願い

  水の大陸、ワイワイタウン。

  レシラム教の教会に隣接する騎士団の本部は活気に溢れており、暴動の後に増えた騎士団希望の見習い兵士達が訓練する声が響いている。街中を走り、体力をつける見習い兵士達の姿を街の住民は応援しながら眺めており、時には差し入れの水の入ったグラスを渡している。見習い兵士達は笑顔でそれを受け取り、礼を述べ、本部へと帰還する。

  騎士団本部にある屋外稽古場、普段は見習い兵士や新人騎士が訓練する場所であるが、本日はハルとランプの円卓への参加に合わせて、ゼクロム教自警団とレシラム教騎士団の交流試合が開催されている。

  平時では住民の立ち入りが規制されるエリアであるが、本日は交流試合とそれに乗じた軽食を振る舞うイベントが併せて開催されているため、街の住民達も交流試合を見に来ている。来客の中には騎士や見習い兵士の家族もおり、彼らは遠巻きで応援の声をかけている。

  稽古場の中央、レシラム教騎士団副長を務める牝のブリガロン、ガロンは訓練用の剣を使い、見習い兵士と新人騎士を相手に模擬戦を行なっている。

  ガロンの剣技は素早く、力強い動きであるが、同時に繊細な動きで剣を走らせ、見習い兵士や新人騎士の持つ剣を的確に打ち落とす。

  見習い兵士や新人騎士達は手に走る痛みに悲鳴をあげ、思わず跪く。その姿を見下ろしたガロンは張りのある声をあげ、彼らに指導する。

  「これが実戦なら全員戦死ですよ。武器を失ってしまうと、反撃できません」

  訓練用の剣を鞘にしまい、ガロンは通りの良い声で指導する。見習い兵士や新人騎士達は手に走る痛みに顔を歪めつつも、ガロンの指導を素直に受け止め、耳を傾ける。

  「全員、筋力と体力がまだ足りませんね。基礎訓練を継続し、自らの身体を鍛え」

  そこまで話したガロンは「すみません」と素早く言い、踵を返した。突然のガロンの動きを目の当たりにした見習い兵士や新人騎士達は目を丸くさせるが、直後に赤子の泣き声が響き、ガロンは慌てて従者から揺籠を受け取った。

  「ごめんねぇ…ママはここにいるからね…」

  揺籠から牡のハリマロンの赤子、カルムを抱き上げ、疲れた顔のガロンは懸命に泣き止ませようとしている。だが、カルムは泣き止まず、ガロンは困り顔でカルムの身体を揺らしている。

  鋭い剣技と威風堂々とした振る舞いで見習い兵士や新人騎士達を指導するガロンであるが、彼女自身は成人前の娘であり、初めての育児に四苦八苦している様子である。その光景を見た見習い兵士達の母親は疲労気味のガロンに声をかけ、赤子の世話のコツを教えている。

  自分達の教官が、自分達の母親から教わる様子を目の当たりにした見習い兵士や新人騎士達は苦笑いを浮かべ、その様子を見ている。

  「うん…お腹が空いたね…今お乳をあげるからね」

  ガロンは優しい口調でカルムに話しかけ、見習い兵士や新人騎士達に「すみません」と言い、事前に従者が用意していたテントへと入っていく。その後ろ姿を見た見習い兵士や新人騎士達は束の間の休息の時間を得て、水を飲み、身体を休めていた。

  だが、そこにガロン以上の張りのある大声が響く。

  「何をしている‼︎今は訓練中だぞ‼︎」

  円卓の会議室から戻ってきたロアを抱いたアキ、2人を警護する騎士団長ルドルフは見習い兵士や新人騎士達に向かって声を張り上げ、場に緊張感を取り戻す。団長の姿を見た兵士達は姿勢を正し、彼に向かって敬礼する。

  だが、ルドルフは鋭い眼差しで彼らを睨み、覇気のある声で命じた。

  「休む暇があるなら、街を走って来い‼︎」

  ルドルフの声が訓練場に響き渡り、見習い兵士や新人騎士達は慌てて走り出した。その背中に向かって家族や住民が応援の言葉を投げかけ、辺りに笑いの声が広がる。

  ルドルフは呆れたように息を吐き、訓練場を見渡す。副長兼訓練教官であるガロンの姿がなく、ルドルフは近くにいる従者に声をかけ、彼女の所在を確認する。

  「現在、テント内で御子様のお世話をされています」

  従者の報告を聞いたルドルフは、遅れて到着したルールに視線を向け、テントを指差した。

  「あの中にいるようです、後は頼みます」

  ルドルフに声をかけられたルールは頷き、テントの中に声をかけて、許可を得てから入る。その背中を見届けたルドルフは、背中に届くロアの泣き声に驚き、振り向いた。

  アキに抱かれたロアは大きな声で泣き出し、慌てたアキはガロンの居るテントに足を運ぶ。アキの背中にお付きの侍女が声をかけるが、アキは「すぐに戻るから」と言い、テント内の空きスペースに座る。

  テント内にはカルムにお乳をあげるガロンの姿があり、彼女の傍にはルールの姿もある。欠伸をしながらお乳をあげるガロンの背中をルールは摩り、労いの言葉をかけている。

  アキの姿を見たガロンは慌てて立ち上がり、お辞儀をしようとするが、それをアキとルールが制した。

  「気にしないでいいよ、ちょっと邪魔させてもらうな」

  アキはガロンに声をかけ、自身の乳房をロアに咥えさせる。ロアは泣き止み、アキのお乳を吸い、大人しくなる。

  その間、ルールは気配を殺し、アキの姿が見えない位置に立ち、そのままテントの外に出た。空気の読めるルールはルドルフと共に、テントの入り口に立ち、周囲の安全を確保した。

  ガロンは横目でルールの動きを見ていたが、アキから声をかけられ、意識を彼女に向ける。

  「今の私達は赤子の世話で忙しい母親同士さ、細かい事は気にしないでいいよ」

  前教皇の妻であり、次期教皇の母親であるアキに言われたガロンは苦笑いを浮かべ、「ありがとうございます」と応える。

  ガロンはお乳を吸うカルムの頭を撫で、愛おしそうな目で見る。

  「…まさか、育児がこれほど大変だとは思いませんでしたよ」

  苦笑いを浮かべながら、ガロンは呟く。アキはガロンの言葉に賛同し、ロアの頭を撫でながら口を開いた。

  「侍女達がいるから、人手はあるが…トレジャータウンの孤児院にカヌレさんが派遣されているから…相談できる方が近くに居ないよなぁ…」

  アキは溜息をこぼし、ロアの背中を撫でる。その間、カルムにお乳を与えたガロンは、背中を軽く叩きゲップをさせる。

  カルムの口から空気の塊が出た。

  ガロンはカルムの口元を拭い、続けてカルムの履くオムツの臭いを嗅ぐ。

  「…出ちゃったか」

  ガロンは苦笑いし、視線をアキに向ける。ロアもお乳を飲み、満足したような笑みでゲップをする。それを見たアキはテントの入り口に向かって声をかけ、ルールを呼んだ。

  「ルール、オムツと紙タオルを持ってきてください」

  ガロンに名前を呼ばれたルールはアキの方を見ないように目を逸らすが、「もう終わったよ」というアキの声を聞き、落ち着いたように息を吐き出す。

  ルールはガロンからカルムを受け取り、替えのオムツと紙タオルを使い、テキパキと交換する。その姿を見たアキは口笛を鳴らし、感心したように呟く。

  「…華族なのに、オムツ交換を自分でするのか」

  従者や乳母に任せず、カルムの世話をするルールに向かって、アキは声をかけた。ルールは笑みを浮かべ、ガロンとカルムに目を向け、口を開く。

  「妻と私の子供です。人に任せず、私自身が世話をして育てていきますよ」

  ルールの言葉を聞いたアキは嬉しそうに笑みを浮かべる。ロアの実の父親であるオズボーンはアキとの性行為にしか興味がなく、子が産まれても触れる事すらなかった。だが、ルールはカルムのオムツを自身の手で替え、ガロンに代わり世話をしている。

  「私がカルムを見ますので、ガロンは休んでください」

  育児に疲弊しているガロンに向かってルールは優しく声をかけ、ガロンは「ありがとうございます」と微笑み返した。

  「それでは…息抜きを兼ねて新兵たちを扱いてきます」

  ガロンは満面の笑顔でルールに話し、テントの外へと歩いていく。野に放たれる鬼教官の背中をカルムと共に見送ったルールは、テント内を片付け、彼女の背中を追った。

  理想的な協力関係で互いを思うガロンとルールの姿を見たアキは、羨望の目を向ける。

  「良いなぁ…」

  高位貴族でありながら、自ら子の世話をするルールは非常に珍しい存在といえる。オズボーンとは全く異なるルールとガロンを見たアキは、無意識に呟いていた。

  大きな手がアキの頭を撫でる。

  アキが視線を向けた先にはルドルフの姿があり、彼は恥ずかしそうに手を差し出した。ルドルフの顔と手を見比べたアキに対して、ルドルフは小さな声で呟く。

  「…新兵指導はガロンに任せた、ロア様は俺が見るから…少し休むと良い」

  人前とは明らかに違う口調でルドルフは話し、彼なりの思いやりを肌で感じたアキは満面の笑みを浮かべる。アキは声を殺しながら笑い、ルドルフに寝ているロアを手渡した。

  「それじゃあ、パパにお願いしようかな」

  ロアを託したアキは背伸びをした。そのままテント内にある簡易寝台に横になり、静かに目を閉じた。小さなアキの背中を見たルドルフは、慣れない手つきでロアを抱え、近くにある椅子に腰かける。

  テントの外ではガロンが新兵を厳しく指導し、新兵達があげる悲鳴と応援する家族の声が聞こえる。一方、テント内は静かに時間が経過し、ロアの微かな寝息のみが聞こえる。寝台に横になるアキも寝息を立てており、ルドルフはロアの背中をトントンと叩いている。

  「失礼しますよ」

  テントの入り口から微かに牝の声が聞こえた。ルドルフが視線を向けた先には円卓の一員として迎えられた牝のヒスイバクフーン、ノア・ヘルマンの姿がある。彼女の横にはテントの警備をしている騎士の姿があり、華族である彼女を制止できなかったことに対して、罰が悪そうな表情を浮かべている。

  ルドルフは警備の騎士に目線で「気にするな」と伝え、ヘルマンに声をかけた。

  「…お久しぶりです、ヘルマン様…見ての通り、巫女様とロア様はお休みされています」

  ルドルフに話しかけられたヘルマンはくすくすと笑い、左手で口元を覆う。彼女はゆっくりとテント内を歩き、ルドルフが抱えるロアの寝顔を見つめる。

  「気にしなくて良いですよ…用事があるのは貴方ですから」

  ヘルマンはロアの寝顔を見ながら「可愛いですね」と話し、視線をルドルフに向ける。のらりくらりとした雰囲気を纏うヘルマンだが、彼女の視線は鋭くルドルフを見つめている。

  ルドルフは息を呑み、ヘルマンの言葉を待つ。

  ヘルマンはくすくすと笑い、ルドルフの頭を撫でた。

  「お久しぶりですね、子猫ちゃん…食いしん坊と一緒に居る姿を見ていると…小さかった頃を思い出しますよ」

  ヘルマンは懐かしむように目を細め、ルドルフの頭を撫でる。頭上に広がる感覚により、ルドルフは擽ったそうに頭を振った。

  「…今では騎士団長と円卓の一員を兼任するほどですよ、先生」

  ルドルフに『先生』と呼ばれたヘルマンは嬉しそうに目を細め、近くにある椅子をルドルフの向かいに持ってくる。ヘルマンはそれに座り、改めてルドルフと向き合った。

  ヘルマンはくすくすと笑い、目を細めながらルドルフを見つめる。

  「懐かしいですね…食いしん坊のルールと子猫だった貴方が私のところに通っていたのは…20年前ですね」

  ルドルフとルールの子供時代を思い出したヘルマンは目を細め、視線をルドルフに向ける。彼女の声を聞き、ルドルフは恥ずかしそうに苦笑する。

  「今でも先生の授業の事は、覚えていますよ…息子さんはお元気ですか?」

  ルドルフが穏やかな口調で尋ね、ヘルマンは頷く。

  「昨年結婚し、孫も産まれました…赤子の世話は大変ですが、懐かしくもありますね」

  ヘルマンはロアの寝顔を見つめながら話す。彼女の言葉を聞いたルドルフは、記憶の奥底からヘルマンの息子の顔を思い出す。同時にヘルマンの言葉を聞き、驚いた顔で彼女を見る。

  「お漏らしばかりしていた彼が結婚ですか…時間の流れは早いですね」

  「えぇ、間違いないですね」

  ヘルマンは目を細め、視線をロアからルドルフへ向ける。

  ヘルマン家はレシラム教でも歴史のある華族であり、歴代の摂政を輩出し、次期教皇となる子や名門華族の子弟への教育係などを兼任する家柄である。

  かつて、ルドルフやルールが子供の頃にもヘルマン家に通い、華族としての教育や将来の管理職としての教育を受けていた。

  ルドルフの眼前に座るヘルマン家当主、ノア・ヘルマンはルドルフとルールの恩師であり、彼ら以外にも様々な貴族や華族の教育に携わってきた女傑である。

  現在35歳を迎えるノアは15歳で結婚し子を産み、その子も15歳で結婚し、子をもうけた。ルドルフの脳裏にはかつてノアの授業を受け、8歳年上の彼女にプロポーズした自身の姿が蘇る。当然、結婚したばかりの彼女は7歳の子供からのプロポーズを笑いながらやんわりと断り、授業に戻った。

  20年前の記憶を思い出したルドルフは恥ずかしそうに目を逸らすが、ノアは薄笑いと共に彼を見た。

  「…既婚者に手を出す悪癖は、治っていないみたいですね」

  アキの寝顔とルドルフの照れた顔を見比べたノアは声を押し殺しながら笑い、ルドルフは罰が悪そうにため息をこぼした。

  「…あの後、ルールにも笑われましたよ…」

  脳裏に蘇る20年前の記憶の光景を見たルドルフは、ぽつりと呟いた。ノアは声を押し殺しながら笑い、ルドルフの右眼を覆う眼帯に指先を当てた。

  ノアは悲しそうに目を細め、静かな声で話す。

  「…痛かったでしょう」

  暴動により、傷だらけになったルドルフの身体と右眼の眼帯を見たノアは、微かに震える声で尋ねる。かつての教え子がボロボロの姿になり、ノアも僅かに感情的になっている。

  ノアの潤んだ瞳がルドルフを見つめる。

  だが、ルドルフは眼帯に触れるノアの手を取り、彼女の手の甲に口付けする。

  「…この傷は戦えない民を守ってできた傷…騎士の誉れです…なにより、妻と子を守る事ができました」

  ルドルフの声を聞き、ノアは目を細める。彼女は唇を微かに開き、息を吐き出した。ノアは呆れたような目でルドルフを見つめ、微かな笑い声を漏らす。

  「…強気な性格は昔から変わりませんね」

  ノアは20年前と変わらぬ教え子の姿に嬉しさを覚え、椅子から立ち上がった。彼女は眠るアキとロアを見つめ、ルドルフに向かって声をかける。

  「カヌレ殿が戻るまで、当家のお抱えの乳母を遣わせます。カヌレ殿に負けず劣らずの技能ですので…ロア様やカルム君の世話も頼むと良いでしょう」

  突然の提案を耳にしたルドルフは、驚きの顔を浮かべた。だが、ノアはクスクスと笑い声をあげ、穏やかな目をルドルフに向ける。

  「当家の高名な乳母ならば…ロア様を任せる事はできるでしょう…巫女様にも休息を取って頂かないと…」

  「しかし…お孫さんが産まれたばかりでは?」

  「えぇ…ですが、これでも子を育てた経験はありますので…赤子の世話は私にもできますよ」

  恩師の提案を受け、ルドルフは黙ったまま、深々と礼をした。その姿を見たノアは目を細め、手を微かに振り、歩いていった。

  そのままノアはテントから出て、辺りを見渡した。

  ふと、彼女の目はテントの脇に立つ侍女達に向けられ、1人の侍女を捉えた。ノアは彼女の前で脚を止めて、その顔を凝視する。

  「…あの?」

  若い侍女は最高位の貴族でもあるノアの行動に困り顔を浮かべるが、ノアはくすくすと笑い、静かな声で話す。

  「…リラの子は可愛かったですか?」

  ノアに問われた侍女の瞳孔が微かに広がり、口角に力が入る。彼女の呼吸は一瞬止まり、それらを見逃さなかったノアは視線を自身の護衛の騎士に向ける。

  「時の守護者の残党です、連行してください」

  ノアの命令を受け、武装した騎士は侍女の肩に手を載せる。突然の出来事に侍女は驚きの顔を浮かべ、ノアに向かって声を張り上げる。

  「お待ちください‼︎何の根拠があって…‼︎」

  侍女は騎士の手から逃れるように身体を動かし、ノアに反論する。だが、ノアは目を細めたまま侍女を見つめ、口を開いた。

  「貴方の指に嵌められたアクセサリー…とても美しいですね」

  ノアは指先で侍女の手を触り、指に嵌められたアクセサリーを触る。それには彫刻が施されており、侍女は怪訝そうな目でそれとノアを見比べる。

  ノアは細めた目で侍女の瞳を捉え、静かな声で話す。

  「その指輪は霧の大陸…ノエタウンの教会を管理する司祭とシスター達へ当家から贈ったものです」

  侍女の顔は瞬く間に青くなり、ノアは薄ら笑いを浮かべる。直後、侍女はスカートの中からナイフを取り出し、ノアに斬りかかろうとした。

  だが、護衛の騎士が侍女の腕を掴み、その場で捻り上げる。

  腕に走る痛みにより、侍女は悲鳴をあげて跪く。その姿を見下ろしたノアは薄笑いのまま、静かに声を発した。

  「嘘ですよ」

  侍女の反応から正体を見抜いたノアはトラップを仕掛け、侍女はそれに引っかかってしまった。地面に組み伏せられた侍女は悔しげな目でノアを睨みつけるが、その横顔を護衛の騎士が蹴り飛ばす。

  侍女の意識は飛び、身体から力が抜ける。

  その姿を見下ろしたノアはテント脇に立つ従者に向かって「団長を呼んでください」と声をかける。従者は即座に頷き、テント内へと声をかける。

  辺りが騒めく中、ノアは薄笑いを浮かべ、侍女を見下ろしていた。

  *

  草の大陸、キザキの森。

  時の歯車の盗難に伴い、大規模な暴動が発生したキザキの森は、少しずつ復興していき、村々の建物や通りなどの修繕が進んでいる。付近の街や都市から住民が移住し、村々の活気も戻りつつある。

  時の歯車を納めた祭壇にも、時の守護者から回収した歯車が奉納された。

  少しずつ落ち着きつつあるキザキの森の集落の一角、広場にあるベンチを修理していたカフカは額を伝う汗をタオルで拭い、空を見上げた。

  キザキの森は暖かな日に照らされており、満遍なく浴びているカフカは、心地よさそうに目を細める。広場のあらゆる場所で物や家具の修理を行い、一部では炊き出しも行っている。

  キールリンクの孤島にて時の守護者の残党を討ち取ったカフカは、かつて時の歯車を盗み出したキザキの森に対する贖罪のため、エミルや鎌鼬、チャームズと共に復興作業に従事している。

  暴動が発生し、多くの者が殺害された村々の跡地を一から作り直し、ギルドや保安官事務所、騎士団の協力もあり、治安維持は保たれており、目立った騒動も発生せず、今日を迎えた。

  もっとも、皆の反感を避けるために時の歯車を盗み出した盗賊はカフカではなく、時の守護者として情報が広められている。

  カフカはヘンデルの配慮に感謝しつつ、今日も復興支援をすべく、広場にて修理や保善に努めている。

  暖かな日差しを浴び、青空を見上げていたカフカは「さて…」と小さな声を漏らし、地面に広げた工具を片付ける。広場から見える通りでは鎌鼬の面々が家造りを手伝い、チャーレムの面々は日用品や家具作りを手伝っている。

  カフカの視界に見慣れたピンク色のセレビィ、エミルの姿が見えた。エミルの手には木製の籠があり、近くの森から採取した薬草や木の実が入っている。

  広場を訪れたエミルはカフカの存在に気づき、破顔した彼女は大きく手を振った。カフカもまた、エミルに向かって手を振り返し、彼女が傍に来るのを待つ。

  「お疲れ様です、ギルドが振舞っているジュースですよ」

  エミルは手にした籠を食料班に手渡し、彼女自身はカフカの横に移動する。エミルの差し出したカップを受け取ったカフカは礼を述べ、それに口をつける。

  氷水で冷やされた甘酸っぱい液体が口内に広がり、カフカは疲れが癒されるのを感じる。清涼感と共に喉の奥に流し入れ、カフカは息を吐き出す。彼の顔には疲労の色が滲み出ているが、表情は明るく、嬉しそうな目で辺りを見渡している。

  「ありがとう、俺達もひと段落ついたところだよ」

  カフカは修復したベンチに腰かけ、広場や通りの光景を見ている。未来の世界では決して見る事のできない光景は彼の心を癒し、疲れを吹き飛ばさせる代物である。

  カフカの隣に腰かけるエミルもまた、嬉しそうに顔を緩め、ジュースに口をつける。その味と冷たさを堪能したエミルは、カフカに笑顔を向け、嬉しそうな声で話しかける。

  「さきほど、トレジャータウンから手紙が届きましたよ」

  エミルは話し、封の開いた手紙をカフカに差し出す。先にエミルが目を通したそれを受け取り、カフカも手紙を読み始める。

  彼の横に座るエミルはジュースに口をつけ、キザキの森の中を吹き抜ける風を浴び、心地良さそうに目を細めた。

  やがて、手紙を読み終えたカフカは感嘆の声を微かに漏らした。

  「…そうか、フランツとノアも元気にしているようだな」

  カフカの呟きを聞き、エミルは頷く。

  「トレジャータウンの保育所にもレシラム教から資金が援助されたので…フランツさんやヤミラミ達が手伝っているようですね。ノアさんもトレジャータウンを拠点に海の運び屋として元気に働いていますよ」

  エミルの話を聞いたカフカは「そうだな…」と穏やかな口調で応える。彼は爽やかな表情で空を見上げ、額を伝う汗をタオルで拭いた。

  「…フランツやヤミラミ達、ノアも頑張っているなら…俺達も負ける訳にはいかないよな」

  カフカは笑顔でエミルに話しかける。カフカの明るい笑顔を見たエミルは破顔し、大きく頷いた。

  「えぇ…建物や家具などの箱は揃っても…住民や農業など中身がまだ不足しています。生活を安定させるためにも、まだまだ時間がかかりますよ」

  エミルの話を聞いたカフカは頷き、ベンチから立ち上がる。

  「さてと…俺は通りの方を手伝いに行くが…エミルはどうする?」

  カフカに尋ねられたエミルは微笑み、カフカの顔を見つめる。

  エミルは深く息を吸い、少しだけ吐き出した。

  「…私はカフカさんについていきますよ、何処までも…いつまでも、ね」

  彼女の言葉を聞いたカフカは照れ臭そうに頬を掻き、エミルに笑顔を向ける。

  「そうか…なら、これからもよろしく頼むよ」

  カフカの返事を聞いたエミルは満面の笑みを浮かべ、大きく頷いた。

  エミルは空を見上げ、小さな声で呟く。

  「…星の停止が阻止され、ディアルガ教徒の幹部は全滅した…未来の世界も復興していくと思いますよ」

  かつてエミルやカフカ達が存在した未来の世界には戻れないが、それでも復興を願うエミルの言葉を聞き、カフカは小さく頷いた。

  穏やかな風が彼らを包み込み、暖かな日差しが彼らを照らしている。

  「…ニコルとオズワルドは元気にしているかな」

  カフカは小さな声で呟いた。彼の声は風の中に溶け込み、空へと吹き上げられた。

  *

  『お久しぶりぃ…』

  白い空間に置かれている卓袱台の前に座っているニコルは、卓袱台にうつ伏せになる白いポケモンとギラちゃんの姿を見た。彼らはうつ伏せのまま溜息をこぼし、彼らの背後には散らかった床を片付けるアバゴーラの翁の姿がある。

  彼らの姿を見たニコルは呆れたように溜息をこぼし、口を開いた。

  「いったい何があったのよ…」

  愚か者を見る目でニコルは呟き、白いポケモンとぎらちゃんの反応を待つ。ニコルに尋ねられた白いポケモンはゆっくりと身体を起こし、疲れた声で話す。

  『新しいガチャがリリースされたから…でも課金したのに出ない…』

  『私はゲームで遊び過ぎて、目が疲れたよ』

  白いポケモンとギラちゃんの返事を聞き、ニコルは呆れ顔で溜息をこぼす。

  「あれだけ人の事を玩具にしておいたのに…アンタら自身がゲームに振り回されて、どうするのよ」

  手厳しいニコルの指摘に白いポケモンとギラちゃんは苦い表情を浮かべる。彼らの反応を見た翁は苦笑し、ニコルの前にオレンの実で作られたジュースの入ったカップを置く。

  『あまり厳しい事を言わないでやれ…ゲームに溺れる者がゲームに苦しむ、それが一番のお灸になるだろうな』

  翁の言葉を聞いたニコルは白いポケモンとギラちゃんに対する嘲笑を浮かべ、カップに手を伸ばす。

  ニコルの口内に甘い香りと味が広がり、彼女は目を細める。微かに口角を緩めるニコルを見た翁はニコニコと満面の笑みを浮かべ、誇らしげに口を開く。

  『ワシが作ったオレンの実を使ったジュースだが…なかなかどうして非常に美味いだろう?』

  翁に尋ねられたニコルは黙って頷き、カップの中身を飲み干した。それを見た翁は目尻を緩め、ニコルの持つカップに新たなジュースを注ぐ。

  続けて翁は白いポケモンとギラちゃんの前にもカップを置き、『飲みなさい』と声をかける。彼らは翁の言葉に素直に従い、それを飲み干し、気分転換を図る。

  白い空間の中にオレンの実の甘い香りが広がり、それを嗅ぎ取ったニコルは呆れ顔で呟く。

  「何よ…この状況は」

  ニコルの呟きは空間内に溶けていき、彼らは翁の入れるジュースの風味を楽しんでいる。やがて、カップの中身を飲み干したニコルに向かって、翁が申し訳なさそうな声で話しかける。

  『それにしても…お嬢さんには迷惑をかけてしまったな…』

  翁の言葉を聞いたニコルは不思議そうに首を傾げるが、翁は話を続ける。

  『ほれ、トレジャータウンの近くの森でお前さんの仲間であるオズワルドを誘拐したバシャーモが居ただろう…あれは儂の孫だ』

  翁の話を聞いたニコルは「そう」と短く返し、澄ました顔でジュースを飲んでいる。ニコルの反応を見た翁は驚いた顔で尋ねた。

  『なんじゃ…怒ってはいないのか?』

  翁の問いに対してニコルは首を左右に振り、淡々とした口調で応える。

  「彼女にも彼女なりの事情があったんでしょう…結果的にオズワルドは無事だったから、今更どうでも良いわよ」

  ニコルの返事を聞いた翁は安心したように目尻を緩める。彼女らのやり取りを見ていた白いポケモンとギラちゃんは笑顔を浮かべるが、そこにニコルの鋭い視線が突き刺さる。

  次の瞬間、腰を上げたニコルの拳が白いポケモンの頬を殴り、白いポケモンはギラちゃんを巻き込み、床に倒れ込んだ。

  翁とニコルの雰囲気から油断していた白いポケモンは防御できず、卓袱台越しに放つニコルの拳を諸に受けた。

  白いポケモンとギラちゃんの身体は大きく仰け反り、彼らの悲鳴が白い空間内に木霊する。

  『痛ぁぁぁ!!』

  『おぅ…』

  白いポケモンの絶叫と押し潰されるギラちゃんのくぐもった声が広がり、ニコルは快感で身体を細かく震わせた。

  「…あぁ、最高ね」

  異世界へ飛ばされた直後からニコルが願っていた事、白いポケモンの横っ面を全力で叩けた事でニコルは快感と絶頂を覚え、恍惚とした笑みを浮かべる。

  床の上に転がる白いポケモンとギラちゃんの姿を見た翁は『自業自得じゃな』と呟き、彼らが起き上がるのを待つ。ようやく体勢を立て直した白いポケモンとギラちゃんはニコルを睨み、強い口調で語りかける。

  『ちょっと!何するんだよ!』

  『さすがの私も見過ごす事ができないぞ…』

  白いポケモンとギラちゃんから責めの言葉をかけられるニコルだが、彼女は涼しい表情のまま、口を開く。

  「うるっさいわね…アンタらが人の人生を玩具にした仕返しよ」

  鋭い眼光でニコルは睨む。

  ニコルの言葉を聞いた翁は頷き、オレンの実のジュースを飲む。

  強気な口調のニコルに怖気付き、白いポケモンとギラちゃんは閉口した。彼らの超常的な力を使えばニコルに簡単に報復できるが、それをすれば翁から顰蹙を買う事は避ける事ができない。

  白い空間内では翁が料理や掃除、片付けをしている。

  白いポケモンとギラちゃんは翁に頼る生活に慣れきっており、翁に反抗するという選択肢は彼らの中から消滅していた。

  翁を味方に付けたニコルに睨まれ、彼らは思わず身を小さくさせる。その姿を見たニコルはすっきりとした表情で微かに笑い、再び腰かけた。

  ニコルはカップの中のジュースを飲み、白いポケモンとギラちゃんを一瞥する。白いポケモンとギラちゃんはニコルの視線から逃れるように視線を逸らし、彼らの反応を見た翁は溜息をこぼした。

  『…そろそろ本題に移ったらどうだ?』

  翁に指摘された白いポケモンは慌てて姿勢を正し、睨みつけてくるニコルに話しかける。

  『えと…その…前に話していた君専用の救命ボートの件だけど…星の停止を防いだから、必要ないと思うんだよね…』

  「…」

  ニコルに睨まれた白いポケモンは怯えた目で彼女を見返し、ギラちゃんも居心地が悪そうに目を逸らす。翁は彼らの様子を見ながらオレンの実のジュースを飲み、ニコルは話の続きを待った。

  白いポケモンは怯えた雰囲気で口を開く。

  『その…未来の世界も星の停止から救われたから…ご褒美に君の願いを叶えてあげようと思ってね…』

  『…今なら何でも叶えてもらえるぞ』

  怯えた雰囲気の白いポケモンとギラちゃんは話す。それを聞いたニコルは「何でも?」と尋ね返す。

  白いポケモンとギラちゃんは頷く。

  『例えば死者の蘇生を願うなら…魂はギラちゃんが、肉体は僕が用意するから…可能だよ』

  『もちろん金銀財宝を欲しいなら与えられる…もし人間に戻りたいのなら、新たな人間として生まれ変わり、人生を謳歌できるぞ』

  白いポケモンとギラちゃんの話を聞いたニコルは黙り込み、考える。

  考え込むニコルの姿を見た白いポケモンとギラちゃんはご機嫌取りのように硬い笑顔をみせ、翁はジュースを飲みながら彼らを見ている。

  少し時が経ち、ニコルは顔を上げ、白いポケモンとギラちゃんを見た。

  「…決めたわ」

  ニコルの声が白い空間に反響した。