雨のにおいが残る、しめやかな朝だった。
庭の苔がしっとりと濡れ、竹の葉を伝って滴る水音だけが静かに響いている。
その日、朝影が持ってきた依頼は、珍しく「夕陽でなければならない」と前置きされた、厄介なものだった。
「妓楼に潜入してほしいんだ。陰間として、な」
依頼の言葉に、朱雀はぽかんと目を瞬かせた。
「なぁ、銀郎。陰間ってなんだ?」
「……はぁ。男娼のことだ」
「は?」
一拍置いて、朱雀の眉間に皺が寄る。
「はあ〜〜ッ!? ふざけんなよッ……!」
勢いよく立ち上がり、拳をぎゅっと握りしめた朱雀は、朝影に詰め寄らんばかりに一歩踏み出す。
「おい、ジジイてめぇ! 夕陽様にそんなマネさせるなんて、頭沸いてんのか!? もし何かあったら──」
空気がぴんと張り詰める中、銀郎が静かに朱雀の肩に手を置き、落ち着けと目で制す。
「……本当に、他に方法は?」
朝影は苦い顔で首を振る。
「顔が利く者、話術に長けた者、客を惹きつけられる容姿……他に適任者がいねぇ」
沈黙が落ちた。
しかし夕陽は、まるで動じた様子もなく、湯呑に口をつけた。
「……つまり、客を喰っている怪異が潜んでいるというわけだな」
「ああ。ただ、誰も口を割らない。表向きは役者として舞台に立ってる男たちが、夜は陰間として客を取っているらしい。芸だけじゃ食えないって話さ。だが──最近、その妓楼に出入りしていた上客たちが次々と失踪していてね」
事情を聞き終えた夕陽は、軽く目を伏せてから、湯呑を置いた。
「……しかし、兄上。依頼を受けるのは別に構わないが、三十路近い男を捕まえて、さすがに無理があるのでは?」
夕陽の苦言に、朝影はまるで気にした様子もなく、胡座をかいて団子を頬張りながら言う。
「心配いらねぇよ。お前若く見えるし、化粧でなんとかなるだろ。一応ほれ、変装用の道具は貸してやるからよ」
「……まぁ、やるだけやってみるか」
「夕陽様……!」
朱雀の語気が荒くなる。すぐさま銀郎が押しとどめたが、その表情もやはり面白くなさそうだった。
「同行は……」
「無理だろうな」
朝影がため息まじりに肩をすくめる。
「……売られてきたって体を装って、新入りの陰間として働いてもらう。目立てば破綻する」
夕陽は立ち上がりながら、朱雀と銀郎に視線を向けた。
「……お前たちは、外から見張っていてくれ。屋根の上でも、物陰でも。……私の身に何かあったときには、迷わず来い」
ふたりとも、しばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。
押し殺された感情とともに、それでも夕陽を信じて託す覚悟――その姿が、夕陽の胸に深く刻まれた。
***
その夜。
屋敷の奥、明かりの下。鏡台に化粧道具をずらりと並べ、夕陽は静かに腕まくりをした。
「……久方ぶりだな。こういうのは」
まだ若かった頃、任務の一環で屋敷に潜入し、芸者として宴席に出たことがある。あのときの、鏡の前で無心に筆を走らせた記憶が蘇る。
廊下の隅、朱雀がそっと襖の隙間から覗き込んだが──すぐさま銀郎に首根っこを引っ張られ、呻き声を上げる羽目になった。
しばらく鏡と向き合い、奮闘の末、夕陽は軽く目元を整え、髪を束ね直した。結い紐を変え、やや高めの位置でまとめると、顔立ちに若々しい張りが出る。
完成した姿が、鏡の奥に現れる。
そこには、年齢も色香も一度忘れたような、「売られてきたばかりの美形の陰間」がいた。
夕陽が振り返る。
「……どうかな?」
その瞬間、ふたりの銀妖が絶句する。
「……ッ、あ゛ぁ……っ、だめだ! やっぱダメだろこれ!!」
朱雀が頭を抱え、髪をぐしゃぐしゃにかき乱しながら半ば悲鳴を上げた。
「夕陽様が……夕陽様が……そんな顔して、他のやつに色目使われるとか……絶対無理……ッ!」
銀郎がやや青ざめた顔でぼそりと呟く。
「……これで“二十”と言われても、誰も疑わないと思う。むしろ騙される……」
その横で、朝影は団子をくわえたまま無邪気に親指を立てる。
「よし、完璧だ。これで明日から“売られてきた若造”ってことにできるな」
「……兄上。もう少し言いようというものがあるだろう」
***
夕刻。空が朱に染まる頃、夕陽は妓楼《百椿(ももつばき)》の門をくぐった。
入口にいた女将が、どこか怪訝そうな目を向ける。
「……あんたが新入り? 聞いてたより年上に見えるねぇ」
「すみません、道中で少し手間取ってしまって」
そう言って夕陽は軽く頭を下げた。姿勢が整い、声に柔らかな艶がある。女将の目がほんの少し和らぐ。
「ま、いいさ。顔は悪くないし、仕込み次第ってとこかね。あんたのような風情を好む客も、少なかぁないよ」
連れていかれたのは、妓楼の奥まった離れだった。すでに数人の先輩陰間が身支度を整えており、その中にひときわ目を引く男がいた。
「へぇ……今日の新入りは色男じゃないか」
涼やかな笑みを浮かべたその男が、夕陽の前に立つ。椿之介──この妓楼で“椿”の名を継ぐ、筆頭格の陰間だった。
「椿之介。今日は俺があんたの指導役ってわけだ」
「……よろしくお願いします」
夕陽が深々と頭を下げると、椿之介はその手を取って軽く握った。
「緊張しなくていいよ。俺は優しいからね」
その笑みに、微かに冷たさが混じっていたことに、夕陽は気づいていた。だが表には出さず、静かに受け流す。
「……椿之介さんは、昼間は役者を?」
「そう。けどさ、芸だけじゃ食っていけない。だから、夜はこうしてここで働くのさ。──ま、慣れれば悪くないよ。時々、良い人も来るし」
ふっと、どこか寂しげに笑うその姿に、夕陽は小さく目を細めた。
(……この男、どこか、壊れている)
女将が離れの戸口から顔を出す。
「椿、明晩の宴、客の数が多くてね。新入りにも少しだけ手伝わせようと思ってるんだけど、どうだい?」
椿之介がちらと夕陽を見て、軽く肩をすくめる。
「お酌役くらいならいいんじゃない? 物腰もきれいだし、声も通る。客の目の保養にはなるよ」
「じゃあ、それで頼んだよ。変な粗相させると店の評判に関わるからね」
女将が去ったあと、椿之介が言った。
「気楽にやればいい。酒を注いで、笑って、時々相槌。それだけ。──変な客が来たら、俺が助けてやるよ」
それが本音かどうかはわからない。ただ、椿之介の目は、どこか底知れなかった。
***
初日の支度を終えた夕陽は、客席の端で控えるよう命じられた。
「客前には立たせないさ。ただのお酌役だよ」
そう女将は言ったが、夕陽は肌を晒す薄物に、華美な化粧まで施されていた。その意味を、彼自身は理解していた。
薄明かりの座敷。華やかな香の煙が揺れる中、客の笑い声と三味の音が交差する。
「……さ、緊張せずに。まずは盃の持ち方から」
椿之介が隣に立ち、そっと夕陽の手元に手を添えた。指導という名目だが、椿之介の距離はやや近すぎる。わずかに触れる体温と匂いが、夕陽の神経をくすぐった。
「腰の角度、少しだけ――そう。それで、首を傾けると可愛く見える」
「……なるほど、そう見せるんですね」
「“魅せる”のさ。陰間の価値は、そこにある」
椿之介はふっと微笑んだが、その目は冷めていた。まるで己を遠くから見下ろすような目だった。
宴の最中、夕陽は控えの間にいた。膝をつき、杯を下げ、湯を注ぎ、客の機嫌を損ねぬよう身を低く保つ。見上げると、灯籠の光がゆらゆらと揺れている。
ふと、客たちのざわめきが一瞬止んだ。障子の向こうで、三味線は濡れたような調子の、艶やかな旋律へと変わる。
「……椿之介様の舞が始まるぞ」
隣の陰間が小さく囁いた。
その名を聞いた途端、夕陽の動きが止まる。
障子の隙間から、ちらと覗いた。
そこにいたのは――白い衣に身を包み、まるで霧の中に立つような佇まいの男。長い袖が流れ、指先が描く軌跡が空気を切るたび、あたりが凍りついたように静まり返る。
言葉も、声も、なく。ただ――舞うだけ。
それでも、目が離せなかった。
(……美しい)
静かで、気高く、どこか寂しげで。
その舞に、媚びはなかった。迎合もなかった。ただ、己の中にあるものを――必死に、吐き出すように舞っていた。
まるで、誰にも見られたくないものを見せつけるように。
夕陽の胸の奥が、ふと痛んだ。
この男は、何を背負って立っているのだろうか。
彼はまだ、椿之介の名前すら正しく知らなかった。ただ、胸に残ったのは、あの“姿”だけだった。
***
夜半。奥の間に戻った夕陽は、まだどこか胸の奥がざわついていた。
と、不意に足音が近づく。襖が開き、椿之介が姿を現す。
「……さっきの、見てた?」
軽く扇子を手にしたまま、椿之介がふと視線を落とす。
「……はい。控えから少しだけ」
素直な答えだった。隠す気もなかった。
椿之介は少し驚いたように目を細めた後、微笑む。
「それじゃ……少し恥ずかしいね」
「……美しかったです」
一瞬、椿之介の動きが止まった。
「あれはね、誰のためでもなく、自分のために舞ってるんだ。……なのに、時々、誰かに見られると――安心する。不思議だよね」
夕陽は何も言わず、その横顔を見つめた。
「君、舞はできるのか?」
「基本はひと通り。けれど……この場で通じるかは」
「見たいな。……どうせ、君はここに馴染まない」
その言葉に、夕陽は少しだけ眉をひそめる。
「私が、そう見えますか」
「……わかるよ。“仮面をつけてる人間”の顔はね、似てるんだ。俺と、君は」
その後、舞台裏の空き部屋で、夕陽は静かに舞った。動きは柔らかく、抑制された情熱が込められていた。
椿之介はただ黙って、それを見ていた。見終えた後、初めて、心からの声で言った。
「綺麗だったよ。ただの陰間の名で終わるには惜しいな」
その声に、いつもの余裕やからかいが混じっていなかったことに、夕陽は気づいていた。
「……あなたも、かつては“舞う人”だったのでしょう?」
夕陽の問いかけに、椿之介はゆっくりと頷く。
「昔はね。舞台役者として少しは名もあった。けど、舞台は――消えた。俺が壊したから」
風が通り抜ける。椿之介は微笑んでいたが、目元が少し震えていた。
***
ある晩、中庭の池のほとり。ふたり、縁側に並んで腰掛け、遠くの虫の声に耳を澄ませていた。
しばらくの沈黙。風が池の水面を撫で、葉のささやきが夜を満たす。
「ねえ、君は……この妓楼を出たら、どこへ行く?」
「――元の場所に戻ります。“誰か”が待っているから」
「そうか……いいな。君には、“誰か”がいるのか」
その呟きは、たしかに寂しさを滲ませていた。
夕陽は、わずかに視線を落としながら答えた。
「……けれど、待たれているぶん、私は、いつも誰かを傷つけている気がします」
「それでも君は、立っている。……きっと、強い人だ」
「……椿之介さんは?」
椿之介は答えなかった。ただひとつ、微笑みを浮かべて、小さく首を振った。
「俺は――誰かに名を呼ばれるたびに、自分が少しずつ空っぽになっていく気がするんだ。
まるで、“俺”のかわりに……別の何かが、少しずつ中に満ちていくみたいに」
その声音は静かだったが、どこか、濁った井戸の底を覗き込むような寒気を含んでいた。
まるで、“名を呼ばれる”ことが、単なる比喩ではなく――何かを“喰われる”感覚とでも言うような。
夕陽はそっと視線を伏せながらも、内心で警鐘を鳴らしていた。
(……妙だ。やはり、何かが“いる”……)
この男の奥には、確かに沈殿している。
感情でも、記憶でもない、もっと底知れぬ“異物”が。
夜風がふと吹き抜けた。
椿之介は変わらぬ微笑を湛えたまま、どこか遠いところを見つめていた。
***
日が経つにつれ、妓楼《百椿》での暮らしにも慣れ始めた夕陽だったが、不穏な違和感がじわじわと増していった。
楽屋の鏡台。化粧を終えて顔を上げた瞬間、自分の肩越しに誰かの“目”が映っていた。振り返っても、そこには誰もいない。
(気のせい、ではない……)
他の陰間たちも、どこか落ち着かない様子だった。客がふいに部屋から消えた、という噂がささやかれるようになる。
「酔って勝手に帰っただけさ」
「どこかの女にでも連れてかれたんだろう」
皆、そう言って曖昧に笑って済ませる。しかし、その目は笑っていない。
ある晩。椿之介の部屋を訪ねた夕陽は、ふと障子の隙間から見てしまった。
煌びやかな衣装と、異形の仮面が棚に並べられていた。
それは舞台で使われるものにしては、あまりにも“異質”で、禍々しい何かが滲んでいた。
椿之介が気づいて扉を閉める。
「……これは昔の名残。気にしなくていい」
「……舞台の衣装、ですよね」
「そう。けれど、もう使わない。あれは、“あっち”でしか役に立たない」
その言葉に、夕陽は鋭く視線を向けたが、椿之介はそれ以上語らなかった。
その夜。眠りに落ちた夕陽は、ふと気配に目を覚ます。
枕元に、誰かが“いる”。
薄暗い灯の下、椿之介が静かに佇んでいた。
その顔には、先ほどの仮面が――
「……椿之介さん?」
声をかけると、彼ははっとしたように目を見開いた。
「……すまない、間違えた」
そう呟き、仮面を外して去っていく。
だが、夕陽には分かっていた。
あれは“間違い”などではない。
確かに――彼は“何か”を抑え込んでいた。
***
その夜、夕陽はこっそりと妓楼の奥へと足を踏み入れた。
女将さえ口にしたがらないという、“鏡の間”。
扉には、たしかに鍵がかかっていた。けれど――どこからともなく、誰かの囁くような声が聞こえた。
「……こっちへ」
風のざわめきに紛れたその声は、耳元で囁かれたように生々しく、現実と幻の境を曖昧にした。
そして次の瞬間、カチリ、と乾いた音が響く。
――気づけば、扉の鍵は、いつの間にか開いていた。
静寂。埃をかぶった畳。ひときわ大きな鏡が、正面に鎮座している。
その鏡の中に――「人影」が、いくつも、蠢いていた。
「……まさか……」
鏡の中には、消えた客たちの姿があった。 微笑み、語り、踊る者。誰かの名を呼ぶ者。必死に助けを求める者もいた。
それらは全て、「映し身」。
既に命を失い、魂を喰われた者たちの、最後の姿だった。
夕陽の心に、ざわりと哀しみが過る。
その時、どこからともなく、拍子木が鳴る音がした。
映し身たちが、一斉に夕陽を振り返る。
舞台の幕が上がるかのように、鏡の中で彼らが動き出す。
夕陽が振り向いた瞬間、背後の襖がすっと開いた。
「来てしまったんだね……君は、やっぱり見つけてしまう」
椿之介だった。
白粉の香りを纏った彼は、ゆっくりと歩み寄る。
目には、静かな諦めと、微かな狂気が宿っていた。
「……気づいていたんでしょう? ここが、俺の舞台だってことに」
椿之介は、そっと鏡を見つめた。
まるで、その中にいる誰かに語りかけるように。
「……俺にはね、惚れた男がいたの。
俺の芸を“美しい”って言ってくれた。支えてくれて、夢まで見せてくれた」
その声には、かすかな震えが混じっていた。
「“もっと上へ行け”って……“身請けも考えてる”なんて言ってくれてさ。
信じたんだよ、俺。あの人の言葉を」
鏡の間に、微かな風が吹いたような気がした。帳が揺れ、鏡の中の“映し身”が一斉に夕陽へと視線を向けた。――無言の観客たち。
「だけど、あの人は……ぽっと出の若い子にあっさり乗り換えた。
“新しい花を見つけた”って。俺のことなんて、ただの道具だった」
椿之介の口元が歪む。
「舞台も、恋も、心も……全部失くした俺に残されたのは、“ここ”だけだった」
とつぜん、鏡が微かに鳴る。きい、きい、と金属が軋むような音。
鏡の中の映し身たちが呻くように揺らぎ始める。
「でもね……君だけは、違った。君は俺の“最後の役者”だった」
椿之介の頬に涙が伝う。けれど、瞳は黒く染まりきっていた。
「君には……汚れてほしくなかった」
その瞬間、彼の身体から黒い瘴気が噴き上がる。
狂気の波が周囲を包み、鏡の中の“観客たち”が叫ぶように歪む。
「椿之介さん……!」
夕陽が叫ぶと、椿之介の瞳に一瞬だけ光が戻る。
「……やっぱり、綺麗だね。君の声は。もっと聞いていたかったよ」
儚く笑ったその顔が、怪異に喰われるようにゆがみはじめる。
かつて役者だった者の魂が、怨念とともに崩れていく。
「けれど……もう限界だ。怪異の力に、俺の自我は……」
椿之介の身体が揺れた。鏡からあふれ出す瘴気が、彼の身体を侵食していく。
顔に張りついた仮面は、人の皮膚のように彼へ溶け込み、異形の面を作っていた。
「やめろ……来るな……!」
彼の声が二重に響く。椿之介の意志と、怪異の声とが、せめぎ合っていた。
手が震える。椿之介は、まるで助けを求めるように、夕陽に向かって手を差し出した。
夕陽は、静かに一歩を踏み出す。
「……あなたの舞は、本物だった。 だからこそ――終わらせてあげる。幕引きは、私がする」
夕陽は、懐から銀の護符を取り出した。
指先がわずかに震える。けれどその手は、迷いなく結印を始める。
椿之介がそれに気づき、薄く微笑んだ。
「……君が、俺を祓うのか……? 役者としての最後の幕を、君が……」
印が結ばれ、祓符が放たれる。
それは一陣の風となり、鏡を砕き、怪異を穿つ清光となった。
宙に舞う光の粒の中、椿之介の身体は、舞台の終わりのように静かに崩れてゆく。
だがその直前、彼はふと夕陽を見つめ、名残惜しげに問いかけた。
「……ねぇ、最後にひとつだけ。……君の、本当の名前を教えてくれないか」
夕陽はしばし黙り、そっと瞳を細めた。
「――夕陽です」
その名を聞いて、椿之介は微笑んだ。まるで何かを、ようやく見つけられたかのように。
「夕陽……綺麗な名前だ」
それは寂しさも悔しさも、すべてを飲み込んで、それでも誰かを想おうとする、優しい微笑だった。
「……ありがとう。君だけは、俺のことを……最後まで、人として見てくれた。君に教えた所作も言葉も、全部……俺の、最後の芝居だったんだ。
――綺麗だったろう?」
夕陽は、胸の奥が締めつけられるのを感じていた。
どれほど傷つき、どれほど孤独だったのだろう。
愛を求めて、芸にすがって、それでも届かなかった男が、今ここで、終わろうとしている。
「……綺麗でしたよ。あなたの舞も、言葉も、心も――全部」
その言葉とともに、椿之介の輪郭が、ふわりと淡く揺らぎはじめた。
まるで風に舞う花びらのように、彼の身体は光の粒となって、静かにほどけていく。
けれど、その顔にはもう苦悩の影はなかった。
ただ、ようやく終幕を迎えた役者のように、穏やかで、満ち足りた微笑を湛えていた。
「――ばいばい、夕陽」
そう囁いた声は、春の夜に溶けるようにかすかに響き、やがて音も形も残さず消えていった。
そこには、ただ仄かに漂う白椿の香と、祓われた気配が名残を惜しむように揺れていた。
***
翌朝、妓楼《百椿》には、異変の痕跡ひとつ残っていなかった。
あの夜の喧騒も、血の匂いも、鏡の砕ける音すらも――まるで最初から何もなかったかのように。
ただひとつ、《鏡の間》と呼ばれた部屋だけは、取り壊され、封じられた。
帰路の途中、妓楼の門の外で待っていた朱雀と銀郎のもとへ、夕陽が戻ってくる。
「……やっぱり、俺らも一緒に行くべきだったんじゃねぇか」
悔しげに眉をひそめる朱雀に、銀郎は静かに言う。
「夕陽様が無事なら、それでいい。……それだけで、充分です」
ふたりの言葉に、夕陽は微笑んで空を仰いだ。
――もし、私が彼らと出会っていなかったら。
――もし、あのとき、誰かが手を伸ばしてくれなかったなら。
椿之介と同じ場所に堕ちていたのは、きっと私だったのだろう。
歯車は、ほんのわずか噛み合わないだけで狂い出す。
傷口を知る者がいなければ、孤独は静かに、けれど確実に心を蝕んでいく。
「……誰か、ひとりでもよかった。
彼の孤独を壊してくれる者が、そばにいてくれたなら――」
その言葉は、風に溶けて消えていった。
通り沿いの椿の木から、ひとひら、赤い花弁が舞い落ちる。
それはまるで、彼の魂が最後に舞った舞台の余韻のように。
第十話:鏡影の椿 完