夢喰いの一件からというもの、銀郎と夕陽の距離は確実に縮まっていた。
昏睡から目覚めた銀郎の目はもう、以前のように伏し目がちではなかった。どこか影を落としていた瞳は、まっすぐと夕陽を見据え、言葉の端々には迷いが消えていた。
「夕陽様、御髪整えますね」
「夕陽様、羽織をお持ちしました」
「夕陽様、吸い物の味見をしていただけませんか?」
何気ないやり取りの中に、銀郎の感情が垣間見える。
控えめだった距離感も、いつしかごく自然に近くなっていた。
それが――朱雀には、たまらなく癪だった。
夢喰いに襲われた時、なにがあったのか聞いても、夕陽様も銀郎も曖昧にはぐらかし、口を噤んで詳細を語ろうとはしなかった。
夕陽様の一番は、ずっと自分だった。
夕陽様が最初に名をくれたのも、手を差し伸べてくれたのも、優しく頭を撫でてくれたのも、全部、自分だった。
けれど最近は、夕陽様の隣に並ぶ銀郎が妙に自然に見えて――その事実が、焦りとなって胸を焼いた。
夕餉を終え、湯で身を清めたあと、部屋に戻ると、銀郎が灯された燭台の揺れる光の中、畳にあぐらをかき、膝に読みかけの文冊を置いて頁をめくっていた。
「……おまえさぁ、最近夕陽様にベタベタしすぎじゃねぇ?」
苛立ちに任せてぶつけた言葉にも、銀郎は揺れなかった。
その表情には怒りも焦りもなく、ただ真っ直ぐに、朱雀を見据える静けさがあった。
少しの沈黙のあと、銀郎は視線を手元へと逸らし、ふと微笑んだ。
「……嫉妬、か?」
からかうような響きもあったが、その声音はどこか切なげだった。
「ばっ……、 ちげーよ! いつも俺に対して弁えろだの慎めだの説教垂れてんのは、どこの誰だって言ってんだよ」
そう吐き捨てながらも、朱雀の声には微かに焦りが滲んでいた。
拳を握る手には力がこもり、今にも何かを言い足そうと唇が震えた。
だが、銀郎はその様子に取り乱すこともなく、穏やかな目で朱雀を見つめていた。
ひとつ深く息を吐いてから、銀郎は静かに文冊を閉じた。薄く響く紙の音が、沈黙の空気を割る。
「……私は夕陽様に、私の想いを伝えようと思っている」
「……は?」
「例え拒絶されてもかまわない。けれど、私はこの気持ちを偽りたくない。夕陽様は、誰よりも優しい方だ。想いそのものを、否定するようなことはしない」
その目には、静かだが確かな決意が宿っていた。
いつのまにか銀郎は、ただの同居人でも、仲間でもなくなっていた。
焦りが、喉元まで込み上げる。
情に深い夕陽様のことだ。銀郎の想いを、きっと無碍にはしない。
そんな確信めいた“嫌な予感”が、心を締めつける。
焦燥と嫉妬で、どうにかなりそうだった。
――そして、ある夕暮れのことだった。
裏庭のクチナシが、白く甘く咲き誇っていた。
その香りの向こうに、二人の姿が見えた。
夕陽が優しく頷き、銀郎がその隣で何か囁くように話している。
近すぎる距離。和やかな空気。
まるで、ふたりだけの世界のようで。
サッと、胸が冷たくなった。
「……夕陽様!」
呼びかけた声に、二人が同時に振り返る。
夕陽の瞳はいつものように柔らかく、朱雀を見つめた。
「どうしたんだい?そんなに慌てて」
その声に応えるように、朱雀は歩み寄り、拳を握りしめて立ち止まった。
「……もう、耐えられねぇんだ……」
夕陽と銀郎の間に立つ。ふたりの距離を裂くように。
「俺……ずっと夕陽様の傍にいた。ガキの頃から、ずっと……それだけが、俺のすべてだった」
朱雀の声は震えていた。でも、決して俯かず、夕陽の目をまっすぐに見た。
「誰にも渡したくねぇって、そう思ってた。でも最近の夕陽様は、こいつの方ばっか見てて……俺のこと、置いていかれるみたいで……」
その瞳に浮かぶのは、悲しみと怒り、そして恐怖。
「俺……夕陽様が、好きだ。ずっと好きだった。……夕陽様が男でも、人間でも構わない、これからも、ずっと……夕陽様の一番でいたい」
叫ぶように、縋るように、ぶつけた想い。
それは決して子供の感情なんかじゃない。
今の朱雀が、すべてを賭けて差し出した“本気”だった。
そして――その隣に立った銀郎が、静かに一礼し、同じく夕陽を見つめる。
「……私も、同じ想いです」
柔らかいが芯のある声だった。
「朱雀のように、言葉にするのが上手くはありませんが……私も、夕陽様を、ただの主としては見ていません」
夕陽が何かを言いかけたが、それを手のひらで静かに制し、銀郎は続けた。
「私が生きている意味は、夕陽様が与えてくれた。命を、心を、救ってくれた方です。私は……その人を愛しています」
一瞬、微笑むように目を細める。
「拒絶されてもかまいません。ただ、この想いを知っていてほしかった。それだけです」
静かながら、確かに響く告白。
ふたりの想いは、香るクチナシの花よりも濃く、切実だった。
そして夕陽は、何も言わずにその場に立ち尽くしていた。
穏やかだった瞳に、揺れる光が走る。
朱雀と銀郎の視線を一身に受け、夕陽はしばらく沈黙していた。
その表情は、困ったようにも、苦しげにも見える。
「……すまない」
静かに紡がれた声は、まるで風が吹き抜けるように優しく、けれど確かだった。
「知っていたよ。……おまえたちの気持ちに、ずっと前から気づいていた」
朱雀が小さく息を呑む。銀郎の睫が静かに揺れた。
「でも、どうしたらいいのか、わからなかったんだ。私はずっと色恋沙汰とは無縁の生活をしていたからね。
ただ、こうして一緒に笑って過ごせる今を壊したくなくて……このまま時が過ぎていくのもいいって、そう思ってしまった」
夕陽はふたりを見つめながら、どこか寂しげに微笑んだ。
「どちらかを選ぶなんて、私にはできない。……そもそも、そんな資格があるとも思えないよ。おまえたちは、まだ若い。もっと広い世界を見て、もっとたくさんの人と出会って――
その中で、私なんかよりずっとふさわしい誰かを、見つけてほしい。
……だから、私を好きでいる必要なんて、ないんだよ。
……私は、そんな風に思ってしまうくらいには――ずるくて、弱い人間なんだ」
静寂の中、クチナシの花の香りだけが濃く、甘く揺れていた。
まるで、答えを出すのを先延ばしにしたこの空白を、そっと包み込むかのように。
「……ふざけんなよ」
拳を握りしめた朱雀の目には、悔しさと悲しみが滲んでいた。
「……そうやって全部、あんたが決めるなよ。俺たちの気持ちまで……勝手に」
唇を噛みしめたまま、夕陽を睨みつける。
涙が落ちそうになるのを必死でこらえるように、顔を上げたまま。
「……でも、それでもいい。俺は、選ばれなくてもいい。
俺のこと、好きじゃなくてもいいから、――ちゃんと、知っててほしかった。
……ずっと夕陽様の一番でいたかった。それだけなんだ……」
悔しさか、哀しさか、もう自分でもわからない。
ただ胸の奥が、熱く、苦しくて――息を吸うたびに、痛みが沁みていくようだった。
一方、銀郎は朱雀の言葉に口を閉ざしたまま、じっと夕陽を見つめていた。
静かな眼差しの奥に、何かを飲み込むような気配があった。
「……私は、いつの間にか欲張りになっていたんですね……」
銀郎の声は落ち着いていたが、その奥にほんの僅か、震えがあった。
「知っていて、何も言わずにいてくださったこと……優しさだとも思います」
彼は夕陽に一歩、近づく。
「……それでも、私の気持ちは変わりません。
たとえ選ばれなくても、あの日――虚ろな夢の中で、私の名を呼んでくれた声だけで……私は、もう十分に救われたのですから」
その言葉に、朱雀の目がわずかに揺れる。
銀郎の決意を、優しさを、そして同じ人を想う者としての痛みを感じたのかもしれない。
ふたりは、互いに何も言わず、ただ静かに夕陽を見つめる。
その視線はまるで、
「この想いは揺るがない」と、
「それでも、あなたを信じて待っている」と、
そう告げているようだった――。
誰も、言葉を発さなかった。
夕陽はただ、視線をそらさずに、目の前の二人を見つめていた。
朱雀も、銀郎も、その視線を受け止めながら――けれど、ふと目を伏せる。
言葉ではどうしようもない気持ちが、それぞれの胸に渦巻いていた。
痛みも、優しさも、願いも、欲も。
全部が、静かにその場に降り積もっていく。
チリン――
どこからか、風鈴が鳴った。
まるで、それが合図だったように、朱雀が小さく息を吐いて背を向けた。
「……俺、まだ諦めねぇから」
声は掠れていたが、その背中には確かな意思があった。
振り返らず、けれど、まるで心だけはしっかりと夕陽に向けたまま、歩き出す。
銀郎も、それに続くように一礼しその場を離れた。
残された夕陽は、しばらく庭に佇んでいた。
茜色の空が、クチナシの白をやさしく照らしている。
――二人の気持ちは、確かに届いている。
でも、その答えはまだ胸の奥で眠ったままだ。
それでも。
今夜、確かに心は、少しだけ、前に進んだのかもしれない。
静かな夜が、深く、深く、降りていく。
第三話:山梔子の花 完