ケモホモ男子寮(公認)に放り込まれた俺の受難な高校生活9

  コンコン、と二回ノックの音がした。俺がはい、と返事をすると扉越しにくぐもった声で、俺だ、と聞こえてきた。鍵を開けて扉を開けば、そこには携帯を弄る三下先輩の姿があった。

  「おう、利根川に用があってな」

  外開きのドアを閉めながら中にずかずかと入ってきて、ベッドの上でくつろぐこーすけと何やら物の貸し借りをした後、じゃあな、と挨拶もそれなりに部屋から出ていった。

  そしてすぐ、また鍵をかける俺。

  今度はノックが三回だった。俺がはい、と返事をすれば扉越しに、開けてください、と声がする。再び鍵を開けてドアを開くと、一年生の後輩の子が立っていた。申し訳ないが名前は分からない。

  「あのぅ、これセンパイたちのですかー?」

  何やら手にタオルを持っていて、持ち主の確認を求めているようだ。どうやら食堂に忘れてあったらしく、わざわざ部屋まで持っていくつもりらしい。

  残念ながら俺もこーすけもロックバンドには詳しくないため、タオルの持ち主ではないことを説明すると、挨拶もそこそこに部屋から出ていった。

  そしてすぐ、また鍵をかける俺。

  再びノックの音がした。弱々しい力で三回だ。俺がはい、と返事をしたら、上柴です、と扉越しに聞き慣れた後輩の声が聞こえてきた。唯一と言っていいほどの仲の良い一年生の声に安堵しつつ、俺は鍵を開けてゆっくりとドアを開いた――――――

  「センパァアァアァアァアアアアアイ!!!!!」

  まるで絶叫のような大声と共に、何やら巨大な塊が突っ込んできたかと思えば、扉の前にいた俺にタックルをするかの如く、そのまま床に押し倒されたかと思えば、何やら力強い腕のような物で拘束されてしまった。床に倒れたので頭を打ったかと思ったが、手のひらが頭の後ろにクッションのように添えられたため、痛い部分はなかった。いやそんなことどうでもいい。

  俺の胸にすがり付く篠崎越しに、ドアの前で申し訳なさそうに苦笑する上柴の姿が見えて、俺は大きなため息をついた。

  「なぁあんで無視するんすかセンパぁイ……!!俺のこと嫌いになったんすかぁ……?俺はこんなにセンパイのこと大好きなのになんでなんすかぁ……!!!」

  「…………あーあ、ついに入ってきちゃった」

  泣きわめくように俺に語りかける篠崎を尻目に、とりあえず上柴を中に入れながらボソっとこーすけが呟いた。その言葉の通り、ここしばらく篠崎を部屋に入れないようにしていたのがついに破られたことに、また俺はため息をつく。

  事の発端は少し前。何か特別な日でもないいつも通りの夕暮れに、些細な事件が起こった。

  風呂上がり、階段を上っていた俺を捕まえた篠崎は、いつものようにアホみたいなラブコールをしながら俺に抱きついていた。そこに運悪く機嫌の悪い久郷田先輩が通りかかって、さらに神経を逆撫でされた先輩と、やけにその日反抗心の高い篠崎が、俺の目の前で喧嘩をし出したのだ。挙げ句の果てには噛み付き合いに発展する寸前までいって、俺が止めなければ両方とも怪我を負っていただろう。

  事実、イヌ科の顎は殺傷能力が高く、大型イヌ科の噛み付き事件は必ず流血沙汰になる。腕や足を喰い千切られたり、はたまた死亡するケースもあり、カッとなったじゃ済まされないようなことが多々起こる。当人が一瞬理性を飛ばしただけでも、十分人を殺めることのできる危険性は、刑法においても重罪になりやすい。それくらいイヌ科の噛み付きは危険だということだ。

  もちろん、篠崎と久郷田先輩は未遂で終わったために、流血沙汰にはならずに済んだ。それも、俺が階段から突き飛ばしたからではあるんだけど。高校生とはいえ大型イヌ科の雄だ、俺の行動は正しかったと後々判明した。

  しかしこの話で最も怒ったのは、俺でも寮監でもなく、相田先輩だった。

  喧嘩が大嫌いな相田先輩は、度々二人の小競り合いを暴力をもって止めてきたが、今回の件を知った直後二人を屋上に呼び出して、何やら"お話"をしたらしい。誰も怖くて見に行ってないんだけどな。

  そしてその後、相田先輩は俺にも注意をしてくれた。篠崎や久郷田のような独占欲が強いタイプと、これまでのように公然でイチャイチャするのは喧嘩のもとになりやすい、渡嘉敷は悪くないが気をつけてほしい、と。

  それから、俺も二人に対する態度を考え直すことにした。確かに今まで、段々と悪化するスキンシップに慣れすぎて、追い払うのもおざなりに、ちゃんとした拒絶を示してこなかった。特にボディタッチが多いこの二人が喧嘩したことで、その必要性が明らかになった。

  二人の喧嘩に対する俺のスタンスは、もちろん触らぬ神に祟りなし、だ。どこで喧嘩しようとどっちが勝とうと知らないが、俺はどっちの味方もしない。それを態度で示すために、なるべく二人から距離を置きつつ、必要最低限の会話以外はスルーしてきたのだ。

  …………しかしついに、その努力も泡と化した。何度も部屋に訪ねてきた篠崎を追い払ってきたのに、とうとう侵入されてしまったのだ。

  「…………センパぁぁイ…………もう一生離さないっす………………!」

  「…………上柴、篠崎に協力したのか?」

  「…………すみません、篠崎くんここ最近あまりに元気がなくて………渡嘉敷先輩に会ったら、元気になるかと思ったんですが…………」

  少し不満げな視線を上柴に送ったが、申し訳なさそうにショボくれる狐獣人の顔を見ると、それ以上怒れなくなった。

  とはいえまずは、本気で一生離すつもりがないくらい強くしがみついているバカ狼をなんとかしなくてはならない。

  「ねぇセンパイ俺なんかしましたかぁ……?やっぱり喧嘩したせいっすよねぇ………何度でもごめんなさいするのでまた前みたいに喋りたいっす………………」

  「…………はぁ……………………篠崎、とりあえず離れろ。部屋から追い出しはしないから」

  クゥーン、と仔犬のようなか細い声をあげながら、渋々といった様子で篠崎は俺の体からゆっくりと手を退けた。もうだいぶみっともない様子になっているが、よれよれのTシャツと乱れた毛並みがさらに悲壮感を増している。たかだか一週間無視しただけでこんなことになんのかよ。しかも宿泊学習で三日くらいいなかったってのに。

  まぁいつもの快活な様子はみる影もないほどみすぼらしくなっていて、上柴が同情するのも分かる。当の上柴はこーすけと、何やらコソコソと話をしていた。

  「ねぇセンパイ怒ってるんすよねぇ…………俺が久郷田センパイと喧嘩したから…………もう二度としないので許してくださいっす…………」

  「……………………いや怒ってねぇよ。ただ…………ちょっと距離を置きたかっただけだ。今までが近すぎたから」

  俺はそう言いつつ、物理的にも距離をとってひとまず自分のベッドに座った。篠崎は三角の耳を垂らしながら、悲しそうに俺のことを見上げている。なんだかだんだん俺が悪いのか?と思えてきたけど、実際悪いのは篠崎だと思い留まる。ちょっと拒絶しただけでこの変わりよう、明らかに普通の先輩と後輩の距離感じゃない。

  目を合わせるのも少し気まずくなって、頭をボリボリかきながら視線を逸らす。

  「…………怒ってないんすかぁ……?」

  「怒ってない。でも、前みたいに人目も気にせずくっついてきたりすんのは―――――」

  「センパぁぁぁあイ………………!」

  俺が注意を言い終わる前に再びタックルのように飛びついてきた篠崎。自分のベッドに押し倒されて、首元にマズルを突っ込まれる。匂いを嗅がれながらも、パタパタと激しく動く篠崎の尻尾を見ると、どうにも押し退ける気力が沸かなくて、ため息をつきながらされるがままにしていた。

  「…………もぅずっとこのままがいいっす…………」

  「……勘弁しろ」

  またまたか細くキューンと鳴き声が聞こえた。とてもじゃないが180センチの雄狼から出てる声だとは思いたくない。

  篠崎に押し倒されたままに、手だけを上げてこーすけと上柴を呼ぶ。少し話し込んでいた様子の二人も、俺が手招きしているのにすぐ気づいたようだ。

  「篠崎くん、哲也を押し潰さないでね」

  「っ!?センパイ重かったすか!??」

  「……まぁ重いけど、俺もそんなにヤワじゃねぇよ」

  こーすけのベッドに二人が座り、飛んでくる茶々をあしらいつつ、ジェスチャーで助けを求める。当然こーすけは微塵も動かないし、上柴も苦笑していた。

  「一週間ぶりのセンパイの匂いぃぃ…………」

  「やめろ変態くさい」

  「イヌ科ってほんと種族依存が激しいよね」

  「特に狼は顕著ですよね……その中でも篠崎くんは分かりやすい方ですが………」

  「おいお前ら。そんな話どうでもいいからコイツをどうにかしろ」

  「無理だよ。俺ら非力だもん。それより上柴くんの宿泊学習の話聞こうよ」

  「そんなに面白い話はないですよ……」

  必死にすがり付いてくる篠崎はともかくとして、後輩たちと喋るこの空気は久々なように感じた。まぁ最近は久郷田先輩との接触を避けるために他の先輩たちともろくに話していないから、複数人で集まるのが久しぶりなんだろう。

  俺が物思いに耽っていると、

  「寝泊まり部屋の見回り厳しくなかった?」

  「あー厳しかったです。30分に一回くらい見にきてました」

  「あれ実は一昨年部屋でヤッた生徒がいたらしくてさーそれから厳しくなったんだよね」

  「そ、そうだったんですか………」

  「入学して一ヶ月なのによくやるよね。不純同性交遊で生徒指導だったらしいけど」

  「……生徒指導で済むんですね」

  上柴の発言に、水を得た魚のようにこーすけがすかさず教示を入れる。この手の話については俺も入学当初に散々聞かされた。

  「今の日本には未成年同士の性行為を禁止する法律はないよ。東京都の青少年育成条例も適用されないし、引っかかるとしたら校則だけかな。男同士なら妊娠のリスクもないし、上柴くんもバンバンセックスしちゃって大丈夫だよ!」

  「は、はぁ……」

  「していいわけねぇだろアホ!!」

  すかさずこーすけに向かって吠えて、ため息をつく。

  稲光の校則には不純(異性・同性)交遊は禁止、と明記してある。違反したら生徒指導になるらしく、親にも連絡がいくだろう。そりゃ逮捕はされないかもしれないが、バンバンしろってわけじゃない。

  上柴は困ったように苦笑いしてるし、篠崎はそうなの?みたいな顔をしてこーすけの方を見ていた。

  「バレてもリスクは低いし、寮だとバレようがないって。まぁ久郷田先輩みたいにラブホに行くのはイカれてると思うけど」

  「じゃあ俺もセンパイとセックスできるってことっすか?」

  「ちげぇよバカ!!」

  尻尾を降り始めたバカ狼の頭をひっぱたいて否定する。ちなみに寮則でも寮内での性行為は禁止されてるはずだ。監視カメラがあるわけでもないから、みんなバレないからって気にしてないようだけど。

  「ぅぅぅ~久々のツッコミ嬉しいっす………!」

  「うるせぇ。いい加減退けよ変態」

  「それはイヤっすー!」

  「そういえば上柴くんとそういう話したことなかったね。せっかくだから色々聞いちゃおうかな」

  「あ、あんまり猥談は得意じゃなくて……」

  また各々が好き勝手に話を始めたころ、俺はふと気になって篠崎に質問をする。さっき名前が出たので不意に思い出したのだ。

  「…………そういえばお前、久郷田先輩と話したか?」

  するとその話を切り出した瞬間みんなして黙り込んでしまい、こーすけと上柴は真面目な顔でこちらを見やり、特に篠崎は元気に振っていた尻尾をだらりとシーツの上に垂らした。

  数秒間の沈黙があったあと、

  「………話してないっす。正直俺誰かを噛みそうになるほどケンカしたことなかったんで…………なんて声かけていいか分かんなくなっちゃって」

  「……………やっぱりか。俺もだ」

  俺がそう言うと篠崎はこっちを見つめてきて、そうっすよね……と軽く項垂れた。

  俺が二人を避けるようになってから、篠崎は毎日のように部屋まで訪ねに来ていたが、久郷田先輩はすれ違うことすら無くなって、まともに顔も見ていなかった。普段から用事がないとお互い会わない仲だから当然っちゃ当然なんだが、篠崎も和解できていないのはあまり良くないことだと思う。あれ以来ケンカの熱が冷めているかは分からないけど、俺としては二人には仲良くしててほしいし。

  「サッカー部で会うときは?話もしないかんじ?」

  「お互い声もかけないって感じっすかねー。端から見てると普通っぽいっすけど………………つーかそれより俺は渡嘉敷センパイのことでいっぱいいっぱいだったんで……」

  「久郷田先輩って………怒るとやっぱり怖いんですか?」

  「んー、不機嫌なときは見るからに不機嫌だから、誰も歯向かわないんだよね。だから誰かとケンカみたいなのは初めて見るかも」

  久郷田先輩とケンカか………そういえば不機嫌なところは良く見るけど、あの強面とデカさに立ち向かおうなんて奴はそうそういないだろう。それに隣にケンカ嫌いな相田先輩がいたら、何かある前に止められるだろうし。

  それをまぁ運悪く篠崎と二人して独占欲を膨れ上がらせて、理性を無くしてケンカするんだから困ったもんだ。デカい子犬たちの間に挟まれた俺の身にもなってほしい。

  ……よし決めた。明日は金曜日、学校が終われば二日間自由だ。日曜日に勉強会の予定があるけど、とにかく今週末で片をつけよう。こんなこといつまでも引きずってたらぐっすり快眠できない。

  篠崎にのし掛かられたまま足を曲げて、そのまま天井に向かって強く伸ばす。篠崎の下腹部を思いっきり蹴りあげるようにして、重たい体を退かすことに成功した。当人からはウゲッと声が聞こえてきたが。

  「おい篠崎、久郷田先輩と仲直り。できるか?」

  痛そうに腹をさすりながら壁にもたれかかる篠崎は、不服そうにこちらを見上げる。

  「そりゃできたらしたいっすけど…………どうすりゃいいんすか?」

  「いつも通り話しかけてみろ。案外普通かもしんねぇぞ」

  「殴られたらどうするんすか!」

  「そんときゃそんときだろ。まだ怒ってるって分かっていいじゃねぇか」

  自分でもテキトーなことを言ってるなと思いつつも、今はそれくらいしか考えが及ばなかった。とにかく二人が仲直りしなければ、引き合わせても二の舞になりかねない。

  でも、と横からこーすけも口を出してくる。

  「根本的な問題はさ、二人の独占欲のせいなんじゃないの?独占欲ってイヌ科の専売特許だし、なんかもうしょうがない気もするけど」

  「そりゃそうだけど……このままってわけにもいかねぇだろ」

  「俺はセンパイさえいればそれでいいんすけどね」

  「あ、あの……相田先輩に頼ってみるのは……」

  またしてもみんな口々に言いたいことを言い始める。意見がとっ散らかってぐちゃぐちゃになる前に、具体案を出さないと。

  ひとまず久郷田先輩には、俺から話しかけてみようか。勝手に避けていたのは俺だが、篠崎の侵入を許してしまった今、もう避ける理由もなくなったし。ただ今までも俺から話しかけるような機会は少なくて、用事もないのになんと言っていいか分からない。適当に世間話でもしながら、近づいてみよう。

  本当は相田先輩に頼りたいところだけど、何から何まで頼りきりにするのは申し訳ない。そもそも二人の喧嘩の原因も俺なわけだし、本来なら俺が片をつけなきゃならない問題だ。同様の理由であやめ先輩もやめておこう。

  「…………まぁとにかく、篠崎は久郷田先輩と何とかして仲直りしろ。俺からも話してみる」

  「…………はぁーーい…………なんか気が重いっす……」

  「利根川先輩は、どうするべきだと思いますか?」

  「うーーん俺からはノーコメント。下手すると俺も怪我しかねない」

  「……怪我?」

  珍しく何も言わないこーすけを問いただそうとしたそのときだった。ゴンゴン、と強めな拳がドアを叩く音が聞こえて、全員が扉の方を見た。こっちが何か返事をする前に、鍵を閉め忘れたドアが勝手に開いて、白黒の大きな頭がのっそりと現れた。

  「…………久郷田先輩…………どうしたんですか? 」

  かろうじて声が出たのはこーすけだけで、硬直している俺と上柴、姿を見た途端に俺の布団に飛び込んだ篠崎は、何もできずにいた。

  久郷田先輩は特にどうという顔もしておらず、いつも通りのくたびれたタンクトップに短パンで、だらりと尻尾を下げたまま、こちらを見下ろしていた。

  「…………利根川、これお前のだろ。俺の部屋にあったぞ」

  何かTシャツみたいな布を差し出しながら、視線はずっとこーすけの方を向いていた。ただ一瞬俺の方を見た気がしたが、瞬きしたらまた視線が戻っていた。気のせいだろうか。

  こーすけは立ち上がって布を受け取りにいったが、こちらの三人は話を再開する気にもなれず。上柴から困惑の視線を感じるし、篠崎は布団の中でじっとしている。先輩にはバレバレだと思うが。

  「……珍しいですね、先輩から届けにくるなんて」

  「……別になんでもねぇよ」

  こーすけとは特に違和感もなく普通に話している様子で、こちらを意識してるようにも見えなかった。もちろん怒っているようにも見えないので、篠崎のことは何とも思っていないんだろうか。

  久々に顔を合わせる俺にも話しかけず、こーすけとの会話もそこそこに部屋から出ていった久郷田先輩。扉がバタンと閉まったあと、困った顔で振り向いたこーすけを見て、俺もため息をつく。

  久郷田先輩は気難しい、何を考えてるか掴みづらい先輩だと思っていたが、一悶着あってもそれは変わらないようだ。

  ベッドの中からそろりと出てきた篠崎の頭を、再びベッドに突っ込んだ。

  「……ふーん…………大変だね」

  時間は飛んで翌日の昼休み。いつも通り中庭に向かえば、最奥のベンチに座る秋沢がいたので、昼飯をつまみながら愚痴を聞いてもらっていた。

  隣に座る機会も増えてきて、ようやく俺に慣れた様子の秋沢とは、先週正式に友達になったばかりだ。友達になったからといって特に馴れ合いが増えたわけでもなく、今まで通りたまに会ったら少し話す、くらいの関係でいる。正直友達にしちゃ距離感が遠い気がしたが、本人はこれで満足しているようなので、俺もそっとしておくことにした。友達初心者の秋沢には、このくらいが丁度いい。

  俺がそんなことを考えているとは露知らず、嬉しそうに唐揚げを勧めてくる秋沢。

  「久郷田先輩って、初めて会ったときから何考えてんのかわかんねぇんだよな」

  「……人気者だし、色んな噂を聞くけど、本質は気分屋なのかもね」

  「気分屋……だな。確かに。キスされたときもそんな感じだっt」

  「えっ!?……キスされたの??」

  隣を見れば、箸の間からポロっとソーセージをこぼす秋沢。半開きの口が見るからに驚いた顔をしていて、フッと笑いそうになった。

  「……言ってなかったか?」

  「う、うん…………そういう関係だっていうのは、初めて知った…………」

  「ん?そういう関係じゃねぇよ。何を想像してんのか知らねぇけど」

  秋沢は相変わらずキョトンとした顔をしている。

  「…………そういう関係……じゃないんだ…………」

  「おう…………えぇっと、一方的……」

  俺が矢印のような一方通行のジェスチャーをしたらすぐに察したらしく、少し感心したような、それでいて何か言いたげな目線を俺に向けてきた。

  「…………うーんと、なんか…………すごいね」

  「…………何がだよ。文句なら聞かねぇぞ」

  「違う違う………けど、やっぱり渡嘉敷くんって凄くこう……人を惹き付ける才能があるよね」

  なんだか悪口を無理やり褒め言葉にしたかのような申し訳なげな口調に俺が眉をひそめると、慌ててごめん、と謝る秋沢。別に謝らせたいわけじゃない。秋沢の言いたいことは分かってる。

  「俺がゲイにモテすぎる、って言いたいんだろ?分かってんだよんなこと……」

  「…………そう……だね。で、でも、一種の才能っていうか……」

  「いらない才能だな?」

  俺が冗談めかして笑い飛ばそうとすると、秋沢は意外と真剣な目で俺のことを見ていた。クラスの委員長として真面目に仕事をやってるときの、少し厳つい目。なんだか注意されるんじゃないかと思って、尻尾が丸まった。

  「…………ねぇ、あの…………渡嘉敷くんって、ウルフドッグ………だよね?」

  「……あぁ。何神妙な顔してんだよ」

  「…………ハーフって周りに少ないから、気にしてなかったけど…………もうちょっと詳しく読んでみようかな…………」

  顔をそっぽに向けてぶつぶつと独り言を垂れる秋沢。どういうことか説明してもらう前に、本人の頭の中で自己完結するのを待つ方が賢明だろうか。こっちのモヤモヤを度外視して急に自分の世界に入るところが、友達の少ない所以かもしれない。

  知り合いでもいないかなぁと思って、二年棟と一年棟の窓を見上げる。ここからだと角度的に見えづらいけど、一年の廊下の一部がかろうじて視界に入る。そこを歩く白衣姿の虎獣人と、後を続く生徒たち。梅雨明けの天気にしちゃよく晴れた日で、中庭を照らす太陽光にあくびでもしたいところだった。

  思えば入学からずっと何かを悩んでるな、と自覚する。人間関係の悩みは尽きることがなく、一つ終わったらまたすぐ次が出てくる……いたちごっこのようだ。きっとそれは俺だけじゃなくて、このごちゃごちゃした都会に住む人達はみんなそれを抱えていて、上手に消化しながら生きているんだろう。早いところそのやり方を勉強して、今後の高校生活を有意義にしてみたい。そうだ、俺はもうちょっと自由に生きてみてもいいのかもしれない。やりたいこととか、もっと。

  暖かな日光に疲れを癒してもらいながら、ふと秋沢の方を向けば、弁当なんてとっくに仕舞いこんで手元の携帯にじっくりと集中していた。

  「…………消化するやり方って………………それか?」

  俺が呆れ半分に呟いた疑問に、秋沢はうわの空で返事をした。

  ふと思いついた妙案だったが、これがどっちに転ぶかは全然分からない。でもなんだか悪い方にはならないような気がして、俺は午後の授業中ずっとソワソワしていた。

  いつものように三分で終わるHRのあと、ゆっくりと帰り支度をしていれば、こーすけに話しかけられる。

  「ねぇねぇ、帰りコンビニ寄ってかない?」

  「悪い。俺ちょっと用事ある」

  分かりやすく顔をしかめたこーすけは、明らかに詳細を聞きたそうな様子だったが、詮索しすぎないことにしたのかふーん、と一言で諦めて、早々に帰宅していった。俺としてはそれの方がありがたい。変な先入観を入れたくないから、こーすけには話さないことにしたのだ。

  クラスの半分くらいが帰宅やら部活やらに赴く中、俺も鞄に荷物をしまって、教室を出ていく…………ところに、肩を掴まれる。相変わらず猫科の気まぐれには疲れるところだ。

  「なぁーー渡嘉敷!!お前も帰りだろ!?」

  高田の縞々な手が視界に入って、分かりやすく伝わるように深いため息をついた。

  「…………なんだよ」

  「迷惑そうな顔すんなよ!!帰りに縞々軒でラーメン食ってこうぜ!!俺となら半額だぜ!」

  「いらない!んで半額も嘘だろどうせ」

  「えぇーーなんで分かったんだよぉーー!」

  ニャーニャー鳴くデカ虎獣人の腕を跳ね飛ばして、振り返らずに教室から出ていく。最近高田との距離感が分かってきて、接し方にも慣れてきた。普通よりありえないくらい距離を詰めるのが早いから、それだけこっちから離れてやればいい。思いの外鬱陶しがったり邪険に扱ったりしても特に響かないようで、無視を決め込んでも変顔をして笑わせてきたりするので、軽く突き放すくらいが俺にはちょうどよかった。

  廊下に出たところで、ちょうど猿獣人の佐藤とすれ違い、声をかけられる。

  「あっ渡嘉敷バイバイ。日曜はよろしくなー」

  「……おう。じゃあな」

  すれ違いざまに軽く手を上げて挨拶をすると、ニコニコと微笑んで教室へ入っていった。日曜日にある期末試験の勉強会は、佐藤が主催したものだ。みんなで都合のいい距離にあるファミリーレストランに集まって、数時間ほど勉強をするそうだ。都会人には当たり前の文化らしいけど、食事をする店で勉強をする、というのには違和感があった。当たり前のように携帯片手に廊下を歩く佐藤も、都会っ子だなとしみじみと思う。

  帰りに歩きながら廊下を通ると、隣の教室の扉が開いていて中の様子を覗きたくなることがある。あんまりじっくりと見ると変に思われるだろうから、横目でチラリと盗み見る程度だけど、一組と二組ではどんな差があるのか、ゆっくりと観察してみたい気もする。一組で知ってる人といえば、川元と島村さんくらいか。通りすぎざまに姿を探してみるも、それらしい影は見えなかった。

  二年棟を歩くだけで、色んな奴に話しかけられて、知り合いの影を探してる。四月に入学した直後は、友達なんてできないかもしれないと不安になったものだけど、なんだかんだ俺は周りに構ってもらってる。こっちから活発に話しかけたわけでもないのに、毎日話し相手がいるのは幸せなことだろう。

  それは寮でも同じことで、先輩後輩関わらず、よく声をかけられるのはきっと嬉しいことだ。理由は分からないけど、俺は雄にモテていて、今抱えてる悩みだって贅沢なことかもしれない。

  ……ただたまに思う。1日だけ、みんなが俺のことを放っておいてくれたら。自然の多いところで、独りでいられたら、ストレスや悩みだって全部忘れられるのに。

  そこまで考える度に、俺は自分が少し嫌になって、考えることをやめる。ふとすれ違った人の鞄についたキーホルダーに思いを馳せる。都会に来てから、何度目かの経験だった。

  俺は足を止めることなく、本棟二階の端の方にある教室に向かっていた。いわゆる理科室があるところで、実験や実技があったら入る機会もあるんだろう。まだオリエンテーションのときにしか立ち寄ったことはないが、比較的設備も新しくて、島の頃の高校とははるかに違った印象を受けたのを覚えている。

  この放課後の時間にこんなところにいるのは俺くらいなもので、誰ともすれ違うことなく目的地にたどり着いた。階下の喧騒もほど遠く、暖かい夕方の光が差す廊下は、やや緊張気味の俺の心を落ち着けた。用事があるのは理科室の隣、理科準備室だ。

  コンコン、と軽くノックをすると、中から野太い声ではーい、と聞こえてきた。恐る恐る重い扉を開けると、段ボールを小脇に抱えたベンガルトラの西村先生が立っていた。くたびれた白衣とは裏腹に、背が高く端正な顔立ち。腕も肩幅もやたらとデカくて、体育教師かと思うほどだ。

  先生は俺を見て少し意外そうな顔をしてから、にこやかに話しかけてきた。

  「えっと…………何か俺に用事かな……?」

  「あ、二年二組の渡嘉敷です。西村先生に、少し相談したいことがありまして………」

  「ほぅ、俺に相談?とりあえず入りな」

  西村先生は段ボールを適当な机に置くと、手で中に招き入れた。

  理科準備室の中は、棚や机が所狭しと並んでいて、その上に備品がぎゅうぎゅう詰めになって置かれていた。何かのプリント、標本、ポスター………用途も分からないような道具が大量に保管してあって、理科室の裏側を見てるような気分になる。夕方の日差しが窓から差し込んできて、西村先生のごちゃごちゃのデスクを照らしている。片付けが苦手なのか、床にこそ何も落ちてないしろ、あちこちに散乱するプリントや教材の山は煩雑な性格を示しているように思えた。

  そのデスクの前に、西村先生はどこからか椅子を持ってきて、自分の椅子の目の前に並べた。近づくと座るように促され、無機質な理科室の冷たい椅子に腰かける。

  改めて正面にいる西村先生を見ると、俺から見ても男前な顔だと思った。白衣が似合う人なんて、なかなかいないだろうし。

  西村先生は机に片肘をつきながら、俺を見ている。

  「それで、相談っていうのは何かな?」

  「あの…………担任の大宮先生から聞いたんですけど、西村先生って……ノンケなんですよね?」

  「あぁ大宮からか……確かに俺は異性愛者だよ」

  「それで、ちょっと今困ってることがあって…………」

  怪訝な顔で俺を見つめる西村先生に、今の状況をなんと説明したら伝わるか必死に模索する。変な風に思われなきゃいいんだけど。ついさっき、担任との二者面談で恋愛相談なら西村先生に、と言われたことを思い出して、特に具体的な考えも無しに来てしまったことをやや後悔した。せめて話す順番くらい考えてくるべきだった。

  俺がうーんと考え込んでいると、

  「話しにくい悩み?じゃあコーヒー飲むかい?」

  西村先生は徐に立ち上がって、どこからともなく缶コーヒーを持ってきた。尻尾を見た感じ上機嫌そうだったので、少し安心する。

  暖かいコーヒーを俺に押し付けてからギシっと音を立てて再び椅子に座ると、自分もコーヒーを飲み始めた。

  「ありがとうございます…………えっと、実は俺も異性愛者で……」

  「え?」

  とりあえず前提から話し始めたら、間の抜けた声で返事をされる。見ると、眉を上げてコーヒーを飲む手も止まっていた。

  まぁそうだよな……と思いながらも、話を続ける。

  「ホントです。俺、転校までここがそういう学校だって知らなくて、間違えて入っちゃったんです」

  「…………ほぉ……珍しいな」

  西村先生は、腕を組んでまじまじと俺のことを見つめている。珍しい、なんて言葉で片付けられないほど、俺は間抜けで考え無しだった。笑われたり、疑われたりするかと思ったけど、西村先生は真面目な顔でまたコーヒーをひと啜りした。

  それから俺は、多少覚束ない部分もあったが、言葉を選びながら現状についての説明をしていった。やたらと雄に言い寄られる機会が多いこと、告白されてフッたはずなのに諦めずに食いつかれてること、この間俺を巡って二人が喧嘩になったこと。真剣に聞いてほしかったから、なるべく正直に、真摯に説明するように心がけると、西村先生もそれに応えてくれて、途中で茶化すこともせず一言一言頷いて真面目に聞いてくれた。自分で言ってて恥ずかしくなるような悩みを打ち明けられるのは、異性愛者で尚且つ教師という立場からくる安心感のせいかもしれない。

  「………………それで…………今色々困ってます………」

  俺が話を締めくくったときには、手の中のホットコーヒーはすっかり熱を失って冷たくなっていた。時計が見当たらないから分からないけど、15分くらいは話していたんじゃないだろうか。それぐらいに思える時間だった。

  西村先生は前屈みになって聞いていた姿勢から、一度背もたれに身体を預けてふーむ、と低く唸った。

  「なるほど…………状況が特殊だからすぐ答えを出すのは難しいが、力になれるように努力するよ。質問してもいいかい?」

  俺が頷くと、西村先生は緩く微笑んだ。

  「まず、今一番解決したいのはどの悩みかな。同時にいくつも抱え込んでるみたいだけど……」

  「えっと…………俺のことで先輩と後輩が喧嘩してて。やめさせるにはどうしたらいいかなって」

  「喧嘩の原因は?」

  「…………俺を取り合って」

  理由があまりにも恥ずかしくて目を伏せる。先生は相変わらずニコニコしているけど、こんな一見惚気話みたいな悩み相談、顔が熱くなりそうだ。とはいえ嘘や隠し事は、相談に乗ってくれる先生に対して失礼だ。何かしらの答えを得るためにここに来たのだから。

  「今までも、喧嘩はあったのかい?」

  「いや、ちゃんとした喧嘩はこれが初めてです。いつも止めてくれる先輩がいるんですけど、この間はたまたま近くにいなくて」

  「なるほどねぇ…………」

  西村先生は頭を数度掻いてから、難しそうに首を捻る。やっぱり一筋縄じゃいかない悩みだし、状況が伝わりづらいせいで考えるのも難しいだろう。それでも先生は頭を悩ませながら質問をしてくれる。

  「その二人は、同じイヌ科なのかな?」

  「はい。狼と犬です」

  「ふむ。やっぱりイヌ科由来の独占欲や所有欲に起因してそうだね。渡嘉敷君のことが好きで、でも思い通りにならないせいで余計に自分の物だと主張したくなる。安直な考察だけどどうかな?」

  「…………合ってると思います。他にも俺を好きな奴はいるけど、イヌ科の二人だけ顕著ですし」

  俺の答えに、西村先生はまた少し考え込んだ。

  「イヌ科の独占欲を抑える方法はいくつかあるけど……一番簡単なのは定期的に褒美を与えることだね。独占、嫉妬をしなくても問題ないと思わせること………ただ渡嘉敷君の場合、それは不本意かもしれない」

  「…………どういうことですか?」

  「えーと、二人に程よくスキンシップをとって独占欲を刺激しないようにすること、かな」

  「………………………………………………」

  つまり俺は篠崎と久郷田先輩に定期的にハグやらなんやらしてやって、寂しくないようにするってことか?まぁ確かに理にはかなってるし、そりゃ二人は喧嘩しなくなるかもしれないが、根本的に雄にしつこく言い寄られてしんどい、という悩みは解決していない。それどころか篠崎なんてますます調子に乗って、スキンシップが過激化するのは目に見えてるだろう。あまり良案と思えなかった俺の微妙な顔を見てか、西村先生は言葉を続ける。

  「まぁこれはあくまで科学的な話で……実際はそんなに上手くいかないだろうし……」

  「…………あんまり気乗りしないです」

  「そうだよね、ゴメンゴメン」

  西村先生は作ったような乾いた笑い声をあげたあと、声を真剣なトーンに戻した。

  「今のは理系教師としてのアドバイスかな。異性愛者としての意見を言うとすると…………」

  「………………すると?」

  すると、西村先生は深くため息をついたあと、不意に俺の肩に片手を乗せてきた。急に肩を叩かれてピクリとすると、先生は俯き気味な顔で俺を見ていた。

  「…………その気持ちめっっちゃ分かる。俺も毎年生徒から告白を受けてる身だからね…………同性愛者に嫌悪感はないが、人の愛情に応えるのはなんにしろ気疲れするよ」

  そう言うと先生は力無く笑って、俺の肩を数度叩いた。その様子と言葉から間違いなく、先生も似たような境遇にあったことがあるのが伝わった。親身になって考えてくれる態度や、柔和な微笑み、背も高く端正な顔立ち。確かにこの学園の雄生徒からは光って見えるだろう。普通の学校なら女子生徒からの告白のはずが、この学園だと男子生徒のみから思いを告げられることになる。

  思いもよらない共感者が身近にいたことを知って、驚いたのと同時にもっと話を聞いてみたくなった。俺よりも経験豊富な大人は、どのようにあしらっているのだろうか。

  「先生も…………確かにモテそうですね」

  「いや君ほどじゃないよ。でもまぁモテ自慢は置いといて、この学園に数年在籍した異性愛者から一言言わせてもらうと…………」

  西村先生は一拍置いてから言い放つ。

  「ここは異性愛者がいるべき場所じゃない、かな。俺は仕事だからしょうがないけど、やっぱり他所の学校と比べてあまりにも異質だ。もし特別な事情がないのなら、環境を変えることをオススメするよ」

  「………………………………………………」

  それはつまり、再び転校を検討しろ、ということだろうか。探せば寮のある学校はたくさんあるだろうし、なんなら島に帰るという選択肢だってある。ただ、じぃちゃんに転校したいと伝えて、なんと返ってくるかは正直分からない。俺を稲光に転校させたのは紛れもなくじぃちゃんで、1ヶ月ちょっとでまた転校したいと伝えたら…………辛抱が足りんと怒られるような気がする。実際LGBTのこととかじぃちゃんが把握してたのかは不明で、今度帰ったらゆっくり聞こうと思っていたのだけど。

  西村先生の意見はもっともで、俺も何度も検討してきた考えだ。けれどそう簡単にはいかないし、せっかく都会の学校に馴染んできたところでまた環境を変えるのは、良いことなのか分からなかった。

  俺がじっと考え込んでいるのを見て、西村先生はフォローを入れる。

  「まぁもちろん、渡嘉敷君の意思が一番だし………稲光は私立学園の中でも、新設校にしてはかなりの優良校だから、もう少し長い目で考えてもいいと思うけどね?」

  「…………俺の意思………………」

  そりゃ今の環境は俺に合っていないと思う。ストレスに感じることや、悩みだってたくさんある。でも、転校すれば全てが解決するとは限らない。転校先でも新たな悩みが生まれたり、下手をすればいじめられたりするかもしれない。そのリスクを取ってまで、今の環境を変えることが最善手とは思えなかった。

  ………要するに俺の意思をまとめると、

  「…………どうしたらいいか分かんない………です」

  「あぁ……まぁそうだよね。もう少し自分の中で天秤にかけてみて、それでも転校したかったら大宮に相談するといい」

  西村先生は柔和に微笑んでから、少し姿勢を変えてデスクの上のパソコンに向き直った。何やらカタカタと使い始めてしまったので、窓の外の夕日に目をやる。一年の中でも段々と日が長くなってきて、俺が好きな夏がやってくるのを感じる。本棟の二階はとても静かで、窓の外からうっすらと聞こえるざわめき声以外は、先生と俺だけの個人面談のような空間になっていた。

  黙々とパソコンに向かう先生の横顔を眺めていると、不意に西村先生が口を開いた。

  「渡嘉敷くんは…………もしかして狼犬かな?」

  「はい、そうです…………よく分かりましたね」

  「いやぁ、前に大宮からハーフの転校生が来るって話を聞いたのを思い出してね」

  俺が狼犬……ウルフドッグだってことは、同種族の狼や犬以外にほとんど気づかれない。それほど近縁種ってこともあるし、他種族には違いが分からないだろう。時々俺自身も、その違いを忘れそうになるし。

  「大宮先生と仲いいんですか?」

  「………うん、少なくとも俺は友達だと思ってる。同時期に稲光に来たのと、理系なのもあって話す機会が多くてね…………大宮は生徒から見てどうだい?」

  「………ロボットみたいで最初は怖かったですけど、めっちゃしっかりした人で安心感があります。HRが短いのにはみんな喜んでると思います」

  「そうかぁそれは良かった。合う生徒には合うが合わない生徒にはとことん合わない性格だからね。堅物だが良い奴だよ、ほんと」

  西村先生の口調や表情から、大宮先生を気にかけていることが強く感じ取れた。大宮先生も面談のときに、俺を西村先生の元に寄越すくらいには信頼しているんだろう。感情を全然表に出さない人だから、真意は計り知れないけど。

  すると西村先生はあっ、と小さく声をあげた。思わずそっちを見ると、先生もこっちを見ていた。

  「実は、ハーフに関して面白い論文があってね。この間読んだのを探してたんだけど………ほら、読んでみるかい?」

  「は、はい…………これですか?」

  少し身を乗り出して、パソコンの画面に集中してみる。黒い文字で長々と文章が並んでいたけれど、題名からして英語だ。

  「ってごめんごめん英語だった………えっと雑に翻訳すると…………」

  西村先生はまた数回カチカチとパソコンをいじって、英文を日本語に直していた。これなら読めなくはなさそうだが、先生に直接教わった方がいい。

  「アメリカの大学の研究で、ハーフとそれ以外を比べる研究があったんだ。ハーフについてはまだまだ未知の領域で、どのような遺伝子の配合がどんな生物を産むのかほとんど分かっていないんだけど……近縁種であればあるほど健常な個体が産まれやすいことが最近分かってきたんだ。そこで、ハーフとその近縁種について直感的に魅力を感じる方を一万人にアンケートをとったら、どのハーフに対しても65%以上がハーフを魅力的に感じることが分かった」

  「……つまり、ハーフは普通の獣人より魅力的……ってことですか?」

  「この論文ではね。詳細な理由は分かっていないが、複数の種族の遺伝子が混ざることで強固な個体が産まれ、強い個体に対して本能的に魅力を感じているんじゃないか、という説を説いてる。面白い話だろ?」

  それが仮に本当なら、俺がやたらとモテているのはハーフだから、という理由付けができる。きっとまだ確証がある説じゃないんだろうけど、俺より頭の良い大学の人たちが言ってるならそうかもしれない。

  だとすると、これ以上モテないようにするのは不可能なんじゃないだろうか。

  「面白い……ですけど、さすがに好みの問題もあるんじゃないですか?」

  「そうだろうね。あくまでも仮説だから、冗談半分に聞くのが良いと思うよ」

  西村先生に、よかったら印刷しようか?と言われたが、論文を読めるほど賢くないので断っておいた。先生の噛み砕いた説明だけで十分だ。

  さっき西村先生も生徒からモテている、と言っていたけど、いくつか気になることがあった。

  「……先生は、生徒からの告白をどうやって断ってるんですか?」

  「ん、告白かい?なるべく傷つけないように丁重に断るようにしてるよ。俺が異性愛者とかの前に、教師として恋愛感情は持てないからねぇ」

  ……そうか、先生は先生としての立場を利用して上手に断っているようだ。俺には何の立場もないから真似できない。

  「でも生徒から、諦めないって言われたことないですか?」

  「あるよー。卒業したら付き合おう、とか、成人したら結婚しようとか。まだその子達が成人する歳じゃないから、どれくらい本気か分からないけど。多分同じように断るだろうなぁ」

  「……どんな風にですか?」

  俺の質問に、先生はパチパチと瞬きをした。そして組んでいた腕を膝に当てて、急に姿勢をしっかりと正したと思えば、

  「君の気持ちは嬉しいけど、俺は異性愛者だから応えることができない。ごめんなさい、俺を好きになってくれてありがとう………………みたいな感じかな」

  俺に向かって頭を下げる先生から、真摯で真面目な雰囲気が伝わってきた。姿勢の正しさから誠意を感じるし、説得力もある。俺も真面目に応えた覚えはあるけれど、頭までは下げなかったかもしれない。参考にした上で、もう一度全員にごめんなさいを言ってみようかな。

  顔を上げて照れくさそうな先生に、さらに質問を重ねる。

  「それでも諦めないって言われたら?」

  「はは、さすがにそんな生徒はいなかったかなぁ。でもきっとその子は余程渡嘉敷くんのことが好きなんだね」

  「…………………………………………」

  その子っていうかその子たちなんだけど。単に俺の断り方が悪いのか、あいつらが異常なのか。俺は好きな人ができたことないから分からないけど、こんなにも雑に扱っている───例えば篠崎が、まだ俺のことを恋人にしようとしているのは異常なことなんじゃないだろうか。それこそハーフだなんて理由で片付けられないくらい。

  「…………俺は友達でいたいけど、向こうは恋人でいたい。解決策はあるんですかね……」

  「申し訳ないけど、俺には分からないな。どちらかが折れなきゃ解決しない話だと思う。ただなんにせよ、大事なのは対話だよ。よく話し合って今後の関係を決めるべきだ」

  西村先生から返ってきた言葉に、俺は頷くしかなかった。そんなこと分かってる、と一瞬思ったけど、これは誰に聞いても答えの出ない問題なんだろう。むしろ先生は出来る限りの返事をくれた。あとは俺がどうするかだ。

  「ありがとうございます…………その、助かりました」

  「本当かい?実は生徒から相談を受ける経験が少なくて……渡嘉敷くんの力になれたなら良いんだけど」

  正直なところ何か明確な答えをもらったというよりは、自分の考えを整理できてすっきりした、という感じだった。やっぱり誰かに言語化して伝えることで重要な部分が見えてきやすい。聞き役としてもすごく当てになるし、大人に話してよかったと思うところだ。

  「……とりあえず今後の指針が見えてきました。もうちょっとしっかり話し合ってみます」

  「そうだね。また何か相談があったらいつでもおいで。愚痴の聞き役くらいにはなれるだろうから」

  俺が椅子から立ち上がって部屋を後にしようとすると、西村先生は俺の手首を掴んできた。少し驚いて振り返ると、先生は俺が飲まずに置いていた缶コーヒーを掌に握らせた。もう冷たくなっていたが、それはあまり気にならなかった。

  「良かったら持っていって…………ってもしかしてコーヒー苦手?」

  「あぁえっと…………コーヒー飲んだら寝れなくなるって、じぃちゃんに言われてて」

  俺がそう答えると、西村先生は一瞬驚いたような顔をしたあとに、またニコニコと微笑んだ。

  「そうだね。やめておいた方がいい。それじゃあ気をつけて帰って、さようなら」

  「あ、はい…………さようなら」

  軽く会釈をしながら理科準備室を出ていこうとすると、最後にボソッと西村先生の呟きが聞こえてきた。俺に向けていったものじゃなさそうだったから、返事はしなかったけど。

  「………ふむ、彼がモテるのはハーフだからじゃないかもしれないなぁ」

  言葉の意味は分からなくて、重要そうでもなかったので、本棟の階段を降りていく頃には、頭から消えてしまっていた。

  [newpage]

  ギギギィと何かが軋む音に、独特の騒音が響き渡る。ゴムとガソリンの異臭と、雪崩のような雑踏が醸し出す臭いは相変わらず慣れそうにない。都会を凝縮したような場所、それが駅だろう。

  今日は日曜日、普段なら寮や学校の周りで過ごしているものだけど、俺はこーすけと一緒に中央駅に来ていた。学期末にある試験に備えるための勉強会として、中央駅付近のレストランに集合することになっていて、未だに一人じゃ乗る気が起こらない電車に揺られてわざわざ中央駅までやってきた。休日だからか周りには人混みという言葉でも足りないくらい人で溢れかえっていて、大人数が苦手な俺の心を辟易とさせていた。

  そんななか、こーすけはいつも通り元気そうだ。

  「勉強会って何時までやるつもりだろうね?時間あったら駅前のクレープ屋寄りたいんだけど。あでも銀だこ買って帰るのもありだなー今日はそっちの気分かも。哲也はどう?」

  「……………………………………え?」

  俺のくたびれた顔とは裏腹に、こーすけはやたらと楽しそうだ。その証拠に、今まで見たこともないようなおしゃれな服を着てきていた。いつも学校周りをブラつくときは黒地の服ばっかりなくせに、中央駅へ出かけるとなるとファッションにも気合いが入るようだ。かくいう俺も篠崎に服を借りて誤魔化してはいるんだけど。

  この人混みの中、目的地に迷わず進んでいくこーすけはすごいなと思う。こーすけがいなかったら辿り着ける自信はないし、周りの人にも聞けなかっただろう。この迷路のような駅構内を、地図もなしに歩いてるんだから一種の才能だ。

  「なんか10歳くらい老けて見えるよ。どんだけテンション下がってんの」

  「テンションは……別に普通だろ。人が多過ぎて酔いそうなんだよ……」

  「もうちょっと我慢して。ここ抜けたら外に出るし、人も減るだろうから」

  そんな様子は微塵もないけれど、こーすけが言うならそうなんだろう。多種多様な獣人たちの体臭や香水の臭い、立ち並ぶ店からする食べ物や服の臭い。イヌ科に産まれたことを後悔するのは、こういうときだったりする。

  でも結局慣れるしかないんだろうな……と諦めに満ちた感情を抱えながら、こーすけの背中にひたすら着いていく。ゆらゆらと揺れる尻尾を見ていれば、いくらかマシなような気がしていた。

  「でもさ、哲也と中央駅まで出かけるのなんか初めてじゃない?いつも俺が誘っても断ってたからさ」

  チラチラ後ろを見ながらこーすけが言う。そもそも中央駅に来るのだって、前に久郷田先輩と来た以来だ。人混みと電車のハードルが、俺には高すぎるんだろう。

  「…………断ってて正解だったよ」

  「田舎者にはキツいかー。もっと哲也とデートしたいんだけどなー」

  中央駅じゃなければ、森林浴デートならいくらでも付き合ってやる。そんな気分だった。

  何キロもあるんじゃないかと思うほど長く感じた駅構内を抜けて、不意に外の空気が流れ込んできた。明るい日光に向かってなだれ込んでいく人混みに流されるように進めば、ようやく開けた巨大な道路に出た。

  ざっと周りを見渡せば、目も眩むような高さのビルがぐるりと周りを取り囲み、その脇を何本もの道路が通って集合し、中央に巨大な交差点があった。クモの巣のように張り巡らされた横断歩道の白い線の上を、これまた大勢の人が行き交っている。視界に入る分をざっと見て数百……いや千人以上いるだろうか。ここにいる人が一斉に地団駄を踏んだら、地震でも起こるんじゃないかとふと思った。

  その人混みの波に一寸の迷いもなく飛び込んでいくこーすけに必死に着いていきながら、激流に負けじと体を押し返す。こんな人口密度にならなきゃならないほど、東京っていうのは狭いんだろうか。無機質な電子音が鳴り終わるまでになんとか道路を渡り終えると、ようやく人混みが少しマシになった。

  「えっと…………こっちか。ちょっとだけ駅から離れたとこなんだよねー」

  「駅の中にも店はたくさんあったけど、なんで離れたとこなんだ?」

  「休日だし混むからでしょ。ゆったり勉強するなら空いてた方がいいしね」

  なるほど、混み具合も計算してるのか。今回場所を指定したのは佐藤だけど、そういう細かい気遣いはとてもありがたい。ただでさえ都会には不慣れなんだから。

  そのまま道順もよく分からないまま、大きな道路をまっすぐ進んでいく。道なりに並ぶビルや店の数々は、その煌びやかさに眺めているだけで目眩がしそうだ。蛍光やネオンの看板が立ち並び、これでもかというほど通行人に主張をしている。店の名前を雑に見比べながら、こーすけの背中についていくと、不意にドンと一つ大きなファミリーレストランが見えてきた。巨大な看板にはマスコットキャラクターがハンバーグを食べているイラストが輝いている。

  「あ、ここだ」

  店の前まで来たとき、こーすけがポツリと呟く。一階の駐車場を見るに、そこそこの台数駐車していて、中にもそれなりに人がいることが分かった。

  こーすけに続いて外の階段を登り、ガラスの二重扉を通り抜け店の中に入るやいなや、犬獣人の女性の店員さんがすかさず声をかけてきた。

  「いらっしゃいませー!二名様でお越しですか?」

  元気でよく通る明るい声で、接客をされる俺たち。そもそもレストランに入ることすら慣れていない俺は物怖じしてしまうが、こーすけは当たり前のように返事をする。

  「あっ、先に友達が来てると思うので、探してもいいですか?」

  店員さんはにこやかにどうぞー、と言って去っていった。きびきびしていて仕事ができそうな印象だ。

  店内を軽く見渡せば、まばらに人が座っているのが散見された。混み具合で言えば半分くらいだろうか、佐藤の作戦は成功しているだろう。休日だし家族連れが多く見られたが、中には同年代くらいの学生っぽい人たちもいるようだった。考えることはみんな一緒なんだろうか。

  こーすけと共に店の奥の方へ歩いていくと、ソファーに座っている見覚えのある巨体の後ろ姿を見つけた。そこの席から佐藤が手を上げて、こっちを手招いている。

  「おー利根川たち来たか!あれ、二人とも意外とおしゃれだなぁ」

  「そう?こんなもんでしょ。あっ、結局秋沢くん来れたんだね」

  「……うん。なんとか」

  店の角の六人がけの席には、ソファーに秋沢、向かいの椅子に佐藤と佐藤の友達らしきチンパンジーが座っていた。確か隣のクラスの生徒らしいんだけど、俺たちは全くの初対面だ。

  佐藤は俺たちを秋沢の隣に座らせて、すぐに紹介を始める。

  「俺の友達の田中!二年三組だよ」

  「どうも、チンパンジーの田中です。三人の名前は佐藤から聞いたよ」

  「田中くんよろしくー。あっ、そのスマホ最新機種でしょ!いいヤツ使ってるねぇー」

  「わぁ気づいてくれた!バイト頑張ってやっと買えたんだ~」

  早速こーすけが積極的に絡みにいってしまい、俺と秋沢は自己紹介するタイミングが完全に遅れた。俺も話しかけないと、と焦りながらもなかなか会話に入っていけないもどかしさが俺を苦しめる。俺以上にコミュニケーションが苦手な秋沢なんてもっと苦悩してるんじゃないだろうか。

  それを見かねた佐藤がすかさずメニューを取り出して、俺たちに話しかけてくれる。

  「とりあえずドリンクバーと、なんか軽食でも頼もうか!食べたいヤツ教えて!」

  主催者らしくちゃんと仕切っていく姿勢に感心しつつも、はい、とメニューを渡されて戸惑いながらもページを開く。中にはステーキやパスタ、スープやカレー等といった多種多様な美味しそうな料理の写真が並んでいて、その品数に思わず驚いた。隣を見ると秋沢も、興味深い表情でメニューを眺めている。

  「俺はポテト頼もうかなー!みんなは?」

  「俺はチョリソーにする。哲也もなんか頼みなよ」

  「そうだな…………でもいっぱいあって分かんねぇよ」

  ペラペラと捲っていたらついにデザートのページまでいってしまった。とはいえ特に今食べたいものは無いし、困って何気なく秋沢の方を見ると、秋沢も困惑しているようだった。

  「……秋沢はこういうとこ来たことあんのか?」

  「い、いや…………知識としては知ってたけど、初めて……かな。本当に安価なんだね」

  「あぁ、秋沢くんお坊ちゃんだもんなー!別に今決めなくても、後で追加で頼めばいいから」

  「そうだね……そうしようかな」

  実際財閥の一人息子がファミリーレストランに行ってるイメージはない。普段から高級なものばかり食べているイメージだけど、庶民の味は口に合うのだろうか。

  佐藤はボタンを押して店員さんを呼んで、手際よく全員分の注文をしていた。さすが行き慣れている都会人だな、と感心した。

  ドリンクバーの注文をしたあと、ドリンクを各々順番に取りに行くことになって、勝手の分からない俺と秋沢はこーすけの後ろにいそいそと着いていく。他の客やサラダバーなんかを横目に、ドリンクコーナーの前で立ち止まった。

  「あ、イチゴミルク置いてるじゃん。俺これにしよ」

  こーすけはいち早くグラスを取ると、何やら機械の前でボタンを押している。横に回って様子を見ると、飲み物が出てくる穴の前にグラスを置いて、ボタンで量を調節するみたいだ。

  真似をして俺も空のグラスを取り、ドリンクバーの機械の前に置いた。とりあえずオレンジジュースのボタンを押してみる。

  すると、ブバッという大きな音を立てて勢いよくオレンジジュースが流れ込んできた。その音に一瞬体を緊張させる。俺の様子を見てか、秋沢もおずおずとコーヒーカップを手に取り、機械の前に立った。

  「………もしかして秋沢くん初めて?」

  「コ、コーヒーはいつも手で淹れてもらってるから……コーヒーメーカーは初めてなんだ………」

  「そうなんだ。じゃああんまり味に期待しない方がいいかも。安い豆使ってるし」

  普段からおどおどしている秋沢がいつもより縮こまって見えるのは、場違いな立場なのを自覚しているからだろう。こういう友達付き合いが無ければ一生体験することもない庶民の文化に馴染めないのが恥ずかしい。秋沢の顔を見れば一目瞭然だった。

  ふとドリンクバーを見ると、端の方にガムシロップとミルクがあるのが目に入った。秋沢が気づくか分からないから、数個取っておいた。

  三人で縦ならびに歩きながら席に戻ると、佐藤と田中は既に机の上に教科書やノートを広げていた。五人がけできる机だからかスペースには申し分なく、腰かけた俺たちもとりあえず勉強道具を取り出し始めた。

  「あれ、秋沢くんはノーパソ?」

  佐藤の指摘で秋沢の方を見ると、秋沢は銀色のオシャレなノートパソコンを起動するところだった。

  「あぁ………うん。いつも自宅学習はノートでやってるんだ」

  「さすがエリート。でも授業中紙のノート使ってなかった?」

  「…………授業用とは分けてるんだ」

  秋沢は少し口ごもりながらそう答えた。実際、高校レベルの勉強はとっくに終えてるだろうから、稲光の授業なんて退屈でしかないだろう。それでも校則に合わせるために、律儀に紙とペンで授業を受けてる。それをそのまま伝えたら、印象が悪いと思ったんだろうな。

  チラリと秋沢のパソコンの画面を覗いたら、すごく小さな字で英語の長文が羅列していた。とてもじゃないが知らない単語ばかりで読めない。カタカタとキーボードを鳴らしながら、難しい英文を書いているようだった。

  反対にこーすけの方を見ると、国語の復習をやっている様子だ。パラパラと教科書を捲りながら、ノートに要点を書き込んでいる。こーすけは理系科目は得意だけど、文系が苦手らしい。意外と真面目にやってるのを見て、少し感心した。

  俺もやろう、と問題集を開いて、数学の問題を解き始める。立ちはだかるように並んでいる数字に一問目から頭を抱えつつも、ノートにシャーペンを突き立てた。

  「あぁーーもうわかんない!!!」

  長々とした沈黙を破ったのは、こーすけの一声だった。一時間も経っていないだろうか、それでもしばらくの間みんな集中して勉強をしていたが、まずはこーすけが音をあげた。飽きっぽいネコ科らしいな。かくいう俺も問題集は2ページくらいしか進んでいないんだけど。

  ただこーすけが喋ってくれたおかげで、便乗して喋りやすい。一度集中を止めて、シャーペンを置いた。

  「何がわかんないんだ?」

  「全部!!!何活用って?なんでこんな分かりにくい書き方すんの!?」

  「キレんなよ。活用は一年生でやっただろ」

  「やってない。忘れた」

  こーすけの理不尽な問答に緊張の糸が切れたのか、みんなペンを置いて一息つきはじめた。田中はドリンクバーに行くために席を立ち、秋沢はパソコンを打つ手を止めて、佐藤はノートをパタンと閉じた。

  「古文漢文って難しいよねー分かる」

  「勉強の仕方もイマイチ分かんないっていうかさ、覚えること多くてしんどいよね」

  まぁ確かに、昔の言葉は今とはだいぶかけ離れてるけど、俺はどちらかというと好きな方の教科だ。ちゃんと読み解けば、物語として単純に楽しめる読み物だということを教えてくれたのは、前の学校の担任だった。先生の好き嫌いって、勉強の好き嫌いにも直結する問題だよな、と一人で考えに耽る。

  「佐藤くんは何の勉強してんの?」

  「俺は物理かな。でも全然さっぱり」

  「秋沢くんは?」

  「……お、俺は…………化学……かな」

  あれ、でもパソコンの画面を見る感じどう見ても英語の長文が書いてあったけど。てっきりなんか難しい英会話の問題でも解いてるのかと思っていた。

  「秋沢のはレベチっぽそう。どんなのやってんの?」

  「…………えっと、オンラインで受講してるアメリカの教授にレポートを送らなきゃいけなくて………」

  「化学のレポート英語で書いてんの!?やっぱ天才は違うな~」

  驚嘆の声をあげる佐藤に、秋沢は困ったような苦笑いを浮かべていた。秋沢は褒められるのが苦手だ。自己肯定感が低いせいで、言葉を素直に受け取れず心のなかで卑下してしまう。それはもう癖みたいなもので、俺は本当にスゴいと思った時以外は秋沢を簡単に褒めるのを止めていた。だからいつもさりげなく、背中を押すくらいに留めている。

  「秋沢くんに勉強教えてもらったら成績上がりそう。高校生レベルの勉強はとっくに終わってるんでしょ?」

  「…………ぅ、うん…………」

  「マジで?じゃあじゃあ秋沢!ここ教えて!」

  佐藤は体を前のめりにして、教科書を突き出しながら秋沢に教えを乞う。秋沢もおずおずと、問題の解説をし始めた。

  …………やっぱり誘ってよかったな。勉強において秋沢の右に出る者はいない。きっと勉強会なら輝けるだろうし、自然と会話も尽きないだろう。人当たりのいい佐藤とならいい友人関係を築けそうだ。

  我ながら親みたいな目線で秋沢のことをぼーっと眺めていると、田中がドリンクバーから帰ってきた。席を移動した佐藤と変わって、俺とこーすけの正面に座る。

  「あ、あのさ。利根川くんと……渡嘉敷くん?」

  「ん、なーに?」

  田中は少し神妙な面持ちで話しかけてきた。

  「佐藤から聞いたんだけど、二人って寮生なんだろ?寮生活ってどんな感じなの?」

  「………………………………」

  どんな感じ、と聞かれると返事に困った。洗濯とか掃除とか、自分たちで分担してやらなきゃいけなのは面倒だが、他人と生活を共にするという異質な場所でもある。間違いなくこれまでの人生で味わったことのない経験で、慣れるのには時間がかかった。

  入寮してすぐの俺より、こーすけの方が答えに向いてるだろう。こーすけが返答するのを待つ。

  「うーん…………ちょっと不自由だけど、慣れれば楽しいかな。先輩の部屋行って遊んだり、添い寝したりもできるし」

  「えっそれって………………エッチなこともするの?」

  不意に小声になった田中は俺たちだけに聞こえるようにそう言った。あぁなるほど、質問の真意はそこか。まぁそりゃ興味があるのは仕方ないだろうな。相変わらず俺はノーコメントだけど。

  「はは、どう思う?」

  「焦らさないでよー!僕さ、稲光入ったら彼氏ができるって勝手に思ってたんだけど、なかなか難しくてさ。やっぱり寮生になったらその確率も上がるのかなって」

  彼氏か。稲光に入る大体の理由は恋愛目的だろう。色恋に興味がある年だろうし、知りたくなるのは当然だ。だけど、寮生たちのドロドロした恋愛事情をさんざんこーすけから聞いてる身としては、あんまりオススメできない。

  果たしてこーすけはどう答えるのか、隣を見ながら沈黙を保つ。

  「確率は上がると思うよ。寮って基本二人一部屋だから、運が良ければタイプなルームメートになるかもしれないし」

  こーすけはチラリと俺を見た。こーすけからしてみれば、運が良かったんだろうな。俺からしたら凶だけど。

  でも、とこーすけはつけ加える。

  「そんなにエッチなイベントはないよ。寮監の目もあるし、年々監視も厳しくなってるから。俺からしたら、夜まで出歩ける通学の子が羨ましい」

  「へぇ……そうなんだ。まあ流石に学校側も見過ごさないよね。そういえば、二人は付き合ってるの?」

  出た。この二ヶ月で100回以上聞かれた質問。もう反射的に口をついて言葉が出る。

  「いや、付き合ってない」

  「ただのルームメートだよ」

  テンプレートのように即答された返事に、田中は驚きつつも苦笑いで頷いた。

  すると不意に、横から秋沢が口を挟んできた。

  「あ、あの…………寮のご飯とか………美味しいの?」

  普段絶対に会話に便乗するようなタイプじゃないだけに、今度はこっちが驚かされてしまった。恐らく本人なりに懸命に輪に加わろうと頑張ってるんだろう。いや、あれこれ考えるのも邪推か。

  「俺は普通に旨いと思う……けど、まずいって言ってる人もいる」

  「うーん、給食みたいなもんかな?味はそこそこだけど品数が少ないから、みんな追加でなんか買って食べてるよ」

  「そ、そうなんだ…………」

  「あっじゃあじゃあ質問!寮監って部屋に見回りに来るの?」

  佐藤まで流れに乗ってきた。もう勉強するつもりは更々ないらしい。

  「基本は来ないよ。でもマスターキー持ってるから、その気になればいつでも入れる」

  「へぇ!なんかエッチな物とか隠すの大変そうだよな!」

  「俺らの部屋にはあんまり無いけどね。哲也がそういうの嫌がるから」

  こーすけの言葉に、全員の視線がこっちに向く。急な注目に狼狽えつつも、なんか言わないといけないかと気の効いたセリフを考える。笑いがとれるような一言をさらっと言えたらカッコいいけれど、生憎俺にそんな才能はない。

  「…………こーすけの描いてるマン───」

  「男子高校生なのにそういうの全然興味ないんだよね!!田舎育ちだからかな?」

  マンガと言いかけたところで机の下で強く足を踏みつけられた。そこまで痛くはないけど、驚きで口をつぐむと、被さるようにこーすけが言葉を連ねた。どうやら寮でマンガを描いてることは知られたくないらしい。何が不都合なのか知らないが、凄まじい反射神経だなと思った。

  すると話題は少しそれて、俺についての話になる。

  「えっ興味ないって……全く?エッチなこと考えたりもしないの?」

  「………………ないかな。全くないわけじゃねぇと思うけど」

  「えぇじゃあもしかして……精通もしてない?」

  「…………精………通……………………うん、まぁ…………」

  俺がそう答えた途端に、全員から驚愕の声があがった。

  「えぇ!?めっちゃ溜まってるんじゃないの?」

  「逆に体に悪そうじゃない?」

  「でも夢精とかはしてないっぽいんだよねー。性欲ないのかな」

  「…………………………………………」

  ……まぁ、俺は気乗りしないけど男子高校生はエロい話が一番盛り上がるらしい。真っ昼間のレストランでもそんな話ができるくらい、好きなんだろうな。

  唯一の良心である秋沢は、パソコンに目を落として集中するふりをしている。ふり、と言ったのは、三角の大きな耳がピンとこちらに向いているからだ。

  俺が小さくため息をついたのを見て、気を遣ってくれたのか佐藤と田中は言及するのを止めた。こーすけは少しつまらなさそうな顔で頬杖をついている。

  とはいえ俺のせいで会話が止まってしまったような空気になったので、何か話題はないかと模索する。

  「………そういえば、みんな求心会って知ってるか?」

  俺の言葉に全員ピクリと耳を動かした。どうやらみんな知ってそうだな。

  まずは田中から口を開いた。

  「なんかニュースとかでたまに見る……宗教?みたいなやつでしょ?」

  「家に一回勧誘に来たことがあるよ。玄関先ですぐ断ったかなぁ」

  「この間校門で本配ってたよ。哲也が受け取ってたけど」

  こーすけの言うとおり、以前稲光の校門前で変なおじさんに本を渡された。暇なとき読んでいたが、中身は求心会という宗教の教えのようなものが書かれていた。教祖からのありがたい言葉とか、会員の有名人についてとか、所謂新規会員を呼び込むための入門書のようなものだろう。

  鞄からその本を取り出して、みんなに見せる。こーすけは不機嫌な呻き声をあげた。

  「まだ持ってたのそれ?さっさと捨てなよ」

  「…………貰ったもんすぐ捨てるの……なんか悪いだろ」

  「どんなことが書いてるの?神様のお告げとか?」

  「……渡嘉敷くん、ちょっと見てもいい?」

  秋沢に本を見せている間、書いてあったことをなんとなく伝える。読破したわけじゃないし、するつもりもないけれど、こんな団体があるんだと勉強にはなった。

  「……なんか抽象的で難しかったけど、大体は良い行いをしましょうみたいな感じだったぞ」

  「それなら問題なさそうだけど………たまにニュースで出るときは悪いニュースとして出るよね」

  「この間も求心会の信者が暴行事件を起こしたって、Twitterで見たよ」

  「余計にいらないじゃん。田舎者が宗教に騙されて、人生棒に振るとかよくある話なんだから」

  「別に入信はしねぇよ。騙される気もねぇし」

  とはいえ暴行事件の話は初耳だ。やっぱり悪い宗教団体なんだろうか。学生がたくさん通る校門前で本を配るなんて、なかなか迷惑なことをしてくるもんだ。

  「でもさ、こういう本って信者の会費から作られてるんでしょ?知らない人に配れるほど刷ってるってことは、結構儲かってるのかな」

  「………会費とかお布施は非課税なんだ。会員が払った分だけ収入になるから、規模によっては一般企業より全然儲けてるよ」

  黙っていた秋沢が質問に答える。本を俺に返して、コーヒーに口をつけた。

  「非課税って、税金で引かれないってこと?」

  「うん…………非営利目的な物に関しては税金が発生しないんだ。神社のおみくじとかもそうだよ」

  「えぇ………知らずに買ってた。なんかズルい気がするね」

  「求心会って結局何が目的なんだ?」

  俺の問いに秋沢は苦笑する。なんかバカなこと聞いたんだろうか。

  「組織としての目標はないんじゃないかな。強いていえば会員を増やして教えを広めることだろうけど、それで得するのは教祖たちだろうし」

  「悪の組織じゃないんだから、哲也が考えてるような悪巧みじゃないよ」

  「誰も何にも言ってねぇだろうが」

  茶々を入れるこーすけを小突きつつ、秋沢の話に耳を傾ける。

  「ただ、求心会が問題視されてるのは、排他的な宗教団体だからなんだ。105ページに書いてあったけど、教祖は他宗教との共存を望んでいないらしい。だから力の弱い宗教を抱き込んだり、圧力をかけたりすることがあって、それが度々事件に発展したりしてる」

  「なんか怖いね。そんなのがなんで稲光まで勧誘に来るの?」

  「求心会は同性愛に寛容だからじゃないかな。海外の有名な宗教は基本的に同性愛に否定的だけど、求心会は愛の上では平等だっていう見解だから。生徒に入信者が増えたら、利益も大きいだろうし」

  「でも今日日宗教に引っかかる若者なんていない気がするけど。他にはどんな教えがあるの?」

  「基本的には仏教をベースにしてるように感じたかな。死後の世界の存在を信仰してて、そのために功を得る必要があるんだ。加えて教祖のアレンジで、二見悪利っていう考え方があって───」

  「────ちょっと待て秋沢。お前それあの短時間で読んだのか?」

  饒舌な秋沢を一時停止させると、目をパチパチとさせてからおずおずと頷いた。俺が半分読むのに二週間かかった本を、当たり前のように速読してみせた。内容だって難しい言葉ばっかりで、ほとんど理解できてないってのに。

  俺が小さく鼻を鳴らすと、遅れて周りのみんなも驚き始める。

  「えぇ!?こんな文字がちっちゃい本をもう読んじゃったの!!?」

  「ぃぃいや、飛ばし飛ばしだし……概要だけしか……」

  「すごー!!そりゃ頭良いよなぁ」

  「天才はすごいねぇ。恋人が高田くんなのが信じらんない」

  「そ………………それは言わないでよ………………」

  それからは求心会の話はどこへやら、みんな秋沢の話に夢中になった。普段脚光を浴びたがらない秋沢が、みんなの話題の中心となって注目されている。友達ができないと言っていたのが嘘のように、ちゃんとグループに馴染んでいることが、なぜだか俺を安心させた。顔を赤らめながら縮こまる秋沢をみんなで褒め倒しながらイジって、開かれたノートは置き去りに、談笑しながら午後の暖かな時間が過ぎていった。

  「あーあ。結局ギリギリまでファミレスいたせいで銀だこ買って帰れなかったね」

  「…………長いこといたけど勉強はほとんど進まなかったな」

  「え?当たり前じゃん。勉強会って名目だけど、あんなの遊ぶためにあるんだから」

  「………………そうかよ」

  こーすけの不真面目な姿勢に呆れつつ、車窓の外を流れる景色をぼーっと見つめる。どこまでいっても視界に入るのは灰色のビルの群れで、珍しいものは何もない。電車に乗ると、自分がこのコンクリートジャングルにいることがまざまざと実感できて、俺も都会人に染まりつつあるなというのを思い出す。いくらど田舎の青年だって、二ヶ月もガソリンの臭いを嗅いでれば嫌でも体が慣れ始める。もちろんまだ知らないことだらけだけど、おっかなビックリで生活するほどでは無くなった。

  丁度パチンコ店かなんかのギラギラした看板を通り過ぎたとき、こーすけが呟くように言った。

  「なんかこのまま帰りたくないな…………」

  「………………え?」

  「哲也とデートから帰ってる気分。学校に帰ったらうるさい寮生もいるし、その服も脱いじゃうでしょ?」

  「そりゃそうだろ。でも帰らないわけにもいかねぇだろ」

  「分かってるよ。せっかく哲也を独り占めできてるのに、帰るのが勿体なくなっちゃっただけ」

  外の景色から視線を移してこーすけを見つめると、どこか遠くに思いを馳せながら何とも言えない顔をしていた。ふかふかのシートに尻尾が擦れて鳴る音だけが、分かりやすくこーすけの心情を表している。

  「…………最近哲也は篠崎くんと久郷田先輩のことばっかだし」

  「………喧嘩してんだからしょうがねぇだろ」

  「篠崎くんとはキスしたくせに、俺とはしてくれないし」

  「あれは事故みたいなもんだ……する気があってしたわけじゃ」

  「秋沢くんとも仲良いし、藤原とも喋ったりするし」

  「それは同学年だし友達だから…………って何で俺弁明してんだ?」

  恋愛に疎い俺でも分かる、カップルのようなやり取りになったことを今更気がつく。明らかに友達同士ではない温度感に、再びこーすけの方を見ると、緩く微笑んでいた。

  「めんどくさい彼女ごっこ楽しいー。もっとやる?」

  「めんどくさいからいい…………でも所々本心だろ」

  こーすけは小さく笑い声をあげると、隣り合った足で俺の靴をキックしてきた。

  「全部本心。哲也が嫌がってるからセクハラの回数は減らしたけど、別に好きじゃなくなったわけじゃないから」

  「…………お前だいぶ嫉妬深いよな」

  「哲也のことになるとね。正直今までの人生でこんなに独り占めしたくなることなかったよ。でもビックリするくらい理想の人が現れて、一緒に過ごせて、二人で電車で帰ってる。そりゃ駆け落ちしたくもなるよ」

  仕方ないことのようにこーすけは言うけど、実際そうなんだろうか。俺は誰かを好きになったことがないから分からない。俺の運命の人はこの世界のどこかで暮らしていて、もし出会ったら離したくなくなるんだろうか。

  俺が考え事をしようとしたら、こーすけに頬を突つかれる。揺れる電車はゆっくりと減速していた。

  「哲也ってさ、愛情を拒絶しないよね」

  「………………どういうことだ?」

  少し考えても意味が分からなかったので、素直に聞く。哲学の話か? こーすけは笑みを消していた。

  「セクハラとか、性的な意味で近づくとはっきり拒絶するけど、単純に愛情をぶつけると絶対拒絶しない。応えられないとは言うけど、気持ち悪いとか嫌だとか、傷つけるようなことは言わない」

  「…………そういうもんだろ。自分を好きになってくれた人に、気持ち悪いなんて言えねぇだろ」

  「そうかな。哲也は一回俺のことをフッたけど、俺が諦めない理由は俺だけのせい?」

  「…………………………………………………………」

  難しい質問だ。今までずっとこーすけたちがしつこいせいだと思ってきた。俺はノンケで、雄は好きになれない。そう伝えても諦めずにアタックをかけてくるのは、本当にこーすけのせいか?俺にも何か問題があるんだろうか?

  答えを持ってるだろうこーすけは少し黙ってから、加速し始めた電車に合わせて口を開いた。

  「哲也の優しいとこ、道徳感がしっかりしてるとこ、俺は好きだよ。でも哲也が俺のことを嫌いって言わないから、気持ち悪いって言わないから、俺は諦めきれない。1%でも哲也が俺のことを好きになってくれるんじゃないかって、期待してる自分がいる」

  「………………………………………………」

  「こうやって卒業までアプローチし続けるのか、振り向いてくれるのか、哲也に嫌われるのか。どーなるんだろうね、俺たち」

  こーすけはまた微笑むと、視線を逸らして宙を見つめた。ガラス玉のような黒い目が、ブラブラと揺れるつり革を追っている。

  不意に答えの難しい問題を出された気分だ。曖昧とした、混沌とした心の一部を言語化しろと言われてるような。あるのかも分からない答案を、ぐるぐると考えてしまいそうになる。

  …………こーすけのことは好きだ。もちろん友達としてだけれど。恋愛感情が無いからって、嫌いだとか気持ち悪いだなんて言えるわけがない。でもそれがこーすけの足枷になっているなら、そう言うのも必要なんだろうか。

  篠崎にしたってそうだ。俺がもっと明確に拒絶しないから、アイツはずっと俺に着いてくる。挙げ句久郷田先輩と喧嘩だってしてる。

  この状況は、俺のせいなのか?

  「ね、また考え込んでるでしょ」

  今度はマズルをデコピンされた。こそばゆい感覚に目線を向けると、こーすけは上目遣いでこっちを見ていた。

  「答えなんて無くていいんだって。感情の赴くままに動いてもいいんだよ?哲也はたまに論理的すぎ」

  「…………お前が言ってきたんだろ」

  「そりゃ問題提起はしたけどさ。俺がしつこいのは明白だし、哲也はなんにも悪いことしてないじゃん?ていうか、嫌いなんて言われない方が俺としても嬉しいよ」

  「………………………………………………」

  「ただ多分、哲也はこれからも学園の人からたくさんモテて、告白もされるから。キッパリ断る練習?ってのもしていいかもね」

  なんだそれ。難しいこと考えさせて、結局お前は俺をどうしたかったんだよ。掴み所のない飄々とした性格は、たまに俺の予想外の角度からボールを投げてきて、受け取らずに帰っていく。俺に残るのはモヤモヤ感と、漠然とした疑問だ。こういう変わり者なところが、友達が少ない所以なんだろう。そして、俺が好きなところでもある。口が裂けても言わないけど。

  「俺がキッパリ断ったら、お前は諦めて友達として過ごしてくれるのか?」

  「ううん、やだ。だって好きなんだもん」

  そう言ってニッコリと微笑んだこーすけに、俺も思わず口の端が緩んだ。随分特殊な友達を持ったものだ。

  電車はまた、ゆっくりと減速して停止した。

  暗闇が包む屋上には、終春の夜風が強く吹いていた。梅雨が開けて間もないこの時期、ダイレクトに風を受けるこの場所は話すには少し寒かったかもしれない。とはいえ三人とも祖先は雪国出身だ。寒いのは問題ない。

  現に俺の足下で胡座をかいてふてぶてしく座る二人は半袖短パンで、やや猫背気味になりながら俺のことを見上げていた。屋上には明かりが無いから、ほとんど月明かりしか光源がない。そんな夜闇でも、やや不服そうな二人の顔はよく見える。久郷田先輩は頭の後ろをボリボリと掻いた。

  「…………何で呼ばれたか分かってるよな」

  二人を見下ろす姿勢を維持したまま、風の音に負けないように言う。仲良く耳をピクピク動かして、俯きながらもまずは篠崎が口を開く。

  「喧嘩したからっすよね………でも許してくれたって思ってたっす」

  「許す許さないじゃない。俺は二人に話がしたいんだ」

  「…………つってもどうせ説教だろ」

  小さくボヤいた久郷田先輩の膝を軽く蹴る。今は先輩とか後輩とか関係ない。ただの三角関係の犬科獣人だ。

  「説教は相田先輩にされたんだろ?俺は別に怒ってない。ただ今後二度と喧嘩を起こさないためには、話し合いが必要だ」

  「…………なんか学校の先生みたいっすね」

  「茶化すな。話し合いの前にまずは、仲直りしないといけない。二人ともお互いに謝れ」

  初めはヘラヘラしていた篠崎も、俺の本気度が伝わったらしい。尻尾を垂れながらモジモジと体を動かした。反対に久郷田先輩は腕を組みながらじっと俺のことを見つめている。何か言いたげという様子でもないが、言いなりになる気もなさそうだ。

  俺が考えた最善策は、話し合いだった。まるで小学生の学級会のようだけれど、一度距離を置いてしまった俺たちはまたしっかりと話し合う必要がある。なんでこんなことになったのか、本人たちに反省させるために厳格な態度が重要だ。上柴やこーすけの手伝いのもと、事前に話す内容はある程度決めてある。それでも失敗しないように、ここ数日シミュレーションしてきた内容を、抜かりなく発揮するつもりだ。

  まず動いたのは案の定篠崎だった。喧嘩をしたのは一週間も前だし、謝るのには抵抗がないだろう。

  「…………久郷田センパイ、あの時はカッとなっちゃってゴメンナサイ。もう気まずい関係は嫌っす」

  少し棒読みっぽかったが、ちゃんと頭を下げて謝った。こういうのは形からでも、言葉にすることが大切だ。我ながら先生になったような気持ちで、久郷田先輩の返事を待つ。

  若干の空白の後、

  「………………おう」

  「おう??」

  短い返事で済ませた久郷田先輩を冷めた目でじっと見つめる。咎めるような反復に先輩は小さくため息を吐くと、バツが悪そうな顔のまま篠崎に向き直った。

  「…………俺こそ悪かった。上級生として引くべきだった。すまん」

  いつも横暴な久郷田先輩が頭を下げて謝っているのはかなりレアシーンだ。今まではそのルックスと人たらしな性格で有耶無耶にしてきたが、今回に関しては弁明の余地がない。もともと不機嫌な久郷田先輩が、篠崎の挑発に乗ったのが原因だし。

  何はともあれ、二人ともちゃんと謝罪した。褒美をあげないと、ってことで、それぞれの頭をわしゃわしゃと撫でる。篠崎は気持ちよさそうだったが、久郷田先輩は口をへの字に曲げていた。

  まぁそんなことはどうでもいい。

  「よし、仲直りしたところで話し合いだ」

  「え、まだなんかあるんすか?」

  「当たり前だろ。二度と喧嘩をしないためにルールを決める必要がある」

  俺は二人の前にどかりと座り込んで、胡座をかいた。固いアスファルトはひんやりとしていて、地を這う尻尾には居心地がいい。島にいたころはよく防波堤の上に座ってたな、とどうでもいい記憶まで呼び起こしてしまった。

  「二人がなんで俺のことを取り合って喧嘩になるのか、理論的に考えてみた。なんでか分かるか?」

  「そりゃセンパイのことが好きだからっすよ!」

  「んなの当たり前だろ」

  「………………なんか態度でかくなったな」

  ぼやく久郷田先輩は置いといて、話を進める。

  「好きなのはまだしも、喧嘩に発展するのはなぜか?それは犬科由来の独占欲のせいだ」

  「………あーーまぁ…………たしかに」

  「犬科は他の種族に比べて、人や物への愛着が湧きやすく独占欲の強い種族だ。特に狼と犬は顕著だし、その中でもお前らは強い方だ」

  事実、今まで篠崎も久郷田先輩も俺と二人のときはボディタッチも多く、他の獣人の匂いがすることに嫉妬心を覚えたりしていた。俺のものだと主張したくなったり、誰にも触らせたくなかったりするのは犬科の特性でもあるが、二人の性格のせいでもあると思う。

  「だから、だ。俺と恋人になるまで自分のものにしようとするの禁止だ」

  「で、でも好きなんすもん………どうしたらいいんすか?」

  「それは自分で考えろ。一応参考までにだが、感情が昂ったとき心の中で10秒数えるといいらしい。子供じゃないんだから感情ぐらいコントロールしろ」

  「…………誰の入れ知恵だよ。利根川か?」

  「そこでルールを1つ作る!もし片方が喧嘩をふっかけた場合、そいつとは丸1日一切ボディタッチ禁止だ」

  「えぇえぇええ!!?」

  驚いた声をあげる篠崎と、それを冷めた目で見つめる久郷田先輩。とはいえ久郷田先輩も、喧嘩をする前は何かと毎日ボディタッチをしてきていた。一切触れないのはなかなかに嫌なはずだ。

  さらにちゃんとルールは作ってある。ズルをさせる気はない。

  「もし禁止を破ったらペナルティが増えていって、五日を越えた時点で俺は二度と喋らなくなる」

  「えぇえぇえええええええええ!!!??それは嫌っすーーー!!!!」

  「だったらちゃんとルールを守れよ。ただ一応ご褒美も用意してある」

  「えっ!?ご褒美っ!!??」

  一回一回篠崎が100点のリアクションをしてくれるので、こっちまで笑いそうになる。既に久郷田先輩は小さく吹き出していた。

  「喧嘩をふっかけた相手を宥めたり、大人の対応がちゃんとできたら、その日は一晩添い寝する権利が与えられる。なんなら俺から甘えちゃうこともあるかもな」

  「えっ!?えっ!?まじすか!!!えっ!!!?」

  「ッ…………うるせぇよ…………ッこれ以上笑わせんな」

  篠崎のバカさのおかげでピリピリしていた久郷田先輩の口角もだいぶ緩んでいた。こういうところが篠崎の可愛げがあって良いところだ。先輩もそれを思い出してきたらしい。

  しかし我ながら良くできたルールだと思う。感情を暴走させれば1日触れないどころか、最悪相手に添い寝されることになってしまう。独占欲の強い犬科には、これ以上嫌なことはないだろう。単純だからこそ効力の高い、俺のことが好きすぎる二人を逆手にとった抑止力作戦だ。

  「まぁだから、当然相手を挑発するようなこともするなよ」

  「あぁーーセンパイに甘えられたいっす……」

  「………甘えの範囲は、例えば手までとかあるのか?」

  「ご褒美ばっか貰おうとすんなよ…………」

  一通り言いたいことは言えたので、安心してやっと一息ついた。途中久郷田先輩とかが邪魔してくるかな、と想定していたが、思いの外かなり従順だった。やはり久郷田先輩も一週間以上俺と口も聞いていないのは堪えたんだろう。

  よし、と立ち上がって尻をパンパンと叩く。尻尾についた砂利をある程度払ってから、二人が立ち上がるのを待つ。

  「じゃあ最後に軽く遠吠えするか」

  「えっ!!!まじすか??」

  「……おい、近所迷惑にならねぇか?」

  「小さめなら大丈夫って相田先輩が言ってた。大型犬科の特権だろ?」

  実際遠吠えは狼に近い種族だけに残された形質で、都会じゃほとんど聞くことはないだろう。上を向いてマズルの先に抜けるような声の出し方は、していて気持ちがいいし人のを聞くとついしたくなる。田舎にいたころはやりたい放題だったから、山の頂上からや海に向かって遠吠えをしていた。俺は他の狼よりも、ちょっと高音が出るという自慢がある。

  「今日は月が綺麗だし丁度いいだろ。じゃあ篠崎から」

  「えっ、俺すか……?」

  「狼なんだから当たり前だろ。早くしろ」

  「えぇぇ…………まぁ、じゃあ、はい…………」

  その日は、珍しく都会の空に遠吠えが鳴り響いた。三人の若い男子高校生の遠吠えは、近隣の住民の窓をピリピリと震わせ、年寄りの眠りを妨げた。月まで届きそうなほど透き通った三重奏が、学園まで届くんじゃないかと思われたとき、唐突にピタリと音が止んだのは寮監のせいじゃないかと言われていた。

  そして翌日しっかりと近隣住民の苦情を受け、三人の学生はこっぴどく怒られた。