雅の茶碗で、ピンクのは母のものだ。ダイニングテーブルに二つの茶碗を置いた。

  「母さん、体調は大丈夫?」

  母が十一月の下旬に退院し、既に三週間以上経っている。既に仕事に復帰しているが、勤め先からの配慮もあり週に四日ほどのペースで働いている。毎日働いていた頃に比べたら少ないが、心配は拭えない。

  「[[rb:鹿野 > しかの]]さんにはいろいろ配慮してもらってるからね、大丈夫よ」

  鹿野とは母が働いているパン屋の店主である。雅も何度か会ったことがある。一見寡黙で気難しい印象の鹿人だが、困っている人をほっとけない気のいい男だ。母と知り合ったのも雅を身ごもって困っていた時だという。

  「雅こそ、学校行ってアルバイトって大変じゃない?」

  「今は週三だから大したことないって。店長もなんだかんだ良い人だし」

  できあがった生姜焼きと味噌汁を並べて、二人は席に着いた。

  「いただきます」

  湯気をあげる艶やかな白米、食欲を刺激する生姜と肉の匂い、そして雅が大好きな白浜家のなめこの味噌汁。母の温かい料理を味わえることに感謝しながら、味噌汁を啜った。

  「うん、美味しい」

  なめこのツルッとした食感が心地良い。胃に落ちると、そこから身体中に温もりが伝播するようだ。

  「でも俺、小さい頃は母さんの味噌汁、あんま好きじゃなかったな」

  「雅が小さい時は、お母さんまだまだ料理下手だったものね」

  母は苦笑していった。

  「小学校入る前は、冷奴が一番良かった」

  もう一口、味噌汁を啜る。昔は味噌が濃すぎたり、出汁を入れ忘れたりと散々な味だった。

  「でも、今は味噌汁が母さんの作る料理で一番好きだ。美味しくて温かくて、ほっとする」

  母は少し驚いた顔をしていた。小学生の頃の一件以来、雅は母にすら本音を隠している部分があった。

  「母さん、ありがとな。いつも俺のために頑張ってくれて」

  「そんな……お礼をいわれるほどじゃないわ。母親なのに、雅に辛い思いをさせて……」

  確かに、貧乏で我慢することは多かった。時には片親だからと虐められることもあった。

  それでも――

  「俺は母さんに感謝してるんだ。母さんの息子で良かったって思うくらい」

  「雅……」

  雅は心に決めたことを口にする。

  「母さん、俺、大学行くよ」

  穏やかに揺れていた母の白い尻尾がぴたりと止まった。目を見開いて驚きをあらわにしている。

  「いい大学に入って、いい会社に入って、たくさん稼ぐ。苦労をかけた分、俺が母さんを楽させるから。

  例えばこたつなんて買ってさ、二人で温まりながらテレビ見て、みかん食べて、ゆっくり過ごすんだ。あとは旅行も行こう。母さんずっと仕事で忙しくて、家族で旅行ってなかったから。行先は母さんが決めていいからさ。それと趣味。趣味を見つけて欲しいんだ。俺のためにたくさん働いてくれてるから、今はそんな余裕は無いかもしれないけど、いつか必ず母さんが楽できる生活を作る。

  これが、俺のこれからの目標なんだ」

  自然と自分の口角が上がるのが分かった。自分の口から出ているとは思えないほど楽しげな夢。それを笑って話す自分がいる。希月に出会わなければ、こんなことは有り得なかった。

  母は目に涙を貯めながらも、嬉しそうに笑った。

  「ありがとう、ありがとう。本当に、雅は優しくて――私の人生で、一番素敵な贈り物よ」

  食後、食器を洗うのは雅の役目だ。冬の流水は凍えるほど冷たいが、今はそれを感じないほど緊張していた。

  『明日は一年で最も月が地球に近づく日、スーパームーンです。クリスマス・イブに見られるスーパームーンということで――』

  テレビから聞こえるキャスターの流暢な声が耳に流れてくる。

  雅は意を決すると、テレビを見てくつろいでいる母に言った。

  「明日出かけるから、俺の分のご飯作らなくていいよ」

  隠し事になれていない片言の喋りに、母はすぐに勘づいた。

  「デートでしょ」

  それに明日はクリスマス・イブだ。気づかない訳がない。雅ははぁ、とため息をついて「……うん」と答えた。

  母はくるりと振り返って雅の方を向くと、にこにこと笑いながら訊いた。

  「相手はだぁれ?」

  「柔道部の友達」

  「もしかして大神くん?」

  今度は雅が振り向く番だった。

  「なんで母さんが知ってんの!?」

  愕然とした表情を繕う余裕もない。慌てふためく雅の手から皿が滑り落ちる。ガンッと皿がシンクに落ちる大きな音がして、二人は首をすくめた。

  「怪我してない?」

  「大丈夫」

  自分の失敗で逆に冷静になった雅は自身の慌てように呆れながら、「それで?」と話の続きを促した。

  「実はね、大神くん、一度お母さんの病室にお見舞いに来てくれたのよ」

  「あいつ、何でも知ってんなぁ……」

  希月に母の入院先は教えていない。しかも、母からより詳しく聞いたところでは、希月が雅に初めて弁当を持ってきた日より前に見舞いに行っているらしい。ちなみにあの日、希月は雅の家の周りで雅を探していたのだが、雅も母も家の場所は教えていないと言う。大方、金にものを言わせて情報を得たのだろう。

  「普通はお見舞いの時、果物を贈るでしょ?それなのに彼、果樹園の契約書を渡してきたのよ。お金持ちになると、お見舞いの品もスケールが大きいのね」

  後に希月から聞いた話では、家族に「大神家のモノとして、世間よりビッグな物を贈りなさい」と言われたらしい。フルーツの盛り合わせよりスケールが大きいもの?果樹園だ!となったのだという。

  当然、母は断った。今でこそ笑い話だが、当時のひっ迫した白浜家の事情を思うと、雅は顔を引き攣らせた。

  「……アイツはもう少し金の使い方と人の気持ちを考えるべきだ」

  「でもあの子、すごくいい子だったわよ?雅のこと、とっても心配してたし」

  「ふーん、何を話したんだよ?」

  「それは秘密」

  雅はむっとしたが、母の上機嫌な様子を見て溜飲を下げた。

  「とにかく、あんな素敵な子はなかなかいないわ。大神くんのこと、大事にするのよ」

  雅は母から背を向ける。モゴモゴと動く口が「……分かってるよ」と言っていることに、母は気づいていた。

  [newpage]

  クリスマス・イブだからといって、ロマンチックな日が訪れるとは限らない。むしろ、多くの人にとってはいつも通りの日常が待ち受けている。冬の低い空は代わり映えしない青空で、ホワイトクリスマスを期待していた人々を落胆させた。子供たちは不満を垂れながらも、嫌いな勉強をするために学校に行く。

  しかし――

  「行けるか?」

  帰りのホームルームが終わると、雅は胸を高鳴らせながら希月の席にやってきた。周りの連中が好奇の目を向けているが無視する。学校中で噂になり、更なる殺意を向けられようが知ったことか。

  「うん、準備万端だよ」

  希月は荷物を持って席を立った。

  学ランを第一ボタンまできちっと締めた希月だが、今日はメガネをかけていない。部活の時にしか外さないメガネを外している。この変化がどのような意味を持つのか、雅はなんとなく察していた。

  「それじゃあ、行くか」

  内心の緊張を胸に隠しながら教室を後にする。

  どちらに転ぶにせよ、雅にとって今日が特別な日になることは間違いなかった。

  常に極彩色の人工光が飛び交い、大音量のサウンドが鳴り響く。それらはかつて、孤独な雅を守るベールだった。

  「僕、ゲームセンターって滅多に来ないんだ」

  「だろうな」

  ゲームセンターの入口で、希月は興奮した様子でいった。育ちの良い希月には、ダークな雰囲気のあるゲームセンターは馴染みがないのだろう。派手に光を放つ筐体に目移りさせながら中に進む。

  「雅はゲームセンターで何やるの?UFOキャッチャーとか?」

  「俺はもっぱらメダルゲームだ」

  雅は奥に進むと両替機に似た機械、メダルバンクを操作した。取り出したのはカッコつけて千枚。カップでは入り切らないのでボックスに入れた。

  「ほら持て」

  雅は希月にメダルが入ったボックスを押し付ける。

  「おぉ〜、けっこう重め」

  希月はボックスを上げ下げして重みを確かめた。

  「でも、こんなに使っちゃって大丈夫?」

  「メダルなら腐るほどある。問題ない」

  「お、気前がいいー!」

  期待していた通りの希月の反応に、雅は密かに気を良くした。

  二人はゲームセンターの中を回る。希月は子供に人気なアニメキャラクターが出ている子供向けのメダルゲームを眺め、雅の方に向き直った。

  「雅はああいうのやるの?」

  「まさか。俺みたいな不良崩れがやってたら子供が寄り付かなくなる。いい営業妨害だ」

  「えぇ〜、そんなことないと思うけどなぁ」

  からかっているのかと思って希月の顔を見れば、大真面目な顔をしてるから驚きだ。

  「じゃあ、雅はいつもどのメダルゲームやってるの?」

  「適当に、いろいろだ。希月がやりたいやつをやればいい」

  雅にとってメダルゲームは暇つぶしの面が強い。これといった好みは無く、強いて言えばこれは稼ぎやすいとか、これは渋い、といった効率的な観点で評価していた。

  「じゃあアレやりたい」

  そういって希月が指さしたのは、巨大な六角形の筐体。投入したメダルがレールを通って二段あるステージの上段に貯まり、それを押し板が押し出す。プッシャーゲームとかメダル落としと呼ばれるものだ。

  「好きにしろ」

  「やった!」

  希月は空いていた席にぽすんと座った。腰から伸びる抱き枕のような白い尻尾が左右に揺れる。

  「雅も」

  希月は隣をぽんぽんと叩く。促されるまま雅は希月の隣に座った。座る時、希月とどれくらい距離を開けるか迷ったが、こんな所で逃げるわけにはいかない、と希月の腿に触れるギリギリに座った。

  「これってどうやるの?」

  「そこにメダルの投入口があるだろ。そこにメダルを入れると、ステージにメダルがたまって押し出されるんだ」

  「なるほど」

  希月はおっかなびっくりといった様子で、メダルを一枚、投入口に入れた。メダルはスルスルとレールを滑り、ステージ上に無数に散らばるメダルの一つになった。

  「……これだけ?」

  「これだけだ」

  ピカピカ光ったり、デカい音を鳴らしたりと派手な演出にしては地味な仕様に肩透かしを喰らったのだろう。希月は口を開けて、ぽかんとした表情をした。と思いきや、今度はくつくつと笑いだした。

  「すっごい地味!こんなゲームがあるんだね!」

  希月の生きてきた行儀のいい世界には、金を巻き上げるためのタチの悪い仕組みなんて無かったのだろう。そんなゲーム性が希月には目新しく、また刺激的だったようだ。

  「雅もそっちのレーン投入してって。とりあえず、目標はこのタワーね」

  希月は次々とメダルを投入する。目標といった銀のメダルゲームタワーは当たり口までまだまだ遠く、倒すにはメダルはともかく、時間がかかるだろう。

  「かなり時間かかるぞ。他の面白そうなゲームの方がいいんじゃないか?」

  「確かに一人だったらやらないけど、今は雅がいるからね。話しながらやってればすぐだよ」

  そこまで言われれば付き合うしかない。雅は尻尾を揺らしながらメダルを投入口に入れた。

  二人はたわいも無い会話をした。

  部活でやらかした笑える失敗談、バイトで遭遇したヤバい客、最近の美味しかった弁当のおかず。明日には忘れてしまうようなたわいの無い話。

  今までなら、それを話すことで自身の弱点を晒すことにならないか、と口を閉じていた。しかし今は、頭であれこれ考えるより先に、話したいことがとめどなく口から溢れてくる。

  希月の表情や言葉は乾いた大地に降る慈雨のようだ。そして雅は小さな芽で、希月が降らす雨に自然と踊り出す。

  一人では持て余す長椅子も、二人だと心地よい。

  気付けば二人ともタイミングを図ることなく、無造作にメダルを投入していた。メダルの四分の一が消え、いつもなら大きな欠伸をして飽き始めるところだ。しかし、二人は会話に夢中で減っていることに気づきもしなかった。

  「狼のお兄ちゃん!」

  二人が振り向いた先には、小学校高学年くらいの犬人とトカゲ人がいた。

  「おれたちのこと、覚えてる?」

  犬人の方が訊いた。その堂々とした振る舞いに対して、トカゲの方は伏せ目がちに雅たちを見ていた。

  「うん!覚えてるよ。あの時はありがとね」

  「あの時?」

  「雅、四月にこの子達に声かけられたでしょ」

  「ああ」

  一人でゲームセンターで遊んでいた時に、この二人にメダルの取り方を教えて欲しい、と頼まれたのだ。そしてその時、雅はにべもなく断ったのだ。

  「実は、僕が二人に頼んだんだ。雅に話しかけて来てって」

  「……なるほど。小学生らしからぬ量のメダル持ってたのは、希月が金を渡したからか」

  希月はこくんと頷いた。

  「お兄ちゃん、めっちゃメダル持ってるじゃん?おれたちにメダルの取り方教えてくれよ」

  犬人は希月の方を食いつくように見ているが、雅の方は頑なに見ようとしない。

  「僕は初心者だよ。訊くならこっちの竜人に」

  希月がいうと、二人は初めて雅の方を見た。犬人の方はあからさまに嫌そうな顔をして顔を背けた。トカゲ人は怯えた様子で犬人の陰に隠れた。

  人は自分を写す鏡とはよく言ったものだ。雅が示した拒絶が、こうしてそっくりそのまま返ってくる。

  しかし、それが間違いだったとは思わない。未熟なこの目では悪人と善人の見分けがつかない以上、他人を寄せ付けないことは結果的に自分を守ることに繋がる。

  しかしそれは同時に、自分に向けられた好意や優しさすらも締め出してしまう。好意や優しさは凪いだ水面に波紋を起こし、草原に咲く草花をそよがす[[rb:薫風 > くんぷう]]だ。そして、その風は大事な人たちといる限り心の中に吹き続けるのだ。

  「ほら、座れ」

  雅はやおら椅子から立ち上がると、親指で長椅子を示した。困惑する二人に希月が「大丈夫だよ」と微笑みかけると、二人はおずおずと座った。希月の隣に犬人が、その隣にトカゲ人が座る。

  そして雅はトカゲの隣にドスンと座った。トカゲの肩がびくっと震える。

  「いいか、上のステージが一番前まで来た時にメダルを入れろ。メダルはいくらでもある。遠慮せず使え」

  雅がいっても、二人は微動だにしない。犬人に至っては尻尾が鉄になったかのように固まっていた。

  雅は助けを求めて希月を見るが、ニコニコと笑うだけで助け舟を出す気は毛頭ないようだ。

  「仕方ない……見とけよ」

  雅は数枚のメダルを取ると、タイミングを見計らって投入口に入れた。当たり口に一枚だけメダルが落ちて、ボックスの中にある無数のメダルの一つになった。

  「こんな感じだ。やってみろ」

  雅はトカゲに余ったメダルを無理やり握らせた。トカゲは油の切れた機械のようにぎこち無い動作で、メダルを投入口に入れる。一枚、二枚、三枚……十枚を越えた所で、積もった銀の雪原が動く。ジャラジャラと数枚のメダルが落ちた。

  「ヤルじゃなイか。サイノウあるンじゃないヵ」

  言葉を覚えたてのロボットが話してるのかと思うほど、雅の声はたどたどしい。その様子が不良然とした雅からかけ離れていて、犬人とトカゲ人の二人は困惑して顔を見合わせた。

  ぷっ、と吹き出したのはそれまで黙って見ていた希月だ。

  「雅なりに、距離を縮めようとしてるんだよ。まだまだ下手っぴだけど、大目に見てあげて」

  希月の優しい言葉を二人はなんとか受け止めようとしていた。

  揺れる彼らの瞳には、恐怖が渦巻いている。幼い彼らの脳裏には、初めて雅に会った時の記憶が染み付いているのだ。鬼のような形相で怒鳴る、自分よりずっと大きな相手。そんなもの、恐ろしいに決まっている。

  ああ、口が乾く。

  「……わかった」

  突然そういったのは、雅の隣に座るトカゲだった。

  雅に向けられた瞳に映る恐怖は変わらない。しかし、トカゲの瞳には彼の恐怖だけではなく、雅の不安げな姿も映していた。それを見て、拒まれるかも、と雅は怯える気持ちを味わっていたのだと気づいた。

  「お前は強いな。名前はなんていうんだ?」

  「カケル……です」

  雅は聞いた名前を舌で転がす。

  「カケルか。いい名前だな」

  カケルは緊張した頬の筋肉を緩め、口角を上げた。そのささやかな笑みが雅の胸に新しい風を運んだ。

  「ミヤビ、ミヤビ!もう倒れるよな、倒れるよな!?」

  「落ち着け、ケント。入れるタイミングが早すぎだ」

  雅は、興奮した様子でメダルを矢継ぎ早に投入する犬人――ケントをなだめる。

  「でもミヤビさん、あと一センチくらいだよ」

  初めは遠く思えたメダルタワーの威容がすぐそこまで迫っていた。無数のメダルによって建築された銀の巨塔は、近づくほどその荘厳さを増す。カケルが頬を赤らめてアクリルパネルに顔を近づけるのも無理はない。

  ふと黄色いボールが当たり口に落ち、正面のスクリーンのスロットが回り出す。ジャックポットチャレンジだ。

  「キタキタ!」

  「当たれー!」

  ケントとカケルが期待に目を輝かせる。ここで当たれば、タワー攻略は確実だ。

  数字の回転が遅くなり、やがてオーバーな演出をしながら止まる。左端から3、真ん中も3、そして最後が――3。

  甲高い声が弾けた。

  ステージの奥から雪崩のようにメダルが押し寄せる。怒涛の銀波が押し寄せ、巨塔は音を立てて穴に崩れ落ちた。

  「ボックス持ってこい。メダルがあふれるぞ」

  ケントが跳ねるように飛び出していき、カケルは高い椅子にもたつきながらもケントの後を追いかけていった。

  「楽しそうだったね」

  希月がいった。

  「あの二人のことか?それとも俺か?」

  「どっちもだよ」

  希月はくすりと笑っていった。

  雅の目と耳に筐体が発する眩い光と大音量のサウンドが濁流のように押し寄せる。一人でいる時は、それらは雅を守るベールだった。

  しかし、今や希月との会話を阻害するものでしかなくなっていた。

  「持ってきたー!」

  ケントがボックスを持って戻ってきた。後ろには、少し息を切らしたカケルがいる。

  「よし、今のボックスが溜まったから交換しろ。俺たちはもう行くから、今あるメダルは二人で使え」

  「え、もう行っちゃうのかよ?」

  ケントが寂しさを滲ませた。短い時間だったが、別れを惜しんでもらえるのは少し嬉しい。

  「悪いな。俺たち、これから行く所があるんだ」

  希月の言葉から事情を察したのか、カケルが少し顔を赤らめて雅と希月の顔を交互に見て、慌てて頭を下げた

  「あわわ、邪魔しちゃってすみません!」

  「邪魔なんてことは無い。楽しかったからな」

  雅がいうと、カケルはほっとした表情を浮かべた。置いてきぼりのケントは白けた表情で鼻をほじっていた。

  「ボクたちも楽しかったです。……また、一緒に遊んでくれますか?」

  カケルが恐る恐る訊いてきた。

  「ま、時間があったらな」

  雅が答えると、ぱっと顔を輝かせた。

  「やったぁ!ありがとうございます」

  「またな、ミヤビ」

  「あぁ、二人ともまたな」

  元気いっぱいに手を振る二人に別れの挨拶を告げ、雅と希月は外に出た。

  冬の鱗を刺すように冷たい空気に、雅はぶるりと体を震わせた。

  「なんか妬けちゃうな、雅が人気者で」

  希月は少し頬を膨らませて言った。

  むっとした希月の表情が意外で、一瞬呆気に取られたが、雅は気を取り直して考えた。雅が今、取るべき行動は――。

  希月の右肩がビクリと跳ねた。左肩が動かなかったのは、雅が手を握っていたからだ。

  「……寒くてな、手を握らせてくれ」

  顔を明後日の方向に向けて、雅は言い訳した。

  「……僕の手、暖かいでしょ?」

  「あぁ」

  白い毛に覆われた手の温もりが鱗の手に伝わってくる。少し強く握ったら、ぷにっと肉球の柔らかな感触があった。その感触に心臓がひっくり返りそうなほど驚いたが、希月の照れ笑いを見て握り直した。雅にはない肉球の柔らかさが心地好くて、雅はついつい希月の手を強く握ってしまうのだった。

  

  [newpage]

  二人は冬空の下、狭い道を街灯が照らす住宅街を歩いていた。

  「雅は、メダルゲームが好きなの?」

  「いや、別に好きじゃない。ただ、勝ち続ければメダルは減らないし、無限に時間を潰せる。だからやってたんだ」

  雅はジャラジャラとメダルが流れる音を思い出した。いくらメダルを得ようとも、それらが金に変わることは無い。生産性はまるでなく、暇潰し以外の何物でもなかった。

  「じゃあさ、お金のことを気にしなかったら、どんなゲームがしたい?」

  雅の答えに興味深々といった様子で希月は訊いた。

  「……クレーンゲーム、とか」

  ぬいぐるみやフィギュアにはまるで興味のない雅だが、お菓子などの食べ物がとれるクレーンゲームには憧れがあった。幼い頃から節約が身に染みているため、お菓子を買うことはほとんどない。その反動か、箱詰めされた大容量のお菓子には憧れがあった。

  しかし――

  「とか?他に何かあるの?」

  「う、耳聡いな」

  希月のピンと立った耳は聞き逃さなかったらしい。

  そう、雅には他にもやりたいゲームがある。

  それは試行回数を重ねるクレーンゲームのように、金がかかるものでは無かった。

  「ま、まぁ、その話は次ゲーセンに行った時にしよう」

  「僕、雅がやりたいゲーム知りたいな」

  希月が曇りのない目で雅を見つめる。悪いことをしている訳でもないのに、良心が痛むのはなぜか。

  「う、あぁ、じ、実は、俺、ホッケーが、やりたくて……」

  思わず自白してしまった。

  ゲームセンターのゲームはほとんどが一人で出来るが、エアホッケーだけは出来ない。ゲームセンターには似つかわしくないスポーティな台を囲み、ディスクを打つ甲高い音が聞こえなくなるほど盛り上がる同年代の獣人たちは、一人ぼっちの雅には眩しく映ったのだ。

  「ホッケーかぁ、僕もやった事ないな。次、ゲームセンターに行く時は、やらないとだね」

  「約束だぞ。破るなよ」

  「はいはい、もちろんだよ」

  子供のように念を押す雅に、希月は呆れ半分で答えた。

  「ここだ」

  家が立ち並ぶ住宅街に、ふと開けた場所が現れた。高校の校庭の二倍はあるスペースの隅に、子供向けの遊具や街灯が点在している。

  そして中心には墨で塗りつぶされたかのように真っ黒な木がポツンと立っている。人の影はひとつもなく、暗く静まり返った公園に、木枯らしが吹き抜けた。木の枝がざわめく音が空気を伝う。

  「ここ、ちょっと寂しいね」

  「でも、俺はこういう感じ、嫌いじゃない」

  二人は公園の中心にある一本の木に向かった。

  近くで見ると、樹皮の表面はひび割れた大地のようだった。黒い樹木の表面に縦横無尽に割れ目が走り、それはどことなく雅を覆う鱗のようにも見えた。

  「こっちだ」

  きょろきょろと周りを見ていた雅が木から離れて行く。希月は慌てて後を追った。

  「あれ、何の木だか分かるか?」

  雅は歩きながら、肩越しにさっきの木を指さす。

  「さぁ」

  希月は首を横に振った。

  「あれは桜の木だ。さらに言えば、縦に裂け目が入ってるからしだれ桜だな」

  希月からは、学ランに覆われた雅の大きな背中しか見えない。いつになく饒舌に語る雅に、希月は意識を向けた。

  「あの桜は、母さんが見つけたんだ。俺がまだ母さんのお腹の中にいた頃に。母さん、親父に捨てられて、仕事も俺を理由に辞めさせられて、本当に大変だったって。でも、俺のために、一生懸命に、毎日毎日、頑張ってくれて。

  そんな時にあの桜を見つけたんだ。

  あの桜が、俺の名前の由来。

  万人に愛されなくてもいい。でも、あの冬枯れした桜に母さんが元気づけられたように、誰か一人にでも深く愛される人になって欲しいって」

  雅は立ち止まって、振り返る。

  「俺、母さんの願った雅になれたかな」

  希月も振り返り、雅が見つめているものを見た。

  瞬間、息が止まるほど、その光景に心奪われた。

  ――月が、惹かれていた。

  黒い鱗に覆われた、無骨で、[[rb:閑雅 > かんが]]な冬枯れの桜。満ちた月はその姿に魅せられて、遥か彼方の[[rb:宙 > そら]]から舞い降りた。桜の背に立ち、桜を抱くように、煌々と輝く満月は桜の木に重なる。

  人の願いを託された桜は、今、黄金の花を咲かせたのだ。

  

  

  高校の入学式の日、期待と不安を胸に自分の教室の扉を開いた希月は、教室の雰囲気に鼻白んだ。

  教室は水を打ったような沈黙が支配していた。

  無論、教室が無人というわけではない。これからクラスメイトになる人達は各々の席に座っている。しかし、誰一人として喋らない。

  入学式の高揚はどこへやら。時折憎々しげな視線をどこかへ投げていたが、彼らは一様に暗い顔をして俯いている。

  隣の教室からは和気あいあいとした生徒たちの声が聞こえるというのに、ここだけお通夜会場だ。

  希月が教室の入口で呆気に取られていると、後ろからぽんぽんと肩を叩かれた。振り向くと、同じ中学出身の友人がいた。

  「もしかして大神、一組?」

  「そうだけど」

  希月が答えると、相手は気の毒そうな顔をした。

  「マジかよ、ドクリュウと同じクラスとか運がないな」

  「誰それ」

  「アイツだよ、アイツ」

  指さした先には、大柄で黒い鱗に覆われた竜人がいた。これから入学式だというのに制服を着崩し、椅子にもたれかかって不機嫌そうに腕を組んでいる。

  「なんか怖いね」

  「アイツ、中学の時から有名なワルだからな。気をつけろよ、機嫌損ねたらマジで殺されるぜ」

  友人の真剣な忠告に希月は内心怯えていたが、恐怖心をのみ飲んで言った。

  「彼と関わらなければ機嫌を損ねることもないよ」

  しかし、希月の発言とは裏腹に、学級委員を任された希月はことある事に雅と話すことになる。

  簡単に首をへし折れそうな太い腕、相手を拒絶する険のある目。いつ爆発するか分からない爆弾の面倒を見るのは、寿命が縮む思いだった。

  しかし、希月が腫れ物を一身に引き受けたお陰で、雅の存在を忘れたクラスは徐々に生き生きとし始めた。入学式から二週間たった頃には、教室のあちこちで会話や笑い声が聞こえるようになっていた。

  「これ、白浜に書かせておいて」

  休み時間に希月を呼びつけた担任は、既に期限が過ぎた提出物のプリントを希月に渡した。担任すら雅に関わろうとせず、問題児の面倒を希月に押し付けるのだ。

  「……分かりました」

  職務放棄する担任にため息をつきそうになる。

  希月がプリントを受け取るやいなや、担任はそそくさと教室を出ていった。

  十字架でも背負わされたかのように身体が重くなる。ちらりと雅の方を見ると、いつもの仏頂面で窓の外を眺めていた。

  「はぁ」

  容量を越えた感情がため息となってこぼれ落ちた。

  嫌なことはさっさと終わらせてしまおうと、希月は雅の座る席に向かった。

  「あれ?」

  希月は口の中で呟いた。

  近づけば近づくほど、雅の顔に見慣れぬ何かがある事に気づく。

  それは、少なくとも当時の希月は持っていないものだった。

  真一文字に結ばれていると思った唇が、ほんの僅かに上がっている。いつもならつり上がっている目尻が柔らかい。

  春の陽射しに照らされた黒竜の笑顔から、希月は目を離せなかった。

  見慣れない黒竜の笑顔の奥に、誰も知らない白浜雅の真価がある。そんな確信めいた予感を抱いた。

  希月は雅の視線を追う。

  視線の先にあるものを見て、希月は息を呑んだ。そこには、純粋な愛情で染め上げられたかのような、淡く儚い桜の花弁が舞っていた。雅の視線を追って、希月は初めて、本当の意味で桜の美しさを知った。何百人と生徒がいるこの学校で、彼のように桜の美しさを心得ている人は、一体何人いるだろう。

  「白浜くん」

  希月が声をかけると雅は頬を強ばらせ、希月に鋭い視線を寄越した。雅の内にある輝きはたちまち姿を隠した。

  開け放たれた窓から春の風が二人の間を吹き抜ける。

  この日、希月は雅に恋をした。

  「希月」

  入学したての頃の雅は、希月の名前すら覚えていなかった。

  しかし、今は真摯な光を瞳に宿して、希月を見据えている。

  「俺のことを助けてくれて、ありがとう」

  「うん」

  強く握られた雅の拳は、ぶるぶると震えている。

  しかし、雅はその目を逸らさない。

  「俺は、希月が好きだ。希月がそばにいてくれるだけで、毎日が楽しくなる。

  だから―――俺と、付き合ってください」

  家庭や過去をひた隠しにしてきた雅が、今、希月への思いをさらけ出した。それは雅にとって、無防備な自分を見せることに等しい。それは些細な悪意で簡単に血を流す、脆弱な姿だ。

  それでも、雅がありのままの自分を見せようとするは、[[rb:一重 > ひとえ]]に好きな相手に見合う男になるためだ。

  希月は、雅の夜空のように漆黒の鱗を見た。闇夜のように、誰もが恐れる人だった。

  しかし、文明は進み、いつしか夜は恐怖の対象ではなくなった。

  きっと雅の歩みは、やがて多くの人が知ることとなる。その時、雅は恐れられるのではなく、多くの人を惹き付ける素敵な人になっているに違いない。

  その一助になれたのなら、これほど嬉しいことはない。

  なぜなら――

  「―――その言葉が、ずっと欲しかった」

  天上に輝く月は初めから、花の無い無骨な桜に惹かれていたのだから。