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1.

  「あつーい!」

  「わっ。おい、脱ぐなって!」

  大陸南にある砂漠の王国、サンディ。その中心部、巨大なオアシスの恩恵にあずかって発展した近代都市、ティーニーイェ。

  湖の上に浮かぶごとく作られた宮殿の一室で、リュヌは今朝着せられたばかりの夕焼け色の薄い衣を脱ぎ捨てた。

  胸元を覆う下着の上から薄く透けるシルクの上着を何枚も重ねていくこの国の貴婦人の衣装は、妖精の羽のように軽く、重ねることによって色の深みが増す大層美しいものだ。

  しかしどんなに薄くても、慣れない気候に汗ばむ肌にはぺたぺたと貼りついて煩わしいばかり。朝晩は寒いほどなのに、太陽が昇ると途端にジリジリ。

  容赦なく炙り火で丸焼きにされる心地なのが王都ティーニーイェに到着して十日ほど、リュヌの感想だった。

  もちろん居室内には直接陽が当たらないよう天井からサンシェードが垂らされ、柔らかな影を落としている。開け放たれた窓からは、湖の上を通って冷やされた風がさやさやと入り込んでくる。

  まるで楽園。サンディの国民なら誰もが一度は訪れてみたいと羨む場所、それが王宮である[[rb:白亜の宮殿 > レイク・パレス]]だ。

  「シャルワールまで脱いだら襲うぞ」

  「ふーん、襲えば? ナージの意気地なし!」

  シャルワールはゆったりしたパンツで、腰からふんわりと広がり足首でキュッと細くなっている。これはさすがに今脱ぐつもりはない。室内には侍女が、すぐ外には護衛もいるのだから。

  ナージはその上からカフタンと呼ばれる袖なしのガウンのような上着を羽織って着崩していた。リュヌ好みの逞しい胸元が見えて、かっこいい……と見惚れそうになってしまう。

  すぐに目を逸らした。これだけ自由に着てもいいのなら、リュヌが何枚か脱いだって構わないと思うのだけれど。

  あえて煽るような言葉をかけたのは、衝撃の初対面――と、処女喪失――以降、ナージがリュヌに手を出そうとしないから。それどころか必要以上の触れ合いは避けられていると感じるのだ。

  せっかく一緒になれて、これ以上ないくらい幸せな気分だったのに……寂しくて喧嘩腰になってしまう今日このごろ。

  ナージが反応するだろう嫌味を投げかけて、怒られる前に逃げる。わざわざ執務の合間を縫って会いにきてくれているのに、部屋の隅からシャーっと威嚇するのがルーティーンになりつつある。

  ――もっとも、今日は逃げる前にリュヌは捕まってしまった。

  「うわっ」

  「俺がどれだけ我慢しているか分からないのか? ……こんな扇状的な下着姿で」

  軽々と抱えられ、身体がまるまる収まるほど大きなクッションに押さえつけられた。背中が大きく開き、前面も臍の上までしかない下着は暑い国ならではの形で、最低限の部分しか隠れていない。

  用意されたものを着ただけなのに……手のひらが[[rb:窘 > たしな]]めるようにさらけ出されたリュヌの腹を押す。圧迫感にキュンと腹の奥が疼き、高い声が口から溢れてしまう。

  「んっ……あ!」

  「覚えてるか? あの日、俺がここまで入ったこと……リュヌがきゅうきゅう締めつけるから、出ていくのにも難儀した」

  「っはぅ。ナージ……」

  反射的にかつての快感を思い出し、身体が熱くなってくる。ナージの手も、視線もあつい。

  とろっと思考が溶けかかって、リュヌはようやくナージも興奮していることを悟った。発情がじわじわと誘発される。

  ――コン、コン

  「殿下」

  そのとき、部屋の入口からノックが聞こえ、側近の男性がナージを呼びに来た。ひょろっと細身の彼は少し前までリュヌのイメージしていた人間らしい体格をしている。短い髪の色もこの国に多い漆黒だ。

  「ヴィオレ。……もうそんな時間か」

  ナージが身体を起こし、侍女から受け取った上着を着せてくる。急激に冷めていく熱と一緒に、気分も急降下するのを感じた。

  ナージは忙しい。リュヌにばかり構っていられないのは当然と分かっているのに、恨めしげな目で入口に立つ男を見てしまった。

  この側近の顔はよく見るためもう覚えている。いや、顔……とは違うのかも。なぜならヴィオレの目元、もとい顔半分は黒い薄布で覆われ、口元や輪郭でしか容姿を判断できないからだ。

  なぜか薄布越しにジッと視線をよく感じるのだが、母国でよく感じた恍惚とした視線とも違う。嫌われてるのかな……と思うとちょっと悲しい。

  それどころか、この宮殿にいる人達はみんなリュヌを遠巻きにしている。きっと「毛深くて、獣臭そう」とか思われてるんだ。

  (え。僕、臭くないよね? もしかして……臭くてナージも手を出してこないの⁉)

  リュヌはナージの爽やかな体臭も汗の匂いも男っぽくて好きだけど、ナージも同じとは限らない。自分の匂いはよく分からないし、人間は感情を押し隠すのが得意だという。

  いや、確かにさっきは発情を感じたから……大丈夫。だよね?

  執務へと戻るのだろう、彼は背を向けて扉の方へと向かっていく。

  寂しい。不安……。

  心の中を埋め尽くす感情は、我知らずリュヌの耳をぺたんと伏せさせる。尻尾も力なく垂れ、さわ……と床を擦った。

  背後から侍女のハッと息を呑む音が聞こえ、扉のそばで待つヴィオレがまたジッと見てくるのを感じる。なんだよ、まさか猫の毛が絨毯につくのも汚いって?

  はぁっと重いため息と共に視線を落としたリュヌを、ナージが振り返る。音もなく再び近づいてきたナージが頭に手を乗せてくるから、リュヌは飛び上がった。

  「リュヌ、寂しいのか?」

  「そ……そんなこと」

  「嘘でも寂しいと言ってくれ。俺も寂しいんだから……せっかく連れて帰ったのに、なかなか一緒に過ごせないのが」

  優しく撫でて、耳の付け根をくすぐられる。素直な尻尾はピンと上向き、リュヌも暑さを忘れて思わずナージに抱きついた。カフタンから覗く胸板に顔をすりすり擦りつける。

  「……寂しい……」

  「よしよし、素直に言えて偉いな。夕方には衣装合わせがある。そのときには戻って来るから、いい子で待ってろよ?」

  「うん……」

  夜に会えるのはいつも晩餐の時だけだ。今日はその前にも会えると思うだけで気分は上向いてゆく。

  コホンとヴィオレの咳払いが聞こえて、リュヌは仕方なくナージを解放した。

  未来の王様が忙しいのは分かっているし、伴侶としてリュヌが影から支えるべきなのも理解している。だけど、ナージが甘やかすからリュヌも我がままになってしまった。

  侍女や侍従におやつをねだるのとは違う。心を預けている人に愛情を欲しがるという行為はリュヌにとってとびきり甘く、それでいて勇気のいるものだ。

  婚礼衣装が完成して、結婚式を終えれば一緒にいられる時間は増えるだろうか?

  リュヌはほのかな期待を胸に、ちらちらと名残惜しげにこちらを見ながら去っていくナージを見送った。

  [newpage]

  「ねぇねぇ。訊いてもいーい? 僕の匂いって、どうかな?」

  ナージの去った室内。リュヌは思い切って、一番顔をよく見る年嵩の侍女アマリンに声をかけた。背後で何度も息を呑んでいたのとは別の侍女で、いつも微笑んで泰然としている。

  この国の人は個人差はあれど皆肌が浅黒く、年齢はいっそう読みづらい。

  侍女として世話をしてくれている彼女も髪は黒々と艶があり、引き締まった体型をしている。しかし目尻に刻まれた皺と薄青い瞳の色が優しげで、リュヌも一番話しかけやすかった。

  「はい、リュヌ様。匂い……でございますか?」

  急な質問にも微笑みを絶やさず向き合ってくれたアマリンに、思いきって心配事を打ち明けた。

  「うん。臭くない? 汗とか……その、獣人独特の匂いってあるのかなって」

  「とんでもございません!」

  被せるように返された言葉に、リュヌは目を丸くした。

  「全くもって心配は要りませんよ。僭越ながらお手入れさせていただいている私としても、使用した石鹸や香油以外の香りなど感じたことはございません。とはいえ、体臭は人それぞれ持つもの。リュヌ様の香りを感じられる距離にいるのはナージ殿下だけですよ」

  「そう……うん、わかった。ありがとう」

  良くも悪くもリュヌは素直だ。彼女がそう言うのならきっと大丈夫。ナージだって、こっそりリュヌを吸っているときがあるくらいだ。本当に嫌ならそんなことはしまい。

  じゃあどうしてこんなにもみんなに避けられているんだろう。ヴィオレを筆頭に宮殿の人たちから向けられる視線の意味が、リュヌには分からない。

  そもそもナージは、獣人の国の王子に婚姻の申し入れをしたことを、大半の人に知らせていなかったのだ。王太后となるわけではないからそれほど重要でないのかもしれないけれど、それでも知らせておいてほしかった……

  この国に入って初めてリュヌが姿を見せたとき、皆唖然としていたのだから。

  しかも男だ。あちらこちらから息を呑む音が聞こえ、いたたまれなかったのは記憶に新しい。

  ほとんどの人が獣人なんて初めて見たはずだ。人間が獣人に対して悪い感情を持っていてもおかしくない。だって……自分もそうだったから。

  リュヌは人間を弱そうだと決めつけ、初めてナージの容姿をちゃんと見たときも変な耳! と言ってしまった。それ以上に彼の容姿に惚れ惚れしていたのも事実だけれど。

  それに、リュヌのもつ色味はこの国でとても浮いているのだ。

  肌の色もここまで白い人はいないし、毛の色だって真逆だ。母国ではあらゆるバリエーションの色が存在していたが、ここではどうも違うらしかった。

  ナージは婚姻を申し出た理由に「獣人への偏見を払拭すること」を挙げていた。「誰もが好きになれそう」だからリュヌだったとも。

  だが母国では一番と言われてきた容姿も、今のところ逆効果になっている気しかしない。

  (みんな獣人に対してどう思っているんだろう。僕はどうすればいい?)

  偏見の中身をちゃんと知った上で、リュヌにできることがあるなら精一杯やりたかった。だって、リュヌはナージという運命の人に出会ったおかげで人間への偏見なんて吹き飛んでしまったのだから。

  悶々としつつ、大きなクッションの上で体温の移っていない部分を常に探してゴロゴロ転がっていると、アマリンが心踊る提案をしてきた。

  「もしよろしければ、衣装合わせの前に庭園の散歩でもされますか?」

  「え! いいの?」

  大きな湖の中心に浮かぶ宮殿は内部に庭園まで有しており、それを囲むように建てられている。廊下を挟んで外側の部屋からは広大な湖が、内側の部屋からは美しい庭園が望めるという贅沢仕様。

  リュヌの部屋からは湖が見えるけれど、何度かちらりと見た庭園には色とりどりの花が咲いていて、噴水や、なんと人工の池まであったのだ。

  本当なら暑くて外に出るのも億劫なはずだったが、好奇心に勝るものはない。慣れない場所で借りてきた猫のようになっていたリュヌも、見下ろすだけだった庭を散歩していいと言われてぴょんと気分が上向いた。

  頭から日除けのスカーフを被り、張り切って外に出かける。

  部屋の中よりも当然暑かったが、白い大理石でできた宮殿と緑豊かな庭園、青空を映す池はコントラストも素晴らしい。ついつい日傘の下から駆け出して、見たことのない花や美しく弧を描く噴水に近寄り目を輝かせる。

  ガゼボにティータイムの準備が進められるなか、リュヌは小さな白い花をつける植物を見つけた。枝先の葉が白くなっていて、なぜかそれがとっても気になる。

  くんくん、匂いを嗅いでもちょっと独特な青臭さがあるだけ。それなのに口の中には唾液が溜まり、身体がウズウズそわそわしてきた。

  ちょん、と葉に触れると元々取れそうになっていた葉がふわりと落ちる。慌てて手で掴んだリュヌは、どうしても誘惑に抗えなかった。

  後ろにいる護衛の死角になることをわかっていて、そっと葉を舐めてみる。

  うーん? 何を期待してたんだろう……と自分でも不思議に思いながら、無意識にガジ、と齧った。

  「うぇっ」

  普通にまずい。

  支度の整ったガゼボから呼ばれて、リュヌはハッと我に返る。慌てて立ち上がって侍女の元へ向かおうとした時だった。

  ――膝から力が抜けて、くら……と平衡感覚を失う。護衛が手を伸ばす間もなく、リュヌは庭園の一角に顔から突っ込んでしまった。

  「リュヌ様ッ⁉」

  「ぅ……」

  枝に当たって顔や腕に薄い擦り傷ができていたが、リュヌの呻きは痛みによるものではなかった。とろんと思考が蕩け、はあっと甘いため息を零す。まるで、フェロモンを浴びたときのような……

  「ふにゃ……ん〜〜〜?」

  どうしてか分からないが酒に酔った心地だった。こう見えて酒には強いのに、酩酊感に包まれふあふあと感じる心地よさに身体をくねらせる。

  リュヌの転倒に驚いた護衛の男は、周囲から人が集まってくるのを感じ慌ててリュヌを抱き起こす。

  自分で立とうとしないため途方に暮れていると、そのままリュヌは護衛の腕の中で丸まってしまう。その手には先ほどの葉が握られていた。

  「リュヌ様、お怪我はされていませんか?」

  「あまりん? ん〜とね、ふわふわしゅるの〜〜」

  「あらあら可愛い。どうしたのかしら? その手に持ってるものはなんですか?」

  「かわい? 僕ちゃんとかわいって思われてる?」

  「めちゃくちゃ「死ぬほど「可愛いですっっ」」」

  大合唱が聞こえたが、リュヌはくふくふ笑って葉っぱに顔を擦り付けてばかり。毒や媚薬ではなさそうだが、舌ったらずに甘える様子は目に毒だ。

  限界を迎えた護衛が鼻血を出しそうになっていることに気づき、アマリンがリュヌを受け取ろうと手を伸ばしたとき――横から男の腕が伸びてきて小さな身体を掻っ攫った。

  「リュヌ、大丈夫か?」

  「なぁじ! 会いたかった〜〜〜っ」

  「ゔ……かわいいんだがどうしたんだ⁉︎」

  突然やってきたナージに、リュヌは両手両脚でがしっと抱きついた。首筋に顔を擦り付け、猫耳がナージを悪戯にくすぐる。

  悶える主人を尻目に、お役御免となった葉がリュヌの手からポトリと落ちたところを、横にいたヴィオレが拾った。

  「……[[rb:木天蓼 > またたび]]ですね」

  「またたびか……‼︎」

  「うにゃ?」

  ガゼボの下でナージにゴロゴロ甘えていると、酩酊感はすぐに収まった。ぴゃっと膝の上から飛び退き、公衆の面前でとんでもないことをしてしまったと羞恥に悶えてしまう。

  しかし気を良くしたナージの手からアイスティーやスコーンを与えられていたら、そんなことどうでも良くなってくる。こんな風に人から食べさせてもらうなんて、赤ちゃんみたいだけれどすごく愛情を感じた。

  「窓から見ていて驚いたぞ。顔に傷まで作って……もうすぐ結婚式なのに」

  「むぅ。僕だって不可抗力だよ……」

  口を尖らせると、赤い苺が口元に寄せられる。あむ、と齧ると甘酸っぱい味が舌先から広がった。

  もぐもぐ食べて、唇についた果汁をぺろりと舐める。その赤い舌を目で追っていたナージが呟いた。

  「くそ、我慢しているのが馬鹿らしくなってくるな……早く抱きたい……」

  立てた耳がぴく、と反応する。ナージの漏らした「抱きたい」という言葉をリュヌは聞き逃さなかった。

  「ねぇナージ、どうして我慢してるの?」

  「ぐ」

  問えばナージは諦念を滲ませたため息を吐き、恥だと思って言えなかったと説明してくれた。

  サンディの国教では婚姻前の[[rb:禊 > みそぎ]]が必要とされ、ひと月は交合どころか自慰も禁止らしい。神殿で結婚式をおこなう手前、王太子であるナージももちろん守らなければならない。

  とはいえすでにナージは閨でのリュヌを知っている。ゆえにキスひとつで自分の理性が保たなくなる自覚があり、必要以上の接触を我慢していたのだとか。

  そしてそれくらいの我慢さえ辛いなんて、格好悪いしリュヌにも悟られたくない……と口を噤んでいたのである。

  やっと理由を聞けたリュヌは、口元がもにょもにょと緩むのを抑えるのに必死だ。

  匂いを気にしていた自分が馬鹿みたい。バツが悪そうに顔をしかめる歳上の男が、いまや可愛く思えて仕方がなかった。

  「我慢、がんばってね? ナージと寝るの、楽しみにしてるからっ」

  「……見とけよ」

  ――溜め込んだ男の恐ろしさを、リュヌはまだ、知らない。

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