【第十二話:鬼灯の揺り籠 後編】(銀郎×夕陽?)※R描写あり

  [uploadedimage:21007891]

  (※性的描写あり)

  湯気の立ちのぼる味噌椀の中で、まだ少しだけ、根菜が揺れている。

  「……ご馳走様でした」

  ぽつりと銀郎が呟き、器を流し台に置いた。箸を揃える音すらも、やけに静かに響く。

  そしてそれきり、何も言わず、背を向けて自室へと戻っていった。

  その様子を、対面から朱雀がじっと見ていた。

  「……なーんか、あいつ最近元気ないよなぁ」

  食後の茶を口にしながら、肩越しに朱雀は夕陽へと話しかけた。

  夕陽は、手元の湯飲みに視線を落としたまま、ほんの少し間を置いて応じる。

  「……そう、だね」

  「夕陽様もさ、ちょっと元気ない気がする。なんか……目が、疲れてる」

  「……そうかもしれない。八咫の一件で、だいぶ仕事が溜まってたからな」

  淡々とした口調だったが、その声には、微かな疲労と、張り詰めた何かが滲んでいた。

  朱雀は椅子から立ち上がり、笑って言う。

  「じゃあ俺、ここ片付けておくから、夕陽様はゆっくり休んでよ」

  「……ありがとう」

  穏やかに返した夕陽は、ほんのわずかに微笑んだようだった。だがその背は、立ち上がってもなお、どこか頼りなく見えた。

  夜はすっかり更けていた。

  朱雀の静かな寝息を背に、銀郎はそっと部屋を抜け出す。月明かりに照らされた中庭には、かすかな風が吹いていた。冷たくも心地よい風に髪をなびかせながら、銀郎はぽつりと腰を下ろす。

  眠れない。

  けれど、それは身体のせいではなかった。

  心の底に巣くう悩みと、揺れ動く思い。それが、瞼を閉じさせてくれなかった。

  ――そのとき、ふと背後から気配がした。

  振り返ると、そこには夕陽がいた。

  ……否、“夕陽の姿をした、鬼灯”だった。

  「……まだ、決められないのかい。優しいねぇ、ほんと」

  くつくつと喉を鳴らすような笑いとともに、鬼灯が銀郎の隣に腰を下ろす。

  銀郎は、睨みつけるように視線を向けながらも、立ち上がることはしなかった。

  「……私は……夕陽様の意志を無視するような真似は、できない」

  銀郎は伏し目がちに答える。手のひらは膝の上で強く握られていた。

  「そっか。じゃあ――仕方ないなあ」

  鬼灯は楽しげに微笑みながら、身を乗り出した。

  「……あの朱雀って子、案外お人好しだし、可愛い顔してるし? 喜んで魂くれるんじゃないかね。あんたと違って、頭で考えるより、感情で動く質みたいだし?」

  銀郎はぎょっとして顔を上げた。その瞳に、怒りと焦燥が交錯する。

  「……朱雀に手を出すつもりか」

  「もちろん。ただ――朱雀は、まだ“欲しがってる”側だからね。渇いた魂は美味しいけど、ヌシ様を満たせるのは、“与える覚悟”を持った奴だけだよ」

  にこり、と笑んだ鬼灯の顔は、まぎれもなく夕陽のものだった。

  けれどその目だけが異質で、深い井戸の底を覗くように冷たく、淀んでいた。

  「……でも、別に朱雀じゃなくてもいいんだよ? “この器”を使えば、誰でも――男でも女でも、人でも妖でも。誘えば皆、喜んで身も心も預けてくれる」

  「……!」

  銀郎の口元がわずかに引き攣った。こみ上げる怒りを、どうにか飲み込む。

  鬼灯は、そんな銀郎の様子を愉快そうに眺めながら、低く囁く。

  「さあ、どうする? “お前だけの夕陽様”が、他の誰かに汚されてもいいのか?」

  風が吹いた。  庭の木々がざわめく。

  その音の中に、銀郎の怒りと苦悩が静かに混ざっていた。

  銀郎は苦しげに目を細めながら、唇を震わせる。

  「……他の者には手を出さないと、約束しろ」

  鬼灯はにんまりと微笑み、まるで子どもをなだめるように頷いた。

  「もちろん。俺はね――器が満たされれば、それでいい」

  その言葉を最後に、鬼灯は銀郎の手を軽く取った。拒む隙などない、自然な導きだった。

  「こっち。きて」

  連れていかれたのは、屋敷の端にある、かつての物置を改装した離れだった。滅多に人が寄りつかない場所。床には簡素な敷物が敷かれ、ほんのりと香が焚かれていた。

  この香りは――

  (……夕陽様が、好きで、よく焚いてた……)

  「……用意周到だな」

  「邪魔されたくないからね……。最初から素直に従ってれば良かったのに」

  部屋の奥、灯りの届かない影の中で、夕陽の顔をした鬼灯がゆっくりと近づいてくる。

  銀郎は、一歩も動けなかった。

  「……大丈夫、心の底じゃ、ヌシ様もお前を欲しがってる」

  耳元に注がれたその囁きは、吐息と共に熱を持って銀郎の奥底に届いた。凍ったはずの理性の表面が、じわりと溶かされていく。

  「……っ」

  「ほら、夕陽様の“フリ”、しててあげるからさ」

  鬼灯は銀郎の耳――ふわふわの銀の毛並みに覆われたそれを口に含み、ぬるく湿った舌で、執拗に甘噛みした。

  「……っ……あ」

  震える声が洩れた。

  逃げられないと知っていながら、逃げることすらしなかった。

  「我慢しちゃって、可愛いね。どうされるのが好き……?」

  指先が銀郎の喉元に触れ、そこから鎖骨、胸元へとゆっくりなぞる。その仕草はなまめかしくも、いやらしさより先に“弄ぶ”意志が滲んでいた。

  まるで、心の奥のもっと奥――触れてはいけない場所を、暴こうとしているかのように。

  銀郎の呼吸が次第に浅く、熱を帯びていく。

  鬼灯はそれを愉しげに眺めながら、ひとつ、耳元で囁いた。

  「……ねえ、“ヌシ様”になら、されたいんでしょ」

  その声音は、夕陽によく似ていた――けれど決定的に違う、毒のような甘さを孕んでいた。

  銀郎の喉が、かすかに震える。

  指先は襟元にかかり、繊細な布地を滑らせながら、ゆっくりと肌を露わにしていく。

  滑らかな肌の下、引き締まった胸元に湿った吐息がかかるたび、微かな震えが走った。

  「ん……っ、……やめ――」

  言葉にならない抗いを、鬼灯は指で唇ごと封じた。

  「だめ。もう始めたんだから、最後まで付き合ってよ」

  そのまま、唇が頬に、顎に、首筋へと降りていく。

  形だけで言えば愛撫に似た行為――だが、そこには支配と遊戯の意図があり、銀郎の中に巣食う罪悪と欲望を、巧みに掬い上げていく。

  「……ほら、ここが……もう、言うこと聞かなくなってるよ?」

  鬼灯の手が、衣の奥深くへと忍び込む。

  触れられた場所から、疼くような熱がひたひたと這い上がり、銀郎の背筋を緩く反らせた。

  「夕陽様のフリ……してあげる。ずっとね。……お前だけに、するから」

  その低い声は、まるで呪いのように銀郎の胸奥に絡みついた。

  ――本物の“夕陽様”が、こんな風に触れてくれる日なんて来ない。

  だからせめて、この幻に身を委ねてしまえば、ほんの少しだけ救われる気がした。

  だめだと思う心と、ほどけていく感覚がせめぎあいながら、銀郎は瞼を伏せて、静かにすべてを受け入れた。

  鬼灯の声音は甘く溶けて、耳の奥に絡みついた。

  まるで、真夏に咲いた毒花が夜露を舐めるように――

  それは静かで、ねっとりと、銀郎の輪郭を侵していく。

  「……力、抜いて」

  触れる指先は、かつて慕い焦がれた主のものとそっくりで。

  けれどその温もりの奥に、明確な“異物”の気配がある。

  肌が、火照ってゆく。

  まるで鬼灯という名の灯が、銀郎の中に火種を落としたようだった。

  「……っ……んっ……ぁ」

  「可愛い声、我慢しなくていいよ……ねえ、銀郎」

  その言葉はどこか、嘲るようでいて、どこまでも甘かった。

  偽りの慈しみに塗れた手が、心の奥へと入り込んでくる。

  嘘と知っていながら、銀郎の鼓動は否応なく跳ねた。

  (違う……これは、夕陽様じゃない……)

  そう何度、喉奥で呟こうとしても――

  “その声”が呼びかけてくるたび、銀郎の意思は絡め取られてゆく。

  重なる影。

  触れられた箇所から、冷たい蜜のような違和がじわじわと染み渡る。

  抗えば抗うほど、引きずり込まれる感覚。

  それは、快楽という名を借りた、静かな侵食だった。

  「……んっ、あ……夕陽様……っ」

  漏れた声は、懺悔か、それとも祈りか。

  与えられる熱に抗う術もなく、銀郎は小さく震え、その身を預けるように、静かに終わりへと落ちていった。

  その瞬間を見届けながら、鬼灯はくつりと喉を鳴らす。

  「好きだよ銀郎。……大好き」

  それは、銀郎がなによりも欲しかった言葉だった。

  小さな棘のように刺さったその言葉は、甘やかで、どこまでも欺瞞に満ちていた。

  けれど、耳に届いたそれを、銀郎は否定することができなかった。

  息を整える間もなく、唇が首筋に触れ、まるで夢の続きをなぞるように、名残惜しげに肌を辿る。

  鬼灯が夕陽の顔で微笑む。

  夕陽の声で囁き、夕陽の香を纏って、まるで誘うように手を差し伸べる。

  「……おいで」

  それは罪だとわかっていた。けれど、銀郎はもう抗えなかった。

  欲しくてたまらない。あの温もりが――声が、肌が、呼吸が。

  銀郎は、夕陽の身体に抱き縋るようにして、深く口づけを交わした。

  その唇は柔らかく、舌は絡まり、夕陽の瞳には微かな潤みさえ宿っている。

  深く、何もかも奪うような熱に満ちた口づけ――触れる肌、重なる吐息。

  すべてが“夕陽”のはずなのに、どこかが少しだけ、違う気がした。

  銀郎は迷いなく、夕陽の着物の襟元をゆっくりと剥ぎ取った。

  晒された肩へ唇を落とし、なぞるように、刻むように愛撫する。

  「……夕陽様……」

  その名を呟くたび、胸がきしんだ。

  けれど、返される吐息は、確かに熱を帯びている。

  夕陽の柔らかな肌に手を這わせながら、銀郎の指先は徐々に下へと滑り――

  「ん……っ…」

  微かに漏れる声に、銀郎の背中をそっと撫でる手が添えられる。

  夕陽の体温を感じながら、銀郎はそっとその身体を押し倒した。

  帯を解き、着物の下に隠された白い肌を露わにする。

  ――それでも。どこかで、心の奥底が警鐘を鳴らしていた。

  熱い吐息と共に、銀郎の指が、さらに深く――

  身体の奥へと踏み込んでいく。

  「んっ……んんっ……」

  夕陽の吐息が、堪えるように、漏れ始めた。

  銀郎はその反応を確かめるように、舌先を這わせ、柔らかな肌をなぞっていく。

  夕陽の身体が、小刻みに震えながらも、応じるように身を捩らせた。

  「夕陽様……」

  呼んだ名は確かに彼のもの。

  けれど、その瞳に浮かぶ情欲の色が、ほんのわずかに“何か”を食んでいるように見えたのは――気のせいだろうか。

  銀郎は、その問いを振り払うように、夕陽の両足を持ち上げ、自身をあてがう。

  そしてゆっくりと腰を進めると、夕陽の口から、痛みとも快楽とも取れない声が漏れた。

  「あぁ……っ!」

  中は、熱くて、狭くて。

  銀郎の理性は、熱に浮かされるように溶けていく。

  ゆっくりと、深く動き始める。

  そのたびに、夕陽は声を上げ、背を反らす。汗ばんだ肌が艶を帯び、滴が鎖骨をつたう。

  神々しいほどに、美しい。

  けれど――その美しさは、どこか「作られたもの」にも見えた。

  それでも銀郎は、ただ欲望のままにその身体を求めた。

  求めずにはいられなかった。

  「……っ、夕陽様っ……夕陽、様……」

  やがて、銀郎にも限界が近づいてくるのを感じた。

  その熱を堪えきれず、ふたたび深く口づけを交わし、ぎゅっと抱きしめる。

  夕陽は、銀郎の首に腕を回してしがみついた。

  その動きに合わせるように、大きく身体を揺らす。絡み合う熱、ぶつかる鼓動、滲む吐息――。

  銀郎は、幾度も夕陽の奥へと激しく突き上げながら、重ねるように唇を吸った。

  ふたりが深く重なり、体温も鼓動も混じり合うその瞬間。

  銀郎の奥底から、ふわりと立ちのぼる“光”があった。

  それは魂の揺らぎ。

  恋慕と欲望がないまぜになった、脆くて甘い“命の核”。

  ──いただくよ。

  夕陽の身体の内で、鬼灯がそっと囁いた。

  銀郎の首筋に舌を這わせながら、その奥深くへと意識を潜り込ませる。

  鬼灯は“夕陽”の香りを纏ったまま、銀郎にすべてを許すように抱かれながら、その魂にやさしく牙を立てた。

  (……ヌシ様のため。あいつの熱を、芯まで齧って、還してやる)

  ちゅう、と音もなく、銀郎の魂の一片を嚙み千切る。

  だがそれは痛みではなかった。

  愛に溺れる銀郎にとっては、ただ快楽の余韻としか感じられない。

  微かな痺れのような、心の奥を甘く焼くような“喪失”が、彼の中に残された。

  鬼灯はその欠片を、喉の奥に流し込む。

  そして主──摩耗し、ひび割れた夕陽の魂へと、そっと接吻するように“それ”を捧げた。

  (ねえ、ヌシ様。ちゃんと届いた?)

  銀郎が「夕陽様」と熱に震えながら呼ぶたびに、魂の光が溶けてゆく。

  そうやって鬼灯は、夕陽のために、愛する者の“命”を喰らい続ける。

  「夕陽様っ……愛していますっ……!」

  懇願にも似た声。

  その言葉に、夕陽は強く抱き締め返した――まるで、本当にそう言ってほしかったかのように。

  何度も、何度も。

  ふたりは互いの体温を貪るように、熱く、激しく、絡み合い続けた。

  「あ……っ、も、銀郎……だめ……かも」

  「……っ、夕陽様、もっと、私の名を、呼んでください……」

  「ぎん、ろ……あっ、……銀、郎……」

  「……夕陽様……っ!」

  やがて、夕陽は大きく身体を仰け反らせ、甘い吐息を最後にそのまま果てた。

  その熱の余韻に誘われるように、銀郎もまた、彼の奥で静かに果てる。

  ――しばし、沈黙。

  離れの空間には、交わりの名残を映す乱れた吐息だけが微かに揺れていた。

  しっとりと汗ばむ肌越しに感じるぬくもり。

  まだ名残惜しげに繋がったままの夕陽の身体を、銀郎はふと見下ろす。

  そのときだった――

  目が合ったはずのその顔に、見慣れた穏やかな微笑はもうなかった。

  代わりに浮かんでいたのは、ぞっとするほど無邪気な“あの”笑み――鬼灯の、あの歪んだ嗜虐の笑み。

  「……どう? 夕陽様の“フリ”、上手かったでしょ?」

  胸の奥に、氷の針を落とされたような感覚。

  銀郎は息を詰め、硬直する。

  鬼灯は耳元へと口を寄せ、囁くように言った。

  「俺も……“美味かった”よ。あんたの魂。ヌシ様の器を満たしてくれたお礼に――最後のご褒美をやるよ」

  その瞬間、夕陽の身体から、ふっと力が抜けた。

  「……ん……」

  銀郎は固まったまま、動けなかった。

  夕陽は瞼を震わせ、瞬きを繰り返しながら目を開ける。

  視界に映るのは、銀郎――乱れた髪、色を帯びた肌、うっすらと潤んだ目。

  (……ここは……?)

  夕陽はぼんやりと息を呑んだ。頭の中に霞がかかっている。

  身体の奥に残る熱、痺れのような余韻。なぜ、こんなにも切なくて、疼くように痛むのか。

  銀郎と目が合う。怯えるように、どこか罪悪感を滲ませたその瞳。

  (……まさか……)

  胸が痛んだ。残る肌の感触、銀郎の体温。

  断片的に思い出す、鬼灯の声。

  確信ではない。だが、自分の中にあった「渇き」が少しだけ癒えているのを、夕陽ははっきりと感じた。

  (……私が、望んでしまったのか……?)

  (触れたいと、願っていた――あの子を、抱きたいと……)

  怖れていた。

  願ってしまう自分を、そして、それを叶えてしまったこの身体を。

  だが、すべて終わった今、銀郎が怯えて目をそらすその姿が、ひどく胸を締めつけた。

  震える肩が逃げようとする。

  だが、もう二度と――この腕から離したくはなかった。

  夕陽はその首を掴み、引き寄せた。

  震える唇を、そっと重ねる。

  深くはない。ただ、触れるだけの口づけ。けれど、そこに込めた想いは、きっと……伝わると信じた。

  銀郎の瞳が見開かれる。その奥にあるもの――怯え、疑念、迷い、そして……一瞬だけ灯った、安堵。

  「……やっと、お前に触れられた……」

  それは、自分自身すら呪ってきた男の、長すぎた渇望の果ての言葉。

  心のどこかでは、ずっと望んでいたのだ。この手で、あの白銀を抱きしめることを。

  鬼灯の術の痕跡がまだ肌に残る気がする。そのことすら、今はどうでもよかった。

  夕陽は、全てを赦すように、銀郎を強く抱きしめた。

  大きな体が小さく震える。

  嗚咽が漏れ、頬に熱いものが落ちる。

  ああ――泣いている。

  「夕陽……様……っ」

  あまりにも切ない呼び声に、胸が締めつけられる。

  愛しくて、憎らしくて、嬉しくて、苦しくて――銀郎のすべてが、その涙に溶けていた。

  夕陽はただ、黙って抱きしめ続けた。

  己の中に残る余熱に、銀郎の存在を感じながら、夕陽はただ静かに、その震えを抱きしめていた。

  ぴくりと揺れる肩。流れる涙。押し殺すような吐息。

  そのすべてが、夕陽の胸の奥を灼くように熱かった。

  「……苦しかったな」

  低く掠れた声が、髪に落ちる。

  まるで自分自身に言い聞かせるような、かすかな呟き。

  繋がったまま、呼吸を重ねながら、

  ただ寄り添うことしかできなかった。

  ――奪われたのだ。心も、身体も。銀郎も、自分自身も。

  だが、たとえそのすべてが欺かれていたとしても、いま、こうして腕の中で泣くこの存在だけは――

  何よりも、誰よりも、愛おしかった。

  罪を犯したのは自分かもしれない。

  けれど、抱きしめずにはいられなかった。

  銀郎の中にまだ残る、自分ではない痕跡。

  それすらも、抱きしめて、赦して、すべてを受け止めたいと思ってしまった。

  「……もう、大丈夫だ。私がいる」

  そう囁いた唇が、銀郎の涙をそっと舐め取る。

  熱の残る体が、ようやく安らぎへと還っていくその中で――

  ただ一つ、確かなものがあった。

  ――ああ、触れたかった。

  こんなにも、こんなにも、お前に。

  二人は、重ねた熱と想いで、過去の痛みも偽りも、そっと塗り替えていくように――再び深く、深く結ばれた。

  肌のぬくもりも、震える息遣いも、もうひとつの心臓のように響き合っている。

  そして今なら、ようやく言える。

  何度も喉まで出かかったのに、怖くて言えなかった、あの言葉を。

  「……銀郎……愛してる……」

  呼吸を呑むように、銀郎の瞳が大きく揺れる。

  それでもしっかりと見つめ返し、頬を染めながら、けれど真っ直ぐに応えた。

  「……っ……はい……。私も……ずっと……誰よりも、あなたをお慕いしております……」

  熱に濡れた声が、夜の静寂に溶けていく。

  ふたりだけの誓いが、肌の奥に、魂に、深く刻まれていく――。

  

  ふたりが重ねた熱と、甘く滲んだ涙の味。

  それが、夕陽の魂をたしかに潤していた。

  (……まったくヌシ様は、世話が焼ける)

  銀郎の愛も、執着も、すべて嚙み砕いて、ヌシ様の器へ注ぎ込む。

  満ち足りた心地よさに包まれながら、鬼灯は影の深奥へと沈んでいく。

  (あんたが壊れそうな時だけ、目を覚ます――)

  (それが、“約束”だったろ、ヌシ様)

  またいつか、と願うように。

  けれど、できることならもう、このままずっと。

  満たされた影は、静かに、静かに、闇へと還っていった。

  第十二話:鬼灯の揺り籠 完