下宿

  水の大陸、ワイワイタウン。

  団長からお使いを頼まれたエリスは市場で買い物を終え、市場の端にあるベンチに腰かけている。市場には多くの住民の姿があり、それらを見渡したエリスは絞り立ての果物のジュースの入ったグラスを傾け、喉の奥に流し込む。

  市場に続く裏通りから複数の怒声と若い娘の声が聞こえるが、エリスは意に介さずにジュースの味を楽しみつつ、脳裏に両親の顔を思い浮かべる。

  エリスの両親はライチュウのライラとバシャーモのリラである。しかし、エリス自身はリザードであるため、ライラが実の父親でない事は明白である。思春期を迎えたエリスは、実の父親について知りたいという欲求があるが、その事をライラとリラに尋ねる訳にもいかなかった。

  唯一、両親以外でエリスの過去を知る団長に尋ねても、お茶を濁されるだけである。

  「…はぁ」

  思い通りにならない現実を目の当たりにしたエリスは溜息をこぼし、目を伏せた。

  両親の事が嫌いな訳ではない、関係が悪い訳でもない。むしろライラとリラはエリスの最大の理解者であり、彼女を支えてくれる自慢の両親である。

  そんな彼らを傷つけずに、自身の過去を知る術はないのか。

  ベンチに腰かけているエリスは思案したが、早々にアイデアが思いつく訳でもなく、代わりに口から溜息が溢れた。ふと、エリスの目は街の中央に建てられたレシラム教の教会を捉えた。荘厳な造りの建物にはレシラムの像が掘られ、街の人々を見渡している。それを見上げたエリスは舌を出し、微かに悪態を吐く。

  「…一度、おだやか村に顔を出そうかな」

  故郷を離れてから数ヶ月ほど経過しており、エリスは故郷の光景や匂いを思い出した。懐かしいそれらの情報を記憶の奥底から呼び出したエリスは、独り言を漏らし、大きく伸びをした。

  頭上の青空に目を向けたエリスは、故郷の空を思い出した。

  おだやかな風、草木の匂い、滝の飛沫、海の香り、丘の上の大樹。大樹の下で遊ぶ弟妹達と幾つもの墓石を手入れする両親の姿、見慣れた光景であり、それを脳裏に描いたエリスは、久しぶりに家族と会いたいという感情を抱いた。

  「…?」

  エリスは眉根を寄せた。

  エリスの記憶が正しければ、エリス達がおだやか村に引っ越したのは5年前である。それより前は別の大陸に住んでおり、両親もそこで生業を得ていた。

  水の大陸、おだやか村への引っ越しを決めたのは両親であり、突然の事であった。その事は当時10歳だったエリスも覚えており、両親や弟妹達と共に長い船旅を経験した。

  故に、エリスは疑問を抱いた。

  「…なんで、おだやか村に引っ越したの?」

  エリスにとって、おだやか村は縁も所縁もない土地である。これがワイワイタウンのような大都市ならば、自身や弟妹達の仕事や教育、そして両親の仕事のために引っ越すのだと理解できる。しかし、おだやか村は豊かな自然があるが、仕事や教育の場としては相応しいとは言えない。学校は初級学校しかなく、仕事も役所や保安官、小さな小売、農業など限られたものばかりである。

  わざわざ、船を使ってまで引っ越す理由が見当たらない。

  「…知人や家族がいる、という訳でもない」

  エリス達がおだやか村に引っ越してきた時点で、村は再建の途中であった。その時に住んでいた村人達と両親は初対面であり、おだやか村に家族や知人がいるから引っ越してきた訳でもない。

  仕事や学校のためでもなく、家族や知人がいる訳でもない。それなのに両親はおだやか村への引っ越しを決めた。

  エリスの脳裏に両親の姿が映る。続けて、エリスは丘の上にある墓石を手入れする両親の姿を思い出した。

  両親は墓石の手入れを怠らず、時には一家揃って丘の上の清掃や墓参りをしていた。引っ越してきた当時、10歳だったエリスは疑問を抱かなかったが、働き始めた今なら理解できる。

  わざわざ、赤の他人の墓を手入れし参拝する者は少ない。だが、両親は子供達を連れて、丘の上にある墓を手入れし、参拝していた。

  その答えは単純である。

  「…お父さんとお母さんの家族や知り合いの墓、だから?」

  これまで、当たり前のように手入れし参拝していた墓が誰の物であるのか。その疑問を抱いたエリスは、青空を見上げながら呟いた。

  「…おだやか村は、お父さんとお母さんの故郷?」

  だが、エリスはそれが誤りである事を理解している。ライラとリラは「私達は砂の大陸が故郷である」と幾度も話し、教えてきた。

  しかし、ライラとリラがおだやか村の出身であるなら、砂の大陸から船を使ってまで、おだやか村へ引っ越した理由も、墓の手入れや参拝する理由も説明できる。

  エリスは自身の中で組み立てた仮説を反芻し、青空を見上げた。なぜ両親が出身地を偽るのか、なぜ大量の墓石を手入れしているのか、エリスは考えた。

  「…誰のお墓なの?」

  エリスはぽつりと呟き、やがてベンチから立ち上がる。彼女は団長に頼まれたお使いの品を片手に歩き出し、広場を抜けた。人混みを掻き分け、エリスが向かう先にあるのは、大きな建物である。

  それは町立の図書館と役所である。

  おだやか村で何が起きたのか、大量の墓石がなぜあるのか、両親が出身地を誤魔化す理由は、エリス自身の実の父親とは。

  それらの疑問を抱いたエリスは図書館や役所に保管されている過去の新聞や記録を確認すべく、建物の中へと入っていった。

  *

  ワイワイタウンの中心地に近い区画に建てられた一際大きな屋敷、その一室へと案内されたゼインとエレナは落ち着かない様子で辺りを見渡している。豪華な調度品や壁にかけられた絵画、ゼインとエレナが共に寝れる大きなベッド、実家の部屋よりも大きなクローゼットなど見慣れぬ光景を目の当たりにしたゼインとエレナは、共にソファーに座り、互いに寄り添っていた。

  数時間前、カイリューの高速便を使いワイワイタウンへ到着したゼインとエレナは、両親の友人である牝のマフォクシー、ヘレンと合流すべく、レシラム教の教会を目指して移動していた。途中、市場でお菓子やジュースを購入した2人はベンチに座り、それらの風味を堪能していた。

  そのような折、市場に続く裏通りから悲鳴が聞こえ、ゼインとエレナが駆けつけた。裏通りには石畳で脚を取られた牝のゼラオラの姿があり、顔面を石畳に打ち付けた彼女の介抱を2人で行った。

  幸いな事に、ゼインとエレナには母親仕込みの医療技術があり、簡易な処置にも即座に対応できた。赤毛のゼラオラ、ナツの膝にできた擦り傷や鼻血を処置したゼインとエレナは、その後に駆けつけたナツの兄であるロアと従者のカルム、護衛の騎士達に疑惑の目を向けられた。だが、ナツ自身が2人の疑惑を晴らしてくれたこともあり、ゼインとエレナはその場で解放された。

  問題はその後であった。

  ゼインとエレナに助けられたナツは、2人に信頼と尊敬の目を向けており、ナツは「2人に礼がしたい」とロアやカルムに提案した。ロアとカルム、護衛の騎士達は素性も知れぬ小娘達を目の当たりにして、どうすべきか考えあぐねていたが、そこにヘレンが駆けつけた。

  ゼインとエレナの素性を知りつつ、ロアやナツ、カルムや騎士達とも既知の仲であるヘレンが仲介した事により、ゼインとエレナが怪しい者ではない事が判明し、騎士達の警戒心も解かれた。その後は仲介したヘレンに案内され、ゼインとエレナはワイワイタウンの中心地に近い区画にある屋敷へと移動した。

  生まれて初めて目の当たりにした豪邸に招かれたゼインとエレナは、非常に緊張した様子でソファーに座っている。眼前のテーブルには暖かい紅茶と焼き菓子が置かれており、喉の渇いた2人はそれに口をつけ、居心地が悪そうに辺りを見ている。

  「…ヘレンさんのお家、こんなに大きかったの?」

  ゼインの隣に座るエレナが呟く。妹に尋ねられたゼインは首を左右に振り、紅茶の入ったカップを手に取る。

  「ママに連れられて来たことがあるけど、ヘレンさんのお家は教会の近くよ」

  ゼインの持つカップの紅茶は残り少なく、彼女がどれほど緊張し喉を渇かせているのか、一目でわかる。ゼインの返事を聞いたエレナは焼き菓子を食べつつ、首を傾げる。

  「じゃあ…ここは誰のお家なの?」

  妹に尋ねられたゼインもまた、首を傾げる。

  直後、部屋の扉がノックされた。

  その音を聞いたゼインとエレナは姿勢を正し、扉に注目する。ゆっくりと開かれた扉の向こうには姉妹にとって見覚えのある顔がいた。

  「待たせたわね」

  室内に入ってきた両親の友人、ヘレンは姉妹に声をかけ、彼女達の向かいのソファーに座る。既知の顔を見た姉妹は安心したように肩の力を抜き、顔を綻ばせる。

  ソファーに座ったヘレンは空のカップを手に取り、ポットの紅茶を注ぐ。ヘレンは続けてゼインとエレナの持つカップにも紅茶を注ぐ。

  「遅くなってごめんね…主人とテスとランチに行っていたからね」

  ヘレンの言葉を聞いたゼインは頷き、落ち着いた声で尋ねる。

  「テスとグレイおじさんは元気ですか?」

  ゼインに尋ねられたヘレンは頷き、穏やかな声色で応える。

  「テスも初級学校を卒業したから、あなた達と同じく上級学校へ通うわ…主人は、相変わらず忙しそうね」

  ヘレンはくすくすと笑い、「テスと仲良くしてね」と付け加えた。ゼインとエレナは笑顔で頷き、紅茶に口をつける。

  「主人は…騎士団本部の参謀に就任してから、多忙な毎日を送っているわ…それもあるから、ゼインちゃんとエレナちゃんの下宿先はこの屋敷になるのよ」

  ヘレンの言葉を聞き、エレナは驚き、ゼインは予想していたように頷いた。ゼインは落ち着いた雰囲気のまま口を開き、ヘレンに尋ねる。

  「騎士団本部の参謀宅に…家族以外の部外者が長期間泊まるのは…外聞が良くない、という事ですね」

  ゼインに指摘されたヘレンは苦笑いを浮かべ、頷く。ヘレンは紅茶に口をつけ、ゼインとエレナに目を向けた。

  「誤解して欲しくないけど…私も主人もテスも、ゼインちゃんやエリスちゃんには我が家に止まって欲しいのよ…でも、参謀の家に部外者を長期間泊めたとなると…グレイに敵意を持つ輩から難癖をつけられる可能性がある…なにより、そういう輩があなた達に目をつけるかもしれないわ」

  ヘレンの話を聞き、まだ子供のエレナは驚きを隠さずにいた。しかし、被験者達の魂から様々な事を教わっているゼインは冷静な表情のまま頷き、静かな声で応える。

  「グレイおじさんと敵対する輩が私達にちょっかいを出して、スパイとして利用する可能性がある、という事ですね」

  ヘレンは頷いた。

  「残念だけど、その通りよ。組織の幹部になれば、内外に敵を持つ事もある…若い娘が出入りしているのなら、誘拐して情報を聞き出そうとする輩も出てくる…」

  小声で話したヘレンは溜息をこぼし、紅茶に口をつける。

  「テスだけなら、私やグレイでも守り切れるわ…でもゼインちゃんやエレナちゃんも一緒に守るとなると、私達夫婦の力では足りないわ」

  そこまで話したヘレンは「ごめんね」と付け加えた。驚きの表情を浮かべたエレナと冷静な表情のゼインは落ち着いた声で応える。

  「…グレイおじさん、凄く大変な仕事なのですね」

  「でも、ヘレンさんの言う通りだと思います。危険な事に首を突っ込まない、パパにも言われました」

  2人の返事を聞いたヘレンはくすくすと笑い、ニコルとオズワルドの顔を思い浮かべた。娘達を案ずる彼らの心配そうな顔を想像したヘレンは、焼き菓子を口に運び、微かに笑みを浮かべる。

  「オズワルドらしい物言いね、やはり父親は娘の事を特に心配するからね」

  ゼインとエレナを案ずるオズワルド、テスを案ずるグレイ、それぞれの姿を脳裏に思い描いたヘレンは楽しそうに笑い、焼き菓子と紅茶の風味を楽しむ。眼前のヘレンの言葉を聞き、エレナは恥ずかしそうに笑い、ゼインは苦笑を浮かべる。

  扉がノックされた。

  その音を耳にしたゼイン達は揃って扉の方に目を向けた。ゆっくりと開かれた扉の向こうには、上品な雰囲気を纏う牝のヒスイバクフーン、オリビア・ヘルマンの姿がある。

  オリビアの姿を見たゼインとエレナは不思議そうな顔を浮かべ、ヘレンは笑顔でお辞儀をした。

  室内に入ってきたオリビアはソファーに座るヘレンと挨拶を交わし、彼女の隣に座る。ゼインとエレナは初めて会うオリビアの姿に目を丸くさせ、戸惑いの表情を浮かべた。

  オリビアは笑顔を浮かべ、ゼインとエレナに話しかける。

  「初めまして、ヘルマン家当主のオリビアです。上級学校では、あなた達の講師を務めます」

  オリビアに自己紹介されたゼインとエレナはそれぞれの名前を慌てて口に出し、互いに自己紹介する。

  「ゼインです、出身地はトレジャータウン…ワイワイタウンの初級学校を卒業しました」

  「…妹のエレナです」

  ゼインとエレナの言葉を聞いたオリビアは微笑み、「あとは任せてください」とヘレンに声をかけた。ヘレンは頷き、視線をゼインとエレナに向けた。

  「それじゃあ、私も帰るから…何かあったら、私やオリビア様を頼りなさい」

  ヘレンはゼインとエレナに抱擁を交わし、部屋を後にする。その背中を見届けたオリビアは、ゼインとエレナに向かって微笑みかけ、口を開く。

  「ヘレンさんは私の甥の妻ですので、詳しい事情は把握しています。お二人共、当家で世話しますので、安心してください」

  

  オリビアは優しい声で話し、紅茶に口をつける。優雅な佇まいのオリビアに目を向け、エレナは憧れの眼差しを抱く。対してゼインは冷静な目をオリビアに向け、「よろしくお願いします」とお辞儀をした。

  オリビアはにこりと笑い、姉妹に声をかける。

  「早速ですが、この部屋はあなた達の部屋となります。朝食と夕食は食堂になりますが…昼食はお弁当を作らせますよ」

  「…そんな、寝床だけでもありがたいのに…ご飯までお世話してくれるのですか?」

  エレナに尋ねられたオリビアは微笑みを浮かべる。

  「大人として、子供の生活を助けるのは当然の事です。あなた達も大人になり、困っている子供を見つけたら、助けてあげてください」

  オリビアの話を聞き、ゼインとエレナは頷いた。

  ヘルマン家は大陸でも最高の財力を有しており、その名前を知らない者は居ないと言われている。いくつもの事業や土地、鉱山などを有しているため、オリビアにとって姉妹の世話をする事など造作もない。

  ゼインは眼前の華族の財力を目の当たりにして、舌を巻いていた。ゼインの隣に座るヘレンも深々とお辞儀をして、「ありがとうございます」と礼を述べた。

  オリビアは眼前の可愛らしい姉妹に目を向け、微笑みを浮かべる。

  「さて…今日は到着したばかりで疲れたでしょう…夕食までゆっくりしてください。お風呂とトイレはクローゼット脇の扉の向こうです」

  オリビアはゆっくりと立ち上がり、優雅な足取りで歩いていく。その背中に向かってゼインとエレナは礼を述べるが、オリビアは首を左右に振った。

  「子供は子供らしく…しっかりと勉強し遊んでください。そして…なにかあれば大人を頼ってください」

  優しい口調で話し、オリビアは部屋を後にした。

  静かに閉められた扉を見たゼインとエレナだったが、やがてエレナが口を開いた。

  「…良い人だね」

  エレナの呟きを聞いたゼインは頷き、肩の力を抜いた。オリビアに敵意が無い事がわかり、妹を守り切ったゼインは少し疲れた顔で焼き菓子に手を伸ばす。

  ゼインの口内に焼き菓子の芳醇な香りが広がる。

  *

  ゼインとエレナの部屋を後にしたオリビアは屋敷内を歩き、自室を目指した。途中、庭園の見える窓から穏やかな風が廊下に吹き込み、それを肌で感じたオリビアは目を細め、脚を止めた。

  花の香りを乗せた風が廊下に広がり、オリビアは目を細める。鼻腔を満たす甘い蜜の香りと草木の匂いが心地良く、オリビアは五感でそれを楽しみつつ、視線を廊下の奥へと向けた。

  オリビアの視線の先には、執事に案内されたロアとカルムの姿がある。ロアとカルムはオリビアに向かって頭を下げ、オリビアは薄笑いと共に視線をロアに向ける。

  「これは殿下…何か問題でもありましたか?」

  オリビアに尋ねられたロアは頭を上げ、首を左右に振った。彼はオリビアの瞳を正面から見つめ、口を開いた。

  「いえ、妹が世話になった礼を彼女らに伝えたいと思いましたが…まさか先生の客人だったとは思いもしませんでしたよ」

  ロアは肩を竦めながら笑い、オリビアもまた微かな笑い声をあげる。

  「それだけではありません、彼女らも私の塾に通うので…殿下と同期になります。仲良くしてください」

  「えぇ…」

  オリビアの声を聞いたロアは語尾を弱めながら頷く。その姿を見たオリビアは目を細め、口を開く。

  「殿下は彼女らの出自を案じているのでしょう…」

  オリビアに尋ねられたロアは頷く。彼の傍に控えるカルムも辺りを警戒しつつ、オリビアの返事を待っている。彼らの反応を見たオリビアは薄笑いを浮かべ、静かに話し出した。

  「安心してください。彼女達の両親は調査団の団長やトレジャータウンのヘンデル町長、ギルドのカフカ殿やヘレンさん達が身元を保証しています。信用できる子ですよ」

  オリビアの返答を聞いたロアは安心したように頷き、笑顔を見せる。

  「それなら安心ですね…実はナツが彼女らに懐いているようで…兄としても妹の傍に居て大丈夫な人物か、不安でしたよ」

  「なら、問題は解決ですね」

  ロアは頷き、オリビアに向かってお辞儀をした。オリビアもまた、ロアに向かって手を振り、そのまま廊下を後にした。ロアとカルムは執事に案内され、屋敷の入り口にあるホールへと移動した。ホールには護衛の騎士達とナツの姿があり、ナツはロアに駆け寄り、明るい声で尋ねた。

  「ゼインとエレナに会えた⁉︎」

  妹に尋ねられたロアは苦笑いと共に首を左右に振り、妹に返事をした。

  「今日は疲れているようだから、また今度にしような」

  兄に諭されたハルは頬を膨らませ、拗ねた様に顔を背けた。妹の振る舞いを見たロアは苦笑し、護衛の騎士達に目を向け、「すまない」と労いの声をかけた。騎士達はロアに言葉をかけられた事で姿勢を正し、覇気のある声で応える。

  「お気になさらず、我らは殿下とハル様をお守りする盾です。どこまでも付き従います」

  忠実な騎士達の返事を聞いたロアは頷き、帰宅の途についた。彼の後ろにはカルムとナツ、護衛の騎士達の姿があり、共にレシラム教の教会内にある本邸へと向かって移動した。

  ふと、ロアの目にナツの姿が映る。

  先ほどまで鼻血を流し、膝に擦り傷のあったナツだが、今の彼女の膝は綺麗に治っており、擦り傷の痕も残っていない。それに気がついたロアは不思議像な目でナツを見つめ、落ち着いた声で尋ねた。

  「ナツ、お前…」

  ロアに尋ねられたナツは不思議そうな表情でロアに目を向ける。大きなナツの瞳にロアの顔が反射し、ナツはロアに向かって、不思議像に目を向けた。だが、ロアは閉口し「何でもない」と返事し、視線を逸らした。

  (気のせいか…)

  成長期とはいえ、擦り傷が1時間程度で跡形もなく消える訳がない。ロアは自身に言い聞かせる様に頭の中で考え、思考を切り替えるべく、カルムに声をかける。

  「あの姉妹は悪いヤツではないから…カルムも安心しただろう?」

  ロアに尋ねられたカルムは僅かに頷き、ロアと共に歩き出す。ロアの隣にナツが続き、その周りを騎士達が護衛しつつ、彼らは屋敷から外に出る。

  暖かな日差しがロア達を照らし、彼は目を細めた。

  「…殿下、僭越ながら訂正を」

  隣を歩くカルムが小さな声で呟き、ロアは歩きながら注意を彼に向ける。カルムは周りの騎士達やナツに聞かれぬ様に声量を抑え、ロアに話す。

  「あの姉妹に関して、現状は身元の保証がされただけです。悪人か否か…それは彼女らの今後の動きによります」

  警戒心の強い従者の指摘を耳にしたカルムは肩を竦め、苦笑しつつ口を開いた。

  「カルムの警戒心の強さは大事だと思うが、時と場合によってはトラブルの原因になるぞ。今は…オリビア様が姉妹の事を世話をしてくれるから、信じよう」

  「…殿下がそこまで仰るのならば、私に言う事はありません」

  ロアの意思を確認したカルムは口を閉ざし、カルムは苦笑しつつ、隣を歩くナツに尋ねた。

  「そういえば、何でナツは裏通りに居たんだ?今の時間なら、父上と共に新兵の稽古に参加している筈だろう?」

  ロアに尋ねられたナツは苦い表情を浮かべ、周りの騎士達の視線を避ける様にそっぽを向いた。いつまでも子供じみた反応をする種違いの妹に呆れたロアは、思わず苦笑しナツの頭を撫でた。

  赤みを帯びたナツの毛が風でふわふわと揺れ、ナツは擽ったそうに目を細める。ロアとは異なり、騎士学校に入学したナツは新兵に混じり訓練を受け、騎士を目指して努力している。しかし、時には幼子の様に拗ねるため、時折ロアはナツの相手をする事がある。

  先輩に当たる騎士達の視線を意識したナツは、拗ねた表情のまま、小さな声で呟く。

  「…団長…父さんが最近忙しいでしょう…母さんとフユも寂しがっているのに、あたしだけ訓練で顔を合わせていると思うと…」

  長女として、弟であるニャビーのフユと母親のアキの事を案じており、そのために父親の訓練をサボタージュしたナツの真意を理解したロアは、呆れ顔で彼女の頭を撫でた。頭上に広がる兄の手の感触を覚えたナツは、恥ずかしそうに俯いた。

  ロアは苦笑いをうかべつつ、口を開く。

  「なるほど、仕事ばかりの父さんに対する反抗心という訳か…」

  兄に指摘されたナツは恥ずかしそうに俯き、黙り込む。ロアはナツの頭を撫でつつ、少し声色を落として尋ねた。

  「だからといって、他の兵が参加している訓練を怠ける理由にはならないぞ。今、こうしている間にも他の兵は着実に技術を習得している」

  「…」

  ナツは黙り込み、俯いた。先輩にあたる騎士達は彼女の反応を見て苦笑し、ロアは彼女の頭を撫でながら諭した。

  「俺からも、母さんとフユの相手をする様に父さんに頼んでみるよ…俺も訓練に同行するから、ナツも謝りに行こう」

  優しい声で諭すロアの言葉を聞き、ナツは小さく頷いた。それを見たロアは身体は成長しても、心は幼子のままである妹の頭を撫でた。ロアは視線をカルムと騎士達に向け、申し訳なさそうに話した。

  「という訳だ…この後は休みの予定だったが、俺もナツに同行し訓練に参加するよ。皆は予定通りに休みを取ってくれ」

  ロアに指示されたカルムと騎士達であるが、皆が笑顔を浮かべ、ロアとナツに声をかける。

  「殿下が訓練に参加する以上、我々も同行します」

  「殿下とナツ様の御身をお守りする事こそ、我らの誉れです」

  カルムと騎士達の返事を聞いたロアは苦笑しつつ、「なら頼むよ」と応えた。彼らは教会に併設している騎士団本部にある稽古場に向かって歩き出し、ヘルマン家の屋敷を後にした。

  彼らの姿を窓から見つめる人影がある。

  屋敷の主人、オリビア・ヘルマンは上階にある自室の窓からロアとカルム達を見ており、彼らが歩き去るのを眺めていた。ロア達の一行が屋敷の敷地内から出たのを確認したオリビアは手に持つ煙管を口に当て、その煙を楽しんでいる。

  扉がノックされた。

  オリビアは扉に視線を向け、「どうぞ」と短く応えた。直後、来訪者はオリビアの部屋の扉を開け、室内へと入ってきた。

  扉の向こうには小柄な牝のマグマラシの姿がある。

  マグマラシ、オリビアの孫であり、最年少で上級学校を卒業したフィルは一礼し、室内へと入ってきた。卒業後はレシラム教の外交部に配属され、官僚として働くフィルは、張りのある声でオリビアに話しかける。

  「失礼します、外交部より新たな情報です」

  孫のフィルが持参した紙の束を受け取ったオリビアは、紙面に目を通す。ヘルマン家は円卓の中でも外交面を取り仕切っており、ヘルマン家当主のオリビアは敏腕の外交官でもある。彼女の孫のフィルも同じく外交部で働いており、オリビアに伝達する役割も担っている。

  紙面に記された文字を読んだオリビアは目を細め、フィルに声をかける。

  「…各街の検問所で、ディアルガ教徒の移動が確認された」

  数日前に騎士団本部の参謀を務める甥のグレイから騎士団の動きを探っていたオリビアは、口を閉ざし考え込む。

  (現状、ディアルガ教徒は各地の街道を移動しているだけ…レシラム教やゼクロム教に対する積極的な攻撃には出ていない)

  オリビアはフィルに労いの言葉をかけつつ、紙面に目を落とす。

  (相手が無抵抗な民である以上、騎士団が積極的に介入する事はできない…偵察行動が限界…)

  グレイの反応とフィルの報告から現状を把握したオリビアは、微かに息を吐き、フィルに声をかける。

  「都市間の燃料と食料…資金の流れはどうなっています?」

  オリビアに尋ねられたフィルは別の資料を取り出し、オリビアに手渡しながら応える。

  「各地の集落から都市へ小麦や野菜が送られ、医薬品や工芸品が集落へ送られていますが…一部のエリアでは新たな流れが生まれています。ディアルガ教徒が多数目撃されたエリアです」

  「…新たな生活コロニーを作っていますね。レシラム教とゼクロム教以外の宗教や部族の反応は?」

  「一部を除き、ディアルガ教徒の動きを様子見しているようです。15年前の暴動で大きな被害が発生したエリアの部族はディアルガ教徒に明確な敵意を以前から抱いているため、『問題』が発生する可能性も…」

  フィルの報告を聞いたオリビアは煙管の煙を吐き出し、視線を壁に向ける。壁には世界地図が飾られており、それに目を向けたオリビアは口を開く。

  「各地の部族の軍備の状態は?」

  「大きな変化は見られません。商人から各地の軍部に流れる物資の目録を確認しましたが、食料や火薬類が主です。包帯や止血帯、医薬品の流れに変化はみられません」

  オリビアの質問にフィルは即座に回答した。孫の報告を聞いたオリビアはフィルから手渡された目録に目を通す。

  「…書類上の数字と各地の検問所で報告される数字が一致しているか、調べる必要がありますね」

  オリビアの指示を受けたフィルは頷く。煙管の煙を吐き出したオリビアは世界地図から目を離し、フィルに目を向ける。

  「目録の数字は変動が少なく、端数も綺麗すぎます。十中八九、改竄されていると考えてください」

  「…では、お祖母様…各部族や宗教で、秘密裏に軍備を進めていると?」

  フィルに尋ねられたオリビアは首を左右に振る。オリビアの反応を見たフィルは怪訝そうに首を傾げるが、オリビアは優しい声で孫に教える。

  「あくまでも数値が改竄された可能性があるのみです…改竄と軍備の拡張は同じ意味ではありません」

  オリビアに諭されたフィルは頷き、静かな声で応える。

  「では、検問所と商人の目録の比較を進めます」

  フィルの返答を聞いたオリビアは頷き、煙管から口を離す。その風味を楽しむオリビアは、フィルに微笑みかけ、穏やかな声で話しかける。

  「フィル、貴方は優秀です。祖母の贔屓目を排除してなお、上級学校を飛び級で卒業できた逸材です。しかし、まだ年若い…若さ故に視野も狭いです。私が教えてきたことを肝に銘じてください」

  オリビアの助言を聞き、フィルは頷いた。フィルはオリビアの目を真っ直ぐに見つめ、はっきりとした口調で応える。

  「外交部の職務は情報を集め、正しい方向を見極め、皆の進む道を決める一助となる」

  孫の返事を聞いたオリビアは笑顔で頷く。オリビアは煙管の火を消し、テーブルに置き、フィルの傍へと歩み寄る。眼下にある孫の頭を撫でつつ、オリビアは静かな声で話す。

  「我々が状況を正しく把握できなければ…行き着く先は戦争です。皆がディアルガ教徒を忌み嫌ったとしても、我々が彼らとのコネクションとなり、戦争を回避する事が必要です」

  オリビアは孫の頭を撫でた。祖母の手の感覚にフィルは擽ったそうに目を細めるが、やがて恥ずかしそうにオリビアの手を降ろさせた。

  「お祖母様…私も大人です」

  孫の反応を見たオリビアは寂しそうな表情を浮かべつつも、穏やかな声で話す。

  「フィルはいつまで経っても私の孫です。たまには甘えてください」

  オリビアの手がフィルの頭を撫でた。フィルは恥ずかしそうに俯くが、満更でもない表情であった。