湯の香る路地裏で、風に舞う一枚の紙が、ぴたりと木壁に貼られていた。
〈銀妖のお客様は、大浴場のご利用をご遠慮ください〉
その張り紙を、朱雀と銀郎は並んで見つめていた。
湯煙の向こうに浮かぶ文字。どこまでも静かに、どこまでも侮辱的に。
沈黙のまま、目を細める銀郎。
眉間にしわを寄せ、今にも破り捨てそうな朱雀。
「……ふざけんなよ」
低く、喉の奥で呻くように言って、朱雀は拳をぎゅっと握った。
「なにが“ご遠慮ください”だ。今まで普通に入ってただろ?」
「落ち着け。張り紙を破いたところで、印象は悪くなる一方だぞ」
「でもよ――」
そこへ、暖簾の奥から宿屋の主が姿を見せた。五十がらみの、丸い体格の男。
気まずそうな顔で近づいてきて、二人の前で頭を下げる。
「……夕陽様には、いつも良くしていただいてましてね。本当に心苦しいんですが……」
「まさか……苦情ですか?」
銀郎が穏やかに問いかける。男はさらに深く頭を下げた。
「ええ、ええ……“湯に浮かぶ毛が怖い”だの、“蕁麻疹が出た”だのと……。
まことしやかに申される方もおりまして。
誤解とは承知しておりますが、なにぶん他のお客人の手前もございますゆえ……。
本日は、どうかお部屋の湯をお使いいただけませんでしょうか」
「…………」
「…………」
朱雀と銀郎、同時に横目で見つめ合った。
次の瞬間。
「夕陽様と一緒に入れないじゃねーかッ!!」
「これは由々しき事態だ……」
二人の嘆きが、宿の湯煙に消えていった――。
夕餉のあと、夕陽が湯屋に向かう時間、朱雀と銀郎は当然のように椅子を持ち出し、大浴場の入り口に並んで座っていた。
不審げに立ち止まる男性客に、銀郎が丁寧な口調で問う。
「……お客様、どうかされました?」
「いえ、あの……風呂、入りたいんですが……」
それきり黙り込む客の前で、朱雀が椅子の背に腕をかけてにやりと笑い睨みをきかせる。
「悪いねぇ。今、中に“主様”がいらっしゃるんで。念のため、見張ってんですよねぇ」
「……あの、私は変な者じゃ――」
「――証明できますか?」
にっこりと、銀郎が目を細めた。
客は数歩下がり、そっと踵を返していった。
こうして、風呂場の平穏は守られる。
風呂から上がった夕陽が大浴場の暖簾をくぐると、朱雀と銀郎が同時に立ち上がった。
「……なんだ、お前たち、ずっとそこにいたのか? 私の事はいいから、たまには羽を伸ばしなさい。部屋付きのお風呂も源泉かけ流しだし、順番に浸かるといいよ」
そう言った夕陽に、ぴくりと反応する2人。
順番に……? つまり風呂に入ってる間、もう一人は風呂上がりほやほやの夕陽様と部屋に二人きりになる、ということか。
ぴり、と空気が張り詰めた。
「朱雀、お前にはいつも感謝してるから、先に入っていいぞ」
「いやいやいや、なぁに言ってんだか。お前こそ疲れてるだろ? 先に入ってこいよ」
夕陽はそのやり取りを見つめ、肩を揺らしながら、冗談めかして言った。
「……じゃあ二人で入ってきたら?」
***
畳の部屋の隅に据え付けられた、小ぶりな檜風呂。
男二人が向かい合って入るには、明らかに狭すぎる――はずだった。
「……お前、膝当たってる」 「それお前の尻尾だろ。しまえよ、デカいんだよ」
朱雀と銀郎、無理やり湯に身体を沈めながら、互いに不満げな視線を投げ合う。
湯気がもわりと立ちこめ、狭い浴室は蒸し風呂状態。しっぽも髪も湯に浮き、ぶつかるたびにぴしゃぴしゃと音を立てた。
朱雀が不意に湯の中から尻尾を引き上げ、濡れた毛を手でしごく。
「ったく……やっぱ湯船で洗わないと、ぜんっぜん取れねえ」
しゅるり、と赤い尻尾の毛が浴槽の縁にへばりつく。
銀郎が眉を寄せてそれを見やる。
「だから苦情が来るんだ。これが大浴場に流れたら、どれだけ詰まるか……」
「うるせぇな、テメェも抜けてんだろーが!」
「毛玉だらけのお前と一緒にするな。私は毎朝、櫛で丁寧に梳かしている。抜け毛など、ほとんどない。お前も最低限の手入れぐらいしろ」
「いーんだよ、俺は。見かねた夕陽様が、時々梳いてくれるからな」
「……呆れたやつだな。そんなことで、夕陽様の手を煩わせるな」
「いいじゃねぇか。お前もやってもらえよ? 想像してみな……こう、さ。根元から、そっと指を入れて……夕陽様の手が、優しく撫でるように……」
「……夕陽様の手が……優しく……撫でるように…………?
――――って! ば、バカッ!」
朱雀のにやけ顔に、銀郎は銀の耳まで真っ赤に染めながら、湯気より熱くなった頬を隠した。
ぎゅうぎゅう詰めの風呂の中。
言い争いながらも、二人の間には、どこか楽しげにじゃれ合うような空気が流れていた。
***
風呂から上がった二人は、濡れた髪を軽く拭いながら部屋の引き戸をそっと開けた。
――と、目に飛び込んできたのは、布団の上で仰向けに眠る夕陽の姿だった。
薄くかけられた浴衣は、寝返りのせいかゆるく乱れ、鎖骨のラインがちらりとのぞいている。さらに視線を落とせば、裾からすらりと伸びた脚が覗き、しなやかな肌が行燈の明かりに照らされて淡く光っていた。
朱雀が息を呑む。
「……は? なんでこんな色っぽい寝方してんだよ……!」
銀郎は黙ったまま、眉間に皺を寄せた。
「……いや、これは……隙だらけすぎる」
二人してぴたりと動きを止め、夕陽を見つめたまま固まった。
しばらくの沈黙ののち、朱雀が小さく舌打ちして足を踏み出した。
「……ったく、風邪ひいたら洒落になんねぇっての」
そう言いながら、布団の端にしゃがみこみ、夕陽の肩にそっと掛け布をかける。指先がちらりと鎖骨に触れそうになり、慌てて引っ込めた。
「なに見てんだよ」と言わんばかりに銀郎の方を睨むが、銀郎は無言のまま、視線を逸らした。
そのまま朱雀が立ち上がりかけた瞬間――
「……乱暴だな。肩が出てる」
銀郎が低く呟きながら、静かに歩み寄ってきた。そして朱雀を押しのけるように膝をつき、夕陽の肩口の布を丁寧に直す。
「……ちょっとでも冷えたら可哀想だろう。雑にかけるな」
ふと視線を戻せば、朱雀が静かに、しかし虎視眈々と布団へと手をかけていた。
「……おい。何してる」
銀郎の声が低く刺さる。
朱雀はピクリともせず、ひたと夕陽の寝顔を見つめたまま、囁くように言った。
「見てわかんねぇか? 一緒に寝るんだよ」
「ふざけるな。夕陽様が寒くないように布団を直したばかりだ。潰す気か?」
「潰さねぇよ。そっと入るだけだっての」
「そっと、だと?」
銀郎の眉がぴくりと動く。
「この間だって、寝返りで蹴ったんだろう。私は知っている」
「は? そんなの覚えてねぇし!」
小声の口論が白熱する中、当の夕陽は変わらず微睡の中にいた。まるで子供の喧嘩を心地よい子守唄とでも思っているかのように。
「とにかくダメだ」と銀郎が腕を組んで遮ると、朱雀は目を細めてにやりと笑った。
「……じゃあ、お前が反対側に寝たら? 俺とお前で、夕陽様を挟む形で」
「断る」
「即答かよ!」
しかし、そんなやり取りをしているうちに、朱雀はいつの間にか夕陽の布団の端へと潜り込んでいた。
「うお、ぬく……って、あっ、尻尾引っ張んな!!」
銀郎の手が容赦なく朱雀の尻尾を掴む。だが、朱雀は夕陽の肩に顔を寄せたまま動かない。
「夕陽様……おやすみ」
布団の中、夕陽がかすかに身じろぎ、朱雀の方へ体を傾ける。
その瞬間、銀郎の表情が凍りついた。
……そして静かに布団の反対側へ回ると、彼もまた、ごく自然な顔で布団へ潜り込んだ。
「やはり、夕陽様の体温は心地いいな……昔を思い出す」
「って、おい! 結局そうなんのかい!」
こうして、また“ギチギチ”な夜が、ひとつ幕を開けるのだった――。
――暑い。
じっとりと額に汗が滲み、胸元にも不快な熱気がこもっていた。夕陽はうっすらと目を開ける。
視界の左右に、獣の耳。
(……ああ)
この暑さの原因に、ようやく思い至る。
片側では朱雀が喉元に顔を寄せ、反対側では銀郎が自分の腰に腕を回している。しかもどちらも尻尾が布団の中で絡まって、熱のこもり方も尋常ではない。
そっと身を起こし、寝息を立てる二人を見下ろす。
「……通りで暑いはずだ」
苦笑を浮かべながら、夕陽は音を立てぬように布団を抜け出し、隣の敷き布団へと身を沈めた。
ひんやりとした空気に肩をなでられ、すぐにまどろみの中へと沈んでいった。
***
――朝。
朝陽が障子越しに差し込み、部屋の中がうっすらと温まってくる頃。
「……ん、夕陽様?」
朱雀がぼんやりと目を開ける。すぐそばに感じる肌のぬくもり、匂い。やわらか……くはない。
(あれ……夕陽様って、こんなにガッチリしてたっけ……?)
そこには寝息を立てる銀郎の顔があった。長い睫毛に、うっすら紅い頬。
「……ん……夕陽、さま……そこは、くすぐったいです」
うっすらと目を開けた銀郎とバチリと視線が合った。
そして次の瞬間、お互いが「違う」と気づく。
「ぎゃああああッ! なんでお前なんだよ!!」 「貴様こそ、なぜ私を抱いている!?」
ガバッと跳ね起きて、同時に布団の端へと離れ合う二人。そのど真ん中から――
「お前たち、仲が良いなぁ」
静かな、しかし確実に楽しげな声が落ちてきた。
二人がそろりと顔を上げると、いつの間にか起きていた夕陽が、隣の布団から湯呑み片手に座っていた。
「朝から元気でなによりだ」
そう言って、穏やかに微笑む夕陽とは裏腹に、二人の背中には落胆の色が見えた。
けれども、肩を寄せ合い眠ったぬくもりも、微睡みの中の勘違いも――
そのすべてが、どこか幸せで、愛おしい。
たまには、こんな朝があってもいいのかもしれない。
番外編:お宿でほっこり回 完