第七章 魔森の賢者 ―混じり合う多色の紋章― 3

  二日後、カイルとリンドは再び『不帰の森』の入り口に立っていた。

  森には相変わらず霧が立ち込めており、エルフ族以外の侵入を拒んでいる。

  二度と来るなと警告したはずの二人の、再びの侵入をエレンは静かにだが峻烈な眼差しで射抜いていた。

  「……この前の警告をお忘れのようですわね。穢れた人族」

  森の奥から二人に向かってエレンが静かに言葉をかける。

  「おいおい、そんなに邪険にしないでくれよ。別にこの森を焼き払おうってわけじゃないんだ。ちょっとだけこの森に用があるだけなんだぜ。頼むから少しだけ入れてくれないか? 用が済んだらすぐに帰るからさ」

  エレンの警告に対し、カイルは飄々とした様子で答える。

  「ありえませんわ。この森はあなたのような穢れた者を絶対に受け入れませんの」

  「ははっ、そうかい……なら仕方ないっ!」

  言い終えるや否や、カイルの右目が黒紫色の明滅を開始する。

  カイルの身体から放たれる禍々しい魔力が、その足元に咲く美しい草花を黒く萎えさせていく。

  その様子を見たエレンは手にした弦をきりきりと強く引き絞った。

  「森の秩序を乱す者に正義の矢を。それが私たち、森の賢者であり森の守護者たるエルフの務めですの。世の平和のために、ここで死になさいな! 邪悪なる者よ」

  「ふんっ……お前たちエルフが言う秩序や正義、平和とやらは、お前たちが都合のいいようにフィルタリングしただけの幻想に過ぎないと思ったことはないのか?」

  「……何ですって?」

  「お前たちエルフがこの数百年、正義や秩序のために何をしてきた? それで世界は本当に平和になったのか? お前たちの行動に間違いはなかったのか?」

  カイルのその問いにエレンの眉が僅かに動く。一瞬ではあるが、弦を引くエレンの手から力が抜ける。

  「……私たちは飢饉に苦しむ人々を救い、戦争孤児たちをこの森で立派に育て、人間界に送り出しましたわ。善行により世界を正そうと努力をしてきましたの。その行動に間違いなどあるわけ」

  「はんっ! 自分たちこそ正しいと信じ切っていると言わけだな。いいだろう、この森という『温室』に引きこもり、外界の真実から目を背けてきたお前に見せてやる。お前たちの行ってきたその『善行』とやらがもたらした、現実世界の地獄を」

  弦を引く力をエレンが抜いたその一瞬の隙をつき、カイルはエレンめがけ魔術を発動させた。

  攻撃が来るとエレンは思わず身構えたが、

  「……なんですの? これは」

  カイルが発動したのは攻撃系の魔術ではなかった。

  「……投影魔術?」

  「あぁ、そうだ。俺の見た情報、知った情報をお前の脳内に投影するだけの簡単な魔術。農村の幼子でも使えるほど平易な魔術だ」

  「……こんな子供だましの魔術で、まさか私を倒す気ですの?」

  「いいや、倒そうなんて思ってないさ。だが予言してやる。この魔術により、お前は自らその弓矢を降ろす。そしてはいつくばって俺に『どうか助けてくれ』と懇願することになる、ってな」

  カイルの言葉を聞いたエレンは

  「はっ! 何を馬鹿なことを」

  鼻で笑いながら、再び弦を引く手に力を籠める。だが、

  「覚えているか? 二百年前、お前は国境近くにある『ハルン村』の飢饉を救ったよな」

  「……なぜそのことを」

  カイルの言葉に、エレンは再び弦を引く力を弱めた。

  「調べさせてもらったぞ。二百年前、お前はこの森の木々から採取した樹液をハルン村の井戸に注ぎ、死にゆく村人たちに、病にも老化にも負けない驚異的な生命力を与えた……お前はそれで彼らを救ったと今でも信じているか?」

  カイルから投影された情報が、エレンの脳内で映像として映し出される。

  二百年前、今とほとんど変わらぬ姿のエレンが、微笑みながら樹液を村人たちに分け与えている様子がエレンの視界に映る。

  そこに映る村人たちはみな感謝を述べ、幸せそうな笑みを浮かべていた。

  「えぇ、覚えていますわ。あの井戸の力で、村人たちは飢えも病も克服し幸せになりましたわ。今も幸福に暮らしているはずですわよ」

  エレンのその答えに、カイルはふふっと不敵な笑みを浮かべ、

  「どうかな? これを見てみろ」

  新たな情報をエレンに流し込む。

  エレンの視界に映し出されていた光景は、先ほどの幸せそうな村人たちの様子でなかった。

  「な……っ! なんですの、これ……」

  その地獄のような光景にエレンの瞳が大きく見開かれる。

  「見ろ! これがお前の言う『善行』とやらの結果だ」

  [newpage]

  エレンの視界に映る村人たちは、干らびたミイラのような姿になりながらも決して死ぬことができずにのたうち回っていた。

  「こんな、こんなこと……っ」

  「エルフの森の樹液の力は、村人たちの肉体を不朽のものにした。しかし彼らの「空腹」という生理的欲求までは消さなかったのだ。エルフたちはこの森で絶えることなく実り続ける果実や野菜を食しているから、知らなかったんだろうな。人間世界の飢餓の苦しみというものを」

  エレンの視界の映像が切り替わる。

  その様子はまさに地獄絵図だった。

  「度重なる戦争や天災により、食料が尽き不毛の地となったハルンの村で、死という唯一の救済を奪われた彼はどうなったか……エレン、見てみるがいい。正気を失った村人たちが、空腹を満たすために何を口にしたか、しっかりその眼で見ろ」

  「あぁ……そんな、そんなことっ!」

  エレンは思わず目を覆ったが、直接脳内に投影される光景を消すことはできない。

  目の前に広がる、真っ赤な光景。

  ミイラのようにうなる村人たちが、子供たちを切り刻み、喰う光景がエレンの目の前に広がる。

  「見ろ! 彼らは、空腹から逃れるため、自分たちの子供を生きたまま解体して喰らったんだ! ……死ねない肉体ゆえの、永遠に続く飢えに苛まれながら、血族の肉を貪る獣と化したのだ……お前たちが彼らに『永遠』を与えたためにだ」

  「う、嘘、嘘ですわ……嘘、嘘! 私は……私は、ただ、彼らが苦しんでいる姿を見るのが、ただ悲しくて……っ! 救いたかっただけですのよ……っ!」

  「その結果はどうだ? ハルンの村は屍人(グール)の巣窟として、当時の王立騎士団により壊滅させられたんだぞ。人として死ねず、魔物のとして首を刎ねられ、心臓をえぐられ、尊厳を踏みにじられて死んだんだ!」

  「あ……あぁぁぁ、あぁぁぁぁ……」

  手にした弓矢を取りこぼし、その場にうずくまるエレンから、カイルの右目に様々な情報が流れ込んできた。

  [i:【対象:エレン・シルヴァリオ】

  【紋章:三重螺旋の聖紋(トリプル・グリフ)/色彩 深緑、群青、濃紫】

  【深層心理詳細:対象の持つ、信念を司る深緑、正義を司る群青、知恵を司る濃紫、それぞれの汚染を確認。信じてきた思考、正義だと思って行ってきた行動、その裏付けとなる知識。全てが間違っていたという疑念が発生している。対象の深層心理、崩壊間近】]

  (ふふ、いいぞ。思った通りだ)

  カイルは笑みを噛み殺しながら、エレンに向かって言葉を続けた。

  「お前のその身勝手な慈悲がどれほど残酷なエゴであるか、さらに教えてやるよ……百年前、お前が戦火の中から救い出した三十人の孤児たちはどうだ?」

  カイルの右目が焦点を絞ると、今度はエレンが森の中で子供たちを慈しみ、育てている光景が流れた。

  彼女は彼らを「森の子」と呼び、読み書きを教え、愛を説いた。そして彼らが成人すると、祝福と共に人間の街へと送り出した。

  「あぁ、森の子どもたち……私の愛する子供たちですわ」

  「彼らは森を出た後、お前の教えた『無垢な善意』という名の脆弱さのせいで、外の世界の悪意に一瞬で飲み込まれたんだ……人間界にあった『エルフを聖なる存在として崇める新興宗教』の指導者に利用され、『エルフの肝を食べればエルフのように不老不死になれる』という甘い囁きを信じ込まされた」

  カイルの言葉が終わるや否や、エレンの視界の映像が切り替わる。

  そこには、エレンが送り出したはずの「子どもたち」たちが、夜闇に紛れてエルフの集落を襲う姿があった。かつて自分たちを慈しんだエルフ族の喉を、彼らが無感情に事務的に掻き切っていくその姿に、

  「あぁぁ、なんてことですのっ!」

  エレンは悲痛な声を上げた。

  「見るがいい。お前が愛した森の子たちが、お前が愛を教えた森の子たちが、お前の同胞の肉を削ぎ、煮炊きし、そして食している姿を……お前が彼らを外界から隔離して育てたせいで、彼らは『悪意への免疫』を一切持たずに育ってしまった……お前が彼らを甘やかしたから、彼らには自分の欲望を抑える理性が育たなかった。他者を疑うという知識を知りえなかった……エレン、お前の同胞を殺したのは、他ならぬ、無知なお前自身なんだ」

  「あ……ああ、あぁああ……ッ!!」

  エレンは自ら自分の耳を塞ぎ、その場にうずくまると、激しく地面に額を擦り付け始めた。

  「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい! 私は……私はただ彼らに幸せになって欲しかっただけですわ。それなのに、こんなことになるなんて!」

  カイルが送り込んだ映像は、エレンが数百年にわたって積み上げてきた「自分は正しいことをしているんだ」という確信を、その根底から腐らせ崩壊させていったのだった。