秋冬に降る雨

  目を覚ますと竜胆の瞳と目があった。じっと見つめるその瞳にセピア色に褪せた記憶を思い出したような気がして。だけど寝起きの思考はままならず、すぐにそれらは霧散してしまった。

  ふと手元に目を移すと私の手に犬の前足が乗っかっていた。寝ぼけた意識は霧をかけ、私の思考を存分に妨げる。えい、と欲望のままに腕にやんわり力を入れるとその肉球に指を当てた。程よい弾力が跳ね返ってきて心地がいい。

  「ふふっ、ふにふにだ。柔らかい」

  そう呟くと、目の前の犬は極めて無表情に近いのにどこか嬉しそうに目を細めた。そっか。そういえばこの犬、言葉の意味がわかるんだっけ。

  「……グル」

  枕元のスマホに手を伸ばしたのを不思議そうに見つめる竜胆。ロック画面を表示させると、時刻は朝の八時半だった。……私にしては新記録レベルで早起きだ。

  肉球を弄っていた手を退けて身体を起こそうとすると、不機嫌な声を漏らした紫紺色がのそりと立ち上がる。ぐえ。ベッドのスプリングが軋んだ音が聞こえ、視界が紫紺で埋め尽くされた。あれ、これ跨られてる?取り敢えず、ぺしぺしとお腹の横を叩いてみる。

  「ちょっと、急にどうしたの。ていうかこれじゃ起き上がれないじゃない、あー……」

  至極当たり前のことだけど、私はお腹の上で屹立している犬の名前を知らない。名前、あったほうがいいよね。でも名付けってしたことないから勝手とかわからないし、それにこの犬の場合何か事情がありそうだから一旦訊いてみたほうが良いのかもしれない。

  「ねえ、あんた名前とか欲しかったりする?」

  私のその疑問に喜色を示したのは紫紺色に靡く尻尾だった。ただすぐに何かを思い出したのか、風圧せしめ、愛用の黄色の猫ちゃん枕をなんなく弾き飛ばしたその尻尾は力なく垂れ下がる。まったく耳までへなへなにしちゃって。ただ、この反応には少しばかり心当たりがあった。

  「クゥ……」

  「……そっか。やっぱり、もう名前があるんだ?」

  紫紺色の毛がふわりと浮かび、綺麗な竜胆の瞳は驚きを露わにした。この様子だと私の指摘は間違いではなかったらしい。ふふ、わかりやすいな。

  あのね、と努めて優しい声で前置きをする。

  「あんたは知らないかもしれないけど、世の中には動物の里親制度っていうのがあるの。何かしら事情を抱えた動物たちを特定の組織が保護してくれるんだけど。いずれ譲渡を受け入れてくれる人が現れるまで、その子たちはそこで保護されるの」

  竜胆の瞳が揺蕩う。心配そうな表情を浮かべる犬に苦笑を漏らして、私はかぶりを振った。「別にあんたをそこへ渡すとかじゃないから」と語尾を強めて伝えれば、喉を鳴らして擦り寄ってくる。……やっぱり、お風呂に入れてあげるべきだと心にメモを残して私は話を続けた。

  「そこでお世話されてる子にはね、仮の名前が与えられるの。何かに名前をつけるのは、その子に対して命を与えるも同然。だって、かわいい名前やかっこいい名前をつけてもらえたら、譲渡先が見つかりやすくなるかもしれないし。そうすれば、その子は今度こそ幸せになれるかもしれない……だけど動物に名を与えるとき、稀にその動物が拒否反応をしたり、悲しそうな表情を浮かべる時があるんだって」

  「ヴォフ……」

  私の身体を組み伏せるくらい強かった力がほわんと抜け落ち、その代わり顔をぐりぐりと押し付ける。それはまるで幼い子が首を振っているようだった。

  「私は相手が嫌がっているのに無理に名前をつけようとは思わない。あんたが前の名前を大事にしていたってことくらいさっきの様子を見ていればわかるから。それを上塗りしちゃったらその記憶まで褪せちゃいそうじゃん。そんなのは嫌」

  「クゥ」

  「だからね、名前をつけて欲しいかはあんたが選ぶべきだと思う。本当に言葉が理解できるのなら、了承はあんたからみて右手。拒否は左手に前足を乗せて」

  それは私からこの子への初めての命令だった。あの時の傷ついた姿を思い出す。

  大腿から足根部にかけての傷は、とても自然環境においてつくようなものじゃない。これは勝手な憶測でしかないけど、この子は恐らくどこか知らない場所で人間によって傷付けられていたんじゃないだろうか。もしそうだとしたら何か命令だってされていたはずで、だから命令はこの子にとって自分を束縛するための手段だと思っている可能性がある。でもそれはあまりにも惜しい。命令は傷つけるための道具ではなくて、何かを守る役割もあるのだと教えてあげたい。寄る辺となる存在がいるという実感と安心感は、この子にとってきっと必要なことだ。

  行く宛を訊いた時だって、この子はうちに来ることを選んだ。表情こそ表に出にくいけど、この子にはしっかりとした意思が宿っている。自分のことを自分で選んでいいという観念は大切にするべきなんだ。親に我が道を否定されて、どうしようもなく自分の才能を自覚したとしても、絵を描き続けることは出来るんだから。

  「……ウォン」

  私の左手、この子から見て右手。ヒトよりあたたかい温度が、じんわりと伝わってくる。

  「そっか。いいんだね」

  竜胆に私の顔が反射する。きっと私の目にも紫紺色の犬が反射している。

  「それなら、今度からあんたのこと『まふゆ』って呼ぶことにするね。十一月なのに真冬みたいな日だったから付けてみたけど、どう?」

  「わふ」

  ベットから立ってそう問いかけると、まふゆもベットから降りて、私の周囲を旋回し始めた。良かった。気に入ってくれたみたい。

  「おい、朝からどうしたんだよ。なんか部屋散らかってるみてえだし、ひょっとして窓開けて寝てたんじゃ――うおっ!?」

  いつもの癖でドアを勢いよく開けた彰人がかなり近くでまふゆと鉢合わせ、廊下の壁に後退した拍子に頭を打ちつけるまで、その旋回の儀は続いたのだった。

  [newpage]

  「ってぇ……くそ、まだ頭痛がしやがる……」

  冷蔵庫からチーズケーキを取り出してその態度に似合わず優しい手つきでカットすると、味わうようにして食していく彰人。事故だとしても少しだけ可哀想だったので本当に遺憾だけど私のチーズケーキを譲ってやった。

  「あんたねえ、もっと加減してドア開けれないわけ?もしまふゆに当たったら危ないでしょ」

  「あ?まふゆ?……あぁ、こいつに名前つけたのか。ま、お前にしてはセンスいいんじゃねえの」

  良かったなと口角を上げてにっと笑う彰人に対して、まふゆはまだ少し警戒しているのか私の背後に回りながら小さく鳴いた。

  「まふゆ、大丈夫だよ。こいつ頭にくる態度すること多いけど、これでも私の弟なんだから。……あと強請れば大抵のことはしてくれるんじゃない?」

  「おい。前半まではいいとして後半おかしいだろ。何馬鹿なこと教えてんだよ」

  「はあ?馬鹿なことってなによ?嘘教えたらそれこそまふゆに失礼でしょ。それにあんた、私の頼みごと何だかんだ断らないし、事実じゃん」

  「断らないんじゃなくて断れねえんだよ。オレのこと引き摺ってSNS映えのためにケーキ屋に拉致ったやつはどこのどいつだったか覚えてねえのか?」

  「仕方ないでしょ、季節限定で評判良かったんだから。それにあんた暇そうだったし」

  「んなわけあるか。オレはオレで忙しいんだよ」

  東雲家恒例の売り言葉に買い言葉。まふゆはそんな私たちに目を丸くしている。けどまあそのうち慣れるだろうということで、私の隣にお座りしているまふゆの頭を撫でながら私は彰人に反論していく。くうん、と耳を垂らすその仕草がまるで謝ってるみたいに聞こえて、「まふゆのせいじゃないって、こんなの日常茶飯事だから」と宥めておくことも忘れない。ただ、“日常茶飯事”の意味が理解できなかったらしく、こてんと首を傾げた。「いつも通りってことだよ」と告げると、呆れたように「ウォフ」と溜息をついたような鳴き声。あ、目が半目になってる。

  「……なあ。今朝もそうだがお前絵名に話しかけられても平然と反応返してるよな。ひょっとして人の言葉が解るのか?」

  彰人は私に質問するのではなく、代わりにその視線をまふゆの方へ向けた。人の視線や場の雰囲気に敏感な様子の竜胆が不安そうに私を見上げる。

  ふと、まふゆが何か褪せた記憶と重なって。

  体毛を逆立てないように撫でながら、そういえばこうだったっけ、なんて曖昧な記憶のままにこつんと鼻先をまふゆにくっつけた。ふわり、まふゆから身体の力が抜けた気がする。

  「そんな急に慣れることなんて出来ないよね。男の人苦手?でも、彰人のことは信じてやっても大丈夫よ。私が保証してあげる」

  まふゆの視線が私から彰人の方へ移る。まふゆは恐る恐るといった様子で彰人の許へ近づくと、その手の甲を一度だけぺろりと舐めた。

  「……!」

  こいつも大概わかりやすいんだよな、と独りごちる。誰が見ても明らかに嬉しそうな表情を浮かべちゃって。でもいきなり撫でるようなことはせず、徐に目線を合わせると、よろしくなと挨拶した。「ウォン」と怯えを消した鳴き声がリビングを弛緩させる。

  「言葉を理解する犬か……そういや前にあいつがそんなこと言ってたな。一度詳しく訊いてみるか」

  「え?何のこと?」

  「いや、こっちの話だ。すまん、ちょっと用事が出来たから外出てくる。怪我してる部分の経過見て処置してやってくれ。それと飯忘れんなよ」

  「言われなくてもそうするってば。あ、それと今日午後から雨降るから傘持ってきなさいよ」

  忠告を大人しく耳に入れた彰人は、リビングの棚上に置いてあった折り畳み傘をポーチに押し込むと、足速にリビングの扉を開けて廊下に出て行ってしまった。

  「……なんだったんだろ。まあいいか、まふゆ朝ごはん食べよ」

  「わう」

  紫紺の尻尾が揺れ、風音とフローリングを突く足音が家の中で輪唱する。まだ馴染んでいない新鮮な動物の足音になんだか擽ったくなる。視線を下げると、まふゆは器用にこちらを見上げながら前進していた。

  「なあに、そんなにじっと私のこと見つめて。顔になんかついてたりする?」

  戸棚から昨日のうちにお母さんが買って来てくれた新品のドッグフードを取り出しながら頭を二、三度ぽんぽん撫でてやると、まふゆは鼻先をぶるぶる震わせた。銀皿の中に溢れないよう入れると、からころと小気味良い音が反響する。その振れる尻尾が微笑ましい。やっぱりお腹空いてたのかな。

  「まふゆが好きなものわかんないから、ありきたりな物になっちゃうけどごめんね」

  どうぞ召し上がれと銀皿を前に差し出すと、まふゆは鼻先でフーズを一度小突いてから食べ始めた。咀嚼する際に見え隠れする牙がフーズを粉々にしている。その様子は強かでどこか野生的な姿を彷彿とさせる。ふと先に脳裏に過った淡い記憶が浮き上がり、次々とセピア色がカラーに彩色されていく。竜胆の瞳、多い毛量、発達した体躯。

  「なんかまふゆってさ、犬よりどっちかって言うと狼っぽいよね」

  「……」

  「え、何その鳩が豆鉄砲喰らったような顔。まさか図星?」

  今し方まふゆの口に吸い込まれていったフーズがポロリと床に落ちる。もったいないからとお皿に戻そうと手を伸ばすと、二対四歯の鋭い犬歯と視線がぶつかった。虫歯ひとつ無さそうな美しい歯並びに、動物の口腔はこんな構造をしているのかとつい夢中で観察してしまう。銀皿に反射したまふゆの気不味そうな表情を見て、はっと意識を取り戻した。

  「あー、ごめん。絵を描く時の参考にしたくて不躾に見入っちゃった」

  悪気はなかったんだけど、どうやらまふゆにはショックだったらしくご飯に口をつけずに銀皿を鼻で前に押し出してしまう。不味いな、瞳に怯えが浮かんでしまっている。何か怖がらせる要因があったらしい。一旦銀皿を隣に避けて、私はまふゆの前にしゃがみ込んだ。

  「まふゆ、怖がらせちゃってごめんね。おいで?」

  フローリングに腰を落ち着け腕をいっぱいに広げると、ふさふさの毛が遠慮深く懐へ潜り込んできた。肩口にまふゆの顎がのしかかる。背中をリズム良く叩き、首に腕を回した。

  「クォフ」

  「ふふ、擽ったいって。……ねえまふゆ。まふゆは自分が狼だってこと、私に知られたくなかった?」

  首筋にまふゆの毛が擦れて紫紺と栗が綯い交ぜる。目の前の紫紺色はのそりとその身体を起き上がらせると、何を思うか私の右手に前足を乗せた。喉元にくるくる伝わる振動音。それは先程私が伝えた否定の意の表明方法だった。

  「そっか。……でもまふゆの目、何かを怖がってるように見えたよ?」

  右手の甲には肉球がぽんと置かれていて、その感触は柔らかいものの表面はざらざらしている。やすりのようなそれは、地を駆けるのに都合が良いだろう。まふゆを発見した際の体表の毛並み状態は水分によってひどく絡み固まっていた。お湯で温めた適温のタオルを使って絡みを解し、手櫛で少しずつ毛並みを整えて二時間ほど、そうしてようやく少しマシになったかくらいだ。心のどこかで気になっていたまふゆの所在。傷口とまふゆの怯えた姿。傷はきっと人間によるもの。その想定から元飼い犬という言葉を外すのに時間は掛からなかった。

  「……ねえまふゆ、ちょっと昔話してもいい?」

  唐突な話題の転換に、顔を伏せていたまふゆが、ゆっくりと顔を上げる。その瞳の色が怖れから困惑と疑問に塗り替えられていることにホッと息を吐く。

  今朝まふゆの瞳に色を見て、先ほどまふゆの不安そうな顔を目にして。そうして想起されるは今から何年ほど前のことになるだろうかという記憶だった。あれは確か私がまだ小学校にさえ入学していない頃のこと。それは秋の野山で体験した不思議な出来事だった。

  [newpage]

  『あ、すごいすごい!みてあきと、あかいきがいっぱいだよ!』

  秋も半ばに差し掛かったとき、私たち東雲一家は紅葉狩りに出掛けていた。お父さんによって発案された紅葉狩りは、家族への思い出づくりに加え、画家としてのインスピレーションの刺激も兼ねていたらしい。そうしてお父さんとお母さんに連れられて訪れた野山は、辺り一面が鮮やかな紅葉木に包まれていた。幼い私にとってはそれはもう宝物のような景色で。踏みしめる紅葉の音色は心の蕾を咲かせるようだった。

  『ねえちゃん、そんなにとおくにいったらあぶないよ!』

  夢中になって走り回っていた私。それは偶然にも両親が私から目を離していた時だった。

  背後から聞こえる幼い彰人の声を振り切り、私は紅葉の絨毯を踏み進んだ。幼い私の視界は黄、橙、赤、黄緑と色鮮やかに変わりゆく天然のキャンバスに埋め尽くされていて。がさがさと心地よい音と感触が私の心を高揚させる。

  無尽蔵な体力に身を委ねて歩みを進め、そうして気付いた時には帰り道がわからなくなってしまっていた。

  『……あれ。おとうさん、おかあさん、あきと?』

  幼児期における恐怖という感情は凄まじい。当時の私が目にしていた宝石は、徐々に同じ景色を私に与え続けることでその幼心を蝕んだ。帰り道など碌にわかるはずもない私は、それでも小さい脳を懸命に動かして、歩かなくては帰れないという結論を弾き出す。

  今考えれば、典型的な遭難方法の一つだけれど、そんなもの当時の私には知ったことではなかった。

  そうして当てもなく歩き続け、雲が太陽を覆い隠した時。

  『お嬢さん、そんなところで何をしているんだい』

  ふわりと舞うような心地の良い声が耳に届く。低音で透き通る男の人のような声。ひょっとしたら誰か助けに来てくれたのかと希望を抱いた私は周囲を必死に見回した。けれど人の姿なんてそこにはなくて。落胆し再び恐怖に苛まれる私は、感情を制御できずにその場で泣きじゃくってしまった。

  『こらこら、こんなところで泣いてはいけないよ。この山には人間に友好的ではない動物もいるんだからね』

  先ほどより近くから聞こえた声に私ははっと顔を上げた。紅葉の踏み締め、私のことを見つめていたのは毛深い四足の獣。それは紛れもなく狼だった。凛々しい眼差しは私を静かに見下ろしている。けれど幼い私に犬と狼の区別はつかない。だから私はその存在を犬と定義付けた。

  『お嬢さん、お名前は言えるかな?』

  『ひぐっ。わたしえな。わんちゃん、なんでしゃべってるの?』

  『む、私が犬に見えるのかい。参ったな。正しくは狼なんだがね……』

  『……わんちゃんじゃないの。それならおじさんはだれ?』

  私の問いかけに、狼はその場に座ると少しの間目を瞑った。耳が可愛らしくぴくぴく揺れ動く。そうして目を開くと、静かに私に語りかけた。

  『おじさんはこの辺りではちょっぴり偉い狼だよ。それとお話ができるのは私が少しだけ賢い狼だからだね。……さて、えなお嬢さん。あそこにある木まで走ることはできるかい?』

  後ろ足を後退させ体勢を低くする狼は、茂みの向こうを警戒し喉を唸らせる。背筋を冷たい汗が伝い、私は言われた通り狼の見つめる先、大きな木のもとへ走った。暫くすると茂みが揺れ、狼が警戒した理由が顕になる。

  『グルルル……』

  『……ハグレか。お嬢さんの泣き声に誘き寄せられたな』

  現れたのは一匹の狼だった。先の狼と異なり黒ずんだ体毛を纏う狼は、目の前の狼を敵と定めたらしく、迷いなく襲いかかってきた。

  『おじさんあぶないっ!』

  『平気さ、いい子だからそこでじっとしていなさい!』

  私が一歩踏み出していたのに気付いた様子の狼は目を配せ、瞬間身を捩ると鮮やかに噛みつきを回避する。攻撃が不発した黒い狼は忌々しげに唸りを上げると、再び攻撃を仕掛けた。

  黒の狼が顎門を開けば相対する狼はそれを華麗に避け、猛々しい体躯を利用した体当たりは先の狼によっていなされ、そこへカウンターが下された。狼がずるずると身体を滑らせていく。攻防が止み、草に落ち葉、わずかな土煙があたりを舞う。

  吹き上げた土煙が晴れると倒れた狼は私より大きな身体を鈍く起き上がらせ、その眼は偶然にも私が逃げた木々の方に向けられた。即ち私をターゲットとし、残る力を振り絞ったか俊敏に駆け襲う。「ひっ」と口から悲鳴が出るや否や目に迫る危機に恐れを為して咄嗟に目を瞑ると、温かな風が一陣をかけた。ぎゅっと瞑った瞼を開けばそこにいたのは私を庇うように佇む狼と再び吹き飛ばされた黒い狼の姿。狼は私の方を振り向いて表情を緩めた。

  『大丈夫。私がいる限り傷つけさせはしないさ』

  その声を聞き、どくどくと心臓を跳ねさせる私は自分が無事であることを遅出ながらに知る。身体から力が抜け、ぺたりと座り込んだ。

  起き上がった黒い狼は、再び目の前の狼を目にするや否や、茂みの奥へと逃げ出した。

  『ふう、随分と乱暴な個体だったな。怖い思いをさせてすまなかったね。お嬢さん、怪我はないかい?』

  『こ、こわかったけどだいじょうぶ。ありがとう、おじさんつよいんだね』

  『ふふ、人間に褒められるなどとは考えたこともなかったな。こちらこそありがとう』

  ふわりと微笑んだ狼は私に近づくと私の身体を見回して、本当に怪我がなかったかを確かめる。そうして視線は徐々に頬に集まり、そこ目掛けてゆっくりと口を開けた。二対四歯が目に映る。背裏に先の狼が蘇り咄嗟に目を瞑る。

  ぺろり。

  生温かい感触が頬を伝い、ざらざらとした感触に身を捩る。瞼を開けば、そこには優しい表情を浮かべた狼の姿があった。

  『狼の舐める行為には謝罪や労いなど様々な意味があるが、直情的には安心をさせる目的があるんだ』

  『……むずかしいことばでなにいってるのかわからない』

  『む、幼子には難しいのか。んむぅ……舐めるというのは、ごめんなさいや頑張ったねの他に大丈夫だよといった意味を持つということだよ』

  『そっか。じゃあわたしもそれをしたほうがいい?』

  純粋な疑問に、狼は困惑したような表情を浮かべる。

  『いや、人間は控えたほうがいいだろうね……もっとも、狼同士であればもう少しマイルドな接し方はあるが』

  『まいるど……?』

  『やさしいということだよ。じゃあじっとしていてくれるかな』

  一度離れたはずの狼がもう一度近づいてくる。今度は怖いという思考自体掻き消えていた。私は狼の瞳をじっと見つめる。深々と輝く竜胆が脳裏に灼き付いた。

  私の鼻先に狼の鼻先がくっつけられる。僅かに帯びた湿り気が私の鼻先を優しく濡らした。

  『これもまた、狼に対して大丈夫だよと語りかける手段の一つ。幼い狼や弱っている狼に対して行うことが多いかな』

  『ちいさなのわんちゃん?おじさんにはわたしみたいなこがいるの?』

  『ふふ、今はまだいないがもうすぐ出来るかもしれないな。その時には親としての責務をしっかり果たさなければ』

  『へー、でもおじさんはやさしいから、きっとすてきなおとうさんになれるとおもう』

  『そうか、それは嬉しいな』

  喉元をぐるぐる鳴らす狼。尻尾を左右に大きく揺らすと、周囲の草木が嬉々として踊り始めた。そうして高らかに遠吠えをすると、ちょうど太陽が再び地上に顔を覗かせる。

  『さあ、陽が沈まないうちに迷子を送り届けるとしようか』

  『ま、まいごじゃないもんっ!』

  『おっと、それは失礼を。ではえなお嬢さん、私にしっかりついてくるんだよ』

  それから間も無くして私は両親と彰人のいた場所まで送り届けられた。三人に助けてもらったことを伝えて私がおじさんと呼んだ狼にお礼をしようとした時、狼の姿はもうそこにはなかった。私が両親に目を離した謝罪と少しのお説教を受けた後、狼に出会ったことを家族に話すと、家族からは驚きの声が上がる。

  『驚いたわ、そんなわんちゃんが居るのね』

  『……絵名の言う特徴からして、それは狼ではないのか』

  『おおかみ?』

  そこで私は初めて犬とは別に狼という動物が存在することを知った。ただ、言葉を操る狼という点はいつまで経っても解決せず、段々と私の記憶の奥底に沈み込んでしまっていた。

  [newpage]

  「まふゆを見ていると、その時の助けてくれた狼が自然と重なったの。思えばあの時の狼はもうすぐ親になるって言ってたし、もしかしたらまふゆはあの狼の子供だったんじゃないかって」

  「…………おとう、さん」

  「……へっ」

  私の膝下に身体を預けて顔を隠すようにお腹にぐりぐり押し付けるまふゆは、間違いじゃなければ人間の言葉を発した。

  「……えな、私はたぶん、その狼の子供であってると思う」

  身体を震わせ、怯えを滲ませて。無理をして発しているとしか思えない今にも消えてしまいそうな声は、心を抉るような感覚を私に与える。憂懼を宿らせた瞳を潤め揺蕩わせながらも私をじっと見つめる双眸。

  「えな、しゃべる私のこと……捨てない?」

  その一言でまふゆが何を恐れているのかが理解できた。言語を操る狼という存在はそれがいかに奇異であることだろう。私が怖がりまふゆを拒絶することに対して、畏怖の情を湧かせているんだ。

  私を見返すその瞳の色があまりに痛々しくて。咄嗟にまふゆのことを抱きしめる。まふゆの口から、僅かな声が漏れた。震え強張る力を弛緩させるべく、その背をリズム良く優しく叩く。

  「少しは私のこと信頼しなさいよ。この状況で私があんたのこと捨てるわけないでしょ」

  絶対に。その想いを込めて、今度は明確な意味を込めてまふゆの鼻先に私の鼻先をくっつけた。少しだけ乾いているけど、湿り気を少しだけ私に分け与える。獣特有の声で喉を震わせて、その瞳を少しだけ明るくする。

  「……私、えなに人の言葉が話せることを伝えるのが怖かった。お父さんとお母さんが居なくなった後、空っぽになった心に温かさをくれたえなに……嫌われたくなかった」

  「まふゆ……」

  「お父さんとお母さんは、人間に殺された。そいつらは私のこと珍しいって、それだけで私から二人を奪った」

  っ、こんなに優しく素直な狼から大切な存在を奪った存在がいることに吐き気がする。心を痛めて自己防御が働いたのだろう。まふゆから心を奪った奴らが心底憎たらしい。

  まふゆの言う珍しいとは即ち個体の価値に他ならない。それにより大切な存在を亡くしたと捉えたのであれば、きっとまふゆはそれを否定して自分を保とうとしたんじゃないだろうか。そうして出来たのが今の無表情だという事実に、鼻先がつんとする。

  「辛かったね、もう大丈夫だからっ」

  そんな境遇を聞いて、私が耐えられるわけがなかった。必死に抱きしめて、ごめんねと譫言のように洩らす。人間の身勝手で一つの家族の幸せを奪ったのだ。

  「違う、えなは悪くない。悪いのはあいつらだから。それに、あいつらは今頃雪崩の中だと思う」

  「雪崩……?」

  私の疑問に、まふゆは当時の状況を掻い摘んで説明してくれた。まふゆを攫った密売人は最近ニュースでも度々話題になっていた悪人達で、彼らは先日の雪崩の発生により山小屋ごと呑み込まれているという。因果応報とはこういうことをいうらしい。

  「あいつらのことは絶対に許さない。だけど、これはもう終わったことだから」

  「……まふゆはすごいね。私だったらとっくに自我なんて捨てて気が狂っちゃうと思う。……もし辛くなったらいつでも言ってよ?私がまふゆの親代わりとか烏滸がましいだろうけど、それでも私はあんたを手放すなんてしないから」

  「……ありがとう、えな。……えなのこと舐めてもいい?」

  「え、別にいいけどどうして?」

  「助けてくれた時舐めたらけしょうがどうとか嫌がってたから」

  ぺろり。まふゆの舌が私の頬を掬う。そんな細かいところまで覚えてくれてるんだと思うと胸の奥が温かくなる。私を舐めてくれたその表情は相変わらず無表情だけど、その眼差しには僅かに光が灯っているような気がして。ほんの少しだけ苦しみの糸が綻んだように見える。

  人間の言葉を話すまふゆの声色は、やはりというべきか抑揚がない。だけどその節々には喜怒哀楽の破片が散らばって存在している。私のそばにいる事で少しずつまふゆの心に巣食う恐怖心を溶かしていけたらいいな、なんて思ってみる。自分から感情を露現させまふゆがもう一度幸せを掴めるように。切に祈って。

  「お礼なんていいの。まふゆはもう東雲家の一員なんだから」

  「……うん」

  「よし、じゃあこの話は一旦終わり。まふゆにご飯出して満足してたけど、実は私もお腹空いてるんだよね。まふゆは先にご飯食べちゃってて。私はなんか適当に作るから」

  「わかった」

  かちかちとフローリングを突く爪の音が反響、再び銀皿の中のフーズがバリバリ音を立てたのを聞いて私はキッチンに向かった。

  さて、冷蔵庫の中をサラッと確認して何を作るか考える。

  卵にハムに粉チーズ、牛乳と塩砂糖も用意して、あとは適当にバターとケチャップを出しておく。ご飯は昨日の分があるしあとはインスタント味噌汁でいっか。

  ハムを適当に切って、耐熱ボウルに塩砂糖と牛乳を入れてから混ぜ混ぜ。ケチャップとバターを入れてからラップしてレンジにどん。加熱したものをまろやかになるまで混ぜたらソースは完成。

  次にもう一個耐熱ボウルを用意してそこにやんわりラップを敷く。溶かした卵を入れてからレンジで加熱。少し混ぜたらハムとチーズを投入して卵を半熟まで加熱。ラップで包んでからあとは余熱で火を通したらお皿に盛り付け。うん、いい感じにオムレツの形になった。ふふん、最近お母さんから教えて貰ってる成果が出てる気がする。あとはケチャップソースかけて、適当に野菜盛り付ける。用意しておいたご飯と味噌汁を添えて料理完成。

  「お料理上手だね」

  いつの間にかご飯を食べ終えていたらしいまふゆが私の隣にちょこんと座っていた。

  「んー?まあお母さんから教えてもらったことしかまだ作れないけどね。まふゆ料理わかるの?」

  「昔お母さんがそういう本を見せてくれたことがあるから」

  お母さんが本って……狼って読書する習慣あるの?ちょっと想像ができないな。

  「狼が本読むの、不思議?」

  「えっ、まあちょっと不思議かなとは思うけど」

  「そう。えな、私たち家族はね、“獣人”って呼ばれる種族なんだ」

  「えっ!?まふゆ獣人だったの!?」

  驚いた私とは対照に、まふゆはきょとんと首を傾げる。

  実は獣人はこの世界で各種族につき平均で二割弱程度しか存在しないと言われていたりする。確か狼に至ってはその割合が一割以下と低かった気がするけど。

  「……獣人については、あいつらが話していたことを聞いたから分かったんだけど」

  まふゆの尻尾が垂れ下がる。しまった。嫌な思い出を思い出させてしまった。

  「あ、ごめん。嫌なこと訊いちゃった」

  「ううん、獣人って言葉はあまり好きじゃないけど、別に極度に憎んでるとかはないから」

  それを聞いてほっと溜息をつく。ひょっとしたら我慢をしているのかもしれないけど、少なくとも直感はそれを否定しているから。

  「ところで、獣人って確か人の姿になれるんだよね?まふゆも出来るの?」

  獣人とは、人間界において特異的な存在として認知されている。通常の獣同士の繁殖行為において生まれてくる子供に先天的に刻み込まれる特異変質DNAに、人間と獣の双方の特性情報が融和して受け継がれることがあるとのこと。教科書には確かそう書かれていた。

  まふゆの話では、まふゆ一家は獣人なのだという。それなら両親が人間の姿になれることも想像がつくし、まふゆが幼い頃から知能が発達していたのなら、人間界で色んな本を入手して彼女に与えることもできたんだろう。ただ、姿変化についてはどうなのか疑問が残る。

  「ううん、私が今出来るのは人の言語を操ることだけ。でも通常言語の獲得は成犬期を迎えてから徐々に会得するもので、私はそれが早熟だったみたい。だから人間の姿にはなれないよ」

  「へえ。でもすごいじゃん。やっぱりまふゆ頭いいんだね」

  そう褒めると、まふゆは尻尾を振って、「わふ」と私の顔に頬擦りをする。ひょっとしたらまふゆは愛情表現に頬擦りをするのが好きなのかもしれない。それと私が頭を撫でると露骨に機嫌を良くする。この二つは積極的に取り入れていくといいのかも。

  しかし一つだけ引っかかることがある。

  「ん?言語は早熟だけど姿は変えられないって……まふゆひょっとしてまだ幼いの?」

  「お父さんとお母さんが言うには、たぶん」

  え、嘘でしょ。

  今のまふゆは柴犬より大きいサイズで、それこそハスキー犬の平均的なサイズくらいはある。ただ獣人は獣と人間の相互を入れ替えられるため、その都合上獣の姿を形取る際には通常の動物よりもその体躯が大きいことが特徴とされてる。この大きさでもまだ幼少であると区分されるのであれば。

  「それじゃまふゆ、まだ大きくなるかもしれないってこと?」

  「そうかもね。だけどそれはいいことじゃない?」

  「ん、まあ確かに成長は喜ばしいことだけど」

  成長した後のまふゆをお風呂で洗うときとか、かなり大変そうだななんて思ったり。でもそんな私の憂慮とまふゆの考える利点の話は全く違っていて。

  「それ以前に、身体が大きくなればそれだけえなを守りやすくなるでしょ?」

  「え?」

  えなを守る。私を守る?まふゆが私を?

  「えなやえなの弟さん、それにお母さんはとても温かい人だよ。でも、人間は皆がそうじゃない」

  ああ、そうだ。まふゆにとっての人生観のうち、人間に対する知識はまだ固いままなんだ。……心苦しいな。確かに悪い奴らはいるし、でもそれを覆うようにいい人だって存在する。たとえ時間が掛かってもいい。まふゆにそれが伝わるように私が寄り添ってあげなくちゃ。

  「そうだね、ありがと。それじゃ、いざと言うときはまふゆに守ってもらおうかな」

  「うん」

  尻尾がふりっと揺れ動く。銀皿を覗くと丁寧に完食していた。獣人と分かった今ドッグフードを与えたことが正解かどうかイマイチ判然としないけど、そこは追々考えていくことにしよう。

  ご馳走様でした、手を合わせると、まふゆは不思議そうにこちらを見つめていた。少し間抜けっぽい顔に笑んでしまう。そうだよね人間の習慣なんてまだ知らないよね。いずれこれについても教えてあげないと。

  「さて、まふゆも私もご飯終わったことだし、食洗機に食器片付けたら怪我について確認してもいい?傷ついたところ、早めに治療していかないといけないから」

  「うん、でも多分大丈夫だと思うけど……」

  「え?」

  まふゆの言葉に疑問を呈しながら食洗機に今し方使った食器類と洗剤を投入してスイッチオン。

  リビングに戻ると、まふゆはフカフカのラグにころんと倒れて左後脚が見えるように横向きなった。やばい、なんか寛いでいるような姿勢になってるのが可愛い。

  さっき言っていたことが少し気になるけれど、ひとまず昨日のうちに処置しておいた包帯を取り除くことにした。

  [newpage]

  軒下をぱたぱた打ちつけるは雨の音。時刻は午後二時にして、天気予報士のお姉さんが言うことは正しいと証明された頃。

  「にしても、まさか怪我の治りが早いなんてね」

  まふゆの脚部に巻かれた包帯を見つめて口漏らす。そこには昨日と違って少しも血液が付着していなかった。念のため処置はしているものの、傷口はほぼ塞がりかけているため傷跡も残らなさそうだ。

  「お父さんとお母さんが昔言ってた。私たちは怪我が治りやすいから、傷を早めに処置さえして瀕死にならない限りは二、三日も安静にすれば大丈夫だって」

  「にしたって限度ってもんがあるでしょ……。獣人特有なのか、それともまふゆが凄いのか……いずれにしても悪いことはないんだけど」

  「脚を動かしてもそんなに痛くない。えなが私を見つけてくれたおかげだね」

  嬉しそうに尻尾を小さく揺らすまふゆは甘えた声で頬擦りする。さっきまでの灰被ったような色ではなく、宝石みたいに綺麗なアメジストの瞳。そう思ってくれたのなら良かったと少し嬉しくなる。

  ―――どんどんどん。

  「ん、まふゆ今音立てた?」

  「ううん、私じゃない。……入り口からするよ」

  「え、玄関から?」

  なんだろう。彰人が帰って来たのかな。それにしたってあいつ、折り畳み傘持ってったはずなんだけど。玄関も鍵かけてないから入ってこればいいのに。てかインターホンがあるのにドア叩くって何事?

  まだ本調子ではないまふゆをお風呂に入れるのは憚れるため、昨日と同じく適温のお湯でふやかしてその毛並みを整えていた私は、一旦それを中断して玄関に向かうべく立ち上がる。

  「私ちょっと様子見てくるね」

  「私もいく」

  すくっと立ち上がったまふゆを引き連れ、リビングの戸を開けて玄関へ。確かに扉の向こうに人が佇む気配がして、けどそれは彰人のものではなかった。

  「あのー、東雲絵名さんはいますかー?」

  聞き慣れない声が耳に届く。誰だろ、私の知り合いじゃないな。

  「えな、知ってる人?」

  「ううん、でもどっかで聞いたことあるような……」

  まあいいや。取り敢えず雨の中待たせるのも悪いし、出てみよう。念の為チェーンを掛けてから玄関の取手に手を伸ばす。

  扉を開けて顔を覗かせると、そこには可愛らしい服を身に纏って桃色の髪を揺らす子が居た。……何故か彰人の傘を持って。

  「いやあ、弟くんの傘があって助かったよ。公園で話し込んでたらいきなり降ってくるんだもんねー、参っちゃうなあ」

  あはは、と笑う目の前の子は少しだけ肩口を濡らしていて、風邪をひくといけないからとタオルを貸し出すと、にこりと微笑んで肩口にタオルを当てた。やはりこの声どこかで聞いた事がある気がする。

  「ねえ弟くんって、あんた彰人の知り合い?」

  「うん、そうだよ。弟くん、ボクと話してる途中で友達と会ったみたいでそのまま何処かのカフェに行ったみたい。その時に傘貸してもらって別れたんだ。ところで東雲絵名さんだよね?ボクは暁山瑞希。瑞希って呼んでよ」

  「はあ、私のことは絵名でいいけど……一応聞くけど私たち初対面よね?」

  天真爛漫な笑みを浮かべて私を見据える瑞希と名乗る子は、初対面のはずなのにどうにも私のことを知っているらしい。その疑問をぶつけてみる。

  「あー、絵名は覚えてないかな。一応ボクたち以前に神高で話したことあるんだよね」

  「え、うそ?」

  「ほんとだよ。ほら全日制の生徒が下校する時、雨の日に傘忘れたボクに貸してくれたでしょ?」

  そう言われて思い出した。あの日、定時制で登校した際に偶然昇降口で困ってる様子の子を見かけて、確かにその時に傘を貸した記憶がある。いつの間にか手元に戻ってきてたからすっかり頭から抜け落ちてたけど、あの時の子だったんだ。

  「君たち姉弟、やることがよく似てるよね。あの時お礼は伝えたんだけど絵名急いでるみたいだったから。だからもう一度言うね。傘を貸してくれてありがとう」

  「別に、そんなの今更いいって。あれで風邪引かれたらこっちが後ろ髪引かれそうなだけだし」

  「あは、絵名ったらツンデレ〜」

  「はあ?ツンデレってなによ」

  「まあまあ、それと絵名のことは弟くんから何度か聞いたことあるんだよね、『オレのことコキ使う姉貴がいる』って」

  「はぁぁ?あいつなに私の陰口叩いてるわけ?」

  「あはは、ほんと怒ったところそっくりだねー」

  一通り笑い切った後、瑞希はふとまふゆに視線を向けた。対するまふゆはどこか不思議そうに、少し警戒の色を浮かべながら黙って瑞希を見つめ返す。

  「ふむふむ、君が噂のまふゆだね?弟くんから話は聞いてるよ」

  話は聞いてるって、あいつ何さらっとまふゆのこと話してんの。

  私の不機嫌が表情に滲み浮かんだか、瑞希はまあまあと仲裁的な仕草をする。

  「弟くんは悪くないよ。その話を聞いてもしかしたらと邪推したのはボクの方だからね」

  「邪推って……ちなみにまふゆのこと、あいつから何て聞いてるの?」

  「言葉を理解する犬だってことくらいかなー。でも、ちょっと引っかかる事があってね」

  引っかかること、そう述べる瑞希の声色に真剣さが表れて、場の雰囲気が変わった。

  「少し前の話なんだけど、とある狼一家が密猟者に襲われたって話を耳にしたんだ。一家の娘はある種族の珍しい狼だって話だったから独自に調べてたんだよ」

  まふゆが私の後ろに身を隠し低く唸り声を上げる。どうにも人の心を見透かすような視線は十中八九まふゆが当事者であることを確信しているらしかった。……何者なの、こいつ。

  「あんた、それが分かっててなんでここに来たの?……まふゆを捕縛するとか言うんだったら、警察呼ぶよ」

  「グルルル……」

  「ちょ、待ってってば!そんないきなり警戒心マックスで睨まなくてもいいじゃん!」

  さっきまでの鋭い視線を寄越した雰囲気はどこへやら。焦りの表情を浮かべる瑞希は悩むような音を喉から発し、「まあ見てもらった方が早いよね、でも絶対内緒だよ?」と私たちに向き直った。

  次の瞬間、目の前の瑞希の姿が豹変する。

  「へ?」

  「グウ?」

  素っ頓狂な声を漏らす私たちの目の前には、桃色の毛並みに尻尾を三本揺らす狐の姿があった。まふゆより少し小さいサイズの狐は、こほんと息を整える。

  「じゃーん、驚いた?実はボク、狐の獣人なんだ〜」

  あっけらかんと正体を表した狐は正真正銘の瑞希らしく、桃色の体毛に尻尾がふさふさ揺れている。え、まふゆだけじゃなく瑞希まで……?

  「み、瑞希が獣人……?しかも狐って――」

  狐の獣人はこれまた狼と同様に珍しい種族だ。それに加えて尻尾が三本もあると言うことはそれ即ち瑞希が長命であることを指し示していた。

  「まあ奏以外にこの姿見せるのって何気に初めてなんだけどね」

  奏と口にする際、瑞希は照れくさそうな顔をする。

  「奏って?」

  「何年か前にボクを拾ってくれた命の恩人だよ。今は奏の家に居候させてもらってる。なんていうか、ボクたち一家もまふゆ達と同じく密猟者の標的にされてさ。……境遇は同じってところかな」

  低く憎悪を煮えたぎらせるような声に背筋が冷たくなる。それを感じたらしいまふゆは私の一歩前に躍り出て疑問を飛ばした。

  「……みずきは誰から私たち狼のことを聞いたの?」

  問えば瑞希の雰囲気はパッと霧散する。感情の制御に秀でているらしい。

  「その声はまふゆだね。その口ぶりだとやっぱり賢狼さんのところの娘さんで合ってるのかな」

  「ん?賢狼ってなんのこと?」

  新しく出でる言葉に首を傾げた私はそう質問を投げかける。瑞希は尻尾を踏まないように器用にその場に座ると、見上げる形で言葉を発した。

  「賢狼っていうのは、通常の狼種よりも優れた能力を身に宿す種族のことだよ。まあそれを教えてくれたのは他でもないまふゆのお父さんなんだけどね」

  なるほど、まふゆが言語を早い時期に発達させたり、それを流暢に話せるようになったのは種族的な関係があったからってことか。そして少なくともまふゆのお父さんと顔を合わせられるくらいには年齢を重ねているらしいことが判明してしまった。全然そうは見えないんだけど。

  まふゆもそのことは知らなかったらしくグルグル喉を鳴らしている。無意識で獣声を出すと喉が震えるのかな。なんだか猫みたいで少し可愛い。

  「みずき、お父さんと知り合いなの?」

  「そうだよー。因みに、そこにいる絵名が小さい頃お父さんに助けられたって話も聞いたことがあったりなかったり?いやあ、小さいとはいえ山の中を駆け回ったらそりゃ遭難するよ。幼い絵名はとても元気な子だったんだね〜?」

  にやにやして私を見上げる瑞希の瞳には愉悦が浮かんでいるらしく、頭の上に軽くチョップしてやる。「いたぁい」と両前足で頭を抱える姿はいっそ滑稽にすら思える。……ちょっと可愛いなと思ったのは内緒。

  「どうにも瑞希が言ってることは本当みたいだね」

  「……うん、お父さんと知り合いっていうのは信じていいと思う」

  「ほんとー?ありがと、二人とも」

  今だに頭を押さえながらもにこにこ嬉しそうな瑞希は、そうだ、と両手を合わせてまふゆへ視線を向ける。その姿勢は平身低頭だ。またしても雰囲気が変わる。

  「……まふゆたち一家が襲われた時、近くに居れなくてごめん。ボクが側に居てあげられれば今頃あんな目に遭わせずに済んだかもしれないのに」

  苦苦しく謝罪を述べると、まふゆは瑞希の近づいて首を振った。

  「あの時のことはもういい。獣が他者に襲われるのは摂理だってお父さんが言ってたから。あいつらは絶対に許さないけど、それを瑞希が気負う理由はどこにもない」

  「……ありがとう」

  瑞希とまふゆは互いに向き合って鼻をくっつけ合った。

  やっぱりこれって狼だけじゃなくて獣同士が頻繁にするスキンシップなんだろうか、と頭の片隅で思い浮かべていると瑞希がこちらへ顔を向ける。

  「絵名もありがとう。実はボク、まふゆのお父さんから娘が何かあった時まふゆのことを頼むってお願いされてたんだ。……自分の力が不甲斐ないばかりだよ。でも絵名がまふゆを助けてくれたおかげで、まふゆは命を絶たずに済んだ。改めてお礼を言うね」

  「ううん、別にいいよ。それにあんな姿見せられたら放っておくわけにいかないし」

  「あはは、やっぱり弟くんに聞いた通りだ。絵名は優しいんだね」

  「え、彰人そんなこと言ってたの?」

  「あっやば。これ言っちゃいけないんだったっけ」

  舌をぺろっと出すそのあざとさに少しだけ呆れを浮かばせる。それと今ここにはいない弟にも。

  そうこう話に花を咲かせているうちに外雨の勢いも先ほどよりも随分と穏やかになったらしく、しとしとと滴を落としている。暫く三人で雑談を挟んでいる時のこと。

  「そうそう、ここに来た用事はまふゆの生存確認と謝罪の他に、もう一つだけあるんだ」

  庭先を眺めていた瑞希は私たち二人に振り向いてその視界に捉えた。そうして再び人間の姿になると、まふゆの頭を優しく撫でる。

  「まふゆ、まだ人型に変化できないでしょ?でもまふゆ賢狼種だし、多分すぐに覚えられるんじゃないかな。もしよかったらボクが教えてあげるよ」

  「……そんなことできるの?」

  「もちろん。しっかり役目を果たせなかった分、こういう形でサポートさせて欲しいな」

  絵名もいいかな。

  そう問うピンクトパーズのように絢爛な瞳が私を覗く。なんだか同年代のように思えてしまうけど、一応年上なんだよね、頭に過ぎるもすぐにその隅から追いやって、返答を告げる。

  「まふゆに任せるよ。まふゆが嫌がるならさせないし、したいんだったらお願いする」

  「だそうだけど、まふゆはどうする?」

  再びまふゆに目を移すと、暫し悩むように沈黙してふとまふゆは私の方をじっと見上げた。どうしたのと首を傾げればまた俯いて数秒、瑞希を見据え口を開く。

  「わかった。みずき、教えて」

  「おっけー、ボクに任せてよ!」

  「まふゆ、がんばってね。あ、じゃあ私はどうしたらいい?」

  二人が頑張るというのなら私も何か手伝ったほうがいいかと問えば、瑞希からは実に欲に忠実な返答が届く。

  「絵名は自分の好きなことしてていいよ。ボクが部屋に呼びに行ったら何か甘いお菓子を作ってくれると嬉しいな。獣人って力使うと糖分が欲しくなるんだよね〜」

  「……そんな話聞いたことないよ」

  「あれ、そう?いいじゃんいいじゃん、まふゆも人間のお菓子食べてみたいでしょ?」

  「……えなが作ってくれるなら、食べてみたいかもしれない」

  私をチラ見してから俯き加減に可愛いことを言うまふゆは、ひょっとしなくても少し照れているらしい。頭を撫でてやりたい欲を我慢しつつ了承の意を込めて首を縦に振る。

  「わかった。それじゃあ蜂蜜パンケーキでも作ろっかな。ちょうど私も小腹空いてきたし」

  「はちみつ……パンケーキ」

  「あは、まふゆ嬉しそうだね」

  「わからないけど、胸の奥がぽかぽかしてくる。みずき早く教えて」

  「りょーかい。それじゃあまずは基本からね」

  そうしてリビングで始まるは秘密の特訓会。時間が掛かることを見越して少し時間を置いたのち丁寧に料理に励んだ私だけど、特訓会は思いの他早く終幕を迎えたらしい。

  「三時間は掛かるはずだったんだけどな」と瑞希が感嘆と驚きを同時に露わにするというなかなか面白い表情を浮かべていたのは記憶に新しく、結局二時間もしないうちに三人でパンケーキを囲むことになった。

  因みに瑞希が呼びに来るまでの空き時間は自分の部屋で作業をしていたためまふゆがどんな指導を受けたのかはわからない。

  そして今私の隣に座るのはミディアムの髪を瑞希に少しアレンジしてもらった紫紺色。私と身長よりやや小さいためオーバーサイズのお下がりを見に纏うことになった、耳と尻尾を生やしたまふゆの人間姿だった。