【第六話:杜鵑草の咲く頃に 前編】

  (※暴力描写あり)

  あの日のことは、今も鮮明に覚えている。

  冷たい檻の中で、私は、ただ座り込んでいた。

  生きる理由も、名を呼んでくれる者も、もうどこにもなかった。

  ――そんな私に、手を差し伸べたのが、夕陽様だった。

  ***

  「これはまだ若い芽だから、摘むなら来週まで待った方がいいわね」

  しゃがみ込んだ銀妖の女性が、ふわりと微笑む。風にそよぐ銀の髪が、朝の光を受けてやわらかく揺れた。目元に宿るのは、どこまでも穏やかな慈愛。

  「じゃあ、こっちは?」

  幼い銀郎が目を輝かせ、草の合間にちょこんと顔を出した小さな葉を指差す。

  「ふふ、それは“毒キノコ”。見分けるの、難しいでしょう?」

  そう言って、母は優しく身を寄せた。

  しなやかな指先が、そっと銀郎の手を包む。

  その手のぬくもりが、何よりも銀郎の胸に染みた。

  やさしさとは、こういうものなのだと――幼い心に、そっと刻まれる瞬間だった。

  ずっとこのやさしさに包まれて居られるのだと、そう思っていたーー。

  次の瞬間には、母はもう倒れていた。

  「に……げ、て……」

  掠れた声が耳に届く。その言葉の意味を理解するより早く、銀郎の身体は強張っていた。

  草の上に伏したままの母を、ただ茫然と見下ろすしかできなかった。

  「母……様……?」

  か細い声が震え、指先だけがかすかに動く。震える手を伸ばしかけたその時――

  ヒュッ――

  頬をかすめるような風切音の直後、鋭い痛みが走った。思わず息を呑み、銀郎は顔を押さえ、膝を折った。

  (なに……っ?)

  地面に手をつき、浅く呼吸を繰り返す。鉄のような匂いが鼻をつく。掌に触れた頬がじんわりと濡れていた。

  そのとき――視界の端に動く影。木立の間に立つ黒ずくめの人影が数人。無言でこちらを囲むように、じわりと歩み寄ってくる。

  銀郎の胸に、冷たい恐怖が染みこんだ。

  (……“銀妖狩り”だ――――!)

  母が昔、ぽつりと語ったことがある。

  長命種である銀妖の血肉や骨は、秘薬や呪物として珍重される。人の間では、それらを得るために銀妖を狩る者たちがいるのだと。

  ――けれど、それは遠いどこかの話。ずっとそう思っていた。

  「母様……っ! 母様……っ!!」

  声を張り上げて揺するも、母のその目には、もう光が宿っていなかった。

  嗚咽がこみ上げるより早く、後ろから荒々しい手が銀郎の腕を掴んだ。

  「いたぞ、子供の方もだ!」

  「チッ、なんだ男か。おい、必要なのは女の方だけだ。ガキは好き者にでも売り飛ばしとけ」

  男たちの声が遠く聞こえる。だが、身体が動かない。

  必死に母の元へ戻ろうと手を伸ばすも、その手は乱暴に引き剥がされた。

  「離せっ……! 母様が……っ!! 母様……っ、母様……っ!!」

  叫んだその声が、森の奥へ虚しく消えていく。

  母の冷たい手の感触だけが、銀郎の指にかすかに残っていた――。

  ***

  もう、どれだけの時が過ぎ去ったのか分からない。

  手足を縛られ、麻袋に詰められていた。暴れれば頭を殴られ、腹を蹴られ、それでも抵抗すればさらに痛めつけられた。

  そんなやり取りを何度か繰り返すうちに、ついには意識を手放していた。

  ……全身が痛い。

  それに、身体が鉛のように重い。

  苦悶に顔をしかめながら、ゆっくりと瞼を開ける。

  目の前にあったのは、無機質な鉄の格子だった。

  ――檻だ。

  思考はまだ霞んでいて、状況をすぐには呑み込めなかった。

  外の様子を窺おうとしたが、周囲は闇に閉ざされていて、何ひとつ見えない。

  じわじわと、心の奥底から悲しみがこみ上げてくる。

  「うっ……うっ、……母様……母様……」

  震える声が、ひどく頼りなかった。

  今ごろ母は、すでに“商品”として扱われてしまったのだろうか。

  あの時――冷たくなっていた母の身体のぬくもりが、まだ指先に残っている気がしていた。

  ***

  ざわざわとした人熱れと、動物の鳴き声、騒がしい呼び込みの声が飛び交う。

  夜の市に設けられた、薄汚れた見世物小屋。外からは幕に染みついた油の匂いと、湿った土のにおいが入り混じっていた。

  「さあさあ、寄ってらっしゃい見てらっしゃい! 本物の“銀妖の子供”だよォ!」

  呼び込みの声に釣られて、野次馬が次々と狭い小屋に流れ込んでくる。

  幕の奥、檻の中。

  銀郎は肩を落とし、膝を抱えてうずくまっていた。ぼろぼろになった着物の隙間から、銀の尾が垂れ、動くことなく床に落ちている。

  肩まで伸びた髪は何日も洗われず、絡まり、汚れきっていた。両手は鎖で後ろに縛られ、動けば音が鳴るよう工夫されている。

  「……本物だってさ。触ってもいいのか?」 「やめときな、前の客が尻尾を引っ張ったら指を噛み千切られたって話だぜ」 「でも綺麗な顔してんな……」

  無遠慮な声が飛び交い、笑いが起こる。

  銀郎は顔を上げない。目を閉じ、ただじっとやり過ごすことだけを覚えた。

  抗えば、殴られる。叫べば、笑われる。

  ならば、黙って耐えるしかない。

  「さあ、動かねぇと見えねぇだろォ? こっち向け、この化け物!」

  誰かの声と同時に、棒のようなもので檻の柵をガン、と叩かれる。

  その音にびくりと肩を震わせながらも、銀郎は顔を上げなかった。

  「耳、ほんとに付いてんのか? なあ、引っ張ってやろうぜ」

  「尻尾もな。切り取って保存しときゃ、薬になるんだろ?」

  無邪気な笑い声が響く。

  観客のひとりが、檻の隙間から手を伸ばしたかと思うと、次の瞬間――銀郎の尾が強く引かれた。

  「……ッ!」

  痛みに体が仰け反る。

  だが、声を上げたら負けだと分かっていた。

  だからただ、唇を強く噛みしめる。引かれた尾の先から、白銀の毛が何本か抜け落ちて床に散った。

  「動いた! 見たか!? やっぱり生きてんだな!」  「いっちょまえに睨みつけてやがんぜ」

  下卑た歓声が上がる。

  銀郎は、耐えるように目を閉じた。

  (……どうして、こんな目に遭わなければいけないんだ。母も、俺も、いったい何をしたというんだ……!)

  沈んだ心で眼を閉じると、遠くから母の声が微かに耳に届く。

  ――銀郎、お前は、優しい子よ。

  ――いつか大切な人を見つけて……幸せに生きて。

  その声が、胸の奥で何度も繰り返されるが、今はただ虚しく響くばかりだった。母の温かな声が、自分の心の中で冷たくなり、消えていく。

  (どうして俺は生きているんだ? こんな地獄のような現実に、何の意味がある?)

  生きる力が、次第に薄れていくのを感じる。だが、それでも呼吸だけは止まらなかった。薄れていく意識の中で、このまま眠って二度と目が覚めなければいいと、ただ願った。

  ***

  「夕陽様! これでいいか?」

  まだあどけない姿の朱雀がお披露目するように両手を広げて見せた。赤髪がぴょこんと揺れ、幼さを残す笑顔がまぶしい。

  「ああ、ちゃんと尻尾が隠れてるね。これも被って」

  にっこりと微笑んだ夕陽は、淡い布の頭巾を朱雀の頭にそっと被せ、首元の紐を丁寧に結ぶ。

  「これでよし、と。さあ、出掛けようか」

  「うん! へへっ、夕陽様とお出掛け、楽しみだな!」

  晴れ渡る秋の空の下、風が金色の葉をさらさらと揺らしている。朱雀は落ち葉の束を勢いよく蹴り上げ、カサカサと鳴る音にクスリと笑みをこぼした。道端で、光を反射する小さな石を見つけ、指で転がしながら、それを巾着にしまう。

  赤と黒の布でしっかりと縫われたその巾着は、朱雀にとって大切な宝物だった。中には、夕陽からもらった飴や、道で拾ったきれいな石、木の枝やガラス玉なども大事に入れている。

  「夕陽様、見て見て! こんなきれいな石を見つけたよ!」

  「ふふ、また集めたのか。……宝物が増えるね」

  夕陽は柔らかく笑いながら、朱雀の手のひらを覗き込んだ。

  朱雀は得意げに胸を張り、小さな石を大事そうに握りしめる。

  その時、不意に風が強く吹き、ひらりと頭巾が脱げそうになる。朱雀はそれを慌てて押さえた。

  「わっ、あぶねっ……!」

  「ふふ。ちゃんと結んだけど、おまえの跳ねっ返りには敵わないな」

  夕陽がしゃがみ込んで再び結び直してやると、朱雀は少し照れたように頬を赤く染めた。

  「ありがと……夕陽様、へへっ、やっぱ好きだなぁ」

  「うん?」

  「ん、なんでもない!」

  朱雀は軽やかな足取りで歩きながら、秋の風に髪を揺らしていた。足音が静かな地面に響き、どこか大人びた表情を浮かべている。

  しばらくして、巾着が膨らみ始めると、朱雀は満足げにそれを握りしめながら、夕陽のもとに戻った。

  「夕陽様、お待たせ!」

  「ふふ、もういいのかい? じゃあ――お買い物、付き合ってくれる?」

  「もちろん」

  朱雀は少し誇らしげに言うと、軽く頷き、夕陽の隣に並ぶ。

  手をつないで歩く二人の影が、秋の日差しの中で並んで揺れる。町の通りはちょうど人通りが多く、屋台の焼き団子の匂いや、干した柿の鮮やかな色が朱雀の目を引いた。

  夕陽は布袋の中身を一つ一つ確認しながら、薬種屋で乾燥した薬草をいくつか買い、次に立ち寄った八百屋で形の良い里芋を手に取った。

  「煮物にしたら美味しいかな。おまえも食べるかい?」

  「うん、夕陽様の煮物、大好き!」

  「……じゃあ貰おうか」

  買い物を終える頃には、日も少し傾き始めていた。

  「さて、甘味でも食べて帰ろうか。今日はおまえもよく頑張ったしね」

  「ほんと!? やったー!」

  朱雀がぱあっと顔を輝かせ、嬉しそうに手を握り直したその時だった。

  通りの向こうから、ざわついた人の声が聞こえてきた。音に混じって、微かに太鼓の音が響く。好奇心に引かれた朱雀が首を伸ばす。

  「夕陽様、あれなに? なんか、人が集まってるよ?」

  指さした先には、見世物小屋の大きな幟がはためいていた。仮設の舞台のような小屋が建てられ、入口の前では道化が鐘を鳴らしながら客寄せをしている。

  「さぁさぁ見ていけ、珍しき“あやかし”の生け捕りだァ! 今宵限りの貴重な見世物! 逃せば一生の損――!」

  道行く人々が立ち止まり、興味を引かれて次々と小屋へ吸い込まれていく。中からは、何やらかすれた声と笑い声、そして……時おり、かすかに、獣の悲鳴のようなものが聞こえてきた。

  「……夕陽様……」

  朱雀が、不安げに袖を掴んだ。

  夕陽は一瞬だけ足を止め、視線をその小屋に向けた。

  ――何か、嫌な胸騒ぎがする。

  夕陽はしばし迷った末、小屋の入口へと足を向けた。

  朱雀はその袖をぎゅっと掴んだまま、後ろに隠れるようにしてついていく。

  「夕陽様……ひどいにおい」

  鼻をつく鉄錆のような匂いに、朱雀が怯えた声を上げた。

  小屋の中は薄暗く、灯りの代わりに吊された提灯が揺れている。舞台の上では、拍子木の音と共に男が叫んでいた。

  「さぁさぁ見ていけぇ! 生きた銀妖! ほら見ろ、この毛並み! この尻尾! この目ェ!」

  野次馬の歓声と冷笑に混じって、舞台の中央に吊るされた檻が目に入る。

  その中にいたのは――

  夕陽の目が、思わず見開かれた。

  骨と皮ばかりになった痩せ細った身体。

  長い銀髪は絡まり、裂けたように無惨に切り落とされ、垂れ下がっている。

  裸同然の肌は乾いた血と汚物にまみれ、蛆が湧き、裂けた皮膚には虱が蠢いていた。

  目の焦点は定まらず、呼吸さえ浅い。

  それでも、確かにそこに「命」が、まだ微かに残っていた。

  「……ッ」

  夕陽の唇が震える。

  視線を落とすと、檻の床には咀嚼すらされていない野菜のくずや、干からびた団子のようなものが転がっている。

  その隣で、銀郎はうずくまり、ただただ寒さと飢えと、恐怖に身体を縮こまらせていた。

  「夕陽様…………」

  後ろから、小さな声。

  朱雀が夕陽の背に隠れたまま、怯えたように身をすくめていた。

  夕陽は、ただ一歩、静かに前へと踏み出す。

  掌には、自然と力が込められていた。

  「すまない。ここの“銀妖”、譲ってもらえないか」

  突然の申し出に、見世物小屋の男たちは一瞬ぽかんとしたが、すぐに下品な笑い声を上げた。

  「ははっ、買うだと? アンタ、ただの客じゃねぇか。こいつは今夜の目玉だぜ? 売るなら……そうだな、五十両はいるな」

  夕陽はふわりと懐から小さな巾着袋を取り出し、足元に落とした。

  「……“これだけ”では足りないか?」

  巾着の口がわずかに開き、そこからちらりとのぞくは──

  銀貨。

  ただの銀ではない。祓い屋にしか持たされない、特別な印が刻まれた、希少な印付き銀貨だった。

  これ一枚で、下手をすれば百両の取引が成立する、とまで言われる代物だ。

  「ッ……け、桁が違う……!」

  見世物小屋の男たちは、あからさまに息を呑んだ。

  「彼の価値を、人間の尺度で計ろうなんて思ってない。ただ、命を買うなら、このくらいにはなるだろうと判断したまでだよ」

  その声音はどこまでも穏やかで、けれど凍えるような冷たさを孕んでいた。

  男が震える手で銀貨に触れようとした、その時。夕陽の瞳がすっと細まり、声が一段低くなる。

  「だが――次はない」

  張りつめた沈黙の中、その言葉が鋭く刺さる。

  「次に“仕入れ”などという真似をしたら、その時は……命の値も計れるうちに逃げることだ」

  凍りついた空気の中、男たちは顔を見合わせ、ざわりと小声を漏らす。

  「……何者なんだ、あの男」 「バカ、知らねぇのか。四條家の若旦那だよ」 「えっ、四條家って、あの祓い屋の……?」「そうだよ、あんなの怒らせたら、末代まで祟られるぞ」

  その一言に、誰かがごくりと唾を飲み込んだ。

  朱雀がぴたりと夕陽の背に隠れ、男たちは冷や汗を垂らしながら一歩、また一歩と後ずさる。

  夕陽はそんな様子を一瞥するだけで、ゆるやかに銀郎の檻へと歩み寄った。

  ガチャリ、と鍵を開ける音に、檻の奥でうずくまっていた銀郎が微かに顔を上げた。

  顔――というには、痛ましい状態だった。

  血のにじむ唇、腫れた頬、くすんだ金の瞳。

  それでも、その目にわずかに宿った光は、確かに「生きたい」と叫んでいるようだった。

  「夕陽様、そいつ噛むかも。気をつけて」

  朱雀が怯えた声でそう言ったが、夕陽は静かに微笑む。

  「平気だよ。ほら、もう、大丈夫だ……怖かったな」

  そう囁いて、そっと銀郎の肩へと手を伸ばす。

  銀郎の身体がビクリと跳ねたが、それも一瞬だった。力が抜け、彼はふっと夕陽にもたれかかるように倒れ込んだ。

  抱き留めたその身体は、羽のように軽く――それがまた、ひどく悲しかった。

  続く