【第十二話:鬼灯の揺り籠 前編】

  [uploadedimage:20995016]

  世を呪い、人を呪い、鬼となってなお、

  その瞳は、誰かのために涙を流していた。

  そんな人の子を、私は――どうしても、祓うことができなかった。

  あのとき、漆黒の目が真っ直ぐに私を見上げて、囁いた言葉。

  「……お前の式神になれば……ずっと、そばにいられるか?」

  その声には、痛みと願いと、ささやかな希望が滲んでいた。

  たとえそれが悔いを抱えたままの生でも――

  この子は、誰かを守りたかったのだ。

  「[[rb:鬼灯 > ほおずき]]……」

  夕陽は静かに立ち尽くしていた。

  何が正しいのか、自分に何ができるのか――それはまだ、霧の中にある。

  けれど、たったひとつだけ、胸に灯る想いがあった。

  「……もし、また私が壊れそうになったら……そのときは、助けてくれるか?」

  それは祈りにも似た、かすかな問い。

  鬼灯は目を細め、ゆっくりと頷く。

  「――ああ。それまで俺は、お前の影になる」

  それきり、二人は言葉を交わさなかった。

  けれど沈黙の中に、確かな誓いがあった。

  それは、声にならぬまま――深く、静かに、胸に刻まれる。

  (お前が闇に堕ちぬように。俺が、そこに立つ)

  ***

  秋の風が、やわらかに庭先を撫でていた。

  遠くで虫の声がかすかに響き、縁側には夕映えの光が差し込む。

  朱雀が尻尾を揺らしながら、夕陽の膝に頭を預けている。

  その顔は心底幸せそうで、まるで幼い子が親に甘えているようだった。

  「なあ夕陽様、今日はもう休みにしようぜ。昼寝しよう?」

  「私まで寝てしまっては、誰が帳簿をつけるんだ?」

  「じゃあ隣で寝てる俺を眺めててよ。それなら許す」

  ふざけた口調に、夕陽が小さく笑う。

  その声音はいつも通り穏やかで、慈しみに満ちていた。

  だが、銀郎の心には小さな違和感が残った。

  夕陽は、笑っている。

  声も、眼差しも、仕草も――確かに、いつもの夕陽のはずだった。

  それでも、どこかが、決定的におかしい。

  目に見えない薄い霧のようなものが、胸の奥にまとわりついて離れない。

  (……なにかが、違う)

  思考を振り払おうとした時、不意に裏手の方から気配がした。

  「おーい、いるかー? 風呂、勝手に借りるぞー」

  気だるげな声とともに現れたのは、煙草の匂いをまとった長身の男。

  ゆるく束ねた黒髪に無精髭、左目にかけた眼帯――夕陽の兄、朝影だった。

  「兄上……」

  「よっ、ポチ公。今日も元気そうだな」

  軽口を叩く朝影に、銀郎は一瞬迷いながらも声をかけた。

  「兄上、夕陽様のことで……少し、お話を……」

  だがその時、夕陽がふとこちらを振り返った。

  朱雀の頭を撫でながら、変わらぬ微笑を浮かべている。

  ただ、その目だけが、静かに語りかけてきた。

  ――今は、まだ話すな。

  銀郎は言葉を呑み、唇を噛んだ。

  朝影はその様子を見て、ふっと目を細めると、何も言わずに軽く頷いた。

  その夜。

  朱雀が寝息を立て始めたのを確認した銀郎は、静かに襖を開けた。

  月明かりの差し込む客間。

  中では朝影が煙管をくゆらせていた。

  「いよう。……待ってたぜ」

  火皿を灰落としに叩きながら、気だるげに言う。

  銀郎は正座して頭を下げた。

  「――兄上。夕陽様のことで……お話を聞かせてください」

  いつもより低い声。震える唇。

  その姿に、朝影の表情が少しだけ引き締まった。

  銀郎は先日の八咫の里で起きた出来事や、今の夕陽の姿に感じる、胸の内に積もっていく不安と恐れを言葉にしていった。

  朝影は黙って話を聞いていた。

  やがて、煙管を手にしながら、ゆっくりと口を開く。

  「そうか……式神を使っちまったか……」

  低く唸るような声だった。

  「……式神ってのはな、そう易々と使うもんじゃねぇ。代償がデカすぎる。それこそ命を削らにゃ具現化できない代物なんだよ」

  銀郎の眉が、わずかに揺れる。

  「命を……削る……」

  「ああ。使うたび、魂が摩耗する。自分じゃ気づかねえうちに、身体も心もどんどん擦り切れていく」

  朝影は、煙管の火皿に目を落とした。

  「前にも言ったかも知れねぇが……あいつの、悪い癖だ。なんでもかんでも、一人で全部抱えて、壊れるまで気づかねえ」

  銀郎は視線を落としたまま、強く拳を握りしめた。

  その表情には、哀しみと怒りが混ざっている。

  夕陽が、どれほどの代償を払っていたのか。

  なぜ、何も言わなかったのか。

  なぜ――気づけなかったのか……。

  「兄上……、自分たちに、なにかできることはないんでしょうか……? 夕陽様のために……っ」

  朝影はしばらく沈黙したまま、月を見上げた。

  そして、静かに言う。

  「――無い」

  朝影は、縋るような銀郎の視線を真っ直ぐに受け止める。

  けれど、静かに、拒絶するように首を横に振った。

  「……無ぇんだよ。魂を削るなんて、命を引き換えにする術に、都合のいい抜け道なんかあるわけねえ」

  銀郎の肩が震えた。

  だが、朝影は続ける。

  「……それでも、あいつが生きたいと思える理由には、なれる。おまえも、朱雀も。だから――」

  火皿の灰を落とし、ゆっくりと言った。

  「ただ、笑って、あいつの傍にいてやれ。それが、あいつにとっての一番の薬だ」

  ***

  別の日の午後。

  銀郎は、縁側に腰を下ろしながら、井戸のあたりではしゃぎ合う朱雀と夕陽を静かに見つめていた。水音と笑い声が風に乗って届く。

  その光景は、穏やかで、幸せそうで――けれどどこか、胸の奥が軋む。

  (……兄上の言葉が、脳裏を過ぎる)

  『ただ笑って、あいつの傍にいてやれ』

  銀郎は小さく息を吐き、軽く首を横に振る。

  そしてその場を静かにあとにして、縁側を離れ、廊下の奥へと姿を消した。

  ……その背を、夕陽はふとした拍子に振り返り、無言で見送っていた。

  夜。

  朱雀が風呂場で素っ頓狂な鼻歌を響かせる中、銀郎は夕陽と並んで夕餉の後片付けをしていた。

  水音と歌声が微かに聞こえるたび、夕陽はくすくすと笑う。

  「ご機嫌だな」

  「……ちっとも上達しませんね」

  銀郎も、肩を揺らして笑いながら応じた。

  しばしの沈黙ののち、夕陽がふいに呟くように言う。

  「……良かった」

  「……? なにがですか」

  「いや。最近、お前の笑った顔を見てない気がしててな」

  その言葉に、銀郎の心が強く揺れる。

  やはり、見抜かれていた――そう理解した瞬間、どうしようもなく胸の奥が抉られるような感覚に襲われた。

  「……夕陽様」

  銀郎は、まるでこの世に繋ぎ止めるかのように、夕陽の体をそっと抱きしめた。

  その腕には、静かながらも必死な熱がこもっている。

  夕陽は一瞬驚いたように目を見開いたが、やがて静かにその背に腕を回し、身を委ねる。

  「……どうした?」

  「どこにも、行かないでください」

  その声は、震えるほど小さくて――けれど、真っ直ぐだった。

  「ああ……行かないよ」

  やさしく囁くように返す夕陽の声に、銀郎の腕の力が僅かに緩む。

  しばしの沈黙のあと、夕陽がぽつりと呟いた。

  「……不思議だ。こうしてると、なぜだか呼吸が楽になるような気がする」

  夕陽がふと顔を上げ、銀郎の首筋へと鼻を寄せる。

  吐息混じりの熱が肌を撫で、その舌先がそっと触れた瞬間――銀郎はゾクリと身を震わせた。

  「ゆ、夕陽様……っ!?」

  「――っ……!」

  自分のしたことに気づいた瞬間、夕陽の表情が凍りつく。

  まるで、体が勝手に動いたかのような、唐突な違和感――

  その時だった。

  ガラリ、と風呂の戸が開く音が響く。

  「……っ……」

  夕陽は我に返ったように銀郎から身を引いた。

  頬を赤らめるでもなく、どちらかといえば冷や汗の浮かぶ顔で、口を結ぶ。

  「……すまない」

  低く、それだけを呟いて――

  夕陽は、まるで逃げるようにその場を去っていった。

  その後ろ姿を、銀郎は呆然と見送る。

  首筋に残る、湿った熱の余韻。

  心臓がひどくうるさい。鼓動が、自分のものとは思えないほど荒い。

  「……夕陽様……」

  何が起きたのか、何を感じたのか。答えの出ないまま、銀郎はその場に立ち尽くす。

  ――と、そこへ。

  「おーい、銀郎! 風呂あがったぞー!」

  湯気をまとったまま、赤い髪の朱雀が障子を引いて顔をのぞかせた。

  頭にタオルを乗せ、肩からは湯上がりの蒸気がふわりと立ち昇っている。

  「……ん? なに固まってんだ、お前」

  無邪気な声。屈託のない笑顔。

  さっきまでの空気を一瞬で打ち砕くような、いつもの朱雀の姿。

  「いや……少し、考え事をしていただけだ」

  銀郎はわずかに首を振り、朱雀の方を見ないまま、手元の器を拭うふりをした。

  朱雀は気にも留めず、ぱたぱたと濡れた足で畳を歩く。

  銀郎はふと目を伏せ、声にならない溜息をついた。

  (夕陽様……いったい、何が――)

  ***

  銀郎の手を振り払ったあと、夕陽は縁側の奥にひとり腰を下ろした。夜の気配が濃く、虫の声も遠く霞んで聞こえる。

  胸の内には、かすかな震えが残っていた。

  「……何を、しているのだ私は」

  自嘲にも似た独白。その耳元に――囁くような声が落ちた。

  「欲しかったんだろ? あいつの、熱」

  夕陽の影から、ゆらりと現れる赤い輪郭。長く流れる髪、二本の角、赤と黒の装束が闇に溶ける。

  現れたのは、己の内側に潜む影――鬼灯《ほおずき》だった。

  ――夕陽と契約した“最初の式神”。

  「……出てくるな。余計なことをするな」

  「ヌシ様が“見てた”んだよ。喉を鳴らして、あいつの肌を。どうして触れなかった? 抱き潰すように、喰らえば良かったのに」

  低く囁きながら、鬼灯は夕陽のすぐ傍らに腰を下ろす。その目は艶やかに揺れ、夕陽の指先に視線を這わせる。

  「今さら“主”のふりか? あいつも朱雀も、ヌシ様に焦がれてる。なにが“我慢”だ。なにが“理性”だ。もう崩れかけてるくせに」

  「……お前に何が分かる」

  夕陽の声が震える。だが、鬼灯は止めない。

  「わかるさ……。そうやって、抱きしめもせず、傷一つも癒さず、ただ遠くから慈しむ“ふり”をする。……滑稽だな。見ていて哀れだ」

  ぴたり、と鬼灯が夕陽の胸元に触れる。鼓動の早さが、影の指先を震わせた。

  「ヌシ様が“本当に欲しいもの”……俺が、教えてやろうか?」

  低く囁く声音には、焦がれるような熱が滲む。ただ責めているのではない。

  夕陽の魂が摩耗していることを、誰よりも近くで感じている――だからこそ、もどかしくてたまらないのだ。

  その時、遠くで朱雀の無邪気な笑い声が響いた。

  夕陽は、わずかに目を細める。睨むようでいて、どこか逃げるようでもある。

  「……もう、黙れ」

  言葉は淡々としていたが、ほんの一瞬、声音に揺らぎが滲む。

  「はいはい、ヌシ様」

  くつくつと笑いながら、鬼灯はふたたび影へと溶けていった。

  その胸の奥で、焦りにも似た疼きを抱えながら――魂の器を満たす日を、静かに待ち続けて。

  ***

  それは、ほんの些細な変化だった。

  言葉の端が、少し冷たくなった。

  視線が、すぐに逸らされるようになった。

  肩が触れそうになると、さりげなく身を引かれる。

  ――避けられている。

  銀郎は、何度も「気のせいだ」と心に言い聞かせた。

  けれど、それが積み重なったとき、否応なく悟ってしまったのだ。

  ――私はもう、触れてはいけない存在なのだと。

  それでも、傍を離れることなどできなかった。

  心が拒まれても、言葉が冷えても、それでも、ただ傍にいることだけが赦されるなら、それでいいと、そう思っていた。

  だが、夜――

  廊下を歩いていた夕陽が、角を曲がった先に銀郎の姿を見た瞬間。

  何の迷いもなく、踵を返した。

  ――拒絶、ではない。

  明確な「回避」だった。

  「……っ」

  音にならない声が喉の奥で詰まり、銀郎は立ち尽くした。

  傷つく覚悟はとっくにできていたはずだったのに、胸の奥が、音を立てて崩れる。

  どうして、こんなにも、痛い。

  その夜、部屋に戻った銀郎は、布団に入ることもできず、ただ灯りの落ちた部屋の隅、柱にもたれて座っていた。

  何もせず、何も言えず、ただ静かに、拳を握りしめる。

  想いは一つだけ。

  (……どうか。どうか、あの方が、苦しんでいませんように)

  己の心など、どうなってもいい。

  ただ、それだけを、夜に願った。

  ***

  ふと、胸の奥が冷えたような気がして、銀郎は目を覚ました。

  闇の中、室内は静まり返っている。けれど、確かに――“何か”がいる気配がした。

  視線を上げた瞬間、そこに立つ影が見えた。

  見慣れた姿。淡く乱れた髪。夜着の裾が足元で揺れる。

  「……夕陽様?」

  名を呼ぶと、影はわずかに首を傾けて口を開いた。

  「銀郎……私の部屋へ、来てくれ」

  それだけを残し、踵を返して去っていく。

  気配は、やけに静かで、やけに艶やかだった。

  銀郎はしばし息を詰め、逡巡ののち、布団から身を起こす。

  

  廊下に出ると、空気が違った。

  ひどく濃密で、肌の表面を舐めるような温度を孕んでいる。

  やがて、夕陽の部屋の前に立った銀郎は、戸を叩こうと手を伸ばし――

  その前に、唐突に内側から扉が開いた。

  「……っ!」

  伸ばしかけた手が掴まれ、そのまま引き寄せられる。

  何が起きたのか理解する間もなく、唇が塞がれた。

  強く、深く、熱く。まるで喉奥まで侵されるような口付け。

  驚きに目を見開き、無意識に肩を掴む。

  「……っ、夕陽様……!」

  乱れた吐息と共に目を覗き込むと、そこには見慣れぬ色があった。

  夕陽の瞳――そのはずの双眸が、仄かに紅を灯し、艶やかに揺れていた。

  笑っていた。

  まるで、獲物を得た獣のように。

  「お前は、誰だ……?」

  絞り出すような声に、男――“夕陽”は、ゆるりと口角を上げて囁いた。

  「お前が、大好きな夕陽様だよ」

  「……ふざけるなっ。夕陽様になにをした!?」

  「なにもしてないさ。ただ――」

  細い指先が、銀郎の頬に触れる。

  ぞっとするほど優しい仕草で、けれどそこにあの人の温もりはなかった。

  「俺は“影”。ヌシ様と最初に契約した式神。名を――鬼灯」

  「……鬼灯……?」

  (赤烏以外にも、式神が……)

  脳裏を走る思考よりも、体が先に反応する。

  危険だ。だが、それ以上に、その存在は、夕陽の“奥”から出てきたものだと――本能が告げていた。

  「お前ももう気付いてるんだろう? ヌシ様は命を削りすぎてる」

  その声は、悪意とも、善意ともつかない。

  ただ、どこまでも“夕陽の声”で、正しく響いた。

  「……なにが望みだ?」

  「ヌシ様に長生きしてもらうことさ。この器は……居心地がいいんだ。死なれたら困る」

  唇が再び近づく。銀郎はわずかに身を引いた。

  「……なら、なぜ私に……?」

  「だから一口、齧らせてほしいんだよ。お前の魂を」

  囁くようにそう告げた“鬼灯”の瞳が、深く妖しく光る。

  「齧る……?」

  繰り返す声に、鬼灯はまるで愛しいものを宥めるように笑んだ。

  「恐れなくていいさ。魂なんて、いきなり喰い尽くしたりしない。俺はただ、ヌシ様の命の足しになればそれでいい」

  「……どうやって?」

  問いに、鬼灯は銀郎の顎を掬い、視線を絡めた。

  「覚えがあるだろう? 銀郎。交わればいい。お前と、ヌシ様の身体で」

  その言葉に、銀郎は息を呑んだ。

  胸の奥に凍りついたような記憶が、音もなく蘇る。

  ――あれは、夕陽の命を繋ぐために選んだ、たったひとつの手段だった。

  そうするしかなかった。けれど、本当は……決して、望んだ形ではなかった。

  夕陽様の意思を無視して、身体を繋げたこと。

  その代償は、銀郎の心にいまもなお棘のように残っている。

  なのに――まるでそれが当然だとでも言うように、鬼灯は告げる。

  感情も、痛みも、選択の重さも、何ひとつ理解していないように。

  低く甘やかな声が、耳朶にまとわりつく。

  「ヌシ様の身体に宿っている俺は、“交わる”ことでしか魂に触れられない。肌を通して、心の奥にある灯を味わうんだ」

  低く囁く声は、恐ろしいほどに優しかった。指先がそっと銀郎の頬に触れる。

  「……っ、やめろ……!」

  銀郎は咄嗟に突き飛ばそうとする。けれど、身体が動かなかった。

  その手が、ぬくもりが、あまりにも――“夕陽様”に似すぎていたからだ。

  拒絶したいのに、許せないのに、目の前の姿に宿る声も気配も、全部が懐かしくて、大切で、どうしようもなく――弱かった。

  けれど、違う――これはあの人ではない。

  「……いいのか? ヌシ様に拒まれて泣いていたくせに」

  囁くように、鬼灯は言う。

  「なのにこうして触れられただけで、期待して、震えて……可愛いね、銀郎」

  「黙れ……っ」

  「お前がくれた分だけ、ヌシ様は生きられる。そう思えば、安い代償だと思わない?」

  笑う顔は、あの優しい人の面影のまま、ひどく残酷だった。

  「……お前の魂、喰わせろよ」

  次の瞬間、銀郎の頬を指先がなぞる。

  舌先が首筋を掠めた気がして、ぞくりと背筋が震えた。

  「――やめろ」

  絞り出すような声が喉から漏れた。

  けれど、それは鬼灯に向けたものではない。

  夕陽の姿を借りて目の前にいる“あの人”に、どうかこれ以上、穢れないでほしいと願う心――

  それが、銀郎自身にも届かぬまま、言葉となって洩れた。

  「おっと、時間切れだ」

  くつくつと喉の奥で笑いながら、鬼灯は名残惜しげに銀郎の髪を撫でた。

  「ヌシ様が目覚める。……銀郎、俺はいつでも待ってる」

  次の瞬間、夕陽の身体から力が抜け、崩れ落ちるように倒れそうになる。

  咄嗟に銀郎がその身を抱きとめると、夕陽の睫毛が震え、意識が戻ったことを告げるように薄く目が開いた。

  夕陽の瞳が銀郎を映し、怯えたように揺れる。

  何が起きたのかを、朧げに察したのかもしれない。

  「……銀郎、私は……なにか、喋ったか……?」

  沈黙。

  一瞬だけ、銀郎の中で葛藤があった。けれど――

  「……鬼灯という名の式神に、魂を……喰わせろと」

  正直に。嘘はつかず、ありのままを伝えた。

  夕陽は、ふう……と深く、長いため息を吐いた。

  悔いも、怒りも、嘆きもすべて含まれたような、重い吐息だった。

  「……すまない。鬼灯がお前に干渉しようとしていたから、それを避けたくて、距離をとっていた」

  そう告げた夕陽は、しばし銀郎を見つめると、目を伏せるように視線を落とした。

  その瞳は、悔いても悔いきれぬ何かを抱えたように翳っている。

  「……だが、無駄だったようだ。……すべて、私の落ち度だ。お前には、忘れていてほしい」

  「……っ、夕陽様っ! でも……っ」

  鬼灯が言っていた通り、夕陽の身体は限界に近づいている。

  それでも、なにかできることがあるならと、銀郎は言葉を継ごうとした――

  けれど。

  「……銀郎」

  夕陽は、銀郎を見つめて言った。

  「私は、“望んでいない”」

  そう言いながら、夕陽の目はほんの一瞬だけ、痛むように細められた。

  「……っ」

  それ以上、何も言うことができなかった。

  沈黙が部屋を満たす。

  だが、そこには決して安らぎなどなかった。

  それでも、ただ一つ、確かになったのは――

  夕陽が避けていたのは、嫌っていたからではなかったということ。

  けれどそれが、心を救うにはあまりに苦い事実であることも、銀郎は痛いほど分かっていた。

  続く