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Dawn Break

  昔からベースの音が好きだった。周りを締め出した自分だけの空間に流れる音の中で特段強い存在感を放つそれに魅かれていた。それでも手を出せずにいた俺が無茶をしてまで羨望の対象を我が物にしたのは、ずっと好きだった人の影響だった。流行りのアニメに乗っかってギターを始めようとしていた彼の真っ直ぐな瞳が眩しくて、それでも彼の隣に立ちたくて、藁をも掴む勢いで親に借金までしてようやく買ったものだった。今になってもその気持ちだけが空っぽの頭の中に染み付いている。

  呼び鈴の音が、寝ぼけた耳の奥で反響している。

  「鞘捨くーん、お客さん来てるよー?」

  生憎のことながら、自分には休日を共にするような友人はいないので、おそらく同居人_[[rb:鞘捨慎雪 > サヤステ シンセツ]]の連れの内の誰かだろうと思い込んだ。一方の慎雪は、ベッドの上で眠そうな唸り声を上げるだけで、尚鳴り続ける音に辟易しているのは俺だけだった。

  「鞘捨くん?」

  俺が顔を覗かせると、先の太い獅子の尾を振りながら、

  「んー?あと十分だけ…」

  と言った。いやいや、今出ないと帰っちゃうだろ。そう思ったが、こいつが今起きたところでまともな応対などできないだろう。学校でしか面識のない奴らには少しばかりショッキングだろうし。慎雪の、幼さの残った顔や、手入れもなしに艶やかな鬣を眺めながら、自分が動く口実を作った。

  「はーい、どちら様で?」

  再度鳴らされた呼び鈴に対し、気怠げに返答し、ドアを開けると、そこには見覚えのある少年が立っていた。未だに働くことを拒んでいる脳を出来る限り動かして、思い出そうとした。

  「あ」

  俺が声を漏らすと、少年は肩を震わせた。驚かせてしまったかもしれない。けれど、目の前のまだ名前も知らない少年にまた会えたことに興奮を抑えられなかった。

  「ッスー…」

  ライオンの癖にチベットスナギツネのような顔をして息を漏らす慎雪を横目に少年はギターを弾いていた。先日の、少年を交えた新体制で行われたライブの時とは違ったテイストでありながらもラブソングであることがはっきりと伝わってくる。音はまだ拙いが、伝えたい思いは明確になっている。慎雪に聞いた話によると、ドラム担当の子と付き合いはじめたらしい。想いを伝えたい相手が「もう届かない誰か」から「隣にいる君」に変わったのだ。曲調も変わって当然だろう。いつの間にか俺の隣に座り込んでいた慎雪の反応からして、割と最近に作った新譜らしい。

  「…うん。サビ?のとこの音、迷いに迷ってその音にしたんだろうけど、本当はこうしたかったんじゃないの?」

  そう言って、少年から借りたギターを鳴らすと、少年だけでなく、慎雪も目を輝かせていた。可愛らしい表情に、自然と笑みがこぼれた。

  「それ、新しい曲?」

  慎雪はおもむろに立ち上がり、少年に問いかけた。

  「はい」

  少年はたどたどしく答えた。緊張しているのか、それとも元々こういった感じのふわふわした性格の子なのか。どちらにしても慎雪とサシでやっていくには難しい性格だっただろう。それが今こうして家を訪ねて来てくれるのだから、少年の彼氏くんには感謝しかない。

  「まだここしか出来てないですけど」

  少年は弱々しく付け加えた。慎雪はそれでいいと言うように少年の頭を撫でると、

  「この後颯太先輩との約束があるから適当に物部くんの相手しといて」

  と言った。

  「えっ」

  慎雪の無茶ぶりに対して、少年は割と素でそう言った。そりゃあ全く面識のない人の相手なんて困るよね。そう思ったが、慎雪はそういう事が出来てしまう人だから仕方ないか、と飲み込んだ。こんなやつの相手をしていけるのは自分だけだと、ましてや颯太先輩なんかじゃ扱いきれるやつじゃないと心の底のどこかが傲慢になっていた。

  「少年、少しばかり昔ばなしに付き合ってくれないかい?」

  _僕がライブハウスに立ち入って少しずつ演奏させてもらえるようになった頃、同じクラスの男は誰も寄せ付けず、独りで、それでいながら誰よりも情熱的な演奏をしていた。彼の名を[[rb:物部創 > モノノベ ソウ]]と言う。

  「鞘捨くん、俺、上手くなったよね?」

  高二も終わりに差し掛かる頃だった。元々席が近かったため「友達」としては十分だったとは思っていたが、彼にとっては高校生活で初めての「友達」であったためにこうやって距離感が異様に近くなることがあった。が、彼の溢れんばかりの好意は多少重いだけで、不快なものではなかったためにそれを受け入れていた。物部創は浮世離れしていた訳でも、所謂陰キャと呼ばれる存在だった訳でもなかった。きちんと_否、寧ろ人並み以上に感情があり、ただ、途方もなく大きく豊かなその感性を何か辛い理由で押し込めているのだった。彼の音は、上手くなればなる程に、増幅された感情が洪水の様に伝わってきて、なんて生きるのがしんどそうな奴なんだろう、と思った。それと同時にその音を妬み、何よりも哀れだと思った。一度だけ、彼のことを衝動のままに抱き締めた。戸惑いながらも服越しに背中に触れられた時、彼の痛みの一端が理解できたような気になった。そして、僕ならこの音に入り込めると思った。_

  「どんなにそれが嬉しくても、心に触れられる事って、壊れる危険性を伴う事だから。それで俺は案の定ダメになっちゃったんだよね」

  それでも、初めて出来た彼氏との恋が楽しくて、先に上京、バイトも見つかった時に俺が借りた部屋に慎雪が上がり込んできて、幸せの絶頂に達していた頃になって、唐突に、俺の存在が慎雪を苦しめていることに気が付いた。俺と居る様になって、慎雪が他の友達と一緒にいる時間が減った。慎雪が自由にしている姿が見られなくなった。そんな風な笑顔が見られなくなった。

  「だから、こっちで初めてハコでやった日に別れることにした」

  少年は唖然としていたが、ハッとしたようにこちらを見て、

  「なんで俺にその話を…?」

  と言った。

  「俺さ、慎雪関連以外にちゃんとした友達がいないんだよね」

  だから、少しだけでいいから吐き出したかった。誰かに受け止めてほしかった。慎雪には、勝手に好きになって勝手に絶望して嫌ってくるクソ野郎だって、恨む価値すらないような奴だと思われているだろうから。実際、そうなっても離れられていないし、きっかけがある度にこれで終わりにしようとして、その度にダメで。ずっと慎雪の方から離れてくれるのを待っている。

  「ごめんね、俺も用事あるからさ。色々好きに使っていいよ。勿論、今の話も新曲の参考程度に」

  あの話には続きがある。それは同居し始めてすぐのこと。珍しく慎雪の方からプレゼントを寄越してきた時、その行為自体に対してなのか、他の要因があったのかは分からないが、無性に気に食わなくて、「要らない」と突き返した。何の変哲もないただのマグカップだったのに。あの時「嬉しい」と言えたなら、きっとそれから先の贈り物もずっと嬉しかったのかもしれない。けれど、もう、二度とあれ以上はないのだろう。

  _創と僕には、別れた後も定期的に衝突することがある。それは創が当てつけの様に新しい彼氏を連れ込んできた時だったり、創が長い事家を留守にする直前だったり、昔の様な距離感に戻って暫く経った後に唐突にその時が訪れる。今回は前者の方で、帰宅した時、創が僕と似た特徴の獅子の男に抱かれているのが目に入った。途中から、彼はこちらに見せつける様に、挑発的な顔をしていた。まるで、これを機に本当の意味で離別しようと促すみたいに。僕はもう、彼の世界には必要ないと、無理矢理締め出されるみたいに。無論、創にその気がないことは分かり切っている。それでも、散々愛した癖に、何度も怒り狂う程に執着してきた癖に、こんなにもあっさりと切り捨てられるのかと思うと、得体の知れない激情がふつふつと湧き出してきて、創の隣のその男の存在などお構いなしに、どちらからともなく手を出した。なんで僕の存在を許すんだ。なんでそんなに未練がましくしながら僕を棄てようとするんだ。諦めてほしい。諦めないで。いなくなれ。ずっとそばに居てくれ。こんな八つ当たりなんかじゃなくて、ちゃんと彼の温もりに触れたい。いつの間にか、こんなにも苦しい。

  「…っ、慎雪」

  颯太先輩の上気した顔に涙が浮かぶ。乱れた息が汗ばんだ胸を撫でる。僕が上から覆い被さる体勢になっているが、挿入られているのは僕の方だった。創のモノよりも数倍は大きなモノが腹の奥まで突き上がってくる。満たされているはずなのに、ぽっかりと大きな穴が胸の中に空いているかのように零れ落ちていく。

  「やめろ…そんな辛そうな顔するな」

  颯太先輩の方がしっかりとした体躯をしているはずなのに、一切の抵抗をしないのは、僕と創の間柄を知っているからだろう。創の中学の頃の先輩だったらしい彼は、後輩伝手に創がその子や自身のことを好きだったことを知っていたらしく、僕が創と付き合っていたことを知ったときはどこか申し訳なさそうにしていた。曰く、自分が逃げた役割を僕に背負わせてしまったと。それから妙に優しくなった彼を見る度に心苦しくなった。それは同情で、僕の方が颯太先輩よりも創に良い事をしてやれたという優越感で、自分以外を傷つける一番汚い感情だった。居た堪れなくて何度も逃げようとして、その度に颯太先輩が捕まえてくれた。そうやって絆されていく度に、愛されていることを知る度に、僕の中で創の存在がより大きなものになっていく。

  「なぁ、なんか言えよ。なんだってしてやるからさ」

  何で貴方がそんなことを言うんだ。僕は今この瞬間すら貴方のことを見ていないのに。その目尻に浮かんだ涙さえ見て見ぬふりをしようとしているのに。頬に触れた手の温もりがこんなにも温かいことに気付きたくなかった。

  「言ったところで、どうにもならないですよ」

  創、なんでそれを言ってくれるのが君じゃないんだ。

  「ごめん」

  生殺し状態のまま、今にも泣きそうな颯太先輩の胸に歪んだ視界を埋めた。_

  退廃した部屋にただ独り。慎雪がいなくなって一月が経とうとしていた。なにもかもが上手くいかなくて苛立っている。乱雑に散らばった家具や楽譜が、俺がどれだけの間癇癪を起こしていたかを物語っている。9月、残暑が苛立ちを煽って、不快感を含んだ汗になって溢れ出る。大きな音を立てて、ガラスのコップが落ちた。破片が腱を掠めたのを気にも留めず、俺はこの感情を演奏にぶつけていた。

  不意に扉が開く音がして、振り返った。

  「あの…」

  少年が怯えた顔をして此方を覗いていた。姿見に映った俺は本当に切羽詰まったような、それこそ何も知らない第三者から見たら殺されるのではないかと思うような表情をしていた。途端に情けなく思えて顔を隠した。

  「すみません、鍵あいてて、それで、すごい音したから…」

  施錠もろくに出来ていなかったのか。否、『こんなことすらできない自分』なら慎雪を引き留めておくことが出来るかもしれないと思ってしまっているんだ。慎雪がここに残らないといけない原因をつくればまた戻って来てくれると信じているんだ。だから、本当に、

  「慎雪が帰ってきたのかと思った」

  少年はそれを聞くと、呆気にとられたような顔をして、

  「サヤステさん、今いないんですか?」

  と、聞いてきた。

  「慎雪に会いに来たの?」

  少年にとっては、単純な質問のつもりだったのだろう。けれど、他の人との会話の中でさえ慎雪のことを第一に考えてしまう自分を見透かされているようで、つい素っ気ない対応になってしまった。

  「モノノベさんに、会いに来ました!!」

  「俺ぇ?」

  語気を強くして言う彼に、今度は俺の方が呆気にとられた。少年は表情を固めたまま何度も頷いた。

  「慎雪がさ、このまま帰ってこなかったらって、何度も考えた。何度考えても、上手くイメージできないけれど」

  お互いの練習を見せ合った後、俺は譫言のように言った。

  「明日、急に帰ってくるかも、とか、帰ってこないかもとか。でも、同じくらい、この苦しみが終わってほしい」

  少年はこちらを無言で見つめている。

  「でも、やっぱり、何か一つくらいは残っててほしいな。お互いの間に何も残せないのは、嫌だな…」

  その言葉を聞いて、少年は何を思っただろう。この想いは、彼にはどんな音で伝わったのだろう。

  _残暑も影を潜めていくこの頃、僕は颯太先輩のところで居候を続けていた。仲直りと言うわけではないが、いつも通りに戻った彼との関係は、いつか僕が創に望んだものだった。コンビニに寄って、そのまま歩きで、少し遠回りしながら帰って、その途中でトンボなんかを捕まえたりもして、こんなあたりまえの幸せさえ、創とは手に入れることが出来なかった。

  「トンボの目を回して捕まえるアレ、あるじゃないですか」

  「あるな」

  「アレ、意味ないらしいですよ」

  「マ…ッジで!?」

  こんな他愛のない話も、しばらく出来ていなかった。

  「知らなかったわ~…あ」

  颯太先輩が呟くのと同時にガタンゴトンと、電車の出る音がした。

  「今の、始発…か?」

  「そうじゃないですかね…」

  互いの顔を見合うこと数十秒。先に口を開いたのは颯太先輩だった。

  「お前が寄り道ばっかすっから!」

  わなわなと震えながらそう叫んだ颯太先輩が、走り出した。次の電車には間に合わないだろうけど、とにかく走る颯太先輩を追いかけて、僕も走りだした。

  今、颯太先輩と居て、音楽も、生きることも、想像以上に楽しい。その事実に、僕は打ちのめされていた。_

  雨が降っている日のこと、慎雪が帰ってきた。何の前触れもなく、合い鍵を使って、階段を一段ずつ踏み降りてきた。楽譜が、空になったペットボトルが、そこら中に散乱している部屋をいつもと変わらない様子で通り抜けてきた。

  「物部くん」

  俺はその声が優しく俺を呼ぶのをずっと待っていた。

  「コーヒー淹れたよ」

  ベースを置いて座り込んだ俺の隣に_あの頃よりもずっと遠く離れてしまったけれど_慎雪は腰掛け、俺にコーヒーの入ったマグカップを手渡した。あの日突き返して、割ってしまったあのカップの代わりのそれに入ったコーヒーは、同じ条件で作っているはずなのに、何故か切ない苦みが舌に残る。

  「あのさ、ここを出ていこうと思ってさ」

  長い沈黙の末に慎雪の口から出た言葉はそれだった。

  「今日は、服だけでも持っていこうと思って…」

  俺は、その言葉を上手く呑み込めないでいた。

  「部屋汚すぎない?」

  「何か作り置きしておこうか?」

  お前は俺の母親か?そんな風に気遣ってくれるなら、なんで帰ってくるんじゃなくて、出て行くことを選んだんだ?怒りにも似た思考が何重にも渦巻いた。手を伸ばせないくせにそんな事ばかり一丁前に考えていた。

  「なんで今更出ていこうとするんだ?」

  やっとのことで口に出した言葉がこれだった。もっと言いたいことが、言うべきことがあるのに、こんな言葉しか出てこない。答えてほしい。答えてほしくない。相反した感情が競り合って、胃の中からこみ上げてきそうになる。

  「最近さ、色々と楽しいんだ」

  慎雪は昔の様な活力に満ち溢れた声でそう言った。

  「ずっと、物部くんから逃げたくなくて、音楽を続けてきた。苦しくて、何度も辞めたかった。颯太先輩に誘われて、今のメンバーと演奏して、そっちの方が気楽だと思っていたけど、次第に音楽に対する熱もなくなっていった。でも、ようやく楽しい気持ちが取り戻せたから。ここから出て、違う音楽をやってみたい」

  何でそんな事言うんだ。今までが苦痛だっただなんて。颯太先輩と居て楽しいだなんて。もう俺が要らない存在だと言わんばかりのその言葉を、嬉しそうに呟かないでくれ。ここから出ていったら、お前はどうなる?俺はどうなる?俺もお前も、ここにあるものが全てだったなんじゃないのか?それなのに。何で。どうして。

  「嫌だ」

  _「嫌だ」

  そう言って僕の胸倉を掴んだ創の顔は今にも泣きそうだった。だが、それと同時に、今までに見たことのないような激しい怒りを孕んでいるようにも見えた。可哀想だなと思った。もう僕のことすら見えてないんだな。その目が見ているのは、昔々の幸せだった日々の、もう思い出せないような頃の、たった一つの笑顔だけなのだろう。僕はここ以外の幸せを見つけたけれど、創は僕と過ごした日々以上の幸せを見つけることが出来ない、見つけることが出来たとしても、それを受け入れることが出来ないのだろう。振り下ろされた拳が目尻を掠めた。痛い。痛いはずなのに、それを受け止めたいと思う。その手がゆっくりと開かれ、鬣にそっと触れた。何度も何度も感触を確かめるように撫でる指先が、行かないでと言わんばかりにあったかい。それなのに、こんなことになってしまって、どうすればよかったのだろう。角が立たない終わり方にするには、どこで別れを切り出せばよかったのだろう。本当に、本当に、

  「どうして」_

  「どうして?お前こそ、今まで作ってきた曲とか、二人でやってきたこととか、全部捨てるのかよ」

  慎雪が本当に出ていった日、俺が最後に言った言葉を反芻させていた。それ以来、黙り込んでいた慎雪が扉を閉めるその瞬間まで、寂しそうな顔をしていた。それなのに戻ってくる事がなかったのは、本当に俺は要らない存在になってしまったのだろう。その後、一度だけ送られてきた封筒の中に入っていたライブのチケットだけを宛てにこのハコまでやってきた。暗くなってからずいぶん時間が経った。随分溜めるな、と思っていた矢先、少年のアカペラで曲が始まった。想定外のことじゃない。けれど、慎雪は驚いた顔をしていた。俺もだった。少年の歌声の中に、自分がいたような気がしたのだ。どこへも行けないのに、どこにも行きたくないのに、指は離れていく。一歩ずつ、君といた季節が遠ざかって、二度と戻れない気がして、夜明けが来るのが怖かった。そんな気持ちを代弁してくれるような優しい歌。どんなに明日が怖くても、どうしようもなく朝は来るけど、きっと、どこにでも行けるから、大丈夫。そうやって背中を押してくれるような優しい歌。慎雪、君はこの歌と共に新しい世界を見つけていくんだね。嗚呼、まだ終わりたくないな。

  _いつから僕はこんなにも嫌なものだらけになっていたのだろう。あんなに好きだったのに。どれだけ下手でも、二人で作り続けてきた音楽が何よりも大好きだったのに。創の演奏を初めて聴いた時は、確かに、今と同じ、鳥肌が止まらなくなるような震えを感じていたのに。歓声が鳴りやまないうちに去っていった創の姿がはっきりと目に映った。

  「颯太先輩、招待しておいた人のこと、ちょっと駅まで送っていきたいんですけど」

  颯太先輩は、何か言いたそうだったが、創のことだと察したような顔をして、

  「…そうか。いってらっしゃい」

  とだけ言った。今更どうにかなる話じゃないけれど、どうしても、合わないといけない。そんな気がしたから。_

  決して軽快ではない足音と絶え絶えとした息が背中にぶつけられる。

  「物部くん」

  慎雪の声だ。

  「ねえ、創、止まって」

  「嫌だよ」

  慎雪の懇願を遮るように言った。付き合っていた頃みたいに、下の名前で呼んでくれたけど、止まりたくない。

  「何で」

  「止まったら、別れ話するんだろ?」

  あんなに楽しそうにしている姿を見ても、あんなにあの曲に背中を押されても、どうしても慎雪と一緒に居たくて、意固地になって、そう言った。

  「良かったよ。相も変わらず、へんなとこで繊細そうだったけど」

  行かなきゃ。

  「ねえ」

  行かなきゃ

  「聞いて」

  手を掴まれた。硬くて、暖かい手だった。

  「今のやり方も楽しいけど、今まで二人で作ってきたものは嘘じゃない」

  なんだよそれ。

  「別れ話じゃんか」

  声が震えている。

  「…そうだね」

  どんな顔をしているか、なんとなく分かる。こんな話を持ち掛けたくせに、なんで君の方が申し訳なさそうな顔をしているんだ。

  「今まで沢山傷つけてごめん」

  そう思うなら、なんで。

  「ありがとう」

  嗚呼、どんなに想っても、俺はもう、君を引き留めることは出来ないんだな。なら、俺が慎雪にしてやれることはただ一つしかない。

  「…応援してる」

  もうこれ以上は何も出来ない。何をしても、君には届かない。

  「…もう、離してくれ」

  そう言うと、慎雪はより一層強く手を握った。そして、ゆっくりと、その温もりが離れていった。足音が遠ざかっていく。行かないで、そう言いたかったのに、涙が溢れて止まらない。

  『大丈夫』

  あの歌が聞こえる。

  「ばいばい、慎雪」

  _閉じた繭のような、あの部屋が好きだった。日当たりが悪くて、防音で、テレビもなくて、お互いしかいなくて、音楽があって。なのに、めちゃくちゃに傷つけあった。音楽を続けていく限り、何処かで繋がっていられるだろうか。あのとき、捨てないと断言できなかった。咄嗟に、何も答えを返せなかった。捨てるつもりはなかったけど、そんなつもりで、出ていくと言った訳じゃなかったけど、何も言えなかった。

  本当はあの時、助けてって言いたかった。謝って、それでどうにかなる訳じゃないけど、好きだって言おう。

  『大丈夫』

  この涙が枯れてしまったら、すぐ戻るから。_

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